谷の響 三の卷 十八 落馬の地
十八 落馬の地
北浮田村より鯵ケ澤に通れる路に、砂坂といふ地(ところ)あり。此處にて落馬する時は必ず死に至れりと、往古(むかし)よりの言傳へなり。嘉永の初めにて有けん、御藏町の與惣といふものゝ嗣子(せがれ)、この土(ところ)にて馬より墮ちてさして骨の痛むにもあらざれば苦しむ由もなけれど、何となく病みつきて十日許りにして死せるとなり。かゝる類(たぐひ)のもの、十年には一二度ありと言へり。かゝる祟(たゝり)のある土(ところ)は、兩濱の街道の中に二三ケ所あるよしなれど、未だその實を得ず。
[やぶちゃん注:「北浮田村」底本の森山泰太郎氏の補註に『西津軽郡鯵ケ沢町北浮田(きたうきた)』とある。現在は西津軽郡鯵ケ沢町(まち)北浮田町(まち)である。ここ(グーグル・マップ・データ)で鰺ヶ沢の北東部に当たる。
「砂坂」不詳。
「嘉永の初め」嘉永は一八四八年から一八五四年まで.
「御藏町」複数回既出既注。現在の青森県弘前市浜の町のことと思われる。ここ(goo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。
「與惣」地名人名では「よそ」と読むケースが多いようであるが、正しく読む「よそう」でもおかしくはない。
「兩濱の街道」「兩濱」(りようはま(りょうはま)とは、当時の弘前藩の「青森と鰺ヶ沢を中心とする流通統制機構」の呼称であるが、ここはその物資運搬の主幹道路となった両地を末端とする街道を指す。
「未だその實を得ず」未だにそうした不吉なスポットであるという事実や、事実ならばその真相・原因は何かということは全く分かっていない、という謂いであろう。実証主義に徹することを旨とした平尾としては、そうした謂われなき魔地というのは、信ずるにやや抵抗があったのかも知れぬ。]

