譚海 卷之二 圓光大師香合幷淀屋茶碗の事
圓光大師香合幷淀屋茶碗の事
○京都町人に若松屋宗甫と云(いふ)者、茶の湯を嗜み古器を翫(もてあそ)ぶあまり、圓光大師所持の香合(かうがふ)を求めえたり。螺鈿にて一箇浮身是何物と云(いふ)七字を蒔(まき)たる宋朝の名德の所持ゆへ、大師一生祕藏してもたれけるとぞ。其(その)價(あたひ)銀三拾六貫目なりとぞ。又大坂淀屋三郎右衞門所持に、淀屋五郎と云(いふ)茶わん有(あり)、是は豐臣太閤祕藏ありし器にて、數人に傳來し證狀明白にして無二の名器也。淀屋微祿せし後、此茶碗淨るり太夫豐竹島太夫金五百兩にて買得たり。さばかり名器成(なり)しかども、すいほうの手に落たるゆへ、已來(いらい)稱する人なし、價も又減じたりとぞ。
[やぶちゃん注:「圓光大師」法然の大師号。
「香合」香を入れる蓋つきの容器。木地・漆器・陶磁器などがある。茶道具及び仏具の一種でもある。
「淀屋」大坂で繁栄を極めた豪商の一族。全国の米相場の基準となる米市を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へと発展するのに大きく寄与した商人である。米市以外にも様々な事業を手掛け、莫大な財産を築いたが、その財力が武家社会にも影響することとなったことから、主家は幕府より闕所(財産没収)処分にされている。後で「大坂淀屋三郎右衞門」と出るが、初代淀屋常安及び二代目淀屋言當(げんとう/ことやす)は孰れも通称を三郎右衛門と称した。参照したウィキの「淀屋」によれば、『闕所処分を受けたのは、その時期から』五代目淀屋廣當(よどやこうとう/ひろまさ 貞享元(一六八四)年?~享保二(一七一八)年)『の時代であったと考えられている』とあり、本「譚海」が寛政七(一七九五)年自序であることを考えると、「淀屋微祿せし後」(零落(おちぶ)れた後)と明記しているのを見ると、この「淀屋」と考えてよいようである
「若松屋宗甫」不詳。名は「そうほ」と読んでおく。
「一箇浮身是何物」「一箇の浮身(ふしん)、是れ、何物ぞ」。禅語であろう。「一箇のこの私という儚い肉体とは、恁麼(そもさん)、何物なるか?!」。
「名德」名僧。
「銀三拾六貫目」とある換算サイトの換算値で計算すると、現在の四千八百万円相当となった。
「淨るり太夫豐竹島太夫」先に示した本「譚海」の成立(寛政七(一七九五)年自序)から考えると、初代(生没年不詳:初代豊竹若太夫(後の豊竹越前少掾)の門弟で、享保二(一七一七)年に豊竹座に初出演、その後、亡くなるまで江戸で活動した)か?
「金五百兩」同前の換算値で四千万円。
「すいほう」「粋方」か(としも「すいはう」で歴史的仮名遣は誤り)。侠客。その手のやくざ者の謂いであろう。前の島太夫の手から、後に、そうした連中に渡ってしまった、ととっておく。
「稱する人」これは「賞する人」で褒める人の謂い。]
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