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2016/11/21

譚海 卷之二 座頭仲間法式の事

 
座頭仲間法式の事

○座頭(ざとう)の交(まぢはり)は嚴重なるもの也。會集の席うちとけ居たる所へをくれて來る檢校あれば、はじめ集り居たる檢校皆々衣をきて、衣を着ましたと挨拶をするが禮也。座頭同志はあるきながらも象棋(しやうぎ)をさす也、はなしにて互ひに濟(すむ)事ゆへかくの如し。檢校には金子七百兩あればならるゝよし某(ぼう)座頭物語也。又瞽女(ごぜ)は支配はなきもの也、座頭には類せぬものなりとぞ。

[やぶちゃん注:「座頭」狭義には以下に示すような江戸期に於ける盲人の階級の一つここでは、幕府が障碍者保護政策として一種のギルド的な職能組合である「座」を基本として身体障害者に対し行った排他的独占的職種容認政策の中での、広義の視覚障碍者を指している。

「檢校」検校は中世・近世に於ける盲官(視覚障碍を持った公務員)の最高位(「検校」の下に降順で「別当」・「勾当(こうとう)」・「座頭(ざとう)」・「紫分(しぶん)」・「市名(いちな)」・「都(はん)」などがあった)の名称。ウィキの「検校」によれば、幕府は室町時代に開設された視覚障碍者組織団体である当道座(とうどうざ)を引き継ぎ、更に当道座『組織が整備され、寺社奉行の管轄下ではあるがかなり自治的な運営が行なわれた。検校の権限は大きなものとなり、社会的にもかなり地位が高く、当道の統率者である惣録検校になると十五万石程度の大名と同等の権威と格式を持っていた。当道座に入座して検校に至るまでには』七十三の『位階があり、検校には十老から一老まで十の位階があった。当道の会計も書記以外はすべて視覚障害者によって行なわれたが、彼らの記憶と計算は確実で、一文の誤りもなかったという。また、視覚障害は世襲とはほとんど関係ないため、平曲、三絃や鍼灸の業績が認められれば一定の期間をおいて検校まで』七十三段に『及ぶ盲官位が順次与えられた。しかしそのためには非常に長い年月を必要とするので、早期に取得するため金銀による盲官位の売買も公認されたために、当道座によって各盲官位が認定されるようになった。検校になるためには平曲・地歌三弦・箏曲等の演奏、作曲、あるいは鍼灸・按摩ができなければならなかったとされるが、江戸時代には当道座の表芸たる平曲は下火になり、代わって地歌三弦や箏曲、鍼灸が検校の実質的な職業となった。ただしすべての当道座員が音楽や鍼灸の才能を持つ訳ではないので、他の職業に就く者や、後述するような金融業を営む者もいた。最低位から順次位階を踏んで検校になるまでには総じて』七百十九両が『必要であったという。江戸では当道の盲人を、検校であっても「座頭」と総称することもあった』(下線やぶちゃん)。『江戸時代には地歌三弦、箏曲、胡弓楽、平曲の専門家として、三都を中心に優れた音楽家となる検校が多く、近世邦楽大発展の大きな原動力となった。磐城平藩の八橋検校、尾張藩の吉沢検校などのように、専属の音楽家として大名に数人扶持で召し抱えられる検校もいた。また鍼灸医として活躍したり、学者として名を馳せた検校もいる』。『その一方で、官位の早期取得に必要な金銀収入を容易にするため、元禄頃から幕府により高利の金貸しが認められていた。これを座頭金または官金と呼んだが、特に幕臣の中でも禄の薄い御家人や小身の旗本等に金を貸し付けて、暴利を得ていた検校もおり、安永年間には名古屋検校が十万数千両、鳥山検校が一万五千両等、多額の蓄財をなした検校も相当おり、吉原での豪遊等で世間を脅かせた。同七年にはこれら八検校と二勾当があまりの悪辣さのため、全財産没収の上江戸払いの処分を受けた』とある。

「衣を着ましたと挨拶をするが禮也」視覚障碍者であるので、遅れて来た仲間に対して一座が上着を脱いで寛いでいたのを、皆して着し、礼式をとったことを言葉で示すということであろう。音訓の違いはあるが、提示の到「着」に遅れて「着」いたという皮肉の意として「着る」の字が掛けられていると読むのは私の深読みか。

「象棋」将棋。ここは所謂、「目隠し将棋」(旧称「盲将棋」)で、将棋盤と将棋の駒は用意せず、対局者同志が駒の移動先を棋譜の読み上げ方法に従って、「七六歩」「八四歩」などと声で伝えることで対局を進める方式。ウィキの「目隠し将棋によれば、『かつては盲将棋(めくらしょうぎ)とも呼ばれていたが、差別用語を含んでいるので、現在この呼び名は使用されず、脳内将棋(のうないしょうぎ)と表現されることが多い』とある。

「瞽女」ウィキの「瞽女より引く。『瞽女(ごぜ)は、「盲御前(めくらごぜん)」という敬称に由来する日本の女性の盲人芸能者』の呼称で、『近世までにはほぼ全国的に活躍し』、二十『世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付巡業を主として生業とした旅芸人である』。『女盲目(おんなめくら)と呼ばれる場合もあ』った。時にはやむなく、『売春をおこなうこともあった』。『瞽女の起源は不詳であるが、室町時代後期に書かれた『文明本節用集』には「御前コゼ
女盲目」と記され、『七十一番職人歌合』にもその姿が描かれている』。『近世では三味線や箏を弾くのが普通となった』。『瞽女の演目(瞽女唄)のひとつに「クドキ(口説節)」があり、これは浄瑠璃から影響を受けた語りもの音楽であるが、義太夫節よりも歌謡風になっている』。『江戸時代の瞽女は越後国高田(上越市)や長岡(長岡市)、駿河国駿府(静岡市)では屋敷を与えられ、一箇所に集まって生活しているケースがあり、これを「瞽女屋敷」と称した』。先の盲官らのような公的な「当道座」といった支配的統制的全国組織はなく、『師匠となる瞽女のもとに弟子入りして音曲や技法を伝授されるという形態をとった』。『親方となる楽人(師匠)は弟子と起居をともにして組をつくり、数組により座を組織した』。『説経節の『小栗判官』や「くどき」などを数人で門付演奏することが多く、娯楽の少ない当時の農村部にあっては、瞽女の巡業は少なからず歓迎された』。但し、『江戸時代中期・後期の瀬戸内地方にいた瞽女の多くは広島藩、長州藩あるいは四国地方の多くの藩から視覚』障碍『者のための「扶持」を受けたといわれる』とある(下線やぶちゃん)。]

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