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2016/11/28

甲子夜話卷之三 9 長谷川主馬、農家の松を買置たる事

 

3-9 長谷川主馬、農家の松を買置たる事

表御右筆組頭勤る長谷川彌左衞門と云るが父は、主席と云て、御書物奉行を勤めたりしとなり。その人風雅人にて、殊に和哥を好み、人ももてはやす程なりしとなん。或時近在へ郊行して、農家に老松一株枝幹蟠りて數畝を覆ひ、いかにも風致の勝れたる有しを見て、その主人呼出し買取べしと云。主人おかしく思ひ、此大木移栽もならず、いかゞの事にやとて、口より出るまゝに、十數金ならば賣るべしと答ければ、卽ち懷袋より金を數の如く出して與へ歸りける。その蹤跡もなければ、奈何なることよと訝りしに、一日主馬來り、僕從に酒食敷物など持せ、松陰に坐し、終日觀賞諷詠して歸れり。それより春秋の天氣晴和なる時は、折々來りて、いつも同じさまにて有しとなり。かゝる淸韵高致の人、今は有べしとも思はれず。古人はかく迄もありしやと、昔忍ばしくぞ思はるれ。

■やぶちゃんの呟き

「主馬」「しゆめ(しゅめ)」。

「買置たる」「かひおきたる」。

「表御右筆組頭」「おもてごいうひつ(おもてごゆうひつ)くみがしら」と読む。「表右筆」は若年寄支配の幕府書記役。将軍身辺に関わる重要な機密文書作成業務を担当した「奥右筆」に対し(綱吉の代から設置)、それより有意に格下とされた、老中の奉書や幕府の日記記述、朱印状・判物の作成、幕府より全国に頒布する触書(ふれがき)の浄書(一件で約四百枚前後を作成せねばならなかった)、大名の分限帳・旗本等の幕臣名簿管理業務などの、一般公文書の作製を担当した役職を指す。表右筆は定員二、三名の組頭(役高三百俵で四季施代(しきせだい:「仕着せ代」とも書く。衣服代として諸役に与えられた別手当)銀二十枚)と三十名前後の表右筆(役高百五十俵で四季施代銀二十枚)から構成されていた(以上はウィキの「表右筆他を参考にした)。

「勤る」「つとむる」。

「長谷川彌左衞門」「川崎市教育委員会」公式サイト内の川崎区宮本町稲毛神社にある、享保一四(一七二九)年の銘文を持つ「手洗石」に出る「田中仙五郎」(=長谷川安卿(やすあきら ~安永八()年)なり人物ではあるまいか? 同解説に、この仙五郎は『御金奉行を勤めていた幕臣長谷川市郎左衛門安貞へ』延享三(一七四六)年に養子に入って、安卿を名乗り、『書物奉行などを勤めた人物である』とあるからである(下線やぶちゃん)。没年が確認出来たのは、久保田啓一氏胃の論文「川越市立図書館蔵『芙蓉楼玉屑』(続)――解題――」に拠る。そこには、安卿は『文雅の士として名高く、特に和歌を冷泉為村に学んで関東冷泉門の重だった存在であった』とあり、まず、彼と考えてよい。

「云るが父」「いへるがちち」。と称する者の父親は。

「云て」「いひて」。

「御書物奉行」「おしよもつぶぎやう」は寛永一〇(一六三三)年に設置された、江戸城の紅葉山文庫の管理・図書収集・分類整理や保存、文書類の依頼調査等を担当した。定員は通常は四名であったが、三~五名の増減があった。若年寄支配で、役高二百俵・役扶持七人扶持、本丸御殿の「焼火之間(たきびのま)」に詰めた(「焼火之間」とは中央に巨大な囲炉裏が切ってあったことに由来する。この隣りには先に紹介した表右筆より格上の奥右筆が詰めた御右筆部屋があった)。著名な書物奉行としてはかの青木昆陽がいる。配下に同心がおり、元禄六(一六九四)年)で四人、以降、増員されて、江戸後期には二十一人も持っていた(ウィキの「書物奉行他を参考にした)。

「郊行」「こうぎやう」と音読みしておく。郊外へ物見遊山すること。

「枝幹蟠りて」「えだ・みき、わだかまりて」。

「數畝」本邦の面積単位では「畝」は「せ」と読み、一畝(せ)は一アール(百平方メートル)と殆んど相同値。不定数で六アール前後となるが、三アール程度と考えてよいか。ともかくも伏龍の如く異様に低く枝を張った巨大な大松であることには変わりがない。

「買取べし」「かひとるべし」。買い取ろう。

「云」「いふ」。

「此大木移栽もならず、いかゞの事にや」主人の心内語。『これはかくも大木なれば移植することなど到底、不可能、さてもどうする積りなのか?』。

「口より出るまゝに」「出る」は「いづる」と訓じておく。戯れに、文字通り、「売り」言葉に「買い」言葉で。

「十數金」十数両。

「答ければ」「こたへければ」。

「懷袋」二字で「ふところ」と当て訓しておく。

「蹤跡もなければ」「蹤跡」は「事(ここは売買の成立)が行われた後(あと)」で、その後、一向に主馬から移植或いは伐採などの話がなく、誰もやって来ないので。

「訝りしに」「いぶかりしに」。

「一日」「いちじつ」。ある日。

「僕從」「ぼくじゆう(ぼくじゅう)」。従者。

「持せ」「もたせ」。

「淸韵高致」「せいいんかうち」「淸韵」は原義は「清々しい響き」、「高致」は「高尚な趣き・至高の境地」の意。四字で、「すこぶる清々しく美しい高尚なる風流心」の謂いであろう。

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