すると
すると先生は鋭い眼で私を見つめるとかう言つた。
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さつきテレビで歌つてゐた郷ひろみてふ男は昔腋毛を剃つてゐた――あの頃私を愛した女性は私を彼に似てゐると言つた――しかし彼の腋の下には毛根もない程であつた――私は「中性的」な男が嫌ひである――彼が誰かに命ぜられてさうしてゐたなら……それは頗る哀しいことだつたと感ずる私は人種である――
(お前たち少女は四月の夕の)
リルケ 茅野蕭々譯
お前たち少女は四月の夕の
花園のやうだ。
春は數多の路の上にあるが、
なほ何處とめあてもない。
[やぶちゃん注:これは詩集「我が祝いに」(Mir zur
Feier 一八九九年:詩集題の訳は茅野の「リルケ抄」の巻末のリルケについての解説に出る邦訳題)の中の「少女の歌」詩群の序詩である。
本詩を以ってランダム引用は休憩することとする。]
(私に二つの聲を伴はし給へ。)
リルケ 茅野蕭々譯
私に二つの聲を伴はし給へ。
私を再び都會と心配の中へ蒔き散ら給へ。
彼らと共に私は時代の怒の中にゐませう。
私の歌の響であなたの寢床を作りませう。
あなたが望む到る處に。
「閩書」
黃穡魚【ハナヲレダイ 別一種同名】
瘤鯛【カンダイ 佐渡
ハナヲレダイ 黒色ノ者ヲスミ
ヤキト云黒鯛名同】
烏頰魚【「釈名」】燒炭鯛【和名】
寒鯛【同上】鼻推鯛【同上】両類魚
寒鯛之魚臘月盛出故亦名
寒鯛 「日東魚譜」
丁酉如月三日求
之眞寫
[やぶちゃん注:掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像の当該頁と、私が視認して活字に起こしたキャプション。割注は【 】で示し、書名は「 」で囲った。
本種はキャプションに出る異名に誘惑されると、とんでもない別種に間違える。まずは図譜を虚心に眺めることから、真実は自ずと見えてくる。吻部周辺と額にかけてが、通常の魚類に比して鈍角であり、明らかに垂直性を示している(図では分かり難いが、左右に膨満しているというよりは寧ろ、頭部は側扁して平たいように見える。ここも比定の特徴とし得る)。前額上部がやや隆起しており、異名の一つにある「瘤」(こぶ)のそれはここを指していると読め、「鼻」折れ「鯛」もそれに由来すると採れる。但し、ここで、その隆起を妄想的に大きく捉えてしまい、その異名として羅列されている「瘤鯛」や「カンダイ」「寒鯛」などから、安易にコブダイ(条鰭綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科コブダイ属コブダイSemicossyphus
reticulatus )と比定してしまっては誤りである。よく見ると、頭部の眼の上の隆起は、コブダイ(正確には同種の♂)のような異常な腫瘤状を呈してはいない。次にかなり薄いが、胸鰭の基部上部から後方の背鰭尖端前部下にかけて、黒い帯が入っており、さらにその少し離れた後ろに同じ基部から斜めに走る白い帯が走っていることも判る。これが大きな本種の特徴であることに着目出来る。今一つ、鱗が各々有意に大きく、しかも全体の体色が鮮やかな紅色や褐色を呈し、体部後半には紫色がそこに混じってより強く出ていること、さらに腹部の色が有意に薄いこと、そして、尻鰭と尾鰭が濃い暗色を呈していることが特徴的で、こうした華やかな色彩傾向はベラ科 Labridae によく見られるものである。図もちょっと見ではベラの類と誰もが思うものと言える。以上の観察から見ると、これは、異名には挙がっていないが、
条鰭綱スズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科イラ属イラ Choerodon azurio
と比定するのが至当と私は考える。首を傾げる方のために謂い添えておくと、魚類学者望月賢二氏の監修になる「魚の手帖」(小学館一九九一年刊)でも本図が採用されているが、そこで望月氏も、このイラに同定されておられる(但し、そこで『胸鰭から上後方へ向かう黒色帯の位置がやや不正確である』と注しておられる)。
以下、ウィキの「イラ」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線はやぶちゃん。本図とのさらなる一致部分が確認出来るはずである)。分布域は『南日本(本州中部地方以南)・台湾・朝鮮半島・シナ海(東シナ海・南シナ海』で、全長は約四〇~四五センチメートル、『体は楕円形でやや長く、側扁である。また、イラ属はベラ科魚類の中では体高が高い。額から上顎までの傾斜が急で、アマダイ』(スズキ目スズキ亜目キツネアマダイ(アマダイ)科アマダイ属 Branchiostegus の類)『を寸詰まりにしたようである。老成魚の雄は前額部が隆起・肥大し、吻部の外郭は垂直に近くなる。アマダイより鱗が大きい。両顎歯は門歯状には癒合せず』、『鋸歯縁のある隆起線をつくる。しかし』、『ブダイ科魚類のように歯板を形成することはない。前部に最低一対の大きな犬歯状の歯(後犬歯)がある。側線は一続きで、緩やかにカーブする。前鰓蓋骨の後縁は細かい鋸歯状となる。尾鰭後縁はやや丸い』。『体色は紅褐色から暗紅色で腹側は色が薄く、尾鰭は濃い。口唇は青色で、鰭の端は青い。背鰭と腹鰭、臀鰭は黄色。背鰭棘部の中央から胸鰭基部にかけ、不明瞭で幅広い黒褐色の斜走帯が走る。その帯の後ろを沿うように白色斜走帯(淡色域)がある』が、『幼魚にはこの斜走帯はない』(というより、イラの幼魚は成魚とは模様が大きく異なる。リンク先に画像有り)。『雌雄の体色や斑紋の差が大きい』。『沿岸のやや深い岩礁域や』、『その周りの砂礫底に見られ、単独でいることが多い。日本近海での産卵期は夏。夜は岩陰や岩穴などに隠れて眠る』。『雌から雄への性転換を行う』ことでも知られる。『付着生物や底生動物などを食べる肉食性。これはイラ属の魚類に共通する』。『食用だが、肉は柔らかく』、「普通」或いは「まずい」とされ、また、事実、『水っぽい。他種と混獲される程度で漁獲量も少なく、あまり利用されない。煮つけなどにされる』とある。和名「イラ」は「伊良」或いは「苛」「苛魚」と書くようで、しばしばお世話になっている「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「イラ」によれば、『つかまえようとすると』、『逆にかみつきにくる。そのために「苛々する魚(いらいらするさかな)」の意』であるとし、和歌山県田辺や串本での呼び名が標準和名となったものらしい。
なお、この「イラ」は現行でも地方名で「アマダイ」・「イソアマダイ」・「オキノアマダイ」・「カンダイ」・「カンノダイ」、果ては「ブダイ」(但し、これはベラ亜目ブダイ科ブダイ属ブダイ Calotomus japonicus と混同誤認している可能性もある)などと紛らわしい異名で呼ばれ、しかも、面倒臭いことに、最初に出した「コブダイ」の地方名にも「カンダイ」を始めとして「イラ」・「カンノダイ」(寒の鯛)・「コブ」があるから、これは大いに困るのである。
・「閩書」「びんしよ」。既出既注であるが再掲する。「閩書(びんしょ)南産志」。明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省の地誌。
・「黃穡魚」現代仮名遣の音なら「オウショクギョ」であるが、どうも不審である。何故なら「穡」は「農作物を収穫する・農業」や「惜しむ・物惜しみする」「吝嗇(けち)」の謂いでどうも意味としてピンとこないからで、私は実は、この「穡」は「檣」(ショク:ほばしら:イラの鼻筋の屹立しているさまを喩えているのではあるまいか?)の梅園の誤記(他にも見出せるから、複数の本草家のというのがより正しい。例えば寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「黄穡魚(はなをれだひ)」。リンク先は私の電子テクストである)ではあるまいかと深く疑っているのである。)
・「ハナヲレダイ」「鼻折れ鯛」。同じく、イラの鼻筋の屹立しているさまに拠る命名であろう。
・「別一種同名」「イラ」でない別な一種にも「ハナヲレダイ」という同名が使われているという意。これはもう、高い確率でコブダイSemicossyphus
reticulatus のことと私は思う。
・「瘤鯛」「こぶだひ」。
・「カンダイ」「寒鯛」コブダイSemicossyphus
reticulatus 同様、旬が脂ののる寒い時期(現行では旬は晩秋から初夏と長い)だからであろう。「佐渡」とするが、当地での「カンダイハ」は「イラ」ではなくて「コブダイ」のことを指すものと私は思っている。
・「スミヤキ」「炭燒」。炭焼きの面(つら)のように真黒の謂いであろう。
・「黒鯛名同」「黒鯛」という名も同じ。しかしこれではスズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii が怒る、基、と区別がつかん!
・「烏頰魚」「うきやうぎよ(うきょうぎょ)」と音読みしておく。
・「釈名」「釋名(しゃくみょう)」。後漢末の劉熙(りゅうき)が著した辞典。全八巻。
・「燒炭鯛」「やきすみだひ」と訓じておく。
・「同上」前の割注の「和名」と同じことを指す。以下、同。
・「鼻推鯛」「はなおしだひ」と訓じておく。「ハナヲレダイ」と同起原であろう。私は推して潰れて上に膨らんだとするこの名の方がしっくりくる気がする。
・「両類魚」読みも意味も不詳。雌雄の形状の違い(性的二型)を言うとしたら、大した生物学的知見と言えるが、ちょっとな。
・「寒鯛之魚獵月盛出故亦名」「臘」は「獵」のように見えるが、これでないとおかしい。訓読すると、
寒鯛。之の魚(うを)、獵月(らふげつ)、盛んに出づる故、亦、名づく。
であろう。「獵月」(ろうげつ)は陰暦十二月の異名である。
・「日東魚譜」全八巻。江戸の町医神田玄泉(生没年及び出身地不詳)著になる、本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである。私はブログ・カテゴリ『神田玄泉「日東魚譜」』を置いているが、未だ二篇で停まっている。これは今一つ、絵が上手くなく、正直、それで触手が動かないからである。悪しからず。来年は少しはやろうと思う。
「丁酉如月」天保八年二月。西暦一八三七年で、同年二月一日はグレゴリオ暦では三月七日。]
(私の生活は、私が急いでゐる)
リルケ 茅野蕭々譯
私の生活は、私が急いでゐる
この嶮しい時間ではない
私は私の背景の前の一本の樹、
私の澤山の口のただ一つ、
而も一番早く閉ざされるあの口だ。
私は、死の音が高まらうとするので――
拙いながら互に馴れ合ふ
二音の間の休息(やすみ)だ。
しかし暗いこの間隙(インタアヷル)の中に、
慄へながら二つの音は和解する。
そして歌は美しい。
(これが私の爭だ。)
リルケ 茅野蕭々譯
これが私の爭だ。
憧憬に身をささげて
每日を步み過ぎる。
それから、強く廣く
數千の根の條で
深く人生に摑み入る――
惱みを經て
遠く人生の外に熟す。
時代の外に。
石像の歌
リルケ 茅野蕭々譯
誰だ。樂しい生命を捨てる程、
私を愛するのは誰だ。
若し一人が私の爲めに海で溺れると、
私は再び石から解かれて、
生命に、生命に歸るのだ。
私はそれ程鳴り繞(めぐ)る血にあこがれる。
石はほんたうに靜かだ。
私は生命を夢みる、生命は好ましい。
私をば蘇生させる
勇氣を誰も持たないか。
あらゆる最美なものを與へる
生命さへ私が得れば――
―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
さうしたら私はひとり、
泣くだらう。石に焦れて泣くだらう。
葡萄酒のやうに熟すとも、私の血が何の役に立たう。
私を最も愛したその一人を
海から呼戻すことは出來ない。
[やぶちゃん注:底本校注によれば、二行目の「私を愛するのは誰だ。」は「リルケ詩抄」では「私を愛するは誰だ。」となっており、後の「リルケ詩集」でかく訂されてあるのを本文では反映した、とする。ここはそれに従った。]
女等が詩人に與へる歌
リルケ 茅野蕭々譯
すべてが開かれるのを御覽なさい。私だちもさうです。
私たちはさうした祝福に外ならない。
獸の中で血と闇とであつたものは
私たちの中で魂に育つた。そして
更に魂として叫んでゐる。あなたへも。
あなたは勿論それを風景のやうに
眼に入れるだけだ。軟かく、慾望もなく。
それ故私たちは思ふ、あなたは
呼ばれる人ではないと。しかしあなたは
私たちが殘りなく全く身を捧げる人ではないのか。
誰かの中で私たちはより多くなれませうか。
私たちと一緒に無限なものは過ぎ去る。
あなたはゐて下さい。口よ。私たちが聞く爲に。
あなたはゐて下さい。私たちに話す人よ、あなたはゐて下さい。
(これは私が自分を見出す時間だ。)
リルケ 茅野蕭々譯
これは私が自分を見出す時間だ。
うす暗く牧場は風の中にゆれ、
凡ての白樺の樹皮は輝いて、
夕暮がその上に來る。
私はその沈默の中に生ひ育つて、
多くの枝で花咲きたい、
それもただ總てのものと一緒に
一つの調和に踊り入る爲め……
(平(たひら)な國では期待(まちまうけ)てゐた。)
リルケ 茅野蕭々譯
平(たひら)な國では期待(まちまうけ)てゐた。
一度も來なかつた客をば。
氣づかはしげな花園は、なほ一度訊ねたが、
やがてその微笑は徐に萎びた。
暇な沼地には
夕暮に見すぼらしい並木。
林檎は枝に怖ぢおそれ、
どんな風もそれをうづかせる。
私は「生」(=「性」)を精神や思想で括り上げようとする輩にヘドを吐きたくなる人間である――
(夕ぐれは私の書物。花緞子の)
リルケ 茅野蕭々譯
夕ぐれは私の書物。花緞子の
朱の表紙が眼もあやだ。
私はその金の止金(とめがね)を
冷たい手で外(はづ)す。急がずに。
それからその第一ペエヂを讀む、
馴染み深い調子に嬉しくなつて――
それから第二ペエヂを更にそつと讀むと、
もう第三ペエヂが夢想される。
[やぶちゃん注:「花緞子」辞書では「くわどんす(かどんす)」の読みを示すが(「どんす」が音だから主旨は判る)、私は「はなどんす」と読みたい。花文様を織り出した緞子のこと。「緞子」は繻子織り(しゅすおり:経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現われるように織ったもの。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢が生すると同時に肌触りもよい高級織布。)の一つ。経繻子(たてしゅす)の地にその裏織り組んだ緯繻子(よこしゅす)によって文様を浮き表わした光沢のある絹織物。室町中期に中国から渡来した。なお、「どん」も「す」も孰れも唐音である。]
進步
リルケ 茅野蕭々譯
それで再(ま)た私の深い生命は一層高く音たてる。
より廣い岸の中を行くやうに。
物は愈〻私に近しくなり、
すべての景象はいよいよ明かになっつて、
私は名の無いものに愈〻親しいのを感ずる。
鳥のやうに私の感覺を飛ばして、
私は樹から風立つた天に達し、
また池の千ぎれた日の中へ、
魚に乗つてるやうに沈む私の感情。
(私の眼を消せ、私はお前を見ることが出來る。)
リルケ 茅野蕭々譯
私の眼を消(け)せ、私はお前を見ることが出來る。
私の耳を塞げ、私はお前を聞くことが出來る。
そして足は無くてもお前の處へゆくことが出來る。
口がなくともお前に誓ふことが出來る。
私の腕を折れ、私は手でするやうに
私の心でお前をつかむ。
心臟を止めよ、私の額が脈打つだらう。
私の額へ火事を投げれば、
私は私の血でお前を擔ふだらう。
八
リルケ 茅野蕭々譯
あの上に漂ふことの出來る
あの雲が羨ましい。
日の當つた草原に
黑い影を投げたこと。
太陽を暗くするなんて、
なんて大膽に出來たらう。
地は光を欲しがつて、
雲の飛ぶ下で恨むでるのに。
あの太陽の金色の光の潮を
私も遮つてやりたいな。
一瞬間であらうとも。
雲よ、お前が羨ましい。
[やぶちゃん注:本詩篇は一八九六年刊のリルケの詩集「冠せられた夢」(茅野訳の標題。原題は“Traumgekrönt”)の「夢みる」詩群二十八章の中の第八章である。]
自殺者の歌
リルケ 茅野蕭々譯
ではもう一瞬間だ。
人々がいつも私の紐を
切るとは。
この間も私はよく用意をして、
もう一片の永遠は
私の臟腑の中に入つてゐたのだつた。
人々は私に匙を差しつける、
あの生命の匙を。
いいや、私は、私はもういらない。
私に私を捨てさせてくれ。
私は知つてゐる。人生は全くてよい、
世界は充ちてる壺だ。
しかしそれは私の血には入らないで
ただ頭に騰るんだ。
それは他人を養ふが、私をば病氣にする。
それを蔑(さげす)むのを、解つてくれ、
少くとも私は今
一千年間衞生が必要だ。
[やぶちゃん注:「騰る」「あがる」或いは「のぼる」。後者で私は読む。]
3-22 蜷川將監、曾我伊賀守の事
蜷川將監と云しは先朝の御小納戸なり【今御取次衆相模守の父なり】。奧の番になりたるを辭せんとて【奧の番は大奧女中に接談することもあるゆへ、老實の老に限りて命ぜらるゝことなりと云】、御取次衆へ自身申出けるは、拙者元來好色の癖あり。いかやう愼候ても、癖と云ものは風と動く事あるものゆへ、もし女中にいかやうのこと出來候ては、一分の罪而已ならず、家をも失候ことにも成候半。あはれ奧の番免し玉へと乞ひつゝ、遂に平勤に返りしとなり。その實は仲ケ間に意味合ありて、長くは穩に勤難しと見切りての事なりしとなり。眞に面白き托し方なり。近頃御側を勤めし曾我伊賀守【今御書院番頭伊賀守の養父なり】、若き頃は世の中放埓なる風なりし。火消役に命蒙りたるとき、其古役ども常々妓樓に同道する沙汰を聞及び、家中の前髮あるものを數多呼よせて、同役來れば給仕させたり。一日古役果して妓樓に同伴せんと云。伊賀云ふには、我等は男色を好みて女色を好まず。男色のある所はいづ方にても同伴せんと云。古役も其常に左右前髮人多を見て疑はず。男色好のこと仲カ間追々知りて、妓樓同行するものなかりしとなり。一時の權略すぐれたることなり。
■やぶちゃんの呟き
「蜷川將監」「にながはしやうげん」。不詳。以下、人名不詳も識者の御教授を乞う。
「曾我伊賀守」不詳。
「先朝」先代の将軍の意であるから、第十代将軍徳川家治であろう。
「御小納戸」(おこなんど)役はウィキの「小納戸」によれば、『将軍が起居し、政務を行う江戸城本丸御殿中奥で将軍に勤仕して、日常の細務に従事する者のこと。若年寄の支配下で、御目見以上であり、布衣着用を許された。小姓に比べると職掌は多岐に』渡った。『小納戸には、旗本や譜代大名の子弟が召し出された。その他、部屋住や他の役からの転任の場合は、目付を通じて』第二次・第三次の『面接がおこなわれ、厳選の後に、将軍が吹上庭で』四、五間ほど『離れた場所から見て最終決定され』た。『小納戸に任命されると』、三日の『うちに登城し、各人が特技を将軍の前で披露する。小納戸には、御膳番、奥之番、肝煎、御髪月代、御庭方、御馬方、御鷹方、大筒方などがあり、性質と特技により担当を命ぜられた。また、いっそうの文芸を磨くため、吹上庭園内に漢学、詩文、書画、遊芸、天文、武術の学問所と稽古場があり、習熟者は雑役を免ぜられ、同僚の指導をおこなう』。『将軍が中奥御小座敷での食事の際に、膳奉行の立ち会いの上、小納戸御膳番が毒味をおこなう。異常がなければ膳立てし、次の間まで御膳番が捧げ、小姓に渡す。給仕は小姓の担当であった』。『将軍が食べ終わった後、食事がどのくらい残されているかを秤に掛け計測し、奥医師から質問された場合には応答し、小納戸は、毒味役と将軍の健康管理を兼ねていた』。『その他、洗顔、歯磨きの準備も小納戸の仕事で、将軍の月代と顔を剃り、髪を結うのが御髪月代であり、将軍の肌に直接触れることで失敗は許されず、熟練の技を要した。お馬方は、江戸市中に火災が起こると、現場に駆け付け、状況を将軍に報告した』。『小納戸は、将軍に近侍する機会が多く、才智に長ける者であれば昇進の機会が多い役職であった』とある。
「御取次衆」将軍の取次としては将軍近習の「側衆」があり、幕府初期には将軍の意向を背景に大きな権力を持つ場合もあったが、後には老中合議制が形成されて将軍専制が弱まると、実権も弱まった。以後の側衆の役割は将軍の身の回りの世話などをする存在となったが、五代将軍徳川綱吉の時代には老中と将軍の間を取次ぐ「側用人」が設置され、ここではそれであろう。吉宗の治世には一時、廃止されたが、「御側御用取次」が同じ役割を果たしている(ここはウィキの「取次(歴史学)」に拠った)。
「相模守」不詳。
「奥の番」江戸幕府の大奥に置かれた男性武士の役職である広敷用人(ひろしきようにん)であろう。将軍以外の男性の出入りが禁止されていた大奥と外との取次役。
「接談」直に接して交渉すること。
「老實」物事に慣れており、誠実であること。この語自体には「老人」に意は含まれないので注意。
「愼候ても」「つつしみさふらふても」。
「風と」「ふと」。
「而已」「のみ」。
「失候」「うしなひさふらう」。
「成候半」「なりさふらはん」。
「免し」「ゆるし」。
「平勤」「ひらづとめ」。一般職。
「意味合ありて」私は前の「仲ケ間」を同じ務めとなる同職の中に、「関係」(意味合い)が良くない者がいたことから、の意で採る。ネット上の訳などでは、その言葉の「仲ケ間に」(中に)「隠された含み」(別な意味合い)があって、の意で採っているものがあるが、私はそれでは、以下の「長くは穩」(おだやか)「に勤難」(つとめがた)」「しと見切りての事」とのジョイントが不十分と思うからである。また、後文の「仲カ間」は明らかに同職同僚の意であるからである。
「眞に」「まことに」
「托し方」「たくしかた」。事寄せ方。
「御側」「おそば」。前の「御取次衆」と同義で採る。
「御書院番」将軍の外出時の警護に当った御番衆の一職。番衆(番士・番方:交代システムで組まれた「番」を編成して将軍及び御所の宿直や警固に当たる者)には書院番・小姓組・新番などがあったが、特に書院番と小姓組は「両番」とも呼称され、三河以来の直参旗本の家柄から選抜されたエリート・コースでもあった。
「伊賀守」不詳。
「火消役」幕府直轄の火消である定火消(じょうびけし)の、旗本から選ばれた管理級職であろう。
「命」「めい」。
「前髮あるもの」向こう髪のあるもの。当時の童子や少年は婦人のように額の上の部分の頭髪を束ねていた。ここは元服前の少年の意。
「數多」「あまた」。
「男色」「なんしよく」。
「其常に」「その、つねに」
「左右」周囲に。
「前髮人」「まへがみひと」と訓じておく。
「多を」「おほきを」。
「男色好」「なんしよくごのみ」。
「權略」「けんりやく」その場に応じた策略。智謀。
甲州栗・柹・ぶどう等の事
○甲州の内、栗・梨子・ぶどう等の最上なるを産する地は少しばかりの所也。一所は岩崎、一所は勝沼と云(いふ)所也、其餘は尋常のものを産する也。勝沼にては源五右衞門と云ものの葡萄殊の外よろしく出來る也。岩崎にては淸藏といふもののぶどう出來よろし、此はこやしの方(はう)其(その)家傳ありとぞ。其國の方言に、此二箇所のぶどうを親玉と稱す、ぶどうは砂地赤土の所わきてよろし。根のかくるゝまであくたをかけてこやしにする也。つるを切(きり)てみれば殊の外水出來(いでく)るもの也。梨子は實をならする事を平生(へいぜい)心に觀(くわん)じこみてゐる程ならでは、よく出來ぬもの也、とかく煙のくる所よろし。ある人の云、されば本草にも梨は家木の内に有(あり)、これらにてもいはれはしられたりと。甲州にてぶどう・なしなど、よくこやししてみのれば、其遣方(やりかた)によりて、金子十四五兩・二十兩程は壹箇年の入(いり)有(あり)、な まじひの田地(でんち)持(もち)たるよりはまされりといへり。
[やぶちゃん注:「ぶどう」総てママ。歴史的仮名遣なら、本来は「ぶだう」。
「柹」「かき」であるが、本文には出ない。しかし、次注の引用には名産品として柿が出る(下線部)。
「岩崎」現在の山梨県甲州市勝沼町岩崎地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「勝沼町」の「近世」の項に、『勝沼村には甲州街道の宿場である勝沼宿が設置され』、『勝沼村・上岩崎村・下岩崎村・菱山村の四ヶ村では甲州葡萄の栽培が』行われ、「和漢三才図会」「裏見寒話」などの地誌に於いて『梨や柿と共に甲斐特産の果樹の総称である「甲斐八珍果」のひとつとして挙げられている』とある(下線やぶちゃん)。当該ウィキを読むと、この「岩崎」という独立した村名は、下岩崎に『武田一族の分流で、戦国時代に武田信昌と守護代跡部氏の抗争において滅亡した岩崎氏の館跡』があることから由緒が知れる。
「源五右衞門」次の「淸藏」とともに不詳。本書の記載年代(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年)から考えても、甲州葡萄発展史の中に名を残していてしかるべき人物と思われるのだが。識者の御教授を乞うものである。
「こやしの方」堆肥の施し方。
「親玉」この呼称は現在は通用していない模様である。
「梨子は實をならする事を平生(へいぜい)心に觀(くわん)じこみてゐる程ならでは、よく出來ぬもの也」ほう、禅宗のような観想精神をおっしゃる。
「とかく煙のくる所よろし」「梨は家木の内に有」から、ものを燃やす煙であることが判る。
「金子十四五兩・二十兩程」ネット上のある換算サイトでは、安永年間なら江戸中期で一両は現在の八万円、寛政期なら後期で五万円ほどに当たるとするので、中期なら百十二~百六十万円、後期なら七十~百万円相当となる。
螢火丸まむしを療する事
○官家(かんか)御鷹匠衆いへるは、遠國御用の節、まむしにさされなどする療治の用意には、螢火丸(けいくわぐわん)を所持し、そのまゝかみてつばにてぬりつくれば、よろしきもののよし物語り也。
[やぶちゃん注:「官家御鷹匠衆」ここの「宮家」は「高貴な家柄」で将軍家の代名詞。幕府の鷹匠衆は若年寄支配で、鷹の飼養・調練・鷹狩の一切を取り仕切った。
「遠国御用」狭義には、御庭番が幕臣の身分を隠して遠国の実情調査に出かけること、則ち、隠密行動をとることを指すが、ここは鷹調教のために、鷹を連れて地方の山野で訓練をさせることを指すのであろう。
「まむし」爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii。
「螢火丸」漢方サイトを縦覧する限りでは、「螢火」は実際の昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ下目ホタル上科ホタル科 Lampyridae のホタル類を乾燥させた生薬のように読める。調べてみると、ホタル類にはヒキガエル(ガマ)が持つ強毒成分であるステロイド配糖体の強心配糖体ブファジエノライド(bufadienolide)が含まれるから、「毒を以って毒を制す」式の本草的理解では多少、腑には落ちぬこともない。]
二
リルケ 茅野蕭々譯
それは白菊の日であつた。
私はその重々しい華美(はでやか)さが恐ろしい位だつた……
その時、あなたが私の魂をとりに來た。
夜ふけに。
私は恐ろしかつた。あなたはやさしく靜に來た――
丁度私は夢であなたを思つてゐた。
あなたは來た。童話の歌のやうに靜に
夜が鳴響いた……
[やぶちゃん注:本詩篇は前にも出した一八九六年刊のリルケの詩集「冠せられた夢」(茅野訳の標題。原題は“Traumgekrönt”)の「愛する」詩群二十二章の中の第二章である。]
(神よ、私は數多の巡禮でありたい)
リルケ 茅野蕭々譯
神よ、私は數多の巡禮でありたい
長い列であなたの處へ行くため、
又あなたの大部分となるために。
生きた並木を持つ神、花園よ。
私のやうにかうー人で行けば、
誰が認めよう、誰が私のあなたへゆくを見よう。
誰を誘はう。誰を勵まさう。
誰をあなたに向はせよう。
何事もないやうに――人々は笑ひ續けよう。
でも私は私のやうに行くのを喜ぶ。
かうすれば笑ふ人は一人も私を見ることが出來ないから。
[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年一月七日号『週刊新潮』初出。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。
なお、「3」の頭に出る「花巻ウドン」とは、かけうどんの上に炙った海苔を揉み千切ったものを載せたものを言う。江戸時代からこの呼称である。
同じく「3」の「鉄火場」は博奕場(ばくちば)、賭場(とば)のことである。
同じく「3」の「ゼロ号夫人」というのは「零号夫人」。その世界で、正式な妻を「一号」、経済的に養って囲うところの所謂、「妾(めかけ)」を「二号」と呼ぶ習慣から派生したもので、「一号」でも「二号」でもない、則ち、「妻子ある男性と恋愛感情だけで純粋に結ばれている女性で、その男からは一切の経済的援助を受けない愛人」を意味する。戦後の一九五〇年代に、経済的に自立した愛人の妻子ある男性と対等な立場を有する女性を示す言葉であったが、昭和後期には死語となった。]
尾行者
1
奥さま。御報告申し上げます。
今日で三日、御主人の調査にあたりましたが、結論を先に申しますなら、御心配の線はまだ出ていません。
毎朝お宅を出るのが、七時三十分から三十五分の間ですね。あなたはお嬢ちゃんと御一緒に、門前に立つて、一分十秒前後見送っていらっしゃる。
御主人が二本目の電柱の角でふりかえって手を上げ、お嬢ちゃんが小さな掌でそれにこたえる。この挨拶がすむまでの時間は、二秒と狂いません。三日間の平均は、一分十一秒足らずでした。
美しい光景です。多分八年の間、そういう送迎の光景がつづいてきたのでしょう。
今朝はあなたは変な眼で、通りすがりの男をごらんになりました。口鬚(ひげ)の濃い、縁無眼鏡をかけた、外交員風の男をです。あれが変装したわたくしなのです。見わけがおつきにならなかったでしょう。変装はわたくしの得意とするところなのです。
役所に着くのは、八時十五分から二十分の間、そして退庁時間は、五時五分から十分でした。したがって六時前の帰宅は、直線コースをたどったという証拠になります。執務時間中たまに所用で外出し、その足で帰宅なさるとか、あるいはよそに廻るという例外も勿論考えられますが、原則的には以上の通りなのです。
役所には新聞記者の詰所があり、記者クラブと呼ばれています。Q君という飲み友達の記者が協力して呉れました。いいえ、調査費用のかさむ心配はありません。飲み友達ですし、クラブであくびをしているよりは、退屈しのぎになるといった腹なのです。失礼な言い方をお許し下さい。Q君は酒飲みですが、玄翁でたたいても割れないほどの口の堅い男です。
「庶務課だったら、イカレ型の給仕が一人いるよ。あいつに聞けばいい」
とQ君は言いました。
「女の子はいけないよ。敵につつ抜けだ。スパイは古来、陽当りの悪い女でインテリと、相場がきまっている」
Q君は地下食堂のカツ井で、給仕を手なずけました。
わたくしどもは一隅に陣どりました。反対の隅のテーブルで、御主人はカレーうどんを食べていました。差出がましく恐縮ですが、御主人に治療を勧めて下さい。爪楊枝を(つまようじ)三本も折るほど、御主人のムシ歯は悪化しています。口のあけ具合、爪楊枝の使い具合から察しますと、右上の奥から二本目か、三本目と思われます。
「坂井君。君の課のことを書いてやるぜ。何か美談のごときものはないかね?」
Q君が釣り出しにかかりました。坂井少年はうまそうにカツ井に食いついたまま、左手で自分の首をすとんと叩き、上眼使いをしてにやりと笑いました。
「バカだな。君のクビを飛ばして、何の足しになるかい。美談だよ。悪くすると表彰ものだぜ」
「大過なきは出世の近道だよ」
少年もなかなか達者なもんです。
「課長はどう? やかましいんだってね」
とQ君はたたみかけました。
「ガムシねえ」
少年は思わせぶりに首をふりました。
「ガムシ? ガムシとは面白いあだ名だね。来歴を言ってみな」
「恰好(かっこう)がガマ、女癖が悪くてマムシ、だからガムシと言うんだろう。よく知らないよ」
「知らないって言いやがる。名付親のくせに。係長は?」
「ブラかな」
「へえ。そいつは新型だね。うつろいやすいは政党の名前ばかりと思ったら、君が来て以来、庶務のあだ名も総辞職じゃないか。そのブラってのは、銀ブラのブラか?」
「世の中は、なんのヘチマと思えども、てな顔つきでいるけどさ、ブラリとしては暮されもせず。そのブラさ。達者なもんだよ。来春の異動で、課長はかたいね」
「呆れたガキだよ。おれよりも詳しいぜ」
とQ君はわたくしに笑いかけて、さりげなく、
「吉富さんはどうだい?」
と切り出しました。いよいよ御主人の番です。忌憚(きたん)なく、部下の声をお伝えします。
「ノロイーゼはいいね」
坂井少年は言下に答えました。
「へえ。かしこいようでも、やはりアプレだね」
Q君はくすくす笑いました。
「そいつを言うなら、ノイローゼだ」
しかし坂井少年は動ずる色もなく、けろりとして言いました。
「ノイローゼじゃないんだよ。判らねえかなあ。こう墓地に向いてね、Qさんから先の人がかかればノロイーゼ、ぼくら生きのいいのがノイローゼ。同じ病気でも、かかりようで二つさ」
「墓地に向いてと来たな。まあいいさ。ところでノロイーゼは、そんなにいいのかい?」
「そんなにいいってことはないけどさ、反応がノロイんだよ。生れつきもある。一つには、承知で呆ける。大石内蔵(くら)、昼あんどんの血筋だね。政治なんかに道楽気をおこさないで、官僚街道を進めば出世するけれど、行きつく先は、また家老どまりだね。殿様の柄じゃないね」
坂井少年はQ君の誘導と、カツ井のお礼心もあって、御主人に関し、なお若干の有益な証言を提供して呉れました。毎朝少年は御主人に『新生』一個を買いにやらされます。御主人の昼食はうどんのモリか、まれにはタネモノをおごることもある。ソバはあまりお好きじゃないようですねえ。地下食堂で二十円乃至四十円の出費です。
月給二万円と少しのうち、御主人の小遣いが三千円で、もう少し節約して欲しいと奥様が御冗談にねだった時、
「煙草代と昼飯代を引いて、いくら残ると思う。月に一度か二度の友達づき合いもさせない気か」
と御主人が言われた由、うかがいましたけれども、煙草代約千二百円、昼飯代が約八百円、残額の千円が娯楽、交際費と、帳面づらはそうなっていても、奥さまのお言葉通り、どこかおかしいところありと、わたくしもにらみました。
案の定、副収入が判明しました。二ヵ月に一度か、三ヵ月に二度ぐらい、名もない雑誌に経済記事などを頼まれて書き、その稿料が月平均二千円程度になるようです。正確な使途は目下不明ですが、三日のうち、一晩は新宿で学校友達と飲み、四カ所安酒場を歩き、その二ヵ所で御主人が勘定をもって、概算八百円程度の散財でした。
中の一日は、最短距離を通り、六時前に帰宅なさった筈です。
あとの一日は、同僚の一人と東京温泉の大衆浴場につかり、あとで屋上の外れにある碁会所で将棋を三番、うち二回は御主人の勝ち、そして中華ソバをとって食べました。
御主人の出費は四百円あまりで、同僚はラーメン代だけ支払っています。
以上がこの三日間の中間報告ですが、奥様が懸念なさるごとき事実は、まだ気配も見えません。
読後火中のこと、くれぐれもお願い申し上げます。
2
奥様。御安心下さい。御懸念の向きは依然、兆(きざし)もございませんでした。
定時に退庁して、地下鉄で渋谷に出た御主人を尾行したのです。わたくしはハッピを着て、職人に変装していました。
とあるビルの前を、四、五へん……六、七へんにもなりましょうか、御主人が往復なさった時は、何かあるかと思いましたが、何ごともおこらず、道玄坂に戻って百軒店まで散歩、それから下北沢乗換えで帰られました。
事情はかんたんです。ビルの中には、ボディビルの体育場が出来ているのです。
御主人が体の衰えを意識していると、いつぞや奥様はおっしゃいましたが、三十八歳と言えばまだ衰える齢ではありません。思い切ってボディビルをお勧めになったらいかがですか。御主人も若干その気になっておられるようですから。
散歩中、にぎやかな通りで足をとめたのは、洋装店、家具店、靴屋、菓子屋などの前でした。あの日奥様がお召しになっていらっしたカシミヤのスーツは、御主人のお見立とか。わたくし、瞼の裡に今もはっきりと灼きつけて憶えていますが、ほんとによくお似合いでした。お世辞と受取られては困りますけど、ほんとにこの世の方ともおぼえませんでした。
家具屋の前では、三面鏡の前で、一番長く足をとどめていたようです。うつり具合をためすつもりか、頰ぺたをぶっとふくらませたり、にやにや笑いをしてみたり、約三分間。
靴屋では女靴の棚をしばしごらんになり、洋菓子店前でかなり躊躇(ちゅうちょ)なさったのは、お嬢さんのお土産を考えられたのでしょう。結局、駅前で、ビニールの袋に詰めた百円のキャンデーをお求めになりました。
奥様の御心配も、わたくしの尾行も、まるっきりムダなような気がしてなりません。世間には、奥さま、わたくしのように終電前ではめったに帰らない、不心得な亭主も多いのです。御主人は模範的です。理想の夫です。いいえ、誇張やお世辞ではありません。良人の鑑(かがみ)といっても過言ではありません。それにしても、わたくしはなぜ、こんな余計なことまで申し上げるのでしょう。
平生なら、事務的に、官報のように、切りつめた文章で、御報告する筈(はず)ですのに。
奥様にお目にかかったのは、月曜日でした。
事務所の入口でためらっておられる奥様に話しかけて、事務所を通さずに私的な御協力をお誓いしたのは、ほかでもございません。
このような方が不仕合わせであっていいものか、そう思ったからなのです。この所業がうちの所長に知れれば、クビになるぞという判断がはたらきながら、わたくしはそうせずにはいられませんでした。
どうぞ御懸念が晴れますように。
最初、わたくし、御主人をのろいました。やがて、同じ三十八歳の男でありながら、世間はなんて不公平なんだろうと、柄にもなくわたくし、ひがみました。あなたが不仕合わせになるのなら、この世には神も仏もない。神も仏も信じないわたくしが、しんからそう思ったのです。職業柄臆測はつつしむべきですが、今となってはわたくし、八年前の結婚当時と変らぬ初々しさを、お二人の間に感じます。
倦怠期……とあなたはおっしゃいました。万一それが倦怠期であるとしても、何とふくらみのある倦怠感でしょう。
顔を合わせれば口汚なくののしり合い、お互いの愚行の積み重ねで、こじれにこじれた自嘲や自愛の思いが、憎しみという形しかとり得なくなってしまったわたくしどもの夫婦仲を、奥さま、是非一度ごらんに供したいくらいです。
とんだおしゃべりをして、申しわけございません。今後は一切、事務的に処理いたします。読後火中のこと、くれぐれも。
3
奥様。わたくし、平静です。極めて平静にこの報告をしたためています。平静にしたためようと努力しています。
今日は土曜日で、半ドンでした。御主人は地下食堂で花巻ウドンを食べました。花巻とは渋いですねえ。しかし、どうせ食べるなら、値段も同じですから、タヌキかキツネウドンの方が、カロリーが高くて栄養的だと思いますが、いかがなものでしょう。
それから、将棋をさした同僚に、二人の女事務員と、四人連れだって、東劇で映画見物です。男二人が半々に切符代を出しました。お勤めの間には、奥様、こうしたつき合いも、時にはしなくてはならないものらしいです。
映画が終ると、尾張町に出て、二人の女事務員は地下鉄にもぐりました。それから御主人と将棋氏は、日劇のミュージックホールヘ、どちらが誘うともなく、はいりました。
ストリップが終った時、二人はつまらなそうな顔付きで、席を立ち、外に出ました。外に出て、御主人は帽子をとり、どういうつもりか頭髪をごしごし引っ掻き、フケを落す仕草をなさいました。男性として申しますが、奥さま、御主人にボディビルを是非お勧めになって下さい。気休めにはなるでしょう。身体の衰えよりも、衰えを必要以上に意識することがくせものです。これは坂井少年のいうノロイーゼの兆候です。
将棋氏とは有楽町で別れ、千駄ヶ谷駅で御主人は下車しました。
奥様。わたくし平静に御報告しているつもりですが、違いましょうか。平静であるという自信のもとに、わたくしこのお便りをつづけます。ずいぶん思いあぐんだ上での決心なのです。どうぞ奥さまも冷静にお読みになって下さい。
御主人が途中下車した時、わたくし、てっきりどなたかお知合いを訪ねるものとばかり思っていました。そう言えば、有楽町で将棋氏と別れたあと、公衆電話でひとしきり話していたのが、今思い出されます。
御主人はあの界隈に多い旅館の一つにおはいりになりました。
旅館と申しても、奥様、御存じでしょうが、逆さクラゲなのです。それだけならまだいい、と申してはなんですけれど、実は、もっといけないことが起りました。
玄関先に丹前姿の女があらわれ、御主人の腕をとるようにして、さも待ちかねた風情で内に招じ入れたのです。
錯覚ではない。断じてない。まだ明るい五時前のことです。それに、たった一人の身寄りを、どうして見聞違えましょう。その女というのが、奥様、わたくしの実の姉だったではありませんか。
敗戦後家の姉は、幼い三人の子供をかかえて、人並以上の苦労をしました。わたくしどもの両親は、戦時中、相次いで病死したのです。
姉は敢然とヤミ星の仲間に入り、伝手(つて)をたどって鉄火場の物売りにまで出かけました。戦後二年目に復員したわたくしは、行くあてもなく、しばらくの間、身ぐるみ姉の世話になったのです。
誇りだけは高かった往時の箱入娘は、いくたの難難を経て、筋金入りのいい姐御(あねご)になっていました。やがて姉は小金が出来たらしく、中央線沿線に小さな洋装店を開きました。堅気に戻ったわけです。三人の子供たちも不自由なく、すくすくと学生生活を送っています。
子供たちの将来を考えて、ずいぶん迷ったこともあるようですが、いくらわたくしが再婚をすすめても、うんとは言いませんでした。
ふつうなら、吉富さんが奥様の御主人でなければ、このことも姉のために、泣いて祝福して上げたいところです。そう言えば、因縁めきますけれども、死んだ義兄はお宅と同じ役所に勤めていたのでした。
わたくし実は、ふとした不行跡の尻ぬぐいを姉に委せて以来、姉の家にいることが出来なくなり、それで余儀なくこんな私立探偵みたいな仕事をやっているのです。それ以来姉の家には、敷居が高くて寄りつけないのです。
奥様。わたくしにはもう奥様のお心を推し測るゆとりはなくなってしまいました。
わたくしは思い切って、半ばやけっぱちになり、その旅館の玄関に入りました。年増の女中がお世辞笑いをうかべて、迎えました。わたくしは訊(たず)ねました。
「いまの二人連れは、よく来るの?」
女中は警戒の色を示しました。
「警察の方ですか?」
わたくしが否定すると、女中は厭味な笑顔をつくって、急にぞんざいになりました。
「場違いな真似はよしてよ。悪趣味ねえ。まさか新聞記者じゃないでしょうね」
「新聞記者じゃないよ」
わたくしは食い下りました。
「隣の部屋は空いてるかい?」
「お隣じゃ騒々しくて、眠れませんよ。お連れさんがいるのなら、静かな部屋はまだいくつもございますよ。おひとりだけじゃあ、ちょっとねえ」
わたくしはが逆上気味の頭をかかえて、旅館から退散しました。
奥様。この手紙がどんなに奥様のお心を傷つけるか、お察し出来ないではありません。でも、わたくしは今はっきりと知ったのです。奥様はこの世の喜怒哀楽には瀆(けが)されないお方です。あなたの美しさは、形でもなければ、色艶でもない。内側から輝く女性の美しさを、あなたはわたくしに初めて教えて下さいました。永遠の女性という言葉がウソでないことを、青春をろくに知らずに過したわたくしは、くたびれ切った結婚生活の果てに、こんな形で見出したのです。
奥様。
申し上げるだけは、申し上げました。勝手ですが、今日限りわたくしは、調査の任を辞退させていただきます。読後火中のこと、くれぐれもお願いいたします。
4
奥様。
わたくしは、なんというあわて者でしょう。
即日速達という郵便制度は、信用出来るものでしょうか。出向いて仔細を申し上げればいいのですが、お許しのない訪問は出来ませんし、たいへん困りました。この即日速達が、昨日の書面よりも、先に着くことを、心から祈っています。
別に『キノウノテガミヨムナ、ソクタツヲサキニヨマレタシ』という電報も打ちました。せめて電報だけでも、昨日の手紙よりは、早く着きますように。
今日必要な金が、明日でなければ算段出来ないために、わたくしども甲斐性なしは、どんなに惨(みじ)めな思いをさせられることでしょう。
そして今日判らなければならないことが、明日でなければ判らないために、わたくしども思慮足らずのノロイーゼは、どんなに寂しく情ない道化を演じなければならないことでしょう。わたくし、時折、しんから、映画のフィルムをあべこべに巻き、小説を終りから読み、明日から今日、今日から昨日と、さかのぼる手はないものかと考えることがあります。
今日、日曜日の夕刻、一日握っていた前の手紙を投函したあとで、わたくしは思い切って姉を訪ねました。
奥様。せめて、せめてこのわたくしの勇気をほめてやって下さい。でなければ、立つ瀬がございません。
姉はびっくりして、わたくしを迎えました。よれよれの変装服で行ったものですから、姉はわたくしのことを、よほど落ちぶれていると思ったのでしょう。ウナ丼などを取寄せて、御馳走してくれました。
そのウナ丼をぱくつきながら、わたくしは、それとなく、姉に告白をうながしました。いえ、うながすと言うより、自白を迫ったという方が、正確かも知れません。
ところが姉は、けらけらと笑い出したのです。
「見たの、あんた? 悪いことは出来ないものねえ」
わたくしはかっとなり、ウナギの一片を箸から畳に振り落しました。
わたくしはその瞬間、完全に姉を侮蔑し憎悪しました。あのきりっとした気性の姉が、こんなにだらけた女になろうとは、もう言葉も出ないような気持でした。でも、わたくしは気を取直して言いました。
「姉さんが、幸福になれるのなら、お祝いするつもりで来たんだ。はぐらかすなよ。おれに、黙っている法はないだろう」
姉は笑いつづけるのです。そして苦しげに、わたくしの詰問の合間を見て、
「バカねえ」
と二度ほど呟(つぶや)きました。
そして姉の言葉のごとく、わたくしはバカだったのです。なにゆえにバカであったか。奥様。お聞き下さい。
わたくしをたぶらかした張本人は、麻雀(マージャン)だったのです。
御主人は課長のガムシに呼びつけられ、姉は洋裁店の上顧客(とくい)である課長のゼロ号夫人に呼ばれ、ガムシの部屋で十一時半まで、おつき合いをしていたのです。隣室では騒々しくて眠れないという、あの女中の言葉のどこに偽りがあったでしょう。隣室の麻雀では眠れるわけがありません。[やぶちゃん注:「とくい」のルビは「顧客」二字に附されたもの。]
姉の説明で、わたくしは頭がぽかんとなり、ウナ丼をごそごそ食べ終って、姉の家を辞しました。
姉の言葉は本当だろうか、一抹(いちまつ)の疑念もあったものですから、帰途千駄ヶ谷で降り、れいの旅館に参りました。この度は逆上いたしません。女中にいくらか握らせて聞き出した事実は、まさしく姉の言った通りでした。
奥様。
わたくしがなにゆえにバカか、お判りになったことと存じます。でも、わたくしは我慢がなりません。わたくしはたいへん憎みます。ガムシと逆さクラゲと、ゼロ号夫人と麻雀を。
そしてわたくしは、ちょっぴりと憎みます。十余年浮気ひとつ出来ないで過した姉の潔癖を。
奥様。御主人は潔白でした。姉も……。姉には、一番違いで宝クジをあてそこなったような、そんな口惜しさを覚えます。しかしそれも、奥様とお嬢さんのために、誰よりもわたくしは嬉しいのです。
御主人が時たま遅くお帰りになる事情は、以上で納得がお行きになったことと存じます。お宅で外の出来事を話さないのは昔からの習慣だと、奥様はご自分でおっしゃいました。原稿料と麻雀によって、小遣いがあり過ぎたり、またなさ過ぎたりする謎、これで氷解したわけです。
御主人のへそくりは、民主主義に反するかも知れませんが、せめての学友や同僚や、ごく狭い範囲でのつながりは、知らぬふりして認めて上げて下さい。御主人と一列に申しては失礼ですが、わたくしどもには今の社会では、その程度にしか人と人との結びつきが許されてないのですから……。
奥様。
今宵は奥様の孤独と御主人の孤独と、お二人のふっくらとした倦怠感と、お嬢さんの健康のために、わたくしは独りどこかの安酒場で乾盃いたす所存です。
残ったのはわたくしの愚かしさだけでしたが、負け惜しみでなく、わたくしはそう思いません。恥を忍んで申せば、奥様、わたくしは今仕合わせです。はかなく、いつ消えそうな形ながら、仕合わせなのです。
最後に御無心がございます。ヘマな調査の報酬は断じて頂きません。そのかわり、大道の流行遅れでいいのです。ネクタイを一本いただかして下さい。わたくしはもの持ちがいいたちで、五本あるネクタイは皆頂きもので、これまでの愚行の歴史がこれにこもっているのです。奥様。ぜひネクタイを一本……。
読後火中のこと、なにとぞお願い致しておきます。
(時間は傾いて、明るい)
リルケ 茅野蕭々譯
時間は傾いて、明るい
金属の響で私に觸れ、
私の感官は慄へる。私は感ずる。私は出來る――
そして私は彫塑的な日をつかむ。
私の見なかつた中は、何も完成してゐなかつた。
總べての生成は止まつてゐた。
私の眼は熟してゐる。そして花嫁のやうに
誰にでもその思ふものが出來るのだ。
何でも私には小さ過ぎはしない。私は小さくても愛する、
そして金地へ大きくそれを畫いて
高く捧げる。誰にかは知らないが
それは魂を解きほぐす……
[やぶちゃん注:Андре́й
Рублёв!]
[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年一月号『小説新潮』初出。一部、段落末に簡単なオリジナルな語注を附した。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第四巻」を用いた。
登場人物の姓(と思われる)「古呂」はルビを振っていないので「ころ」と読んでおくが、姓としては珍しく、この文字列も、長崎県五島列島名産である薩摩芋を混ぜ込んだ餅和菓子の一種「甘古呂餅(かんころもち)」ぐらいでしか私は見たことはない。]
古呂小父さん
もう三十年近くも昔のことになる。お父さんが勤めている会社の秋季郊外遠足に、子供の僕もー緒につれられて行くことになった。お父さんはよく僕をあちこちにつれて歩いたものだ。一度などは会社の出張にくっついて、はるばる熊本市まで出かけ、大共進会などを見物したこともある。子供にしてはちょいとした旅行だ。当時熊本市は市内電車の開通のしたてで、車体もぴかぴか光り、僕の住んでいる街の電車よりもずっと立派で、そのことだけで僕は熊本という街に嫉妬を感じたりした。
[やぶちゃん注:「大共進会」「共進会」は「競進会」とも表記し、農産物や工業製品を集めて陳列して一般公開をし、その優劣を競う品評会であったが、産業発展を図ることがその主たる目的であった。明治初期から各地で開催された。]
遠足の集合地は、その僕の街のがたがた電車の終点で、集合時間は九時半ということだったのに、実際には十時半に伸びてしまった。大人というものは時間を守らない。小学生の僕はそう思って面白くなかった。約束の時刻に行ったお父さんと僕は、橋のたもとでまるまる一時間待たされたわけだ。河から脛(すね)に吹き上げてくる風は割につめたかった。僕は筒袖の着物に短い小倉の袴(はかま)をつけていた。僕の他にも一人子供がいたが、そいつはサージの服を着て、よく磨かれた靴を穿いてつんとしていた。支店長の息子だとのことだった。
[やぶちゃん注:「小倉の袴」小倉織(こくらおり:縦縞を特徴とした良質で丈夫な木綿布。)の袴の意。]
「あの子と仲良くするんだよ」お父さんが僕にそうささやいた。「喧嘩なんかしちゃいかんよ」
皆がすっかり集まったのは、十時半だった。一番遅れてきたのは古呂という三十四五の小父さんだ。古呂小父さんはアンパンみたいにまんまるな顔をしているが、皮膚の色艶はあまり良くなかった。心臓か胃腸かが慢性的に悪かったのだろう。電車から降りてくるなり、やあ、すまん、すまん、と遅刻を皆にぺこぺことあやまった。
「置いてけぼりにしようかと話し合ってたんだぞ」
と誰かがつっけんどんな調子で言った。自分も遅刻したくせに、他人の遅刻をつけつけと責める。その声とは別に、あざけるような笑い声がところどころに起った。その笑いは皮膚病のようにじめじめと周囲にひろがった。支店長の息子が甲(かん)高い声を出した。
「やあ、古呂小父さんは、武者修行みたいだなあ」
古呂小父さんはきょとんとして一行を見回した。一行の服装は、弁当や酒や釣道具を持っているだけで、あとはふだんのなりと同じだった。ところが古呂小父さんの身なりときたら、背広のズボンに白い脚絆(きゃはん)をつけ、足には靴のかわりに真新しいワラジをきちんと穿いていた。その上御丁寧なことに、弁当を浅黄の風呂敷でぐるぐるに巻き、それを肩から脇下にななめにゆわえつけていたのだ。まるで諸国修行のサムライみたいな恰好にだ。古呂小父さんの青黒い顔は見る見るあかくなった。あかくなったことをごまかすように、トントンと二三度足踏みをした。その動作がまたさざなみのように笑いをさそった。支店長の息子もたかだかとわらったし、僕もすこしわらった。笑わなかったのは当の古呂小父さんだけだった。
「さあ、そろそろ出かけるとするか」とりなすようにお父さんが言った。「これでみんなそろったしな」
一行二十数名は、すき間風に吹かれた煙草の煙のように、なんとなくふわふわと動き出した。それが遠足の出発だった。学校の遠足のようにきちんと並んで歩かず、だらだらと伸びたりちぢんだり、三々五々という形でだ。古呂小父さんは一番遅れて、終始ひとりで、もうくたびれたように歩いているようだった。ものものしいいでたちを背後から眺められるのが辛かったのだろう。僕はお父さんに言った。
「古呂小父さんはワラジを穿いているのに、歩くのは一等遅いんだね」
「穿き慣れないと、ワラジというやつは、案外歩きにくいものだよ」
とお父さんは説明をした。お父さんは弁当の他に、ガラス製の蠅(はえ)取り器に紐(ひも)をかけて、肩からぶら下げていた。これは河床に沈め、内部に溶き餌をして、魚を生けどりにする仕掛のものだ。
[やぶちゃん注:「ガラス製の蠅(はえ)取り器」グーグル画像検索「ガラス製 ハエ取り器」をごろうじろ。私は見たことはない。しかし、これを魚獲りに使うというのはすこぶる納得!]
空は曇って、風もすこし吹いていた。いい遠足日和ではなかった。あちこちに見える雑木の紅葉の色も、しめったように沈み、あまり美しくなかった。しばらく歩くと別の河の土堤(どて)にきた。先頭がステッキで方向を指し示し、皆はぞろぞろと土堤に沿って、上流の方に曲った。土堤の芝草はもうすっかり黄色に枯れていた。河幅はかなり広かったが、実際の水の幅は六間か七間ぐらいのものだっただろう。
[やぶちゃん注:「六間か七間ぐらい」十一~十二メートル半強ほど。]
土堤を一時間半ばかり上流に歩き、そこで休憩ということになった。土堤のかげに小さな茶店が一軒あった。そこに立寄って、皆口をすすいだり、顔を洗ったりした。ずっと遅れてやってきた古呂小父さんに、誰かが声をかけた。
「ずいぶん遅れたね。足にマメでもこしらえたのかい」
「えへん」
と古呂小父さんは不機嫌にせきばらいをして、急いで磧(かわら)に降りて行き、顔だけ空を仰ぎながら、ながながとオシッコをした。
それから茶店の台や枯芝生に腰をおろし、酒やサイダーを飲み始める者もあった。お父さんと僕は早速はだしになり、蠅(はえ)取り器を河床に沈めに入った。水は膝までぐらいしかなかったが、ひどくつめたかった。溶き餌は鰹節の削ったのと粉をまぜたやつだった。仕掛け終えると、僕らは大急ぎで岸にとってかえし、三分ぐらいしてまた行ってみると、三寸か四寸ほどの川魚が七匹も八匹も入っていた。それをバケツにあけると、また大急ぎで蠅取り器を沈めに行く。
[やぶちゃん注:「三寸か四寸ほど」九~十二センチほど。]
「坊ちゃん。やってみませんか」
お父さんが支店長の息子に言った。息子ははだしでつめたい水に入るのを好まないらしく、返事をしないで、磧(かわら)の小石を靴で蹴上げたりなどしていた。そこへ古呂小父さんがやってきたのだ。
古呂小父さんのまんまるい顔は、すっかり真赤になっていた。茶店でむりやりに酒を飲んで酔いがすっかり発したものらしい。そして河風に顔をひやしにやってきたらしいのだ。肩から脇にゆわえた風呂敷はもう外(はず)していた。支店長の息子が甘えるように言った。
「古呂の小父さん。魚とってくれよう」
「魚?」
古呂小父さんはトロンとした眼で、しばらく僕のやり方を眺めていた。次は自分にやらして呉れ、と言い出してきた。僕は足もこごえてきたし、少々あきてもきたので、次の番を古呂小父さんにゆずった。小父さんは蠅取り器をかかえ、ワラジを穿いたままあぶなかしい足取りで、ざぶざぶと河の中に入って行った。入って行ったと思う間もなく、河底石のぬめりに足をとられて、たちまち横だおしにひっくりかえってしまった。つめたい水の中で小父さんは四つ這いになってしまったのだ。
「面白いやっちゃのう」
支店長の息子が憎たらしい口をきいて、磧の上でピョンピョンと飛び上った。
茶店や芝生の方からも喚声があがった。
その中を古呂小父さんは不器用に立ち上り、水に足をさらわれないように用心しながら、ざぶざぶと岸に戻ってきた。
ひっくりかえった時に蠅取り器をわったらしく、古呂小父さんの指と掌から紅い血が流れていた。
「いっぺんに酔いが醒(さ)めたわい」と小父さんはぼやいた。そしてお父さんに向いてぺこぺこと頭を下げた。「たいせつなものをわってしもうて――」
「いいよ。いいんだよ」
とお父さんは慰め、手拭いをさいて小父さんの掌に巻いてやった。白い手拭いはすぐに血が一面に滲(にじ)んで濡れた。ワラジや脚絆は言うに及ばず、背広も半分ぐらいはびしょ濡れだった。古呂小父さんはやけになったように舌打ちをしながら、よろよろと茶店の方に歩いて行った。その古呂小父さんを土堤の方から誰かがワアとはやし立てた。
それをしおにして僕らも土堤に戻り、枯草の上で弁当を開いた。食べ終ると弁当箱に、今とった小魚をぎっしりと詰めた。お土産に持ってかえるつもりなのだ。
その間にまた古呂小父さんは酒を飲んだらしいのだ。そろそろ帰途につくという時になると、また小父さんの顔はまっかになって、ふだんよりも更にふくれ上って見えた。焚火(たきび)で洋服や脚絆はなま乾きになっている。
そのなま乾きの古呂小父さんが、今度は先頭にたった。足はひょろひょろしていたが、無理に元気を出しているようだった。ひょろひょろしているのは他にも三四人はいた。
帰途は土堤沿いでなく、近道を行こうということになった。くねくねと曲った狭い田舎道だ。ハゼやセンダンの木があちこち生えている。
[やぶちゃん注:「ハゼ」「櫨」。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum。
「センダン」「栴檀」。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach。言っておくと、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum
album を指すので注意されたい。]
それらの木の下などに置いてある枝の束やわら束を、道のまんなかに引きずり出して、後から来る者の進行の邪魔をする。そういういたずらを先頭の人たちがやり始めた。その中で一番熱心なのが古呂小父さんだった。
見ていると小父さんは、土堤なんかがあると猛然とその上に突進して、そこに置かれたわら束などをエイヤッと投げおろす。勢いあまって自分も一緒にころげ落ちたりもした。小父さんはその作業においていじめられた子供のようにむきになっていたのだ。仮繃帯(ほうたい)なんかもう掌からすっ飛んでいた。
そういういたずらに憤慨したのが、一番あとからやってくる柔道初段の人だった。顔の四角な、いかにも精力善用と言った感じの人で、でもこの日は初段も少々酔っていた。
[やぶちゃん注:「精力善用」「自他共栄」と共に嘉納治五郎が創始した講道館柔道の、指針として掲げられている言葉。柔道は相手の動きや体重移動を利用し、自分の持つ力を有効に働かせるという原理によって、より大きな力を生むことができ、日々不断に柔道に打ち込んで精進することによって、自己の能力は磨かれてゆくが、それは日々の生活に於いても同様である。自ら養った力を、相手をねじ伏せたり、威圧したりすることに使わず、世の中の役に立つことのために使うべし、ということを表わしているという(以上は「柔道チャンネル」の「柔道用語辞典」の当該項に拠った)。]
投げ出された束を初段は一々かついで、元のところに戻していたが、束があんまり次々ころがっているので、それで少しずつ怒ってきたのだ。初段の顔もついにいじめられた子供みたいになってきた。
そのうちに投げ出された薪につまずいて、支店長の息子が膝をすりむき、ワアワアと泣き出すという事件がおこった。
初段は顔をまっかにして、おそろしい勢いで先頭の方に疾走した。もう田舎道は終って、家並がぼちぼち始まっていた。僕もお父さんもつづいて息をはずませて走った。
町の入口で初段はついに古呂小父さんの肩をがっしとつかまえた。何か二言(こと)三言(こと)言いあらそったようだった。お父さんが大声でさけんだ。
「ちょっと待てえ!」
しかしお父さんの絶叫も間に合わなかった。古呂小父さんが拳骨をふり上げて、初段の顔のまんなかをいきなりなぐりつけたのだ。
次の瞬間古呂小父さんの身体は、初段の肩の上で一回転して、地面にたたきつけられた。僕らがそこに到着した時、古呂小父さんは地面に腹這いになって、オウオウと呻(うめ)いていたし、初段は初段で亢奮(こうふん)したおろおろ声で、
「初段だぞ。おれは、初段だぞ」
と威張っていた。
それからお父さんは古呂小父さんの腕を肩でかつぎ、終点の方にそろそろと歩いた。初段たちは先の電車で行ってしまった。
電車に乗せても古呂小父さんは、初段はどこに行った、初段はどこに行った、と叫んできょろきょろしたりした。小父さんのなま乾きの服は泥だらけで、浅黄の風呂敷もどっかに紛失してしまったらしい。
僕は疲れたから座席に腰をおろしてうとうとしていた。電車はだんだん混んできた。向うの方で古呂小父さんのしぼるような声がした。
「五十銭玉を落したよ。ああ、見つからないよう」
そして電車の床を這うようにして五十銭玉を探し始めた。声がだんだんこちらに近づいてくる。
僕の前の和装の若い女のひとが、吊皮にぶら下っていた。古呂小父さんの顔がそのかげからちらとのぞいた。小父さんの顔はほこりによごれ、ほとんど土色をしていた。小父さんの眼が僕を見た。そして小父さんの手がいきなりぱっと動いて、その女のひとの着物の裾を一気にまくり上げた。小父さんの顔はまるで死にかかった犬の顔だった。
「キヤアッ!」
女のひとは悲鳴を上げた。しかしその瞬間に僕の眼は、はなやかな色彩の乱れの中に、白い脛(すね)や膝やその他のものを、真正面からすっかり見てしまったのだ。僕は眼がくらくらして、思わず座席からすべり落ちそうになった。女のひとはそのまま床にへたへたとしゃがみこんでしまった。
次の駅に着くと、女のひとはしくしく泣きながら、電車を降りて行った。顔をおおうたまま肩をふるわせている姿を、僕は今でも思い出せるのだ。
それから古呂小父さんがどうしたか、その前後の記憶が全然ないところを見ると、よほど一瞬の印象が強烈だったのだろう。ひょっとするとそのあとで、古呂小父さんはまた誰からか、あるいはよってたかって、ぶんなぐられたかも知れないと思う。
[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年六月刊『別冊文芸春秋』(第五十八号)初出。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。]
ポストの嘆き
おれは郵便が好きだ。郵便を出すことはそれほど好きではないが、貰うのは大好きだ。何かいい便りが来そうな気がして、一日の中何度も立って、郵便受けをのぞきに行く。入っていたら心がおどるが、入っていないとがっかりする。時には丁度(ちょうど)郵便物を入れかけている配達人と、ばったり顔を合わせることがある。何度ものぞきに行くのだから、偶然以上に顔が合う率が大きいわけだ。顔がばったり合うと、おれの気のせいかも知れぬが、配達人はちょっと困ったような表情になる。おれと視線を合わさないようにしながら、郵便の束をごそごそとより分けたり、そっぽ向いたまま郵便受けに放り込んだり、そして赤い自転車にまたがって、すうっと行ってしまう。おれの区域の配達人はまだ若い。二十二か三ぐらいだと思う。
おれは昔、子供の頃、郵便配達手が大好きだった。昔の郵便配達手は、今みたいに若くなく、年配の人が多かったように思う。おれが子供だから、そう見えたのかも知れない。今残っている感じでは、昔の配達人は赤銅(しゃくどう)色に日やけして、たいへん大きな掌を持っていた。自転車には乗らず、てくてく歩いて配達していたようだ。配達人は特別に掌を使う職業ではないのに、何故大きな掌を持っていたか。それは、かんたんに説明出来る。昔の配達人は気のいい人物が多くて、子供たちを可愛がり、しばしばおれたちの頭を掌で撫でて呉れた。子供というものは、大人から頭を撫でられると、その大人の掌を実際以上に大きく感じるものだ。
昔の配達人は気がいい人物が多いと書いたが、これは今の配達人(正確な呼称では集配員と言うのだそうだ)に気がいい人物がすくないと言う意味じゃない。昔と違って今は、一人当りの配達量も多いだろうし、てくてく歩きでなく自転車配達だし、つまり子供の頭を撫でる余裕や暇がない。気がいい悪いに関係なく、子供の頭を撫でる機会がないのだろう。
で、前にも述べたように、おれは郵便が大好きだ。常住待ちこがれている。その日の郵便が来ないことには、きまりがつかないような気がして、仕事に手がつかない。おれは原則として、朝は仕事をしない。ふつうの人間は、朝が一番頭がはっきりしているものらしいが、どういうわけかおれは、朝は頭がぼんやりしている。まったく鈍麻している。仕事なんか出来るような状態にない。体質にもよるのだろう。だから朝は仕事抜きで、新聞を読んだり、雑誌を読んだり、爪を切ったり、草むしりをしたり、そんなことで頭がはっきりするのを待っている。はっきりし始めたら、そろそろ仕事に取りかかる。だからおれとしては、まだ頭がぼんやりしているうちに、郵便物に到着して貰いたいのだ。郵便物と仕事とは、両立しない。一度に二つのことは出来ない。
「もう少し早目に配達して貰えないものかねえ」
ある時、たまりかねたような気持になった時、その若い配達人におれは言ったことがある。
「せめて午前中にくばって貰えたらねえ」
以前住んでいた区では、そうでなかった。郵便物の遅配に悩まされ始めたのは、練馬区に引越して来てからのことだ。時々新聞の投書欄に、郵便の遅配や誤配についての苦情が出ている。今朝の朝日新聞の『もの申す』欄にも、遅配の苦情が出ていた。苦情の相手の郵便局は、落合長崎郵便局だ。その人は今年の一月から配達された時間を日記に書き込み、それを平均すると第一便が午前十一時半ということになると書いている。おれのところは、十一時半などという、そんななまやさしいものではない。平均はとってないが、もしとれば、十二時半か一時ぐらいになるだろう。二時、三時というのもざらだ。第二便なんか来たことがない。一日一便ということになっている。全然来ない日だってあるのだ。昨日なんかもそうだ。全然無配だ。だから午後四時になって、郵便課に電話をかけた。自分の所番地を言い、今日は配達はないのかということを聞いた。すると相手は、そんな筈はないんだがなあ、などと近所の課員たちと相談している風(ふう)で、やがてまた電話口に戻って来ての返答は、お宅の区域の集配員が今日は抜けている、とのことだった。抜けているとは、どういう意味か。これで返答になっているつもりらしい。
「では今日は配達しないと言うのですね」
「そういうことになりますな」
「それは困ります」
とおれは言った。実際に困るのだから。そのことのために、おれは今まで何度も、いろんなことをすっぽかしたりしているのだから。
「よそでは一日に二へん配達されているのに、一日全然無配だというのは困る。配達していただきたい」
すると相手は、では外廻りの係にかわるから、と受話器を置いた。三分ほどして他の男が出て来た。どういう用件かと聞く。全然用件を引継いでないらしい。だからまた初めから言い直した。するとその男は言下に言った。きわめて横柄な口調でだ。
「そりやダメだね。こんな時刻だから、配達は出来ないね」
「どうしてもダメですか」
「ダメだね」
ちょっと沈黙があって、それからおれは言った。
「これは別な話ですがね、郵便を配達して歩く人は、正確に言うと、配達人というんですか。それとも配達手?」
昔は配達夫と言っていたような気がする。
「ええと、それは集配員だ」
「ではどうも」
おれは電話を切った。おれは近頃、どんなことがあっても、電話口では怒らないことにしている。おれの経験では、怒っていい結果になったためしがない。面と向って怒るならまだしも、電話口で怒るほど愚かなことはない。一番初め、練馬区に引越してしばらくのことだが、おれは郵便局長宛てに手紙を出した。配達が午後二時、三時になるのは困る。当日一時の試写会の案内が、午後三時に配達されるようでは困る。どうにかしていただきたい、と言う意味のことを書いた。封筒に十円切手を貼って出した。
するとその翌日、郵便課長という人がやって来た。上って呉れと言っても上らない。玄関先で用事を済ませたいと言うので、おれは玄関に出て行った。
この年配の課長さんには、奇抜で面白いくせがあって、今でもはっきり覚えているのだが、おれと向き合って会話しているうちに、課長さんの顔がしだいに横を向く。少し経つと、身体も顔を追って横向きになる。つまりおれは課長さんの横姿に対している形となった。そういう形でいろいろ問答しているうちに、今度は課長さんの顔が更に横向き、つまりおれから見ればうしろ向きになった。おれが顔を向けている方向と、課長さんが顔を向けている方向が、同じになった。そしてしばらくして、身体もそろそろとそっち向きになった。すなわちおれは課長さんの後姿と問答することになったのだ。うしろの扉はあいているから、課長さんは戸外の景色などを眺めながら、口を開閉させているらしい。
人の後姿と対話するなんて、生れて初めてで、妙な気分のものだったが、きっとこの課長さんは人見知りするたちだろうと、おれはその時思った。しかしその課長の横向きやうしろ向きの説明はしごく月並なもので、近頃デパートの案内状が多くなったとか、集配人の経験が浅くて能率が上らないとか、そんなものばかりだった。
「それにお宅の配達順番は、区域の最後尾に当っているものですから」
それでおれはこういう提案をした。同じ税金を払っているのに、ある家は朝早く、ある家は午後二時三時の配達とは、公平でない。だから一日おきに、配達の順路を逆に廻ったらどうだろう。今日おれの家が最後尾なら、明日は最先頭になって、不公平はなくなる。すると課長が言った。
「それは、技術上、不可能なんです」
「どうして不可能ですか?」
「とにかく、それは不可能なんです」
その時は課長はもう裏返しになっていたから、どんな表情で言ったのか判らない。とにかく不可能の一点張りで、おれの提案をしりぞけた。
この逆廻りがどうして不可能なのか、だから今でもおれは判らない。おれは配達に関しては素人(しろうと)だが、それが出来ない筈はないと思っている。
「これから手紙は、局長宛てでなく、私宛てにして下さい。切手を貼る必要はありません。通信事務と書いて下されば、それで届きます」
課長さんは裏返しのまま頭を下げ(つまり戸外に礼をしたことになる)そのままとことこと出て行った。
それから暫(しばら)く配達状態が良くなって、良くなったと言っても、午前十一時以後で、つまり落合長崎局における苦情ラインを上下する状態がつづいた。
それからまた悪くなった。日脚が長くなるように、だんだん配達時間が伸びて、正午を突破し、正午を突破すると、バカになったゴム紐みたいに、ずんずんだらしなく伸びて行った。
おれは電話をかけた。
するとあの裏返し課長は転勤していて、他の課員が出て来た。相変らずデパートの案内状云々の言い訳で、つかみどころがない。
翌日もかけた。
翌々日もかけた。
意地になったせいもあるが、午後三時の配達では、いろいろさしさわりが出来て、おれは困るのだ。四日目に相手は言った。お宅のことはよく判っているし、気にもかけているが、しばらくお待ち願いたい。この間も集配人から、お宅で叱られたとの報告もあった。云々。
「冗談じゃないですよ。叱りはしませんよ。集配人を叱って、どうなるというものではないし」
午前中に配達して貰えんものかねえ、と言っただけのことが、叱責されたということになって、郵便課に伝わっている。どこでどう歪んで間違ったのか、おれには判らない。
とにかくあそこでは、このおれはウルサ型ということになっているらしい。普通に話しかけたのに、叱られたと感じるということは、これはただごとでない。そして相手は言った。
「そんなに遅れて困るのなら、取りに来たらどうですか。取りに来ては」
「そうですか」
とおれは言った。さっき言った通り、おれは電話口では腹を立てないことにしている。でも、こちらから取りに行くと申し出るのなら判るが、向うから取りに来いというのは、ムチャクチャな言い分である。区民を何と心得ているのだろう。
「ではいただきに上りますがね、このような遅配状態はいつ頃までつづきますか」
「そうだね。見当つかないね。当分続きますね」
電話を切り、家人に郵便を取りにやらせ、おれは机に向って、郵便局長宛てに手紙を書いた。当分続くと平気で答える心事が、当方としてはどうにも解(げ)せない。改善の意志はあるのか、ないのか。通信事務と書かず、ちゃんと十円切手を貼って出した。それが一箇月前のことだ。
局長からの返事は、今に到ってもない。配達状態は元のままである。
おれは今後税金を払うめをよそうと思う。本気でそう思っている。
(これは私が自分を見出す時間だ。)
リルケ 茅野蕭々譯
これは私が自分を見出す時間だ。
うす暗く牧場は風の中にゆれ、
凡ての白樺の樹皮は輝いて、
夕暮がその上に來る。
私はその沈默の中に生ひ育つて、
多くの枝で花咲きたい、
それもただ總べてのものと一緒に
一つの調和に踊り入る爲め……
せつちんばち 渠畧
蜉蝣
俗云雪隱蜂
【厠異名曰雪
隱而此蟲形
似蜂故名】
フエウ ユウ
本綱蜉蝣似𧏙蜋而小大如指頭身狹而長有肉黃黑色
甲下有翅能飛夏月雨後叢生糞土中朝生暮死猪好啖
之蓋𧏙蜋蜉蝣腹蜟天牛皆蠐螬蠹蝎所化也此尚𧏙蜋
之一種不可不知也 或云蜉蝣水蟲也狀似蠶蛾朝生
暮死
△按蜉蝣黃黒色身狹長細腰畧似蜂有角甲下有翅以
翅發聲其聲似蠅而太夏月四五隻群飛敵合然無螫
咂之害必非朝生暮死者唯魯鈍爲人易捕亦易死耳
不如蠅之易活也然則此與水蟲之蜉蝣同名異種矣
*
せつちんばち 渠畧〔(きよりやく)〕
蜉蝣
俗に云ふ、「雪隱蜂」。
【厠の異名を、雪隱と曰ふ。而も、此の蟲、形、蜂に似る。故に名づく。】
フエウ ユウ
「本綱」、蜉蝣は𧏙蜋〔(くそむし)〕に似て小さし。大いさ、指頭のごとく、身、狹〔(せば)ま〕りて長し。肉有り、黃黑色。甲の下に翅〔(はね)〕有り、能く飛ぶ。夏月、雨の後、糞土の中に叢生〔(さうせい)〕す。朝に生まれ、暮れに死す。猪、好みて之れを啖〔(くら)〕ふ。蓋し、𧏙蜋〔(くそむし)〕・蜉蝣〔(かげらふ)〕・腹蜟〔(にしどち)〕・天牛〔(かみきりむし)〕、皆、蠐螬(すくもむし)・蠹蝎(きくいむし)の化する所なり。此れ、尚ほ、𧏙蜋の一種〔なるを〕、知らざらんは、あるべからざるなり。或いは云ふ、『蜉蝣は水蟲なり。狀、蠶蛾〔(かひこが)〕に似て、朝に生〔(しやう)〕じ、暮れに死す。』と。
△按ずるに、蜉蝣〔(せつちんばち)〕は黃黒色、身、狹〔く〕長く、細き腰、畧〔(ほぼ)〕蜂に似て、角〔(つの)〕有り。甲の下に翅有り、翅を以つて聲を發す。其の聲蠅に似て太(ふと)し。夏月、四、五隻〔(ひき)〕、群飛〔し〕、敵(あた)り合ふ。然れども、螫(さ)し咂(す)ふの害、無し。必ずしも朝に生じ、暮れに死する者に非ず。唯だ、魯鈍にして人の爲に捕へ易く、亦、死に易きのみ。蠅の活(い)き易きに如〔(し)〕かざるなり。然れば則ち、此れ、水蟲の蜉蝣〔(かげらふ)〕と〔は〕同名異種ならん。
[やぶちゃん注:「本草綱目」の記載の方に非常に大きな問題点があるが、これは結果的に、僕らが小さな頃「便所蜂(べんじょばち)」と呼んでいた、
双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目アブ下目ミズアブ上科ミズアブ科 Sarginae 亜科 Ptecticus 属コウカアブ(後架虻)Ptecticus tenebrifer
である。ミズアブ科の中では大形種で、体長十一~二十三ミリメートル、体色は黒で、翅は全体が黒褐色、腹部の基部が白色、前脚と中脚の脛節基部と脛節(ふせつ)は黄白色を呈する。触角第二節の内側は先端が前方に突出している。成虫は便所・畜舎・芥溜め周辺に五~九月頃、普通に見られる。腹部の基部が細く、姿や飛び方も蜂に似ており、便所(後架)の周辺や内部を飛ぶので「ベンジョバチ」の呼び名があるが、人を刺すことはない。「刺された」とするネット投稿があるが、これは皮膚の表面をごく軽く表面的に舐められたに過ぎないか、別種の刺す虫によるものと思われる(そもそもがアブの類は基本、「刺して毒液を注入する」のではなく、大根おろし器のような口器で「舐め擦って体液を吸引する」のである)。産卵性で、幼虫は便所・畜舎の堆肥・芥溜めで発生し、形態は扁平で動きは鈍い。日本全土に分布し、中国・朝鮮半島・台湾にも棲息する。近年、形状が極めてこの種に似て(但し、以下に示す通り、全くの別種)触角が長く、腹部第二節に一対の白或いは黄色の紋があるアメリカミズアブ亜科 Hermetia属アメリカミズアブ Hermetia illucens が本邦に侵入、同じような場所に発生するために、在来種である我々の馴染みのコウカアブが駆逐され、姿が少なくなってきている。なお、コウカアブの近縁種キイロコウカアブPtecticus
auriferは、山地の便所や畜舎付近に多く、体長十六~二十二ミリメートルで体は黄褐色、腹部に白と黒の帯があり、翅は全体に黄褐色を呈し、六~十月に出現する。本邦全土の他、シベリア・中国・東南アジアに広く分布する(以上は主に小学館「日本大百科全書」の倉橋弘氏の解説に拠った)。
問題なのは、「本草綱目」が、「朝に生まれ、暮れに死す」などと記し、ご丁寧に最後にも「或いは云ふ、『蜉蝣は水蟲なり。狀、蠶蛾〔(かひこが)〕に似て、朝に生〔(しやう)〕じ、暮れに死す。』と」などと記してしまっていることである。これは言わずもがな、短命とされるカゲロウ類(真正の「カゲロウ」は昆虫綱蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeropteraに属する昆虫を総称するもので、昆虫の中で最初に翅を獲得したグループの一つであると考えられている。幼虫はすべて水生。不完全変態であるが、幼虫→亜成虫→成虫という半変態と呼ばれる特殊な変態を行い、成虫は軟弱で長い尾を持ち、寿命が短いことでよく知られる。但し、面倒臭いことに、ホンモノでないホンモノにそっくりな「カゲロウ」類を、多くの人は本物の「カゲロウ」とごっちゃにして理解している。『本物でない「カゲロウ」』とは、具体的には、有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属する種群、及び同じ脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する種群である。これらは形状は似ているものの、全く異なった種なのである。これは本テクストでもさんざん語ったし、他でも述べている。比較的くだくだしくない「生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 一 群集」の私の注などを参照されたい。
非常に救われる思いがするのは、寺島良安がそうした「本草綱目」のトンデモ記述を批判し、最後に「水蟲の蜉蝣とは同名異種ならん」とぶちかまして呉れていることである。やったね! 良安センセ!
・「𧏙蜋〔(くそむし)〕」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科 Scarabaeoidea 及びその近縁な科に属する昆虫の中でも主に哺乳類の糞を餌とする一群の昆虫。前項参照。
・「叢生〔(さうせい)〕す」群がって発生する。
・「蜉蝣〔(かげらふ)〕」ここは前に冒頭の注で示した誤った全くの異種を広汎に含んだカゲロウと呼称する昆虫類全般と採る。
・「腹蜟〔(にしどち)〕」半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ上科 Cicadoidea のセミ類の比較的終齢期の方に近い幼虫。先行する「腹蜟」を参照。
・「天牛〔(かみきりむし)〕」鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ(多食)亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae のカミキリムシ類。次の次に独立項で出る。
・「蠐螬(すくもむし)」取り敢えず以前、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela に属するコガネムシ類の幼虫とした。本「蟲部」冒頭の「蠐螬」を参照。
・「蠹蝎(きくいむし)」取り敢えず以前、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ(髪切虫・天牛)科 Cerambycidae の幼虫とした。先行する「蝎」(そこで「蝎」を「木蠹蟲」と別名で呼んでいる。因みに、ここの「蝎」は「サソリ」の意とは異なるので注意されたい)の項を参照。なお、以上の記載はまさに、実は中国の本草学に於いては、「蠐螬」や「蠹蝎」という語が、特定の生物種を指す語ではなく、昆虫類の多様な幼虫を大小・形状・棲息場所などを以って区別して指し示した語であることが明白となったとも言えるのである。
・「𧏙蜋の一種〔なるを〕、知らざらんは、あるべからざるなり」『この「せっちんばち」も「糞転がし」の一種であることをよく理解しないなどということは、あってはならない誤謬である』というのであるが、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目アブ下目ミズアブ上科ミズアブ科 Sarginae 亜科
Ptecticus 属コウカアブ(後架虻)Ptecticus
tenebrifer は鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科 Scarabaeoidea とは、全然、目レベルで異なる明後日の異種で、ちゃいまんがな!
・「蜉蝣は水蟲なり。狀、蠶蛾〔(かひこが)〕に似」これは明らかに幼虫が総て水生であるところの、真正のカゲロウ類、昆虫綱蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeropteraに属する昆虫を指している。
・「暮れに」実は以下二ヶ所のこの「暮れに」の原文の送り仮名は、どう見ても『ヘニ』としか見えない。しかしそれではどう読んでいるか不明なので、一般的な斯様な送り仮名としたものである。
・「咂(す)ふ」「吸ふ」に同じい。]
愁訴
リルケ 茅野蕭々譯
ああどんなに總べては遠く
また長く過ぎ去つたらう。
私は思ふ、
私がうける星は、
千年以來もう死んでゐる。
私は思ふ、
漕ぎ去つた小舟の中で、
何か氣づかはしい事を云つてゐるのをきいたと。
家の中で一つの時計が
鳴つた……
何處の家だらう……
私は私のこころから
大空の下に出たい。
私は祈りたい。
凡ての星の中の一つは
なほ本當にならなくてはならないのに。
私は知つてゐるやうに思ふ、
何の星がひとり
續いてゐたか、
どの星が白い野のやうに
九天の光の端に立つてゐるかを……
(あなたは未來だ。)
リルケ 茅野蕭々譯
あなたは未來だ。
永遠の平野の上の偉大な日の出だ。
あなたは時の夜の後の雞鳴、
露、朝の獵犬、また女だ、
見知らぬ男だ、母だ、死だ。
常に寂しく運命から卓出する
變轉する姿だ、
喜び迎ふるものも訴ふるものもなく、
記されることもない、野生の森のやうに。
あなたは、物ごとの深い總加だ。
その本質の最後の言葉は默つてゐる。
そして異る人には常に異つて見える。
船には岸と、陸には船と見える。
[やぶちゃん注:「雞鳴」は底本の用字である。「けいめい」で「鷄鳴(鶏鳴)」に同じい。]
せんちむし 蛣𧏙 推車客
くそむし 推丸 黑牛兒
𧏙蜋
鐡甲將軍
夜遊將軍
キヤン ラン 【和名久曽無之】
【一名末呂無之】
本綱𧏙蜋深目高鼻狀如羗胡背負黒甲狀如武士毎以
土包糞轉而成丸雄曳雌推置于坎中覆之而去數日有
小𧏙蜋出蓋孚乳于中也有大小二種大者身黒光腹翼
下有小黃子附母而飛晝伏夜出見燈光則來【以此可入用藥】其
小者身黒而暗晝飛夜伏【小者不堪藥用】狐並喜食之
𧏙蜋【鹹寒有毒五月五日採蒸藏之臨用去足火炙】手足陽明足厥陰之藥古方
治小兒驚風疳疾爲第一 治箭鏃入骨者用巴豆【微炒】
同𧏙蜋搗塗斯須痛定必微痒忍之待極痒不可忍乃
撼動拔之立出
𧏙蜋心 在腹下度取之其肉稍白是也能治丁瘡貼之
半日許再易血盡根出則癒
*
せんちむし 蛣𧏙〔(きつきやう)〕 推車客〔(すいしやかく)〕
くそむし 推丸〔(すいぐわん)〕 黑牛兒〔(こくぎゆうじ)〕
𧏙蜋
鐡甲將軍
夜遊將軍
キヤン ラン 【和名、久曽無之〔(くそむし)〕】
【一名、末呂無之〔(まろむし)〕】
「本綱」、𧏙蜋〔(きやうらう)〕は深き目、高き鼻。狀、羗胡(ゑびす)のごとく、背に黒き甲を負〔ふ〕狀〔かた〕ち、武士(もののふ)のごとし。毎〔(つね)〕に土を以つて糞を包み、轉〔(ころ)が〕して丸〔(ぐわん)〕と成して雄は曳(ひ)き、雌〔は〕、推〔(お)して〕坎〔(あな)〕の中に置き、之れを覆ひて去る。數日にして小𧏙蜋、出づ。蓋し、中に孚乳〔(ふにゆう)〕するなり。大小二種有り。大なる者、身、黒くして、光る。腹の翼下に小〔さき〕黃なる子〔(こ)〕有りて、母に附きて飛ぶ。晝、伏し、夜、出づ。燈光を見れば、則ち、來たる【此れを以つて用藥に入るべし。】。其の小なる者、身、黒くして暗し。晝、飛び、夜、伏す【小さき者、藥用に堪へず。】。狐〔(きつね)〕、並びに喜びて之れを食ふ。
𧏙蜋【鹹、寒。有毒。五月五日、採りて蒸し、之れを藏す。用ふるに臨みて、足を去り、火に炙〔(あぶ)〕る。】。手足の陽明、足の厥陰〔(けついん)〕の藥、古方に、小兒の驚風〔(きやうふう)〕・疳疾〔(かんしつ)〕を治するに第一と爲〔(す)〕。 箭鏃(やのね)、骨に入る者を治す。巴豆〔(はづ)〕を用ひ【微〔(わづ)〕かに炒〔(い)〕る】、𧏙蜋と同〔(あは)せ〕て搗〔(つ)〕きて、塗る。斯須(しばらく)して、痛み、定〔(や)む〕。必ず、微かに痒〔(かゆ)〕し。之れを忍(こら)へ、極めて痒くして忍〔(こら)〕ふべからざるを待ちて、乃ち、撼動(うご)かして之れを拔けば、立処〔(たちどころ)〕に出づ。
𧏙蜋心〔(きやうらうしん)〕 腹の下に在り。之れを度取〔(どしゆ)〕す。其の肉、稍(やや)白、是れなり。能く丁瘡〔(ちやうさう)〕を治す。之れを貼(つ)けて半日許〔(ばか)〕りにして、再び易〔(か)〕ふ。血、盡きて、根、出で、則ち、癒ゆ。
[やぶちゃん注:所謂、「スカラベ」(scarab:古代エジプト語起源)として知られる食糞性のコガネムシ類、
鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科
Scarabaeoidea 及びその近縁な科に属する昆虫の中でも主に哺乳類の糞を餌とする一群の昆虫
である。但し、真正の「スカラベ」である、
コガネムシ上科コガネムシ科ダイコクコガネ亜科 Scarabaeini 族タマオシコガネ属 Scarabaeus
の類は本邦には棲息しないから、ここでは、本邦に棲息する食糞性コガネムシの代表種であり、目にもつきやすい大きさで、鞠上の糞球を作るコガネムシ上科センチコガネ(雪隠黄金)科 Geotrupidae の三種、
センチコガネ Geotrupes laevistriatus
(成虫体長一四~二〇ミリメートル。頭部背面を覆った頭楯の前縁が半円形をしており、体色は紫・藍・金など個体変異があり、鈍い金属光沢を持つ。北海道島から屋久島・対馬まで分布し、朝鮮半島・中国大陸・樺太にも分布)
オオセンチコガネ Geotrupes auratus auratus
(成虫体長一六~二二ミリメートル。頭楯前縁が三角形に尖る。体表は一般には赤褐色・赤紫色であるが、地域によって鮮緑色・鮮藍色を有する個体もある。強い金属光沢があることで「センチコガネ」と区別出来る。分布域はセンチコガネとほぼ同じ。「ファーブル昆虫記」でファーブルが観察した種は本種の近縁種である)
オオシマセンチコガネ Geotrupes oshimanus
(体表の光沢は殆んどない。奄美大島固有種)
を種として挙げておくこととする。参照したウィキの「センチコガネ科」によれば、『成虫、幼虫共に糞を食べる糞虫である。和名の「センチ」は便所を指す語「雪隠(せっちん)」が訛ったもので、糞に集まる性質に由来する』。『成虫が出現するのは夏で、ウシやウマなどの糞、または動物の死骸や腐ったキノコにも見られる。夕方に地表付近を低く飛んで糞などの餌を探し、夜には灯火にも飛来する。ただし、センチコガネの地域個体群によっては飛翔筋が退化しており、歩行のみで移動する。交尾したメスは獣糞を土中の巣穴に引き込んでこれで育児球を作り、それに産卵する。このとき、育児球を枯葉で包むことが報告されており、この点がコガネムシ科の糞虫の育児球と異なる。孵化した幼虫は育児球を食べて成長する』(下線やぶちゃん)。『糞虫として自然界の物質循環に果たす役割は大きい。また金属光沢のある鮮やかな体色から、他の糞虫同様に昆虫採集の対象ともなっている』とある。
なお、冒頭に並ぶ「推車客」「推丸」「黑牛兒」「鐡甲將軍」「夜遊將軍」という漢名は、如何にも楽しく、腑に落ちる。
「末呂無之(まろむし)」「まろ」は「丸」で「丸いもの」を指す中古語で、室町以降に「まる」と変じた。「古事記」動詞としての排泄をするの意の「まる」はあるが、これが名詞化した糞を意味する「まり」は、芥川龍之介の「好色」辺りが初出とされているようだから、近代以降の呼称と思われる。従ってここは、「まろ」は「糞」の意味ではなく、糞を巧みに美事に「丸」く「鞠」のように転がす彼らの習性に基づく呼称と採りたい。
「羗胡(ゑびす)」教義には古代より中国西北部に住んでいる民族を指す。現在も中国の少数民族チャン族として存在しているが、ここは漢民族の顔つきとは有意に異なる、広義の異民族の謂いととってよかろう。
「雄は曳(ひ)き、雌は、推(お)して坎(あな)の中に置き、之れを覆ひて去る」私は昆虫には詳しくないので何とも言えないが、管見する限りでは、事実、糞球を作って転がすのは♂で、♀はそれに出逢って、その対象♂(或いは糞球)がよしとなれば、その糞にしがみつき、運ばれて行き、営巣して糞の下で交尾する種がある(mayayan215氏のブログ「ダラダラとムシャムシャ」の「フンコロガシの一生」に拠った)というから、かくなる共同作業にように見えたとしても、腑には落ちるというものである。
「孚乳〔(ふにゆう)〕」「孚」は「育むこと」、「乳」はこの場合、「育つこと」の意である。前で親は巣を去るとしているから、糞球の中に産み込まれた卵が孵化し、自律的に幼虫が糞を餌として食って成長することを言っている。但し、mayayan215氏の「フンコロガシの一生」には、『メスは、抗菌作用のある分泌物で卵を守り、孵化するまでの2ヶ月間、卵が腐ったり、菌に感染したりしないか、丹念に見守り、そのまま息絶えます』ともあるので、そうした♀が命をかけて育児するタイプではこれはまさに母が主体的に子を育てるの意とある。ウィキの「糞虫」にも、『成虫は糞玉を作り上げると出て行くものもあるが、ずっと付き添って糞玉の面倒を見るものもある。ファーブルの観察によると、ダイコクコガネの一種で、糞玉に付き添う成虫を取りのけると、数日のうちに糞玉はカビだらけになり、成虫を戻すとすぐにきれいにしたと』いうとある(但し、このファーブルの言及部分に就いては要文献特定詳細情報要請がかけられている)。
「大小二種有り」これは大陸の「本草綱目」の記載で、大きさや光沢の有無も有意に違い、しかも前者は夜行性、後者はそうでない点で明らかに習性が異なるので、種(亜種の可能性はある)は違うものと考えてよかろう。或いは、後者はフンコロガシでない生物種(フンコロガシの大半は夜行性である)を誤認している可能性もないとはいえない。ただ、ウィキの「糞虫」を見ると、本邦にいるタマオシコガネ亜科マメダルマコガネ族マメダルマコガネ属マメダルマコガネPanelus
parvulus がスカラベ類と同じ糞運びをすることが知られているが、体長が僅か三ミリメートルしかないので、目につかないとあるから、大きさの違いは問題にはならないし、光沢の有無も本邦種のセンチコガネ・オオセンチコガネ・オオシマセンチコガネの違いを見ても、それは同じように言える。ただ、気になるのは、「腹の翼下に小さき黃なる子(こ)有りて、母に附きて飛ぶ」という前者の奇妙な叙述で、この黄色い小さな子どもというのは、この虫の何らかの器官の一部と考えられ、さすれば、こちらの方こそ、実はフンコロガシ類とは違った種を誤認している可能性があるのかも知れぬ。昆虫守備範囲外の私には、これ以上の考察は出来ない。識者の御教授を乞うものである。
「並びに」(その違った習性を持つフンコロガシの)孰れをも。
喜びて之れを食ふ。
「五月五日、採りて蒸し」端午の節季を採取とするのは、無論、陰陽五行説などを援用して、成虫の薬効が、そこで最大最強となるとする認識があるからではあろうが、例えば本邦のセンチコガネの場合、成虫が出現するのは夏であるから(この「五月五日」は旧暦であるから夏である)、特定の日に限って採取をし、その他の時季のそれを禁ずることで、採り尽くさないようにする、伝統的本草学の、種を保存する理念の現われとも考え得る。
「藏す」保存する。
「手足の陽明」人体を巡る経絡(けいらく:ツボ)の一つ。ウィキの「手の陽明大腸経」(「経」は「けい」と読む)によれば、『大腸経に属する手を流れる陽経の経絡である。肺と大腸は共に中国の五行(木、火、土、金、水)でいうと金に属するため』、『密接な関係を持つ。また、『大腸はもとより、歯のまわりを取り囲んでいるため』、『歯痛にこの大腸経の経穴を使うこともある』とある。
「厥陰」前と同じく経絡の名。陰気進行の最終段階で、陰気が尽きて陽気が生じる意味を持つ。ウィキの「足の厥陰肝経」によれば、『肝経に属する足を流れる陰経の経絡である。肝臓と胆嚢は共に中国の五行(木、火、土、金、水)でいうと木に属するため』、『密接な関係を持つ。また、流注によると肝臓はもとより、目のまわりを取り囲んでいるため』、『目の痛みにこの肝経の経穴を使うこともある』とある。
「古方」古い漢方の処方。
「驚風」小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当する。次の「疳疾」も同類の症状を指す。
「箭鏃(やのね)」鏃(やじり)。
「巴豆(はづ)」キントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科ハズ連ハズ属ハズ Croton tiglium の実のこと。マメ科ではないので注意。実は凡そ一・五センチメートル弱の楕円形で中に三個の種子を持つ。ウィキの「ハズ」によれば、『種子から取れる油はハズ油(クロトン油)と呼ばれ、属名のついたクロトン酸のほか、オレイン酸・パルミチン酸・チグリン酸・ホルボールなどのエステルを含む。ハズ油は皮膚につくと炎症を起こす』。『巴豆は『神農本草経下品』や『金匱要略』に掲載されている漢方薬であり、強力な峻下』(しゅんげ:下剤効果の中でも強いものの様態を指す)『作用がある。走馬湯・紫円・備急円などの成分としても処方される。日本では毒薬または劇薬に指定』『されているため、通常は使用されない』とある。
「同〔(あは)せ〕て」私の推定訓読。
「斯須(しばらく)して」二字へのルビ。
「定〔(や)む〕」私の推定訓読。(痛みが)止まる。
「之れを忍(こら)へ、極めて痒くして忍〔(こら)〕ふべからざるを待ちて」これって結構、シンどそうだなぁ。
「撼動(うご)かして」二字へのルビ。揺り動かして。
「度取〔(どしゆ)〕す」私の推定読み。よく見極めて採取する。
「丁瘡〔(ちやうさう)〕」面疔(めんちょう)のこと。汗腺又は皮脂腺が化膿し、皮膚や皮下の結合組織に腫れ物を生じた症状が顔面に発症した場合を指す。
「根」腫れ物の化膿して生じた核である膿の囊(ふくろ)。]
[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年八月号『新潮』に発表された。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第六巻」を用いた。一部の語句について当該段落後にオリジナルに注を附した。]
空の下
西の低地から、煙が流れてくる。
私の庭先の、地上二米(メートル)ほどの高さを、それは淡くみだれた縞(しま)になって、ゆっくりと東へただよってゆく。縁側にすわって、とりとめもなく私はそれを眺めている。西風が吹いているんだな、などと思う。しかし目を立てて見ても、群れ立つ庭樹の梢や、地上の草花や雑草の穂が、ほとんど動いていないのは、風速がごく小さいせいだろう。ここにいる私の皮膚にも感じられない。だから煙がそこらを這っていても、煙の縞がもすこし濃くなってきたとしても、心配するほどのことはない。煙のにおいが微かに、鼻の奥を刺戟する。ものの焦(こ)げくすぶる、いがらっぽいにおいだ。そこでなにを燃しているのか、わざわざ縁側を降りて見に行かなくても、私には判っている。燃えているのは、古畳である。裏が白っぽく湿っているので、火付きが悪いのだ。昨日はよごれた座布団(ざぶとん)類だったし、一昨日は使いふるしの長火鉢であった。
一昨日の長火鉢は、古ぼけた割には頑丈な出来だったと見え、ぶっこわすのに大へん手間がかかった。沢庵石(たくわんいし)をぶつけたり、鍬(くわ)の背で叩いたりして、やっとばらばらにした。ばらばらにし終えたときは、さすがの飛松トリさんも、水から引き揚げられたゴムマリみたいに、顔じゅうを汗だらけにしていた。私はその光景を、西窓を細目にあけて、眺めていたのである。その飛松トリさんの傍では、近所の古畑ネギさんが、はらはらしたような声を出して、しきりにうろうろしていた。
「まあ、勿体(もったい)ないじゃないか。まだ使えるものを、そんなにまでしなくても」
「いいんですよ」顔の汗を手の甲で拭きながら、トリさんは邪慳(じゃけん)に言い放つ。「あたしはムシムシしてしようがないんだから」
[やぶちゃん注:「ムシムシして」不安や怒りなどで気分が晴れなくて。「ムシャクシャする」と同義。私は誰でも判る語だと思っていたが、「幻化」にこの語が出る部分を公開した際、注を附けずにおいたら、意味が判らないというメールを貰ったので、敢えてここで注しておく。]
「ムシムシするったって、ほんとにおよしよ。来年にまた、要(い)るもんじゃないかね」
トリさんは返事のかわりに、沢庵石を頭の上まで持ち上げ、地面にころがった猫板めがけて、勢いよく投げおろす。灰がバッと四散して、そこらあたりに濛々(もうもう)とたちのぼる。古畑ネギさんは袖で鼻をおおいながら、飛びはねるように後しざりする。灰のなかから呆(あき)れたような、こもった声がする。
[やぶちゃん注:「猫板」は「ねこいた」で、長火鉢の端の引き出し部分の上を蔽っている板を指す。暖かいので猫が蹲るところから、かく称する。]
「――わからずやだねえ。ほんとに。およしなさいってのに」
飛松トリさんは、三十がらみの独身女で、背丈も五尺三四寸はある。筋肉質のいい体軀をしている。灰神楽(はいかぐら)のなかを、片肌脱(ぬ)いでつっ立っているから、片方の胸の隆起がありありと見えた。そこにも汗が流れているに違いないから、やがてべたべたと灰まみれになるだろう。そのままつっぱねるように言う。
[やぶちゃん注:「五尺三四寸」百六十一~百六十四センチ弱。当時の女性の背丈としては高い。]
「だってムシムシするんだよ。仕方がないじゃないか」
毎年今ごろの季節になると、飛松トリさんはすこしずつおかしくなってくる。ふだんは無口なごくおとなしい女性だが、いつもこの若葉どきになると、気分のおさまりがつかなくなるらしく、所業も少々正常でなくなってくる。その時期が近づくと、眼の色が青みをおびてくるから大体わかるというのだが、私が確めたわけではないから、本当かどうかは判らない。いつか古畑ネギさんが、何かの話のついでに、私にそう教えて呉れたのである。
飛松トリは、その低地に建てられた細長い家の、いちばん端の部屋に住んでいる。その家の台所に接した北向きの六畳間だ。身寄りもほとんどないらしく、訪ねてくる人はあまりない。日当りのわるい六畳の部屋に、終日黙々として生活している。生活の資をどこから得ているのか、私はよく知らない。知りたい気持も、別にない。家賃の上(あが)りで生活しているのかとも想像されるが、しかしそれだけでは大変だろう。その細長い軒(のき)の低い家屋は、飛松トリの所有物なのである。私の居間の西窓をあけると、目とほとんど等高に、その細長い屋根の斜面が見える。軒庇(のきびさし)は古びて朽ちかけ、瓦も割れたり脱落したりしている。脱落した部分は、泥や黄土で補塡(ほてん)してある。よほど栄養のいい泥土をつかったと見え、いろんな草がそこに密生している。花をつけているのもある。鬼瓦の横にいま黄色い花をつけているのは、タンポポである。昨年の夏などは、どこから種がとんできたのか、ひょろひょろした向日葵(ひまわり)が一本生育し、直径三寸ほどの小さな花ゐつけ、一夏の風にゆらゆら揺れていた。今年はその跡に、小さな蕗(ふき)が三四本、ポン煎餅ほどの大きさの丸い葉を、つつましやかに拡げている。飛松トリの部屋は、大体その真下にあたる。その真下の部屋でトリさんは、この二三日来目玉を青くして、しきりにムシムシしているのである。ムシムシすると家財道具を燃したくなる気持は、私にもおぼろげながら判る。私もむかし、何度も何度も、そんな気持になったことがあるから。
[やぶちゃん注:「三寸」九センチ。]
毀(こわ)されてばらばらになった長火鉢は、古畑ネギさんの制止もふり切って、その日の夕方までにすっかり灰になってしまった。もともと長火鉢というものは、炭を燃すためのものであって、燃されるためにつくってはないから、まことに不本意な燃え方をして、灰になるまでにはなかなか時間がかかった。その跡におびただしく堆積(たいせき)した灰は、私が翌朝見たときは、そこからすっかり姿を消していた。その代り古畑一家の部屋の前の、猫の額(ひたい)ほどの庭のすみに、あたらしく灰の山がひとつできていた。いつの間にそこに移動したのか私も知らない。しかしそのうちに、古畑ネギさんが私の家に、上等の火鉢灰を売りつけに来るだろうという予感は、漠然とながら私にはある。
昨日も春にしてはむし暑い日だったので、飛松家の裏口では、古座布団や竹行李(たけこうり)などが、終日黄色い煙をあげて燃えていた。そこら中を飛び廻るようにして制止しているのは、やはり古畑ネギさんである。ネギさんとして見れば、みすみす物が燃えてしまうのは、ひとごとながら、居ても立ってもいられない気持なのだろう。その気持もいくらか判る。トリさんは前日と同じ恰好で煙のなかに佇(た)ち、衣紋竹(えもんだけ)で燃え殻をつついたり、煙にむせて烈しくせきこんだりしていた。なにしろいい体格だから、腕ずくでとめるのも容易ではなかろう。しかし私にしても、その自信は全然ないし、だいいち他人が他人のものを燃すのに、私が口を出すいわれがある筈もない。私の家に火がつかない限りは、物が燃えようと濡れようと、さしてかかわりのあることとも思えない。だからそれはそれでよろしい。ムシムシしているのは私ではなく、トリさんなのだから、トリさんの家財が燃えあがるのは、別に不自然なことではない。
[やぶちゃん注:「衣紋竹」和服を掛けておくための竹製の道具。これは無論、トリが一緒に燃やそうとしていた、トリのものである。]
今朝は早くから、私がまだ寝床にいるうちに、西窓の下手(しもて)にあたって、けたたましい声がした。鶏が鳴いているのかと、始めは思った。
「まあ、およしったら。畳まで燃すなんて、あんまり無茶過ぎるよ。およし。およしったら」
古畑ネギさんの声。そしてそれに和すように、おろおろした別の声が、
「およし遊ばせ。あら、ほんとに、およしになって。あらあら」
堀田というお内儀(かみ)さんの声である。今日は二人でとめている様子だ。トリさんの声は聞えなかった。黙々として作業に従事しているらしい。西窓からのぞいて見なくても、その情景はだいたい想像がつく。昨日おとといと、トリさんの胸のかなり見事な隆起は、見飽きるほど眺めたから、わざわざ立ってのぞいて見る嗜慾(しよく)もおこらない。その隆起を上下にゆるがせて、いよいよ古畳を引っぱり出そうとしているのだろう。昨秋の大掃除の折に見たが、あの家の畳は、裏がすっかり白っぽく黴(か)びて、しとしとと湿っていた。上をあるくとポクポクと凹(へこ)む。実はその手の畳が二枚、私の家のと入れ替わっている。大掃除のどさくさまぎれに、うまく間違えられてしまったのだ。だからそんなことまで私は知っているのだが、今トリさんが引きずり出しているのは、黴びてしめった方のやつだから、燃すのもさだめし骨が折れることだろう。そんなことを寝床でかんがえている間も、窓の外ではガヤガヤガヤと、声や音が入り乱れていたが、やがてひときわ甲高(かんだか)く、
「あなた。あなた!」
と叫ぶネギさんの声がした。手に負えずと見て、亭主を呼ぶ気になったらしい。しかしその返事は戻ってこなかったようである。ネギさんの亭主古畑大八郎は、生憎(あいにく)とその近くに居合わせなかったのか、あるいはまた、かかわっては損だとして、見て見ぬふりをしたのかも知れない。古畑大八郎という老人は、そういう性格の男なのである。私はこの老人に、千三百円ほどの貸金がある。
古畑夫妻は、この家の反対の端、道路に近い二部屋を占拠して住んでいる。二部屋といっても、一部屋はこの家の玄関である。飛松トリと古畑夫妻の中間の部屋には、さっきの堀田一族が居住している。つまりこの細長い家のなかには、三世帯が一列横隊にならび、それぞれの生活を営んでいるのである。家主はもちろん飛松トリさんであるが、彼女があとの二世帯に、いくらの家賃で部屋を貸しているのか、その家賃もきちんきちんと支払われているかどうか、私はよく知らない。しかし近所の噂では、ほとんど支払われていないという話だ。堀田家はそれでも、二三箇月に一度くらいは金を入れるらしいが、古畑家にいたっては、一文(もん)だに入れたことがないということである。噂だから当てにならないが、事実そういうことになっているかも知れない、とも思う。ふだんの飛松トリさんは、いい体格をしているくせに、気が弱くて無口で、あまり催促などができる人柄ではないようである。そこにつけこめば、家賃を踏み倒すのもむつかしいことではなかろう。いつだったか古畑老人がトリさんにむかって、こう怒鳴りつけているのを聞いたことがある。
「ぐずぐず言うなら、早速この家を出て行ってもらおう。あんたが居なくても、別段うちは困りやしないんだから」
家主がいなくても店子(たなこ)は困らないだろうけれども、この古畑大八郎の言い方は、世間の通念とはすこし逆のようであった。もっとも老人にして見れば、とっさの感想を、率直明快に表現したのかも知れない。
堀田一族はおおむね、子供から成り立っている。子供は何人いるのか判らない。皆同じような顔をしているので、ほとんど区別がつかない。四五人のようでもあるし、七八人のようでもある。じつとかたまっておれば数えられるだろうが、この子供たちはしょっちゅう動き廻っているので、正確な数はとらえがたい。朝から晩までそこら中をかけ廻っている。私の家の庭をも平気でかけ抜ける。庭というほどのものでなく、方六七間の空地にすぎないが、ぐるりを囲っていた竹垣が今はすっかり朽ち果てたので、誰でも自由に通り抜けられるのだ。もともと貧居人工に乏しく、雑草や灌木(かんぼく)が宅をおおっているだけだから、その灌木類を縫って、子供たちは騒然とわめき走る。しかしこれら子供たちも、この界隈(かいわい)のある一箇所だけは、はばかって近寄ろうとしない。それは古畑家の庭だ。古畑家と言っても、彼はほんとは間借人だから、特定の庭をもつ筈はないのだが、何時からか自分の部屋の前をキチンと竹垣で囲って、強引(ごういん)に他人の侵入をはばんでいる。空地は部屋に属しているという見解なのであろう。しかしその竹垣は、年々歳々、すこしずつ拡がってゆく傾向がある。その垣根はキチンと四角に仕切られてはいず、不規則な円形をなしているが、しかしそれがいっぺんにふくれ拡がってゆく訳ではない。タンコブのように、あちらがふくれたかと思うと、今度はこちらがふくれるという具合に、少しずつ版図(はんと)を拡げてゆくのである。いつ竹垣をうえかえるのか知らないが、昨年の今頃あたりから見ると、すでに古畑家の庭の面積は、約二倍に膨脹(ぼうちょう)したようである。その庭の手入れは、もっぱら古畑大八郎がやる。ほとんど一日の大半、彼はそれにかかり切っている。だから私の家の庭と違って、完全に手入れが行き届き、徹底的に整備してある。雑草などは一本も生えていない。丹念に育てられた花卉(かき)のたぐいが、いつもあざやかに季節の色を点じている。大八郎は一日のうち何度もここに降りてきて、花に水をやったり、肩をそびやかせてうろうろ見廻ったりするのである。
[やぶちゃん注:「方六七間」凡そ十一~十三メートル弱四方。]
古畑大八郎は六十がらみの、骨張った感じの老人だが、まだ腰はしゃんと伸びている。ネギさんとの間には、子供は一人もない。ただ二人きりで暮らしている。うまく民生委員にとり入って、生活保護法を受けているという話だが、その他の収入としては、ネギさんがちょこまかと動いて、物資を右から左へ流したり、そこらのものをチョロまかしたりして、さまざまの利得がある様子だ。私の家の畳を大掃除の折、二枚もチョロまかしたのは、この古畑一家だとは断定できないけれども、道路から見える古畑家の部屋の畳が、二枚だけ周囲と別の色をしているのは、事実である。道を通るときにそこをのぞき込んだりすると、古畑老人はとたんにとがめるような眼付きになって、私をにらみつける。老人の眼は四角な感じの隈で、ちょっとトーチカの銃眼に似ている。この眼でにらみつけるから、堀田家の子供たちといえども、容易に近寄らないのである。その四角な眼の奥で、この老人がなにを感じ、なにを考えているかは、私にもよく判らない。私と関係のないことだから、それほど判りたいとも思わない。しかしその網膜にうつる私自身の姿は、ある感じをもって、私にうすうすと想像できる。私はこの老人と、昨年までほとんど口を利(き)いたことがなかった。口を利くほどの用事がなかったからだ。ネギさんとは時々口を利く。ネギさんが私の家にいろんな物を売りつけに来るからである。使い残しの汲取券だとか、代用石鹼だとか、そんなこまごまとしたものを持ってくる。いつかは一番(ひとつが)いの小鳥を持って売りにきたこともあった。私の庭に無断でそっとカスミ網を張り、それで捕獲したものである。その他椎茸(しいたけ)。これもたしかに私の庭で栽培(さいばい)したもの。私が庭を放ってかえり見ないから、雑草のカーテンのむこうを、古畑一家は盛んに利用しているらしい気配がある。この間偶然踏みこんで見たら、小規模ながら畠ができていたのには、私もすこしおどろいた。しかしそれならそれで、私はかまわない。雑草の代りに三ツ葉が生えるだけだから、庭の眺めとしては、それほどプラスでもマイナスでもない。そういう気がする。その三ツ葉を束(たば)ねて、ネギさんは時々私に売りにくる。採り立てで新鮮だから、滋養分も豊富だというのである。ネギさんの言うことは、平生(へいぜい)あまり信用できないが、これが採り立てであることだけは、私も確実に信用する。なにしろ古畑家の荘園に、今しがたまで生えていたものに違いないから。新鮮であるからには、値段もなかなか安くない。金がないとことわっても、代はいつでもいいからと、ネギさんは無理矢理に置いてゆく。ツケがきくほど、私は信用されているらしい。古畑大八郎氏が私に金を借りにきたのも、そういうネギさんの信用と、いくらか関連があるのかも知れないと思う。
[やぶちゃん注:「汲取券」例えば、東京都では昭和四四(一九六九)年三月まで屎尿)しにょう)の汲み取りは有料で、手数料の徴収には「汲取券」が使われていた。「東京都清掃事業百年史」(PDF)に拠った。そこには昭和三十年代の屎尿汲取券の取扱店の写真も出る。私(昭和三十二年生まれ)には残念なことに記憶がない。
「代用石鹼」苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を主成分とする粘土の一種白土(はくど)などから製せられた石鹸の代用品であろう。粗悪なものでは油脂成分を全く持たないものもあったようである。]
それは今年の始めの、ある寒い日であった。古畑老人はどてらの着流しで、ふところ手のまま、ぬっと私の庭に入ってきた。古畑老人は心臓がわるいという話で、そのせいか皮膚は土色をしている。頭には黒灰色の髪がまばらに生えている。冬景色のなかに立たせて、これほどぴったりした人態(にんてい)は、他にあまり見当らないように思う。荒れ果てた私の庭の眺めも、中心点を得て、にわかに引き立つ感じであった。やがてその中心点が、しずかに口を開いた。金をすこしばかり融通(ゆうずう)して欲しいと言うのである。
「今はありません」と私は率直にことわった。実際に余分の金は私になかった筈だから。
「今はなければ、何時ありますか?」老人は低い含み声で、押しつけるように反問した。ブリキの貯金箱の差入口のようなれいの四角な眼が、まばたきもせず、じつと私の表情を凝視している。
その時どういう返事をしたのか、私はよく記憶していない。いい加減に話のつじつまを合わせて、私に現在は金がないことを納得(なっとく)させ、帰ってもらったのだろうと思う。いずれそのうちに、などと口を、辷(すべ)らせたかも知れない。そこらのやりとりは、どうもあやふやである。とにかく老人は、肩をそびやかすようにして、その日は得るところなく帰って行った。なにか無形のものは得たかは知れないが、実際の金は私から借り出せなかった。古畑大八郎とまとまった会話をしたのは、この日が始めてである。
一週間か十日か経った。私が銭湯のなかで、向いの川島さんと顔を合わせた。すると川島さんがすぐさま私に言った。
「古畑さんに金を貸すんだそうですね」
「なぜです?」と私は反問した。
「あなたから借りるあてがあるから、それまでに少し融通して呉れと、あの爺さんが言ってきましたよ」
「それで、貸したんですか?」
「ええ。二百円ばかり」川島さんは湯気の間から、照れたような、また憫(あわ)れむような笑い顔を、私の方にちらとむけた。そして言った。
「あのお爺さんと口をかわしたのは、これが始めてですよ。いつもツンとしててね」
「そう言えばそんな感じですね」
「二百円ほどでいいと言うんでしょう。貸さなきゃ悪いような気になってね」
それと同じようなことが、ほかにもあった。裏の秋野さんがやってきて、私に同様のことを言った。
「君。古畑に金を貸すんだってね」
それと同じ質問を、角の煙草屋のおかみさんからも受けたし、汲取屋の若者からも受けた。その若者は、私から汲取券をうけとりながら、小声でささやくように言った。
「あなた、古畑さんに融通して呉れるんでしょうね。ほんとでしょうね」
海岸の波打際にはだしで立っていると、波が足裏のへりの砂をすこしずつ持って行く。あれに似てくすぐったいような、快(こころ)よいような、忌々(いまいま)しいような感じが、私の全身にぼんやりと感じられた。どうも私の意思とは関係なく、なにかがしきりに進行しているらしい。私はその若者に訊(たず)ねてみた。
「それでいくら貸したんだね?」
「ええ。百二十円。そのほかに汲取代の貸しが、八荷分だったかな。まとめて払うと言ってね、なかなか払って呉れねえんですよ」
そんな風にして、古畑老人があちこちから借り集めた金は、私の集計ではざっと七八百円にのぼった。どうして古畑にそんな金が必要なのか、私にはよく判らなかった。するとある日、堀田のお内儀(かみ)さんがやってきた。あの子沢山のお内儀である。もっとも亭主はいないのだから、お内儀さんというより、未亡人というべきだろう。その色の黒いくたびれた顔の未亡人は、縁側に腰をおろして、怨(えん)ずるような声で私に言った。
「ほんとに困るんでございますのよ。あたしは夜なべをやっておりますでしょう。ですからねえ」
「そうでしょうねえ」
どんな夜なべをやっているのか、それでどうして困るのか、わけも判らないまま、私はとりあえず相槌(あいづち)を打った。古畑のこととなにか関係があるらしい。そういう予感が私にあった。なんだかひどく身体がだるいような気分である。未亡人はその私の顔を、チラと横目で見た。
「あなたはわらってらっしゃいますけれど、笑いごとではございませんのよ」未亡人は私の方に、ぐいと上半身を乗り出すようにした。「早くどうにかしていただかなくては、口が乾上(ひあが)ってしまいますわ。ご存じかも知れませんが、子供もたくさんおりますし――」
「ええ。しよつちゅうこの庭に、打連れて遊びにいらっしゃいますよ」
「そうでしょ」と未亡人は勢いこんだ声を出した。「あの子供たちが、夜中にオシッコをしたくなるでしょう。そうするとね、柱や壁に、頭や顔をぶっつけて、コブだらけなんでございますのよ。多いのは七つもコブをつくっておりましてね。近所からコブ大臣という綽名をつけられたりして――」
「どうしてそんなに、ぶっつかるのです?」
「あら。そりやぶつかりますわ。あたしだって、時にはぶつかるんですもの」
「だって柱や壁のあり場所は、ちゃんときまっているんでしょう」と私はいぶかしく訊ねた。「それともお宅の柱は、動いたりするのですか?」
「動く柱なんてありますか」未亡人の顔に急に赤味がさして、すこし荒い声になった。「電気ですよ。よくご存じのくせに」
「はあ。電気がどうかしたんですか?」
「切られたんですよ!」癪(しゃく)にさわってたまらない表情で、未亡人は舌打ちをした。「だから夜はまっくらですよ。ほんとにほんとに、しようがない」
電燈が止められたということが、やっとはっきり判った。そして未亡人の話によると、止められて一ヵ月近くになるそうである。そう言えばこの頃西の窓に、夜になっても燈影がささないと思った。しかしそのことが、私とどんな関係があるのか、まだ私にはよく判らなかった。すると堀田未亡人は、睨むような、また流眄(ながしめ)みたいな眼付きになって、教えるような口調で言った。
「だってあなたは、古畑さんにお金を融通するって、そう約束なさったんでしょ。あたしと飛松さんの分は、もうまとめて、古畑さんにお渡ししてあるんですよ」
電気代の滞納を三等分して、二世帯分はすでに調達でき、あとは古畑家の分だけだと言うのだ。そして未亡人が催促すると、古畑大八郎の言い分は、私から金を融通受けしだい直ちにまとめて配電会社に支払うというのである。私は少しばかりは驚く気持にもなった。あの寒い日、そんな約束はしなかったように思うけれども、言葉のやりとりの中から、あるいは古畑老人は自分に都合のいい言葉を見付けて、いずれ借りられるものと解釈したのかも知れない。それが古畑老人の誤解であるとしても、未亡人の話では、事態はすでに遅すぎるようであった。私が意識しない間に、私が金を借り出される条件はすべてととのい、たくさんの人がその日を待ちくたびれている気配である。状況がこうであれば、私としてはどうしたらいいだろう。私は少しおどろき、また少しがっかりして、最後におそるおそる訊ねてみた。
「それであなたは、その催促にいらっしゃった訳ですね」
「ええ。古畑さんが、貴方の様子を見てこいと、そうおっしゃいましたのでね、こうしてお伺いしたんでございますのよ」
それから未亡人が戻って行って、古畑大八郎にどんな報告をしたのか、よく判らないけれども、翌朝老人自らがやってきて、千三百円という大金を、私は簡単に借りられてしまったのである。ふだんの私ならば貸す筈はないのであるが、ずいぶん手のこんだ工作に眩惑(げんわく)されて、ついうかうかと手渡してしまった。いつ戻して呉れるかということを、確める余裕すらなかった。その朝古畑老人は、私が寝ているうちに庭に入ってきて、あわてて起き直ろうとする私にむかって、単刀直入に口を切ったのである。
「千三百円ほど、貸していただきたい」
貸していただきたい、と言ったのか、貸していただく、と言ったのか、はっきりしなかった。後者だったかも知れない。低い含み声だったけれども、それは自信に満ち満ちた高圧的な口調であった。そして私からその金額を受取ると、ことさらムッとした不機嫌な表情をつくり、くるりと背をむけて、さも忙しげにトットッと帰って行った。今考えるとその態度は、私に余計な質問を封じる魂胆(こんたん)からだったとも思われる。
その夜、私が西窓を細目にあけてのぞくと、細長い家の各部屋部屋に、黄色い電燈がともり、その下で集って食事している堀田家族や、寝そべって新聞を読んでいる古畑夫妻の姿などが望見された。ガラス障子を透かした燈の光が、古畑家の小庭の草花の色までも、ぼんやりと浮き上らせていたのである。それを見たとき、うまくしてやられたという感じが、始めて私をほのぼのと包んできた。巧妙にしつらえられた据膳(すえぜん)を、前後を見定めもせず、私はうっかりと食べてしまったらしい。電燈がついたからには、滞納金はおさめたに違いないが、私の名において借り集めた金を、川島や秋野や汲取屋などに返済したかどうかは、私は知らない。今もって知らないのである。
今この縁側から、トリさんが燃す畳の煙のむこう、私の庭から一段低くなった古畑の小庭に、古畑大八郎の姿が見える。私の眠から横向きにしゃがんで、指先で草の花を愛撫している様子である。古畑家の庭は、いま三色菫(さんしょくすみれ)が真盛りである。自や紫や黄色の花々が、二列縦隊にならんで咲きほこっている。その花片の模様は、ちょっと人間の顔に似ている。顔をしかめた小人(こびと)らが、ずらずらと並んでいるように見える。古畑老人の骨張った指が、その小人らの顔を、ひとつずつ丹念に触っている。そして老人の無表情な四角な眼が、舐(な)めるようにそこに動いている。あの老人の眼からすれば、この三色董の顔の方が、人間の顔よりも、もっと人間らしく見えるのかも知れない。ことに私の顔などは、どうも顔の中に入っていないのではないか、とも思われる節がある。あれから二ヵ月も経つのに、古畑大八郎は未だに私に、全然金を戻して呉れないのである。
あれから一月ほど経って、古畑の方から何も連結がないものだから、どうも放って置けないような気持になって、私は古畑家をおとずれた。ものごとを放って置けないような気持になることが、怠惰(たいだ)な私にも、時にはあるのである。古畑大八郎は部屋の中にいた。れいの二枚だけすり切れていない畳の上に、大あぐらをかいて、皿から南京豆をポリポリと食べていた。私の顔を見ても、皿を片付けようともせず、しきりに南京豆を口に運んでいる。ネギさんは縁側で、亭主に背をむけて、針仕事か何かをしていた。同じ部屋にいるくせに、この夫とその妻の間には、通い合うものが微塵(みじん)もないような、そんなへンテコな印象が第一にきた。丁度(ちょうど)動物園の檻(おり)のなかで二匹の獣がそれぞれそっぽを向いて、勝手気ままにうずくまっている、そんな感じにそっくりであった。私が庭に入って行っても、二人ともちらと私を見ただけで、あとは相変らず自分の作業に没頭している。
「古畑さん」と私は呼びかけた。もちろん大八郎に向ってである。「せんだって御用立てしたお金のことで、今日はお伺いしたのですが――」
大八郎は顔を上げ、四角な眼をぐっと見開いて、私を見た。その手は相変らず規則正しく動いて、南京豆をつまみ上げている。豆を嚙むのに忙がしいのか、返事すらしない。
「――もうそろそろ、あれから、一ヵ月近くになりますし、私も近頃手もとが不如意(ふにょい)になってきたんですが――」
カラッポみたいな感じのする眼窩(がんか)を、ひたと私に固定させて、大八郎は黙りこくって豆を食べている。向うが何ともしゃべらないから、とぎれとぎれでも、私がしゃべらなくてはならない。力こぶが入るような入らないような、妙な気持になりながら、私はあやふやに言葉をつづけた。
「――そういう事情ですから、一応のきまりをここでつけていただきたいと、実はそう思いまして……」
そっぽ向いて針仕事していたネギさんが、その時突然アアッと大あくびをして、そそくさと立ち上り、便所の方へ消えて行った。大八郎は依然として豆を嚙みながら、四角な眼でじっと私を見据(す)えている。とたんに何かが見る見る萎縮(いしゅく)して、催促する気分がすっかりこわれてしまった。それでその日は、そのまま空(むな)しく帰ってきた。とぼとぼと帰りながら私は、その大八郎のとった方策が、『睨(にら)み返し』という手であることに、卒然として思い当った。こういう撃退方法を、私はいつか寄席(よせ)で聞いたことがある。しかしこのような方法は、落語の世界にあるだけだと思っていたが、現実にあり得るとは全く知らなかった。妙な可笑(おか)しさが私をさそった。睨み返された自分自身をも含めて、隠微な笑いが私の下腹をしばらく痙攣(けいれん)させた。あの芸を見るのに、一回分百円ずつ出すとすれば、あと十二回は催促に行かねばなるまい。百円ぐらいの価値はあるだろう。そうすれば週に一回行くとして、あと三ヵ月はかかる計算になる。それまでにひょっとすると、大八郎が根負けしてしまうかも知れないが、それならばまた、それでもよろしい。
その日から一週間日ごとに、私は規則正しく古畑家をおとずれ、規則正しく睨み返されて戻ってくるのである。大八郎は部屋にいることもあるし、庭に出ていることもあるし、縁側に腰をかけているときもあるが、私に相対して、口を利かないと言う点では、いつも同じである。失語症にかかりでもしたかのように、私の顔をまじまじと見詰めているだけだ。一応の芸ではあるが、芸がないと言えば、そうも言えるかも知れない。ネギさんは相変らず、こまごましたものをたずさえて、私の家に売り込みにくる。私の要不要にかかわらず、物さえあれば一応は、私に持ちこんでくる習慣のようである。この間などは、どこから手に入れたか知らないが、上等皮製の犬の頸輪(くびわ)を売りつけに来たことがあった。飼犬もいない私の家に売りつけて、どうしようと言うのだろう。彼女はよごれをふせぐために、いつも白い布片を着物の襟(えり)にかけている。髪を引詰めて結(ゆ)っているので、眼尻がすこし上に引きつれている。ネギさんの眼は、亭主のそれと異って、丸い眼である。その眼をしきりにパチパチさせて、ぼそぼそと言葉を並べ、是が非でも私に買わせようとする。大八郎と私との金のいきさつには、彼女は全然素知らぬふりをしている。ふりではなく、実際に関係がないのかも知れない。夫婦は車輪のようだと言うが、古畑夫妻はこわれ果てた荷車のように、双の車輪は別別の方角を向いて、別々の廻り方をしているようだ。げんに今も、草花を愛撫する老人のそばで、ネギさんはれいの長火鉢の灰を、せっせとふるいにかけている。お互いに背をむけ合ったままである。話し合う気配すら全然ない。しかしそこに、隔絶した平安とでも言ったようなものが、うすうすとただよっている。むし暑くどろりと濁った春の午後の空の下で、それらは動かなければ、材木か石のように見えるだろう。そして向うから眺めれば、きっとこの私もそのように見えるのだろう。煙がまだ雑草灌木の上を、淡く縞(しま)になってゆるゆると棚引(たなび)いている。あの古畳も、すっかり燃え切るまでには、夕方までかかるかも知れない。
[やぶちゃん注:太字「ふり」は底本では傍点「ヽ」。]
[やぶちゃん注:初出誌未詳。単行本「馬のあくび」(昭和三二(一九五七)年一月現代社刊)に収録されている童話。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第三巻」を用いた。この幼年期へのオマージュは極めてリアルで、そうして、切ない。]
クマゼミとタマゴ
次郎はセミ取り竿をななめにかまえ、庭を横切って、忍び足でニワトリ小屋に近づきました。ニワトリ小屋の入口の柱に、大きなクマゼミがとまっているのです。
クマゼミというセミを、皆さん知っていますか。セミの中でも一番大きい、ワシワシワシと鳴く、あのセミのことです。そのクマゼミが一匹、柱にとりついて、胴体や尻をふるわせながら、今やワシワシワシと鳴き立てていました。
金網にかこまれた、ニワトリ小屋の中で、オンドリが首を立てて、ゆうゆうと歩いていました。メンドリは巣箱の中に坐って、じつとしていましたが、ふっと顔を上げて、低い声でコココと鳴きました。やっと卵を産みおとしたらしいのです。
オンドリはハッとしたように、メンドリの方を見ました。そしてあわてて咽喉(のど)を張って、
「コケッコココ、ケッココ、ケッコココ」
と騒ぎ立てました。その声を聞いて、クマゼミはふいに鳴き止みました。
次郎はとたんに腹が立ちました。オンドリの騒ぎを聞いて、セミが用心をしたらしいからです。せっかくつかまえようとするのに、用心されては、取りにがすおそれがある。
次郎はパッと柱のクマゼミに竿を近づけました。とたんにセミは、ジイッと言うような声を残して、すばやくむこうに飛んでゆきました。
「しまった!」
と次郎は思わず叫びました。取りにがしてみると、あのセミは今までにない大きなセミだったような気がして、じだんだを踏みながら、竿で金網をたたきました。
オンドリはそれにもかまわず、
「ケッココ、ケッココ」
と騒いでいます。巣箱からメンドリがごそごそと出て来ました。
まっしろな卵がひとつ、巣箱のわらの上に乗っていました。次郎はそれを見て、足踏みをやめました。
「ははあ。卵を産んだんだな」
ニワトリが卵を産んだとお母さんに知らせようか、それとも小屋に入って卵をとり、お母さんのところへ持って行こうかと、次郎はちょっと迷いました。なぜなら、次郎はいつもお母さんから、ひとりでニワトリ小屋に入ってはいけないと、くれぐれも言われていたからです。
「しかし、卵をとるために入るんだから」
と次郎は思いました。
「いたずらで入るんじゃないから、叱られはしないだろう」
次郎はセミ取り竿を投げ捨て、金網戸を押して、そっと中に入りました。
するとオンドリは急に鳴き止んで、すこし羽根をふくらませて、じろりと次郎を見ました。なんだか怒っているようなのです。
「トトトトト」
ちょっと気味が悪くなってきたものですから、次郎はそう言いました。なだめるつもりなのです。
「トトトト」
そう言いながら、次郎はそろそろと巣箱に近づきました。オンドリも黙って、次郎のあとをくっついて来ます。その時、メンドリの方は小屋のすみで、クククと鳴きました。
次郎は用心しながら腰を曲げて、巣箱の卵をぐいとつかみました。すべすべした、まだあたたかい卵です。
その瞬間、オンドリはすこし飛び上るようにして、それと同時にかたいクチバシで、次郎の手の甲をコツンとつつきました。その痛さったら、思わず声を立てるほどでした。
次郎はしかし歯を食いしばって、入口の方に歩きました。するとオンドリは追いすがって、今度は次郎の足首をコツンとつつきました。
「痛いッ」
大急ぎで戸の外に出ると、次郎は卵を握りしめたまま、母屋(おもや)の方に一所懸命にかけ出しました。涙が出かかり、泣き声が咽喉(のど)から出そうになるのを、必死にこらえて、次郎は走りました。母屋までが、いつもより三倍も四倍も遠く感じられました。
そして台所にかけこんで、お母さんの顔を見た瞬間、次郎はこらえにこらえていた涙を滝のように流し、大声で泣きわめきました。泣いても泣いても、涙はあとからあとからあふれ出ました。
――それから三十年たちます。次郎はすっかり大人になって、元気に働いていますが、夏になると、時々三十年前のその日のことを思い出します。卵を握りしめて庭を走った幼ない自分の姿を思うと、今でもなにか胸が苦しくなってくるのです。
(誰が私に言ひ得る。)
リルケ 茅野蕭々譯
誰が私に言ひ得る。
何處に私の生が行きつくかを。
私も亦た嵐の中に過ぎゆき、
波として池に棲むのではないか。
また私は未だ春に蒼白く凍つてゐる
白樺ではないのか。
(お前は人生を理解してはならない。)
リルケ 茅野蕭々譯
お前は人生を理解してはならない。
すると人生は祭のやうになる。
丁度子供が進みながら
あらゆる風から
澤山の花を贈つて貰ふやうに、
每日そのやうにさせるのだ
その花を集めて、貯へる
そんなことを子供は思はない。
花が捕はれてゐたがつた
髮から輕くそれを拂つて
子供は愛らしい若い年々に
新しい花を求めて兩手を差出す。
(幾度か深い夜に、)
リルケ 茅野蕭々譯
幾度か深い夜に、
風は小兒のやうに眼を覺まして、
並木路をひとり
かすかに、かすかに村に入る。
池の邊まで探り寄つて、
風はあたりに耳を傾ける。
家々は皆な蒼ざめ、
樫の木は默してゐる……
ピアノの練習
リルケ 茅野蕭々譯
夏は唸り、午後は疲れさす。
彼女は思ひ亂れて新鮮な著物の香をかぎ、
漂ふエチュウドに現實を求める
やるせなさを込めた。
現實は明日にも、その夜にも來るかもしれなかつた。
恐らくは來たのを人が隱したのかも知れない。
そして高い、すべてを持つ窗の前に
彼女は急に氣隨な庭苑を感じた。
其處で止めて、外を見た、
手を組んだ。長い書物が欲しくなつた。
そして急に怒つてヤスミンの匂を
押返した。それが彼女を傷けたことを知つたのだ。
[やぶちゃん注:「エチュウド」原文“Etüde”。フランス語由来の綴り。言わずもがな、練習曲の意。
「氣隨」「きずい」。自分の思いのままに振る舞うこと。好き勝手。「気儘(きまま)」と同義。
「ヤスミンの匂」原文は“Jasmingeruch”。「ジャスミンの匂(にほ)ひ」。シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ(素馨)属 Jasminum
の総称。]
(深夜に私はお前を掘る。寶よ。)
リルケ 茅野蕭々譯
深夜に私はお前を掘る。寶よ。
私が見た總べての盈溢も、
まだ來ないお前の美に比べると、
貧しくまた見すぼらしい補足だ。
しかしお前にゆく路は恐しく遠く、
久しく通つた者もないので埋れてゐる。
ああお前は寂しい。お前こそ寂寥だ、
ああ遠い谷へゆく心よ。
掘るために血が出る兩手を
私は風の中に開きかかげる、
樹のやうに枝を出せよと。
私はその手でお前を空間から飮む、
丁度氣短かな身振をして
お前が彼處に碎け散つたかのやうに、
さうして今は塵のやうに碎けた世界が
遠い星からまた地の上に、
春雨の降るやうに軟く落ちるかのやうに。
[やぶちゃん注:底本校注によれば、二箇所の「掘る」は「リルケ詩抄」では「堀る」となっているのを「リルケ詩集」では訂してあるのに従ったとある。されば、ここは底本に従った。
「盈溢」「えいいつ」と読む。物事が満ちあふれるさまを謂う。
「彼處」「あそこ」と訓じておく。]
薔薇の内部
リルケ 茅野蕭々譯
何處にこの内部に叶ふ
外部がある。どんな痛みを
人はかういふ麻布で蔽ふのか。
なんといふ天が此中に映ずるのだ。
これ等の開いた薔薇の、
憂のない花の
内海に。見よ、
彼等がゆるやかの中の緩かに
橫つてゐるさまを、慄へる手が
彼等を散りこぼすことも出來ぬやうに。
彼等は殆ど自分をも保てない。
多くの花は溢れさせ、
内部から流れ越え、
いよいよ充ちてゆく
日の中へこぼれ入る。
全き夏が一つの部屋になるまで、
夢の中の一つの部屋に。
[やぶちゃん注:「橫つて」「よこたはつて」。]
(高臺にはなほ日ざしがある。)
リルケ 茅野蕭々譯
高臺にはなほ日ざしがある。
それで私は新しい喜悦を感ずる。
今若し私が夕ぐれの中を摑めたら、
私は凡ての街に黃金を
私の靜けさから蒔くことが出來るだらう。
私は今世の中から遠く離れ、
その晩い輝きで、
私の嚴肅な孤獨に笹緣をつける。
あだかも今誰かが
私が恥ぢない程にやさしく、
そつと私の名を奪ふやうだ。
それから私は最う名が要らないのを知つてゐる。
[やぶちゃん注:第二連三行目の「笹緣」は「ささべり」で、衣服の縁や、袋物や茣蓙などの縁(へり)の部分を補強や装飾の目的から、布や扁平な組紐などで細く縁取(ふちど)ったものを指す。「私の生家」に既出既注。]
盲ひつつある女
リルケ 茅野蕭々譯
その女(ひと)は他の人々のやうにお茶に坐つてゐた。
私には何だか其女が茶椀を
他人とは少し違つて持つやうに思へた。
一度ほほ笑むだ。痛ましい程に。
終に人々が立上つて話をし、
偶然ではあつたが、徐ろに多くの部屋を
通つて行つた時、(人々は話した、笑つた、)
私はその女を見た。その女は他の人々の後をついて來た。
直ぐ歌はなくてはならない人のやうに、
しかも、大勢の前で、控目に、
喜んでゐるその明るい眼の上には、
池の面へのやうに外からの光があつた。
その女は靜に從(つい)て來た。長くかかつた。
何かをなほ越さなかつたやうに、
しかし、越した後は、もう
步かずに飛翔するだらうと思ふやうに。
秋
リルケ 茅野蕭々譯
葉が落ちる、遠くからのやうに落ちる、
大空の遠い園が枯れるやうに
物を否定する身振で落ちる。
さうして重い地は夜々に
あらゆる星の中から寂寥へ落ちる。
我々はすべて落ちる。この手も落ちる。
他を御覽。總てに落下がある。
しかし一人ゐる、この落下を
限なくやさしく兩手で支へる者が。
追憶
リルケ 茅野蕭々譯
そして私は待つてゐた、待ちまうけてゐた。
私の生命を無限に增す一事を。
力あるもの普通(なみ)ならぬものを、
石の眼ざめるのを、
私に向いている深いものを。
書架にある金や褐色の
書籍は薄明になつて來る。
私は通り過ぎた國々や、
多くの光景や、再び失つた
女たちの衣裳のことを考へる。
その時私は突然知る、これだつたと。
私は立上る。私の前には
過ぎ去つた一年の
怖と、姿と、祈禱とが訴へてゐる。
[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年二月号『群像』初出。なお、梅崎春生には実体験に基づく奇体なトラブルをも記した随筆「モデル小説」がある(リンク先は私の注附きの電子テクスト)。未読の方は、どうぞ。また、私は以前にも梅崎春生の注で述べたが、阿倍公房の小説は「赤い繭」を除いて、一度として面白いと思ったことがないのだが、この梅崎春生の「モデル」は遙かにシュールで確実に面白いと思っている。]
モデル
初めに封書がやって来た。開封したが、身に覚えのないことが書いてあるので、黙殺した。破って捨てた。一週間ぐらい経つと、ハガキが来た。なぜ返事を呉れないかと言う詰問である。返答しようにも、返答しようがないから、これも放って置いた。五日目に電話がかかって来た。
「一体どうして返事を呉れないのです?」
電話口に出たのが私だと確めると、その声は言った。へんにきんきん響くような、いくらか女性的な声だ。
「あの小説のおかげで、うちはたいへん迷惑しているんですよ」
「そんなことを言ったって」
私はうんざりした気分で抗弁した。
「僕は君に一面識もないし、したがって小説のモデルにするわけがない。それは言いがかりと言うもんですよ」
「言いがかり?」
見知らぬ男の声は激した。
「そんなしらじらしいことが、よく言えたもんですね。あくまでしらを切ると言うのなら、こちらにも覚悟がありますよ」
いくら覚悟があると言っても、こちらにはあくまで覚えがないのだから、どうしようもない。少々精神に異状があるのではないか。そう思ったから、いい加減にあしらって、電話を切った。切ったあと、あまり後味が良くなかった。もしかすると何かたくらんでいるのかも知れない。その疑念が私を重苦しくした。
その翌日、当人が直接やって来た。家人が持って来た名刺に『小久保太郎』とあるので、あの手紙の差出人だとすぐに知れた。名刺に肩書はついていない。姓名と住所だけである。だからどんな職業か判らない。しばらく名刺を眺めながら、書斎に上げようか、それとも玄関で追い返そうかと思案したが、あのしつこさから見て玄関で帰るような男でもなさそうなので、結局上げることにした。背の丈は五尺五寸ぐらいの、眼のぎょろりとした四十前後の男が、すり足のような恰好をして、しずしずと書斎に入って来た。くたびれたコールテンのズボンなんかをはいて身なりはあまり良くない。[やぶちゃん注:「五尺五寸」一六六・六センチメートル。後で「背は私とおっつかっつで」とあるが、事実、梅崎春生は背が高かった。]
「初めまして――」
おれは礼儀がいいんだぞ、育ちがいいから、怒っている時でも礼は失わないんだぞ、と言ったようなやり方で、彼は机の向うに坐って、ふかぶかと頭を下げた。電話と同じくきんきん声である。
「いや。こちらこそ」
私も頭を下げながら、油断なく上眼を使って、相手を観察する。背は私とおっつかっつで、眼付きはぎろりとしているが、体格の方はあまり良くない。腕も細そうだし、胴休もくにゃりとして、何だか泥鰌(どじょう)に似ている。あんまり強そうでないから、私も安心して強気に出た。
「この間から、電話や手紙で、変な言いがかりをつけて来るようだが、こちらは迷惑だよ。一体今日はどういう用件なんです?」
「用件? 用件は判ってるでしょう」
気押されたように眼をぱちぱちさせたが、すぐに立ち直った。
「ちゃんと手紙に書いといた筈です。どうしてあんたは、僕にことわりもなく、僕のことを小説に書いたんですか」
「そう言う覚えはないんだがねえ。一体何と言う小説だね?」
「きまってるじゃないですか」
彼はコールテンの膝をぐいと乗り出した。
「あの〈嘘の宿〉と言うやつですよ。あれでもって、あたしのことを――」
「ちょっと待って呉れ。ちょっと」
私はあわてて掌で制した。
「あの〈嘘の宿〉と言うのはだね、僕が頭ででっち上げた作品だよ。つまり空想で書いたのだ。君は何かかん違いをしているんじゃないですか?」
「かん違いなんかするものですか。ちゃんと僕は――」
「僕はと言うけれども、その僕に、僕は今日初めて会ったんですよ。会ったこともない人間をモデルに、小説が書けるものか」
「書けますよ。あんたは豊臣秀吉に会ったこともないのに、秀吉をモデルにした小説が書ける」
小久保は右手を上げて、何か引っ掻くトレーニングのように、指をくねくねと屈伸させた。五本とも妙に長い指だ。
「あたしのことをどこからか聞いて来て、そいつを小説に仕立てたんでしょう。それとも私立探偵か何かを使って――」
自分のことを僕と呼んだり、あたしと呼んだりする。その度に感じが変る。
「私立探偵? 人聞きの悪いことを言わないで呉れ。私立探偵を使うほど、僕はまだ空想力は枯渇していないよ。飛んだ言いがかりだ。一体あの小説のどこが君をモデルにしていると言うんだね?」
「全部ですよ。第一主人公の名前からしてそうだ。僕は小久保、小説では大久保、小を大に変えただけの話じゃないですか」
「大久保なんてざらにある名前だ。偶然の一致だよ」
私は声を荒くした。
「名前の相似だけで因縁つけられちゃかなわない。それにあの小説の主人公は画描きだよ。ところが君は――」
「へえ。あたしも画描きですよ」
彼は掌でぶるんと鼻をこすり上げ、机にさえぎられてここからは見えないが、それをコールテンズボンにこすりつけたらしい。何もそんなに得意がらなくてもよかろうに、と思う。
「アトリエ付きの家を借りてんですよ」
「そうかね」
何だか話がややこしくなって来たようだ。小久保の眉がびくびくと動いた。
「あんたの小説じゃ、その家賃を五ヵ月もためていることになっている!」
「君はためていないのか」
「そ、そりや少々ためていますがね、五ヵ月なんて、そんな――」
小久保は嘆息した。
「五ヵ月もためているように書かれちゃ、近所に対して恥かしくって、外に出歩きも出来ない。一体どうして呉れるんです?」
「だって、ためてることはためているんだろう。仕方がないじゃないか」
私は何か混乱して、自分の墓穴を掘るに似た応答をした。
「それだけなら我慢しますよ。あたしにもね、女房が一人いるんです」
「そりや誰だって女房は一人にきまっているよ」
「僕の女房はよし子、あの小説では安子でしたね」
「そうだ」
「その安子が若い男に誘惑されて、つまりよろめく」
「おい、おい。僕の机を爪でそんなに引っ掻かないで呉れ。傷になるじゃないか」
小久保は不承不承(ふしょうぶしょう)、机の上から両手を引っ込めた。感情が激すると、ものを引っ掻きたくなる性分らしい。
「一体あれはどういうことなんです?」
「ど、どういうことって――」
私はどもった。だんだん形勢がおかしくなって来る。
「君の奥さんも、つまりあの安子のように、よろめいたのか」
「よろめくもんですか。あんまりバカにしないで下さいよ」
また手を机に伸ばそうとしたが、思い直したらしく引っ込めた。無念やる方なげに、眼をぎろぎろさせた。
「うちのよし子は、この僕に心服している。こんないい亭主はないと思っているんですよ。それをあんな具合に、姦通するような具合に書かれて、たまった話ですか!」
「ちょっと待って呉れ」
「いや。待てない。そりゃうちに若い男が一人出入りしていますよ。でもあれはよし子の従弟なんだ。あんたが邪推するような、そんな間柄ではない!」
「待てと言ったら、待て!」
私はたまりかねて、平手で机を引っぱたいた。平手でたたく分には、机は傷つかない。
「さっきも言ったように、僕は君と初対面だ。モデルにした覚えはない。君がモデルにされたと、勝手に妄想しているだけだ」
「そうじゃないですよ。モデルになっているとあの雑誌を持って来たのが女房の従弟だし、近所の者たちもあれを読んでいるらしくて、あたしが外出すると、どうも眼引き袖引きして、笑っている気配がある」
「君の言うことは、本当なのかね。ウソじゃないだろうな」
いきり立とうとする胸を押えながら、私はつとめて冷静な声を出した。いくら偶然にしても、ちょっとばかり符合が合い過ぎる。
「何がウソです?」
「つまりさ、君が小久保と言う名、これは名刺があるから本当だろうが、君の職業が画描きで、アトリエ持ちで、家賃をためていて、そんなことは君が今言っているだけで、僕がこの眼で実証したわけじゃない」
「え? なに? それじゃあたしの言うことを疑うんですか?」
小久保は憤然としたように膝を立て、中腰になった。
「じゃ今から僕の家に行きましょう。僕の家も、家賃の通帳も、それに女房も見せて上げましょう。さ、車で行けば二十分とかからない」
「今日はだめだ。今日は仕事がある」
のこのことついて行って、そっくり本当だったら、いよいよ立場が悪くなる。だから私は頑張った。
「じゃいつ来て呉れるんです?」
「そうだね。あさって、いや、仕事が済むのがあさってだから、しあさってと言うことにしよう。しあさっての正午頃」
地図を書かせるのを忘れて、所番地だけをたよりに家を探すのだから、時間がかかる。それにここらは番地がひょいひょい飛んでいて、九十八番地のすぐ向うが百七十七番地になっていたりして、始末が悪い。家の切れ目に小さな草原があって、女の子がフラフープをやり、男の子たちがホッピングに乗って遊んでいるのが見えた。フラフープもホッピングも、もうずいぶん前にすたれた筈だが、眼前のその遊びを見ていると、何だか急速に風景が古びて、一年前か二年前の世界を歩いているような、妙な気分になって来た。
(どこかで見たような、どこかで一度経験したような感じだぞ)
どこで経験したのか思い出せないまま、いらいらした気分でせかせかと歩き廻っていると、曲り込んだ横丁の三軒目に、暗闇からぬっとあらわれたと言う感じで、小久保太郎の表札が眼についた。縦表札でなく横表札で、大きな郵便受けの上にちょこんとついている。画描きと言ったのは本当らしいな、と思いながらブザーを押すと、若干世帯やつれの気配を見せた三十五六の女性が姿をあらわした。頰にホクロがあって、これもどうもどこかで見たことがあるような感じがする。私が名乗ると女性は引っ込み、かわりにどてら姿の小久保が出て来た。どてらは相当にくたびれ、ところどころ縫目がほころびていた。
「やって来たよ」
忌々(いまいま)しい気持もあって、私はそう簡単にあいさつして、靴を脱いで上にあがった。小さな家で、四畳半の和室に六畳見当の板の間だけで、板の間の方にはイーゼルや描きかけの画、壁には裏返しのカンバスがいくつも寄りかかっていた。和室のチャブ台には、空の井が二つ乗っかっている。昼飯に夫婦でラーメンでも取ったのだろう。小久保が女性に何か耳打ちをすると、女性はそそくさと下駄をつっかけて裏口からどこかに出て行った。
「ここらに来るのは初めてだけど――」
チャブ台の前に坐りながら、私は言った。
「ここらの子供たちは、今頃フラフープなどで遊んでいるんだねえ。ずいぶん流行遅れの地帯だなあ」
「子供の遊びなんかの話じゃないですよ」
「そりや判っているけどさ」
世間話をしに来たのではないことは、私だってよく知っている。
「今出て行った人、君の奥さんかね?」
「そうですよ。あれがよし子です」
そして小久保は手を伸ばして、うしろの本棚から一冊の雑誌を引き出した。ぺらぺらと頁をめくって、私に突きつけた。
「ほら。ここにこう書いてある。安子の右頰にはホクロが一つあって、それが彼女の容貌をさらに可憐なものとした」
私は眼鏡を額にずり上げて、そのくだりを読んだ。なるほど、まさしくそう活字が並んでいる。並んでいるからには、私がそう書いたのだろう。小久保の掌がその頁をぱんとたたいた。
「これでもあんたは、うちのよし子をモデルにしなかったと言うんですか?」
「そ、それも偶然の一致だよ」
たくらまれた迷路に、自然と引き込まれる気分になりながら、私は抗弁した。
「頰ぺたにホクロがあるなんて、そりやたいていの人はどこかにホクロがあるものだよ。ホクロのない人があったら、お眼にかかりたいぐらいだ」
「だって、右横だと、ちゃんと場所まで指定して――」
「でも、君の奥さんは、そう言っちゃ何だけど、可憐と言う感じでは――」
「可憐ですよ。あたしにとっては、あんなに可憐な女はいやしない。それともあんたはあのよし子を、獰猛(どうもう)な感じの女とでも言うんですか?」
「獰猛だとは言ってやしない。強いてどちらかと言えば、可憐の方に――」
「そら、ごらんなさい」
小久保は勝ち誇ったような声を出して、また背後の本棚からさっと帳面を抜き出した。
「どうです。これが家賃の通帳」
うっかり受取って頁をめくって見たら、七千円の家賃が三ヵ月前まで納入されたきり、あとは空白となっている。
「ほう。ちゃんとした一戸建で、七千円とは、ずいぶん安い家賃だねえ」
「高い安いは問題でない!」
小久保はまたまなじりをつり上げた。
「問題はですね、たまっているのは三ヵ月と言うことですよ。五ヵ月もためたなんて、人を誣(し)いるもはなはだしい」[やぶちゃん注:「誣いる」事実を曲げて言う。作り事を言う。]
私は返事をしないで沈黙した。何だかだんだん決定的になって行く模様なので、うっかりと受け答えも出来ない。小久保はさっと手を上げ、鴨居(かもい)から突き出た吊棚を指差した。
「それにあのダルマ、そこらの古道具屋から買って来た安物だとあんたは書いたけど、どういう根拠であれを安物だと断定したんです?」
吊棚の上には、背丈五寸ばかりのダルマが乗っかっていた。片眼だけに墨が入って、あとの片眼は白いままである。そう言えばあの小説で片眼ダルマのことも書いたなと、はっきりと私は思い出した。身に覚えはないのに、さまざまな証拠を突きつけられた無実の犯人みたいに、突然心や身体の中のものが萎縮して、思わず私はダルマから眼をそらした。私の眼が小久保の視線とぴたりと重なり合った。[やぶちゃん注:「五寸」約十五センチ。]
「じゃあどうすればいいんだ」
自然と身体がだるくなるのを感じながら、私はそう言った。投げ出すようにそう言わざるを得なかった。
「だからですよ、慰籍料と言っちゃ何だけれど、あたしもずいぶん精神的な打撃を受けたんですからね」
小久保は視線をひたと私に固定したまま、通帳を掌でぱんぱんとたたいた。
「たまった家賃の二万一千円、いや、半端がついては面白くないから、三万円ぐらいはあんたから出していただきたいんです」
「三万円? それは高い。いくら何でも、それはべら棒だ」
「ではいくらなら妥当だと言うんです」
「一万円だ。せいぜい一万円だね。それ以上は絶対にムリだ!」
どういう理由で一万円が妥当なのか、自分でもはっきりしないまま、私は頑強に値切った。この際値切ることだけが、私の生甲斐であった。小久保は眼をぐっと見開いて、急に顔を私に近づけて来た。
[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年一月号『群像』初出。文中に出る墨田区の旧「東吾嬬町」はこの附近。隅田川の左岸、荒川の右岸。この附近(グーグル・マップ・データ)。]
炎天
とにかくその日は、途方もなく暑かった。風がなく、日が昇らないうちから、むんむんと暑かった。
午前十一時頃に上野駅に落ち合い、それから駅前に出て、篠田君がタクシーを呼びとめた。その篠田君の脇腹をつついて、僕が注意した。
「大型の方が良かないか」
「ううん。小型でいいんだよ」
なぜ小型でいいのか。行先の道幅が狭いのか。その説明はしなかった。僕も黙っていた。あまり暑くて、口をきくのも面倒だったからだ。
で、小型がとまった。何という車か知らないが、なんだか蝉の羽根みたいな感じのする華奢(きゃしゃ)な車で、僕たちが乗り込むと、どかどかと揺れた。運転手は二十一二の若造で、眼が細く、ちょっと狐に似ていた。狐が怒ったような顔をしていた。
そのまま百米ばかり走って、運転手が口をきいた。甲(かん)高いきんきんした声だった。
「旦那。どちらまで」
篠田君が行先の町の名を言った。その町にある玩具工場を、僕たちは今日見に行くことになっていた。
「川向うだよ」
「へえ。そいつは弱ったな」
運転手はいらいらしたような声で、乱暴にハンドルを切った。
「あっちの方面、おれ、あまり行ったことがないんだよ。旦那はよく知ってるんですか」
「おれもよく知らないんだ」
篠田君が答えた。そしてポケットから紙片を取出して、どこ発どこそこ行きのバスの、何町何丁目の停留所から、右へ折れてコンクリ塀から左に曲って、と言うような説明を始めた。僕はよく聞いていなかった。聞いていても判るわけがなかったから。背を深く座席に押しつけて、足をつっぱっていた。危惧した通り運転が乱暴だったし、それに小型自動車というやつが信用出来なかったからだ。小型でいっぺん頭を天井にぶっつけ、コブをつくって以来というものは、小型は僕には大の苦手になっていた。衝突するとぐしゃっとつぶれると言う話も聞いている。
とにかく自動車はそちらの方向に走り出した。非常なスピードで走り出した。何はともあれ目的地に早く着いて、僕ら二人を振りおとしたいという具合にだ。
窓から風がひゅうひゅうと入るので、暑さの方はいくらかしのぎよくなったが、あんまりスピードを出すので、気持がわくわくと落着かない。姿勢を低く保ち、前の座席の背を摑んで、やはり汗が出てくる。暑さの汗と別種の汗がじりじりと惨み出て来る。それにこの車は底部が妙に敏感で、舗装路のちょっとした穴が、じかになまなましくお尻につき上げてくるのだ。
やがて大きな橋を渡った。むっと光を含んだ熱風が、窓から吹き入ってきた。
篠田君もあまり気分がよくないらしく、身体を緊張させて、黙っている。口をきかないで、前方ばかりを眺めている。
橋を越したあたりから、街のたたずまいが少しずつ変ってきた。それと同時に、暑さも少し高まってきたようだ。どこを見廻しても、植物の緑が見えない。白茶けたような建物がずらりと並んでいる。僕は苦心してお尻のポケットからハンカチを引っぱり出し、ごしごしと顔や首を拭いた。新しいハンカチがたちまち薄黒くなってしまう。
小犬を一匹はね飛ばしてから、玩具工場行きのこの車にケチがつき始めたようだった。
はね飛ばされた白斑(しろまだら)の仔犬は、四肢をふるわせて口からどろどろと血をはき、そのまま動かなくなった。
自動車は一度は停った。それからアクセルを踏み、前に倍したスピードで走り始めた。
「畜生め。縁起でもねえ!」
運転手は声を慄わせた。運転手の細い頸(くび)筋には、小豆(あずき)のようにつぶつぶの汗がふき出ている。片手で運転しながら、残った片手でごしごしと頸筋をひっかいた。そして怒ったような声で言った。
「ええ。どこでしたっけ、行先は?」
「東吾嬬(あずま)町だよ」
むっとしたように篠田君が言い返した。
それから一町ほど走ると、道路工事をやっていて、水道管が破裂したのか、道路は一面に水びたしになっていた。上半身を裸にした赤銅色の男たちが、右往左往して働いていた。たくさんの人間が働いているにもかかわらず、窓から見るその景観には音がなく、まるで無声映画を見ているような具合だった。僕はしきりに唾をのみ込んだ。
「駄目だあ、ここは」
運転手はいらだたしげにハンドルを切り、狭い横丁に入り込んだ。
「実際なんてえことだろう」
「こんな狭いところ、通れるのかい?」
篠田君が心配そうに声をかけた。運転手は返事をしなかった。バックミラーにうつる運転手の顔は、発疹(はっしん)でもしたかのように、赤い班点があちこちにふき出ている。何となくぞっとした感覚に僕はなった。するとバックミラーの運転手の眼が、きらりと僕をにらみつけた。僕はあわてて眼を外(そ)らした。眼を外らしながら思った。
「何だか妙な具合だな。この運ちゃん、病気じゃないのかい」
その狭い道をずっと行った二叉路で、また運転手を怒らせるようなことが出来(しゅったい)した。大きなオート三輪が停っていて、それが合図もなしに僕らの車の前に、するすると後退してきたのだ。僕らの車は急停車した。がくんと僕らの身体は揺れた。運転手は座席から外に飛び出し、きんきん声で怒鳴りつけた。オー三輪の座席から、中年の運転手がしきょとんとした顔をのぞかせた。
「何という動かし方をしやがる。ぶつかるじゃねえか」
そしてこちらの運転手は忙しく手帳を振り出し、向うのナンバーをせかせかと写し取った。あるいはせかせかと写し取る真似をした。
「うう。暑い。暑いなあ」
車の中で篠田君があえぐように言って、前の座席をぎしぎしと揺さぶった。その声を聞くと、僕の全身からもいっぺんに熱い汗が流れ出てきた。
「こんな暑いのに、玩具工場を見に行くなんて、実際ばかげてるなあ」
「そうだよ。ほんとにそうだよ」
僕は相槌を打った。心から相槌を打った。
「あの犬、痛かっただろうねえ。血が口からどくどく出て来たよ」
篠田君は返事をしなかった。眼を据えて窓外を見ていた。運転手が戻ってきた。亢奮(こうふん)の残った声で、また腹の立つ質問を僕らにした。
「ええと。どちらでしたっけ、行先は?」
苦心して、やがて広い道に出た。僕らの車は荷車とバスの間をすり抜けるようにして、バスの前方に出ようとした。烈しい日の光がおちて、車道のアスファルトが時々ぎらりとかがやく。
歩道から車道へ、突然二つぐらいの子供が走り出てきた。よちよち走りながら、車道を横切ろうとする。それは僕らの車から、二米か三米ぐらいしか離れていなかった。
身体をタオルみたいに絞られる感じで、僕はそれを見た。僕の眼は三倍ぐらいの大きさに見開かれていたに違いない。
ぎゅぎゅっという大きな音を発して、僕らの車は急停車した。僕らの身体ははずみをくって、ぐいと前方に浮き上り、あぶなくおでこが座席にぶつかるところだった。
異様な大音響のおかげで、街中の視線が僕らの車にあつまったようだった。一瞬街中がしんとなった。
「ほ、ほんとに、何というガキだ!」
運転手が扉を押し開きながら、金切声を張り上げた。
「その子の親爺はどこにいる。ぶんなぐってやるから!」
子供はよちよちと懸命に横切り、おびえたように小さな路地に走り入った。運転手はそれを追い、両手を威嚇的に振り上げながら、同じく路地に走り入った。その子の親爺を探し当ててぶん殴るつもりらしい。一分間ぐらい経った。運転手は戻って来ない。僕らはじりじりし始めた。停車していると、狭い小型の中だから、むんむんした熱気に耐え難くなってくる。唾をのみ込もうとしても、もう口内はからからで、唾も出て来ない。街中の視線はまだ執拗(しつよう)に僕らにつきまとっているようだ。
「出ようよ」
篠田君がからからした声で言った。
「咽喉(のど)が乾いた。氷でも飲もう」
僕らはがたがたと扉を押し、外に降り立った。斜めの位置に、氷屋があった。氷屋の赤い旗はだらりと垂れていて、まるで濡れているみたいに、そよとも動かない。僕らはそののれんをくぐった。
赤いシロップをかけた削り氷を注文して食べた。食べてしまっても、少しも涼しくならないし、路地は子供と運転手を吸い込んだままで、誰も出て来なかった。だからもう一杯、黄色い削り氷を食べた。それでも運転手は出て来なかった。子供の親爺から逆にぶん殴られて、のびてしまったのではないかと思ったが、それを口に出すのも面倒くさかった。だから僕は、しきりに黄色い唾を土間にはきながら、煙草ばかりをふかしていた。玩具工場なんか、燃えてしまえ。篠田君も同じ思いらしく、僕の真似をして、しきりにそこらに黄色い唾をはき散らした。
□大正八(一九一九)年
ルノアールのくれなゐの頰をもちながらさびしきさちよさびしきさちよ
――一月の女らより
[やぶちゃん注:「さちよ」終助詞附きの一般名詞「幸よ」かと思われる。そう考える理由は彌生書房版全集年譜の大正八年の条に、当時、最後(槐多は同年二月十八日に家を出、叢の中に倒れているのを発見されたが、治療の甲斐なく、同二十日午前二時に逝去した)の棲家となった借家のあった代々木村に『「さわちゃん」という』ハンセン病を患っていた『村娘の美しさに心を奪われた』という一節があるからである。]
この小女澄みたる水に似たるゆゑわれらが酒も澄みてさめゆく
[やぶちゃん注:「小女」はママ。全集は「少女」と消毒する。]
花やかの笑の底にひそみたる淚を見つつわれ等も笑ふ
汝ほどに淸き少女を知らざりき萬葉集のはじめの外に
汝が爲に御空の色の半襟をこの月末はわすれざるべし
われらかく濁りし事をなとがめそ汝が店にうるウイスキーのごとく
この年はそなたのごとく善くあれよそなたの如くまづしくもあれ
停車場の汽車のひびきをききつつもわれらが戀のことばをもきけ
□大正七(一九一八)年
うつくしき花のゆするる音すなり顏ふるはして女かたれば
うつくしき世の末びととなれそめしことしの冬のあはれなるかな
腐りゆく美しき花のにほひする老女の頰をみつめくらしぬ
[やぶちゃん注:詩篇「ある四十女に」登場する女性。リンク先の私の注を参照。]
うつくしき老女の頰の彈力をわが唇にためさんとしつ
うらわかきいのちに代へてこのひとをこの老いし女を戀ふるおろかさ
旅に出でて君忘れ得ず淚落つる心よわさを誰が呉れしも
わが母よと君の乳房に觸れし夢夜毎に見るもおろかなるかな
だまされてあると知りなばこれいかにと心寒くも思ふ時あり
うつくしきヴエヌスの御世を戀ふ心君の頰見れば起りけるかな
[やぶちゃん注:「ヴエヌス」古代ローマのポンペイの守護神であった美と恋愛の女神ウェヌス(Venus)。ヴィーナス。ポンエイはしばしば「快楽の都市」と称されるから、ここはかの地を具体に想起しているのかも知れない。]
谷底に身を投げ落す心地しつ五十女に世をば忘るる
燃えさかる思ひに惱むわれを見てひとりほほえむ老いしかのひと
うら若く貴き時を安たばこくゆらす事につぶし居るかな
善き友と善き女とに甘えつつのらりくらりとくらしたるかも
かの人の頰の白さを九十九里の砂に見いでて淚ながるる
[やぶちゃん注:槐多はこの大正七(一九一八)年の九月に結核のために千葉の九十九里浜に転地療養している(しかし健康回復と再生を信じて、徒歩で東京に戻ろうとし、途中で喀血、半ば自殺行為の如くに酒を飲み、海岸の岩場で人事不省に陥るも、発見され、十月下旬には東京に戻っている)が、これは詩篇「ある四十女に」の私の注に引用したように、その年増の女性と決別する意味もあったようである。]
うつくしきヴエヌスの老いし心地するうつくしきひとをとはにわすれじ
かのひとの顏ふるはして物言ふを思ひ出してひとりわれも首ふる
うつくしき君をしのびつ鳴濱の潮の遠音に眠りいざなふ
[やぶちゃん注:「鳴濱」「なくはま」と訓じておく。現在の千葉県山武郡九十九里町作田に「鳴浜(なるはま)」という固有名詞の浜があるが、ここをその固有名詞でとると、歌が委縮するように思われるからである。]
大なる眼のはたと閉づ美しき君を思へば空のまなかに
紫の絹もて君をつつみなむ夜光の玉に似たる君をば
そのまなこ數千の星にかざられてわが眼を眩ず君見たまへば
はるかなる海の底を見る如き深きめつきの絶えざる
[やぶちゃん注:この一首、彌生書房版全集には載らない。「絶えざる」は「たええざる」と訓ずるか。]
海けむり心もけむるはるかなる沖より空もけむりそめしか
紫の海に息ふく裸びと血も赤々と日にかがやけり
大東はさみし幽けし頰なづるその岬よりふく風のごと
[やぶちゃん注:「大東」は、現在の九十九里浜の南端にある、千葉県いすみ市の太東岬(たいとうみさき)のことであろう。ウィキの「太東岬」によれば、高さ約六十メートルで、『下は太平洋まで断崖絶壁となっている』。北側には千葉県旭市上永井の刑部(ぎょうぶ)岬から『九十九里浜が弓なりに連なっており、南側には夷隅』(いすみ)『川の河口と大原の町並みが見える』。なお、皮肉にも現在、この岬には「恋のビーナス岬」という別称もあるとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
藍色の雨より細き命ありてわれを濡せりうらさびしきも
美しき紫の花かがやかしなす畑にほふ雨そそぎつつ
一かけの氷に似たる雲消えて雨とはなりし空のさびし
金のせき紫のせきする病われにとりつき離れざりけり
アルベールエルサマンの病とりつきて東えびすはおどろきにけり
[やぶちゃん注:「アルベールエルサマン」音数律から見ても「エル」は衍字。フランスの象徴派詩人アルベール・サマン(Albert
Samain 一八五八年~一九〇〇年)。結核で亡くなっている。]
金色の酒のあとにてつかれしか薔薇いろの酒吐きしわかうど
海のべの薔薇にかがやく夕まぐれふくそよかぜはいづち行きしや
□大正六(一九一七)年
[やぶちゃん注:大正五年パートには短歌がない。]
左手に椿の花を右に繪をもちてかけれる美しき子よ
男爵の小さき姫(ひめ)とそばを食(は)みをかしき晝をすごしける
[やぶちゃん注:「男爵」不詳。後の二首も連作のように思われる。]
美しき少女の頰の紅(べに)いろにまずこの春のうたのはじまる
[やぶちゃん注:「まず」はママ。]
淸ちやんと自が名を明したる美しき子の口のよさかな
たそがれの星にまがへる眼はわれを物狂ほしく夢にいざなふ
金色の帶しめて飛ぶ小鳥あり苦しき夢のまなかを過ぎり
蒸し暑き夢は腦天打ちこめて泣き笑さす哀れなるわれを
哀れにも醜(し)くゆがみし顏もちて木の葉の中をかけ走るわれ
もうろうとたのしみを欲する哀れなるわれとわが身をながめてをかし
酒瓶十二わが腹に入る事のみを幻(まぼろし)に見て街をたどれり
哀れなる色狂の眞似事を森の中にてたくらめるわれ
色狂にならんとするをおしなだめわれとわが身を連れてゆくわれ
狂ほしき神經衰弱癒え難く渦の中へとわれ落ち深む
酒の癖たばこの癖その他の諸々惡しき癖に呑まれし
ああ大地とどろき渡りわが墮落怒れるを見て心かなしも
朦朧の境に身をば投げ入れんわが運命の餘り惡しきに
意志よわく情も薄き蟲けらに似たる男と自らを知る
藝の慾あまりにわれに馴れにけり煙草の味に馴るる如くに
頽廢の底に跳び入るわが心美しき故惜しみわれ泣く
大なる鷲の羽ばたき花園にきこゆときけば心をどりぬ
むごたらしき破壞(はくわい)をわれはまちのぞむ美しき物見る度每に
たくましき中年の女新富町の河岸に美しくそりかへりき
[やぶちゃん注:東京都中央区新富町であろう。東が月島、西が銀座、南が築地、北が八丁堀で、花街として賑わった。当時は松竹の経営に移った新富座もあった。osampo-ojisan氏のブログ「東京地形・湧水さんぽ」の「第17回 新富町駅~月島駅」には、『明治時代の地図を見ると、この入船橋交差点から八丁堀駅に続いている新大橋通りはかつて運河があり、新富河岸という舟入り場があったようだ。それゆえ、ここは入舩町と呼ばれたのだろう』ともあるが、果してこの時代に、その河岸が残っていたかどうかまでは確認出来なかった。識者の御教授を乞うものである。]
アメリカの百姓女うれしげに銀座を過ぎぬ五月の夕べ
樂器屋にピアノのひびき溢れ滿つ淚に充ちしよろこびをなす
ああ女その美しさめづらかさ果物のくだける樣に笑ひし女
苦しみを藥の如く時定めてあたへられたりあつきこのごろ
いつまでも運勢に身をあそばせて天候の如くうつりゆかまし
野の百合と同じいのちを持つものはこのわれなりと主に申しける
さびしさもひもじさも皆世をえどる色の一つとわれをながめん
[やぶちゃん注:「えどる」はママ。「繪どる」であるから、「ゑどる」である。全集はかく訂してある。]
すてばちのさびしき上にをどりたるいのちよ汝の美しきかな
物曰はず日ぐらしければわがのどはしやがれ果てぬさびたる如くに
一日に三十本のたばこのむきまりとなりて頭重たし
女はればれと語るよ大空の底にいきするわかき口もて
――(千代ちやんのうた)――以下三首
[やぶちゃん注:「千代」不詳。]
その顏をまともに見るをはばかるは弱き男と自らに言ふ
あまやかに世はまたせまくなりにけり愚かしき事をくりかへすかな
汗ばみし紫の花の値を問へる夏の女を夜の店に見る
――(神樂坂のうた)――以下七首
ほのかなるたばこの光眞夜中のおしやくの顏を紫にしぬ
さびしさと乾きし喉(のど)ともちしわれ夜の野を見んと走りゆきしも
遊蕩のちまたを苦(にが)き睨み眼し步めるわれを哀れと思ふ
愚なる家族の中のため息をわれくりかへすあつき初夏
病みし眼はわが顏にありて輝やきぬ山犬の如く寶玉の如く
物すべて愚かに見ゆる日のつづく耐へがたき事われに科せらる
椿の葉ざわめくばかり波立てる海の面の深きみどりよ
血の落ちる音のきこゆる美しき深夜の家のふしどの上に
錢なしとなりてわが身に驚ろきぬいまさらながらうらさびしきも
遊樂の心おどらせ唄ふ日も錢なくなれば消えて失せつも
[やぶちゃん注:「おどらせ」はママ。]
熱情は肉身(にくみ)と共に肥りゆく泉津(せんづ)の邑に十日くらせば
[やぶちゃん注:「泉津の邑」「邑」は「むら」(村)。現在の東京都大島町泉津。槐多はこの前年の大正五(一九一六)年七月から八月一杯と、この大正六年の夏の二回、大島に行っている(孰れも友人山崎省三が同伴。厳密には前者は山崎の旅先を槐多が訪ねたもの)。]
潛々と淚に暮す月日ありはるかの方にわれをまち居り
[やぶちゃん注:「潛々と」「さめざめと」。]
咲笑し酒亂しおどりかき抱くはげしき月日またわれを待つ
[やぶちゃん注:「おどり」はママ。]
ただひとり泉津の邑に打もだす醜き畫家のあるを君知れ
なだらかに海のおもてを靑めのう走ると波の光をながむ
[やぶちゃん注:「めのう」「瑪瑙」。但し、歴史的仮名遣では「めなう」が正しい。全集では「メナウ」とカタカナ書きにしているが、これは僭越というのものである。]
このしづかさ口もてふくみ笑ふ眞晝まなかのこのしづかさを
何しらずこのしづかさに打したり棒の葉の如輝やきて居らん
[やぶちゃん注:「打したり」全集では「打ひたり」とする。]
東京のさわぎははたととざされぬこのしづけさの扉の外に
かの小さき女を思ふ心湧きやすまりがたしいかにするべき
君ちやんの美しき眼のきらめきて夢さめにけり深き夜半に
[やぶちゃん注:「君ちやん」不詳。同年の詩篇「(無題「全身に酒はしみゆき……」)」にも登場する。]
かれ戀すときけばいかにかおどろかんかの君ちやんの淸き心は
古き戀またよみがへる美しさ泉の如く強く涼しく
――(戀の蘇生)――以下五首
このたびは微笑の女そのかみはこの眼われにそそぎし女
くらやみにひそみて居りし戀ごころ火花となりて散り出でにけれり
この秋のくだもの籠に輝やけるりんごの如く君もかがやく
眼みはりて君を眺めし新らしき物の如くにうれしなつかし
恐ろしき無力の時となりゆくか、さびしさ、あまりしげく來るゆえ
[やぶちゃん注:二箇所の読点はママ。]
わが力雷より強くほとばしる時をと常に念じる物を
――無力時代――以下七首
なす事のすべて空しく愚かしくさびしさ咽喉(のど)をつまらする時
ああ赤き肉に等しき花なきや一たびかけば□□□つ花
紅をもて身もたましひも染めつくし命をすてて畫ともならばや
□□□□□□女は世になきやあらばと高くひとりごちぬる
死に失せよ虻と女はわれに言ふこのざれごとに心寒かれり
美しきぶどうの房に似たる夜に行手をすかし道をたどるも
[やぶちゃん注:「ぶどう」底本では「ぶとう」。かく修正した。全集は歴史的仮名遣正しく「ぶだう」とする。]
恍惚に耐へせず人の泣く聲す美しき夜のかしこにここに
紫の花の重たく下るかとはだか女の肉におどろく
宦官の首うなだれしきざはしに吹上の水ちりかかりつゝ
□大正四(一九一五)年
いづこにか火事あり遠き鐘きこゆ犬の吐息す夜半の外面に
硝子戸に明きらけくわが容貌のうつる時こそ泣かまほしけれ
いと惡しき想ひを強く身に浴びてシネマの小屋を出でし午後二時、
[やぶちゃん注:読点はママ。次の一首も同じ。]
淺草の晴れ日こそはかなしけれものみな惡しき○○を持つ、
[やぶちゃん注:「○○」は底本編者の伏字と思われる。以下、この注は略す。]
藍色の提灯あまた吊るしたるかの淺草の家のかのひと
荒れはてし赤き園にもたとふべきおのれを見つめ淚ぐむかな
熱すこしありとおぼえてわが心砂塵の如く顫へとべるも
腐りたる血をもてわれの顏を塗る赤き夕日のいともさびしき
よき友を持つ嬉しさのしみじみと心にしみて二人歩みぬ
(Kを思ふ小歌――以下六首)
わが友よわれ切に汝の唇を思へりわれをなみげと思うふな
[やぶちゃん注:「なみげ」「げ」は体言・形容詞・形容詞型活用の助動詞の、語幹及び動詞・動詞型活用の助動詞の連用形などに付いて、形容動詞の語幹又は名詞を作る接尾語「氣(げ)」で、様子・気配・感じなどの意を表わすそれととってよかろう。これは一般に名詞をつくる場合は下に打ち消しの語を伴うことが多い点でもしっくりくる。「なみ」の可能性は二つ。「無みげ」で上代語「無み」(形容詞「無し」の語幹に接尾語「み」の付いた語で「無いので・無いために・無いゆえ」の意。今一つは、「並み」で、「世間一般にごくごく普通であること」の意。しかし、「無み」では原因・理由部分のジョイントが悪い。後者で採る。――私のお前への思いをそこいらの普通の奴らの思いと所詮同程度のものだなどとは思って呉れるな――の意である。]
よき友よ汝を思へばうれしさは醉ひの如くに心にしむも
親友とあめつちにただひとりよぶ汝と步めり今宵うれしき
あゝ友の薄荷に似たる品のよき心のにほひ嗅ぎてわれ泣く
淸情は空より明し汝が前に濁らむとして濁り得ぬわれ
(一月一日の夜淺草を遊步すかへりてよめり)
黃表紙の支那の經書によみ耽る夜はいと奇しく美しきかな
○○○○をじつと見つめてわが眼玉輝やけば心すがすがしかり
とがりたる男モデルの○○○○は夢に見し程美しかりき
○○○○の毛はさも似たり○○の○○○○○○に、美しきかな
[やぶちゃん注:読点はママ。]
東京の泥の市街をさまよへるわれを思へばあはれみの湧く
金色のイリスの咲けば貧しさのしみじみと身に感じられけり
――(五月末旬歌――以下九首)
[やぶちゃん注:単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属 Iris の総称であるが、槐多が特に「金色」と詠んでいるところからは、アヤメ属キショウブ Iris pseudacorus かとも思われる。]
若人のみなみめよきが集まりて遊ぶ園ほどねたましきなし
うつくしき薄紫のシネラリヤ未だ散らざるは淚をさそふ
[やぶちゃん注:「シネラリヤ」キク亜綱キク目キク科キク亜科ペリカリス属シネラリアPericallis × hybrida。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・靑・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's
Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることから忌まれるためである。しかし乍ら、“Cineraria”という語は“cinerarium”、実に「納骨所」の複数形であるから、“Florist's
Cineraria”とは「花屋の墓場」という「死の意味」なのである――余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか? グーグル画像検索「シネラリア」をリンクしておく。]
肥りたるモデル女のくれなゐの肌にもまして赤く日暮れぬ
うるはしき少年の家の午後十時「さらば」と吾の立ちしかの時
品のよき若人と遊ぶ日ぞよけれ薄紫の汗をながして
さびしさのアルミニウムに蔽はれし心地ぞすなる今日此頃は
紫の矢車草の丈長く咲きたるにわれの心ふるへる
寶石の角あまたある靈かけふこの頃のわれにやどるは
[やぶちゃん注:「靈かけふ」不詳。「靈(たま)影(かげ)ふ」か? 霊的な何ものかの光りがうつろう、の意か? その場合は「ふ」は上二段型の動詞を作る接尾語で、「そのうおうな感じになる」の謂いであるが、しかし、修辞的には、ここは「あまたある」を受け、しかも下句に繋げるには、名詞節でないとおかしいように思われる。とすると、「靈影斑(たまかげふ)」で「霊的な何ものかの光りがうつろうような斑紋」の意か? いや、ちょっとそれは苦しい造語だ。識者の御教授を乞うものである。]
□大正三(一九一四)年
一九一三年より一九一四年 はじめにかけて
神樂岡宗忠が社の下に京都一のめでたき少年
居たまひき その君が臨の美しき鋭きにわが
泣きし事も幾度ぞ
[やぶちゃん注:「神樂岡」「かぐらがをか(かぐらおか)」は現在の京都市左京区南部、京大東方にある吉田山の異称。
「宗忠が社」「むねただがやしろ」と訓じておく。現在の左京区吉田下大路町にある、教派神道の一つ黒住(くろずみ)教教祖黒住宗忠を祀る宗忠(むねただ)神社。黒住宗忠は嘉永三(一八五〇)年に歿したが、六年後の安永三(一八五六)年に朝廷から「宗忠大明神」の神号が与えられた。文久二(一八六二)年に宗忠の門人赤木忠春らが吉田神社から社地の一部を譲り受け、宗忠を祀る神社を創建した。慶応元(一八六五)年には朝廷の勅願所とされ、皇室や公家から篤い崇敬を受けた(以上はウィキの「宗忠神社」に拠る)。
「めでたき少年」(後の添書きの「K.I.」)詩篇で既出既注の、京都府立第一中学校の一級下の稲生澯(いのうきよし)。「紫の微塵(稻生の君に捧ぐ)」の私の注を参照されたい。]
紫の孔雀の毛より美しきまつ毛の中に何を宿すや
――(孔雀のまつ毛)
浮々と君を思へば寶玉の世界の中に殘されにけり
片戀の淚に心しめす時瑠璃色の世も泣ける哀れさ
ともし火を飾りそめたる薄明の都の空に君をしのびぬ
[やぶちゃん注:底本は「ともし火」が「もつし火」。私は意味不明。或いは方言かとも思われなくもないが、ここは錯字と判断して、特異的に全集に従った。]
かなしさの淚きはまる美しの春の日ぐれよ君はいづこに
友禪に夜をつつみて君が眼の薄ら明りへ投げむとぞ思ふ
君が眼の薄ら明りに溺れたる群集の中の一人となりぬ
薄薔薇の都の空をふりそむる雨より君のにほひそめけり
かへり見てあまりに無賴なるわれよ
惡漢の戀をも君は入れたまふなさけよわれはうれしさに泣く
つひに君が音聲をさへきき得ずして別るる
片戀の苦さよ
かた思ひ春より春へはこびゆくわれをば君よ笑ひたまふな
とこしへに君を思はんこの戀は銀鎖となして未來へ曳かん
(この十一首を K.I. の君に捧げまゐらす)
美しきかの支那の子を思ひつつ野べをたどればたんぽぽのさく
この日頃心うつつに甘き酒注ぎつすごすわれの哀れさ
――(うつつのうた)――以下六首
このうつつしばらくにして消えされと願ひつ野べをたどりけるかな
ああわれはいづくに行かん茫然と立てば小鳥は美しく鳴く
爛々と赤き日沈む夕ぐれの不良の子らよ春の夕ぐれの
紫の光とともに血の滿ちし美少年こそ歩みゆきけれ
汚れたる世界に吾は投げ出され茫然として眼をつぶる
われ泣けば薄むらさきに雨ふりぬ天とわれとはけふをなげかん
わがうつつまだ消えざるにおどろきぬあめふるよるの薄ら明りに
―(消えぬうつゝ)――以下八首
美しきモーパツサンはおもしろくわがうつつをば延ばしけるかな
讀み耽るいと猥らなる物語り獸の如く心を狙ふ
雨ふればこの寂寞も美しく濡れて都をさすらひゆくも
[やぶちゃん注:底本は「寂寞」が「寂博」。全集に従った。]
靈の國の子、肉の國の子のうすくれなひに立交る夕べ
[やぶちゃん注:全集は「うすくれないゐ」に訂する。]
かの君に會ひなばいかにこの宵は美(は)しかるべきと思ひ街ゆく
プリンスとふと思ふ時わが足は浮かれてゆくも雨ふる中に
ほの靑く柳の群のそぼ濡れしけぶりの中にけぶりけぶれり
[やぶちゃん注:底本は「群」(「むら」或いは「むれ」)が「郡」となっている。全集に従った。]
うらかなしわれすなほなる心もて母に見えん事もかなはぬ
ああわれはただひとりなり才びとの常の如くにただひとりなり
かの君はいと薄紅き薄靄の中にわれをば惱ましたまふ
とこしへに君を思はん美しき君を思はん君を思はん
ああわれはひとへに君を戀すれど君はひとへにわれを忘れん
美しく暗くみにくく過ぎさりし少年の日をめでてわれ泣く
いざ行かん未來の高き天空へ天女の群と相まじりつつ
美しき春の引幕引かれつつ恍惚に入る物を忘れて
――(春のはじめ)――以下二首
八坂の塔赤し美し古びたる眼の空に赤し美し
底をゆくこの生活のおもしろさ底を極めむところまでゆけ
圓山にルノアールの畫思ひつつ貧者たたずむこの不思議さよ
ダーリアの眼つきに我を吸ひよせよ妖怪の如美しき君
薄靑き唐もろこしの畑より炎のもゆる美しの晝
一人の少女が歌ふ
リルケ 茅野蕭々譯
私は遠い異國で子供だつた。
あはれに、やさしく、盲目に――
羞恥の中から忍出た時まで。
私は森や風の蔭に私といふものを
もう長い間待つてゐる、確に。
私は獨りだ、家からは遠い
そして靜かに思ふ、私はどんなに見えるかと――
―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
私を誰だと問ふ人があらうか。
……ああ私は若くて
ブロンドだ
そして祈禱も出來た。
そして確に無益(むだ)に輝らされて
知られずに私の側を行過ぎる。
ツイッターのフォロワーのを見て、僕もやってみた。結構、面白い。
手作り風はんこ作成ツール| 郵便年賀.jp
■やぶちゃん版村山槐多短歌集成
[やぶちゃん注:底本は、既に完了した詩篇パートと同じく、国立国会図書館近代デジタルライブラリーの大正九(一九二〇)年アルス刊の「槐多の歌へる」(正字正仮名)の画像を視認し、編年順のそれに準じたが、その際、平成五(一九九三)年彌生書房刊の「村山槐多全集 増補版」(但し、新字旧仮名)で校合し、注を附した。底本は年代順の各詩篇の後ろに「短歌」として配されてあるので、年号の柱を頭に□で打ってそれに換えることとした。なお、ブログ公開時のブラウザの不具合を考え、添書き(底本ではポイント落ちであるが、同ポイントで示した)の字配を底本とは変えてある。]
□大正二(一九一三)年
あへかなる櫻の國の暴君は何を描けと君に告げしや
――(辰貴が爲)――(以下七首)
[やぶちゃん注:「辰貴」は「タツキ」と音読みしておく。後注参照。]
海原の銀のやまとによする時燕の如くとびて來し人
だみ具もて黃色に濡れし手をやすめかのふるさとを思ひける人
[やぶちゃん注:「だみ具」「彩具」「濃具」か。「だみ」は金泥・銀泥で彩色することを言う。]
美しき國人の眼は尚未だ盲ひぬ奇しき繪と云ふ物に
海原をわたりて深きなさけをばこめたる國に入りにける人
はるばるとこの暖國の客となり何を描かむ淚ながるる
國人の深きなさけはとつ國の君を淚にむせばしめけむ
(雄略帝の御代に來朝したる支那人安貴公
が一群中に打雜りしうら若き畫家名を辰
貴と云ふ)
[やぶちゃん注:安貴公は魏の文帝(曹丕:在位:二二〇年~二二六年)の後裔とされ、雄略天皇の御世(四五七年?~四七九年?)に衆をひきいて日本に帰化し、大和国添上郡大岡郷に住し、絵師として活躍、天智天皇の御世に「倭画師(やまとえし:「やまとえし」とは日本絵師の意ではなく、大和国を拠点としたという謂いとする)」の姓を賜はり、後に大岡忌寸(おおおかのいみき:この姓名は伝説の画人巨勢金岡(こせのかなおか)と併称される画人の名でもある)を賜わったという絵師を生業としたとした一族の祖とされる。「辰貴」というのは安貴の子(男子「龍」)とする記載もあるようである。「辰貴」の五代末裔に「惠尊」という絵師もいる。ここはサイト「岩倉紙芝居館」の「古典館」にある上田啓之氏の「日本書紀 29」その他を参考にした。]
冬の街薄く面を過ぎる時落膽われにせまりけるかな
――(無題 以下四首、
[やぶちゃん注:丸括弧の閉じがないのはママ。全集では『――(無題)―以下四首』と整序。]
かの君がかの岡のべの君が屋に歸り給ふと思ひかなしむ
などて汝は破れし子をば戀ふるやと友言ふ時も迷ひけるかな
西の京しばらくにして雨ふると面ひそむる美しき子よ
血の歌は誰が子かうたふ燈火の雨の樣なる春のちまたに
――血歌(ちのうた)―以下八首、
濃(こき)血人(ちびと)情あまりて泣きしきる春の薄暮ぞいかに嬉しき
美しき木瓜の皇子と異名(あだな)せる君をひねもす見るが耐へせぬ
豐かなる人をこそ好め西歐のかのぶだう酒の色の如くに
この眞晝いかめしくして拉丁語を用ひる街に立てる心地す
[やぶちゃん注:「拉丁語」「ラテンご」と読む。]
猩々の髮の樣なる朱さかづきいざもてまゐれ酒をとうべむ
[やぶちゃん注:全集は「とうべむ」を『たうべむ』(賜うべむ)に補正。]
ぎりしあの若人達に櫻花見せなばいかに「ぬるし」と云はん
水を汲む濁りし河に春はいま苦しき赤と變りはてつゝ
美しき空この空の來りぬと笛吹き鳴らせ皇子は來る
――皇子に捧ぐる(歌)以下四首
[やぶちゃん注:全集は添書きを『――(皇子に捧ぐる歌)―以下四首』とする。]
梅林の中を過ぎりてその痛く苦きにほひに君を思へり
ルノアールかく畫がきしや乳色の噴泉君が愁ひにかゝる
泣かんとす君はすげなくわれをすていづれにか去る靄の如くに
六月の銀の大扉をとざしたる天は雨ふる君をかくすや
――雨と皇子―以下四首
雨ふる日君が歩みのすばしこさ行手の街の霞みにけるを
××をば血の杯と思ふ時虐思ぞ重く打顫ふなる
[やぶちゃん注:「××」は底本編者の伏字。全集でも復元出来ずにある。]
流血の街の空には銀の雨斜(はす)にせまると思へばかなし
(皇子とよぶは一人の御子なり)
新ぼんのにほひか浮き香水かほのかにわれをおとなひくるは
――(無題)-以下七首
[やぶちゃん注:「浮き香水」不詳。女性の香水の漂い来たることを指すか。]
新ぼんは綠むらさきあざやかに照る春の野に居りてむ子なり
新ぼんの肉のまろさにうつとりとわが魂の廢りけるかな
君故にこの放埓をせおふ子と我を見かへりうれしくなりぬ
來む春は君をいざなひよひやみの將軍塚に抱かんと思ふ
[やぶちゃん注:「將軍塚」京都市東山区粟田口(あわたぐち)三条坊町にある天台宗青蓮院(しょうれんいん)所有(飛地)の「将軍塚大日堂」か。ウィキの「青蓮院」によれば、『寺の南東、東山の山頂に位置し、青蓮院の飛び地境内となっている。桓武天皇が平城京遷都にあたり、王城鎮護のため将軍の像を埋めた所と伝え、京都市街の見晴らしがよい』とある。]
くちつけを思ひて思亂れけり美しき君いかに思ふや
ほの暗き舊約全書その紙をかきさぐる日の我のさびしさ
――(無題)以下十二首
われ切に涙を欲ると思ふ子の心にひたに血けぶりの立つ
あまりにもばら色の面憎らしと君を見つめて叫びけるかな
わが面のみにくきことに思ひ至りかうもりの如泣ける悲しさ
騷亂の中に輝やく美しき一顆の玉に心はじける
鈍色の日頃を送る世界には唯一人のわれの哀れさ
憎まれて日頃を送る無賴子のわれをあはれと思ひ給ふな
君よ君ただひたすらに我を憎めかくて君には光增しなむ
人形のさびしき皮膚の白櫻咲く日はかなし心空しく
もろもろの睨み目われをみまもりぬ冬の小門を出で來し我に
うら悲し冬より春に投げ出す心はぼろをまとひけるかな
この日頃小櫻をどしの武者八騎都大路に常に會ふなり
[やぶちゃん注:「小櫻をどし」鎧の縅(おどし)の一つで、小桜革で芯を包んだ緒で縅したもの。グーグル画像検索「小桜縅」をリンクしておく。]
ああ切に石版畫をば思ひけり手に薄赤き櫻花とり
――(浮き思の數歌―以下四首
わが園にぼたん櫻は數々の眼に見つめられ淚せんとす
夜櫻か晝の櫻か一分も君が姿を忘れ得ざれば
放蕩のぼたん櫻にふれる雨春を濡らすと知るや知らずや
この頃の高天原にます神の血潮は如何に豐なるらむ、
――赤血球―以下五首
[やぶちゃん注:読点はママ。]
野ひばりの鋭き明き一ときは君とわれとを跳らしめける
血に濕る乳銀色の山櫻咲けば淚をながすならはし
薄霞み雲母の如く輝やけば泣き女(め)のまゆもたゆげなるらむ
[やぶちゃん注:底本は「薄霞み雲母の如く輝や泣きけば女(め)のまゆもたゆげなるらむ」であるが、これでは読めない。特異的に全集補正のもので示した。]
櫻びと小名彦石の温泉に浴せる夜かな湯けぶりのする
[やぶちゃん注:「小名彦石の温泉に浴せる夜かな」恐らく「小名彦古」の誤記か判読の誤りか誤植である。「古事記」の国造り際に知恵を貸した神少彦名命(すくなびこなのみこと)は「少名毘古那」などとも表記するからで、彼は常世神であると同時に医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ神であり、ここはその温泉神に引っ掛けたイマージュの表現である。「の」は主格の格助詞である。]
美しきぼけの花咲く晝すぎにみや人止むる美しき君
――(無題)以下二首、
數々の美しびとにとりまかれわれは淚に浴するなりけり
ソドム市の門扉の惡しき樂書は硫黃と共にすくみはてしや
――(無題)以下二首
[やぶちゃん注:全集は「樂書」を『落書』に訂している。採らない。「らくがき」はこうも書くからで誤りではないからである。]
黃昏の天の使もかなしけれ鋭き力有つと思へば
[やぶちゃん注:「有つ」は「もつ」と訓じていよう。]
美しき櫻の戀をする人は薄き情を吹きかけられつ
――(無題)以下二首
美しや白き櫻の花かげにかくれて君が姿を見れば
強情に苦きあまたの事あつめ春おちぶれし人ぞかなしき
山吹が黃に苦がき晝空甘し花より空の色好むひと
美しや君はさびしきはつ春の夕日の宮の皇子ともがな
サムソンの髮を拔くより恐る可き破滅らうたき君にこもれる
幾とせか同じ地同じ天を見る我は哀れにけふもさまよふ
ああ我はこの戀しさに身をとられいかにせんとす淚こぼるる
都には櫻咲くらし眞晝にも大火の如く明りさす見ゆ
薄靑く醉へば美しはつ冬の空氣光れり玻璃にわが眼に
――以下二首
[やぶちゃん注:全集には添書きが欠落している。]
新ぼんの戀しく暗き紫の玻璃の牢屋に泣き叫びする
葡萄酒のその薄あけに染まりたる人々歩む春の眞晝に
――(無題)以下五首、
民間の皇子なつかし官居にはとこしへ歸り給はじと思ふ
離宮なりわれこそ君の離宮なれかくも思ひて泣き伏せしかな
夜更けて薄紫の大橋をわたらんとして心おびゆる
街中の疏水の瀧にアーク燈薄靑く照る凄きさびしさ
詩人
リルケ 茅野蕭々譯
時間よ、お前は私から遠ざかる。
お前の翼搏(はばたき)は私を傷つける。
しかし、私の口を、私の夜を、
私の日をそうしよう。
私は持たない、戀人を、
家を、その上に立つ處を。
私が自己を與へる萬物は
富むでまた私を出し與へる。
犧牲
リルケ 茅野蕭々譯
ああ、お前を知つてから私の體は
總べての脈管から匂高く花咲く。
ご覽、私は一層細つて、一層眞直ぐに歩く。
それにお前は唯〻待つてゐる。――お前は一體誰なのだ。
ご覽、私は自分を遠ざけ、古いものを
一葉一葉に失ふのを感じてゐる。
ただお前の微笑が星空のやうだ、
お前の上に、また直ぐに私の上にも。
私が子供だつた年頃、未だ名もなく
水のやうに輝いてゐる總べてのものに、
私はお前の名をつけよう、聖壇で。
お前の髮で灯ともされ、輕く
お前の乳房で花環をつける聖壇で。
[やぶちゃん注:第一連最終行の「唯〻」は「リルケ詩抄」では「唯」のみ。後の「リルケ詩集」で踊り字が加えられたものを底本は採用している。確かに、ここはその方がよい。唯、その場合、私は敢然「ただただ」と読む。]
[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年八月号『文学界』に発表された。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第六巻」を用いた。
その解題によれば、本篇は現行の梅崎春生の「魚の餌」(昭和二八(一九五三)年十月号『改造』に発表。「青空文庫」のこちらで電子化されている。私の偏愛する一篇である)とともに『もともと一つの小説であり』、戦前の昭和一七(一九四二)年、同人誌『生産人』に「防波堤」という題名、「丹尾鷹一」というペン・ネームで発表されたものが原型であり、かく戦後、『分割して再発表するにあたって、梅崎は部分的に加筆や削除をほどこしており、とくに』この『「突堤にて」の後半を占めている〈日の丸オヤジ〉のエピソードは完全に戦後の加筆であるが、その他の素材や文体は、ほとんど手つかずのまま当時の作品が流用された』と記されてある。
一部、段落末にオリジナルに語注を施した。]
突堤にて
どういうわけか、僕は毎日せっせと身支度をととのえて、その防波堤に魚釣りに通っていたのだ。ムキになったと言っていいほどの気の入れかただった。太平洋戦争も、まだ中期末期までは行かず、初期頃のことだ。
その防波堤は、青い入海に一筋に伸びていた。突端のコンクリートの部分だけが高くなっていて、そこに到る石畳の道はひくく、満潮時にはすっかり水にかくれてしまう。防波堤の役にはあまり立たないのだ。これは戦争が始まって資材が不足してきたせいで、未完成のまま放置されたものらしい。
だからまだ水のつめたい季節には、引潮のときに渡り、また引潮をねらって戻らねばならぬ。
しかし春も終りに近づいて水がぬるんでくると、海水着だけで釣道具をたずさえ、胸のあたりまで水に没して強引に渡る。帽子の中にはタバコとマッチを入れ、釣竿とビクと餌箱を胸の上にささげ持ち、すり足で歩く。その僕の身体を潮が押し流そうとする。また本来ならば、畳んだ石にカキが隈(くま)なくくっついているのだが、撒餌に使う関係上みんなが金槌で剝がして持ってゆく。剝がした跡には青い短い藻が一面にぬるぬると密生して、草履をはいていても時には辷(すべ)るのだ。辷ると大変だ。潮にさからって元のところに泳ぎ戻るまでには、たいてい餌箱から生餌が逃げてしまっている。逃げられまいと餌箱を空中にささげれば、今度はこちらが海水を大量に飲まねばならない。
餌にも逃げられず、自分も海水を飲まないためには、始めから滑らないように用心するに越したはない。そこで僕らはのろのろと、潮の流れの反対に体を曲げて、長い時間の後三町ほども先にある突端にやっとたどりつくのだ。突端は海面よりはるかに高いから、満潮時でも水に浸ることはなかった。僕はそこでビクを海に垂らし、餌箱を横に置き、コンクリートにあぐらをかいて釣糸をたれる。帽子の中からタバコを振出し、ゆっくりと一服をたのしむのだ。僕のはく煙は、すぐに潮風のためにちりぢりに散ってゆく。
[やぶちゃん注:「三町」約三百二十七メートル。]
その突端の部分は、幅が五米ぐらい、長さが三十米ほどもあったと思う。表面は平たくならされたコンクリートで、雨の時には雨に濡れ、晴れの時には日に灼(や)ける。海をへだてて半里ぐらいのところから、灰色の市街が横長く伸びている。戦争中でもここだけは隔絶された静かな場所だった。
この突堤にその頃集っていた魚釣りの常連のことを僕は書こうと思う。
先に書いたように、満潮時でもこの突堤にたどり着こうというからには、常連たちは万一を考えて水泳術を身につけていなくてはならない。それに一応の体力をも。――しかし僕より歳若いのはこの突堤に、日曜や休電日をのぞいては、ほとんどあらわれなかったようだ。(戦争中のことだからこれは当然だ)。皆僕と同じくらいか、大体に年長者ばかりだった。そして概して虚弱な感じの者が多かった。僕はその前年肺尖カタルをやり、いわばその予後の身分で、医師からのんびりした生活を命じられていたのだ。医者はその僕に、特に魚釣りに精励せよと命令したのではないが、僕の方で勝手に魚釣りなどが予後には適当(オゾンもたっぷりあるし)だろうと、ムキになって防波堤に通っていたわけだ。無為でのんびりというのは僕にはやり切れなかった。今思うと、魚釣りというものはそれほど面白いものではないが、生活の代償とでも言ったものが少くともこの突堤にはあった。それがきっと僕を強くひきつけたのだろう。
[やぶちゃん注:「休電日」戦時中、渇水や石炭不足などから慢性的な電力不足となり、全国で(但し、実施曜日は各地域でバラバラ)電気供給を停止する日を設けていた。
「僕はその前年肺尖カタルをやり」「肺尖カタル」は肺尖(肺の上部の尖端部。鈍円形で、鎖骨の上側の凹部に位置する)のカタル(英語:catarrh:広く、感染症によって生じる諸臓器の粘膜腫脹と、粘液と白血球からなる濃い滲出液を伴う病態。但し、当時は肺尖部に生じたそれは肺結核の初期病変をわざとぼかして称することが多かった。「加答兒」と漢字を当てたりした)。梅崎春生は事実、東京都教育局教育研究所に勤務していた昭和一七(一九四二)年一月、召集を受けて対馬重兵隊に入隊したものの、そこで肺疾患が見つかって即日帰郷となり、同年一杯、福岡県津屋崎療養所、後に福岡市街の自宅で療養生活をしている。]
ここには何時も誰かが釣糸を垂れていた。僕は夜釣りはやらなかったが、夜は夜でチヌの夜釣りがいる。大体二十四時間誰かがここにいることになるのだ。少しずつ顔ぶれはかわって行くようだが、それでも毎日顔を合わせる連中は自然にひとつのグループをつくっていた。この連中と長いこと顔を合わせていて、僕は特に彼等の職業や身分というものを一度も感じたことはなかった。彼等は総体に一様な表情であり、一様な言葉で話し合った。いわば彼等は世間の貌(かお)を岸に置き忘れてきていた。
[やぶちゃん注:「チヌ」条鰭綱スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus
schlegelii の別名、或いは中型の成魚の呼称。主に関西以南で、かく呼ばれる。]
そしてこの連中のなかで上下がつくとすれば、それはあくまで釣魚術の上手下手によるものだった。こういう世界は常にそのようなものだ。碁会所、撞球場、スケートリンク。そんなところのどこでも、上手の人が漠然とした畏敬の対象となるように、この突堤でも上手なやつはやや横柄にふるまうし、初心者は控え目な態度をとる。その傾向があった。意識的でなく、自然に行われていた。しかしそれもはっきりときわ立ったものではない。きっぱりと技術だけが問題になるのではなく、やはりそこらに人間心理のいろんな陰影をはらんでくるようだったが。
そしてこの連中には漠然とではあったけれども、一種の排他的とでも言ったような気分があった。僕が始めてここに来た時、彼等は僕にほとんど口をきいて呉れなかった。僕が彼等と話を交わすようになったのは、それから一ヵ月も経ってからだ。僕だって初めは彼等に変な反撥を感じて、なるべく隔たるようにして釣っていたのだが、どういう潮加減かある日のこと、メバルの大型のがつづけさまに僕の釣針にかかってきたのだ。その日から彼等は僕に口をきき始めた。そして僕は連中の仲間入りを許された。思うに連中の排他的気分というのは、つまりこのような微妙な優越感に過ぎないのだ。僕もこれらに仲間入りして以来、やがてそんな排他的風情(ふぜい)を身につけるにいたったらしいのだが。
[やぶちゃん注:「メバル」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科又はメバル科メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis 或いは同属の近縁種シロメバル Sebastes cheni・クロメバルSebastes ventricosus の孰れかである。]
たとえば日曜日になると、この防波堤はたくさんの人士でうずめられる。勤人、勤労者、学生、それに女子供などが、休日を楽しみにやって来るのだ。それを突堤の常連は『素人衆(しろうとしゅう)』と呼んで毛嫌いをした。だから日曜日には常連の顔ぶれは半減してしまう。素人衆とならんで釣るのをいさぎよしとしないらしい。素人とさげすみはするものの、しかし僕の見るところでは、両者の技倆(ぎりょう)にそれほどの差異があるようには思えなかった。本職の漁師から見れば両者とも素人だし、それに実際並んで釣ってみると、日曜日の客の方がよけい釣ったりすることがしばしばなのだ。ただ両者に違う点があるとすれば、魚釣りにうちこむ熱情の差、そんなものだっただろう。それにもひとつ、日曜日の客たちは常連とちがって、ここに来てもひとしく世間の貌で押し通そうとするのだ。たとえば人が釣っているうしろで大声で話をしたり、他人のビクを無遠慮にのぞいて見たり、そんなことを平気でやる。そうした無神経さが常連の気にくわなかったのだろう。僕もそれは面白くなかった。
常連と口をきくようになってから、僕は彼等からいろんなことを教えられた。たとえば糸やツリバリの種類、どういう場合にどんな道具が適当であるかなど。また餌の知識。釣具店で売っているデコやゴカイより、岩虫の方が餌として適当であり、さらに突堤のへりに付着する黒貝が最上であることも知った。それから釣竿を自分でつくるなら、この地方における矢竹の産地や分布なども。
[やぶちゃん注:「デコ」。環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科 Perinereis
属イソゴカイ Perinereis
nuntia var. brevicirris。「岩デコ」「ジャリメ」「スナイソメ」などとも呼ぶ。
「ゴカイ」現在はゴカイ科カワゴカイ属のヤマトカワゴカイ Hediste diadroma・ヒメヤマトカワゴカイHediste atoka・アリアケカワゴカイHediste japonica の三種に分割されているものの総称通称。かつてはカワゴカイ属ゴカイHediste japonicaの正式単一和名と学名で示されてきたが、近年の研究によって、同属の近縁なこれら三種を一種と誤認していたことが判明、「ゴカイ」という単一種としての「和名」は分割後に消滅して存在しないので注意されたい。
「岩虫」多毛綱イソメ目イソメ科 Marphysa 属イワムシMarphysa
sanguinea。「イワイソメ」「マムシ」などと呼ばれる大型種。
「黒貝」斧足(二枚貝)綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ属イガイ Mytilus coruscus。
「矢竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica。]
しかし畢竟(ひきょう)そんな道具や餌に凝っても、この突堤で釣れるのは雑魚に過ぎなかった。メバルやボラ、ハゼ、キスゴやセイゴ、せいぜいそんなものだったから。
[やぶちゃん注:「ハゼ」条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidae に属する多様な種及び体型の似た別な魚類を総称するが、食用目的ならば、天麩羅にして美味いゴビオネルス亜科マハゼ属マハゼAcanthogobius flavimanus である。
「キスゴ」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス類、或いは狭義では知られたキス科キス属シロギス Sillago japonica の異名。
「セイゴ」出世魚のスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus の呼称の一つであるが、この呼称は地方によって異なる(例えば関東では全長二十センチから三十センチ程度までのものを「セイゴ」(鮬)と呼ぶようだが、私の一般的認識では、もっと小さな五センチから十八センチのものを「セイゴ」と呼ぶように思う)。]
ある日僕は持って行ったゴカイを使い果たしたものだから、常連から得た知識にしたがって、海中にざんぶと飛び込んで黒貝を採坂しようとした。水面近くのは皆採り尽してあるから、かなり深いところまでもぐらねばならない。苦労して何度ももぐり、やっと一握りの黒貝を採ったけれども、さて突堤に上ろうとすれば、誰かに上から手を引っぱって貰わねば上れない。ところが皆知らぬふりをして、釣りに熱中しているふりをよそおって、誰も僕に進んで手を貸そうとして呉れなかったのだ。知らんふりをしているのに、助力を乞うことは僕には出来なかった。莫迦(ばか)な僕は、水泳は医師から禁じられているのにもかかわらず、防波堤の低い部分までエイエイと泳いでしまった。
その時僕はずいぶん腹を立てたが、後になって考えてみると、特に彼等が僕だけに辛く当ったわけではないようだ。そういうのが彼等一般のあり方だったのだ。彼等は薄情というわけでは全然ない。つまり連中のここにおける交際は、いわば触手だけのもので、触手に物がふれるとハッと引っこめるイソギンチャクの生態に彼等はよく似ていた。こういうつき合いは、ある意味では気楽だが、別の意味ではたいへんやり切れない感じのものだった。
こんなことがあった。
その日は沖の方に厭な色の雲が出ていて、海一面に暗かった。ごうごうという音とともに、三角波の先から白い滴がちらちらと散る。三十分後か一時間あとかに一雨来ることだけは確かだった。しかしその時突堤の内側(ここは波が立たない)で魚が次々にかかっていたから、誰も帰ろうとしなかった。雨に濡れたとしても、夏のことだから困ることはないし、第一突堤にやって来るまでに海水に濡れてしまっている。だから皆困った顔をするよりも、むしろ何時もより変にはしゃいでいるような気配があった。
「一雨来るね」
「暗いね」
「沖は暗いし、白帆も見えない、ね」
そんな冗談を言い合いながら、調子よく魚を上げていた。その時、僕の傍の男が、ぽつんとはき出すように言った。
「もっと光を、かね」
もっと光を、というところを独逸(ドイツ)語で言ったのだ。僕はそいつの顔を見た。そいつはそれっきり黙ってじっとウキを眺めている。
[やぶちゃん注:「もっと光を」ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の最後の言葉とされるもの。“Mehr Licht!”で、音写するなら「メア・リィヒト!」。]
その男は四十前後だろうか、どんな職業の男か、もちろん判らない。いつも網目にかがったワイシャツを着込んで、無精髪をぼさぼさと生やしている。さっきの言葉にしても、思わず口に出たのか、誰かに聞かせようとしたのか、はっきりしない。はっきりしないが、僕はふいに「フン」と言ったような気持になった。魚釣りの生活以外のものを突堤に持ちこんだこと、それに対する反撥だったかも知れない。それにまたえたいの知れない自己嫌悪。
この弱気とも臆病ともつかぬ、常連たちの妙に優柔な雰囲気のなかで、ときに争いが起ることもあった。とり立てて言う原因があるわけでもない。ごく詰まらない理由で――たとえば釣糸が少しばかりこちらに寄り過ぎてるとか、くしゃみをしたから魚が寄りつかなくなってしまったじゃないかとか、そんな詰まらないことからこじれて、急にとげとげしいものがあたりにみなぎってくるのだ。しかしそれが本式の喧嘩(けんか)になることはまれで、四辺(まわり)からなだめられたり、またなだめられないまでも、うやむやの中に収まってしまう。しかしそんな対峙の時にあっても、そいつら当人の話は、相手を倒そうという闘志にあふれているのではなく、両方とも仲間からいじめられた子供のような表情をしているのだ。そのことが僕の興味をひいた。彼等は二人とも腹を立てている。むしゃくしゃしている。が、それは必ずしも対峙した相手に対してではないのだ。それ以外のもの、何者にとも判然しない奇妙な怒りを、彼等はいつも胸にたくわえていて、それがこんな場合にこうした形で出て来るらしい。うやむやのままで収まって、また元の形に背を円くして並んでいる後姿を見るたびに、僕は自分の胸のなかまでが寒くなるような、他人ごとでないような、やり切れない厭らしさをいつも感じた。そういう感じの厭らしさは、僕がせっせと防波堤に通う日数に比例して、僕の胸の中にごく徐々とではあるが蓄積されてゆくもののようだった。
[やぶちゃん注:「対峙」二つの対象(勢力)が向き合ったまま、動かないでいること。]
一度だけ殴(なぐ)り合いを見た。
その当事者の一人は『日の丸オヤジ』だった。
日の丸オヤジというのは、僕よりもあとにこの突堤の常連に加わってきた、四十がらみの色の黒い男たった。背は低かったが肩幅がひろいし、指も節くれ立ってハリや竿のさばきがあまり器用でない。工員というタイプの男だ。
この日の丸オヤジはいつもの態度は割におどおどしている癖に、へんに図々しいところがあった。いつも日の丸のついた手拭いを持っている。腰に下げていることもあるし、鉢巻きにしていることもある。工場からの配給品なのだろう。そこで日の丸オヤジという仇名がついていた。もっともこの突堤では、常連はお互いに本名は呼び合わない。略称か仇名かだ。ここは本名を呼び合う『世間』とはちがう、そんな暗黙の了解が成立していたからだろう。
その日の丸オヤジがナミさんという男と言い合いになった。どういう原因かと言うと、餌の問題からだ。大の男たちがただの餌の問題で喧嘩になってしまった。
その日、日の丸オヤジは持ってきた餌を全部魚にとられてしまったのだ。
そこで日の丸オヤジががっかりして周囲を見廻すと、コンクリートの地肌の上をゴカイが二匹ごそごそと這っている。これさいわいとそれを摑(つか)んでハリにつけたと言うのだが、ナミさんの言によるとそのゴカイは自分の餌箱から逃げ出したもので、逃げ出したことは知っていたが、魚の方で忙しかったし、たかがゴカイの脚だからあとで摑えようと思ったとのこと。それを勝手にとったのは釣師の仁義に反すると言うのだ。
僕らは口を出さず、黙って見ていた。
すると両者の言い合いはだんだん水掛論になってきた。たとえばゴカイが逃走して、餌箱から何尺離れたら、そのゴカイの所有権はなくなるか、と言ったようなことだ。こういうことはいくら議論したって結論が出ないにきまっている。
誰も眺めているだけで止めに出ないものだから、ついに日の丸オヤジが虚勢を張って、何を、と立ち上ってしまった。ナミさんもその気合につられたように立ち上ったが、そのとたんに二人とも闘志をすっかり失ってしまったらしい。あとは立ち上ったその虚勢を、如何にして不自然でないように収めるか、それだけが問題のように見えた。ところがまだ誰も仲裁に入らない。見物している。
二人は困惑したようにぼそぼそと、二言三言低声で言い争った。そして日の丸オヤジはおどすようにのろのろと拳固をふり上げた。それなのにナミさんがじっとしているものだから、追いつめられた日の丸オヤジはせっぱつまって、本当にナミさんの頭をこつんと叩いてしまったのだ。
叩かれたナミさんはきょとんとした表情で、ちょっとの間じっとしていたが、いきなり日の丸オヤジの胸をとって横に引いた。殴(なぐ)った日の丸オヤジは呆然としていたところを、急に横に押され、よろよろと中心を失って、かんたんに海の中にしぶきを立てて落っこちてしまったのだ。泳ぎがあまり得意でないと見えて、あぷあぷしている。
そこで皆も大さわぎになり、濡れ鼠になった日の丸オヤジをやっとのことで引っぱり上げたが、可笑しなことには、下手人のナミさんが先頭に立って、シャツを乾かすのを手伝ったりして世話を焼いたのだ。そして別段仲直りの言葉を交わすこともしないで、漠然と仲直りをしてしまった。シャツが乾いて夕方になると、いつもは別々に帰るくせに、この日に限ってこの二人は一緒に談笑しながら防波堤を踏んで帰って行った。
正当に反撥すべきところを慣れ合いでごまかそうとする。大切なものをギセイにしても自分の周囲との摩擦を避けようとする、この連中のそんなやり方を見て、やっと彼等に対する僕のひとつの感じが形をはっきりし始めたようだった。もちろんその中に僕自身を含めての感じだが、それはたとえば道ばたなどで不潔なものを見たときの感じ、それによく似ているのだ。
日の丸オヤジはこの突堤へ二ヵ月ほども通って来ただろうか。そしてある日を限りとして、それ以後姿を全然あらわさなくなった。へんな男たちから連れて行かれてしまったのだ。
[やぶちゃん注:最終一文の「から」はママ。]
その日は秋晴れのいい天気で、正午をすこし廻った時刻だったと思う。丁度引潮時で、突堤と岸をむすぶ石畳道はくろぐろと海水から浮き上っていた。その道を踏んで、見慣れない風態の男が三人、突端の方に近づいてきた。見慣れない風態というのは、釣り師風ではないというほどの意味だ。石の表のぬるぬる藻で歩きにくいと見え、靴を脱いで手に持ち、裸足に縄をくるくる巻きつけている。近づいてきたのを見ると、その一人は警官だった。そして彼等はヤッとかけ声をかけて突軽に飛び上った。
あとの二人もがっしりした体つきの、いかにも権力を身につけた顔つきをしていた。
僕らはもちろんそ知らぬ顔で糸をたれたり、エサをつけかえたりしていた。
「……はいないか」
と警官が大きな声を出した。警官の制服で足に縄を巻きつけている図は、なんとも奇妙な感じだった。
日の丸オヤジはその時弁当のニギリ飯を食べていたが、ぎくりとしたように警官の方にむき直った。
「お前だな!」
背広姿の男の一人が日の丸オヤジを見て、きめつけるように言った。日の丸オヤジは、ヘエッ、というような声を出して、どういうつもりかニギリ飯の残りを大急ぎで口の中に押し込んだ。
「ちょっと来て貰おう」
「ヘエ」
日の丸オヤジは口をもごもごさせながら、釣道具をたたもうとしたが、思い直したようにそれを放置して、男たちの方に進み出た。背広の一人が言った。
「釣道具、持って来たけりゃ持って来てもいいんだぞ」
「ヘエ、いいんです」
「じゃ、早く来い」
と警官が言った。日の丸オヤジはうなだれて、まだ口をもごもご動かしながら警官の前に立った。その時背広の一人が僕らを見廻すようにして、
「ヘッ、この非常の時だというのに、こいつら呑気に魚釣りなどしてやがる」
とはき出すように言った。僕らはそっぽ向き、また横目で彼等を眺めながら、誰も何とも口をきかなかった。
やがて日の丸オヤジは三人に取り巻かれるようにして突堤を降り、石畳道を岸の方にのろのろと遠ざかって行った。その情景は今でも僕の瞼の裡にありありとやきついている。
日の丸オヤジがどういうわけで連れて行かれたのか、僕は今もって知らない。あるいは工場に徴用され、それをさぼって魚釣りなどをしていたのをとがめられたのか。常連たちもそれについて論議をたたかわすことは全然しなかった。外見からで言うと、日の丸オヤジはその翌日から常連のすべてから忘れ去られてしまった。
オヤジの釣道具、放棄したビクや釣竿などは、誰も手をつけないまま、三日ほど突堤上に日ざらしになっていた。そして三日目の夜の嵐で海中にすっかり吹っ飛んでしまったらしい。四日目にやって来たら、もう見えなくなってしまっていた。
豹
――巴里の動物園で
リルケ 茅野蕭々譯
格子(かうし)の通り過ぎる爲めに
彼の眼は疲れて、もう何にも見えない。
彼には数千の格子があるやうで、
その格子の後に世界はない。
しなやかに強い足なみの音もない步みは
最も小さな輪をかいて𢌞つて、
大きな意志がしびれて立つてゐる
中心を取卷く力の舞踊のやうだ。
唯をりをり瞳の帷が音もなく
あがる。――すると形象は入って
四肢の緊張した靜さを通つて行く――
そして心で存在を止(や)めるのだ。
[やぶちゃん注:第三連一行目の「唯」は底本では「唯〻」となっているが、これは後の「リルケ詩集」で踊り字が加えられたものを底本は採用しているからである。しかし「唯〻」では「ただただ」と読むのが尋常であるが、ここは「ただ」で読む方が遙かに達意し、「ただただ」では屋上屋で厭味である。「リルケ詩抄」の表記に従い、「唯」のみとした。「唯〻」で「ただ」と読むと主張する向きには全く以って不同意である。なお、「帷」は「とばり」で、瞼(まぶた)の比喩。]
(はじめての薔薇が眼ざめた。)
リルケ 茅野蕭々譯
はじめての薔薇が眼ざめた。
その匂は臆病に
ごく小聲の笑のやう。
燕のやうな平らな翼で、
さつと日をかすめた。
そしてお前の側では
未だ凡てが氣づかはしい。
ものの光もおづおづと、
どの音も未だ馴れないで、
夜は新らし過ぎ、
また美は羞恥(はぢらひ)だ。
(この村に最後の家が立つてゐる。)
リルケ 茅野蕭々譯
この村に最後の家が立つてゐる。
地の果ての家のやうに寂しく。
小さい村が止めない街路は
靜に闇へ出てゆく。
この小村はただ二つの廣いものの
過渡だ。予知多く又氣づかはしく
小橋の代りに家々の傍を過ぎてゆく路。
かうして村を出る人々は長く彷徨ひ、
途上に死ぬものも多からう。
[やぶちゃん注:「止めない」は「とどめない」と訓じたい。「街路」を「小さい村」は「止」(とど)「めない」=「遮り遮断することをしない」のである。だからこそ、その「街路」は「靜」かに「闇へ」と向かって延び「出」(い)でて「ゆく」のである。]
[やぶちゃん注:まず、ネット上で最も知られていない「手帳」類から拾い始めることとする。
まず、「手帳6」(旧全集「手帳(六)」)の末尾に載る六篇を示す(リンク先は私の最新の芥川龍之介「手帳」の電子化注の末尾部分である)。本「手帳6」の記載推定時期は、新全集後記に『これらのメモの多くは中国旅行中に記された、と推測される』とある(芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は大正一〇(一九二一)年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。但し、構想メモのある決定稿作品を見ると、大正一〇(一九二一)年(「影」同年九月『改造』)が最も古い時期のもので、最も新しいのは「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月『中央公論』)であるが、それは創作素材としてであって、以下の詩篇はやはり、大正一〇(一九二一)年の中国特派の旅行中或いは帰国後の同年中に記されたものと考えてよいと思う。これはしかし、実は非常に重要な問題を提起するものである。それは最後に記す。なお、先のリンク先を見て貰うと判るが、この六篇の後に、
○人食ふ人ら背も矮く ひそと聲せず 身じろがず
という不気味な七・五・七・五の定型文語詩が載っているが(「矮く」「ひくく」と訓じているか)、これは分かち書きもしておらず、内容面(如何にも不気味で鬼趣と言える)からも、私は前の六篇の詩群とは別個なものと採って、「澄江堂遺珠」との親和性は低いと判断し、採らなかった。]
○光はうすき橋がかり
か行きかく行き舞ふ仕手は
しづかに行ける楊貴妃の
きみに似たるをいかにせむ
[やぶちゃん注:以下、六篇の定型文語詩は、恐らく、「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿と採ってよい。次の一篇の私の注も参照されたい。そうすれば、これらが原「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群であることを否定しようという人は誰もおらぬはずである。]
○光はうすき橋がかり
靜はゆうに出でにけり
昔めきたるふりなれど
きみに似たるを如何にせむ
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、
光は薄き橋がかり
靜はゆうに出でにけり
昔めきたるふりながら
君に似たるを如何にせむ
と酷似している。しかも、前の一篇は一行目が本篇と全く一致している。だからこそ、これらは明らかに「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿なのである。]
○女ごころは夕明り
くるひやすきをなせめそ
きみをも罪に墮すべき
心強さはなきものを
[やぶちゃん注:この一篇は、私が本『「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅱ』の『■2 岩波旧全集「未定詩稿」』(末尾に『(大正十年)』という編者クレジットを持つ詩群)の中に、
女ごころは夕明り
くるひやすきをなせめそ
きみをも罪に堕すべき
心強さはなきものを
と相同の一篇が載る。但し、『■2 岩波旧全集「未定詩稿」』の冒頭注で既に述べた通り、この詩群は旧全集編集者(恐らくは中でも堀辰雄)による操作が加えられた可能性が極めて高い、問題のあるテクストである。]
○遠田の蛙きくときは(聲やめば)
いくたび夜半の汽車路に
命捨てむと思ひけむ
わが脊はわれにうかりけり
[やぶちゃん注:この一篇も、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、
遠田の蛙聲やめば
いくたび■よはの汽車路に
命すてむと思ひけむ
わが夫はわれにうかりけり
(「■」佐藤が一字不明とするものを、かく示した)と酷似している。さらに言えば、先の■2の中にもこれがあり、そこでは実に最終行に、「わが夫(せ)はわれにうかりけり」とルビが振られているのである。]
○松も音せぬ星月夜
とどろと汽車のすぐるとき
いくたび
わが脊はわれにうかりけり
[やぶちゃん注:前の一篇と最終行が完全に一致している。]
○墮獄の罪をおそれつつ
たどきも知らずわが來れば
まだ晴れやらぬ町空に
怪しき虹ぞそびえたる
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う断片(完全でない)、
たどきも知らずわが來れば
ひがしは暗き町ぞらに
怪しき虹ぞそびえたる
などと、よく似ている。特に「怪しき虹ぞそびえたる」は芥川龍之介の好んだフレーズで、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」草稿と思しいものに複数箇所、発見出来るのである。
さて、これらの詩篇が問題なのは、これが推定で、大正一〇(一九二一)年の中国特派の旅行中或いは帰国後の同年中に記されたものである点にある。
一般的には、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」は芥川龍之介が最後に愛した歌人片山廣子に捧げられた詩篇であると信じられている向きがあり、私自身も、概ね、そう理解してきたのであるが、それはこの六篇には適用出来ないのである。
芥川龍之介が片山廣子に強い恋愛感情を持つようになるのは、現在では大正一三(一九二四)年七月の避暑に行った軽井沢での本格的な邂逅以後のことであり(但し、大正五年六月に廣子の歌集「翡翠(かわせみ)」の評を龍之介は『新思潮』に書いており、翌年の七月以降には最初の接触はあった)、これらの詩篇は実にそれよりも三年も前に書かれたものである可能性が高いからである。
即ち、少なくとも、これら六篇をものした折りの詩人芥川龍之介の、「月光の女」、恋愛対象の女性は片山廣子ではないということである。
私はそれが誰だったかについては、例えば、鎌倉の料亭「小町園」の女将野々口豊(とよ)辺りを想起は出来るが、断定はし兼ねる(しかも私は芥川龍之介が愛した女性では海軍機関学校教官時代の同僚の物理教師佐野慶造の妻佐野花子(彼女の書いた「芥川龍之介の思い出」を私は最近、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で全電子化注し、注を外したベタ・テクストも公開してある)と片山廣子以外の女性には、実はあまり興味が湧かないことをここで告白しておく)。ただ、大正八年に不倫関係を持った歌人秀しげ子ではなかったと断言は出来るように感ずる。何故なら、龍之介はこの時既に、秀しげ子には失望し、憎悪さえ抱いていたと推定され、彼が中国特派に出たのも、一面ではストーカー的な秀しげ子からの逃避感情があったからではないか、とさえ私は感じているからである。
孰れにせよ、私がこのブログ・カテゴリを『「澄江堂遺珠」という夢魔」』としたのは、そうした一筋繩ではいかない芥川龍之介の複雑な人間関係や恋愛感情抜きには、「澄江堂遺珠」を全解析することは出来ぬからなのである。
但し、「手帳6」(旧全集「手帳(六)」)の末尾注で記した通り、除外したこの後に出る、
○人食ふ人ら背も矮く ひそと聲せず 身じろがず
という一篇は私に直ちに、「湖南の扇」のエンディングで、名妓玉蘭が処刑された愛人黄老爺の血を滲み込ませたビスケットの一片を「あなたがたもどうかわたしのやうに、………あなたがたの愛する人を、………」と言って「美しい齒に嚙」むコーダのシークエンスを想起させる。そうして、そういった視点からフィード・バックすると、実は前の六篇の詩篇も含めて、これらは「湖南の扇」のモデルとなった、先に出る「支那人饅頭を血にひたし食ふ」という聴き書きのエピソードを元に創作した仮想詩篇であるような気もしてくる、即ち、これら六篇の詩篇は実在する芥川龍之介の愛した誰彼を設定したものではなく、そうした空想した強烈な愛と性(生)に生きる女傑へのオマージュであるように思えてもくるのである。大方の御叱正を俟つ。]
○漢口のバンド プラタナス アカシア (支那人不可入)芝生 ベンチ 佛蘭西水兵 印度巡査 路の赤 樹幹の白 垣のバラ 讌月樓 水越ゆる事あり(大正四年?) Empire Holiday. 燕
[やぶちゃん注:「バンド」英語の“bund”で、埠頭のこと。
「讌月樓」現代仮名遣で「えんげつろう」であるが、不詳。因みに「讌」は「宴(うたげ)」の意である。旅館や料理屋よりも、女郎屋の名前っぽい気が私にはする。
「大正四年」一九一五年。芥川龍之介特派の六年前。
「Empire Holiday」は五月二十四日を指している 即ち、これは“Empire
Day”で“Commonwealth Day”の旧称、ヴィクトリア女王の誕生日であるイギリス連邦記念日である。芥川龍之介は大正一〇(一九二一)年五月二十四日の朝、廬山を出発、九江から大安丸に乗船して漢口に向かった。漢口到着は二十六日頃であるから、この記載は、溯上し終えた最後の日に纏めて記したメモかとまずは思われる。しかし、実は彼は漢口から五月二十九日に長沙に出かけ、その後に洞庭湖を見たと思われ、新全集の宮坂覺氏の年譜では、再度、漢口に六月一日頃に戻っているらしい(年譜は推定で書かれてある)から、時系列を考えると、これはその時にそれら総てを纏め書きしたものとも思われる。]
○京漢線 車室――fan. 小卓 ベッドNo3. boyの□ 沿道――麥刈らる 靑草に羊群 墓の常緑 牛 驢 土壁
[やぶちゃん注:「京漢線」現在の鉄道路線である京広線(北京西から広州に至る路線で全長二千三百二十四キロメートル)の北側部分(北京から漢口までの間)。一九〇六年四月に開通した時点でこの路線を「京漢線」と呼称した。
「fan」扇風機。
「□」は底本の判読不能字。
「驢」ロバ。]
○穴居門 方形アアチ 方形石積 門ニ對聯 門外ニ塀アリ 屋上即畑 ○赤土 草 ポプラア 層 ○鞏縣前殊に立派なり
[やぶちゃん注:「穴居門」不詳。
「鞏縣」現在の河南省鄭州(ていしゅう)市の県級市鞏義(きょうぎ)市。芥川龍之介は鄭州で京漢線を降りて隴海線(ろうかいせん)に乗り換え、洛陽に向かっているので通過している。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
○洛水 蘇岸の家 舟 偃師縣後風景明媚 ――後 洛水に沿ふ 旋風を見る 羊 畑 井戸 麥刈らる
[やぶちゃん注:「洛水」黄河の支流の一つである「洛河」のこと。古くは「洛水」の名で知られる。参照したウィキの「洛河」によれば、『華山西南部の陝西省洛南県を源とし、東の河南省に流れ込み、河南鞏義で黄河に入る。全長』四百二十キロメートルと、非常に長い』。『大きい河川ではないが、中国中部の歴史上最も重要な地区を流れているため、中国国内では非常に有名な河川である。洛河周辺の重要な都市は盧氏、洛寧、宜陽、洛陽、偃師、鞏義などがある。三国時代の曹植作の有名な「洛神賦」は洛水の女神に仮託して故人の情懐を述べ表している』とある。
「蘇岸」不詳。
「偃師縣」現在の河南省洛陽市にある県級市偃師(えんし)市。かの玄奘三蔵の出生地である。]
○忠義神武靈佑仁勇威顯關聖大帝林 (石龜 圍――龍 )建安二十四年洛陽城南 ○乾隆三十三年河南府知府李士适 ○丹扉 煉瓦壁 丹柵 柏 白馬 白羊
[やぶちゃん注:「忠義神武靈佑仁勇威顯關聖大帝林」
「建安二十四年」後漢の元号。二一九年。
「乾隆三十三年」清の元号。一七六八年。
「河南府知府李士适」(一七九八年~?)は日本語の音なら「リ シカツ」。但し、中文サイトで見ると、彼が河南府知府に任ぜられたのは、乾隆三十五年である。芥川龍之介が「五」を「三」に読み違えたか、或いは旧全集編者の誤読かも知れぬ。
「丹扉」「丹柵」丹(に)塗りの扉・柵の謂いであろう。]
○睿賜護國千祥庵 碑林 煉瓦門 草長し ○迎恩寺 麥の埃の香 薄暮 路の高低 大寺(タアシイ)だと云ふboy.
[やぶちゃん注:「睿賜護國千祥庵」「睿賜」とは唐朝の皇帝睿宗(えいそう)が創建したということか? 「千祥庵」は、Q&Aサイトの答えに、かつて洛陽にあった寺院で、解放前には古代の石刻を多く所蔵していたらしい、とある。
「迎恩寺」中文サイトを見ると、現在の洛陽市内に現存する模様。「福王朱常洵」(明朝の第十四代皇帝の三男)の事蹟を記した邦文のページに、洛陽の、この寺の名が出るが、同一かどうかは不明。
「(タアシイ)」はルビではなく、本文。「大寺」の中国語“dàsì”の音写であるが、正確には「ダァスゥ」である。]
〇龍門 25淸里 高梁一尺 麥刈らる 麻 驢六(藍) 步四(鼠) 小使二(白) 騾逐ひ(白衣藍袴) 那一邊是龍門(ナイペンシロンメン)○十尸村は泥上の如し(村四つ) 裸の子供 皆指爪をいぢる 立て場の屋前 葭天井あり 刈しままの黍天井あり 燒餠(シヤオピン) 麻餠(マアピン)(汽車中) 糯の中に棗を入れしもの(チマキ式) 茹玉子 魚の油揚
[やぶちゃん注:「龍門」現在の河南省洛陽市の南方約十三キロメートルのところにある、後に出る伊河の両岸に存在する石窟寺院である龍門石窟のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「龍門石窟」によれば、『北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した』四九四年から始まる非常に古い石窟寺院である。『仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、龍門期』(四九四年~五二〇年)『と呼ばれる時期の始まりである』。『龍門石窟の特徴は、その硬さ、すなわち雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖岩質であることである。そのため、北魏においては雲岡のような巨大な石窟を開削することが技術的にできなかった』。「魏書」の「釈老志」にも、五〇〇年に、『宣武帝が孝文帝のために造営した石窟は、規模が大きすぎて日の目を見ず、計画縮小を余儀なくされた顛末を記している』。『様式上の特徴は、面長でなで肩、首が長い造形であり、華奢な印象を与える点にある。また、中国固有の造形も目立つようになり、西方風の意匠は希薄となる。裳懸座が発達して、装飾も繊細で絵画的な表現がされるようになる』。最初期は五世紀末の『「古陽洞」窟内に見られる私的な仏龕の造営に始まる。宣武帝の計画を受けて開削された「賓陽洞」』三窟(後出)の内、『実際に北魏に完成したのは賓陽中洞のみであり、南と北洞の完成は唐の初期であった。その他、北魏時期の代表的な石窟としては、「蓮華洞」が見られる。また、北魏滅亡後も石窟の造営は細々とながらも継続され、「薬方洞」は北斉から隋にかけての時期に造営された石窟である』。『唐代には、魏王泰が賓陽』三『洞を修復し、褚遂良に命じて書道史上名高い』「伊闕仏龕碑を書かせ」、六四一年に『建碑した。初唐の代表は』、六五六年~六六九年『(顕慶年間〜総章年間)に完成した「敬善寺洞」である。その後、「恵簡洞」や「万仏洞」が完成し、この高宗時代に、龍門石窟は最盛期を迎えることとなる』。『絶頂期の石窟が』、六七五年に『完成した「奉先寺洞」である。これは、高宗の発願になるもので、皇后の武氏、のちの武則天も浄財を寄進している。その本尊、盧舎那仏の顔は、当時既に実権を掌握していた武則天の容貌を写し取ったものと言う伝説があるが、寄進と時期的に合わず今では否定されている。また、武則天は弥勒仏の化身と言われ尊像としても合わない。龍門最大の石窟である』。『武則天の時代には、西山の南方、「浄土洞」の付近まで造営が及んだので、武則天末より玄宗にかけての時期には、東山にも石窟が開削されるようになった。「看経寺洞」がその代表である』とある。因みに、芥川龍之介の配下と目された作家たちは芥川龍之介の生前から「龍門」と呼ばれたから、そういう意味でも彼にはここは何か親しみを感ずるものがあったのかも知れぬ。
「25淸里」清代の一里は五百七十六メートルであるから、十四キロメートル強。
「騾」は、奇蹄目ウマ科ウマ属Equusのウマとロバの交配種ラバ(騾馬)Equus
asinus♂× Equus caballus♀。因みにラバは不妊である。
「(ナイペンシロンメン)」及び「(シヤオピン)」「(マアピン)」は総てルビ。「那一邊是龍門」“nà yībiān shì lóngmén”(ナ イピエン シ ルゥォンメン)で「ここら一帯が龍門です」の意。
「燒餠」は“shāobĭn”(シァオピィン)、「麻餠」は“mábĭn”(マァーピィン)。前者はうどん粉を練って薄くのしたものを焼いて表面にゴマをまぶしたもの。後者は甘い餡饅(あんまん)の一種かと思われる。
「步」不詳。「步兵」で軍服を着た人間のことか?
「騾逐ひ」ラバを追う農夫であろう。
「那一邊是龍門(ナイペンシロンメン)」始めっから、例の教え子にオンブにダッコした。それによれば、意味は「あの辺りが龍門です」である。但し、通常なら「那邊是龍門」と言うところであるが、「一」を入れることによって場所を特定させるための、ワン・クッション効果が高まるという。教え子はここに『更にご参考までに申し上げれば、北方では「那邊」を「ネイビエン」と読むのが自然です(「一」が入った場合の発音と近いので敢えて付記しました)』と附記し、『蛇足ですが、もし「哪一邊是龍門」だと疑問文「どのあたりが龍門ですか?」なので要注意です』と教えて呉れた。これは「那」が第四声、「哪」は第三声で、声調によって意味が異なってくるからだそうである。さて、「那一邊是龍門」をピンインで表記すると“nà yī biān shì lóng mén”で、カタカナの最も近い表記は「ナーイービエンシーロンメン」だということである。謝謝!
「十尸村」不詳。村名としては何だか、洒落にならない気がするのだが。]
○洛水の渡し――伊水 對岸に香山寺あり 賓陽三洞(案内人曰中央ハ中央、右ハ右云々) 左の洞に竈あり 燻る事最甚し 洞に至る前もう一洞あり perhaps 蓮華洞 その洞前水を吐く所あり 石欄 靑石標 樹木 見物人支那人二三人 車にのりし女 乞食と犬と立て場に食を爭ふ 男は梅毒
[やぶちゃん注:「伊水」洛河の支流で洛陽の南方を流れ、龍門石窟を抜ける。先の龍門石窟の地図データを参照されたい。
「香山寺」龍門石窟の向い側の川岸に「香山」という山があり、石穴の数は少ないがやはり山腹に石窟がある。ここに白居易が長年住んだ香山寺があり、彼の墓所もここにある。
「賓陽三洞」「龍門」の注を参照。個人サイト「おもしろくない? タイリポート」の中の「西安・洛陽旅行記」の「河南省・龍門石窟~賓陽三洞の歴史~」が画像もあり、歴史も詳しく載っている。
「竈」「かまど」。
「燻る」「くすぶる」。
「蓮華洞」龍門」の注を参照。やはり、個人サイト「おもしろくない? タイリポート」の中の「西安・洛陽旅行記」の「河南省・龍門石窟~蓮花洞~」に解説があり、窟内の画像も素敵! 行ってみたくなった。]
○鴻運東棧囘々教 豚を忌む 道士ト店 北京の骨董屋 庭中に大鉢植 醋の匀 マアチヤンの群 星空 吉田博士の宿 アラビヤ字の軸 珈琲 棧房Chan (tsan) fan.
[やぶちゃん注:「鴻運東棧」ここで切れているのではあるまいか? これは恐らく旅館の名ではないか?
「囘々教」「豚を忌む」で判る通り、イスラム教のこと。
「道士ト店」の「ト」は表記通り、カタカナ「ト」であるが、ここで格助詞「と」がカタカナになるのはやや不自然にも思える。回教寺院の中に道士と売店の取り合わせというのも妙である。一つの可能性として「道士卜店」で、道士による占いを生業とする店舗という意味ではあるまいか?
「醋」「す」。酢。
「マアチヤン」は“merchant”(商人)の謂いか。
「棧房Chan (tsan) fan」は旅館の室房。「棧」の音をウエード式ローマ字で示した“chàn”(拼音“zhàn”:チァン)に、発音しやすい類似音表記である“tsan”を併記し、「房」の音“fáng”(ウエード式・拼音共通:ファン)を簡易表記で示したものであろう。即ち、「棧房」の中国音「チャンファン」のメモである。]
○洛陽 停車場――支那町 不潔――石炭場――黑土――左に福音堂(米) 右に城壁――麥黃――乞食
[やぶちゃん注:「福音堂(米)」アメリカの宣教師が建てた教会の意か?]
○鄭州 兵營(grey) 練兵 馬 乞食(臥) 室は白 龍舌蘭二鉢 白い拂子bedにかかる
[やぶちゃん注:「拂子」「ほつす(ほっす)」「ほっ」も「す」もともに唐音。元来はインドで虫や塵を払うための具で、獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもの。後世、中国・日本で僧が説法などで威儀を正すために用いる法具となった。]
○光はうすき橋がかり
か行きかく行き舞ふ仕手は
しづかに行ける楊貴妃の
きみに似たるをいかにせむ
[やぶちゃん注:以下、六篇の定型文語詩は、恐らく、芥川龍之介の遺稿を佐藤春夫が編集した昭和八(一九三三)年三月岩波書店から刊行された芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿と採ってよい。私は既に同作を注附きで公開しており(HTML横書版・PDF縦書版)、ブログ・カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔」』では徹底追及を進行中である。次の一篇の私の注も参照されたい。そうすれば、これらが原「澄江堂遺珠Sois
belle, sois triste.」の詩群であることを否定しようという人は誰もおらぬはずだからである。]
○光はうすき橋がかり
靜はゆうに出でにけり
昔めきたるふりなれど
きみに似たるを如何にせむ
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、
光は薄き橋がかり
靜はゆうに出でにけり
昔めきたるふりながら
君に似たるを如何にせむ
と酷似している。しかも、前の一篇は一行目が本篇と全く一致している。これらは明らかに「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿なのである。]
○女ごころは夕明り
くるひやすきをなせめそ
きみをも罪に墮すべき
心強さはなきものを
[やぶちゃん注:この一篇は、岩波版旧全集に於いて――昭和六(一九三一)年九月発行の雑誌『古東多方(ことたま)』から翌七年一月発行の号まで、四回に亙って「佐藤春夫編・澄江堂遺珠」として掲載され、後、昭和八(一九三三)年三月岩波書店から芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠
Sois belle,sois triste. 」に収められ、その後、昭和一〇(一九三五)年七月発行の「芥川龍之介全集」(それを普及版全集と称する)第九巻に「未定詩稿」の題で所収された――と全集後記で称する(これは正しい謂いではないので注意! それについては、『やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅱ ■2 岩波旧全集「未定詩稿」』の冒頭注を参照されたい)ところの末尾に『(大正十年)』という編者クレジットを持つ詩群の中に、
女ごころは夕明り
くるひやすきをなせめそ
きみをも罪に堕すべき
心強さはなきものを
と相同の一篇が載る。]
○遠田の蛙きくときは(聲やめば)
いくたび夜半の汽車路に
命捨てむと思ひけむ
わが脊はわれにうかりけり
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois
belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、
遠田の蛙聲やめば
いくたび■よはの汽車路に
命すてむと思ひけむ
わが夫はわれにうかりけり
(「■」佐藤が一字不明とするものを、かく示した)と酷似している。さらに言えば、旧全集未定稿詩篇の中にもこれがあり、そこでは何と! 最終行に、「わが夫(せ)はわれにうかりけり」とルビが振られているのである。]
○松も音せぬ星月夜
とどろと汽車のすぐるとき
いくたび
わが脊はわれにうかりけり
[やぶちゃん注:前の一篇と最終行が完全に一致している。]
○墮獄の罪をおそれつつ
たどきも知らずわが來れば
まだ晴れやらぬ町空に
怪しき虹ぞそびえたる
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois
belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う断片(完全でない)、
たどきも知らずわが來れば
ひがしは暗き町ぞらに
怪しき虹ぞそびえたる
などとよく似ている。特に「怪しき虹ぞそびえたる」は芥川龍之介の好んだフレーズで、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」草稿と思しいものに複数箇所、発見出来るのである。]
○人食ふ人ら背も矮く ひそと聲せず 身じろがず
[やぶちゃん注:「矮く」「ひくく」と訓じているか。不気味な七・五・七・五の定型文語詩であるが、分かち書きもしておらず、内容面(如何にも不気味で鬼趣と言える)からも、私は前の六篇の詩群とは別個なものと採る。
但し、この一篇は私に直ちに、「湖南の扇」のエンディングで、名妓玉蘭が処刑された愛人黄老爺の血を滲み込ませたビスケットの一片を「あなたがたもどうかわたしのやうに、………あなたがたの愛する人を、………」と言って「美しい齒に嚙」むコーダのシークエンスを想起させる。そうして、そういった視点から見ると、実は前の六篇の詩篇も含めて、「湖南の扇」のモデルとなった先に出る「支那人饅頭を血にひたし食ふ」という聴き書きのエピソードを元に創作した仮想詩篇であるような気もしてくるのである。
以上で、芥川龍之介の手帳6は終わっている。]
○天心第一女子師範學校 古稻田 white in black. 附屬幼稚園 附屬高等小學校 國民學校 green in wood. 門内はイボタの生垣 右美育園 草花 ○縫紉 樂歌 作文 國文 手工 硯墨 石磐 一齊に答ふ 〇二階 裁縫室 圖書室 女子白話旬報(机上) 石膏の果物 圖書少 用器畫の形 一級より二人を出し整理す ○議事會辨公室 董事禽辨公室――小學義會 ○不要忘了今日 我校的運動會(verse libre) ――小學作文 ○自治週刊 文會週報○study, essay, story, poetry. ○私有財産Vermögen――Copy from a book. 新國語(Peking 來) ○寄宿舍 rape があるといけませんから ○蒙養部 白壁四方 柘榴 無花果 ブランコ 遊動圓木(touching) 製作(貼紙) ダンベル ボオト 木馬 ブラン(藤の) 砂(大箱中)
[やぶちゃん注:「天心第一女子師範學校」「附屬高等小學校」及び「rape があるといけませんから」は先に引いた「雜信一束」の「七 學校」に出る。
「white in black.」不詳。「古稻田」が黒で、その中に「天心第一女子師範學校」の白い建物があるという景観を描写したものか?
「green in wood.」これは、「附屬幼稚園」「附屬高等小學校」「國民學校」の方は木立或いは林か森の中に緑色の建物としてあったというのであろう。
「イボタ」キク亜綱ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属イボタノキ Ligustrum obtusifolium の大陸亜種と思われる。
「美育園」保育園か。
「縫紉」「ハウヂン(ホウジン)」。裁縫。以下、「手工」までは学科(授業)名であろう。
「硯墨 石磐」反日であるから、生徒の使用している筆記用具は総て〈中国製の〉硯と墨と石板だというのであろう。
「女子白話旬報」当時、刊行されていた『北京女報』『女學日報』などと並ぶ女性雑誌の一つ。
「用器畫の形」意味不明。
「一級より二人を出し整理す」各クラスから選出した図書係か。
「議事會辨公室」職員室か職員用会議室か?
「董事會辨公室」「董事」(とうじ)は「取締役」のことだから、理事会室か理事会会議室か?
「小學義會」小学校の職員室は別にあるということか?
「verse libre」はフランス語の“vers libre”の誤記で、「自由詩」のことであろうから、どこかに小学生の「不要忘了今日 我校的運動會」というそれが記されていたのであろう。
「自治週刊」「文會週報」不詳。或いは、同校内部で発行されていた政治的な自治週刊誌或いは同人総合週刊誌か? なお、この時、芥川龍之介は実は、若き日のかの毛沢東と、この長沙でニア・ミスしていた可能性もあるのである。
「Vermögen」はドイツ語で「財産がある」という意味であるから、「私有財産Vermögen」で、
「私有財産を持っている・保有する」という意味であろう。
「Copy from a book.」本から書写したもの。
「新國語(Peking 來)」当時、北京で刊行されていた公的な中国語教科書か。
「蒙養部」初等幼児教育科の謂いか。ここに出る「幼稚園」や「小學校」との違いはよく判らぬ。中文サイトの「蒙養院」によれば、清の一九〇三年に創設され、六、七歳から入学、修業年限は四年とある。
「touching」はここでは、みすぼらしく哀れな感じのする、の意か。
「ブラン」不詳。既に前出している「ブランコ」の脱字か。藤蔓で出来たブランコなら納得がゆく。]
○洞庭 入口は蘆林潭 水中に松見ゆ(冬は河故) 所々に赤壁風の山 帆影 水は濁れどやや綠色を帶ぶ 模糊として山影あり 税關にて造らせし浮標 船中香月氏と聊齋志異を談ず 湖上大筏見ゆ 扁山君山を左舷に望む (五時) 偏山の上に僧舍あり 遠く岳陽樓を見る(右) 「不潔なり 兵士大勢居り糞を垂る」と云ふ(香月氏) 君山は娥星女英の故地なり 岳州の白壁癈塔見ゆ 岳陽樓 三層 黃瓦に綠卍(最上屋) 樹左右 左に城壁連る
[やぶちゃん注:「洞庭」洞庭湖のこと。芥川龍之介は大正一〇(一九二一)年五月二十九日に訪れているが、「長江游記」本文には全く現れない。やはり「雜信一束」で、
*
五 洞庭湖
洞庭湖は湖(みづうみ)とは言ふものの、いつも水のある次第ではない。夏以外は唯泥田の中に川が一すぢあるだけである。――と言ふことを立證するやうに三尺ばかり水面を拔いた、枯枝の多い一本の黑松。
*
芥川のこの記載はメモにある通り、干上がったその無惨な(荒涼としたでも、汚いでもよい)洞庭湖を見たことのみを表明している。大正一〇(一九二一)年五月三十日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)では、自作の定型歌を掲げ、『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』とし、同じく同日附松岡譲宛旧全集九〇五書簡(絵葉書)では、『揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした』とさえ記している(中国中東部の長江中・下流域の平原部は「長江中下游平原」或いは無数の湖沼の間を水路が縦横に走ることから「水郷沢国」と呼ばれる)。以上から見て、芥川は詩に歌われ、古小説の美しい舞台として憧憬していた洞庭湖に、実は実見直後、激しく失望していたことが明らかである。
「蘆林潭」「ろりんたん」。地名。湘陰県蘆林潭。ここで湘江が洞庭湖に注ぐ。
「赤壁」湖北省の東部、武漢より下流の長江北岸に臨む地。後漢末の二〇八年に曹操と孫権の間で行われた「赤壁の戦い」の古戦場推定地であり、蘇軾の「赤壁賦」で夙に知られる名勝。ここは無論、「風の山」で「それらしい感じを与える山」である。
「香月氏」不詳。姓で「こうづき」であろう。
「扁山」ここ(教え子が送ってくれた画像)。
「君山」ウィキの「洞庭湖」に、『昔は洞庭湖の中に浮かぶ島であった君山(くんざん)』『は、現在は岸とつながっているが、かつて多くの道士が隠棲しており、湘江の女神・湘君が遊んだところとして知られる。現在は君山銀針という希少な中国茶の産地である。岳陽楼付近から船で渡ることができる』。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「五時」不詳。方位か?
「偏山」不詳。前の「扁山」と同じか。しかし位置的には「遠く岳陽樓を見る」というのはおかしくなる。何故なら、長江を遡上した場合は、まず「右」ではなく左手に「岳陽樓」を間近に見ることになるからである。この時、龍之介は船で長江を遡上したのではなく、洞庭湖の北の端辺りから船に乗ったのだろうか? この辺り、地形が錯雑していて、地図だけではどうも解き明かせない。どなたか、この私の一連の痙攣的不審を解いて戴けないだろうか? 以上のように注したところ、教え子が即日、先に示した画像とともに、以下の非常に興味深い見解をメールで呉れた。実は、この長沙と洞庭湖を訪れた芥川龍之介の行動は研究者の間でもブラック・ボックスで、よく判っていないようである。或いは以下の教え子の見解が芥川龍之介中国特派のこのやや不明な行程を明らかにする新開地となるようにも思われるので、本人の許可を得て全文を公開することとした。
《引用開始》
この芥川龍之介の洞庭湖通過は、長沙訪問の後に於けるものではなかったか。私の見たネット上の資料では、龍之介は長沙訪問の後、水路で漢口に戻り、そこから陸路(鉄道)で鄭州に向かったように見える。龍之介の記載は長沙訪問後、船が北上していた際のものではないか? 手帳上でも長沙の後に記載が出てくるのは、そのためではないか。しかも洞庭湖の南部、長沙方面から流れ込む湘江と洞庭湖が出会う「蘆林潭」の三文字の後に「岳陽」の記載が出て来るのだから、その確信は深まる。だとすれば、君山を左舷に見るのは自然だ。扁山というのは、岳陽楼の西南約七キロ、君山の東南東約五キロにある小さな島のことではないか(岳陽楼・君山・扁山の位置関係を示すために「百度地図」の画像写真を示す[やぶちゃん注:前掲の画像。])。ここでは「扁山」と「偏山」を同じものとして論を進める。さて、岳陽の遙か南から北上してくる船が、「君山」と「扁山」を視界に捉えた時、その船首が向いている方向によっては、「君山」と「扁山」を、ともに左舷に望むことがあっても不自然ではない。いやそれよりも、件の「百度地図」を衛星画像にしてみると、「扁山」の東側を多数の船が行き交っているのがわかる。すなわち、龍之介の乗った船が「扁山」の東を通過すれば、「君山」と「扁山」をともに左舷の視界に収めるのは自然なことである。船がその後で右舷に「岳陽楼」を見ることは、言うまでもない。いや、そもそも「岳陽楼」という、大自然の広大さに比べれば芥子粒の如くにちっぽけな建造物は、十分に近づかなければ、その姿を認め得ないのである。
私が岳陽楼に船で向かったのは、たしか一九九七年の夏であった。妻と三才の娘と私を載せて重慶から長江を下ってきた大型客船は、洞庭湖の北端で停泊し、私はそこから小型船に乗り換えて岳陽楼に向かった。折しも、天を覆う霧雨と濃霧の中を進んでいく船からは、扁山はおろか君山さえも眼にすることはできなかった。方向感覚を奪う白い世界を船は往く。その時、突然、幕が開くかのように眼の前に現れたのが岳陽楼であった。私は今でも、その時の岳陽楼がこの世のものではなかったのではないか、再び陸路で向かっても二度と辿り着ける場所ではないのではないかと夢想し、恍惚としてしまうのである。龍之介が訪れた際の洞庭湖が情けない白け切った姿であったことを、私はとても残念に思う。
《引用終了》
最後に。かく、私の不審を霧を払うように拭って呉れた教え子に、心から謝意を表するものである。
「娥星女英」これは中国神話中の女神「娥皇」(姉)と「女英」(妹)の判読ミスであろう。ウィキの「娥皇」によれば、『娥皇(がこう)は、古代中国の伝説上の女性。堯の娘で、妹の女英とともに舜の妻となった。また娥肓、倪皇、後育、娥盲、娥娙とも書かれた。姓は伊祁氏。舜の父母や弟はたびたび舜を死地に置いたが、舜は娥皇と女英の機転に助けられて危地を脱した。舜が即位して天子となると、娥皇は后となり、女英は妃となった。聡明貞仁で天下に知られた。舜が蒼梧で死去すると、娥皇と女英は江湘の間で自殺し、俗に湘君(湘江の川の神)となったと伝える』とあり、位置的も符合する。
「岳州の白壁癈塔」不詳。
「岳陽樓」洞庭湖の東北岸に建つ、高さ二〇・三五メートルの三層木造建築の楼閣。眼下に広大な洞庭湖、北に長江を臨む雄大な景観で知られる。参照したウィキの「岳陽楼」より引く。『黄鶴楼、滕王閣と共に、江南の三大名楼のひとつとされ』、『後漢末、赤壁の戦いの後』、『呉の魯粛が水軍を訓練する際の閲兵台として築いたものがこの楼の始まりとされる』。『唐代、岳州に刺史として左遷されてきた張説が』七一六年に『魯粛の軍楼を改修して』『岳州城(岳陽城)の西門とし、南楼と称した』。『「岳陽楼」の名もこの頃につけられた』。『張説が才子文人と共にこの楼で詩を賦してからその名が高まり』、『後に孟浩然や李白ら著名な詩人たちもここを訪れて詩を賦し』、『「天下の楼」とうたわれた』。『当時の楼は現在のものより小規模で背も低かったと言われる』。『現在の建物は清代の』『再建であり、その飛檐(反りの大きな軒)は清代建築に特徴的なものである』。杜甫の「登岳陽樓」(岳陽樓に登る)が最も知られる(引用元に載る)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
○酒じみの疊に蚊たかり居る空き間
[やぶちゃん注:中七字余りの俳句。]
○西村が文鳥の占を見て貰ふ
[やぶちゃん注:前に続いて私は中七字余りの俳句と採る。「占」は「うら」。所謂、本邦にもあった鳥占いである。現在の台湾でのそれをpu2898氏の動画(その後の別な方の別方式の投稿動画も有り)で見られる。]
○支那富豪金を銅貨にし(37俵)貯ふ 銀行はつぶるる故
○鄭州 早川 島田 日華實業協會 災民施療所 (doc. 二人、Nurse 一人)(nurse 二人shankel)トラフオーム 75%(内地は15%)膀胱結石(二つ 一は大福大) 兵士多し トラフオームの老婆 一眼紫色 一眼治療前 治療は眶の皮を切り縫ひ上ぐ for 睫毛内面にむき角膜を磨擦しスリ硝子の如くすればなり 兵士のシャンケル April-July, 平均300(April-July, 149. 新舊合せて)
[やぶちゃん注:「鄭州」現在の河南省の省都である鄭州(ていしゅう)市。
「早川」不詳。
「島田」不詳。以下の「日華實業協會」の職員か。
「日華實業協會」「神戸大学附属図書館」のデジタル・アーカイブの「日華實業」に、大正六(一九一七)年に「神戸商工会議所」内に「日支実業協会」が設置され、大正一三(一九二四)年に「神戸日華実業協会」と改名したとある(現在も存続する)。但し、芥川龍之介の渡中は大正一〇(一九二一)年であり、まだ「日支實業協會」であったから、違うかも知れぬ。
「災民施療所」「日華實業協會」が運営する飢民を対象とした診療所か。
「shankel」「シャンケル」はドイツ語の“kranker”(所謂、「クランケ」。実際にネィテイヴのそれは「クランカ」と聴こえる)、「患者・病人」の誤りではなかろうか?
「トラフオーム」トラコーマ(Trachoma)。クラミジア・トラコマチス(真正細菌界クラミジア門クラミジア綱クラミジア目クラミジア科クラミジア属Chlamydia
trachomatis)を病原体とする急性及び慢性の角結膜炎。伝染性感染症で、主に目と性器に感染する。重症化すると失明する(現在でも世界で年間六百万人がこれで失明しているとウィキの「トラコーマ」にある)。
「膀胱結石(二つ 一は大福大)」芥川龍之介はその「災民施療所」を実際に見学し、そこでこの二つの膀胱結石を見せて貰ったのであろう。龍之介は、この手の標本を見るのが、実は好きである。
「眶の皮を切り縫ひ上ぐ for 睫毛内面にむき角膜を磨擦しスリ硝子の如くすればなり」「眶」は「まぶち」「まぶた」(瞼)と読む。ウィキの「トラコーマ」によると、トラコーマは重症化すると、『上眼瞼が肥厚することがある。その結果』、『睫毛が偏位し、角膜に接触するため、瞬きするたびに角膜を刺激し、角膜潰瘍を引き起こす。そこに重感染が起こることで、失明や非可逆性の病変を残すこととなる』とある。
「April-July, 平均300(April-July, 149. 新舊合せて)」この数値の違いの意味はよく判らない。]
○災童收容所 右胸に姓名を書きし紙札 白服 算 修身 讀本 先生白服
[やぶちゃん注:児童対象の養護施設らしい。これも或いは「日華實業協會」の事業の一つか。]
○乞食 臥老人 夜あひし乞童 全裸體の子供
○錢舜擧 終南山歸妹圖(鍾馗嫁妹圖)○錢舜擧 蕭翼蘭亭圖(元ノ兪紫文の書)○黃尊古 仿梅道人江山秋色圖○載士醇○蘆鴻滄館○曾國藩 日本畫の猿 安思翁?
[やぶちゃん注:「錢舜擧」(せんしゅんきょ)は元代の画家。浙江省呉興の生まれ。名は選、舜挙は字(あざな)、号に王潭・巽峯など。宋の景定年間(一二六〇年~一二六四年)に進士となったが、宋滅亡後は官途に就かなかった。詩・書画ともに巧みで、殊に人物・山水・花鳥画を能くした。生年未詳で、一三〇一年以後に没したと思われる(思文閣「美術人名辞典」に拠った)。
「終南山歸妹圖(鍾馗嫁妹圖)」現代仮名遣で「しゅうなんざんきめいず(しょうきかめいず)」と読む。疫病や悪霊を防ぐ勇壮な神鍾馗が自分の妹を嫁に出すという逸話に基づく。後世に作話されたものらしいが、加藤徹氏の「京劇城」に、落語みたような面白い京劇「鍾馗嫁妹」の分かり易い解説が載る。
「蕭翼蘭亭圖」これは「蕭翼賺蘭亭圖」(しょうよくたんらんていず)の脱字であろう。「賺」は「騙す」の意で、唐の太宗の使者蕭翼が山深い庵に住む僧辯才を訪ね、王羲之の知られた名筆「蘭亭序」を騙し取るという故事を画題としたもの。
「兪紫文」不詳。識者の御教授を乞う。
「黃尊古」清代の画家。
「仿梅道人江山秋色圖」不詳。ただ、ネット検索では明代の画家藍田叔の作に「仿梅道人山水卷」という書画があることだけは判る。
「載士醇」これは「戴醇士」の芥川龍之介の誤記か、全集編者の判読ミスではなかろうか。「戴醇士」(たいじゅんし)なら、清末の画家戴熙(たいき 一八〇一年~一八六〇年)の字である。ウィキの「戴熙」によれば、『浙江省銭塘(現在の杭州市)出身』で、一八三二年に『進士となり、翰林院編修となった。広東学政、内閣学士を経て兵部右侍郎に至り、退官後は崇文書院の主講となった。太平天国の乱が発生すると団練』(だんれん:清代の地方に存在した武装集団。地方の有力者が盗賊等から郷鎮を自衛するために自発的に組織した民兵組織。)『を組織して杭州の防衛にあたった』。一八六〇年に『太平天国軍が杭州を陥落させると、戴熙は池に身を投じて自殺した。死後、文節の諡号が贈られた』。『筆致は厳しく雄大である。また竹石小品や花卉画も善くした』。同じ清朝の画家湯貽汾(とう いふん 一七七八年~一八五三年)とともに『画名をはせ、「湯戴」と称された。『山水長巻』や『重巒密樹図』などの作品が残されている』とある。
「蘆鴻滄館」不詳。
「曾國藩」(一八一一年~一八七二年)は清末の軍人政治家。湖南省湘郷県の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。詳しくはウィキの「曽国藩」を参照されたい。
「安思翁」不詳。]
嚴肅な時
リルケ 茅野蕭々譯
いま世界の中の何處かで泣いてゐる、
理由なく世界の中で泣いてゐる人は、
私を泣くのだ。
いま夜に何處かで笑つてゐる、
理由なく夜に笑つてゐる人は、
私を笑ふのだ。
今世界の中の何處かに步いてゐる、
理由なく世界の中に步いてゐる人は
私へ步いてゐるのだ。
今世界の中の何處かで死ぬ、
理由なく世界の中で死ぬ人は、
私を見つめてゐる。
○北海碑(墻門) 石階 筧 雜草 麓山寺碑亭(白かべ) ○劉中丞祠 崇道祠(コノ中ニ朱シアリ) 六君子堂 梧桐 芭蕉 ザクロノ花 ○劉人熈 湖南督軍都督 墓――半成
[やぶちゃん注:「北海碑」「北海」は盛唐の名臣で書家としても知られる李邕(りよう 六七八年~七四七年)のこと。玄宗の時、北海太守に任命されたことから、世に「李北海」と称された。ウィキの「李邕」によれば、『英才で文名高く、また行書の名手であった。碑文の作に優れ、撰書すること実に』八百本に『のぼり、巨万の富を得たといわれる』。『晩年は唐の宗室である李林甫に警戒され、投獄され杖殺されて非業の死を遂げた』とあり、これは彼「北海」の書いた麓山寺「碑」のことであろう。建碑は七百三十年で碑文は二十八行・各行五十六字から成るもので、書体は行書、『湖南省長沙の嶽麓書院に現存する。碑の篆額には「麓山寺碑」の』四字を『刻し、碑末の年記の次に「江夏黄仙鶴刻」とあるが、仙鶴とは李邕のことであるという。碑は宋代の頃から、剥落がひどく、拓本で佳品は稀である。麓山寺は嶽麓寺(がくろくじ)ともいわれることから、この碑を『嶽麓寺碑』ともいう』とある(下線やぶちゃん)。中文ブログのこちらで、碑が現認出来る。なお、麓山寺(ろくざんじ)は長沙市の岳麓山にある仏教寺院で、西晋の二六八年の建立。弥勒菩薩・釈迦如来・五百羅漢像・千手千眼観音菩薩を祀る(ここはウィキの「麓山寺」に拠った)
「墻門」「しやうもん(しょうもん)」建物の門口のこと。前の注のブログ写真を見ると、少なくとも現行では碑のための鞘堂の如きものがあって、その戸口の直近に碑が建っているのが判る。
「麓山寺碑亭(白かべ)」芥川龍之介が別な碑を誤認したのではなく、前の「北海碑」の私が鞘堂みたようなと言った建物を指すならば、中文ブログ写真で判る通り、現在は黄土色に塗られている(その写真を見るに、屋根は龍之介の来訪時のものかも知れぬが、壁はかなり新しい感じである。或いは、龍之介拝観当時とは場所が移っている可能性もあるか)。
「劉中丞祠」不詳。「劉中丞」は検索では中文サイトでかなり掛かるが、読めないので比定出来ない。次の「湖南大学岳麓書院数字博物館」の岳麓書院の紹介ページには見た感じでは、この祠はない。現存しない可能性もあるか。
「崇道祠」ウィキの「岳麓書院」によれば、一五二七年、長沙知府王秉良(へいりょう)が増築した建物で、南宋の優れた儒者朱熹を祀るもののようである(中文であるが、「湖南大学岳麓書院数字博物館」公式サイト内のこちらを見られたい)。
「六君子堂」ウィキの「岳麓書院」に、一五二六年に六君子堂(朱洞・李允則・劉珙・周式・陳鋼・楊茂元)が学道許宗魯と知府楊表によって建立された、とある。「湖南大学岳麓書院数字博物館」の中に「改建六君子堂碑記」の画像と解説が載る。
「劉人熈」宮原佳昭氏の、清末から一九二〇年代にかけての教育行政について記された論文「近代における湖南省教育会について」の中に、湖南教育総会設立(一九〇七年)当初の会長は劉人煕であった、とある。また、サイト「小島正憲の凝視中国」の「上海の毛沢東 vs 北京の孔子」に、辛亥革命後の一九一四年に、『王船山に傾倒していた湖南開明派の劉人煕が船山学の普及のため、湖南省長沙の地に「船山学社」を創設した』。一九一九年に『劉人煕が死去したあと、閉鎖状態になっていたものを』、一九二一年、『湖南第一師範学校を卒業した毛沢東がマルクス主義の教育と宣伝のために「湖南自修大学」として再開した。もっぱら自学自習に重点が置かれており、最盛期には』二百人ほどの『学生が学んでいたという』。一九二三年、『危険思想を教えているという理由で、軍閥政府によって強制的に閉鎖された』とある「劉人煕」と同一人物であろう。
「半成」半分までしか出来ていないの謂いか?]
○愛晩亭 錢南園 張南軒 二南詩刻 ○岳麓寺(万壽寺) 古刹重光(赤壁) 設所釋氏佈教ダンモハン養成所 香積齋堂 山路 雲麓宮 望湘亭
[やぶちゃん注:「愛晩亭」ウィキに写真附きで「愛晩亭」がある。『湖南省長沙市にある亭』(四阿)。『醉翁亭、陶然亭、湖心亭と共に、江南四大名亭の』一つと『される。清代の』一七九二年、『当時の岳麓書院の院長であった羅典によって建立』された、とある。
「錢南園」清の官僚で画家でもあった錢灃(せんほう 一七四〇年~一七九五年)の号である。彼は湖南学政であったことがある。
「張南軒」南宋の儒学者(朱子学の濫觴のグループに属する)で政治家であった張栻(ちょうしょく 一一三三年~一一八〇年)の称の一つ「南軒先生」。ウィキの「張栻」によれば、『広漢(四川省)の出身。宰相・張浚の子として生まれ、将来の大儒を目指して胡宏(五峰)に学ぶ。初めは直秘閣に任じられ、その後は地方官を歴任し、中央に戻ってからは吏部侍郎から右文殿修撰になった。金に対して主戦論を保持し、たびたび国防・民政に関する上奏を奉じ、宰相・虞允文からは疎まれたが』、『孝宗の信任は厚かった。後に王夫之は『宋論』のなかで張栻を「古今まれに見る大賢ではあるが、王安石以来の人材迫害・言論弾圧に懲りて世間を離れることに努め、才能を振るおうとしなかった」と惜しんでいる』とある。ウィキの「岳麓書院」によれば、一一六五年、『湖南安撫使の劉珙は書院を修復する。張栻が書院教事に就任する』。一一六七年、『儒学者の朱熹はここに』於いて講義を行い、一一九四年には湖南安撫使となっていた『朱熹は書院を重修した』とある(下線やぶちゃん)。
「二南」不詳としたら、即座に教え子が調べて呉れた。こちらの中文サイトのページに解説が載り、こちらの別の、やはり中文サイトのページで岳麓書院にある当該碑の写真が見られる。教え子がその一部を訳して呉れたので転載する。『傾斜した石畳を下ってゆくと、もう、愛晩亭は近い。愛晩亭に行く前に、まず、放鶴亭へ。そこには二南の詩碑がある。二南というのは張南軒と銭南園。張は道学者、銭は第一級の人物。屢々汚職官吏を弾劾した誉れ高い方々。詩や書画などにおいても名声を馳せている』。そうか、銭「南」園と張「南」軒で「二南」か。脳の硬直化した私はそれにさえ気づいていなかった。
「岳麓寺(万壽寺)」中文ウィキの「麓山寺」に、同寺は明の神宗から「万壽寺」の称を賜った旨の記載がある。
「古刹重光」不詳。現在は「重光寺」という寺院を長沙には見出せない。
「設所釋氏佈教ダンモハン養成所」不詳。「釋氏佈教」は、釈迦の教えである仏教に基づくの謂いであろうけれども、「ダンモハン」で検索を掛けると、悲しいかな、私の「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」しか掛かってこないのだ。
「香積齋堂」不詳。但し、「香積」(こうしゃく)とは「香気に満ちた世界」の意で、「維摩経香積品」によれば、そこに住む如来の名(香積如来)でもあるとされるから、ここはそれを斎(いつ)き祀る堂とも採れる。しかし、実はその「香りの満ちた場所」の意から転じて、禅宗では食事を調理する庫裡(くり)をも「香積」と呼び、また「齋」は本邦の「とき」であって、禅僧の御前中の一日ただ一回の食事を指す語でもある。龍之介が禅寺の厨(くりや)の名称をわざわざメモに記すとも思われぬので、一応、前者で採っておく。
「雲麓宮」現在の長沙市岳麓山にある道観(道教寺院)。ウィキに「雲麓宮」がある。明代の一四七八年に『吉簡王・朱見浚により創建された。当時は洞真観と称した』。嘉靖(一五二二年~一五六六年)年間に『太守孫複と道士李可経は道観を再建』、隆慶(一五六七年~一五七二年)に『再建された際、関聖殿(前殿)、玄武祖師殿(中殿)、三清殿(後殿)の建立にあたっては、従来通り』、『復元することが求められた。明末、清兵入関の火難で、道観は両度焼き捨てられた』。清代の一六六二年、『長沙分巡道張睿は道観を再建した。乾隆年間』(一七三六年~一七九五年)『は道観を重修した』。一八五二年、『道観は戦災で壊された』。道光(一八二一年~一八五〇年)年間、『望湘亭が修築され』一八六二年には『望江亭、五岳殿、天妃殿、宮門を増築した。翌年、武当山太和宮道士の向教輝が資金を募り全面修復した』。この後の、一九四四年の『日中戦争の時、雲麓宮は日本軍の戦闘機で爆破された』。一九四六年、『道士鄔雲開と呉明海が資金を募』って『全面重建し、翌年に落成した』。一九五七年に地元政府が修復をしたが、『文化大革命の初め、神像、法器は徹底的な破壊に遭い、道士はしかたなく還俗した』。一九七六年、『関帝殿を修復』とある(下線やぶちゃん)。
「望湘亭」前の道観雲麓宮にある亭。前注下線部参照。]
〇二階 白 天窓 三段の書架 35万卷 經史子集 宋 元板は上海に送つた 元板の文選 北宋金刻本の捭雅 南宋本ノ南岳 總勝集 端方贈(巡撫時代の紀念) ○紺ノ馬掛子 金のメガネ 白皙 葉尚農(德輝) ○白壁 甎 天井高し 伽藍ノ感ジ ○板木ニ朱卜黑ト二種アリ ○高イ墻の屋根ニ小サナ木ガ生エテヰル ○入口 門(黑) 石敷 植木鉢 室輿四五(綠色の蔽) 皇帝畫像
[やぶちゃん注:「元板」彫琢した印刷用版木の原板の謂いであろう。
「捭雅」不詳。
「南岳」中身は判らぬが、中文サイトに『宋刻本』『南岳稿』という書か。
「總勝集」宋の陳田夫撰になる湖南の地誌「南嶽總勝集」。「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典籍総合データベース」のこちらで読める。
「端方」清末の満州族出身の官僚端方(ドゥワン ファン 一八六一年~一九一一年)。ウィキの「端方」によれば、一八八二年に『挙人となり、員外郎、候補郎中を歴任した。戊戌の変法を支持したが、戊戌の政変後には栄禄(ジュンル)と李蓮英の保護を受けて、処罰を免れた』。一八九八年、『直隷霸昌道に任命されたが、朝廷が北京に農工商局を創設すると、端方は召還されて局務を任された』。その折り、勧善歌を上呈して『西太后の称賛を受けて、三品頂戴を授かった』。『その後、陝西省に派遣され、按察使、布政使、巡撫代理を歴任した』。一九〇〇年、『義和団の乱により北京が』八カ国連合軍に『占領され、西太后と光緒帝は陝西省に逃れた。端方はその応対に功績があったとして、河南布政使に転任し、さらに湖北巡撫に昇進』、一九〇二年には『湖広総督代理となり、さらに両江総督代理や湖南巡撫を歴任した』。一九〇五年、『北京に呼び戻され、閩浙総督に任命されたが就任する前に、載沢(ヅァイジェ)・戴鴻慈・徐世昌・紹英(ショーイン)とともに外国へ立憲制度の視察に赴くように命じられた』(但し、『出発日に革命派の呉樾の自爆テロがあったため、出発は延期され、徐世昌と紹英が李盛鐸と尚其亨に交代し』ている)。十二月七日、『軍艦で秦皇島から上海に赴き』、十二月十九日に『アメリカ船で上海を出発した。五大臣は日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、オーストリア=ハンガリー、ロシアの十ヶ国を視察し、翌年の』八月に『帰国した。帰国後、視察の結果を総括して、『請定国是以安大計折』を上奏し、日本の明治維新にならって憲法を制定することを主張した。さらに自ら編纂した『欧美政治要義』を献上した。これは立憲運動の重要な著作とみなされている』。『帰国後、両江総督となり』、一九〇九年に『直隷総督となった』。一九一一年、『清朝の鉄道国有化政策に対して四川省で保路運動が展開されると』、九月に『朝廷は四川総督の趙爾豊を解任し、端方に代理を命じた。端方は新軍を率いて資州に入ったが』、十一月二十七日に『新軍の反乱が起き、端方は刺殺された』。『端方は中国の新式教育の創始者の一人である。湖北・湖南巡撫にあったときには各道・府に師範学院を創設した。江蘇巡撫在任時には中国初の幼稚園「湖北幼稚園」と省立図書館を創設し、多くの留学生を派遣した。両江総督在任時には南京に暨南学堂(現在の暨南大学)を設立した』。『湖北幼稚園は張之洞が設置を計画し、後任の端方が』一九〇三年に『担当者を日本に派遣し、教材教具の購入と保母として日本人教習』三名を招請、『その中の元東京女子高等師範学校教諭だった戸野みちゑが初代園長に就任し』、一九〇四年に開園させている。戸野らは一八九九年に『公布された日本の「幼稚園保育及設備規程」を元に「湖北幼稚園開弁章程」を作成し、中国における公的な幼児・女子教育制度の先鞭となった』とある(下線やぶちゃん)。
「巡撫」明・清時代の地方長官職。「巡行撫民」の略で、当初は中央から派遣される臨時職であったが明の宣徳年間(一四二六~三五)頃から主要地方に常設され、省又はその一部を管轄するようになった。
「馬掛子」「馬掛兒(マアクワル)」(măguàér)のことであろう。日本の羽織に相当する上衣で対襟となったもので、「掛」は本来は「褂」が正しい。
「白皙」「はくせき」。皮膚が白いこと。
「葉尚農(德輝)」葉徳輝(一八六四年~一九二七年)は清末から民国初期の考証学者にして蔵書家。内藤湖南や徳富蘇峰など、多くの日本人と交流があったことでも知られる。以上は深澤一幸氏の論文『葉徳輝の「双梅景闇叢書」をめぐって』(PDF)に拠った。
「甎」音で「セン」と読み、「磚」「塼」の字も当てる。東洋建築に用いられた煉瓦 のこと。正方形や長方形の厚い板状のもので、周代に始まって漢代に発展、城壁・墓室などに用いられた。
「墻」「かき」。音は「シヤウ(ショウ)」。垣根。障壁。
「室輿」不詳。貴人の邸宅で、椅子の下部の脚下)に竿がついていて、時には座ったままで、移動可能なものを言うか(脚下としたのは轎のように中間部で出っ張っていては、却って座るのに不便であるからである)。識者の御教授を乞う。]
○家ノ大イナルハ木材卜石材多キニヨル
○大平亂以後十八省ノ巡撫湖南人トナル ソノ上米ヨク出來ル 故ニ町立派ナリ 學校モ多シ ――古川氏の話
[やぶちゃん注:「大平亂」太平天国の乱。清朝の一八五一年から一八六四年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織「太平天國」によって起きた。「長髪賊の乱」とも称する。
「古川氏」不詳。在中の現地日本人案内人であろう。]
○湖南長沙蘇家巷怡園 葉
[やぶちゃん注:「長沙蘇家巷怡園」の「怡園」(いえん)は、長沙に蘇家巷という小路にあった葉徳輝の邸のこと。先に示した深澤一幸氏の論文『葉徳輝の「双梅景闇叢書」をめぐって』(PDF)を参照のこと。]
○張繼堯〔湯(弟)〕ト譚延闓トノ戰の時張の部下の屍骸土を蔽ふ事淺ければ屍骸湘江を流る
[やぶちゃん注:「張繼堯」これは恐らく、清末から中華民国初期の軍人張敬堯(ヂャン
ジンヤオ ちょうけいぎょう 一八八〇年~一九三三年)の誤りであろう。北京政府及び軍閥の安徽派に所属、後に北方各派・満州国に属した軍人で安徽省霍丘出身。武昌蜂起後の湖北で戦い、一九一五~一九一六年の護国軍の討伐等に参加、一九一八年には段祺瑞(だんきずい)の命を受けて湖南省督軍兼代理省長となったが、専横著しく、一九二〇年六月には直隷派の呉佩孚(ごはいふ)や馮玉祥(ふうぎょくしょう)及び趙恒愓(ちょうこうてき)らによって戦わずして職を追われた。その後、奉天派の張作霖を頼るも、一九二二年の第一次奉直戦争で奉天派が敗れるや、呉佩孚に寝返った。一九三二年には今度は満州国軍に所属、日本軍に連携した諜報活動に従事するも、国民党特務機関のヒットマンに刺殺された。
「湯(弟)」不詳。
「譚延闓」(タン ユエンカイ たんえんかい 一八七九年~一九三〇年)は湖南省茶陵県出身の軍人。一九一二年に袁世凱から湖南都督に任命されたが、同年八月の国民党成立後はこれに参加、国民党湖南省支部長となった。一九一三年の第二革命では省の独立宣言をするも失敗、その後、一九一五年の護国戦争勃発後は当時の湖南都督の専横に対する追放運動が湖南省で発生、一九一五年七月には、当時の湖南都督を追放、一九一六年八月に北京政府から湖南省長兼督軍に任命されている。その後の政権抗争で一時辞職するが、一九二〇年六月には湖南督軍張敬堯を追放、湖南省督軍兼省長に復帰している。しかし、今度は湘軍総司令趙恒愓ら湖南省軍内の権力者との内部抗争が激化、内乱に発展、それを鎮圧出来なかったために、同年十一月に辞職して湖南省から退いた。その後、一九二二年には孫文に接近、一九二三年に大元帥府内務部長から建設部長兼大本営秘書長となり、同年七月には、孫文から湖南省省長兼湘軍総司令に任命され、仇敵趙恒愓と激戦を展開した。趙恒愓は直隷派の呉佩孚から支援を受けて戦局は膠着したため、孫文の命により戦線を離れ、広東省へ向かい、広州での一九二四年の中国国民党第1回全国代表大会で中央執行委員会委員に選出された。孫文の死後も国民党の軍属とし活躍、蒋介石の北伐の後方支援を担った。一九二八年に初代国民政府主席や初代行政院院長を歴任している。実はこの芥川龍之介のメモの、「張繼堯」「ト譚延闓トノ戰の時張の部下の屍骸土を蔽ふ事淺ければ屍骸湘江を流る」というのは、彼の「湖南の扇」に、『「ああ、鳶が鳴いてゐる。」/「鳶が?………うん、鳶も澤山ゐる。そら、いつか張繼堯(ちやうけいげう)と譚延闓(たんえんがい)との戰爭があつた時だね、あの時にや張の部下の死骸がいくつもこの川へ流れて來たもんだ。すると又鳶が一人の死骸へ二羽も三羽も下りて來てね………」』と利用されているのであるが、以上の二人の事蹟を時系列で並べて頂くと分かるのだが、二人がそれぞれの頭目として戦った「張繼堯と譚延闓との戰爭」に相当するものは、ない、と言ってよい。一九一五年の護国戦争及び一九二〇年六月の湖南督軍張敬堯追放時に接点があるが、前者を「張繼堯と譚延闓との戰爭」と呼称するには無理があり、後者は多くの記載が「戦わずして」「追放」という語を用いている。逢えて言うなら、後者によって名前が知られるようになった、この二人が、嘗て加わったところの護国戦争の惨状を、極めて乱暴な非歴史的な形で表現した、と取ることは可能かもしれない。筑摩全集類聚版の「湖南の扇」の脚注では「張繼堯」の表記を「張敬堯」の誤りとし、しかも、さらにそれを湘軍総司令「趙恒愓」の誤りととっているように読める。即ち、一九二三年の「趙恒愓と譚延闓との戦争」(中国で「譚趙之戦」と呼称)ととっている節(ふし)がある。そこでは確かに川面に死体累々たる惨状があったかも知れない(あったであろう)。しかし、それは、ない、のである。何故なら、この主人公及び芥川龍之介が中国に渡航したのは一九二一年だからである。芥川はもしかすると(本篇の執筆は一九二六年)、その後の軍閥抗争の事実と誤ったか、もしくは確信犯で擬似的虚構をここに持ち込んだのかもしれない。現在、この件については中国史の専門家に検討を依頼している(以上は私の「湖南の扇」の注を引いた。但し、残念ながら、二〇一六年十二月現在、依頼した方からの答えは、ない)。]
○日淸汽船の傍、中日銀行の敷地及税關と日淸汽船との間に死刑を行ふ 刀にて首を斬る 支那人饅頭を血にひたし食ふ ――佐野氏
[やぶちゃん注:これも「湖南の扇」で美事に利用されている。
「日淸汽船」清末から中華民国期にかけて、中国に於いて長江流域を中心に船舶を運航していた日本企業。
「中日銀行」不詳ながら、日本が資金を出した銀行であろう。
「佐野氏」不詳。]
○趙爾巽(前淸巡撫) 關口壯吉(理學士) 赫曦臺も聖廟を毀たんとするに反す 麓岳
[やぶちゃん注:「趙爾巽」(一八四四年~一九二七年)は清末民初の政治家。ウィキの「趙爾巽」によれば、『清末に地方官を歴任し、特に東三省総督時代は辛亥革命勢力の押さえ込みに成功し、後世の史家をして「最も革命の遅れた地方」と言わしめた。辛亥革命後は袁世凱・段祺瑞政権下で『清史稿』編纂の主幹を担った。弟に清末のチベット攻撃などで有名な趙爾豊がいる』とある。詳細事蹟はリンク先を参照されたい。
「關口壯吉」不詳。浜松高等工業学校初代校長が同姓同名であるが、同一人物であるかどうかは分らぬ。
「赫曦臺」「かくぎだい」は岳麓山山頂にある。こちらのブログによれば、『「赫曦」というのは赤い太陽が昇るということです。当時、有名な哲学家である張栻の招きに応じて、朱熹は遠く福建省の崇安から長沙の岳麓書院に講義をしにお越しいただきました。長沙で』二ヶ月あまり『滞在して、朝はよく』、『張栻と一緒に岳麓山の頂上に登って日の出を見ていたんです。朝日が東からのぼって、その日差しがギラギラ光っていて、山、川や町などすべてのものは朝日に浴びています。このシーンを見るたびに、朱熹は興奮してたまらなくて、』「赫曦! 赫曦!」と『手を叩いて叫んでおりました。この故に、彼らが日の出を見るところを「赫曦」と名付けました。その後、張栻はそこに舞台を作り上げ、記念の意を表すために「赫曦台」と命名』した、とある。以上のエピソードの時制は中文サイトによれば、宋の一一六七年で、その後、荒廃したが、清の一七九〇年に再興されている。
「聖廟を毀たんとするに反す」後の「麓岳」は岳麓山としか読めないから、さすれば聖廟とは「赫曦臺」であるが、そこを破壊しようとしたのは誰か、それに反抗したのは誰か、判らぬ。後者は麓山寺の僧たちか? 識者の御教授を乞う。]
戀歌
リルケ 茅野蕭々譯
お前の魂に觸れないやうに、
私は自分の魂を何う保てばいいのだ。
どうぞそれをお前越しに他の物へ高めよう。
ああ私はそれを何か暗黑(くらやみ)の
失はれたものの許で葬りたい、
お前の深い心が搖らいでも搖らがない、
知られない靜かな場處に。
しかしお前と私とに觸れる總べてのものは、
二つの絃から一つの聲を引出す
弓の摩擦のやうに、我々を一緒に取る。
どんな樂器の上に我々は張られてゐるか。
どんな彈手が我々を手にしてゐるか。
ああ甘い歌。
(彼等の手は女の手のやうで)
リルケ 茅野蕭々譯
彼等の手は女の手のやうで
何とない母らしさがある。
建てるときは、鳥のやうに快活で、
摑むに暖く、賴るに安心で、
さはると盞のやうだ。
[やぶちゃん注:「盞」は「さかづき」。盃。]
○電報の爲に苦吟す 南軍々中の學者 ○樓上張之洞の寫眞 樓下胡弓の聲 ○廉 李鴻章と合はず 排日 後ニ親日
[やぶちゃん注:「南軍」国民党軍。
「張之洞」(一八三七年~一九〇九年)は清末の政治家。直隷(河北省)南皮生まれ。一八六三年に進士とある。対外強硬論を主張する「清流党」の一員と目されていたが、一八八一年には山西巡撫に抜擢され、次いで両広総督・湖広総督を歴任した。以下、ウィキの「張之洞」によれば、日清戦争(明治二七(一八九四)年~明治二八(一八九五)年)に於いては『唐景崧と共に台湾民主国を援助して台湾へ出兵した日本への抵抗を試みるなど強硬派としての主張が目立ったが、両戦争の敗北後は対外融和的な姿勢もみせた』。一八九三年には『自強学堂(後の武漢大学)を創立』、翌年に『自強軍を設立(後に袁世凱の新軍に編成)、外国借款を通じて鉄道敷設を推進するなど、外国資本と連携した国内開発を推進した。また、湖北・湖南の産物を外国へ輸出、外貨など経済的裏付けを取り貨幣改鋳と独自紙幣の発行で漢口を中心とした経済圏を作り上げた』。一八九八年に『起こった変法運動に対しては、変法派が組織していた強学会の会長を務めていたため理解を示していたが』、一八九八年の著作「勧学篇」の中では『「中体西用」の考えを示し、急進的すぎる改革を戒めた。戊戌の政変で変法派が追放されてからは逼塞していたが』、一九〇〇年の『義和団の乱の際には唐才常ら自立軍の蜂起鎮圧、盛宣懐・張謇を通して劉坤一と共に東南互保を結び』、翌年には『劉坤一と連名で「江楚会奏三折」と呼ばれる上奏で変法の詔勅を発布させた(光緒新政)。上奏では教育改革を唱え』、一九〇四年に『「奏定学堂章程」として政府から発布』、翌年には久しく続いてきた『科挙の廃止、京師大学堂(後の北京大学)中心の近代教育整備に繋』げた。『日本との関わりは深く、変法運動と政変前後』の一八九八年に『中国を訪問した日本の元首相伊藤博文と漢口で会談、漸進主義を重視する伊藤と意気投合、日本からコークスを輸入し』、『八幡製鐵所に必要な鉄鉱石を日本へ輸出する契約を取り付けたり』、「勧学篇」の中でも、『日本を近代化に成功した国として見習い、留学して日本を通し』、『西洋の学問を摂取すべきことを説いている』とある。
「廉」清朝の戸部郎中であった廉泉か?
「李鴻章」(一八二三年~一九〇一年)は清代の政治家。一八五〇年に翰林院翰編集(皇帝直属官で詔勅の作成等を行う)となり、一八五三年には軍を率いて太平天国の軍と戦い、上海をよく防御して江蘇巡撫となり、その後も昇進を重ね、北洋大臣を兼ねた直隷総督(官職名。直隷省・河南省・山東省の地方長官。長官クラスの筆頭)の地位に登り、以後、二十五年の間、その地位にあって清の外交・軍事・経済に権力を振るった。洋務派(ヨーロッパ近代文明の科学技術を積極的に取り入れて中国の近代化と国力強化を図ろうとしたグループ。中国で十九世紀後半におこった上からの近代化運動の一翼を担った)の首魁として近代化にも貢献したが、日清戦争の敗北による日本進出や義和団事件(一九〇〇年~一九〇一年)での露清密約によるロシアの満州進出等を許した結果、中国国外にあっては傑出した政治家「プレジデント・リー」として尊敬されたが、国内では生前から売国奴・漢奸と分が悪い(以上はウィキの「李鴻章」他を