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2016/11/24

諸國百物語卷之五 十五 伊勢津にて金の執心ひかり物となりし事

 

     十五 伊勢津にて金の執心ひかり物となりし事

 

 いせの津、家城(いへしろ)村と云ふ所にばけ物のすむ家ありて、三十年ほど、あき家となりて有り。そのむかし、此家のぬしふうふ、ともに、とんびやうにて、あひはて、子なかりしゆへ、あとたへたる家也。あるときは、ひかり物いで、又、あるときは、火もゆる事もあり、又、あるときは、男女(なんによ)のこゑにて、

「そちがわざよ」

「いや、そのはうのわざにて、かやうに、くるしみを、うくる」

などゝ、いふ事も有り。あるとき、京より、はたちばかりなる、こま物あき人、このざいしよへくだりけるが、所のもの、此ばけ物のはなしをしければ、かのあき人、

「それがし、こよい、まいりて、ばけ物、見とゞけん」

と云ふ。所のもの、

「むよう也。れきれきのさぶらひしうさへ、一夜、たまらずにげかへり給ふ」

と云ふ。かのあき人はふた親をもちけるが、かうかうなる人にて、をやをはぐくまんために、十一のとしより、はうばうと、かせぎあるきけれども、その身、まづしくて心のまゝならざりしが、物になれたる人なりければ、

「とかく此ばけもの、見とゞけ申さん。よの中に、心のほかに、ばけ物は、なきもの也」

とて、その夜、かの處にゆかれしが、あんのごとく、子の刻ばかりに、井のうちより、鞠ほどなる火、ふたつ、いでけるが、屋のうち、かゞやき、すさまじき事、云ふばかりなし。そのあとより、かしらにゆきをいたゞきたる老人ふうふ、いでゝ、かのあき人にいひけるは、

「われは此家のあるじなるが、あるとき、ふうふともに、とんびやうにてはてけるが、これなる井のうちに、おゝくの金銀をいれをきたり。此かねに、しうしんをのこしける故、うかみかね、六どうのちまたにまよふ事、すでに三十ねんにあまれり。この家にすむ人あらば、この事をかたりきかせ、あとをとぶらひもらはんとおもへども、おそれて、よりつく人もなし。御身は、心かうなる人、そのうへ、親にかうかうなる人なれば、このかねを御身にあたゆる也。よきやうに親をもはぐくみ、又、われをも、とぶらひ給はれ。來たる八月五日が三十三年にあたりて候ふ」

とて、かきけすやうに、うせにけり。あき人、よろこび、井のうちを見れば、金銀はかずもしれず有り。みな、ひきあげて、そのかねにて、その屋敷に寺をたて、僧をすへ、いとねんごろにとぶらひければ、そのゝちは、ひかり物もいでざりしと也。それより、あき人は此かねにて、ふた親のみやこにかへり、心のまゝにやしなひけると也。

「ひとへに、あき人、をやにかうかうなるゆへ也」

と、人みな、かんじけると也。

 

[やぶちゃん注:「そちがわざよ」の後には句点があるが、例外的に除去した。

「金」「かね」。金銭。

「いせの津、家城(いへしろ)村」正しくは「いへき」。現在の三重県津市白山町南家城(いえき)。(グーグル・マップ・データ)。

「此家のぬしふうふ」「この家の主夫婦」。

「とんびやう」「頓病」。急死・突然死に至る病いの総称。

「そちがわざよ」「お前のせいじゃが!」。

「いやそのはうのわざにてかやうにくるしみをうくる」「いんや! あんたがあんなことしたによって、かくも無惨に苦しみを受くることなったじゃ!」前の台詞を老人の、こちらを老妻のそれと私は、とる。

「こま物あき人」「小間物商人(あきんど)」。

「れきれきのさぶらひしう」「歷々の侍衆」。名立たる剛勇を誇るお武家衆。

「一夜、たまらず」一晩も経たぬうちに、あまりの恐ろしさに耐えきれず。

にげかへり給ふ」

「かうかうなる人」「孝行なる人」

「をやをはぐくまんために」「親(おや)育まんために」。歴史的仮名遣は誤り。

「はうばうと」「方々と」。

「物になれたる人なりければ」いろいろと苦しく辛い思いをしてそうした異常な事態には慣れていた人であったので。

「よの中に、心のほかに、ばけ物は、なきもの也」知られた「紫式部集」の二首を引いておく。

 

     繪に、物の怪のつきたる女の、

     みにくきかたかきたる後に、鬼

     になりたるもとの妻を、小法師

     のしばりたるかたかきて、男は

     經讀みて物の怪せめたるところ

     を見て

 亡き人にかごとをかけてわづらふもおのが心の鬼にやはあらぬ

 

     返し

 ことわりや君が心の闇なれば鬼の影とはしるく見ゆらむ

 

 

前書は、前妻(こなみ)の鬼女となった死霊(和歌より)、その「後妻(うわなり)打ち」に遇って醜く病み衰えた後妻、その霊を調伏している最中の僧を描いた絵を見て詠んだ歌の意であり、和歌の「かごと」は「託言」、「口実・言い訳・誤魔化し」の謂いである。調伏の呪法を乞うて施術させているのは、描写外の、というよりも、絵師の視点位置にいる夫であるから、実はこの一首の「心の鬼」(多くの評釈では「疑心暗鬼を生ず」の意で専ら解されているが、私はもっと強烈で輻輳し痙攣化したコンプレクス(心的複合)状況を指すと捉えている)を持っている「鬼」=「物の怪」とは「夫である男」であるのは言うまでもない。後の返歌は式部附きの女房のものであるが、この「君」は式部を指し、式部の中に人の知ることの出来ない、深い心の闇(トラウマ)が隠されているからこそ、そうした「人の心の産み出す、実は人の心からのみ生ずるものである、おぞましき鬼」がはっきりと見えるのですね、と応じているのである。

「子の刻」午前零時。

「かしらにゆきをいたゞきたる」白髪の形容。

「うかみかね」「浮かみ兼ね」。成仏することが出来ずにおり。

「六どうのちまたにまよふ」「六道の巷に迷ふ」。

「心かうなる人」「心剛なる人」。

「三十三年」三十三回忌。死の年から数えで、三十三年目(没後満三十二年目)には、仏教では、生前にどのような所業を行った者でもこの三十三回忌を終えることによって罪無き者とされ、成仏=極楽往生するともされる。そこで、三十三回忌をもって供養を終えるのが一般的なのである。

「ふた親のみやこにかへり」二親の健在にいます京の都へ帰って。]

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