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2016/11/04

甲子夜話卷之二 42近藤石見守の事

2―42近藤石見守の事

近藤石見守は【遠州氣賀を領す。三千四百石餘。交代寄合】寛政中大番頭たり。此人武術を嗜み、武邊形氣の男なりき。予も識人なり。常々途中にて、口添に馬の口繩をさゝせ、己は馬上にて組手をして行く。人と遇へば鞍の前輪に兩手をあてゝ式禮せり。いつも駕籠をば跡より空しくかゝせたり。常の樂は鍛冶にて、みづから刀劍作りけるが、兎角折れ易かりし。人々評して、渠が氣象にて、打物も剛に過るよと云ける。又醉時は、萬一事あるに臨んでは予、手の者を引具し、氣賀の關を守らば、西國大名一人も通すまじきものをとて、氣勢を張りしとなり。後駿府城代に陞り、勤番士の武技を督責し、的射さするとき、或は高き木の枝に掛け、或は射手を高き處に居き、的は地の下りたる所に掛けなどして試しとなり。且勤番士水泳不鍛練なりとて、城内の池水を自ら泳ぎ、若き人々を教習せしめしが、老後のこと故、その溜り水の濕に中り、病を得て歿せりとなり。

■やぶちゃんの呟き

「近藤石見守【遠州氣賀を領す。三千四百石餘。交代寄合】寛政中大番頭たり」「遠州氣賀」は現在の浜松市北区細江町気賀(きが)。当該地の東海道の浜名湖を挟んだ北の脇往還であった「姫街道」の一宿「気賀宿」があり、徳川家康によって創設された気賀関所があった。気賀近藤家は江戸初期の名将の一人で遠江井伊谷藩藩主となった近藤秀用(ひでもち)の次男で旗本の近藤用可(もちあり)を始祖とする近藤家支流(なお、秀用の直系の孫に当たる近藤貞用(さだもち)は「旗本退屈男」のモデルとされる)。ここで語られるのは、後の「駿府城代」(後注参照)になったという叙述から第七代当主であった近藤用和であることが判ったウィキの「駿府城によれば、彼が駿府城代を勤めたのは、寛政八(一七九六)年九月十四日から寛政一一(一七九九)年十月二十九日までであり、さらにしらべると、彼は当時、「大番頭」(おおばんがしら/おおばんとう:常備兵力として旗本を編制した部隊の指揮官でこれは番方(武官)の最高位でもあった)でもあったことが確認出来た)。「交代寄合」は「こうたいよりあひ」で旗本の家格の一種。広義の「寄合」(よく呼ばれる「旗本寄合席(はたもとよりあいせき)」は通称でこの「寄合」が正式名。三千石以上の上級旗本で無役の者及び布衣(ほい)以上の退職者(役寄合)の家格を指す)に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して、彼らは参勤交代をする必要(資格)があった。参照したウィキの「交代寄合によれば、禄高は一万石以下ではあったものの、旗本が江戸在府で、『若年寄支配であるのに対し、交代寄合は領地に所在して老中支配であったため』、『大名と同等、もしくはそれに準ずる待遇を受けた』。『大名と同様に参勤交代することを許されていたが、諸大名と異なり参勤は強制・義務ではなく、自発的に行うものとされていた。このため数年に一度しか参勤しない家もあり、寄合御役金として』百石に付き、金二両を八月と二月に分納した。『官位については、一部の例外を除いて通常の旗本と同様に役職就任時以外の任官はなかった』とある。

「武邊形氣」「ぶへんかたぎ」武勇を旨とする気質(かたぎ)。

「識人」「しりびと」。

「途中」江戸城登城の途中の意であろう。

「口添」「くちぞへ」。馬の口取り(馬を引くために付けた口取り繩)の者。

「さゝせ」「指させ」。特定の方向を指させる、向かわせるの意。

「組手」ゆうきこうじ氏のブログ「結城滉二の千夜一夜」の『甲子夜話の154=松浦静山』新千夜一夜物語 第254話によれば、『弥蔵(着物の袖の中で腕をやの字に組む)』に組むこととある。三省堂の「大辞林」の「弥蔵」によると、懐手をして握り拳を作り、肩を突き上げるようにした恰好で、これは実は江戸の職人や博奕打うちなどの粋がったポーズであったといったことが記されてある。

「跡」「後」。

「空しくかゝせたり」旗本の登城の式例は駕籠による参第であったのであろう。

「樂」「たのしみ」

「鍛冶」「かぢ」。

「渠」「かれ」。「彼」。

「剛」「がう」。

「過るよ」「すぐるよ」。

「醉時は」「ゑふときは」。

「萬一事あるに臨んでは予、手の者を引具し、氣賀の關を守らば、西國大名一人も通すまじきものを」が常の酔った時の決め台詞である。「氣賀の關」は前注を参照。

「後」「のち」。

「駿府城代」ウィキの「駿府城によれば、寛永一〇(一六三三)年、『幕府は徳川忠長が改易されて直轄領となった駿府に駿府城代を置き、東海道の要衝である当地の押えとした。駿府城代は老中支配で、駿府に駐在して当城警護の総監・大手門の守衛・久能山代拝などを管掌した。譜代大名の職である大坂城代とは異なり大身旗本の職であるが、老中支配の中では最高位の格式』であった、とある。

「陞り」「のぼり」。「昇り」。

「督責」「とくせき」。厳しく批判し、責めたてること。強く要求すること。

「的射さするとき」競射に於いて、的を射させる際には。

「或は高き木の枝に掛け」「的を」である。異例の高さであり、しかもぶら下げるのであろうから動態の的、しかも反動によって的自体に当たっても矢が刺さらないこともあろうから、すこぶる難度の高い的となるように思われる。明らかに実戦で高所に潜んでいるゲリラ兵を狙い撃つ練習である。

「射手を高き處に居き、的は地の下りたる所に掛けなどして試しとなり」「下りたる」は「くだりたる」か。「試し」はママ。前者の反対で、ゲリラ戦に於いて、敵を迎え撃つ奇襲弓射の戦法練習である。面白い。

「且」「かつ」。

「濕」「しつ」湿気(しっき)。

「中(あた)り」。

「病を得て歿せりとなり」ということは、駿府城代在職中か、その退任からほどなく亡くなったと読める。彼の駿府城代退任は寛政一一(一七九九)年十月二十九日である。当時の静山は満三十九歳で、まだ平戸藩藩主であった。

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