谷の響 三の卷 十二 ネケウ
十二 ネケウ
湯口村の山中モツの澤といへる地に、ネケウと言ふ蔓草(つるもの)一株ありき。こも亦いと大きくして周匝(まはり)合抱(ひとかゝへ)にあまり、長さ三十間におよべり。このネケウ岸腹(きし)に生じ、地を這ふこと六七間にして初ておこり、檜樹(ひのき)の巨木にかゝりうねり曲りて架(はし)をなすこと五六間、復地上にひき降りて岩戸をまとひ溪流(たに)を渡り、あるは屈伏(かゝまり)或(ある)はのびて八九間走り、初て枝條(えた)を生ぜるがその長きもの五六間、枝葉ともにいやしげりて地を拂ひ天をしのぎ、勢あたかも大龍のわたかまれる如く、溪澗(たに)またこれがために一箇(ひとつ)の見處を增しぬ。實に珍らしきものといふべし。
[やぶちゃん注:「ネケウ」「蔓草」検索をかけているうちに、貴重な資料を発見! まさに底本編者森山泰太郎氏の解説になる本「谷の響」の作者平尾魯仙筆になる「暗門山水観図」(西目屋村の奧にある暗門の滝を写生に出かけた際の紀行絵図)を門弟の一人であった山形岳泉が模写したものだ(PDF)! その最初の「田代村渡場の図」の渡しを舟で渡る一行、その渡しに掛けられていて、それを引きながら渡る図があるが、そのキャプションには『左白厳の頂上に枯木一樹ありて最美観也。舟は丸太を堀し物也。綱はネケウと云う蔓なり』とあって、その森山氏の解説に『ニキョウ』とある。調べてみると、これはツバキ目マタタビ科マタタビ属サルナシ(猿梨)Actinidia
arguta の北東北と道南での地方呼称であることが判明! 本種の蔓は非常に丈夫で腐りにくいことから、かの「祖谷のかずら橋」にも用いられている。語源までは判らなかったが、この後の本文を読み、この絵図や十九の時に見に行こうとして台風で辿りつけなかった祖谷の「かずら橋」の写真を見ているうちに……これは……或いは……二つの場所を橋渡しする「二橋(にけう(にきょう))」ではあるまいか?! 大方の御叱正を俟つ。
「湯口村」底本の森山氏の補註に『相馬村湯口(ゆぐち)。藩政時代以前からの古村である』とある。現在は弘前市大字湯口。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「モツの澤」不詳。
「三十間」五十四・五四メートル。
「岸腹(きし)」二字へのルビ。
「六七間」十一メートルから十二・八メートル弱ほど。
「五六間」九メートル~十一メートル。
「復」「また」。
「屈伏(かゝまり)」「かがまり」。
「八九間」十四・六~十六・四メートルほど。
「枝條(えた)」ママ。「枝」。
「勢」「いきほひ」。
「わたかまれる」「蟠(わだかま)れる」。]
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