譚海 卷之二 雲州松江の城幷源助山飛火の事
雲州松江の城幷源助山飛火の事
○雲州松江の城は堀尾山城、繩張(なはばり)せしとぞ。則(すなはち)松江の湖水に臨て美景の地なり。城下の足輕町をさいか町と云(いふ)。白潟(しらかた)と云(いふ)濱べにて、橋より北の町を末沼町と云。その際(きは)に山あり、源助山といふ、兀山(はげやま)なり。往昔(むかし)源助といふもの所帶せしが、強訴(がうそ)の事により死刑に所(しよ)せられ、其(その)庽たゝりをなすゆへ塚に封じ鎭め祭りしとぞ。されど雨夜陰晦(あまよいんくわい)の時は、飛火(とびひ)となりて湖上を往來(ゆきき)す。源助山の飛火とて、はなはだ恐るゝ事也。湖水の廣井さ二里已上に及ぶ、その際(きは)に飛火出現すといふ。
[やぶちゃん注:「堀尾山城」出雲松江藩第二代藩主堀尾山城守(やましろのかみ)忠晴(慶長四(一五九九)年~寛永一〇(一六三三)年)。なお、彼には男子がなく、従兄弟の宗十郎を末期養子に立てることを望んだものの認められず、堀尾宗家は断絶、翌寛永十一年、若狭小浜藩より京極忠高が入部している。
「足輕町」江戸時代の武士の最下層に位置づけられた足軽は、居住地も城下郭外に置かれた。
「さいか町」現在の松江市雑賀町。ここ(グーグル・マップ・データ)。町名は中世日本の鉄砲傭兵・地侍集団の一つである雑賀衆(さいかしゅう)に由来する。紀伊国北西部(現在の和歌山市及び海南市の一部)の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域(五組・五搦などという)の地侍達で構成された集団で、高い軍事力を持ち、特に鉄砲伝来以降は数千挺もの鉄砲で武装し、海運や貿易も営んでいたが、天正一三(一五八五)年の豊臣秀吉による紀州征伐で解体された。その後、残党が松江城の築城に関わった豊臣政権の三中老の一人堀尾吉晴(忠晴の祖父)により、松江へ迎えられ、松江城守備のための鉄砲隊をここに住まわせたとされる。
「白潟」この宍道湖東端で大橋川に湖水が流れ入る、この辺り(グーグル・マップ・データ)。松江市灘町一帯。
「末沼町」これは現在の松江大橋北詰一帯の島根県松江市末次本町(すえつぐほんまち)のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。因みに、ここは後に、かの小泉八雲が松江中学に赴任した当初、住んでいた地である。私のブログ・カテゴリ「小泉八雲」の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江』のパートなどを参照されたい。
「源助山」こういう山は現在は知られていないが、「源助柱(ばしら)」なら、かなり有名で、現在の松江大橋南詰に碑がある。『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第七章 神國の首都――松江 (七)・(八)』では(リンク先は私の電子化注テクスト)、吉晴の治世、一向に架橋が成功しないため、人柱として生き埋めにされたのが「源助」だったとし、しかも彼は雜賀町に住む足軽人足であったともいうから、本話柄の前半との親和性が認められる。
「所せられ」「處せられ」。
「庽」不詳。私はこれは「厲」(音「レイ」)の誤字ではないかと疑っている。「災いを齎す悪鬼・疫病神・祟りを成す物の怪」の意であるが、その音を「靈(霊)」に通じさせたのではないか?
「雨夜陰晦」ひどく暗い雨夜(あまよ)。]