谷の響 四の卷 十八 奇病
十八 奇病
安政元甲寅の年、藤崎村の左四郎と言へる者、ゆゑなくして兩眼つぶれたりき。醫藥さらにしるしなけれど痛むことなく、又手足言舌常のごとく食もかはらでありけるが、十日餘りにして言舌まわらずなれるが、その日のうちに死せりとなり。こは卒中病の中心にありたりしものと、療治したる御番醫佐々木氏の語りしなり。
又、佐々木氏の話に、覺仙丁【舊覺仙院町なるよし、今は訛りて覺仙丁と云。】なる鎌田甚齋と言へる人、ゆゑなふして右の手をなやみけるが、瘡櫛(ねぶと)の如きもの一つ出てしだいしだいに腫れあがり、こぶしを付たるごとくなれど醫藥もしるしなくして破(やぶれ)もやらず、三四年のうちに冬瓜の大きさばかりになりたりき。さるにこの腫物は大指の根におこりて掌中文の外へわたらず、又腕首及差指へもわたらず。これをさぐり見るにかたくして頭骨(あたま)にふるゝが如く、重さ錢二十貫ばかり手にのせたるごとしとなり。この人かふきの生付にて、いたくなやめるときはこの腫物を抱へながら市中をかけめぐり、すこしくおこたるをまつてかへれりとなり。かゝる大きなるものゆゑ常に右手をふところにして左手をして抱へてありしが、ある日あやまりて臺所の板の間へ腫物をしいて倒れしが、忽ち破れて膿血二升ばかり出たりしが、さして腫物は小さくもならず。しかして一二年の後、癆症とおぼしくつひにやせおとろへて、いぬる丙辰の年身まかりしかどその腫物はかわることなしとなり。實に一奇病なるべしと語りけり。扨、この腫物は大指のもと二寸にたらぬところ、斯く大きく腫あがりしからにめきめきいたくのびて、四五分より七八分までありしとなり。
[やぶちゃん注:第一症例は恐らく、藩医佐々木の言うように(「卒中病の中心にありたりしもの」)、恐らくは脳の中心部で発生した脳卒中(脳梗塞(脳の動脈の閉塞或いは狭窄のために脳虚血をきたして脳組織が壊死或いはそれに近い状態になる症状の広義な呼称)の内、急性で劇症型のもの)であって、最初に脳の後頭葉にある視覚中枢が侵されて失明し、その後に左脳の側頭葉前方にあるブローカ中枢(言語野の一つ)がやられて失語、そこから梗塞が脳幹へと急速に進み、呼吸を掌る脳橋(中脳と延髄の間で小脳の前方)や延髄がやられて死に至ったものかとも思われる。
第二症例は何だろう? 悪性腫瘍(皮膚癌か骨肉腫のようなもの)の一種で、一、二年後にはひどく瘦せ衰えている点からは、最後はこれが全身に播種して死に至ったものか? それとも鎌田の死因とこの腫れ物は直接の関係はないか(本文では「癆症」(労咳=結核)「とおぼしく」と記してもいる)? にしても、腫瘍が異様に重く(「重さ錢二十貫ばかり」(後注参照)を手に載せたような感じ)、異様に硬い(外側から触れると頭骨に触れるような感じがある)というのはどうか? 当初はガングリオン(Ganglion Cyst:結節腫)を考えたが、調べてみると、これにより該当しそうなものとして、手足の指に発生する良性腫瘍で「腱鞘巨細胞腫 (けんしょうきょさいぼうしゅ)」というのがあり、親指の付け根に生じ、少しく大きくなったとする点では、この症状と一致するようには見える(「古東整形外科・内科」公式サイト内の「腱鞘巨細胞腫」。外見所見及びレントゲン写真有り)。但し、これは腫れるものの、痛みはあまりないともあり、最大でも四~五センチメートルと、この叙述より小さい。本記載では最後に転倒して腫れ物の一部が破れ、多量の膿と血が噴き出したとし、しかも、腫れ物自体のコアの部分の大きさはそれほど小さくならなかったという叙述からすると、この「腱鞘巨細胞腫」に毛嚢炎等が併発したものであったものか? 専門医の御教授を乞うものである。
「安政元甲寅」(きのえとら)「の年」一八五四年。
「藤崎村」現在の弘前市藤崎町(ふじさきまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「覺仙丁【舊覺仙院町なるよし、今は訛りて覺仙丁と云。】」現在の青森県弘前市覚仙町(かくせんちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「覚仙町」によれば、元禄一三(一七〇〇)年から享保六(一七二一)年に『かけて町名が覚勝院前之町・覚勝院町・横鍛冶町と変わり、平行して修験の正学坊が学勝院から覚勝院と変わり、寛政年間に現在の町名である覚仙町の町名が固定したもの(弘前侍町屋敷割・町絵図・分間弘前大絵図)』とある。
「鎌田甚齋」不詳。
「ゆゑなふして」「故無くして」。歴史的仮名遣はおかしい。「のうして」という音変化からの慣用表記か。
「瘡櫛(ねぶと)」「根太」で「固根(かたね)」とも称し、背部・腿部・臀部などにできる毛囊炎。黄色ブドウ球菌の感染によって毛包が急性炎症を起こしたもので、膿んで痛む。 前に出た「癰(よう)」「癤(せつ)」も基本的には同じい。但し、ここでは、それに似たものであって、以下の所見からはただの毛囊炎とは到底思われない。
「こぶしを付たる」「拳をつけたる」。
「冬瓜」「とうがん」。スミレ目ウリ科トウガン属トウガン Benincasa hispida。品種によって異なるが、果実は大きいもので短径三〇、長径八〇センチメートル程にもなり、重さは二 ~三キログラムから一〇キログラムを超える巨大果まである。以下の叙述からすると、左手で抱えなければならないほどであり、しかし掌には及んでいないとする以上、直径十センチほどか。
「この腫物は大指の根におこりて掌中文」(てのひらのもん)「の外へわたらず、又」、「腕首及」び人「差指へもわたらず」というのは先に示した「腱鞘巨細胞腫」の属性とよく一致するようには見える。
「ふるゝ」「觸るる」。
「重さ錢二十貫ばかり」この叙述が実はちょっと解せない。銭一貫文というのは永楽銭千個を穴に紐を通して一繋ぎしたもので「千匁(もんめ)」、現在の三・七五キログラムで七十五キログラムにもなってしまう。しかし乍ら、永楽銭は慶長一四(一六〇九)年までに幕府令によって使用が禁止されており、その後は「永銭一貫文」は「鐚(びた)銭四貫文」(鐚銭とは原義は「粗悪な銭」で、ここでは寛永鉄銭)とするようになっているから、これで単純換算するなら、十八・七五キログラムで、これならば、まあ、辛うじて掌に載せ得る重さではあるが、やはり重過ぎ、誇張が疑われる。
「かふき」かぶき者。遊侠。伊達(だて)者。
「生付」「うまれつき」。
「おこたる」「怠る」。痛みがおさまる。
「二升」拳大・冬瓜大の腫れ物が潰れて出る膿血としては異様に多過ぎる。やはり誇張が疑われる。
「いぬる丙辰の年」本「谷の響」の成立は万延元(一八六〇)年で、その直近の「丙辰」(ひのえたつ)年は安政三(一八五六)年となり、本話柄は刊行の四年前の出来事ということになる。
「二寸」六センチメートル。親指の分岐する手首の辺りからの距離であろうから、腫瘍は第二関節(老婆心乍ら、言っておくと指先に近い方が第一関節である)にあったものと思われる。
「腫あがりしからに」腫れあがってきて、その後には。
「めきめきいたくのびて」みるみるうちにひどく腫れがひどくなって。
「四五分より七八分まで」一センチ二ミリ~一センチ五ミリから二センチ一ミリ~二センチ四ミリ。]
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