甲子夜話卷之三 10 林子幼年の頃の風鳶を鬪はせし有樣
3―10 林子幼年の頃の風鳶を鬪はせし有樣
蕉軒云ふ。風俗の時に從ひ移易すること、其一を言はん。某が幼年のとき、每春風鳶の戲を今に囘想すれば、信に盛を極しと云べし。そのときは擧世一般のことゆへ、誰も心付く者も無りし。其頃は實家の鍛冶橋の邸に住しが、南は松平土佐守、北は松平越後守にて、土州の嫡子、越州の弟、某と鼎峙して、各盛事を盡したり。且又、互に風鳶をからみ合せ、贏輸せしときは、附の者、伽の子共など計には無して、家中の若輩皆集りて、力を戮せ、人々戲には無ほどの氣勢にて、一春の間は誠に人狂するが如し。風巾の大なるに至りては、紙數百餘枚に至れり。其糸の太さ拇指ほどもありき。風に乘じて上る時は、丈夫七八人にて手に革を纏ひ、力を極めてやうやくに引留たり。或時手を離さゞる者あるに、誤りて糸をゆるめたれば、其者長屋の屋脊へ引上られ、落て幸に怪我なかりしが、危事なりとて、家老より諫出て止たりしこともあり。流石土州は大家のことゆゑ、種々の形に作り成したるもの數多ありしが、扇をつなぎたる數三百までに及べり。又鯰の形に作たるを、某が爭ひ得しに、其長さ、頭より尾までにて邸の半ありける。風箏なども奇巧を盡し、鯨竹唐藤の製は云までもなし。銅線などにて其音の奇なるを造れり。世上皆此類にて、枚擧するに遑あらず。天晴風和する日、樓に上りて遠眺すれば、四方滿眼中、遠近風巾のあらぬ所は無き計なり。今は小兒に此戲するも少く、偶ありても、小き物か、形も尋常なるのみなり。高處に眺矚しても數るほどならでは見ず。かく迄世風も變るものかと云ける。
■やぶちゃんの呟き
最初に告白しておく……私は凧を揚げたことがない……揚がった凧を見上げた至福の思い出がない……ただ唯一の記憶がある……幼稚園の頃だ……新聞紙の長い脚を附けた奴凧をずるずると地面に引き摺りながら……泣いている独りぼっちの私だ…………
「林子」「蕉軒」前に注した林家第八代林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。「蕉軒」は「述斎」とともに彼の号の一つ。既に述べた通り、彼の実父は美濃国岩村藩主松平乗薀(のりもり)で、初名は松平乗衡(のりひら)、養子後の本名は林衡(はやしたいら)。寛政五(一七九三)年、満二十五の時に林錦峯(はやしきんぽう)の養子となって林家を継いだ。これは岩村藩上屋敷での幼少時の思い出である。
「風鳶」底本では「たこ」とルビする。凧。当時は「いかのぼり」とも称した。
「移易」「いえき」。移り変わること。
「某」「それがし」。
「戲」「たはむれ」。
「信に盛を極しと云べし」「まことにさかんをきはめしといふべし」。
「擧世一般」「きよせいいつぱん」。世を挙げて、ごくごく当たり前のこと。
「誰も心付く者」その(これから述べるような、一種狂的(ファナッティク)な)驚異的な流行りの実体を奇異に感じたり、批判をしたりする者。
「無りし」「なかりし」。
「鍛冶橋」現在の東京駅南西直近。
「住しが」「すみしが」。
「松平土佐守」時制から見て、土佐藩第九代藩主山内(松平)土佐守豊雍(とよちか 寛延三(一七五〇)年~寛政元(一七八九)年)か? 明和五(一七六八)年、家督継承。
「松平越後守」同じく時制的に見て、美作津山藩第五代藩主松平越後守康哉(やすちか 宝暦二(一七五二)年~寛政六(一七九四)年か? 宝暦一二(一七六二)年、家督継承。
「土州の嫡子」前注から、豊雍嫡男で、後の第十代土佐藩となる山内豊策(とよかず 安永二(一七七三)年~文政八(一八二五)年)か? であれば、乗衡より五歳年下である。
「越州の弟」当主が松平康哉であるとすれば、ウィキの「松平康哉」によれば、康哉には直義・長賢・長裕・金田正彜という弟がいるものの、生年見て、直義(宝暦四(一七五四)年生まれ)ではないであろう(乗衡より十四歳も年上だからである)。
「鼎峙」「ていじ」。]鼎(かなえ)の脚のように三方に相い対して立つこと。鼎立。
「各」「おのおの」。
「盛事を盡したり」凧揚げを盛んに競い合ったものであった。
「贏輸」「えいしゆ」(「えいゆ」は慣用読み)。勝負。
「附の者」「つきのもの」。所謂、藩主子息の家臣から選ばれた子守役。
「伽の子共」「とぎのこども」。遊びや話し相手として特に選ばれた子ども(家臣の子弟らから選ばれた)。
「計には無して」「ばかりにはなくして」。その子らの者だけでは、これ、なくして。
「戮せ」「あはせ」。「合はせ」。
「戲には無ほどの氣勢にて」「たはむれにはなきほどのきせいにて」。遊びとは思えぬばかりに、大真面目にエキサイトして。
「人狂するが如し」「ひと、きようするがごとし」。まるで人々、これ、凧に関わっては誰もが狂ったかのようになったものであった。
「風巾」「たこ」。
「拇指」「おゆび」。親指。
「上る」「あがる」。
「丈夫」屈強の成人男子。
「纏ひ」「まとひ」。滑り止めと、摩擦による擦過傷を防ぐために革を手に巻いたのである。
「引留たり」「ひきとめたり」。
「屋脊」音なら「ヲクセキ」であるが、ここは「やね」或いは「むね」と訓じたい。
「引上られ」「ひきあげられ」。
「落て」「おちて」。
「幸に」「さひはひに」。
「危事」「あやふきこと」。
「諫出て」「いさめいでて」。
「止たりし」「やみたりし」。
「流石」「さすが」。
「數多」「あまた」。
「扇をつなぎたる數三百までに及べり」本物の扇を数珠繋ぎにした凧があって、その扇の数たるや、何と三百面にも及ぶ長大なものであった。
「鯰」「なまず」。
「邸の半」「やしきのなかば」。私の実家の屋敷地の半分もの大きさ。
「風箏」底本では「ふうさう」とルビする。これは以下の素材から見て、唸り凧、音を発するような構造や笛に類した仕掛けを施したものと思われる。現代中国語では凧は「風箏」と呼ぶことが多い。
「鯨竹唐藤の製」前者から「鯨竹」は判る。凧の鯨骨や鯨の髭や竹を凧の支え構造や唸りの装置に附属させて作製した凧であろう。「唐藤」は不詳。唐藤空木(フジウツギ科フジウツギ属トウフジウツギ Buddleja lindleyana)があるけれども、これ、草体から見て、凧の素材にはならないように見える。私の推測だが、或いはこれ、「唐籐」(からとう)で、籐椅子などの素材とする、熱帯性の蔓性植物である単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科トウ連Calameae に属するトウの類の静山の誤記ではあるまいか? あれなら、強靱で軽く、凧の素材や唸りの装置にもってこいであるように思われるのだが?
「云までもなし」「いふまでもなし」。
「此類」「このたぐひ」。
「枚擧するに遑あらず」「まいきよするにいとまあらず」。数え上げるに、きりがない。こういっている儒学者述斎の少年のような目の輝きが見えるようだ……私にはその喜びの記憶がない分、かえってそれを強く感ずるのである……
「天晴風和する日」「てん、はれ、かぜ、わするひ」。晴天で風はあるが、決して強風ではない(私には分らないけれど、凧を揚げるに最も相応しい風具合を述斎は言っているのであろう)穏やかな日。
「樓」「たかどの」。見晴らし台。
「遠眺」「えんてう(えんちょう)」。遠望すれば。
「四方滿眼中」四方、これ、見渡す限り。
「遠近」「をちこち」。遠きも近きも。
「計」「ばかり」。
「此戲するも少く」「このたはむれするもすくなく」。
「偶」「たまたま」。
「小き」「ちさき」。
「高處」「たかきところ」。
「眺矚」「てうしよく(ちょうしょく)」。「矚」は「注意して見つめる」の意。隅々まで眺めて、よく観察してみること。
「數るほどならでは見ず」「數る」は「かぞふる」。底本では「かぞゆる」とルビするが、採らない。上げられている凧は、これ、数えられるほど、少ししか、見えない。ちょっと淋しそうな少年乗衡が、ここに、いる…………
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