譚海 卷之二 越中風俗の事
越中風俗の事
○飛驒と越中の界(さかひ)の山に風穴(かざあな)といふあり、廣さ七間ほどの穴なり。石を穴中に投(なぐ)れば風ふく、石の大小によりて風の吹(ふく)事も然り。風吹出(ふきいづ)れば日々やまず國中にみちてあるゝゆへ、姦奸(かんかん)の徒(と)米價の利を競ひ、秋禾(あきのみのり)の最中ひそかに彼(かの)山へ行(ゆき)石をなげ風をふかせ、收穫の妨(さまたげ)をなせし故、領主より秋禾の時に及べは吏卒を發し、おびたゞしく山下をかため守る事に成(なり)たり。それゆへ米價の低昂(ひくたか)をなす姦事(よこしま)止(やみ)たりとぞ。又同國繩池(なはがいけ)と云(いふ)は竪橫一里に一里半程の湖水也。此池へ誤(あやまり)て鐡氣(かなけ)のものをおとす時は、淫雨(いんう)日をわたりて晴(はる)る事なし。それゆへ此(この)落したる鐡(かね)を入水(じゆすゐ)してひろへあぐる人、代々其(その)家ありてつとむる事也。此も姦利(かんり)米價の高下(かうげ)を操るたよりとなせしかば、今は池の四邊へ柵(さく)もがりをゆひ、番小屋をすへ防禁(ばうきん)嚴重の事に成(なり)たり。先年此池のほとりへ姦利をなせしものを梟せられし事も有(あり)しとぞ。此(この)風穴有(ある)山は越中池浪(いなみ)といふ所也。北陸道今(いま)ゆするぎより南へ入(いる)事五里に有(あり)。今(いま)石動(ゆするぎ)はくりからおとしの地をさる事(こと)二里也。池浪は往古上宮太子の乘(のり)玉ひし駒(こま)ひづめをもちて地をほりしかば、泉の出けるより名とせり。隨泉寺といふ伽藍の地也。頽廢の後(のち)本願寺宗の敬如上人再興有(あり)て、今は東本願寺に屬する寺となる。東本願寺建立最初根本の寺なり。又繩池(なはがいけ)は池浪をさる事二里西に有(あり)、繩池の二里西に瑪瑙山(めなうやま)あり、一山みな然り、人至る事を禁ず。此山のふもと左の京と云(いふ)所、日本にて往古より人參(にんじん)を出(いだ)す地也。今の國主にいたり採(とる)事をゆるされず、是より五箇の庄までは黃蓮(わうれん)の生ずる山也とぞ。
[やぶちゃん注:「池浪(いなみ)」と「石動(ゆするぎ)」は珍しく原本のルビ。
「飛驒と越中の界(さかひ)の山に風穴(かざあな)といふあり」これは現行でも現存し、祭祀が行われている。一見でビジュアルに分かり易いのは、富山県「南砺市」(なんとし)公式サイト内の「風よ鎮まれ!風神堂祭典」、ここに纏わる伝承を読むなら、「南砺市郷土Wiki」の「八乙女山の風穴とにわとり塚」(三枚画像)がよい。より学術的なものとしては、こちら(井波町文化財資料)の解説(PDF)、或いは大浦瑞代氏の詳細な論文「富山県南砺地域の不吹堂(ふかんどう)祭祀にみる局地風の認知」(PDF)が最適である。後者では物理学的な検証による現象解明の他にも、「風穴の伝承」という章で、諸記載を精査した資料が載るので必見である(但し、本「譚海」の記事は何故か採られていない)。当初、私は「風穴」を「ふうけつ」と読んでいたが、「南砺市文化芸術アーカイブズ」の「八乙女山鶏塚と風穴」(ここでは「やおとめやまとりづかとかざあな」と読んでいる)によって、「かざあな」に変えた。
「七間」十二メートル七十三センチ弱。
「姦奸(かんかん)の徒(と)」邪(よこし)まな企みを持った輩(やから)。
「米價の利を競ひ」米の値段を釣り上げて利を競って儲けんと。
「秋禾(あきのみのり)」私の推定和訓。音の「しうくわ(しゅうか)」では硬くて厭である。
「及べは」ママ。
「低昂(ひくたか)」私の推定和訓。
「姦事(よこしま)」同前。二字でそう訓ずることとした。
「繩池(なはがいけ)」現在の南砺市の「つくばね森林公園」(旧・城端町蓑谷)にある「繩が池」サイト「いこまいけ南砺」の「縄ヶ池」によれば、標高千百四十五メートルの高清水山の山腹を流れる川が山崩れを起こし、それで出来た堰止湖である。広さは四千九百六十平方メートル、湖面標高は八百メートル、池の最深部は約十メートル、池の周囲は約二キロメートルあり、古来、竜神が住と伝えられる。同池の『南側には湿原が広がり、ミズバショウの群生地となってい』るが、本邦に於いて標高千メートル以下の高度での『大群生としては南西限とされてい』おり、『「縄ヶ池みずばしょう群生地」として富山県天然記念物に指定されてい』る、とある。雪解け後の五月上旬から下旬にかけて花が咲くとあるが、私も一度、高校一年の時、生物部で五月に日帰りで行った覚えがあるが、残念ながら、水芭蕉は咲いていなかった。
「淫雨」長く降り続く雨。長雨。
「もがり」「虎落」と書くが、これは当て字で、中国で粗い割り竹を組んで作った垣を指す「虎落」の用字を転用したに過ぎず、「もがり」の語源は未詳である。竹を筋違いに組み合わせ、繩で結び固めた柵 や垣根を言う
「ゆひ」「結ひ」。
「すへ」「据え」。歴史的仮名遣は誤り。
「防禁(ばうきん)嚴重の事」藩(加賀藩・越中国は大半が前田領であった)が池への侵入や物の投げ入れを厳重に禁じたこととしたことを指す。
「梟せられし事も有しとぞ」底本では「梟」の下にポイント落ちで『(首)』と補訂されてある。
「越中池浪(いなみ)」現在の南砺市井波(いなみ)。
「ゆするぎ」「石動(ゆするぎ)」現在の富山県小矢部(おやべ)市石動町(いするぎちょう)。
「五里」二十キロメートル弱。
「くりからおとしの地」「倶利伽羅落し」で知られる地。越中と加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠。現在の富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町の境にある。「倶利伽羅落し」は寿永二年五月十一日(ユリウス暦一一八三年六月二日)にここで行われた源義仲軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦で義仲が案じたとされる奇計戦略に基づく。ウィキの「倶利伽羅峠の戦い」によれば、「源平盛衰記」には、『この攻撃で義仲軍が数百頭の牛の角に松明をくくりつけて』谷に陣を張っていた『敵中に向け放つという、源平合戦の中でも有名な一場面がある。しかしこの戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られる。眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからである。そもそもこのくだりは、中国戦国時代の斉国の武将・田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられている。この元祖「火牛の計」は、角には剣を、尾には松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものであ』った、とある。
「二里」八キロメートル弱。
「往古」「むかし」と訓じたいが、本文では禁欲した。
「上宮太子」聖徳太子の異称。底本の竹内氏の注に『甲斐の黒駒で、聖徳太子がこれに乗って雲中を飛行した話は名高い』とある。貴種にありがちな、あり得ない伝承の一つ。私はこの手の話が大嫌いである。
「隨泉寺」ママ。戦国時代に越中一向一揆の拠点とされた、現在の南砺市井波にある、浄土真宗の真宗大谷派井波別院杉谷山(すぎたにさん)瑞泉寺のこと。
「本願寺宗」現在の京都府京都市下京区烏丸七条にある東本願寺の真宗大谷派のこと。
「敬如上人」恐らく、本願寺教団の東西分裂の当事者の一人であった真宗大谷派本願寺第十二世教如(きょうにょ 永禄元(一五五八)年~慶長一九(一六一四)年)の誤り。瑞泉寺は慶安二(一六四九)年に、この教如を十二代法主とする本願寺教団に転派している。
「瑪瑙山」不詳。繩ヶ池から西二里となると、この中央附近(グーグル・マップ・データ)ではある。但し、この附近から発する小矢部川や庄川河岸では、現在でも流れ来った瑪瑙や水晶が採取されるらしい。
「左の京」不詳。この地名の位置が判れば、「瑪瑙山」も比定出来る。識者の御教授を乞うものである。
「人參(にんじん)」朝鮮人参(セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジン Panax ginseng)か(我々に馴染みの野菜の「ニンジン」(セリ目セリ科ニンジン属ニンジン(ノラニンジン)亜種ニンジン Daucus carota subsp. sativus)は科レベルで異なる本種とは全くの別種である)。ウィキの「オタネニンジン」によれば、『原産地は中国の遼東から朝鮮半島にかけての地域といわれ、 中国東北部やロシア沿海州にかけて自生する』が、本邦には植生しなかった。しかし、『八代将軍徳川吉宗が対馬藩に命じて朝鮮半島で種と苗を入手させ、試植と栽培・結実の後で各地の大名に「御種」を分け与えて栽培を奨励し』(それが別名の「朝鮮人参」の名の由来)、『日本では福島県会津地方、長野県東信地方、島根県松江市大根島(旧八束町)の由志園などが産地として知られ』、栽培では、『およそ四年ほどの月日を掛けた上で収穫される』とある。
「今の國主」「譚海」は自序が寛政七(一七九五)年であり、当時の加賀藩は第十代藩主前田治脩(はるなが 延享二(一七四五)年~文化七(一八一〇)年)である。
「五箇の庄」既出既注。富山県の南西端にある南砺市の旧平(たいら)村・旧上平(かみたいら)村・旧利賀(とが)村を合わせた五箇山(ごかやま)地域を指す。
「黃蓮」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科オウレン属オウレン Coptis japonica。ウィキの「オウレン」によれば、『根茎を乾燥させたものは黄連(オウレン)という生薬であり、体のほてり(熱)を抑える性質が有るとされ、胃や腸を健やかに整えたり、腹痛や腹下りを止めたり、心のイライラを鎮めたりする働きが』あり、『この生薬には抗菌作用、抗炎症作用等があるベルベリン(berberine)というアルカロイドが含まれている』ことが判っている、とある。]
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