甲子夜話卷之二 44 松平越州、世子のとき識鑑の事
2―44 松平越州、世子のとき識鑑の事
松平樂翁、養子となりて今の家に適し後、一年養父の名代として領地え御暇のことあり。入部のうへ諸役人を一人づゝ居間に呼出し、治務の事など問れける。其中大目付某一人、御諚謹で承り候。然に殿樣え【養父木工頭】指上置候誓條に、御政治のことは殿樣の外口外仕間敷と申上候。未だ世子の御ことなれば、御答申上難しと云切りしとぞ。樂翁家督承繼、家中役替始て申付らるゝとき、此大目付を其日の第一魁に昇進せしめたりしとなり。
■やぶちゃんの呟き
「松平越州」老中で陸奥白河藩第三代藩主であった松平越中守定信。「樂翁」は隠居後の号。
「世子」「せいし」と読む。「世嗣」と同じい。諸侯の後継ぎ。嗣子。
「識鑑」「しきがん」。鑑識に同じい。物の真偽・価値などを見分ける能力に長けていること。
「養子となりて今の家に適し」「適し」は「ゆきし」(行し)と読む。松平定信は宝暦八(一七五九年に御三卿田安徳川家の初代当主徳川宗武の七男として生まれた。安永三(一七七四)年に幕命により、陸奥白河藩第二代藩主松平定邦の養子となった。定邦は翌安永四年の白河での花見の際、中風を発病、江戸に参府したものの、体調が優れなかったとされ、天明三(一七八三)年十月十六日、定信に家督を譲って隠居している。また同年十月十九日には通称を本文に出る「木工頭(もくのかみ)」に改めている(寛政二(一七九〇)年に江戸で死去した。定邦の部分はウィキの「松平定邦」に拠った)。
「一年」一年間。
「養父の名代として」先に引いたように、養子として定信を迎えた翌年に中風となっているから、彼がお国入りの名代(みょうだい)となったのであろう。
「領地え」「領地へ」。歴史的仮名遣の誤り。「殿樣え」も同じ。
「御暇」「おいとま」。江戸の養父と別れての意。
「治務」「じむ」。領地管理の事務実務。
「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」貴人・主君の命令。仰せ。問い質した幾つかについて、当時の養父の藩政の中で、定信なりに改めるべき箇所を指摘し、それを命じたのであろう。
「謹で」「つつしんで」。
「然に」しかるに」
「指上置候」「さしあげおきさふらふ」。
「誓條」「せいじやう」。君臣忠義の証しとして、藩主に捧げた誓状(せいじょう)。
「殿樣の外口外仕間敷と申上候」「とのさまのほか、こうぐわいつかまつりまじき、とまうしあげさふらふ」。「藩政に就きましての御事柄は、これ、御殿様(おとのさま)以外の者には決して口外致さざること、これ、誓い申し上げて御座る。」。
「御答申上難し」「(只今の藩政に附きましての御意見については良いも悪いとも、はたまたそれを実行に移すか、そのままと致しますかは、藩主御殿様の御意向にのみかかることなればこそ)「どうか?」と申されましても、それにお答え申し上げることは、これ、出来申さぬ。」。
「云切りし」「いひきりし」。
「承繼」「うけつぎ」。
「役替」「やくがへ」。人事刷新。
「其日の」その人事の下知の最初の日の始めに。
「第一魁」「だいいちのかしら」と訓じておく。留守居役或いは家老・用人・側用人の長としたということであろう(留守居役は後者三者の中の有能な者が兼務することもあった)。
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