諸國百物語卷之五 十八 大森彦五郎が女ばう死してのち雙六をうちに來たる事
十八 大森彦五郎が女ばう死してのち雙六(すごろく)をうちに來たる事
丹波のかめ山に、大もり彦五郎とて、三百石とる、さぶらひあり。此人の女ばう、かくれなきびじんなりしが、産(さん)のうへにてむなしくなり給ひければ、彦五郎もなげきかなしび給ひけれども、かひなし。この内儀に七さいのときよりつかわれしこしもと女ありしが、この女、ことになげきて、七日のうちにはじがいをせんとする事、十四、五度におよべるを、やうやうなだめをきて、はや三とせをすごしける。一もんより、あひいけんして、彦五郎に又、つまをむかへさせけり。のちの内儀は女なれども、よくみちをわきまへたる人にて、はじめの内儀をよびいだし、ぢぶつどうにてまいにちゑかうせられければ、はじめの内儀も、くさばのかげにては、よろこび給ふと也。はじめの内儀ぞんじやうのとき、かのこしもとと、つねづね、すご六をすきてうたれしが、あひはてられても、そのしうしんのこりけるにや、よなよな、きたりて、こしもとゝすご六をうつ事、三ねんにおよべり。あるとき、こしもと、申しけるは、
「よなよな、あそびに御座候ふ事、すでに三ねんにおよべり。われ、七さいのときより、ふびんをくわへさせ給ふて、かやうにせいじんいたし候へば、いつまで御奉公をいたし候ひても、御をんはほうぢがたく候へども、今は又、かはりの女らうも候へば、もしもかやうに、夜な夜な、御出で候ふ事、しれ申し候はゞ、ねたみにきたり給ふかとおもひ給ふべし。今よりのちはもはやきたり給ふな」
と申ければ、
「まことにそのはうが申すごとく、此すご六にしうしんをのこしたるとは人も、いふまじ。今よりのちは、まいるまじ」
とて、かへられけるが、そのゝち彦五郎ふうふの人に、こしもと女、物がたりしければ、
「さては、さやうにありつるか」
とて、すご六ばんをこしらへ、かの内儀の墓のまへにそなへて、ねんごろにとぶらひ給ひけると也。
[やぶちゃん注:本話柄は、邪悪な悪心を持った者が一人として登場しない非常に清澄にして透明なる美しい怪談で、コーダ近くに相応しい。
「大森彦五郎」不詳。
「雙六(すごろく)」これは盤双六で、古くエジプト或いはインドに起こったとされ、中国から奈良時代以前に本邦へ伝わった室内遊戯。盤上に白黒一五個ずつの駒を置き、筒から振り出した二つの骰子(さいころ)の目の数によって駒を進め、早く敵陣に入った方を勝ちとする。中古以来、成人男子の賭博(とばく)として行われることが多くなり江戸末期まで続いた。発音は「双六」の古い字音に基づく「すぐろく」の転訛したものである。
「丹波のかめ山」現在の京都府亀岡市荒塚町周辺(旧丹波国桑田郡亀岡)にあった亀山城。丹波亀山藩藩庁。
「産(さん)のうへにて」子は残されていないから、異常出産で母子ともに亡くなったものと思われる。
「じがい」「自害」。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『殉死。当時、恩義ある人、義理ある人の死に際して殉死の風習があったため、これに対する、つよい禁制が出されていた』とあるが、ウィキの「殉死」によれば、『主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや、または、その場にいなかった場合、追い腹をすることは自然の情及び武士の倫理として、早くから行われていた。中世以降の武家社会においては妻子や家臣、従者などが主君の死を追うことが美徳とされた。主君が病死等自然死の場合に追い腹を切る習慣は、戦国時代になかったが、江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより、自然死の場合でも近習等ごく身近な家臣が追い腹をするようになった。ところが、カブキ者が流行り、追い腹を忠臣の証と考える風習ができ、世間から讃えられると一層真似をする者が増えた。遂には近習、特に主君の寵童(男色相手を務める者のうち、特に主君の寵愛の深い者)出身者、重臣で殉死を願わないものは不忠者、臆病者とまで言われるようになった』。第四代将軍徳川家綱から第五代綱吉の『治世期に、幕政が武断政治から文治政治、すなわちカブキ者的武士から儒教要素の入った武士道(士道)へと移行』し、寛文三(一六六三)年の武家諸法度寛文令の改訂『公布とともに殉死の禁が口頭伝達され』、寛文八(一六六八)年に起った宇都宮藩での「追腹一件(おいばらいっけん:同年二月十九日に藩主奥平忠昌が江戸汐留の藩邸で病死したが、忠昌の世子長男奥平昌能は忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対して「未だ生きているのか」と詰問、杉浦が直ちに切腹した事件)では『禁に反したという理由で宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受けている』。この後、延宝八(一六八〇)年に『堀田正信が家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている』。天和三(一六八三)年の武家諸法度天和令に於いて、『末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされた』とある。「諸國百物語」は第四代将軍徳川家綱の治世、延宝五(一六七七)年四月に刊行されたものであはあるが、ここまでの話柄の時制は、それよりも遙かに前であるものの方が圧倒的に多かった。従って本件が家光以前であれば、必ずしも高田氏のそれは有効な注とは言えない。
「一もん」「一門」。大森一門。大森氏の主家。
「あひいけんして」「相ひ意見して」。後妻を迎えて世子を設け、家系を存続させることが侍としての本義であるといった説得をして。
「はじめの内儀をよびいだし、ぢぶつどうにてまいにちゑかうせられければ」「初めの内儀を呼び出だし、持佛堂にて每日囘向せられければ」。後妻となった女性は、なんと、亡き先妻のためにわざわざ持仏堂を設け申し上げ、そこに先妻の御位牌をお迎え申して捧げ奉り、そこでまた、毎日、欠かさずに回向をなさったので。
「くさばのかげ」「草葉の蔭」。
「ぞんじやう」「存生」。
「そのしうしんのこりけるにや」「その執心、殘りけるにや」。その双六にて遊ぶことへ、強い執心が残っていたものか。ゲーム・アプリにうつつを抜かして致死事故を起こす現代人には、これを以って笑う権利など、ない。
よなよな、きたりて、こしもとゝすご六をうつ事、三ねんにおよべり。あるとき、こしもと、申しけるは、
「ふびんをくわへさせ給ふて」「不憫を加へさせ給ひて」。お可愛がり下さいまして。
「かやうにせいじんいたし候へば」「斯樣に成人致し候へば」。
「御をんはほうぢがたく」「御恩報じ難く」。
「かはりの女らう」「代はりの女﨟」。二代目の高貴なる女主人。後妻である現在の内儀を指す。
「しれ申し候はゞ」家内や近隣に者どもに知れてしまわれ遊ばされては。
「ねたみにきたり給ふかとおもひ給ふべし」彼らは皆、貴女さま(先妻)が後妻に対して妬みを以ってその執心から化けて出て来られているにではなかろうか、と思うに違い御座いませぬ。それでは貴女さまにとっても、また、心から貴女さまを追善なさっておられる今のご内儀さまにとっても、心外で無用な心配を引き起こすこととなるのでは御座いますまいか? といったこの腰元の誠意溢るるニュアンスであることをおさえておかねばなるまい。
「彦五郎ふうふの人に」彦三郎夫婦二人に対して。]