北條九代記 卷第十 將軍家叛逆 付 松殿僧正逐電
〇將軍家叛逆 付 松殿僧正逐電
同二十二日、將軍家、御(ご)病惱おはします。松殿〔の〕僧正良基、御驗者(ごけんじや)として、護身の爲に近侍あるべしとて、日夜御傍(おんあたり)を立去らず、振鈴(しんれい)の音、折々、外樣(とざま)に響聞(ひゞききこ)えて、殿中いとゞ靜りかヘりてもの淋し。六月に至りて、御氣色、愈(いよいよ)宜からず、引籠(ひきこも)らせたまふ。これによつて、諸大名にも御對面の事、打絶えければ、人々心の外に思ひ奉り、典藥の輩に尋ね奉れども、又御療治の爲とて參りたる者もなし。同五日の晩景に、木工頭(もくのかみ)親家、京都より鎌倉に下向あり、御所に參りて潛(ひそか)に申す旨、既に夜陰より曉に及びて、退出す。何事とは知らず、一兩日逗留して、親家は上洛致されけり。是は仙洞より、内々御諷諫(ごふうかん)の爲に下向せしめられたりと沙汰ありしかば、諸人、益々、怪存(あやしみぞん)ぜすと云ふ事なし。又、折節に付けては、和歌の御會に事を寄せられ、近習の者共を召集(めしあつ)め、密々に祕計を企てて、北條時宗を討て、將軍家思召す儘に天下を領じ給はんとの謀(はかりごと)を𢌞(めぐら)し給ふと世に專(もつぱら)沙汰あり。彼此(かれこれ)互に語りける程に、風聞、隱(かくれ)なく、時宗に告知(つげしら)する者、多かりければ、北條家、是より物每(ものごと)に遠慮あり。疑殆(ぎたい)起りて、用心に隙(ひま)なく、物の色を立てられしかば、自(おのづから)御所の有樣、人の出入も、故あるやうに目を側(そば)めてぞ見えにける。同じき十九日、左京大夫北條時宗、越後守實時、秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛、竊(ひそか)に相摸守政村の家に會合して、夜更(ふく)るまで額(ひたひ)を合せて密談あり。この人々の外には聞く人もなく知事(しること)もなし。何事とは知らすながら、將軍宗尊(そうそん)親王の御事なるべしと、沙汰ありければ、その日、松殿僧正良基は、御所を出でて行方(ゆきかた)なく逐電せらる、是(これ)、只事(たゞこと)にあらず、如何樣(いかさま)、子細ある故なるべし。世の風聞も定(さだめ)て跡なき事にはあるべからずと、鎌倉中には沙汰を致せり。後に聞えしは、良基は惡逆の企(くはだて)を申進(まうししゝ)めし張本として、この事、漸(や〻)顯れければ、身を遁(のが)れん爲に、御所を闕落(かけおち)して直(すぐ)に高野山に隱れけれども、打賴(うちたの)まる〻人もなし。遂に斷食して死せりとかや、夫(それ)、釋門(しやくもん)の徒(と)は末世といへども、悉く是(これ)、佛弟子なり。大聖(たいしやう)の遺誡(ゆゐかい)を守り、人を教導し、現世福壽(げんぜふくじゆ)の祈禱、護摩、灌頂くわんてう)の法(はふ)を以て實義性空(じつぎしやうくう)の妙理(めうり)に引入(いんにふ)し、諸々(もろもろ)の衆生を憐み、苦(く)にかはりて濟度(さいど)すべきをこそ、眞(まこと)の沙門の行跡(ふるまひ)とも云ふべきに、無用の名利(みやうり)に我執(がしう)を先(さき)とし非道を以て世を亂さんとす。佛の降魔(ごうま)の方便にもあらず、菩薩慈悲の殺生にもあらず、外相(げさう)には、三衣を著(ちやく)して佛弟子に似たり。内心には重欲(ぢうよく)我慢を事として、提婆(だいば)、瞿伽梨(くかり)が行跡の如し。學佛法(がくぶつぱふ)の外道(げだう)とは是等をぞ名付くべき。將軍家、又、愚(おろか)にましまして、か〻る大事を思召し立つには、智慮深思の人を近付けて、異見を問ひ給ふべし、「衆愚の諤々(がくがく)は、一賢の唯々(ゐゝ)に如(しか)ず」と云へり、其(その)器(き)にもあらざる人に、談合密語し給ひ、輒(たやす)く外に泄(もれ)ける事、暗主(あんしゆ)の態(わざ)こそ悲しけれ。良基僧正は智慮なく思詰(おもひつめ)はあらで、舌(した)に任せて大事を閑談し、風に揚(あが)る輕毛(きやうまう)の如く、僅に事の端(はし)、露(あらは)れんとするに臨みて、人より先に逐電し、跡は亡(ほろび)に及ぶが如く、偏(ひとへ)に逆心(ぎやくしん)の訴人(そにん)となりける。淺ましき所行にあらずやと、心ある輩は惡(にく)み思はぬはなかりけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年四月二十二日、六月五日・二十日、及び、宗尊親王の叛逆計画部分については「将軍記」「日本王代一覧」「保暦間記」などを参照にしているようである(「吾妻鏡」には後者の内容は載らない)。
「同二十二日」文永三(一二六六)年四月二十二日。
「松殿僧正」(?~文永三年)は関白藤原忠通の次男基房の孫で真言僧であった良基(りょうき)の通称。既出既注であるが、ここが最後なので纏めておく。定豪(じょうごう)に学び、鎌倉で祈禱に従事した。文永三年には第六代将軍宗尊親王の護身験者(げんざ)に昇ったが、親王の謀反の疑いに関係して高野山に遁れ、食を断って同年中に死去した。実はここには全く書かれていないのであるが、彼は第六代将軍宗尊親王正室で第七代将軍惟康親王の母近衛宰子(さいし 仁治二(一二四一)年~?:近衛兼経娘)と不倫関係にあり、良基逐電や将軍宗尊更迭と京都送還の背景として、寧ろ、このスキャンダルの方が表面上、大きく関与したものとしてあった。宰子は文永元(一二六四)年四月に宗尊親王との間に惟康王を出産したが、この出産の際、験者を務めたのが良基で、その間に密通事件が発生したとされ、それがこの文永三年になって露見、六月二十日に良基は逐電し、その直後に当時、連署であった北条時宗邸で幕府首脳による寄合が行われて宗尊親王京都送還が決定されたと見られている(その時、宰子とその子惟康らはそれぞれ時宗邸などに移されている)。その後は次の条の内容となるが、七月四日に宗尊親王は将軍職を追われて鎌倉を出発、帰洛した。その折り、京には「将軍御謀反」と伝えられており、幕府は未だ三歳であった惟康王を新たな将軍として擁立することとなった(宰子は娘の倫子女王を連れて都に戻っている)。また、この良基については、ここにも出るように高野山で断食し果てたとも、また一方では、御息所と夫婦になって暮らしている、などともまことしやかに噂されたものらしい。
「日夜御傍(おんあたり)を立去らず、振鈴(しんれい)の音、折々、外樣(とざま)に響聞(ひゞききこ)えて、殿中いとゞ靜りかヘりてもの淋し。六月に至りて、御氣色、愈(いよいよ)宜からず、引籠(ひきこも)らせたまふ。これによつて、諸大名にも御對面の事、打絶えければ」関係がるかないかは別としてこの文永三(一二六六) 年同じ四月の「吾妻鏡」五日の条には「將軍家有御小瘡」(將軍家、御(おん)小瘡(こがさ)有り)とあり、七日の条では「將軍家御蚊觸之間。可有蛭※之由」(「※」=「口」+「宿」)(將軍家、御蚊觸(かぶれ)の間、蛭※(ひるかひ)有る可し之由:「小瘡」「蚊觸」皮膚疾患の腫れ物で、「蛭※(ひるかひ)」とは、恐らくは吸血性のヒルに患部を嚙ませて、悪液質の化膿部分等を吸い出させる、現行でも行われている療法の古記録の一つである)とある。しかし、この間に北条討伐の慫慂が秘かに良基からなされ、それまた以上に、良基と宰子の爛れた関係は、いや盛んに深まったと推測し得るし、或いは、それを夫親王が秘かに知ってしまい、これまた彼の精神状態を悪化させて引き籠もりに至ったとも読めぬことはない。最悪の事態が何層にも上塗りされてゆく感じがしてくるではないか!
「典藥の輩に尋ね奉れども、又御療治の爲とて參りたる者もなし」ということは彼らが診療すること、どころか、そばに寄ることも拒絶していることを意味している。これはとりもなおさず、謀叛の謀議などよりも、まず第一に、重い対人恐怖や嫌悪・厭人の精神症状が親王を襲っていると考える方が私は自然であると思う。その場合、その主因はやはり、良基と宰子の関係を親王が知ってしまったことにあるのではないか、それこそがこの引き籠もりのではないかと私は深く疑うのである。
「木工頭(もくのかみ)親家」公家藤原親家(生没年未詳)。加賀守藤原親任(ちかとう)の子で、建長四(一二五二)年に第六代将軍宗尊親王の鎌倉行きに随行している。ここに出る通ように朝廷からの密使としても下向、彼はその後の親王京都送還にも従っている。
「仙洞」後嵯峨上皇。
「御諷諫(ごふうかん)」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の「吾妻鏡」巻五十二の文永三(一二六六)年六月五日の注に、『「新抄(外記日記)」に関東將軍御休憩所 日來□□□殿僧正良基露顕』とある。これは意味深長で、判読不能の部分は宰子と松殿僧正良基のスキャンダルの露見とも読める。というより、ここに北条への叛逆の企てを示す文字列を考える方が難しい気さえするのである。
「討て」「うちて」。
「疑殆(ぎたい)」疑い危ぶむこと。
「物の色を立てられしかば」執権北条家も格別の注意を払い、相手や対象をことごとく子細に調べ上げ、厳密な区別のもとに差をつけて処理監察するようになられたので。
「自(おのづから)御所の有樣、人の出入も、故あるやうに目を側(そば)めてぞ見えにける」自然、そのような厳重な危機意識の中で眺めるようになると、自然、将軍家御所のいろいろな、ちょっとした有様や普段と違う点、また、そこに出入りする人やその動きにも、何か隠された企図があるかのように観察されるようにさえなってしまったのである。
「同じき十九日、左京大夫北條時宗、越後守實時、秋田城介(あいだのじやうのすけ)泰盛、竊(ひそか)に相摸守政村の家に會合して、夜更(ふく)るまで額(ひたひ)を合せて密談あり」「吾妻鏡」ではこの密談会合は六月二十日となっている。
「その日、松殿僧正良基は、御所を出でて行方(ゆきかた)なく逐電せらる、」最後の読点はママ。前注通り、この良基逐電も「吾妻鏡」では六月二十日の記事であるので注意。しかしさぁ、密談なのにさ、なんで当の悪の張本である良基に漏れて、目出度く逐電できたんかしらん? 不思議ちゃんやなぁ?
「跡なき事」根拠のない流言飛語。
「釋門」仏門。
「大聖(たいしやう)の遺誡(ゆゐかい)」仏道の悟りを開いた釈迦や菩薩らが後人のために残している戒めの言葉。
「現世福壽」現世に於いて心静かに幸福な生涯を送ること。
「護摩、灌頂」孰れも密教に於いて仏菩薩の位に昇るための密儀としての修法。「護摩修法」は精神の浄化や諸願成就を目的に火を焚き、その中に護摩木を焚いて、芥子や各種の香などの供物を火中に投じ、燃え上がった炎を仏の象徴と成して、息災・増益・調伏・敬愛・鉤召(こうちょう:諸尊・善神・自分の愛する者を召し集めるための修法)という五種の厳格な法式による修法があり、「灌頂」(「かんじょう」と濁ってもよい)は、本邦の密教では、如来の五智を象徴する五瓶(ごびょう)の水を受者に注ぐことにより、密教の法燈(ほうとう)を継承したと認める重要な儀式である。灌頂にも内容・目的・形式などで多くの種類がある。大別すると、在家信者を対象に曼荼羅中の一尊と縁を結ぶ「結縁(けちえん)灌頂」、出家者のための初歩的灌頂としての「受明(じゅみょう)灌頂」、密教の完全な真理を体得して阿闍梨(あじゃり)となることが認められた者にのみ行われる、金剛界・胎蔵界の真理を伝える「伝法(でんぽう)灌頂」の三種がある。この護摩と灌頂はまさに密教独自の法儀であって、仏教の他宗と決定的な区別となる特色と言える。
「實義性空(じつぎしやうくう)の妙理(めうり)に引入(いんにふ)し」増淵勝一氏の現代語訳では、『一切の諸法の本性はむなしい空(くう)であるという真実の妙法に人々を引き入れ』と訳されてある。
「苦(く)にかはりて濟度(さいど)す」衆生を苦界から掬いとってあらゆる苦から洩れなく救いあげる。
「佛の降魔(ごうま)の方便」仏菩薩が天魔を調伏させるための一見、怪力染みた方便。
「菩薩慈悲の殺生」菩薩が大いなる慈悲を体現するために行う、仮の見かけ上の殺生。
「外相(げさう)」外見。
「三衣」「さんえ」或いは「さんね」と読み、僧尼の着る三種の袈裟のこと。僧伽梨(そうぎやり:大衣・九条衣・これを受けること自体が一種の法嗣の証明ともされる正装着)・鬱多羅僧(うつたらそう:上衣・七条衣。普段着)・安陀会(あんだえ:中衣・五条衣。作業着)。
「重欲我慢」欲が限りなく深い上に、甚だ慢心していること。
「提婆(だいば)」提婆達多(だいばだった 前四世紀頃)はインド人で、仏伝によれば、釈尊の従兄とされる。釈尊が青年時代にヤショーダラー姫を妻として迎える際、釈迦と争って敗れ、後に釈尊が悟りを得て仏となった際には釈尊の力を妬んで、阿闍世(あじゃせ)王と結託して釈尊を亡きものにしようと企んだりし、遂には生きながら無間地獄に落ちたとされる仏敵。
「瞿伽梨(くかり)」「くぎゃり」「くがり」とも。先の仏敵提婆達多の弟子とされる。ウィキの「瞿伽梨」によれば、『一説に、釈迦族の出身で、釈迦の実父である浄飯王の命により出家し』、『仏弟子となったが、驕慢心(きょうまんしん、おごりたかぶる心)で我見が強かったために修行が完成せず、後に提婆達多の弟子となったという』。「大智度論」では彼の誤った行動に対して釈尊が叱責を加えたが、遂に悔い改めることがなく、果ては『身体に疱瘡ができて死に、大蓮華地獄に堕したと』し、「涅槃経」でも、『生身のまま地獄に行き、阿鼻地獄に至ったと』されるいわくつきの反釈尊外道。
「學佛法(がくぶつぱふ)の外道(げだう)」頭でっかち故(ゆえ)の正法(しょうぼう)外れの外道法師。人知に驕っている点で外道なのである。
「衆愚の諤々(がくがく)は、一賢の唯々(ゐゝ)に如(しか)ず」有象無象の愚か者たちが集まって、「ああでもない、こうでもない」と喧々諤々と議論することはたった一人の賢人がただ一言、「はい。それこそがその通り。正しいことです。」と言うのにも全く以って及ばない。
「器(き)」器量。力量。
「暗主(あんしゆ)」先見の明のない君子ならざる暗愚の君主。
「態(わざ)」眼も当てられぬ有様。失態。
「思詰(おもひつめ)」決心。覚悟。
「閑談」無駄話すること。
「偏(ひとへ)に逆心(ぎやくしん)の訴人(そにん)となりける」結果として、ただただ、北条家に対し、将軍家の逆心をあからさまに訴え出てしまう「訴人」という道化役となってしまったのであった。]
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