谷の響 四の卷 七 龍頭を忌みて鬪諍を釀す
七 龍頭を忌みて鬪諍を釀す
又これも文化の末年(すえ)なるよし、茂森町を通りし葬式ありてそれが手傳なる一人の童子、しきりに屎催の氣あればとて、持てる龍頭を傍なる家の雪隱をかり用をすまして出けるが[やぶちゃん字注:この「の雪隱をかり」の右側には編者による『(ママ、脱文アルカ)』の注記がある。]、この葬式はとく往きて見得ざるに又後より來れる葬式あればこれにまじりて往きたるが、介錯(せわ)する者に見咎められて是非なく龍頭をそこなる家の檐によせかけ逃去りたるに、この家の主いたく忌み惡み密に隣家(となり)の檐に係けたるに、そこの主腹立てつぶやきながらもとの處によせかけたれば、又かけ戻しよせもどし互にかまびすしくいさかひけるが、はてはねじあい叩きあへるに兩家の者ども救ひに出て十四五人の人數となり、組みつほぐれつひとかたまりとなりて挑(いと)みあひしに、とりおさへることなり兼ねてたゞに見物するばかりなれば、往來のものも足をとゞめざるはなく、しだいしだいに多く簇(む)れつとひて街道をふさぎ、往來止まるまでに至りけり。かゝる折柄通りの役筋來かゝりていたく制してとりしづめ、樣子つばらに吟味をおへてゆかれしが、日をへて後に一人は七日一人は三日、戸塞(しめ)の法に行はれて御免を得たりしとなり。この二件(ふたくだり)己が老父の兼てかたりし事なりき。
[やぶちゃん注:「龍頭」「西田葬儀社」のブログの「葬儀のしきたり」という記事によれば、これは「たつがしら」と訓ずるらしい。それによると、『最近では見る事も聞くことも少なくなりました』が、『野辺の送りと言われる葬列に中の役割で、2メートルくらいの竹の先に龍の頭と胴をつけたもの』とあり、『これを葬列の中で4本使っているそうです。調べてみると、地域によって呼び方も変わり地域の風習によって様々のようです』とし、ここれは『悪霊や野犬、動物から故人を守るためにされていたようです』とする。また、『中国では、龍は再生の神の象徴とされていて、亡くなられた方の魂にもう一度生まれ変わってほしいという願いを込められて、これまでされて伝わってきたようです』とも記しておられる。画像も紹介されている。こちら。
「文化の末年」文化は一八〇四年から一八一八年までで、第十一代徳川家斉の治世。
「茂森町」現在の青森県弘前市茂森町。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「手傳」「てつだひ」。親族ではなく、恐らくは小遣いを貰って雇われた児童であろう。
「屎催」「くそもよほし」と訓じておく。うんちをしたくなったのである。
「持てる龍頭を傍なる家の雪隱をかり用をすまして出けるが」編者の言うように脱文があるようである。「持てる龍頭を傍なる家の檐(ひさし)に立てかけ、その家の雪隱(せつちん:廁)を借り、用をすまして出けるが」といった塩梅か。
「介錯(せわ)する者に見咎められて」龍頭が一本多く(前の引用によれば葬列では通常四本とある)、その龍もまた、或いは造形や色などが他の四本と異なって目立ったのかも知れぬ。恐らく、手間賃は葬列の最後に支払われるのに違いない。
「密に」「ひそかに」。
「係けたるに」「かけたるに」。寄せ掛けておいたところが。
「主」「あるじ」。
「ねじあい叩きあへるに」腕を捩じ上げたり、叩き合ったりしているうちに。
「挑(いと)みあひしに」読みはママ。双方ともに本格的な暴力沙汰に発展してしまったが。
「とりおさへることなり兼ねて」双方を宥めて取り押さえること、これ、し難くなってしまい。
「たゞに」ただただ周囲の連中は。
「多く簇(む)れつとひて」ママ。通行人が滞って渋滞し、また沢山の野次馬が群れ集う結果と相い成り。
「役筋」以下で「吟味をおへてゆかれしが」とあるから、藩の町同心である。
「いたく制して」強く双方に注意して、喧嘩を止めさせ。
「つばらに」詳(つまび)らかに。子細に。
「戸塞(しめ)の法」「としめのはう」。これは所謂、江戸時代の刑罰の一つであった「押し込め」のごく軽いものではあるまいか? 「押し込め」は武士・庶民の別なく科せられた一種の軟禁刑で、「公事方御定書」によれば、他への外出を許さず、戸を建て寄せておく、とある。これには「百日押込め」「五十日押込め」「三十日押込め」などがあり、これらは、拝領屋敷を借金の質に入れたり、過失による失火などに対して科せられている。本来は喧嘩両成敗が鉄則であるが、考えてみると、そもそもが最初に餓鬼が立てかけられた方の主人がその龍頭を自身番にでも届け出れば何事もなかったのであり、その差か。にしても倍以上の七日は大き過ぎ、或いは、この折りの喧嘩が大きくなって、三日の方の主人やその家人が相応の怪我でもしたものかも知れぬ。
「御免」それで許された。
「兼てかたりし事なりき」以前より、ことあるごとに、たびたび繰り返し語って聴かせてくれたの謂いか。底本では「兼て」の横にママ注記を打つが、私はあまり不審には思われない。]
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