佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (三)
㈢
横須賀の波は退屈を重ね繰り返すように、寄せて来ては返し、返しては寄せて、またそのように平凡な変りばえもない街でありましたから、私たちの彼に対する関心は何にもまして張りのある歓喜に冴えたものとなっていました。なんという天与でありましたことか。
暑熱の海岸を三人が歩いたこともございました。浴衣がけの夫も彼も大きな麦藁帽をかぶり、私は紫の日傘をさし、博多の夏帯を締めていました。彼は一人、泳ぎが得意で抜き手を切って遊泳して見せました。もぐつて、しばらく海面にいないこともありました。海だけがきらきらとかがやいて、もう、どこからも彼は出てこないように思えました。が、突如、浮かび上がって笑顔に白波をあびながら近づいて来るのでした。岩の上には脱ぎ捨てた浴衣と麦藁帽子が風のない日中に灼けつくような形で投げ出されています。水泳の特技を見ることができたのも、私どもには意外なたまものでした。何につけても彼は特別な姿態をもって私たちの眼をよろこばせたのでございます。
彼は先に立って行動しました。海岸からぐっと手前の藪の中を歩くときも、どんどん歩いて行くのですが、そんな時は完全に独りで私たちから抜け出していました。何を考えているのか横顔も、うしろ姿も独りだったのです。その独りの中では彼自身の悩みや苦痛がのたうっていたのでございましょう。後になって考えれば、私どもの知らないところで結婚話が進んだり滞ったりしていたことになりますし、文筆の上でも内面的な格闘があって意外と気の弱い蒼白な面を見せたときでありました。結婚問題に関することでは、某海軍士官の忘れがたみと云々とかで、それがまだよくまとまらないなどいうのを、仄聞した某京大教授が、
「それなら、うちの娘に」
というので自身付き添いで見合をしたところ
「どうも神経が繊細過ぎる」
とそのままになってしまったそうで、夫が申しますには、
「我々は龍ちゃんのファンだから、龍ちゃんなら誰でも飛びつくだろうと思うのだが。なかなか、そうも行かないのだね」
「そりゃあ、そうですとも。まあ、私にしましても、夫という場合には、芥川様は怖いみたいに思われますもの。やはり家庭の主人となれば、あなたの方を私は取りますもの」
「そりや、そうだったろうが」
「危惧の念が起きますわ。ほんとに怖いみたい。誰でもいいというわけには参りませんでしょう。こちらであたたかく抱擁して上げなければ、うまく行かない方の様に思われてなりませんわ。私の幼稚な感じ方ですけれども」
文学的の問題では谷崎潤一郎との論争で、
「ぼく、ヘトヘトに疲れちゃった」
という龍之介を目の前に見ましたし、
「そこへ持って来て、批評家という奴が、ブツブツ言いますしね。批評家なんて無くもがなと思いますよ。ぼく、あれを読むとイライラしたり憂欝になったりして困るんです。だから、もう、読まぬことにしましたがね」
それに対して私は、なぐさめとも励ましとも批判ともつかないような言い方で申し上げていました。
「ヘトヘトになられるなんて少々だらしがないわ。お心持ちが弱いんだわ。実力がおありなんですもの。悠々と構えて大胆にしてらっしゃればいいのに。宅で自信満々と語られるときのようにしてらっしゃればいいのに。それとも本当に谷崎さんは苦手なのかしら。潤一郎々々々って親しそうにおっしゃるし、彼より優越を感じていられる口吻をお洩らしになるときもあるのに。不思議だこと。批評家のいうことなんて尚更だわ。気に喰わなければ一笑に付しておしまいなさい。でも、批評というものに一応、目を通して、とってもって、参考にするだけの雅量がほしいと思う。あまり小心過ぎてお気の毒だこと」
「お前はなかなか辛辣だね。ぼくは、ひどく芥川君に心酔しているのに」
と夫は申しました。
「辛辣というのでもありませんわ。大好きですもの。ね、そんなに神経をすりへらされない方がよろしいでしょう。おからだにさわるといけませんものね」
とお慰めしたのでございました。
「そうだとも。龍ちゃん。人間、呑気にしていないと毒ですよ。そうは言っても、文学の方は世間一般の事と違って、しかも世間一般を相手にするものですから、いろいろ神経にもさわるでしょう。創作なんて突きつめて行くと、悩み無くしては駄目なことでもありますが、ぼくの方はまあ呑気なものですよ」
すると彼は、
「本当に、佐野君はいつも、のどかに見えますよ。ぼくも、文学をやめて、天文でも初めようかな。月を見たり、星を研究したりしていたら、呑気なものでしょうな」
「あら。そう伺えば、私、思い出します。学校の二クラス上の文科生のお話ですのよ。秋の日光修学旅行のおり、夕食後、皆で中禅寺湖畔へ散歩に出かけました。あたりは夕もやに包まれ淡い月かげが照らし、何かしら、ロマンチックな宵でした。某先生は、いつも理科生とご一緒でしたが、ふっとお一人で文科生のところへ来られましてね。静かにお話しになるんですの。ぼくは元来、文学が好きでその方面が得意だったのですよ。それで、文学方面へ進むつもりでしたが、この通り神経質でしょう?これで文学をやったら藤村操の二代目になるかも知れぬと思いましてね。好きな文学をやめて理科へ行きました。しかし、ぼくは文学が好きだな。文学は実にいいなとおっしゃるのですが、食堂に蠅が一匹いてもその日は食事ヌキ。でもね。優しい美しい奥さまが来られてからはお子様もお出来になり、とても穏やかになられたとのことですの。芥川様だって味気ない下宿をお出になってご結婚遊ばしたら、ずっとお気楽になれましてよ」
すると彼は言うのでした。
「ええ。ありがとう。本当にそうかもしれませんね。せいぜいお邪魔して家庭のふんいきに浴させていただきましょうか」
私は彼の神経質を憂えてしみじみ申し上げたのでしたが、彼の答えはちょっと当方をイナしたものでございました。
又、或る時の話ですが、夫が帰宅して申しますには、
「今日ね。年度末賞与の辞令が出て皆ざわざわしている時にね、芥川君はぼくのところへ来てさ。『内緒々々』って辞令をスープの中へ放り込んで燃しちまったよ」
「あら、どうしてそんなこと」
「ぼくも驚いてね。いろいろ聞いてみると龍ちゃんは養子で、両親は義理の親子。叔母上なる人もなかなか複雑な家庭の人なんだって。それで、こうしとくのが一番いいんだって言うのさ。そうかも知れんなあ。その使途についても親子意見が一致するとは限らんだろうから。辞令などなければ、芥川君の思うように運ばせても万事うまく行くからね。なかなか考えてるじゃないか。龍ちゃんを非難する気には、ぼくは、なれない。むしろ同情するね。実の親子の辞令なら、そんなに気を使うことはないからね」
「本当ね。そう伺ってみると芥川様なかなかお気苦労なのですね。私、学校で教わった倫理のお話に適ってるんですもの。深作教授のお話でしたのよ。人と屏風は、すぐには立たぬということがある。殊に家庭内のことは余り物ごとをはっきりさせるより、多少理屈はくらます方がいい場合があると説かれましたわ。つまり、今のようなことですね」
私は、うんと難かしい家庭へ嫁いでそこを円満に収めてみたらさぞ楽しいだろうと、ひそかに思ったこともありました。しかし、実際にはとてもたいへんなことのようです。二人きりの呑気なその頃の生活は、私には、まさに適材適処だったと思います。そして、改めて彼の気苦労に同情いたしました。
気苦労と言えば又、別の気苦労と申しましょうか、彼は或る時やって来て、こう言われるのです。[やぶちゃん字注:ここには句点がないが、脱字と見て、特異的に附した。]
「この頃、東京の悪友たちが、ぼくのゴシップを飛ばしてるんですよ。奥さんもご存知の、あの小町園の女中ね」
「ええ。あの可愛いいお千代さん」
「そうですよ。ぼくが、奴にぞっこん参ってて、それで、しげしげ行くってね。それが今日、教官室で話題になりましてね。ぼく、善友諸君にすっかり冷かされてしまいましたよ。もちろん、佐野君からもですよ。ゴシップなんてデタラメと解っていても、中には信ずる人もいますからね。濡れ衣も甚だしい。お二方と行く時、あれがちょこちょこ出て来まして……。失礼ですが、つい、ぼくは奥さんと比較して見るんです。いくら、片えくぼがあって可愛くても、教養のない者は駄目だと思うのですよ。月とスッボンだと。これは実際のことで決してお世辞ではありません。真実そう思うのですから、誤解のないように願います」
すこぶる真面目に彼は言うのでした。新婚生活の、これといって用事もなく、半日女学校に勤めれば、ひまで仕方がなかった私は、このような話を聞かされたり、在学中、不充分だった英語のおさらいを彼に見てもらったり、それが亦、結構たのしいことだったのです。ロングフェローのエバンゼリンなど朗読しても呉れました。
「お前、嬉しいだろう。天下の芥川君に教えてもらえるんだ。ご無理を願うんだから、また腕にヨリをかけてご馳走するんだね」
と夫も上気嫌でございました。
「佐野君は何も知らぬ顔してますがね。教官室で外人と話のできるのは佐野君なんですよ」
「あら、そうですの?そんなだとは存じませんでした。外国へでも行きたい下心があるのでございましょうね」
「ああ。そうかも知れないねえ。龍ちゃん、ぼくがもし外遊をしたら、君に何かよいものを買って来たいんです。何がいいですか」
「有難う。ばくはステッキが好きですね」
「龍ちゃんにふさわしい極めてハイカラなのを求めて来ますよ」
これは約束になってしまいました。後日、夫は本当に外遊して約束通りのステッキを二本持ち返りましたが、一本は自分が持ち、残る一本は彼の手に渡せぬ間柄になってしまいましたので、長いこと、そのステッキは押し入れの中や、果ては故郷の土蔵などに埋蔵され、ついに蟲ばんで忘れ去られてしまうのですが、スネークウッドの酒落れたものでした。
それから例の小町園のお千代さんは、これ亦、後日に文士連の口の端にのぼるK夫人となっているようでございます。芥川をめぐって取り沙汰される女性の中にちらちらとあがって来るような存在になろうとは、可愛いいお千代さん時代には想像もつきませんでした。私の方は誰も知る者もない存在で、ずっと家庭を守り通して来たわけでございます。
[やぶちゃん注:「暑熱の海岸を三人が歩いたこともございました。浴衣がけの夫も彼も大きな麦藁帽をかぶり、私は紫の日傘をさし、博多の夏帯を締めていました。彼は一人、泳ぎが得意で抜き手を切って遊泳して見せました。もぐつて、しばらく海面にいないこともありました。海だけがきらきらとかがやいて、もう、どこからも彼は出てこないように思えました。が、突如、浮かび上がって笑顔に白波をあびながら近づいて来るのでした。岩の上には脱ぎ捨てた浴衣と麦藁帽子が風のない日中に灼けつくような形で投げ出されています。水泳の特技を見ることができたのも、私どもには意外なたまものでした。何につけても彼は特別な姿態をもって私たちの眼をよろこばせたのでございます」この一段は実に映像的で素晴らしい。私たちの知らない芥川龍之介の若き日の姿が髣髴としてくるではないか。ロケーションは大正六(一九一七)年、芥川龍之介、満二十五の独身最後の夏と同定出来る。事実、次の「㈣」で花子は「大正六年夏と言えば、春に結婚して丁度、つわりになる頃であったわけで、彼の遊泳を見ながら海岸に佇んだ日はこの少し前になるのだと回想いたします」と記しているからでもある。
「後になって考えれば、私どもの知らないところで結婚話が進んだり滞ったりしていたことになります」「滞ったりしていた」というのは誤り。文との婚約(既に示した通り、海軍機関学校に就職した十二月に婚約し、同時に、文の卒業を待って結婚する旨の縁談契約書を取り交わしている)関係にはこの時期、滞りはなかった。但し、前に述べた通り、芥川龍之介は文との婚約を佐野夫婦には長く黙っていたと考えられ、花子のこの謂いに不審は全くないのである。
「某海軍士官の忘れがたみ」後に妻となる塚本文は三中時代の同級生で親友であった山本喜誉司の姪(龍之介より八歳年下。婚約当時は満十七歳)で、文の父塚本善五郎(妻が喜誉司の長姉鈴(すず))は元飛騨高山の士族出身であったが、海軍大学卒業後、日露戦争で第一艦隊参謀少佐として明治三七(一九〇四)年二月に新造された戦艦「初瀬」に乗艦して出征したが、同年五月十五日、「初瀬」が旅順港外で機械水雷に接触して轟沈、御真影を掲げて艦とともに運命をともにしている(以上は鷺只雄編著「作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊に拠った)。
「それがまだよくまとまらないなどいうのを、仄聞した某京大教授が、/「それなら、うちの娘に」/というので自身付き添いで見合をしたところ/「どうも神経が繊細過ぎる」/とそのままになってしまったそうで」このような話を私は知らないが、文との婚約以前ならあったとしても不思議ではなく、婚約中であっても、「まだよくまとまらない」などと龍之介が五月蠅い慫慂に対し、うっかり誤魔化して言ってしまったとすれば、当時なら、あっても少しもおかしくはないと思われる。さらに言うと、佐野夫婦が結婚を慫慂するのに辟易した龍之介がデッチアゲた話とも考えられる。この叙述は、どうみても佐野慶造の話ではなく、芥川龍之介自身の語りと読めるからである。そう読んでこそ、慶造の「我々は龍ちゃんのファンだから、龍ちゃんなら誰でも飛びつくだろうと思うのだが。なかなか、そうも行かないのだね」という台詞が如何にもしっくりくるではないか。
「谷崎潤一郎との論争で、/「ぼく、ヘトヘトに疲れちゃった」/という龍之介を目の前に見ました」これは、かなりおかしい叙述には一見、見える。谷崎潤一郎(芥川龍之介より六歳年上)は大学も、また『新思潮』でも先輩に当たり、作品集「羅生門」の出版記念会(大正六(一九一七)年六月二十七日に日本橋のレストラン「鴻の巣」で行われた)にも出席しており、その直後の七月初旬に佐藤春夫とともに谷崎宅を訪問して、交流が深まっていった、まさに谷崎との親近性の増した時期と合致するからである。寧ろ、龍之介が「ヘトヘトに疲れ」た音を挙げるような「谷崎潤一郎との論争」と言ったら、これはどう考えても、所謂、〈筋のない小説〉論争であるが、これはまさに龍之介自死の年の三月以降のことであるから時期が齟齬し、花子のただの勘違いにしてはおかしく、それこそ研究者の誰彼から『妄想』と指弾されるかも知れぬ。しかし、である。当時の文壇の寵児とはいえ、たかがデビュー直後の若造龍之介が、親しくなったとはいえ、一種、精神的なサディズム傾向を強く持つ、かの谷崎から、当時、イラつくような波状的論議を吹っかけられていた可能性は、これまた、十分にあると思われ、私はこれをあげつらって、花子の叙述が変だ・おかしい・妄想だなどとは、これっぽちも思わない、と断言しておくものである。いや、あらゆる面で後輩であった龍之介、礼儀正しい龍之介にとっては、脂ぎった谷崎の、歯に物着せぬ龍之介を含めた文壇への批判批評を黙って拝聴しつつも、実は内心、大いに辟易し、「ヘトヘトに疲れ」きっていたのだと考えた方が、私は遙かに腑に落ちるのである。後の花子の台詞の「潤一郎々々々って親しそうにおっしゃるし、彼より優越を感じていられる口吻をお洩らしになるときもあるのに」というのも、そう考えた時にこそ、如何にも自然に響いてくるではないか。
「とってもって」「取って以って」批判的だったり、見当違いだったりする馬鹿げたものでも、無視せずに取り挙げて、それを逆手に取ったり、当たり前に当然の退屈な批評箇所を見た目上、認めてあげたりして、といったニュアンスであろう。
「雅量」人をよく受け入れる大らかな心持ち。
「学校」「文科生」「秋の日光修学旅行」「理科生」とあることから、これは東京女子高等師範学校文科(現在の御茶の水女子大学)時代の話である。当時の東京女子高等師範学校が四年次の十月に日光修学旅行を行っていたことが、奥田環氏の論文『東京女子高等師範学校の「修学旅行」』(PDF)で確認出来る。
「藤村操」彼については、私の共時的抄出電子テキスト注である――『東京朝日新聞』大正3(1914)年8月3日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第百二回』――の『■「Kの遺書」を考えるに当たって――藤村操の影』で、最も詳しく述べているので、そちらを是非、参照されたい。
「龍ちゃんは養子で、両親は義理の親子」芥川龍之介の養父芥川道章の妹であった新原(にいはら)フクが龍之介の実母であった。
「叔母上なる人もなかなか複雑な家庭の人なんだって」恐らくは田端の芥川家で同居していた実母フクの姉である伯母芥川フキ(安政三(一八五六)年~昭和一三(一九三八)年)を指す。彼女は実母の係属から見れば伯母に当たるが、養父道章の妹でもあるので、養父の係属では「叔母」と記しても実はおかしくない。「なかなか複雑な家庭の人」と言う訳ではないが、フキは幼少時の怪我で片方の眼が不自由となり、生涯、独身を通している。芥川が乳飲み子の頃から母親代わりとなり、養育に当たって、彼に一身の愛情を注いだ。芥川は、例えば、「文學好きな家庭から」(大正七(一九一八)年一月『文章倶樂部』」)で、『その外に伯母が一人ゐて、それが特に私の面倒を見てくれました。今でも見てくれてゐます。家中で顔が一番私に似てゐるのもこの伯母なら、心もちの上で共通點の一番多いのもこの伯母です。伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出來たかどうかわかりません』とまさに――育ての母――とも言うべき言い方で記している。しかし一方で、遺稿「或阿呆の一生」には(リンク先は孰れも私の古い電子テクスト)、
*
三 家
彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。
彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰(たれ)よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。
彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。
*
とも述懐しており、龍之介のフキへの愛憎半ばした複雑な感情が見てとれる。なお、知られた龍之介の辞世、
自嘲
水涕や鼻の先だけ暮れのこる 龍之介
があるが、龍之介は、昭和二(一九二七)年七月二十四日の午前一時か一時半頃、この伯母フキの枕元にやってくると、「伯母さん、これを明日の朝、下島[やぶちゃん注:芥川家の主治医で俳人でもあった下島勳(いさお)。]さんに渡して下さい。先生が来た時、僕がまだ寝ているかも知れないが、寝ていたら、僕を起こさずに置いて、その儘まだ寝ているからと言って渡して下さい。」と言って短冊を渡している。その後に龍之介は薬物を飲み、床に入り、聖書を読みながら、永遠の眠りに就いたのであった。
「こうしとく」「こう、しておく」の意。ボーナスの辞令を家に持ち帰ってその給与配布が知られないよう、ここでかく処理そておくこと。
「深作教授」不詳。当時の知られた倫理学者には深作安文(ふかさくやすふみ 明治七(一八七四)年~昭和三七(一九六二)年)がいるが、彼に同定は出来ない。
「新婚生活の、これといって用事もなく、半日女学校に勤めれば、ひまで仕方がなかった私」新婚時代の彼女の女学校勤務(前出既注。当時の横須賀高等女学校)が午前中勤務の今でいう非常勤講師であったことが判る。
「ロングフェローのエバンゼリン」アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow 一八〇七年~一八八二年)の最も知られた一八四七年作の、架空の悲恋叙事詩「エヴァンジェリン:アカディの話」(Evangeline:
A Tale of Acadie)
「これは約束になってしまいました。後日、夫は本当に外遊して約束通りのステッキを二本持ち返りましたが、一本は自分が持ち、残る一本は彼の手に渡せぬ間柄になってしまいましたので、長いこと、そのステッキは押し入れの中や、果ては故郷の土蔵などに埋蔵され、ついに蟲ばんで忘れ去られてしまうのですが、スネークウッドの酒落れたものでした」「蟲」は底本のママ。これが後に、本書の内容を素材とした、田中純の小説「二本のステッキ」(昭和三一(一九五六)年二月発行の『小説新潮』初出)の題名となる。私のブログ記事『芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章』でも取り上げているが、来年二〇一七年一月一日午前零時零分を以って田中純の著作権が切れるので、来年早々には、このブログで「二本のステッキ」の全電子化をしようと考えている(なお、TPPが本年中に承認されても、TPPの発効が成されない限り、著作権延長は出来ないはずである。やったら、これはもう、日本は法治国家ではない)。
「小町園のお千代さんは、これ亦、後日に文士連の口の端にのぼるK夫人となっている」「お千代さん」も「K夫人」も不祥。識者の御教授を乞う。]