諸國百物語卷之五 九 吉田宗貞の家に怪異ある事付タリ歌のきどく
九 吉田宗貞(よしだそうてい)の家に怪異(けち)ある事付タリ歌のきどく
ゑちごの國村上に、吉田宗貞とて、うとくなる町人ありける。この家に、にわかにふしぎなる事出できたり。まづ初日に藏(くら)のいぬゐのすみより、うつくしき兒(ちご)、四、五人いでゝ、聞きなれぬこうたを、しばらく、うたいて、きへたり。つぎの日は、くれがたに、きりやうよきさぶらひ一人と六人と、あいてになり、刀をぬき、たゝかいて、雙方ともに、うちじにしけり、たちよりみれば、みな、灰になりたり。三日めには二八ばかりなる女らう、うすぎぬにかぶりをちやくし、はなやかに出でたち、扇をひろげて、今やうをまい、けすがごとくに、うせにけり。宗貞、おどろき、貴僧高僧をたのみ、さまざまいのりきとうしければ、そのきどくにや、四日、五日、六日までは、なに事もなく、七日めには、座敷の爐(ろ)のうちに火をおこして有りしが、その火のなかにあま蛙一ひき、ゐける。みなみな、おどろき、とりてすてければ、あとより、一ひきづゝ出でて、やむ事なし。宗貞、きのどくにおもひ、さる禪僧のたつとき有りけるをよびてたのみければ、禪僧、見て、爐のうちにむかつて、歌を一しゆ、よまれける。
をきなかにこがれて物のみへけるはあまのつりしてかへるなるらん
と、よみ給へば、かの蛙も、うせにける。そのゝちは、なに事もなかりしと也。まことに和歌のきどく也。
[やぶちゃん注:「吉田宗貞」不詳。町人であるのにフル・ネーム(通称ではなく、姓名、しかも諱か、本文に出る狂歌から関連連想される雅号のようなもの)で出るのは特異点と言える。それにしてもこの男、多様な修験者や密教僧などを招いて調伏の祈禱をし、更には禅宗の高僧まで招けるというのは、相当な名主級の豪家と考えねばなるまい。所謂、町人でも名字帯刀が許されたような、土地の武士団の豪族の血を引くか、その民間協力者の血筋と考えられる。
「ゑちごの國村上」現在の新潟県最北部、日本海に面した村上市。
「うとく」「有德」。裕福。
「いぬゐ」「戌亥・乾」。北西。
「こうた」「小歌」或いは「小唄」。辞書的には、①平安時代に公的な儀式歌謡の「大歌(おおうた)」に対し、民間で流行した歌謡。或いは、五節の舞の伴奏歌曲である男声の大歌に対し、その前の行事で女官が歌った小歌曲を指す。②室町時代に民間に行われた手拍子や一節切(ひとよぎり:尺八の一種。長さ約三十四センチ、太さ直径約三センチの竹製の縦笛で節が一つある。室町中期に中国から伝来して桃山から江戸初期にかけて流行したが、幕末に衰滅した)を伴奏とする短い歌謡。③江戸時代に地歌などの芸術的歌曲に対し、前の②の流れを引いた巷間で流行した短い歌謡の総称。④能や狂言の中で室町時代の俗謡を取り入れた部分を指すが、③の流行は江戸後期末期であるから外れ、本書の書かれた時代と、歌っているのが子どもというところからは④が外れて②が、しかし「聞きなれぬ」となると寧ろ古い俗謡である①が、却って怪談としてはしっくりくるか。あとの「今様」と並んで映像的には曲選択が難しいところ。後の「今様」同様、個人的には古いほどホラー効果は絶大となる。
「きへたり」「消えたり」。歴史的仮名遣は誤り。
「きりやうよき」「器量良き」。恰好の美麗なる。
「たゝかいて」「戰ひて」。歴史的仮名遣は誤り。
「うちじに」「討死」。このエピソード、私は小泉八雲の「茶碗の中」を思わず想起した。
「二八」十六歳。
「女らう」「女﨟」。高貴な婦人。
「うすぎぬにかぶりをちやくし」「薄絹に被りを着し」。「かぶり」は顔を隠すための頭部への被り物。
「今やう」「今樣」。平安中期に起こり、鎌倉時代にかけて流行した新しい歌謡。短歌形式のものや、七・五の十二音句四句からなるものなどがあり、特に後者が代表的である。白拍子・傀儡女(くぐつめ)・遊女などにより歌われたもので、貴族の間にも流行した。後白河法皇の手で「梁塵秘抄」に集成されたことで知られる。ここの時代背景設定が書かれたのと同じ江戸前期であるならば、単に「世間の当時の流行歌」の意である。しかしここも変化(へんげ)の物の怪の歌うものなら、かえって前掲の古い正式な古「今様」の方がホラーとなる。
「さまざまいのりきとうしければ」「樣々祈り祈禱しければ」。
「きどく」「奇特」。
「あま蛙」「雨蛙」。
「とりてすてければ」「取りて捨てければ」。火中から飛び出る雨蛙とは如何にも怪しいものであるあるから、ただちに取って捨てたところが。
「きのどくにおもひ」「氣の毒に思ひ」。ひどく気味が悪くなって。
「たつとき」「尊き」。
「よびてたのみければ」「呼びて(調伏を)賴みければ」。
「をきなかにこがれて物のみへけるはあまのつりしてかへるなるらん」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には、『歌意は、赤い炭火の中に焼けたものが見えるけれども、雨に引かれ帰ることであろう。「わだつみの沖にこがるる物見れば蜑(あま)の釣りして帰るなりけり」(『枕草子』)という著名な歌を踏み、「おき」は、「沖」と「燠」、「こがれて」は「焦がれて」と「「漕がれて」、「あま」は「蜑」(漁夫)と「雨」、「つり」は吊り」と「釣り」、「かへる」は「蛙」と「帰る」など、五つの掛詞を用いた、頓智即興のおもしろさがある』とある。言わずもがなであるが、表の意味は「海上を遠く漕いでいるものがあるのでふと見てみたら、それは、ああ、漁師が釣を終えて帰るところであったことよ」で〈蜑の釣舟帰帆の沖景〉なのであるが、それに〈飛んで火に入る雨蛙〉の意が美事に掛けたものなのである。
「枕草子」の記載は以下。
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村上の先帝(せんだい)の御時に、雪のいみじう降りたりけるを、樣器(やうき)に盛らせ給ひて、梅(むめ)の花をさして、
月のいと明(あか)きに、「これに歌よめ。いかが言ふべき。」と、兵衞の藏人(くらうど)に賜はせたりければ、「雪(せつ)・月(げつ)・花(くわ)の時」と奏したりけるをこそ、いみじうめでさせ給ひけれ。「歌などよむは世の常なり。かく、折に合ひたることなむ、言ひがたき。」とぞ仰せられける。
同じ人を御供にて、殿上(てんじやう)に人候(さぶら)はざりけるほど、たたずませ給ひけるに、火櫃(ひびつ)にけぶりの立ちければ、「かれは何ぞと見よ。」と仰せられければ、見て歸り參りて、
わたつ海(うみ)のおきにこがるる物見ればあまの釣(つり)してかへるなりけり
と奏しけるこそ、をかしけれ。蛙(かへる)の飛び入りて燒くるなりけり。
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「樣器」は白い釉薬を加えた陶器の皿。「兵衞の藏人」伝未詳。注意しなければならぬが、これは女性である。「雪・月・花の時」は「和漢朗詠集」の「卷下 交友」「琴詩酒友皆抛我。雪月花時最憶君」(琴詩(きんし) 酒(しゆ)の友 皆 我を抛(なげう)つ。雪月花(せつぐゑつくわ)の時は最も君を憶(おも)ふ)の内容を暗示として応答としたもの。これは村上帝が想起するはずのこの詩句の最後の「憶君」に、「兵衞の藏人」は帝への忠誠の意を掛けているのである。「火櫃」長方形をした角火鉢。
なお、この一首は実は「兵衞の藏人」の詠んだオリジナルではない。「古今集」時代の歌人である藤原輔相(すけみ)の家集「藤六集」に「かへるのおきにいでゝ」という詞書で載るものであり(これ昭和初期に山岸徳平氏が初めて指摘したもので、それまでは「兵衞の藏人」の詠じたものと理解されていたらしい)、ここも前の「和漢朗詠集」からの借言と同じ機智であり、清少納言もその共通性からこの聞き書きをカップリングしたものであろう。
怪異の方は意味が分からない故にすこぶる面白い(そこが怪異のキモである!)のに、結末がちっとも全然、私には面白くない。これは、私が大の和歌嫌いだからであろう。]