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2016/11/09

佐野花子「芥川龍之介の思い出」 附やぶちゃん注 (六)~その3

 宇野浩二も述べています「これらの、『かなしきひと』『ひとりあるべき人』『汝』『ひとり寝ぬべき君』――などと読まれているのは、いづこいかなる『人』であるか、それは現実の人か、はた、空想(あるひは夢)の人か」と。

[やぶちゃん注:何度も挙げている宇野浩二の「芥川龍之介」(昭和三〇(一九五五)年十月文芸春秋新社刊)の「十一」のここである。原文は『ところで、抑(そも)、これらの「かなしきひと」、「ひとりあるべき人」、「汝」、「ひとり寝ぬべき君」、などと読(よ)まれているのは、いずこいかなる『人』であるか、それは、現実の人か、はた、空想(あるいは夢)の人か』。以下の引用も総て、残念ながら、花子のオリジナル引用ではなく、宇野のものと全く同じである。]

 

 雨にぬれたる草紅葉

 侘しき野路をわが行けば

 片山かげにただふたり

 住まむ藁家ぞ眼に見ゆる

 われら老いなばもろともに

 穂麦もさはに刈り干さむ

 

 夢むは

 穂麦刈り干す老ふたり

 明るき雨もすぎ行けば

 虹もまうへにかかれかし

 

 夢むはとほき野のはてに

 穂麦刈り干す老ふたり

[やぶちゃん字注:「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」ではここが二行空きとなっているが、花子は続けてしまっている。宇野は一行空けている。

 明るき雨のすぎゆかば

 虹もまうへにかか{らじや

         {れとか(消)

         {れとぞ(消)

[やぶちゃん字注:「{」は底本では大きな括弧一つ。「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」ではここが一行空きとなっているが、花子は続けてしまっている。宇野は正しく空けている。

 ひとり胡桃を剝き居れば

 雪は幽かにつもるなり

 ともに胡桃は剝かずとも

 ひとりあるべき人ならば

    註(見よ我等はここにまた「或る雪

    の夜」に接続すべき一端緒を発見せ

    り。宛然八幡の藪知らずなり。)

 

また、

 

 雨はけむれる午さがり

 実梅の落つる音きけば

 ひとを忘れむすべをなみ

 老を待たむと思ひしか

 

 ひとを忘れむすべもがな

 ある日は古き書のなか

 月(香と書きて消しあるも月にては調子の上にて何とよむべきか不明。)

 月      も消ゆる

 白薔薇の

[やぶちゃん注:「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」ではここが一行空きとなっているが、花子は続けてしまっている。宇野は正しく空けている。それ以上にここには問題がある。ここで実は花子は引用を誤っているのである「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」では、「月」の右に佐藤による『(ママ)』注記があり、それ以下の【 】内は括弧なしの二行割注で、花子の四行目の「月      も消ゆる」は存在せず、「も消ゆる」は「月」【割注】の下に繋がっているのである。なお、宇野のそれは正しくそれを再現(二行割注も)してある。以下、割注を同ポイントで示す。

 

 ひとを忘れむすべもがな

 ある日は古き書のなか

 月【香と書きて消しあるも月にては調子の上にて何とよむべきか不明】も消ゆる

 白薔薇の

 老いを待たむと思ひしが

 

則ち、この詩篇は佐藤の割注から推定するなら、元は(抹消線を使用する)、

 

 ひとを忘れむすべもがな

 ある日は古き書のなか

 月も消ゆる

 白薔薇の

 老いを待たむと思ひしが

 

或いは、

 

 ひとを忘れむすべもがな

 ある日は古き書のなか

 月も消ゆる

 白薔薇の

 老いを待たむと思ひしが

 

であるということを指示しているのである。]

 

 ひとを忘れむすべもがな

 ある日は秋の山峡に

   ………中絶して「夫妻敵」と人物の書

   き出しありて、王と宦者との対話的断

   片を記しあり………

[やぶちゃん注:この「対話的」は宇野浩二及び佐野花子《両者》の誤りで、原典は「戲曲的」である。ここに至って、《完全に花子が宇野の引用を無批判に孫引きしている》事実が遂に《完全に明らかになってしまった》。「宦者」は「かんじゃ」で宦官(かんがん)のこと。]

 忘れはてなむすべもがな

 ある日は□□□□□

 

 牧の小川も草花も

 夕べとなれば煙るなり

 われらが恋も□□□□

 

 夕なれば家々も

 畑なか路も煙るなり

 今は忘れぬ□□□□□

 老さり来れば消ゆるらむ

[やぶちゃん注:一行目は《佐野花子による宇野浩二の引用の転写ミス》である。「夕なれば家々も」ではなく、「夕となれば家々も」である。宇野は正しく、そう引用している。さらに一方では、最終行「老さり来れば消ゆるらむ」で、今度は《宇野の転写ミスを花子が踏襲してしまうミス》を花子は犯している。原典は「老さりくれば消ゆるらむ」である。花子は全く原典を見ていないことがバレてしまっている。ここまでくると、最早、はなはだ哀しくなってくるばかりである。]

    註 別にただ一行「今は忘れぬひと

      の眼も」と記入しあるも「ひと

      の眼も」のみは抹殺せり。

      かくて老の到るを待って熱情の

      自らなる消解を待たんとの詩想

      は遂にその完全なる形態を賦与

      されずして終りぬ。この詩成ら

      ざるは惜しむべし。

      然も甚だしく惜むに足らざるに

      似たり。最も惜むべきは彼がこ

      の詩想を実現せずしてその一命

      を壮年にして自ら失へるの一事

      なりとす。

[やぶちゃん字注:原典に「註」はなく、「別にただ一行」で改行、「今は忘れぬひとの眼も」で改行している。宇野浩二は《花子が記す通りに、繋げてしまっている》。やはり《宇野のそれを無批判にただ孫引きした結果の齟齬》である。

と宇野は述べているのです。これを読んでいる私の胸中には亦、誰知ることのない鼓動が高鳴って来るのでございました。「夫妻敵」とか「今は忘れぬひとの眼も」などの、胸にどきりと来ることばが、或いはと早鐘を鳴らすからでございます。

[やぶちゃん注:「宇野」はママ。ここは「佐藤」でなくてはおかしい

《こういう大きなミスをしでかしたのは、まさに全く原典を一切見ずに、宇野の「芥川龍之介」から孫引きしてきたから》

であり、

《全面的無批判孫引きがバレバレとなってしまう致命的なウッカリ・ミスの瞬間》

なのである。微苦笑どころの騒ぎではない。

《こうしてチマチマと一字一句を原典と校合し、宇野浩二の「芥川龍之介」とも比較している私が、これ、御目出度い阿呆》

に見え、流石に、

《花子を出来得る限り、弁護しようとしている私でも、多少、腹が立ってくる気がする》

場面ではある。]

 そうして今までの慕情は、もはや、人を憎み、人を殺す情念へと移って行く詩になるのでございます。

 

 ひとをころせばなほあかぬ

 ねたみごころもいまぞしる

 垣にからめる薔薇の実も

 いくつむしりてすてにけむ

[やぶちゃん注:原典はここが一行空きとなっているが、花子は続けてしまっている。宇野は正しく空けている。更に花子は転写ミスを犯している。一行目は原典は「ひとをころせどなほあかぬ」である(宇野は正しく引用している)。実は個人的にはこの花子の誤記に対してフロイト的な「言い間違い」の精神分析を仕掛けたくなる強い願望を私は持っているが、ここはそれをやっていると、何時までも注が終わらなくなるので、グッとこらえることとしよう。]

 ひとを殺せどなほあかぬ

 ねたみ心に堪ふる日は

[やぶちゃん注:続いて花子痛恨の転写ミスである。ここは前の詩篇の最後の二行と殆んど相同の二行(「すて」が「捨て」と漢字表記となる以外は相同)が頭に入る、別詩篇なのである。即ち、

 

 垣にからめる薔薇の實も

 いくつむしりて捨てにけむ

 ひとを殺せどなほあかぬ

 ねたみ心に堪ふる日は

 

が原典のそれで、宇野も正しくそう引いているのである。]

 

 同じ心を歌って「悪念」と題して次の詩があります。

 

 松葉牡丹をむしりつつ

 人殺さむと思ひけり

 光まばゆき昼なれど

 女ゆゑにはすべもなや

 

[やぶちゃん注:原典では前の詩篇と後の詩篇の間のここに「*」が入る。]

 

 夜ごとに君と眠るべき

 男あらずばなぐさまむ

 

 ここで私は亦、胸を騒がせます。こうも憎んでいるのは、私の夫のことではないのかと。「夫妻敵」と言い、「佐野さん」の、かの文章と言い、あまりにも芥川は女に付き添う男を憎む詩を歌い、そして事実、本名を出して「佐野さん」なる一文を書き、明らかに夫を憎み誹謗した事実がございます。これは、もう、ただごとではないように思われるのでございます。しかもこのノートの中において、

 「夜ごとに君と眠るべき、男あらずばなぐさまむ」

の二行は抹殺しありと宇野は述べておりまして、「蓋しその発想のあまり粗野端的なるを好まざるが故ならんか。しかも、この実感は、これも歌はではやみ難かりしは既に『悪念』に於て我等これを見たり」と付け加えてあります。この上にのしかかって私は亦、読みとりながら、胸の早鐘に、のたうちたい衝動を覚えます。新潮誌上に堂々と、かの一文を載せた彼が、僅か、人も見ぬところで、ノートの上に書き直す詩中に「その発想のあまり粗野端的なるを好まざる故ならんか」と言われるほどの遠慮をしていること、何かじれじれとする感慨にも襲われます。そして、「その発想のあまり粗野端的なるを好まざる故ならんか」と人は庇い、同時に「我等これを見たり」という快哉をも人は挙げるべく声を呑むのです。

[やぶちゃん注:ここの「宇野」もママ。ここも「佐藤」でなくてはおかしい。宇野もここを引用しており、花子が完全に原典「芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」の存在を脳からスポイルしてしまっているさまが見てとれる。なお、正確には佐藤の註は、『右二句はこれを抹殺しあり。蓋しその發想のあまりに粗野端的なるを好まざるが故ならんか。然もこの實感はこれは歌はではやみ難かりしは既に「惡念」に於て我等これを見たり』であり(宇野は忠実に引用している)、二つを対比して見ると、花子は自分の読者に読み易くしようと、佐藤の表記に手を加えていることが判る。そこは彼女の優しさであると思う

 そして又、次の詩には「汝が夫」という言葉が入り込んで来ているのです。

 

 微風は散らせ柚の花を

 金魚は泳げ水の上を

 汝は弄べ画団扇を

 虎痢(ころり)は殺せ汝が夫を

 

[やぶちゃん注:原典では「夫」に「つま」とルビ(宇野も振っている)があり、詩篇末行の次行下に、「夏」と芥川龍之介は記している。]

 

 まあ、なんと、すさまじいことでしょう。好きな女性がいるのに、その夫が邪魔でしかたがない、いっそ「虎痢(ころり)は殺せ汝が夫を」「あなたの夫はコレラにかかって死ぬがよい」という悪念の追い打ちなのでございます。仮りに、私は愛されてまことに嬉しうございましても、あの善良な夫が、私ゆえに、これほどまで憎まれるなら、なんという、哀れなことでございましょうか。ただ、ほろほろと泣きくずれて今は亡き夫を、心から気の毒に思い、私の罪の深さを嘆かずには居られません。このモデルは私なのだと仮りに解ってもなんと悲しい宿命でございましょうか。夫は生前においても、精神的に殺されたように穏やかな笑いを浮かべ、自分の好きな道も忘れてしまいました。その上に、名こそ出さね、詩の中において、このようにまで憎まれ、殺されているのでございましようならば。[やぶちゃん注:末文の「しよう」はママ。]

 

 この身は鱶の餌ともなれ

 汝を賭け物に博打たむ

 びるぜんまりあも見そなはせ

 汝に夫あるはたへがたし

 

[やぶちゃん注:三行目「びるぜんまりあ」は原典では「びるぜん・まりあ」(宇野も中黒を打っている)。詩篇末行の次行下に、「船乘のざれ歌」と芥川龍之介は記している。]

 

 この詩においても明らかに夫は憎悪され、彼は「お前に夫のあるのは堪えきれぬ」と言っているのでございます。思い当たる胸には突き刺さって抜けようもない剣なのでございます。

 

 ひとをまつまのさびしさは

 時雨かけたるアーク灯

 まだくれはてぬ町ぞらに

 こころはふるふ光かな

 

 栴檀の木の花ふるふ

 花ふるふ夜の水明り

 水明りにもさしぐめる

 さしぐめる眼は□□□□□

 

 などには「眼」という語があります。「奥さんの眼はきれいだ」と言ったことばが立ち返ってもまいります。

[やぶちゃん注:あたかも花子が原典から選んだように読めてしまうが、残念ながらこれらも宇野浩二の引用からのチョイスである。]

 

 ゆふべとなれば海原に

 波は音なく

 君があたりの

 ただほのぼのと見入りたる

 死なんと思ひし

 

 これには、まあ、横須賀の海が漂っているではございませんか。私には本当にそうとしか思えません。繰り返して読み、彼が、もう、会うまいと決意して、帰って行ったうしろ姿が見えてまいります。

[やぶちゃん注:これも宇野が引いているのであるが、花子の謂いは一つの可能性として、十分にあり得る、そのように読めるものではある。そうして、私はこの詩を読んだ芥川龍之介の心の中には、確かにあの「㈢」の冒頭の印象的な映像が過ぎったものと強く感じてさえいるのである。]

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