すると
すると先生は鋭い眼で私を見つめるとかう言つた。
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さつきテレビで歌つてゐた郷ひろみてふ男は昔腋毛を剃つてゐた――あの頃私を愛した女性は私を彼に似てゐると言つた――しかし彼の腋の下には毛根もない程であつた――私は「中性的」な男が嫌ひである――彼が誰かに命ぜられてさうしてゐたなら……それは頗る哀しいことだつたと感ずる私は人種である――
(お前たち少女は四月の夕の)
リルケ 茅野蕭々譯
お前たち少女は四月の夕の
花園のやうだ。
春は數多の路の上にあるが、
なほ何處とめあてもない。
[やぶちゃん注:これは詩集「我が祝いに」(Mir zur
Feier 一八九九年:詩集題の訳は茅野の「リルケ抄」の巻末のリルケについての解説に出る邦訳題)の中の「少女の歌」詩群の序詩である。
本詩を以ってランダム引用は休憩することとする。]
(私に二つの聲を伴はし給へ。)
リルケ 茅野蕭々譯
私に二つの聲を伴はし給へ。
私を再び都會と心配の中へ蒔き散ら給へ。
彼らと共に私は時代の怒の中にゐませう。
私の歌の響であなたの寢床を作りませう。
あなたが望む到る處に。
「閩書」
黃穡魚【ハナヲレダイ 別一種同名】
瘤鯛【カンダイ 佐渡
ハナヲレダイ 黒色ノ者ヲスミ
ヤキト云黒鯛名同】
烏頰魚【「釈名」】燒炭鯛【和名】
寒鯛【同上】鼻推鯛【同上】両類魚
寒鯛之魚臘月盛出故亦名
寒鯛 「日東魚譜」
丁酉如月三日求
之眞寫
[やぶちゃん注:掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚譜」の保護期間満了画像の当該頁と、私が視認して活字に起こしたキャプション。割注は【 】で示し、書名は「 」で囲った。
本種はキャプションに出る異名に誘惑されると、とんでもない別種に間違える。まずは図譜を虚心に眺めることから、真実は自ずと見えてくる。吻部周辺と額にかけてが、通常の魚類に比して鈍角であり、明らかに垂直性を示している(図では分かり難いが、左右に膨満しているというよりは寧ろ、頭部は側扁して平たいように見える。ここも比定の特徴とし得る)。前額上部がやや隆起しており、異名の一つにある「瘤」(こぶ)のそれはここを指していると読め、「鼻」折れ「鯛」もそれに由来すると採れる。但し、ここで、その隆起を妄想的に大きく捉えてしまい、その異名として羅列されている「瘤鯛」や「カンダイ」「寒鯛」などから、安易にコブダイ(条鰭綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科コブダイ属コブダイSemicossyphus
reticulatus )と比定してしまっては誤りである。よく見ると、頭部の眼の上の隆起は、コブダイ(正確には同種の♂)のような異常な腫瘤状を呈してはいない。次にかなり薄いが、胸鰭の基部上部から後方の背鰭尖端前部下にかけて、黒い帯が入っており、さらにその少し離れた後ろに同じ基部から斜めに走る白い帯が走っていることも判る。これが大きな本種の特徴であることに着目出来る。今一つ、鱗が各々有意に大きく、しかも全体の体色が鮮やかな紅色や褐色を呈し、体部後半には紫色がそこに混じってより強く出ていること、さらに腹部の色が有意に薄いこと、そして、尻鰭と尾鰭が濃い暗色を呈していることが特徴的で、こうした華やかな色彩傾向はベラ科 Labridae によく見られるものである。図もちょっと見ではベラの類と誰もが思うものと言える。以上の観察から見ると、これは、異名には挙がっていないが、
条鰭綱スズキ目ベラ亜目ベラ科タキベラ亜科イラ属イラ Choerodon azurio
と比定するのが至当と私は考える。首を傾げる方のために謂い添えておくと、魚類学者望月賢二氏の監修になる「魚の手帖」(小学館一九九一年刊)でも本図が採用されているが、そこで望月氏も、このイラに同定されておられる(但し、そこで『胸鰭から上後方へ向かう黒色帯の位置がやや不正確である』と注しておられる)。
以下、ウィキの「イラ」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した。下線はやぶちゃん。本図とのさらなる一致部分が確認出来るはずである)。分布域は『南日本(本州中部地方以南)・台湾・朝鮮半島・シナ海(東シナ海・南シナ海』で、全長は約四〇~四五センチメートル、『体は楕円形でやや長く、側扁である。また、イラ属はベラ科魚類の中では体高が高い。額から上顎までの傾斜が急で、アマダイ』(スズキ目スズキ亜目キツネアマダイ(アマダイ)科アマダイ属 Branchiostegus の類)『を寸詰まりにしたようである。老成魚の雄は前額部が隆起・肥大し、吻部の外郭は垂直に近くなる。アマダイより鱗が大きい。両顎歯は門歯状には癒合せず』、『鋸歯縁のある隆起線をつくる。しかし』、『ブダイ科魚類のように歯板を形成することはない。前部に最低一対の大きな犬歯状の歯(後犬歯)がある。側線は一続きで、緩やかにカーブする。前鰓蓋骨の後縁は細かい鋸歯状となる。尾鰭後縁はやや丸い』。『体色は紅褐色から暗紅色で腹側は色が薄く、尾鰭は濃い。口唇は青色で、鰭の端は青い。背鰭と腹鰭、臀鰭は黄色。背鰭棘部の中央から胸鰭基部にかけ、不明瞭で幅広い黒褐色の斜走帯が走る。その帯の後ろを沿うように白色斜走帯(淡色域)がある』が、『幼魚にはこの斜走帯はない』(というより、イラの幼魚は成魚とは模様が大きく異なる。リンク先に画像有り)。『雌雄の体色や斑紋の差が大きい』。『沿岸のやや深い岩礁域や』、『その周りの砂礫底に見られ、単独でいることが多い。日本近海での産卵期は夏。夜は岩陰や岩穴などに隠れて眠る』。『雌から雄への性転換を行う』ことでも知られる。『付着生物や底生動物などを食べる肉食性。これはイラ属の魚類に共通する』。『食用だが、肉は柔らかく』、「普通」或いは「まずい」とされ、また、事実、『水っぽい。他種と混獲される程度で漁獲量も少なく、あまり利用されない。煮つけなどにされる』とある。和名「イラ」は「伊良」或いは「苛」「苛魚」と書くようで、しばしばお世話になっている「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑」の「イラ」によれば、『つかまえようとすると』、『逆にかみつきにくる。そのために「苛々する魚(いらいらするさかな)」の意』であるとし、和歌山県田辺や串本での呼び名が標準和名となったものらしい。
なお、この「イラ」は現行でも地方名で「アマダイ」・「イソアマダイ」・「オキノアマダイ」・「カンダイ」・「カンノダイ」、果ては「ブダイ」(但し、これはベラ亜目ブダイ科ブダイ属ブダイ Calotomus japonicus と混同誤認している可能性もある)などと紛らわしい異名で呼ばれ、しかも、面倒臭いことに、最初に出した「コブダイ」の地方名にも「カンダイ」を始めとして「イラ」・「カンノダイ」(寒の鯛)・「コブ」があるから、これは大いに困るのである。
・「閩書」「びんしよ」。既出既注であるが再掲する。「閩書(びんしょ)南産志」。明の何喬遠(かきょうえん)撰になる福建省の地誌。
・「黃穡魚」現代仮名遣の音なら「オウショクギョ」であるが、どうも不審である。何故なら「穡」は「農作物を収穫する・農業」や「惜しむ・物惜しみする」「吝嗇(けち)」の謂いでどうも意味としてピンとこないからで、私は実は、この「穡」は「檣」(ショク:ほばしら:イラの鼻筋の屹立しているさまを喩えているのではあるまいか?)の梅園の誤記(他にも見出せるから、複数の本草家のというのがより正しい。例えば寺島良安の「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「黄穡魚(はなをれだひ)」。リンク先は私の電子テクストである)ではあるまいかと深く疑っているのである。)
・「ハナヲレダイ」「鼻折れ鯛」。同じく、イラの鼻筋の屹立しているさまに拠る命名であろう。
・「別一種同名」「イラ」でない別な一種にも「ハナヲレダイ」という同名が使われているという意。これはもう、高い確率でコブダイSemicossyphus
reticulatus のことと私は思う。
・「瘤鯛」「こぶだひ」。
・「カンダイ」「寒鯛」コブダイSemicossyphus
reticulatus 同様、旬が脂ののる寒い時期(現行では旬は晩秋から初夏と長い)だからであろう。「佐渡」とするが、当地での「カンダイハ」は「イラ」ではなくて「コブダイ」のことを指すものと私は思っている。
・「スミヤキ」「炭燒」。炭焼きの面(つら)のように真黒の謂いであろう。
・「黒鯛名同」「黒鯛」という名も同じ。しかしこれではスズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii が怒る、基、と区別がつかん!
・「烏頰魚」「うきやうぎよ(うきょうぎょ)」と音読みしておく。
・「釈名」「釋名(しゃくみょう)」。後漢末の劉熙(りゅうき)が著した辞典。全八巻。
・「燒炭鯛」「やきすみだひ」と訓じておく。
・「同上」前の割注の「和名」と同じことを指す。以下、同。
・「鼻推鯛」「はなおしだひ」と訓じておく。「ハナヲレダイ」と同起原であろう。私は推して潰れて上に膨らんだとするこの名の方がしっくりくる気がする。
・「両類魚」読みも意味も不詳。雌雄の形状の違い(性的二型)を言うとしたら、大した生物学的知見と言えるが、ちょっとな。
・「寒鯛之魚獵月盛出故亦名」「臘」は「獵」のように見えるが、これでないとおかしい。訓読すると、
寒鯛。之の魚(うを)、獵月(らふげつ)、盛んに出づる故、亦、名づく。
であろう。「獵月」(ろうげつ)は陰暦十二月の異名である。
・「日東魚譜」全八巻。江戸の町医神田玄泉(生没年及び出身地不詳)著になる、本邦(「日東」とは日本の別称)最古の魚譜とされるもので、魚介類の形状・方言・気味・良毒・主治・効能などを解説する。序文には「享保丙辰歳二月上旬」とある(享保二一(一七三六)年。この年に元文に改元)。但し、幾つかの版や写本があって内容も若干異なっており、最古は享保九(一七一九)年で、一般に知られる版は享保一六(一七三一)年に書かれたものである。私はブログ・カテゴリ『神田玄泉「日東魚譜」』を置いているが、未だ二篇で停まっている。これは今一つ、絵が上手くなく、正直、それで触手が動かないからである。悪しからず。来年は少しはやろうと思う。
「丁酉如月」天保八年二月。西暦一八三七年で、同年二月一日はグレゴリオ暦では三月七日。]
(私の生活は、私が急いでゐる)
リルケ 茅野蕭々譯
私の生活は、私が急いでゐる
この嶮しい時間ではない
私は私の背景の前の一本の樹、
私の澤山の口のただ一つ、
而も一番早く閉ざされるあの口だ。
私は、死の音が高まらうとするので――
拙いながら互に馴れ合ふ
二音の間の休息(やすみ)だ。
しかし暗いこの間隙(インタアヷル)の中に、
慄へながら二つの音は和解する。
そして歌は美しい。
(これが私の爭だ。)
リルケ 茅野蕭々譯
これが私の爭だ。
憧憬に身をささげて
每日を步み過ぎる。
それから、強く廣く
數千の根の條で
深く人生に摑み入る――
惱みを經て
遠く人生の外に熟す。
時代の外に。
石像の歌
リルケ 茅野蕭々譯
誰だ。樂しい生命を捨てる程、
私を愛するのは誰だ。
若し一人が私の爲めに海で溺れると、
私は再び石から解かれて、
生命に、生命に歸るのだ。
私はそれ程鳴り繞(めぐ)る血にあこがれる。
石はほんたうに靜かだ。
私は生命を夢みる、生命は好ましい。
私をば蘇生させる
勇氣を誰も持たないか。
あらゆる最美なものを與へる
生命さへ私が得れば――
―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
さうしたら私はひとり、
泣くだらう。石に焦れて泣くだらう。
葡萄酒のやうに熟すとも、私の血が何の役に立たう。
私を最も愛したその一人を
海から呼戻すことは出來ない。
[やぶちゃん注:底本校注によれば、二行目の「私を愛するのは誰だ。」は「リルケ詩抄」では「私を愛するは誰だ。」となっており、後の「リルケ詩集」でかく訂されてあるのを本文では反映した、とする。ここはそれに従った。]
女等が詩人に與へる歌
リルケ 茅野蕭々譯
すべてが開かれるのを御覽なさい。私だちもさうです。
私たちはさうした祝福に外ならない。
獸の中で血と闇とであつたものは
私たちの中で魂に育つた。そして
更に魂として叫んでゐる。あなたへも。
あなたは勿論それを風景のやうに
眼に入れるだけだ。軟かく、慾望もなく。
それ故私たちは思ふ、あなたは
呼ばれる人ではないと。しかしあなたは
私たちが殘りなく全く身を捧げる人ではないのか。
誰かの中で私たちはより多くなれませうか。
私たちと一緒に無限なものは過ぎ去る。
あなたはゐて下さい。口よ。私たちが聞く爲に。
あなたはゐて下さい。私たちに話す人よ、あなたはゐて下さい。
(これは私が自分を見出す時間だ。)
リルケ 茅野蕭々譯
これは私が自分を見出す時間だ。
うす暗く牧場は風の中にゆれ、
凡ての白樺の樹皮は輝いて、
夕暮がその上に來る。
私はその沈默の中に生ひ育つて、
多くの枝で花咲きたい、
それもただ總てのものと一緒に
一つの調和に踊り入る爲め……
(平(たひら)な國では期待(まちまうけ)てゐた。)
リルケ 茅野蕭々譯
平(たひら)な國では期待(まちまうけ)てゐた。
一度も來なかつた客をば。
氣づかはしげな花園は、なほ一度訊ねたが、
やがてその微笑は徐に萎びた。
暇な沼地には
夕暮に見すぼらしい並木。
林檎は枝に怖ぢおそれ、
どんな風もそれをうづかせる。
私は「生」(=「性」)を精神や思想で括り上げようとする輩にヘドを吐きたくなる人間である――
(夕ぐれは私の書物。花緞子の)
リルケ 茅野蕭々譯
夕ぐれは私の書物。花緞子の
朱の表紙が眼もあやだ。
私はその金の止金(とめがね)を
冷たい手で外(はづ)す。急がずに。
それからその第一ペエヂを讀む、
馴染み深い調子に嬉しくなつて――
それから第二ペエヂを更にそつと讀むと、
もう第三ペエヂが夢想される。
[やぶちゃん注:「花緞子」辞書では「くわどんす(かどんす)」の読みを示すが(「どんす」が音だから主旨は判る)、私は「はなどんす」と読みたい。花文様を織り出した緞子のこと。「緞子」は繻子織り(しゅすおり:経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現われるように織ったもの。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢が生すると同時に肌触りもよい高級織布。)の一つ。経繻子(たてしゅす)の地にその裏織り組んだ緯繻子(よこしゅす)によって文様を浮き表わした光沢のある絹織物。室町中期に中国から渡来した。なお、「どん」も「す」も孰れも唐音である。]
進步
リルケ 茅野蕭々譯
それで再(ま)た私の深い生命は一層高く音たてる。
より廣い岸の中を行くやうに。
物は愈〻私に近しくなり、
すべての景象はいよいよ明かになっつて、
私は名の無いものに愈〻親しいのを感ずる。
鳥のやうに私の感覺を飛ばして、
私は樹から風立つた天に達し、
また池の千ぎれた日の中へ、
魚に乗つてるやうに沈む私の感情。
(私の眼を消せ、私はお前を見ることが出來る。)
リルケ 茅野蕭々譯
私の眼を消(け)せ、私はお前を見ることが出來る。
私の耳を塞げ、私はお前を聞くことが出來る。
そして足は無くてもお前の處へゆくことが出來る。
口がなくともお前に誓ふことが出來る。
私の腕を折れ、私は手でするやうに
私の心でお前をつかむ。
心臟を止めよ、私の額が脈打つだらう。
私の額へ火事を投げれば、
私は私の血でお前を擔ふだらう。
八
リルケ 茅野蕭々譯
あの上に漂ふことの出來る
あの雲が羨ましい。
日の當つた草原に
黑い影を投げたこと。
太陽を暗くするなんて、
なんて大膽に出來たらう。
地は光を欲しがつて、
雲の飛ぶ下で恨むでるのに。
あの太陽の金色の光の潮を
私も遮つてやりたいな。
一瞬間であらうとも。
雲よ、お前が羨ましい。
[やぶちゃん注:本詩篇は一八九六年刊のリルケの詩集「冠せられた夢」(茅野訳の標題。原題は“Traumgekrönt”)の「夢みる」詩群二十八章の中の第八章である。]
自殺者の歌
リルケ 茅野蕭々譯
ではもう一瞬間だ。
人々がいつも私の紐を
切るとは。
この間も私はよく用意をして、
もう一片の永遠は
私の臟腑の中に入つてゐたのだつた。
人々は私に匙を差しつける、
あの生命の匙を。
いいや、私は、私はもういらない。
私に私を捨てさせてくれ。
私は知つてゐる。人生は全くてよい、
世界は充ちてる壺だ。
しかしそれは私の血には入らないで
ただ頭に騰るんだ。
それは他人を養ふが、私をば病氣にする。
それを蔑(さげす)むのを、解つてくれ、
少くとも私は今
一千年間衞生が必要だ。
[やぶちゃん注:「騰る」「あがる」或いは「のぼる」。後者で私は読む。]
3-22 蜷川將監、曾我伊賀守の事
蜷川將監と云しは先朝の御小納戸なり【今御取次衆相模守の父なり】。奧の番になりたるを辭せんとて【奧の番は大奧女中に接談することもあるゆへ、老實の老に限りて命ぜらるゝことなりと云】、御取次衆へ自身申出けるは、拙者元來好色の癖あり。いかやう愼候ても、癖と云ものは風と動く事あるものゆへ、もし女中にいかやうのこと出來候ては、一分の罪而已ならず、家をも失候ことにも成候半。あはれ奧の番免し玉へと乞ひつゝ、遂に平勤に返りしとなり。その實は仲ケ間に意味合ありて、長くは穩に勤難しと見切りての事なりしとなり。眞に面白き托し方なり。近頃御側を勤めし曾我伊賀守【今御書院番頭伊賀守の養父なり】、若き頃は世の中放埓なる風なりし。火消役に命蒙りたるとき、其古役ども常々妓樓に同道する沙汰を聞及び、家中の前髮あるものを數多呼よせて、同役來れば給仕させたり。一日古役果して妓樓に同伴せんと云。伊賀云ふには、我等は男色を好みて女色を好まず。男色のある所はいづ方にても同伴せんと云。古役も其常に左右前髮人多を見て疑はず。男色好のこと仲カ間追々知りて、妓樓同行するものなかりしとなり。一時の權略すぐれたることなり。
■やぶちゃんの呟き
「蜷川將監」「にながはしやうげん」。不詳。以下、人名不詳も識者の御教授を乞う。
「曾我伊賀守」不詳。
「先朝」先代の将軍の意であるから、第十代将軍徳川家治であろう。
「御小納戸」(おこなんど)役はウィキの「小納戸」によれば、『将軍が起居し、政務を行う江戸城本丸御殿中奥で将軍に勤仕して、日常の細務に従事する者のこと。若年寄の支配下で、御目見以上であり、布衣着用を許された。小姓に比べると職掌は多岐に』渡った。『小納戸には、旗本や譜代大名の子弟が召し出された。その他、部屋住や他の役からの転任の場合は、目付を通じて』第二次・第三次の『面接がおこなわれ、厳選の後に、将軍が吹上庭で』四、五間ほど『離れた場所から見て最終決定され』た。『小納戸に任命されると』、三日の『うちに登城し、各人が特技を将軍の前で披露する。小納戸には、御膳番、奥之番、肝煎、御髪月代、御庭方、御馬方、御鷹方、大筒方などがあり、性質と特技により担当を命ぜられた。また、いっそうの文芸を磨くため、吹上庭園内に漢学、詩文、書画、遊芸、天文、武術の学問所と稽古場があり、習熟者は雑役を免ぜられ、同僚の指導をおこなう』。『将軍が中奥御小座敷での食事の際に、膳奉行の立ち会いの上、小納戸御膳番が毒味をおこなう。異常がなければ膳立てし、次の間まで御膳番が捧げ、小姓に渡す。給仕は小姓の担当であった』。『将軍が食べ終わった後、食事がどのくらい残されているかを秤に掛け計測し、奥医師から質問された場合には応答し、小納戸は、毒味役と将軍の健康管理を兼ねていた』。『その他、洗顔、歯磨きの準備も小納戸の仕事で、将軍の月代と顔を剃り、髪を結うのが御髪月代であり、将軍の肌に直接触れることで失敗は許されず、熟練の技を要した。お馬方は、江戸市中に火災が起こると、現場に駆け付け、状況を将軍に報告した』。『小納戸は、将軍に近侍する機会が多く、才智に長ける者であれば昇進の機会が多い役職であった』とある。
「御取次衆」将軍の取次としては将軍近習の「側衆」があり、幕府初期には将軍の意向を背景に大きな権力を持つ場合もあったが、後には老中合議制が形成されて将軍専制が弱まると、実権も弱まった。以後の側衆の役割は将軍の身の回りの世話などをする存在となったが、五代将軍徳川綱吉の時代には老中と将軍の間を取次ぐ「側用人」が設置され、ここではそれであろう。吉宗の治世には一時、廃止されたが、「御側御用取次」が同じ役割を果たしている(ここはウィキの「取次(歴史学)」に拠った)。
「相模守」不詳。
「奥の番」江戸幕府の大奥に置かれた男性武士の役職である広敷用人(ひろしきようにん)であろう。将軍以外の男性の出入りが禁止されていた大奥と外との取次役。
「接談」直に接して交渉すること。
「老實」物事に慣れており、誠実であること。この語自体には「老人」に意は含まれないので注意。
「愼候ても」「つつしみさふらふても」。
「風と」「ふと」。
「而已」「のみ」。
「失候」「うしなひさふらう」。
「成候半」「なりさふらはん」。
「免し」「ゆるし」。
「平勤」「ひらづとめ」。一般職。
「意味合ありて」私は前の「仲ケ間」を同じ務めとなる同職の中に、「関係」(意味合い)が良くない者がいたことから、の意で採る。ネット上の訳などでは、その言葉の「仲ケ間に」(中に)「隠された含み」(別な意味合い)があって、の意で採っているものがあるが、私はそれでは、以下の「長くは穩」(おだやか)「に勤難」(つとめがた)」「しと見切りての事」とのジョイントが不十分と思うからである。また、後文の「仲カ間」は明らかに同職同僚の意であるからである。
「眞に」「まことに」
「托し方」「たくしかた」。事寄せ方。
「御側」「おそば」。前の「御取次衆」と同義で採る。
「御書院番」将軍の外出時の警護に当った御番衆の一職。番衆(番士・番方:交代システムで組まれた「番」を編成して将軍及び御所の宿直や警固に当たる者)には書院番・小姓組・新番などがあったが、特に書院番と小姓組は「両番」とも呼称され、三河以来の直参旗本の家柄から選抜されたエリート・コースでもあった。
「伊賀守」不詳。
「火消役」幕府直轄の火消である定火消(じょうびけし)の、旗本から選ばれた管理級職であろう。
「命」「めい」。
「前髮あるもの」向こう髪のあるもの。当時の童子や少年は婦人のように額の上の部分の頭髪を束ねていた。ここは元服前の少年の意。
「數多」「あまた」。
「男色」「なんしよく」。
「其常に」「その、つねに」
「左右」周囲に。
「前髮人」「まへがみひと」と訓じておく。
「多を」「おほきを」。
「男色好」「なんしよくごのみ」。
「權略」「けんりやく」その場に応じた策略。智謀。
甲州栗・柹・ぶどう等の事
○甲州の内、栗・梨子・ぶどう等の最上なるを産する地は少しばかりの所也。一所は岩崎、一所は勝沼と云(いふ)所也、其餘は尋常のものを産する也。勝沼にては源五右衞門と云ものの葡萄殊の外よろしく出來る也。岩崎にては淸藏といふもののぶどう出來よろし、此はこやしの方(はう)其(その)家傳ありとぞ。其國の方言に、此二箇所のぶどうを親玉と稱す、ぶどうは砂地赤土の所わきてよろし。根のかくるゝまであくたをかけてこやしにする也。つるを切(きり)てみれば殊の外水出來(いでく)るもの也。梨子は實をならする事を平生(へいぜい)心に觀(くわん)じこみてゐる程ならでは、よく出來ぬもの也、とかく煙のくる所よろし。ある人の云、されば本草にも梨は家木の内に有(あり)、これらにてもいはれはしられたりと。甲州にてぶどう・なしなど、よくこやししてみのれば、其遣方(やりかた)によりて、金子十四五兩・二十兩程は壹箇年の入(いり)有(あり)、な まじひの田地(でんち)持(もち)たるよりはまされりといへり。
[やぶちゃん注:「ぶどう」総てママ。歴史的仮名遣なら、本来は「ぶだう」。
「柹」「かき」であるが、本文には出ない。しかし、次注の引用には名産品として柿が出る(下線部)。
「岩崎」現在の山梨県甲州市勝沼町岩崎地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「勝沼町」の「近世」の項に、『勝沼村には甲州街道の宿場である勝沼宿が設置され』、『勝沼村・上岩崎村・下岩崎村・菱山村の四ヶ村では甲州葡萄の栽培が』行われ、「和漢三才図会」「裏見寒話」などの地誌に於いて『梨や柿と共に甲斐特産の果樹の総称である「甲斐八珍果」のひとつとして挙げられている』とある(下線やぶちゃん)。当該ウィキを読むと、この「岩崎」という独立した村名は、下岩崎に『武田一族の分流で、戦国時代に武田信昌と守護代跡部氏の抗争において滅亡した岩崎氏の館跡』があることから由緒が知れる。
「源五右衞門」次の「淸藏」とともに不詳。本書の記載年代(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年)から考えても、甲州葡萄発展史の中に名を残していてしかるべき人物と思われるのだが。識者の御教授を乞うものである。
「こやしの方」堆肥の施し方。
「親玉」この呼称は現在は通用していない模様である。
「梨子は實をならする事を平生(へいぜい)心に觀(くわん)じこみてゐる程ならでは、よく出來ぬもの也」ほう、禅宗のような観想精神をおっしゃる。
「とかく煙のくる所よろし」「梨は家木の内に有」から、ものを燃やす煙であることが判る。
「金子十四五兩・二十兩程」ネット上のある換算サイトでは、安永年間なら江戸中期で一両は現在の八万円、寛政期なら後期で五万円ほどに当たるとするので、中期なら百十二~百六十万円、後期なら七十~百万円相当となる。
螢火丸まむしを療する事
○官家(かんか)御鷹匠衆いへるは、遠國御用の節、まむしにさされなどする療治の用意には、螢火丸(けいくわぐわん)を所持し、そのまゝかみてつばにてぬりつくれば、よろしきもののよし物語り也。
[やぶちゃん注:「官家御鷹匠衆」ここの「宮家」は「高貴な家柄」で将軍家の代名詞。幕府の鷹匠衆は若年寄支配で、鷹の飼養・調練・鷹狩の一切を取り仕切った。
「遠国御用」狭義には、御庭番が幕臣の身分を隠して遠国の実情調査に出かけること、則ち、隠密行動をとることを指すが、ここは鷹調教のために、鷹を連れて地方の山野で訓練をさせることを指すのであろう。
「まむし」爬虫綱有鱗目ヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ Gloydius blomhoffii。
「螢火丸」漢方サイトを縦覧する限りでは、「螢火」は実際の昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コメツキムシ下目ホタル上科ホタル科 Lampyridae のホタル類を乾燥させた生薬のように読める。調べてみると、ホタル類にはヒキガエル(ガマ)が持つ強毒成分であるステロイド配糖体の強心配糖体ブファジエノライド(bufadienolide)が含まれるから、「毒を以って毒を制す」式の本草的理解では多少、腑には落ちぬこともない。]
二
リルケ 茅野蕭々譯
それは白菊の日であつた。
私はその重々しい華美(はでやか)さが恐ろしい位だつた……
その時、あなたが私の魂をとりに來た。
夜ふけに。
私は恐ろしかつた。あなたはやさしく靜に來た――
丁度私は夢であなたを思つてゐた。
あなたは來た。童話の歌のやうに靜に
夜が鳴響いた……
[やぶちゃん注:本詩篇は前にも出した一八九六年刊のリルケの詩集「冠せられた夢」(茅野訳の標題。原題は“Traumgekrönt”)の「愛する」詩群二十二章の中の第二章である。]
(神よ、私は數多の巡禮でありたい)
リルケ 茅野蕭々譯
神よ、私は數多の巡禮でありたい
長い列であなたの處へ行くため、
又あなたの大部分となるために。
生きた並木を持つ神、花園よ。
私のやうにかうー人で行けば、
誰が認めよう、誰が私のあなたへゆくを見よう。
誰を誘はう。誰を勵まさう。
誰をあなたに向はせよう。
何事もないやうに――人々は笑ひ續けよう。
でも私は私のやうに行くのを喜ぶ。
かうすれば笑ふ人は一人も私を見ることが出來ないから。
[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年一月七日号『週刊新潮』初出。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。
なお、「3」の頭に出る「花巻ウドン」とは、かけうどんの上に炙った海苔を揉み千切ったものを載せたものを言う。江戸時代からこの呼称である。
同じく「3」の「鉄火場」は博奕場(ばくちば)、賭場(とば)のことである。
同じく「3」の「ゼロ号夫人」というのは「零号夫人」。その世界で、正式な妻を「一号」、経済的に養って囲うところの所謂、「妾(めかけ)」を「二号」と呼ぶ習慣から派生したもので、「一号」でも「二号」でもない、則ち、「妻子ある男性と恋愛感情だけで純粋に結ばれている女性で、その男からは一切の経済的援助を受けない愛人」を意味する。戦後の一九五〇年代に、経済的に自立した愛人の妻子ある男性と対等な立場を有する女性を示す言葉であったが、昭和後期には死語となった。]
尾行者
1
奥さま。御報告申し上げます。
今日で三日、御主人の調査にあたりましたが、結論を先に申しますなら、御心配の線はまだ出ていません。
毎朝お宅を出るのが、七時三十分から三十五分の間ですね。あなたはお嬢ちゃんと御一緒に、門前に立つて、一分十秒前後見送っていらっしゃる。
御主人が二本目の電柱の角でふりかえって手を上げ、お嬢ちゃんが小さな掌でそれにこたえる。この挨拶がすむまでの時間は、二秒と狂いません。三日間の平均は、一分十一秒足らずでした。
美しい光景です。多分八年の間、そういう送迎の光景がつづいてきたのでしょう。
今朝はあなたは変な眼で、通りすがりの男をごらんになりました。口鬚(ひげ)の濃い、縁無眼鏡をかけた、外交員風の男をです。あれが変装したわたくしなのです。見わけがおつきにならなかったでしょう。変装はわたくしの得意とするところなのです。
役所に着くのは、八時十五分から二十分の間、そして退庁時間は、五時五分から十分でした。したがって六時前の帰宅は、直線コースをたどったという証拠になります。執務時間中たまに所用で外出し、その足で帰宅なさるとか、あるいはよそに廻るという例外も勿論考えられますが、原則的には以上の通りなのです。
役所には新聞記者の詰所があり、記者クラブと呼ばれています。Q君という飲み友達の記者が協力して呉れました。いいえ、調査費用のかさむ心配はありません。飲み友達ですし、クラブであくびをしているよりは、退屈しのぎになるといった腹なのです。失礼な言い方をお許し下さい。Q君は酒飲みですが、玄翁でたたいても割れないほどの口の堅い男です。
「庶務課だったら、イカレ型の給仕が一人いるよ。あいつに聞けばいい」
とQ君は言いました。
「女の子はいけないよ。敵につつ抜けだ。スパイは古来、陽当りの悪い女でインテリと、相場がきまっている」
Q君は地下食堂のカツ井で、給仕を手なずけました。
わたくしどもは一隅に陣どりました。反対の隅のテーブルで、御主人はカレーうどんを食べていました。差出がましく恐縮ですが、御主人に治療を勧めて下さい。爪楊枝を(つまようじ)三本も折るほど、御主人のムシ歯は悪化しています。口のあけ具合、爪楊枝の使い具合から察しますと、右上の奥から二本目か、三本目と思われます。
「坂井君。君の課のことを書いてやるぜ。何か美談のごときものはないかね?」
Q君が釣り出しにかかりました。坂井少年はうまそうにカツ井に食いついたまま、左手で自分の首をすとんと叩き、上眼使いをしてにやりと笑いました。
「バカだな。君のクビを飛ばして、何の足しになるかい。美談だよ。悪くすると表彰ものだぜ」
「大過なきは出世の近道だよ」
少年もなかなか達者なもんです。
「課長はどう? やかましいんだってね」
とQ君はたたみかけました。
「ガムシねえ」
少年は思わせぶりに首をふりました。
「ガムシ? ガムシとは面白いあだ名だね。来歴を言ってみな」
「恰好(かっこう)がガマ、女癖が悪くてマムシ、だからガムシと言うんだろう。よく知らないよ」
「知らないって言いやがる。名付親のくせに。係長は?」
「ブラかな」
「へえ。そいつは新型だね。うつろいやすいは政党の名前ばかりと思ったら、君が来て以来、庶務のあだ名も総辞職じゃないか。そのブラってのは、銀ブラのブラか?」
「世の中は、なんのヘチマと思えども、てな顔つきでいるけどさ、ブラリとしては暮されもせず。そのブラさ。達者なもんだよ。来春の異動で、課長はかたいね」
「呆れたガキだよ。おれよりも詳しいぜ」
とQ君はわたくしに笑いかけて、さりげなく、
「吉富さんはどうだい?」
と切り出しました。いよいよ御主人の番です。忌憚(きたん)なく、部下の声をお伝えします。
「ノロイーゼはいいね」
坂井少年は言下に答えました。
「へえ。かしこいようでも、やはりアプレだね」
Q君はくすくす笑いました。
「そいつを言うなら、ノイローゼだ」
しかし坂井少年は動ずる色もなく、けろりとして言いました。
「ノイローゼじゃないんだよ。判らねえかなあ。こう墓地に向いてね、Qさんから先の人がかかればノロイーゼ、ぼくら生きのいいのがノイローゼ。同じ病気でも、かかりようで二つさ」
「墓地に向いてと来たな。まあいいさ。ところでノロイーゼは、そんなにいいのかい?」
「そんなにいいってことはないけどさ、反応がノロイんだよ。生れつきもある。一つには、承知で呆ける。大石内蔵(くら)、昼あんどんの血筋だね。政治なんかに道楽気をおこさないで、官僚街道を進めば出世するけれど、行きつく先は、また家老どまりだね。殿様の柄じゃないね」
坂井少年はQ君の誘導と、カツ井のお礼心もあって、御主人に関し、なお若干の有益な証言を提供して呉れました。毎朝少年は御主人に『新生』一個を買いにやらされます。御主人の昼食はうどんのモリか、まれにはタネモノをおごることもある。ソバはあまりお好きじゃないようですねえ。地下食堂で二十円乃至四十円の出費です。
月給二万円と少しのうち、御主人の小遣いが三千円で、もう少し節約して欲しいと奥様が御冗談にねだった時、
「煙草代と昼飯代を引いて、いくら残ると思う。月に一度か二度の友達づき合いもさせない気か」
と御主人が言われた由、うかがいましたけれども、煙草代約千二百円、昼飯代が約八百円、残額の千円が娯楽、交際費と、帳面づらはそうなっていても、奥さまのお言葉通り、どこかおかしいところありと、わたくしもにらみました。
案の定、副収入が判明しました。二ヵ月に一度か、三ヵ月に二度ぐらい、名もない雑誌に経済記事などを頼まれて書き、その稿料が月平均二千円程度になるようです。正確な使途は目下不明ですが、三日のうち、一晩は新宿で学校友達と飲み、四カ所安酒場を歩き、その二ヵ所で御主人が勘定をもって、概算八百円程度の散財でした。
中の一日は、最短距離を通り、六時前に帰宅なさった筈です。
あとの一日は、同僚の一人と東京温泉の大衆浴場につかり、あとで屋上の外れにある碁会所で将棋を三番、うち二回は御主人の勝ち、そして中華ソバをとって食べました。
御主人の出費は四百円あまりで、同僚はラーメン代だけ支払っています。
以上がこの三日間の中間報告ですが、奥様が懸念なさるごとき事実は、まだ気配も見えません。
読後火中のこと、くれぐれもお願い申し上げます。
2
奥様。御安心下さい。御懸念の向きは依然、兆(きざし)もございませんでした。
定時に退庁して、地下鉄で渋谷に出た御主人を尾行したのです。わたくしはハッピを着て、職人に変装していました。
とあるビルの前を、四、五へん……六、七へんにもなりましょうか、御主人が往復なさった時は、何かあるかと思いましたが、何ごともおこらず、道玄坂に戻って百軒店まで散歩、それから下北沢乗換えで帰られました。
事情はかんたんです。ビルの中には、ボディビルの体育場が出来ているのです。
御主人が体の衰えを意識していると、いつぞや奥様はおっしゃいましたが、三十八歳と言えばまだ衰える齢ではありません。思い切ってボディビルをお勧めになったらいかがですか。御主人も若干その気になっておられるようですから。
散歩中、にぎやかな通りで足をとめたのは、洋装店、家具店、靴屋、菓子屋などの前でした。あの日奥様がお召しになっていらっしたカシミヤのスーツは、御主人のお見立とか。わたくし、瞼の裡に今もはっきりと灼きつけて憶えていますが、ほんとによくお似合いでした。お世辞と受取られては困りますけど、ほんとにこの世の方ともおぼえませんでした。
家具屋の前では、三面鏡の前で、一番長く足をとどめていたようです。うつり具合をためすつもりか、頰ぺたをぶっとふくらませたり、にやにや笑いをしてみたり、約三分間。
靴屋では女靴の棚をしばしごらんになり、洋菓子店前でかなり躊躇(ちゅうちょ)なさったのは、お嬢さんのお土産を考えられたのでしょう。結局、駅前で、ビニールの袋に詰めた百円のキャンデーをお求めになりました。
奥様の御心配も、わたくしの尾行も、まるっきりムダなような気がしてなりません。世間には、奥さま、わたくしのように終電前ではめったに帰らない、不心得な亭主も多いのです。御主人は模範的です。理想の夫です。いいえ、誇張やお世辞ではありません。良人の鑑(かがみ)といっても過言ではありません。それにしても、わたくしはなぜ、こんな余計なことまで申し上げるのでしょう。
平生なら、事務的に、官報のように、切りつめた文章で、御報告する筈(はず)ですのに。
奥様にお目にかかったのは、月曜日でした。
事務所の入口でためらっておられる奥様に話しかけて、事務所を通さずに私的な御協力をお誓いしたのは、ほかでもございません。
このような方が不仕合わせであっていいものか、そう思ったからなのです。この所業がうちの所長に知れれば、クビになるぞという判断がはたらきながら、わたくしはそうせずにはいられませんでした。
どうぞ御懸念が晴れますように。
最初、わたくし、御主人をのろいました。やがて、同じ三十八歳の男でありながら、世間はなんて不公平なんだろうと、柄にもなくわたくし、ひがみました。あなたが不仕合わせになるのなら、この世には神も仏もない。神も仏も信じないわたくしが、しんからそう思ったのです。職業柄臆測はつつしむべきですが、今となってはわたくし、八年前の結婚当時と変らぬ初々しさを、お二人の間に感じます。
倦怠期……とあなたはおっしゃいました。万一それが倦怠期であるとしても、何とふくらみのある倦怠感でしょう。
顔を合わせれば口汚なくののしり合い、お互いの愚行の積み重ねで、こじれにこじれた自嘲や自愛の思いが、憎しみという形しかとり得なくなってしまったわたくしどもの夫婦仲を、奥さま、是非一度ごらんに供したいくらいです。
とんだおしゃべりをして、申しわけございません。今後は一切、事務的に処理いたします。読後火中のこと、くれぐれも。
3
奥様。わたくし、平静です。極めて平静にこの報告をしたためています。平静にしたためようと努力しています。
今日は土曜日で、半ドンでした。御主人は地下食堂で花巻ウドンを食べました。花巻とは渋いですねえ。しかし、どうせ食べるなら、値段も同じですから、タヌキかキツネウドンの方が、カロリーが高くて栄養的だと思いますが、いかがなものでしょう。
それから、将棋をさした同僚に、二人の女事務員と、四人連れだって、東劇で映画見物です。男二人が半々に切符代を出しました。お勤めの間には、奥様、こうしたつき合いも、時にはしなくてはならないものらしいです。
映画が終ると、尾張町に出て、二人の女事務員は地下鉄にもぐりました。それから御主人と将棋氏は、日劇のミュージックホールヘ、どちらが誘うともなく、はいりました。
ストリップが終った時、二人はつまらなそうな顔付きで、席を立ち、外に出ました。外に出て、御主人は帽子をとり、どういうつもりか頭髪をごしごし引っ掻き、フケを落す仕草をなさいました。男性として申しますが、奥さま、御主人にボディビルを是非お勧めになって下さい。気休めにはなるでしょう。身体の衰えよりも、衰えを必要以上に意識することがくせものです。これは坂井少年のいうノロイーゼの兆候です。
将棋氏とは有楽町で別れ、千駄ヶ谷駅で御主人は下車しました。
奥様。わたくし平静に御報告しているつもりですが、違いましょうか。平静であるという自信のもとに、わたくしこのお便りをつづけます。ずいぶん思いあぐんだ上での決心なのです。どうぞ奥さまも冷静にお読みになって下さい。
御主人が途中下車した時、わたくし、てっきりどなたかお知合いを訪ねるものとばかり思っていました。そう言えば、有楽町で将棋氏と別れたあと、公衆電話でひとしきり話していたのが、今思い出されます。
御主人はあの界隈に多い旅館の一つにおはいりになりました。
旅館と申しても、奥様、御存じでしょうが、逆さクラゲなのです。それだけならまだいい、と申してはなんですけれど、実は、もっといけないことが起りました。
玄関先に丹前姿の女があらわれ、御主人の腕をとるようにして、さも待ちかねた風情で内に招じ入れたのです。
錯覚ではない。断じてない。まだ明るい五時前のことです。それに、たった一人の身寄りを、どうして見聞違えましょう。その女というのが、奥様、わたくしの実の姉だったではありませんか。
敗戦後家の姉は、幼い三人の子供をかかえて、人並以上の苦労をしました。わたくしどもの両親は、戦時中、相次いで病死したのです。
姉は敢然とヤミ星の仲間に入り、伝手(つて)をたどって鉄火場の物売りにまで出かけました。戦後二年目に復員したわたくしは、行くあてもなく、しばらくの間、身ぐるみ姉の世話になったのです。
誇りだけは高かった往時の箱入娘は、いくたの難難を経て、筋金入りのいい姐御(あねご)になっていました。やがて姉は小金が出来たらしく、中央線沿線に小さな洋装店を開きました。堅気に戻ったわけです。三人の子供たちも不自由なく、すくすくと学生生活を送っています。
子供たちの将来を考えて、ずいぶん迷ったこともあるようですが、いくらわたくしが再婚をすすめても、うんとは言いませんでした。
ふつうなら、吉富さんが奥様の御主人でなければ、このことも姉のために、泣いて祝福して上げたいところです。そう言えば、因縁めきますけれども、死んだ義兄はお宅と同じ役所に勤めていたのでした。
わたくし実は、ふとした不行跡の尻ぬぐいを姉に委せて以来、姉の家にいることが出来なくなり、それで余儀なくこんな私立探偵みたいな仕事をやっているのです。それ以来姉の家には、敷居が高くて寄りつけないのです。
奥様。わたくしにはもう奥様のお心を推し測るゆとりはなくなってしまいました。
わたくしは思い切って、半ばやけっぱちになり、その旅館の玄関に入りました。年増の女中がお世辞笑いをうかべて、迎えました。わたくしは訊(たず)ねました。
「いまの二人連れは、よく来るの?」
女中は警戒の色を示しました。
「警察の方ですか?」
わたくしが否定すると、女中は厭味な笑顔をつくって、急にぞんざいになりました。
「場違いな真似はよしてよ。悪趣味ねえ。まさか新聞記者じゃないでしょうね」
「新聞記者じゃないよ」
わたくしは食い下りました。
「隣の部屋は空いてるかい?」
「お隣じゃ騒々しくて、眠れませんよ。お連れさんがいるのなら、静かな部屋はまだいくつもございますよ。おひとりだけじゃあ、ちょっとねえ」
わたくしはが逆上気味の頭をかかえて、旅館から退散しました。
奥様。この手紙がどんなに奥様のお心を傷つけるか、お察し出来ないではありません。でも、わたくしは今はっきりと知ったのです。奥様はこの世の喜怒哀楽には瀆(けが)されないお方です。あなたの美しさは、形でもなければ、色艶でもない。内側から輝く女性の美しさを、あなたはわたくしに初めて教えて下さいました。永遠の女性という言葉がウソでないことを、青春をろくに知らずに過したわたくしは、くたびれ切った結婚生活の果てに、こんな形で見出したのです。
奥様。
申し上げるだけは、申し上げました。勝手ですが、今日限りわたくしは、調査の任を辞退させていただきます。読後火中のこと、くれぐれもお願いいたします。
4
奥様。
わたくしは、なんというあわて者でしょう。
即日速達という郵便制度は、信用出来るものでしょうか。出向いて仔細を申し上げればいいのですが、お許しのない訪問は出来ませんし、たいへん困りました。この即日速達が、昨日の書面よりも、先に着くことを、心から祈っています。
別に『キノウノテガミヨムナ、ソクタツヲサキニヨマレタシ』という電報も打ちました。せめて電報だけでも、昨日の手紙よりは、早く着きますように。
今日必要な金が、明日でなければ算段出来ないために、わたくしども甲斐性なしは、どんなに惨(みじ)めな思いをさせられることでしょう。
そして今日判らなければならないことが、明日でなければ判らないために、わたくしども思慮足らずのノロイーゼは、どんなに寂しく情ない道化を演じなければならないことでしょう。わたくし、時折、しんから、映画のフィルムをあべこべに巻き、小説を終りから読み、明日から今日、今日から昨日と、さかのぼる手はないものかと考えることがあります。
今日、日曜日の夕刻、一日握っていた前の手紙を投函したあとで、わたくしは思い切って姉を訪ねました。
奥様。せめて、せめてこのわたくしの勇気をほめてやって下さい。でなければ、立つ瀬がございません。
姉はびっくりして、わたくしを迎えました。よれよれの変装服で行ったものですから、姉はわたくしのことを、よほど落ちぶれていると思ったのでしょう。ウナ丼などを取寄せて、御馳走してくれました。
そのウナ丼をぱくつきながら、わたくしは、それとなく、姉に告白をうながしました。いえ、うながすと言うより、自白を迫ったという方が、正確かも知れません。
ところが姉は、けらけらと笑い出したのです。
「見たの、あんた? 悪いことは出来ないものねえ」
わたくしはかっとなり、ウナギの一片を箸から畳に振り落しました。
わたくしはその瞬間、完全に姉を侮蔑し憎悪しました。あのきりっとした気性の姉が、こんなにだらけた女になろうとは、もう言葉も出ないような気持でした。でも、わたくしは気を取直して言いました。
「姉さんが、幸福になれるのなら、お祝いするつもりで来たんだ。はぐらかすなよ。おれに、黙っている法はないだろう」
姉は笑いつづけるのです。そして苦しげに、わたくしの詰問の合間を見て、
「バカねえ」
と二度ほど呟(つぶや)きました。
そして姉の言葉のごとく、わたくしはバカだったのです。なにゆえにバカであったか。奥様。お聞き下さい。
わたくしをたぶらかした張本人は、麻雀(マージャン)だったのです。
御主人は課長のガムシに呼びつけられ、姉は洋裁店の上顧客(とくい)である課長のゼロ号夫人に呼ばれ、ガムシの部屋で十一時半まで、おつき合いをしていたのです。隣室では騒々しくて眠れないという、あの女中の言葉のどこに偽りがあったでしょう。隣室の麻雀では眠れるわけがありません。[やぶちゃん注:「とくい」のルビは「顧客」二字に附されたもの。]
姉の説明で、わたくしは頭がぽかんとなり、ウナ丼をごそごそ食べ終って、姉の家を辞しました。
姉の言葉は本当だろうか、一抹(いちまつ)の疑念もあったものですから、帰途千駄ヶ谷で降り、れいの旅館に参りました。この度は逆上いたしません。女中にいくらか握らせて聞き出した事実は、まさしく姉の言った通りでした。
奥様。
わたくしがなにゆえにバカか、お判りになったことと存じます。でも、わたくしは我慢がなりません。わたくしはたいへん憎みます。ガムシと逆さクラゲと、ゼロ号夫人と麻雀を。
そしてわたくしは、ちょっぴりと憎みます。十余年浮気ひとつ出来ないで過した姉の潔癖を。
奥様。御主人は潔白でした。姉も……。姉には、一番違いで宝クジをあてそこなったような、そんな口惜しさを覚えます。しかしそれも、奥様とお嬢さんのために、誰よりもわたくしは嬉しいのです。
御主人が時たま遅くお帰りになる事情は、以上で納得がお行きになったことと存じます。お宅で外の出来事を話さないのは昔からの習慣だと、奥様はご自分でおっしゃいました。原稿料と麻雀によって、小遣いがあり過ぎたり、またなさ過ぎたりする謎、これで氷解したわけです。
御主人のへそくりは、民主主義に反するかも知れませんが、せめての学友や同僚や、ごく狭い範囲でのつながりは、知らぬふりして認めて上げて下さい。御主人と一列に申しては失礼ですが、わたくしどもには今の社会では、その程度にしか人と人との結びつきが許されてないのですから……。
奥様。
今宵は奥様の孤独と御主人の孤独と、お二人のふっくらとした倦怠感と、お嬢さんの健康のために、わたくしは独りどこかの安酒場で乾盃いたす所存です。
残ったのはわたくしの愚かしさだけでしたが、負け惜しみでなく、わたくしはそう思いません。恥を忍んで申せば、奥様、わたくしは今仕合わせです。はかなく、いつ消えそうな形ながら、仕合わせなのです。
最後に御無心がございます。ヘマな調査の報酬は断じて頂きません。そのかわり、大道の流行遅れでいいのです。ネクタイを一本いただかして下さい。わたくしはもの持ちがいいたちで、五本あるネクタイは皆頂きもので、これまでの愚行の歴史がこれにこもっているのです。奥様。ぜひネクタイを一本……。
読後火中のこと、なにとぞお願い致しておきます。
(時間は傾いて、明るい)
リルケ 茅野蕭々譯
時間は傾いて、明るい
金属の響で私に觸れ、
私の感官は慄へる。私は感ずる。私は出來る――
そして私は彫塑的な日をつかむ。
私の見なかつた中は、何も完成してゐなかつた。
總べての生成は止まつてゐた。
私の眼は熟してゐる。そして花嫁のやうに
誰にでもその思ふものが出來るのだ。
何でも私には小さ過ぎはしない。私は小さくても愛する、
そして金地へ大きくそれを畫いて
高く捧げる。誰にかは知らないが
それは魂を解きほぐす……
[やぶちゃん注:Андре́й
Рублёв!]
[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年一月号『小説新潮』初出。一部、段落末に簡単なオリジナルな語注を附した。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第四巻」を用いた。
登場人物の姓(と思われる)「古呂」はルビを振っていないので「ころ」と読んでおくが、姓としては珍しく、この文字列も、長崎県五島列島名産である薩摩芋を混ぜ込んだ餅和菓子の一種「甘古呂餅(かんころもち)」ぐらいでしか私は見たことはない。]
古呂小父さん
もう三十年近くも昔のことになる。お父さんが勤めている会社の秋季郊外遠足に、子供の僕もー緒につれられて行くことになった。お父さんはよく僕をあちこちにつれて歩いたものだ。一度などは会社の出張にくっついて、はるばる熊本市まで出かけ、大共進会などを見物したこともある。子供にしてはちょいとした旅行だ。当時熊本市は市内電車の開通のしたてで、車体もぴかぴか光り、僕の住んでいる街の電車よりもずっと立派で、そのことだけで僕は熊本という街に嫉妬を感じたりした。
[やぶちゃん注:「大共進会」「共進会」は「競進会」とも表記し、農産物や工業製品を集めて陳列して一般公開をし、その優劣を競う品評会であったが、産業発展を図ることがその主たる目的であった。明治初期から各地で開催された。]
遠足の集合地は、その僕の街のがたがた電車の終点で、集合時間は九時半ということだったのに、実際には十時半に伸びてしまった。大人というものは時間を守らない。小学生の僕はそう思って面白くなかった。約束の時刻に行ったお父さんと僕は、橋のたもとでまるまる一時間待たされたわけだ。河から脛(すね)に吹き上げてくる風は割につめたかった。僕は筒袖の着物に短い小倉の袴(はかま)をつけていた。僕の他にも一人子供がいたが、そいつはサージの服を着て、よく磨かれた靴を穿いてつんとしていた。支店長の息子だとのことだった。
[やぶちゃん注:「小倉の袴」小倉織(こくらおり:縦縞を特徴とした良質で丈夫な木綿布。)の袴の意。]
「あの子と仲良くするんだよ」お父さんが僕にそうささやいた。「喧嘩なんかしちゃいかんよ」
皆がすっかり集まったのは、十時半だった。一番遅れてきたのは古呂という三十四五の小父さんだ。古呂小父さんはアンパンみたいにまんまるな顔をしているが、皮膚の色艶はあまり良くなかった。心臓か胃腸かが慢性的に悪かったのだろう。電車から降りてくるなり、やあ、すまん、すまん、と遅刻を皆にぺこぺことあやまった。
「置いてけぼりにしようかと話し合ってたんだぞ」
と誰かがつっけんどんな調子で言った。自分も遅刻したくせに、他人の遅刻をつけつけと責める。その声とは別に、あざけるような笑い声がところどころに起った。その笑いは皮膚病のようにじめじめと周囲にひろがった。支店長の息子が甲(かん)高い声を出した。
「やあ、古呂小父さんは、武者修行みたいだなあ」
古呂小父さんはきょとんとして一行を見回した。一行の服装は、弁当や酒や釣道具を持っているだけで、あとはふだんのなりと同じだった。ところが古呂小父さんの身なりときたら、背広のズボンに白い脚絆(きゃはん)をつけ、足には靴のかわりに真新しいワラジをきちんと穿いていた。その上御丁寧なことに、弁当を浅黄の風呂敷でぐるぐるに巻き、それを肩から脇下にななめにゆわえつけていたのだ。まるで諸国修行のサムライみたいな恰好にだ。古呂小父さんの青黒い顔は見る見るあかくなった。あかくなったことをごまかすように、トントンと二三度足踏みをした。その動作がまたさざなみのように笑いをさそった。支店長の息子もたかだかとわらったし、僕もすこしわらった。笑わなかったのは当の古呂小父さんだけだった。
「さあ、そろそろ出かけるとするか」とりなすようにお父さんが言った。「これでみんなそろったしな」
一行二十数名は、すき間風に吹かれた煙草の煙のように、なんとなくふわふわと動き出した。それが遠足の出発だった。学校の遠足のようにきちんと並んで歩かず、だらだらと伸びたりちぢんだり、三々五々という形でだ。古呂小父さんは一番遅れて、終始ひとりで、もうくたびれたように歩いているようだった。ものものしいいでたちを背後から眺められるのが辛かったのだろう。僕はお父さんに言った。
「古呂小父さんはワラジを穿いているのに、歩くのは一等遅いんだね」
「穿き慣れないと、ワラジというやつは、案外歩きにくいものだよ」
とお父さんは説明をした。お父さんは弁当の他に、ガラス製の蠅(はえ)取り器に紐(ひも)をかけて、肩からぶら下げていた。これは河床に沈め、内部に溶き餌をして、魚を生けどりにする仕掛のものだ。
[やぶちゃん注:「ガラス製の蠅(はえ)取り器」グーグル画像検索「ガラス製 ハエ取り器」をごろうじろ。私は見たことはない。しかし、これを魚獲りに使うというのはすこぶる納得!]
空は曇って、風もすこし吹いていた。いい遠足日和ではなかった。あちこちに見える雑木の紅葉の色も、しめったように沈み、あまり美しくなかった。しばらく歩くと別の河の土堤(どて)にきた。先頭がステッキで方向を指し示し、皆はぞろぞろと土堤に沿って、上流の方に曲った。土堤の芝草はもうすっかり黄色に枯れていた。河幅はかなり広かったが、実際の水の幅は六間か七間ぐらいのものだっただろう。
[やぶちゃん注:「六間か七間ぐらい」十一~十二メートル半強ほど。]
土堤を一時間半ばかり上流に歩き、そこで休憩ということになった。土堤のかげに小さな茶店が一軒あった。そこに立寄って、皆口をすすいだり、顔を洗ったりした。ずっと遅れてやってきた古呂小父さんに、誰かが声をかけた。
「ずいぶん遅れたね。足にマメでもこしらえたのかい」
「えへん」
と古呂小父さんは不機嫌にせきばらいをして、急いで磧(かわら)に降りて行き、顔だけ空を仰ぎながら、ながながとオシッコをした。
それから茶店の台や枯芝生に腰をおろし、酒やサイダーを飲み始める者もあった。お父さんと僕は早速はだしになり、蠅(はえ)取り器を河床に沈めに入った。水は膝までぐらいしかなかったが、ひどくつめたかった。溶き餌は鰹節の削ったのと粉をまぜたやつだった。仕掛け終えると、僕らは大急ぎで岸にとってかえし、三分ぐらいしてまた行ってみると、三寸か四寸ほどの川魚が七匹も八匹も入っていた。それをバケツにあけると、また大急ぎで蠅取り器を沈めに行く。
[やぶちゃん注:「三寸か四寸ほど」九~十二センチほど。]
「坊ちゃん。やってみませんか」
お父さんが支店長の息子に言った。息子ははだしでつめたい水に入るのを好まないらしく、返事をしないで、磧(かわら)の小石を靴で蹴上げたりなどしていた。そこへ古呂小父さんがやってきたのだ。
古呂小父さんのまんまるい顔は、すっかり真赤になっていた。茶店でむりやりに酒を飲んで酔いがすっかり発したものらしい。そして河風に顔をひやしにやってきたらしいのだ。肩から脇にゆわえた風呂敷はもう外(はず)していた。支店長の息子が甘えるように言った。
「古呂の小父さん。魚とってくれよう」
「魚?」
古呂小父さんはトロンとした眼で、しばらく僕のやり方を眺めていた。次は自分にやらして呉れ、と言い出してきた。僕は足もこごえてきたし、少々あきてもきたので、次の番を古呂小父さんにゆずった。小父さんは蠅取り器をかかえ、ワラジを穿いたままあぶなかしい足取りで、ざぶざぶと河の中に入って行った。入って行ったと思う間もなく、河底石のぬめりに足をとられて、たちまち横だおしにひっくりかえってしまった。つめたい水の中で小父さんは四つ這いになってしまったのだ。
「面白いやっちゃのう」
支店長の息子が憎たらしい口をきいて、磧の上でピョンピョンと飛び上った。
茶店や芝生の方からも喚声があがった。
その中を古呂小父さんは不器用に立ち上り、水に足をさらわれないように用心しながら、ざぶざぶと岸に戻ってきた。
ひっくりかえった時に蠅取り器をわったらしく、古呂小父さんの指と掌から紅い血が流れていた。
「いっぺんに酔いが醒(さ)めたわい」と小父さんはぼやいた。そしてお父さんに向いてぺこぺこと頭を下げた。「たいせつなものをわってしもうて――」
「いいよ。いいんだよ」
とお父さんは慰め、手拭いをさいて小父さんの掌に巻いてやった。白い手拭いはすぐに血が一面に滲(にじ)んで濡れた。ワラジや脚絆は言うに及ばず、背広も半分ぐらいはびしょ濡れだった。古呂小父さんはやけになったように舌打ちをしながら、よろよろと茶店の方に歩いて行った。その古呂小父さんを土堤の方から誰かがワアとはやし立てた。
それをしおにして僕らも土堤に戻り、枯草の上で弁当を開いた。食べ終ると弁当箱に、今とった小魚をぎっしりと詰めた。お土産に持ってかえるつもりなのだ。
その間にまた古呂小父さんは酒を飲んだらしいのだ。そろそろ帰途につくという時になると、また小父さんの顔はまっかになって、ふだんよりも更にふくれ上って見えた。焚火(たきび)で洋服や脚絆はなま乾きになっている。
そのなま乾きの古呂小父さんが、今度は先頭にたった。足はひょろひょろしていたが、無理に元気を出しているようだった。ひょろひょろしているのは他にも三四人はいた。
帰途は土堤沿いでなく、近道を行こうということになった。くねくねと曲った狭い田舎道だ。ハゼやセンダンの木があちこち生えている。
[やぶちゃん注:「ハゼ」「櫨」。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum。
「センダン」「栴檀」。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach。言っておくと、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum
album を指すので注意されたい。]
それらの木の下などに置いてある枝の束やわら束を、道のまんなかに引きずり出して、後から来る者の進行の邪魔をする。そういういたずらを先頭の人たちがやり始めた。その中で一番熱心なのが古呂小父さんだった。
見ていると小父さんは、土堤なんかがあると猛然とその上に突進して、そこに置かれたわら束などをエイヤッと投げおろす。勢いあまって自分も一緒にころげ落ちたりもした。小父さんはその作業においていじめられた子供のようにむきになっていたのだ。仮繃帯(ほうたい)なんかもう掌からすっ飛んでいた。
そういういたずらに憤慨したのが、一番あとからやってくる柔道初段の人だった。顔の四角な、いかにも精力善用と言った感じの人で、でもこの日は初段も少々酔っていた。
[やぶちゃん注:「精力善用」「自他共栄」と共に嘉納治五郎が創始した講道館柔道の、指針として掲げられている言葉。柔道は相手の動きや体重移動を利用し、自分の持つ力を有効に働かせるという原理によって、より大きな力を生むことができ、日々不断に柔道に打ち込んで精進することによって、自己の能力は磨かれてゆくが、それは日々の生活に於いても同様である。自ら養った力を、相手をねじ伏せたり、威圧したりすることに使わず、世の中の役に立つことのために使うべし、ということを表わしているという(以上は「柔道チャンネル」の「柔道用語辞典」の当該項に拠った)。]
投げ出された束を初段は一々かついで、元のところに戻していたが、束があんまり次々ころがっているので、それで少しずつ怒ってきたのだ。初段の顔もついにいじめられた子供みたいになってきた。
そのうちに投げ出された薪につまずいて、支店長の息子が膝をすりむき、ワアワアと泣き出すという事件がおこった。
初段は顔をまっかにして、おそろしい勢いで先頭の方に疾走した。もう田舎道は終って、家並がぼちぼち始まっていた。僕もお父さんもつづいて息をはずませて走った。
町の入口で初段はついに古呂小父さんの肩をがっしとつかまえた。何か二言(こと)三言(こと)言いあらそったようだった。お父さんが大声でさけんだ。
「ちょっと待てえ!」
しかしお父さんの絶叫も間に合わなかった。古呂小父さんが拳骨をふり上げて、初段の顔のまんなかをいきなりなぐりつけたのだ。
次の瞬間古呂小父さんの身体は、初段の肩の上で一回転して、地面にたたきつけられた。僕らがそこに到着した時、古呂小父さんは地面に腹這いになって、オウオウと呻(うめ)いていたし、初段は初段で亢奮(こうふん)したおろおろ声で、
「初段だぞ。おれは、初段だぞ」
と威張っていた。
それからお父さんは古呂小父さんの腕を肩でかつぎ、終点の方にそろそろと歩いた。初段たちは先の電車で行ってしまった。
電車に乗せても古呂小父さんは、初段はどこに行った、初段はどこに行った、と叫んできょろきょろしたりした。小父さんのなま乾きの服は泥だらけで、浅黄の風呂敷もどっかに紛失してしまったらしい。
僕は疲れたから座席に腰をおろしてうとうとしていた。電車はだんだん混んできた。向うの方で古呂小父さんのしぼるような声がした。
「五十銭玉を落したよ。ああ、見つからないよう」
そして電車の床を這うようにして五十銭玉を探し始めた。声がだんだんこちらに近づいてくる。
僕の前の和装の若い女のひとが、吊皮にぶら下っていた。古呂小父さんの顔がそのかげからちらとのぞいた。小父さんの顔はほこりによごれ、ほとんど土色をしていた。小父さんの眼が僕を見た。そして小父さんの手がいきなりぱっと動いて、その女のひとの着物の裾を一気にまくり上げた。小父さんの顔はまるで死にかかった犬の顔だった。
「キヤアッ!」
女のひとは悲鳴を上げた。しかしその瞬間に僕の眼は、はなやかな色彩の乱れの中に、白い脛(すね)や膝やその他のものを、真正面からすっかり見てしまったのだ。僕は眼がくらくらして、思わず座席からすべり落ちそうになった。女のひとはそのまま床にへたへたとしゃがみこんでしまった。
次の駅に着くと、女のひとはしくしく泣きながら、電車を降りて行った。顔をおおうたまま肩をふるわせている姿を、僕は今でも思い出せるのだ。
それから古呂小父さんがどうしたか、その前後の記憶が全然ないところを見ると、よほど一瞬の印象が強烈だったのだろう。ひょっとするとそのあとで、古呂小父さんはまた誰からか、あるいはよってたかって、ぶんなぐられたかも知れないと思う。
[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年六月刊『別冊文芸春秋』(第五十八号)初出。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第五巻」を用いた。]
ポストの嘆き
おれは郵便が好きだ。郵便を出すことはそれほど好きではないが、貰うのは大好きだ。何かいい便りが来そうな気がして、一日の中何度も立って、郵便受けをのぞきに行く。入っていたら心がおどるが、入っていないとがっかりする。時には丁度(ちょうど)郵便物を入れかけている配達人と、ばったり顔を合わせることがある。何度ものぞきに行くのだから、偶然以上に顔が合う率が大きいわけだ。顔がばったり合うと、おれの気のせいかも知れぬが、配達人はちょっと困ったような表情になる。おれと視線を合わさないようにしながら、郵便の束をごそごそとより分けたり、そっぽ向いたまま郵便受けに放り込んだり、そして赤い自転車にまたがって、すうっと行ってしまう。おれの区域の配達人はまだ若い。二十二か三ぐらいだと思う。
おれは昔、子供の頃、郵便配達手が大好きだった。昔の郵便配達手は、今みたいに若くなく、年配の人が多かったように思う。おれが子供だから、そう見えたのかも知れない。今残っている感じでは、昔の配達人は赤銅(しゃくどう)色に日やけして、たいへん大きな掌を持っていた。自転車には乗らず、てくてく歩いて配達していたようだ。配達人は特別に掌を使う職業ではないのに、何故大きな掌を持っていたか。それは、かんたんに説明出来る。昔の配達人は気のいい人物が多くて、子供たちを可愛がり、しばしばおれたちの頭を掌で撫でて呉れた。子供というものは、大人から頭を撫でられると、その大人の掌を実際以上に大きく感じるものだ。
昔の配達人は気がいい人物が多いと書いたが、これは今の配達人(正確な呼称では集配員と言うのだそうだ)に気がいい人物がすくないと言う意味じゃない。昔と違って今は、一人当りの配達量も多いだろうし、てくてく歩きでなく自転車配達だし、つまり子供の頭を撫でる余裕や暇がない。気がいい悪いに関係なく、子供の頭を撫でる機会がないのだろう。
で、前にも述べたように、おれは郵便が大好きだ。常住待ちこがれている。その日の郵便が来ないことには、きまりがつかないような気がして、仕事に手がつかない。おれは原則として、朝は仕事をしない。ふつうの人間は、朝が一番頭がはっきりしているものらしいが、どういうわけかおれは、朝は頭がぼんやりしている。まったく鈍麻している。仕事なんか出来るような状態にない。体質にもよるのだろう。だから朝は仕事抜きで、新聞を読んだり、雑誌を読んだり、爪を切ったり、草むしりをしたり、そんなことで頭がはっきりするのを待っている。はっきりし始めたら、そろそろ仕事に取りかかる。だからおれとしては、まだ頭がぼんやりしているうちに、郵便物に到着して貰いたいのだ。郵便物と仕事とは、両立しない。一度に二つのことは出来ない。
「もう少し早目に配達して貰えないものかねえ」
ある時、たまりかねたような気持になった時、その若い配達人におれは言ったことがある。
「せめて午前中にくばって貰えたらねえ」
以前住んでいた区では、そうでなかった。郵便物の遅配に悩まされ始めたのは、練馬区に引越して来てからのことだ。時々新聞の投書欄に、郵便の遅配や誤配についての苦情が出ている。今朝の朝日新聞の『もの申す』欄にも、遅配の苦情が出ていた。苦情の相手の郵便局は、落合長崎郵便局だ。その人は今年の一月から配達された時間を日記に書き込み、それを平均すると第一便が午前十一時半ということになると書いている。おれのところは、十一時半などという、そんななまやさしいものではない。平均はとってないが、もしとれば、十二時半か一時ぐらいになるだろう。二時、三時というのもざらだ。第二便なんか来たことがない。一日一便ということになっている。全然来ない日だってあるのだ。昨日なんかもそうだ。全然無配だ。だから午後四時になって、郵便課に電話をかけた。自分の所番地を言い、今日は配達はないのかということを聞いた。すると相手は、そんな筈はないんだがなあ、などと近所の課員たちと相談している風(ふう)で、やがてまた電話口に戻って来ての返答は、お宅の区域の集配員が今日は抜けている、とのことだった。抜けているとは、どういう意味か。これで返答になっているつもりらしい。
「では今日は配達しないと言うのですね」
「そういうことになりますな」
「それは困ります」
とおれは言った。実際に困るのだから。そのことのために、おれは今まで何度も、いろんなことをすっぽかしたりしているのだから。
「よそでは一日に二へん配達されているのに、一日全然無配だというのは困る。配達していただきたい」
すると相手は、では外廻りの係にかわるから、と受話器を置いた。三分ほどして他の男が出て来た。どういう用件かと聞く。全然用件を引継いでないらしい。だからまた初めから言い直した。するとその男は言下に言った。きわめて横柄な口調でだ。
「そりやダメだね。こんな時刻だから、配達は出来ないね」
「どうしてもダメですか」
「ダメだね」
ちょっと沈黙があって、それからおれは言った。
「これは別な話ですがね、郵便を配達して歩く人は、正確に言うと、配達人というんですか。それとも配達手?」
昔は配達夫と言っていたような気がする。
「ええと、それは集配員だ」
「ではどうも」
おれは電話を切った。おれは近頃、どんなことがあっても、電話口では怒らないことにしている。おれの経験では、怒っていい結果になったためしがない。面と向って怒るならまだしも、電話口で怒るほど愚かなことはない。一番初め、練馬区に引越してしばらくのことだが、おれは郵便局長宛てに手紙を出した。配達が午後二時、三時になるのは困る。当日一時の試写会の案内が、午後三時に配達されるようでは困る。どうにかしていただきたい、と言う意味のことを書いた。封筒に十円切手を貼って出した。
するとその翌日、郵便課長という人がやって来た。上って呉れと言っても上らない。玄関先で用事を済ませたいと言うので、おれは玄関に出て行った。
この年配の課長さんには、奇抜で面白いくせがあって、今でもはっきり覚えているのだが、おれと向き合って会話しているうちに、課長さんの顔がしだいに横を向く。少し経つと、身体も顔を追って横向きになる。つまりおれは課長さんの横姿に対している形となった。そういう形でいろいろ問答しているうちに、今度は課長さんの顔が更に横向き、つまりおれから見ればうしろ向きになった。おれが顔を向けている方向と、課長さんが顔を向けている方向が、同じになった。そしてしばらくして、身体もそろそろとそっち向きになった。すなわちおれは課長さんの後姿と問答することになったのだ。うしろの扉はあいているから、課長さんは戸外の景色などを眺めながら、口を開閉させているらしい。
人の後姿と対話するなんて、生れて初めてで、妙な気分のものだったが、きっとこの課長さんは人見知りするたちだろうと、おれはその時思った。しかしその課長の横向きやうしろ向きの説明はしごく月並なもので、近頃デパートの案内状が多くなったとか、集配人の経験が浅くて能率が上らないとか、そんなものばかりだった。
「それにお宅の配達順番は、区域の最後尾に当っているものですから」
それでおれはこういう提案をした。同じ税金を払っているのに、ある家は朝早く、ある家は午後二時三時の配達とは、公平でない。だから一日おきに、配達の順路を逆に廻ったらどうだろう。今日おれの家が最後尾なら、明日は最先頭になって、不公平はなくなる。すると課長が言った。
「それは、技術上、不可能なんです」
「どうして不可能ですか?」
「とにかく、それは不可能なんです」
その時は課長はもう裏返しになっていたから、どんな表情で言ったのか判らない。とにかく不可能の一点張りで、おれの提案をしりぞけた。
この逆廻りがどうして不可能なのか、だから今でもおれは判らない。おれは配達に関しては素人(しろうと)だが、それが出来ない筈はないと思っている。
「これから手紙は、局長宛てでなく、私宛てにして下さい。切手を貼る必要はありません。通信事務と書いて下されば、それで届きます」
課長さんは裏返しのまま頭を下げ(つまり戸外に礼をしたことになる)そのままとことこと出て行った。
それから暫(しばら)く配達状態が良くなって、良くなったと言っても、午前十一時以後で、つまり落合長崎局における苦情ラインを上下する状態がつづいた。
それからまた悪くなった。日脚が長くなるように、だんだん配達時間が伸びて、正午を突破し、正午を突破すると、バカになったゴム紐みたいに、ずんずんだらしなく伸びて行った。
おれは電話をかけた。
するとあの裏返し課長は転勤していて、他の課員が出て来た。相変らずデパートの案内状云々の言い訳で、つかみどころがない。
翌日もかけた。
翌々日もかけた。
意地になったせいもあるが、午後三時の配達では、いろいろさしさわりが出来て、おれは困るのだ。四日目に相手は言った。お宅のことはよく判っているし、気にもかけているが、しばらくお待ち願いたい。この間も集配人から、お宅で叱られたとの報告もあった。云々。
「冗談じゃないですよ。叱りはしませんよ。集配人を叱って、どうなるというものではないし」
午前中に配達して貰えんものかねえ、と言っただけのことが、叱責されたということになって、郵便課に伝わっている。どこでどう歪んで間違ったのか、おれには判らない。
とにかくあそこでは、このおれはウルサ型ということになっているらしい。普通に話しかけたのに、叱られたと感じるということは、これはただごとでない。そして相手は言った。
「そんなに遅れて困るのなら、取りに来たらどうですか。取りに来ては」
「そうですか」
とおれは言った。さっき言った通り、おれは電話口では腹を立てないことにしている。でも、こちらから取りに行くと申し出るのなら判るが、向うから取りに来いというのは、ムチャクチャな言い分である。区民を何と心得ているのだろう。
「ではいただきに上りますがね、このような遅配状態はいつ頃までつづきますか」
「そうだね。見当つかないね。当分続きますね」
電話を切り、家人に郵便を取りにやらせ、おれは机に向って、郵便局長宛てに手紙を書いた。当分続くと平気で答える心事が、当方としてはどうにも解(げ)せない。改善の意志はあるのか、ないのか。通信事務と書かず、ちゃんと十円切手を貼って出した。それが一箇月前のことだ。
局長からの返事は、今に到ってもない。配達状態は元のままである。
おれは今後税金を払うめをよそうと思う。本気でそう思っている。
(これは私が自分を見出す時間だ。)
リルケ 茅野蕭々譯
これは私が自分を見出す時間だ。
うす暗く牧場は風の中にゆれ、
凡ての白樺の樹皮は輝いて、
夕暮がその上に來る。
私はその沈默の中に生ひ育つて、
多くの枝で花咲きたい、
それもただ總べてのものと一緒に
一つの調和に踊り入る爲め……
せつちんばち 渠畧
蜉蝣
俗云雪隱蜂
【厠異名曰雪
隱而此蟲形
似蜂故名】
フエウ ユウ
本綱蜉蝣似𧏙蜋而小大如指頭身狹而長有肉黃黑色
甲下有翅能飛夏月雨後叢生糞土中朝生暮死猪好啖
之蓋𧏙蜋蜉蝣腹蜟天牛皆蠐螬蠹蝎所化也此尚𧏙蜋
之一種不可不知也 或云蜉蝣水蟲也狀似蠶蛾朝生
暮死
△按蜉蝣黃黒色身狹長細腰畧似蜂有角甲下有翅以
翅發聲其聲似蠅而太夏月四五隻群飛敵合然無螫
咂之害必非朝生暮死者唯魯鈍爲人易捕亦易死耳
不如蠅之易活也然則此與水蟲之蜉蝣同名異種矣
*
せつちんばち 渠畧〔(きよりやく)〕
蜉蝣
俗に云ふ、「雪隱蜂」。
【厠の異名を、雪隱と曰ふ。而も、此の蟲、形、蜂に似る。故に名づく。】
フエウ ユウ
「本綱」、蜉蝣は𧏙蜋〔(くそむし)〕に似て小さし。大いさ、指頭のごとく、身、狹〔(せば)ま〕りて長し。肉有り、黃黑色。甲の下に翅〔(はね)〕有り、能く飛ぶ。夏月、雨の後、糞土の中に叢生〔(さうせい)〕す。朝に生まれ、暮れに死す。猪、好みて之れを啖〔(くら)〕ふ。蓋し、𧏙蜋〔(くそむし)〕・蜉蝣〔(かげらふ)〕・腹蜟〔(にしどち)〕・天牛〔(かみきりむし)〕、皆、蠐螬(すくもむし)・蠹蝎(きくいむし)の化する所なり。此れ、尚ほ、𧏙蜋の一種〔なるを〕、知らざらんは、あるべからざるなり。或いは云ふ、『蜉蝣は水蟲なり。狀、蠶蛾〔(かひこが)〕に似て、朝に生〔(しやう)〕じ、暮れに死す。』と。
△按ずるに、蜉蝣〔(せつちんばち)〕は黃黒色、身、狹〔く〕長く、細き腰、畧〔(ほぼ)〕蜂に似て、角〔(つの)〕有り。甲の下に翅有り、翅を以つて聲を發す。其の聲蠅に似て太(ふと)し。夏月、四、五隻〔(ひき)〕、群飛〔し〕、敵(あた)り合ふ。然れども、螫(さ)し咂(す)ふの害、無し。必ずしも朝に生じ、暮れに死する者に非ず。唯だ、魯鈍にして人の爲に捕へ易く、亦、死に易きのみ。蠅の活(い)き易きに如〔(し)〕かざるなり。然れば則ち、此れ、水蟲の蜉蝣〔(かげらふ)〕と〔は〕同名異種ならん。
[やぶちゃん注:「本草綱目」の記載の方に非常に大きな問題点があるが、これは結果的に、僕らが小さな頃「便所蜂(べんじょばち)」と呼んでいた、
双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目アブ下目ミズアブ上科ミズアブ科 Sarginae 亜科 Ptecticus 属コウカアブ(後架虻)Ptecticus tenebrifer
である。ミズアブ科の中では大形種で、体長十一~二十三ミリメートル、体色は黒で、翅は全体が黒褐色、腹部の基部が白色、前脚と中脚の脛節基部と脛節(ふせつ)は黄白色を呈する。触角第二節の内側は先端が前方に突出している。成虫は便所・畜舎・芥溜め周辺に五~九月頃、普通に見られる。腹部の基部が細く、姿や飛び方も蜂に似ており、便所(後架)の周辺や内部を飛ぶので「ベンジョバチ」の呼び名があるが、人を刺すことはない。「刺された」とするネット投稿があるが、これは皮膚の表面をごく軽く表面的に舐められたに過ぎないか、別種の刺す虫によるものと思われる(そもそもがアブの類は基本、「刺して毒液を注入する」のではなく、大根おろし器のような口器で「舐め擦って体液を吸引する」のである)。産卵性で、幼虫は便所・畜舎の堆肥・芥溜めで発生し、形態は扁平で動きは鈍い。日本全土に分布し、中国・朝鮮半島・台湾にも棲息する。近年、形状が極めてこの種に似て(但し、以下に示す通り、全くの別種)触角が長く、腹部第二節に一対の白或いは黄色の紋があるアメリカミズアブ亜科 Hermetia属アメリカミズアブ Hermetia illucens が本邦に侵入、同じような場所に発生するために、在来種である我々の馴染みのコウカアブが駆逐され、姿が少なくなってきている。なお、コウカアブの近縁種キイロコウカアブPtecticus
auriferは、山地の便所や畜舎付近に多く、体長十六~二十二ミリメートルで体は黄褐色、腹部に白と黒の帯があり、翅は全体に黄褐色を呈し、六~十月に出現する。本邦全土の他、シベリア・中国・東南アジアに広く分布する(以上は主に小学館「日本大百科全書」の倉橋弘氏の解説に拠った)。
問題なのは、「本草綱目」が、「朝に生まれ、暮れに死す」などと記し、ご丁寧に最後にも「或いは云ふ、『蜉蝣は水蟲なり。狀、蠶蛾〔(かひこが)〕に似て、朝に生〔(しやう)〕じ、暮れに死す。』と」などと記してしまっていることである。これは言わずもがな、短命とされるカゲロウ類(真正の「カゲロウ」は昆虫綱蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeropteraに属する昆虫を総称するもので、昆虫の中で最初に翅を獲得したグループの一つであると考えられている。幼虫はすべて水生。不完全変態であるが、幼虫→亜成虫→成虫という半変態と呼ばれる特殊な変態を行い、成虫は軟弱で長い尾を持ち、寿命が短いことでよく知られる。但し、面倒臭いことに、ホンモノでないホンモノにそっくりな「カゲロウ」類を、多くの人は本物の「カゲロウ」とごっちゃにして理解している。『本物でない「カゲロウ」』とは、具体的には、有翅昆虫亜綱内翅上目脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属する種群、及び同じ脈翅(アミメカゲロウ)目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属する種群である。これらは形状は似ているものの、全く異なった種なのである。これは本テクストでもさんざん語ったし、他でも述べている。比較的くだくだしくない「生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 一 群集」の私の注などを参照されたい。
非常に救われる思いがするのは、寺島良安がそうした「本草綱目」のトンデモ記述を批判し、最後に「水蟲の蜉蝣とは同名異種ならん」とぶちかまして呉れていることである。やったね! 良安センセ!
・「𧏙蜋〔(くそむし)〕」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科 Scarabaeoidea 及びその近縁な科に属する昆虫の中でも主に哺乳類の糞を餌とする一群の昆虫。前項参照。
・「叢生〔(さうせい)〕す」群がって発生する。
・「蜉蝣〔(かげらふ)〕」ここは前に冒頭の注で示した誤った全くの異種を広汎に含んだカゲロウと呼称する昆虫類全般と採る。
・「腹蜟〔(にしどち)〕」半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ上科 Cicadoidea のセミ類の比較的終齢期の方に近い幼虫。先行する「腹蜟」を参照。
・「天牛〔(かみきりむし)〕」鞘翅(コウチュウ)目カブトムシ(多食)亜目ハムシ上科カミキリムシ科 Cerambycidae のカミキリムシ類。次の次に独立項で出る。
・「蠐螬(すくもむし)」取り敢えず以前、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela に属するコガネムシ類の幼虫とした。本「蟲部」冒頭の「蠐螬」を参照。
・「蠹蝎(きくいむし)」取り敢えず以前、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ハムシ上科カミキリムシ(髪切虫・天牛)科 Cerambycidae の幼虫とした。先行する「蝎」(そこで「蝎」を「木蠹蟲」と別名で呼んでいる。因みに、ここの「蝎」は「サソリ」の意とは異なるので注意されたい)の項を参照。なお、以上の記載はまさに、実は中国の本草学に於いては、「蠐螬」や「蠹蝎」という語が、特定の生物種を指す語ではなく、昆虫類の多様な幼虫を大小・形状・棲息場所などを以って区別して指し示した語であることが明白となったとも言えるのである。
・「𧏙蜋の一種〔なるを〕、知らざらんは、あるべからざるなり」『この「せっちんばち」も「糞転がし」の一種であることをよく理解しないなどということは、あってはならない誤謬である』というのであるが、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目アブ下目ミズアブ上科ミズアブ科 Sarginae 亜科
Ptecticus 属コウカアブ(後架虻)Ptecticus
tenebrifer は鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科 Scarabaeoidea とは、全然、目レベルで異なる明後日の異種で、ちゃいまんがな!
・「蜉蝣は水蟲なり。狀、蠶蛾〔(かひこが)〕に似」これは明らかに幼虫が総て水生であるところの、真正のカゲロウ類、昆虫綱蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeropteraに属する昆虫を指している。
・「暮れに」実は以下二ヶ所のこの「暮れに」の原文の送り仮名は、どう見ても『ヘニ』としか見えない。しかしそれではどう読んでいるか不明なので、一般的な斯様な送り仮名としたものである。
・「咂(す)ふ」「吸ふ」に同じい。]
愁訴
リルケ 茅野蕭々譯
ああどんなに總べては遠く
また長く過ぎ去つたらう。
私は思ふ、
私がうける星は、
千年以來もう死んでゐる。
私は思ふ、
漕ぎ去つた小舟の中で、
何か氣づかはしい事を云つてゐるのをきいたと。
家の中で一つの時計が
鳴つた……
何處の家だらう……
私は私のこころから
大空の下に出たい。
私は祈りたい。
凡ての星の中の一つは
なほ本當にならなくてはならないのに。
私は知つてゐるやうに思ふ、
何の星がひとり
續いてゐたか、
どの星が白い野のやうに
九天の光の端に立つてゐるかを……
(あなたは未來だ。)
リルケ 茅野蕭々譯
あなたは未來だ。
永遠の平野の上の偉大な日の出だ。
あなたは時の夜の後の雞鳴、
露、朝の獵犬、また女だ、
見知らぬ男だ、母だ、死だ。
常に寂しく運命から卓出する
變轉する姿だ、
喜び迎ふるものも訴ふるものもなく、
記されることもない、野生の森のやうに。
あなたは、物ごとの深い總加だ。
その本質の最後の言葉は默つてゐる。
そして異る人には常に異つて見える。
船には岸と、陸には船と見える。
[やぶちゃん注:「雞鳴」は底本の用字である。「けいめい」で「鷄鳴(鶏鳴)」に同じい。]
せんちむし 蛣𧏙 推車客
くそむし 推丸 黑牛兒
𧏙蜋
鐡甲將軍
夜遊將軍
キヤン ラン 【和名久曽無之】
【一名末呂無之】
本綱𧏙蜋深目高鼻狀如羗胡背負黒甲狀如武士毎以
土包糞轉而成丸雄曳雌推置于坎中覆之而去數日有
小𧏙蜋出蓋孚乳于中也有大小二種大者身黒光腹翼
下有小黃子附母而飛晝伏夜出見燈光則來【以此可入用藥】其
小者身黒而暗晝飛夜伏【小者不堪藥用】狐並喜食之
𧏙蜋【鹹寒有毒五月五日採蒸藏之臨用去足火炙】手足陽明足厥陰之藥古方
治小兒驚風疳疾爲第一 治箭鏃入骨者用巴豆【微炒】
同𧏙蜋搗塗斯須痛定必微痒忍之待極痒不可忍乃
撼動拔之立出
𧏙蜋心 在腹下度取之其肉稍白是也能治丁瘡貼之
半日許再易血盡根出則癒
*
せんちむし 蛣𧏙〔(きつきやう)〕 推車客〔(すいしやかく)〕
くそむし 推丸〔(すいぐわん)〕 黑牛兒〔(こくぎゆうじ)〕
𧏙蜋
鐡甲將軍
夜遊將軍
キヤン ラン 【和名、久曽無之〔(くそむし)〕】
【一名、末呂無之〔(まろむし)〕】
「本綱」、𧏙蜋〔(きやうらう)〕は深き目、高き鼻。狀、羗胡(ゑびす)のごとく、背に黒き甲を負〔ふ〕狀〔かた〕ち、武士(もののふ)のごとし。毎〔(つね)〕に土を以つて糞を包み、轉〔(ころ)が〕して丸〔(ぐわん)〕と成して雄は曳(ひ)き、雌〔は〕、推〔(お)して〕坎〔(あな)〕の中に置き、之れを覆ひて去る。數日にして小𧏙蜋、出づ。蓋し、中に孚乳〔(ふにゆう)〕するなり。大小二種有り。大なる者、身、黒くして、光る。腹の翼下に小〔さき〕黃なる子〔(こ)〕有りて、母に附きて飛ぶ。晝、伏し、夜、出づ。燈光を見れば、則ち、來たる【此れを以つて用藥に入るべし。】。其の小なる者、身、黒くして暗し。晝、飛び、夜、伏す【小さき者、藥用に堪へず。】。狐〔(きつね)〕、並びに喜びて之れを食ふ。
𧏙蜋【鹹、寒。有毒。五月五日、採りて蒸し、之れを藏す。用ふるに臨みて、足を去り、火に炙〔(あぶ)〕る。】。手足の陽明、足の厥陰〔(けついん)〕の藥、古方に、小兒の驚風〔(きやうふう)〕・疳疾〔(かんしつ)〕を治するに第一と爲〔(す)〕。 箭鏃(やのね)、骨に入る者を治す。巴豆〔(はづ)〕を用ひ【微〔(わづ)〕かに炒〔(い)〕る】、𧏙蜋と同〔(あは)せ〕て搗〔(つ)〕きて、塗る。斯須(しばらく)して、痛み、定〔(や)む〕。必ず、微かに痒〔(かゆ)〕し。之れを忍(こら)へ、極めて痒くして忍〔(こら)〕ふべからざるを待ちて、乃ち、撼動(うご)かして之れを拔けば、立処〔(たちどころ)〕に出づ。
𧏙蜋心〔(きやうらうしん)〕 腹の下に在り。之れを度取〔(どしゆ)〕す。其の肉、稍(やや)白、是れなり。能く丁瘡〔(ちやうさう)〕を治す。之れを貼(つ)けて半日許〔(ばか)〕りにして、再び易〔(か)〕ふ。血、盡きて、根、出で、則ち、癒ゆ。
[やぶちゃん注:所謂、「スカラベ」(scarab:古代エジプト語起源)として知られる食糞性のコガネムシ類、
鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科
Scarabaeoidea 及びその近縁な科に属する昆虫の中でも主に哺乳類の糞を餌とする一群の昆虫
である。但し、真正の「スカラベ」である、
コガネムシ上科コガネムシ科ダイコクコガネ亜科 Scarabaeini 族タマオシコガネ属 Scarabaeus
の類は本邦には棲息しないから、ここでは、本邦に棲息する食糞性コガネムシの代表種であり、目にもつきやすい大きさで、鞠上の糞球を作るコガネムシ上科センチコガネ(雪隠黄金)科 Geotrupidae の三種、
センチコガネ Geotrupes laevistriatus
(成虫体長一四~二〇ミリメートル。頭部背面を覆った頭楯の前縁が半円形をしており、体色は紫・藍・金など個体変異があり、鈍い金属光沢を持つ。北海道島から屋久島・対馬まで分布し、朝鮮半島・中国大陸・樺太にも分布)
オオセンチコガネ Geotrupes auratus auratus
(成虫体長一六~二二ミリメートル。頭楯前縁が三角形に尖る。体表は一般には赤褐色・赤紫色であるが、地域によって鮮緑色・鮮藍色を有する個体もある。強い金属光沢があることで「センチコガネ」と区別出来る。分布域はセンチコガネとほぼ同じ。「ファーブル昆虫記」でファーブルが観察した種は本種の近縁種である)
オオシマセンチコガネ Geotrupes oshimanus
(体表の光沢は殆んどない。奄美大島固有種)
を種として挙げておくこととする。参照したウィキの「センチコガネ科」によれば、『成虫、幼虫共に糞を食べる糞虫である。和名の「センチ」は便所を指す語「雪隠(せっちん)」が訛ったもので、糞に集まる性質に由来する』。『成虫が出現するのは夏で、ウシやウマなどの糞、または動物の死骸や腐ったキノコにも見られる。夕方に地表付近を低く飛んで糞などの餌を探し、夜には灯火にも飛来する。ただし、センチコガネの地域個体群によっては飛翔筋が退化しており、歩行のみで移動する。交尾したメスは獣糞を土中の巣穴に引き込んでこれで育児球を作り、それに産卵する。このとき、育児球を枯葉で包むことが報告されており、この点がコガネムシ科の糞虫の育児球と異なる。孵化した幼虫は育児球を食べて成長する』(下線やぶちゃん)。『糞虫として自然界の物質循環に果たす役割は大きい。また金属光沢のある鮮やかな体色から、他の糞虫同様に昆虫採集の対象ともなっている』とある。
なお、冒頭に並ぶ「推車客」「推丸」「黑牛兒」「鐡甲將軍」「夜遊將軍」という漢名は、如何にも楽しく、腑に落ちる。
「末呂無之(まろむし)」「まろ」は「丸」で「丸いもの」を指す中古語で、室町以降に「まる」と変じた。「古事記」動詞としての排泄をするの意の「まる」はあるが、これが名詞化した糞を意味する「まり」は、芥川龍之介の「好色」辺りが初出とされているようだから、近代以降の呼称と思われる。従ってここは、「まろ」は「糞」の意味ではなく、糞を巧みに美事に「丸」く「鞠」のように転がす彼らの習性に基づく呼称と採りたい。
「羗胡(ゑびす)」教義には古代より中国西北部に住んでいる民族を指す。現在も中国の少数民族チャン族として存在しているが、ここは漢民族の顔つきとは有意に異なる、広義の異民族の謂いととってよかろう。
「雄は曳(ひ)き、雌は、推(お)して坎(あな)の中に置き、之れを覆ひて去る」私は昆虫には詳しくないので何とも言えないが、管見する限りでは、事実、糞球を作って転がすのは♂で、♀はそれに出逢って、その対象♂(或いは糞球)がよしとなれば、その糞にしがみつき、運ばれて行き、営巣して糞の下で交尾する種がある(mayayan215氏のブログ「ダラダラとムシャムシャ」の「フンコロガシの一生」に拠った)というから、かくなる共同作業にように見えたとしても、腑には落ちるというものである。
「孚乳〔(ふにゆう)〕」「孚」は「育むこと」、「乳」はこの場合、「育つこと」の意である。前で親は巣を去るとしているから、糞球の中に産み込まれた卵が孵化し、自律的に幼虫が糞を餌として食って成長することを言っている。但し、mayayan215氏の「フンコロガシの一生」には、『メスは、抗菌作用のある分泌物で卵を守り、孵化するまでの2ヶ月間、卵が腐ったり、菌に感染したりしないか、丹念に見守り、そのまま息絶えます』ともあるので、そうした♀が命をかけて育児するタイプではこれはまさに母が主体的に子を育てるの意とある。ウィキの「糞虫」にも、『成虫は糞玉を作り上げると出て行くものもあるが、ずっと付き添って糞玉の面倒を見るものもある。ファーブルの観察によると、ダイコクコガネの一種で、糞玉に付き添う成虫を取りのけると、数日のうちに糞玉はカビだらけになり、成虫を戻すとすぐにきれいにしたと』いうとある(但し、このファーブルの言及部分に就いては要文献特定詳細情報要請がかけられている)。
「大小二種有り」これは大陸の「本草綱目」の記載で、大きさや光沢の有無も有意に違い、しかも前者は夜行性、後者はそうでない点で明らかに習性が異なるので、種(亜種の可能性はある)は違うものと考えてよかろう。或いは、後者はフンコロガシでない生物種(フンコロガシの大半は夜行性である)を誤認している可能性もないとはいえない。ただ、ウィキの「糞虫」を見ると、本邦にいるタマオシコガネ亜科マメダルマコガネ族マメダルマコガネ属マメダルマコガネPanelus
parvulus がスカラベ類と同じ糞運びをすることが知られているが、体長が僅か三ミリメートルしかないので、目につかないとあるから、大きさの違いは問題にはならないし、光沢の有無も本邦種のセンチコガネ・オオセンチコガネ・オオシマセンチコガネの違いを見ても、それは同じように言える。ただ、気になるのは、「腹の翼下に小さき黃なる子(こ)有りて、母に附きて飛ぶ」という前者の奇妙な叙述で、この黄色い小さな子どもというのは、この虫の何らかの器官の一部と考えられ、さすれば、こちらの方こそ、実はフンコロガシ類とは違った種を誤認している可能性があるのかも知れぬ。昆虫守備範囲外の私には、これ以上の考察は出来ない。識者の御教授を乞うものである。
「並びに」(その違った習性を持つフンコロガシの)孰れをも。
喜びて之れを食ふ。
「五月五日、採りて蒸し」端午の節季を採取とするのは、無論、陰陽五行説などを援用して、成虫の薬効が、そこで最大最強となるとする認識があるからではあろうが、例えば本邦のセンチコガネの場合、成虫が出現するのは夏であるから(この「五月五日」は旧暦であるから夏である)、特定の日に限って採取をし、その他の時季のそれを禁ずることで、採り尽くさないようにする、伝統的本草学の、種を保存する理念の現われとも考え得る。
「藏す」保存する。
「手足の陽明」人体を巡る経絡(けいらく:ツボ)の一つ。ウィキの「手の陽明大腸経」(「経」は「けい」と読む)によれば、『大腸経に属する手を流れる陽経の経絡である。肺と大腸は共に中国の五行(木、火、土、金、水)でいうと金に属するため』、『密接な関係を持つ。また、『大腸はもとより、歯のまわりを取り囲んでいるため』、『歯痛にこの大腸経の経穴を使うこともある』とある。
「厥陰」前と同じく経絡の名。陰気進行の最終段階で、陰気が尽きて陽気が生じる意味を持つ。ウィキの「足の厥陰肝経」によれば、『肝経に属する足を流れる陰経の経絡である。肝臓と胆嚢は共に中国の五行(木、火、土、金、水)でいうと木に属するため』、『密接な関係を持つ。また、流注によると肝臓はもとより、目のまわりを取り囲んでいるため』、『目の痛みにこの肝経の経穴を使うこともある』とある。
「古方」古い漢方の処方。
「驚風」小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当する。次の「疳疾」も同類の症状を指す。
「箭鏃(やのね)」鏃(やじり)。
「巴豆(はづ)」キントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科ハズ連ハズ属ハズ Croton tiglium の実のこと。マメ科ではないので注意。実は凡そ一・五センチメートル弱の楕円形で中に三個の種子を持つ。ウィキの「ハズ」によれば、『種子から取れる油はハズ油(クロトン油)と呼ばれ、属名のついたクロトン酸のほか、オレイン酸・パルミチン酸・チグリン酸・ホルボールなどのエステルを含む。ハズ油は皮膚につくと炎症を起こす』。『巴豆は『神農本草経下品』や『金匱要略』に掲載されている漢方薬であり、強力な峻下』(しゅんげ:下剤効果の中でも強いものの様態を指す)『作用がある。走馬湯・紫円・備急円などの成分としても処方される。日本では毒薬または劇薬に指定』『されているため、通常は使用されない』とある。
「同〔(あは)せ〕て」私の推定訓読。
「斯須(しばらく)して」二字へのルビ。
「定〔(や)む〕」私の推定訓読。(痛みが)止まる。
「之れを忍(こら)へ、極めて痒くして忍〔(こら)〕ふべからざるを待ちて」これって結構、シンどそうだなぁ。
「撼動(うご)かして」二字へのルビ。揺り動かして。
「度取〔(どしゆ)〕す」私の推定読み。よく見極めて採取する。
「丁瘡〔(ちやうさう)〕」面疔(めんちょう)のこと。汗腺又は皮脂腺が化膿し、皮膚や皮下の結合組織に腫れ物を生じた症状が顔面に発症した場合を指す。
「根」腫れ物の化膿して生じた核である膿の囊(ふくろ)。]
[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年八月号『新潮』に発表された。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第六巻」を用いた。一部の語句について当該段落後にオリジナルに注を附した。]
空の下
西の低地から、煙が流れてくる。
私の庭先の、地上二米(メートル)ほどの高さを、それは淡くみだれた縞(しま)になって、ゆっくりと東へただよってゆく。縁側にすわって、とりとめもなく私はそれを眺めている。西風が吹いているんだな、などと思う。しかし目を立てて見ても、群れ立つ庭樹の梢や、地上の草花や雑草の穂が、ほとんど動いていないのは、風速がごく小さいせいだろう。ここにいる私の皮膚にも感じられない。だから煙がそこらを這っていても、煙の縞がもすこし濃くなってきたとしても、心配するほどのことはない。煙のにおいが微かに、鼻の奥を刺戟する。ものの焦(こ)げくすぶる、いがらっぽいにおいだ。そこでなにを燃しているのか、わざわざ縁側を降りて見に行かなくても、私には判っている。燃えているのは、古畳である。裏が白っぽく湿っているので、火付きが悪いのだ。昨日はよごれた座布団(ざぶとん)類だったし、一昨日は使いふるしの長火鉢であった。
一昨日の長火鉢は、古ぼけた割には頑丈な出来だったと見え、ぶっこわすのに大へん手間がかかった。沢庵石(たくわんいし)をぶつけたり、鍬(くわ)の背で叩いたりして、やっとばらばらにした。ばらばらにし終えたときは、さすがの飛松トリさんも、水から引き揚げられたゴムマリみたいに、顔じゅうを汗だらけにしていた。私はその光景を、西窓を細目にあけて、眺めていたのである。その飛松トリさんの傍では、近所の古畑ネギさんが、はらはらしたような声を出して、しきりにうろうろしていた。
「まあ、勿体(もったい)ないじゃないか。まだ使えるものを、そんなにまでしなくても」
「いいんですよ」顔の汗を手の甲で拭きながら、トリさんは邪慳(じゃけん)に言い放つ。「あたしはムシムシしてしようがないんだから」
[やぶちゃん注:「ムシムシして」不安や怒りなどで気分が晴れなくて。「ムシャクシャする」と同義。私は誰でも判る語だと思っていたが、「幻化」にこの語が出る部分を公開した際、注を附けずにおいたら、意味が判らないというメールを貰ったので、敢えてここで注しておく。]
「ムシムシするったって、ほんとにおよしよ。来年にまた、要(い)るもんじゃないかね」
トリさんは返事のかわりに、沢庵石を頭の上まで持ち上げ、地面にころがった猫板めがけて、勢いよく投げおろす。灰がバッと四散して、そこらあたりに濛々(もうもう)とたちのぼる。古畑ネギさんは袖で鼻をおおいながら、飛びはねるように後しざりする。灰のなかから呆(あき)れたような、こもった声がする。
[やぶちゃん注:「猫板」は「ねこいた」で、長火鉢の端の引き出し部分の上を蔽っている板を指す。暖かいので猫が蹲るところから、かく称する。]
「――わからずやだねえ。ほんとに。およしなさいってのに」
飛松トリさんは、三十がらみの独身女で、背丈も五尺三四寸はある。筋肉質のいい体軀をしている。灰神楽(はいかぐら)のなかを、片肌脱(ぬ)いでつっ立っているから、片方の胸の隆起がありありと見えた。そこにも汗が流れているに違いないから、やがてべたべたと灰まみれになるだろう。そのままつっぱねるように言う。
[やぶちゃん注:「五尺三四寸」百六十一~百六十四センチ弱。当時の女性の背丈としては高い。]
「だってムシムシするんだよ。仕方がないじゃないか」
毎年今ごろの季節になると、飛松トリさんはすこしずつおかしくなってくる。ふだんは無口なごくおとなしい女性だが、いつもこの若葉どきになると、気分のおさまりがつかなくなるらしく、所業も少々正常でなくなってくる。その時期が近づくと、眼の色が青みをおびてくるから大体わかるというのだが、私が確めたわけではないから、本当かどうかは判らない。いつか古畑ネギさんが、何かの話のついでに、私にそう教えて呉れたのである。
飛松トリは、その低地に建てられた細長い家の、いちばん端の部屋に住んでいる。その家の台所に接した北向きの六畳間だ。身寄りもほとんどないらしく、訪ねてくる人はあまりない。日当りのわるい六畳の部屋に、終日黙々として生活している。生活の資をどこから得ているのか、私はよく知らない。知りたい気持も、別にない。家賃の上(あが)りで生活しているのかとも想像されるが、しかしそれだけでは大変だろう。その細長い軒(のき)の低い家屋は、飛松トリの所有物なのである。私の居間の西窓をあけると、目とほとんど等高に、その細長い屋根の斜面が見える。軒庇(のきびさし)は古びて朽ちかけ、瓦も割れたり脱落したりしている。脱落した部分は、泥や黄土で補塡(ほてん)してある。よほど栄養のいい泥土をつかったと見え、いろんな草がそこに密生している。花をつけているのもある。鬼瓦の横にいま黄色い花をつけているのは、タンポポである。昨年の夏などは、どこから種がとんできたのか、ひょろひょろした向日葵(ひまわり)が一本生育し、直径三寸ほどの小さな花ゐつけ、一夏の風にゆらゆら揺れていた。今年はその跡に、小さな蕗(ふき)が三四本、ポン煎餅ほどの大きさの丸い葉を、つつましやかに拡げている。飛松トリの部屋は、大体その真下にあたる。その真下の部屋でトリさんは、この二三日来目玉を青くして、しきりにムシムシしているのである。ムシムシすると家財道具を燃したくなる気持は、私にもおぼろげながら判る。私もむかし、何度も何度も、そんな気持になったことがあるから。
[やぶちゃん注:「三寸」九センチ。]
毀(こわ)されてばらばらになった長火鉢は、古畑ネギさんの制止もふり切って、その日の夕方までにすっかり灰になってしまった。もともと長火鉢というものは、炭を燃すためのものであって、燃されるためにつくってはないから、まことに不本意な燃え方をして、灰になるまでにはなかなか時間がかかった。その跡におびただしく堆積(たいせき)した灰は、私が翌朝見たときは、そこからすっかり姿を消していた。その代り古畑一家の部屋の前の、猫の額(ひたい)ほどの庭のすみに、あたらしく灰の山がひとつできていた。いつの間にそこに移動したのか私も知らない。しかしそのうちに、古畑ネギさんが私の家に、上等の火鉢灰を売りつけに来るだろうという予感は、漠然とながら私にはある。
昨日も春にしてはむし暑い日だったので、飛松家の裏口では、古座布団や竹行李(たけこうり)などが、終日黄色い煙をあげて燃えていた。そこら中を飛び廻るようにして制止しているのは、やはり古畑ネギさんである。ネギさんとして見れば、みすみす物が燃えてしまうのは、ひとごとながら、居ても立ってもいられない気持なのだろう。その気持もいくらか判る。トリさんは前日と同じ恰好で煙のなかに佇(た)ち、衣紋竹(えもんだけ)で燃え殻をつついたり、煙にむせて烈しくせきこんだりしていた。なにしろいい体格だから、腕ずくでとめるのも容易ではなかろう。しかし私にしても、その自信は全然ないし、だいいち他人が他人のものを燃すのに、私が口を出すいわれがある筈もない。私の家に火がつかない限りは、物が燃えようと濡れようと、さしてかかわりのあることとも思えない。だからそれはそれでよろしい。ムシムシしているのは私ではなく、トリさんなのだから、トリさんの家財が燃えあがるのは、別に不自然なことではない。
[やぶちゃん注:「衣紋竹」和服を掛けておくための竹製の道具。これは無論、トリが一緒に燃やそうとしていた、トリのものである。]
今朝は早くから、私がまだ寝床にいるうちに、西窓の下手(しもて)にあたって、けたたましい声がした。鶏が鳴いているのかと、始めは思った。
「まあ、およしったら。畳まで燃すなんて、あんまり無茶過ぎるよ。およし。およしったら」
古畑ネギさんの声。そしてそれに和すように、おろおろした別の声が、
「およし遊ばせ。あら、ほんとに、およしになって。あらあら」
堀田というお内儀(かみ)さんの声である。今日は二人でとめている様子だ。トリさんの声は聞えなかった。黙々として作業に従事しているらしい。西窓からのぞいて見なくても、その情景はだいたい想像がつく。昨日おとといと、トリさんの胸のかなり見事な隆起は、見飽きるほど眺めたから、わざわざ立ってのぞいて見る嗜慾(しよく)もおこらない。その隆起を上下にゆるがせて、いよいよ古畳を引っぱり出そうとしているのだろう。昨秋の大掃除の折に見たが、あの家の畳は、裏がすっかり白っぽく黴(か)びて、しとしとと湿っていた。上をあるくとポクポクと凹(へこ)む。実はその手の畳が二枚、私の家のと入れ替わっている。大掃除のどさくさまぎれに、うまく間違えられてしまったのだ。だからそんなことまで私は知っているのだが、今トリさんが引きずり出しているのは、黴びてしめった方のやつだから、燃すのもさだめし骨が折れることだろう。そんなことを寝床でかんがえている間も、窓の外ではガヤガヤガヤと、声や音が入り乱れていたが、やがてひときわ甲高(かんだか)く、
「あなた。あなた!」
と叫ぶネギさんの声がした。手に負えずと見て、亭主を呼ぶ気になったらしい。しかしその返事は戻ってこなかったようである。ネギさんの亭主古畑大八郎は、生憎(あいにく)とその近くに居合わせなかったのか、あるいはまた、かかわっては損だとして、見て見ぬふりをしたのかも知れない。古畑大八郎という老人は、そういう性格の男なのである。私はこの老人に、千三百円ほどの貸金がある。
古畑夫妻は、この家の反対の端、道路に近い二部屋を占拠して住んでいる。二部屋といっても、一部屋はこの家の玄関である。飛松トリと古畑夫妻の中間の部屋には、さっきの堀田一族が居住している。つまりこの細長い家のなかには、三世帯が一列横隊にならび、それぞれの生活を営んでいるのである。家主はもちろん飛松トリさんであるが、彼女があとの二世帯に、いくらの家賃で部屋を貸しているのか、その家賃もきちんきちんと支払われているかどうか、私はよく知らない。しかし近所の噂では、ほとんど支払われていないという話だ。堀田家はそれでも、二三箇月に一度くらいは金を入れるらしいが、古畑家にいたっては、一文(もん)だに入れたことがないということである。噂だから当てにならないが、事実そういうことになっているかも知れない、とも思う。ふだんの飛松トリさんは、いい体格をしているくせに、気が弱くて無口で、あまり催促などができる人柄ではないようである。そこにつけこめば、家賃を踏み倒すのもむつかしいことではなかろう。いつだったか古畑老人がトリさんにむかって、こう怒鳴りつけているのを聞いたことがある。
「ぐずぐず言うなら、早速この家を出て行ってもらおう。あんたが居なくても、別段うちは困りやしないんだから」
家主がいなくても店子(たなこ)は困らないだろうけれども、この古畑大八郎の言い方は、世間の通念とはすこし逆のようであった。もっとも老人にして見れば、とっさの感想を、率直明快に表現したのかも知れない。
堀田一族はおおむね、子供から成り立っている。子供は何人いるのか判らない。皆同じような顔をしているので、ほとんど区別がつかない。四五人のようでもあるし、七八人のようでもある。じつとかたまっておれば数えられるだろうが、この子供たちはしょっちゅう動き廻っているので、正確な数はとらえがたい。朝から晩までそこら中をかけ廻っている。私の家の庭をも平気でかけ抜ける。庭というほどのものでなく、方六七間の空地にすぎないが、ぐるりを囲っていた竹垣が今はすっかり朽ち果てたので、誰でも自由に通り抜けられるのだ。もともと貧居人工に乏しく、雑草や灌木(かんぼく)が宅をおおっているだけだから、その灌木類を縫って、子供たちは騒然とわめき走る。しかしこれら子供たちも、この界隈(かいわい)のある一箇所だけは、はばかって近寄ろうとしない。それは古畑家の庭だ。古畑家と言っても、彼はほんとは間借人だから、特定の庭をもつ筈はないのだが、何時からか自分の部屋の前をキチンと竹垣で囲って、強引(ごういん)に他人の侵入をはばんでいる。空地は部屋に属しているという見解なのであろう。しかしその竹垣は、年々歳々、すこしずつ拡がってゆく傾向がある。その垣根はキチンと四角に仕切られてはいず、不規則な円形をなしているが、しかしそれがいっぺんにふくれ拡がってゆく訳ではない。タンコブのように、あちらがふくれたかと思うと、今度はこちらがふくれるという具合に、少しずつ版図(はんと)を拡げてゆくのである。いつ竹垣をうえかえるのか知らないが、昨年の今頃あたりから見ると、すでに古畑家の庭の面積は、約二倍に膨脹(ぼうちょう)したようである。その庭の手入れは、もっぱら古畑大八郎がやる。ほとんど一日の大半、彼はそれにかかり切っている。だから私の家の庭と違って、完全に手入れが行き届き、徹底的に整備してある。雑草などは一本も生えていない。丹念に育てられた花卉(かき)のたぐいが、いつもあざやかに季節の色を点じている。大八郎は一日のうち何度もここに降りてきて、花に水をやったり、肩をそびやかせてうろうろ見廻ったりするのである。
[やぶちゃん注:「方六七間」凡そ十一~十三メートル弱四方。]
古畑大八郎は六十がらみの、骨張った感じの老人だが、まだ腰はしゃんと伸びている。ネギさんとの間には、子供は一人もない。ただ二人きりで暮らしている。うまく民生委員にとり入って、生活保護法を受けているという話だが、その他の収入としては、ネギさんがちょこまかと動いて、物資を右から左へ流したり、そこらのものをチョロまかしたりして、さまざまの利得がある様子だ。私の家の畳を大掃除の折、二枚もチョロまかしたのは、この古畑一家だとは断定できないけれども、道路から見える古畑家の部屋の畳が、二枚だけ周囲と別の色をしているのは、事実である。道を通るときにそこをのぞき込んだりすると、古畑老人はとたんにとがめるような眼付きになって、私をにらみつける。老人の眼は四角な感じの隈で、ちょっとトーチカの銃眼に似ている。この眼でにらみつけるから、堀田家の子供たちといえども、容易に近寄らないのである。その四角な眼の奥で、この老人がなにを感じ、なにを考えているかは、私にもよく判らない。私と関係のないことだから、それほど判りたいとも思わない。しかしその網膜にうつる私自身の姿は、ある感じをもって、私にうすうすと想像できる。私はこの老人と、昨年までほとんど口を利(き)いたことがなかった。口を利くほどの用事がなかったからだ。ネギさんとは時々口を利く。ネギさんが私の家にいろんな物を売りつけに来るからである。使い残しの汲取券だとか、代用石鹼だとか、そんなこまごまとしたものを持ってくる。いつかは一番(ひとつが)いの小鳥を持って売りにきたこともあった。私の庭に無断でそっとカスミ網を張り、それで捕獲したものである。その他椎茸(しいたけ)。これもたしかに私の庭で栽培(さいばい)したもの。私が庭を放ってかえり見ないから、雑草のカーテンのむこうを、古畑一家は盛んに利用しているらしい気配がある。この間偶然踏みこんで見たら、小規模ながら畠ができていたのには、私もすこしおどろいた。しかしそれならそれで、私はかまわない。雑草の代りに三ツ葉が生えるだけだから、庭の眺めとしては、それほどプラスでもマイナスでもない。そういう気がする。その三ツ葉を束(たば)ねて、ネギさんは時々私に売りにくる。採り立てで新鮮だから、滋養分も豊富だというのである。ネギさんの言うことは、平生(へいぜい)あまり信用できないが、これが採り立てであることだけは、私も確実に信用する。なにしろ古畑家の荘園に、今しがたまで生えていたものに違いないから。新鮮であるからには、値段もなかなか安くない。金がないとことわっても、代はいつでもいいからと、ネギさんは無理矢理に置いてゆく。ツケがきくほど、私は信用されているらしい。古畑大八郎氏が私に金を借りにきたのも、そういうネギさんの信用と、いくらか関連があるのかも知れないと思う。
[やぶちゃん注:「汲取券」例えば、東京都では昭和四四(一九六九)年三月まで屎尿)しにょう)の汲み取りは有料で、手数料の徴収には「汲取券」が使われていた。「東京都清掃事業百年史」(PDF)に拠った。そこには昭和三十年代の屎尿汲取券の取扱店の写真も出る。私(昭和三十二年生まれ)には残念なことに記憶がない。
「代用石鹼」苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)を主成分とする粘土の一種白土(はくど)などから製せられた石鹸の代用品であろう。粗悪なものでは油脂成分を全く持たないものもあったようである。]
それは今年の始めの、ある寒い日であった。古畑老人はどてらの着流しで、ふところ手のまま、ぬっと私の庭に入ってきた。古畑老人は心臓がわるいという話で、そのせいか皮膚は土色をしている。頭には黒灰色の髪がまばらに生えている。冬景色のなかに立たせて、これほどぴったりした人態(にんてい)は、他にあまり見当らないように思う。荒れ果てた私の庭の眺めも、中心点を得て、にわかに引き立つ感じであった。やがてその中心点が、しずかに口を開いた。金をすこしばかり融通(ゆうずう)して欲しいと言うのである。
「今はありません」と私は率直にことわった。実際に余分の金は私になかった筈だから。
「今はなければ、何時ありますか?」老人は低い含み声で、押しつけるように反問した。ブリキの貯金箱の差入口のようなれいの四角な眼が、まばたきもせず、じつと私の表情を凝視している。
その時どういう返事をしたのか、私はよく記憶していない。いい加減に話のつじつまを合わせて、私に現在は金がないことを納得(なっとく)させ、帰ってもらったのだろうと思う。いずれそのうちに、などと口を、辷(すべ)らせたかも知れない。そこらのやりとりは、どうもあやふやである。とにかく老人は、肩をそびやかすようにして、その日は得るところなく帰って行った。なにか無形のものは得たかは知れないが、実際の金は私から借り出せなかった。古畑大八郎とまとまった会話をしたのは、この日が始めてである。
一週間か十日か経った。私が銭湯のなかで、向いの川島さんと顔を合わせた。すると川島さんがすぐさま私に言った。
「古畑さんに金を貸すんだそうですね」
「なぜです?」と私は反問した。
「あなたから借りるあてがあるから、それまでに少し融通して呉れと、あの爺さんが言ってきましたよ」
「それで、貸したんですか?」
「ええ。二百円ばかり」川島さんは湯気の間から、照れたような、また憫(あわ)れむような笑い顔を、私の方にちらとむけた。そして言った。
「あのお爺さんと口をかわしたのは、これが始めてですよ。いつもツンとしててね」
「そう言えばそんな感じですね」
「二百円ほどでいいと言うんでしょう。貸さなきゃ悪いような気になってね」
それと同じようなことが、ほかにもあった。裏の秋野さんがやってきて、私に同様のことを言った。
「君。古畑に金を貸すんだってね」
それと同じ質問を、角の煙草屋のおかみさんからも受けたし、汲取屋の若者からも受けた。その若者は、私から汲取券をうけとりながら、小声でささやくように言った。
「あなた、古畑さんに融通して呉れるんでしょうね。ほんとでしょうね」
海岸の波打際にはだしで立っていると、波が足裏のへりの砂をすこしずつ持って行く。あれに似てくすぐったいような、快(こころ)よいような、忌々(いまいま)しいような感じが、私の全身にぼんやりと感じられた。どうも私の意思とは関係なく、なにかがしきりに進行しているらしい。私はその若者に訊(たず)ねてみた。
「それでいくら貸したんだね?」
「ええ。百二十円。そのほかに汲取代の貸しが、八荷分だったかな。まとめて払うと言ってね、なかなか払って呉れねえんですよ」
そんな風にして、古畑老人があちこちから借り集めた金は、私の集計ではざっと七八百円にのぼった。どうして古畑にそんな金が必要なのか、私にはよく判らなかった。するとある日、堀田のお内儀(かみ)さんがやってきた。あの子沢山のお内儀である。もっとも亭主はいないのだから、お内儀さんというより、未亡人というべきだろう。その色の黒いくたびれた顔の未亡人は、縁側に腰をおろして、怨(えん)ずるような声で私に言った。
「ほんとに困るんでございますのよ。あたしは夜なべをやっておりますでしょう。ですからねえ」
「そうでしょうねえ」
どんな夜なべをやっているのか、それでどうして困るのか、わけも判らないまま、私はとりあえず相槌(あいづち)を打った。古畑のこととなにか関係があるらしい。そういう予感が私にあった。なんだかひどく身体がだるいような気分である。未亡人はその私の顔を、チラと横目で見た。
「あなたはわらってらっしゃいますけれど、笑いごとではございませんのよ」未亡人は私の方に、ぐいと上半身を乗り出すようにした。「早くどうにかしていただかなくては、口が乾上(ひあが)ってしまいますわ。ご存じかも知れませんが、子供もたくさんおりますし――」
「ええ。しよつちゅうこの庭に、打連れて遊びにいらっしゃいますよ」
「そうでしょ」と未亡人は勢いこんだ声を出した。「あの子供たちが、夜中にオシッコをしたくなるでしょう。そうするとね、柱や壁に、頭や顔をぶっつけて、コブだらけなんでございますのよ。多いのは七つもコブをつくっておりましてね。近所からコブ大臣という綽名をつけられたりして――」
「どうしてそんなに、ぶっつかるのです?」
「あら。そりやぶつかりますわ。あたしだって、時にはぶつかるんですもの」
「だって柱や壁のあり場所は、ちゃんときまっているんでしょう」と私はいぶかしく訊ねた。「それともお宅の柱は、動いたりするのですか?」
「動く柱なんてありますか」未亡人の顔に急に赤味がさして、すこし荒い声になった。「電気ですよ。よくご存じのくせに」
「はあ。電気がどうかしたんですか?」
「切られたんですよ!」癪(しゃく)にさわってたまらない表情で、未亡人は舌打ちをした。「だから夜はまっくらですよ。ほんとにほんとに、しようがない」
電燈が止められたということが、やっとはっきり判った。そして未亡人の話によると、止められて一ヵ月近くになるそうである。そう言えばこの頃西の窓に、夜になっても燈影がささないと思った。しかしそのことが、私とどんな関係があるのか、まだ私にはよく判らなかった。すると堀田未亡人は、睨むような、また流眄(ながしめ)みたいな眼付きになって、教えるような口調で言った。
「だってあなたは、古畑さんにお金を融通するって、そう約束なさったんでしょ。あたしと飛松さんの分は、もうまとめて、古畑さんにお渡ししてあるんですよ」
電気代の滞納を三等分して、二世帯分はすでに調達でき、あとは古畑家の分だけだと言うのだ。そして未亡人が催促すると、古畑大八郎の言い分は、私から金を融通受けしだい直ちにまとめて配電会社に支払うというのである。私は少しばかりは驚く気持にもなった。あの寒い日、そんな約束はしなかったように思うけれども、言葉のやりとりの中から、あるいは古畑老人は自分に都合のいい言葉を見付けて、いずれ借りられるものと解釈したのかも知れない。それが古畑老人の誤解であるとしても、未亡人の話では、事態はすでに遅すぎるようであった。私が意識しない間に、私が金を借り出される条件はすべてととのい、たくさんの人がその日を待ちくたびれている気配である。状況がこうであれば、私としてはどうしたらいいだろう。私は少しおどろき、また少しがっかりして、最後におそるおそる訊ねてみた。
「それであなたは、その催促にいらっしゃった訳ですね」
「ええ。古畑さんが、貴方の様子を見てこいと、そうおっしゃいましたのでね、こうしてお伺いしたんでございますのよ」
それから未亡人が戻って行って、古畑大八郎にどんな報告をしたのか、よく判らないけれども、翌朝老人自らがやってきて、千三百円という大金を、私は簡単に借りられてしまったのである。ふだんの私ならば貸す筈はないのであるが、ずいぶん手のこんだ工作に眩惑(げんわく)されて、ついうかうかと手渡してしまった。いつ戻して呉れるかということを、確める余裕すらなかった。その朝古畑老人は、私が寝ているうちに庭に入ってきて、あわてて起き直ろうとする私にむかって、単刀直入に口を切ったのである。
「千三百円ほど、貸していただきたい」
貸していただきたい、と言ったのか、貸していただく、と言ったのか、はっきりしなかった。後者だったかも知れない。低い含み声だったけれども、それは自信に満ち満ちた高圧的な口調であった。そして私からその金額を受取ると、ことさらムッとした不機嫌な表情をつくり、くるりと背をむけて、さも忙しげにトットッと帰って行った。今考えるとその態度は、私に余計な質問を封じる魂胆(こんたん)からだったとも思われる。
その夜、私が西窓を細目にあけてのぞくと、細長い家の各部屋部屋に、黄色い電燈がともり、その下で集って食事している堀田家族や、寝そべって新聞を読んでいる古畑夫妻の姿などが望見された。ガラス障子を透かした燈の光が、古畑家の小庭の草花の色までも、ぼんやりと浮き上らせていたのである。それを見たとき、うまくしてやられたという感じが、始めて私をほのぼのと包んできた。巧妙にしつらえられた据膳(すえぜん)を、前後を見定めもせず、私はうっかりと食べてしまったらしい。電燈がついたからには、滞納金はおさめたに違いないが、私の名において借り集めた金を、川島や秋野や汲取屋などに返済したかどうかは、私は知らない。今もって知らないのである。
今この縁側から、トリさんが燃す畳の煙のむこう、私の庭から一段低くなった古畑の小庭に、古畑大八郎の姿が見える。私の眠から横向きにしゃがんで、指先で草の花を愛撫している様子である。古畑家の庭は、いま三色菫(さんしょくすみれ)が真盛りである。自や紫や黄色の花々が、二列縦隊にならんで咲きほこっている。その花片の模様は、ちょっと人間の顔に似ている。顔をしかめた小人(こびと)らが、ずらずらと並んでいるように見える。古畑老人の骨張った指が、その小人らの顔を、ひとつずつ丹念に触っている。そして老人の無表情な四角な眼が、舐(な)めるようにそこに動いている。あの老人の眼からすれば、この三色董の顔の方が、人間の顔よりも、もっと人間らしく見えるのかも知れない。ことに私の顔などは、どうも顔の中に入っていないのではないか、とも思われる節がある。あれから二ヵ月も経つのに、古畑大八郎は未だに私に、全然金を戻して呉れないのである。
あれから一月ほど経って、古畑の方から何も連結がないものだから、どうも放って置けないような気持になって、私は古畑家をおとずれた。ものごとを放って置けないような気持になることが、怠惰(たいだ)な私にも、時にはあるのである。古畑大八郎は部屋の中にいた。れいの二枚だけすり切れていない畳の上に、大あぐらをかいて、皿から南京豆をポリポリと食べていた。私の顔を見ても、皿を片付けようともせず、しきりに南京豆を口に運んでいる。ネギさんは縁側で、亭主に背をむけて、針仕事か何かをしていた。同じ部屋にいるくせに、この夫とその妻の間には、通い合うものが微塵(みじん)もないような、そんなへンテコな印象が第一にきた。丁度(ちょうど)動物園の檻(おり)のなかで二匹の獣がそれぞれそっぽを向いて、勝手気ままにうずくまっている、そんな感じにそっくりであった。私が庭に入って行っても、二人ともちらと私を見ただけで、あとは相変らず自分の作業に没頭している。
「古畑さん」と私は呼びかけた。もちろん大八郎に向ってである。「せんだって御用立てしたお金のことで、今日はお伺いしたのですが――」
大八郎は顔を上げ、四角な眼をぐっと見開いて、私を見た。その手は相変らず規則正しく動いて、南京豆をつまみ上げている。豆を嚙むのに忙がしいのか、返事すらしない。
「――もうそろそろ、あれから、一ヵ月近くになりますし、私も近頃手もとが不如意(ふにょい)になってきたんですが――」
カラッポみたいな感じのする眼窩(がんか)を、ひたと私に固定させて、大八郎は黙りこくって豆を食べている。向うが何ともしゃべらないから、とぎれとぎれでも、私がしゃべらなくてはならない。力こぶが入るような入らないような、妙な気持になりながら、私はあやふやに言葉をつづけた。
「――そういう事情ですから、一応のきまりをここでつけていただきたいと、実はそう思いまして……」
そっぽ向いて針仕事していたネギさんが、その時突然アアッと大あくびをして、そそくさと立ち上り、便所の方へ消えて行った。大八郎は依然として豆を嚙みながら、四角な眼でじっと私を見据(す)えている。とたんに何かが見る見る萎縮(いしゅく)して、催促する気分がすっかりこわれてしまった。それでその日は、そのまま空(むな)しく帰ってきた。とぼとぼと帰りながら私は、その大八郎のとった方策が、『睨(にら)み返し』という手であることに、卒然として思い当った。こういう撃退方法を、私はいつか寄席(よせ)で聞いたことがある。しかしこのような方法は、落語の世界にあるだけだと思っていたが、現実にあり得るとは全く知らなかった。妙な可笑(おか)しさが私をさそった。睨み返された自分自身をも含めて、隠微な笑いが私の下腹をしばらく痙攣(けいれん)させた。あの芸を見るのに、一回分百円ずつ出すとすれば、あと十二回は催促に行かねばなるまい。百円ぐらいの価値はあるだろう。そうすれば週に一回行くとして、あと三ヵ月はかかる計算になる。それまでにひょっとすると、大八郎が根負けしてしまうかも知れないが、それならばまた、それでもよろしい。
その日から一週間日ごとに、私は規則正しく古畑家をおとずれ、規則正しく睨み返されて戻ってくるのである。大八郎は部屋にいることもあるし、庭に出ていることもあるし、縁側に腰をかけているときもあるが、私に相対して、口を利かないと言う点では、いつも同じである。失語症にかかりでもしたかのように、私の顔をまじまじと見詰めているだけだ。一応の芸ではあるが、芸がないと言えば、そうも言えるかも知れない。ネギさんは相変らず、こまごましたものをたずさえて、私の家に売り込みにくる。私の要不要にかかわらず、物さえあれば一応は、私に持ちこんでくる習慣のようである。この間などは、どこから手に入れたか知らないが、上等皮製の犬の頸輪(くびわ)を売りつけに来たことがあった。飼犬もいない私の家に売りつけて、どうしようと言うのだろう。彼女はよごれをふせぐために、いつも白い布片を着物の襟(えり)にかけている。髪を引詰めて結(ゆ)っているので、眼尻がすこし上に引きつれている。ネギさんの眼は、亭主のそれと異って、丸い眼である。その眼をしきりにパチパチさせて、ぼそぼそと言葉を並べ、是が非でも私に買わせようとする。大八郎と私との金のいきさつには、彼女は全然素知らぬふりをしている。ふりではなく、実際に関係がないのかも知れない。夫婦は車輪のようだと言うが、古畑夫妻はこわれ果てた荷車のように、双の車輪は別別の方角を向いて、別々の廻り方をしているようだ。げんに今も、草花を愛撫する老人のそばで、ネギさんはれいの長火鉢の灰を、せっせとふるいにかけている。お互いに背をむけ合ったままである。話し合う気配すら全然ない。しかしそこに、隔絶した平安とでも言ったようなものが、うすうすとただよっている。むし暑くどろりと濁った春の午後の空の下で、それらは動かなければ、材木か石のように見えるだろう。そして向うから眺めれば、きっとこの私もそのように見えるのだろう。煙がまだ雑草灌木の上を、淡く縞(しま)になってゆるゆると棚引(たなび)いている。あの古畳も、すっかり燃え切るまでには、夕方までかかるかも知れない。
[やぶちゃん注:太字「ふり」は底本では傍点「ヽ」。]
[やぶちゃん注:初出誌未詳。単行本「馬のあくび」(昭和三二(一九五七)年一月現代社刊)に収録されている童話。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第三巻」を用いた。この幼年期へのオマージュは極めてリアルで、そうして、切ない。]
クマゼミとタマゴ
次郎はセミ取り竿をななめにかまえ、庭を横切って、忍び足でニワトリ小屋に近づきました。ニワトリ小屋の入口の柱に、大きなクマゼミがとまっているのです。
クマゼミというセミを、皆さん知っていますか。セミの中でも一番大きい、ワシワシワシと鳴く、あのセミのことです。そのクマゼミが一匹、柱にとりついて、胴体や尻をふるわせながら、今やワシワシワシと鳴き立てていました。
金網にかこまれた、ニワトリ小屋の中で、オンドリが首を立てて、ゆうゆうと歩いていました。メンドリは巣箱の中に坐って、じつとしていましたが、ふっと顔を上げて、低い声でコココと鳴きました。やっと卵を産みおとしたらしいのです。
オンドリはハッとしたように、メンドリの方を見ました。そしてあわてて咽喉(のど)を張って、
「コケッコココ、ケッココ、ケッコココ」
と騒ぎ立てました。その声を聞いて、クマゼミはふいに鳴き止みました。
次郎はとたんに腹が立ちました。オンドリの騒ぎを聞いて、セミが用心をしたらしいからです。せっかくつかまえようとするのに、用心されては、取りにがすおそれがある。
次郎はパッと柱のクマゼミに竿を近づけました。とたんにセミは、ジイッと言うような声を残して、すばやくむこうに飛んでゆきました。
「しまった!」
と次郎は思わず叫びました。取りにがしてみると、あのセミは今までにない大きなセミだったような気がして、じだんだを踏みながら、竿で金網をたたきました。
オンドリはそれにもかまわず、
「ケッココ、ケッココ」
と騒いでいます。巣箱からメンドリがごそごそと出て来ました。
まっしろな卵がひとつ、巣箱のわらの上に乗っていました。次郎はそれを見て、足踏みをやめました。
「ははあ。卵を産んだんだな」
ニワトリが卵を産んだとお母さんに知らせようか、それとも小屋に入って卵をとり、お母さんのところへ持って行こうかと、次郎はちょっと迷いました。なぜなら、次郎はいつもお母さんから、ひとりでニワトリ小屋に入ってはいけないと、くれぐれも言われていたからです。
「しかし、卵をとるために入るんだから」
と次郎は思いました。
「いたずらで入るんじゃないから、叱られはしないだろう」
次郎はセミ取り竿を投げ捨て、金網戸を押して、そっと中に入りました。
するとオンドリは急に鳴き止んで、すこし羽根をふくらませて、じろりと次郎を見ました。なんだか怒っているようなのです。
「トトトトト」
ちょっと気味が悪くなってきたものですから、次郎はそう言いました。なだめるつもりなのです。
「トトトト」
そう言いながら、次郎はそろそろと巣箱に近づきました。オンドリも黙って、次郎のあとをくっついて来ます。その時、メンドリの方は小屋のすみで、クククと鳴きました。
次郎は用心しながら腰を曲げて、巣箱の卵をぐいとつかみました。すべすべした、まだあたたかい卵です。
その瞬間、オンドリはすこし飛び上るようにして、それと同時にかたいクチバシで、次郎の手の甲をコツンとつつきました。その痛さったら、思わず声を立てるほどでした。
次郎はしかし歯を食いしばって、入口の方に歩きました。するとオンドリは追いすがって、今度は次郎の足首をコツンとつつきました。
「痛いッ」
大急ぎで戸の外に出ると、次郎は卵を握りしめたまま、母屋(おもや)の方に一所懸命にかけ出しました。涙が出かかり、泣き声が咽喉(のど)から出そうになるのを、必死にこらえて、次郎は走りました。母屋までが、いつもより三倍も四倍も遠く感じられました。
そして台所にかけこんで、お母さんの顔を見た瞬間、次郎はこらえにこらえていた涙を滝のように流し、大声で泣きわめきました。泣いても泣いても、涙はあとからあとからあふれ出ました。
――それから三十年たちます。次郎はすっかり大人になって、元気に働いていますが、夏になると、時々三十年前のその日のことを思い出します。卵を握りしめて庭を走った幼ない自分の姿を思うと、今でもなにか胸が苦しくなってくるのです。
(誰が私に言ひ得る。)
リルケ 茅野蕭々譯
誰が私に言ひ得る。
何處に私の生が行きつくかを。
私も亦た嵐の中に過ぎゆき、
波として池に棲むのではないか。
また私は未だ春に蒼白く凍つてゐる
白樺ではないのか。
(お前は人生を理解してはならない。)
リルケ 茅野蕭々譯
お前は人生を理解してはならない。
すると人生は祭のやうになる。
丁度子供が進みながら
あらゆる風から
澤山の花を贈つて貰ふやうに、
每日そのやうにさせるのだ
その花を集めて、貯へる
そんなことを子供は思はない。
花が捕はれてゐたがつた
髮から輕くそれを拂つて
子供は愛らしい若い年々に
新しい花を求めて兩手を差出す。
(幾度か深い夜に、)
リルケ 茅野蕭々譯
幾度か深い夜に、
風は小兒のやうに眼を覺まして、
並木路をひとり
かすかに、かすかに村に入る。
池の邊まで探り寄つて、
風はあたりに耳を傾ける。
家々は皆な蒼ざめ、
樫の木は默してゐる……
ピアノの練習
リルケ 茅野蕭々譯
夏は唸り、午後は疲れさす。
彼女は思ひ亂れて新鮮な著物の香をかぎ、
漂ふエチュウドに現實を求める
やるせなさを込めた。
現實は明日にも、その夜にも來るかもしれなかつた。
恐らくは來たのを人が隱したのかも知れない。
そして高い、すべてを持つ窗の前に
彼女は急に氣隨な庭苑を感じた。
其處で止めて、外を見た、
手を組んだ。長い書物が欲しくなつた。
そして急に怒つてヤスミンの匂を
押返した。それが彼女を傷けたことを知つたのだ。
[やぶちゃん注:「エチュウド」原文“Etüde”。フランス語由来の綴り。言わずもがな、練習曲の意。
「氣隨」「きずい」。自分の思いのままに振る舞うこと。好き勝手。「気儘(きまま)」と同義。
「ヤスミンの匂」原文は“Jasmingeruch”。「ジャスミンの匂(にほ)ひ」。シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ(素馨)属 Jasminum
の総称。]
(深夜に私はお前を掘る。寶よ。)
リルケ 茅野蕭々譯
深夜に私はお前を掘る。寶よ。
私が見た總べての盈溢も、
まだ來ないお前の美に比べると、
貧しくまた見すぼらしい補足だ。
しかしお前にゆく路は恐しく遠く、
久しく通つた者もないので埋れてゐる。
ああお前は寂しい。お前こそ寂寥だ、
ああ遠い谷へゆく心よ。
掘るために血が出る兩手を
私は風の中に開きかかげる、
樹のやうに枝を出せよと。
私はその手でお前を空間から飮む、
丁度氣短かな身振をして
お前が彼處に碎け散つたかのやうに、
さうして今は塵のやうに碎けた世界が
遠い星からまた地の上に、
春雨の降るやうに軟く落ちるかのやうに。
[やぶちゃん注:底本校注によれば、二箇所の「掘る」は「リルケ詩抄」では「堀る」となっているのを「リルケ詩集」では訂してあるのに従ったとある。されば、ここは底本に従った。
「盈溢」「えいいつ」と読む。物事が満ちあふれるさまを謂う。
「彼處」「あそこ」と訓じておく。]
薔薇の内部
リルケ 茅野蕭々譯
何處にこの内部に叶ふ
外部がある。どんな痛みを
人はかういふ麻布で蔽ふのか。
なんといふ天が此中に映ずるのだ。
これ等の開いた薔薇の、
憂のない花の
内海に。見よ、
彼等がゆるやかの中の緩かに
橫つてゐるさまを、慄へる手が
彼等を散りこぼすことも出來ぬやうに。
彼等は殆ど自分をも保てない。
多くの花は溢れさせ、
内部から流れ越え、
いよいよ充ちてゆく
日の中へこぼれ入る。
全き夏が一つの部屋になるまで、
夢の中の一つの部屋に。
[やぶちゃん注:「橫つて」「よこたはつて」。]
(高臺にはなほ日ざしがある。)
リルケ 茅野蕭々譯
高臺にはなほ日ざしがある。
それで私は新しい喜悦を感ずる。
今若し私が夕ぐれの中を摑めたら、
私は凡ての街に黃金を
私の靜けさから蒔くことが出來るだらう。
私は今世の中から遠く離れ、
その晩い輝きで、
私の嚴肅な孤獨に笹緣をつける。
あだかも今誰かが
私が恥ぢない程にやさしく、
そつと私の名を奪ふやうだ。
それから私は最う名が要らないのを知つてゐる。
[やぶちゃん注:第二連三行目の「笹緣」は「ささべり」で、衣服の縁や、袋物や茣蓙などの縁(へり)の部分を補強や装飾の目的から、布や扁平な組紐などで細く縁取(ふちど)ったものを指す。「私の生家」に既出既注。]
盲ひつつある女
リルケ 茅野蕭々譯
その女(ひと)は他の人々のやうにお茶に坐つてゐた。
私には何だか其女が茶椀を
他人とは少し違つて持つやうに思へた。
一度ほほ笑むだ。痛ましい程に。
終に人々が立上つて話をし、
偶然ではあつたが、徐ろに多くの部屋を
通つて行つた時、(人々は話した、笑つた、)
私はその女を見た。その女は他の人々の後をついて來た。
直ぐ歌はなくてはならない人のやうに、
しかも、大勢の前で、控目に、
喜んでゐるその明るい眼の上には、
池の面へのやうに外からの光があつた。
その女は靜に從(つい)て來た。長くかかつた。
何かをなほ越さなかつたやうに、
しかし、越した後は、もう
步かずに飛翔するだらうと思ふやうに。
秋
リルケ 茅野蕭々譯
葉が落ちる、遠くからのやうに落ちる、
大空の遠い園が枯れるやうに
物を否定する身振で落ちる。
さうして重い地は夜々に
あらゆる星の中から寂寥へ落ちる。
我々はすべて落ちる。この手も落ちる。
他を御覽。總てに落下がある。
しかし一人ゐる、この落下を
限なくやさしく兩手で支へる者が。
追憶
リルケ 茅野蕭々譯
そして私は待つてゐた、待ちまうけてゐた。
私の生命を無限に增す一事を。
力あるもの普通(なみ)ならぬものを、
石の眼ざめるのを、
私に向いている深いものを。
書架にある金や褐色の
書籍は薄明になつて來る。
私は通り過ぎた國々や、
多くの光景や、再び失つた
女たちの衣裳のことを考へる。
その時私は突然知る、これだつたと。
私は立上る。私の前には
過ぎ去つた一年の
怖と、姿と、祈禱とが訴へてゐる。
[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年二月号『群像』初出。なお、梅崎春生には実体験に基づく奇体なトラブルをも記した随筆「モデル小説」がある(リンク先は私の注附きの電子テクスト)。未読の方は、どうぞ。また、私は以前にも梅崎春生の注で述べたが、阿倍公房の小説は「赤い繭」を除いて、一度として面白いと思ったことがないのだが、この梅崎春生の「モデル」は遙かにシュールで確実に面白いと思っている。]
モデル
初めに封書がやって来た。開封したが、身に覚えのないことが書いてあるので、黙殺した。破って捨てた。一週間ぐらい経つと、ハガキが来た。なぜ返事を呉れないかと言う詰問である。返答しようにも、返答しようがないから、これも放って置いた。五日目に電話がかかって来た。
「一体どうして返事を呉れないのです?」
電話口に出たのが私だと確めると、その声は言った。へんにきんきん響くような、いくらか女性的な声だ。
「あの小説のおかげで、うちはたいへん迷惑しているんですよ」
「そんなことを言ったって」
私はうんざりした気分で抗弁した。
「僕は君に一面識もないし、したがって小説のモデルにするわけがない。それは言いがかりと言うもんですよ」
「言いがかり?」
見知らぬ男の声は激した。
「そんなしらじらしいことが、よく言えたもんですね。あくまでしらを切ると言うのなら、こちらにも覚悟がありますよ」
いくら覚悟があると言っても、こちらにはあくまで覚えがないのだから、どうしようもない。少々精神に異状があるのではないか。そう思ったから、いい加減にあしらって、電話を切った。切ったあと、あまり後味が良くなかった。もしかすると何かたくらんでいるのかも知れない。その疑念が私を重苦しくした。
その翌日、当人が直接やって来た。家人が持って来た名刺に『小久保太郎』とあるので、あの手紙の差出人だとすぐに知れた。名刺に肩書はついていない。姓名と住所だけである。だからどんな職業か判らない。しばらく名刺を眺めながら、書斎に上げようか、それとも玄関で追い返そうかと思案したが、あのしつこさから見て玄関で帰るような男でもなさそうなので、結局上げることにした。背の丈は五尺五寸ぐらいの、眼のぎょろりとした四十前後の男が、すり足のような恰好をして、しずしずと書斎に入って来た。くたびれたコールテンのズボンなんかをはいて身なりはあまり良くない。[やぶちゃん注:「五尺五寸」一六六・六センチメートル。後で「背は私とおっつかっつで」とあるが、事実、梅崎春生は背が高かった。]
「初めまして――」
おれは礼儀がいいんだぞ、育ちがいいから、怒っている時でも礼は失わないんだぞ、と言ったようなやり方で、彼は机の向うに坐って、ふかぶかと頭を下げた。電話と同じくきんきん声である。
「いや。こちらこそ」
私も頭を下げながら、油断なく上眼を使って、相手を観察する。背は私とおっつかっつで、眼付きはぎろりとしているが、体格の方はあまり良くない。腕も細そうだし、胴休もくにゃりとして、何だか泥鰌(どじょう)に似ている。あんまり強そうでないから、私も安心して強気に出た。
「この間から、電話や手紙で、変な言いがかりをつけて来るようだが、こちらは迷惑だよ。一体今日はどういう用件なんです?」
「用件? 用件は判ってるでしょう」
気押されたように眼をぱちぱちさせたが、すぐに立ち直った。
「ちゃんと手紙に書いといた筈です。どうしてあんたは、僕にことわりもなく、僕のことを小説に書いたんですか」
「そう言う覚えはないんだがねえ。一体何と言う小説だね?」
「きまってるじゃないですか」
彼はコールテンの膝をぐいと乗り出した。
「あの〈嘘の宿〉と言うやつですよ。あれでもって、あたしのことを――」
「ちょっと待って呉れ。ちょっと」
私はあわてて掌で制した。
「あの〈嘘の宿〉と言うのはだね、僕が頭ででっち上げた作品だよ。つまり空想で書いたのだ。君は何かかん違いをしているんじゃないですか?」
「かん違いなんかするものですか。ちゃんと僕は――」
「僕はと言うけれども、その僕に、僕は今日初めて会ったんですよ。会ったこともない人間をモデルに、小説が書けるものか」
「書けますよ。あんたは豊臣秀吉に会ったこともないのに、秀吉をモデルにした小説が書ける」
小久保は右手を上げて、何か引っ掻くトレーニングのように、指をくねくねと屈伸させた。五本とも妙に長い指だ。
「あたしのことをどこからか聞いて来て、そいつを小説に仕立てたんでしょう。それとも私立探偵か何かを使って――」
自分のことを僕と呼んだり、あたしと呼んだりする。その度に感じが変る。
「私立探偵? 人聞きの悪いことを言わないで呉れ。私立探偵を使うほど、僕はまだ空想力は枯渇していないよ。飛んだ言いがかりだ。一体あの小説のどこが君をモデルにしていると言うんだね?」
「全部ですよ。第一主人公の名前からしてそうだ。僕は小久保、小説では大久保、小を大に変えただけの話じゃないですか」
「大久保なんてざらにある名前だ。偶然の一致だよ」
私は声を荒くした。
「名前の相似だけで因縁つけられちゃかなわない。それにあの小説の主人公は画描きだよ。ところが君は――」
「へえ。あたしも画描きですよ」
彼は掌でぶるんと鼻をこすり上げ、机にさえぎられてここからは見えないが、それをコールテンズボンにこすりつけたらしい。何もそんなに得意がらなくてもよかろうに、と思う。
「アトリエ付きの家を借りてんですよ」
「そうかね」
何だか話がややこしくなって来たようだ。小久保の眉がびくびくと動いた。
「あんたの小説じゃ、その家賃を五ヵ月もためていることになっている!」
「君はためていないのか」
「そ、そりや少々ためていますがね、五ヵ月なんて、そんな――」
小久保は嘆息した。
「五ヵ月もためているように書かれちゃ、近所に対して恥かしくって、外に出歩きも出来ない。一体どうして呉れるんです?」
「だって、ためてることはためているんだろう。仕方がないじゃないか」
私は何か混乱して、自分の墓穴を掘るに似た応答をした。
「それだけなら我慢しますよ。あたしにもね、女房が一人いるんです」
「そりや誰だって女房は一人にきまっているよ」
「僕の女房はよし子、あの小説では安子でしたね」
「そうだ」
「その安子が若い男に誘惑されて、つまりよろめく」
「おい、おい。僕の机を爪でそんなに引っ掻かないで呉れ。傷になるじゃないか」
小久保は不承不承(ふしょうぶしょう)、机の上から両手を引っ込めた。感情が激すると、ものを引っ掻きたくなる性分らしい。
「一体あれはどういうことなんです?」
「ど、どういうことって――」
私はどもった。だんだん形勢がおかしくなって来る。
「君の奥さんも、つまりあの安子のように、よろめいたのか」
「よろめくもんですか。あんまりバカにしないで下さいよ」
また手を机に伸ばそうとしたが、思い直したらしく引っ込めた。無念やる方なげに、眼をぎろぎろさせた。
「うちのよし子は、この僕に心服している。こんないい亭主はないと思っているんですよ。それをあんな具合に、姦通するような具合に書かれて、たまった話ですか!」
「ちょっと待って呉れ」
「いや。待てない。そりゃうちに若い男が一人出入りしていますよ。でもあれはよし子の従弟なんだ。あんたが邪推するような、そんな間柄ではない!」
「待てと言ったら、待て!」
私はたまりかねて、平手で机を引っぱたいた。平手でたたく分には、机は傷つかない。
「さっきも言ったように、僕は君と初対面だ。モデルにした覚えはない。君がモデルにされたと、勝手に妄想しているだけだ」
「そうじゃないですよ。モデルになっているとあの雑誌を持って来たのが女房の従弟だし、近所の者たちもあれを読んでいるらしくて、あたしが外出すると、どうも眼引き袖引きして、笑っている気配がある」
「君の言うことは、本当なのかね。ウソじゃないだろうな」
いきり立とうとする胸を押えながら、私はつとめて冷静な声を出した。いくら偶然にしても、ちょっとばかり符合が合い過ぎる。
「何がウソです?」
「つまりさ、君が小久保と言う名、これは名刺があるから本当だろうが、君の職業が画描きで、アトリエ持ちで、家賃をためていて、そんなことは君が今言っているだけで、僕がこの眼で実証したわけじゃない」
「え? なに? それじゃあたしの言うことを疑うんですか?」
小久保は憤然としたように膝を立て、中腰になった。
「じゃ今から僕の家に行きましょう。僕の家も、家賃の通帳も、それに女房も見せて上げましょう。さ、車で行けば二十分とかからない」
「今日はだめだ。今日は仕事がある」
のこのことついて行って、そっくり本当だったら、いよいよ立場が悪くなる。だから私は頑張った。
「じゃいつ来て呉れるんです?」
「そうだね。あさって、いや、仕事が済むのがあさってだから、しあさってと言うことにしよう。しあさっての正午頃」
地図を書かせるのを忘れて、所番地だけをたよりに家を探すのだから、時間がかかる。それにここらは番地がひょいひょい飛んでいて、九十八番地のすぐ向うが百七十七番地になっていたりして、始末が悪い。家の切れ目に小さな草原があって、女の子がフラフープをやり、男の子たちがホッピングに乗って遊んでいるのが見えた。フラフープもホッピングも、もうずいぶん前にすたれた筈だが、眼前のその遊びを見ていると、何だか急速に風景が古びて、一年前か二年前の世界を歩いているような、妙な気分になって来た。
(どこかで見たような、どこかで一度経験したような感じだぞ)
どこで経験したのか思い出せないまま、いらいらした気分でせかせかと歩き廻っていると、曲り込んだ横丁の三軒目に、暗闇からぬっとあらわれたと言う感じで、小久保太郎の表札が眼についた。縦表札でなく横表札で、大きな郵便受けの上にちょこんとついている。画描きと言ったのは本当らしいな、と思いながらブザーを押すと、若干世帯やつれの気配を見せた三十五六の女性が姿をあらわした。頰にホクロがあって、これもどうもどこかで見たことがあるような感じがする。私が名乗ると女性は引っ込み、かわりにどてら姿の小久保が出て来た。どてらは相当にくたびれ、ところどころ縫目がほころびていた。
「やって来たよ」
忌々(いまいま)しい気持もあって、私はそう簡単にあいさつして、靴を脱いで上にあがった。小さな家で、四畳半の和室に六畳見当の板の間だけで、板の間の方にはイーゼルや描きかけの画、壁には裏返しのカンバスがいくつも寄りかかっていた。和室のチャブ台には、空の井が二つ乗っかっている。昼飯に夫婦でラーメンでも取ったのだろう。小久保が女性に何か耳打ちをすると、女性はそそくさと下駄をつっかけて裏口からどこかに出て行った。
「ここらに来るのは初めてだけど――」
チャブ台の前に坐りながら、私は言った。
「ここらの子供たちは、今頃フラフープなどで遊んでいるんだねえ。ずいぶん流行遅れの地帯だなあ」
「子供の遊びなんかの話じゃないですよ」
「そりや判っているけどさ」
世間話をしに来たのではないことは、私だってよく知っている。
「今出て行った人、君の奥さんかね?」
「そうですよ。あれがよし子です」
そして小久保は手を伸ばして、うしろの本棚から一冊の雑誌を引き出した。ぺらぺらと頁をめくって、私に突きつけた。
「ほら。ここにこう書いてある。安子の右頰にはホクロが一つあって、それが彼女の容貌をさらに可憐なものとした」
私は眼鏡を額にずり上げて、そのくだりを読んだ。なるほど、まさしくそう活字が並んでいる。並んでいるからには、私がそう書いたのだろう。小久保の掌がその頁をぱんとたたいた。
「これでもあんたは、うちのよし子をモデルにしなかったと言うんですか?」
「そ、それも偶然の一致だよ」
たくらまれた迷路に、自然と引き込まれる気分になりながら、私は抗弁した。
「頰ぺたにホクロがあるなんて、そりやたいていの人はどこかにホクロがあるものだよ。ホクロのない人があったら、お眼にかかりたいぐらいだ」
「だって、右横だと、ちゃんと場所まで指定して――」
「でも、君の奥さんは、そう言っちゃ何だけど、可憐と言う感じでは――」
「可憐ですよ。あたしにとっては、あんなに可憐な女はいやしない。それともあんたはあのよし子を、獰猛(どうもう)な感じの女とでも言うんですか?」
「獰猛だとは言ってやしない。強いてどちらかと言えば、可憐の方に――」
「そら、ごらんなさい」
小久保は勝ち誇ったような声を出して、また背後の本棚からさっと帳面を抜き出した。
「どうです。これが家賃の通帳」
うっかり受取って頁をめくって見たら、七千円の家賃が三ヵ月前まで納入されたきり、あとは空白となっている。
「ほう。ちゃんとした一戸建で、七千円とは、ずいぶん安い家賃だねえ」
「高い安いは問題でない!」
小久保はまたまなじりをつり上げた。
「問題はですね、たまっているのは三ヵ月と言うことですよ。五ヵ月もためたなんて、人を誣(し)いるもはなはだしい」[やぶちゃん注:「誣いる」事実を曲げて言う。作り事を言う。]
私は返事をしないで沈黙した。何だかだんだん決定的になって行く模様なので、うっかりと受け答えも出来ない。小久保はさっと手を上げ、鴨居(かもい)から突き出た吊棚を指差した。
「それにあのダルマ、そこらの古道具屋から買って来た安物だとあんたは書いたけど、どういう根拠であれを安物だと断定したんです?」
吊棚の上には、背丈五寸ばかりのダルマが乗っかっていた。片眼だけに墨が入って、あとの片眼は白いままである。そう言えばあの小説で片眼ダルマのことも書いたなと、はっきりと私は思い出した。身に覚えはないのに、さまざまな証拠を突きつけられた無実の犯人みたいに、突然心や身体の中のものが萎縮して、思わず私はダルマから眼をそらした。私の眼が小久保の視線とぴたりと重なり合った。[やぶちゃん注:「五寸」約十五センチ。]
「じゃあどうすればいいんだ」
自然と身体がだるくなるのを感じながら、私はそう言った。投げ出すようにそう言わざるを得なかった。
「だからですよ、慰籍料と言っちゃ何だけれど、あたしもずいぶん精神的な打撃を受けたんですからね」
小久保は視線をひたと私に固定したまま、通帳を掌でぱんぱんとたたいた。
「たまった家賃の二万一千円、いや、半端がついては面白くないから、三万円ぐらいはあんたから出していただきたいんです」
「三万円? それは高い。いくら何でも、それはべら棒だ」
「ではいくらなら妥当だと言うんです」
「一万円だ。せいぜい一万円だね。それ以上は絶対にムリだ!」
どういう理由で一万円が妥当なのか、自分でもはっきりしないまま、私は頑強に値切った。この際値切ることだけが、私の生甲斐であった。小久保は眼をぐっと見開いて、急に顔を私に近づけて来た。
[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年一月号『群像』初出。文中に出る墨田区の旧「東吾嬬町」はこの附近。隅田川の左岸、荒川の右岸。この附近(グーグル・マップ・データ)。]
炎天
とにかくその日は、途方もなく暑かった。風がなく、日が昇らないうちから、むんむんと暑かった。
午前十一時頃に上野駅に落ち合い、それから駅前に出て、篠田君がタクシーを呼びとめた。その篠田君の脇腹をつついて、僕が注意した。
「大型の方が良かないか」
「ううん。小型でいいんだよ」
なぜ小型でいいのか。行先の道幅が狭いのか。その説明はしなかった。僕も黙っていた。あまり暑くて、口をきくのも面倒だったからだ。
で、小型がとまった。何という車か知らないが、なんだか蝉の羽根みたいな感じのする華奢(きゃしゃ)な車で、僕たちが乗り込むと、どかどかと揺れた。運転手は二十一二の若造で、眼が細く、ちょっと狐に似ていた。狐が怒ったような顔をしていた。
そのまま百米ばかり走って、運転手が口をきいた。甲(かん)高いきんきんした声だった。
「旦那。どちらまで」
篠田君が行先の町の名を言った。その町にある玩具工場を、僕たちは今日見に行くことになっていた。
「川向うだよ」
「へえ。そいつは弱ったな」
運転手はいらいらしたような声で、乱暴にハンドルを切った。
「あっちの方面、おれ、あまり行ったことがないんだよ。旦那はよく知ってるんですか」
「おれもよく知らないんだ」
篠田君が答えた。そしてポケットから紙片を取出して、どこ発どこそこ行きのバスの、何町何丁目の停留所から、右へ折れてコンクリ塀から左に曲って、と言うような説明を始めた。僕はよく聞いていなかった。聞いていても判るわけがなかったから。背を深く座席に押しつけて、足をつっぱっていた。危惧した通り運転が乱暴だったし、それに小型自動車というやつが信用出来なかったからだ。小型でいっぺん頭を天井にぶっつけ、コブをつくって以来というものは、小型は僕には大の苦手になっていた。衝突するとぐしゃっとつぶれると言う話も聞いている。
とにかく自動車はそちらの方向に走り出した。非常なスピードで走り出した。何はともあれ目的地に早く着いて、僕ら二人を振りおとしたいという具合にだ。
窓から風がひゅうひゅうと入るので、暑さの方はいくらかしのぎよくなったが、あんまりスピードを出すので、気持がわくわくと落着かない。姿勢を低く保ち、前の座席の背を摑んで、やはり汗が出てくる。暑さの汗と別種の汗がじりじりと惨み出て来る。それにこの車は底部が妙に敏感で、舗装路のちょっとした穴が、じかになまなましくお尻につき上げてくるのだ。
やがて大きな橋を渡った。むっと光を含んだ熱風が、窓から吹き入ってきた。
篠田君もあまり気分がよくないらしく、身体を緊張させて、黙っている。口をきかないで、前方ばかりを眺めている。
橋を越したあたりから、街のたたずまいが少しずつ変ってきた。それと同時に、暑さも少し高まってきたようだ。どこを見廻しても、植物の緑が見えない。白茶けたような建物がずらりと並んでいる。僕は苦心してお尻のポケットからハンカチを引っぱり出し、ごしごしと顔や首を拭いた。新しいハンカチがたちまち薄黒くなってしまう。
小犬を一匹はね飛ばしてから、玩具工場行きのこの車にケチがつき始めたようだった。
はね飛ばされた白斑(しろまだら)の仔犬は、四肢をふるわせて口からどろどろと血をはき、そのまま動かなくなった。
自動車は一度は停った。それからアクセルを踏み、前に倍したスピードで走り始めた。
「畜生め。縁起でもねえ!」
運転手は声を慄わせた。運転手の細い頸(くび)筋には、小豆(あずき)のようにつぶつぶの汗がふき出ている。片手で運転しながら、残った片手でごしごしと頸筋をひっかいた。そして怒ったような声で言った。
「ええ。どこでしたっけ、行先は?」
「東吾嬬(あずま)町だよ」
むっとしたように篠田君が言い返した。
それから一町ほど走ると、道路工事をやっていて、水道管が破裂したのか、道路は一面に水びたしになっていた。上半身を裸にした赤銅色の男たちが、右往左往して働いていた。たくさんの人間が働いているにもかかわらず、窓から見るその景観には音がなく、まるで無声映画を見ているような具合だった。僕はしきりに唾をのみ込んだ。
「駄目だあ、ここは」
運転手はいらだたしげにハンドルを切り、狭い横丁に入り込んだ。
「実際なんてえことだろう」
「こんな狭いところ、通れるのかい?」
篠田君が心配そうに声をかけた。運転手は返事をしなかった。バックミラーにうつる運転手の顔は、発疹(はっしん)でもしたかのように、赤い班点があちこちにふき出ている。何となくぞっとした感覚に僕はなった。するとバックミラーの運転手の眼が、きらりと僕をにらみつけた。僕はあわてて眼を外(そ)らした。眼を外らしながら思った。
「何だか妙な具合だな。この運ちゃん、病気じゃないのかい」
その狭い道をずっと行った二叉路で、また運転手を怒らせるようなことが出来(しゅったい)した。大きなオート三輪が停っていて、それが合図もなしに僕らの車の前に、するすると後退してきたのだ。僕らの車は急停車した。がくんと僕らの身体は揺れた。運転手は座席から外に飛び出し、きんきん声で怒鳴りつけた。オー三輪の座席から、中年の運転手がしきょとんとした顔をのぞかせた。
「何という動かし方をしやがる。ぶつかるじゃねえか」
そしてこちらの運転手は忙しく手帳を振り出し、向うのナンバーをせかせかと写し取った。あるいはせかせかと写し取る真似をした。
「うう。暑い。暑いなあ」
車の中で篠田君があえぐように言って、前の座席をぎしぎしと揺さぶった。その声を聞くと、僕の全身からもいっぺんに熱い汗が流れ出てきた。
「こんな暑いのに、玩具工場を見に行くなんて、実際ばかげてるなあ」
「そうだよ。ほんとにそうだよ」
僕は相槌を打った。心から相槌を打った。
「あの犬、痛かっただろうねえ。血が口からどくどく出て来たよ」
篠田君は返事をしなかった。眼を据えて窓外を見ていた。運転手が戻ってきた。亢奮(こうふん)の残った声で、また腹の立つ質問を僕らにした。
「ええと。どちらでしたっけ、行先は?」
苦心して、やがて広い道に出た。僕らの車は荷車とバスの間をすり抜けるようにして、バスの前方に出ようとした。烈しい日の光がおちて、車道のアスファルトが時々ぎらりとかがやく。
歩道から車道へ、突然二つぐらいの子供が走り出てきた。よちよち走りながら、車道を横切ろうとする。それは僕らの車から、二米か三米ぐらいしか離れていなかった。
身体をタオルみたいに絞られる感じで、僕はそれを見た。僕の眼は三倍ぐらいの大きさに見開かれていたに違いない。
ぎゅぎゅっという大きな音を発して、僕らの車は急停車した。僕らの身体ははずみをくって、ぐいと前方に浮き上り、あぶなくおでこが座席にぶつかるところだった。
異様な大音響のおかげで、街中の視線が僕らの車にあつまったようだった。一瞬街中がしんとなった。
「ほ、ほんとに、何というガキだ!」
運転手が扉を押し開きながら、金切声を張り上げた。
「その子の親爺はどこにいる。ぶんなぐってやるから!」
子供はよちよちと懸命に横切り、おびえたように小さな路地に走り入った。運転手はそれを追い、両手を威嚇的に振り上げながら、同じく路地に走り入った。その子の親爺を探し当ててぶん殴るつもりらしい。一分間ぐらい経った。運転手は戻って来ない。僕らはじりじりし始めた。停車していると、狭い小型の中だから、むんむんした熱気に耐え難くなってくる。唾をのみ込もうとしても、もう口内はからからで、唾も出て来ない。街中の視線はまだ執拗(しつよう)に僕らにつきまとっているようだ。
「出ようよ」
篠田君がからからした声で言った。
「咽喉(のど)が乾いた。氷でも飲もう」
僕らはがたがたと扉を押し、外に降り立った。斜めの位置に、氷屋があった。氷屋の赤い旗はだらりと垂れていて、まるで濡れているみたいに、そよとも動かない。僕らはそののれんをくぐった。
赤いシロップをかけた削り氷を注文して食べた。食べてしまっても、少しも涼しくならないし、路地は子供と運転手を吸い込んだままで、誰も出て来なかった。だからもう一杯、黄色い削り氷を食べた。それでも運転手は出て来なかった。子供の親爺から逆にぶん殴られて、のびてしまったのではないかと思ったが、それを口に出すのも面倒くさかった。だから僕は、しきりに黄色い唾を土間にはきながら、煙草ばかりをふかしていた。玩具工場なんか、燃えてしまえ。篠田君も同じ思いらしく、僕の真似をして、しきりにそこらに黄色い唾をはき散らした。
□大正八(一九一九)年
ルノアールのくれなゐの頰をもちながらさびしきさちよさびしきさちよ
――一月の女らより
[やぶちゃん注:「さちよ」終助詞附きの一般名詞「幸よ」かと思われる。そう考える理由は彌生書房版全集年譜の大正八年の条に、当時、最後(槐多は同年二月十八日に家を出、叢の中に倒れているのを発見されたが、治療の甲斐なく、同二十日午前二時に逝去した)の棲家となった借家のあった代々木村に『「さわちゃん」という』ハンセン病を患っていた『村娘の美しさに心を奪われた』という一節があるからである。]
この小女澄みたる水に似たるゆゑわれらが酒も澄みてさめゆく
[やぶちゃん注:「小女」はママ。全集は「少女」と消毒する。]
花やかの笑の底にひそみたる淚を見つつわれ等も笑ふ
汝ほどに淸き少女を知らざりき萬葉集のはじめの外に
汝が爲に御空の色の半襟をこの月末はわすれざるべし
われらかく濁りし事をなとがめそ汝が店にうるウイスキーのごとく
この年はそなたのごとく善くあれよそなたの如くまづしくもあれ
停車場の汽車のひびきをききつつもわれらが戀のことばをもきけ
□大正七(一九一八)年
うつくしき花のゆするる音すなり顏ふるはして女かたれば
うつくしき世の末びととなれそめしことしの冬のあはれなるかな
腐りゆく美しき花のにほひする老女の頰をみつめくらしぬ
[やぶちゃん注:詩篇「ある四十女に」登場する女性。リンク先の私の注を参照。]
うつくしき老女の頰の彈力をわが唇にためさんとしつ
うらわかきいのちに代へてこのひとをこの老いし女を戀ふるおろかさ
旅に出でて君忘れ得ず淚落つる心よわさを誰が呉れしも
わが母よと君の乳房に觸れし夢夜毎に見るもおろかなるかな
だまされてあると知りなばこれいかにと心寒くも思ふ時あり
うつくしきヴエヌスの御世を戀ふ心君の頰見れば起りけるかな
[やぶちゃん注:「ヴエヌス」古代ローマのポンペイの守護神であった美と恋愛の女神ウェヌス(Venus)。ヴィーナス。ポンエイはしばしば「快楽の都市」と称されるから、ここはかの地を具体に想起しているのかも知れない。]
谷底に身を投げ落す心地しつ五十女に世をば忘るる
燃えさかる思ひに惱むわれを見てひとりほほえむ老いしかのひと
うら若く貴き時を安たばこくゆらす事につぶし居るかな
善き友と善き女とに甘えつつのらりくらりとくらしたるかも
かの人の頰の白さを九十九里の砂に見いでて淚ながるる
[やぶちゃん注:槐多はこの大正七(一九一八)年の九月に結核のために千葉の九十九里浜に転地療養している(しかし健康回復と再生を信じて、徒歩で東京に戻ろうとし、途中で喀血、半ば自殺行為の如くに酒を飲み、海岸の岩場で人事不省に陥るも、発見され、十月下旬には東京に戻っている)が、これは詩篇「ある四十女に」の私の注に引用したように、その年増の女性と決別する意味もあったようである。]
うつくしきヴエヌスの老いし心地するうつくしきひとをとはにわすれじ
かのひとの顏ふるはして物言ふを思ひ出してひとりわれも首ふる
うつくしき君をしのびつ鳴濱の潮の遠音に眠りいざなふ
[やぶちゃん注:「鳴濱」「なくはま」と訓じておく。現在の千葉県山武郡九十九里町作田に「鳴浜(なるはま)」という固有名詞の浜があるが、ここをその固有名詞でとると、歌が委縮するように思われるからである。]
大なる眼のはたと閉づ美しき君を思へば空のまなかに
紫の絹もて君をつつみなむ夜光の玉に似たる君をば
そのまなこ數千の星にかざられてわが眼を眩ず君見たまへば
はるかなる海の底を見る如き深きめつきの絶えざる
[やぶちゃん注:この一首、彌生書房版全集には載らない。「絶えざる」は「たええざる」と訓ずるか。]
海けむり心もけむるはるかなる沖より空もけむりそめしか
紫の海に息ふく裸びと血も赤々と日にかがやけり
大東はさみし幽けし頰なづるその岬よりふく風のごと
[やぶちゃん注:「大東」は、現在の九十九里浜の南端にある、千葉県いすみ市の太東岬(たいとうみさき)のことであろう。ウィキの「太東岬」によれば、高さ約六十メートルで、『下は太平洋まで断崖絶壁となっている』。北側には千葉県旭市上永井の刑部(ぎょうぶ)岬から『九十九里浜が弓なりに連なっており、南側には夷隅』(いすみ)『川の河口と大原の町並みが見える』。なお、皮肉にも現在、この岬には「恋のビーナス岬」という別称もあるとある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
藍色の雨より細き命ありてわれを濡せりうらさびしきも
美しき紫の花かがやかしなす畑にほふ雨そそぎつつ
一かけの氷に似たる雲消えて雨とはなりし空のさびし
金のせき紫のせきする病われにとりつき離れざりけり
アルベールエルサマンの病とりつきて東えびすはおどろきにけり
[やぶちゃん注:「アルベールエルサマン」音数律から見ても「エル」は衍字。フランスの象徴派詩人アルベール・サマン(Albert
Samain 一八五八年~一九〇〇年)。結核で亡くなっている。]
金色の酒のあとにてつかれしか薔薇いろの酒吐きしわかうど
海のべの薔薇にかがやく夕まぐれふくそよかぜはいづち行きしや
□大正六(一九一七)年
[やぶちゃん注:大正五年パートには短歌がない。]
左手に椿の花を右に繪をもちてかけれる美しき子よ
男爵の小さき姫(ひめ)とそばを食(は)みをかしき晝をすごしける
[やぶちゃん注:「男爵」不詳。後の二首も連作のように思われる。]
美しき少女の頰の紅(べに)いろにまずこの春のうたのはじまる
[やぶちゃん注:「まず」はママ。]
淸ちやんと自が名を明したる美しき子の口のよさかな
たそがれの星にまがへる眼はわれを物狂ほしく夢にいざなふ
金色の帶しめて飛ぶ小鳥あり苦しき夢のまなかを過ぎり
蒸し暑き夢は腦天打ちこめて泣き笑さす哀れなるわれを
哀れにも醜(し)くゆがみし顏もちて木の葉の中をかけ走るわれ
もうろうとたのしみを欲する哀れなるわれとわが身をながめてをかし
酒瓶十二わが腹に入る事のみを幻(まぼろし)に見て街をたどれり
哀れなる色狂の眞似事を森の中にてたくらめるわれ
色狂にならんとするをおしなだめわれとわが身を連れてゆくわれ
狂ほしき神經衰弱癒え難く渦の中へとわれ落ち深む
酒の癖たばこの癖その他の諸々惡しき癖に呑まれし
ああ大地とどろき渡りわが墮落怒れるを見て心かなしも
朦朧の境に身をば投げ入れんわが運命の餘り惡しきに
意志よわく情も薄き蟲けらに似たる男と自らを知る
藝の慾あまりにわれに馴れにけり煙草の味に馴るる如くに
頽廢の底に跳び入るわが心美しき故惜しみわれ泣く
大なる鷲の羽ばたき花園にきこゆときけば心をどりぬ
むごたらしき破壞(はくわい)をわれはまちのぞむ美しき物見る度每に
たくましき中年の女新富町の河岸に美しくそりかへりき
[やぶちゃん注:東京都中央区新富町であろう。東が月島、西が銀座、南が築地、北が八丁堀で、花街として賑わった。当時は松竹の経営に移った新富座もあった。osampo-ojisan氏のブログ「東京地形・湧水さんぽ」の「第17回 新富町駅~月島駅」には、『明治時代の地図を見ると、この入船橋交差点から八丁堀駅に続いている新大橋通りはかつて運河があり、新富河岸という舟入り場があったようだ。それゆえ、ここは入舩町と呼ばれたのだろう』ともあるが、果してこの時代に、その河岸が残っていたかどうかまでは確認出来なかった。識者の御教授を乞うものである。]
アメリカの百姓女うれしげに銀座を過ぎぬ五月の夕べ
樂器屋にピアノのひびき溢れ滿つ淚に充ちしよろこびをなす
ああ女その美しさめづらかさ果物のくだける樣に笑ひし女
苦しみを藥の如く時定めてあたへられたりあつきこのごろ
いつまでも運勢に身をあそばせて天候の如くうつりゆかまし
野の百合と同じいのちを持つものはこのわれなりと主に申しける
さびしさもひもじさも皆世をえどる色の一つとわれをながめん
[やぶちゃん注:「えどる」はママ。「繪どる」であるから、「ゑどる」である。全集はかく訂してある。]
すてばちのさびしき上にをどりたるいのちよ汝の美しきかな
物曰はず日ぐらしければわがのどはしやがれ果てぬさびたる如くに
一日に三十本のたばこのむきまりとなりて頭重たし
女はればれと語るよ大空の底にいきするわかき口もて
――(千代ちやんのうた)――以下三首
[やぶちゃん注:「千代」不詳。]
その顏をまともに見るをはばかるは弱き男と自らに言ふ
あまやかに世はまたせまくなりにけり愚かしき事をくりかへすかな
汗ばみし紫の花の値を問へる夏の女を夜の店に見る
――(神樂坂のうた)――以下七首
ほのかなるたばこの光眞夜中のおしやくの顏を紫にしぬ
さびしさと乾きし喉(のど)ともちしわれ夜の野を見んと走りゆきしも
遊蕩のちまたを苦(にが)き睨み眼し步めるわれを哀れと思ふ
愚なる家族の中のため息をわれくりかへすあつき初夏
病みし眼はわが顏にありて輝やきぬ山犬の如く寶玉の如く
物すべて愚かに見ゆる日のつづく耐へがたき事われに科せらる
椿の葉ざわめくばかり波立てる海の面の深きみどりよ
血の落ちる音のきこゆる美しき深夜の家のふしどの上に
錢なしとなりてわが身に驚ろきぬいまさらながらうらさびしきも
遊樂の心おどらせ唄ふ日も錢なくなれば消えて失せつも
[やぶちゃん注:「おどらせ」はママ。]
熱情は肉身(にくみ)と共に肥りゆく泉津(せんづ)の邑に十日くらせば
[やぶちゃん注:「泉津の邑」「邑」は「むら」(村)。現在の東京都大島町泉津。槐多はこの前年の大正五(一九一六)年七月から八月一杯と、この大正六年の夏の二回、大島に行っている(孰れも友人山崎省三が同伴。厳密には前者は山崎の旅先を槐多が訪ねたもの)。]
潛々と淚に暮す月日ありはるかの方にわれをまち居り
[やぶちゃん注:「潛々と」「さめざめと」。]
咲笑し酒亂しおどりかき抱くはげしき月日またわれを待つ
[やぶちゃん注:「おどり」はママ。]
ただひとり泉津の邑に打もだす醜き畫家のあるを君知れ
なだらかに海のおもてを靑めのう走ると波の光をながむ
[やぶちゃん注:「めのう」「瑪瑙」。但し、歴史的仮名遣では「めなう」が正しい。全集では「メナウ」とカタカナ書きにしているが、これは僭越というのものである。]
このしづかさ口もてふくみ笑ふ眞晝まなかのこのしづかさを
何しらずこのしづかさに打したり棒の葉の如輝やきて居らん
[やぶちゃん注:「打したり」全集では「打ひたり」とする。]
東京のさわぎははたととざされぬこのしづけさの扉の外に
かの小さき女を思ふ心湧きやすまりがたしいかにするべき
君ちやんの美しき眼のきらめきて夢さめにけり深き夜半に
[やぶちゃん注:「君ちやん」不詳。同年の詩篇「(無題「全身に酒はしみゆき……」)」にも登場する。]
かれ戀すときけばいかにかおどろかんかの君ちやんの淸き心は
古き戀またよみがへる美しさ泉の如く強く涼しく
――(戀の蘇生)――以下五首
このたびは微笑の女そのかみはこの眼われにそそぎし女
くらやみにひそみて居りし戀ごころ火花となりて散り出でにけれり
この秋のくだもの籠に輝やけるりんごの如く君もかがやく
眼みはりて君を眺めし新らしき物の如くにうれしなつかし
恐ろしき無力の時となりゆくか、さびしさ、あまりしげく來るゆえ
[やぶちゃん注:二箇所の読点はママ。]
わが力雷より強くほとばしる時をと常に念じる物を
――無力時代――以下七首
なす事のすべて空しく愚かしくさびしさ咽喉(のど)をつまらする時
ああ赤き肉に等しき花なきや一たびかけば□□□つ花
紅をもて身もたましひも染めつくし命をすてて畫ともならばや
□□□□□□女は世になきやあらばと高くひとりごちぬる
死に失せよ虻と女はわれに言ふこのざれごとに心寒かれり
美しきぶどうの房に似たる夜に行手をすかし道をたどるも
[やぶちゃん注:「ぶどう」底本では「ぶとう」。かく修正した。全集は歴史的仮名遣正しく「ぶだう」とする。]
恍惚に耐へせず人の泣く聲す美しき夜のかしこにここに
紫の花の重たく下るかとはだか女の肉におどろく
宦官の首うなだれしきざはしに吹上の水ちりかかりつゝ
□大正四(一九一五)年
いづこにか火事あり遠き鐘きこゆ犬の吐息す夜半の外面に
硝子戸に明きらけくわが容貌のうつる時こそ泣かまほしけれ
いと惡しき想ひを強く身に浴びてシネマの小屋を出でし午後二時、
[やぶちゃん注:読点はママ。次の一首も同じ。]
淺草の晴れ日こそはかなしけれものみな惡しき○○を持つ、
[やぶちゃん注:「○○」は底本編者の伏字と思われる。以下、この注は略す。]
藍色の提灯あまた吊るしたるかの淺草の家のかのひと
荒れはてし赤き園にもたとふべきおのれを見つめ淚ぐむかな
熱すこしありとおぼえてわが心砂塵の如く顫へとべるも
腐りたる血をもてわれの顏を塗る赤き夕日のいともさびしき
よき友を持つ嬉しさのしみじみと心にしみて二人歩みぬ
(Kを思ふ小歌――以下六首)
わが友よわれ切に汝の唇を思へりわれをなみげと思うふな
[やぶちゃん注:「なみげ」「げ」は体言・形容詞・形容詞型活用の助動詞の、語幹及び動詞・動詞型活用の助動詞の連用形などに付いて、形容動詞の語幹又は名詞を作る接尾語「氣(げ)」で、様子・気配・感じなどの意を表わすそれととってよかろう。これは一般に名詞をつくる場合は下に打ち消しの語を伴うことが多い点でもしっくりくる。「なみ」の可能性は二つ。「無みげ」で上代語「無み」(形容詞「無し」の語幹に接尾語「み」の付いた語で「無いので・無いために・無いゆえ」の意。今一つは、「並み」で、「世間一般にごくごく普通であること」の意。しかし、「無み」では原因・理由部分のジョイントが悪い。後者で採る。――私のお前への思いをそこいらの普通の奴らの思いと所詮同程度のものだなどとは思って呉れるな――の意である。]
よき友よ汝を思へばうれしさは醉ひの如くに心にしむも
親友とあめつちにただひとりよぶ汝と步めり今宵うれしき
あゝ友の薄荷に似たる品のよき心のにほひ嗅ぎてわれ泣く
淸情は空より明し汝が前に濁らむとして濁り得ぬわれ
(一月一日の夜淺草を遊步すかへりてよめり)
黃表紙の支那の經書によみ耽る夜はいと奇しく美しきかな
○○○○をじつと見つめてわが眼玉輝やけば心すがすがしかり
とがりたる男モデルの○○○○は夢に見し程美しかりき
○○○○の毛はさも似たり○○の○○○○○○に、美しきかな
[やぶちゃん注:読点はママ。]
東京の泥の市街をさまよへるわれを思へばあはれみの湧く
金色のイリスの咲けば貧しさのしみじみと身に感じられけり
――(五月末旬歌――以下九首)
[やぶちゃん注:単子葉植物綱キジカクシ目アヤメ科アヤメ属 Iris の総称であるが、槐多が特に「金色」と詠んでいるところからは、アヤメ属キショウブ Iris pseudacorus かとも思われる。]
若人のみなみめよきが集まりて遊ぶ園ほどねたましきなし
うつくしき薄紫のシネラリヤ未だ散らざるは淚をさそふ
[やぶちゃん注:「シネラリヤ」キク亜綱キク目キク科キク亜科ペリカリス属シネラリアPericallis × hybrida。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・靑・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's
Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることから忌まれるためである。しかし乍ら、“Cineraria”という語は“cinerarium”、実に「納骨所」の複数形であるから、“Florist's
Cineraria”とは「花屋の墓場」という「死の意味」なのである――余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか? グーグル画像検索「シネラリア」をリンクしておく。]
肥りたるモデル女のくれなゐの肌にもまして赤く日暮れぬ
うるはしき少年の家の午後十時「さらば」と吾の立ちしかの時
品のよき若人と遊ぶ日ぞよけれ薄紫の汗をながして
さびしさのアルミニウムに蔽はれし心地ぞすなる今日此頃は
紫の矢車草の丈長く咲きたるにわれの心ふるへる
寶石の角あまたある靈かけふこの頃のわれにやどるは
[やぶちゃん注:「靈かけふ」不詳。「靈(たま)影(かげ)ふ」か? 霊的な何ものかの光りがうつろう、の意か? その場合は「ふ」は上二段型の動詞を作る接尾語で、「そのうおうな感じになる」の謂いであるが、しかし、修辞的には、ここは「あまたある」を受け、しかも下句に繋げるには、名詞節でないとおかしいように思われる。とすると、「靈影斑(たまかげふ)」で「霊的な何ものかの光りがうつろうような斑紋」の意か? いや、ちょっとそれは苦しい造語だ。識者の御教授を乞うものである。]
□大正三(一九一四)年
一九一三年より一九一四年 はじめにかけて
神樂岡宗忠が社の下に京都一のめでたき少年
居たまひき その君が臨の美しき鋭きにわが
泣きし事も幾度ぞ
[やぶちゃん注:「神樂岡」「かぐらがをか(かぐらおか)」は現在の京都市左京区南部、京大東方にある吉田山の異称。
「宗忠が社」「むねただがやしろ」と訓じておく。現在の左京区吉田下大路町にある、教派神道の一つ黒住(くろずみ)教教祖黒住宗忠を祀る宗忠(むねただ)神社。黒住宗忠は嘉永三(一八五〇)年に歿したが、六年後の安永三(一八五六)年に朝廷から「宗忠大明神」の神号が与えられた。文久二(一八六二)年に宗忠の門人赤木忠春らが吉田神社から社地の一部を譲り受け、宗忠を祀る神社を創建した。慶応元(一八六五)年には朝廷の勅願所とされ、皇室や公家から篤い崇敬を受けた(以上はウィキの「宗忠神社」に拠る)。
「めでたき少年」(後の添書きの「K.I.」)詩篇で既出既注の、京都府立第一中学校の一級下の稲生澯(いのうきよし)。「紫の微塵(稻生の君に捧ぐ)」の私の注を参照されたい。]
紫の孔雀の毛より美しきまつ毛の中に何を宿すや
――(孔雀のまつ毛)
浮々と君を思へば寶玉の世界の中に殘されにけり
片戀の淚に心しめす時瑠璃色の世も泣ける哀れさ
ともし火を飾りそめたる薄明の都の空に君をしのびぬ
[やぶちゃん注:底本は「ともし火」が「もつし火」。私は意味不明。或いは方言かとも思われなくもないが、ここは錯字と判断して、特異的に全集に従った。]
かなしさの淚きはまる美しの春の日ぐれよ君はいづこに
友禪に夜をつつみて君が眼の薄ら明りへ投げむとぞ思ふ
君が眼の薄ら明りに溺れたる群集の中の一人となりぬ
薄薔薇の都の空をふりそむる雨より君のにほひそめけり
かへり見てあまりに無賴なるわれよ
惡漢の戀をも君は入れたまふなさけよわれはうれしさに泣く
つひに君が音聲をさへきき得ずして別るる
片戀の苦さよ
かた思ひ春より春へはこびゆくわれをば君よ笑ひたまふな
とこしへに君を思はんこの戀は銀鎖となして未來へ曳かん
(この十一首を K.I. の君に捧げまゐらす)
美しきかの支那の子を思ひつつ野べをたどればたんぽぽのさく
この日頃心うつつに甘き酒注ぎつすごすわれの哀れさ
――(うつつのうた)――以下六首
このうつつしばらくにして消えされと願ひつ野べをたどりけるかな
ああわれはいづくに行かん茫然と立てば小鳥は美しく鳴く
爛々と赤き日沈む夕ぐれの不良の子らよ春の夕ぐれの
紫の光とともに血の滿ちし美少年こそ歩みゆきけれ
汚れたる世界に吾は投げ出され茫然として眼をつぶる
われ泣けば薄むらさきに雨ふりぬ天とわれとはけふをなげかん
わがうつつまだ消えざるにおどろきぬあめふるよるの薄ら明りに
―(消えぬうつゝ)――以下八首
美しきモーパツサンはおもしろくわがうつつをば延ばしけるかな
讀み耽るいと猥らなる物語り獸の如く心を狙ふ
雨ふればこの寂寞も美しく濡れて都をさすらひゆくも
[やぶちゃん注:底本は「寂寞」が「寂博」。全集に従った。]
靈の國の子、肉の國の子のうすくれなひに立交る夕べ
[やぶちゃん注:全集は「うすくれないゐ」に訂する。]
かの君に會ひなばいかにこの宵は美(は)しかるべきと思ひ街ゆく
プリンスとふと思ふ時わが足は浮かれてゆくも雨ふる中に
ほの靑く柳の群のそぼ濡れしけぶりの中にけぶりけぶれり
[やぶちゃん注:底本は「群」(「むら」或いは「むれ」)が「郡」となっている。全集に従った。]
うらかなしわれすなほなる心もて母に見えん事もかなはぬ
ああわれはただひとりなり才びとの常の如くにただひとりなり
かの君はいと薄紅き薄靄の中にわれをば惱ましたまふ
とこしへに君を思はん美しき君を思はん君を思はん
ああわれはひとへに君を戀すれど君はひとへにわれを忘れん
美しく暗くみにくく過ぎさりし少年の日をめでてわれ泣く
いざ行かん未來の高き天空へ天女の群と相まじりつつ
美しき春の引幕引かれつつ恍惚に入る物を忘れて
――(春のはじめ)――以下二首
八坂の塔赤し美し古びたる眼の空に赤し美し
底をゆくこの生活のおもしろさ底を極めむところまでゆけ
圓山にルノアールの畫思ひつつ貧者たたずむこの不思議さよ
ダーリアの眼つきに我を吸ひよせよ妖怪の如美しき君
薄靑き唐もろこしの畑より炎のもゆる美しの晝
一人の少女が歌ふ
リルケ 茅野蕭々譯
私は遠い異國で子供だつた。
あはれに、やさしく、盲目に――
羞恥の中から忍出た時まで。
私は森や風の蔭に私といふものを
もう長い間待つてゐる、確に。
私は獨りだ、家からは遠い
そして靜かに思ふ、私はどんなに見えるかと――
―― ―― ―― ―― ―― ―― ――
私を誰だと問ふ人があらうか。
……ああ私は若くて
ブロンドだ
そして祈禱も出來た。
そして確に無益(むだ)に輝らされて
知られずに私の側を行過ぎる。
ツイッターのフォロワーのを見て、僕もやってみた。結構、面白い。
手作り風はんこ作成ツール| 郵便年賀.jp
■やぶちゃん版村山槐多短歌集成
[やぶちゃん注:底本は、既に完了した詩篇パートと同じく、国立国会図書館近代デジタルライブラリーの大正九(一九二〇)年アルス刊の「槐多の歌へる」(正字正仮名)の画像を視認し、編年順のそれに準じたが、その際、平成五(一九九三)年彌生書房刊の「村山槐多全集 増補版」(但し、新字旧仮名)で校合し、注を附した。底本は年代順の各詩篇の後ろに「短歌」として配されてあるので、年号の柱を頭に□で打ってそれに換えることとした。なお、ブログ公開時のブラウザの不具合を考え、添書き(底本ではポイント落ちであるが、同ポイントで示した)の字配を底本とは変えてある。]
□大正二(一九一三)年
あへかなる櫻の國の暴君は何を描けと君に告げしや
――(辰貴が爲)――(以下七首)
[やぶちゃん注:「辰貴」は「タツキ」と音読みしておく。後注参照。]
海原の銀のやまとによする時燕の如くとびて來し人
だみ具もて黃色に濡れし手をやすめかのふるさとを思ひける人
[やぶちゃん注:「だみ具」「彩具」「濃具」か。「だみ」は金泥・銀泥で彩色することを言う。]
美しき國人の眼は尚未だ盲ひぬ奇しき繪と云ふ物に
海原をわたりて深きなさけをばこめたる國に入りにける人
はるばるとこの暖國の客となり何を描かむ淚ながるる
國人の深きなさけはとつ國の君を淚にむせばしめけむ
(雄略帝の御代に來朝したる支那人安貴公
が一群中に打雜りしうら若き畫家名を辰
貴と云ふ)
[やぶちゃん注:安貴公は魏の文帝(曹丕:在位:二二〇年~二二六年)の後裔とされ、雄略天皇の御世(四五七年?~四七九年?)に衆をひきいて日本に帰化し、大和国添上郡大岡郷に住し、絵師として活躍、天智天皇の御世に「倭画師(やまとえし:「やまとえし」とは日本絵師の意ではなく、大和国を拠点としたという謂いとする)」の姓を賜はり、後に大岡忌寸(おおおかのいみき:この姓名は伝説の画人巨勢金岡(こせのかなおか)と併称される画人の名でもある)を賜わったという絵師を生業としたとした一族の祖とされる。「辰貴」というのは安貴の子(男子「龍」)とする記載もあるようである。「辰貴」の五代末裔に「惠尊」という絵師もいる。ここはサイト「岩倉紙芝居館」の「古典館」にある上田啓之氏の「日本書紀 29」その他を参考にした。]
冬の街薄く面を過ぎる時落膽われにせまりけるかな
――(無題 以下四首、
[やぶちゃん注:丸括弧の閉じがないのはママ。全集では『――(無題)―以下四首』と整序。]
かの君がかの岡のべの君が屋に歸り給ふと思ひかなしむ
などて汝は破れし子をば戀ふるやと友言ふ時も迷ひけるかな
西の京しばらくにして雨ふると面ひそむる美しき子よ
血の歌は誰が子かうたふ燈火の雨の樣なる春のちまたに
――血歌(ちのうた)―以下八首、
濃(こき)血人(ちびと)情あまりて泣きしきる春の薄暮ぞいかに嬉しき
美しき木瓜の皇子と異名(あだな)せる君をひねもす見るが耐へせぬ
豐かなる人をこそ好め西歐のかのぶだう酒の色の如くに
この眞晝いかめしくして拉丁語を用ひる街に立てる心地す
[やぶちゃん注:「拉丁語」「ラテンご」と読む。]
猩々の髮の樣なる朱さかづきいざもてまゐれ酒をとうべむ
[やぶちゃん注:全集は「とうべむ」を『たうべむ』(賜うべむ)に補正。]
ぎりしあの若人達に櫻花見せなばいかに「ぬるし」と云はん
水を汲む濁りし河に春はいま苦しき赤と變りはてつゝ
美しき空この空の來りぬと笛吹き鳴らせ皇子は來る
――皇子に捧ぐる(歌)以下四首
[やぶちゃん注:全集は添書きを『――(皇子に捧ぐる歌)―以下四首』とする。]
梅林の中を過ぎりてその痛く苦きにほひに君を思へり
ルノアールかく畫がきしや乳色の噴泉君が愁ひにかゝる
泣かんとす君はすげなくわれをすていづれにか去る靄の如くに
六月の銀の大扉をとざしたる天は雨ふる君をかくすや
――雨と皇子―以下四首
雨ふる日君が歩みのすばしこさ行手の街の霞みにけるを
××をば血の杯と思ふ時虐思ぞ重く打顫ふなる
[やぶちゃん注:「××」は底本編者の伏字。全集でも復元出来ずにある。]
流血の街の空には銀の雨斜(はす)にせまると思へばかなし
(皇子とよぶは一人の御子なり)
新ぼんのにほひか浮き香水かほのかにわれをおとなひくるは
――(無題)-以下七首
[やぶちゃん注:「浮き香水」不詳。女性の香水の漂い来たることを指すか。]
新ぼんは綠むらさきあざやかに照る春の野に居りてむ子なり
新ぼんの肉のまろさにうつとりとわが魂の廢りけるかな
君故にこの放埓をせおふ子と我を見かへりうれしくなりぬ
來む春は君をいざなひよひやみの將軍塚に抱かんと思ふ
[やぶちゃん注:「將軍塚」京都市東山区粟田口(あわたぐち)三条坊町にある天台宗青蓮院(しょうれんいん)所有(飛地)の「将軍塚大日堂」か。ウィキの「青蓮院」によれば、『寺の南東、東山の山頂に位置し、青蓮院の飛び地境内となっている。桓武天皇が平城京遷都にあたり、王城鎮護のため将軍の像を埋めた所と伝え、京都市街の見晴らしがよい』とある。]
くちつけを思ひて思亂れけり美しき君いかに思ふや
ほの暗き舊約全書その紙をかきさぐる日の我のさびしさ
――(無題)以下十二首
われ切に涙を欲ると思ふ子の心にひたに血けぶりの立つ
あまりにもばら色の面憎らしと君を見つめて叫びけるかな
わが面のみにくきことに思ひ至りかうもりの如泣ける悲しさ
騷亂の中に輝やく美しき一顆の玉に心はじける
鈍色の日頃を送る世界には唯一人のわれの哀れさ
憎まれて日頃を送る無賴子のわれをあはれと思ひ給ふな
君よ君ただひたすらに我を憎めかくて君には光增しなむ
人形のさびしき皮膚の白櫻咲く日はかなし心空しく
もろもろの睨み目われをみまもりぬ冬の小門を出で來し我に
うら悲し冬より春に投げ出す心はぼろをまとひけるかな
この日頃小櫻をどしの武者八騎都大路に常に會ふなり
[やぶちゃん注:「小櫻をどし」鎧の縅(おどし)の一つで、小桜革で芯を包んだ緒で縅したもの。グーグル画像検索「小桜縅」をリンクしておく。]
ああ切に石版畫をば思ひけり手に薄赤き櫻花とり
――(浮き思の數歌―以下四首
わが園にぼたん櫻は數々の眼に見つめられ淚せんとす
夜櫻か晝の櫻か一分も君が姿を忘れ得ざれば
放蕩のぼたん櫻にふれる雨春を濡らすと知るや知らずや
この頃の高天原にます神の血潮は如何に豐なるらむ、
――赤血球―以下五首
[やぶちゃん注:読点はママ。]
野ひばりの鋭き明き一ときは君とわれとを跳らしめける
血に濕る乳銀色の山櫻咲けば淚をながすならはし
薄霞み雲母の如く輝やけば泣き女(め)のまゆもたゆげなるらむ
[やぶちゃん注:底本は「薄霞み雲母の如く輝や泣きけば女(め)のまゆもたゆげなるらむ」であるが、これでは読めない。特異的に全集補正のもので示した。]
櫻びと小名彦石の温泉に浴せる夜かな湯けぶりのする
[やぶちゃん注:「小名彦石の温泉に浴せる夜かな」恐らく「小名彦古」の誤記か判読の誤りか誤植である。「古事記」の国造り際に知恵を貸した神少彦名命(すくなびこなのみこと)は「少名毘古那」などとも表記するからで、彼は常世神であると同時に医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ神であり、ここはその温泉神に引っ掛けたイマージュの表現である。「の」は主格の格助詞である。]
美しきぼけの花咲く晝すぎにみや人止むる美しき君
――(無題)以下二首、
數々の美しびとにとりまかれわれは淚に浴するなりけり
ソドム市の門扉の惡しき樂書は硫黃と共にすくみはてしや
――(無題)以下二首
[やぶちゃん注:全集は「樂書」を『落書』に訂している。採らない。「らくがき」はこうも書くからで誤りではないからである。]
黃昏の天の使もかなしけれ鋭き力有つと思へば
[やぶちゃん注:「有つ」は「もつ」と訓じていよう。]
美しき櫻の戀をする人は薄き情を吹きかけられつ
――(無題)以下二首
美しや白き櫻の花かげにかくれて君が姿を見れば
強情に苦きあまたの事あつめ春おちぶれし人ぞかなしき
山吹が黃に苦がき晝空甘し花より空の色好むひと
美しや君はさびしきはつ春の夕日の宮の皇子ともがな
サムソンの髮を拔くより恐る可き破滅らうたき君にこもれる
幾とせか同じ地同じ天を見る我は哀れにけふもさまよふ
ああ我はこの戀しさに身をとられいかにせんとす淚こぼるる
都には櫻咲くらし眞晝にも大火の如く明りさす見ゆ
薄靑く醉へば美しはつ冬の空氣光れり玻璃にわが眼に
――以下二首
[やぶちゃん注:全集には添書きが欠落している。]
新ぼんの戀しく暗き紫の玻璃の牢屋に泣き叫びする
葡萄酒のその薄あけに染まりたる人々歩む春の眞晝に
――(無題)以下五首、
民間の皇子なつかし官居にはとこしへ歸り給はじと思ふ
離宮なりわれこそ君の離宮なれかくも思ひて泣き伏せしかな
夜更けて薄紫の大橋をわたらんとして心おびゆる
街中の疏水の瀧にアーク燈薄靑く照る凄きさびしさ
詩人
リルケ 茅野蕭々譯
時間よ、お前は私から遠ざかる。
お前の翼搏(はばたき)は私を傷つける。
しかし、私の口を、私の夜を、
私の日をそうしよう。
私は持たない、戀人を、
家を、その上に立つ處を。
私が自己を與へる萬物は
富むでまた私を出し與へる。
犧牲
リルケ 茅野蕭々譯
ああ、お前を知つてから私の體は
總べての脈管から匂高く花咲く。
ご覽、私は一層細つて、一層眞直ぐに歩く。
それにお前は唯〻待つてゐる。――お前は一體誰なのだ。
ご覽、私は自分を遠ざけ、古いものを
一葉一葉に失ふのを感じてゐる。
ただお前の微笑が星空のやうだ、
お前の上に、また直ぐに私の上にも。
私が子供だつた年頃、未だ名もなく
水のやうに輝いてゐる總べてのものに、
私はお前の名をつけよう、聖壇で。
お前の髮で灯ともされ、輕く
お前の乳房で花環をつける聖壇で。
[やぶちゃん注:第一連最終行の「唯〻」は「リルケ詩抄」では「唯」のみ。後の「リルケ詩集」で踊り字が加えられたものを底本は採用している。確かに、ここはその方がよい。唯、その場合、私は敢然「ただただ」と読む。]
[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年八月号『文学界』に発表された。底本は昭和六〇(一九八五)年沖積舎刊「梅崎春生全集第六巻」を用いた。
その解題によれば、本篇は現行の梅崎春生の「魚の餌」(昭和二八(一九五三)年十月号『改造』に発表。「青空文庫」のこちらで電子化されている。私の偏愛する一篇である)とともに『もともと一つの小説であり』、戦前の昭和一七(一九四二)年、同人誌『生産人』に「防波堤」という題名、「丹尾鷹一」というペン・ネームで発表されたものが原型であり、かく戦後、『分割して再発表するにあたって、梅崎は部分的に加筆や削除をほどこしており、とくに』この『「突堤にて」の後半を占めている〈日の丸オヤジ〉のエピソードは完全に戦後の加筆であるが、その他の素材や文体は、ほとんど手つかずのまま当時の作品が流用された』と記されてある。
一部、段落末にオリジナルに語注を施した。]
突堤にて
どういうわけか、僕は毎日せっせと身支度をととのえて、その防波堤に魚釣りに通っていたのだ。ムキになったと言っていいほどの気の入れかただった。太平洋戦争も、まだ中期末期までは行かず、初期頃のことだ。
その防波堤は、青い入海に一筋に伸びていた。突端のコンクリートの部分だけが高くなっていて、そこに到る石畳の道はひくく、満潮時にはすっかり水にかくれてしまう。防波堤の役にはあまり立たないのだ。これは戦争が始まって資材が不足してきたせいで、未完成のまま放置されたものらしい。
だからまだ水のつめたい季節には、引潮のときに渡り、また引潮をねらって戻らねばならぬ。
しかし春も終りに近づいて水がぬるんでくると、海水着だけで釣道具をたずさえ、胸のあたりまで水に没して強引に渡る。帽子の中にはタバコとマッチを入れ、釣竿とビクと餌箱を胸の上にささげ持ち、すり足で歩く。その僕の身体を潮が押し流そうとする。また本来ならば、畳んだ石にカキが隈(くま)なくくっついているのだが、撒餌に使う関係上みんなが金槌で剝がして持ってゆく。剝がした跡には青い短い藻が一面にぬるぬると密生して、草履をはいていても時には辷(すべ)るのだ。辷ると大変だ。潮にさからって元のところに泳ぎ戻るまでには、たいてい餌箱から生餌が逃げてしまっている。逃げられまいと餌箱を空中にささげれば、今度はこちらが海水を大量に飲まねばならない。
餌にも逃げられず、自分も海水を飲まないためには、始めから滑らないように用心するに越したはない。そこで僕らはのろのろと、潮の流れの反対に体を曲げて、長い時間の後三町ほども先にある突端にやっとたどりつくのだ。突端は海面よりはるかに高いから、満潮時でも水に浸ることはなかった。僕はそこでビクを海に垂らし、餌箱を横に置き、コンクリートにあぐらをかいて釣糸をたれる。帽子の中からタバコを振出し、ゆっくりと一服をたのしむのだ。僕のはく煙は、すぐに潮風のためにちりぢりに散ってゆく。
[やぶちゃん注:「三町」約三百二十七メートル。]
その突端の部分は、幅が五米ぐらい、長さが三十米ほどもあったと思う。表面は平たくならされたコンクリートで、雨の時には雨に濡れ、晴れの時には日に灼(や)ける。海をへだてて半里ぐらいのところから、灰色の市街が横長く伸びている。戦争中でもここだけは隔絶された静かな場所だった。
この突堤にその頃集っていた魚釣りの常連のことを僕は書こうと思う。
先に書いたように、満潮時でもこの突堤にたどり着こうというからには、常連たちは万一を考えて水泳術を身につけていなくてはならない。それに一応の体力をも。――しかし僕より歳若いのはこの突堤に、日曜や休電日をのぞいては、ほとんどあらわれなかったようだ。(戦争中のことだからこれは当然だ)。皆僕と同じくらいか、大体に年長者ばかりだった。そして概して虚弱な感じの者が多かった。僕はその前年肺尖カタルをやり、いわばその予後の身分で、医師からのんびりした生活を命じられていたのだ。医者はその僕に、特に魚釣りに精励せよと命令したのではないが、僕の方で勝手に魚釣りなどが予後には適当(オゾンもたっぷりあるし)だろうと、ムキになって防波堤に通っていたわけだ。無為でのんびりというのは僕にはやり切れなかった。今思うと、魚釣りというものはそれほど面白いものではないが、生活の代償とでも言ったものが少くともこの突堤にはあった。それがきっと僕を強くひきつけたのだろう。
[やぶちゃん注:「休電日」戦時中、渇水や石炭不足などから慢性的な電力不足となり、全国で(但し、実施曜日は各地域でバラバラ)電気供給を停止する日を設けていた。
「僕はその前年肺尖カタルをやり」「肺尖カタル」は肺尖(肺の上部の尖端部。鈍円形で、鎖骨の上側の凹部に位置する)のカタル(英語:catarrh:広く、感染症によって生じる諸臓器の粘膜腫脹と、粘液と白血球からなる濃い滲出液を伴う病態。但し、当時は肺尖部に生じたそれは肺結核の初期病変をわざとぼかして称することが多かった。「加答兒」と漢字を当てたりした)。梅崎春生は事実、東京都教育局教育研究所に勤務していた昭和一七(一九四二)年一月、召集を受けて対馬重兵隊に入隊したものの、そこで肺疾患が見つかって即日帰郷となり、同年一杯、福岡県津屋崎療養所、後に福岡市街の自宅で療養生活をしている。]
ここには何時も誰かが釣糸を垂れていた。僕は夜釣りはやらなかったが、夜は夜でチヌの夜釣りがいる。大体二十四時間誰かがここにいることになるのだ。少しずつ顔ぶれはかわって行くようだが、それでも毎日顔を合わせる連中は自然にひとつのグループをつくっていた。この連中と長いこと顔を合わせていて、僕は特に彼等の職業や身分というものを一度も感じたことはなかった。彼等は総体に一様な表情であり、一様な言葉で話し合った。いわば彼等は世間の貌(かお)を岸に置き忘れてきていた。
[やぶちゃん注:「チヌ」条鰭綱スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus
schlegelii の別名、或いは中型の成魚の呼称。主に関西以南で、かく呼ばれる。]
そしてこの連中のなかで上下がつくとすれば、それはあくまで釣魚術の上手下手によるものだった。こういう世界は常にそのようなものだ。碁会所、撞球場、スケートリンク。そんなところのどこでも、上手の人が漠然とした畏敬の対象となるように、この突堤でも上手なやつはやや横柄にふるまうし、初心者は控え目な態度をとる。その傾向があった。意識的でなく、自然に行われていた。しかしそれもはっきりときわ立ったものではない。きっぱりと技術だけが問題になるのではなく、やはりそこらに人間心理のいろんな陰影をはらんでくるようだったが。
そしてこの連中には漠然とではあったけれども、一種の排他的とでも言ったような気分があった。僕が始めてここに来た時、彼等は僕にほとんど口をきいて呉れなかった。僕が彼等と話を交わすようになったのは、それから一ヵ月も経ってからだ。僕だって初めは彼等に変な反撥を感じて、なるべく隔たるようにして釣っていたのだが、どういう潮加減かある日のこと、メバルの大型のがつづけさまに僕の釣針にかかってきたのだ。その日から彼等は僕に口をきき始めた。そして僕は連中の仲間入りを許された。思うに連中の排他的気分というのは、つまりこのような微妙な優越感に過ぎないのだ。僕もこれらに仲間入りして以来、やがてそんな排他的風情(ふぜい)を身につけるにいたったらしいのだが。
[やぶちゃん注:「メバル」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科又はメバル科メバル属メバル(アカメバル)Sebastes inermis 或いは同属の近縁種シロメバル Sebastes cheni・クロメバルSebastes ventricosus の孰れかである。]
たとえば日曜日になると、この防波堤はたくさんの人士でうずめられる。勤人、勤労者、学生、それに女子供などが、休日を楽しみにやって来るのだ。それを突堤の常連は『素人衆(しろうとしゅう)』と呼んで毛嫌いをした。だから日曜日には常連の顔ぶれは半減してしまう。素人衆とならんで釣るのをいさぎよしとしないらしい。素人とさげすみはするものの、しかし僕の見るところでは、両者の技倆(ぎりょう)にそれほどの差異があるようには思えなかった。本職の漁師から見れば両者とも素人だし、それに実際並んで釣ってみると、日曜日の客の方がよけい釣ったりすることがしばしばなのだ。ただ両者に違う点があるとすれば、魚釣りにうちこむ熱情の差、そんなものだっただろう。それにもひとつ、日曜日の客たちは常連とちがって、ここに来てもひとしく世間の貌で押し通そうとするのだ。たとえば人が釣っているうしろで大声で話をしたり、他人のビクを無遠慮にのぞいて見たり、そんなことを平気でやる。そうした無神経さが常連の気にくわなかったのだろう。僕もそれは面白くなかった。
常連と口をきくようになってから、僕は彼等からいろんなことを教えられた。たとえば糸やツリバリの種類、どういう場合にどんな道具が適当であるかなど。また餌の知識。釣具店で売っているデコやゴカイより、岩虫の方が餌として適当であり、さらに突堤のへりに付着する黒貝が最上であることも知った。それから釣竿を自分でつくるなら、この地方における矢竹の産地や分布なども。
[やぶちゃん注:「デコ」。環形動物門多毛綱サシバゴカイ目ゴカイ超科ゴカイ科 Perinereis
属イソゴカイ Perinereis
nuntia var. brevicirris。「岩デコ」「ジャリメ」「スナイソメ」などとも呼ぶ。
「ゴカイ」現在はゴカイ科カワゴカイ属のヤマトカワゴカイ Hediste diadroma・ヒメヤマトカワゴカイHediste atoka・アリアケカワゴカイHediste japonica の三種に分割されているものの総称通称。かつてはカワゴカイ属ゴカイHediste japonicaの正式単一和名と学名で示されてきたが、近年の研究によって、同属の近縁なこれら三種を一種と誤認していたことが判明、「ゴカイ」という単一種としての「和名」は分割後に消滅して存在しないので注意されたい。
「岩虫」多毛綱イソメ目イソメ科 Marphysa 属イワムシMarphysa
sanguinea。「イワイソメ」「マムシ」などと呼ばれる大型種。
「黒貝」斧足(二枚貝)綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ属イガイ Mytilus coruscus。
「矢竹」単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科ヤダケ属ヤダケ Pseudosasa japonica。]
しかし畢竟(ひきょう)そんな道具や餌に凝っても、この突堤で釣れるのは雑魚に過ぎなかった。メバルやボラ、ハゼ、キスゴやセイゴ、せいぜいそんなものだったから。
[やぶちゃん注:「ハゼ」条鰭綱スズキ目ハゼ亜目ハゼ科 Gobiidae に属する多様な種及び体型の似た別な魚類を総称するが、食用目的ならば、天麩羅にして美味いゴビオネルス亜科マハゼ属マハゼAcanthogobius flavimanus である。
「キスゴ」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目キス科 Sillaginidae のキス類、或いは狭義では知られたキス科キス属シロギス Sillago japonica の異名。
「セイゴ」出世魚のスズキ亜目スズキ科スズキ属スズキ Lateolabrax japonicus の呼称の一つであるが、この呼称は地方によって異なる(例えば関東では全長二十センチから三十センチ程度までのものを「セイゴ」(鮬)と呼ぶようだが、私の一般的認識では、もっと小さな五センチから十八センチのものを「セイゴ」と呼ぶように思う)。]
ある日僕は持って行ったゴカイを使い果たしたものだから、常連から得た知識にしたがって、海中にざんぶと飛び込んで黒貝を採坂しようとした。水面近くのは皆採り尽してあるから、かなり深いところまでもぐらねばならない。苦労して何度ももぐり、やっと一握りの黒貝を採ったけれども、さて突堤に上ろうとすれば、誰かに上から手を引っぱって貰わねば上れない。ところが皆知らぬふりをして、釣りに熱中しているふりをよそおって、誰も僕に進んで手を貸そうとして呉れなかったのだ。知らんふりをしているのに、助力を乞うことは僕には出来なかった。莫迦(ばか)な僕は、水泳は医師から禁じられているのにもかかわらず、防波堤の低い部分までエイエイと泳いでしまった。
その時僕はずいぶん腹を立てたが、後になって考えてみると、特に彼等が僕だけに辛く当ったわけではないようだ。そういうのが彼等一般のあり方だったのだ。彼等は薄情というわけでは全然ない。つまり連中のここにおける交際は、いわば触手だけのもので、触手に物がふれるとハッと引っこめるイソギンチャクの生態に彼等はよく似ていた。こういうつき合いは、ある意味では気楽だが、別の意味ではたいへんやり切れない感じのものだった。
こんなことがあった。
その日は沖の方に厭な色の雲が出ていて、海一面に暗かった。ごうごうという音とともに、三角波の先から白い滴がちらちらと散る。三十分後か一時間あとかに一雨来ることだけは確かだった。しかしその時突堤の内側(ここは波が立たない)で魚が次々にかかっていたから、誰も帰ろうとしなかった。雨に濡れたとしても、夏のことだから困ることはないし、第一突堤にやって来るまでに海水に濡れてしまっている。だから皆困った顔をするよりも、むしろ何時もより変にはしゃいでいるような気配があった。
「一雨来るね」
「暗いね」
「沖は暗いし、白帆も見えない、ね」
そんな冗談を言い合いながら、調子よく魚を上げていた。その時、僕の傍の男が、ぽつんとはき出すように言った。
「もっと光を、かね」
もっと光を、というところを独逸(ドイツ)語で言ったのだ。僕はそいつの顔を見た。そいつはそれっきり黙ってじっとウキを眺めている。
[やぶちゃん注:「もっと光を」ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の最後の言葉とされるもの。“Mehr Licht!”で、音写するなら「メア・リィヒト!」。]
その男は四十前後だろうか、どんな職業の男か、もちろん判らない。いつも網目にかがったワイシャツを着込んで、無精髪をぼさぼさと生やしている。さっきの言葉にしても、思わず口に出たのか、誰かに聞かせようとしたのか、はっきりしない。はっきりしないが、僕はふいに「フン」と言ったような気持になった。魚釣りの生活以外のものを突堤に持ちこんだこと、それに対する反撥だったかも知れない。それにまたえたいの知れない自己嫌悪。
この弱気とも臆病ともつかぬ、常連たちの妙に優柔な雰囲気のなかで、ときに争いが起ることもあった。とり立てて言う原因があるわけでもない。ごく詰まらない理由で――たとえば釣糸が少しばかりこちらに寄り過ぎてるとか、くしゃみをしたから魚が寄りつかなくなってしまったじゃないかとか、そんな詰まらないことからこじれて、急にとげとげしいものがあたりにみなぎってくるのだ。しかしそれが本式の喧嘩(けんか)になることはまれで、四辺(まわり)からなだめられたり、またなだめられないまでも、うやむやの中に収まってしまう。しかしそんな対峙の時にあっても、そいつら当人の話は、相手を倒そうという闘志にあふれているのではなく、両方とも仲間からいじめられた子供のような表情をしているのだ。そのことが僕の興味をひいた。彼等は二人とも腹を立てている。むしゃくしゃしている。が、それは必ずしも対峙した相手に対してではないのだ。それ以外のもの、何者にとも判然しない奇妙な怒りを、彼等はいつも胸にたくわえていて、それがこんな場合にこうした形で出て来るらしい。うやむやのままで収まって、また元の形に背を円くして並んでいる後姿を見るたびに、僕は自分の胸のなかまでが寒くなるような、他人ごとでないような、やり切れない厭らしさをいつも感じた。そういう感じの厭らしさは、僕がせっせと防波堤に通う日数に比例して、僕の胸の中にごく徐々とではあるが蓄積されてゆくもののようだった。
[やぶちゃん注:「対峙」二つの対象(勢力)が向き合ったまま、動かないでいること。]
一度だけ殴(なぐ)り合いを見た。
その当事者の一人は『日の丸オヤジ』だった。
日の丸オヤジというのは、僕よりもあとにこの突堤の常連に加わってきた、四十がらみの色の黒い男たった。背は低かったが肩幅がひろいし、指も節くれ立ってハリや竿のさばきがあまり器用でない。工員というタイプの男だ。
この日の丸オヤジはいつもの態度は割におどおどしている癖に、へんに図々しいところがあった。いつも日の丸のついた手拭いを持っている。腰に下げていることもあるし、鉢巻きにしていることもある。工場からの配給品なのだろう。そこで日の丸オヤジという仇名がついていた。もっともこの突堤では、常連はお互いに本名は呼び合わない。略称か仇名かだ。ここは本名を呼び合う『世間』とはちがう、そんな暗黙の了解が成立していたからだろう。
その日の丸オヤジがナミさんという男と言い合いになった。どういう原因かと言うと、餌の問題からだ。大の男たちがただの餌の問題で喧嘩になってしまった。
その日、日の丸オヤジは持ってきた餌を全部魚にとられてしまったのだ。
そこで日の丸オヤジががっかりして周囲を見廻すと、コンクリートの地肌の上をゴカイが二匹ごそごそと這っている。これさいわいとそれを摑(つか)んでハリにつけたと言うのだが、ナミさんの言によるとそのゴカイは自分の餌箱から逃げ出したもので、逃げ出したことは知っていたが、魚の方で忙しかったし、たかがゴカイの脚だからあとで摑えようと思ったとのこと。それを勝手にとったのは釣師の仁義に反すると言うのだ。
僕らは口を出さず、黙って見ていた。
すると両者の言い合いはだんだん水掛論になってきた。たとえばゴカイが逃走して、餌箱から何尺離れたら、そのゴカイの所有権はなくなるか、と言ったようなことだ。こういうことはいくら議論したって結論が出ないにきまっている。
誰も眺めているだけで止めに出ないものだから、ついに日の丸オヤジが虚勢を張って、何を、と立ち上ってしまった。ナミさんもその気合につられたように立ち上ったが、そのとたんに二人とも闘志をすっかり失ってしまったらしい。あとは立ち上ったその虚勢を、如何にして不自然でないように収めるか、それだけが問題のように見えた。ところがまだ誰も仲裁に入らない。見物している。
二人は困惑したようにぼそぼそと、二言三言低声で言い争った。そして日の丸オヤジはおどすようにのろのろと拳固をふり上げた。それなのにナミさんがじっとしているものだから、追いつめられた日の丸オヤジはせっぱつまって、本当にナミさんの頭をこつんと叩いてしまったのだ。
叩かれたナミさんはきょとんとした表情で、ちょっとの間じっとしていたが、いきなり日の丸オヤジの胸をとって横に引いた。殴(なぐ)った日の丸オヤジは呆然としていたところを、急に横に押され、よろよろと中心を失って、かんたんに海の中にしぶきを立てて落っこちてしまったのだ。泳ぎがあまり得意でないと見えて、あぷあぷしている。
そこで皆も大さわぎになり、濡れ鼠になった日の丸オヤジをやっとのことで引っぱり上げたが、可笑しなことには、下手人のナミさんが先頭に立って、シャツを乾かすのを手伝ったりして世話を焼いたのだ。そして別段仲直りの言葉を交わすこともしないで、漠然と仲直りをしてしまった。シャツが乾いて夕方になると、いつもは別々に帰るくせに、この日に限ってこの二人は一緒に談笑しながら防波堤を踏んで帰って行った。
正当に反撥すべきところを慣れ合いでごまかそうとする。大切なものをギセイにしても自分の周囲との摩擦を避けようとする、この連中のそんなやり方を見て、やっと彼等に対する僕のひとつの感じが形をはっきりし始めたようだった。もちろんその中に僕自身を含めての感じだが、それはたとえば道ばたなどで不潔なものを見たときの感じ、それによく似ているのだ。
日の丸オヤジはこの突堤へ二ヵ月ほども通って来ただろうか。そしてある日を限りとして、それ以後姿を全然あらわさなくなった。へんな男たちから連れて行かれてしまったのだ。
[やぶちゃん注:最終一文の「から」はママ。]
その日は秋晴れのいい天気で、正午をすこし廻った時刻だったと思う。丁度引潮時で、突堤と岸をむすぶ石畳道はくろぐろと海水から浮き上っていた。その道を踏んで、見慣れない風態の男が三人、突端の方に近づいてきた。見慣れない風態というのは、釣り師風ではないというほどの意味だ。石の表のぬるぬる藻で歩きにくいと見え、靴を脱いで手に持ち、裸足に縄をくるくる巻きつけている。近づいてきたのを見ると、その一人は警官だった。そして彼等はヤッとかけ声をかけて突軽に飛び上った。
あとの二人もがっしりした体つきの、いかにも権力を身につけた顔つきをしていた。
僕らはもちろんそ知らぬ顔で糸をたれたり、エサをつけかえたりしていた。
「……はいないか」
と警官が大きな声を出した。警官の制服で足に縄を巻きつけている図は、なんとも奇妙な感じだった。
日の丸オヤジはその時弁当のニギリ飯を食べていたが、ぎくりとしたように警官の方にむき直った。
「お前だな!」
背広姿の男の一人が日の丸オヤジを見て、きめつけるように言った。日の丸オヤジは、ヘエッ、というような声を出して、どういうつもりかニギリ飯の残りを大急ぎで口の中に押し込んだ。
「ちょっと来て貰おう」
「ヘエ」
日の丸オヤジは口をもごもごさせながら、釣道具をたたもうとしたが、思い直したようにそれを放置して、男たちの方に進み出た。背広の一人が言った。
「釣道具、持って来たけりゃ持って来てもいいんだぞ」
「ヘエ、いいんです」
「じゃ、早く来い」
と警官が言った。日の丸オヤジはうなだれて、まだ口をもごもご動かしながら警官の前に立った。その時背広の一人が僕らを見廻すようにして、
「ヘッ、この非常の時だというのに、こいつら呑気に魚釣りなどしてやがる」
とはき出すように言った。僕らはそっぽ向き、また横目で彼等を眺めながら、誰も何とも口をきかなかった。
やがて日の丸オヤジは三人に取り巻かれるようにして突堤を降り、石畳道を岸の方にのろのろと遠ざかって行った。その情景は今でも僕の瞼の裡にありありとやきついている。
日の丸オヤジがどういうわけで連れて行かれたのか、僕は今もって知らない。あるいは工場に徴用され、それをさぼって魚釣りなどをしていたのをとがめられたのか。常連たちもそれについて論議をたたかわすことは全然しなかった。外見からで言うと、日の丸オヤジはその翌日から常連のすべてから忘れ去られてしまった。
オヤジの釣道具、放棄したビクや釣竿などは、誰も手をつけないまま、三日ほど突堤上に日ざらしになっていた。そして三日目の夜の嵐で海中にすっかり吹っ飛んでしまったらしい。四日目にやって来たら、もう見えなくなってしまっていた。
豹
――巴里の動物園で
リルケ 茅野蕭々譯
格子(かうし)の通り過ぎる爲めに
彼の眼は疲れて、もう何にも見えない。
彼には数千の格子があるやうで、
その格子の後に世界はない。
しなやかに強い足なみの音もない步みは
最も小さな輪をかいて𢌞つて、
大きな意志がしびれて立つてゐる
中心を取卷く力の舞踊のやうだ。
唯をりをり瞳の帷が音もなく
あがる。――すると形象は入って
四肢の緊張した靜さを通つて行く――
そして心で存在を止(や)めるのだ。
[やぶちゃん注:第三連一行目の「唯」は底本では「唯〻」となっているが、これは後の「リルケ詩集」で踊り字が加えられたものを底本は採用しているからである。しかし「唯〻」では「ただただ」と読むのが尋常であるが、ここは「ただ」で読む方が遙かに達意し、「ただただ」では屋上屋で厭味である。「リルケ詩抄」の表記に従い、「唯」のみとした。「唯〻」で「ただ」と読むと主張する向きには全く以って不同意である。なお、「帷」は「とばり」で、瞼(まぶた)の比喩。]
(はじめての薔薇が眼ざめた。)
リルケ 茅野蕭々譯
はじめての薔薇が眼ざめた。
その匂は臆病に
ごく小聲の笑のやう。
燕のやうな平らな翼で、
さつと日をかすめた。
そしてお前の側では
未だ凡てが氣づかはしい。
ものの光もおづおづと、
どの音も未だ馴れないで、
夜は新らし過ぎ、
また美は羞恥(はぢらひ)だ。
(この村に最後の家が立つてゐる。)
リルケ 茅野蕭々譯
この村に最後の家が立つてゐる。
地の果ての家のやうに寂しく。
小さい村が止めない街路は
靜に闇へ出てゆく。
この小村はただ二つの廣いものの
過渡だ。予知多く又氣づかはしく
小橋の代りに家々の傍を過ぎてゆく路。
かうして村を出る人々は長く彷徨ひ、
途上に死ぬものも多からう。
[やぶちゃん注:「止めない」は「とどめない」と訓じたい。「街路」を「小さい村」は「止」(とど)「めない」=「遮り遮断することをしない」のである。だからこそ、その「街路」は「靜」かに「闇へ」と向かって延び「出」(い)でて「ゆく」のである。]
[やぶちゃん注:まず、ネット上で最も知られていない「手帳」類から拾い始めることとする。
まず、「手帳6」(旧全集「手帳(六)」)の末尾に載る六篇を示す(リンク先は私の最新の芥川龍之介「手帳」の電子化注の末尾部分である)。本「手帳6」の記載推定時期は、新全集後記に『これらのメモの多くは中国旅行中に記された、と推測される』とある(芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は大正一〇(一九二一)年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。但し、構想メモのある決定稿作品を見ると、大正一〇(一九二一)年(「影」同年九月『改造』)が最も古い時期のもので、最も新しいのは「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月『中央公論』)であるが、それは創作素材としてであって、以下の詩篇はやはり、大正一〇(一九二一)年の中国特派の旅行中或いは帰国後の同年中に記されたものと考えてよいと思う。これはしかし、実は非常に重要な問題を提起するものである。それは最後に記す。なお、先のリンク先を見て貰うと判るが、この六篇の後に、
○人食ふ人ら背も矮く ひそと聲せず 身じろがず
という不気味な七・五・七・五の定型文語詩が載っているが(「矮く」「ひくく」と訓じているか)、これは分かち書きもしておらず、内容面(如何にも不気味で鬼趣と言える)からも、私は前の六篇の詩群とは別個なものと採って、「澄江堂遺珠」との親和性は低いと判断し、採らなかった。]
○光はうすき橋がかり
か行きかく行き舞ふ仕手は
しづかに行ける楊貴妃の
きみに似たるをいかにせむ
[やぶちゃん注:以下、六篇の定型文語詩は、恐らく、「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿と採ってよい。次の一篇の私の注も参照されたい。そうすれば、これらが原「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群であることを否定しようという人は誰もおらぬはずである。]
○光はうすき橋がかり
靜はゆうに出でにけり
昔めきたるふりなれど
きみに似たるを如何にせむ
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、
光は薄き橋がかり
靜はゆうに出でにけり
昔めきたるふりながら
君に似たるを如何にせむ
と酷似している。しかも、前の一篇は一行目が本篇と全く一致している。だからこそ、これらは明らかに「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿なのである。]
○女ごころは夕明り
くるひやすきをなせめそ
きみをも罪に墮すべき
心強さはなきものを
[やぶちゃん注:この一篇は、私が本『「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅱ』の『■2 岩波旧全集「未定詩稿」』(末尾に『(大正十年)』という編者クレジットを持つ詩群)の中に、
女ごころは夕明り
くるひやすきをなせめそ
きみをも罪に堕すべき
心強さはなきものを
と相同の一篇が載る。但し、『■2 岩波旧全集「未定詩稿」』の冒頭注で既に述べた通り、この詩群は旧全集編集者(恐らくは中でも堀辰雄)による操作が加えられた可能性が極めて高い、問題のあるテクストである。]
○遠田の蛙きくときは(聲やめば)
いくたび夜半の汽車路に
命捨てむと思ひけむ
わが脊はわれにうかりけり
[やぶちゃん注:この一篇も、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、
遠田の蛙聲やめば
いくたび■よはの汽車路に
命すてむと思ひけむ
わが夫はわれにうかりけり
(「■」佐藤が一字不明とするものを、かく示した)と酷似している。さらに言えば、先の■2の中にもこれがあり、そこでは実に最終行に、「わが夫(せ)はわれにうかりけり」とルビが振られているのである。]
○松も音せぬ星月夜
とどろと汽車のすぐるとき
いくたび
わが脊はわれにうかりけり
[やぶちゃん注:前の一篇と最終行が完全に一致している。]
○墮獄の罪をおそれつつ
たどきも知らずわが來れば
まだ晴れやらぬ町空に
怪しき虹ぞそびえたる
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う断片(完全でない)、
たどきも知らずわが來れば
ひがしは暗き町ぞらに
怪しき虹ぞそびえたる
などと、よく似ている。特に「怪しき虹ぞそびえたる」は芥川龍之介の好んだフレーズで、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」草稿と思しいものに複数箇所、発見出来るのである。
さて、これらの詩篇が問題なのは、これが推定で、大正一〇(一九二一)年の中国特派の旅行中或いは帰国後の同年中に記されたものである点にある。
一般的には、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」は芥川龍之介が最後に愛した歌人片山廣子に捧げられた詩篇であると信じられている向きがあり、私自身も、概ね、そう理解してきたのであるが、それはこの六篇には適用出来ないのである。
芥川龍之介が片山廣子に強い恋愛感情を持つようになるのは、現在では大正一三(一九二四)年七月の避暑に行った軽井沢での本格的な邂逅以後のことであり(但し、大正五年六月に廣子の歌集「翡翠(かわせみ)」の評を龍之介は『新思潮』に書いており、翌年の七月以降には最初の接触はあった)、これらの詩篇は実にそれよりも三年も前に書かれたものである可能性が高いからである。
即ち、少なくとも、これら六篇をものした折りの詩人芥川龍之介の、「月光の女」、恋愛対象の女性は片山廣子ではないということである。
私はそれが誰だったかについては、例えば、鎌倉の料亭「小町園」の女将野々口豊(とよ)辺りを想起は出来るが、断定はし兼ねる(しかも私は芥川龍之介が愛した女性では海軍機関学校教官時代の同僚の物理教師佐野慶造の妻佐野花子(彼女の書いた「芥川龍之介の思い出」を私は最近、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で全電子化注し、注を外したベタ・テクストも公開してある)と片山廣子以外の女性には、実はあまり興味が湧かないことをここで告白しておく)。ただ、大正八年に不倫関係を持った歌人秀しげ子ではなかったと断言は出来るように感ずる。何故なら、龍之介はこの時既に、秀しげ子には失望し、憎悪さえ抱いていたと推定され、彼が中国特派に出たのも、一面ではストーカー的な秀しげ子からの逃避感情があったからではないか、とさえ私は感じているからである。
孰れにせよ、私がこのブログ・カテゴリを『「澄江堂遺珠」という夢魔」』としたのは、そうした一筋繩ではいかない芥川龍之介の複雑な人間関係や恋愛感情抜きには、「澄江堂遺珠」を全解析することは出来ぬからなのである。
但し、「手帳6」(旧全集「手帳(六)」)の末尾注で記した通り、除外したこの後に出る、
○人食ふ人ら背も矮く ひそと聲せず 身じろがず
という一篇は私に直ちに、「湖南の扇」のエンディングで、名妓玉蘭が処刑された愛人黄老爺の血を滲み込ませたビスケットの一片を「あなたがたもどうかわたしのやうに、………あなたがたの愛する人を、………」と言って「美しい齒に嚙」むコーダのシークエンスを想起させる。そうして、そういった視点からフィード・バックすると、実は前の六篇の詩篇も含めて、これらは「湖南の扇」のモデルとなった、先に出る「支那人饅頭を血にひたし食ふ」という聴き書きのエピソードを元に創作した仮想詩篇であるような気もしてくる、即ち、これら六篇の詩篇は実在する芥川龍之介の愛した誰彼を設定したものではなく、そうした空想した強烈な愛と性(生)に生きる女傑へのオマージュであるように思えてもくるのである。大方の御叱正を俟つ。]
○漢口のバンド プラタナス アカシア (支那人不可入)芝生 ベンチ 佛蘭西水兵 印度巡査 路の赤 樹幹の白 垣のバラ 讌月樓 水越ゆる事あり(大正四年?) Empire Holiday. 燕
[やぶちゃん注:「バンド」英語の“bund”で、埠頭のこと。
「讌月樓」現代仮名遣で「えんげつろう」であるが、不詳。因みに「讌」は「宴(うたげ)」の意である。旅館や料理屋よりも、女郎屋の名前っぽい気が私にはする。
「大正四年」一九一五年。芥川龍之介特派の六年前。
「Empire Holiday」は五月二十四日を指している 即ち、これは“Empire
Day”で“Commonwealth Day”の旧称、ヴィクトリア女王の誕生日であるイギリス連邦記念日である。芥川龍之介は大正一〇(一九二一)年五月二十四日の朝、廬山を出発、九江から大安丸に乗船して漢口に向かった。漢口到着は二十六日頃であるから、この記載は、溯上し終えた最後の日に纏めて記したメモかとまずは思われる。しかし、実は彼は漢口から五月二十九日に長沙に出かけ、その後に洞庭湖を見たと思われ、新全集の宮坂覺氏の年譜では、再度、漢口に六月一日頃に戻っているらしい(年譜は推定で書かれてある)から、時系列を考えると、これはその時にそれら総てを纏め書きしたものとも思われる。]
○京漢線 車室――fan. 小卓 ベッドNo3. boyの□ 沿道――麥刈らる 靑草に羊群 墓の常緑 牛 驢 土壁
[やぶちゃん注:「京漢線」現在の鉄道路線である京広線(北京西から広州に至る路線で全長二千三百二十四キロメートル)の北側部分(北京から漢口までの間)。一九〇六年四月に開通した時点でこの路線を「京漢線」と呼称した。
「fan」扇風機。
「□」は底本の判読不能字。
「驢」ロバ。]
○穴居門 方形アアチ 方形石積 門ニ對聯 門外ニ塀アリ 屋上即畑 ○赤土 草 ポプラア 層 ○鞏縣前殊に立派なり
[やぶちゃん注:「穴居門」不詳。
「鞏縣」現在の河南省鄭州(ていしゅう)市の県級市鞏義(きょうぎ)市。芥川龍之介は鄭州で京漢線を降りて隴海線(ろうかいせん)に乗り換え、洛陽に向かっているので通過している。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
○洛水 蘇岸の家 舟 偃師縣後風景明媚 ――後 洛水に沿ふ 旋風を見る 羊 畑 井戸 麥刈らる
[やぶちゃん注:「洛水」黄河の支流の一つである「洛河」のこと。古くは「洛水」の名で知られる。参照したウィキの「洛河」によれば、『華山西南部の陝西省洛南県を源とし、東の河南省に流れ込み、河南鞏義で黄河に入る。全長』四百二十キロメートルと、非常に長い』。『大きい河川ではないが、中国中部の歴史上最も重要な地区を流れているため、中国国内では非常に有名な河川である。洛河周辺の重要な都市は盧氏、洛寧、宜陽、洛陽、偃師、鞏義などがある。三国時代の曹植作の有名な「洛神賦」は洛水の女神に仮託して故人の情懐を述べ表している』とある。
「蘇岸」不詳。
「偃師縣」現在の河南省洛陽市にある県級市偃師(えんし)市。かの玄奘三蔵の出生地である。]
○忠義神武靈佑仁勇威顯關聖大帝林 (石龜 圍――龍 )建安二十四年洛陽城南 ○乾隆三十三年河南府知府李士适 ○丹扉 煉瓦壁 丹柵 柏 白馬 白羊
[やぶちゃん注:「忠義神武靈佑仁勇威顯關聖大帝林」
「建安二十四年」後漢の元号。二一九年。
「乾隆三十三年」清の元号。一七六八年。
「河南府知府李士适」(一七九八年~?)は日本語の音なら「リ シカツ」。但し、中文サイトで見ると、彼が河南府知府に任ぜられたのは、乾隆三十五年である。芥川龍之介が「五」を「三」に読み違えたか、或いは旧全集編者の誤読かも知れぬ。
「丹扉」「丹柵」丹(に)塗りの扉・柵の謂いであろう。]
○睿賜護國千祥庵 碑林 煉瓦門 草長し ○迎恩寺 麥の埃の香 薄暮 路の高低 大寺(タアシイ)だと云ふboy.
[やぶちゃん注:「睿賜護國千祥庵」「睿賜」とは唐朝の皇帝睿宗(えいそう)が創建したということか? 「千祥庵」は、Q&Aサイトの答えに、かつて洛陽にあった寺院で、解放前には古代の石刻を多く所蔵していたらしい、とある。
「迎恩寺」中文サイトを見ると、現在の洛陽市内に現存する模様。「福王朱常洵」(明朝の第十四代皇帝の三男)の事蹟を記した邦文のページに、洛陽の、この寺の名が出るが、同一かどうかは不明。
「(タアシイ)」はルビではなく、本文。「大寺」の中国語“dàsì”の音写であるが、正確には「ダァスゥ」である。]
〇龍門 25淸里 高梁一尺 麥刈らる 麻 驢六(藍) 步四(鼠) 小使二(白) 騾逐ひ(白衣藍袴) 那一邊是龍門(ナイペンシロンメン)○十尸村は泥上の如し(村四つ) 裸の子供 皆指爪をいぢる 立て場の屋前 葭天井あり 刈しままの黍天井あり 燒餠(シヤオピン) 麻餠(マアピン)(汽車中) 糯の中に棗を入れしもの(チマキ式) 茹玉子 魚の油揚
[やぶちゃん注:「龍門」現在の河南省洛陽市の南方約十三キロメートルのところにある、後に出る伊河の両岸に存在する石窟寺院である龍門石窟のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「龍門石窟」によれば、『北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した』四九四年から始まる非常に古い石窟寺院である。『仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、龍門期』(四九四年~五二〇年)『と呼ばれる時期の始まりである』。『龍門石窟の特徴は、その硬さ、すなわち雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖岩質であることである。そのため、北魏においては雲岡のような巨大な石窟を開削することが技術的にできなかった』。「魏書」の「釈老志」にも、五〇〇年に、『宣武帝が孝文帝のために造営した石窟は、規模が大きすぎて日の目を見ず、計画縮小を余儀なくされた顛末を記している』。『様式上の特徴は、面長でなで肩、首が長い造形であり、華奢な印象を与える点にある。また、中国固有の造形も目立つようになり、西方風の意匠は希薄となる。裳懸座が発達して、装飾も繊細で絵画的な表現がされるようになる』。最初期は五世紀末の『「古陽洞」窟内に見られる私的な仏龕の造営に始まる。宣武帝の計画を受けて開削された「賓陽洞」』三窟(後出)の内、『実際に北魏に完成したのは賓陽中洞のみであり、南と北洞の完成は唐の初期であった。その他、北魏時期の代表的な石窟としては、「蓮華洞」が見られる。また、北魏滅亡後も石窟の造営は細々とながらも継続され、「薬方洞」は北斉から隋にかけての時期に造営された石窟である』。『唐代には、魏王泰が賓陽』三『洞を修復し、褚遂良に命じて書道史上名高い』「伊闕仏龕碑を書かせ」、六四一年に『建碑した。初唐の代表は』、六五六年~六六九年『(顕慶年間〜総章年間)に完成した「敬善寺洞」である。その後、「恵簡洞」や「万仏洞」が完成し、この高宗時代に、龍門石窟は最盛期を迎えることとなる』。『絶頂期の石窟が』、六七五年に『完成した「奉先寺洞」である。これは、高宗の発願になるもので、皇后の武氏、のちの武則天も浄財を寄進している。その本尊、盧舎那仏の顔は、当時既に実権を掌握していた武則天の容貌を写し取ったものと言う伝説があるが、寄進と時期的に合わず今では否定されている。また、武則天は弥勒仏の化身と言われ尊像としても合わない。龍門最大の石窟である』。『武則天の時代には、西山の南方、「浄土洞」の付近まで造営が及んだので、武則天末より玄宗にかけての時期には、東山にも石窟が開削されるようになった。「看経寺洞」がその代表である』とある。因みに、芥川龍之介の配下と目された作家たちは芥川龍之介の生前から「龍門」と呼ばれたから、そういう意味でも彼にはここは何か親しみを感ずるものがあったのかも知れぬ。
「25淸里」清代の一里は五百七十六メートルであるから、十四キロメートル強。
「騾」は、奇蹄目ウマ科ウマ属Equusのウマとロバの交配種ラバ(騾馬)Equus
asinus♂× Equus caballus♀。因みにラバは不妊である。
「(ナイペンシロンメン)」及び「(シヤオピン)」「(マアピン)」は総てルビ。「那一邊是龍門」“nà yībiān shì lóngmén”(ナ イピエン シ ルゥォンメン)で「ここら一帯が龍門です」の意。
「燒餠」は“shāobĭn”(シァオピィン)、「麻餠」は“mábĭn”(マァーピィン)。前者はうどん粉を練って薄くのしたものを焼いて表面にゴマをまぶしたもの。後者は甘い餡饅(あんまん)の一種かと思われる。
「步」不詳。「步兵」で軍服を着た人間のことか?
「騾逐ひ」ラバを追う農夫であろう。
「那一邊是龍門(ナイペンシロンメン)」始めっから、例の教え子にオンブにダッコした。それによれば、意味は「あの辺りが龍門です」である。但し、通常なら「那邊是龍門」と言うところであるが、「一」を入れることによって場所を特定させるための、ワン・クッション効果が高まるという。教え子はここに『更にご参考までに申し上げれば、北方では「那邊」を「ネイビエン」と読むのが自然です(「一」が入った場合の発音と近いので敢えて付記しました)』と附記し、『蛇足ですが、もし「哪一邊是龍門」だと疑問文「どのあたりが龍門ですか?」なので要注意です』と教えて呉れた。これは「那」が第四声、「哪」は第三声で、声調によって意味が異なってくるからだそうである。さて、「那一邊是龍門」をピンインで表記すると“nà yī biān shì lóng mén”で、カタカナの最も近い表記は「ナーイービエンシーロンメン」だということである。謝謝!
「十尸村」不詳。村名としては何だか、洒落にならない気がするのだが。]
○洛水の渡し――伊水 對岸に香山寺あり 賓陽三洞(案内人曰中央ハ中央、右ハ右云々) 左の洞に竈あり 燻る事最甚し 洞に至る前もう一洞あり perhaps 蓮華洞 その洞前水を吐く所あり 石欄 靑石標 樹木 見物人支那人二三人 車にのりし女 乞食と犬と立て場に食を爭ふ 男は梅毒
[やぶちゃん注:「伊水」洛河の支流で洛陽の南方を流れ、龍門石窟を抜ける。先の龍門石窟の地図データを参照されたい。
「香山寺」龍門石窟の向い側の川岸に「香山」という山があり、石穴の数は少ないがやはり山腹に石窟がある。ここに白居易が長年住んだ香山寺があり、彼の墓所もここにある。
「賓陽三洞」「龍門」の注を参照。個人サイト「おもしろくない? タイリポート」の中の「西安・洛陽旅行記」の「河南省・龍門石窟~賓陽三洞の歴史~」が画像もあり、歴史も詳しく載っている。
「竈」「かまど」。
「燻る」「くすぶる」。
「蓮華洞」龍門」の注を参照。やはり、個人サイト「おもしろくない? タイリポート」の中の「西安・洛陽旅行記」の「河南省・龍門石窟~蓮花洞~」に解説があり、窟内の画像も素敵! 行ってみたくなった。]
○鴻運東棧囘々教 豚を忌む 道士ト店 北京の骨董屋 庭中に大鉢植 醋の匀 マアチヤンの群 星空 吉田博士の宿 アラビヤ字の軸 珈琲 棧房Chan (tsan) fan.
[やぶちゃん注:「鴻運東棧」ここで切れているのではあるまいか? これは恐らく旅館の名ではないか?
「囘々教」「豚を忌む」で判る通り、イスラム教のこと。
「道士ト店」の「ト」は表記通り、カタカナ「ト」であるが、ここで格助詞「と」がカタカナになるのはやや不自然にも思える。回教寺院の中に道士と売店の取り合わせというのも妙である。一つの可能性として「道士卜店」で、道士による占いを生業とする店舗という意味ではあるまいか?
「醋」「す」。酢。
「マアチヤン」は“merchant”(商人)の謂いか。
「棧房Chan (tsan) fan」は旅館の室房。「棧」の音をウエード式ローマ字で示した“chàn”(拼音“zhàn”:チァン)に、発音しやすい類似音表記である“tsan”を併記し、「房」の音“fáng”(ウエード式・拼音共通:ファン)を簡易表記で示したものであろう。即ち、「棧房」の中国音「チャンファン」のメモである。]
○洛陽 停車場――支那町 不潔――石炭場――黑土――左に福音堂(米) 右に城壁――麥黃――乞食
[やぶちゃん注:「福音堂(米)」アメリカの宣教師が建てた教会の意か?]
○鄭州 兵營(grey) 練兵 馬 乞食(臥) 室は白 龍舌蘭二鉢 白い拂子bedにかかる
[やぶちゃん注:「拂子」「ほつす(ほっす)」「ほっ」も「す」もともに唐音。元来はインドで虫や塵を払うための具で、獣毛や麻などを束ねて柄をつけたもの。後世、中国・日本で僧が説法などで威儀を正すために用いる法具となった。]
○光はうすき橋がかり
か行きかく行き舞ふ仕手は
しづかに行ける楊貴妃の
きみに似たるをいかにせむ
[やぶちゃん注:以下、六篇の定型文語詩は、恐らく、芥川龍之介の遺稿を佐藤春夫が編集した昭和八(一九三三)年三月岩波書店から刊行された芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿と採ってよい。私は既に同作を注附きで公開しており(HTML横書版・PDF縦書版)、ブログ・カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔」』では徹底追及を進行中である。次の一篇の私の注も参照されたい。そうすれば、これらが原「澄江堂遺珠Sois
belle, sois triste.」の詩群であることを否定しようという人は誰もおらぬはずだからである。]
○光はうすき橋がかり
靜はゆうに出でにけり
昔めきたるふりなれど
きみに似たるを如何にせむ
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、
光は薄き橋がかり
靜はゆうに出でにけり
昔めきたるふりながら
君に似たるを如何にせむ
と酷似している。しかも、前の一篇は一行目が本篇と全く一致している。これらは明らかに「澄江堂遺珠Sois belle, sois triste.」の詩群の最初期草稿なのである。]
○女ごころは夕明り
くるひやすきをなせめそ
きみをも罪に墮すべき
心強さはなきものを
[やぶちゃん注:この一篇は、岩波版旧全集に於いて――昭和六(一九三一)年九月発行の雑誌『古東多方(ことたま)』から翌七年一月発行の号まで、四回に亙って「佐藤春夫編・澄江堂遺珠」として掲載され、後、昭和八(一九三三)年三月岩波書店から芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠
Sois belle,sois triste. 」に収められ、その後、昭和一〇(一九三五)年七月発行の「芥川龍之介全集」(それを普及版全集と称する)第九巻に「未定詩稿」の題で所収された――と全集後記で称する(これは正しい謂いではないので注意! それについては、『やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅱ ■2 岩波旧全集「未定詩稿」』の冒頭注を参照されたい)ところの末尾に『(大正十年)』という編者クレジットを持つ詩群の中に、
女ごころは夕明り
くるひやすきをなせめそ
きみをも罪に堕すべき
心強さはなきものを
と相同の一篇が載る。]
○遠田の蛙きくときは(聲やめば)
いくたび夜半の汽車路に
命捨てむと思ひけむ
わが脊はわれにうかりけり
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois
belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う一篇、
遠田の蛙聲やめば
いくたび■よはの汽車路に
命すてむと思ひけむ
わが夫はわれにうかりけり
(「■」佐藤が一字不明とするものを、かく示した)と酷似している。さらに言えば、旧全集未定稿詩篇の中にもこれがあり、そこでは何と! 最終行に、「わが夫(せ)はわれにうかりけり」とルビが振られているのである。]
○松も音せぬ星月夜
とどろと汽車のすぐるとき
いくたび
わが脊はわれにうかりけり
[やぶちゃん注:前の一篇と最終行が完全に一致している。]
○墮獄の罪をおそれつつ
たどきも知らずわが來れば
まだ晴れやらぬ町空に
怪しき虹ぞそびえたる
[やぶちゃん注:この一篇は、「澄江堂遺珠 Sois
belle,sois triste. 」に収められた、抹消されていると佐藤が言う断片(完全でない)、
たどきも知らずわが來れば
ひがしは暗き町ぞらに
怪しき虹ぞそびえたる
などとよく似ている。特に「怪しき虹ぞそびえたる」は芥川龍之介の好んだフレーズで、「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. 」草稿と思しいものに複数箇所、発見出来るのである。]
○人食ふ人ら背も矮く ひそと聲せず 身じろがず
[やぶちゃん注:「矮く」「ひくく」と訓じているか。不気味な七・五・七・五の定型文語詩であるが、分かち書きもしておらず、内容面(如何にも不気味で鬼趣と言える)からも、私は前の六篇の詩群とは別個なものと採る。
但し、この一篇は私に直ちに、「湖南の扇」のエンディングで、名妓玉蘭が処刑された愛人黄老爺の血を滲み込ませたビスケットの一片を「あなたがたもどうかわたしのやうに、………あなたがたの愛する人を、………」と言って「美しい齒に嚙」むコーダのシークエンスを想起させる。そうして、そういった視点から見ると、実は前の六篇の詩篇も含めて、「湖南の扇」のモデルとなった先に出る「支那人饅頭を血にひたし食ふ」という聴き書きのエピソードを元に創作した仮想詩篇であるような気もしてくるのである。
以上で、芥川龍之介の手帳6は終わっている。]
○天心第一女子師範學校 古稻田 white in black. 附屬幼稚園 附屬高等小學校 國民學校 green in wood. 門内はイボタの生垣 右美育園 草花 ○縫紉 樂歌 作文 國文 手工 硯墨 石磐 一齊に答ふ 〇二階 裁縫室 圖書室 女子白話旬報(机上) 石膏の果物 圖書少 用器畫の形 一級より二人を出し整理す ○議事會辨公室 董事禽辨公室――小學義會 ○不要忘了今日 我校的運動會(verse libre) ――小學作文 ○自治週刊 文會週報○study, essay, story, poetry. ○私有財産Vermögen――Copy from a book. 新國語(Peking 來) ○寄宿舍 rape があるといけませんから ○蒙養部 白壁四方 柘榴 無花果 ブランコ 遊動圓木(touching) 製作(貼紙) ダンベル ボオト 木馬 ブラン(藤の) 砂(大箱中)
[やぶちゃん注:「天心第一女子師範學校」「附屬高等小學校」及び「rape があるといけませんから」は先に引いた「雜信一束」の「七 學校」に出る。
「white in black.」不詳。「古稻田」が黒で、その中に「天心第一女子師範學校」の白い建物があるという景観を描写したものか?
「green in wood.」これは、「附屬幼稚園」「附屬高等小學校」「國民學校」の方は木立或いは林か森の中に緑色の建物としてあったというのであろう。
「イボタ」キク亜綱ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属イボタノキ Ligustrum obtusifolium の大陸亜種と思われる。
「美育園」保育園か。
「縫紉」「ハウヂン(ホウジン)」。裁縫。以下、「手工」までは学科(授業)名であろう。
「硯墨 石磐」反日であるから、生徒の使用している筆記用具は総て〈中国製の〉硯と墨と石板だというのであろう。
「女子白話旬報」当時、刊行されていた『北京女報』『女學日報』などと並ぶ女性雑誌の一つ。
「用器畫の形」意味不明。
「一級より二人を出し整理す」各クラスから選出した図書係か。
「議事會辨公室」職員室か職員用会議室か?
「董事會辨公室」「董事」(とうじ)は「取締役」のことだから、理事会室か理事会会議室か?
「小學義會」小学校の職員室は別にあるということか?
「verse libre」はフランス語の“vers libre”の誤記で、「自由詩」のことであろうから、どこかに小学生の「不要忘了今日 我校的運動會」というそれが記されていたのであろう。
「自治週刊」「文會週報」不詳。或いは、同校内部で発行されていた政治的な自治週刊誌或いは同人総合週刊誌か? なお、この時、芥川龍之介は実は、若き日のかの毛沢東と、この長沙でニア・ミスしていた可能性もあるのである。
「Vermögen」はドイツ語で「財産がある」という意味であるから、「私有財産Vermögen」で、
「私有財産を持っている・保有する」という意味であろう。
「Copy from a book.」本から書写したもの。
「新國語(Peking 來)」当時、北京で刊行されていた公的な中国語教科書か。
「蒙養部」初等幼児教育科の謂いか。ここに出る「幼稚園」や「小學校」との違いはよく判らぬ。中文サイトの「蒙養院」によれば、清の一九〇三年に創設され、六、七歳から入学、修業年限は四年とある。
「touching」はここでは、みすぼらしく哀れな感じのする、の意か。
「ブラン」不詳。既に前出している「ブランコ」の脱字か。藤蔓で出来たブランコなら納得がゆく。]
○洞庭 入口は蘆林潭 水中に松見ゆ(冬は河故) 所々に赤壁風の山 帆影 水は濁れどやや綠色を帶ぶ 模糊として山影あり 税關にて造らせし浮標 船中香月氏と聊齋志異を談ず 湖上大筏見ゆ 扁山君山を左舷に望む (五時) 偏山の上に僧舍あり 遠く岳陽樓を見る(右) 「不潔なり 兵士大勢居り糞を垂る」と云ふ(香月氏) 君山は娥星女英の故地なり 岳州の白壁癈塔見ゆ 岳陽樓 三層 黃瓦に綠卍(最上屋) 樹左右 左に城壁連る
[やぶちゃん注:「洞庭」洞庭湖のこと。芥川龍之介は大正一〇(一九二一)年五月二十九日に訪れているが、「長江游記」本文には全く現れない。やはり「雜信一束」で、
*
五 洞庭湖
洞庭湖は湖(みづうみ)とは言ふものの、いつも水のある次第ではない。夏以外は唯泥田の中に川が一すぢあるだけである。――と言ふことを立證するやうに三尺ばかり水面を拔いた、枯枝の多い一本の黑松。
*
芥川のこの記載はメモにある通り、干上がったその無惨な(荒涼としたでも、汚いでもよい)洞庭湖を見たことのみを表明している。大正一〇(一九二一)年五月三十日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)では、自作の定型歌を掲げ、『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』とし、同じく同日附松岡譲宛旧全集九〇五書簡(絵葉書)では、『揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした』とさえ記している(中国中東部の長江中・下流域の平原部は「長江中下游平原」或いは無数の湖沼の間を水路が縦横に走ることから「水郷沢国」と呼ばれる)。以上から見て、芥川は詩に歌われ、古小説の美しい舞台として憧憬していた洞庭湖に、実は実見直後、激しく失望していたことが明らかである。
「蘆林潭」「ろりんたん」。地名。湘陰県蘆林潭。ここで湘江が洞庭湖に注ぐ。
「赤壁」湖北省の東部、武漢より下流の長江北岸に臨む地。後漢末の二〇八年に曹操と孫権の間で行われた「赤壁の戦い」の古戦場推定地であり、蘇軾の「赤壁賦」で夙に知られる名勝。ここは無論、「風の山」で「それらしい感じを与える山」である。
「香月氏」不詳。姓で「こうづき」であろう。
「扁山」ここ(教え子が送ってくれた画像)。
「君山」ウィキの「洞庭湖」に、『昔は洞庭湖の中に浮かぶ島であった君山(くんざん)』『は、現在は岸とつながっているが、かつて多くの道士が隠棲しており、湘江の女神・湘君が遊んだところとして知られる。現在は君山銀針という希少な中国茶の産地である。岳陽楼付近から船で渡ることができる』。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「五時」不詳。方位か?
「偏山」不詳。前の「扁山」と同じか。しかし位置的には「遠く岳陽樓を見る」というのはおかしくなる。何故なら、長江を遡上した場合は、まず「右」ではなく左手に「岳陽樓」を間近に見ることになるからである。この時、龍之介は船で長江を遡上したのではなく、洞庭湖の北の端辺りから船に乗ったのだろうか? この辺り、地形が錯雑していて、地図だけではどうも解き明かせない。どなたか、この私の一連の痙攣的不審を解いて戴けないだろうか? 以上のように注したところ、教え子が即日、先に示した画像とともに、以下の非常に興味深い見解をメールで呉れた。実は、この長沙と洞庭湖を訪れた芥川龍之介の行動は研究者の間でもブラック・ボックスで、よく判っていないようである。或いは以下の教え子の見解が芥川龍之介中国特派のこのやや不明な行程を明らかにする新開地となるようにも思われるので、本人の許可を得て全文を公開することとした。
《引用開始》
この芥川龍之介の洞庭湖通過は、長沙訪問の後に於けるものではなかったか。私の見たネット上の資料では、龍之介は長沙訪問の後、水路で漢口に戻り、そこから陸路(鉄道)で鄭州に向かったように見える。龍之介の記載は長沙訪問後、船が北上していた際のものではないか? 手帳上でも長沙の後に記載が出てくるのは、そのためではないか。しかも洞庭湖の南部、長沙方面から流れ込む湘江と洞庭湖が出会う「蘆林潭」の三文字の後に「岳陽」の記載が出て来るのだから、その確信は深まる。だとすれば、君山を左舷に見るのは自然だ。扁山というのは、岳陽楼の西南約七キロ、君山の東南東約五キロにある小さな島のことではないか(岳陽楼・君山・扁山の位置関係を示すために「百度地図」の画像写真を示す[やぶちゃん注:前掲の画像。])。ここでは「扁山」と「偏山」を同じものとして論を進める。さて、岳陽の遙か南から北上してくる船が、「君山」と「扁山」を視界に捉えた時、その船首が向いている方向によっては、「君山」と「扁山」を、ともに左舷に望むことがあっても不自然ではない。いやそれよりも、件の「百度地図」を衛星画像にしてみると、「扁山」の東側を多数の船が行き交っているのがわかる。すなわち、龍之介の乗った船が「扁山」の東を通過すれば、「君山」と「扁山」をともに左舷の視界に収めるのは自然なことである。船がその後で右舷に「岳陽楼」を見ることは、言うまでもない。いや、そもそも「岳陽楼」という、大自然の広大さに比べれば芥子粒の如くにちっぽけな建造物は、十分に近づかなければ、その姿を認め得ないのである。
私が岳陽楼に船で向かったのは、たしか一九九七年の夏であった。妻と三才の娘と私を載せて重慶から長江を下ってきた大型客船は、洞庭湖の北端で停泊し、私はそこから小型船に乗り換えて岳陽楼に向かった。折しも、天を覆う霧雨と濃霧の中を進んでいく船からは、扁山はおろか君山さえも眼にすることはできなかった。方向感覚を奪う白い世界を船は往く。その時、突然、幕が開くかのように眼の前に現れたのが岳陽楼であった。私は今でも、その時の岳陽楼がこの世のものではなかったのではないか、再び陸路で向かっても二度と辿り着ける場所ではないのではないかと夢想し、恍惚としてしまうのである。龍之介が訪れた際の洞庭湖が情けない白け切った姿であったことを、私はとても残念に思う。
《引用終了》
最後に。かく、私の不審を霧を払うように拭って呉れた教え子に、心から謝意を表するものである。
「娥星女英」これは中国神話中の女神「娥皇」(姉)と「女英」(妹)の判読ミスであろう。ウィキの「娥皇」によれば、『娥皇(がこう)は、古代中国の伝説上の女性。堯の娘で、妹の女英とともに舜の妻となった。また娥肓、倪皇、後育、娥盲、娥娙とも書かれた。姓は伊祁氏。舜の父母や弟はたびたび舜を死地に置いたが、舜は娥皇と女英の機転に助けられて危地を脱した。舜が即位して天子となると、娥皇は后となり、女英は妃となった。聡明貞仁で天下に知られた。舜が蒼梧で死去すると、娥皇と女英は江湘の間で自殺し、俗に湘君(湘江の川の神)となったと伝える』とあり、位置的も符合する。
「岳州の白壁癈塔」不詳。
「岳陽樓」洞庭湖の東北岸に建つ、高さ二〇・三五メートルの三層木造建築の楼閣。眼下に広大な洞庭湖、北に長江を臨む雄大な景観で知られる。参照したウィキの「岳陽楼」より引く。『黄鶴楼、滕王閣と共に、江南の三大名楼のひとつとされ』、『後漢末、赤壁の戦いの後』、『呉の魯粛が水軍を訓練する際の閲兵台として築いたものがこの楼の始まりとされる』。『唐代、岳州に刺史として左遷されてきた張説が』七一六年に『魯粛の軍楼を改修して』『岳州城(岳陽城)の西門とし、南楼と称した』。『「岳陽楼」の名もこの頃につけられた』。『張説が才子文人と共にこの楼で詩を賦してからその名が高まり』、『後に孟浩然や李白ら著名な詩人たちもここを訪れて詩を賦し』、『「天下の楼」とうたわれた』。『当時の楼は現在のものより小規模で背も低かったと言われる』。『現在の建物は清代の』『再建であり、その飛檐(反りの大きな軒)は清代建築に特徴的なものである』。杜甫の「登岳陽樓」(岳陽樓に登る)が最も知られる(引用元に載る)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
○酒じみの疊に蚊たかり居る空き間
[やぶちゃん注:中七字余りの俳句。]
○西村が文鳥の占を見て貰ふ
[やぶちゃん注:前に続いて私は中七字余りの俳句と採る。「占」は「うら」。所謂、本邦にもあった鳥占いである。現在の台湾でのそれをpu2898氏の動画(その後の別な方の別方式の投稿動画も有り)で見られる。]
○支那富豪金を銅貨にし(37俵)貯ふ 銀行はつぶるる故
○鄭州 早川 島田 日華實業協會 災民施療所 (doc. 二人、Nurse 一人)(nurse 二人shankel)トラフオーム 75%(内地は15%)膀胱結石(二つ 一は大福大) 兵士多し トラフオームの老婆 一眼紫色 一眼治療前 治療は眶の皮を切り縫ひ上ぐ for 睫毛内面にむき角膜を磨擦しスリ硝子の如くすればなり 兵士のシャンケル April-July, 平均300(April-July, 149. 新舊合せて)
[やぶちゃん注:「鄭州」現在の河南省の省都である鄭州(ていしゅう)市。
「早川」不詳。
「島田」不詳。以下の「日華實業協會」の職員か。
「日華實業協會」「神戸大学附属図書館」のデジタル・アーカイブの「日華實業」に、大正六(一九一七)年に「神戸商工会議所」内に「日支実業協会」が設置され、大正一三(一九二四)年に「神戸日華実業協会」と改名したとある(現在も存続する)。但し、芥川龍之介の渡中は大正一〇(一九二一)年であり、まだ「日支實業協會」であったから、違うかも知れぬ。
「災民施療所」「日華實業協會」が運営する飢民を対象とした診療所か。
「shankel」「シャンケル」はドイツ語の“kranker”(所謂、「クランケ」。実際にネィテイヴのそれは「クランカ」と聴こえる)、「患者・病人」の誤りではなかろうか?
「トラフオーム」トラコーマ(Trachoma)。クラミジア・トラコマチス(真正細菌界クラミジア門クラミジア綱クラミジア目クラミジア科クラミジア属Chlamydia
trachomatis)を病原体とする急性及び慢性の角結膜炎。伝染性感染症で、主に目と性器に感染する。重症化すると失明する(現在でも世界で年間六百万人がこれで失明しているとウィキの「トラコーマ」にある)。
「膀胱結石(二つ 一は大福大)」芥川龍之介はその「災民施療所」を実際に見学し、そこでこの二つの膀胱結石を見せて貰ったのであろう。龍之介は、この手の標本を見るのが、実は好きである。
「眶の皮を切り縫ひ上ぐ for 睫毛内面にむき角膜を磨擦しスリ硝子の如くすればなり」「眶」は「まぶち」「まぶた」(瞼)と読む。ウィキの「トラコーマ」によると、トラコーマは重症化すると、『上眼瞼が肥厚することがある。その結果』、『睫毛が偏位し、角膜に接触するため、瞬きするたびに角膜を刺激し、角膜潰瘍を引き起こす。そこに重感染が起こることで、失明や非可逆性の病変を残すこととなる』とある。
「April-July, 平均300(April-July, 149. 新舊合せて)」この数値の違いの意味はよく判らない。]
○災童收容所 右胸に姓名を書きし紙札 白服 算 修身 讀本 先生白服
[やぶちゃん注:児童対象の養護施設らしい。これも或いは「日華實業協會」の事業の一つか。]
○乞食 臥老人 夜あひし乞童 全裸體の子供
○錢舜擧 終南山歸妹圖(鍾馗嫁妹圖)○錢舜擧 蕭翼蘭亭圖(元ノ兪紫文の書)○黃尊古 仿梅道人江山秋色圖○載士醇○蘆鴻滄館○曾國藩 日本畫の猿 安思翁?
[やぶちゃん注:「錢舜擧」(せんしゅんきょ)は元代の画家。浙江省呉興の生まれ。名は選、舜挙は字(あざな)、号に王潭・巽峯など。宋の景定年間(一二六〇年~一二六四年)に進士となったが、宋滅亡後は官途に就かなかった。詩・書画ともに巧みで、殊に人物・山水・花鳥画を能くした。生年未詳で、一三〇一年以後に没したと思われる(思文閣「美術人名辞典」に拠った)。
「終南山歸妹圖(鍾馗嫁妹圖)」現代仮名遣で「しゅうなんざんきめいず(しょうきかめいず)」と読む。疫病や悪霊を防ぐ勇壮な神鍾馗が自分の妹を嫁に出すという逸話に基づく。後世に作話されたものらしいが、加藤徹氏の「京劇城」に、落語みたような面白い京劇「鍾馗嫁妹」の分かり易い解説が載る。
「蕭翼蘭亭圖」これは「蕭翼賺蘭亭圖」(しょうよくたんらんていず)の脱字であろう。「賺」は「騙す」の意で、唐の太宗の使者蕭翼が山深い庵に住む僧辯才を訪ね、王羲之の知られた名筆「蘭亭序」を騙し取るという故事を画題としたもの。
「兪紫文」不詳。識者の御教授を乞う。
「黃尊古」清代の画家。
「仿梅道人江山秋色圖」不詳。ただ、ネット検索では明代の画家藍田叔の作に「仿梅道人山水卷」という書画があることだけは判る。
「載士醇」これは「戴醇士」の芥川龍之介の誤記か、全集編者の判読ミスではなかろうか。「戴醇士」(たいじゅんし)なら、清末の画家戴熙(たいき 一八〇一年~一八六〇年)の字である。ウィキの「戴熙」によれば、『浙江省銭塘(現在の杭州市)出身』で、一八三二年に『進士となり、翰林院編修となった。広東学政、内閣学士を経て兵部右侍郎に至り、退官後は崇文書院の主講となった。太平天国の乱が発生すると団練』(だんれん:清代の地方に存在した武装集団。地方の有力者が盗賊等から郷鎮を自衛するために自発的に組織した民兵組織。)『を組織して杭州の防衛にあたった』。一八六〇年に『太平天国軍が杭州を陥落させると、戴熙は池に身を投じて自殺した。死後、文節の諡号が贈られた』。『筆致は厳しく雄大である。また竹石小品や花卉画も善くした』。同じ清朝の画家湯貽汾(とう いふん 一七七八年~一八五三年)とともに『画名をはせ、「湯戴」と称された。『山水長巻』や『重巒密樹図』などの作品が残されている』とある。
「蘆鴻滄館」不詳。
「曾國藩」(一八一一年~一八七二年)は清末の軍人政治家。湖南省湘郷県の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。詳しくはウィキの「曽国藩」を参照されたい。
「安思翁」不詳。]
嚴肅な時
リルケ 茅野蕭々譯
いま世界の中の何處かで泣いてゐる、
理由なく世界の中で泣いてゐる人は、
私を泣くのだ。
いま夜に何處かで笑つてゐる、
理由なく夜に笑つてゐる人は、
私を笑ふのだ。
今世界の中の何處かに步いてゐる、
理由なく世界の中に步いてゐる人は
私へ步いてゐるのだ。
今世界の中の何處かで死ぬ、
理由なく世界の中で死ぬ人は、
私を見つめてゐる。
○北海碑(墻門) 石階 筧 雜草 麓山寺碑亭(白かべ) ○劉中丞祠 崇道祠(コノ中ニ朱シアリ) 六君子堂 梧桐 芭蕉 ザクロノ花 ○劉人熈 湖南督軍都督 墓――半成
[やぶちゃん注:「北海碑」「北海」は盛唐の名臣で書家としても知られる李邕(りよう 六七八年~七四七年)のこと。玄宗の時、北海太守に任命されたことから、世に「李北海」と称された。ウィキの「李邕」によれば、『英才で文名高く、また行書の名手であった。碑文の作に優れ、撰書すること実に』八百本に『のぼり、巨万の富を得たといわれる』。『晩年は唐の宗室である李林甫に警戒され、投獄され杖殺されて非業の死を遂げた』とあり、これは彼「北海」の書いた麓山寺「碑」のことであろう。建碑は七百三十年で碑文は二十八行・各行五十六字から成るもので、書体は行書、『湖南省長沙の嶽麓書院に現存する。碑の篆額には「麓山寺碑」の』四字を『刻し、碑末の年記の次に「江夏黄仙鶴刻」とあるが、仙鶴とは李邕のことであるという。碑は宋代の頃から、剥落がひどく、拓本で佳品は稀である。麓山寺は嶽麓寺(がくろくじ)ともいわれることから、この碑を『嶽麓寺碑』ともいう』とある(下線やぶちゃん)。中文ブログのこちらで、碑が現認出来る。なお、麓山寺(ろくざんじ)は長沙市の岳麓山にある仏教寺院で、西晋の二六八年の建立。弥勒菩薩・釈迦如来・五百羅漢像・千手千眼観音菩薩を祀る(ここはウィキの「麓山寺」に拠った)
「墻門」「しやうもん(しょうもん)」建物の門口のこと。前の注のブログ写真を見ると、少なくとも現行では碑のための鞘堂の如きものがあって、その戸口の直近に碑が建っているのが判る。
「麓山寺碑亭(白かべ)」芥川龍之介が別な碑を誤認したのではなく、前の「北海碑」の私が鞘堂みたようなと言った建物を指すならば、中文ブログ写真で判る通り、現在は黄土色に塗られている(その写真を見るに、屋根は龍之介の来訪時のものかも知れぬが、壁はかなり新しい感じである。或いは、龍之介拝観当時とは場所が移っている可能性もあるか)。
「劉中丞祠」不詳。「劉中丞」は検索では中文サイトでかなり掛かるが、読めないので比定出来ない。次の「湖南大学岳麓書院数字博物館」の岳麓書院の紹介ページには見た感じでは、この祠はない。現存しない可能性もあるか。
「崇道祠」ウィキの「岳麓書院」によれば、一五二七年、長沙知府王秉良(へいりょう)が増築した建物で、南宋の優れた儒者朱熹を祀るもののようである(中文であるが、「湖南大学岳麓書院数字博物館」公式サイト内のこちらを見られたい)。
「六君子堂」ウィキの「岳麓書院」に、一五二六年に六君子堂(朱洞・李允則・劉珙・周式・陳鋼・楊茂元)が学道許宗魯と知府楊表によって建立された、とある。「湖南大学岳麓書院数字博物館」の中に「改建六君子堂碑記」の画像と解説が載る。
「劉人熈」宮原佳昭氏の、清末から一九二〇年代にかけての教育行政について記された論文「近代における湖南省教育会について」の中に、湖南教育総会設立(一九〇七年)当初の会長は劉人煕であった、とある。また、サイト「小島正憲の凝視中国」の「上海の毛沢東 vs 北京の孔子」に、辛亥革命後の一九一四年に、『王船山に傾倒していた湖南開明派の劉人煕が船山学の普及のため、湖南省長沙の地に「船山学社」を創設した』。一九一九年に『劉人煕が死去したあと、閉鎖状態になっていたものを』、一九二一年、『湖南第一師範学校を卒業した毛沢東がマルクス主義の教育と宣伝のために「湖南自修大学」として再開した。もっぱら自学自習に重点が置かれており、最盛期には』二百人ほどの『学生が学んでいたという』。一九二三年、『危険思想を教えているという理由で、軍閥政府によって強制的に閉鎖された』とある「劉人煕」と同一人物であろう。
「半成」半分までしか出来ていないの謂いか?]
○愛晩亭 錢南園 張南軒 二南詩刻 ○岳麓寺(万壽寺) 古刹重光(赤壁) 設所釋氏佈教ダンモハン養成所 香積齋堂 山路 雲麓宮 望湘亭
[やぶちゃん注:「愛晩亭」ウィキに写真附きで「愛晩亭」がある。『湖南省長沙市にある亭』(四阿)。『醉翁亭、陶然亭、湖心亭と共に、江南四大名亭の』一つと『される。清代の』一七九二年、『当時の岳麓書院の院長であった羅典によって建立』された、とある。
「錢南園」清の官僚で画家でもあった錢灃(せんほう 一七四〇年~一七九五年)の号である。彼は湖南学政であったことがある。
「張南軒」南宋の儒学者(朱子学の濫觴のグループに属する)で政治家であった張栻(ちょうしょく 一一三三年~一一八〇年)の称の一つ「南軒先生」。ウィキの「張栻」によれば、『広漢(四川省)の出身。宰相・張浚の子として生まれ、将来の大儒を目指して胡宏(五峰)に学ぶ。初めは直秘閣に任じられ、その後は地方官を歴任し、中央に戻ってからは吏部侍郎から右文殿修撰になった。金に対して主戦論を保持し、たびたび国防・民政に関する上奏を奉じ、宰相・虞允文からは疎まれたが』、『孝宗の信任は厚かった。後に王夫之は『宋論』のなかで張栻を「古今まれに見る大賢ではあるが、王安石以来の人材迫害・言論弾圧に懲りて世間を離れることに努め、才能を振るおうとしなかった」と惜しんでいる』とある。ウィキの「岳麓書院」によれば、一一六五年、『湖南安撫使の劉珙は書院を修復する。張栻が書院教事に就任する』。一一六七年、『儒学者の朱熹はここに』於いて講義を行い、一一九四年には湖南安撫使となっていた『朱熹は書院を重修した』とある(下線やぶちゃん)。
「二南」不詳としたら、即座に教え子が調べて呉れた。こちらの中文サイトのページに解説が載り、こちらの別の、やはり中文サイトのページで岳麓書院にある当該碑の写真が見られる。教え子がその一部を訳して呉れたので転載する。『傾斜した石畳を下ってゆくと、もう、愛晩亭は近い。愛晩亭に行く前に、まず、放鶴亭へ。そこには二南の詩碑がある。二南というのは張南軒と銭南園。張は道学者、銭は第一級の人物。屢々汚職官吏を弾劾した誉れ高い方々。詩や書画などにおいても名声を馳せている』。そうか、銭「南」園と張「南」軒で「二南」か。脳の硬直化した私はそれにさえ気づいていなかった。
「岳麓寺(万壽寺)」中文ウィキの「麓山寺」に、同寺は明の神宗から「万壽寺」の称を賜った旨の記載がある。
「古刹重光」不詳。現在は「重光寺」という寺院を長沙には見出せない。
「設所釋氏佈教ダンモハン養成所」不詳。「釋氏佈教」は、釈迦の教えである仏教に基づくの謂いであろうけれども、「ダンモハン」で検索を掛けると、悲しいかな、私の「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」しか掛かってこないのだ。
「香積齋堂」不詳。但し、「香積」(こうしゃく)とは「香気に満ちた世界」の意で、「維摩経香積品」によれば、そこに住む如来の名(香積如来)でもあるとされるから、ここはそれを斎(いつ)き祀る堂とも採れる。しかし、実はその「香りの満ちた場所」の意から転じて、禅宗では食事を調理する庫裡(くり)をも「香積」と呼び、また「齋」は本邦の「とき」であって、禅僧の御前中の一日ただ一回の食事を指す語でもある。龍之介が禅寺の厨(くりや)の名称をわざわざメモに記すとも思われぬので、一応、前者で採っておく。
「雲麓宮」現在の長沙市岳麓山にある道観(道教寺院)。ウィキに「雲麓宮」がある。明代の一四七八年に『吉簡王・朱見浚により創建された。当時は洞真観と称した』。嘉靖(一五二二年~一五六六年)年間に『太守孫複と道士李可経は道観を再建』、隆慶(一五六七年~一五七二年)に『再建された際、関聖殿(前殿)、玄武祖師殿(中殿)、三清殿(後殿)の建立にあたっては、従来通り』、『復元することが求められた。明末、清兵入関の火難で、道観は両度焼き捨てられた』。清代の一六六二年、『長沙分巡道張睿は道観を再建した。乾隆年間』(一七三六年~一七九五年)『は道観を重修した』。一八五二年、『道観は戦災で壊された』。道光(一八二一年~一八五〇年)年間、『望湘亭が修築され』一八六二年には『望江亭、五岳殿、天妃殿、宮門を増築した。翌年、武当山太和宮道士の向教輝が資金を募り全面修復した』。この後の、一九四四年の『日中戦争の時、雲麓宮は日本軍の戦闘機で爆破された』。一九四六年、『道士鄔雲開と呉明海が資金を募』って『全面重建し、翌年に落成した』。一九五七年に地元政府が修復をしたが、『文化大革命の初め、神像、法器は徹底的な破壊に遭い、道士はしかたなく還俗した』。一九七六年、『関帝殿を修復』とある(下線やぶちゃん)。
「望湘亭」前の道観雲麓宮にある亭。前注下線部参照。]
〇二階 白 天窓 三段の書架 35万卷 經史子集 宋 元板は上海に送つた 元板の文選 北宋金刻本の捭雅 南宋本ノ南岳 總勝集 端方贈(巡撫時代の紀念) ○紺ノ馬掛子 金のメガネ 白皙 葉尚農(德輝) ○白壁 甎 天井高し 伽藍ノ感ジ ○板木ニ朱卜黑ト二種アリ ○高イ墻の屋根ニ小サナ木ガ生エテヰル ○入口 門(黑) 石敷 植木鉢 室輿四五(綠色の蔽) 皇帝畫像
[やぶちゃん注:「元板」彫琢した印刷用版木の原板の謂いであろう。
「捭雅」不詳。
「南岳」中身は判らぬが、中文サイトに『宋刻本』『南岳稿』という書か。
「總勝集」宋の陳田夫撰になる湖南の地誌「南嶽總勝集」。「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典籍総合データベース」のこちらで読める。
「端方」清末の満州族出身の官僚端方(ドゥワン ファン 一八六一年~一九一一年)。ウィキの「端方」によれば、一八八二年に『挙人となり、員外郎、候補郎中を歴任した。戊戌の変法を支持したが、戊戌の政変後には栄禄(ジュンル)と李蓮英の保護を受けて、処罰を免れた』。一八九八年、『直隷霸昌道に任命されたが、朝廷が北京に農工商局を創設すると、端方は召還されて局務を任された』。その折り、勧善歌を上呈して『西太后の称賛を受けて、三品頂戴を授かった』。『その後、陝西省に派遣され、按察使、布政使、巡撫代理を歴任した』。一九〇〇年、『義和団の乱により北京が』八カ国連合軍に『占領され、西太后と光緒帝は陝西省に逃れた。端方はその応対に功績があったとして、河南布政使に転任し、さらに湖北巡撫に昇進』、一九〇二年には『湖広総督代理となり、さらに両江総督代理や湖南巡撫を歴任した』。一九〇五年、『北京に呼び戻され、閩浙総督に任命されたが就任する前に、載沢(ヅァイジェ)・戴鴻慈・徐世昌・紹英(ショーイン)とともに外国へ立憲制度の視察に赴くように命じられた』(但し、『出発日に革命派の呉樾の自爆テロがあったため、出発は延期され、徐世昌と紹英が李盛鐸と尚其亨に交代し』ている)。十二月七日、『軍艦で秦皇島から上海に赴き』、十二月十九日に『アメリカ船で上海を出発した。五大臣は日本、アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、オーストリア=ハンガリー、ロシアの十ヶ国を視察し、翌年の』八月に『帰国した。帰国後、視察の結果を総括して、『請定国是以安大計折』を上奏し、日本の明治維新にならって憲法を制定することを主張した。さらに自ら編纂した『欧美政治要義』を献上した。これは立憲運動の重要な著作とみなされている』。『帰国後、両江総督となり』、一九〇九年に『直隷総督となった』。一九一一年、『清朝の鉄道国有化政策に対して四川省で保路運動が展開されると』、九月に『朝廷は四川総督の趙爾豊を解任し、端方に代理を命じた。端方は新軍を率いて資州に入ったが』、十一月二十七日に『新軍の反乱が起き、端方は刺殺された』。『端方は中国の新式教育の創始者の一人である。湖北・湖南巡撫にあったときには各道・府に師範学院を創設した。江蘇巡撫在任時には中国初の幼稚園「湖北幼稚園」と省立図書館を創設し、多くの留学生を派遣した。両江総督在任時には南京に暨南学堂(現在の暨南大学)を設立した』。『湖北幼稚園は張之洞が設置を計画し、後任の端方が』一九〇三年に『担当者を日本に派遣し、教材教具の購入と保母として日本人教習』三名を招請、『その中の元東京女子高等師範学校教諭だった戸野みちゑが初代園長に就任し』、一九〇四年に開園させている。戸野らは一八九九年に『公布された日本の「幼稚園保育及設備規程」を元に「湖北幼稚園開弁章程」を作成し、中国における公的な幼児・女子教育制度の先鞭となった』とある(下線やぶちゃん)。
「巡撫」明・清時代の地方長官職。「巡行撫民」の略で、当初は中央から派遣される臨時職であったが明の宣徳年間(一四二六~三五)頃から主要地方に常設され、省又はその一部を管轄するようになった。
「馬掛子」「馬掛兒(マアクワル)」(măguàér)のことであろう。日本の羽織に相当する上衣で対襟となったもので、「掛」は本来は「褂」が正しい。
「白皙」「はくせき」。皮膚が白いこと。
「葉尚農(德輝)」葉徳輝(一八六四年~一九二七年)は清末から民国初期の考証学者にして蔵書家。内藤湖南や徳富蘇峰など、多くの日本人と交流があったことでも知られる。以上は深澤一幸氏の論文『葉徳輝の「双梅景闇叢書」をめぐって』(PDF)に拠った。
「甎」音で「セン」と読み、「磚」「塼」の字も当てる。東洋建築に用いられた煉瓦 のこと。正方形や長方形の厚い板状のもので、周代に始まって漢代に発展、城壁・墓室などに用いられた。
「墻」「かき」。音は「シヤウ(ショウ)」。垣根。障壁。
「室輿」不詳。貴人の邸宅で、椅子の下部の脚下)に竿がついていて、時には座ったままで、移動可能なものを言うか(脚下としたのは轎のように中間部で出っ張っていては、却って座るのに不便であるからである)。識者の御教授を乞う。]
○家ノ大イナルハ木材卜石材多キニヨル
○大平亂以後十八省ノ巡撫湖南人トナル ソノ上米ヨク出來ル 故ニ町立派ナリ 學校モ多シ ――古川氏の話
[やぶちゃん注:「大平亂」太平天国の乱。清朝の一八五一年から一八六四年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織「太平天國」によって起きた。「長髪賊の乱」とも称する。
「古川氏」不詳。在中の現地日本人案内人であろう。]
○湖南長沙蘇家巷怡園 葉
[やぶちゃん注:「長沙蘇家巷怡園」の「怡園」(いえん)は、長沙に蘇家巷という小路にあった葉徳輝の邸のこと。先に示した深澤一幸氏の論文『葉徳輝の「双梅景闇叢書」をめぐって』(PDF)を参照のこと。]
○張繼堯〔湯(弟)〕ト譚延闓トノ戰の時張の部下の屍骸土を蔽ふ事淺ければ屍骸湘江を流る
[やぶちゃん注:「張繼堯」これは恐らく、清末から中華民国初期の軍人張敬堯(ヂャン
ジンヤオ ちょうけいぎょう 一八八〇年~一九三三年)の誤りであろう。北京政府及び軍閥の安徽派に所属、後に北方各派・満州国に属した軍人で安徽省霍丘出身。武昌蜂起後の湖北で戦い、一九一五~一九一六年の護国軍の討伐等に参加、一九一八年には段祺瑞(だんきずい)の命を受けて湖南省督軍兼代理省長となったが、専横著しく、一九二〇年六月には直隷派の呉佩孚(ごはいふ)や馮玉祥(ふうぎょくしょう)及び趙恒愓(ちょうこうてき)らによって戦わずして職を追われた。その後、奉天派の張作霖を頼るも、一九二二年の第一次奉直戦争で奉天派が敗れるや、呉佩孚に寝返った。一九三二年には今度は満州国軍に所属、日本軍に連携した諜報活動に従事するも、国民党特務機関のヒットマンに刺殺された。
「湯(弟)」不詳。
「譚延闓」(タン ユエンカイ たんえんかい 一八七九年~一九三〇年)は湖南省茶陵県出身の軍人。一九一二年に袁世凱から湖南都督に任命されたが、同年八月の国民党成立後はこれに参加、国民党湖南省支部長となった。一九一三年の第二革命では省の独立宣言をするも失敗、その後、一九一五年の護国戦争勃発後は当時の湖南都督の専横に対する追放運動が湖南省で発生、一九一五年七月には、当時の湖南都督を追放、一九一六年八月に北京政府から湖南省長兼督軍に任命されている。その後の政権抗争で一時辞職するが、一九二〇年六月には湖南督軍張敬堯を追放、湖南省督軍兼省長に復帰している。しかし、今度は湘軍総司令趙恒愓ら湖南省軍内の権力者との内部抗争が激化、内乱に発展、それを鎮圧出来なかったために、同年十一月に辞職して湖南省から退いた。その後、一九二二年には孫文に接近、一九二三年に大元帥府内務部長から建設部長兼大本営秘書長となり、同年七月には、孫文から湖南省省長兼湘軍総司令に任命され、仇敵趙恒愓と激戦を展開した。趙恒愓は直隷派の呉佩孚から支援を受けて戦局は膠着したため、孫文の命により戦線を離れ、広東省へ向かい、広州での一九二四年の中国国民党第1回全国代表大会で中央執行委員会委員に選出された。孫文の死後も国民党の軍属とし活躍、蒋介石の北伐の後方支援を担った。一九二八年に初代国民政府主席や初代行政院院長を歴任している。実はこの芥川龍之介のメモの、「張繼堯」「ト譚延闓トノ戰の時張の部下の屍骸土を蔽ふ事淺ければ屍骸湘江を流る」というのは、彼の「湖南の扇」に、『「ああ、鳶が鳴いてゐる。」/「鳶が?………うん、鳶も澤山ゐる。そら、いつか張繼堯(ちやうけいげう)と譚延闓(たんえんがい)との戰爭があつた時だね、あの時にや張の部下の死骸がいくつもこの川へ流れて來たもんだ。すると又鳶が一人の死骸へ二羽も三羽も下りて來てね………」』と利用されているのであるが、以上の二人の事蹟を時系列で並べて頂くと分かるのだが、二人がそれぞれの頭目として戦った「張繼堯と譚延闓との戰爭」に相当するものは、ない、と言ってよい。一九一五年の護国戦争及び一九二〇年六月の湖南督軍張敬堯追放時に接点があるが、前者を「張繼堯と譚延闓との戰爭」と呼称するには無理があり、後者は多くの記載が「戦わずして」「追放」という語を用いている。逢えて言うなら、後者によって名前が知られるようになった、この二人が、嘗て加わったところの護国戦争の惨状を、極めて乱暴な非歴史的な形で表現した、と取ることは可能かもしれない。筑摩全集類聚版の「湖南の扇」の脚注では「張繼堯」の表記を「張敬堯」の誤りとし、しかも、さらにそれを湘軍総司令「趙恒愓」の誤りととっているように読める。即ち、一九二三年の「趙恒愓と譚延闓との戦争」(中国で「譚趙之戦」と呼称)ととっている節(ふし)がある。そこでは確かに川面に死体累々たる惨状があったかも知れない(あったであろう)。しかし、それは、ない、のである。何故なら、この主人公及び芥川龍之介が中国に渡航したのは一九二一年だからである。芥川はもしかすると(本篇の執筆は一九二六年)、その後の軍閥抗争の事実と誤ったか、もしくは確信犯で擬似的虚構をここに持ち込んだのかもしれない。現在、この件については中国史の専門家に検討を依頼している(以上は私の「湖南の扇」の注を引いた。但し、残念ながら、二〇一六年十二月現在、依頼した方からの答えは、ない)。]
○日淸汽船の傍、中日銀行の敷地及税關と日淸汽船との間に死刑を行ふ 刀にて首を斬る 支那人饅頭を血にひたし食ふ ――佐野氏
[やぶちゃん注:これも「湖南の扇」で美事に利用されている。
「日淸汽船」清末から中華民国期にかけて、中国に於いて長江流域を中心に船舶を運航していた日本企業。
「中日銀行」不詳ながら、日本が資金を出した銀行であろう。
「佐野氏」不詳。]
○趙爾巽(前淸巡撫) 關口壯吉(理學士) 赫曦臺も聖廟を毀たんとするに反す 麓岳
[やぶちゃん注:「趙爾巽」(一八四四年~一九二七年)は清末民初の政治家。ウィキの「趙爾巽」によれば、『清末に地方官を歴任し、特に東三省総督時代は辛亥革命勢力の押さえ込みに成功し、後世の史家をして「最も革命の遅れた地方」と言わしめた。辛亥革命後は袁世凱・段祺瑞政権下で『清史稿』編纂の主幹を担った。弟に清末のチベット攻撃などで有名な趙爾豊がいる』とある。詳細事蹟はリンク先を参照されたい。
「關口壯吉」不詳。浜松高等工業学校初代校長が同姓同名であるが、同一人物であるかどうかは分らぬ。
「赫曦臺」「かくぎだい」は岳麓山山頂にある。こちらのブログによれば、『「赫曦」というのは赤い太陽が昇るということです。当時、有名な哲学家である張栻の招きに応じて、朱熹は遠く福建省の崇安から長沙の岳麓書院に講義をしにお越しいただきました。長沙で』二ヶ月あまり『滞在して、朝はよく』、『張栻と一緒に岳麓山の頂上に登って日の出を見ていたんです。朝日が東からのぼって、その日差しがギラギラ光っていて、山、川や町などすべてのものは朝日に浴びています。このシーンを見るたびに、朱熹は興奮してたまらなくて、』「赫曦! 赫曦!」と『手を叩いて叫んでおりました。この故に、彼らが日の出を見るところを「赫曦」と名付けました。その後、張栻はそこに舞台を作り上げ、記念の意を表すために「赫曦台」と命名』した、とある。以上のエピソードの時制は中文サイトによれば、宋の一一六七年で、その後、荒廃したが、清の一七九〇年に再興されている。
「聖廟を毀たんとするに反す」後の「麓岳」は岳麓山としか読めないから、さすれば聖廟とは「赫曦臺」であるが、そこを破壊しようとしたのは誰か、それに反抗したのは誰か、判らぬ。後者は麓山寺の僧たちか? 識者の御教授を乞う。]
戀歌
リルケ 茅野蕭々譯
お前の魂に觸れないやうに、
私は自分の魂を何う保てばいいのだ。
どうぞそれをお前越しに他の物へ高めよう。
ああ私はそれを何か暗黑(くらやみ)の
失はれたものの許で葬りたい、
お前の深い心が搖らいでも搖らがない、
知られない靜かな場處に。
しかしお前と私とに觸れる總べてのものは、
二つの絃から一つの聲を引出す
弓の摩擦のやうに、我々を一緒に取る。
どんな樂器の上に我々は張られてゐるか。
どんな彈手が我々を手にしてゐるか。
ああ甘い歌。
(彼等の手は女の手のやうで)
リルケ 茅野蕭々譯
彼等の手は女の手のやうで
何とない母らしさがある。
建てるときは、鳥のやうに快活で、
摑むに暖く、賴るに安心で、
さはると盞のやうだ。
[やぶちゃん注:「盞」は「さかづき」。盃。]
○電報の爲に苦吟す 南軍々中の學者 ○樓上張之洞の寫眞 樓下胡弓の聲 ○廉 李鴻章と合はず 排日 後ニ親日
[やぶちゃん注:「南軍」国民党軍。
「張之洞」(一八三七年~一九〇九年)は清末の政治家。直隷(河北省)南皮生まれ。一八六三年に進士とある。対外強硬論を主張する「清流党」の一員と目されていたが、一八八一年には山西巡撫に抜擢され、次いで両広総督・湖広総督を歴任した。以下、ウィキの「張之洞」によれば、日清戦争(明治二七(一八九四)年~明治二八(一八九五)年)に於いては『唐景崧と共に台湾民主国を援助して台湾へ出兵した日本への抵抗を試みるなど強硬派としての主張が目立ったが、両戦争の敗北後は対外融和的な姿勢もみせた』。一八九三年には『自強学堂(後の武漢大学)を創立』、翌年に『自強軍を設立(後に袁世凱の新軍に編成)、外国借款を通じて鉄道敷設を推進するなど、外国資本と連携した国内開発を推進した。また、湖北・湖南の産物を外国へ輸出、外貨など経済的裏付けを取り貨幣改鋳と独自紙幣の発行で漢口を中心とした経済圏を作り上げた』。一八九八年に『起こった変法運動に対しては、変法派が組織していた強学会の会長を務めていたため理解を示していたが』、一八九八年の著作「勧学篇」の中では『「中体西用」の考えを示し、急進的すぎる改革を戒めた。戊戌の政変で変法派が追放されてからは逼塞していたが』、一九〇〇年の『義和団の乱の際には唐才常ら自立軍の蜂起鎮圧、盛宣懐・張謇を通して劉坤一と共に東南互保を結び』、翌年には『劉坤一と連名で「江楚会奏三折」と呼ばれる上奏で変法の詔勅を発布させた(光緒新政)。上奏では教育改革を唱え』、一九〇四年に『「奏定学堂章程」として政府から発布』、翌年には久しく続いてきた『科挙の廃止、京師大学堂(後の北京大学)中心の近代教育整備に繋』げた。『日本との関わりは深く、変法運動と政変前後』の一八九八年に『中国を訪問した日本の元首相伊藤博文と漢口で会談、漸進主義を重視する伊藤と意気投合、日本からコークスを輸入し』、『八幡製鐵所に必要な鉄鉱石を日本へ輸出する契約を取り付けたり』、「勧学篇」の中でも、『日本を近代化に成功した国として見習い、留学して日本を通し』、『西洋の学問を摂取すべきことを説いている』とある。
「廉」清朝の戸部郎中であった廉泉か?
「李鴻章」(一八二三年~一九〇一年)は清代の政治家。一八五〇年に翰林院翰編集(皇帝直属官で詔勅の作成等を行う)となり、一八五三年には軍を率いて太平天国の軍と戦い、上海をよく防御して江蘇巡撫となり、その後も昇進を重ね、北洋大臣を兼ねた直隷総督(官職名。直隷省・河南省・山東省の地方長官。長官クラスの筆頭)の地位に登り、以後、二十五年の間、その地位にあって清の外交・軍事・経済に権力を振るった。洋務派(ヨーロッパ近代文明の科学技術を積極的に取り入れて中国の近代化と国力強化を図ろうとしたグループ。中国で十九世紀後半におこった上からの近代化運動の一翼を担った)の首魁として近代化にも貢献したが、日清戦争の敗北による日本進出や義和団事件(一九〇〇年~一九〇一年)での露清密約によるロシアの満州進出等を許した結果、中国国外にあっては傑出した政治家「プレジデント・リー」として尊敬されたが、国内では生前から売国奴・漢奸と分が悪い(以上はウィキの「李鴻章」他を参照した)。]
○古琴臺(金 群靑)の額 舟 支那子供大勢 乞食 太湖石 煙草廣告 双樹――白壁に梧桐 亭――堂 山水淸音ノ額 女學生 梧桐
[やぶちゃん注:「古琴臺」現在の武漢市漢陽区の亀山の西の麓、月湖(ここ(グーグル・マップ・データ))の湖畔にある楼。ここ(グーグル・マップ・データ)。中国ツアー・サイト「アラチャイナ」の「漢陽の古琴台」に、当地のロケーションとともに、春秋時代の晋の大夫伯牙(はくが)と盟友鍾子期との「伯牙絶絃」の故事で知られる、この地に纏わる伝承が記されてある。
「梧桐」アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリ属アオギリ Firmiana
simplex。
「太湖石」蘇州(現在の中華人民共和国江蘇省蘇州市)の主に太湖(江蘇省南部と浙江省北部の境界にある大きな湖で景観の美しさで知られる)周辺の丘陵から切り出される多くの穿孔が見られる複雑な形状をした石灰岩を主とする奇石を総称して言う。]
○兵工局 槍礮局 煙突林立 ○月湖 アシ ハス 汚 曇天胡蝶
[やぶちゃん字注:「兵工局」日本の陸軍の砲兵工廠(陸軍造兵廠の旧称。兵器・弾薬・器具・材料などを製造・修理した工場。何故、そんな古い呼称を出したかって? 「こゝろ」フリークだからに決まってるじゃないか! 私の「『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月19日(日曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十七回』」を見られたい)のようなものであろう。
「槍礮局」「礮」は「砲」と同字であるから、恐らく銃砲や大砲などの製造工場であろう。
「月湖」前の条の「古琴臺」の注を参照されたい。]
○陸――町――舟(豕聲 芥山)――漢江 泥流に犬の屍骸
[やぶちゃん注:「豕聲」は恐らく「トンセイ」で「豚の鳴き声」、「芥山」はその附近に積まれた「ごみ(の)やま」であろう。]
○綠 virigian の葡萄 眞珠の neckrace. Diamond の ring. 腕時計 diamond. Medaillon 金鎖白靴 黑靴下 白ヘ靑(淡)の太筋 メイランフアン風の歌 ○鳳蓮 西洋靴(黑) 白靴下
[やぶちゃん注:芸妓の描写であろう。
「virigian」という綴りの単語は存在しない。これは直前の「綠」を説明しており、葡萄を形容しているとすれば、“verdure”で、滴るような緑色をした、の意味ではあるまいか?
「neckrace」はママ。正しくは“necklace”。
「Medaillon」は“Medallion”綴りの誤記。大メダル・肖像画などの円形浮き彫り、メダイヨンのこと。
「メイランフアン」清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形梅蘭芳(méi lánfāng 本名・梅瀾 méi lán 一八九四年~一九六一年)。京劇の名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋・尚小雲・荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」の旧版(「上海游記 八 城内(下)」で引用したもの。現在は削除・変更されている)によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した』。二十世紀『前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の』一九五六年、『周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた』。一九五九年、『中国共産党に入党』したが、二年後、『心臓病で死去』した。
「鳳蓮」芸妓の源氏名か。]
○上海の子供井戸を知らず 漢口の子供橋を知らず
[やぶちゃん注:前者は井戸を必要としないということか? 租界の拡大によって上水道が発達していたということだろうか? 或いはまた、かなり深く掘らないと、飲用可能な水は得られなかったのかも知れない。後者は、長江の激しい水位変化や洪水によって橋を架けても流されるために、古くから渡しを利用し、架橋されなかったということか? 孰れも識者の御教授を乞う。]
○長沙 モオタア(ボイ二人) 水陸洲 橘洲 中ノ島 ○女學生――白帽 髮切れる故 ――油紙の傘――寫生道具 ○柳並木(切られしまま) 黃蔡(鍔)兩人の墓の爲國費 道を造る 兩側の稻田 犬水中に入る ○自卑亭 黃瓦上ニ黑瓦
[やぶちゃん注:「長沙」湖南省の省都である現在の長沙市。長沙では反日感情が特に強く、龍之介は「長江游記」では全く語っていない。その雰囲気は後の「雜信一束」の以下で、よく伝わってくる。
*
七 學校
長沙の天心第一女子師範學校並に附屬高等小學校を參觀。古今に稀なる佛頂面をした年少の教師に案内して貰ふ。女學生は皆排日の爲に鉛筆や何かを使はないから、机の上に筆硯を具へ、幾何や代數をやつてゐる始末だ。次手に寄宿舍もー見したいと思ひ、通辭の少年に掛け合つて貰ふと、教師愈(いよいよ)佛頂面をして曰、「それはお斷り申します。先達(せんだつて)もここの寄宿舍へは兵卒が五六人闖入し、強姦事件を惹き起した後ですから!」
*
しかし、この長沙訪問があってかの名作「湖南の扇」が誕生したとも言えるのである(リンク先は私の詳細注附き電子テクスト)。
「モオタア」遊覧用の大型のモーター・ボートか。
「ボイ」ボーイ。
「水陸洲」長沙の長江にある中洲(以下の「中ノ島」はそのことであろう)で「橘子洲」の別名。以下の「橘洲」も同じであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「白帽 髮切れる故」意味不明。
「黃蔡(鍔)兩人」「不詳」として公開したところ、教え子から以下のメール情報を得たので引用しておく。『清から民国にかけての軍人または革命家である黄興(一九一六没)と蔡鍔(さいがく 一九一七没)の墓は、ともに岳麓山の麓にあります。それを言っているのではないでしょうか。私が岳麓山を散策したのは夏、そして晩秋の季節でした。彼らの墓には全く注意を払わずに通り過ぎました。丁度、岳麓書院の裏手は山になっており(市街からの高さにして百五十メートルといったところでしょうか)その中腹と言ってもいいような場所だったはずです。従って、道を造るといっても、直線的な所謂参道とでもいうべきものは思い出せないのではあるのですが……』。教え子に感謝!
「自卑亭」長沙の岳麓書院(次条注を参照)の入口にある。]
○湘南公立工業學校 惟楚有材 於斯爲盛――白堊號房 ○成立大會 ○學達性天(コウキ)(靑へ金)○日本國旗 紙旗 紙花 黑ベンチ 白エンダン ○道南正脈 (金へ藍靑) 乾隆(白カベ) 周圍に龍 ○教室 hunting Cap. 電氣工學 ○米教師二人 ○閲書室 實習室(何もなし) ○庭は石ダタミに草 小さキ桐 石上ニハフ鷄 傘(飴色)干さる ○化學藥品室 iron-humonium, iron-salphate. 牡丹花の白瓶 詩あり
[やぶちゃん字注:「湘南公立工業學校」湖南公立工業専門学校のことであろう。ウィキの「湖南大学」によれば、一九二六年二月一日に、『湖南公立工業専門学校・湖南公立商業専門学校・湖南公立法政専門学校が合併し』て、「省立湖南大学」が設立したとある。現在の湖南大学である。
「惟楚有材 於斯爲盛――白堊號房」「惟(おもん)みるに、楚に材、有り。斯(ここ)に於いて盛(せい)たり」で「楚には確かな人材がある。ここに於いてこそ、それは最も多いのである」の謂いであろう。住友電工社長松本正義氏のブログの「中国・長沙への出張」に、長沙市内の「中国四大書院」(学校)の一つである「岳麓書院」(ウィキの「岳麓書院」を参照されたい)を訪問されたとあり、ここは北宋の開宝九年(九七六年)に開校され、宋・元・明・清を経、現在の「湖南大学」に受け継がれている、とある。そこに『書院の門に「惟楚有材」、「於斯為盛」と書かれた二枚の縦額が掲げられており、いかに、楚の国は人材が多かったか、また、岳麓書院が人材を輩出していったかを訪問者に告げているのが印象的で』あったと記され、この文句が、門の左右に白亜の地に黒々と記されている対聯の前での松本氏に写真が載る。「白堊號房」とは、「白い受付の建物」の謂いである。
「成立大會」不詳。岳麓書院の再興を意味する額文か?
「學達性天(コウキ)」岳麓書院にある、一六八七年に康熙帝が贈った額文。
「エンダン」「演壇」?
「道南正脈」岳麓書院にある、一七四三年に乾隆帝が贈った額文。
「小さキ桐」はママ。
「iron-humonium」なる化学物質は存在しない。綴りの誤りと思われる。以下の“iron-”が衍字と考えるならば、“Iron ammonium sulfate”(硫酸アンモニウム鉄)が考えられ、 “iron-salphate”は“iron sulfate”(硫化鉄)の誤りとも考えられる。]
(私は折々一人の母にあくがれる。)
リルケ 茅野蕭々譯
私は折々一人の母にあくがれる。
白髮に蔽はれた靜かな女に。
その愛に始めて私の自我が花咲かう。
私の魂へ氷のやうに忍入つた
あの荒い憎みもその母には消されよう。
その時我々は寄添つて坐らう。
暖爐には火が靜に鳴るだらう。
私は愛(いと)しい唇の語ることに耳傾け、
平和は茶の瓶の上に漂はう、
ランプをめぐる蛾のやうに。
[やぶちゃん注:本詩は底本校注に、「リルケ詩抄」では、第二連三行目が「私は愛(いと)しい唇の語ることに耳傾け。」に、同四行目が「平和は茶の瓶の上に漂はう。」となっているのを、後の「リルケ詩集」で読点に訂正されたのを受けて、改めた旨の記載がある。私もその訂正に従うこととした。]
〇倚陶軒(李鴻章の別莊) 大花園――陶塘 豚 擣衣 柳 水 アカシア 濟良所(蕪湖) 自由廢業 南陽丸 水の差は漢口にても45尺位 桃冲鐵山――荻港
[やぶちゃん注:「倚陶軒(李鴻章の別莊)」「大花園」「倚陶軒」は「いとうけん」と芥川龍之介は読んでいることが、「長江游記 一 蕪湖」(蕪湖は後注参照)から判る。そこでは、『一通り町を遍歴した後、西村は私を倚陶軒(いとうけん)、一名大花園と云ふ料理屋へつれて打つた。此處は何でも李鴻章の別莊だつたとか云ふ事である。が、園へはひつた時の感じは、洪水後の向島あたりと違ひはない。花木は少いし、土は荒れてゐるし、「陶塘」(たうたう)の水も濁つてゐるし、家の中はがらんとしてゐるし、殆(ほとんど)御茶屋と云ふ物とは、最も縁の遠い光景である。我我は軒(のき)の鸚鵡の籠を見ながら、さすがに味だけはうまい支那料理を食つた。が、この御馳走になつてゐる頃から、支那に對する私の嫌惡はだんだん逆上の氣味を帶び始めた』と鬱屈した感懐を記している。
「陶塘」筑摩全集類聚版の「長江游記」の脚注には、『「塘」はつつみ、陶堤というに同じ』とあるが、では「陶堤」とは何か、記していない。わざわざ芥川が鍵括弧を附した意味が分からぬ。岩波版新全集の同作への篠崎美生子氏の注解は「未詳。」とする。彼女は鍵括弧を附した特別な意味を感じ取って、敢えて注釈者としてはやりたくない「未詳」を附したのであろう。但し、これは調べてみると、蕪湖市内にある鏡湖の古名であることが判った。中国旅行社の「黄山旅遊網」の日本語版の「蕪湖」のページによれば(現在、このページは消失している模様である)、南宋期の詩人の詩に「田百畝を献し、合流して湖に成り」、その豊かなる田園の様は陶淵明を慕うかのようであるから、「陶塘」と名付けるというようなことが記されており(やや日本語と構文がうまくない)、『歴代の拡張工事によって、今の鏡湖は面積が』十五万平方メートルもあり、平均水深が二メートル、『水面が鏡のように透き徹ってい』るとあり、『湖堤には柳が揺らぎ、蕪湖八景の一つ「鏡湖細柳」はここで』あると記す。芥川は、かの有名な陶淵明所縁の「陶塘」と風雅に呼ばれた鏡湖、の意味(その清らかな靖節先生、「鏡」の湖が、「濁つてゐる」という皮肉)を込めて鍵括弧を附したのであると私は思う。
「豚」これも「長江游記 一 蕪湖」で辛辣な中国批判をする枕に使われている。
「擣衣」「たうい(とうい)」と読む。砧 (きぬた) で衣を打つこと、その音である。
「アカシア」マメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia の総称。
「濟良所」「長江游記 一 蕪湖」でも芥川龍之介によって解説されてあるが、筑摩全集類聚版「長江游記」の脚注等によれば、中華民国時代に置かれた官営の元売春婦を保護した機関のこと。官妓や公娼の中でも誰かに引かされたのではなく、自分の意思でやめた者(以下の売春を「自由廢業」した女性)は、一般の仕事に就き難くかった。そこで、ここで手仕事や新時代の一般教養を習得させ、正業に就かせようとした。
「蕪湖」現在、安徽省第二の大都市となった蕪湖(Wúhú:ウホウ)は上海から約三百九十キロメートル、南京から約九十キロの長江中流に位置する。昔から四大穀倉地帯の一つとして、また長江中流の物産の集積する港町として栄えてきた。街中には水路・運河・湖や池が多く、河岸には問屋街が並ぶ。由緒ある古寺や中国四大仏教聖地の一つである九華山、名山と知られる黄山等がある景勝地である。
「南陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期」のページに、日本郵船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号155)。その資料によれば、明治四〇(一九〇七)年に「南陽丸」“NANYO
MARU”として進水、船客は特一等が十六室・一等二十室・二等四十六室・三等二百五十二室、明治四〇(一九〇七)年に日清汽船(東京)に移籍後に「南陽丸“NAN
YANG MARU”」と改名している。昭和一二(一九三七)年に『上海の浦東水道(Putong
Channel)で中国軍の攻撃を受けて沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。
「水の差は漢口にても45尺位」とは内陸の漢口(武漢)でも長江の水位の変化は、一・二~一・五メートルほどもあるというメモであろう。但し、これは何となく潮差を念頭に置いている記述のようだが、実際には武漢のような内陸では潮汐による水位変化ではなく、上流からの流入水量の変化によるものであろう。
「桃冲鐵山」現在の安徽省蕪湖市繁昌県桃沖村(ここ(グーグル・マップ・データ))にあった鉄鉱と日本も当時の日本も出資した製鉄所のことであろう。「神戸大学経済経営研究所」公式サイト内の「新聞記事文庫」データベースの「製鉄業」にある『中外商業新報』大正五(一九一六)年八月四日附記事、東洋製鉄会社計画になる「製鐡創立決定 桃冲鐡鑛利用」を参照されたい。
「荻港」桃沖村の東にある、現在の桃沖村と同じ繁昌県の長江右岸の村、荻港鎮のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここから採掘した鉄鉱を長江から下して日本へ送ったものであろう。敢えて日本語で音読みするなら、「テキコウ」か。]
○小孤 竹樹 白壁 尼寺 ――飜陽湖 大孤山 ――廬山 ――赤土 塔(癈) 柳 紫の家 白壁 ――九江 水際の城壁
[やぶちゃん注:「小孤」現在の安徽省安慶市宿松県にある、長江(蕪湖の遙か上流)に浮かぶ島「小孤山」であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。「安徽省旅行局」公式サイト内のここに写真があり、「白壁」に納得、さらにそこに現在、中国に残る唯一の「媽祖(まそ)廟」(航海や漁業の守護神として中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神)があるとあるので、「尼寺」も何となく納得してしまった。
「飜陽湖」現行の読みに従い、「はようこ」と読んでおく。廬山の南東に広がる江西省北部・長江南岸にある中国最大の淡水湖。現在は「鄱陽湖」と書く。
「大孤山」中文サイトの「鄱陽湖」の名所旧跡にあり、写真からは判らないが、どうも、長江の鄱陽湖と接する附近(廬山東方)の湖中に屹立する島のようである。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「廬山」江西省九江市南部の名山。海抜千四百七十四メートル(ここ(グーグル・マップ・データ))。古くは陶淵明・李白・白居易ら文人墨客が訪れ、神聖な山として知られ、また、後には毛沢東ら中国共産党高官も避暑地としてここに山荘を構えた。一九五九年に毛沢東の右腕であった国防部長彭徳懐がここで開催された中国共産党政治局拡大会議(廬山会議)で追放されている。因みに私は、私が何故か「廬山」から真っ先に連想するのはそのことで、私は同志として毛沢東と対等に渡り合った彼が好きだからである。その彭徳懐の廬山での最後の笑っている映像が、私には何故かひどく印象に残って忘れられぬのである。なお、芥川は「長江游記」で、二章に渡って失望に満ちた皮肉な廬山実見記を綴っている。
「塔(癈)」廬山の東晋創建(三六六年)の古刹西林寺にある唐の玄宗の治世であった開元年間(七一三年~七四一年)に建てられた西林塔か。六角七層の塔で、宋の蘇東坡が訪れ、寺の壁に詩を残したことで知られる。現在は復興されているが、これはごく直近の再建のようであるから、「廢」は頷けるように思われる。
「九江」現在の江西省の長江右岸の九江市市街。廬山の北。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
○兵士(帶劍 鼠服 白笠赤毛)民(ムギワラ帽 竹の天秤 黑日傘)○韮たば 支那軍艦(和舟) 竹筏 柳 纏足の女(ヌヒトリの靴、足極小)
[やぶちゃん注:「韮」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum。]
○牛糞燃料 牧童 水牛 牛 アカシア ポプラア 野薔薇 麥黃 ○赤塗の椅子(籐の部分殘ス) Kuling Estate Head Coolie No.(黑へ白 麥藁帽)
[やぶちゃん注:“Kuling Estate Head Coolie No.”は、「長江游記」の「廬山(上)」に、『その間に大勢の苦力(クウリイ)どもは我我の駕籠の支度をするのに、腹の立つ程騷いでゐる。勿論苦力に碌な人相はない。しかし殊に獰猛なのは苦力の大將の顏である。この大將の麦藁帽は Kuling Estate Head Coolie No* とか横文字を拔いた、黒いリボンを卷きつけてゐる』と使われている。“ kǔlì”は本来は「肉体労働者」の意であるが、ここでは所謂、荷揚げ人夫のこと。芥川一行は「轎子(きょうし)」というお神輿のような形をした乗物に乗って廬山登山をしているが、これは、お神輿の部分に椅子があり、そこに深く坐って、前後を四~2人で担いで客を運ぶものである。なお、これは日本由来の駕籠や人力車とは違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現在も廬山には四人持ちのものがあるらしい。「クーリー階級の頭(かしら)○番」(先の「*」と「○」は任意の数字を示すもの)の英訳である。]
○紅白ウツギ 薊 除虫菊 野薔薇 ○大元洋行 石 赤ヌリ 窓 日章旗 オイルクロオスに花模樣あるあつし ○憐むべき租界 草 石 禿 家 支那町 ブリキ屋 煙草屋 ランプ屋 酒樓 マアケツト 安貧所
[やぶちゃん注:「紅白ウツギ」「長江游記 三 廬山(上)」に、『私はその駕籠の棒に長長と兩足を伸ばしながら、廬山の風光を樂んで行つた。と云ふと如何にも體裁が好いが、光は奇絶でも何でもない。唯(ただ)雜木(ざふき)の茂つた間(あひだ)に、山空木(やまうつぎ)が咲いてゐるだけである。廬山らしい氣などは少しもしない。これならば、支那へ渡らずとも、箱根の舊道を登れば澤山である』と出る。そこで私は注して、
*
和名の「ヤマウツギ」は、まず、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科コクサギ Orixa japonica の別名(「和名抄」)として用いられるが、分布や花の開花期は本記載と一致するものの、花自体が目立たないものなので、同定から除外する。次にキク亜綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ(ベニウツギ)Weigela coraeensis の別名(「大和本草」)として用いられるが、本種が中国に分布するかどうかは確認出来ないし、本邦の海岸近くに植生するという点からも除外される(因みに「箱根」が本文に出るのでこれを同定したいところであるが、このハコネウツギ、箱根とは無関係で、箱根には僅かにしか植生しない)。そうなると、広範な意味でのウツギ、バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ属Deutziaに属するもので、大陸性のものを選ぶしかないが、ウィキの「ウツギ」によると、マルバウツギDeutzia scabra・ヒメウツギ Deutzia gracilis 等の『同属の類似種多く、東アジアとアメリカに60種ほど分布する』とあるのみで、しかも中文ウィキの「ウツギ」の相当するページには、本邦のウツギ属ウツギ Deutzia crenata をごく短く載せるにとどまるばかりである。ところが同種は所謂、「卯の花」で原種の花は白い。これまでである。識者の御教授を乞う。
*
と注した。しかし、ここで今回、芥川龍之介は「紅白」と記しており、しかも『これならば、支那へ渡らずとも、箱根の舊道を登れば澤山である』という謂いが気になった。僅かにしか植生しないにしても、これはやはり、バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ属Deutziaのウツギ類ではなく、キク亜綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ(ベニウツギ)Weigela coraeensis の仲間なのではあるまいか? 何故かというと、実にハコネウツギは実は一本の木に、白の花と有意に赤味を帯びた、まさに「紅白」の花が咲くからである。但し、私は廬山に行ったことがなく、この龍之介の謂いが、一本の木に紅白の花が咲いているの意味なのか、それが別々の木に咲いているのかは確認出来ない。ここでまた、これまでである。識者の御教授を俟つ。
「除虫菊」キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギギク属シロバナムシヨケギク(白花虫除菊)Tanacetum cinerariifolium のこと。ウィキの「シロバナムシヨケギク」によれば、『胚珠の部分にピレスロイド』(pyrethroid)『(ピレトリン)を含むため、殺虫剤の原料に使用されている。地中海沿岸原産であり、セルビアで発見された』とし、日本への渡来は新しく、明治一九(一八八六)年とある。時に、このウィキの中文版は、Tanacetum coccineum という同属の別種をリンクしており、こちらは中国語名を「紅花除虫菊」と称し、中国全土にするとある。但し、名前から判る通り、これは実は非常に鮮やかな紅色を呈しており、大陸とある。但し、「長江游記 三 廬山(上)」には単に『薊や除蟲菊の咲いた中に、うつ木(ぎ)も水水しい花をつけた、廣い草原が展開した』とあるだけで、それが赤いとは書いてない。これだけ鮮やかなら、私は芥川龍之介なら必ず、日本とは違って「鮮やかに赤い」と形容するはずだと思う(芥川龍之介は花にはかなり詳しい)。ということは、やはり、白い本邦種と同じか、近縁種と考えるべきか。
「野薔薇」バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ(野茨)Rosa
multiflora のこと。標準的なものは樹高二メートル程度であるが、私自身、それを遙かに超えるものを何度も現認したことがある。
「大元洋行」「長江游記 三 廬山(上)」本文に出る。筑摩全集類聚版の「長江游記」の脚注に、『九江最大の日本人旅館。後、増田旅館と改名。』とあり、本文で芥川龍之介が述べているように、廬山に支店を持っており、当時、日本人の廬山観光は、この旅館が一手に担っていたらしい。
「石 赤ヌリ 窓 日章旗」「長江游記 三 廬山(上)」の先の引用に続いて、『その草原が盡きるあたりに、石の垣をめぐらせた、小さい赤塗りの家が一軒、岩だらけの山を後(うしろ)にしながら、翩翩(へんへん)と日章旗を飜してゐる。私はこの旗を見た時に、租國を思つた、と云ふよりは、祖國の米の飯を思つた。なぜと云へばその家こそ、我我の空腹を滿たすべき大元洋行の支店だつたからである』とある(下線太字はやぶちゃん)。
「オイルクロオス」“oilcloth”。綿やネルなどの厚手の布地の表面にエナメルや桐油を塗った布。模様をつけたものもあり、防水性があって汚れが落ちやすいので、テーブル掛けや床張りに用いる。
「あつし」「厚子」「厚司」などと表記し、大阪地方で産出する厚地の綿織物。三省堂「大辞林」を引くと、それで作った衣服をも指し、多くは紺無地か大名縞で、前掛けや労働着として用いるとあった。当初は旅館「大元洋行」の番頭の前掛けか、などとも思ったが、前が「オイルクロオス」であるから、ここは旅館の個室或いは食堂のテーブル・クロスであろう。
「安貧所」これはキリスト教系の貧民救済を目的とした救貧院(英語:poorhouse)のことか?]
○香爐峯ニ白樂天 李白 ○分門關の瀧 (4 or 5日前虎來り牛小屋の犬をくふ)○山下 カヤの木 竹 枯カヤを天井にした路 ロバ 豚
[やぶちゃん注:「香爐峯ニ白樂天」言わずもがな、漢文でさんざんやった中唐の白居易の著名な以下の七言律詩を指す。
香爐峰下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁
日高睡足猶慵起
小閤重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聽
香鑪峯雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍爲送老官
心泰身寧是歸處
故郷可獨在長安
香炉峰下、新たに山居を卜(ぼく)し、
草堂、初めて成り、偶(たまたま)東壁
に題す
日高くして睡るに足るも 猶ほ起くるに慵(ものう)し
小閣に衾(ふすま)を重ね 寒さを怕(おそ)れず
遺愛寺の鐘は 枕を欹(そばだ)てて聽き
香鑪峯の雪は 簾(すだれ)を撥(かか)げて看(み)る
匡廬(きようろ)は 便(すなわ)ち是れ 名を逃(のが)るるの地
司馬は 仍(な)ほ 老を送るの官たり
心泰(やす)く 身も寧(やす)らかなるは 是れ 歸する處
故郷 何(なん)ぞ獨り 長安にのみ在らんや
「李白」盛唐の詩仙李白の、これまた漢文でさんざんやった、かの七言絶句「望廬山瀑布」を想起したのであろう。
望廬山瀑布
日照香爐生紫煙
遙看瀑布挂前川
飛流直下三千尺
疑是銀河落九天
廬山の瀑布を望む
日は香爐を照らし 紫煙生ず
遙かに看る 瀑布の前川(ぜんせん)に挂(か)くるを
飛流直下三千尺
疑ふらくは是れ 銀河の九天より落つるか と
何? 意味? あんたね、高校の漢文、全部、やり直しな!
「分門關の瀧」不詳。廬山には多数の瀧があるが、中でも著名な滝は「三畳泉瀑布」で、落差は百五十五メートルに達する。但し、それがこれかも、はたまた、前の李白の「望廬山瀑布」がこの瀧かどうかも不明。識者の御教授を乞う。
「カヤ」本邦のそれは裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ(榧)Torreya
nucifera であるが、中国には植生せず、同属そのものが分布しないようなので、葉が似た全くの別種(イチイ科 Taxaceae ではあるか)と思われる。]
○龍池寺 九江總商會 甘棠湖 ○煙水亭 鳶飛魚躍(黑へ金)――湖山主人 柳 壁に蔦 洗濯女 傘 水上 燕 浮草 〇一小亭 緑識廬山眞面目 且將湖水泛心頭 ○湖水 煙亭ヲ遠ザカルト白濁トナル ○小丘 草靑 麥黃 土赤 ○天花宮 (柳)煙水亭の正面 廬山 ○天花宮前古柳樹(槐)(藍へ金 白壁)漁翁
[やぶちゃん注:「龍池寺」中文サイト「壹讀」の「中國佛教十大名山之六:佛國凈土匡廬山」によって、廬山に多数あった寺の一つであることは判ったが、それ以外は不詳。
「九江總商會」当時の九江市商工会連合会のことか。
「甘棠湖」現在の九江市内にある大きな湖。面積十八ヘクタールに及ぶ景勝地。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「煙水亭」白居易が江州司馬に左遷されていた頃(八一六年~八一八年)に建てたとされる亭であるが、例えば、こちらの九江紹介ページの写真を見ていただくと分かるが、三国時代には呉の周瑜(しゅうゆ:後漢末期の武将で孫権に従い、赤壁の戦いで曹操軍を撃退した名将)が軍事訓練を行った場所ともされており、全島がまるで要塞のように壁と建物によって取り囲まれている(他のネット記載を見ると、島に入る道は一本橋のみだそうである)。恐らくはこれ(グーグル・マップ・画像データ。地図とはずれがあり、地図には煙水亭は何故か、載らない)。
「鳶飛魚躍(黑へ金)」「鳶飛魚躍」は「えんぴぎよやく」と音読みするか、或いは「鳶(とび)飛び、魚(うを)躍(おど)る」と訓ずる。「詩経」の「大雅」の「旱麓(かんろく)」の一節、「鳶飛戾天。魚躍於淵」(鳶は飛びて天に戾(いた)り、魚は淵に躍る)に基づく故事成句で、万物が自然の本性に従って自由に楽しんでいることの喩え。また、そのような天の原理の作用を指す。また、君主の恩徳が広く及び、人々がその能力などによってそれぞれの適所を得ている譬えともなった。「黑へ金」とは黒地に金で、この文字が記されていたというのであろう。前の九江紹介サイトには、煙水亭の中には周瑜のタイル画や像などが置かれてあるとあるから、これもその一つか。
「湖山主人」不詳。
「一小亭」固有名詞ではなく、「小さな四阿(あずまや)」の意か?
「綠識廬山眞面目 且將湖水泛心頭」「綠識」不詳。「緑(みどり)なす」とは読めぬが、緑の景観が「廬山」の「眞面目」であり、「且つ將(ま)た」、その甘棠湖の「湖水」にそれが写って清らかな「心頭」(心)が泛(うか)ぶようだ、との謂いか? 大方の御叱正を俟つ。
「天花宮」「娘娘廟」とも称する寺。九江の南門湖と甘棠湖間の長提の南端にあり、清代一八七〇年の創建で、子宝をもたらす神さまとして信仰されたらしいが、ネットで調べると、現在は相当、ボロボロらしい。
「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium
japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと、中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。]
○boy 來る――雨――麥黃 柳と民家 ――崖赤 草靑――人家の壁白――黃州の城壁――稍遠くに西洋館――川に赤き旗の小蒸汽――夏は水かぶる
[やぶちゃん注:「黃州」現在の湖北省黄岡(こうこう)市。九江から長江を遡上した際の景観メモである。]
○壁靑――帷白――床リノリウム――額山水の畫4 寫眞金黑――香姻廣告の娘々――寢床白キヤノピイ 夏蚊帳――ウアド 紫檀彫 戸に鏡 ――椅子(壁側)(小卓を挾む 小卓の下に銀色の啖壺)マホガニイ紛ひ ――大卓(中央)同上 ――机(ウと並ぶ) 鏡 置時計 引き出し ――戸靑――戸上に靑――電燈二個――入口に帽子かけ
[やぶちゃん注:この条、どこをメモしたものか、不詳。泊まった旅館のそれか。
「帷」「とばり」。カーテン。
「リノリウム」天然素材(亜麻仁油・石灰岩・ロジン・木粉・コルク粉・ジュート・天然色素等)から製造される主に床材に用いられる建築素材。リノリウム(linoleum)の名はラテン語の「亜麻」(linum)と「油」(oleum)から合成された語。
「香姻」煙草。
「娘々」「ニヤンニヤン(ニャンニャン)」と中国音で読んでおく。通常は中国の民間信仰の女神を指し、「娘娘」は「むすめ」の意ではなく、「母」「貴婦人」「皇后」などの意である。
「キヤノピイ」キャノピー(Canopy)。ここは寝台の装飾用天蓋のこと。
「ウアド」不詳。以下の「紫檀彫 戸に鏡」から考えると、衣装簞笥や衣装部屋を意味する“wardrobe”(ウァドローブ)のことか?
「マホガニイ紛ひ」ムクロジ目センダン科マホガニー属 Swietenia の樹木は高級家具に用いられる。但し、っこは「紛ひ」(まがひ)で、似せて作った偽物。
「机(ウと並ぶ)」机が何故か「ウ」の字型に並んでいるという意か。]
○露地――南側ノ車――乞食 泥中臥――家口に金の赤の標札 眞珠 西洋庇 (四成里)
[やぶちゃん注:「泥中臥」泥の中に横たわっていることであろう。
「四成里」地名と思われるが、不詳。]
○白蘭花眞珠一對づつ兩房 下げず 西洋布(綠卵黃 淡靑卵黃) 金緣色眼鏡 金齒 腕輪 撞板(紫房) 太鼓(金屬) 劉海を分ける
[やぶちゃん注:芸妓の描写か。
「撞板」現行、寺院などに吊り下げられている雲板のことか? 寺院では礼式を告げるために打ち鳴らされるが、本来は打楽器である。中文ウィキの「雲板」をリンクさせておく。
「劉海」中国語で「前髪」のこと。]
○白壁の町 乞食 交番 ――石階 ――ラマ塔 赤煉瓦の寫眞屋 昭相館 (惟精顯眞樓)――石階total 4 or 5. 茶館 甘棠茶酒樓(三階) 何とか第一倶樂部 ――賣女――醉翁仙 蘇小坡 雲龍子 城壁 長江(漢口 舟 波白) 大別山 山頭樹二三本 禹廟 白壁 向うに煙突見えず 煙 煙突の見えるのも一つ 左手ハ鸚鵡洲 材木置場 その向うは黃麥 ――酒樓中へ燕 白羽黑羽の鳥とぶ 鳶 ○巡警 白服一 黑服一 boy 靑服
[やぶちゃん注:「甘棠茶酒樓」料理店の名であろう。「甘棠」は前の固有名詞の「甘棠湖」ではなく(時差があり過ぎるからである)、一般名詞であると私は思う。「甘棠」はバラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属 Malus の林檎類、或いは同属のズミ(酸実)Malus
toringo であろう。
「醉翁仙」不詳。漢方調剤方にこの名はあるが、どうも違う気がする。中国の古小説の登場人物に出そうな名だ。なお、ナデシコ目ナデシコ科センノウ属スイセンノウ(醉仙翁)Lychnis
coronaria があり、夏に五弁花が咲き、色は赤が多い(白もある)。漢名は花の色を酔った老爺の赤ら顔に喩えたものらしい。
「蘇小坡」不詳。同じく小説に出る人名っぽい。
「雲龍子」同前。武俠物のそれらしい感じはする。
「大別山」中国音で「ターピエシャン」。これは位置的に見て、現在の湖北省黄岡市の県給級都市である麻城市(武漢の東北)にある山であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高千七百七十七メートル。
「禹廟」治水で知られる伝説の夏の聖王禹(う)を祀った廟。多くの場所に祀られている。
「鸚鵡洲」「あうむしう(おうむしゅう)」崔顥(さいこう)の七律「黄鶴楼」で知られる長江の中洲。この附近(グーグル・マップ・画像データ)にあったらしい。画像を拡大して見ても現存しないようである。]
一一
リルケ 茅野蕭々譯
一體私はどうしたのかしら。
そよ風の匂の靄の中に、
靑銅褐色の草の莖の中に
失われた蟋蟀の歌。
私の魂の中にもひびく、
低い一つの響、哀れになつかしい――
恐らく熱病の小兒が、
死んだ母の歌ふのを聞くのも斯うだらう。
[やぶちゃん注:本詩篇は一八九六年刊のリルケの詩集「冠せられた夢」(茅野訳の標題。茅野はそこで発刊年を『一八九七年』としているようだが、誤り。原題は“Traumgekrönt”で、諸氏の訳では「夢を冠に」「至上の夢」「夢を戴きて」などとも和訳されてある)の「夢みる」詩群の中の第十一章である。「靑銅褐色」は原詩では“bronzebraunen”で、「ブロンズ・ブラウン」。この色。]
民謠
リルケ 茅野蕭々譯
私を大變に動かす
ボヘミアの民謠の節。
あれがそつと忍び込むと
私の心は重くなる。
馬鈴薯掘りの子供が
そつと歌ふと、
その歌はなほ
夜の遲い夢にも響く。
國を越えて遠くへ
旅をしてゐても、
幾年か經た後でも、
いつもそれが思ひ出される。
[やぶちゃん注:「ボヘミア」(ラテン語:Bohemia・チェコ語:Čechy(チェヒ)・ドイツ語:Böhmen(ベーメン))は現在のチェコの西部と中部地方を指す歴史的地名(古くは、より広くポーランド南部からチェコ北部にかけての広域地方を指した)。ウィキの「ボヘミア」によれば、『西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである』。『牧畜が盛んで』、『牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに気に入られた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた』。同地方出身者で知られた人物としては、フランツ・カフカ、マックス・ブロート(作家。カフカの友人でカフカの全集の編集刊行者としもとみに知られる)、ボヘミア楽派の始祖ベドルジハ・スメタナ(代表作「わが祖国」はボヘミアの風景を題材とする)、ボヘミア楽派の一人であるアントニン・ドヴォルザークなどがいる。ウィキの「チェコの音楽」によれば、ボヘミア民謡は拍節構造が明確であるとする。本邦で知られたものでは、「ぶんぶんぶん蜂が飛ぶ」の原曲はボヘミヤ民謡であるともされる。現行では純粋なボヘミア民謡を聴くことはなかなか困難なようである。近藤氏の「ZeAmi ブログ」の「ボヘミア民謡を探して」で、それらしいものを聴くことが出来る。
なお私は、ボヘミア民謡というと、直ちに浦沢直樹の「PLUTO」(プルートゥ)(手塚治虫の「鉄腕アトム」の中の「地上最大のロボットの巻」の優れたインスパイア作品)の「ノース2号の巻」で作曲家ダンカンの幼き日の記憶の中の母の歌ったそれを思い出すのである。同作を御存知ない方は是非、読まれんことを(同パートだけでもほぼ完全に完成された独立作として読むことが出来る)強くお勧めする。私は以前、ブログ・カテゴリ「プルートゥ」で同パートの解析を行っている。そちらも御笑覧あられると嬉しい。]
(少女らは見てゐる、小舟らが)
リルケ 茅野蕭々譯
少女らは見てゐる、小舟らが
遠くから港に入るのを。
また臆病に寄添ひながら、
白い水の重くなるを眺めてゐる。
氣づかはしさのやうであるのは
夕暮のためしだから。
それにこんな歸港もないものだ。
疲れた大海から
舟は黑く大きく空虛(から)で來る。
船旗一つなびかない。
總てを何人かが
征服したやうに。
○汚水 煉瓦橋 靴を洗ふ女 菜花 家々 新樹 家鴨 鵞 朱欄の木橋(新橋) 城壁をくぐる 左 城壁に蔦 小木 竹林中の茶事 (綠楊村)舟に少女(玫瑰を髮にさせるもの) 牛糞を壁に貼るものあり(鳥打帽) ○勿用日貨(白、城壁) 墓 麥 柳 鳩 橋(大) 大虹橋(勿用日貨) 春柳堤 徐園 (徐寶山)乾の爲一夜ニ作ル 向うに湖心寺 やがて五亭橋 左にラマ寺(塔) 右に釣魚臺
[やぶちゃん注:ここは「江南游記」の「二十三 古揚州(上)」・「二十四 古揚州(中)」・「二十五 古揚州(下)」の素材メモである。
「綠楊村」揚州西北の郊外にある名勝、痩西湖(文字通り細長い人工湖で全長四・三キロメートル、湖面は凡そ三十ヘクタールあり、清の康煕・乾隆年間に湖畔庭園として整備され、長堤・徐園・小金山・吹台・月観・五亭橋・鳧荘(ふそう)・白塔等、名跡が多数ある。ここ(グーグル・マップ・データ))湖畔南の村。銘茶の産地として知られる。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「勿用日貨」排日の落書。今も聴こえてくる「日本製品を用いるな!」である。
「大虹橋」痩西湖の入口に架かり、揚州二十四景の西園曲水と長堤春柳を結ぶ。岩波版新全集の「江南游記」の神田由美子氏の注解によれば、明末に架橋後、清の乾隆年間にアーチ型に改修された。命名は『虹が東西両岸にかかっているようにみえる』ところから、とある。
「春柳堤」痩西湖の西岸にある。入口から小金山までの数百メートルの堤であるが、「揚州二十四景」の「長堤春柳」が、これである。
「徐園」筑摩全集類聚版の「江南游記」の脚注は、鎮江の徐宝山の花園とし、岩波版新全集の神田由美子氏の注解は『揚州市の市街東南部にある花園か? 旧市街の徐凝門外の裏道にある』とする。検索をかけるうちに「徐凝門」で、以下の個人ブログ「考古学用語辞典」の記載を発見した。「何園」(かえん)という旧跡についてである。改行は「/」に変えた。『揚州市南徐凝門街77号にあり、寄嘯山荘とも呼ばれている。清の光緒年間に造営されたもので、揚州の名園の一つ。園主は隠退して揚州に帰ってきた湖北漢黄徳道道台の何芷(舟+刀)で、陶淵明の「南窓に倚りて以つて寄傲し、東皋に登りて以つて舒嘯す」の詩句から取って、「寄嘯山荘」と名づけたといわれている。/これは大型の邸宅庭園で、後花園、庭付き住宅、片石山房からなっている。面積はわずか7000㎡で、最大の特徴は池の周りに異なる形をした楼が連なっていることで、その長さは430m余に及ぶ。観光客は回廊に沿って一回りして見学することができるようになっている。/この園は東西2部分に分かれ、東部に船庁と牡丹庁があり、船庁の北側に女性の客を宴会でもてなす丹鳳朝陽がある。養魚池の水亭は納涼をとるところであれば、舞台として使うこともでき、また回廊は観劇の観衆席に使われる。主楼の蝴蝶庁は男性の客を宴会でもてなすところである。国内に築山、怪石、古木があり、四季折々の花が咲いている。/何園は曲がりくねった道と回廊で有名。中国・西洋の建築芸術をうまく融合させている。中国の現代の有名な古建築専門家の羅哲文氏は「全体的な配置が整然としており、疎密が適当で、なかでも北部の花園が絶妙を極めている」と述べ、また何園は「江南庭園における唯一つの例」と高く評価している。』。一見、これかと思わせるのだが、やはり「徐氏」はどうみても人名である。すると中文サイト「壹旅游」の「非游不可」の「揚州有位“徐老虎”――徐宝山其人其事」(現在は消失しているようである)という記事を発見、「徐園」なるものが存在することが分かった。そこに花園があるかないかは分からないが、私はこちらを採りたい。因みに、筑摩版の脚注及び本文で以下に「(徐寶山)」と出るのは徐宝山(一八六二年~一九一三年)という清末の軍人の姓名。鎮江新勝党の統領として揚州軍政府を弾圧、自ら揚州軍政分府を組織した地元のボス(鎮江出身)で、革命党により暗殺されている。
「乾の爲」不詳。「乾期で水がなかったから」の謂いか、或いは方角が「乾」(いぬゐ:北西)であったから、「風水か何かの理由で」の謂いか?
「湖心寺」不詳。単に痩西湖の中心にある寺の意か? 現在の地図を見ると、中央の島に揚州法海寺という寺院があるが、これは後の「ラマ寺」である。因みに、私は「湖心寺」といったらもう、瞿佑(くゆう)の「剪燈新話(せんとうしんわ)」の「牡丹燈記」のロケーションとなる浙江省寧波にある月湖のそれであるが、そこはトンデモ方向違いだ。或いは芥川龍之介は、この法海寺の景に、あの「牡丹燈記」の湖心寺の雰囲気を感じたものかも知れぬ。
「五亭橋」痩西湖のシンボルと言える極めて異形の建造物。一七五七年、この年の清の乾隆帝二度目の江南巡幸に合わせて、莫大な財産を恣にした地元の塩商人らが出資し、架橋した。橋上には二重の急激に反り返った廂を有した主亭を中心に、四つ角で接した同じ傾斜角を持った単廂の方亭が囲むように四つ配されている。橋脚には大小異なる遂道が通り、最大の中央のものは水面から七メートル十三センチ、複雑な形状が四季折々の変化に飛んだ景色を楽しめるよう工夫されている。
「ラマ寺(塔)」法海寺。五亭橋の南端のある元代に創建された寺。蓮性寺の元の寺名。そこに立つ「塔」とは「喇嘛(ラマ)塔」のこと。チベット仏教(=ラマ教)様式の白い独特の形をした塔で、高さ約二十八メートル。乾隆帝によって一七八四年に改修された。五亭橋同様、帝の歓心を得るために塩商人が一夜にして築いたという伝説もある。「揚州二十四景」の「白塔晴雲」はここである。
「釣魚臺」五亭橋の東北、湖上の島の張り出した先端に位置する。K.Iwata氏の「中国を楽しく旅行する」の「古都揚州」のページに『乾隆帝行幸の折、皇帝が湖上を行くときに、水辺で楽隊が音楽を吹奏するために造ったものであるので、吹台と呼ばれたが、水辺にあるその姿が、いかにも魚釣りのあずまやに見えるところから、いまは一般に釣魚台と呼ばれている。このあずまやには、大きな丸窓があって、その丸窓の借景、とくに水面に浮かぶ五亭橋を丸く切り取って撮すことができるスポットとしても、好事家の間で知られている名所である』と解説され、また『乾隆帝は実際ここで釣りをしたという話も伝えられている。帝が釣り糸を垂れるたびに、蓮の葉で身を隠して近づき、蓮の茎で呼吸をして水中に潜っては、釣り糸の先に生魚を付けて、皇帝がそれを釣り上げるたびに、なみいる皆が拍手喝采して、皇帝を喜ばせたという』と、興味深いお話を綴られている。]
○姜大公在此間無禁忌 貧民くつ 川 鐘 材木 泥坊 無煙炭 舟(石炭、桐) 江天禪寺 ○門(布袋)――堂(大雄)――(藏經抄)
[やぶちゃん注:「姜大公在此間無禁忌」「江南游記 二十六 金山寺」に、『その次に車の通つたのは、川があつて、材木屋があつて、――要するに木場のやうな所である。此處には家家の軒に貼つた、小さい緋唐紙(ひたうし)の切れ端に、「姜大公在此」(きょうだいこうここにあり)云云の文字が並んでゐる。これは「爲朝御宿」(ためともおんやど)のやうな、お呪(まじな)ひの類(るゐ)に違ひない』と使われている。「姜大公」は太公望呂尚(りょしょう)のこと。紀元前十一世紀頃、周の軍師として活躍し後に斉の始祖となった。姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙又は牙。謚は太公。斉太公、姜太公とも呼ばれる。明代のベストセラーであった神怪小説「封神演義」では「姜子牙」と称し、革命を指揮する周の軍師として、また崑崙山の道士として主役級の扱いを受ける。この辺りの天下無敵の神格化により、疱瘡除けの呪符にその名が記されるようになったものであろう(以上の太公望の事蹟はウィキの「呂尚」を参照した)。されば「姜大公在此間無禁忌」とは「姜大公此に在る間(あいだ)、禁忌、無し。」で、「姜太公望呂尚様、ここに座(ま)しますに依って、一切の邪気、これ、その侵入を許さず。」といった呪文であろう。
「貧民くつ」貧民窟。「江南游記 二十六 金山寺」に描写される。
「無煙炭」炭化が進んで煤煙を出さないで燃焼する高品位の石炭。固定炭素の含有量が九十三から九十五%以上のもので、揮発分が少ないために短炎で燃える。非粘結性でコークス(粘結炭石炭の中で加熱すると軟化溶融を起こし、高温で揮発分を放出して硬い多孔質の凝結塊になる性質のもの)を約摂氏千度で乾留し、その揮発分の大部分を石炭ガスとして放出したあとに残る固体燃料。灰分を含んだ多孔質の炭素質で高温と鉱石還元に必要な一酸化炭素を発生する)にはならない。着火点が約摂氏四百九十度と、火は点きにくいものの、火力が強く、しかも一定温度を保って燃え続ける。
「江天禪寺」金山寺の正式名。鎮江市街西北約三キロの郊外にある寺で、東晋の三一九年に創建されたもの。唐代、この辺りで金を採掘したことから「金山寺」と呼ばれるようになったという。なお、芥川龍之介はこの「江南游記 二十六 金山寺」の中で、金山寺の印象を『何分にも汽車の時間があるから、ゆつくり見物する氣もちになれない。寺は山に倚つてゐるので、(昔はこれが島だつたと云ふが、)一堂毎(ごと)にだんだん高くなつてゐる。その間(あひだ)の石段を上下しながら、ざつと見て歩いた感じを云ふと、勢ひ未來派の畫(ゑ)のやうな、妙に錯雜したものになつてしまふ。しかし當時の印象は、それに違ひなかつたのだから、手帳に書いてあるのを寫して見ると、大體こんな調子である』として、何と、手帳の内容だとして、以下のように出している。
*
「白壁。赤い柱。白壁。乾いた敷石。廣い敷石。忽(たちまち)又赤い柱。白壁。梁(はり)の額。梁の彫刻。梁の金と赤と黑と。大きい鼎(かなへ)。僧の頭(あたま)。頭に殘つた六つの灸跡。揚子江の波。代赭色に泡立つた波。無際限に起伏する波。塔の屋根。甍の草。塔の甍に劃(かぎ)られた空。壁に嵌めた石刻(せきこく)。金山寺の圖。査士票(さしへう)の詩。流れて來る燕。白壁と石欄(せきらん)と。蘇東坡の木像。甍の黑と柱の赤と壁の白と。島津氏はカメラを覗いてゐる。廣い敷石。簾(すだれ)。突然鐘の音。敷石に落ちた葱の色。………」
*
ところが、少なくとも、この手帳には、この記載は、ない。或いは中国行では別な備忘録があったものか? いや、これはどうも、叙述が少々面倒になった(或いは原稿規定字数をオーバーしそうなので)龍之介が、「手帳」と称して「早送り」をしでかしたというのが真相かも知れぬ。
「大雄」インドのジャイナ教(ベーダ聖典の権威を否定する無神論宗教で、アヒンサー(不殺生)をはじめとする禁戒・苦行の実践を説く。「ジャイナ」とは、『迷いに打ち勝った「ジナ」(勝利者)の教え』の意。インド以外には殆ど広がらなかった)の始祖マハーヴィーラ(仏典では釈迦よりも二十歳若いとしている)を指す語。
「藏經抄」正当な仏典群(経・律・論の三蔵を中心とした仏教聖典の叢書)を指す「大藏經」の「抄」録したものの謂いであろう。「大蔵経」は「蔵経」「一切経」「三蔵」とも称する。パーリ語で書かれた原始仏教聖典から、釈迦の説いた教えを指す「経(経蔵)」と「戒(律・律蔵)」に加えて、釈迦の弟子たちの教法に対する研究「論(論蔵)」をも含む。]
○治隆唐宋(赤壁) 龍 唐草 石龜 大祖像 明太祖高皇帝之位 朱金 臺 龍雲 ○西門外に高跳動あり その爲參詣少し
[やぶちゃん注:「治隆唐宋」現在の江蘇省南京市の東郊外にある明の孝陵の中の清代に再建された「碑殿」には清代の石碑が五基あるが、その中央の一基、一六九九年に康煕帝が南方を巡幸した際に題した文字を刻んだ「治隆唐宋碑」のこと。参照した「人民中国」公式サイト内の孝陵の紹介ページ(劉世昭氏の写真と文)によれば、碑文は『「朱元璋が国を治めた功績は、唐太宗・李世民と宋太祖・趙匡胤の功績を超えた」ことを称える内容』である、とある。そこに添えられた写真を見ると、同碑は「赤」い「壁」に見える。「龍 唐草 石龜」は同陵の羨道の左右に並ぶ石像や碑を支える神である。私も妻が南京大学で日本語教師をしていた時に訪れて見た(前者の碑も見たはずなのだが、記憶にない)。
「大祖像」不詳。この「大」は「太」の誤記か誤判読で、次に出る「明太祖高皇帝」朱元璋のことではなかろうか?
「高跳動」は“gāotiàodòng”(カオチヤオトン)。但し、正しくは「高蹻戲」“gāojiăoxì”(ガオチャオシ)若しくは「高脚戲」“gāojiăoì”(ガオチャオシ)である。正月に各地で行われた農民の遊戯芸能で、足に「高蹻・高脚」即ち「竹馬」を装着し、その上に立って演技をする仮装を伴った道化芝居である。十二人または十人を一組とした集団芸能。詳しくは私のサイト版「江南游記」の「二十八 南京(中)」の該当注を参照されたい。画像も添付してある。]
○コシヤマクレル トカサ Saito.
[やぶちゃん注:「Saito」は「齋藤」で、芥川龍之介の友人西村貞吉の旧姓である。齋藤(西村)貞吉は芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。このメモは「長江游記 一 蕪湖」で生かされているが、要は西村貞吉の「言い間違い」を面白おかしくメモしたもので、彼は「子供の言動が大人びていて、小生意気である」の意の「こましゃくれる」を「こしゃまくれる」と、
鶏(にわとり)の「とさか(鶏冠)」のことを「とかさ」と思わず言ってしまう、というメモである。]
〇天蟾舞臺 Footlight. 床――brick. 胡弓鼓板琵琶(左) 左右ニclock. (一つ止まる)天聲人語(正面)――rose, acanthus. 三階 白亞 籐椅子 半圓形 黃銅の手すり 大きな電燈(3) 右左煙草の廣告 入口――大平門(赤へ白) 幕――蘇州銀行 三砲臺香姻 武松――黑、白――赤面 幕(左右へ) masklike face. 纏足 譚鑫培――孔明 ○布の門 屋外屋内 明暗 馬上 ○candle without fire. enameled
basin. towel.
[やぶちゃん注:ここは戻って、「上海游記 九 戲臺(上)」に生かされたメモ類である。
「天蟾舞臺」現在も京劇が上演される上海人民広場近くにある逸夫舞台の旧名とされる(私の教え子の調査によれば、当時は現在位置とは少しずれたところにあった)。ここは一九一二年に建てられた歴史ある劇場で、中国京劇界の名優の多くが、この舞台を踏んでおり、「天蟾の舞台を踏まなければ、有名にはなれぬ」といわれている名門劇場である。「天蟾」とは「月光」の意。
「Footlight」舞台床の前縁に取り付けられた演技者を足もとから照らすための照明(言わずもがなであるが、「脚光を浴びる」の「脚光」とは、この「フットライト」のこと)。
「brick」は煉瓦。
「鼓板」拍子木風の打楽器。
「acanthus」は双子葉植物綱ゴマノハグサ目キツネノマゴ科ハアザミ属 Acanthus の花の総称であるが、ここでは恐らく観賞用の Acanthus mollis である。
「太平門」中国語で「非常口」のこと。
「蘇州銀行」岩波版新全集の「上海游記」の神田由美子氏の注解によると、芥川が来中する前年の一九二〇年に蘇州で創設された蘇州儲蓄(ちょちく:「貯蓄」に同じい。)銀行のことで、同年九月には上海支店が置かれたとする。しかしその後、一九二四年には『資本金が軍閥に流用されたため倒産』したとある。
「三砲臺香烟」ヴァージニア種を代表する英国製煙草“Three Castles”の中国語の商標名。「香烟」は中国語で「巻き煙草」のこと。当時の上海では、高級煙草はこの「スリー・キャッスル」と、英国王室御用達の“Westminster”(ウエストミンスター)に占められていた。
「譚鑫培」(Tán Xīn péi タァン シィンぺェイ たんきんばい 一八四七年年~一九一七年)は清末の京劇俳優。名は金福。湖北省江夏(武昌)の生まれで、父も「叫天子」(雲雀のような甲高い発声)で名を馳せた「譚叫天」と称された名優「譚志道」(老旦(老婆役)或いは老生(立役)を専らとしたという)として知られた。父の叫天に対し、譚鑫培は「小叫天」と称され、最初は武生(立回りを主とした立役)や武丑(ぶちゅう:立回りの三枚目)であったが、後には老生(善良な中高年の男役。付け鬚を着け、この鬚の色(黒・灰色・白)で年齢を表わす。現代京劇では「須生」とも称する)を演じ、清末の京劇を担った名優「同光十三絶」の一人に数えられている。本来、京劇の老生の節(唱腔:発生法。)は〈丹田の声を駆使した豪快さ〉をその特徴としたが、譚鑫培は〈悠揚曲折〉、感傷に富むそれを工夫し、所謂、〈譚派〉の風格を創造した(平凡社「世界大百科事典」の記載などを参考にした)。
「孔明」諸葛孔明。「老生」の代表格。芥川龍之介が老名優譚鑫培の演ずるそれを見たことは「上海游記」には記されていない、新発見の事実である。
「enameled basin」は、これらが聴劇の看客に渡されるものであるとすれば、以下の「towel」、濡れたタオルを入れておく「琺瑯びきの水盤」と採れる。]
侏儒の歌
リルケ 茅野蕭々譯
私の魂は恐(おそら)くは眞直で善良だ、
しかし私の心臟と、隱れてゐる血と、
私を痛ませる總ての物が、
魂を眞直に擔へない。
私の魂は、園もなく、寢床もなく、
私の鋭い骸骨に
恐しい羽搏きをして懸つてゐる。
私の兩手ももう何も成らない。
ご覽、何といふ慘さだ。
雨後の小さい蛙のやうに、
強靱に、濕つて、重く飛んでゐる。
その他私に著(つ)いてるものは、
ぼろぼろで、古くて、もの悲しい。
汚物の上に之等總べてのものを置くのを
どうして神樣が躊躇しよう。
不平さうな口をした私の顏を
神樣が怒つてはゐないかといふのか。
眞底では、明るく輝かしくならうと
屢〻用意はしてゐたが、
大きな犬ほど近く
顏のそばに來るものは何もなかつた。
そして犬はそんなものを持つてゐない。
祈りの後
リルケ 茅野蕭々譯
しかし私は感じます、私は暖く、
いよいよ暖くなつてゆくのを、女王よ、――そして夕ゆふべに貧しく、
朝あさに疲れてゆくのを。
私は白い絹を裂き
私の臆病な夢は叫ぶ。
ああ、私にあなたの惱みをなやませて下さい。
ああ、私等二人を、
同じ不思議で傷つかして下さいと。
[やぶちゃん注:底本、即ち、「リルケ詩抄」では最終の、『不思議で傷かして』であるが、校注によれば、後の「リルケ詩集」では、ここは『神祕で傷つかして』と訳が変更されているとある。『傷かして』は現在では読みにすこぶる躓いてしまうと判断し、恣意的に「つ」を補った。
「夕ゆふべに」は次行の「朝あさに」、「あさあさに」(「朝の来る毎に」の意)との対表現で、「ゆふべゆふべに」と読み、「毎日の夕べに」の意であろう。これは先に紹介した後の「孤獨」の訳詩でも用いられている表記法である。]
孤獨
リルケ 茅野蕭々譯
孤獨は雨のやうだ。
大海から夕ゆふべを迎へて上る。
遠く隔たつた平野から
孤獨は天へゆく、天はいつも孤獨を持つてゐる。
そして天から始めて都會の上へ落ちる。
すべての街が東に向くとき、
そして何物をも見出さなかつた肉體と肉體とが
失望して悲しげに離れる時、
晝夜の間の時間に雨と降る。
そして互に嫌つてゐる人間が
一つ床に一緒に寢なければならない時
その時孤獨は流河と共に行く……
[やぶちゃん注:「夕ゆふべを」は「ゆふべゆふべを」で、「毎日の夕べを」の意。これは底本校注でもそう読みを推定し、さらに底本で先行する訳詩篇「祈りの後」を前例として指示する。そこでは「朝あさ」(「朝の来る毎に」の謂い)という訳表現も用いられている。次回、当該詩を示す。この表記法は奇異でも何でもない。読者に「夕夕」或いは「夕々」と書いて「ゆふゆふ」と読まれたくなく、ルビを振るのも厭な場合には、こう書くのは自然である。現行の表記法で「一人ひとり」と書くのと同じである(但し、この「一人ひとり」を絶対の正規表現として、若い人が書いているのを見たりすると、私は微苦笑するのを常としている。]
秋
リルケ 茅野蕭々譯
葉が落ちる、遠くからのやうに落ちる、
大空の遠い園が枯れるやうに、
物を否定する身振で落ちる。
さうして重い地は夜々に
あらゆる星の中から寂寥へ落ちる。
我々はすべて落ちる。この手も落ちる。
他を御覽。總べてに落下がある。
しかし一人ゐる、この落下を
限なくやさしく兩手で支へる者が。
(私の神聖な孤獨よ、)
リルケ 茅野蕭々譯
私の神聖な孤獨よ、
お前は富むで、純粹で、廣くて、
眼をさます園のやうだ。
私の神聖な孤獨よ――
その前に願らが待つてゐる
黃金の扉を閉めておいで。
若い彫刻家
リルケ 茅野蕭々譯
私は羅馬に行かなくては。この町へは
年を經て名譽を擔つて歸つて來る。
泣くのではない。ねえ、戀人よ、
私は羅馬で傑作をつくるのだ。
さう云つて、彼は醉心地で
望むだ世界を步いて行つた。
しかし魂は屢〻心の中の
非難に耳を傾けるやうだつた。
いやな不安が彼を故郷へ返した。
彼は泣濡れた眼をして
棺の中の憐れな土色の戀人を彫むだ。
そしてそれが――それが彼の傑作だつた。
夢
リルケ 茅野蕭々譯
夜は來る、寶石で豐(ゆたか)に
飾られた碧いろの衣の緣(へり)。――
そのマドンナの兩手で、夜は
やはらかく私に夢を渡す。
やがて夜はその義務を果たさうと、
靜かな足どりで町を去る。
そして夢を與へたつぐのひに
病む兒の魂をつれてゆく。
○蒙古の使を殺す 付 蒙古日本を伐たむ事を企つ
同四年に改元有りて、弘安元年とぞ號しける。正月上旬に、北條右京大夫時村、上洛して六波羅の北の方となり、京都西國の沙汰を執行(とりおこな)ふ。同二年正月に將軍惟康を正二位に叙せられ、位記(ゐき)、既に鎌倉に下著す。同三年二月に大元より使者として杜世忠を遣し、大宰府に著岸せしかば、やがて捕へて鎌倉に告げたりければ、關東に召下し、龍口(たつのくち)にして首(かうべ)を刎(は)ね、由井濱に梟(かけ)られけり。蒙古の王、傳聞(つたへき)きて大に怒り、大將軍等を催し、兵船を造りて、大軍を遣し、日本を伐亡(うちほろぼ)さんとて、武勇の兵を選びける由、又本朝に聞えしかば、年比には替りて頗る大事の時節なりとて、公家よりは伊勢へ勅使を立てられ、奉幣御祈禱、精誠(せいじやう)を盡され、諸寺諸社に仰せて、御祈念護摩の行(おこなひ)は、日を重ねて怠(おこたり)なし。北條相摸守時宗は、鎌倉にありながら筑紫の軍士に催促して、防戦の武備を致さしめ、兵糧、秣(まぐさ)に至るまで、事闕(ことか)けざる用意あり。「蒙古の軍(いくさ)、若(もし)強くして、西國傾く事あらば、東國の軍兵を上せて、主上東宮を守護し奉り、本院、新院をば關東へ御幸なし奉るべし。又筑紫の左右に依て兩六波羅の兵共(ども)、鎭西へ下向し、命を量(ばかり)に防戰し、勳功(くんこう)あらん輩(ともがら)には忠賞(ちうしやう)を行ふべし。天下の大事、この時なり」と下知せらる。諸國の武士共、是を聞きて、「假令(たとひ)如何なる事ありとも、この日本を異賊(いぞく)には奪はるまじ、忠戰(ちうせん)の功を現(あらは)し、重賞(ぢうしやう)に預(あづか)らん。是(これ)、世の位の常の叛逆(ほんぎやく)には替りて、面々、身の上の、大事ぞかし」と、諸軍一同に齒金(はがね)を鳴し、牙を嚙みて思はぬ人はなかりけり。
[やぶちゃん注:本章を以って「北條九代記 卷第十」は終わる。
「同四年に改元有りて、弘安元年とぞ號しける」文永は十二年四月二十五日(ユリウス暦一二七五年五月二十二日)に後宇多天皇即位によって弘安に改元している。
「北條右京大夫時村」(仁治三(一二四二)年~嘉元三(一三〇五)年)は。第七代執権北条政村の嫡男。ウィキの「北条時村(政村流)」によれば、『父が執権や連署など重職を歴任していたことから、時村も奉行職などをつとめ』、建治三(一二七七)年十二月に(本書では翌建治四年としか読めないが、それが現地への着任実時であるなら、問題あるまい)『六波羅探題北方に任じられた。その後も和泉や美濃、長門、周防の守護職、長門探題職や寄合衆などを歴任した』。弘安七(一二八六)年、第八代『執権北条時宗が死去した際には鎌倉へ向かおうとするが、三河国矢作で得宗家の御内人から戒められて帰洛』。正安三(一三〇一)年、『甥の北条師時が』次期の第十代『執権に代わると』、『連署に任じられて師時を補佐する後見的立場と』なっている。ところが、それから四年後の嘉元三(一三〇五)年四月二十三日の『夕刻、貞時の「仰せ」とする得宗被官』や御家人が、当時、『連署であった北条時村の屋敷を』突如、襲って『殺害、葛西ヶ谷の時村亭一帯は出火により消失』したとある。『京の朝廷、及び六波羅探題への第一報はでは「去二十三日午剋、左京権大夫時村朝臣、僕被誅了」』(権大納言三条実躬(さねみ)の日記「実躬卿記」四月二十七日の条)、『「関東飛脚到著。是左京大夫時村朝臣、去二十三日被誅事」』(大外記(だいげき:朝廷の高級書記官)であった中原師茂の記録)とあって、孰れも「時村が誅された」と記している。この時、『時村を「夜討」した』十二人は、それぞれ、『有力御家人の屋敷などに預けられていたが』、五月二日に『「此事僻事(虚偽)なりければ」として斬首され』ている。五月四日には『一番引付頭人大仏宗宣らが貞時の従兄弟で得宗家執事、越訴頭人、幕府侍所所司北条宗方』(北条時宗の甥)『を追討、二階堂大路薬師堂谷口にあった宗方の屋敷は火をかけられ、宗方の多くの郎党が戦死し』た。「嘉元の乱」と『呼ばれるこの事件は、かつては』「保暦間記」の『記述により、野心を抱いた北条宗方が引き起こしたものとされたが、その解釈は鎌倉時代末期から南北朝時代のもので』、同時代の先に出た「実躬卿記」の同年五月八日条にも『「凡珍事々々」とある通り、北条一門の暗闘の真相は不明である』とする。なお、生き残った時村の『孫の煕時は幕政に加わり』、第十二代『執権に就任し』ている。
「位記(ゐき)」律令制に於いて位階を授けられる者に、その旨を書き記して与えた文書。
「同三年二月に大元より使者として杜世忠を遣し、大宰府に著岸せしかば、やがて捕へて鎌倉に告げたりければ、關東に召下し、龍口(たつのくち)にして首(かうべ)を刎(は)ね、由井濱に梟(かけ)られけり」綾なす誤りが頂点に達した箇所。「同三年二月」とは弘安三(一二八〇)年二月となるが、既に見たように、事実とは齟齬する。くどいが、第七回目の元からの使節団のモンゴル人正使の礼部侍郎杜世忠が、幕閣との対面もなく問答無用で江ノ島対岸の龍の口刑場に於いて斬首されたのは建治元年九月七日(ユリウス暦一二七五年九月二十七日)である。なお、ここには今一つの勘違いが加わっている可能性がある。それは、杜世忠が問答無用で斬殺されたことを知らず(幕府はそれを元に伝えていなかった)、クビライが最後の最後に「第八回使節」を送って、その使節団も斬首されている事実との混同である。ウィキの「元寇」によれば、第二次日本侵攻を命じようとしたクビライに対し、元に征服された『南宋の旧臣・范文虎は、ひとまず日本へ再び使節を派遣して、もう一度、日本が従うか否かを見極めてから出兵することを提案したため、クビライはその提案を受け入れ』、『杜世忠ら使節団が斬首に処されたことを知らないまま、周福、欒忠を元使として、渡宋していた日本僧・暁房霊杲、通訳・陳光ら使節団を再度日本へ派遣した』のであった。『今回の使節団は南宋の旧臣という范文虎の立場を利用して、日本と友好関係にあった南宋の旧臣から日本に元への服属を勧めるという形をとった』もので、『大宋國牒状として日本側に手渡された牒状の内容は「宋朝(南宋)はすでに蒙古に討ち取られ、(次は)日本も危うい。よって宋朝(南宋)自ら日本に(元に服属するよう)告知」する内容であった』。弘安二(一二七九)年六月、『日本側は周福らが手渡した牒状が前回と同様、日本への服属要求であることを確認すると、博多において周福ら使節団一行を斬首に処した』(下線やぶちゃん)のであった。なお、この二ヶ月後の同年八月、逃げ出した水夫により、『杜世忠らの処刑が高麗に報じられ、高麗はただちにクビライへ報告の使者を派遣した』。『元に使節団の処刑が伝わると、東征都元帥であるヒンドゥ(忻都)・洪茶丘はただちに自ら兵を率いて日本へ出兵する事を願い出たが、朝廷における評定の結果、下手に動かずにしばらく様子を見ることとなった』とある。傀儡である使者南宋の旧臣范文虎らは、〈いい面の皮〉としか言えない。そもそもが南宋からは多数の僧が日本に亡命しており、禅僧が殆んどだが、彼らは内心、元への強い敵愾心を持っていた。ウィキの「元寇」にも弘安四(一二八一)年、「弘安の役」の『一月前に元軍の再来を予知した南宋からの渡来僧・無学祖元は、北条時宗に「莫煩悩」(煩い悩む莫(な)かれ)と書を与え』、『さらに「驀直去」(まくじきにされ)と伝え、「驀直」(ばくちょく)に前へ向かい、回顧するなかれと伝えた』。これはのちに、「驀直前進」(ばくちょくぜんしん:いじいじと考えずにただ只管に真っ直ぐに進むのみ)という『故事成語になった。無学祖元によれば、時宗は禅の大悟によって精神を支えたといわれる』。なお、『無学祖元はまだ南宋温州の能仁寺にいた』一二七五年、『元軍が同地に侵入し包囲されるが、「臨刃偈」(りんじんげ)を詠み、元軍も黙って去ったと伝わる』とあり、最早、范文虎などは唾棄されこそすれ、およそ支持する在日同胞さえいなかったのである。
「年比には替りて頗る大事の時節なり」前の章の最後の「主上、東宮御元服ましまし、洛中の上下、世は大事の運(うん)にかなひ、時は淳厚(じゆんこう)の德を兼ねたり。諸國、同じく五穀豐(ゆたか)に、東耕(とうこう)の勞(らう)、空(むなし)からず。西收(せいしう)の畜(たくはへ)、庫(くら)に盈(み)ちたり。聖代(せいだい)明時(めいじ)の寶祚(はうそ)、仁慈理政(りせい)の致す所なりと、萬民百姓、樂(たのしみ)に榮え、月花を賞し、歌曲に興じて悦ぶ事、限なし」という祝祭が、ここで急速に暗転する手法は、正直、上手いと思う。
「秣(まぐさ)」兵馬用の餌。
「事闕(ことか)けざる用意あり」細心の注意を払って欠けるところのない万全の防備体制を敷いた。
「主上東宮を守護し奉り、本院、新院をば關東へ御幸なし奉るべし」こうなって(鎌倉時代に早くも恒久的に朝廷が鎌倉に遷って)、そうして元寇が本州を蹂躙していたら、と考えると、これ、なかなか面白いではないか。戦国時代どころか、第二次世界大戦後の「日本分割」も真っ青かも知れんぞ?!
「筑紫の左右に依て」筑紫を中心とした九州全土の戦況によっては。
「命を量(ばかり)に防戰し」命の限り、防戦し。
「齒金(はがね)を鳴し」「齒が根」でも面白いが、それでは以下と畳語で実はつまらぬ。ここはやはり、武士なればこそ、「鋼」「刃金」で、刀剣を鳴らして、怒りに起因する武威を逞しくすることであろう。
「牙を嚙みて」歯を食いしばって。同じく、怒りの形容。]
(しかし私は全步行で)
リルケ 茅野蕭々譯
しかし私は全步行で
いつもあなたを指してゆく。
我々が互に解らないのなら、
私は誰で、あなたは又誰でせう。
戀人の死
リルケ 茅野蕭々譯
死は我々を取つて沈默の中に押入れると
萬人の知ることだけを彼は死について知つてゐた。
しかし彼女が彼から引奪(ひつたく)られはせずに、
そつと彼の眼から解きほどかれ
未知の蔭へ滑り去つたとき、
そして彼方の人々は今
月のやうに彼女の微笑で
彼等の習(ならは)しをよくするのを感じた時、
その時死者たちは彼の知己となつた。
恰も彼女によつて一人一人と
全く近い親戚になつたやうに。
[やぶちゃん注:底本校注によれば、この詩の原詩には十一行目『の後に少し、その後に三行分の一連があると思われるが、『詩集』でも訳出していない。単なるミスか何らかの意図があったかは不明』とある。私はドイツ語を解せないので、これを注するに止める。]
○主上東宮御元服
建治二年正月に、將軍惟康、讚岐〔の〕權〔の〕守に補(ふ)せられ給ふ。同四月に蒙古の使者、長門國室津(むろつ)の浦に來りけるを、同八月に関東に差下(さしくだ)さる。鎌倉の評定(ひやうじやう)には、數年度々の使者を以て、日本の地形、風景を見て、軍法の手段(てだて)を拵ふると覺えたり。今より後は、假令(たとひ)、朝貢の使者と云ふとも、いけて返すべからずとて、かの使者二人を龍口に引出し、首を刎(はね)てぞ梟(かけ)られける。同三年正月に主上、御元服まします。御年十一歳、攝政太政大臣藤原兼平公、加冠たり。理髮は頭中將具顯(ともとき)とぞ聞えし。同月十九日、龜山上皇へ朝覲(てうぎん)の行幸あり。打續き、石淸水、賀茂の行幸ありければ、京都の有樣、いと賑々(にぎにぎ)しくぞ覺えける。同五月、北條武藏守義政、執權の加判を辭退し、剃髮入道して信州鹽田郷(しほだのがう)に閑居せらる。相州時宗、一判にて大小事を下知せられ、晝夜、政理(せいり)に思(おもひ)を費し、心の隙(ひま)はなかりけり。同十二月、東宮熈仁、御元服あり。春宮(とうぐうの)傅(ふ)二條左大臣藤原師忠公、加冠たり。春宮大夫源具守(とももり)、理髮せらる。主上、東宮御元服ましまし、洛中の上下、世は大事の運(うん)にかなひ、時は淳厚(じゆんこう)の德を兼ねたり。諸國、同じく五穀豐(ゆたか)に、東耕(とうこう)の勞(らう)、空(むなし)からず。西收(せいしう)の畜(たくはへ)、庫(くら)に盈(み)ちたり。聖代(せいだい)明時(めいじ)の寶祚(はうそ)、仁慈理政(りせい)の致す所なりと、萬民百姓、樂(たのしみ)に榮え、月花を賞し、歌曲に興じて悦ぶ事、限なし。
[やぶちゃん注:「建治二年」一二七六年。
「同四月に蒙古の使者、長門國室津(むろつ)の浦に來りけるを、同八月に関東に差下(さしくだ)さる。鎌倉の評定(ひやうじやう)には、數年度々の使者を以て、日本の地形、風景を見て、軍法の手段(てだて)を拵ふると覺えたり。今より後は、假令(たとひ)、朝貢の使者と云ふとも、いけて返すべからずとて、かの使者二人を龍口に引出し、首を刎(はね)てぞ梟(かけ)られける」既に述べた通り、これは建治元(一二七五)年二月に進発した、杜世忠の第七回使節団の処分を誤認した叙述である。
「主上、御元服まします」後宇多天皇のそれ(一月三日)。彼は文永四(一二六七)年十二月一日生まれであるから、当時、満十歳である。
「藤原兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)
「加冠」男子の元服の際に初めて冠をつける儀式初冠(ういこうぶり)での、冠を被らせる役。「ひきいれ」とも言った。
「理髮」元服の際に頭髪の末を切ったり結んだりして整える役。
「頭中將具顯(ともとき)」ちょっと若いが、源具顕(文応元(一二六〇)年?~弘安一〇(一二八七)年)か? 伏見天皇の東宮時代の弘安三(一二八〇)年頃に側近として仕えている。彼は左近衛中将であった。
「朝覲(てうぎん)」現代仮名遣では「ちょうきん」。「覲」は謁見の意で、年頭に天皇が上皇又は皇太后の御所に行幸する儀式を指し、践祚(せんそ)・即位・元服の後にも臨時に行われた。
「北條武藏守義政、執權の加判を辭退」北条義政(寛元(一二四三)年或いは仁治三(一二四二)年~弘安四(一二八二)年)は北条重時の子。第六代将軍宗尊親王に仕え、引付衆・評定衆などの幕府要職を歴任、文永一〇(一二七三)年に叔父北条政村が死去すると、彼に代わって連署に任じられ、執権北条時宗を補佐した。ウィキの「北条義政」によれば、彼は杜世忠らを『時宗が処刑しようとした時には和睦の道もあるとしてこれに反対して』おり、「関東評定伝」(「関東評定衆伝」とも称し、嘉禄元 (一二二五) 年から弘安七(一二八四)年に至る鎌倉幕府の執権・評定衆・引付衆の任命と官歴を記したもの。二巻。作者や成立年代は未詳)によれば、この頃から『義政は病のために出家を望んでいたと言われ、花押の有無からも、義政は文永の役以降に病の為に連署としての政務を十分に務めてはおらず』、建治二(一二七六)年『前後には見られなくなる』。「建治三年記」に拠れば、建治三(一二七七)年四月(本書では「五月」となっている)に『突如連署を辞し、出家』して、道義と号したが、翌五月二十二日に逐電、とある。
「信州鹽田郷(しほだのがう)」現在の長野県上田市塩田地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。前注に引いたウィキの「北条義政」にも、この地へ隠居した旨が記されてあり(「建治三年記」によるか)、『塩田には、義政創建と伝えられる安楽寺八角三重塔が残されている』とし、さらに、『義政の遁世について没年などを勘案しての病気説、あるいは拠点塩田荘の地盤固めの為に幕政から退いたなどの説が提唱されているが、歴史学者の網野善彦は義政は安達泰盛室が同母姉妹である事を指摘し、泰盛と得宗家被官平頼綱との対立が義政の立場を微妙なものにしたであろうと推測。さらに、義政の遁世後には極楽寺流の義政にとって本家筋にあたる北条義宗は評定衆に加わっている事からも、本家筋に憚るところがあったとする説、時宗の慰留や、義政遁世後の幕府人事の手早さ等から、得宗家の政治的排除であるとも考えられている』ともある。
「一判にて」一人で幕政の署名決済を行ったことを指す。
「東宮熈仁」後深草院の第二皇子。後の伏見天皇。
「春宮(とうぐうの)傅(ふ)」律令制で定められた皇太子(東宮・春宮)附き教育官の一つ。大臣が兼ねることが多かった。
「二條左大臣藤原師忠」二条師忠(建長六(一二五四)年~興国二/暦応四(一三四一)年)。関白二条良実三男であったが、兄道良の早世により、二条家を継いだ。
「春宮大夫」春宮坊の最高官。
「源具守(とももり)」(建長元(一二四九)年~正和五(一三一六)年)。文永六
(一二六九) 年参議、後に従一位に進んで、正和二(一三一三)年には内大臣となる。娘の基子(西華門院)が後宇多天皇の後宮に入ったことから、後二条天皇の外祖父となった。
「運」願い。切望。
「淳厚(じゆんこう)の德を兼ねたり」「淳厚」は「醇厚」とも書き、人柄などが素朴で人情に篤いことを言う。ここはこの時、主上以下の仁徳のお蔭で、洛中が安泰にして人心平穏であることを形容している。
「東耕(とうこう)の勞(らう)」五行で「東」は「春」。年の初めの春の農事の労苦。
「西收(せいしう)の畜(たくはへ)」同前で「西」は「秋」。秋の収穫の、その貯蔵分。
「聖代(せいだい)明時(めいじ)の寶祚(はうそ)、仁慈理政(りせい)の致す所なり」増淵勝一氏はこれを以下の「萬民百姓」の台詞とし、『聖天子の聡明でいつくしみ深い道理にかなった政治によってもたらされたのである』と訳しておられる。]
○改元 付 蒙古の使を追返さる 竝 一遍上人時宗開基
夫(それ)、天運、循環して、四時、迭(たがひ)に代謝す。年も漸(やうや)く暮行きて、立返る春にもなりしかば、靑陽(せいやう)の空の景色、山には霞(かすみ)の衣を著て、谷の戸(と)出(いづ)る鶯の氷(こほ)れる淚も解初(とけそ)めたり。改元有て、建治元年と號す。二月上旬にも成りしかば、餘寒(よかん)は未だ盡きざれども、木の茅は漸(やうや)う萠(きざ)しつ〻、花、待兼ぬる好事(かうず)の人は、いとど永き日を數へて、花信(くわしん)の風をぞ招きける。斯る所に、蒙古の使(つかひ)杜世忠等(ら)、又、日本に來朝す、高麗人(かうらいじん)も同じく來れり。太宰府に舟を留(とゞ)め、船中にある物共、悉く注錄(ちうろく)し、數多の人等をば太宰府に押留(おしとゞ)め、杜世忠等、只三人を鎌倉へぞ遣しける。洛中へは入れられず、直に關東に差下す。
路次(ろじ)の間(あひだ)、嚴しく守護して偏(ひとへ)に囚人(めしうど)の如くなり。夜を日に繼ぎて鎌倉に著くといへども、蒙古の牒狀に返簡(へんかん)すべきに及ばすとて、その儘、追返(おつかへ)し、大元に歸らしむ。同十二月、北條左近〔の〕大夫時國、上洛して、六波羅の南の方となり、西國の成敗を執行ふ。是は從四位下相摸守時房が曾孫(そうそん)なり。智仁(ちじん)の德、篤くして、寛溫(くわんをん)の惠(めぐみ)を施しければ、人望の指(さ)す所、鎌倉執權の加判たりとも、誰か、その命を輕(かろ)くすべき。然れども、時世の習(ならひ)、京都に上せらる〻は、責(せめ)ての事とぞ申合ひける。今年、鎌倉藤澤時宗念佛の流義、草創す。開山一遍上人は伊豫國の住人河野七郎通廣が次男なり。家富榮えて、国郡、恐從(おそれしたが)ひ、武門の雄壯(ゆうさう)たりければ、四國九州の間(あひだ)、他(ただ)に恥(はづ)る思(おもひ)なし。二人の妾(おもひもの)あり、何(いづれ)も容顏(ようがん)麗しく、心樣(こ〻ろざま)優(いう)なりしかば、寵愛深く侍りき。或時、二人の女房、碁盤を枕として、頭(かしら)、差し合せて寢たりければ、女房の髻(もとゞり)、忽(たちまち)に小(ちいさ)き蛇となり、鱗を立てて喰合(くひあ)ひけるを見て、刀を拔(ぬき)て中より斷分(きりわ)け、是より、執心愛念嫉妬の恐しき事を思知(おもひし)り、輪𢌞妄業(まうごふ)因果の理を辨(わきま)へ發心(ほつしん)して家を出つ〻、比叡山に上り、受戒、桑門(さうもん)の形となり、西山(せいざん)の善惠(ぜんえ)坊上人に逢ひて本願念佛の法門を學(がく)し、十一年を經て、自(みづから)、知眞房と名を付けて、其より熊野に參詣し、山復(また)山、靑巖(せいがん)に雲を蹈み、水復(また)水、碧潭(へきたん)に波を凌(しの)ぎ、道行く人に逢ひても、男女貴賤を撰ばず、只、念佛を勸めて、自(みづから)も亦、行々、餘言を交ふる事なく、念佛より外の聲もなし、斯くて本宮(ほんぐう)證誠殿(しやうじやうでん)に參向(さんかう)し、衆生利益(りやく)の結緣(けちえん)を曹(あまね)く十方に弘通(ぐつう)せん事を祈誓して御寶前に通夜(つや)せられける所に、御寶殿の内より、齡(よはひ)闌(た)けたる老僧の現れ出(いで)させ給ひて、妙なる御聲(みごゑ)を擧げて仰せけるは、「それ、彌陀如來十劫(ごふ)正覺の曉(あかつき)、一切衆生の往生は、六字の名號を以て決定業(けつじやうごふ)と定め給ふ。一度(たび)も耳に聞き、口に唱ふる時は、永く佛種(ぶつしゆ)と成りて、成佛の緣を結ぶ。今、我が示す所を聞きて、札に作りて一切の貴賤男女に賦與(くばりあた)へて、此念佛の結緣を怠る事勿れ」とて、七言四句の偈(げ)を御口(おんくち)づから授け給ふ。其文に、
六字名號一遍法(ぺんはふ)
十界依正一遍體(たい)
萬行離念一遍證(ぺんしよう)
人中上上妙好花(めいかうげ)
と唱へさせ給ふと見て、夢想は卽ち、覺めにけり。知眞房上人、この夢想を感じて、正身(しやうしん)の權現を拜み奉り、歡喜の淚、措所(おきどころ)なし。卽ち、此偈を札に書きて、老少男女を云はず、賦與(くばりあた)へて結緣(けちえん)す。四句の偈の上の字に、六十萬人とある上は、決定往生の念佛を曹(あまね)く勸(す〻め)んと思立ちて、九州二島(じたう)の末までも、千里を遠しとせず、萬仞(ばんじん)の波を越えて、又、鎭西より洛陽を志し、道にして一人の僧に行逢(ゆきあう)たり。元より道心深く、世を遁れし聖(ひじり)なるが、知眞房上人の念佛の弟子となり佗阿彌陀佛(たあみだぶつ)と號して、隨逐(ずゐちく)して、諸國を囘(めぐ)る。魚と水との如くにて、影と形に似たりければ、師弟の情、深くして、立離(たちはな)る〻時ぞなき。其より打囘(うちめぐ)り、信濃國佐久郡(さくのこほり)伴野(ともの)と云ふ所にて、歳末の別時(べちじ)行ひて、踊躍歡喜(ゆやくくわんぎ)の餘(あまり)、立て唱へ、居て唱へ、踊躍(ゆやく)の姿(すがた)、身を忘れ、鳧鐘(ふしよう)の響(ひゞき)、空に渡り、紫雲、軒(のき)に覆ひたり。結緣の男女、諸共(もろとも)に歡喜の淚を流しけり。昔、空也上人、市朝(してう)洛外にして踊躍(ゆやく)の餘(あまり)に踊(をどり)念佛し給ひけり。これぞ、その事の初なる。奥州に赴き、白河の關に掛りて、修行、既に日を送り、山野は同じく續けども、地形(ちけい)は又、等しからず、月は野草(やさう)の露より出でて、遠樹(ゑんじゆ)の梢(こずゑ)に昇り、日は海岸の霧に傾きて、叢松(そうしよう)の綠(みどり)に映(うつろ)ふ。往初(そのかみ)、西行上人、修行の時、「關屋を月の漏(も)る影は」と詠じけん事を思出でて、關屋の柱に書き付けける。
白河の關路にもなほ留(とゞま)らじ心の奧のはてしなければ
又、或時、詠める歌に、
思ふ事なくて過ぎにし昔さへ忍べば今の歎(なげき)とぞなる
あともなき雲にあらそふ心こそ中々月の障(さはり)とはなれ
斯(かく)て、東西南海北陸の諸國、京都洛外に至るまで、影を殘し、教を留め、普(あまね)く念佛を弘通して、相州藤澤の道場を構へ、鎌倉を囘(めぐ)りて、念佛を結緣(けちえん)し、此所(こ〻)にも猶、留らず、修行の志、怠らず。攝州兵庫の觀音堂に於いて正念にして遷化(せんげ)あり。正應二年八月二十三日、生年五十一とぞ聞えし。佗阿彌陀佛、その遺教(ゆゐけう)を守りて、同じく諸国を修行せしより、一遍上人時宗の流義、今の世までも退轉なし。
[やぶちゃん注:本文の一部に行間を設けた。
「四時」四季。
「迭(たがひ)に」「迭」(音「テツ」)は「代わる代わる」「交替に」の意。
「年も漸(やうや)く暮行きて」ここは前章の最後ではなく、メインである「文永の役」を受けている。文永一一(一二七四)年が暮れたことを意味する。
「靑陽(せいやう)」五行説に於いて「青」を「春」に配するところから、春の異称。特に、初春を指す。
「改元有て、建治元年と號す」文永一二年四月二十五日(ユリウス暦一二七五年五月二十二日)に前章の最後に出る後宇多天皇の即位により「建治」に改元された。
「二月上旬にも成りしかば」重箱隅みをつつくようであるが、二月では、まだ改元前である。これは次の元使の話に繋げるための順列変更である。
「蒙古の使(つかひ)杜世忠等(ら)、又、日本に來朝す、高麗人(かうらいじん)も同じく來れり。太宰府に舟を留(とゞ)め、船中にある物共、悉く注錄(ちうろく)し、數多の人等をば太宰府に押留(おしとゞ)め、杜世忠等、只三人を鎌倉へぞ遣しける。洛中へは入れられず、直に關東に差下す。
路次(ろじ)の間(あひだ)、嚴しく守護して偏(ひとへ)に囚人(めしうど)の如くなり。夜を日に繼ぎて鎌倉に著くといへども、蒙古の牒狀に返簡(へんかん)すべきに及ばすとて、その儘、追返(おつかへ)し、大元に歸らしむ」完全な誤り。「文永の役」の翌年の二月に、確かに第七回目の元からの使節団が来日し、その正使であったのは確かに礼部侍郎であったモンゴル人杜世忠(一二四二年~建治元年九月七日(ユリウス暦一二七五年九月二十七日))ではあったが、この時、彼らは帰国など出来ず、幕閣との対面もなく問答無用で江ノ島対岸の龍の口刑場に於いて斬首されているからである。ウィキの「元寇」によれば、『クビライは日本再侵攻の準備を進めるとともに日本を服属させるため、モンゴル人の礼部侍郎・杜世忠を正使、唐人の兵部侍郎・何文著を副使とする使節団を派遣した』。『通訳には高麗人の徐賛、その他にウイグル人の刑議官・チェドゥ・ウッディーン(徹都魯丁)、果の三名が同行した』。『使節団は長門国室津に来着するが、執権・北条時宗は使節団を鎌倉に連行すると、龍ノ口刑場(江ノ島付近)において、杜世忠以下』五名を即刻、斬首に処している。『これは使者が日本の国情を詳細に記録・偵察した、間諜(スパイ)としての性質を強く帯びていたためと言われる。斬首に処される際、杜世忠は以下のような辞世の句を残している』(原詩と訓読は私が別に用意した)。
出門妻子贈寒衣
問我西行幾日歸
來時儻佩黃金印
莫見蘇秦不下機
門を出ずるに 妻子 寒衣を贈りたり
我に問ふ 西に行き 幾日にして歸ると
來たる時 儻(も)し 黃金の印を佩びたらば
蘇秦を見 機(はた)を下らざること 莫(な)かりしを
『(家の門を出る際に私の妻子は、寒さを凌ぐ衣服を贈ってくれた。そして私に西に出かけて何日ほどで帰ってくるのかと問う。私が帰宅した時に、使節の目的を達して、もし黄金の印綬を帯びていたならば、蘇秦の妻でさえ機織りの手を休めて出迎えたであろう)』。ウィキの「杜世忠」によれば、『辞世の句は、蘇秦の故事を踏まえた李白の詩のもじりであり、栄達を果たして家族のもとに帰る望みを果たせなかった無念と、身につけた一定の教養が窺われる』ともある。現在、彼ら首塚は、藤沢市片瀬にある日蓮宗龍口山(りゅうこうさん)常立(じょうりゅう)寺に、「誰姿森(たがすのもり)」と呼ばれる供養塚として残る。「北條九代記」がボロボロに致命的なのは、この後、これを次の章で、この後にまたまた懲りもせずに杜世忠一行が使節団として来たので、有無を言わせず斬首に処した、と書いてしまっている点である。
「北條左近〔の〕大夫時國」(弘長三(一二六三)年~弘安七(一二八四)年)は北条時房の長男であった北条時盛の子である北条時員(ときかず)の子(但し、後に祖父時盛の養子となっている)。ウィキの「北条時国」によれば、文永九(一二七二)年の『二月騒動で北条時輔が誅殺された後、空職であった六波羅探題南方に就任するため』、この建治元(一二七五)年十二月、十三歳で七十九歳の『祖父時盛と共に上洛し、北条時村と共に洛中の警護を命じられる』。弘安七(一二八四)年四月に執権『北条時宗が没して間もない』六月、悪行(素行不良)を『理由に六波羅探題を罷免されて関東へ召し下され』、『常陸国へ配流となった後』、誅殺されてしまう(単なる死とするもの、自死する資料もある)。『時国の事件の背景には、この頃の安達泰盛と平頼綱の対立が関係していたとの説がある。すなわち、時国を婚姻関係を通じた安達氏の与党と捉え、時国の流刑は頼綱派による泰盛派への攻撃で、翌』弘安八(一二八五)年)に『起こる霜月騒動の前哨戦であったとする』。『また、時国が捕えられた』同時期の弘安七年六月二十五日には『有力御家人の足利家時が自殺している』
『が、これについても家時が佐介流とその姻戚にあたる極楽寺流北条氏を介した泰盛与党であったとして時国の事件に連座する形での自害と解釈されている(家時の義母(父頼氏の正室)は北条時盛の娘であり、その兄または弟である時国は家時にとって義理の外叔父であった)』。『しかし、近年の研究においては、泰盛も頼綱も時宗の政治路線の継承者であり、時宗が亡くなった直後においては、その際に行われた「弘安徳政」も時宗によって企画・準備されたものが明らかであったので頼綱派も当初はこれに異を唱えなかったとされており』、『家時の自殺をその後の泰盛派と頼綱派の対立に関連づける必要はないとの説も出されている』。『従って、時国の事件も霜月騒動と関連したものであるかについては注意を要するところである。今のところ、時国が事件を起こした理由について窺える史料はない』。『但し、同じ頃』(弘安七年八月とされる)『には、時国の伯父(時盛の次男)である北条時光が謀叛を画策したとの嫌疑によって佐渡国に配流されており』、『これが時国の事件と関連があるかは不明だが、この二つの事件によって佐介流北条氏が没落したことは確かで、代わって同じ時房流である大仏流北条氏が隆盛してゆくこととなる。また、曾祖父・時房以来継承された丹波国の守護職も没収され、佐介流は時国の従兄弟である北条盛房に引き継がれた』とある。
「寛溫の惠」物事や人物に対し、寛大で人間的な温もりのある慈悲に富んだ対応すること。
「加判」連署。
「責(せめ)ての事」よほどの事。現在、一般に言われている「悪行」を字背に匂わせたか。
「今年」文脈からは建治元(一二七五)年となるが、ウィキの「一遍」によれば、一遍(延応元(一二三九)年~正応二(一二八九)年)が、六字名号を記した念仏札を配る「遊行(ゆぎょう)」を開始するのは文永一一(一二七四)年二月八日とされ、その後、『四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励』んだが、『紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする』ある(下線やぶちゃん)から、この「北條九代記」の時宗開創年は穏当な線と言える。建治二(一二七六)年には『九州各地を念仏勧進し』、建治三(一二七七)年に『豊後国大野荘で他阿に会うなどして入門者を増やし、彼らを時衆として引き連れるようになる』。『さらに各地を行脚し』、弘安二(一二七九)年には『伯父の通末が配流された信濃国伴野荘を訪れた時に踊り念仏を始めた。踊り念仏は尊敬してやまない市聖空也に倣ったものといい、沙弥教信にも傾倒していた』。翌弘安三年に『陸奥国稲瀬にある祖父の通信の墓に参り、その後、松島や平泉、常陸国や武蔵国を経巡る』。弘安五年には『鎌倉入りを図るも拒絶され』ている。弘安七年『上洛し、四条京極の釈迦堂(染殿院)に入り、都の各地で踊り念仏を行なう』。弘安九年、『四天王寺を訪れ、聖徳太子廟や当麻寺、石清水八幡宮を参詣する』。弘安一〇(一二八七)年には『書写山圓教寺を経て播磨国を行脚し、さらに西行して厳島神社にも参詣』、文永十一年以来、実に十四年もの遊行を経、正応元(一二八八)年、『瀬戸内海を越えて故郷伊予に戻』った。彼の『死因は過酷な遊行による過労、栄養失調と考えられ』ている、とある。なお、一遍は現在、独立宗派としての「時宗(じしゅう)」の開祖とされるが、親鸞同様、彼自身には新たな独立した宗派を立宗しようという意図はなく、その教団や成員も專ら「時衆(じしゅう)」と呼ばれた。
「鎌倉藤澤時宗念佛」現在の藤沢市西富にある時宗総本山の藤沢山無量光院清浄光寺(しょうじょうこうじ)、所謂、「遊行寺」(通称。但し、近世以降)のことである。一遍の没後三十六年経った正中二(一三二五)年、俣野領内の藤沢にあったという廃寺極楽寺を清浄光院として再興したのが開山と言される。「鎌倉」とあるのは、現在の藤沢市地区の鎌倉に接する多くの部分が古くは鎌倉郡に属していたからであって、誤りではない。
「伊豫國の住人河野七郎通廣が次男」ウィキの「一遍」によれば、『伊予国(ほぼ現在の愛媛県)久米郡の豪族、別府通広(出家して如仏)の』第二子として『生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ』るが、『同市内の北条別府や別の場所で誕生したとする異説もある。有力御家人であった本家の河野氏は』、承久三(一二二一)年の『承久の乱で京方について』、敗北後、『祖父の河野通信が陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡羽広(長野県伊那市)に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡伴野(長野県佐久市)にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた』とあって、以下に語られる内容とは大いに齟齬する。二人の妻の髪の毛の蛇に変じて盤上で争そうというのは、この手の遁世譚の、聴き飽きたステロタイプであり、一遍が生きていたら、「阿呆臭!」と言い放って、踊り出っしゃうような気がする。
「桑門(さうもん)」僧侶。
「西山(せいざん)の善惠(ぜんえ)坊上人」法然の最需要の高弟の一人で、浄土真宗西山派の祖善恵房証空(ぜんねぼうしょうくう 治承元(一一七七)年~宝治(一二四七)年)。加賀権守源親季の長男であったが、九歳で内大臣久我通親の養子となった。建久元(一一九〇)年十四歳の時、元服に際して発心・出家し、法然の直弟子となった。以後、法然臨終までの二十一年に亙って、その許で親しく修学、法然の「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」撰述に当たっては、編集作業の重役を勤めており、法然に代わって九条兼実邸での「選択集」講義なども行っている。
「靑巖(せいがん)」青緑に苔蒸した大岩。
「本宮證誠殿(しやうじやうでん)」現在の和歌山県田辺市本宮町本宮にある熊野本宮(ほんぐう)大社の「上四社」の内の、第三殿とされる「證証殿」。祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ:恐らくは素戔嗚の別名)で、神仏習合期のその本地は阿弥陀如来であった。
「弘通(ぐつう)」「ぐずう」とも読む。仏教を普及させること。
「十劫(ごふ)」「劫(こう)」は仏教の無限に近い長い時間単位で。ここは「永い」の謂い換え。
「正覺」仏法のまことの一念を悟ること。
「決定業(けつじやうごふ)」一般には「定業」と同じで、前世から定まっている善悪の業報(ごうほう)であるが、ここは特異義で、弥陀の本願が既に成就している以上、その定め、即ち、「南無阿彌陀佛」の名号(みょうごう)を唱えることで、生きとし生けるありとある衆生は極楽往生するということは、既にして決定(けつじょう)している、ということ全体を指している。
「六字名號一遍法/十界依正一遍體/萬行離念一遍證/人中上上妙好花」辛気臭い宗教サイトよりも、増淵勝一氏の訳(一九七九年教育社刊)の方が遙かによい。引用させて戴く。『「南無阿弥陀仏」という六文字の名号には仏の教えのすべてがこもっている。十界〈地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の各界)の依正(えしょう)〈依報(えほう)と正報。過去の業によって受けた我が心身を正報といい、その心身がよりどころとする一切世間の事物を依報という〉は全本体である。すべての行ないが妄念を離れるとすっかりさとりきったことになる。そういう人を人間の中の上上の妙好花というのである。』。
「九州二島(じたう)」九州と壱岐と対馬の二島。
「末までも」隅々、残る隈なく。
「佗阿彌陀佛(たあみだぶつ)」(嘉禎三(一二三七)年~文保三(一三一九)年)は遊行上人第二世で、「他阿(たあ)」と略する。ウィキの「他阿」より引く。建治三(一二七七)年に『九州で時宗の祖一遍に師事して以来、一遍の諸国遊行に従う』。正応二(一二八九)年に『一遍が亡くなった後』、一旦、散り散りになってしまった『時衆を再結成して引き連れ、北陸・関東を中心として遊行を続けた』。嘉元二(一三〇四)年には遊行上人を第三世『量阿(他阿智得。のち他阿号を世襲)に譲り、自らは相模国に草庵(後の当麻道場金光院無量光寺)を建立して独住(定住)し、そこで没した。同寺の境内に、一遍らとならんで墓塔の宝篋印塔がある。おもな門弟に量阿のほか、有阿(恵永または恵光。のち藤沢道場をひらく他阿呑海)、京都四条道場・浄阿(真観)がいる』。『膨大な消息はのちに』「他阿上人法語」(八巻)に『まとめられたほか、歌人として京都の貴人たちとまじわり』、歌集「大鏡集」もある。『一遍は、肉親ともいわれる弟子聖戒を後継者とみなしていた節があり、しかも入寂に際して時衆は各地に散って自然消滅している。それを再結成して他阿自らが中心となって再興をなしとげた』。『他阿はバラバラであった時衆を統制するために信徒に対して僧である善知識を「仏の御使い」として絶対服従させる知識帰命の説を取り入れ、「時衆制誡」「道場制文」などを定め』、「時衆過去帳」を『作成して時衆の教団化、定住化を図っていった。この頃、消息の中で配下の道場(寺院)は百あまりと述べている。こうして他阿は時衆を整備された教団とし、その教団確立のうえで大きな功績を残した』。『現在ある時宗教団は、この他阿の系統を引く藤沢道場清浄光寺が、他の一向俊聖などの念仏聖の教団を吸収して近世に成立した。歴代の時宗法主は他阿を称する。したがって、他阿真教こそが、時宗の実質的な開祖といえよう。宗祖一遍とならぶ「二祖上人」と通称され、多くの時宗寺院で、その像が一遍と対になって荘厳されている』とある。
「隨逐(ずゐちく)」後を追って附き従うこと。
「信濃國佐久郡(さくのこほり)伴野(ともの)」現在の長野県佐久市伴野。ウィキの「伴野荘 (信濃国佐久郡)」に『霜月騒動の少し前である』弘安二(一二七九)年の『冬、善光寺に向かう途中であった一遍が、伯父の河野通末の配流先』(承久の乱で河野一族は上皇方についたことによる)『であった伴野荘を訪れ、この地の市場において初めて踊念仏を行った』、と「一遍聖絵(いっぺんひじりえ)」にあると記す。
「歳末の別時(べちじ)」増淵氏の割注に、『特別の時日。期間を定めて唱名念仏をすること』とある。
「鳧鐘(ふしよう)」中国神話で音楽を司る鳧(ふ)氏が作ったという鐘の意から釣鐘・梵鐘・鉦鼓 (しょうこ) などを指すが、ここはまさに極楽天界の音楽、飛天の奏でるそれをイメージしてよかろう。
「空也」(延喜三(九〇三)年~天禄三(九七二)年)。天台宗空也派の祖。皇族の出とする説もあるが、不明。常に市中に立って庶民に念仏を勧め、貴賤を問わず幅広い帰依者を得、「阿弥陀の聖」「市の聖」と尊称された。諸国を巡って、道路を開鑿し、橋を架けるなどの社会事業をも行ったことで知られる。京都に疫病が流行した際に西光寺(後の六波羅蜜寺)を建立、平癒を祈った。ここに出る「踊念仏」の開祖とも仰がれるが、空也自身がそうした「踊念仏」を修したという証拠はない。但し、門弟は高野聖などとして中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となったことは事実で、一遍に彼の影響が大きいことは言うまでもない。
「市朝」洛中の人々の集まる市(いち)。
『西行上人、修行の時、「關屋を月の漏(も)る影は」と詠じけん』「山家集」に出る一首(一一二六番歌)。
みちのくにへ修行してまかりけるに、
白河の關にとまりて、所がらにや、
常よりも月おもしろくあはれにて、
能因が、秋風ぞ吹くと申しけむ折り、
いつなりけむと思ひ出でられて、名
殘(なごり)おほくおぼえければ、
關屋の柱に書き付けける
白河の関屋を月のもる影は人の心を留むるなりけり
能因のそれは、御存知、
都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹く白河の關
である。「もる影」は月の光りがあばら家の隙間から「洩(も)る」と、孤独な関守が関を「守(も)る」の掛詞。
「白河の關路にもなほ留(とゞま)らじ心の奧のはてしなければ」増淵氏の訳を引く。『はるばると修行の旅を続けて今やっと行く手を「塞(せ)く」白河の関にまでやってきた。しかし私はやはりここで留まらないで先へ進もう。陸奥(みちのく)の地が奥深いように私の仏を求める心は奥深く果てしないから。』。
「思ふ事なくて過ぎにし昔さへ忍べば今の歎(なげき)とぞなる」同じく増淵氏の訳。『思い嘆くこともなくて過ごしてきた昔でさえも、今思い出すと、どうしてあの時にもっと早く仏道を求めなかったのかという嘆きになることだよ。』。
「あともなき雲にあらそふ心こそ中々月の障(さはり)とはなれ」同増淵氏訳。『晴れればあとかたもなくなってしまう月を隠している雲〈妄念の意〉に対して、そこをどくようにと争う心こそが、かえってしみじみと見るはずの月〈心〉の障害となることであろう。』。
「相州藤澤の道場を構へ」既に注した通り、誤り。清浄光寺(遊行寺)は一遍の死後の建立である。なお、同寺は現行でも藤沢道場と呼称する。
「退轉」没落。衰退。凋落。]
○ 龜山院御讓位 付 蒙古の賊船退去 竝 東宮立
同十一年正月、主上、御年二十六歳にて、御位を太子に讓り給ふ。院號蒙らせ給ひ、龜山院と稱し奉る。三月二十六日、太子、寶位(はうゐ)に卽(つ)き給ふ。御年、初て八歳に成らせ給ふ。御母は藤原〔の〕左大臣實雄公の御娘(おんむすめ)なり。後に後京極〔の〕女院と號し奉る。九條〔の〕關白忠家公、攝政として、朝政(てうせい)を行はる。この時、後深草を本院と申し、龜山を新院とぞ申しける。同じき月に、筑紫(つくし)の探題、早馬を六波羅に立てて申しけるは、「蒙古の賊船、大將二人、大船三百艘、早船三百艘、小船三百艘、その人數、二萬五千、既に日本征伐の爲に纜(ともづな)を解きて押渡(おしわた)ると聞え候。御用心あるべし」とぞ告(つげ)たりける。これ、年來、數度(すど)、使者牒狀(てふじやう)を送るといへども、日本、更に返狀なきに依(よつ)てなり。禁中には、主上、仙院より、諸社に勅使を立てて、御祈念あり。諸寺の高僧に仰(おほせ)て祕法を行はる。關東より筑紫へ下知(げち)して、武備に怠(おこたり)なし。同十月に、蒙古の賊船、對馬(つしま)に寄來(よせきた)る。筑紫の武士等(ら)、集りて、防戰(ふせぎた〻か)ふ。蒙古の軍法(ぐんぱふ)、亂れ靡(なび)きて調(と〻のほ)らず、矢種(やだね)盡きければ、海邊(かいへん)所々の民屋を濫妨(らんばう)し、是を以て此度(このたび)の利として、軍(いくさ)を引きて漕歸(こぎかへ)る。日本の武士等も、攻破(せめやぶ)られざるを勝(かち)にして、軍は是にて止みにけり。同月、本院、後深草第二の皇子熈仁(ひろひと)を東宮に立てらる。主上には御年も二歳まで勝り給ふ故に、新院、龜山御在位の御時、東宮には先(まづ)、此宮をこそ立てらるべかりしを、後嵯峨法皇の叡慮、偏(ひとへ)に新院の御許(もと)におはします由を、大宮(おほみや)の女院より關東に仰せ遣されしかば、時宗、計(はからひ)奉りて、主上を御位に定めけり。是(これ)に依て、新院は御讓位の後も政務を知しめし、御心の儘に振舞ひ給ふ。本院は何事に付きても、少も綺(いろ)ひ給ふべき御心もましまさず。只、疾(とく)御飾(おんかざり)をも下(おろ)し、世を浮草(うきくさ)の風に任せて、御身をま〻に行脚し、諸國の靈地をも巡禮抖藪(とそう)せばや、と思召しける所に、北條時宗、計(はからひ)申して、熈仁親王を東宮に立て參(まゐら)せしかば、本院、深く喜悦の眉(まゆ)を開き、御落飾(おんらくしよく)にも及ばす、新院の御心も融(と)けて、本院と御中、よく成り給ひ、大宮の女院も嘉慶欣悦(かきやうきんえつ)斜(な〻め)ならず、
大平長久の寶運なりと、世の中、廣く、彼方此方(かなたこなた)、隔(へだて)なくぞ見えにける。これより後は、譲位卽位立坊(りつばう)の御事、皆、關東よりぞ計ひ申されけり。
[やぶちゃん注:標題の「龜山院御讓位」は「龜山院の御讓位」、「東宮立」の「立」は「だち」のルビが配されてある。
同十一年正月」前条後半の叙述上の時制に激しい不備があるので、「同」では厳密にはおかしい。文永十一年はユリウス暦一二七四年。
「主上」亀山天皇。
「太子」世仁(よひと)。ここで後宇多天皇となる。
「寶位(はうゐ)」皇位の尊称。
「藤原〔の〕左大臣實雄の御娘」従一位左大臣であった故洞院実雄(とういんさねお 承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年:山階左大臣。既注)の娘で亀山天皇皇后の佶子(きつし)。
「後京極〔の〕女院」増淵勝一氏の現代語訳もママであるが、これは、前にある「後の」からの衍字であって、「京極〔の〕女院」(京極院)でないとおかしい。「後京極院」というのは後醍醐天皇中宮西園寺禧子(きし)の、それも死後に改めて南朝側より追贈された院号(女院号)だからである。
「九條〔の〕關白忠家」(寛喜元(一二二九)年~建治元(一二七五)年)は九条教実の子で、延応元(一二三九)年に従三位。後、内大臣を経(但し、この間、建長四(一二五二)年に発生した了行による謀反事件に際し、九条家の関与が疑われ、従兄弟に当る鎌倉幕府第五代将軍九条頼嗣が解任され、忠家自身も同年七月に後嵯峨上皇の勅勘を受け、右大臣を解任されている)、この前年の文永一〇(一二七三)年に関白・藤氏長者・従一位に進んでいる。ウィキの「九条忠家」によれば、『この就任の背景には忠家を勅勘した後嵯峨法皇が崩御したことを機に』、『息子・忠教の義兄である関東申次西園寺実兼から、当時の鎌倉幕府執権北条時宗に、忠家復権への支持の働きかけが行われた可能性が高く、朝廷内部の事情による人事ではなかったことがあったとみられている』。その証拠に、翌文永一一(一二七四)年正月に摂政に就任するも、同年六月には、早くも同職を辞職しており、その辞職の際も、『大嘗会の故実を知らないことを理由とし、更に三度の上表すら許されないなど、異常なものであったとされている』。しかしながら、『短い在任期間とはいえ』、『九条流継承の条件である「摂関就任を果たした」ことによって、九条家の摂家としての地位を確立させたことにより、その後の一族の運命を大きく変えることとなった』とある。
「同じき月」これでは、文永十一年三月となるが、これもおかしい。恐らくはクドゥン(忽敦)を総司令官として元軍が朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した(十月三日)後のことと思われ、ここは十月と読み換えるべきである。なお、クビライが日本侵攻を指示したのは一二七三年(文永十年)で、翌年、即ちこの年の一月にはクビライは昭勇大将軍洪茶丘を高麗に派遣、高麗に戦艦三百艘の建造を開始させている。同年五月には元から派遣された日本侵攻の主力軍一万五千名が高麗に到着、翌六月に、高麗は元に使者を派遣、戦艦三百艘の造船を完了、軍船大小九百艘を揃えて高麗の金州に回漕したことを報告している。侵攻軍総司令官クドゥンの高麗着任は八月である(後半部はウィキの「元寇」に拠った)。
「筑紫(つくし)の探題」鎮西探題。現在の研究では福岡市博多区祇園町にあったと考えられている。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「蒙古の賊船、大將二人、大船三百艘、早船三百艘、小船三百艘、その人數、二萬五千、既に日本征伐の爲に纜(ともづな)を解きて押渡(おしわた)ると聞え候。御用心あるべし」ウィキの「元寇」によれば、総司令官クドゥン以下、『漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍』(この副将を「大將二人」と数えたか)一万五千から二万五千名の『主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍』五千三百から八千名、それに水夫(かこ)を含むと、実に総計で二万七千から四万名を乗せた、七百二十六から九百艘の軍船という大群であった。現在の知見から見ても、ここに記され数値はすこぶる穏当である。
「主上」後宇多天皇。
「仙院」上皇のこと。ここは後深草院(本院)及び亀山院(新院)の二人を指す。
「同十月に、蒙古の賊船、對馬(つしま)に寄來(よせきた)る」元軍は十月五日、対馬の小茂田浜(こもだはま:長崎県対馬市厳原(いずはら)町小茂田)に初侵攻した。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「元寇」によれば、「八幡愚童訓」(鎌倉中後期に成立したと思われる八幡神の霊験や神徳を説いた寺社縁起。本「北條九代記」の依拠する作品の一つ)『によると、対馬守護代・宗資国』(そう すけくに)『は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた』。そのうち七、八艘の大型船より千名ほどの『元軍が上陸したため、宗資国は』八十余騎で『陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも』四人を『射倒すなど奮戦したものの、宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦』(小茂田地区の旧称)『を焼き払ったという』。『同日、元軍の襲来を伝達するため、対馬勢の小太郎・兵衛次郎(ひょうえじろう)らは対馬を脱出し、博多へ出航している』。「高麗史」の「金方慶傳」によると、『元軍は対馬に入ると』、『島人を多く殺害した』。『また、高麗軍司令官・金方慶の墓碑』「金方慶墓誌銘」にも『「日本に討ち入りし、俘馘』(ふかく)『(捕虜)が甚だ多く越す」『とあり、多くの被害を島人に与えた』。『この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている』(「高祖遺文錄」の日蓮書状より)。――去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古國ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、對馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉(さうまじよう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)。――『この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている』。『この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた』。『同様に元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女』二百人を『高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)に献上している』(下線やぶちゃん)。以下、筆者は文永の役の惨状を何故か、語らない。されば、くだくだしく注するのもなんであるが、ウィキの「元寇」の「文永の役」の項の「壱岐侵攻」(十月十四日)・「肥前沿岸襲来」(同月十六~十七日)、「博多湾上陸」(同月二十日)から「赤坂の戦い」及び「鳥飼潟の戦い」(以上の二戦闘が「文永の役」の主戦闘とされる)等は必読であろう。
「筑紫の武士等(ら)、集りて、防戰(ふせぎた〻か)ふ」ウィキの「元寇」によれば、「八幡愚童訓』」では『鎮西奉行の少弐氏や大友氏を始め、紀伊一類、臼杵氏、戸澤氏、松浦党、菊池氏、原田氏、大矢野氏、兒玉氏、竹崎氏已下、神社仏寺の司まで馳せ集まったとしている』とある。
「蒙古の軍法(ぐんぱふ)、亂れ靡(なび)きて調(と〻のほ)らず、矢種(やだね)盡きければ、海邊(かいへん)所々の民屋を濫妨(らんばう)し、是を以て此度(このたび)の利として、軍(いくさ)を引きて漕歸(こぎかへ)る」ウィキの「元寇」によれば、これらの主戦闘に於いて終日、激戦が繰り広げられたが、『元軍は激戦により損害が激しく軍が疲弊し、左副都元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど苦戦を強いられ』、『やがて、日が暮れたのを機に、元軍は戦闘を』解いて帰陣した。「高麗史」の「金方慶傳」には、『この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍司令官である都督使・金方慶と元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)や右副都元帥・洪茶丘との間で、以下のようなやり取りがあった』とする。金方慶が(以下、注記号を除去した)、
――『「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、我が軍は自ずから戦うことになる。これは秦の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい」』
と戦闘の継続を強く主張すると、総司令官クドゥンは、
――『「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」』
と答えたという。『このような議論があり、また左副都元帥・劉復亨が戦闘で負傷したこともあって、軍は撤退することになったという。当時の艦船では、博多-高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで』一ヶ月も『掛かることもあった(朝鮮通信使の頃でも夜間の玄界灘渡海は避けていた)』。『このような条件の下、元軍は夜間の撤退を強行し海上で暴風雨に遭遇したため、多くの軍船が崖に接触して沈没し、高麗軍左軍使・金侁が溺死するなど多くの被害を出した』。『元軍が慌てて撤退していった様子を、日本側の史料』である「金剛仏子叡尊感身学正記」(こんごうぶつしえいそんかんしんがくしょうき:鎌倉時代に真言律宗を開いた僧侶叡尊の自伝)は、『「十月五日、蒙古人が対馬に着く。二十日、博多に着き、即退散に畢わる」と記している』。「身延中興の三師」のひとりに数えられる室町時代の日朝の「安国論私抄」に『記載されている両軍の戦闘による損害は、元軍の捕虜』二十七人、首級三十九個、『その他の元軍の損害を数知れずとする一方、すべての日本人の損害については戦死者』百九十五人、『下郎は数を知れずとある』。その後、十一月二十七日に『元軍は朝鮮半島の合浦(がっぽ)まで帰還した』とある。
「同月」良心的に前の私の修正を受けても、これでは文永一一(一二七四)年十月としか読めないのであるが、これも年も月も完全な誤りである。「本院」後深草院が第二皇子である「熈仁(ひろひと)」を東宮に立て」たのは、建治元(一二七五)年十一月五日である。この立太子は、亀山上皇(後の大覚寺統)で天皇が続くことを不満に思った後深草上皇(後の持明院統)が幕府に働きかけた結果の、幕府の斡旋によるものであった。
「大宮(おほみや)の女院」後嵯峨天皇中宮西園寺姞子(きつし)。
「抖藪(とそう)」既出既注であるが、再掲しておく。「抖擻」とも書く。梵語“dhūta”の訳で音字は「頭陀」。衣食住に対する欲望を払い除けて身心を清浄に保つこと、また、その修行を指す。
「嘉慶欣悦(かきやうきんえつ)」この上もない慶事にして喜ばしく、最上の歓喜に値いすること。]
私の生家
リルケ 茅野蕭々譯
幼い日の至愛の家は
追憶から消えはしない。
私が碧い絹張りの客間で
繪本を見た處、
太い銀糸で豐かに
笹緣(ささべり)をつけた着物が
私の幸福であつた處、『計算』が
私に熱い淚を押出した處。
私が暗い呼聲に從つて、
詩に手を出したり、
窓の段の上で
電車や船の遊戲をした處。
向うの伯爵家から、いつも
一人の娘が私を差招いた處……
あの頃輝いてゐたあの宮殿が
今ではあんなに寐ぼけて見える。
それから男の子が接吻を投げると
笑つたブロンドの子供は
今は去つて、遠くに息(やす)んでゐる。
もう微笑(ほほゑ)むことも出來ない處に。
[やぶちゃん注:第三連三行目の「窓」は底本では「窗」であるが、校注によって、これは後の「リルケ詩集」で茅野蕭々が「窗」の字に書き換えたことが判るので、「窗」の字の嫌いな私は断然、「リルケ詩抄」の「窓」の戻した。
「リルケ詩抄」の巻末には、「ライネル・マリア・リルケ」と題する訳者自身による解説文が載るが、その冒頭に近い一節で(詩篇同様、恣意的に漢字を正字化した。但し、ルビは詩篇本文と異なり、本文もルビも現代仮名遣を使用しており、非常な不審と疑義があるので(本底本の有意に残念な瑕疵と存ずる)、引用本文の総てを原則、歴史的仮名遣に変換し、ルビ(読み)は「フラウエン・ゼエレ」の一ヶ所を除いて総て除去した)、
*
小さな時から孤獨と平靜とを好んだことは、彼の自敍傳とも云ふ可き小説『最終の人々』にも覗はれる名族の最終人としての自覺が疾うから彼の重荷となつてゐたやうである。彼の最も愛したものは、繪本、人形、銀糸、孔雀の羽根、靜に搖曳する白雲等であつたといふから、彼が如何にも女らしい小兒であつたかが想像される。或る批評家がリルケを名づけて婦人(フラウエン・ゼエレ)の所持者と云つたことも思ひ合はされる。
*
と茅野は記している。
ウィキの「ライナー・マリア・リルケ」によれば、リルケは『オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにルネ(・カール・ヴィルヘルム・ヨーハン・ヨーゼフ)・マリア・リルケ(René Karl Wilhelm Johann Josef
Maria Rilke)として生まれる。父ヨーゼフ・リルケは軍人であり、性格の面でも軍人向きの人物だったが、病気のために退職した後』、『プラハの鉄道会社に勤めていた。母ゾフィー(フィアと呼ばれていた)は枢密顧問官の娘でありユダヤ系の出自であった。二人は結婚後まもなく』、『女児をもうけたが早くに亡くなり、その後』、『一人息子のルネが生まれた。彼が生まれる頃には両親の仲はすでに冷え切っており、ルネが』九歳の『とき母は父のもとを去っている。母ゾフィーは娘を切望していたことから』、リルケを五歳まで『女の子として育てるなどし、その奇抜で虚栄的な振る舞いや夢想的で神経質な人柄によって』、『リルケの生と人格に複雑な陰影を落とすことになる。母に対するリルケの屈折した心情は』、後の『ルー・アンドレアス・ザロメやエレン・ケイに当てた手紙などに記されている。リルケは父の実直な人柄を好んだが、しかし父の意向で軍人向けの学校に入れられたことは重い心身の負担となった』(下線やぶちゃん)と、その「生い立ち」の冒頭に記す。
第二連の二行目、「笹緣(ささべり)」は、衣服の縁や、袋物や茣蓙などの縁(へり)の部分を補強や装飾の目的から、布や扁平な組紐などで細く縁取(ふちど)ったものを指す。
第二連の末尾、「『計算』が/私に熱い淚を押出した處。」とは、かの西東三鬼の名句、
算術の少年しのび泣けり夏
の謂いであろう(リンクは私の全句集一括テクスト)。]
(こんな夜々には、私の前に居て)
リルケ 茅野蕭々譯
こんな夜々には、私の前に居て
私の前に小さくて死んだ姊が大きくなる。
その時以來もう斯ういふ夜は澤山あつた。
姊はもう美しいに違ひない。直ぐに誰かが
求婚をするだらう。
蛇と盲目
さうすると、自分などの斯ういふ思ひ切つた假定説のやうなものを批評する場合に、昔からよく聞く「めくら蛇におぢず」といふ俗諺なども、今一度とくと其起原を考へて見る必要はあるまいか。元來目あきが蛇を畏るゝ道理も、實はまだ明白でも何でも無いのだが、我々の流儀ではそれを究めようとはしない。單に畏れて居るか否かを問うて、靜かに其事實の何物かを語るを待つだけである。併し少なくも盲の蛇を畏れざる所以を、なんにも知らぬからであらうと速斷したのは誤りで、彼等は此通り蛇に關する珍らしい知識を、昔から持つて居たといふ事實が擧がつたのである。從つて行く行く彼等の蛇をおぢなかつた積極的原因も、改めて又發見せられるかも知れない。
今だつてもう少しは分つて居るのである。第一には全國に弘く分布する琵琶橋琵琶淵などの言ひ傳へに、琵琶を抱いて座頭が飛込んだといふものは、往々にして蛇の執念、若くは誘惑を説くやうである。卽ち盲人には何かは知らず、特に所謂クラオカミに由つて、すき好まれる長處のあるものと想像されて居たのである。第二には勇士の惡蛇退治に、似合はぬ話だが折々目くらが出て參與して居る。九州で有名なのは肥前黑髮山下の梅野座頭、是は鎭西八郎の短刀を拜借して、谷に下つて天堂岩の大蛇を刺殺したと稱して、其由緒を以て正式に刀を帶ぶることを認められて居た。しかもよほど念の人つた隱れた理由の無い限り、人は到底盲人を助太刀に賴む氣にはなり得まい。卽ち彼等には一種の神力を具へて居たのである。
西國の盲僧たちには、寺を持つて其職務を世襲した例が多い。よその目くらを取子とする以前に、成るべく其實子の目が潰れてくれることを、親心としては望んだであらう。卽ち曾ては自ら目を傷けて、神に氣に入る者と成らうとした時代が、有つたと想像し得る根據である。耳の方ならば猶更差支がなたかつたわけである。昔信仰の最も強烈であつた世の中では、神に指定せられて短かく生き、永く祀らるゝことを欣幸とした者は多かつた。其世が季になつて死ぬことだけは御免だと考へ始めた頃には、よくしたもので八幡の放生會の如く、無期の放し飼ひが通則として認められた。耳切團一が信仰の爲、又同時に活計の爲に、深思熟慮の上で自ら耳を切つて來たとしても、自分たちは之を恠まうとは思はぬ。又さう迄せずとも話は成立したのである。
然し彼等如何なる機智巧辯を以てするとも、我々の間に之を信ぜんとする用意が無かつたならば、畢竟は無益のほら吹きに過ぎぬ。ところが我々は忘れたるが如くにして、實は無心に遠き世の感動を遺傳して居た。鹿を牲とすれば耳が割けて居り、獅子を舞はしむれば忽ち相手の耳を喰ひ切り、記念に巖石に姿を刻めば、耳を團扇の如く大きくせざるを得ず、さうして盲人を見ると永く水の神の威德と兇暴とに對して、一喜一憂するを禁じ得なかつたのである。之を無意識にしかも鋭敏に、測量し得た者が色々の歌を物語り、又散々の言ひ習はしを作つて、久しく我々の多數を導いて居たのである。前代は必ずしも埋もれ果てたとは言はれない。例へば耳に關し又目に就いて、普通の同胞が信じ且つ説いて居る小さな知識の中にも、日本の固有信仰の大切な「失はれたる鏈」を、引包んで假に隱して居る場合が、まだ幾らでもあるらしいのである。
(昭和二年十一月、中央公論)
[やぶちゃん注:「琵琶橋琵琶淵などの言ひ傳へに、琵琶を抱いて座頭が飛込んだといふものは、往々にして蛇の執念、若くは誘惑を説くやうである」不学にしてそのような例を私は知らないが、「橋」「淵」で「座頭」なら、水辺から蛇神(弁財天に習合した蛇体の宇賀神)との連関伝承は当然の如く生まれるであろうとは思われる。適切な伝承事例を見出したら、追記する。
「クラオカミ」「闇龗(くらおかみ)」。「くら」は「谷」、「おかみ」は「竜神」の意とする。記紀神話で、高龗(たかおかみ)とともに水を司る竜神。京都の貴船(きぶね)神社奥宮の祭神として知られる。ウィキの「淤加美神」によれば、「淤加美神(おかのかみ)」或いは「龗神(おかみのかみ」は、『罔象女神(みつはのめのかみ)とともに、日本における代表的な水の神で』、「古事記」では「淤加美神」、「日本書紀」では「龗神」と表記するとし、『日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている』。「古事記」及び「日本書紀」の一書では、『剣の柄に溜つた血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)とともに闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ』、日本書紀の『一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている』。『闇龗神と高龗神は同一の神、または、対の神とされ、その総称が龗神であるとされ』、「古事記」に『おいては、淤加美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、スサノオの孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の孫が大国主神であるとしている』。『貴船神社のほか、丹生川上神社(奈良県吉野郡)では罔象女神とともに祀られており、また、全国に「意加美神社」などと称する神社がある。
祈雨(きう)、止雨(しう)、灌漑の神として信仰されている』とある。「闇」の字から視覚障碍者との関連が持ち出されたものか。
「肥前黑髮山下の梅野座頭」先行する「生目八幡」に既出既注であるが、最後なので、再録しておく。現在の佐賀県の西部に位置する武雄(たけお)市梅野(うめの)に近い黒髪山(くろかみやま:武雄市と同県西松浦郡有田町の市町境にある。標高五一六メートル)には源為朝による大蛇退治伝説があり、それには梅野村に住んでいた海正坊或いは梅野座頭と称された盲目僧が絡んでいる。古賀勝氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「為朝の大蛇退治」に詳しい。但し、彼は神主よりも僧の印象の方が強い。
「鎭西八郎」源為朝。
「天堂岩」先の古賀氏のサイト「筑紫次郎の世界」の「為朝の大蛇退治」では「天童岩」と表記されてある。
「欣幸」「きんかう(きんこう)」幸せに思って喜ぶこと。
「季」「すゑ」。末。
「活計」「たつき」。生業。
「團扇」「うちは」。
「水の神」視覚障碍者→琵琶→弁財天→水神という連想。
「鏈」「くさり」。鎖。]
盲の效用
それにも拘らず、座頭が此話をすると人がさも有りなんと考へたのは、單に話術の巧妙ばかりでも無かつたと見えて、今では何處に行つても彼等だけで此話を持切つて居る。まだ他の府縣にもあるだらうと思ふが、自分の今知つて居るのは磐城の相馬にも一つ、堂房(ダイボ)の禪師堂樣といふ池の神が、或時信心の盲に目をあけて遣つて、斯んなことを教へたといふ話である。自分は近いうちに小高の一郷を湖水にする企てがある。それを人にいふと汝の命を取るぞと、堅く戒めて置いたが本人は身を捨てゝ里人に密告した。小高の陣屋では之を聞いて、領内に命じて澤山の四寸釘を打たせ、それを四寸置きに丘陵の周圍に差込ませた。蛇は鐡毒の爲に死して切れ切れとなり、それの落ち散つた故跡として、今に胴阪角落村耳谷などゝいふ地名がある。しかも折角目の開いた盲人は旋風に卷上げられて行方知れず、琵琶塚ばかりが後代に遺つて居る。此邊から實際鐡の屑が出るといふのは、或は此話が鍛冶屋との合作であつたことを語るものかも知れぬ。
伊豆では又三島の宿の按摩の家へ、夜になると遊びに來る小僧があつた。後に來て言ふには、我は此山を七卷半卷いて居る大蛇である。毎日往來の人馬に踏まれる苦しさに、大雨を降らせて此邊を泥海にして出て行かうと思ふ。御身一人は遁れたまへ。人に語ると命を取ると謂つた。人助けの爲に其祕密を明かし、山に銕の杭を繁く打込んで終に大蛇を殺させたが、一村は難を逃れて按摩は死んだ。其石像を作つて香火永く絶えずといふのは、果して今もあるかどうか。兎に角に此山とは箱根のことであつたらしく、話が按摩になつてはもう關係も薄いが、實は水土の神の蛇體は、佛教の方では琵琶を持つ女神で、且つ夙くから琵琶を彈く者の保護者であつた。座頭の地神經は其神德をたゝへた詞である。農家が四季の土用に彼を招いて琵琶を奏せしめたのも、最初の目的は其仲介に由つて、神の御機嫌を取結ばう爲であつた。故に村民は言はゞどんな話を聽かされても、默つて承認せねばならぬ關係に在つたのである。
盲人が此技藝に携はつてからの、歷史だけはもう大分わかつて居る。今更そんな事を述べて居れぱ只の編輯になつてしまふ。それよりも理由が知りたいのは、どうして日本に入つて琵琶が當道の業となつたかである。何故に盲が大蛇の神の神職を獨占したかである。此疑問に對しては耳切團一の話が、やはり有力なる一つの暗示であつた。自分の想像では生牲の耳を切つて、暫らく活かして置く慣習よりも今一つ以前に、わざと其目を拔いて世俗と引離して置く法則が、一度は行はれて居たことを意味するのではないかと思ふ。日向の生目八幡に惡七兵衞景淸を祭るといふなども、或は琵琶法師の元祖が自製の盲目であつたといふ幽かな記憶に、ローマンスの衣を著せたものとも解せられぬことは無い。兎に角に此徒が琵琶の神卽ち水底の神から、特別の恩顧を得た理由が、目の無いといふ點に在つたことだけは略確かであつた。
[やぶちゃん注:「磐城の相馬」福島県相馬市及び南相馬市。
「堂房(ダイボ)の禪師堂樣といふ池の神」不詳。識者の御教授を乞う。
「小高」「おだか」。旧福島県相馬郡小高町(おだかまち)。現在は南相馬市内の小高区北東部に相当する。太平洋に面した地区で阿武隈高地を町の西端とする。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「小高の陣屋」小高城。ウィキの「小高城」を参照されたい。
「四寸」約十二センチメートル。
「胴阪」不詳。識者の御教授を乞う。
「角落村」不詳。識者の御教授を乞う。
「耳谷」ウィキの「行方郡 (福島県)」(「行方」は「なめかた」と読む)に、陸奥中村藩領の「旧高旧領取調帳」(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう:明治初期に政府が各府県に作成させた江戸時代に於ける日本全国の村落の実情を把握するための台帳)に「小高陣屋」内に「耳谷村」の名を確認出来、現在も南相馬市小高区耳谷(みみがい)として地名が残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。やはり「桃太郎の誕生」にも引用されているが、そこでは「みみがやつ」とルビされている。
「琵琶塚」不詳。関係があるかどうかは不明ながら、小高町には横穴式の浪岩(なみいわ)古墳群がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「三島の宿の按摩の家へ、夜になると遊びに來る小僧があつた。……」この話も「桃太郎の誕生」に出るが、そこでは出典を石井研堂著「國民童話」としている。石井研堂(慶応元(一八六五)年~昭和一八(一九四三)年)は民間の文化史家著。「明治文化研究会」の設立に関わり、錦絵の研究などでも知られた。同書は正しくは「日本全國國民童話」で同文館から明治四四(一九一一)年に刊行されている。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で全篇が読めるが、その「」が当該箇所である「伊豆」「富士七卷の大蛇」がそれ(ここ)。
「銕」「てつ」。鉄。
「果して今もあるかどうか」不詳。検索では見当たらない。
「水土の神の蛇體は、佛教の方では琵琶を持つ女神で、且つ夙くから琵琶を彈く者の保護者であつた」「水土」に文庫版全集では『みずち』とルビするが、これは当て訓で、「蛟(みづち)」のことである。「夙くから」は「はやくから」。弁才天が、出自不明の蛇神である宇賀神と習合するのは中世以降のことである。
「地神經」前章注を参照。
「四季の土用」四立(しりゅう:立夏・立秋・立冬・立春の総称)のそれぞれの直前約十八日間を指す。
「取結ばう」「とりむすばう」。取り結ぼうとする。予祝行事の中に組み入れられているから、それがどんな下らない荒唐無稽で馬鹿げたものであっても、或いは、その琵琶法師が人間的に厭な奴でったとしても「默つて承認せねばならぬ關係に在つた」というのである。
「當道」既注。ここは狭義のそれで、特に室町時代以降、幕府が公認した盲人たちによる自治組織を指す語。
「日向の生目八幡に惡七兵衞景淸を祭る」先行する「生目八幡」及び、その前の「三月十八日」の本文及び私の注を参照のこと。
「琵琶法師の元祖」既に出した、後に盲目となったとされる「惡七兵衞景淸」をそれに比定しているのである。頼朝暗殺や謡曲にもされた娘との関わりなど、悲劇の武将である彼の(一説に自ら目を抉ったともされるところが「自製の盲目」で、能のそれはまた「ローマンスの」香りとも言い得る。]
山神と琵琶
村の人は村に居て聽く故に、大抵は土地ばかりの舊事蹟と考へたのである。さう考へさせることも亦有力なる技術であつた。座頭辭し去つて數百年の間、それが物々しく保存せられ、次第に近郷の人々に承認せられると、再び説話は其土地に土著するのである。今日ではもう信じにくいといふことは、少しも農民をうそつきとする理由にはならぬ。古くからある物は誰だつて粗末にはしない。
一例を擧げると羽前の米澤から、越後の岩船郡に越える大利峠(おほりたうげ)、一名折峠又蛇骨峠座頭峠ともいふ。頂上には大倉權現が祭つてある。昔々一人のボサマ、日暮れて此嶺に獨宿し寂寞の餘に琵琶を彈じて自ら慰めた。時に女性の忽然として現れ來る者あつて、曲を聽いて感歎止まず、且つ語りて曰く、我は此山中に久住する大蛇である。近く大海に出でんとすれぱ、關の一谷は水の底となるであらう。必ずあの村に長居はしたまふな。又命にかけて此事を人に洩らしてはならぬと告げた。それにも拘らず夜明けて關谷に下るとき、意を決して之を村の人に教へたので、盲人は立ちどころに死し大蛇も亦村人の爲に退治られた。其盲人が頂上の祠の神であるともいへば、或は惡蛇の靈を祀るといふのは、兩方とも眞實であらう。最近の傅説では大倉權現は盲女おくらの怨靈、獵夫鯖七の女房にして禁肉を食つて蛇となる者とも謂つて居るさうである。
然るに同じ米澤から更に他の一人の座頭が、北に向つて大石田越といふ山路で、略同樣の功を立てゝ死して亦神に祀られて居る。大石田に於ては森明神といふのが其盲人の靈であつた。或時山中を過ぎて一老翁に逢ひ、琵琶の一曲を所望せられ、傍の石に坐して地神經を彈じたとある。老人感歎してさて曰く、謝禮の爲に教へ申すべし、今宵は必ず大石田に宿りたまふべからず云々、それから後は例の如く、村民は何とかして恩人の命を助けようと、唐櫃の中へ三重四重に隱して置いたが、開けて見たれば寸々に切られて死んで居たといふ。
越後では尚小千谷の町の南はづれ、那須崎の地藏堂にも同じ話があつた。盲人は蛇の害の迫れることを語るや否、血を吐いて忽ち死んだが、里の人たちは早速手配をして、鐡の杭を山中の要路に打込み、豫め防遏することを得たりと誌されて居る。大蛇に取つては鐡類は大毒であつた。故に大利峠の蛇精の女なども、一番嫌ひたものは鐡の釘だと、うつかり座頭に話した爲に退治られたと言ひ、關谷の村には鍛冶屋敷の迹さへあつた。信州では山に法螺崩れと蛇崩れとがあつた。蛇崩れの前兆には山が夥しく鳴るので、直ちに檜木を削つて多くの橛(くひ)を作り、それを其山の周圍に打込むと、蛇は出ること能はずして死んでしまひ、年經て後骨になつて土中から出る。それを研末して服するときは瘧病を治すなどゝも謂つた。卽ち盲目の教を待たずして、既に之を防ぐの術は知られて居たので、或は座頭が其受賣をしたのだと思ふ者があつても、さう立派に反對の證據を擧げることは出來なかつたのである。
[やぶちゃん注:太字「うそつき」は底本では傍点「ヽ」。
「羽前の米澤」現在の山形県米沢市。
「越後の岩船郡」現在も新潟県岩船郡(いわふねぐん)としてあるが、本書執筆時はに村上市も含まれた。
「大利峠(おほりたうげ)、一名折峠又蛇骨峠座頭峠」「頂上には大倉權現が祭つてある」不詳。新潟県岩船郡関川村金丸にある蛇崩山のことか?(ここ(グーグル・マップ・データ)。個人サイト「登山日記 静かな山へ」の「蛇崩山」を読むと、この辺りには大蛇伝説があるとあり、それらしい気にはなってくるのだが)。識者の御教授を乞う。この話や後の話は、柳田國男の「桃太郎の誕生」の「米倉法師」の「七 狼と座頭」にも引かれてあり、そこではこの話の出典を「行脚隨筆」とする。これは恐らく、江戸中期の曹洞宗の僧である泰亮愚海(たいりょうぐかい 生没年未詳:越後高田の林泉寺・長命寺、上野(こうずけ)沼田の岳林寺などの住持を勤めた)の著になる(文化年間(一八〇四年~一八一八年)刊か)随筆と思われる。
「關」湯沢温泉の下流にある岩船郡関川村か?
「最近の傅説では大倉權現は盲女おくらの怨靈、獵夫鯖七の女房にして禁肉を食つて蛇となる者とも謂つて居る」「最近の」と断っているのにも拘わらず、ネット上では掛かってこず、不詳。識者の御教授を乞う。
「大石田越」「おほいしだごえ」。米沢から遙か北の、山形県北東部にある北村山郡大石田町(おおいしだまち)へと抜けるルートであろう。
「略」「ほぼ」。
「森明神といふのが其盲人の靈であつた」「大石田町」公式サイト内の、「おおいしだものがたり 第四十二話 盲(めくら)の琵琶法師(びわほうし)が大石田を救った伝説について」に詳述されている。必読! それによれば、哀しいかな、『森の明神」の所在は不明で、この伝説そのものも語り継がれてい』ない、とある。
「地神經」「ぢじんきやう(じしんきょう)」盲僧の弾ずる琵琶の曲名。地鎮や地味増長を期したもので、地神を供養するために琵琶を弾奏しつつ、「地神経」(サンスクリット語の仏典を義浄が漢訳した「金光明最勝王経」の内の「堅牢地神品第十八」の略称)を称えるもの。
「小千谷」現在の新潟県小千谷(おぢや)市。
「那須崎の地藏堂」不詳。「桃太郎の誕生」では「茄子崎」とするが、これも見当たらぬ。識者の御教授を乞う。
「杭」「くひ(くい)」。
「防遏」「ばうあつ(ぼうあつ)」で、侵入や拡大などを防ぎとめること。
「大利峠の蛇精の女なども、一番嫌ひたものは鐡の釘だと、うつかり座頭に話した爲に退治られた」岩船郡関川村の大里峠に伝わる、この女性の人であったというプレ話を含む、酷似した琵琶法師に纏わる大蛇伝説が、サイト「龍学」の「蛇になったお里乃」に載る。必見!
「法螺崩れ」山崩れを、巨大化して山に登った海産であるはずの法螺貝が龍として昇天する際に山を崩すとする伝説に基づく。地中にいた法螺貝が風雨を呼び、怪音を発して、海や天に抜ける際に、山崩れが起こるとするもの。かなり古くから思いの外、広汎に存在する伝承である。例えば、私の「佐渡怪談藻鹽草 堂の釜崩れの事」の本文や私の注を参照されたい。
「蛇崩れ」地域によっては「蛇抜(じゃぬ)け」などとも称する。こちらも前の法螺貝同様、年を経た霊力を持った大蛇が風雨を呼び、大地を抜けて龍となって海に出たとか、昇天したなどと伝えるものである。これは、土石流を中心とした大規模な斜面崩壊とも読める。
「檜木」「ひのき」。
「橛(くひ)」杭。
「後」「のち」。
「骨になつて土中から出る。それを研末して服する」「竜骨」或いは「須羅牟加湞天(スランカステン)」などと呼称されたものである。起原物は複数あるが、例えば、特殊な鉱物(燐酸石灰と少量の炭酸石灰及び稀少の炭素との化合物)や、ナウマンゾウの化石などがそれに当たる。私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍骨」や、同じく私の「甲子夜話卷之二 32 紀州、奥州の地より象骨出し事」などを参照されたい。
「瘧病」「おこり」と訓ずる。既注であるが、再掲しておく。数日の間隔を置いて周期的に悪寒や震戦、発熱などの症状を繰り返す熱病。本邦では古くから知られているが、平清盛を始めとして、その重い症例の多くはマラリアによるものと考えてよい。病原体は単細胞生物であるアピコンプレクサ門胞子虫綱コクシジウム目アルベオラータ系のマラリア原虫Plasmodium sp.で、昆虫綱双翅(ハエ)目長角(糸角/カ)亜目カ下目カ上科カ科ハマダラカ亜科のハマダラカAnopheles sp.類が媒介する。ヒトに感染する病原体としては熱帯熱マラリア原虫Plasmodium falciparum、三日熱マラリア原虫Plasmodium vivax、四日熱マラリア原虫Plasmodium malariae、卵形マラリア原虫Plasmodium ovaleの四種が知られる。私と同年で優れた社会科教師でもあった畏友永野広務は、二〇〇五年四月、草の根の識字運動の中、インドでマラリアに罹患し、斃れた(私のブログの追悼記事)。マラリアは今も、多くの地上の人々にとって脅威であることを、忘れてはならない。]
旅の御坊
つまり小泉八雲氏の心を牽いた耳無法一の神異談は、彼が父母の國に於ても今尙珍重せられる所謂逃竄說話と、異鄕遊寓譚との結び付いたをのゝ、末の形に他ならぬのであつた。西洋では說話運搬者の說話に與へた影響は、まだ本式に硏究し得なかつたやうだが、日本には仕合せと其證迹が、見落し得ない程に豐富である。殊に盲人には盲人特有の、洗練せられたる機智が認められる。例へば江戶川左岸の或村の話で、鬼が追掛けて來て座頭の姿を發見し得ず、僅かに耳だけが目に觸れて、おゝ爰にキクラゲがあつたと謂つて、取つて喰つたと語つて居るなどは、盲人の癖にと言ひたいが、實は目くらだから考へ出した、やや重くるしい滑稽である。そんな例は氣を付けて御覽なさい。まだ幾らでもあるのである。
實際座頭の坊は平家義經記のみを語つて、諸國を放浪することも出來なかつた。夜永の人の耳の稍倦んだ時に、何か問はれて答へるやうな面白い話を、常から心掛けて貯へて置いたのである。然らば耳の切れた盲人が何人もあつて、御坊其耳はどうなされたと、尋ねられるやうな場合が多かつたかと言ふに、さうかも知れず、又それ程で無くともよかつたかも知れぬ。片耳の變にひしやげたり、妙な格好をした人は存外に多いものだ。さうで無くとも目の無い人だから、耳の話が出る機會は少なくはなかつたらう。耳と申せば手前の師匠は、片耳が取れてござつたなどゝ、そろそろと此話を出す手段もあつたわけだ。さうして其話といふのは實に一萬年も古い舊趣向に、現世の衣裳を著せたものであつた。故に今爰で我々の不思議とすべきは、其話の存在や流布では無い。單に何故さういふ耳切の話が、盲人に由つて思ひ付かれ又持運ばれたかといふ點ばかりである。
卽ち澤山の盲人が懸離れた國々をあるいて、無暗に自分たちの身の上話らしい、妖魔遭遇談をしたのが妙である。其說明を試みても、そんな事があらうかと恠み疑ふ人すら、今日ではもう少なからうと思ふが、それでも何でも自分は證據が擧げたい。つまり座頭は第一に自分たちが無類の冒險旅行家であることを示したかつた。第二には技藝の賴もしい力を說かうとしたのである。第三には神佛の冥助の特に彼等に豐かであつたこと、第四には能ふべくんば、それだから座頭を大切にせよの、利己的敎訓がしたかつたのかと思ふ。此條件を具足してしかも亭主方の面々を樂しましむべき手段が若しあつたとしたら、之を一生懸命に暗記し且つやたらに提供することも、卽ち亦彼等の生活の必要であつた。
[やぶちゃん注:「耳無法一」ママ。文庫版全集も同じ表記。言わずもがなであるが、一般には「芳一」である。小泉八雲が依拠したと思われる彼の蔵書にあった一夕散人(いっせきさんじん)著「臥遊奇談」(天明二(一七八二)年)での第二巻所収の「琵琶祕曲泣幽靈(びわのひきょくゆうれいをなかしむ)」でも「芳一」である。
「逃竄說話」「たうざん(とうざん)せつわ」。「竄」も「逃げる」の意。魔性に魅入られた人間が身体の一部を譲り渡すことで現実世界への逃走(呪的逃走)に成功する説話群、例えば、「瘤取り爺さん」であるが、伊耶那岐の黄泉国からのそれも、身体の神聖な附属物である櫛や髪飾りを黄泉醜女(よもつしこめ)に投げつける点で同類型である。
「異鄕遊寓譚」「遊寓」は「いうぐう」と読む。「寓」は「一時的に別の所に身を寄せる」の意。異界訪問譚。例えば陶淵明の「桃花源記」や「浦島太郎」、前注の伊耶那岐の黄泉国訪問のシークエンスのようなオルフェウス型のものを指す。
「江戶川左岸の或村の話で、鬼が追掛けて來て座頭の姿を發見し得ず、僅かに耳だけが目に觸れて、おゝ爰にキクラゲがあつたと謂つて、取つて喰つた」この話、所持する何かで原話を読んだ気がするのだが、探し得ない。識者の御教授を乞う。]
耳切團一
そこで話は愈々近世の口承文藝の、最も子供らしく且つ荒唐夢稽なる部分に入つて行くのであるが、自分たちの少年の時分には、「早飯も藝のうち」といふ諺などもあつて、いつ迄も膳にかぢり付いて居ることが非常に賤しめられ、多くの朋輩と食事を共にする場合に大抵は先に立つ者が殘つた者の耳を引張つた。痛いよりも恥がましいので、所謂鹽踏みの奉公人などが、淋しい淚を飜す種であつた。どうして耳などを引くことになつたのかと、子供の頃から不審に思つて居ると、嬉遊笑覽卷六の下、兒童戲の鬼事の條に、鬼になつた者が「出ずば耳引こ」と謂つて、柱にばかりつかまつて居る者を挑むことが記して居る。鷹筑波集に塚口重和、出ずは耳引くべき月の兎かな。卽ちもう俳諧の連歌の初期の時代から鬼事の詞となつて我々に知られて居たのである。
鬼事の遊びのもと模倣に出でたことは、其名稱だけでも證明せられる。以前諸國の大社には鬼追鬼平祭(おにひけまつり)などゝ稱して、通例春の始めに此行事があつた。學問のある人は之を支那から採用したと謂ひ、又は佛法が其作法を敎へた樣にも謂ふらしいが、何かは知らず古くから鬼が出て大にあばれ、末には退治せられる處を、諸國僅かづゝの變化を以て、眞面目に神前に於て、日を定めて演出したのであつた。さうして子供は特に其前半の方に、力を入れて今以て眞似て遊んで居る。耳を引くといふ文句も其引繼ぎであつたかも知れぬ。さう考へてもいゝ理由があつたのである。
小泉八雲の恠談といふ書で、始めて知つたといふ人は却つて多いかも知れぬ。亡靈に耳を引きむしられた昔話が、つい此頃まで方々の田舍にあつた。被害者は必ず盲人であつたが、其名前だけが土地によつて同じでない。小泉氏の話は下ノ關の阿彌陀寺、平家の幽靈が座頭を呼んで平家物語を聽いたことになつて居り、その座頭の名はホウイチであつた。面白いから明晩も必ず來い。それ迄の質物に耳を預つて置くと言つたのは、頗る宇治拾遺などの瘤取りの話に近かつたが、耳を取るべき理由は實は明かでなかつた。
ところが是と大體同じ話が、阿波の里浦といふ處にかけ離れて一つある。で、右の不審が稍解けることになる。昔團一といふ琵琶法師、夜になると或上﨟に招かれて、知らぬ村に往つて琵琶を彈いて居る。一方には行脚の名僧が、或夜測らずも墓地を過ぎて、盲人の獨り琵琶彈くを見つけ、話を聽いて魔障のわざと知り、からだ中をまじなひして遣つて耳だけを忘れた。さうすると次の晩、例の官女が迎へに來て、其耳だけを持つて歸つたといふので、是は今でも土地の人々が、自分の處にあつた出來事のやうに信じて居る。耳を取つたのが女性の亡魂であつたことゝ、僧が法術を以て救はうとした點とが明瞭になつたが、それでもまだまじなひの意味がはつきりしない。
それを十分に辻棲の合ふだけの物語にしたのが、曾呂利物語であつた。江戶時代初期の文學であるが、此方が古くて前の話が其受賣だともいへないことは、讀んだ人には容易にわかる。是は越後の座頭耳きれ雲一の自傳とある。久しくおとづれざりし善光寺の比丘尼慶順を路の序を以て訪問して見ると、實は三十日程前に死んで居たのであつたが、幽靈が出て來て何氣無く引留め、琵琶を彈かせて每晩聽き、どうしても返すまいとする。それを寺中の者が注意して救ひ出し、馬に乘せて遁がしてやつた。後から追はれて如何ともしやうが無いので、或寺にかけ込んで事情を述べて賴むと、一身にすき間も無く等勝陀羅尼を書きつけて、佛壇の脇に立たせて置いた。すると比丘尼の幽靈が果して遣つて來て、可愛いや座頭は石になつたかと體中を撫でまはし、耳に少しばかり陀羅尼の足らぬ所を見つけて、爰にまだ歿り分があつたと、引ちぎつて持つて行つたと言つて、其盲人には片耳が無かつたと云ふのである。
其話なら私も知つて居ると、方々から類例の出ることは疑が無い。此民族がまだ如何にもあどけなかつた時代から、否人類が色々の國に分れなかつた前から、敵に追はれて逃げて助かつたといふ話は、幾千萬遍と無く繰返して語られ、又息づまる程の興味を以て聽かれたのである。それが極少しづゝ古臭くなり、人の智慮が又精確になつて、段々に新味を添へる必要を生じた。そこへ幸ひに耳の奇聞が手傳ひに出たといふ迄である。鬼や山姥に追はれた話でも、大抵は何か之に近い偶然を以て救はれたのみならず、其記念ともいふベき色々の痕跡があつた。蓬と菖蒲の茂つた叢に入つて助かつた。故に今でも五月にはこの二種の草を用ゐて魔を防ぐのだといふ類である。古い話の足掛かりのやうなものである。さうすれば座頭其者がやがて又、見るたびに此の話を思ひ出さしめる一種の大唐櫃や、蓬・菖蒲の如きものであつたとも言へる。
[やぶちゃん注:「耳切團一」「みみきりだんいち」或いは「みみきれだんいち」。講談社「日本人名大辞典」等によれば、民話の主人公で、後で柳田が概略する徳島県鳴門に伝わる話が一典型として知られる。団一は琵琶法師で、官女の霊に憑りつかれ、夜毎、墓場で琵琶を一心不乱に弾いていたが、それをたまたま目にした旅僧が団一の全身に呪(まじな)を施したが、それをし忘れた耳たぶの部分を迎えにきた霊に引き千切られてしまう。それでも命は救われ、それ以来、「耳切団一」と呼ばれるようになったという話で、他に、寺の小僧が山姥(やまうば)に追い駆けられるという同原類話が福島県や新潟県に伝承されるという。
「早飯も藝のうち」「速く飯を食うことも、人の芸の一つに数え挙げられる」という意の他に、「特別に芸を持たない者にとっては、速く飯を食うことぐらいを芸とするしかない」という揶揄の意味もある。「早飯早糞芸の内」或いは「早飯早糞早支度」などを類語とする。柳田が「いつ迄も膳にかぢり付いて居ることが非常に賤しめられ」と書く辺り、食にすこぶる貪欲(とんよく)であることを誡める点で、仏教的な戒のニュアンスも感じられる。
「鹽踏みの奉公人」単に「汐踏(しほふみ)」とも。商家での奉公の、初期の行儀見習いを指す語。主に女性について使った。堀井令以知氏の『京都新聞』の「折々の京ことば」によれば、戦前までは「娘はシオフミに出んと嫁に行かれへん」と言って、京の旧家で行儀作法を見習った。シオフミ(塩踏み)は「辛苦を経験すること」の比喩で、切り傷に塩が染むと骨身にこたえることから、「苦労をして世間を知ること」の謂いともなった、とある(堀井氏のそれはネット上のある記事のキャッシュから孫引きした)。
「飜す」「こぼす」。「零(こぼ)す」。
「嬉遊笑覽卷六の下、兒童戲の鬼事」「鬼事」は「おにごと」と訓ずる。「嬉遊笑覽」(きゆうせうらん(しょうらん)」は喜多村信節(のぶよ)著になる考証随筆。全十二巻・付録一巻。天保元(一八三〇)年刊。当該項は以下(岩波文庫版を参考に、恣意的に正字化し、歴史的仮名遣のひらがなの読みは私が附した)。
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「浮世物語」に、『鼠まひ小路(こうぢ)がくれ云々』あり。鼠まひは出んとして出ざるなり。山岡元隣が「誰(たが)身のうへ」三、『庄屋殿の一人の子もちたれども、此(この)子うちねづみにて、我(わが)うちより外を知らず』といへる、是なり。又、「出ずば耳ひこ」とは、鬼になりたる者をいふ也。「鷹筑波(たかつくば)集」、『重和 出ずは耳ひくべき月の兎かな』。「篗絨輪(わくかせわ)」十一集、『火傷(ヤケド)ならず果報にも引耳の𦖋(タブ)』こは上のことにあづからねども、耳引くこともくさぐさ也。
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「鷹筑波集」西武(さいむ)編になる貞門の俳諧撰集。五巻。寛永一九(一六四二)年刊で松永貞徳序(序のクレジットは寛永一五(一六三八)年)。書名は室町後期(大永四(一五二四)年以降に成立)の俳諧連歌撰集である山崎宗鑑の「犬筑波(いぬつくば)集」に対するもの。貞徳が三十年来批点を施した発句・付句を西武に編集させたもので、貞徳直門の俳人三百余が名を連ね、事実上、本書が貞門の第一撰集とされる。
「塚口重和」不詳。。
「鬼追」「おにおひ」。所謂、「追儺」、「おにやらひ(おにやらい)」であるが、柳田がルビを振らぬ点、しかも併置した「鬼平祭(おにひけまつり)」(「平(ひけ)」は「平らげる」「退ひ)かす」の意であろう)とルビしている点、さらに現存する同行事の呼称を調べてみても、「おにやらひ」ではなく、「おにおひ」と訓じていると判断した。文庫版全集もルビはない。
「學問のある人は之を支那から採用したと謂ひ」こういう柳田の口吻はすこぶるいやらしい。自分こそそうした輩であると内心自認しているくせにと揶揄したくなる。折口信夫と民俗学に性的研究をなるべく持ち込まぬように密約し、非アカデミズムの博覧強記たる南方熊楠をどこか煙たがり、「遠野物語」をちゃっかり自作にしておいて佐々木喜善を埋もれさせ、「海上の道」で非科学的な謂いたい放題をし腐っておいて、この謂いは、なかろうよ! なお、現在、「追儺(ついな)」の儀式は「論語」の「郷黨篇」に記述があり、中国の行事がその起源とされている。柳田の一面でさえこうだから、貧相で無知な日本主義者の阿呆な主張が今も亡霊の如くのさばっているのだとも言える。
「下ノ關の阿彌陀寺」現在の山口県下関市阿弥陀寺町にある赤間神宮にあった寺。忌まわしき廃仏毀釈で廃寺となった。
「阿波の里浦」現在の徳島県鳴門市里浦町。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「稍」「やや」。
「曾呂利物語」「そろりものがたり」は寛文三(一六六三)年板行の怪談集で五巻五冊。外題は「曾呂利快談話」であるが「曾呂利物語」の内題で通称される。秀吉の御伽衆として知られた曾呂利新左衛門の談に仮託するが、編著者は不詳。
「是は越後の座頭耳きれ雲一の自傳」「曾呂利物語 卷四」の「九 耳きれれうんいちが事」であるが、これは「自傳」とは言えない。早稲田大学古典総合データベースの画像で原本を視認しつつ、一部を漢字に直した一九八九年岩波文庫刊「江戸怪談集(中)」(高田衛編・校注)を参考に(従っていない部分も多い。例えば、原本は一貫して主人公を「うんいち」と記しているのに、高田氏は「うん市」とする)、恣意的に正字化して以下に示す。挿絵は同一「江戸怪談集(中)」のものをトリミングして挿入した。適宜、改行を施した。
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九 耳切れうんいちが事
信濃の國、善光寺のうちに、比丘尼寺(びくにでら)ありけり。また、越後の國にうんいちと云ふ座頭はべる。常に彼(か)の比丘尼寺に出入りしけり。
ある時、勞(いた)はる事有りて、半年程、訪れざりけり。少し快くして、彼の寺に行きけり。主の老尼、
「うんいちは遙かにこそ覺ゆれ。何として打ち絕えけるぞ。」
と云ひければ、
「久しく所勞(しよらう)の事候ひて、御見舞ひも申さず候。」
と云ふ。
兎角して、其の日も暮れければ、
「うんいちは、客殿(きやくでん)、宿られよ。」
と云ひて、老尼は方丈に入りぬ。
爰に、けいじゆん、とて、弟子比丘尼あり、三十日程さきに、身まかりぬ。かのけいじゆん、うんいちの臥したる所へ行きて、
「其の後は久しくこそ覺ゆれ。いざ、我々が寮(れう)へ伴ひ侍らん。」
と云ふ。うん市は死したる人とも知らず、
「それへ參るべく候へども、御一人坐(おは)します所へ參り候ふ事は、如何(いかが)にて候ふまま、えこそ參るまじ。」
と云ふ。
「いやいや、苦しうも候はず。」
とて、是非に引き立て行く。
彼の寮の戶を內より强く鎖(さ)して、明くる日は外へも出ださず、さて暮れぬ。
うんいち、氣詰(つ)まり、如何すべきと思ひながら、すべきやうもなし。めうけつに行事(ぎやうし)の鐘の音しければ、
「行事に逢ひて歸り候はんまま、あなかしこ、よそへ出づる事あるまじ。」
と云ひて出でぬ。さて、如何して出でんと、邊りを探りまはしければ、いかにも嚴しく閉ぢめければ、出づる事もならず。
夜明けて、けいじゆんは歸りぬ。
かくする事、二夜(ふたよ)なり。
其の中に、食ひ物絕えて、迷惑の餘りに、三日目の曉(あかつき)、行事(ぎやうし)に出でけるうちに、寮の戶を荒らかに叩き呼ばはりければ、則ち、寺中の者、出で合ひ、戶口を蹴放(けはな)し見れば、うんいちなり。
「此の程は何處(いづこ)へ行きけるぞ。」
と、尋ねければ、
「爰に居てこそ侍れ。」
と云ふ。
見れば臠(ししむら)少しもなく、骨ばかりにて、さも恐ろしき姿なり。
「如何(いか)に、如何に。」
と問へば、如何にも疲れたる聲にて、息の下より、
「しかじかの事にて侍る。」
と語る。
「けいじゆんは、三十日ほど前に、身まかりぬる」
と云へば、愈々(いよいよ)、興覺(けうさ)めてぞ覺えける。
一つは、けいじゆん弔ひの爲、又は、うんいちが怨念を拂はん爲めとて、寺中寄り合ひ、百万遍の念佛を修行しける。
各(おのおの)、鐘うち鳴らし、誦(じゆ)經しける時に、何處ともなく、けいじゆん、形を現はし出で來たり、うんいちが膝を枕にして臥しぬ。念佛の功力(くりき)に因りて、ひた寢入りに寢入り、正體(しやうだい)もなかりければ、かかる𨻶(ひま)に、うんいち、枕を外し、
「はや、國に歸り候へ。」
とて、馬を用意して送りぬ。道すがら、いかにも身の毛よだち、後(あと)より取り付かるるやうに覺え、行き惱みけるほどに、ある寺へ立ち寄り、長老に會ひて、
「しかじかの事侍り。平(ひら)に賴み奉る。」
と云ふ。
「さらば。」
とて、有驗(うげん)の僧、數多(あまた)寄り合ひ、うんいちが一身に、尊勝陀羅尼(そんしやうだらに)を書き付けて、佛壇に立て置きぬ。
さる程に、けいじゆん、さも恐ろしき有り樣にて、彼の寺に來たり、
「うん市を出だせ、出だせ。」
とののしりて、走りまはりしが、うんいちを見つけて、
「噫(ああ)、可愛(かはひ)や、座頭は石になりける。」
とて、撫で𢌞し、耳に少し陀羅尼の足らぬところを見出だして、
「玆(ここ)に、うんいちが、切れ殘りたる。」
とて、引き千切(ちぎ)りてぞ歸りにける。
さてこそ、甲斐なき命助かりて、本國へ歸りしが、耳切れうんいちとて、年長(とした)くるまで越後の國にありしとぞ。
*
簡単に語注しておく。
・「うんいち」「うん」は運・雲・云など、「いち」は一・壱・市などが想起される。
・「勞(いた)はる事」病気に罹患すること。
・「遙かに」久しぶりのことと。
・「御見舞ひ」御機嫌伺い。
・「けいじゆん」「けい」は惠・慶・慧など、「じゆん」は順・純などが想起される。
・「寮」尼僧らの僧坊内の彼女の個室を指していよう。だから「御一人坐します」と遠慮するのである。
・「氣詰まり」何とも言えず気持ちが塞いで。実は亡者の陰気によるものであるが、主人公「うんいち」の意識では、尼僧と同室にて一夜を過ごしたことへの後ろめたさの心因反応と理解していよう。
・「めうけつ」参考にした高田氏の脚注に、『不詳。「冥契に」(深いちぎり、の意)か』とある。
・「行事(ぎやうし)」原本は表記の読みのママ。高田氏は脚注で、『原本「ぎやうし」。意によって改』めた、とされ、さらに、『勤行のこと。朝夕行われるが、ここでは夜の勤行』とある。
・「行事に逢ひて歸り候はんまま、あなかしこ、よそへ出づる事あるまじ。」「けいじゆん」の台詞。「夜の勤行の刻限となりましたれば、出でまするが、ここに妾(わらわ)が帰って参りまするまで、そのまま、よろしいか。決して、外へ出ては、いけませぬぞ。」。
・「臠(ししむら)」身体に肉の部分。生気(精気・陽気)をすっかり亡者に吸われたのである。
・「百万遍の念佛」高田氏の脚注に、『災厄や病気をはらうために、大勢が集まって念仏を百万回となえる行事』とある。
・「尊勝陀羅尼」仏頂尊勝(密教で信仰される仏の一種で、如来の肉髻(にっけい:仏の頭頂部にある盛り上がり)を独立した仏として神格化したもの及びそれと同じ神通力を持つ呪文を神格化したもの)の功徳を説いた陀羅尼(だらに:密教で仏菩薩の誓いや教え・功徳などを秘めているとする呪文的な語句で原語を音写して用いるものの内、語句数の多いものを指す)。八十七句から成り、これを唱えたり、書写したりすれば、悪を清め、長寿快楽を得、自他を極楽往生させるなどの功徳があるとされる。
・「可愛や」「なんとまあ! 可哀想なこと!」。
*
「序」「ついで」。柳田のこの部分は冒頭の導入部をすっ飛ばしており、本文に即しているとは言えない。前の原文参照。まあ、「うんいち」の「自伝」と言っちまっ柳田としては、かく脚色したかっただろうけど、私しゃあ、気に入らないね。
「後から追はれて如何ともしやうが無い」「後から追はれて来るような」気が強くしたので、である。事実、霊は追っては来るのだがね。
「等勝陀羅尼」ママ。文庫版全集もママ。こんな陀羅尼、聴いたこともありません! 「尊勝陀羅尼」の誤字ですよ! 誤字! 柳田センセ!!
「鬼や山姥に追はれた話でも、大抵は何か之に近い偶然を以て救はれたのみならず、其記念ともいふベき色々の痕跡があつた。蓬と菖蒲の茂つた叢に入つて助かつた。故に今でも五月にはこの二種の草を用ゐて魔を防ぐのだといふ類である」端午の節句では、摘んできた蓬(よもぎ)や菖蒲(しょうぶ)を軒に吊るすことで、無病息災を祈り、邪気を払えるとした習俗があるが、この由来譚(但し、後附けであろう)の知られた一例として、山姥や鬼・化け蜘蛛などが女に変身して人の男の女房となる異類婚姻譚「喰わず女房」があり、蓬や菖蒲は、主人公の男が、その呪的逃走を成就するための必須アイテムとして立ち現われる。例えば。サイト「お話歳時記」の「端午の節句と山姥」が読み易く、判り易い。
「大唐櫃」「おほからびつ」。次の次、「山神と琵琶」に出る山形県大石田町の座頭譚を受けたもの。]
(私は好く、途方に暮れて)
リルケ 茅野蕭々譯
私は好く、途方に暮れて
誰かを待つ、忘られた野中の聖母を。
寂しい泉へ夢をみながら行く
ブロンドの髮に花を插した少女を。
太陽に向いて歌ひ、
驚いて星を大きく見守る子供を。
私に歌を持つて來る晝を。
花の咲きさかつてゐる夜々を。
境の殺戮
併しそれだけの事由では、まだ耳塚といふ如き小さな名稱が、獨立して永く記念せられるには足りなかつた。是にもやはり獅子舞の御獅子が耳を咬み切られたと云ふ類の、古い神話が來て助けたのである。卽ち耳取りが境の大切なる條件であることを記憶する人々がこの口碑の成長にも參與して居たのである。或は之に基いて鹿よりも今一つの以前の、大昔の生贄慣習を尋ねることが出來るかも知れぬ。實際我々の祖先が信じて居た靈魂の力は餘程今日とは違つて居た。例へば味方の靈でも死ねば害をしたと同じく、敵の怨靈も祭り樣によつては利用する途があつた。殊に堺の山や廣野には、寧ろ兇暴にして容赦の無い亡魂を配置して、不知案内の外來者に襲擊の戈を向けしめようとしたことは、必ずしもよその民族の遠い昔のためしではなかつたのである。人を賴んで川の堤の生柱(いきばしら)に立つてもらひ後に之を水の神に祭つたといふ話などは、勿論たゞの話であらうがあちらこちらに殘つて居る。黑島兵衞だ東尋坊だといふ惡漢が、死ぬると直ぐに信心せられたのも、祟るから祭つたのだといふ説明だけでは、まだ合點の行かぬ所がある。恐らく人間の體内には神と名けてよい部分が前からあつて、それが此上も無く一般の安寧の爲に、必要なものと信ぜられた結果、時としてはわざわざ之を世俗から、引離して拜まうとした風習が曾てあつたので勿論現在の生死觀を適用して見れば、到底忍ぶべからざることには相違ないが、其豫定があつてこそ始めて生牲といふ語が了解せられる。卽ち死の準備の或期間が、人を生きながら神とも爲し得たので、神に供へる鹿の耳切りは、必すしも鹿を以て始まつたる方式で無いのかも知れぬ。
至つて古い時代の民間の信仰が、獨り其形體を今日に留めて、本旨を逸失した例は無數にある。近世文學の中に散らばつて居る神恠奇異にも、詩人獨自の空想の所産なるが如く我も人も信じて居て實はさうで無いものが多かつた。久しい年代の調練に伎つて、隱約の間に養はれて居た思想が、無意識に折々顏を出すのである。由緒ある各地の行事の中にも同じ名殘は尚豐かに見出される。獅子舞などが既に平和の世の遊樂になつて居ながら、屢殺伐なる逸事を傳ふるも其爲である。伊勢の山田の七社七頭の獅子頭が、常は各町の鎭めの神と祭られつゝ、正月十五日の終夜の舞がすんで後に、之を山田僑の上に持出して刀を揮うて切拂ふ態を演じ、卽座にこれを舞衣に引くるんで、元の社に納めたといふなども、假に如何樣の解説が新たに具はつて居ようとも、到底後の人の獨創乃至は評定を以て、發案せられる類の趣向では無かつたやうである。
[やぶちゃん注:「黑島兵衞」「くろしまひやゑ」と読んでおく。越後の国中心にを荒し廻った巨魁の豪族で、身の丈二メートル五十センチの偉丈夫とする怪人物として伝承に名を残すようである。
「東尋坊」現在の福井県坂井市三国町安島の海岸にある柱状節理の断崖。ウィキの「東尋坊」によれば、一説に、『昔、平泉寺には数千人僧侶がいた。その中にいた東尋坊という僧は、怪力を頼りに、民に対して悪事の限りをつくした。東尋坊が暴れ出すと手がつけられず、誰も彼を押さえることが出来なかった。東尋坊はまさにやりたい放題、好き勝手に悪行を重ねていたので、当然のように平泉寺の僧侶は困り果てていた。また東尋坊はとある美しい姫君に心を奪われ、恋敵である真柄覚念(まがらかくねん)という僧と激しくいがみ合った』。寿永元(一一八二)年四月五日、『平泉寺の僧たちは皆で相談し』、『東尋坊を海辺見物に誘い出す。一同が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、早速岩の上に腰掛けて酒盛りが始まった。その日は天気も良く眺めの良い景色も手伝ってか、皆次第に酒がすすみその内、東尋坊も酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めた。東尋坊のその様子をうかがうと』、『一同は目配せをし、真柄覚念に合図を送った。この一同に加わっていた真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落とした。平泉寺の僧侶たちのこの観光の本当の目的は、その悪事に手を焼いた東尋坊を酔わせて、高い岩壁から海に突き落とすことにあった。崖から突き落とされつつ、ようやくそのことに気付いた東尋坊であったが、もはや手遅れ。近くにいた者どもを道連れにしつつ、東尋坊は』、『またたくまに崖の下へと落ちて行った』。『東尋坊が波間に沈むやいなや、それまで太陽の輝いていた空は、たちまち黒い雲が渦を巻きつつ』、起こり、『青い空を黒く染め、にわかに豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震え、東尋坊の怨念がついには自分を殺した真柄覚念をも』、『その絶壁の底へと吸い込んでいった』。『以来、毎年東尋坊が落とされた』とされる、四月五日の『前後には烈しい風が吹き、海水が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり』、『東を尋ねて平泉寺に向ったという』とある。しかし、私は高校時代、破戒僧が死に際に西方浄土をどちらかと尋ね、憎んだ庶民が反対を教え、ここから因果応報で落死したのだ、とバス・ガイドから教わったのを忘れない。]
耳塚の由來
尚此と關聯して考へられる一事は、京都の大佛の前に在る耳塚が、純乎たる近世史の史蹟では無いらしいといふことである。太閤秀吉の朝鮮征伐は、成程つい三四百年前の來事だが、京都人の好奇心はそれから後にも數々の傳説を發生せしめて居る。だから耳塚の如きも只の話かも知れぬと、自分などは曾て考へて居たのであるが、實際は方々の諸侯家に、確かなる證文が殘つて居るといふ。但し其證文に依ると、朝鮮から甕に漬けて送つて來たのは鼻であつた。それを何故に耳塚と呼ばせたかに至つては、やはりまだ解決せられざる疑問である。ところが國々には此以外に同名の塚が、よくも搜して見ないのに既に十何箇處とある。古くしてしかも京の耳塚に似て居たのは、筑前香椎の濱に在つた耳塚、是は延寶年間に發いて見たが、内は僅かに三間ばかりの石室で、四尺程の刀のみが納めてあつた。それを畏れ多くも神功皇后の御事蹟に、久しい前から附會して居たのである。伊豫の新濵の耳塚山なども、今は塚處の有無さへ明かでないが、やはり越智益躬が播州蟹阪に於て、外寇の賊將銕大人及び其從者を誘ひ殺し、其耳を馘して持還つて埋めたと傳へて居た。丸々歷史には無ささうな話である。
之に由つて考へて見るのに、耳塚は謂ふが如き異賊退治の決算報告では無くして、寧ろ今後の侵犯に備ふべき豫算の如きものではなかつたか。江戸でも上澁谷の長泉寺の境内に加藤淸正が朝鮮から取つて末た耳を埋めたといふ耳塚があつたさうだが、斯うなると全く信じにくい。それから武藏野に入つて行くと、府中の西南分倍河原(ぶばいがはら)の地續きにも、亦小さな耳塚があつたが、其附近に弘長年間の古碑があつたといふのみで由來は知れず、其上になほ頸塚だの堂塚だのもあつて、いくら古戰場でも成程とは言へなくたる。其他備前の龍ケ鼻の耳塚、日向の星倉の耳田塚の如きも、單に古戰迹であるから空漠たる想像が浮ぶといふのみで、實は後からさういふ名を付したのかも知れなかつた。
信州でも有明山の麗の村に、可なり有名なる耳塚傳説があつた。田村將軍に滅ぼされた中房山の大魔王、魏石鬼(ギシキ)の耳を切つて埋めたと稱し、是にも亦首塚立足村等の地名由來談が附隨して、頗る我々の蚩尤傳説と名くるものに接近して居る。規模に於ては勿論京都の耳塚に劣るが、其宗教的威力に至つては、或は彼を指導するに足るものがあつた。死屍を分割して三つ七つの塚に埋めたといふ口碑は、大抵は山と平野、若くは二つの盆地の堺などに發生する。密教の方には之を説明する教理も出來て居るらしいが、要するに無類の慘虐を標榜して、外より來り侵す者を折伏する趣旨に出たものらしく、しかもそれは近代の平和生活に對しても、多少の實用ある言ひ傳へであつた。土佐の本川郷の山奧などにも、伊豫との堺に接して耳塚があつた。「曾て豫州の者數十人竊かに材木を取る。追つて之を捕へ耳切りて之を埋めたりといふ」と土佐州郡誌には記してあり、寺川郷談には「以前盜人の耳をそぎ、箱に入れ御城下へ出し、其後御境目へ埋め置き候やう申し來り、卽ち埋めて今耳塚といふ」ともある。果して其通りの事があつたか無かつたか。あやふやな所に深い意味があつたやうに思ふ。
[やぶちゃん注:「京都の大佛の前に在る耳塚」「京都の大佛」とはその旧跡である方広寺のこと。というより、現在は豊国神社の前(西方)と言った方が判りがよい。ここ(グーグル・マップ・データ)。「鼻塚」とも言うが、こういう部分になると、俄然、柳田の書き方は官僚的学者丸出しで、如何にも歯切れが悪い。お分かりと思うが、この耳は鼻は鹿でも兎でもない、豊臣秀吉が「文禄・慶長の役」(文禄元年から翌二年(一五九二~一五九三年)と、休戦を挟んだ慶長二年から翌三年(一五九七~一五九八年の国外への侵略戦争)で朝鮮の人々を虐殺、その戦功の証しとして首級を持ち帰る代わりに彼らの鼻や耳を削ぎ落とし、塩漬けにして持ち帰って、この地に埋めて供養したとされる遺跡である(約二万人分という)。「都名所図会」の方広寺の条には、
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耳塚は二王門の前にあり。文祿元年朝鮮征伐のとき、小西攝津守、加藤肥後守を大將として數萬(すまん)の軍兵(ぐんぴやう)を討取り、首を日本へわたさんこと益なければ刵(みみきり)・劓(はなそぎ)して送り、このところに埋(うづ)み、耳塚といふ。
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とある。ウィキの「耳塚」によれば、この塚は慶長二(一五九七)年に築造され、同年九月二十八日に『施餓鬼供養が行われた。この施餓鬼供養は秀吉の意向に添って』行われ、『京都五山の僧を集め盛大に』催されたものとされる。『当時は戦功の証として、敵の高級将校は死体の首をとって検分したが、一揆(兵農分離前の農民軍)や足軽など身分の低いものは鼻(耳)でその数を証した。これをしないのを打捨という。また、運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。検分が終われれば、戦没者として供養し』、『その霊の災禍を防ぐのが古来よりの日本の慣習であり、丁重に供養された』という。まあ、こんなことした罰だわな、秀吉が死んでから甕に塩漬けにもされたのだろうよ。
「筑前香椎の濱に在つた耳塚」これは現在の福岡県福岡市東区香椎(かしい)にある香椎宮付属とされる「耳塚(みみづか)」(馘塚(きりみみづか)とも)で、古伝承では神功皇后が三韓征伐の際に討ち取った新羅人の耳或いは首を納めて祀ったとされる塚。元寇襲来の時のものであるとか、近年では前の京のそれと同じく、文禄慶長の役の際の朝鮮人の耳塚とする近代以降の説も出ているが、これらの説には根拠はないという(ウィキの「耳塚」に拠る)。
「延寶年間」一六七三年~一六八一年。
「三間」約五メートル四十五センチ。
「四尺」約一メートル二十一センチ。
「伊豫の新濵の耳塚山」現在の愛媛県松山市高浜新浜飛地北山にあるというが、現在はの所在は不明(「愛媛県生涯学習センター」公式サイト内のこちらの資料に拠った)。
「越智益躬」「おちのますみ」と読んでおく。ウィキの「予章記」(よしょうき)によれば(「予章記」は中世、伊予国を根拠として栄えた「越智氏」一族の「河野氏」が自らの氏族の来歴を記した文書とされ、現在の研究では応永元(一三九四)年に死去した同族の河野通義の没後に成立したものではないかと推測されている)、『河野氏の祖先は小千益躬(越智益躬)という武将とされる。小千益躬は「百済の軍勢が鉄人を押し立てて日本に攻めてきた時、鉄人の足の裏を射抜いてこれを撃退した」人物であるという。小千益躬の子孫に小千玉輿という人物が出たが、この人物の異母弟が南越国から父を捜して難波までやって来たので、越国との縁を表す為に小千の時を越智に変え、さらにこの人物(越智玉澄と名乗った)の子孫が河野氏となったとされる』とある。何だか、ギリシャ神話の自動人形タロスみたような話やないかい。
「播州蟹阪」兵庫県明石市和坂(かにがさか)のことか?
「銕大人」「てつだいじん」。
「上澁谷の長泉寺」現在の渋谷区神宮前にある曹洞宗慈雲山長泉寺か。
「分倍河原」現在の東京都府中市内である多摩川河畔の分倍河原。
「弘長」一二六一年~一二六三年。
「堂塚」前が「頸塚」じゃ、これは「胴塚」じゃあ、ねえのかい?
「備前の龍ケ鼻の耳塚」これは「耳塚」ではなく、備前市香登本(かがともと)にある「千人鼻塚」
のことではないか? 宇喜多秀家の家老長船紀伊守の旗持ちであった六助なる人物が朝鮮出兵から帰国した後、塩漬けにして送られた鼻を貰いうけ、故郷に持帰って手厚く葬ったと伝えるものである。
「日向の星倉の耳田塚」場所は宮崎県日南市大字星倉か。ここ(グーグル・マップ・データ)。耳田塚は不詳。
「有明山の麗の村に、可なり有名なる耳塚傳説があつた」「有明山」は、現在の長野県安曇野市及び北安曇郡松川村に属する北アルプスの山。標高二千二百六十八メートル。ウィキの「魏石鬼八面大王」(ぎしきはちめんだいおう)によれば、魏石鬼八面大王は『長野県の安曇野に伝わる伝説上の人物。「八面大王」とは、「魏石鬼(義死鬼)」の別称である。出典となった『信府統記』に読み仮名がないため、正式な読み方は不明である。やめのおおきみ(八女大王)と読んで、福岡県八女の古代豪族磐井との繋がりも考えられている』。『妻の「紅葉鬼神」ともども坂上田村麻呂によって討伐されたという『信府統記』の記述に基づく伝説が、広く松本盆地一帯に残っている。『仁科濫觴記(にしならんしょうき)』に見える、田村守宮を大将とする仁科の軍による、「八面鬼士大王」を首領とする盗賊団の征伐を元に産まれた伝説であると考えられている』。『松本藩により享保年間に編纂された地誌、『信府統記』(第十七)に記される伝承の概略は次のようなものである』。『その昔、中房山という所に魏石鬼という名の鬼賊が居た。八面大王を称し、神社仏閣を破壊し民家を焼き人々を悩ましていた』。延暦二四(八〇五)年、『討伐を命ぜられた田村将軍は安曇郡矢原庄に下り、泉小太郎ゆかりの川合に軍勢を揃え、翌』大同元(八百六)年に『賊をうち破った』という。『穂高神社の縁起では、光仁天皇のころ義死鬼という東夷が暴威を振るい、のち桓武天皇の命により田村利仁』『がこれを討ったという』。『また、八面大王に関連した地名や遺跡に関する以下のような記述もある』。『中房山の北、有明山の麓の宮城には「魏石鬼ヶ窟」がある』。『討伐軍が山に分け入る際に馬を繋いだのが今の「駒沢」で、討ち取った夷賊らの耳を埋めたのが「耳塚」、賊に加わっていた野狐が討ち取られた場所が「狐島」であるという』。『八面大王の社と称する祠もあるという。一説には、魏石鬼の首を埋めたのが「塚魔」であり、その上に権現を勧請したのが今の筑摩八幡宮(つかまはちまんぐう)とされる』(下線やぶちゃん)。『魏石鬼の剣は戸放権現に納められたというが、この社の所在は不明である。剣の折れ端は栗尾山満願寺にあり、石のような素材で鎬(しのぎ)があり、両刃の剣に見える』。『この件に関する『信府統記』の記述はすこぶる表面的であり、上記のように坂上田村麻呂と藤原利仁の混同』『をはじめとするおとぎ話的な側面を多く含むことは否めない。決定的なことは、坂上田村麻呂は』、延暦二〇(八〇一)年の『遠征以降、征夷の史実はないという点である。加えて、文中のコメントは伝聞調で「云々(うんぬん)」、「とかや」が散見しているため、史実としての信頼性を疑わせる』とする一方、「仁科濫觴記」に見られる記述は、お伽話的要素を含まず、実見したように詳細であり、歴史的整合性もあって、さらに部分的には典拠も示されている点で対照的であり、『ここでは「八面大王」という個人ではなく』、八人の『首領を戴く盗賊集団あるいはその首領の自称として「八面鬼士大王」の名で登場する。概略は次のようなものである』。神護景雲(七六七年~七七〇年)末から宝亀年間(七七〇年~七八〇年)にかけて、『民家や倉庫から雑穀や財宝を盗む事件がおきた』。宝亀八(七七七)年の秋に『調べたところ、有明山の麓に盗賊集団(「鼠(ねずみ)」、「鼠族」)の居場所を発見した。その後、村への入り口に見張りを立てたが、盗賊は隙を窺っているらしく、盗みの被害はいっこうにやまなかった。そのうち盗賊たちは、「中分沢」(中房川)の奥にこもって、8人の首領をもつ集団になった。山から出るときは、顔を色とりどりに塗り「八面鬼士大王」を名乗り、手下とともに強盗を働いた。これを憂いた皇極太子系仁科氏3代目の仁科和泉守は、家臣の等々力玄蕃亮』(三代目田村守宮)『を都(長岡京)に遣わして、討伐の宣旨を求めさせた』。延暦八(七八九)年二月上旬、『朝廷より討伐命令が下ったため、等々力玄蕃亮の子の』四代目田村守宮(生年二十五歳)を追手の大将とし、総勢二百名ほどで偵察を行い、それに基づいて搦手の『大将高根出雲と作戦計画を立てた後、まず退治の祈祷を行った』上で、延暦八年二月二十三日に作戦が決行された。『まず、前々の夜から東の「高かがり山」(大町市)に火をたかせた。田村守宮率いる部隊は、夜半に「八面大王」一派のいる裏山に登り、明朝の決行を待った後』、翌二十四日の夜明けとともに、『ほら貝を吹き時の声をあげながら一気に山を下った。搦手も太鼓を打ち鳴らし時の声をあげた。寝起きを襲われた盗賊団は驚いて四散したが、多くの者は逃げ切れなかった。大将の田村は大声で「鬼どもよく聞け。お前たちは盗賊を働き人々の家の倉庫を打ち壊して財宝を盗んだことは都にも知られている。勅命に従って討伐に来た。その罪は重いが、これまで人命は奪ってはいない。速やかに降参すれば、命だけは助けよう。手向かえば、一人残らず殺すが、返事はいかに」といった。すると盗賊団はしばらく顔を見合わせた後、長老が進み出て、太刀を投げ出し、考えてから両手を付いた。そして「貴君の高名はよく承知しております。私の命はともかくも、手下たちの命はお助け下さい」といった。そして、抵抗を受けずに全員が縄にかけられ、城に連行された』。『合議によって、長老一人を死罪とし、残りは耳をそいでこの地から追放することとなった。すると、村の被害者たちが地頭(この職も平安末期以降であり、当時は無かった)とともに、私刑にしたいので彼らを引き渡して欲しいと嘆願に来た。これを切っ掛けとし、等々力玄蕃亮は考え直し、もう一度合議して、長老の死罪を許し』、八人の『首領を同罪として両耳そぎ、残りの手下は片耳そぎに減刑することに改めた』。『耳そぎの執行の日、田村守宮は罪状と判決を述べた後』、『立ち去った。そのため、役人が耳をそぎだすと、恨みある村人が我も我もと争って』、七十人あまりの『盗賊の耳そぎが執行された。そがれた耳は、血に染まった土砂とともに塚に埋められて、耳塚(安曇野市穂高有明耳塚)となった。その後、盗賊の手下たちは島立(松本市島立)にて縄を解かれ』、『追放された。一方の残る』八人の『首領は、恨みを持った村人たちによって道をそれて山の方に連れて行かれた。そして口々に、「これまでは公儀の裁きであった。これからは我らの恨みをはらすぞ。天罰であると思い知れ」といって、掘った大穴に突っ込まれた後、石積みにされて殺された。そのために、この場所を「八鬼山」(松本市梓川上野八景山(やけやま))というようになった』(下線やぶちゃん)。『その後追放された盗賊団の手下たちは、もともと安曇の地に産まれた者たちであったので、日が経つにつれて徐々に親兄弟、知人を頼って、秘かに故郷に戻りかくまわれていた。そのことを聞き知った仁科和泉守は』、延暦二四(八〇五)年に、父の仁科美濃守の百歳の『祝いにあわせて彼らを免じ、八鬼山の地と』三年分の『扶持を与えて、開墾を奨励した』とする。「仁科濫觴記」の話は『具体的であることから、この戦いに実際に参画したか』、『あるいはその近辺にいた者による記述の可能性が考えられている』。『これを史実として認めるとすると、上記の「八面大王」と呼ばれた盗賊団を捕えた大将とは、田村守宮であった。この田村守宮の「田村」が征夷で著名な坂上田村麻呂の「田村」と混同され、さらに上述した藤原利仁との混同が起る形で、さまざまな伝説として残ることとなった可能性が、在野の郷土歴史家仁科宗一郎によって詳しく考察されている』とある。
「立足村等の地名由來談」旧長野県南安曇郡にあった村。後に穂高町となり、現在は安曇野市となっている。サイト「名前の由来」の『「体」の地名』の「耳塚(みみづか)」の項に、「角川日本地名大辞典」からとして、『長野県安曇野市穂高有明耳塚。地名は地内の耳塚と称する古墳にちなむ。塚には、古くから耳の神様として近在の人々に知られる「大塚様」の祠鳥居がある。耳塚の成立については安曇氏の墳墓で、「みみ(耳)」はその尊称であるとも魏石鬼八面大王の耳を埋めた塚であるとも伝承される。付近の立足村は八面大王の足を埋めた地、新屋地内の矢村は坂上田村麻呂が八面大王を射殺した時の山鳥の羽の矢を献じた人にちなんだものなどの地名説話がある。いずれも有明山の霊地をめぐる伝説である』とある(下線やぶちゃん)。
「蚩尤傳説」「蚩尤」は「しいう(しゆう)」と読み、本来は中国の伝説上の人物で、黄帝と戦い、濃霧を起こして苦しめたが、指南車を作って方位を測定した黄帝に涿鹿(たくろく)で敗れたとされる。ウィキの「蚩尤」によれば、『獣身で銅の頭に鉄の額を持ち、また四目六臂で人の身体に牛の頭と蹄を持つとか、頭に角があるなどといわれる』。『砂や石や鉄を喰らい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、黄帝の座を奪うという野望を持っていた。同じ姿をした兄弟が』八十人くらい『いたという。戦争にあっては、神農氏の時、乱を起こし、兄弟の他に無数の魑魅魍魎を味方にし、風、雨、煙、霧などを巻き起こして黄帝と涿鹿の野に戦った(涿鹿の戦い)。濃霧を起こして敵を苦しめたが、黄帝は指南車を使って方位を示し、遂にこれを捕え殺したといわれている』。『捕らえられた蚩尤は、諸悪の根源として殺されたが、このとき逃げられるのを恐れて、手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外された。身体から滴り落ちた鮮血で赤く染まった枷は、その後「楓(フウ)」となり、毎年秋になると赤く染まるのは、蚩尤の血に染められた恨みが宿っているからだという』とある。所謂、中央政権にまつろわぬ異民族集団が、「戦さ神」とされ、零落したパターンである。
「密教の方には之を説明する教理も出來て居る」不詳。識者の御教授を乞う。
「折伏」「しやくぶく(しゃくぶく)」。
「土佐の本川郷の山奧などにも、伊豫との堺に接して耳塚があつた」「本川」は「ほんがは」で高知県中央北部で土佐郡の村。かつてこの村から東隣の大川村を含む一帯は本川郷と呼ばれ、周囲から隔絶した山間地で中世には〈本川五党〉と称する五人の土豪がいたという。こちらのページに、「自念子(じねんこ)越えの耳塚」とあり、土佐藩の時代(一六四〇年頃)、『この辺り一帯は藩直轄の「お留山」であり、良林であったので、伊予側から国境を越えてやってくる森林盗伐組が跡を絶たず、よって盗人を捕えると耳をそぎ、墓をつくって埋めたといわれる。その跡を耳塚又は、耳墓と呼んでいる』とある。
「寺川郷談」「てらかはきやうだん」と読む。江戸中期、同地に駐在した土佐藩山廻役春木氏の記した書。]
產業及び農業を主宰する神々――特に農夫の祈願する、蠶の女神、米の女神、風及び天氣の神の如き神々――の外に、國中殆ど到る處に、償贖和解の神社とでも云つたやうなのがある。この種の後代に出來た神社は、不幸、不正の爲めに苦しみを受けた人の靈の爲め、その贖ひを成す爲に建てられたものである。この場合、禮拜は、極めて異樣な形をとり、禮拜者は、その祭られて居る人が生存中に被つたやうな、災難及び困難に對して保護を求めるのである。たとへば出雲に於て、私は嘗て王侯の寵愛者であつた一婦人の靈の爲めに捧げられた神社を見た事がある。この婦人は嫉妬深い競爭者の術數にかかり、自殺したのであつた。その話は恁うである、この婦人は極めて美しい髮の毛をもつて居た。併しそれに黑さが足りなかつた、それでその敵どもは、その色を以つてこの婦人を排斥する手段としたのであつた。それで今や世間の赤毛の子供をもつて居る母親達は、その赤色の黑色にかはる事をその神に祈り、髮の毛の束と東京の錦繪とを供物として捧げる。それはこの婦人が錦繪を好んで居たと考へられて居るからである。同じ地方に、主人の留守を悲しんて死んだ若い妻の靈の爲めに建てられた神社がある。この婦人は、岡にのぼつて夫の歸りを待つて居たのであるが、神社はその待つて居た場所に建てられたのであつた、そして細君達はその留守の夫の無事に歸つて來るやうにと、この婦人に祈るのである……。これと同じやうな和解の禮拜は、普通の墓地でも行はれて居る。公衆の憐憫の心は、殘虐の爲めに自殺するの已むなきに至つた人々、若しくは法律は罪科にあたひするが、事實愛國心その他同情を得るやうな動機から爲された犯罪の爲めに、處刑された人々を祭らうと欲するのてある。さういふ人々の墓場の前には、供物が捧げられ、祈禱がささやかれる。不幸な戀人等の靈も、同じ事の爲めに苦しむ若い人々に依つて祈願される……。なほ償贖融和の禮拜のその他の形のうちに、私は動物――主として家畜であるが――靈の爲めに小さい社を建てる古い慣習のある事を言はなければならない、それは默つておとなしく用をなし、而もその報いを得なかつたその奉仕を認めてか、或は不當に被らされた苦痛の贖ひのためになされるのである。
[やぶちゃん注:「蠶の女神」代表的な東北地方の「おしらさま」などを考えると(「おしらさまの神体は男女一対・馬と娘一対・馬と男一対で祀られることが多い)、女神というのは少し腑に落ちなかったりするが、養蚕はその主体が專ら農家の女性の手で行われてきたこと、以下の「米の女神」でもある、食物起源神話の女神である「宜都比賣神」(おほげつひめ:「古事記」に登場。身体から出した食物を出したことを知って怒った「素戔嗚命」に殺害されてしまうが、その頭から蚕が、目から稲が生まれる)や「保食神」(うけもちのかみ:「日本書紀」の神産みの段の一書にのみ登場。素戔嗚の代わりに、こちらでは、同シチュエーションで「月讀命(つくよみのみこと)」が殺害し、その屍体の眉から蚕が、腹から稲が生まれている)ことを考えれば、豊饒神は当然、子を産める女神でなくては、と腑に落ちる。
「償贖」「しやうとく」。「賠償」に同じい。償(つぐな)い贖(あがな)うこと。
「出雲に於て、私は嘗て王侯の寵愛者であつた一婦人の靈の爲めに捧げられた神社を見た事がある。この婦人は嫉妬深い競爭者の術數にかかり、自殺したのであつた」当該神社及び以下の話(かなり具体であるが、髪をめぐる嫉妬というのは、汎世界的な古典的伝承の型ではある)を含め、不詳。典拠及び、錦絵を奉納するというその神社の所在地等、御存じの方は御教授を乞う。
「同じ地方に、主人の留守を悲しんて死んだ若い妻の靈の爲めに建てられた神社がある」望夫石伝承の一例と思われるが、同じく、当該神社及び以下の話を含め、不詳。典拠及び、その神社の所在地等、御存じの方は御教授を乞う。]
なほ別種の守護神の事も一言しなければならない――則ち人々の家々の內、若しくはまはりに住む神々の事である。その內の或るものは神話の內にも書いてあり、恐らくは日本の祖先禮拜から發展したものてあらう。また或るものは外國起原のものであり、或るものは神社をもつて居ないらしく、なほ成或るものは所謂萬物有靈說(アニミズム)と云つたやうなものを代表して居る。この種の神はギリシヤの δαίμονες よりもロオマのdii genitales (生々の神)に近い。井戶の神なる水神樣、食器の神なる荒神(殆ど孰れの家の臺所にも、この神に捧げた小さな神壇があるか、若しくは、其名を書いた護符がある)鍋類の神、曲突(くど)(竃)の神、戶部の神(昔は沖津彥、沖津姬と言はれて居た)蛇の姿て顯はれて來ると云はれて居た池の主、米壺(櫃?)の女神、お釜樣、始めて人間に地に肥料を施す事を教へた手洗ひ場の神(これは通例隔のない男女の形をした紙で拵へた小さな人の姿を以つて現はされて居る)木材、火、金屬の神々、竝びに庭園、原野、案山子、橋、丘陵、森林、河流の神々と、また樹木の靈(日本の神話にも dryads ――樹木のニンフ――があるので)等があつて、その多くは言ふまでもなく神道起原のものである。また一方に道路が主として佛敎の神々の保護の下にあるのを見る。私は地方の境の神々(ラテンではそれを呼んでtermes といふ)に關して、少しも知る事を得なかつた、そして吾々は村はづれの處に佛の姿を見るのみである。併し殆ど何處の庭にも其北の方に、鬼門則ち惡魔の門と稱する方に向つて神道の小さい社がある――鬼門とは、則ち支那の敎に依ると、すべての惡事の來る方向である、そして各種の神道の神々に捧げられた、これ等の小さな社は、惡靈の來ないやうに家を護つてくれると考へられて居たのである。鬼門についての信仰は、明らかに支那から渡來したものである。
[やぶちゃん注:「δαίμονες」ギリシア語で「ダイモネス」と読む。「神的なる存在たち」の意。後にこの語からユダヤ・キリスト教の悪霊“demon”(デーモン・悪魔)」が派生したため、印象がすこぶる悪くなってしまったが、プラトンの「饗宴」などによれば、古代ギリシア及びヘレニズムに於いて、人間と神々の中間に位置するところの、或いは善性の或いは悪性を示すところの、超自然的存在を指し、下級格の神や死んだ英雄の霊などを指す。和訳例では「神霊」「精霊」など(ここは一部をウィキの「ダイモーン」に拠った)。
「dii genitales (生々の神)」古典ラテン語らしい。発音は「ディイ・ジェナタエス」か(誤っていれば御指摘あれかし)。戸田の「生々の神」というのは半可通である。平井呈一氏の『性器の神』で腑に落ちる。
「食器の神なる荒神」「荒神」は「こうじん」と読む。ウィキの「荒神」より引く。『民間信仰において、台所の神様として祀られる神格の一例』。『多くは仏教の尊格としての像容を備えているが、偽経を除けば本来の仏典には根拠がなく、核となったのは土着の信仰だったと思われる。現在では純粋に神道の神として説明されるケース(後述)もあるが、それらは江戸国学以降の思弁によって竈神を定めたものにすぎない。神道から解くにしても仏教から解くにしても、「荒神」という名称の由来も、民俗学が報告する様々な習俗や信仰形態、地方伝承なども、十分に説明できる説は存在しない。極めて複雑な形成史をもっていると考えられている』。『荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようで』、『中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が』圧倒的に多く、『県内に荒神社が一つもない県も多い』。『荒神信仰には後述するように大別すると二通りの系統がある。(三系統ともいう。)屋内に祀られるいわゆる「三宝(寶)荒神」』及び『屋外の「地荒神」である』。『屋内の神は、中世の神仏習合に際し』、『修験者や陰陽師などの関与により、火の神や竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある』。『御祭神は各県により若干の違いはあるが、道祖神、奥津彦命(おきつひこのみこと)、奥津姫命(おきつひめのみこと)、軻遇突智神』(かぐつちのかみ)(下線やぶちゃん)『の火の神様系を荒神として祀っている。神道系にもこれら火の神、竈の神の荒神信仰と、密教、道教、陰陽道等が習合した「牛頭天王(ごずてんのう)」のスサノオ信仰との両方があったものと考えられる。祇園社(八坂神社)では、三寶荒神は牛頭天王の眷属神だとしている』。『牛頭天王は、祇園会系の祭りにおいて祀られる神であり、インドの神が、中国で密教、道教、陰陽思想と習合し、日本に伝わってからさらに陰陽道と関わりを深めたものである。疫神の性格を持ち、スサノオ尊と同体になり、祇園会の系統の祭りの地方伝播を通して、鎮守神としても定着したものである』。『家庭の台所で祀る三宝荒神と、地域共同体で祭る地荒神とがある。地荒神の諸要素には三宝荒神にみられないものも多く、両者を異質とみる説もあるが、地荒神にみられる地域差はその成立に関与した者と受け入れ側の生活様式の差にあったとみて』、『本来は三宝荒神と同系とする説もある』が、『地域文化の多様性は単に信仰史の古さを反映しているにすぎないとも考えられるので、必ずしも文化の伝達者と現地人のギャップという観点を持ち出す必要はない』。三宝荒神は「无障礙経(むしょうげきょう)」の説くところでは、如来荒神(にょらいこうじん)・麁乱荒神(そらんこうじん)・忿怒荒神(ふんぬこうじん)なる神の三身を指すとするが、そもそもが、この「无障礙経」自体は『中国で作成された偽経である。後世、下級僧や陰陽師の類が、財産をもたない出家者の生活の援助をうけやすくするため、三宝荒神に帰依するように説いたことに由来している。像容としての荒神は、インド由来の仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像であり、三宝荒神はその代表的な物である。不浄や災難を除去する火の神ともされ、最も清浄な場所である竈の神(台所の神)として祭られる。俗間の信仰である』。『竈荒神の験力によると、生まれたての幼児の額に荒神墨を塗る、あるいは「あやつこ」と書いておけば悪魔を払えると信ずる考え方がある。また荒神墨を塗ったおかげで河童(かっぱ)の難をのがれたという話も九州北西部には多い。荒神の神棚を荒神棚、毎月晦日(みそか)の祭りを荒神祓(はらい)、その時に供える松の小枝に胡粉(ごふん)をまぶしたものを荒神松、また竈を祓う箒(ほうき)を荒神箒とよんで、不浄の箒とは別に扱う』。『地荒神は、屋外に屋敷神・同族神・部落神などとして祀る荒神の総称である。中国地方の山村や、瀬戸内の島々、四国の北西部、九州北部には、樹木とか、大樹の下の塚を荒神と呼んで、同族の株内ごとにまた小集落ごとにこれを祀る例が多い。山の神荒神・ウブスナ荒神・山王荒神といった習合関係を示す名称のほか、地名を冠したものが多い。祭祀の主体によりカブ荒神・部落荒神・総荒神などとも称される』。『旧家では屋敷かその周辺に屋敷荒神を祀る例があり、同族で祀る場合には塚や石のある森を聖域とみる傾向が強い。部落で祀るものは生活全般を守護する神として山麓に祀られることが多い。樹木の場合は、地主神、作神(さくがみ)であり、牛馬の安全を守るが、甚だ祟りやすいともいう。また祀る人たちの家の火難、窃盗を防ぐという』(中略)。「民間習俗における荒神信仰」の項の「あやつこ(綾子)」。『子供の「お宮参り」の時に、鍋墨(なべずみ)や紅などで、額に「×」、「犬」と書くこと言う。悪魔よけの印で、イヌの子は良く育つということに由来するとされ、全国的にでは無いが、地方によって行われる所がある』が、『古文献によると、この「あやつこ(綾子)」は紅で書いたとある』ものの、『紅は都の上流階級でのみ使われたことから、一般の庶民は「すみ」、それも「なべずみ」で書くのが決まりであったという。この「なべずみ」を額に付けることは、家の神としての荒神(こうじん)の庇護を受けていることの印であった。東北地方で、この印を書くことを「やすこ」を書くと言う。宮参りのみでなく、神事に参列する稚児(ちご)が同様の印を付ける例がある』。『「あやつこ(綾子)」を付けたものは、神の保護を受けたものであることを明示し、それに触れることを禁じたのであった。のちには子供の事故防止のおまじないとして汎用されている。柳田國男の『阿也都古考』によると、奈良時代の宮女には「あやつこ(綾子)」の影響を受けたと思われる化粧の絵も認められ、また物品にもこの印を付けることもされていたらしい』。「荒神」の語源は不明であるが、『日本の古典にある伝承には、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)を対照的に信仰した様子が記されている。民間伝承でも、温和に福徳を保障する神と、極めて祟りやすく、これの畏敬(いけい)の誠を実現しないと危害や不幸にあうと思われた類の神があった。後者は害悪をなす悪神であるが祭ることによって荒魂が和魂に転じるという信仰があった。そこでこの「荒神」とはこの後者をさしたものではないかとの説もある』。但し、『同様な思想はインドでも、例えば夜叉・羅刹などの悪神を祀りこれを以って守護神とする風習があったり、またヒンドゥー教(仏教からすれば外道の宗教)の神が、仏教に帰依したとして守護神・護法善神(いわゆる天部)とされたことも有名であり、純粋に仏教の枠内でも悪神を祀って善神に転じるということはありうる。神仏習合の文化の中で、陰陽師』や、その流れを汲む祈禱師らが、『古典上の(神道の)荒ぶる神の類を、外来の仏典に基づく神のように説いたことから発したのではないかとの説、古来からいう荒魂を祀って荒神としたのではないかという説もある』とある。
「竃」「かまど」。
「戶部の神」「こべのかみ」と読む。よく判らないが、前の「荒神」の引用部の下線を引いた箇所が、まさにこの直後で、この神は「昔は沖津彦、沖津姬と言はれて居た」とあることから見て、前の〈おくどの神さま〉=竈神と同等かその近縁の神と考えられ、すると、特に危険な火の気のある台所の出入りする戸口の守護神(ウィキの「かまど神」には、『オキツヒコ・オキツヒメが竈の神』とさえある)、或いはそこから逆に、外界・異界へと続く井戸(回禄時に火を消す役をも持つ)を守り、ひいては家(戸屋)を守る神としての〈戸辺(とべ)の神〉とは読めないだろうか? 単なる思い付きである。大方の御叱正を俟つ。
「米壺(櫃?)の女神」この「(櫃?)」は訳者戸田の附加。平井氏は普通に『米櫃の神』と訳しておられる。こうした戸田氏に訳は、少々、五月蠅いだけで、益がない。
「手洗ひ場の神」厠神(かわやがみ)。小学館「日本大百科全書」の井之口章次の解説によれば、『男女一対の紙雛(かみびな)を神体とする例もあるが、多くは正月と盆に青柴(あおしば)を上げる程度である。陰陽道(おんみょうどう)の俗信で、井戸、便所など土に掘った穴を埋める』際には『人形や扇子を入れる作法があるが、神体とする紙雛は』、『その変化であろう。中国では紫姑(しこ)神、卜部(うらべ)の神道ではハニヤマヒメノカミ(土の神)とミズハノメノカミ(水の神)であるといい、密教や禅家ではウズサマ明王(みょうおう)とかウシッシャマ明王という。近世以降は』、『それらの俗信や信仰を統合して祖霊信仰体系に組み入れ、主として出産を守護する神と理解されている。福島県から関東地方に分布する「赤子の便所まいり」の習俗なども、厠神に健康を祈願するためと考える人が多い』とある。小泉八雲の「始めて人間に地に肥料を施す事を教へた」神とする定義もプラグマティクには判らぬではないが、どうも信仰のそれは、排泄と出産の類感呪術的なものが起原であるように私には思われるが、如何?
「案山子」「かかし」。ウィキの「かかし」によれば、『案山子は、民間習俗の中では田の神の依代(山の神の権現とも言われる)であり、霊を祓う効用が期待されていた。というのも、鳥獣害には悪い霊が関係していると考えられていたためである。人形としての案山子は、神の依り代として呪術的な需要から形成されていったものではないかとも推察できる。蓑や笠を着けていることは、神や異人などの他界からの来訪者であることを示している』。『見かけだけは立派だが、ただ突っ立っているだけで何もしない(=無能な)人物のことを案山子と評することがある。確かに案山子は物質的には立っているだけあり、積極的に鳥獣を駆逐することはしない』。だが、しかし、『農耕社会の構造からすると、農作物(生計の手段)を守る役割を与えられた案山子は、間接的には共同体の保護者であったと言えよう』。『古事記においては久延毘古(くえびこ)という名の神=案山子であるという。彼は知恵者であり、歩く力を持っていなかったとも言われる。立っている神 → 立っている人形、との関連は指摘するまでもないとも考えられるが、上記の通り語源との関係で、明確ではない』とある。
「dryads」「ドライアズ」はギリシャ・ローマ神話で、精霊ニンフ(英語:nymph)の一種とされる木の精霊ドリュアス(Dryas:複数形:Dryades:ドリュアデス)のこと。
「termes」「テルメス」。ラテン語の“terme”(テルメ)には「分岐した小枝」(村はずれには必ず分岐した辻がある)の外に「境界・限界・終局」の意があるから、境界神のことである。]
併しながら家の各部――その一々の各部――また家庭の一々の道具が、目に見えざるその守護神をもつて居るといふ信仰は、支那の感化のみが發育さしたものであるか、それには疑問の餘地がある。兎に角この信仰を考へて見ると、家の建造が――その家が外國式でない限り――なほ宗敎的行爲であり、また建築の頭領の仕事が、神官の仕事をも含んで居るといふ事も驚くには足らない事である。
[やぶちゃん注:「頭領」「棟梁」に同じい。]
ここまて來ると萬物有靈說(アニミズム)の問題に逢着する。(私は現代の學派に屬する進化論者にして、萬物有靈說は、祖先靈拜の前にあつたといふ舊式の考ヘ――無生物に靈ありとする信仰は、人間の亡靈に就いての考へが、まだ出て來なかつた前に發展したものであるといふ假定を包有して居る說、を持つて居るとは思はない)ここまで說いて見ると日本に於ては、萬物有靈說的の信仰と神道の最下級の形との間の境界線を引く事は、植物界と動物界との間の區劃をつけると同樣困難である、併し最古の神道文學も、今日存在するやうな發達した萬物有靈說の證據は少しも與へては居ない、恐らくその發展は徐々たるもので、多くは支那の信仰に感化されたものであらう。それでも吾々は『古事記』の內に、『螢火の如く輝き、蜉蝣の如くに亂れて居た惡の神々』といふ事、竝びに『岩や木の切り株や綠の水の泡をして語らしめる惡魔』といふ事を見るが、これに依つて萬物有靈說乃至拜物敎的(フェテイシステイツク)考への、支那の影響時代前に、或る程度まで行はれて居た事を覗ふに足りる。そして萬物有靈說が恆久の祀拜と結び合つた場合、(異樣な形をした石或は木に捧げられた崇敬の念に於けるが如き)禮拜の形は、大抵神道に依つて居るといふ事は注意すべき處である。斯樣な物の祭られて居る前には、通例神道の門が見られる――鳥居が……支那朝鮮の影響の下に於ける、萬物有靈說の發達と共に、昔の日本の人は、眞に自分が靈と惡魔の世界の内にあつたと考へたのである。靈と惡魔とは、潮の音、瀧の響き、風のうめき、木の葉の囁き、鳥のなく聲、蟲のすだく聲、その他自然のあらゆる聲の内に、人間に向つて語つて居たのであつた。人間に取つて、あらゆる運動、――波の運動でも、草の運動でも、または移る行く霧、飛び行く雲の運動でも、みな亡靈の如くであり、動く事のない岩石、――否、路傍の石すら、目に見えざる嚴かなるものに依つて魂を入れられて居たのである。
[やぶちゃん注:「私は現代の學派に屬する進化論者にして、萬物有靈說は、祖先靈拜の前にあつたといふ舊式の考ヘ――無生物に靈ありとする信仰は、人間の亡靈に就いての考へが、まだ出て來なかつた前に發展したものであるといふ假定を包有して居る說、を持つて居るとは思はない」非常に迂遠な謂い方であるが、要は、小泉八雲は、信仰や宗教の進化理論の段階的発達に於いて、そのステージよりも前に行われていた原始的な(多分に侮蔑的に下等な)信仰形態は見かけ上、消失する、というような考え方を――支持出来ない――と言っているものと私は解釈する。
「螢火の如く輝き、蜉蝣の如くに亂れて居た惡の神々」「蜉蝣」は「かげらう」であるが、これを「古事記」とするのは誤りであり、この英訳(サトウか)も「蜉蝣」など、よくない。これは「日本書紀」「卷第二」の「神代下(かみのよのしものまき)」で葦原中国(あしはらのなかつくに)の状態を述べた、
*
然るに、彼の地、多(さは)に螢火(ほたるび)光る神、及(ま)た蠅聲(さばへな)す邪(よこし)まなる神有り、復た、草木(くさき)、有り、咸(みな)能く言語(ことかた)りき。
*
が出典であろう。まさに生物・無機物を問わず、総てのものの中に霊が宿っているとするアニミズム(animism)に立脚した世界観である。
「岩や木の切り株や綠の水の泡をして語らしめる惡魔」これも「古事記」からの引用ではあるまい。恐らくは、古えの祝詞(のりと)の一つである「出雲國造神賀詞(いづものくにのみやつこのかんよごと)」(新任の出雲国造が天皇に対して奏上する寿詞で、「延喜式」に、既に、その章詞が記述されあるが、これは八世紀中期以後の内容と推定されている。内容は天穂日命以来の祖先神の活躍と歴代国造の天皇への忠誠の歴史とともに、天皇への献上物の差出と長寿を祈願する言葉が述べられている。以上はウィキの「出雲国造神賀詞」に拠った)の一節である、
*
豐葦原の水穗の國は、晝は五月蠅(さばへ)なす水、沸き、夜は火、瓫(ほとぎ)なす光(かかや)く、神あり、石(いは)ね・木立(こだち)・靑水沫(あをみなは)も事問(ことと)ひて荒ぶる國なり。しかれども鎭(しづ)め平(やすら)けて、皇御孫(すめみま)の命に安國と平らけく知ろしまさしめむ。
*
の部分を抜いたものであろう(読みは私の推定)。「瓫(ほとぎ)なす」は溢れるの謂いであろう。より具体なアニミスティクな表現である。]
Developments Of
Shintō
THE teaching of Herbert Spencer that the greater gods of a people—those figuring in popular imagination as creators, or as particularly directing certain elemental forces—represent a later development of ancestor-worship, is generally accepted to-day. Ancestral ghosts, considered as more or less alike in the time when primitive society had not yet developed class distinctions of any important character, subsequently become differentiated, as the society itself differentiates, into greater and lesser. Eventually the worship of some one ancestral spirit, or group of spirits, overshadows that of all the rest; and a supreme deity, or group of
supreme deities, becomes evolved. But the differentiations of the ancestor-cult must be understood to proceed in a great variety of directions. Particular ancestors of families engaged in hereditary occupations may develop into tutelar deities presiding over those occupations—patron gods of crafts and guilds. Out of other ancestral cults, through various processes of mental association, may be evolved the worship of deities of strength, of health, of long life, of particular products, of particular localities. When more light shall have been thrown upon the question of Japanese origins, it will probably be found that many of the lesser tutelar or patron gods now worshipped in the country were originally the gods of Chinese or Korean craftsmen; but I think that Japanese mythology, as a whole, will prove to offer few important exceptions to the evolutional law. Indeed, Shintō presents us with a mythological hierarchy of which the development can be satisfactorily explained by that law alone. Besides the Ujigami, there are myriads of superior and of inferior deities. There are the primal deities, of whom only the names are
mentioned,—apparitions of the period of chaos; and there are the gods of creation, who gave shape to the land. There are the gods of earth, and, sky, and the gods of the sun and moon. Also there are gods, beyond counting, supposed to preside over all things good or evil in human life,—birth and marriage and death, riches and poverty, strength and disease …. It can scarcely be supposed that all this mythology was developed out of the old ancestor-cult in Japan itself: more probably its evolution began on the Asiatic continent. But the evolution of the national cult—that form of Shintō which became the state religion—seems to have been Japanese, in the strict meaning of the word. This cult is the worship of the gods from whom the emperors claim descent,—the worship of the "imperial ancestors." It appears that the early emperors of Japan—the "heavenly sovereigns," as they are called in the old records—were not emperors at all in the true meaning of the term, and did not even exercise universal authority. They were only the chiefs of the most powerful clan, or Uji, and their special ancestor-cult had probably in
that time no dominant influence. But eventually, when the chiefs of this great clan really became supreme rulers of the land, their clan-cult spread everywhere, and overshadowed, without abolishing, all the other cults. Then arose the national mythology.
We therefore see that the course of Japanese ancestor-worship, like that of Aryan ancestor-worship, exhibits those three successive stages of development before mentioned. It may be assumed that on coming from the continent to their present island home, the race brought with them a rude form of ancestor-worship, consisting of little more than rites and sacrifices performed at the graves of the dead. When the land had been portioned out among the various clans, each of which had its own ancestor cult, all the people of the district belonging to any particular clan would eventually adopt the religion of the clan ancestor; and thus arose the thousand cults of the Ujigami. Still later, the special cult of the most powerful clan developed into a national religion,—the worship of the goddess of the sun, from whom the supreme ruler claimed descent. Then, under Chinese influence, the domestic form of ancestor-worship was established in lieu of the primitive family-cult: thereafter offerings and prayers were made regularly in the home, where the ancestral tablets represented the tombs of the family dead. But
offerings were still made, on special occasions, at the graves; and the three Shintō forms of the cult, together with later forms of Buddhist introduction, continued to exist; and they rule the life of the nation to-day.
It was the cult of the supreme ruler that first gave to the people a written account of traditional beliefs. The mythology of the reigning house furnished the scriptures of Shintō, and established ideas linking together all the existing forms of ancestor-worship. All Shintō traditions were by these writings blended into one mythological history,—explained upon the basis of one legend. The whole mythology is contained in two books, of which English translations have been made. The oldest is entitled Ko-ji-ki, or "Records of Ancient Matters"; and it is supposed to have been compiled in the year 712 A.D. The other and much larger work is called Nihongi, "Chronicles of Nihon [Japan]," and dates from about 720 A.D. Both works profess to be histories; but a large portion of them is mythological, and either begins with a story of creation. They were compiled, mostly, from oral tradition we are told, by imperial order. It is said that a yet earlier work, dating from the seventh century, may have been drawn upon; but this has been lost. No great antiquity can, therefore, be claimed for the texts as they stand; but they contain traditions which must be very much older,—possibly thousands of years older. The Ko-ji-ki is said to have been written from the dictation of an old man of marvellous memory; and the Shintō theologian Hirata would have us believe that traditions thus preserved are especially trustworthy. "It is probable," he wrote, "that those ancient traditions, preserved for us by exercise of memory, have for that very reason come down to us in greater detail than if they had been recorded in documents. Besides, men must have had much stronger memories in the days before they acquired the habit of trusting to written characters for facts which they wished to remember,—as is shown at the present time in the case of the illiterate, who have to depend on memory alone." We must smile at Hirata's good faith in the changelessness of oral tradition; but I believe that folk-lorists would discover in the character of the older myths, intrinsic evidence of immense antiquity.—Chinese influence is discernible in both works; yet certain parts have a particular quality not to be found, I imagine, in anything Chinese,—a primeval artlessness, a weirdness, and a strangeness having nothing in common with other mythical literature. For example, we have, in the story of Izanagi, the world-maker, visiting the shades to recall his dead spouse, a myth that seems to be purely Japanese. The archaic naivete of the recital must impress anybody who studies the literal translation. I shall present only the substance of the legend, which has been recorded in a number of different versions:1—
1 See for these different versions Aston's translation of the Nihongi,
When the time came for the Fire-god, Kagu-Tsuchi, to be born, his mother, Izanami-no-Mikoto, was burnt, and suffered change, and departed. Then Izanagi-no-Mikoto, was wroth and said, "Oh! that I should have given my loved younger sister in exchange for a single child!" He crawled at her head and he crawled at her feet, weeping and lamenting; and the tears which he shed fell down and became a deity …. Thereafter Izanagi-no-Mikoto went after Izanami-no-Mikoto into the Land of Yomi, the world of the dead. Then Izanami-no-Mikoto, appearing still as she was when alive, lifted the curtain of the palace (of the dead), and came forth to meet him; and they talked together. And Izanagi-no-Mikoto said to her: "I have come because I sorrowed for thee, my lovely younger sister. O my lovely younger sister, the lands that I and thou were making together are not yet finished; therefore come back!" Then Izanami-no-Mikoto made answer, saying, "My august lord and husband, lamentable it is that thou didst not come sooner,—for now I have eaten of the cooking-range of Yomi. Nevertheless, as I am thus delightfully honoured by thine entry here, my lovely elder brother, I wish to return with thee to the living world. Now I go to discuss the matter with the gods of Yomi. Wait thou here, and look not upon me." So having spoken, she went back; and Izanagi waited for her. But she tarried so long within that he became impatient. Then, taking the wooden comb that he wore in the left bunch of his hair, he broke off a tooth from one end of the comb and lighted it, and went in to look for Izanami-no-Mikoto. But he saw her lying swollen and festering among worms; and eight kinds of Thunder-Gods sat upon her …. And Izanagi, being overawed by that sight, would have fled away; but Izanami rose up, crying: "Thou hast put me to shame! Why didst thou not observe that which I charged thee?… Thou hast seen my nakedness; now I will see thine!" And she bade the Ugly Females of Yomi to follow after him, and slay him; and the eight Thunders also pursued him, and Izanami herself pursued him …. Then Izanagi-no-Mikoto drew his sword, and flourished it behind him as he ran. But they followed close upon him. He took off his black headdress and flung it down; and it became changed into grapes; and while the Ugly Ones were eating the grapes, he gained upon them. But they followed quickly; and he then took his comb and cast it down, and it became changed into bamboo sprouts; and while the Ugly Ones were devouring the sprouts, he fled on until he reached the mouth of Yomi. Then taking a rock which it would have required the strength of a thousand men to lift, he blocked therewith the entrance as Izanami came up. And standing behind the rock, he began to pronounce the words of divorce. Then, from the other side of the rock, Izanami cried out to him, "My dear lord and master, if thou dost so, in one day will I strangle to death a thousand of thy people!" And Izanagi-no-Mikoto answered her, saying, "My beloved younger sister, if thou dost so, I will cause in one day to be born fifteen hundred …." But the deity Kukuri-hime-no-Kami then came, and spake to Izanami some word which she seemed to approve, and thereafter she vanished away ….
The strange mingling of pathos with nightmare-terror in this myth, of which I have not ventured to present all the startling naiveti, sufficiently proves its primitive character. It is a dream that some one really dreamed,—one of those bad dreams in which the figure of a person beloved becomes horribly transformed; and it has a particular interest as expressing that fear of death and of the dead informing all primitive ancestor-worship. The whole pathos and weirdness of the myth, the vague monstrosity of the fancies, the formal use of terms of endearment in the moment of uttermost loathing and fear,—all impress one as unmistakably Japanese. Several other myths scarcely less remarkable are to be found in the Ko-ji-ki and Nihongi; but they are mingled with legends of so light and graceful a kind that it is scarcely possible to believe these latter to have been imagined by the same race. The story of the magical jewels and the visit to the
sea-god's palace, for example, in the second book of the Nihongi, sounds oddly like an Indian fairy-tale; and it is not unlikely that the Ko-ji-ki and Nihongi both contain myths derived from various alien sources. At all events their mythical chapters present us with some curious problems which yet remain unsolved. Otherwise the books are dull reading, in spite of the light which they shed upon ancient customs and beliefs; and, generally speaking, Japanese mythology is unattractive. But to dwell here upon the mythology, at any length, is unnecessary; for its relation to Shintō can be summed up in the space of a single brief paragraph—
In the beginning neither force nor form was manifest; and the world was a shapeless mass that floated like a jelly-fish upon water. Then, in some way—we are not told how—earth and heaven became separated; dim gods appeared and disappeared; and at last there came into existence a male and a female deity, who gave birth and shape to things. By this pair, Izanagi and Izanami, were produced the islands of Japan, and the generations of the gods, and the deities of the Sun and Moon. The descendants of these creating deities, and of the gods whom they brought into being, were the eight thousand (or eighty thousand) myriads of gods worshipped by Shintō. Some went to dwell in the blue Plain of High Heaven; others remained on earth and became the ancestors of the Japanese race.
Such is the mythology of the Ko-ji-ki and the Nihongi, stated in the briefest possible way. At first it appears that there were two classes of gods recognized: Celestial and Terrestrial; and the old Shintō rituals (norito) maintain this distinction. But it is a curious fact that the celestial gods of this mythology do not represent celestial forces; and that the gods who are really identified with celestial phenomena are classed as terrestrial gods,—having been born or "produced" upon earth. The Sun and Moon, for example, are said to have been born in Japan,—though afterwards placed in heaven; the Sun-goddess, Ama-terasu-no-oho-Kami, having been produced from the left eye of Izanagi, and the Moon-god, Tsuki-yomi-no-Mikoto, having been produced from the right eye of Izanagi when,
after his visit to the under-world, he washed himself at the mouth of a river in the island of Tsukushi. The Shintō scholars of the eighteenth and nineteenth
centuries established some order in this chaos of fancies by denying all distinction between the Celestial and Terrestrial gods, except as regarded the accident of birth. They also denied the old distinction between the so-called Age of the Gods (Kami-yo), and the subsequent period of the Emperors. It was true, they said, that the early rulers of Japan were gods; but so were also the later rulers. The whole Imperial line, the "Sun's Succession," represented one unbroken descent from the Goddess of the Sun. Hirata wrote: "There exists no hard and fast line between the Age of the Gods and the present age—and there exists no justification whatever for drawing one, as the Nihongi does." Of course this position involved the doctrine of a divine descent for the whole race,—inasmuch as, according to the old mythology, the first Japanese were all descendants of gods,—and that doctrine Hirata boldly accepted. All the Japanese, he averred, were of divine origin, and for that reason superior to the people of all other countries. He even held that their divine descent could be proved without difficulty. These are his words: "The descendants of the gods who accompanied Ninigi-no-Mikoto [grandson of the Sun-goddess, and supposed founder of the Imperial house,]—as well as the offspring of the successive Mikados, who entered the ranks of the subjects of the Mikados, with the names of Taira, Minamoto, and so forth,—have gradually
increased and multiplied. Although numbers of Japanese cannot state with certainty from what gods they are descended, all of them have tribal names (kabane), which were originally bestowed on them by the Mikados; and those who make it their province to study genealogies can tell from a man's ordinary surname, who his remotest ancestor must have been." All the Japanese were gods in this sense; and their country was properly called the Land of the Gods,—Shinkoku or Kami-no-kuni. Are we to understand Hirata literally? I think so—but we must remember that there existed in feudal times large classes of people, outside of the classes officially recognized as forming the nation, who were not counted as Japanese, nor even as human beings: these were pariahs, and reckoned as little better than animals. Hirata probably referred to the four great classes only—samurai, farmers, artizans, and merchants. But even in that case what are we to think of his ascription of divinity to the race, in view of the moral and physical feebleness of human nature? The moral side of the question is answered by the Shintō theory of evil deities, "gods of crookedness," who were alleged to have "originated from the impurities contracted by Izanagi during his visit to the under-world." As for the physical weakness of men, that is explained by a legend of Ninigi-no-Mikoto, divine founder of the imperial house. The Goddess of Long Life, Iha-naga-hime (Rock-long-princess), was sent to him for wife; but he rejected her because of her ugliness; and that unwise proceeding brought about "the present shortness of the lives of men." Most mythologies ascribe vast duration to the lives of early patriarchs or rulers: the farther we go back into mythological history, the longer-lived are the sovereigns. To this general rule Japanese mythology presents no exception. The son of Ninigi-no-Mikoto is said to have lived five hundred and eighty years at his palace of Takachiho; but that, remarks Hirata, "was a short life compared with the lives of those who lived before him." Thereafter men's bodies declined in force; life gradually became shorter and shorter; yet in spite of all degeneration the Japanese still show traces of their divine origin. After death they enter into a higher divine condition, without, however, abandoning this world …. Such were Hirata's views. Accepting the Shintō theory of origins, this ascription of divinity to human nature proves less inconsistent than it appears at first sight; and the modern Shintōist may discover a germ of scientific truth in the doctrine which traces back the beginnings of life to the Sun.
More than any other Japanese writer, Hirata has enabled us to understand the hierarchy of Shintō mythology,—corresponding closely, as we might have expected, to the ancient ordination of Japanese society. In the lowermost ranks are the spirits of common people, worshipped only at the household shrine or at graves. Above these are the gentile gods or Ujigami,—ghosts of old rulers now worshipped as tutelar gods. All Ujigami, Hirata tells us, are under the control of the Great God of Izumo,—Oho-kuni-nushi-no-Kami,—and, "acting as his agents, they rule the fortunes of human beings before their birth, during their life, and
after their death." This means that the ordinary ghosts obey, in the world invisible, the commands of the clan-gods or tutelar deities; that the conditions of communal worship during life continue after death. The following extract from Hirata will be found of interest,—not only as showing the supposed relation of the individual to the Ujigami, but also as suggesting how the act of abandoning one's birthplace was formerly judged by common opinion:—
"When a person removes his residence, his original Ujigami has to make arrangements with the Ujigami of the place whither he transfers his abode. On such occasions it is proper to take leave of the old god, and to pay a visit to the temple of the new god as soon as possible after coming within his jurisdiction. The apparent reasons which a man imagines to have induced him to change his abode may be many; but the real reasons cannot be otherwise than that either he has offended his Ujigami, and is therefore expelled, or that the Ujigami of another place has negotiated his transfer …."1
1 Translated by Satow. The italics are mine.
It would thus appear that every person was supposed to be the subject, servant, or retainer of some Ujigami, both during life and after death.
There were, of course, various grades of these clan-gods, just as there were various grades of living rulers, lords of the soil. Above ordinary Ujigami ranked the deities worshipped in the chief Shintō temples of the various provinces, which temples were termed Ichi-no-miya, or temples of the first grade. These deities appear to have been in many cases spirits of princes or greater daimyo, formerly, ruling extensive districts; but all were not of this category. Among them were deities of elements or elemental forces,—Wind, Fire, and Sea,—deities also of longevity, of destiny, and of harvests,—clan-gods, perhaps, originally, though their real history had been long forgotten. But above all other Shintō divinities ranked the gods of the Imperial Cult,—the supposed ancestors of the Mikados.
Of the higher forms of Shintō worship, that of the imperial ancestors proper is the most important, being the State cult; but it is not the oldest. There are two supreme cults: that of the Sun-goddess, represented by the famous shrines of Isé; and the Izumo cult, represented by the great temple of Kitzuki. This Izumo temple is the centre of the more ancient cult. It is dedicated to Oho-kuni-nushi-no-Kami, first ruler of the Province of the Gods, and offspring of the brother of the Sun-goddess. Dispossessed of his realm in favour of the founder of the imperial dynasty, Oho-kuni-nushi-no-Kami became the ruler of the Unseen World,—that is to say the World of Ghosts. Unto his shadowy dominion the spirits of all men proceed after death; and he rules over all of the Ujigami. We may therefore term him the Emperor of the Dead. "You cannot hope," Hirata says, "to live more than a hundred years, under the most favourable circumstances; but as you will go to the Unseen Realm of Oho-kuni-nushi-no-Kami after death, and be subject to him, learn betimes to bow down before him." … That weird fancy expressed in the wonderful fragment by Coleridge, "The Wanderings of Cain," would therefore seem to have actually formed an article of ancient Shintō faith: "The Lord is God of the living only: the dead have another God." …
The God of the Living in Old Japan was, of course, the Mikado,—the deity incarnate, Arahito-gami,—and his palace was the national sanctuary, the Holy of Holies. Within the precincts of that palace was the Kashiko-Dokoro ("Place of Awe"), the private shrine of the Imperial Ancestors, where only the court could worship,—the public form of the same cult being maintained at Isé. But the Imperial House worshipped also by deputy (and still so worships) both at Kitzuki and Isé, and likewise at various other great sanctuaries. Formerly a great number of temples were maintained, or partly maintained, from the imperial revenues. All Shintō temples of importance used to be classed as greater and lesser shrines. There were 304 of the first rank, and 2828 of the second rank. But multitudes of temples were not included in this official classification, and depended upon local support. The recorded total of Shintō shrines to-day is upwards of 195,000.
We have thus—without counting the great Izumo cult of Oho-kuni-nushi-no-Kami—four classes of ancestor-worship: the domestic religion, the religion of the Ujigami, the worship at the chief shrines [Ichi-no-miya] of the several provinces,and the national cult at Isé. All these cults are now linked together by tradition; and the devout Shintōist worships the divinities of all, collectively, in his daily morning prayer. Occasionally he visits the chief shrine of his province; and he makes a pilgrimage to Isé if he can. Every Japanese is expected to visit the shrines of Isé once in his lifetime, or to send thither a deputy. Inhabitants of remote districts are not all able, of course, to make the pilgrimage; but there is no village which does not, at certain intervals, send pilgrims either to Kitzuki or to Isé on behalf of the community, the expense of such representation being defrayed by local subscription. And, furthermore, every Japanese can worship the supreme
divinities of Shintō in his own house, where upon a "god-shelf" (Kamidana) are tablets inscribed with the assurance of their divine protection,—holy charms obtained from the priests of Isé or of Kitzuki. In the case of the Isé cult, such tablets are commonly made from the wood of the holy shrines themselves, which, according to primal custom, must be rebuilt every twenty years,—the timber of the demolished structures being then cut into tablets for distribution throughout the country.
Another development of ancestor-worship—the cult of gods presiding over crafts and callings—deserves special study. Unfortunately we are as yet little informed upon the subject. Anciently this worship must have been more definitely ordered and maintained than it is now. Occupations were hereditary; artizans were grouped into guilds—perhaps we might even say castes;—and each guild or caste then probably had in patron-deity. In some cases the craft-gods may have been ancestors of Japanese craftsmen; in other cases they were perhaps of Korean or Chinese origin,—ancestral gods of immigrant artizans, who brought their cults with them to Japan. Not much is known about them. But it is tolerably safe to assume that most, if not all of the guilds, were at one time religiously organized, and that apprentices were adopted not only in a craft, but into a cult. There were corporations of weavers, potters, carpenters, arrow-makers, bow-makers, smiths, boat-builders, and other tradesmen; and the past religious organization of these is suggested by the fact that certain occupations assume a religious character even to-day. For example, the carpenter still builds according to Shintō tradition: he dons a priestly costume at a certain stage of the work, performs rites, and chants invocations, and places the new house under the protection of the gods. But the occupation of the swordsmith was in old days the most sacred of crafts: he worked in priestly garb, and practised Shintō) rites of purification while engaged in the making of a good blade. Before his smithy was then suspended the sacred rope of rice-straw (shime-nawa), which is the oldest symbol of Shintō: none even of his family might enter there, or speak to him; and he ate only of
food cooked with holy fire.
The 195,000 shrines of Shintō represent, however, more than clan-cults or guild-cults or national-cults …. Many are dedicated to different spirits of the same god; for Shintō holds that the spirit of either a man or a god may divide itself into several spirits, each with a different character. Such separated spirits are called waka-mi-tama ("august-divided-spirits"). Thus the spirit of the Goddess of Food, Toyo-ué-bime, separated itself into the God of Trees, Kukunochi-no-Kami, and
into the Goddess of Grasses, Kayanu-himé-no-Kami. Gods and men were supposed to have also a Rough Spirit and a Gentle Spirit; and Hirata remarks that the Rough Spirit of Oho-kuni-nushi-no-Kami was worshipped at one temple, and his Gentle Spirit at another.1… Also we have to remember that great numbers of
Ujigami temples are dedicated to the same divinity. These duplications or multiplications are again offset by the fact that in some of the principal temples a multitude of different deities are enshrined. Thus the number of Shintō temples in actual existence affords no indication whatever of the actual number of gods worshipped, nor of the variety of their cults. Almost every deity mentioned in the Ko-ji-ki or Nihongi has a shrine somewhere; and hundreds of others—including many later apotheoses—have their temples. Numbers of temples have been dedicated, for example, to historical personages,—to spirits of great ministers, captains, rulers, scholars, heroes, and statesmen. The famous minister of the Empress Jingo, Takeno-uji-no-Sukune,—who served under six successive sovereigns, and lived to the age of three hundred years,—is now invoked in many a temple as a giver of long life and great wisdom. The spirit of Sugiwara-no-Michizané, once minister to the Emperor Daigo, is worshipped as the god of calligraphy, under the name of Tenjin, or Temmangu: children everywhere offer to him the first examples of their handwriting, and deposit in receptacles, placed before his shrine, their worn-out writing-brushes. The Soga brothers, victims and heroes of a famous twelfth-century tragedy, have become gods to whom people pray for the maintenance of fraternal harmony. Kato Kiyomasa, the determined enemy of Jesuit Christianity, and Hideyoshi's greatest captain, has been apotheosized both by Buddhism and by Shintō. Iyeyasu is worshipped under the appellation of Toshogu. In fact most of the great men of Japanese history have had temples erected to them; and the spirits of the daimyo were, in former years, regularly worshipped by the subjects of their descendants and successors.
1 Even men had the Rough and the Gentle Spirit; but a god had three distinct spirits,—the Rough, the Gentle, and the Bestowing,—respectively termed Ara-mi-tama, Nigi-mi-tama, and Saki-mi-tama.—[See Satow's Revival of Pure Shintau.]
Besides temples to deities presiding over industries and agriculture,—or deities especially invoked by the peasants, such as the goddess of silkworms, the goddess of rice, the gods of wind and weather,—there are to be found in almost every part of the country what I may call propitiatory temples. These latter Shintō shrines have been erected by way of compensation to spirits of persons who suffered great injustice or misfortune. In these cases the worship assumes a very curious character, the worshipper always appealing for protection against the same kind of calamity or trouble as that from which the apotheosized person suffered during life. In Izumo, for example, I found a temple dedicated to the spirit of a woman, once a prince's favourite. She had been driven to suicide by the intrigues of jealous rivals. The story is that she had very beautiful hair; but it was not quite black, and her enemies used to reproach her with its color. Now mothers having
children with brownish hair pray to her that the brown may be changed to black; and offerings are made to her of tresses of hair and Tokyo coloured prints, for
it is still remembered that she was fond of such prints. In the same province there is a shrine erected to the spirit of a young wife, who pined away for grief at the absence of her lord. She used to climb a hill to watch for his return, and the shrine was built upon the place where she waited; and wives pray there to her for the safe return of absent husbands …. An almost similar kind of propitiatory worship is practised in cemeteries. Public pity seeks to apotheosize those urged to suicide by cruelty, or those executed for offences which, although legally criminal, were inspired by patriotic or other motives commanding sympathy. Before their graves offerings are laid and prayers are murmured. Spirits of unhappy lovers are commonly invoked by young people who suffer from the same cause …. And, among other forms of propitiatory worship I must mention the old custom of erecting small shrines to spirits of animals,—chiefly domestic animals,—either in recognition of dumb service rendered and ill-rewarded, or as a compensation for pain unjustly inflicted.
Yet another class of tutelar divinities remains to be noticed,—those who dwell within or about the houses of men. Some are mentioned in the old mythology, and are probably developments of Japanese ancestor-worship; some are of alien origin; some do not appear to have any temples; and some represent little more than what is called Animism. This class of divinities corresponds rather to the Roman dii genitales than to the Greek δαίμονες. Suijin-Sarna, the God of Wells; Kojin, the God of the Cooking-range (in almost every kitchen there is either a tiny shrine for him, or a written charm bearing his name); the gods of the Cauldron and Saucepan, Kudo-no-Kami and Kobe-no-Kami (anciently called Okitsuhiko and Okitsuhime); the Master of Ponds, Ike-no-Nushi, supposed to make apparition
in the form of a serpent; the Goddess of the Rice-pot, O-Kama-Sama; the Gods of the Latrina, who first taught men how to fertilize their fields (these are
commonly represented by little figures of paper, having the forms of a man and a woman, but faceless); the Gods of Wood and Fire and Metal; the Gods likewise
of Gardens, Fields, Scarecrows, Bridges, Hills, Woods, and Streams; and also the Spirits of Trees (for Japanese mythology has its dryads): most of these are
undoubtedly of Shintō. On the other hand, we find the roads under the protection of Buddhist deities chiefly. I have not been able to learn anything regarding gods of boundaries,—termes, as the Latins called them; and one sees only images of the Buddhas at the limits of village territories. But in almost every garden, on the north side, there is a little Shintō shrine, facing what is called the Ki-Mon, or "Demon-Gate,"—that is to say, the direction from which, according to Chinese teaching, all evils come; and these little shrines, dedicated to various Shintō deities, are supposed to protect the home from evil spirits. The belief in the Ki-Mon is obviously a Chinese importation. One may doubt, however, if Chinese influence alone developed the belief that every part of a house,—every beam of it,—and every domestic utensil has its invisible guardian. Considering this belief, it is not surprising that the building of a house—unless the house be in foreign style—is still a religious act, and that the functions of a master-builder include those of a priest.
This brings us to the subject of Animism. (I doubt whether any evolutionist of the contemporary school holds to the old-fashioned notion that animism preceded ancestor-worship,—a theory involving the assumption that belief in the spirits of inanimate objects was evolved before the idea of a human ghost had yet been developed.) In Japan it is now as difficult to draw the line between animistic beliefs and the lowest forms of Shintō, as to establish a demarcation between the vegetable and the animal worlds; but the earliest Shintō literature gives no evidence of such a developed animism as that now existing. Probably the development was gradual, and largely influenced by Chinese beliefs. Still, we read in the Ko-ji-ki of "evil gods who glittered like fireflies or were disorderly as mayflies," and of "demons who made rocks, and stumps of trees, and the foam of the green waters to speak,"—showing that animistic or fetichistic notions were prevalent to some extent before the period of Chinese influence. And it is significant that where animism is associated with persistent worship (as in the matter of the reverence paid to strangely shaped stones or trees), the form of the worship is, in most cases, Shintō. Before such objects there is usually to be seen the model of a Shintō gateway,—torii…. With the development of animism, under Chinese and Korean influence, the man of Old Japan found himself truly in a world of spirits and demons. They spoke to him in the sound of tides and of cataracts in the moaning of wind and the whispers of leafage, in the crying of birds, and the trilling of insects, in all the voices of nature. For him all visible motion—whether of waves or grasses or shifting mist or drifting cloud—was ghostly; and the never moving rocks—nay, the very stones by the wayside—were informed with viewless and awful being.
本日より、茅野蕭々(ちのしょうしょう)訳のライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke 一八七五年~一九二六年)の詩をランダムに電子化する。
底本は二〇〇八年岩波文庫刊茅野蕭々訳「リルケ詩抄」(新字旧仮名遣)を用いたが、私のポリシーに従い、漢字を恣意的に正字化した。
訳者茅野蕭々(明治一六(一八八三)年~昭和二一(一九四六)年)は本名儀太郎、ドイツ文学者で詩人。長野県諏訪郡上諏訪村(現在の諏訪市)生まれ。東京帝国大学独文科卒。昭和二(一九二七)年に刊行された「リルケ詩抄」はリルケの詩の纏まった邦訳詩集としては本邦初のものであった(底本は、原則、その「リルケ詩抄」の再現を基本方針としながら、後の昭和一四(一九三九)年に茅野が刊行した「リルケ詩集」を校合し、明確な誤字は訂正、さらに各詩の異同校注一覧が附されてある、非常に優れたテクストである)。死の前年、東京大空襲に遇い、顔面に火傷を負って翌年、失意のうちに脳溢血で急死している。言わずもがな、原作者も訳者もパブリック・ドメインであり、恣意的正字化をしてランダムに示すことで、底本の編集権を侵害しない(そもそも編集権は一冊丸ごと同じものを無断で刊行しない限り、侵害することはあり得ないと私は理解している)。
詩題のないものは一行目を( )で仮題として出し、単発で電子化するので、「リルケ 茅野蕭々譯」を附した。
(私はもう一度お前を見たい。)
リルケ 茅野蕭々譯
私はもう一度お前を見たい。
古い菩提樹の並木のある庭苑よ。
さうして一番もの靜かな女と
神聖な池へ行きたい。
輝く白鳥らは誇らしげな容姿で
滑らかに光る水面をそつとすべり、
沈むだ町の傳説のやうに、
水底から浮ぶ蓮の花。
庭には私たちばかり、
そこには花は子供等のやうに立ち、
私たちは微笑み、耳傾けて待つてゐる。
そして互に訊ねない、誰をとは……
斯樣な次第で――出雲に於ける大國主神の大祭祀は數に入れないとして――祖先禮拜に四階級がある、家族の宗敎、氏神の宗敎、諸地方の主なる神社(一の宮)に於ける禮拜、及び伊勢に於ける國家的祭祀がそれである。これ等の祭祀は今や傳統に依つて一緖に結合されて居る、そして熱心な神道家は、すべての神々を一緖にして、每朝の祈禱の內にそれを禮拜する。さういふ神道家は、折々その地方の主なる神社に參詣する、そして出來る事ならば伊勢まて巡禮をする。日本人はみな生涯一度は伊勢の神宮に參詣するか、若しくはその代理を送るべきものとされて居る。無論遠隔の地に住んで居るものは、誰れもかれもこの禮拜をなしうるとは考へられない、併しいづれの村でも或る期間に、その地方の爲めに杵築若しくは伊勢へ巡拜を出さない處はない――恁ういふ代表の費用は、その地方の寄附金に依つて支拂はれる。なほ進んで、日本人はみな神道の高い神々を自分の家て禮拜してうるのである、則ちその家には神棚の上に、神の守護の保證を記した板牌が置かれてあるのである――それは伊勢或は杵築の神官から得た護符である。伊勢の祭祀の場合、この板牌は聖い神社そのものの木材から通例拵へられるのであつて、その神社は古くからの慣習に依り、二十年每に再建される事になつて居るのである――則ちその壞された建物の木材が切られて、板牌になり、全國に分布されるのである。
[やぶちゃん注:「板牌」「ばんはい」と音読みしているか。しかし、通常、これは歴史学では仏教の板状の石塔婆(いしとうば)を指す語であるから、違和感があり、ここは「御札」とすべきである。平井呈一氏も『お札』と訳しておられる。]
今一つの祖先禮拜の發達――仕事及び職業を主宰する神々の祭祀――は特別な硏究を値する。不幸にしてこの問題に就いて吾々の知る處は甚だ少ない。古代にあつては、この禮拜は今日よりも遙かに正確に定められ、行はれて居たに違ひない。職業は父子相傳的で、職人は、同業組合なるものに纏められて居た――恐らくそれは階級と云つても差支ないかも知れない、そして各組合若しくは階級は、多分その守り神をもつて居たに相違ない。或る場合には職業の神は、日本の職人の祖先であつたかも知れない、また或る場合には、それが朝鮮或は支那起原のものであつたらう――それは日本へその職業をもつて來た移住の職人の祖先なる神々である。それ等の事に就いて知られて居る處は多くない。併し職業組合のすべてではないとしも、その大抵は、或る時代にあつては、宗敎的の組織をもつて居り、その徒弟はただに職業の內に迎へ入れられたのみならず、その神を祭祀するやうにされたのであつた。組合には織工、陶器工、大工、箭製作者、弓製作者、鍛冶工、船大工、その他の職人の組合があつて、これ等が過去に於て、宗敎組織をもつて居たといふ事は、或る種の職業は、今日でも宗敎の性質をもつて居るといふ事實に依つて思ひ及ぼされる。たとへば大工は今でも神道の傳統に從つて家を建てる、則ち大工はその仕事が成る程度に達すると、神官の衣をまとひ、儀式を行ひ、祈禱を捧げ、かくて新しい家を神々の保護の下に置く。併し刀鍛冶の職業は、昔にあつては職業中の尤も神聖なるものであつた、刀鍛冶は神官の衣を着て仕事をし、立派な刀身を作つて居る間は、神道の齋戒の式を行ふのである。その鍛冶場の前に、その時藁の神聖な網(締繩)が下げられる、これは神道の最古の象徴てある、その時はその家族の何人たりと島も、その內に入り、また鍛冶工に話しかける事を許されない、そしてその當人は聖火をもつて煮炊きされた食物の外喰へないのである。
[やぶちゃん注:「箭」「や」と訓じておく。]
神道の十九萬五千の神社は、併しながら氏族の祭祀若しくは職業組合の祭祀、或は國家の祭祀等より以上のものを代表して居る、その多くはい同じ神の異つた精靈に捧げられたものである、といふのは神道では、人間の靈にしても、神の靈にしても、それが幾種かの靈に分かたれ、その一々はみな別々の性質をもつて居ると說くからである。恁ういふ分かれた靈は『分魂』August-divided-spirits と呼ばれて居る。たとへば食物の女神、豐受姬神の靈は、分かれて樹木の神、久久能智神と、草の女神、鹿屋野比賣神のなかに入つたとされて居る。註神も人間も、また荒い靈と、穩かな靈とを、もつて居るとされて居た。それで平田は大國主神の荒い靈は甲の神社に於て禮拜され、その穩かな靈は別の神社に於て禮拜されたと云つて居る……。吾々はまた氏神の社の澤山が、同じ一つの神に捧げられて居る事を記憶して置かなければならない。恁ういふ重複、若しくは增加は、また或る主なる神社に於て澤山の異つた神々が、一緖に祭られてあるといふ事實に依つて、入れ合はせがつけられて居る。そんなわけであるから實際にある神道の神社の數は、必らずしも禮拜されて居る神々の實數を示すものでもなければ、その祭祀の種類を顯はすものでもない。『古事記』或は『日本紀』に記されてある神は、いづれも何處かに、その神社がある、そしてその他の數百の神も――後年の多くの奉祭をも入れて――その神社をもつて居る。たとへば澤山の神社に歷史上の人物――偉大なる大臣、將軍、君主、學者、勇士竝びに政治家の靈に捧げられて居た。たとへば神功皇后の有名な大臣、武內宿禰――六代の君主に仕へ、三百年の齡を過ごした人――は今や多くの神社に於て、長命と大知識とを與へる神として祈願されて居る。嘗て醍醐天皇の大臣てあつた菅原道眞の靈は、天神若しくは天滿宮の名の下に、文字の神として祭られて居る、子供達は何處でも、その書いた文字の一番良いものを、この神に捧げる。そして自分の使ひふるした筆を、その社の前に置かれてある入れものの中に入れる。曾我兄弟は第十二世紀の有名な悲劇の犧牲であり、勇士であるが、この兄弟は神となり、人々は兄弟の仲をよくする爲にそれに祈禱をする。キリスト敎のジェジュイト派に對する强烈な敵であり、秀吉の有力な將軍なる加藤淸正は、佛敎と神道との兩方から神として祭られて居る。又家康は東照宮の名の下に禮拜されて居る。事實日本の歷史上の大人物の多くは、そのために大抵神社をたてられて居る。そして以前には、大名の靈は、必らずその子孫竝びに後繼者の臣下に依つて禮拜されて居た。
註 人間も荒い靈と穩かな靈とをもつ
て居た。併し神は三つの異つた靈――
荒い靈、穩かな靈、授けをする靈をも
つて居た、――それは荒御靈、よき御
靈、幸御靈と云はれて居る。――サト
ウ氏の神道の復活 Satow’s “The revival
of pure Shintau”を見よ。
[やぶちゃん注:「『分魂』August-divided-spirits」平井呈一氏は『ワカミタマ(分御霊)』と訳しておられる。それを支持する。
「豐受姬神」「とようけのかみ」。ウィキの「トヨウケビメ」によれば、『豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神として知られている』。「古事記」では「豐宇氣毘賣神」と表記される(「日本書紀」には登場しない)。別称を「登由宇氣神」「大物忌神」「とよひるめ」等とする。「古事記」では『伊弉冉尊(いざなみ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とし、天孫降臨の後、外宮の度相(わたらい)に鎮座したと記されている』。『神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である』が、『後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂命)(うかのみたま)と習合し、同一視されるようになった』。伊勢神宮外宮の社伝では、『雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたとされ』るので、『元々は丹波の神ということになる』。「丹後国風土記逸文」には、『奈具社の縁起として次のような話が掲載されている』。『丹波郡比治里の比治真奈井で天女』八人が『水浴をしていたが』、その中の一人が『老夫婦に羽衣を隠されて天に帰れなくなり、しばらくその老夫婦の家に住んでいたが、十数年後に家を追い出され、あちこち漂泊した末に竹野郡船木郷奈具の村に至ってそこに鎮まった』が、その『天女が豊宇賀能売神(とようかのめ、トヨウケビメ)であるという』。なお、「摂津国風土記」』逸文では、「止與宇可乃賣神」は、『丹波国に遷座する前は、摂津国稲倉山(所在不明)に居たとも記されている』とし、『また、豊受大神の荒魂(あらみたま)を祀る宮を多賀宮(高宮)という』という。『外宮の神職である度会家行が起こした伊勢神道(度会神道)では、豊受大神は天之御中主神・国常立神と同神であって、この世に最初に現れた始源神であり、豊受大神を祀る外宮は内宮よりも立場が上であるとしている』。『丹波、但馬の地名の起源として、豊受大神が丹波で稲作をはじめられた半月形の月の輪田、籾種をつけた清水戸(せいすいど)が京丹後市峰山町(比沼麻奈為神社がある)にあることから、その地が田庭と呼ばれ、田場、丹波へと変遷したという説がある。 付近の久次嶽中腹には大神の杜があり、天の真名井の跡とされる穂井の段(ほいのだん)がある。また、神社の縁起は、大饗石(おおみあえいし)と呼ばれる直方体のイワクラであると言われている』。『福知山市大江町には元伊勢豊受大神社があ』もと、『伊勢内宮より南方の船岡山に鎮座する社で、藤原氏の流れである河田氏が神職を代々継承している。崇神天皇の御世、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)が天照大神の御杖代として各地を回るときに、最初の遷座地が丹後であった。その比定地はいくつか存する』。『伊勢神宮外宮(三重県伊勢市)、比沼麻奈為神社(京都府京丹後市)、奈具社(京都府京丹後市)、籠神社(京都府宮津市)奥宮天真奈井神社で主祭神とされているほか』、『神明神社の多くや』、『多くの神社の境内社で天照大神とともに祀られている。また、稲荷神とトヨウケビメを祀っている稲荷神社もある』とする。
「久久能智神」「くくのちのかみ」。ウィキの「ククノチ」によれば、『日本神話に登場する木の神で』、「古事記」では「久久能智神」、「日本書紀」では「句句廼馳」と表記するとあり、『神産みにおいて、イザナギ・イザナミの間に産まれた神である』とする。「古事記」に『おいてはその次に山の神大山津見神(オオヤマツミ)、野の神鹿屋野比売(カヤノヒメ)が産まれて』おり、「日本書紀」『本文では山・川・海の次に「木の精ククノチ」として産まれており、その次に草の精・野の精の草野姫(カヤノヒメ)が産まれている。第六の一書では「木の神たちを句句廼馳という」と記述され、木の神々の総称となっている』。『神名の「クク」は、茎と同根で木が真っ直に立ち伸びる様を形容する言葉とも、木木(キキ・キギ)が転じてクク・クグになったものともいう。「ノ」は助詞の「の」、「チ」はカグツチなどと同じく神霊を意味する接尾詞であるので、「ククノチ」は「茎の神」「木の神」という意味になる』。『公智神社(兵庫県西宮市)の主祭神になっているほか、久久比神社(兵庫県豊岡市)には全国唯一のコウノトリ伝説のある神社もある。木魂神社という名のククノチ神を祭る神社も複数ある。樽前山神社(北海道苫小牧市)では原野の神・開拓の神として大山津見神・鹿屋野比売神とともに祀られている。志等美神社(三重県伊勢市)では林野の神であると同時に水の神とされる』。「延喜式」の「祝詞」には、『屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)の名が見え、ククノチと同神と見られる。屋船久久遅命は上棟式の祭神の一つとされている』とある。
「鹿屋野比賣神」「かやのひめのかみ」。ウィキの「カヤノヒメ」によれば、「カヤヌヒメ」とも読まれ、「古事記」ではこの名で出、「日本書紀」では「草祖草野姫」『(くさのおやかやのひめ。草祖は草の祖神の意味)と表記し』、古事記では別名が野椎神『(のづちのかみ)であると記している』。『神産みにおいて伊弉諾尊 (いざなぎ)・伊弉冉尊(いざなみ)の間に生まれ』「古事記」では、『山の神である大山祇神との間に』、四対八柱の『神を生んだ。神名の「カヤ」は萱のことである』。『萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった』。『別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である』とする。『樽前山神社(北海道苫小牧市)では山の神・大山祇神(おおややまつみ)、木の神・句句廼馳(くくのち)と共に祀られている』。『萱津神社(愛知県あま市)では日本唯一の漬物の神として祀られており、タバコの葉の生産地では煙草の神として信仰されている』。清野井庭(きよのいば)神社『(三重県伊勢市)では灌漑用水の神、別説では屋船の神の分霊であるという』とある。
「荒い靈」「荒御靈(あらみたま)」。
「穩かな靈」「和御靈(にぎみたま)」。
「入れ合はせがつけられて居る」信仰体系の中での、一見、神の重複性による矛盾の辻褄合わせがつけられている、の意。
「武內宿禰」「たけのうちのすくね」或いは「たけしうちのすくね」。古代の大和朝廷初期に活躍したとされる伝承上の人物。記紀によれば,孝元天皇の子孫で日本最初の大臣とし、神功皇后の新羅征伐に従軍、その後、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に仕え、二百数十年間に亙って官にあったという、とんでもない長寿の官僚である。紀氏・巨勢(こせ)氏・平群(へぐり)氏・葛城(かつらぎ)氏・蘇我氏など、中央有力豪族の祖ともされている。
「齡」「よはひ」。
「ジェジュイト派」カトリック教会の男子修道会イエズス会(ラテン語: Societatis Iesu)のこと。一五三四年にイグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらによって創設され、世界各地への宣教に務め、日本に初めてキリスト教を齎した。「加藤淸正」は熱心な日蓮宗信者で、関ヶ原合戦によって、切支丹大名小西行長が領していた南肥後の領主に鞍替えとなるや、領内の切支丹に日蓮宗への改宗を強制、従わぬ者に対しては容赦ない弾圧を加えたことで知られる。
「サトウ氏の神道の復活 Satow’s “The revival of pure Shintau”」前に注した、イギリスの外交官でイギリスに於ける日本学の基礎を築いたサー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow 一八四三年~一九二九年)が一八七五年に『日本アジア協会』で口頭発表し、一八八二年に『日本アジア誌』誌上で論文の形とした“ The revival of pure Shin-tau ”(「純粋神道の復活」)のこと。]
[やぶちゃん注:本テクストは、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが890000アクセスを突破した記念として公開する。【2016年12月17日 藪野直史】]
十三夜
一 家 の 外
もしもし、誰もゐませんか。ちよつと起きてくれませんか。誰もゐないのですか。……困つたな。どうも、誰かゐるやうに思はれるのだがなあ。さつき、話し聲や物音がしたやうに思つたのだが、行きには點(つ)いてゐた灯(ひ)も消えてしまつてゐる。寢てしまつたのかな?……
もしもし、もしもし、留守なのですか。……返事がない。……すつかり、ぐるりは戸じまりがしてあるし、すき間はあるが、中はまつ暗なので、なにもわからない。狐や狸のやうに、どんな小さな穴からでも風のやうに忍びこむことはできないし、はて、どうしたものかな。もう一ペん引つかへして、探してみようかしら。……だが、もう足がしびれるくらゐ、さうだ、三十ぺん以上も往復したのだから、いくら俺の眼がわるいといつたつて、こんな明るい月の晩に、見そこなふ筈はない。やつぱり、この家の人間が拾つたものにちがひない。この往還にはこの家一軒しかないのだし、時間からいつても、誰も通らなかつたのだから、さうとしか考へやうがない。この家にはたしか、四十くらゐの樵夫(きこり)夫婦と、六つか七つの女の子が一人ゐたやうに思つたのだが、……
もしもし、聞えないのですか。すみませんが、ちよつと起きてくれませんか。ちよつとおたづねしたいことがあるのですが、……わたくしはこの山の水天宮の池にゐる河童です。あなたがたもわたくしのことは聞いたことがあると思ひます。なにもいたづらをしようの、危害を加へようのといふのではありません。ほんとに困つてゐるので、おたづねやら、お願ひやらにまかりでたものです。
わたくしは、今夜、この麓の目痛川(めいたがは)の溜(たまり)でひらかれた仲間の集合に行つたのです。十三夜の月の晩に、毎月もよはされる例會なのですが、今夜もたそがれどきから、この地方一帶の仲間が百匹ちかくも集つたのです。なぜ十三夜の晩にかぎつて集るやうになつたかといふことは、實はわたしもよくは知りません。なんでも、昔、やはり水天宮の池にゐましたわたくしの祖先が、どうしたはずみか、崖のうへから落ちて皿を割る事件が起ったことがあるさうです。河童にとつて頭の皿ほど大切なものはなく、水分が減つてさへも氣力が衰へて病になることがあるのですから、皿が割れることは、生命にかかはるやうな大事でありまして、ただちに附近の仲間たちが召集されることになりました。何故なら、わたくしの祖先は、若いころ、筑後川にゐます河童の頭目九千坊の膝下にゐまして、直接の薫陶をうけ、且つは阿蘇の那羅延坊の覺えもめでたい出色の者であつたために、ここに來ましてからは、由緒ある水天宮の宮附として、ここらあたりの河童の見かじめをしてをりましたので、臨終にあたつて、いひ殘さねばならぬことがあつたからです。そのときもわたくしの祖先の遺言は十六箇條にわたる綿密なもので、河童の生きてゆく根本の精神について、生活の方法について、あるひは、眞實について、歷史について、藝術について、科學について、戀愛について、道德について、さまざまの示唆(しさ)にあふれた格言に滿ちて居りましたが、それらの言葉も精神も、いまは朦朧としたものになつたやうに思はれます。あきらかに文字に書きしるされて殘つてゐるにもかかはらず、勝手な解繹を加へたり、故意に歪曲(わいきよく)したり、自分に都合のわるい部分はかへりみず、都合のよいところのみをとりあげたり、或ひは全的に信奉するものがあるかと思ふと、全然否定するものがあり、まつたくそんなもののあることすら知らないものさへあるやうになつたからです。これこそは古典の持つ運命かも知れませんが、いまの世に生きるものたちの輕薄さを裏書きしてゐると思ひ、わたくしはときどき、もう古ぼけて苔の蒸した祖先の遺訓をとりだしては淚する日もあるわけです。わたくしはこれでも水天宮の池を繼承した名門の裔(すゑ)なのでありますが、その祖先が死の床で同族を召集して教へを垂れたのが十三夜の月の晩であつたとかいふことで、それ以來、この夜が、今日まで、仲間の月例集會の日となつたといひ傳へられてゐます。しかしながら、いまはその夜の持つてゐた嚴肅な意義といふものはまつたく忘れられて、ただ、習慣に過ぎなくなり、集合の席での語といへば、ほとんど、祖先の精神とは似ても似つかぬ、低俗で、賤しく、且つは、愚劣で、卑猥な話ばかりなのであります。ときには、聞くに足る話も出ますが、それはまるで問題にされず、多數を占める現世的な俗論が壓倒してしまつて、集會はいつでも、猥雜な笑ひで終つてしまふことが多いのであります。
今夜など、わたくしは仲間たらからさんざんに嘲笑されて、ほとんど憤りと悲しみとで息がとまらんばかりの思ひをしました。順當にいけば、もともと名門の裔であるわたくしがこの地方の見かじめをしなくてはならぬのでありますが、生まれつき氣の弱い、ひとをやつつけたり、おとしいれたり、ごまかして自分だけよいことをしたりするやうな政治的手腕にまつたく缺けてゐるわたくしには、さまざまの性向を持つた百匹もの部下を統御してゆく能力はとてもありませんので、いまは、わたくしの伯父にあたる鎭守(ちんじゆ)の河童に、その代役を賴んであるのです。
この伯父は恰幅(かつぷく)が立派で、押しだしでまづひとを壓するのですが、また鼻孔の太いのと、聲の大きいのとで、仲間うちで重きをなして居りました。その伯父から、わたくしは今夜ひどい侮辱を受けました。以前、わたくしが見かじめ役をたれか親戚のものに代つてもらひたいといふことを申し出たときには、この伯父は毎夜のごとく、水天宮の池へ、いろいろわたくしの好きさうな土産ものなどをしつらへて、やつて參りまして、猫なで聲をだして、頭をペコペコ下げ、自分を代役に指名してくれと、哀願したものです。權力に對する魅力はたれも押へがたいものがあるとみえます。そのほかの親類のなかにもわたくしの小庵をおとづれるものがありましたけれども、その伯父のやうに執拗で卑屈なものはありませんでした。わたくしは權力などにはすこしも未練はありませんでしたから、もつけの幸として、この伯父に代役を指名したのです。うるさいと同時に、また、なにか脅迫めいたものを感じて怖くもなつたからです。その伯父は正式にその役に就任しますと、態度はがらりと一變して、橫暴のかぎりをつくすやうになりました。
伯父は、今夜、仲間たちの面前で、わたくしを仲間の面よごしだといつて罵倒しました。……恥しい話ですが、わたくしはこの半月ほど前に、結婚をしまして、……いや、それが、その結婚といふのが、實は問題となつたのですが、……さあ、どういつたらいいか、わたくしは立派な結婚だと思つてゐるのに、伯父はそれを結婚ではないといふのです。さういへば、べつにことごとしく親戚にひろめもせず、身内にも知らないものもゐるくらゐでしたから、その點はわたくしにも落度があつたのかも知れませんが、相談をすれば反對するにきまつてゐますし、……といふのが、白狀しなければわからないのですけれども、わたくしはすこし前から、ひとりの娘の河童と知りあひになつてゐまして、そして決心をして、たれにも無斷で、その娘と結婚してしまつたわけです。二人の愛情の純粹さ淸さについては、たれに憚かるところもなかつたし、戀愛の眞實と自由とについては、祖先の憲章にいささかも悖(もと)らない確信も持つてゐたからです。それ故に、水天宮の池底のわたくしの新婚の家庭はまことにささやかではありますが、幸福に滿ちたものであつたのです。
ところが、そのことを伯父にいはせますと、もつてのほかの氣ちがひ沙汰で、名門の榮譽を冒瀆し、德義を無視した靑年の客氣にすぎない。素性(すじやう)もさだかでない女を神聖な水天宮の棲家(すみか)にひきいれるのは神をおそれぬ危險思想である。且つは、親戚一統の承認を輕ないのは正式の結婚とは認められず、單なる野合にすぎない、といふことになるのです。さうして、伯父は滿座のなかで、例の大聲を發し、巨大な鼻孔をぶうぶう鳴らし、さういふ淫蕩なる不良靑年を仲間から出したのは心外であるから、その女をただちに離別するか、自分がこの土地から退去するか、どちらかを選べと、くりかへしくりかへし、わたしを面詰するのでした。座中にはなだめるものもありましたが、伯父の劍幕に辟易(へきえき)して沈默し、多くの仲間は伯父に阿諛(あゆ)して、ともどもにわたくしを嘲笑するのでした。
わたくしは座にゐたたまれなくなつて、目痛川の溜をとびだしました。わたくしの背後でどつと笑ひ聲がおこりましたが、わたくしはもう憤りでぶるぶる顫へながら、まつすぐに水天宮の池へ急ぎました。十三夜の月が晝間のやうに明るい道を急ぎながら、嘗て、この十三夜の月の晩、祖先が死の嚴肅のなかにあつて遺した教訓が、このやうにも完全に忘れ去られてゐることにおどろき、憤りのなかにはてもない悲しみとさびしさがわいて來ました。さうして、複雜な感慨にひたりながら、ただ、池底で待つてゐる新妻のことを考へ、なにはおいても彼女に會ふことによつて一切が償はれるのだと、ほとんど走るやうに、道を急いだのです。……ああ、そのわたくしの興奮が、つひに、わたくしに途方もない災ひをもたらしたのです。
もしもし、聞いてゐますか。
わたくしはほとんど混亂してゐたために、大變な失策をいたしました。どこかに、池へかへる鍵を落してしまつたのです。わたくしたちには傳説のきびしい掟があります。その掟はつねにわたくしたちの生命であり、宿命の規律であり、なにものをもつてしても犯すことができません。水天宮の池底にかへるためには、わたくしはその鍵を持つてゐなくてはならないのです。いつも腰の袋に入れてゐて、落すなどといふことはないわけなのですが、きつと、興奮して急ぎすぎたために、知らぬ間にとびでたものと思はれます。形はただ丸い平凡な小石で、わたくしには絶對になくてはならぬものですが、……あなたがた人間にはなんの役にも立たぬものです。もし、あなたがたが拾つて居られるものなら、返して下さいませんか。どんなお禮でもいたします。
わたくしは鍵を落したことを知ると、氣も動顚(どうてん)せんばかりでした。それでも、この明るい月夜ですから、まもなく見つからうと、この往還を必死で探しました。そして、たうとう、三十ペん以上も往復し、へとへとになりました。足もしびれてしまひました。いくらわたくしの眼が惡くても、こんなに明るいのですから、あれば見つからぬわけはありません。ないのです。この道には落ちてゐないのです。いや、一度は落ちたかも知れないが、誰かが拾つたのです。さうにちがひありません。さうとすれば、あなたがたよりほかにはありません。わたくしは血眼で道ばかり探してゐたので、あまりよくは氣づきませんでしたが、ともかく、麓から池までの間には、この家一軒しかありません。はじめは戸もあいてゐたし、燈もともつてゐたやうに思ひます。誰かゐる氣配も感じました。それが、いまはすつかり戸じまりができ、灯も消えてゐます。家のなかは眞暗になつてゐますが、きつと、皆さんが居られるとわたくしは信じてゐます。
もしもし、もうおやすみですか。ちよつと起きてくれませんか。きうして、戸をあけて下さいませんか。けつして、いたづらをしたり危害を加へようといふのでありません。それどころか、わたくしは命がけなのです。こんなに困つたことははじめてです。もし、その石を拾つて居られるなら、……いや、きつと拾つて居られると思ひますから、わたくしに返して下さいませんでせうか。さつきもいふとほり、わたくしにはなくてはならぬものでありますが、あなたがたには用もないものです。どんな御恩返しでもいたします。
ああ、かうしてゐる間にも、氣がせきます。實は伯父がわたくしの妻に邪(よこしま)な懸想(けさう)をしてゐたことを、わたくしはよく知つてゐるのです。その石の鍵がなければ、わたくしは池にかへることができません。妻は池から出ることもできません。つまり、わたくしたちは二度と會ふことができなくなるのです。ああ、もう、彼女にこれきり會へないなんて、……さうして、池にかへれないなんて、……伯父が、伯父がひよつとしたら、今ごろは、水天宮の池に行つて、……もしもし、もしもし、お願ひです。お願ひします。石の鍵を返して下さい。どうぞ、お返し下さい。……もし、もし、もし、……もし、……
をかしいな。いくらいつても返事がない。やつぱり、誰もゐないのだらうか。きつと居ると思つたのだが、……困つたなあ。……實直さうな樵夫の夫婦だし、居れば、さうして事情を聞けばかならず返してくれると思ふのだが、……もし、鍵がなかつたら、どうなるんだ。池にかへれない。彼女に會へない。伯父が、……畜生、どうしたらいいんだ、絶望だ。
もしもし、もしもし、もしもしもしもし、……お願ひです。あけて下きい。鍵を返して下さい。
やつぱり、誰もゐないのだ。……仕方がない。月も傾いたが、もうすこし探してみよう。月が落ちたら、なにもわからなくなる。まだ、探し足りないのだらう。なにしろ、石が小さなものなんだから、……
二 家 の 中
「どうやら行つてしまつたらしいな。なにか、永いこと、くどくど喋舌(しやべ)つとつたねえ」
「なにをいつてゐたの? あなた。風のやうにざわざわいつてるばかりで、あたしにはよくわからなかつたけれど」
「俺にもよくわからんが、なあに、河童などのいふことが、なにかわかるもんか。うつかり口車にでも乘つたら大變だよ。相手にならず默つてりやいいんだ。また、來るかも知れんから、返事をするんぢやないよ」
「はい」
「お前、面白いものを拾つたなう」
「父ちやん、これ、なあに?」
「きつと、河童の丸子石(まるこいし)だよ。父らやんが死んだおつ母から聞いたことがある。子供のお前にやいらんものだから、父ちやんにくんな」
「いやん。あたい、折角拾つたんだもの」
「そんなもの、なにするかい」
「なにつて、きれいな石だもの。風鈴に入れるか、簪(かんざし)の玉かにするわ」
「そんなことよりな、父ちやんにくんな。父ちやんがこれを持つて町に行くとな、よろこぶ人があるんだよ。死んだおつ母の話ぢやあ、河童の丸子石は喘息(ぜんそく)の妙藥だつていふことだつた。喘息てな、なほりにくい病氣だが、丸子石があつたら、どんなたちのわるい喘息でも、すぐになほるんだ。父ちやんがいつも世話になる町の旦都がもう長いこと喘息で寢てござる。旦那にや恩になつてゐるから、なにかで恩返ししなくちやと思つてゐたが、貧乏ぐらしでなんにもできなかつた。これは天のお助け、だ。夜があけたら、すぐに旦那のところへ、これを持つて行かう。すりつぶして、味噌汁に入れて飮めばいいんだよ」
「飮んでしまふの?」
「うん、さうしたら、二三日もしたら、すつかり喘息がなほつてしまふんだ。旦那よろこぶだらうな」
「そんなら、惜しいけど、父ちやんにあげるわ」
「よしよし、いい子、だ。そのかはり、父ちやんが町で、美しい風鈴に、玉簪を買つてやるよ。一緒に町に行かうな」
「うれしいわ」
「あなた、あれ、なに?」
「お、河童の足音だ。また引つかへして來やがつたな。……近づいて來る。ものをいふな。音を立てちやいかんぞ。なにをいつても默つてるんだ。いいな。……そら、もう、表に來た。しいつ、なにをいつても、返事するな」
[やぶちゃん注:「目痛川」不詳。先の「新月」に登場する川名である。た、ここでは、「水天宮」「筑後川」「阿蘇」とソリッドに固有名詞が出、しかも主人公が河童の中でも正統なる血筋の末裔であることを考え合わせるなら、このロケーションの「水天宮」は高い確率で筑後川が近くを流れる、福岡県久留米市瀬下町(せのしたまち)の、全国の水天宮の総本宮である、「水天宮」と考えてよかろうかと思われる。場所柄、天御中主神の他、安徳天皇・高倉平中宮(建礼門院、平徳子)・二位の尼(平時子)を祀っており、言わずもがな、壇ノ浦で滅びた平家が河童となったとする伝承は広くこの附近に残る。
「九千坊」「河童曼荼羅」の先行作に他出する。
「那羅延坊」先の「白い旗」に登場する。
「見かじめ」「見ケ〆」などと表記する。見回って取り締まること。現行では「みかじめ料」として、暴力団が不当に脅しをかけて飲食店などから徴収する用心棒代・ショバ代・挨拶代の謂いでしか、專らしようされなくなった。
「河童の丸子石」不詳。]
唐山白牛糞疱瘡の藥に用る事
○享保年中淸朝より眞白なる牛を御とり寄(よせ)ありて、房州へ飼(かひ)を仰付(おほせつけ)らる。その食物にはもぐさ斗(ばかり)をかひて、其牛のふんをとり、いくらも俵(たはら)にして江戶へ上納させしめ給ふ、その比(ころ)は白牛湯(はくぎゆうたう)とて散藥(さんやく)にして町へも下されたり、疱瘡に大妙藥也、今所持の人は其時の御用懸(がかり)齋藤三右衞門といへる人牛込(うしごめ)に居住成(な)さるといへり。又疱瘡重きには療治もなし、藥物も及ばざる程のもの也。只ウニカウルを一藥(いちやく)粉にして時々用うれば、極上の治方(ちはう)なりとぞ、又フランカステヰンと云(いふ)石おらんだ持來(のちきた)る石也。蛇蝎(だかつ)などの毒にあたりてはれたる所へ、此石をすりつけおけば、毒を悉く吸(すひ)とる。よくよく毒を吸はせて後、婦人の乳をしぼり出したるを、器にため置たる中へ此石をひたし置けば、石より毒をはいて乳汁泡の如くになる也。此(この)石(いし)橘町大坂屋平六なるもの所持にて、近來疱瘡のまじなひによしとて、疱瘡せざる小兒をなでさせてもらふ也。
[やぶちゃん注:「疱瘡」天然痘。私の「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の注を参照されたい。
「享保年中」一七一六年から一七三五年。
「もぐさ」「艾」であるが、ここは製品ではなく、原料のキク目キク科キク亜科ヨモギ属 Artemisia indica 変種ヨモギ Artemisia indica var. maximowiczii のこと。
「今所持の人は」「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年であるから、短くて四十二年前、最長で八十年前となる。五十年前年の白い牛の糞は流石に服用したないなぁ。
「齋藤三右衞門」不詳。
「ウニカウル」ポルトガル語“unicorne”の音写で、「ウニコール」とも表記する。原義はヨーロッパの想像上の動物である一角獣「ユニコーン」のことであるが、ここは鯨偶蹄目ハクジラ亜目マイルカ上科イッカク科イッカク属イッカク
Monodon Monoceros の♂が持つ一本牙(歯の変形物)から製した薬物。強毒への解毒効果があるとされた。解熱・鎮静効果があると考えられて、漢方薬に調合されたりもしたようである。但し、これは偽物が多く、そのため、「ウニコール」には日本語では別に「嘘」という不名誉な意味も負わされてある。
「フランカステヰン」「須羅牟加湞天(スランカステン)」などとも書き、これはオランダ語“slangensteen”の音写で、「スランガステン」「スランガステーン」とも表記する。「大辞泉」には「スランガステーン」で『蛇の石の意』とし、『江戸時代にオランダ人が伝えた薬。蛇の頭からとるといわれ、黒くて碁石に似る。はれもののうみを吸い、毒を消す力をもつという。蛇頂石。吸毒石』と載る。結論から言うと、鉱物、燐酸石灰と少量の炭酸石灰及び稀少の炭素との化合物である。これを説明し出すと、長くなるので、私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍骨」の注を参照されたい。
「橘町」旧日本橋橘町(現在の中央区東日本橋三丁目)。
「大坂屋平六」薬種商。興津要「江戸小咄商売往来(下)」によれば、オランダ伝来の薬物を好んで扱っていたらしい。]
3―21 光秀の連歌、今愛宕になき事
愛宕山にて明智光秀連哥のことは、世普く知ところにして、其時の懷紙、傳て彼の山房に有りと云。予今年、阪昌成に【連哥師】これを問たれば、寬政の末、彼山祝融のとき、此ものも燒失せりと。貴むに足ざるものなれど、舊物なれば惜むべきなり。又其時の百韻は、今に傳寫のものありと云。
■やぶちゃんの呟き
「愛宕」「あたご」。現在の京都府京都市右京区の北西部、かつての山城国と丹波国の国境にあった愛宕山(あたごやま/あたごさん)。
「愛宕山にて明智光秀連哥」「連哥」は「れんが」で「連歌」のこと。これは「愛宕百韻」「明智光秀張行(ちょうぎょう)百韻」「天正十年愛宕百韻」などと呼ばれる、かの「本能寺の変」(天正一〇年六月二日(一五八二年六月二十一日)早朝、の直前、この愛宕山で明智光秀が張行(「興行」に同じい)した連歌(会)のこと。ウィキの「愛宕百韻」によれば、同年五月二十四日(二十八日とも)、『明智光秀が山城国愛宕山五坊の一つである威徳院で、』長男明智光慶や家臣の東行澄(とうのゆきずみ)、当代きっての連歌師里村紹巴とその一門の里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、及び愛宕上之坊大善院住職の宥源、愛宕西之坊威徳院住職の行祐と『巻いた百韻である。発句は光秀の「ときは今
あめが下しる 五月かな」、脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」。発句は、明智の姓の「土岐」をいいかけて、「雨が下」に「天が下」をいいかけて、主人織田信長の殺害という宿願の祈請のものであるといい、紹巴はこのために責問を受けたという。また発句の「あめが下しる」を「あめが下なる」に改めたという』とある。サイト「信長研究所」内の、「labo-12【本能寺の変探求委員会】 ■ 愛宕百韻」で全百韻が読める。
「普く知」「あまねくしる」。
「傳て」「つたへて」。
「阪昌成」底本は「阪」に「ばんの」と振るので、「ばんのしやうせい」と読むようである。
「寬政の末」寛政は一七八九年から一八〇一年。
「祝融」「しゆくゆう」は、もと、中国古代神話の帝王で「赤帝」と号したとも、帝嚳 (こく) の治世の火官であったともする。孰れにせよ、後に火神・夏を司る神・南方神・南海神とされるようになり、転じて回禄・火災の意味となった。寛政年間末期の愛宕山回禄の資料は見当たらないが、「山房」とあり、先の「愛宕百韻」の参加メンバーの二人の僧侶を考えると、焼けたのは明治の廃仏毀釈で廃された白雲寺系の社僧住坊と思われる。それにしてもなんデェ! 御利益ねえじゃねえか、愛宕サンよ!(ウィキの「愛宕神社」によれば、『火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として』、三『歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる』とある)
Dropbox――先だってのHTMLファイル非公開の時に、いつか、やらかすんだろうな、とは思ってた。パブリック・フォルダの非公開化だ。ああっ! 面倒臭! 大容量でそこに入れていた画像やPDFその他を479ファイル176MBをHPフォルダに移動し(これは一瞬で完了)、しかもそのリンクをサイトの各ページ及びブログからなんから全部書き変え、その全部をホストに転送しなければならぬ(これが超面倒。そもそもどこのどれをそこへ入れたかは画像を視認してみないと分からぬからである)。まあ、無料だったんだから、文句は言えねえわな。3月停止だから、ちまちまやるしかないわ。
【2016年12月17日追記:同修正作業の過程で、従来、置いて居た丘淺次郎「生物學講話」の縦書版は労多くして読まれることが少ないと判断したので、遺憾ながら、本日、削除した。なお、今日、根性で書き換えを行い、サイトの書き換えは一部を残して、ほぼ終わった。ブログの左コンテンツも総て書き換えた。残るは、ブログの過去記事であるが、これは、気が遠くなるので、何かの折に単発的に直す。悪しからず。】
○大船山 村の中央常樂寺後の山を云、此山の北に連なれる小丘を柄杓山と云、其形に因て名とす、
[やぶちゃん注:水戸光圀「新編鎌倉志」(本書が強く依拠している先行書である。時に無批判に引用し、その誤りを遙かに遠く受け継いでもいる)、その「卷之三」に(リンク先は私のオリジナル電子テクスト注。私がこう、しつこく注するのは、さるサイトが、平然と私のこのテクスト本文をコピー・ペーストし、しかも自分が作ったものだと公言し、あろうことか、それらの無断転載を禁じているからである。私はこちらで具体的に対象サイト名を名指しして指弾しているので、是非、お読み戴きたい。なお、未だに当該サイト制作者からは一言の連絡も謝罪も、ない)、後で本書でも挙がる「常樂寺」の条があるが、その附図
に常楽寺本堂北東の後背地に「粟船山」のキャプションを見出せる。そもそもが常楽寺の山号自体が「粟船山(ぞくせんざん)」である。私の所持する「日本地誌大系」本の本図の印刷ブレは底本の挿絵中、最もひどいもので恐縮なのであるが、「粟船山」は辛うじて視認出来る。画像で判読不能の文字の補足しておくと、右手街道の上方には「自是東北岩瀨村今泉村道」、下方には「自是南鎌倉道」とあり、境内奥の池の中には右から左に「無熱池」とある。最早、誰もここ(グーグル・マップの航空写真データ)が「大船山」だとは知るまい。「風土記稿」の本文に従うなら、この図の平泰時墓と姫宮の背後にある上の切れたピーク部分が「柄杓山」(ひしゃくやま)ということになろうか。]
○離山〔浪奈禮也麻〕 鎌倉道の南側にあり、八町餘の間三山並び立り〔高各二十間より三十間許に至る〕中央に在を長山〔形狀を以て名く〕、北方を腰山〔山腹に洞井あり、徑三尺許、井中隧あり其深測るべからず、土俗梶原平三景時が邸跡なりと云ど、景時が宅蹟は、此地にあらず、〕南方を地藏山〔山上に地藏の石像を置古塚十三あり、高一丈より六尺に至る、來由を傳へず、〕と名づけ、概して離山と稱す、これ山足連續せざるを以なり〔皆芝山にて樹木を生ぜず、〕、享德四年六月管領成氏追討の時、鎌倉勢山麓に出張して京勢を支へしことあり〔【鎌倉大草紙】曰、六月、成氏爲退治、上總介範忠、京都の御教書御旗賜はり、東海道の御勢を引率し鎌倉へ發向す、鎌倉には木戸・大森・印東・里見等、離山に待懸けて、防ぎ戰ひけれども、打負ける〕文明中准后道興此山を見て和歌を詠ず〔【回國雜記】曰、離山と云る山あり、誠に續きたる尾上も見え侍らねば、朝まだき旅立里の遠方に、其名もしるき離れ山かな、〕
[やぶちゃん注:現在、この三つの「離山」は全く存在しない。しかし幸いにして、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ
on the web」(埼玉大学教育学部人文地理学研究室 谷謙二氏作製)になるここで明治末期の三山が崩される前の地図を現地図と対照して見ることが出来る。現行の地誌書、例えば昭和四八(一九七三)年刊行の改訂八版「かまくら子ども風土記 中」の叙述では、明らかに、旧「松竹撮影所」前にあった北のピークは「離れ山」の一部とせず、「大船中央病院前」の南西から北へ伸びる丘陵を「離山」としている。しかし、今回、この旧地図を子細に観察するに、私は実は「離山」とはこの旧松竹撮影所前にあった北のピークを含めたものなのではないか、と疑い始めている。何故なら、旧地図を見ると、南端のピークが「地蔵」の頭のように一番高く、三・六メートルと表示し、その北の部分は如何にもなだらかで低いだらだらと胴の「長」い丘陵にしか見えず、その北端に「腰」高に少し高くなったピークが出る。仮に私がここの在の民であったなら、この総体を、わざわざ北一と南二で分断し、しかも「南二」を「三」に分けて「離山」とし、しかも北端のピークに名をつけぬということは到底、考えられない。この全体を「離山」と呼称するのが自然である。ともかくも、そう比定するなら、ここに出る南端の「地蔵山」とは、前掲の「かまくら子ども風土記 中」によって太平洋戦争中に切り崩されて、その土が現在の「大船中学校」一帯の田の埋め立てに用いられたとあり、中央の私が「長山」に比定する部分は、「三菱研究所」(現在の地図上の「三菱電子証明株式会社」)が建設される際にやはり切り崩されて消失したとある。そうして、同比較地図の別次期のそれを見ると、実に昭和二(一九二七)年以降の地図では、「松竹撮影所」(その頃は「競馬場」である)前の北のピークは南部分に先だって早くも完全に消失してしまい、「競馬場」に厩舎か建物が平地に建っていることが判るのである(これ)。「離山」の位置比定については大方の御叱正を俟つものではある。しかし、この私の思いつきを否定される場合、旧「松竹前」のピークに何故、名がつかず、古地誌に記載がないのかを、私が納得出来るように説明して戴くことを要求するものである。寧ろ、名があることが立証され、それが「腰山」でないのであれば、私は潔く引き下がるに吝かではない。
また、ここでは室町までしか事蹟を遡っていないが、この「離山」は元弘三(一三三三)年の鎌倉新田義貞の鎌倉攻めの際、義貞がここで各方面担当の武将を集めて軍議をした地とも伝承されている。それを書かないのは花がないと私は思う。
なお、私の小学生時代はここに赤錆びた二基のガス・タンクが少しだけ離れて屹立していた。だから「ガス・タンクの離れ山」と呼んでいたし、幼少なればこそ私は、『「山」がないのに「離れ山」というのは、きっと、あの二つの離れたガス・タンクを「離れ山」と見立てて呼んでいるんだ』と真面目に思い込んでいたことをここに告白しておこう……もう、そのガス・タンクも、影も形も、ない……遠き日の思い出に――
「八町」約八百七十三メートル。
「二十間より三十間」約三十七~五十四メートル。
「在を」「あるを」。
「洞井」「ほらゐ」と訓じておく。
「徑三尺」直径約九十一センチメートル。
「隧」「すい」。隧道。トンネル。
「景時が宅蹟は、此地にあらず」一般に伝承されるものは、方向違いの浄明寺の五大堂明王院の北山麓である。「新編鎌倉志」の「卷之三」に以下のように出る。
*
○離山 離山(はなれやま)は山の内より西へ行けば市場村(いちばむら)也。村の出口に道二條あり。北は戸塚道、西は玉繩道。戸塚道の東に芝山あり。是を離山と云ふ。里老の云く、梶原平三景時が古城(ふるしろ)と。梶原が舊宅は、五大堂の北にあり。鶴が岡一の鳥居より、此の地まで、三十三町あり。
*
「地藏山〔山上に地藏の石像を置古塚十三あり、高一丈より六尺」(三~一・八メートル:注意されたいが、これは塚の高さである。)「に至る、來由を傳へず、〕」現在、この地蔵像一体は「離山富士見地蔵尊」と称して、大船中学校の北西、鎌倉第三郵便局の道の反対の東方道路脇に祀られてある。
「享德四年」一四五五年。
「管領成氏追討」享徳の乱(享徳三年十二月から文明一四(一四八三)年まで三十年近く続いた室町時代の関東地方に於ける内乱)の初戦。享徳三年十二月二十七日に第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、幕府方(第八代将軍足利義政)、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(後に古河公方)方が三つ巴で争い、戦乱は関東一円に拡大、関東の戦国化の遠因となった(ここはウィキの「享徳の乱」を参照した)。
「鎌倉大草紙」「かまくらおほぞうし」と読む。室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物。ウィキの「鎌倉大草紙」によれば、康暦二/天授六(一三八〇)年より文明一一(一四七九)年)までの百年間の歴史を記しており、「太平記」を継承する、という意から「太平後記」の別称がある。全三巻。『戦国時代初期の作品と推定されている。永享の乱から結城合戦について扱った中巻は『結城戦場記』(『永享記』)とほぼ同文であり、早い時期に逸失して別の書籍から補われた可能性が高い。
作者は不明だが、東常縁と斎藤妙椿との和歌問答や享徳の乱によって千葉氏の嫡流となったいわゆる「下総千葉氏」の存亡の危機となった臼井城攻略戦で締めくくられており、千葉氏のかつての嫡流であったいわゆる「武蔵千葉氏」を擁護する記載が見られることから、武蔵千葉氏を支援して下総千葉氏と争った東常縁の関係者を著者と推定する説が有力である。また上・中巻と下巻の』一までは『全体に鎌倉公方足利氏に忠実な臣下としての関東管領上杉氏を賛美する記述があり、このような傾向は千葉氏に関する記述が増える下巻の』二には『みられないことから、上巻から下巻の』一までと、下巻の二以降では『作者が異なる可能性も指摘されている』。『上巻には上杉憲春の諫死事件に始まり、伊達政宗の乱・上杉禅秀の乱・小栗満重の乱、甲斐武田氏の内紛を扱い、中巻は永享の乱・結城合戦を扱い、下巻は享徳の乱を扱って臼井城の攻防で締めくくられている』とある。
「成氏爲退治」「成氏退治の爲め」。漢文脈としては語順がおかしいが、成氏は目的語であって主語ではない。
「上總介範忠」守護大名で駿河今川氏の第五代当主今川憲忠(応永一五(一四〇八)年~寛正二(一四六一)年?)。ウィキの「今川憲忠」より引く。第四代『当主範政の嫡男として生まれたが、父が晩年に範忠を廃嫡して末弟の千代秋丸に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった』。永享五(一四三三)年に『父が死去すると鎌倉公方足利持氏との対抗上から、幼年の千代秋丸よりも成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた』第六代『将軍足利義教の裁定により、在洛中の範忠が家督を継いで当主となった。この時、狩野氏や富士氏など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景にこれを鎮圧している』。『これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務め、永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された』。康正元(一四五五)年には第八代『将軍足利義政から鎌倉公方足利成氏討伐を任じられて後花園天皇から御錦旗を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉氏討伐に向かっていて留守となっていた鎌倉を攻め落とした。このため、成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った(享徳の乱)』。寛正元(一四六〇)年『正月に駿河に帰国、翌年』三月二十日に『子の義忠に家督を譲った事が確認できるが、程なく死去(没年には異説がある)』したとある。
「木戸」鎌倉府奉行衆の宿老の家系。
「大森」大森憲頼か。
「印東」印東下野守であろう。ウィキの「印東氏」によれば、彼は『足利成氏から下野国天命を与えられ、守護職・小山持政を助けるよう命じられている』とあり、彼は永享一〇(一四三八)年の永享の乱に於いて、足利持氏とともに自害した鎌倉御所奉行の一人、印東伊豆守常貞の子か、ともある。
「里見」安房国の戦国大名里見氏の初代となったとされる里見義実(応永一九(一四一二)年~長享二(一四八八)年)か。但し、ウィキの「里見義実」によれば、彼は『近年では架空説、里見氏庶流出身説がある。子は里見成義・中里実次がいるとされているが、近年では成義の存在は否定されて従来の系譜上成義の子とされてきた里見義通・実堯兄弟が義実の実子であると考えられている』。言わずもがなであるが、『里見義実の安房入国伝説を基にして、江戸時代に曲亭馬琴によって書かれたのが』、かの「南総里見八犬伝」である。
「文明」一四六九年から一四八六年まで。室町末期。幕府将軍は第八代足利義政・足利義尚。
「准后道興」関白近衛房嗣の子で、幼少の頃から出家して聖護院門跡となった道興准后(どうこうじゅごう 永享二(一四三〇)年~大永七(一五二七)年)のこと。後に大僧正に任ぜられて准后(太皇太后・皇太后・皇后の三后に准じた皇族・貴族の称号。臣下であっても皇族同等の待遇を受ける公家に於ける位階の頂点の一つ。女性の尊位のように思われがちであるが、性別は問わない)となった。彼は文明十八(一四八六)年六月から翌年までの凡そ十箇月間、聖護院末寺掌握を目的として東国へ向かい、若狭国から越前・加賀・能登・越中・越後の各国を経て、本州を横断、下総・上総・安房・相模を廻って、文明十九年五月には武蔵から甲斐から奥州松島まで精力的に廻国した。後にその紀行を「𢌞國雜記」(本文の「回國雜記」のこと)として残した。
「離山と云る山あり、誠に續きたる尾上も見え侍らねば、朝まだき旅立里の遠方に、其名もしるき離れ山かな」「𢌞國雜記」の相模國パート内に、
*
はなれ山といへる山あり。誠に續きなる尾上(おのへ)もみえ侍らねば、
朝まだき旅立つ里のをち方に、其の名もしるきはなれ山かな
*
と出る。
最後に。
幕末の文政十二(一八二九)年に八王子千人同心組頭・八王子戍兵学校校長であった植田孟縉(うえだもうしん)の著わした「鎌倉攬勝考卷之一」の「山川」部に出る「離山」の本文と図を引く。かなりしっかりと書かれているからである。リンク先はやはり私の電子化注である。図は数少ない応時を偲ばせるものであるが、団子のように固まっており「離れ山」に見えないのが遺憾ではある。しかし、先の道興准后の歌も添えられており、古えの田を渡る風を嗅ぐことは出来る(今回は読みやすくするために、一部に私が読みを歴史的仮名遣で附した。《 》は私が挿入した小見出しである)。
*
離(はなれ)山 山の内を西へ行(ゆき)て、巨福呂谷村、市場村の出口、戸塚道の邊、水田の中に北寄(きたより)に當(あたり)て獨立する童山、凡(およそ)高さ三丈許(ばかり[やぶちゃん注:約九メートル。])、東西へ長き三十間餘、實(げ)にはなれ出(いで)たる山ゆへ名附(なづけ)、往來より二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]を隔つ。《成氏追討古戰場》享德四年六月、公方成氏朝臣を追討として、京都將軍の御下知を承(うけたまはり)て、駿州今川上總介範忠、海道五ケ國の軍勢を引卒し鎌倉へ發向と聞へければ、鎌倉にても木戸、大森、印東、里見等離山に陣取(ぢんどり)て駿州勢を待(まち)かけ防ぎ戰(たたかひ)けれど、敵は目にあまる大軍叶ひがたく、仍(よつ)て成氏朝臣新手(あらて)二百餘差向(さしむけ)たれど敵雲霞(うんか)の如く押來(おしきた)れば終(つひ)に打負(おしまけ)、成氏朝臣を初(はじめ)とし、皆武州府中をさして落行(おちゆく)と、【大草紙】に見へたるは此(この)時なり。夫(それ)より駿州勢鎌倉へ亂入し、神社佛閣を亂妨し、民屋(みんをく)に放火しければ、元弘以來の大亂ゆへ、古書古器等皆散逸せしとあり。偖(さて)此(この)離山は四邊平坦の地に孤立せし山にて、西を上として三丈許りの高さより、東へ續き一階低き所あり。爰も高さ一丈餘、樹木一株もなき芝山なり。謂れあるゆへにや土人等むかしより耕耘(こううん)のさまたげあれとも鍬鋤(くはすき)などもいれざれば、故あることには思はれける。道興准后法親王の歌もあり。或説には當國にふるき大塚(おほつか)有(ある)事を聞(きく)。されば、此山こそは上古の世の塋域(えいいき)に封築(ふうちく)せし塚なるべし。他國にも大塚と地名する所はいつくにも有(あり)て、大ひなる塚の有ものなり。《上古の車塚(くるまづか)の説》爰(ここ)の離山はちいさき山の形に見へけるゆへ、はなれ山とは解しける、其(その)製は畿内及び諸國にも見へたり。下野國那須郡國造(しもつけのくになすぐんくにのみやつこ[やぶちゃん注:現在の栃木県東北部の広域を支配した。])の古碑ある湯津上村(ゆづかみむら[やぶちゃん注:現在は大田原市の内。])に、今も古塚の大ひなる數多(あまた)あり。二級(きふ)に築(きづ)しもの多し。此所の山も夫(それ)に形相(けいさう)同じ、是(これ)は上古の製にて車塚と唱ふ。後世に至りては皆丸く築けり。古えは車塚の頂上えは、人の登らぬ爲に埒(らち)をゆひ、一階低き所にて祭奠(さいてん)を行ふやうに造れるものなりといふ。偖(さて)また此(この)塚山は何人(なんぴと)の塚なるもしれず。當國の府は高座郡にて、早川今泉の邊に國府と稱する地有(あり)て、國分寺の舊礎も田圃の間に双(なら)び存せり。國造も其邊に住せしなるべし。鎌倉よりは六七里を隔てたり。國造が墳はかしこに有(ある)べし。《丸子連多麻呂(まるこのむらじおほまろ)先祖の塚》是(これ)なる塚はあがれる世には、此郡中に住せし丸子連多麻呂か先祖の塚山にてや有けん。其(その)慥(たしか)成(なる)證跡はしらねど、後の考へにしるせり。
*
以下、上記の語句に簡単に注しておく(私のリンク先の古いものを抜粋・改稿した)
・「童山」は「小山」のことであろう。或いはまた、「わらはやま」と読むと、「はなれやま」と発音がやや似ており、その古称の可能性もあるかも知れぬ。
・「塋域に封築せし塚」墳墓に土を高く盛り上げて祭った祭壇(古墳)の意。
・「下野國那須郡國造の古碑ある湯津上村」この碑は那須国造碑(なすのくにみやつこのひ)のことで、日本三古碑(田胡郡碑・多賀城碑・那須国造碑)の一つ。現在は栃木県大田原市湯津上の笠石神社の御神体として祀られている。碑身と笠石は花崗岩で、一五二字の碑文が刻まれ、持統天皇三(六八九)年に那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提(なすのあたいいで)の事蹟を息子の意志麻呂らが顕彰するために文武天皇四(七〇〇)年に建立された旨、記されている。延宝四(一六七六)年に僧侶円順によって発見され、その報を受けた領主徳川光圀が笠石神社を創建、碑の保護を命じた。さらに碑文に記された那須直葦提及び意志麻呂父子の墓と推定した前方後円墳上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を家臣佐々宗淳(さっさむねきよ:ご存じ「水戸黄門」の「助さん」のモデルとされる人物)に命じている(以上は主にウィキの「那須国造碑」に拠った)。
・「二級に築しもの多し。此所の山も夫に形相同じ、是は上古の製にて車塚と唱ふ。」こうした古形の古墳は二段に築いたものが多く、この離山が一段低い部分を持つ二段構造になっている点で同じだ、という意。これは前方後円墳のことで、「車塚」はその俗称。貴人が乗った牛車に見立てた謂いであろう。
・「早川今泉」の「早川」は、現在、相模国府若しくは高座郡衙が比定候補とされる綾瀬市早川字新堀淵を、「今泉」は高座郡海老名町上今泉、現在の海老名市上今泉のことか。
・「丸子連多麻呂」「万葉集」に防人として歌を残した相模国鎌倉郡出身の武士(もののふ)。丸子氏は古代日本の氏族の一つで紀伊国・信濃国・相模国などに点在する。大伴氏の支族とされる。
なお、ここに記された「離山」前方後円墳説は植田のオリジナルな入れ込んだ記載で、極めて興味深い。添えられた離山の図も前方後円墳にしか見えない。ところが、この離山古墳説は現在、「鎌倉市史 考古編」やその他の鎌倉関連資料を披見しても、全くと言っていいほど登場しない。先に出た六国見山山頂部についても、かつては古墳説が囁かれ、古墳型をした山が、小袋谷の亀甲山、笛田の亀の子山と複数存在した。ところが(以下、先に私が既に述べた部分とダブるが、敢えて私の旧稿をそのまま示す)、この離山は大正初期にセメント用泥岩の採取のために北側の腰山部分が崩され、昭和初期には大船地区の田圃を埋め立てて都市化する計画によって離山全体の開鑿が進行した。第二次世界大戦中には完全に突き崩されて、その土で田圃が埋められて海軍の工場地となり、戦後は県営住宅や大船中学校が建てられた(以上の離山事蹟は平成二十一(二〇〇九)年刊の鎌倉市教育委員会編「かまくら子ども風土記」(第十三版)に拠った)。因みに申し上げておくと、この連綿と改稿されている「かまくら子ども風土記」は、その『連綿と改稿されている』点に於いて、非常に資料的価値の高い鎌倉地誌で、旧態然として辛気臭い「鎌倉市史」などとは比べ物にならない程、面白く信頼度も高いものである。それは古くから、地の私の小学校時代の恩師等がそこに関わり、民俗学的な聴き取りも漏らさず記すという、地道な積み重ねによるものであって、凡そアカデミズムの真似できない仕儀なのである。鎌倉研究の座右の一冊は、まずは「かまくら子ども風土記」というのが私の正直な感懐である。――それにしても、この鎌倉の古墳時代の遺跡の『見た目』貧弱さは、明らかに過去の近代の都市開発による文化遺産破壊を『なかったことにする』、さもしい仕儀のように、私には思えてならないのである。
挿絵について、画中の詞書と歌を活字化しておく。
*
道興准后の記にはなれ山と
いへる山あり誠に續きなる
尾上もみえ侍らねば
朝まだき
旅立さとの
をち方に
その名もしるき
離山かな
*
右端中央及び下部には囲み付きで、
*
圓覺寺山 臺村
*
とあり、右から左へ順に囲み付きで以下の村名と寺名が示されている。
*
コブクロヤ村 今泉村 岩セ村 粟舩村 常樂寺
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山の上には、
*
離山(ハナレヤマ)
*
とある。]
○戸部川 西界を流る〔幅八間より十間に至る〕
[やぶちゃん注:柏尾川の別称。
「八間より十間」十四・五五から十八・一八メートル。]
○砂押川 北界を流れ戸部川に合す〔幅二間〕、板橋を架す、砂押橋と呼ぶ〔長二間餘〕此水を引て水田に灌漑す、
[やぶちゃん注:「二間」約三・六四メートル。]
○溜井二 一は小名池谷にあり〔濶一段許、元は三所ありしが今は其一をのみ存す、〕一は尼ヶ谷にあり〔濶七畝餘、爰も又三所ありしが、二は埋滅せしと云、〕
[やぶちゃん注:「井」とあるが、所謂、溜め池のことであろう。
「池谷」不詳。識者の御教授を乞う。
「濶」「ひろさ」。
「一段」「いつたん」。一反に同じい。約千平方メートル弱。
「尼ヶ谷」不詳。識者の御教授を乞う。
「七畝」「ななせ」。約六百九十四平方メートル。]
○熊野社 村の鎭守なり、束帶の木像を安ず〔座像長八寸許、古は畫像を安ぜしと云うふ、其像は今舊家小三郎の家に預り藏す、〕臺座に天正七年安置の事を記す〔曰、奉勸請天正七己卯四月吉日、甘糟太郎左衞門尉平長俊華押、長俊は則小三郎が祖なり、〕古は安房國群房庄當社領たりしこと壽永二年の院宣に見えたり〔別當多聞院藏書曰、今熊野領安房國群房庄、令寄進後經年序云々、如元可令領掌□者依院宣執達如件、壽永二年七月十□日謹上前右少辨殿、伊豫守高階華押、〕、建長二年更に彼地當社領として尼性智所務すべき由又院宣あり〔親熊野社領安房群房庄、任辨氏女讓、可領知之由、可被傳仰尼性智、者院宣如斯依言上如件、爲經恐惶謹言、建長二年十二月二十九日、謹上伊豫守殿、太宰權帥爲經□、按ずるに以上二通は年號、追記せしものなり、〕貞和二年又院宣を下され、社領安堵せしめられしと云〔新熊野社領安房群房庄事、相傳領掌不可有相違者院宣如斯依仰執達如件、貞和二年五月廿四日、亮大僧都御房權大納言華押〕例祭九月廿四日別當は多聞院にて、鶴岡職掌鈴木主馬神職を兼ぬ、
【末社】
△神明 古は字神明下にあり、寛永の頃甘糟右近亮時綱〔舊家小三郎が祖先〕此に移せり。△金毘羅 安永九年地頭長山氏勸請す。
△秋葉 三社權現 稻荷。
○神明宮 多聞院持。
○御嶽社 村民持。
○稻荷社 村持。
[やぶちゃん注:「舊家小三郎」項として本巻の最後に後掲される。「甘糟太郎左衞門尉平長俊」も事蹟はよく判らないが、そちらを参照されたい。
「臺座に天正七年安置の事を記す〔曰、奉勸請天正七己卯四月吉日、甘糟太郎左衞門尉平長俊華押、長俊は則小三郎が祖なり、〕」「鎌倉市史 資料編第三・第四」の「補遺四〇」に全銘文が載る。
*
(上部)
奉勸請
熊野大權現
(下部)
寛政二戌俊九月吉日
再興佛工扇谷村
後藤齋宮
藤原義眞
(上部)
天正七己卯四月吉日
(下部)
甘糟太郎左衞門尉
平長俊(花押)
*
これによれば、勧請が「天正七年」(一五七九年)で、再興が「寛政二年」(一七九〇)年ということになる。
「群房庄」「ぐんぼうのしょう」(現代仮名遣)と読む。旧平群(へぐり)郡南部と旧安房郡北部に跨ってあった旧荘園名。この中央付近(内房の先の舘山市の北部一帯)と思われる(グーグル・マップ・データ)。さて、「壽永二年」は一一八三年で、後白河法皇の院政期に当たるのであるが、筆者は誤認をしている。「鎌倉市史 社寺編」の「熊野神社」の項で、この庄はこの熊野神社の領ではなく、鶴岡八幡宮の所領であったとあるからである(当該書ではそれを証明する複数の資料(同「資料編」の資料番号)も挙げてある。実はこれらの文書は本来は鶴岡八幡宮宛のものであって、「熊野」はこの神社を指すものではないとする。そして、『これらの文書は恐らく康正』(こうしょう:一四五五年~一四五七年)『以後』、『鶴岡』八幡宮が衰微『したために流出し、熊野の名があるので、ここに奉納されたものであろう』と推理している。さらに言えば、後に記されている通り、この熊野社のかつての神職は鶴岡八幡宮の職掌であった鈴木主馬であるから、或いは、その後も鶴岡との関係が続いていたことから、こちらに、当時、既に古記録の類いとなってただ保管されていた文書の一部が移管保存されてあったものとも考えられるかも知れない。ただ、私は、では、これらの「今(新)熊野」とは、鶴岡八幡宮に付属するところのどの領域或いは何の資格(領)を指すのかが、今一つ、分らぬ。識者の御教授を乞うものである。
「多聞院」は熊野神社の隣りに建っており、後に出る通り、この神社の別当寺であった。
「如元可令領掌□者依院宣執達如件、壽永二年七月十□日謹上前右少辨殿」の本書編者の二箇所の判読不能字は「鎌倉市史 資料編第一」で最初の方が「給」、後の方が「七」であることが判明している。
「建長二年」一二五〇年。
「任辨氏女讓」誤読。「鎌倉市史 資料編第一」では「辨」は「平」である。
「太宰權帥爲經□」同じソースで、判読不能字は「奉」である。
「貞和二年」一三四六年。
「神明下」不詳。識者の御教授を乞う。
「寛永」一六二四年から一六四五年。ネット情報では移したのは寛永二(一六二五)年である。
「甘糟右近亮時綱」不詳。
「安永九年」一七八〇年。]
名馬小耳
六百七十年前の諏訪大明神畫詞に次の樣な奇瑞譚が出て居るのを見ると、生贄の耳を切る方式は、此頃早既に絶えて居たのである。曰く信濃國の住人和田隱岐前司繁有、當社頭役(とうやく)のとき流鏑馬(あぶさめ)のあげ馬闕如して、一族に石見入道と云ひける者、黑駮の良馬を立て飼ひけるを借用しけるに、古敵の宿意ありて借與に及ばず、且つは使者の詞をだにも聞入れざりけり。祭禮の日に當つて、此馬俄に病惱して既に斃れんとしけるが、左右の耳忽ちに失せにけり。奇異の思をなしてつらつら思案するに、揚馬に借られたりし事を思ひ出でて神道に種々の怠りを啓し、幣を附けて本社の神馬に獻じければ、病馬立ちどころに平癒して、水草の念も本に復しけり。兩耳は漸う出現しけれども、もとの如くにはあらざりけり。近年當社に小耳といふ名馬は則ち是なりと。卽ち耳の消滅に由つて神の御用に心づく迄の傳統はまだ絶えて居なかつたのである。
切るのが必す耳でなければならなかつた所以は、此等の動物の習性を觀察した人ならば知るであらう。耳で表現する彼等の感情は、最も神祕にして解しにくいものである。常は靜かに立つて居て、意外な時に其耳を振り動かす。だから外國にも之を以て幽冥の力を察せんとした例が多い。佐々木喜善君の郷里などでは、出産の場合に山の神の來臨を必要とする信仰から、馬を牽いて御迎へに行く風が今も行はれて居るが、馬が立止つて耳を振るのを見て、目に見えぬ神の召させたまふ徴とする。故に遠く山奧に入つて日を暮らすこともあれぱ、或は門を出ること數步にして、すぐに引返して來ることもあるといふ。數ある鹿の子の中から孰れを選みたまふかを卜する場合にも、恐らくはもと耳の動きを見たので、それが自然の推理として、切るならば耳といふことに定まつたものでは無いかと思ふ。
所謂占べ肩燒の用に供せられた鹿なども、必す豫め神意に基づいて之を選定する樣式があつたのである。それがもし自分の想像する通り、嚴重の祭典と終始したとすれば、之を耳切り若くは牽き來つて屠つた場處も、永く神德を記念すべき靈地であつたらう。石を存し樹を植ゑ、土を封して塚とする最初の目的は、常人の拓き耕すことを防ぐに在つた。諸國の獅子塚が屢〻靈ある獅子の頭を埋めたと傳へるのは、若し誤聞で無いならば則ち此古風の踏襲であつて、奧羽地方の鹿踊のわざをぎと、之に伴ふ幾つかの由來談とは、たまたま中間に在つて能く過渡期の情勢を語るものであつた。
[やぶちゃん注:太字「わざをぎ」は底本では傍点「ヽ」。「わざをぎ」とはしばしば「俳優」と書く。古くは「わざおき」で「態招(わざをぎ)」で「神を招(を)ぐ態(わざ)」の意。面白可笑しい技や仕草を演じつつ歌い舞って、神や人の心を和らげ楽しませること。また,それを行う人を指す。
「小耳」「こみみ」。神馬・名馬で、他の馬と異なった外見的特徴からつけられた名前の一つとして聴かれる名である。例えば、義経の用いた愛馬の一頭に「小耳子(こみみ)」がいる。
「諏訪大明神畫詞」「すはだいみやうじんゑことば」と読む。ウィキの「諏方大明神画詞」によれば、『長野県の諏訪地域に鎮座する諏訪大社の縁起で』、正平一一/延文元(一三五六)年成立で全十二巻(本書は昭和九(一九三四)年の刊行であるから、柳田の言う「六百七十年前」はおかしく、五百七十八年前になる。或いは、この時代、この縁起の最初は、そこまで遡ると言われていたのかも知れぬ。因みに実際の「六百七十年前」だとすると、弘長四(一二六四)年で鎌倉後期となるが、以下の叙述(足利尊氏の奥書)と合わないから、誤認かも知れぬ)。『著者は諏訪円忠(小坂円忠)』。元々は「諏方大明神縁起絵巻」「或いは「諏方縁起」などと『称する絵巻物であった』。但し、『早い段階で絵は失われ、詞書(ことばがき)の部分の写本のみを現在に伝え、文中には「絵在之」と記すに留めている』。『著者の諏訪円忠は、神氏(諏訪大社上社の大祝)の庶流・小坂家の出身で、室町幕府の奉行人であった』。そのため、『足利尊氏が奥書を書いている。成立に関しては』、南北朝期の公家洞院公賢(とういんきんかた)の日記「園太暦(えんたいりゃく)」にも記されており、この頃既に『失われていた』絵巻「諏方社祭絵」の『再興を意図したものであったという』とある。同書の「下」のここに以下の話は出る(国立国会図書館デジタルコレクションの「続群書類従 第三輯ノ下 神祇部」の当該箇所の画像)。
「和田隱岐前司繁有」不詳。ただ、前の注の最後にリンクさせたそれを見ると、この話の前の条が「嘉元の比」(ユリウス暦一三〇三年から一三〇五年)と始まり、次の条は「元弘貮年の秋の比」(一三三二年:鎌倉幕府滅亡の前年)で始まっているから、話柄順列が正しければ、鎌倉末期の出来事と一応、比定出来る。
「頭役(とうやく)」神事の非神職の実務の最高責任者。
「あげ馬」「上馬」で神への献上馬の謂いであろう。
「闕如」「けつじよ」。「欠如」に同じい。
「石見入道」不詳。
「黑駮」「くろぶち」。
「立て飼ひ」これは本来は「櫪(たて)飼ひ」で、「櫪」は「厩(うまや)」の意である。「馬をちゃんと厩を設けて飼う」の意。
「古敵の宿意」同族でありながら、古くから敵対してきた悪因縁があること。
「詞」「ことば」。
「斃れん」「たふれん」。
「揚馬」前の「あげ馬」に同じ。
「啓し」「まうし」。「申し」に同じい。
「幣」「ぬさ」。
「水草の念」「すゐさうのねん」。「法華経」の「譬喩品第三」に出る、「若作馲駝 或生驢中 身常負重 加諸杖捶 但念水草 餘無所知」(若しくは馲駝(らくだ)と作(な)り 或は驢(ろ)の中に生まれ 身に常に重きを負ひ 諸の杖捶(じようすい;鞭。)を加へられん。但だ、水草を念ひて、餘は知る所、無けん)の、水と飼い葉を求めるばかりの畜生の生き様を、恩讐一途の思いに譬えたものか。
「漸う」「やうやう」。
「耳で表現する彼等の感情は、最も神祕にして解しにくいものである」競馬情報サイト(言っておくが、私は競馬には全く興味がない)「うまキュレ」の「馬の感情は、耳の動きを見ればわかる!?」が画像とともに非常に分かり易い。
「佐々木喜善」(きぜん 明治一九(一八八六)年~昭和八(一九三三)年)は岩手県土淵村生まれの民話研究家。早稲田大学中退(病気のため)。東京遊学中に柳田国男の知遇を得、その時に提供した郷里岩手県遠野地方の伝説昔話の資料が「遠野物語」に纏められた。後に帰郷し、民間伝承の採集に努めた。晩年には同年に没した宮沢賢治とも交友があった。
「徴」「しるし」。
「占べ肩燒」「うらべかたやき」。太占(ふとまに)のこと。雄鹿の肩甲骨を焼き、その町形(
まちがた:骨の表面の割れ目の模様)によって占う呪術。鹿の骨を用いることから鹿占(しかうら)とも称される。中国から亀卜(きぼく)の法が伝わると、これを神祇官の卜部(うらべ)氏が管掌して廃れた(以上はウィキの「太占」に拠る)。]
○六國見〔呂久古計武〕 村の巽隅にある山を云〔登八町四十五間〕、山の南麓は山之内圓覺寺の域内なり、頂上松樹の下に淺間の小祠あり、登臨すれば四望曠濶として豆相武房上下總の六州一瞬の内に入れり由て名とす、且西は富嶽東北は筑波山を遠望し郡中第一の壯觀なり、
[やぶちゃん注:掲げた「六國見眺望圖」は底本(国立国会図書館デジタルコレクションの昭和七(一九三二)年~昭和八年雄山閣編輯局編雄山閣刊「大日本地誌大系第四十巻」の「新編相模國風土記稿」)のそれが暗いので、時に校合している同コレクションの間宮士信等編になる「新編相模國風土記稿」(明治一七(一八八四)年~明治二一(一八八八)年鳥跡蟹行社刊。こちらには底本にない挿絵が含まれてもいる)のそれをトリミングし、汚損を清拭して用いた。前者も後者も保護期間満了であり、現在、同コレクションのパブリック・ドメインの画像の使用許可は不要となっている。この図は特殊な作りとなっており、右手前に東方向からの「六國見」山と「勝上見」を描き、全体はそこから南にやや回転した状態の鳥瞰図風のものを、改めて左手に「六國見」山と「勝上見」を再度描いて、眺望を描いているので注意されたい。キャプションはかなり読み易いので、電子化はしないが、「勝上見」は「しやうじやうけん」と読み、建長寺の半僧坊の上のピークで、正しくは「勝上巘」と表記し、現行では「勝上献(しょうじょうけん)」とする。所謂、「鎌倉アルプス・ハイキング・コース」の東の末端のである(因みにこの「鎌倉アルプス・ハイキング・コース」という名は虫唾が走るほど、嫌いである)。
「六國見〔呂久古計武〕」「ろくこ(つ)けん」は現在の鎌倉市高野(たかの)にある六国見山(ろっこくけんざん)。海抜百四十七メートル。
「巽隅」「たつみすみ」南東の境。
「八町四十五間」九百五十五メートル弱。
「山の南麓は山之内圓覺寺の域内なり」私は今から三十九年前、二十歳の頃、ここに登り、未だ全く開発されていなかった現在の高野地区(完全な畑地で、その半分は既に打ち捨てられていた。擦れ違った巨大な竹籠を背負った老農婦から蜜柑を貰ったのを思い出す)に下り、そこから八重葎を潜って進むうち、恐ろしく古びた石段の痕跡を見出し、そこを下ったところが――何と――円覚寺舎利殿の真裏――であった。そっと殿内に入って、晩秋の夕陽の射したそこの静けさに堪能した。誰にも見つからず、門前の柵を潜り、私は藪野家の墓をお参りした上で(藪野家の菩提寺は円覚寺の白雲庵であり、檀家は入場料を払う必要はないのである)を、何気ない風をして円覚寺山門を後にした(言っておくと、当時から既に舎利殿はその門前から先は侵入禁止であった)。]
○大船村〔於保布奈牟良〕曩昔此地瀕海にして粟を積たる船着岸せし緣故に因り、粟船村と唱へしと傳ふ〔【鎌倉志】引常樂寺略傳記曰、古老相傳以粟船號村依山得名、此地往時爲海濵、以載粟船繫于此一夕變而化山、今粟船山是也云々、此等に依て土俗此説を設けしなり、〕。粟船の地名は古書に往々見えたり〔【東鑑】寛元元年の條村民所藏永正十二年の勸進狀【北條役帳】村民所藏天正九年の文書足柄下郡板橋村民藏同十四年の文書等に見ゆ、則下の條に引用す、又【東鑑】建長五年の條【神明鏡】元弘三年の條に靑船とあるも當村を云へるなり、こは全く當時訛稱のまゝを偶記せしなるべし、〕。今の文字に改しは何の頃なりけん、既に正保の改には今の文字に作れり、江戸より行程十二里、小坂郷に屬す、元弘三年五月新田義貞鎌倉を攻る時、當所を放火せしこと所見あり、〔【神明鏡】曰、五月十八日卯刻、藤澤・靑船・片瀨・十間酒屋。五十餘ケ所に火を懸て敵三方より懸けたり、〕天正九年八月當村の税錢增加の沙汰あり、當年十月を限り皆濟すべき由を令す〔舊家小三郎文書曰、十三貫八百九十四文、粟船段錢三ケ二仁懸自當年可致進納辻、此外三ケ一上田所江被遣之、右先年無檢地郷村、就御代替、當年雖可被改候、其以來被打置、只今事六ケ鋪間、以段錢增分被仰付候、米穀計運送之苦勞可存者、員數相當次第、黃金永樂絹布之類麻漆等、有合候物遠以可納之、然者十月晦日、必可致皆濟所、可捧一札旨仰出者也、仍如件、辛巳八月十七日、粟船代官百姓中、北條氏虎印、按ずるに御代替と云るに、天正九年氏直家督の時を指るなるべし、〕。此頃當村及び近郷の所々藍瓶錢の課役を出せり。十四年十二月不納せしにより更に催促の沙汰あり〔足柄下郡板橋村紺屋藤兵衞文書寫曰、粟船云々、右之在所不入と申、紺屋役不出候由、曲事仁堅申付可取、猶兎角申不出候はゞ、可申上云々 丙戌十二月二十五日、京紺屋津田江雲奉之、虎朱印あり、〕。東西二十町、南北八町許〔東、今泉村、西、小袋谷・岡本二村、南、山之内・臺二村、北、笠間村、〕民戸六十八、小田原北條氏分國の頃は上田案獨齋知行す〔【役帳】曰、案獨齋、二百六十貫三十四文、東郡粟船郷、〕。今御料及能勢靭負佐〔寶永七年御料の地を、村上主殿・村上壽之助に頒ち賜ひ、文化八年、松平肥後守容衆に替賜ひ、文政四年御料に復し、同六年裂て能勢氏に賜ふ、殘れる地今猶御料所あり、〕蜷川相模守親文〔古は御料所なり、元祿十一年長山彌三郎に賜ひ、文化八年、御料及び肥後守容衆の領地となりしに、文政四年蜷川氏に賜ふ、〕根岸九郎左衞門〔是も御料所なりしを文化十二年、父肥前守鎭衡に賜ふ、〕木原兵三郎〔享保の頃より知行す、是も初は御料所なり、〕等知行す、檢地は延寶六年成瀨五左衞門改む、戸塚宿よりの鎌倉道村内を通ず〔幅二間、〕。
[やぶちゃん注:今回から、一部に句点を配して読み易くすることにした(底本には読点のみで句点はない)。
「大船村」現在の鎌倉市大船の一部。明治二二(一八八九)年四月一日の町村制施行により、大船村・小袋谷村・台村・今泉村・岩瀬村及び山内村が合併、「小坂村」が成立(現在の大船駅はその前年の明治二十一年十一月一日に既に開業している)、昭和八(一九三三)年二月十一日には小坂村が町制施行して「大船町」へ改称(同年四月二日には玉縄村を編入)、戦後の昭和二三(一九四八)年六月一日に鎌倉市へ編入された(ここはウィキの旧「大船町」に拠った)。
現在は、鎌倉市大船地区が該当する。「曩昔」「のうせき」。昔。以前。「曩」は「先に・以前に」の意。
「瀕海」「ひんかい」海に面していること。臨海。
「【鎌倉志】引常樂寺略傳記曰、古老相傳以粟船號村依山得名、此地往時爲海濵、以載粟船繫于此一夕變而化山、今粟船山是也云々」書き下すと、「【鎌倉志】に「常樂寺略傳記」を引きて曰く、『』古老、相ひ傳ふ、粟船を以つて村に號することは、山に依〔り〕て名を得たり。此の地、往時(むかし)、海濵たり。以て粟(あは)を載(の)する船を此(ここ)に繋ぐ。一夕、變じて山と化す。今の粟船(あはふね)山、是れなり」。私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之三」の「常樂寺」の条を参照されたい。
「此等に依て土俗此説を設けしなり」「風土記稿」の作者がこの地名説に疑義を持っている感が窺える。
「【東鑑】寛元元年の條」「吾妻鏡」の寛元元(一二四三)年六月十五日の条に、
*
十五日庚申 天霽。故前武州禪室周闋御佛事。於山内粟船御堂被修之。北條左親衞幷武衞參給。遠江入道。前右馬權頭。武藏守以下人々群集。曼茶羅供之儀也。大阿闍梨信濃法印道禪。讚衆十二口云々。此供。幽儀御在生之時。殊抽信心云々。
○やぶちゃんの書き下し文(〔: 〕は私の注)
十五日庚申(かのえさる) 天、霽(は)る。故前武州禪室〔:北条泰時。〕、周闋(しゆうけつ〔:一周忌。〕)の御佛事、山内粟船(あはふな)御堂〔:後の常楽寺。〕に於いて、之れを修せらる。北條左親衞〔:経時。〕幷びに武衞〔:時頼。〕參じ給ふ。遠江入道〔:朝時。〕、前右馬權頭〔:政村。〕、武藏守〔:朝直。〕以下の人々群集す。曼茶羅供(まんだらぐ)の儀なり。大阿闍梨信濃法印道禪。讚衆十二口と云々。此の供は、幽儀〔:故人泰時。〕御在生(ぞんしやう)の時、殊に信心を抽(ぬき)んずと云々。
*
「永正十二年」ユリウス暦一五一六年。
「天正九年」ユリウス暦一五八一年。グレゴリオ暦はこの翌年から。
「足柄下郡板橋村」現在の神奈川県小田原市板橋附近。
「【東鑑】建長五年の條」これは思うに、建長六(一二五四)年の誤りではあるまいか? 同年六月十五日の条に、やはり泰時の忌日の記載があり、「十五日乙酉。霽。今日。迎前武州禪室十三年忌景。被供養彼墳墓靑船御塔」(十五日乙酉(きのととり) 霽る。今日、前武州禪室十三年の忌景(きけい)を迎へ、彼(か)の墳墓、靑船(あをふな)の御塔を供養せらる)とあるからである。
「神明鏡」「しんめいかがみ」と読む。神武天皇から後花園天皇までの年代記で上下二巻。作者未詳。南北朝時代末期(十四世紀後半)の成立かと推測され、永享二(一四三〇)年まで書き継がれているが、史実とは思われない記事がかなりあって、仏教色に富んだ伝承をとり入れている。時代が下るにつれて「保元物語」「平治物語」「平家物語」「太平記」などによった合戦譚の記事が目立つ。
「元弘三年」北朝の正慶二年で一三三三年。鎌倉幕府滅亡は同年五月二十一日(ユリウス暦七月三日でグレゴリオ暦換算では七月十一日相当)。
「正保」一六四五年~一六四八年。江戸幕府第三代将軍徳川家光の治世。
「改」改元の意か。ならば一六四五年。
「十二里」約四十七キロメートル。
「小坂郷」鎌倉郡谷(やつ)七郷(小坂・小林・葉山・津村・村岡・長尾・矢部。但し、異説蟻)の一つ小坂(おさか)郷。山内荘を中心とした鎌倉郡の大部分に当たる広域旧地名。南は小坪郷に「小坂郷小坪」・北は倉田郷に「小坂郡倉田」などと記録が残り、本「相模國風土記稿」では二十八ヶ村が相当すると記されている。現在は「小坂(こさか)」の地名で残る。ここは「いざ鎌倉プロジェクト」代表鎌倉智士(さとし)氏作成になる鎌倉郡内の地名紹介ページに拠った。
「【神明鏡】曰、五月十八日卯刻、藤澤・靑船・片瀨・十間酒屋。五十餘ケ所に火を懸て敵三方より懸けたり」正確には「五月十八日の卯尅に村𦊆・藤澤・靑舩・片瀨・十間酒屋、五十余ケ處に火を懸て敵三方より寄懸けたれば」である。国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像を視認して訓読した。「村𦊆」は現在の藤沢市の「村岡」、「十間酒屋」はやや離れるが、現在の茅ヶ崎市十間坂の旧称か。
「段錢」「たんせん」と読む。鎌倉から戦国時代にかけて臨時に賦課された税。朝廷や幕府が即位・譲位・大嘗会・内裏造営・将軍宣下・大社造営などの費用に当てるため、臨時に田に対して段(「反(たん)」に同じ面積単位)ごとに賦課したもの。当初は米を徴収したので「段米」と称したが,次第に金銭に変っていった。
「三ケ二仁懸自當年可致進納辻、此外三ケ一上田所江被遣之、右先念無檢地郷村、就御代替、當年雖可被改候、其以來被打置、只今事六ケ鋪間、以段錢增分被仰付候、米穀計運送之苦勞可存者、員數相當次第、黃金永樂絹布之類麻漆等、有合候物遠以可納之、然者十月晦日、必可致皆濟所、可捧一札旨仰出者也、仍如件」上手く訓読出来ない。以下、力技で示すので、誤読は御指摘戴けると嬉しい。
*
三が二に懸け、當年より進納致すべし辻[やぶちゃん注:不詳。「迚(とて)」の誤字か?]、此の外、三が一、上田(うへだ)の所え之れを遣さる。右、先年、無檢地の郷村、御代替(おんだひがはり)に就きて、當年、改められ候ふと雖も、其れ以來、打ち置てられ、只今、事、六かしき間(あひだ)、段錢の增分を以つて仰せ付けられ候ふ、米穀計(ばか)りは運送の苦勞、存(あ)るべくば、員數、相當次第たり。黃金・永樂・絹布の類、麻・漆等、有り合ひ候ふ物、遠[やぶちゃん注:不詳。「速(すみやかに)」の誤字か?]以つて之れを納むべし。然れば、十月晦日(みそか)、必ず、皆、濟み致すべき所、一札を捧ぐべき旨(むね)、仰せ出ださるものなり。仍つて件(くだん)のごとし。
*
文中の「三が二」「三が一」は段銭を課す田の段(たん)数の歩合を示すか? 「上田」は後に出る「小田原北條氏分國の頃は上田案獨齋知行す」という人物のであろう。
「辛巳」「かのとみ」。後の編者の推定注から天正九(一五八一)年。
「北條氏虎印」当時の後北条氏は虎の朱印判(印の上部に突き出して、虎のうずくまる形を形象したもの)を用いた。
「天正九年氏直家督の時を指るなるべし」「指る」は「させる」。後北条氏第五代当主北条氏直(永禄五(一五六二)年~天正一九(一五九一)年)。彼は天正八(一五八〇)年八月十九日に父氏政の隠居によって家督を継いでいる。天正一八(一五九〇)年の秀吉による小田原攻めで敗北、氏直自身が切腹するという条件で将兵の助命を請うて降伏した。父氏政及び叔父氏照は切腹となったが、秀吉は氏直の申し出を神妙とし、家康の婿(正室督姫(とくひめ)は家康の娘)でもあったことから助命され、高野山にて謹慎した。翌天正十九年の二月には秀吉から家康に赦免が通知され、同年五月上旬には大坂の旧織田信雄邸を与えられ、八月十九日に秀吉と対面して正式な赦免と、河内及び関東に一万石を与えられて豊臣大名として復活したが同年十一月四日、享年三十で大坂で病死した(「多聞院日記」によれば死因は疱瘡とされる)。なお、この北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続している(以上はウィキの「北条氏直」に拠った)。
「藍瓶」「あいがめ」で藍染めに於いて染料を入れる甕(かめ)、藍壺(あいつぼ)を指す。既に「臺村」の条で見たように、この附近では藍染めを生業或いは副業とする百姓がいた。
「足柄下郡板橋村紺屋藤兵衞文書寫曰、粟船云々、右之在所不入と申、紺屋役不出候由、曲事仁堅申付可取、猶兎角申不出候はゞ、可申上云々 丙戌十二月二十五日、京紺屋津田江雲奉之」我流で訓読しておく。
*
足柄下郡板橋村紺屋(こうや)藤兵衞が文書の寫しに曰く、「粟船云々、右の在所、不入(ふいり)と申し、紺屋役[やぶちゃん注:藍染め業者の元締めか。]、出でず候ふ由、曲事(くせごと)にて、堅く申し付け、取るべし。猶ほも兎角、申し出でず候へば、申し上ぐると云々。丙戌(ひのえいぬ)十二月二十五日、京(きやう)紺屋津田江雲、之れを奉る。
*
「丙戌」で「虎朱印であるから、天正一四(一五八六)年。
「東西二十町、南北八町」東西約二キロ、南北約八百七十三メートル。現在の大船地区とほぼ同等である。
「上田案獨齋」後北条氏家臣で武蔵国松山城主上田朝直(ともなお 明応三(一四九四)年或いは永正一三(一五一六)年~天正一〇(一五八二)年)と思われる。彼の法名は安独斎宗調である。ウィキの「上田朝直」によれば、『出自は武蔵七党の西党の流れを汲む上田氏の庶流』で、『当初は扇谷上杉家に仕えていたが同家が後北条氏に滅ぼされ、伯父・難波田憲重が戦死して松山城を奪われると、憲重の娘婿・太田資正が奪還して松山城に入った。その後、資正が太田氏宗家を継ぐために岩付城に戻ることになると縁戚である朝直に松山城を譲ることになる(資正の妻は朝直の従兄弟にあたる)が、朝直は資正から離反して後北条氏に従った』。『行政手腕に優れており、北条氏康から信任を受けて独自の領国経営を許されたという』。天文一九(一五五〇)年頃には既に「安独斎」と号している。永禄二(一五五九)年頃には関東に出兵して来た長尾景虎(上杉謙信)に呼応し、一度、北条氏を離反しているが、永禄四(一五六一)年に『政虎(景虎)が関東から撤兵すると、再び北条氏に帰参を許されているが、責任を問われて本貫地であった秩父郡に移され』たが、その後、永禄一二(一五六九)年に『武田信玄と三増峠の戦いで戦うなど、武功を評価されて松山城主に戻され、また上田宗家を相続している。晩年は子の長則に家督を譲って隠居した』とある。
「今御料及」「いま、ごれうにおよぶは」と訓じておく。
「能勢靭負佐」「のせかげゆのすけ」と読むか。江戸後期(文政六(一八二三)年)の現在の戸塚区の田谷の知行者として同名が出る(こちらの「昭和十六年橫濱市報・橫濱史料」データによる)。「神奈川県神社庁」公式サイトの、後掲される大船にある熊野神社の由緒のところに『又、甘槽土佐守清忠、甘槽備後守清長、甘槽佐渡守清俊などの武将および、長山弥三郎、能勢靱負佐、村上主殿、木原兵三郎、松平肥後守容衆、肥前守領衛などの主名門の諸家、厚い崇敬の誠をつくせり。古来画像を安ぜしを正親町天皇の御代天正七年七月、甘槽佐渡守平朝臣長俊、御座像を再興し奉る』とある(下線やぶちゃん)。この人物の末裔であろう(因みに、「肥前守領衛」は「鎮衛」(「耳囊」の江戸町行根岸鎮衛(しずもり。リンク先は私の全千話電子化訳注)の誤りではなかろうか? 後注「根岸九郎左衞門」「父肥後守鎭衡」も参照されたい)。
「寶永七年」一七一〇年。
「村上主殿」「むらかみとのも」と読んでおく。不詳であるが、前の「能勢靭負佐」の注を参照。
「村上壽之助」不詳。村上主殿と併置してあるが、同族であるかどうかは不明。寧ろ、改めて「村上」と姓を記しているのは、寧ろ、無関係な人物であると考えた方が無難であろう。
「文化八年」一八一一年。
「松平肥後守容衆」陸奥会津藩第七代藩主松平容衆(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)。夭折。
「文政四年」一八二一年。
「蜷川相模守親文」幕末期の旗本。室町幕府政所執事代蜷川氏の後裔らしい。
「元祿十一年」一六九八年。
「長山彌三郎」現在の戸塚区の公田が、同じ元禄十一年に同姓同名の人物が知行地として与えられている(こちらの「昭和十六年橫濱市報・橫濱史料」データによる)。
「根岸九郎左衞門」不詳。しかし、気になる。何故なら、先に出した根岸鎮衛の通称は九郎左衛門だからである。
「父肥前守鎭衡」不詳。しかしますます気になる。根岸鎮衛は「肥前守」で、しかも「衡」の字は「衞」とあまりに似た字だからである。根岸鎮衛には息子衞肅(もりよし)がおり、彼が家督を継いでいる。嗣子が父と同じ通称を用いることはごく普通のことである。
「木原兵三郎」旗本の木原氏であろう。なお、新井宿村(あらいじゅくむら:現在の東京都大田区山王)は同氏の領地で延宝三(一六七五)年当時、木原兵三郎重弘が統治し、旱魃続きで困窮した農民が彼に年貢減免を訴えるも却下され、江戸幕府へ直訴に向かうが、今一歩のところで木原家中の者に捕えられ、翌年に江戸木原本邸に於いて斬首刑に処せられている。以下の「享保の頃より知行」したというのだから、この人物の後裔ではあろう。以上は彼らの「新井宿義民六人衆墓」があるウィキの「善慶寺(大田区)」の記載に拠った。
「享保」一七一六年~一七三五年.
「延寶六年」一六七八年。第四代将軍徳川家綱の治世末期。
「成瀨五左衞門」「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の第六十話「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。
「二間」三メートル六十四センチメートル弱。]
○高札場三
〇小名 △木曾免〔木曾義高、古墳の邊なり、〕 △大明神〔爰に稻荷社を祀る〕 △岡 △御壺ヶ谷 △檜垣 △赤羽根 △堂ノ前 △太子谷 △瀧ノ前 △谷堀 △池ノ谷 △尼ヶ谷 △花摘免
[やぶちゃん注:底本の「大日本地誌大系第四十巻」では「池ノ谷」が落ちているが、「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」を確認し、「△」(底本の添え記号)を補って追加した。
「木曾免」「花摘免」一般に地名に附された「免」は寺社寄進などとして特別に年貢の一部が免除されていた地区を指す。或いは、前者は悲劇の少年武将の特別な墓所の供物として、後者は例えば寺の供花(香華)として一般人の花摘みを禁じた地域ででもあったものか? 或いは、「臺村」の市場で鬻ぐ商品に「紅花」が出ていたことを考えると、この花は「紅花」でったものかも知れぬ。最早、こうした小字は失われ、その由来も知り得なくなりつつあるのは、まことに淋しい限りである。]
[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年一月一日発行の『文芸俱樂部』に「私の生活(3)」で掲載された。この事実から、この「私の生活」という標題は芥川龍之介の自律的なそれではなく、雑誌編集部の、作家へのこの標題での依頼に依る連載コラムであるとは思われる。
底本は旧全集に拠ったが、読みは振れると私が判断したもののみに附した。太字(新聞名)は底本では傍点「△」である。踊り字「〱」は正字化した。添え題は、ブラウザでの不具合を考えて三字下げとしたが、底本では七字下げである。
「緊要」(きんよう)は「非常に重要なこと・差し迫って必要なさま」の意。
なお、芥川龍之介は、この二年前の大正七年二月二日に塚本文と結婚しており、また、翌大正八年六月に出逢った歌人秀しげ子と、九月には不倫関係に陥ると同時に、逆にしげ子に深い失望感をも抱いている。その辺りは、私の『芥川龍之介「我鬼窟日錄」附やぶちゃんマニアック注釈』を参照されたい。]
私の生活
――調子がよければ小説を書く――
朝は九時に起きて、パンと牛乳と紅茶とで朝飯を濟ませる。「日々」「朝日」の二新聞を取上げて、先づ一番先に三面記事を見る。(「時事」や「讀賣」は、此一二年來、文壇に出てからといふもの讀まない。)
それから調子がよければ小説を書きに、この書齋へ入る。調子が惡ければ、小説を書かないで本を讀む。
午(ひる)は普通の飯を食ふ。三杯位。特に好きな食物と云つて別にないが、煙草は、到底一と色(いろ)ではすまされぬ。紙卷、西洋の刻み煙草、葉卷などを、二色(ふたいろ)か三色いろいろなのをのむ。
風呂は僕の家でたてるので、每日か或は一日隔(お)きに入る。
髮は滅多に刈つた事がない。三月に一度も刈らないだらう。
――散步、酒、遊戲――
きまつた散步といふものはしない。たゞ東京の街の中へ人を訪ねて行くとか、買物に行くとかする時 に步く位(くらゐ)である。
酒は日本酒も西洋酒も飮まない。少しは飮む事もあるが、しかし、うまいとは思はない。別に好きな料理屋などが何處(どこ)にあるといふのではない。人と飯を食ふ時、行當りばつたりの家へ入る。
遊戲の心得は殆どない。只水泳が少しやれる位のものだ。
芝居も見るし、活動寫眞も見る。また音樂も聽く。だが必ずしも、そんな處に行かなくてはならぬといふのではない。殊に芝居はこの頃では見に行つても、人と話をしてゐる丈けである。さういふ意味で、必ず僕にしなくてはならぬのは、少くとも一週間に一遍(ぺん)位(ぐらゐ)は人中(ひとなか)へ入る事である。そして、人浪(ひとなみ)に搖られるやうな心持(こゝろもち)になるのである。それは往來でもよい。實際これは僕に取つて緊要(きんえう)な事であつて、それがないと、何となく萎縮してしまふのである。
――男と生れた甲斐には――
帽子は時に黑の中折(なかをり)を、時に茶のソフトを被(かぶ)る。着物などには別段の好みももつてゐない。惡く粹(いき)がつたなりなどは嫌ひである。僕は御覽の通り紫檀(したん)の机を二つ使つてゐる。一つは本などを置く机で、一つは原稿紙を置いて書く机である。本箱は、あの安物の西洋家具屋の店先に竝んでゐるやうなものは嫌ひである。好きな動物? 猫を飼つてゐる。御覽に入れませうか。西洋種(せいやうだね)の虎のやうな毛色をした、大きい奴で、頸には銀色の鈴をつけてゐる。
外國語は英語丈(だ)けが讀める。他は獨逸(ドイツ)、佛蘭西(フランス)、伊太利(イタリー)皆讀める程でない。
僕も男と生れた甲斐(かひ)には、どんな女でも好きである。僕の小説の好きな人なら特別に。
十二 アリスの證言
「はい。」とアリスは大層あわてふためいて、この數分間のうちに、自分がどんなに大きくのびたかなどといふことは、全く忘れて叫びました。そして餘り大いそぎで跳び上つたものですから、着物の据で陪審席をころがして、並んで居る陪審官を一人殘さず、傍聽人の頭の上にひつくり返してしまひました。陪審官達はそこで矢鱈(やたら)にもがきあつてゐました。その樣子はアリスに、一週間前思はず金魚の丸鉢(まるばち)をひつくり返した時の事を思ひ出させました。
「おや、まあ、ごめんなさい。」びつくり仰天してアリスは叫びました。そして出來る丈(だけ)早く、陪審官たちを拾ひあげました。何故なら、アリスの頭には金魚の事件が絶えずちらちらしてゐて、直ぐに拾つて陪審席に入れてやらないと、死んでしまふ樣な氣が、それとなくしたからでした。
「裁判は。」と王樣は大層重重しい聲でいひさした。「陪審官が全部復席するまでは進めない。――全部が――。」と女王はアリスをヂツと睨みながら、強い訓子で繰返しました。
[やぶちゃん注:この「女王」は「王樣」の誤訳である。]
アリスは陪審席を見ました。するとあんまりあわてて、蜥蜴(とかげ)を逆さまに突込(つきこ)んでゐたことに氣がつきました。蜥蜴は少しも身體(からだ)を動かすことができないので、みじめな樣子で、尻尾をパタパタさせてゐました。アリスは直ぐに又摘み出して、本當の位置に置いてやりました。「大した事ではないのよ。」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひました。「逆(さかさま)だつて裁判には差支へないと思ふんだけれども。」
陪審官たちは、顚覆事件の驚きが收(おさま)り、石板(せきばん)と石筆(せきひつ)が見つかつて、持主の手に入ると、直ちに今の事件を一生懸命に聞きはじめました。ただ蜥蜴のビルだけは、あんまりびつくりしたので、何にもしないで、口をポカンと開けて坐つたまま、法廷の天井ばかり見入つてゐました。
「この件について、何かお前は知つてゐるかい。」と王樣はアリスに言ひました。
「何にも知りません。」とアリスは答へました。
「どんなことも知らないのか。」と王樣は詰(なじ)りました。
「どんな事も知りません。」とアリスは言ひました。
「それは大變重大なことだ。」と陪審官の方を向いて、王樣は言ひました。
丁度陪審官たちが、この事を聞き初めたときでした。突然白兎が口をだしました。「重要でないと、陛下は仰せられたのだ。無論のこと。」兎はこれを大層愼(つつま)しやかな調子で云ひましたが、王樣に向つては顏をしかめて合圖をしました。
「重要でないとわしは言つたのだ。無論のこと。」と王樣はあわてて言ひました。そして低い聲で獨語(ひとりごと)に、「重要である――重要でない。――重要でない。――重要である。――。」と丁度どの言葉の調子がいいか、調べて居るやうに續けました。
陪審官の中には「重要である。」と聞いたのもあり、「重要でない。」と聞いたものもありました。アリスは陪審官たちの石板を上からのぞける位に近くにゐましたので、これがよく見えました。「でも、どつちだつてかまやしないわ。」とアリスは心の中で思ひました。
この時しばらく忙しさうに、控帳(ひかへちやう)に何か書いてゐた王樣は、「靜肅に。」とどなりました。それから控帳を讀み上げました。「規則第四十二條、一哩(まいる)以上の高さあるものは、凡て法廷を去ること。』
[やぶちゃん注:「一哩」約一キロ六百九メートル。]
誰もかもアリスを見ました。
「わたし一哩の背なんかないわ。」とアリスは言ひました。
「約二哩位ぱあるよ」と女王がいひ足しました。
「お前それ位ある。」と王樣は言ひました。
「でも、とにかくわたしに行きません。」とアリスは言ひました。「それにそんなの正式の規則ではありません。」
「あなたが、たつた今作りだしたのでせう。」
[やぶちゃん注:改行されいるが、これは前に続くアリスの台詞である。]
「これは書物に載つてゐる一番古い規則だよ。」と王樣は言ひました。
「それでは第一條でなければならないはずですわ。」とアリスは言ひました。
王樣は蒼い顏になつて、あわてて控帳をとぢてしまひました。「君方(きみがた)の評決はどうだ。」と低いふるへ聲で王樣は陪審官たちに言ひました。
「陛下、まだ證據物件があります。」と白兎は大層あわてこんで、とび上りながら言ひました。「この紙はたつた今拾ひ上げられたものです。」
「それには何が書いてある。」と女王がいひました。
「わたくしはまだ開(あ)けません。」と白兎は一冒ひました。「けれどもこれは囚人が誰(たれ)かへあてて書いた手紙のやうであります。」
「それはさうに違ひない。」と王樣はいひました。「誰(たれ)あてともしてなければ、普通ぢやないからねえ。」
「誰(たれ)に宛たものだ。」と陪審官の一人が言ひました。
「全然宛名がないのです。」と白兎は言ひました。「ほんとに外側に何にも書いてないのです。」兎はかう言ひながら手紙を開(ひら)いて、いひ足しました。「これはつまるところ手紙ではありません。詩です。」
「それはこの囚人の手蹟(しゆせき)ですか。」ともう一人の陪審官は言ひました。
「いいえ、さうではないのです。」と白兎は言ひました。「これは實際奇妙なことなんです。」(陪審官はみんな何が何だか分らない樣な顏付をしました。)
「囚人は誰(たれ)かの手(て)をにせたにちがひない。」と王樣はいひました。(すると陪審官の顏は又明るくなつてきました。)
「陛下。」とジヤツクは言ひました。「わたしはそれを聞きません。わたしがきいたといふ證據がありません。しまひに署名がしてありません。」
「お前がそれに署名をしなかつたとすれば、」と王樣は言ひました。「益々(ますます)事態が惡くなるばかりだ。お前は何か惡い事でも、もくろんでゐたにちがひない。それでなければお前は正直な人の樣(やう)に、お前は署名をしたであらう。」
このときみんなが拍手をしました。これは王樣がこの日に初めていつた一番旨(うま)い言葉でした。
「それがあの男の有罪であるといふ證據だ。」と女王はいひました。
「これはちつとも證據にならないでせう。」とアリスは言ひました。「だつてあなた方はそれに何が書いてあるか知らないのでせう。」
「それを讀め。」と王樣は言ひました。
白兎は眼鏡をかけて、「陛下どこから始めませうか。」と尋ねました。
「初めから始めよ。」と王樣は重重しく言ひました。「そしてしまひまで讀んで、そこで止めるんだ。」
[やぶちゃん注:最後の王様の台詞の鍵括弧の始まりがないので、かく打っておいた。]
白兎の讀んだ詩はかういふのでした。
「お前があの女のところに行つて、
わしのことをあの男に話したといふ噂だ。
あの女はわしを賞(ほ)めてくれたが。
わたしに泳(およぎ)ができないといつた。」
「あの男はみんなに云つた、わたしが去つてしまはなかつたと。
(わたしたちは、それをほんとだと思ふ。)
若しもあの女が事件をせめてきたらお前はどうなることだらう。」
「わたしはあの女に一つやつた、みんなは男に二つやつた。
お前はわたしたちに三つ以上くれた。
みんな一つのこらずあの男からか前のところにもどつてしまつた。
けれども以前はみんなわしのものだつた」
「わしかあの女かがひよつとして
この事件にまきぞへをくつたら
あの男はお前を信用して、吾吾(われわれ)と同じく
みんなを自由にしてくれる。」
「わたしの意見はかうなんだ
(あの女が發作(ほつさ)をおこすまへ。)
お前はあの人と、わしたちと、それとの
間にゐた厄介物(やつくわいもの)だつたと。」
「あの女はみんなが一番好きだつた
といふことをあの男に知らせるな。
なぜならこれは祕密だ、
お前とわしとの間のほかは誰(たれ)にも
内密だ。」
「これは今までに聞いたうちで一番大切な證據だ。」と王樣は手をこすりながら言ひました。「それでは陪審官に――」
この時アリスは口を出して(アリスはこの二、三分間のうちに大變大きくのびてしまつたので王樣の邪魔をする位(くらゐ)何とも思はなくなりました。)「若(も)し誰(たれ)かこの詩の説明が出來たらわたしは二十錢(せん)あげるわ。わたしはこの詩の中に微塵(みぢん)ほどの意味もないと思ふわ。」
陪審官たちは石板に「この子は詩の中に微塵ほどの意味もないと思つて居る。」と聞きました。けれども一人もその問題の紙を説明しようとするものはゐませんでした。
[やぶちゃん注:「聞きました」はママ。「書きました」の誤り。]
「若しもそれに意味かないのなら。」と王樣は言ひました。「われわれはそれを探す必要がないのだから世の中の面倒がなくなる。しかしわしには分らない。」そして詩を片膝(かたひざ)にひろげ、片目でジツと見てまた言ひつづけました。
「とにかく何かの意味があるやうに思へる。――「わたしには泳げないといつた。
――ええと、お前泳ぎかできるかい。」と、ジヤツクに向つて言ひました。
ジヤツクは悲しさうに頭をふつて、「わたしはさう見えますか。」と言ひました。(身體(からだ)全部が厚紙で出來てゐるのですから、ジヤツクには泳ぎなんぞたしかにできるわけがありませんでした。)
[やぶちゃん注:最後は鍵括弧であるが、丸括弧に訂した。]
「よろしい、それだけは。」と王樣はいつて獨(ひとり)で、ぶつぶつ詩を讀み續けました。「わたしたちはそれをほんとだと思ふ」――これは無論陪審官だ――「わたしはあの女に一つやった。みんなはあの男に二つやつた。」――ふん、これがお饅頭をどう處分したかといふことにちがひない!」
「でもその後(のち)に「みんな一つ殘らずあの男から、お前のところにもどつていつた 」と書いてあるわ。」とアリスが言ひました。
「うん、それでそこにあるのさ。」と王さまはテーブルの上のお饅頭を指さしながら得意になつていひました。「これほど、はつきりした事はない――それから、また――「あの女が發作をおこす前」――お前、發作なんかないとわしは思ふが。」と女王に向つていひました。
「あるもんですか!」と女王は大層怒(おこ)つて、蜥蜴にインキ壺を投げました。
(不仕合(ふしあは)せなビルは石板に一本の指で、いくら書いても何にも書けないので、書くことを止めてゐました。けれども、今度は顏からぽたぽた傳(つたは)り落ちて來るインキをつかつて、大急ぎで書き始めました。
「それぢやフイツト(發作)なんかいふ言葉は、お前にはフイツトしない(當てはまらない)しねえ。」と王樣はコニコしながら、法廷を見まはしていひました。ところか法廷中、誰も咳(せき)一つしませんでした。
[やぶちゃん注:最初の台詞は底本では「それぢやフイツト(發作)なんかいふ言葉は、お前にはフイツトしない。(當てはまらないしねえ。」となっている(丸括弧閉じるがない)。私が恣意的に、かく訂した。英語の“fit”には、「フィットする」、「大きさ・形がぴったり合う」という動詞以外に、名詞で「発作;・ひきつけ・さしこみ」の意がある。]
「これは洒落なんだぞ。」と王樣は怒った聲でいひ足しました。するとみんなが笑ひ出しました。「陪審官の評決をききたい。」と王樣は言ひました。この言葉は其の日に於てほぼ二十度目位(ぐらゐ)でした。
「いいえ、いいえ。」と女王がいひました。「初めに宣告で――評決はあとです。」
「馬鹿なこと!。」とアリスは大きな聲でいひました。「宣告を初めにするなんていふ考へは。」「お默り。」と女王は眞赤になつていひました。
「默りません。」とアリスは言ひました。
「あの女の子を打首(うちくび)にしろ。」と聲を張上(はりあ)げて、女王は言ひました。が、誰(たれ)も動きませんでした。
「誰(たれ)がお前さんのいふことなんかきくもんか。」とアリスは言ひました。(この時分にはアリスはもう、普段の背(せい)になりきつてゐました。)「お前たちはトラムプ・カルタの一組にすぎないぢやないの。」
これを聞いて、カルタの組は全部空中にまひあがつて、アリスの上に飛びかかつてきました。アリスは半ば驚き、半ぱ怒りの叫びをあげました。そしてカルタを叩き落さうとしました。するとこの時、ふと目がさめて、見上げると、自分は姉樣(ねえさま)の膝を枕にして、土手にねてゐるのでした。そのとき姉樣は樹から、アリスの顏に落ちてきた樹(き)の葉を、やざしく拂ひのけてゐひました。
[やぶちゃん注:「ゐひました」はママ。]
「お起きなさい、アリスちやん。」と姉樣は言ひました。「ずゐぶん長く寢たのねえ。」
「まあ、わたしずゐぶん奇妙な夢を見ましたわ。」とアリスは姉樣に言つて今まで、みなさんが讀んできた不思議な冒險談を、思ひだせるだけ姉樣におはなししました。そしてアリスが話し終りましたとき、姉樣はアリスをキツスしていひました。「ほんとに不思議な夢だわねえ。でも、さあお茶をのみに馳(か)けておいで。もう遲いから。」そこでアリスは、立ち上つて駈(か)けだしました。走りながらも、何と不思議な夢だつたらうと夢中になつて考ヘてゐました。
――――――――――――――――
けれども姉樣は、アリスがいつてしまつても、まだあとに殘つて、片手で頭を支へて、沈んでいくお日樣を見ながら、小さなアリスとアリスの冒險談とを考へて居るうちに、姉樣もつひに同樣な夢を見ました。その夢といふのはかうでした。
初め姉樣は、小さいアリスの事を夢に見ました。それは昔あつたやうにアリスはちいちやい兩手を姉樣の脇の上で組んで、明るい熱心な眼で姉樣の目を見上げてゐました。――姉樣はその聲そつくりを聞きましたし、それから、その目に入りたがる後(おく)れ毛を拂ふために、頭を妙(めう)にうしろへ、そらせる樣子まで見ることができました。――そして姉樣が耳を傾けて話を聽いてい居るとあるひは聽いてゐる樣な氣がしてゐるち、そこいら中(ぢゆう)一杯にアリスの夢の珍しい動物がでてきました。
背(せい)の高い草は白兎が走つて通り過ぎたとき、足許(あしもと)でざわつきました。――おぢおぢした鼠は、近くにある池の中を泳いでゐました。――三月兎と友達とが終りのない茶をのんで、茶呑茶碗をガチヤガチヤいはせて居るのが聞えてきました。そして女王の金切聲が不仕合なお客たちに、死刑を宣告して居るのも聞えました。――又、豚の子が公爵夫人の膝の上で、くしやみをしてゐると、そのぐるりで、平皿や深皿が壞れる音が聞えました。――又グリフオンのキーキー聲、蜥蜴の石筆のきいきい軋(きし)む音、おさへられた豚鼠の、のどのつまつた聲は、哀れなまがひ海龜の微(かす)かな啜(すす)り泣きと一緒になつて、宙(ちう)に充(み)ちひびいてゐました。
かういふ風に、姉樣は目を閉ぢて、坐り込んで不思議の國のことを、半ば信じて考へてゐました。けれども一度目をあけると、凡てが面白味のない此の世のものに、變つてしまふといふことは、知つてゐました。――草は風になびいて、ザクザクいふだけでせう、池は葦が風にそよぐにつれて、小さい波をたてるだけでせう――ガチヤガチヤと音のする茶呑荼碗は、チリンチリンいふ羊の首の鈴に、かはつてしまふでせう、そして女王の金切聲は羊飼(ひつじかひ)の少年の聲になるでせう――そして赤ん坊の泣き聲も、グリフオンの泣き聲も、其他の奇妙な聲もみんな忙がしい畑で聞える、がやがやいふ物音になるでせう。(といふことを姉樣は知つてゐました。)――さうしてゐるうちは、遠くでうなる牛の聲がまかひ海龜の重くるしい、啜り泣きの代りに耳に入つて來ることでせう。
最後に姉樣は、この小さい同じ妹が、やかては大人(おとな)になつていくこと、それからアリスが年をとる間に、子供時代の無邪氣な可愛らしい心を、何んな風にもち續けるだらうといふ事や、アリスが自分の子供たちをぐるりに集めて、いろいろな珍らしいお話を聞かせて、その中には昔見た不思議な國の夢もあることでせうが、聞かせてやつて、子供たちの目を輝かせたり、見はらせたりする樣子や、又、アリスが、自分の子供時代の生活やら、幸福な夏の日を思ひだしながら、自分の子供の單純な悲しみに同情し、その單純な喜びに樂しみを感じたりする時のことなど、かうしたいろいろな有樣を心の内に描いて見るのでした。
[やぶちゃん注:次頁は「小學生全集」のリストの下に、奥付がある。上部に右から左書きで、「小學生全集第二十八卷」、その下に「アリス物語」、その下に「(初級用)」とあって、以下縦書の奥付となる。
昭和二年十一月十五日印刷
昭和二年十一月十八日發行
で、芥川龍之介死後、凡そ四ヶ月後である。]
[やぶちゃん注:実はこの奥付の裏に同「小学生全集」の編集後記風の一頁が存在する。冒頭が「愛讀者の皆さまへ」(四段組の最上段一段前部)で、以下の三段分が「次囘配本」の予告となっている。この「愛讀者の皆さまへ」(筆者不詳)のみは本作に関わる内容であるからして、短いが、参考までに以下に電子化しておく。]
愛讀者の皆さまヘ
皆さま、秋もいよいよ深くなつてまゐりましたね。さだめし御壯健で御勉強のことと思ひます。
長い間、お待たせいたしました、第二十八卷の「アリス物語」が、やつと出來て參りました。
この「アリス物語」は英國の數學者、ルイスカロルの傑作童話で、兒童の最もいい讀物の一つとして、現在では世界各國の言葉に譯されてさかんに讀まれてゐるものです。
[やぶちゃん注:以上を以って、ルウヰス・カロル作、菊池寛・芥川龍之介共譯になる「アリス物語」の電子化を終了する。二〇一五年六月八日に始めたが、この丁度、二ヶ月後に転倒事故で脳の前頭葉の一部挫滅を起こし、大幅に遅延した。ここでお詫びしておく。
最初に示した通り、底本は国立国会図書館デジタルライブラリーの当該書の画像である。同書誌情報の公開範囲には『インターネット公開(裁定)著作権法第67条第1項により文化庁長官裁定を受けて公開』の注記があるが、芥川龍之介も菊池寛も既にパブリック・ドメインとなっており、これは本書の挿絵を担当した平沢文吉氏(口絵のみを描いている海野精光氏も含まれるか)の著作権に関わる公開注記と読める。彼らの描いた挿絵の画像はもともと一切挿入していないので、テクスト部分の電子化のみについては問題を生じない。
再度、献辞して終りとする。
――私の三女アリスと亡き次女アリスに捧げる――【2016年12月14日完遂 藪野直史】]
日本の文學者の誰れよりも以上に、平田は吾々に神道神話の內にある政敎政治をよく了解さしてくれる――吾々の期待しうるやうに、日本の社會の古い秩序と密に契合して居る政敎の關係を。社會の最下級には、只だ家々の神殿若しくは墓場に於てのみ禮拜される普通の人民の靈がある。その上には同じ氏族の神則ち氏神がある――それは守護神として今禮拜されて居る古い統治者の靈である。平田は言ふ、すべての氏神は出雲の大神――大國主神――の支配の下にある、そして『氏神はみな大神の代理として働き、人々の生前、生後、竝びにその死後の運命を統治して居る』と。その意味は、普通の亡靈は、目に見えざる世界に於て、氏族の神則ち守護神の命令に從ひ、そして生存中の組合での禮拜の狀態は、死後までもつづくといふのである。つぎの言葉は平田の書きものから引用したものであるが、興味ある言である――それはただに個人の氏神に對する假定的な關係を示すのみならず、個人が生まれ故鄕を去るといふ事が、以前にあつては如何に世間の意向に依つて判斷されたかを語るのてある――
『人がその住居をかへる時、その人の始めの氏神は、居を移した其地の氏神と取り極めをしなければならない。斯樣な場合には先づ古い神に別離を告げ、新しい管理の地に來た後、出來る限り早く、新しい神の宮に詣るが至當である。人には其住居をかへるに至らしめた表面の理由は澤山にあらう、註併しその實際の理由は、その人が氏神の機嫌を害し、從つて其處から逐はれたか、或は他の地の氏神が、その轉住を交渉したかに外ならない…』
註 サトウ氏の飜譯、圈點は私(小泉
先生)のつけたものである。
[やぶちゃん注:以上の二箇所の平田篤胤の引用については、やはり、平井呈一氏訳になる「日本 一つの試論」(一九七六年恒文社刊)で、平井氏が訳注を附しておられ、そこには平田篤胤の「玉襷 五之卷」が引かれてある。以下に孫引きさせて貰う。但し、私のポリシーから、恣意的に正字化し、一部にひらがなで歴史的仮名遣で読みを附し、読点を追加した。
*
大國主ノ神は。幽冥の事の本(もと)を統領(スベヲサ)め給ふにこそあれ。末々の事は。一國に國魂神(くにみたま)一ノ宮の神あり。一處には産土(うぶすな)ノ神、氏神ありて、其ノ神たちの持分(モチワケ)て司(シリ)たまひ。人民の世に在る間(ホド)は更にも云はず。生(ウマ)れ來(コ)し前も。身退(ミマカ)りて後も。ほどほどに治め給ふ趣(サマ)なり。
*
大抵世ノ人の其(ソノ)本居(ウブスナ)の地を放れて他所(よそ)に住むことは、現(ウツツ)に種々(クサグサ)の由緣(ユエヨシ)有ルめれど。其(ソ)は人事にこそ有れ。幽には產土神に忠(マメ)ならで所を逐(ヤラ)はるゝと。其ノ移(ウツ)れる處の鎭守神と。本居(モトヲリ)の神と神議(カミハカリ)まして物(もの)し給ふとの二ツを出ず。然(シカ)れば本(モト)生(ウマ)れたる處を放(ハナ)れて。他處に移(ウツ)り住む人は、まづ其ノ本居の神を拜し。次に今住する處の神を拜すべし。
*
「サトウ氏」イギリスの外交官でイギリスに於ける日本学の基礎を築いたサー・アーネスト・メイソン・サトウ(Sir Ernest Mason Satow 一八四三年~一九二九年)。イギリス公使館の通訳・駐日公使・駐清公使を務めた。日本名を「佐藤愛之助」又は「薩道愛之助」と称した。初期の日本滞在は一時帰国を考慮しなければ実に一八六二年から文久二(一八八三)年に及び、後の駐日公使としての明治二八(一八九五)年から明治三〇(一八九七)年を併せると延べ二十五年間になる。詳細は参照したウィキの「アーネスト・サトウ」を参照されたい。以上のそれは、彼が一八七五年に「日本アジア協会」で口頭発表し、一八八二年に『日本アジア誌』誌上で論文の形となった“ The revival of pure Shin-tau ”(純粋神道の復活)辺りからの引用か。私はサトウの著作を読んでいないので、これ以上の注は控える。]
これに依つて各人はその生存中竝びに死後も、氏神の臣下であり、下僕であり、從者であると考へられるであらう。
素よりこれ等の氏族の神にはいろいろの階級がある、それは丁度生きて居る統治者、土地の君主にいろいろの階級があると同じてある。普通の氏神の上に、各地方の主なる神道の神社で禮拜されて居た神々が立つのであるが、その神社は、一の宮則ち第一級の神社と言はれて居る。恁ういふ神は、大抵以前廣い一地方を統治して居た君公則ち比較的大きな大名の靈を祭つたものであつた、併しすべてがこの定則で律せられるわけには行かない。その內には木火土金水等の原質若しくは原質的力――風、火、海――の神、長命、運命、收穫等の神――その眞の歷史は忘却されて居るが、もとは多分氏族の神であつたと思はれるやうな神々もある。併しすべての他の神道の神の上に皇室祭祀の神々――御門の祖先と考へられて居る神々がその位置をもつて居るのである。
神道禮拜の高級の形式に就いて言へば、皇室の祖先禮拜の形式こそ、國家の祭祀であつて、尤も重要なものである、併し必らずしもそれは最古のものではないのである。最高の祭祀は二つある、伊勢の有名な神廟に依つて代表されて居る日の女神の祭祀と、杵築の大社に依つて代表されて居る出雲の祭祀とである。この出雲の大社は遙かに古い祭祀の中心である。それは神々の領土の第一の統治者である日の女神の弟から出た大國主神に捧げられたものである。皇統の建立者の爲めに自分の王土を讓り、大國主神は目に見えざる世界――則ち亡靈の世界の統治者となつたのである。この影の領土に、すべての人の靈は死後に入つて行くのである。かくして大國主神はすべての氏神を統治して居るのである。故に吾々はこの神を死者の皇帝としても宜いのである。平田は言つて居る『尤も良い事情の下にあつても、人は百年以上生きて居る事は望み難い、併し死後大國主神の目に見えぬ土土に行き、その臣下となるのであるから、早くこの神の前に頭を下げる事を知れ』と……詩人コオリッヂの筆になつた驚くべき斷片『カインのさすらひ』“The Wanderings of Cain”の内に表明されて居る怪異な空想は、事實古い神道信仰の一箇條を成して居ると考へられる、曰く、『君主はただ生者の神にして、死者には別の神あり……』
[やぶちゃん注:「日の女神の弟から出た大國主神」「大國主」(おほくにぬし)については、ウィキの「大国主」によれば、「日本書紀」本文によるならば、ここに出るように天照大神の弟素戔嗚命(すさのおのみこと)の息子とするが、「古事記」及び「日本書紀」の一書や「新撰姓氏録」には、素戔嗚の六世の孫、また、「日本書紀」の別の一書では七世の孫などとされる。『スサノオの後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させる。だが、高天原からの使者に国譲りを要請され、幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際に「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を建てて欲しいと条件を出したことに天津神が約束したことにより、このときの名を杵築大神ともいう』とある。
「『尤も良い事情の下にあつても、人は百年以上生きて居る事は望み難い、併し死後大國主神の目に見えぬ土土に行き、その臣下となるのであるから、早くこの神の前に頭を下げる事を知れ』」やはり、平井氏訳の「日本 一つの試論」で、平井氏がここに訳注を附しておられ、そこには平田篤胤の「玉襷 四之卷」が引かれてある。以下に孫引きさせて貰う。但し、私のポリシーから、恣意的に正字化し、一部にひらがなで歴史的仮名遣で読みを附し、読点を追加した。
*
殊に此ノ現世に居(ヲ)る間(ホド)は。長くとも百年を多くは越えぬを。此ノ世を退(マカ)りては。永く大国主ノ神の幽冥(かみごと)に歸して。其ノ御制(ミヲサ)めを承給(ウケタマ)はる事なれば、今より常に拜(ヲガ)み奉るべきは勿論の事なり。
*
正直、戸川氏の「土土」(どど)は躓く。
「コオリッヂの筆になつた驚くべき斷片『カインのさすらひ』“The Wanderings of Cain”」イギリスのロマン派詩人サミュエル・テイラー・コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge 一七七二年~一八三四年)の一七九八年発表の散文詩。こちらに原文があり、ここで引用する“The Lord is God of the living only, the dead have another God.”は、その丁度、中間部に出現する。]
舊日本に於ける儒者の神は、勿論御門――神の權化現人神(あらひとがみ)――であつた、そしてその宮殿は國家の聖所、至聖所てあつた。その宮殿の內に賢所 Place of Awe 則ち宮中の禮拜の行はれる皇室の祖先を祭る私の神殿があつた、――これと同じ祭祀の公式は伊勢で行はれる。併し皇室は代理を以つて(今でもさういふ風に禮拜を行つて居る)杵築と伊勢と兩方で禮拜を行ひ、また大きな諸方の聖所でもそれが行はれて居る。以前は神社の多數は皇室の收入に依つて支へられ、若しくは一部それに依つて支へられて居た。また重要な神道の神社はみな大社小社として分類されて居た。その第一の階級に屬するものが三百〇四社あり、第二級のものが二千八百二十八社あつた。併し神社の多分はこの官省の分類の內には包含されて居ず、地方の支持に依つて立つて居た。神道の神社の記錄に上りて居る全數は、今日十九萬五千を超過して居る。
[やぶちゃん注:「賢所 Place of Awe」「かしこどころ」。明治維新後に整序創建された宮中三殿(賢所・皇霊殿(こうれいでん)・神殿(しんでん:天神地祇を祀る)の一つ。皇祖神である天照大神を祀り、その御霊代(みたましろ)である神鏡「八咫鏡(やたのかがみ)」(複製)が奉斎されてある。小泉八雲が「皇室の祖先を祭る」というのは皇祖たる天照大神を祀るという点でなら正しいが、個別の歴代天皇、及び、皇族の霊を祀るという点では「皇霊殿」が別に存在するから、この文脈では誤解を生み易く、誤りと言うべきであろう。「Awe」(オー)は「畏れ・畏怖・畏敬」の意。「賢」は「かしこむ」「畏む」で、「相手の威光を畏れ多いと思う・敬って慎む」であるから、英訳としては正しい。
「諸方の聖所」諸地方の主な総社や、有力な神社の意。
「その第一の階級に屬するものが三百〇四社あり、第二級のものが二千八百二十八社あつた。併し神社の多分はこの官省の分類の內には包含されて居ず、地方の支持に依つて立つて居た。神道の神社の記錄に上りて居る全數は、今日十九萬五千を超過して居る」「文化庁」の平成二七(二〇一五)年刊の「宗教関連統計に関する資料集」(PDF)によれば、そこに出る最終調査数(昭和一三(一九三八)年で、
国幣社以上が百九十八社、府県社以下が四万九千五百四十四社、境外無格社が六万六百四十七社で、総計は十一万三百八十九社
とある。因みに、本書「神國日本」は彼の没した明治三七(一九〇四)年の刊行であるが、同年のそれは、
国幣社以上が百七十一社、府県社以下が五万六千五百十九社、境外無格社が十三万六千百三十九社で、総計は十九万二千八百二十九社
である。しかし、その二年前の明治三十五年のデータでは、
総計神社数は十九万六千五十六社
を数えており、小泉八雲も示した数値が決していい加減なものでないことが判る。]
この神話の驚くべき素朴な點を、私は敢て表はす事をしなかつたが、その不思議にも哀傷と惡夢のやうな恐怖との混和した處は、十分にその原始的性質を示すに足りる。それは實際人のよく見る夢である――自分の愛して居た人が恐るべき姿にかはり果てたといふやうな惡夢の一である、そしてすべて原始的祖先禮拜を語る死に就いての恐れ竝びに死者に就いての恐れを表明するものとして特別な興味をもつて居る。この神話の全哀傷竝びに氣味惡るさ、空想の漠然たる怪異、極度の嫌惡竝びに恐怖に際して、形式的な愛着の言葉を用ひた事――それ等は日本的てある事を間違ひなく感じさせる。以上と殆ど同樣に著しい幾多の他の神話が、『古事記』及び『日本紀』の內にあるが、それ等は明かるい優しい種類の傳說と混和されて居り、それが同じ人種に依つて想像されたものとは思へない位である。例へば『日本紀』の第二卷にある魔法の寶石、海神の宮殿へ行く話は、印度のお伽噺のやうな趣がある、而して『古事記』、『日本紀』共に幾多外國の本源から得來たつた神話をもつて居る。兎に角其神話的の諸章は、多少なほ解決を要すべき新しい問題を、吾々の前に提出するのである、これを外にしては、此兩書とも、上代の慣習信仰を照らすに足る光明のあるに拘らず、讀物としては面白くないものである、そして總括的に言つて、日本の神話は面白くないものである。併し玆に神話の問題を兎や角說くのは不必要である、何となれば其神道との關係は極めて短い一章句に依つて總括されるからである――
[やぶちゃん注:「『日本紀』の第二卷にある魔法の寶石、海神の宮殿へ行く話」「日本書紀」の「卷二」の、所謂、〈山幸彦と海幸彦〉の話(そこでは弟の山幸彦が「彥火火出見尊(ひこほほでみのみこと)」兄の海幸彦が「火闌降命(ほでりのみこと)」)で、猟具を取り換えて弟の山幸彦が海に漁に出るが、兄海幸彦の釣り針を亡くしてしまい、釣り針を返せと兄から責めたてられ、山幸彦は「塩土老翁(しほつちのおぢ)」に助けられ、「海神(わたつみのかみ)」の宮へと行き、海神の娘「豐玉姬(とよたまひめ)」を娶(めと)り、海の宮に住んで、三年の後、釣り針と「潮盈瓊(しほみつたま)」と「潮涸瓊(しほひるたま)」の潮汐を操る霊玉を得て帰還、兄への報復に成功する話である。これは現在では天孫族が隼人(はやと)族(古代の薩摩・大隅・日向に居住した人々)を服従させた事実を神話化したものとも考えられており、仙郷滞留説話・神婚説話から、浦島説話の先駆とも考えられているものである。]
大初には力も形も顯はれては居なかつた、世界は一定の形のない一塊で水母のやうに水上に浮かんで居た。その内どうかして――どうしてといふ事は書いてない――天と地とが分かれ、朦朧たる神々が現はれ又消えた、最後に男性の神と女性の神とが出來、萬物を生み且つその形を與へた。この二方の神、伊邪那岐、伊邪那美の命に依つて、日本の島が出來、またいろいろの神々と日月の神とが出來た。これ等創造の神々、竝びにそれに依つて造られた神々の子孫は、則ち神道の禮拜する八千萬(或は八億萬)の神々であつた。その神の或るものは高天原 Plain of High Heaven に行つて住み、又他のものは地に住み、日本人種の祖先となつた。
これが『古事記』『日本紀』の神話で、出來うる限り簡潔に書かれてある。最初に二種の神々が認められて居たらしい、それは天の神と地の神とである、神道ののりと rituals なるものは、この區別を示して居る。併しこの神話の天の神なるものが、必らずしも天の力を代表して居るものでないといふ事、竝びに實際天の現象と同一のものとされて居る神神が、地の神々と一緖に置かれて居る――地上に生まれた則ち『生じた』といふので――といふ事は妙な事實である。たとへば日月は日本で生まれたとされて居る――後になつて天にあげられたのであるが、則ち日の女神、天照大神は伊邪那岐命の左の眼から生じ、月の神、月讀命は伊邪那岐の右の眼から生じた。それは(この兩神を生じたのは)伊邪那岐命が下界に行つた後、筑紫の島の河口で身を淸めた時の事である。十八世紀十九世紀の神道學者は、只だその偶然生まれた處に關する外、天の神と地の神との區別をすべて否定し、この混沌たる空想の内に、多少の秋序を立てた、彼等神道學者は神世 Age of Gods とその後の人皇の時代との古くからあつた區別をも否定した。彼等の言ふ處に依ると、日本の當初の統治者が、神であつたのは事實てある、併しながら後代の統治者も亦同樣神であるといふのである。全皇統、日の御嗣 Sun’s Succession なるものは、日の女神からの連綿たる一つの血續を顯はすものである。平田は恁う書いて居る『神代と現代との間には何等確とした固い分界線はない、『日本紀』の言ふやうなその區別の線を引く事の正當な理由は少しもない』と。素より恁ういふ立脚地からすれば、その內に全民族が神の血統であるといふ敎理が含まれる事になる――古い神話に從つて、最初の日本人はみな神の子孫であつた限り――而して平田はさういふ敎理を大膽に取つたのであつた。平田の斷言する處に依ると、すべての日本人の起原は神にある、それ故日本人はすべての他の國人に勝さつて居るのであると。平田は日本人の神の血統を引いて居る事を證明するのは容易であるとすら說いて居る。その言は恁うである。『瓊々杵命(日の女神の孫で皇室の建立者とされて居る人)に伴なつて行つた神々の子孫――竝びに代々の御門の子孫で、平、源等の名をもつて御門の臣下の位に入つた人々――はだんだんに增加し、繁殖した。日本人の多數は、如何なる神から降つて來たのか確とは解らないが、それ等はみな部族の名(かばね)といふものをもつて居て、それはもと御門から賜はつたものである、そして系圖の硏究その務めとする人々は、人の普通の苗字から、その人の極めて遠い祖先は誰れであつたかを語る事が出來る』と。此意味に於て、すべての日本人は神であり、その國は當然神の國――神國と呼ばれたのてある。吾々は平田の說をその文字通りに了解すべきであらうか。私はさう了解すべきてあると思ふ――併し吾々は、封建時代に、國民を形成して居るとして公然認められて居た階級以外に、日本人として考へられず、また人間としてすら考へられて居なかつた人民の、幾多の階級のあつた事を記憶しなければならぬ、それ等は則ち非人で、獸と同樣に考へられて居たものである。平田の日本人といふのは只だ四大階級を言つたものであらう――士、農、工、商の。併しさうとしても、平田が日本人に神性を與へたといふ事は、人間の道德性竝びに體格上の虛弱であるといふ點から見て、それをどういふ意味に考へて然るべきであらう。この問題の內、その道德的の方面は、神道の惡の神、邪曲の神に就いての說に依つて說明される、則ちこの神は『伊邪那岐命が下界に行かれた時、身に受けた不淨から起こつた』ものと考へられて居るのである。人間の體格上の虛弱に關しては、皇室の神聖なる建立者たる瓊々杵命の傳說に依つて說明される。則ち長命の女神岩長姬命(Rock-long-princess)が瓊々杵命の妻として送られた、然るにその醜いのを見て、命は姬を拒絕した。それでその不明な仕方が『人間の現在のやうな短命』を招致したのである、と。大抵の神話は、當初の族長則ち統治者の生命を以つて非常に長いものとして居る、神話の歷史を古に遡れば遡るほど、主權者はいよいよ長命になつて居る。日本の神話もこの例に洩れない。瓊々杵命の子は、その高千穗の宮で、五百八十年生きて居たと言はれて居る、併しそれでも『それ以前の人々の生涯に比べたら短命なのである』と平田は言つて居る。その後人間の身體の力は衰へ、生命はだんだん短くなつた、併しすべて墮落したにも拘らず、日本人はなほその神から出て來たものてあるといふ形跡を示して居る。死後日本人はより高い神性の狀態に入るのであるが、而もこの現世を棄ててしまふ事なくて……かくの如きは則ち平田の意見である。日本人の起原に關する神道の說からすると、人間性にかく神性を與へるといふ事は、一見した際に考へられるやうに、矛盾した事ではないのである。而して近代の神道學者は、すべての起原を太陽にもつて行くが、その敎義の內に、科學的眞理の萠芽が見出されさる事であらう。
[やぶちゃん注:「のりと rituals 」底本では「のりと」は傍点「ヽ」(以下、太字は同じなので、この注は略す)。「rituals」(リチュアルズ)は「しばしば同じ形式で繰り返される儀式・礼拝式・儀式的行事」の意。
「天照大神」「あまてらすおほみかみ」。
「月讀命」「つくよみのみこと」。
「下界」このシークエンスは先の伊耶那美の訪問譚の直後で、この「下界」とは、黄泉の国を指している。
「筑紫の島の河口」「古事記」には「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)」で、死者の世界である黄泉の国で感染した死穢(しえ)を払うために禊(みそぎ)を行ったとされる。「筑紫の島」は古代の九州全体を指す呼名であり、この「阿波岐原」は現在の宮崎県宮崎市阿波岐原町に比定されている。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「神世」「かみよ」。
「日の御嗣」「ひのみつぎ」。天皇の位を敬っていう語。「日」の神天照大神の詔命を受け「嗣」いで大業を次々にしろしめす「御」子(みこ)の意と言う。
「Sun’s Succession」「Succession」は、「地位・身分・財産などの継承相続権を保有する者」の意。
「平田は恁う書いて居る『神代と現代との間には何等確とした固い分界線はない、『日本紀』の言ふやうなその區別の線を引く事の正當な理由は少しもない』と」平井呈一氏訳になる「日本 一つの試論」(一九七六年恒文社刊)では、ここについて平井氏の訳注があり、そこに平田篤胤の「古道大意 下卷」が引かれてある。以下に孫引きさせて貰う。但し、私のポリシーから、恣意的に正字化し、一部にひらがなで歴史的仮名遣で読みを附し、読点を追加した。
*
サテ又神代と申ス事ハ、人ノ代ト別(わけ)テ申ス稱デ、夫(それ)ハ、イト上ツ代ノ人ハ、凡テ皆神テ有(あり)タル故ニ、其(その)代ヲサシテ、神代ト云(いふ)タ物デ、扨、イツ頃マデノ人ハ神デ、何頃(いつごろ)カラ、コナタノ人ハ、神デナイト云フ、際(きは)ヤカナル差別ハナイ
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『瓊々杵命(日の女神の孫で皇室の建立者とされて居る人)に伴なつて行つた神々の子孫――竝びに代々の御門の子孫で、平、源等の名をもつて御門の臣下の位に入つた人々――はだんだんに增加し、繁殖した。日本人の多數は、如何なる神から降つて來たのか確とは解らないが、それ等はみな部族の名(かばね)といふものをもつて居て、それはもと御門から賜はつたものである、そして系圖の研究その務めとする人々は、人の普通の苗字から、その人の極めて遠い祖先は誰れであつたかを語る事が出來る』同じく、前掲の平井氏訳「日本 一つの試論」では、ここに同様の平井氏の訳注があり、そこに平田篤胤の「古道大意」が引かれてある。以下に孫引きさせて貰う。但し、私のポリシーから、恣意的に正字化し、一部にひらがなで歴史的仮名遣で読みを附し、読点を追加した。
*
皇孫邇々藝命(ニニギノミコト)ヨリ、當今(たうぎん)樣(さま)マテ、唯(ただ)一日ノ如ク、御代(みよ)ヲ知(シロ)シ食(め)シ、其御附屬ナサレタル神々ノ御子孫トテモ、今以テ其如ク、連綿ト御續キナサレテ、其末々(すゑずゑ)が世ニヒロガリ、又世々ノ天子樣ノ御末ノ御方タチヘ、平氏ヤ源氏ナドヲ下サレテ、臣下ノ列ニモナサレタルガ、其未ノ末ガフエ弘(ひろ)ガッテ、ツヒツヒ御互ノ上ト成タル物デ、ナント此ノ譯(ワケ)ジャモノヲ、御國ハ誠ノ神國デアルマイカ。ナントオタガヒハ、誠ニ神ノ御末デハ有ルマイカ。今ハ、カヤウニ零落(オチブレ)テ、其先祖ノ神モ慥(タシカ)ナラヌヤウナレドモ、御國ノ人ニハ各々(オノオノ)氏姓ト云(いふ)ガ有(あり)テ、其ハ元來、天子樣ヨリ賜(たまはり)タル物デ、チカクハ源平藤橘ナドト云(いひ)テ、源トカ平トカ橘トカ、藤原トカ云(いふ)モノガ是(これ)テ厶(ゴザル)。其ヲ以テ古へヲ穿鑿(サク)スルト、大キニシレル。
*
「瓊々杵命」「ににぎのみこと」。所謂〈天孫降臨〉の天孫。天照大神の命によって葦原中国を統治するために高天原から日向国の高千穂峰に彼が降りたとする。
「確とは」「しかとは」。
「併し吾々は、封建時代に、國民を形成して居るとして公然認められて居た階級以外に、日本人として考へられず、また人間としてすら考へられて居なかつた人民の、幾多の階級のあつた事を記憶しなければならぬ、それ等は則ち非人で、獸と同樣に考へられて居たものである」小泉八雲の鋭敏なる批評眼を見よ!
「岩長姬命」「いはながひめのみこと」。ウィキの「イワナガヒメ」より引く。『大山祇神(おおやまつみ)の娘で』、富士山の神『木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉』。『コノハナノサクヤビメとともに天孫瓊々杵尊(ににぎ)の元に嫁ぐが、イワナガヒメは醜かったことから父の元に送り返された。オオヤマツミはそれを怒り、イワナガヒメを差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、コノハナノサクヤビメを差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからであることを教え、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた』。日本書紀には、『妊娠したコノハナノサクヤビメをイワナガヒメが呪ったとも記され、それが人の短命の起源であるとしている』。『イワナガは岩の永遠性を表すものである。コノハナノサクヤビメとイワナガヒメの説話はバナナ型神話の変形であり、石(岩)がイワを名前に含んだ女性に変化している。上記の説話から不老長生の神として信仰される』。『イワナガヒメだけを祀る神社は雲見浅間神社(静岡県賀茂郡松崎町)や大室山(静岡県伊東市)の浅間神社、伊豆神社(岐阜市)が挙げられるがその数は少なく、全国のその他の浅間神社ではコノハナノサクヤビメと共に祀られている』。『雲見浅間神社と大室山浅間神社にイワナガヒメのみが祀られているのは、富士山のコノハナノサクヤビメと対峙して祀られているものである。この静岡県伊豆地方では、醜いためにニニギに遠ざけられたイワナガヒメに同情して、イワナガヒメの化身である大室山に登ってコノハナサクヤビメの化身である富士山を褒めると、怪我をするとか不漁になるなどの俗信がある』。『宮崎県西都市の銀鏡(しろみ)神社では、イワナガヒメが鏡に映った自分の醜い容姿を嘆くあまり、遠くに投げたと伝えられる鏡がご神体として祀られている』などとある。]
神道の發達
人民のあがめる大きな神々――人々の想像の內に、天地の創造者として、若しくは特に木火土金水の如き要素たる力を動かすものとしてその形をとつた神々は――後に祖先崇拜となつたものを代表して居ると云つたハアバアト・スペンサアの說は、今日一般に認められて居る處である。原始社會がまだ何等重要なる階級的區別を發達させて居なかつた時代に於て、多少同じものと考へられて居た祖先の幾多の亡靈は、社會そのものが分裂するに從つて、大小いろいろな種類に分裂するやうになつた。さうして居る內に、或る一個の祖先の靈若しくは一團のに靈に對する禮拜が、他のすべての禮拜に立ち勝さるやうになり、最高の神若しくは幾個かの最高の神の群が發展するに至つた。併し祖先祭祀の分裂は、各種の方向を取るものと了解されなければならぬ。父子相傳の職業にかかはつて居る家族の特別の祖先は、發達してさういふ職業を主宰すろ守護の神となる事もある、――則ち職業及び組合の保護神となる。いろいろな精神上の聯想の徑路に依り、他の祖先の祭祀から、力と、健康と、長命と、特殊な產物と、特殊な地方との、いろいろの神々の禮拜が發展して來る事もある。日本起原の神の事に就いて、今よりも以上に多く光明が投ぜられるやうになれば、今日田舍に於て禮拜されて居る小さい守護神の多くは、もと支那或は朝鮮の職人の守護神であった事が解るやうになるであらう、併し日本の神話には全體として進化の法則の甚だしい例外となるやうなものはないと私は考へる。事實神道は神話の上の政敎關係を示すもので、その發達は全く進化の法に依つて十分に說明が出來るのである。
氏神の外、優等或は劣等の神々が無數にある。ただ名ばかり記されてある原始的の神々もある――混沌時代の人の考へにのぼつた幻影である。また土地の形をつくりなした天地創造の神々もある。天地の神々もあれば日月の神々もある。また人生の善惡あらゆる事物を主宰すると考へられて居る神々も數へ切れないほどある、――人生と、結婚と、死と、貧富、强健及び病氣……等の神々がある。すべてかくの如き神話は、日本のみに於ける古い祖先祭祀から發達し來たつたものであると假定するのは少し無理である、むしろその發展は多分アジヤ大陸で始まつたものであらう。併し國民的祭祀の發展――國家の宗敎となつた神道のその形式――は嚴密なる言葉の意味に於て、日本的であつたと考へられる。此祭祀は、代々の天皇が、その血統であるとして居られる神々に對する禮拜であるて、――則ち「皇室の祖先」の禮拜である。蓋し日本の上古の皇帝――古い記錄には『天の王君(わうきみ)』と呼ばれて居る――は眞の意味に於ての皇帝ではなかつたので、また天下に對する權威を動かす事すらしなかつたものと考へられる。則ち天皇は尤も有力なる氏族則ち氏の主なるもので、その特殊な祖先祭祀は、その當時にあつては、多分何等統治的勢力をもつては居なかつたのであらう。併しやがてこの大きな氏族の主なるものが、國の再興の統治者となつた時、その氏族の祭祀は到る處に擴がり、他の神に對する祭祀を打ち破る事はしないまでも、それを蔽ひかくしてしまつた。ここに於て始めて國民的神話が出來たのである。
それ故吾々は日本の祖先崇拜の徑路は、アジヤン民族の祖先崇拜のそれと同樣、前にのべた引きつづいた發達上の三個の階段を示して居る事を認めるのである。日本の人種は大陸からその現在の島國裡に來る時、祖先崇拜の粗末な形式を伴なひ來たつたものであると假定して然るべきであらう、而してその形式は死者の墓前で行はれる儀式竝びに供物に過ぎないものであつたらう。それから後國が幾多の氏族――その各〻はそれぞれ別の祖先祭祀をもつて居たが――の間に分かたれるやうになるや、或る一つの氏族に屬する一地方のすべての人々は、やがてその氏族の祖先の宗敎を受けるようになり、かうして幾千の氏神の祭祀といふものが出來るやうになつたのである。さらにそれより後になつて、尤も有力なる氏族の特殊の祭祀が發達して、國家の宗敎となつた――則ち最高の統治者が、それから血統を引いて居ると稱する女神太陽の禮拜がそれである。それから支那勢力の下に、家に於て祖先を禮拜する形式が、原始的家族の祭祀に代つて成立した、それ以來供物も祈禱も規則正しく家庭に於て爲され、家庭には祖先の位牌が、家族の死者の墳墓を代表する事となつたのである。併し今でも特別の場合には、墓場に供物を捧げる事もある、そして三種の神道祭祀の形式は、佛敎の傳來した後代の形式と竝んで、今日までつづいて存立して居た、而してその形式は今日國民の生活を支配して居るのである。
[やぶちゃん注:「前にのべた引きつづいた發達上の三個の階段」「古代の祭祀」の冒頭に提示した「神道の祖先崇拜の三つの形とは、一家の祭祀、村邑の祭祀及び國家の祭祀である、――言ひ換へれば家族の祖先の禮拜、氏族若しくは部族の祖先の禮拜、竝びに帝國の祖先の禮拜である。此第一は家庭の宗教であり、第二は一地方の神若しくは守護神の宗教であり、第三は國家の宗教である。]
傳統的信仰に就いて、文字を以つてそれをあらはした說明を、始めて人民に與へたものは、最高の統治者に對する祭祀であつた。統治して居る家に就いての神話は、神道の經典の基となり、祖先禮拜のあらゆる現在の形式をまとめる所の思想を確立した。あらゆる神道の傳統は、此書きものに依つて混和されて一個の神話的歷史となり――同じ一個の傳說の基礎に依つて說明されるやうになつた。而して全神話は二つの書物の内に包容されて居るが、其書物はすべて英訳されて居る。其の最古の書物は『古事記』“Records of Ancient matters”と言はれて居り、紀元七一二年に編まれた名のと考へられて居る。他の一つはそれよりも大部な物で『日本紀』“Chronicles of Nihon”と言ひ、紀元七二〇年頃に出來たものである。兩書は具に歷史と言はれて居るが、其大部分は神話のやうなもので、兩書とも天地創造の話を以って始まつて居る。聞く處に依ると、兩書とも、天皇の命に依つて、大槪は口傳へになつたものに依つて編まれたのであつた。それよりも更に古い第七世紀に作られた書物があったといふ事であるが、それは堙滅してしまつた。それ故此現在の書物は、そんなに古いものであるとは言はれない、併し兩書とも極めて古い傳說――多分は幾千年も古い――をその内にもつて居る。『古事記』は驚くべき記憶力をもつてて居た老人の口授を書いたものだとされて居る、そして神道の神學者なる平田は、恁うして傳へられた傳說は、特に信賴するに足るものであるといふ事を、吾々の信ずるやうに望んで居る。その言つた處に恁うある。「記憶の働きに依つて吾々に傳へられた、かくの如き古い傳說は、それが記憶に依つて傳へられたといふので、却つてそれが文書に記錄されであつたものよりも、遙かに詳細に傳はつて來たといふ事は、ありうる事である。其上人々が覺えて置かうと思ふ事實を、文字に託する慣習を、まだ得て居なかった時代にあつては、人の記憶力は今日よりも遙かに强いものであつたに相違ない――それは今日でも、目に一丁字のない人々は、何事をも全く記憶に訴へて居るのでもわかる」と。吾々は口碑の不變である事を、篤く信じて居る平田の信念に對して微笑を禁じ得ない。併し民俗學者は古い神話の特質の內に、その非常に古代の一名のであるといふ性質上の證據を發見する事を、私は信ずるものである。兩書の内に支那の感化が認められる、併しその或る部分には、私の想像する處に依ると、支那の書物の內には認められない特殊の性質がある――他の神話的文學には共通して居ない原始的素朴な趣、怪異な趣がある。たとへば世界の創造者なる伊邪那岐命のその死んだ配偶(伊邪那美命)を呼びかへすために、黃泉の世界に行く話の内に、吾々は純日本のものと考へる神話を認める。その話し方の古風な素朴な處は、その書の逐字譯を硏究する人の、必らず感得するに相違ない處である。私は今そのいろいろな譯文の內に見られる(このいろいろな譯についてはアストンの『日本紀』の飜譯第一卷を見よ)その傳說の大意を記して見る事にする。
[やぶちゃん注:「『古事記』“Records of Ancient matters”」“matters”の頭文字の小文字はママ。現行英語では“ Records of Ancient Matters ”或いは“ An Account of Ancient Matters ”である。
「紀元七一二年」写本の序に和銅五年正月二十八日とあるのに基づく。同日はユリウス暦七一二年三月九日である。
「『日本紀』“Chronicles of Nihon”」「日本書紀」。現行英語では“ The Chronicles of Japan ”。
「紀元七二〇年頃」舎人親王らの撰により、養老四(七二〇)年)完成。
「それよりも更に古い第七世紀に作られた書物があったといふ事であるが、それは堙滅してしまつた」「古事記」自体の序の中に、天武天皇の言葉として「朕聞 諸家之所賷帝紀及本辭 既違正實 多加虛僞 當今之時不改其失 未經幾年其旨欲滅」(朕、聞くに、「諸家の賷(もた)らする帝紀及び本辭、既に正實に違(たが)ひ、多く虛僞を加ふといへり。」と。今の時に當りて、その失を改めずは、いまだ幾年(いくとせ)を經ずして、その旨、滅びなむとす。)という一説があり、「古事記」以前の天武期(六七三年~六八六年)には、既に各氏族のもとに「帝紀」(天皇(すめらみこと)の系図)及び「本辞」(古えの世の出来事の伝承)といった書物が存在したと述べているのを指す。但し、「古事記」序文には偽書説がある。
「堙滅」「いんめつ」。「湮滅」「隠滅」に同じい。跡形もなく消えてしまうこと。
「驚くべき記憶力をもつてて居た老人」七世紀後半から八世紀初頭に生きた稗田阿礼(ひえだのあれ 生没年不詳)とする。「古事記」の序では天武天皇の舎人(とねり)とするが、朝廷に仕えた巫女(女性)説も強い。
「平田」平田篤胤。
「目に一丁字のない人々」「一丁字」は一般には「いつていじ(いっていじ)」と読む。「丁」は「个 (か)」の篆書 を誤ったもので、本来は「一个」で「一個・一箇」の意。ただ一個の文字、一字も知らない文盲(もんもう)の人々のことを指す。
「アストン」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。詳細は参照したウィキの「ウィリアム・ジョージ・アストン」を参照されたい。彼の「日本書紀」の翻訳は“ Nihongi:Chronicles of Japan from the Earliest Times to A.D. 697 ”(ロンドン・一八九六年刊)。]
迦具土の火の神の生まれる時の來し時、その母なる伊邪那美命火傷し、姿かはりて去れり。かくて伊邪那岐命怒つて言ふ『一人の子にかへて吾が愛する妹を與へ去らん事は』と。命に妹(伊邪那美命)の頭にはひ行き、その足にはひ行き。泣き悲めり、かくしてその流したる淚は落ちて神となれり……その後伊邪那岐命、伊邪那美命を逐うて死者の國黃泉(よみ)の國に行けり。ここに伊邪那美命なほその生きてありし日のやうなる姿して(死者の)宮殿の幕をあげ、伊邪那岐命に會ふために出て來り、二人は共に語り合へり、さて伊邪那岐命妹に言ふ『愛らしき若き妹よ、吾は汝の爲めに悲しむが故に來れり。吾が愛らしき若き妹よ、吾と汝との共につくりかけたる國は、まだ作り果たされず、されば歸り來よ』と。伊邪那美命答へて言ふ『吾が嚴かなる君にして、また夫なる人よ、今少しく早く來ざりしは惜しき事なり――今吾は黃泉のかまどのものを食へり。されど愛する兄、見給へ、君の特に來ませしを喜ぶが故に、吾は生命の世界に君と歸る事を願ふ。今吾はその事を黃泉の神々と論ふために行くべし。君は此處に待ちたまひて、吾を見んとし給ふ勿れ』と。かく語りて伊邪那美命は歸り去り、伊邪那岐命は待てり。然れども伊邪那美命の歸る事遲ければ、伊邪那岐命もどかしくなれり。かくて髮の毛の左總(ひだりふさ)につけたりし木の櫛をとり、命はその櫛の一端より、一本の齒を折りとり、それに火を默し、妹を見んとて行けり。然るに伊邪那美命はふくれ、蟲の中にただれて橫たはり、八種の雷の神その上に坐れり……伊邪那岐命この姿に恐れをなして逃げ去らんとせり、然るに伊邪那美命立ち上り叫ぶ『君は吾をはづかしめたり。何故に吾が命ぜし事を君は守らざりしや……君は吾が裸の姿を見たれば、吾も亦君のその姿を見るべし』と、言ひて伊邪那美命は、黃泉の醜女に命じて伊邪那岐命を追ひ、これを殺さしめんとす、八人の雷の神も亦命を逐ふ、伊邪那美命自らも追ひかく……。ここに於て伊邪那岐命劍を拔き、走りつつ背後にそれを振りまはす。されど一同は命に追ひせまる。命はその黑き頭の鬘をなげつけければ、鬘は葡萄の總となる、醜女はその葡萄の實を食ひたれば、その間に命は逃げたり。されど彼等はなほ急ぎ追ひかけたれば、命はその櫛をとりてなげつけたるに、その櫛は筍となる、醜女等それを貪り喰ふ間に、命は逃げて黃泉の口に達す。ここに命、もちあぐるに千人力を要する岩をとり上げ、伊邪那美命の來る入口をそれにて塞ぎ、その背後に立ちて、離婚の言葉をいふ。その時岩の彼方より伊邪那美命、叫んでいふ、『吾を愛する君にして主なる人よ、君かくの如き事を爲さば、吾は一日に汝の人の一千人を絞め殺さん』と。伊邪那岐命これに答へて『吾が愛する若き妹よ、汝若ししかするならば、吾は一人に千五百の子を生むべし……』と。然るにその時、くくりひめの命來り、伊邪那美命に何事か語りしに、伊邪那美命それを承認したる樣子にて、その後伊邪那美命の姿は見えずなりたり……』
[やぶちゃん注:このシークエンスは「古事記」の中でも私がすこぶる附きで好きな場面で、高校教師時代は、冒頭「くらげなす」からここまでのオリジナルな「古事記」授業をしばしばやったものだった。オルフェウス型の愛する女を冥界へと訪ねる悲恋の異界訪問譚が、「見るな」の禁忌を犯すことに由って愛から憎しみへと転ずる世界変容、三種(世界を変容させる神聖数)のアイテムを投げることで成就する呪的逃走、一般に先に言上げしたものが勝つにも拘わらず、そこにうっかり数値を持ち込んでしまったことで地上世界の繁栄が計らずも齎される(人間が永遠に増え続ける言祝ぎ神話)という個々の話柄構造が実に素晴らしく、且つ、面白い。保守系の阿呆どもが頻りに日本主義を唱えるのなら、是非とも「古事記」の冒頭から「美斗(みと)の麻具波比(まぐはひ)」を経て、ここまで総て古文の必須単元にしたらどうだ? やれるもんなら、やって見ろッツ!!! 私なら、鬼の首執ったように楽しく面白く正しくセクシャルに授業してやるゼ!!!
「迦具土」「かぐつち」。火の神であったが故に、燃えながら生まれ出でて、伊耶那美(私は「邪」の字が嫌いなのでこちらで書く)の陰部を致命的に焼け爛れさせてしまった。怒った伊耶那岐は十拳剣(とつかのつるぎ)「天之尾羽張(あめのおはばり)」で迦具土を斬り殺してしまう(その飛び散った血や死体からも十六柱に及ぶ神々が生成される。最後の「古事記」本文(訓読)を参照)。
「頭」「かしら」と訓じておく。
「その流したる淚は落ちて神となれり」ここで生まれるのは啼沢女命(なきさわめ)。泉の湧き水の精霊神とされる。
「黃泉(よみ)の國」漢語で「黃泉」は「地下の泉」を意味し、それが後に転じて、地下の死者の世界の意となった。もともとの漢語には死者の国の意はなかったが、この漢語を当てること自体が、小泉八雲が言うように中国文化の影響にある。
「愛らしき」愛すべき。
「妹」「いも」。実際に伊耶那美は伊耶那岐の実の妹であり、同時に妻である。
「嚴かなる」威儀正しき勇ましき。
「黃泉のかまどのものを食へり」「黃泉竈食(よもつへぐひ)」をしてしまった。黄泉(よみ)の国のものを食べると、黄泉の住人になってしまうと考えられ、通常は二度と現実(「生命の世界・生者の世界」)へ戻ることは出来ないと信じられた。ここはそこに融通性が見られる点で、寧ろ、それが絶対の掟ではないこと、より古式で原初的な設定であると私は考える。
「黃泉の神々」「古事記」には黄泉の国の神々の名は特に記されていないことが、大いに不満である。それはまさに黄泉国自体が、日本神話の構造系にかなり後から附加された空間世界であることを意味しているように私には思われる。実際に近世になるまでは、神道思想では死後の世界を具体に語っていない。
「論ふ」「あげつらふ」。相談する。
「それに火を默し、妹を見んとて行けり」あまり理解されているとは思われないので附言しておくと、伊耶那岐が黄泉の国で伊耶那岐と最初に逢った際には、黄泉の国の「殿(との)の縢戶(さしど)」(家の閉ざした戸口。古墳の羨道の扉を連想させる)から出て来て逢った、と書かれているものの、実は冥界であるために、その空間全体は闇なのである。恐らく小泉八雲は、映像的にイメージし難いこのシーンを、現実的に辻褄合わせしてしまった翻案を読んだものであろう。それが「古事記」にはない「ここに伊邪那美命なほその生きてありし日のやうなる姿して」によく表われている。敢えて言うなら、本訳者の戸川明三(秋骨)はそこを勘案して「やうなる姿」と訳し直しているのではないか? 闇の中で身近に幽かに感じられる雰囲気がそれなのではあるまいか? 事実は以下に語られるように、伊耶那美の肉体は死体変相しており、腐敗して「ふくれ」(膨れ)爛れて、蛆「蟲」がわいているのである。
「八種の雷の神」大雷(おほいかづち:伊耶那美の頭に座す。以下、位置のみを出す)・火雷(ほのいかづち:胸)・黒雷(腹)・折雷(さくいかづち:陰部)・若雷(わかいかづち:左手)・土雷(右手)・鳴雷(なるいかづち:左足)・伏雷(ふすいかづち:右足)。神話世界の永遠の継続性から腐乱した死体からも神(邪神)が生まれるのである。最後の「古事記」本文(訓読)を参照。
「君は吾をはづかしめたり。何故に吾が命ぜし事を君は守らざりしや……君は吾が裸の姿を見たれば、吾も亦君のその姿を見るべし」ここは原話では「吾に辱(はぢ)見せつ」である。ここにも西洋の翻訳者の辻褄合わせが見てとれるが、逆にそうした辛気臭さが日本神話の原型のシャープさを変に変形させてしまっている。
「黃泉の醜女」俊足の鬼女黄泉醜女(よもつしこめ)。
「伊邪那岐命劍を拔き、走りつつ背後にそれを振りまはす」これは武器としてではなく、冥界の光りを嫌う邪神を遮るための呪術的使用法である。
「黑き頭の鬘」「くろきかしらのかつら」と訓じておくが、これは「黑御鬘(くろみかづら)」で、蔓性植物である山葡萄(ブドウ目ブドウ科ブドウ属ヤマブドウ Vitis coignetiae)の蔓で作った男性用の髪飾りである。英訳者が固有名詞を一般名詞の連語としてしまった結果、変な文句となってしまっているのである。髪飾りで呪物としての霊力を持つ櫛と強い親和性を持つ。共感呪物である。
「櫛」男性用の柵上の竹製の髪飾りと実用を兼ねた櫛。汎世界的に呪的逃走で投げる呪的アイテムに含まれる一品である。
「筍」「たけのこ」。竹製であるから共感呪物となる。この後の三つ目のアイテムである桃を省略しているのは不服であるが、或いは、そこに、強い中国の影響(桃は孫悟空譚や陶淵明の「桃花源記」を出すまでもなく、中国の神仙譚中随一の霊薬である)を八雲は感じ、プロトタイプにはなかったものと考えて、意識的に除去したものかも知れない。私も、この桃のアイテムには、そうしたルーツがあると考えている。
「もちあぐるに千人力を要する岩」原話の「千引(ちびき)の石(いは)」。
「くくりひめの命」「菊理媛」。「古事記」には出ず、「日本書紀」の一注に一度だけこの謎めいたシーン出てくる出自不明の謎の女神であり、まさに、ここで、菊理媛が伊耶那美に何を言ったかも書かれていない。或いは……「どうせ、将来、原子力というおぞましきものを産み出し、かの者どもは――滅びまする――」……とでも囁いたのかも知れぬな…………
以下、古事記の一連のシークエンスの訓読文を倉野憲司氏(一九六三年岩波文庫刊)のそれを参考にして示す(但し、必ずしも倉野氏の訓読に完全には依拠していない)。【 】は割注。
*
故(かれ)ここに伊邪那岐命の詔(の)りたまひしく、
「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命(みこと)を、子の一つ木(け)に易(か)へつるかも。」
と謂(の)りたまひて、すなはち、御枕方(みまくらね)に匍匐(はらば)ひ、御足方(みあとへ)に匍匐ひて哭(な)きし時に、御淚(みなみだ)に成れる神は、香山(かぐやま)の畝尾(うねを)の木(こ)の本(もと)にまして、泣澤女(なきさはめ)の神と名づく。故(かれ)、その神避(かむさ)りし伊邪那美の神は、出雲の國と伯伎(ははき)の國との堺なる比婆(ひば)の山に葬(はふ)りき。
ここに伊邪那岐の命、御佩(はか)せる十拳劒(とつかつるぎ)を拔きて、その子迦具土(かぐつち)の神の頸(くび)を斬りたまひき。ここにその御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血、湯津石村(ゆついはむら)に走(たばし)り就(つ)きて成りませる神の名は、石拆(いはさく)の神。次に根拆(ねさく)の神。次に石筒之男(いはづつのを)の神【三神】。次に御刀の本(もと)に著ける血も亦、湯津石村に走り就きて、成れる神の名は、甕速日(みかはやひ)の神。次に樋速日(ひはやひ)の神。次に建御雷男(たけみかづちのを)の神。亦の名は建布都(たけふつ)の神、亦の名は豐布都(とよふつ)の神【三神】。次に御刀の手上(たがみ)に集まる血、手俣(たなまた)より漏(く)き出でて成れる神の名は、闇淤加美(くらおかみ)の神。次に闇御津羽(くらみつは)の神。
上(かみ)の件(くだり)の、石拆の神
以下(よりしも)、闇御津羽の神より前、
幷(あは)せて八神(やはしら)は、御
刀に因りて生(な)れる神なり。
殺さえし迦具土の神の頭(かしら)に成れる神の名は、正鹿山津見(まさかやまつみ)の神。次に胸に成れる神の名は、淤縢山津見(おどやまつみ)の神。次に腹に成れる神の名は、奧山津見(おくやまつみ)の神。次に陰(ほと)に成れる神の名は、闇山津見(くらやまつみ)の神。次に左の手に成れる神の名は、志藝山津見(しぎやまつみ)の神。次に右の手に成れる神の名は、羽山津美(はやまつみ)の神。次に左の足に成れる神の名は、原山津見(はらやまつみ)の神。次に右の足に成れる神の名は、戶山津見(とやまつみ)の神【正鹿山津見の神より戶山津見の神まで幷はせて八神。】故(かれ)、斬りたまひし刀(たち)の名は、天之尾羽張(あまのをはばり)と謂ひ、亦の名は伊都尾羽張(いつのをばり)といふ。
ここにその妹(いも)伊邪那美の命を相ひ見むと欲(おも)ひて、黃泉國(よみのくに)に追ひ往(ゆ)きき。ここに殿(との)の縢戶(さしど)より出で向かへし時に、伊邪那岐の命、語らひ詔りたまひしく、
「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命、吾(あれ)と汝(いまし)と作れる國、いまだ作り竟(を)へず。故(かれ)、還るべし。」
と詔りたまひき。ここに伊邪那美の命の答へ白(まを)しく、
「悔(くや)しきかも、速(と)く來(こ)ずて。吾は黃泉戶喫(よもつへぐひ)しつ。然れども愛(うつく)しき我(あ)が汝兄(なせ)の命、入り來ませること恐(かしこ)し。故(かれ)、還らむと欲(おも)ふを、且(しばら)く黃泉神(よもつかみ)と相論(あげつら)はむ。我(あ)をな視(み)たまひそ。」
と、かく白(まを)しき。かき白して、その殿(との)の內(うち)に還り入りませる間(あひだ)、甚(いと)久しくて待ち難(かね)たまひき。故(かれ)、左の御角髮(みみづら)に刺せる湯津爪櫛(ゆつつまぐし)の男柱(をばしら)一箇(ひとつ)取り闕(か)きて、一つ火(び)燭(とも)して入り見たまひし時に、蛆(うじ)たかれころろきて、頭(かしら)には大雷(おほいかづち)居り、胸には火(ほの)雷居り、腹には黑雷居り、陰(ほと)には拆(さく)雷居り、左の手には若(わか)雷居り、右の手には土(つち)雷居り、左の足には鳴(なる)雷居り、右の足には伏(ふす)雷居り、幷(あは)せて八(や)はしらの雷神(いなづちがみ)、成り居りき。
ここに伊邪那岐の命、見畏(みかしこ)みて逃げ還る時に、その妹(いも)伊邪那美の命、
「吾(あれ)に辱(はぢ)見せつ。」
と言ひて、すなはち、黃泉醜女(よもつしこめ)を遣して追はしめき。ここに伊邪那岐の命、黑御鬘(くろみかづら)を投げ棄(う)てたまひしかば、すなはち、蒲子(えびかづらのみ)、生(な)りき。こを摭(ひろ)ひ食(は)む間に逃げ行くを、なほ、追ひしかば、またその右の御角髮(みみづら)に刺せる湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を引き闕(か)きて投げ棄(う)つれば、すなはち、笋(たかむな)、生なりき。こを拔き食(は)む間に、逃げ行きき。且(また)後には、かの八(や)はしらの雷神に、千五百(ちいほ)の黃泉軍(よもついくさ)を副(そ)へて追はしめき。ここに御佩(はか)せる十拳劒(とつかつるぎ)を拔きて、後手(しりへで)に振(ふ)きつつ逃げ來るを、なほ、追ひて、黃泉比良坂(よもつひらさか)の坂本(さかもと)に到りし時、その坂本なる桃の子(み)三箇(みつ)を取りて、待ち擊てば、悉(ことごと)に逃げ返りき。ここに伊邪那岐の命、桃の子みに告(の)りたまひしく、
「汝(いまし)、吾(あれ)を助けしが如く、葦原中國(あしはらのなかつくに)にあらゆる現(うつ)しき靑人草の、苦しき瀨に落ちて、患(うれ)ひ惚(なや)む時、助くべし。」
と告(の)りて、名を賜ひて、意富加牟豆美(おほかむづみ)の命と號(い)ひき。
最後(いやはて)に、その妹(いも)伊邪那美の命、身自(みづか)ら追ひ來たりき。ここに千引(ちびき)の石(いは)を、その黃泉比良坂(よもつひらさか)に引き塞(さ)へて、その石(いは)を中に置きて、各(おのもおのも)對(むか)ひ立ちて、事戶(ことど)を度(わた)す時に、伊邪那美の命、言ひしく、
「愛(うつく)しき我(あ)が汝兄(なせ)の命、かくし爲(せ)ば、汝(いまし)の國の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」
と、いひき。ここに伊邪那岐の命、詔りたまひしく、
「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命、汝(いまし)、然爲(しか)せば、吾(あれ)、一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)の產屋(うぶや)立てむ。」
と、のりたまひき。ここを以ちて一日(ひとひ)に必ず、千人(ちたり)死に、一日に必ず、千五百人(ちいほたり)生まるるなり。
故(かれ)、その伊邪那美の命に號(な)づけて黃泉津大神(よもつおほかみ)と謂ふ。また云はく、その追ひしきしをもちて、道敷(ちしき)の大神(おほかみ)ともいへり。またその黃泉(よみ)の坂に塞(さはや)りし石(いは)は、道反(ちがへし)の大神(おほかみ)と號(な)づけ、また、塞(さや)ります黃泉戶(よみど)の大神ともいふ。故(かれ)、その謂(い)はゆる黃泉比良坂(よもつひらさか)は、今、出雲國の伊賦夜(いふや)坂と謂ふ。
*]
○北條政村卒去 付 山階左大臣薨去
同十年五月七日、北條左京〔の〕大夫政村、卒去せらる。是、遠江守義時の四男なり。年六十九。同六月に北條重時の四男武藏守義政を執權として加判せしむ。相摸守時宗、是を擧(きよ)して政村の替(かはり)に居(す)ゑらる。門族の中、一家は別離の淚に沈みて、後會(こうくわい)の時なき事を歎き、一家は勢名(せいめい)の花開きて前世(ぜんせい)の芳(にほひ)ある事を喜ぶ。一枯(こ)一榮(えい)、世間、皆、斯(かく)の如し。同八月、京都には山階(やましなの)前左大臣實雄(さねを)公、今年五十七歳にして薨ぜらる。西園寺の一家にして、當今(たうぎん)新院の舅と成り、後宇多、伏見兩帝の外祖なれば、威勢を當代に振(ふる)ひて、榮華その身に餘り、官位俸祿に付きても、不足なる事なしといへども、定(さだま)れる死業(しごう)は遁る〻に地(ところ)なく、限れる命根(めいこん)は保つに賴(たより)を失ひ、佛神の冥力(みやうりき)、此所(こ〻)に空しく、耆扁(ぎへん)が醫術、徒(いたづら)に手を拱(こまね)き、少水(せいすゐ)の魚、遂に涸(か)れに就(つ)き、屠所(としよ)の羊(ひつじ)、果(はた)して行窮(ゆききはま)り、一朝の草露(さうろ)、落ちて二度(ふたたび)歸らず。三泉の叢塚(さうちよ)、埋(うづも)れて又、開かず。親疎遠近(しんそゑんきん)、哀(あはれ)を催し、悲(かなしみ)の色を含みけり。今年の秋の比、蒙古の使者趙良弼(てうりやうひつ)、來朝して、筑紫(つくし)の博多に著きにける。この由、六波羅へ告來(つげきた)る。鎌倉へ早馬を立てて、伺はせられしかば、卽ち禁中へ奏せらる。「年來、日本より遂に牒書(てふしよ)の返狀(へんじやう)をも遣されず。然るを、每度、使者を奉る。是、朝貢(てうこう)の式禮にもあらず。和親の信と云ふにもあらず。只、本朝に風儀を窺ひ、弊(つひえ)に乘りて討取(うちと)らんとの爲なるべし。重て來らば、一人も本國には返すまじ。皆、悉く、頭を刎(は)ぬべし。この度は、その案内の爲、歸らしむる所なり。京、鎌倉へ參るには及ばず」とて、太宰府より舟を出させ、超良弼を追返(おひかへ)されたり。蒙古の王、大に怒(いかつ)て、「日本を討亡(うちほろぼ)さずはあるべからず」とて軍兵を用意し、兵船(ひやうせん)を造る。この事、又、日本に聞えければ、鎌倉にも、内々、武備(ぶひ)の設(まうけ)を構へて、諸國の軍勢を點檢せられけり。
[やぶちゃん注:「同十年五月七日」前段の後嵯峨法皇崩御は前の年文永九年を受けた表現。ユリウス暦一二七三年。
「北條左京大夫政村」既注であるが、逝去記事なので再掲しておく。以下、主にウィキの「北条政村」により記載する(一部、補正した部分がある)。北条政村(元久二(一二〇五)年~文永一〇(一二七三)年)は義時五男(本文の「四男」は誤り。彼には兄に泰時・朝時・重時・有時がいる。但し、総て異母兄。政村の母は出生当時の義時の継正室であった伊賀の方で、彼女との間では最初の男子である)。政村流北条氏の祖で、幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として第七代執権に就任、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処に当たり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。第十二代執権北条煕時は曾孫に当たり、第十三代執権北条基時も血縁的には曾孫である。元久二(一二〇五)年六月二十二日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生、義時には既に四人の男子(泰時・朝時・重時・有時)がいたが、当時二十三歳の長男泰時は側室の所生、十三歳の次男朝時の母は正室姫の前であったが離別しており、政村は当代の正室伊賀の方所生では長男であった。建保元(一二一三)年十二月二十八日、七歳で第三代将軍源実朝の御所で元服、四郎政村と号した。『元服の際烏帽子親を務めたのは三浦義村だった(このとき祖父時政と烏帽子親の義村の一字をもらい、政村と名乗る)。この年は和田義盛が滅亡した和田合戦が起こった年であり、義盛と同じ一族である義村との紐帯を深め、懐柔しようとする義時の配慮が背景にあった。『吾妻鏡』は政村元服に関して「相州(義時)鍾愛の若公」と記している』。『義時葬儀の際の兄弟の序列では、政村と同母弟実泰は』、『すぐ上の兄で側室所生の有時の上位に位置し、異母兄朝時・重時の後に記されている。現正室の子として扱われると同時に、嫡男ではなく』、『あくまでも庶子の一人として扱われている』ことが分かる。しかし、『母伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、伊賀の方は伯母政子の命によって伊豆国へ流罪となるが、政村は兄泰時の計らいで累は及ば』ず、『その後も北条一門として執権となった兄泰時を支え』た(因みに三歳年下の『同母弟実泰は伊賀氏事件の影響か、精神のバランスを崩して病となり』、天福二(一二三四)年に二十七歳の若さで出家している)。延応元(一二三九)年、三十四歳で評定衆となり、翌年には筆頭となった。宝治元(一二四七)年、四十三の時、二十一歳の『執権北条時頼と、政村の烏帽子親だった三浦義村の嫡男三浦泰村一族の対立による宝治合戦が起こり、三浦一族が滅ぼされるが、その時の政村の動向は不明』である。建長元(一二四九)年十二月に引付頭人、建長八(一二五六)年三月には兄重時が出家して引退してしまったために兄に代わって五十二歳で連署となっている(執権経験者が連署を務めた例は他になく、極めて異例であって、政村が得宗家から絶大なる信頼を受けていたことの証左である)。文応元(一二六〇)年十月十五日、『娘の一人が錯乱状態となり、身体を捩じらせ、舌を出して蛇のような狂態を見せた。これは比企の乱で殺され、蛇の怨霊となった讃岐局に取り憑かれたためであるとされる。怨霊に苦しむ娘の治癒を模索した政村は隆弁に相談』、十一月二十七日には『写経に供養、加持祈祷を行ってようやく収まったという。息女の回復後ほどなくして政村は比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立し、現在は妙本寺となっている。このエピソードは『吾妻鏡』に採録されている話で、政村の家族想いな人柄を反映させたものだと評されている』。第七代執権当時、『時宗は連署となり、北条実時・安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、彼らや政村の補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章、北条教時)と時宗の異母兄北条時輔が粛清された二月騒動でも、政村は時宗と共に主導する立場にあった。二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢を率いて示威行動を行った際、政村は教時を説得して制止させている』。文永五(一二六八)年一月に蒙古国書が到来すると、『元寇という難局を前に権力の一元化を図るため』に、同年三月に執権職を十七歳の時宗に移譲、既に六十三歳であった政村は『再び連署として補佐、侍所別当も務め』た。『和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも敬愛され、吉田経長は日記『吉続記』で政村を「東方の遺老」と称し、訃報に哀惜の意を表明した。『大日本史』が伝えるところによると、亀山天皇の使者が弔慰のため下向したという』。ここに記されるように、次期連署は『兄重時の息子北条義政が引き継い』で同六月十七日に就任している。ある意味、非常に賢明かつ誠実に得宗独占の時代の中を生き抜いた人物と言えよう。
「武藏守義政」北条義政(寛元(一二四三)年或いは仁治三(一二四二)年~弘安四(一二八二)年)は北条重時の子。第六代将軍宗尊親王に仕え、引付衆・評定衆などの幕府要職を歴任、以上に見るように、叔父北条政村が死去すると、彼に代わって連署に任ぜられ、執権北条時宗を補佐した。なお、彼が「武藏守」となるのは文永一〇(一二七三)年の七月で、この話柄内時制(政村死去の五月と連署就任当時の六月)の官位は未だ「左近衞將監」である。
「擧(きよ)して」推薦して。
「前世(ぜんせい)の芳(にほひ)ある事」「ぜんせい」はママ。前世(ぜんせ)から享ける応報としてのそれがかくなる幸運・慶事であったこと。
「同八月」十六日。
「山階(やましなの)前左大臣實雄(さねを)」洞院(とういん)家の祖で、従一位左大臣であったことから「山階左大臣」と号した洞院実雄(とういんさねお 承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年)。ウィキの「洞院実雄」によれば、娘三人が、それぞれ、三人の天皇、第九十代亀山天皇(皇后佶子(きつし)。第九十一代後宇多天皇生母)・後深草天皇(愔子(いんし)。第九十二代伏見天皇生母)・伏見天皇(季子(きし)。第九十五代花園天皇生母)の妃となって権勢を誇った。娘たちは孰れも皇子を産み、それぞれが後に即位したことから、結果的には三人の天皇(後宇多天皇・伏見天皇・花園天皇)の外祖父に相当することとなった(「結果的には」と添えたのは、孫に当たる彼ら三人の即位は皆、彼の死後のことだからである)。
「當今(たうぎん)新院」今上帝亀山天皇と彼の兄後深草院。
「冥力(みやうりき)」神妙な<る御加護。
「耆扁(ぎへん)」世に希な名医を指す一般名詞。元は伝説の名医「耆婆(ぎば)」と「扁鵲(へんじゃく)」のこと。前者は古代インドのマガダ国ラージャグリハの医師ジーヴァカで、釈迦の弟子の一人でもあった。多くの仏弟子の病気を癒し、父王を殺した阿闍世 (あじゃせ:アジャータシャトル) 王をも信仰に入らせたとされる。後者は「韓非子」や「史記」にその事蹟を記す、古代中国漢代以前の伝説的名医の名。
「少水(せいすゐ)の魚、遂に涸(か)れに就(つ)き」旱(ひでり)で水がごく僅かになってしまった魚が、遂には水が干上がってしまい(死して干物となり)。
「屠所(としよ)の羊(ひつじ)、果(はた)して行窮(ゆききはま)り」屠殺場(ば)の羊が柵に追い詰められて万事窮し(哀れに殺され)。
「三泉の叢塚(さうちよ)」「三泉」は死後の世界を意味する死者の国たる黄泉(こうせん/よみ)のことで、「三」は大きな数値を意味するから、「地下のずっと深いところ」に「死者の魂」去って、それを追悼する「塚」(墓)は必ず「叢(くさむら)」に「埋(うづも)れて」しまい、二度と「開かず」というのである。
「親疎」故人と特に親しかった方々も、また、庶民も含んだ、そうでない者どもも。
「今年の秋の比」誤り。趙良弼の率いた蒙古使節団の初回は文永八(一二七一)年九月(日本への使節団としては五度目)で、この時は四ヶ月ほど大宰府に滞在した後、返書を受け取れず、大宰府からの日本人使節とともに帰国しており(この時を指すとしたら、「秋」は正しいが、この本文の時制は文永十年であるから誤りとなる)。次の第六回蒙古使節団もやはり趙良弼が率いたが、それは翌文永九(一二七二)年(四月或いは十二月と定かでない)のことで(この時は一年ほど大宰府に滞在の後、やはり、返書を受けられず、空しく帰国している)、この叙述を二回目のものとすると(その可能性が高い)、今度は年号も季節も誤りとなる。
「蒙古の使者趙良弼(てうりやうひつ)」(ちょう りょうひつ 一二一七年~一二八六年)は元のジュルチン族(女真人)出身の官僚。既注であるが、再掲しておく。ウィキの「趙良弼」によれば、『字は輔之。父は趙悫、母は女真人名門出身の蒲察氏で、その次男。本姓は朮要甲で、その一族は金に仕え、山本光朗によれば現代の極東ロシア沿海地方ウスリースク近辺に居住していたと考察されている。曾祖父の趙祚は金の鎮国大将軍で』、一一四二年『からの猛安・謀克の華北への集団移住の前後に、趙州賛皇県(河北省石家荘市)に移住した。漢人住民に「朮要甲(Chu yao chia)」を似た発音の「趙家(Zhao jia)」と聞き間違えられたことから、趙姓を名乗るようになったとされる』。『金の対モンゴル抵抗戦では』、一二二六年から一二三二年の間に『趙良弼の父・兄・甥・従兄の』四人が戦死、『戦火を避けて母と共に放浪した。金の滅亡後』、十三『世紀のモンゴル帝国で唯一行われた』一二三八年の『選考(戊戌選試)に及第し、趙州教授となる』。一二五一年には『クビライの幕下へ推挙された』。『クビライの一時的失脚の時期には、廉希憲と商挺の下で陝西宣撫司の参議とな』るが、一二六〇年、『クビライに即位を勧め、再び陝西四川宣撫司の参議となる。渾都海の反乱では、汪惟正、劉黒馬と協議の上で関係者を処刑した。廉希憲と商挺はクビライの許可もなく処断したことを恐れ、謝罪の使者を出したが、趙良弼は使者に「全ての責任は自分にある」との書状を渡し、クビライはこの件での追及はしなかった。廉希憲と商挺が謀反を企んだと虚偽の告訴を受けた時には、その証人として告発者から指名されたが、激怒して恫喝するクビライに対してあくまでも』二人の忠節を訴えて『疑念を晴らし、告発者は処刑され』ている。一二七〇年に『高麗に置かれた屯田の経略使となり、日本への服属を命じる使節が失敗していることに対して、自らが使節となることをクビライに請い、それにあたり秘書監に任命された。この時、戦死した父兄』四人の『記念碑を建てることを願って許可されている』。ここに出る日本への五度目の使節団として大宰府へ来たり、四ヶ月ほど滞在し、返書は得られなかったものの、大宰府では返書の代わりとして、取り敢えず、日本人の使節団がクビライの下へと派遣することを決し、趙良弼もまた、この日本使らとともに帰還の途に就いている(この十二名から成る(「元史」の「日本傳」では二十六名)日本側の大宰府使節団は文永九(一二七二)年一月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問したが、元側は彼らの意図を元の保有する軍備の偵察と断じ、クビライは謁見を許さず、同じく再び高麗を経由して四月に帰国している。ここはウィキの「元寇」に拠る)。一二七二年には第六回目の『使節として再び日本に来訪し』、一年ほど『滞在の後』、帰国、この時、『クビライへ日本の国情を詳細に報告し、更に「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきが良いでしょう」と日本侵攻に反対し』ている。彼は『宋滅亡後の江南人の人材育成と採用も進言している』。一二八二年に病いで隠居、四年後に亡くなった(下線やぶちゃん)。なお、第六回使節団が不首尾に終わったことについては、ウィキの「元寇」に、「元朝名臣事略」の『野斎李公撰墓碑によれば、趙良弼ら使節団が到来すると、日本の「国主」はクビライ宛に返書し和を議そうとしたが、日本が元の陣営に加わることを警戒した南宋より派遣された渡宋禅僧・瓊林(けいりん)が帰国して趙良弼らを妨害したため、趙らは返書を得ることができなかったという』と記し、また「賛皇復県記」にも、『南宋は自国と近い日本が元の陣営に加わることを恐れて、瓊林を遣わして妨害したとある』そうである。禅宗を深く信仰し、その擁護を図った北条得宗家を考えると、これはかなり腑に落ちる説であると私は思っている。
「重て來らば、一人も本國には返すまじ。皆、悉く、頭を刎(は)ぬべし。この度は、その案内の爲、歸らしむる所なり」本条の拠ったのは林鵞峯の「日本王代一覧」のようだが、今調べて見たが、事実、そうした通達を趙良弼にしたという記録は、そこには載らない。或いはこれ、筆者が後の掟破りの使者斬首(建治元(一二七五)年に来日した第七回使節団。時宗は彼らに逢わずに龍の口で処刑している。なお、そうした処断を幕府は元に通告しておらず、それを知らずに四年後の弘安二(一二七九)年にやってきた第八回使節団は博多で同じく斬首されている)を少しでも正当化するため、かく創作した可能性もある。時頼を死んだと見せて、回国させちゃうくらいの作者だ。それぐらいの操作はしそうだ。そもそもこの辺り以降は最早、「吾妻鏡」の記載がなくなってしまうから、公家の日記ぐらいしか、信頼出来る資料が、これ、ない。
「蒙古の王」既注のモンゴル帝国の第五代皇帝クビライ(一二一五年~一二九四年)のこと。チンギス・カンの四男トルイの子。
『大に怒(いかつ)て、「日本を討亡(うちほろぼ)さずはあるべからず」とて軍兵を用意し、兵船(ひやうせん)を造る』ウィキの「元寇」によれば、クビライは、第六回の訪朝から帰った趙良弼の日本侵攻への反対意見に一旦は従ったが、翌一二七三年(文永十年)になると、『前言を翻し、日本侵攻を計画』、『侵攻準備を開始した。この時点で、元は南宋との』五年に及んだ『襄陽・樊城の戦いで勝利し、南宋は元に対抗する国力を失っていた。また』、『朝鮮半島の三別抄』(さんべつしょう:高麗王朝の軍事組織で、元は私兵集団であったが、元軍の高麗侵攻に際しては事実上の高麗の正規国軍となったともされる)『も元に滅ぼされており、軍事作戦を対日本に専念させることが可能となったのであ』った。一二七四年(文永十一年)一月、『クビライは昭勇大将軍・洪茶丘』(こう
ちゃきゅう/こう さきゅう 一二四四年~一二九一年):祖国高麗及び元に仕えた軍人。クビライに重用された。彼の売国奴的行為(現在の大韓民国に於いてさえも彼は祖国の裏切者として非難されている)の背景はウィキの「洪茶丘」を参照されたい)『を高麗に派遣し、高麗に戦艦』三百艘の『建造を開始させた』。『洪茶丘は監督造船軍民総管に任命され、造船の総指揮に当たり、工匠・人夫』実に三万五百人余りを『動員した』。『洪茶丘の督促により高麗の民は「期限急迫して、疾(はや)きこと雷電の如し。民、甚(はなは)だ之に苦しむ」といった様相であったという』。同年五月には『元から派遣された日本侵攻の主力軍』一万五千名が『高麗に到着』している。『同月、クビライは娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)を高麗国王・元宗の子の王世子・諶(しん、後の忠烈王)に嫁がせ、日本侵攻を前にして元と高麗の関係をより強固に』した。同六月、『高麗は元に使者を派遣し、戦艦』三百艘の『造船を完了させ、軍船大小』九百艘を『揃えて』、『高麗の金州に回漕したことを報告』、同八月、『日本侵攻軍の総司令官にしてモンゴル人の都元帥・クドゥン(忽敦)が高麗に着任し』ている。この総司令官忽敦率いる、総計二万七千~四万の兵を乗せた七百二十六~九百艘に及ぶ軍船が朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航したのは、同一二七四年(文永十一年)十月三日のことであった。
「この事、又、日本に聞えければ、鎌倉にも、内々、武備(ぶひ)の設(まうけ)を構へて、諸國の軍勢を點檢せられけり」ウィキの「元寇」によれば、この前、『執権・北条時宗は、このようなモンゴル帝国の襲来の動きに対して以下のような防衛体制を敷いた』。文永八(一二七一)年、『北条時宗は鎮西に所領を持つ東国御家人に鎮西に赴くように命じ、守護の指揮のもと蒙古襲来に備えさせ、さらに鎮西の悪党の鎮圧を命じた』。『当時の御家人は本拠地の所領を中心に遠隔地にも所領を持っている場合があり、そのため、モンゴル帝国が襲来すれば戦場となる鎮西に所領を持つ東国御家人に異国警固をさせることを目的として鎮西への下向を命じたのであった』。『これがきっかけとなり、鎮西に赴いた東国御家人は漸次』、『九州に土着していくこととなる』。『九州に土着した東国御家人には肥前の小城に所領を持つ千葉氏などがおり、下向した千葉頼胤は肥前千葉氏の祖となっている』。文永九年には、『異国警固番役を設置。鎮西奉行・少弐資能、大友頼泰の二名を中心として、元軍の襲来が予想される筑前・肥前の要害の警護および博多津の沿岸を警固する番役の総指揮に当たらせた』。また、「高麗史」によると、『日本側が高麗に船を派遣して、諜報活動を行っていたと思われる記述があり、以下のような事件があった』という。同年七月、『高麗の金州において、慶尚道安撫使・曹子一と諜報活動を行っていたと思われる日本船とが通じていた』。『曹子一は元に発覚することを恐れて、密かに日本船を退去させたが、高麗軍民総管・洪茶丘はこれを聞き、直ちに曹子一を捕らえると、クビライに「高麗が日本と通じています」と奏上した』。『高麗国王・元宗は』『クビライに対して曹子一の無実を訴え』、『解放を求めたものの、結局、曹子一は洪茶丘の厳しい取調べの末に処刑された』とある。文永十年十一月には幕命を受けた少弐資能が、『戦時に備えて豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発し』ている、とある。]
僕の永年の憂鬱――
小学校五、六年の国語の教科書だったと思う――
詩人が、とある木に感動する――
詩人は「これは何という木だろう?」と呟くと、
友人が「○○の木だ」と言い、そうして「君は何にも知らないんだね」といったように応じる――
詩人は「そうだ。僕は何も知らない」――といった深いしみじみとした心内の述懐をするのだ――
その後は……覚えていない。ただ僕はそれが「伊藤整」という人の詩であったという強い記憶が残ってはいる。その後、成人した僕は何度か、伊藤整の詩集を繰ったのだけれど、遂に今に至るまで僕は「その詩」に出逢えていない――
教科書のその詩には大きな緑の樹が配されてあった――
どなたか――「僕にその詩を教へては呉ないだらうか?」……せめて、諸氏からこれを拡散して戴き、僕の惨めな人生の最後に、ちょっとした「木の花」添えて貰えると、恩幸、これに過ぎたるはないのである…………
さて社會の感情を代表する人としての神道の神官の權威に關する問題に戾つて見よう――この權威は常に偉大なものであつたと私は信ずる。社會が誤りをなしたるその所屬の人々の上に被らせる罰は、もと守護神の名を以つて被らされたものであるといふ事の、著しい證據は、恁ういふ事實に依つてよく解る、則ち社會の嫌悪の表現は、今でも幾多の地方にあつては、宗敎上の性質を取つて顯はれるといふ一事に依つて解る。私はこの種の表現を實見した、そして私はそれが今なほ大抵の地方に行はれて居ると信じて居る。併しこの古い慣習の殘つて居るのを尤もよく見うるのは、古の傳統が殆ど變はらずに、そのまま殘つて居る邊陬の田舍の町或は寂しい村落に於てである。斯樣な場所に於ては、各住者の行爲は、精細に注目され、人々に依つて嚴格に判斷されるのである。併し地方の神道大祭――守護神の例年の祭――の時までは些細な非行に就いては、殆ど何事も口外されない。其時(祭日)になつて、社會はその誓戒を與へ、或はその罰を加へる、かくの如きは少くとも地方の道德に反いた行爲のあつた場合にする事である。此祭の機會に、神は氏子の住居を見に來ると考へられて居る、そしてその移動させうる神殿(御輿)――三十人或は四十人に依つて擔はれる重い構造物――が主なる街路を通つて運ばれる。それを擔ふ人々は、神の意志に從つて働くので、――則ち神の靈の彼等を向かはしめる方向に進んで行くのだと考へられで居る。私は或る海岸の村で、一度ならず、幾度も見たその行列の事件を記述して見ようと思ふ。
[やぶちゃん注:「被らされた」「こうむらされた」と訓じているものと思われる。
「邊陬」「へんすう」と読む。中央から遠く離れた土地。片田舎。僻地(「陬」も片隅。片田舎の意)。]
行列に先き立つて、若い男の一群が、飛び跳ね、環を描いて、無闇に躍りながら進んで行く、此若者達は道を淸め拂ふのである、そのもの達の近くを通るのは、險難である、何となれば彼等は狂亂のやうな動き方をして、ぐるぐるまはつて行くからである……。私が始めて恁ういふ躍りをする一群を見た時、何となく古いデイオニソスの饗宴を見て居るやうな氣がした――彼等の烈しい旋轉運動は、たしかにギリシヤ古代の神聖なる狂熱の記事を實現したものであつた。實際を言へば、ギリシヤ風の頭は見られない、併し腰卷と草鞋とを外にしては、すべで裸體な、そして極めて彫刻的な筋肉をした靑銅色の、しなやかな姿は、躍つて居る牧羊神を顯はす水盤かなにかの意匠に用ひたら良からうと思はせるものであつた。この神の乘り移つた踊り手――その通過は群集を左右に散らして街路を拂ひ淸めたのであるが、――について、乙女の祭司が白衣を着て、面を蔽ひ馬に乘つて來、それにつづいて幾人かの乘馬の祭司が、これも白衣で儀式上の高い黑い帽を被つてやつて來る。その背後に大きな重さうな神殿が、それを擔ふ人々の頭の上で、恰も暴風に玩ばれたる船のやうに、搖れ動いて進んで來る。幾多の筋肉逞しい腕がそれを右手の方につきやると、また同樣な澤山の腕が左手の方にそれをつきかへす、前にも、うしろにも、亦烈しく押したり、引いたりする、そして何かを呼び立てる聲の唸りは、全く他の聲を聞こえなくしてしまふ。極々古くからの慣習に依つてすべての家の二階は固く鎖ざされる。かかる際に節穴からでも、神樣を見下すやうな不敬な所業をして居る處を見つけられた、あのゴダイヴアの姿をのぞいたやうな男があつたら、その者は禍なる哉……。
[やぶちゃん注:「古いデイオニソスの饗宴」原文“old Dionysiac revel” ディオニソス(Dionȳsos)は、ギリシア神話の「豊穣とブドウ酒と酩酊の神」。本来、この名は「若いゼウス」の意味であった(「ゼウス」又は「ディオス」は元来はギリシア語で「神」の意)。別名のバッコス(バッカス:Bakkhos)の方が日本人には馴染みかも知れない。但し、小泉八雲が具体にイメージしているのはギリシャ神話の祖先に相当するエーゲ文明での「奔放と狂乱と陶酔を象徴する神」により近いものと思われる。
「ギリシヤ風の頭は見られない」というのは、その祭りを読者が想起するに際して、そこにはしかし――ギリシャ彫刻のような長身の彫りの深い顔立ち――の群集がいるわけではなく、ちんちくりんの反っ歯の日本人の男の群れなのではあるが、「併し腰卷と草鞋とを外にしては、すべで裸體な、そして極めて彫刻的な筋肉をした靑銅色の、しなやかな姿は、躍つて居る牧羊神を顯はす水盤かなにかの意匠に用ひたら」まさに、かの牧神らの饗宴に見紛う図像となりほどに酷似している、というのである。
「儀式上の高い黑い帽」烏帽子。
「ゴダイヴアの姿をのぞいたやうな男」原文ではこの男は“the Peeping Tom”となっている。知られた「出歯亀(でばがめ)」の英語版「ピーピング・トム(覗き屋トム)」のこと。ウィキの「ゴダイヴァ夫人」から引く。ゴダイヴァ夫人(Lady Godiva 九九〇年頃~一〇六七年)は、十一世紀に実在した『イングランドの女性。マーシア伯レオフリックの夫人で、自身も後に領主となった。夫レオフリックの圧政を諌めるためコヴェントリーの街を裸で行進したという有名な伝説が残っているが、中世を専門とする歴史家の見解は、これは史実ではないことで一致している』。偽書とされる「イングルフの年代記」に『よれば、ゴダイヴァは「美しいかぎりの、聖い心もちの女性」であったといわれる』。『英米で広く信じられている漠然とした伝説は、領民に対して情けぶかい夫人が、理不尽な夫に難癖をつけられ』、『素裸で長髪をなびかせ』、『馬に乗って町内を横断する羽目になり、町人は夫人に恩義を感じて目をそむけ』、『野次馬を差し控えたのだが、ただ一人、トムという男が盗み見たため、以来、ピーピング・トムといえば覗き見をする人間の代名詞となった、というものである』。『この伝説については、ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー』(Roger of Wendover ?~一二三六年没)の書いた年代記“Flowers of History”(「歴史の花」)が最も『簡素かつ最古とされる典拠で』、『伯爵夫人ゴダイヴァは聖母の大そうな敬愛者で、コヴェントリーの町を重税の苦から解放せんと欲し、たびたび夫に対して祈願して(減税を)迫った』。『伯爵はいつもきつく叱りつけ、二度とその話はせぬようと』たしなめたが、『(それでもなお粘るので)ついに「馬にまたがり、民衆の皆がいるまえで、裸で乗りまわせ。町の市場をよぎり、端から端まで渡ったならば、お前の要求はかなえてやろう」と言った。ゴダイヴァは「では私にその意があればお許し頂けますのですね?」念をおしたが、「許す」という。さすれば神に愛されし伯爵夫人は、髪を解きほどき、髪の房を垂らして、全身をヴェールのように覆わせた。そして馬にまたがり二人の騎士を供につけ、市場を駆けてつっきったが、その美しいおみ足以外は誰にも見られなかった。そして道程を完走すると、彼女は喜々として驚愕する夫のところに舞い戻り、先の要求を叶えた。レオフリク伯は、コヴェントリーの町を前述の役から免じ、勅令(憲章)によってこれを認定した』。後の別な一書では、『伯爵はすでに市民に対し免税優遇策を施してはいたが、ただ「馬税」だけがいまだ徴収されていたので、妻のゴダイヴァ (Godiva)が、更にその撤廃を嘆願した。ゴダイヴァは、裸で馬乗りすることを命じられた日を指定して、町内中の役人に通知すると、役人たちは彼女の意を汲み、町民たちに命じて、「その日は家にこもって戸も窓も締め切るように」と言いつけた』という。『また、「裸で」という言葉の解釈にも諸説あり、「長い髪が効果的に体を隠していた」「下着のようなものは身に着けていた」「貴族の象徴である装飾や宝石類を外した格好だったことを『裸で』と言い表した」など複数の説がある。ただし、彼女の時代の』“naked”『という語は「いかなる衣服も身につけず」という文字通りの意味であり、それ以上の比喩的な使い方があったわけではなく、後付的な解釈である感も否めない。』一方、それを覗いた男、『町衆みんなが守った礼儀にさからって、一糸まとわぬゴダイヴァ夫人をただひとり覗き見したというピーピング・トム伝説は、文学作品から広まった形跡はない。これは』十七世紀以降に『コヴェントリー地域の巷に出現した伝説である』。一八二六 年に投稿された W. Reader という『地元通の記事によれば、夫人をのぞき見した仕立屋がいたという伝説はそのころすでに定着しており、町をあげての恒例の祭り』(Trinity Great Fair:現在名:Godiva Festival)では、『ゴダイヴァ夫人に扮した人が行列に参列し(Godiva processions)、街角には「ピーピング・トム」と呼ばれる木像が置かれるしきたりであった』(引用元にその木像の絵が載る)。『同記事の筆者は、この木像の甲冑・異称などから、それが』チャールズ二世(一六八五年没)『時代頃のものと推定する。また、古物収集家ウィリアム・ダグデール』(一六八六年没)なる博覧強記の人物が、その大著の『なかで「のぞき野郎」のことにひとことも触れていないことから、伝説の発祥はその後と結論した』とある。『文献における「覗き男」登場の経緯はどうかというと、これは英国人物事典』に詳しく、まず『歴史家ポール・ド・ラパン=トワラ』(一七三二年)『がルポタージュする地元事情によれば、戸窓を閉めきって見るな、死罪に処すぞ、ときついお達しがあったのにのぞき見した男がおり、そいつは命で償ったというのが町の言い伝えであり、町ではこの故事を記念し、男の像が一軒の家の窓から外を覗くように飾ってあると報告する』。次にトマス・ペナント「チェスターからロンドン」(一七八二年)によると、『のぞき見したのは』、『とある仕立屋だったとし、ゴダイヴァ夫人の行進では、ゴダイヴァ役が、むろん全裸ではないが、四肢にぴったり合わせた純白の絹衣をまとうとしている』とあるという。さらに同書では、『「ピーピング・トム」が名指しで文書に登場する最古例はコヴェントリー市の公式年代記』(一七七三年六月十一日付)『で、木偶に新しいかつらと塗料が支給された記録である』。『このほか、覗き男の名がアクティオン』という名で『あったという』千七百年以前の『書簡があるという』。『トム(トーマス)という名はアングロサクソン名ではないので、実在のゴダイヴァ夫人の時代の領民の名としてはありえないことが指摘されている。またトーマスは』この後(のち)、『天罰がくだって盲目にされた、あるいは住民によって視力を奪われてしまったとも伝えられる』とある。]
私の言つた通り、神輿を擔ふ人々は、神の靈に依つて動かされて居ると考へられて居る、――(神道の神はいろいろな性情をもつて居るから、多分その暴い靈に依つて、動かされて居るのであらう)それでこのつき進み、引きかへし、またそれを搖る事は、只だ前後左右の家を神が檢査するの意である。神はその禮拜者の心が、果たして純眞であるかを知らうと見まはして居り、またそれに警告を與へ、或は罰を加へる必要があるかどうかを決めようとして居るのである。擔ふ人々は何方へでも神の欲する方に、その神をもつて行くのである、――必要とあれば固い壁を通してでも。それで若し神殿(神輿)が、或る一軒の家にぶつかるとすれば――ただその家の暖簾にあたつてすらも――それは神樣がその家の人々に對して立腹して居られる徴となるのである。若し神樣が家の一部で破壞する事があれば、それこそ重大な警告である。併し神樣が家の中に入る事を望まれる事もある――その一行く道をさへぎるものを毀しても。さうなるとその家の人々は、すぐに裏口から逃げなければ、大變な事になる、そして亂暴な行列は、雷のやうな音を出して入り込んで來る、神樣がまた進んで巡囘する事を承諾されるまでは、その家の內のあらゆるものを砕き、裂き、破り、押しつぶしてしまふであらう。
[やぶちゃん注:「暴い靈」「あらいれい」。荒ぶる神。神道でいう「荒御魂(あらみたま)」のこと。
「暖簾」原文は“an awning”でこれは「天幕」の意もあるが、ここは「廂・軒」の意であろう。平井呈一氏も『――ほんの軒先へ当たっただけでも――』と訳しておられる。]
私は二箇處の破壞の跡を見たが、その理由を尋ねて、始めて、組合の見解から言つて、兩度の侵入は共に道德上正常と認むべきものであつた事をよく知る事を得た。則ち第一の場合には欺僞が行はれたのであり、他の場合には水に溺れたものの一族に救助を與へなかつたといふのである。則ち一つの犯罪は、法律上のであり、他のは道德上の犯罪であつた。田舍の社會は放火、殺人、竊盜、その他の重大な犯罪の場合でなければ、その犯罪人を警察に渡す事をしない。田舍では法律を恐れて居る、故に他の方法に依つてきめられるものなら、決して法律を呼び起こす事をしない。かくの如きはまた古代の規約であつて、封建の政府はさういふ慣習の維持を奬勵したものである。併し守護の神が立腹されると、その犯罪者の處罰、若しくは排斥を主張される。さうなると封建の慣習に從つて、その犯罪者の全家族が責任をもたせられる事になる。この被害者は、若しさういふ氣があるならば、新しい法律に訴へる事も出來る。そして自分の家を破壞したものを、法廷に引き出し損害や陪償させる事も出來る。何となれば近代の警察廷は、神道に依つて左右されて居ないのであるから。併し餘程の向う見ずでなければ、社會の判斷に對して、新しい法律に訴へるやうな事はしまい、何となればさういふ行動その事が、すでに甚だしい慣習の破壞として非難されるからである。社會は、その協議會に依つて、冤罪であつた事が證明される場合には、いつも直に公明な判斷を下すに吝ではない。併し責を負ふべき名のとして訴へられたその・罪惡を實際犯して居た者が、宗敎に依らない法律に訴へて、復讐をしようと試みるやうな事があれば、さういふ者はなるべく早く自分と、自分の家族の居處を、何處か遠い所に移すが上策であらうと考へられる。
[やぶちゃん注:「警察廷」「けいさつてい」。法廷警察権を持つ警察と司法。
「吝かではない」「やぶさかではない」。ある判断及びそれに対する処置を行うことについて概ね積極的な意思をもって対処するに抵抗はない、の意。]
舊日本に於ては、個人の生命は二種の宗敎的支配の下にあつた事を吾々は觀た。則ちすべて個人の行動は、一家の若しくは社會の祭祀から來た傳統に從つて定められて居た。而してかくの如き狀態は、一定した文化の成立と共に始まつたものである事を知つた。吾々はまた社會の宗敎が、家の宗敎の遵奉を勵行する勞を取った事と知つた。この事實は、若し吾々がこの兩祭祀(社會と家族との)基本となつて居る考へ――卽ち生者の幸福は死者の幸福に依るといふ考へ――は同一なものである事を記憶して置くならば、決して不思議とは思はれないであらう。家族の祭祀を閑却する事は、靈の惡意を起こさせるものと信ぜられて居た。而して靈の惡意は公共の不幸を齎すのである。祖先の亡靈は自然を支配して居た、――火災、出水、疫病、飢饉等は、報復の手段として、亡靈の自由に用ひ得たものであつた。故に村に於ける不信心の一所業は、全村の上に不幸を齎す事があつたかも知れないのである。而して一社會(組合若しくは一地方)は、各家庭に孝道を維持する事に關して、死者に對し責任をもつて居ると考へられて居た。
The Communal
Cult
AS by the religion of the household each individual was ruled in every action of domestic life, so, by the religion of the village or district the family was ruled in all its relations to the outer world. Like the religion of the home, the religion of the commune was ancestor-worship. What the household shrine represented to the family, the Shintō parish-temple represented to the community; and the deity there worshipped as tutelar god was called Ujigami, the god of the Uji, which term originally signified the patriarchal family or gens, as well as the family name.
Some obscurity still attaches to the question of the original relation of the community to the Uji-god. Hirata declares the god of the Uji to have been the common ancestor of the clan-family,—the ghost of the first patriarch; and this opinion (allowing for sundry exceptions) is almost certainly correct. But it is difficult to decide whether the Uji-ko, or "children of the family" (as Shintō parishioners are still termed) at first included only the descendants of the clan-ancestor, or also the whole of the inhabitants of the district ruled by the clan. It is certainly not true at the present time that the tutelar deity of each Japanese district represents the common ancestor of its inhabitants,—though, to this general rule, there might be found exception in some of the remoter provinces. Most probably the god of the Uji was first worshipped by the people of the district rather as the spirit of a former ruler, or the patron-god of a ruling family, than as the spirit of a common ancestor. It has been tolerably well proved that the bulk of the Japanese people were in a state of servitude from before the beginning of the
historic period, and so remained until within comparatively recent times. The subject-classes may not have had at first a cult of their own: their religion would most likely have been that of their masters. In later times the vassal was certainly attached to the cult of the lord. But it is difficult as yet to venture any general statement as to the earliest phase of the communal cult in Japan; for the history of the Japanese nation is not that of a single people of one blood, but a history of many clan-groups, of different origin, gradually brought together to form one huge patriarchal society.
However, it is quite safe to assume, with the best native authorities, that the Ujigami were originally clan-deities, and that they were usually, though not invariably, worshipped as clan-ancestors. Some Ujigami belong to the historic period. The war god Hachiman, for example,—to whom parish-temples are dedicated in almost every large city,—is the apotheosized spirit of the Emperor Ojin, patron of the famed Minamoto clan. This is an example of Ujigami worship in which the clan-god is not an ancestor. But in many instances the Ujigami is really the ancestor of an Uji; as in the case of the great deity of Kasuga, from whom the Fujiwara clan claimed descent. Altogether there were in ancient Japan, after the beginning of the historic era, 1182 clans, great and small; and these appear to have established the same number of cults. We find, as might be expected, that the temples now called Ujigami—which is to say, Shintō parish-temples in general—are always dedicated to a particular class of divinities, and never dedicated to certain other gods. Also, it is significant that in every large town there are Shintō temples dedicated to the same Uji-gods,—proving the transfer of communal worship from its place of origin. Thus the Izumo worshipper of Kasuga-Sama can find in Osaka, Kyōto, Tōkyō, parish-temples dedicated to his patron: the Kyuūshū worshipper of Hachiman-Sama can place himself under the protection of the same deity in Musashi quite as well as in Higo or Bungo. Another fact worth observing is that the Ujigami temple is not necessarily the most important Shintō temple in the parish: it is the parish-temple, and important to the communal worship; but it may be outranked and overshadowed by some adjacent temple dedicated to higher Shintō gods. Thus in Kitzuki of Izumo, for example, the great Izumo temple is not the Ujigami,—not the parish-temple; the local cult is maintained at a much smaller temple …. Of the higher cults I shall speak further on; for the present let us consider only the communal cult, in its
relation to communal life. From the social conditions represented by the worship of the Ujigami to-day, much can be inferred as to its influence in past times.
Almost every Japanese village has its Ujigami; and each district of every large town or city also has its Ujigami. The worship of the tutelar deity is maintained by the whole body of parishioners, the Ujiko, or children of the tutelar god. Every such parish-temple has its holy days, when all Ujiko are expected to visit the
temple, and when, as a matter of fact, every household sends at least one representative to the Ujigami. There are great festival-days and ordinary festival-days; there are processions, music, dancing, and whatever in the way of popular amusement can serve to make the occasion attractive. The people of adjacent districts vie with each other in rendering their respective temple-festivals (matsuri) enjoyable: every household contributes according to its means. The Shintō parish-temple has an intimate relation to the life of the community as a body, and also to the individual existence of every Ujiko. As a baby he or she is taken to the
Ujigami—(at the expiration of thirty-one days after birth if a boy, or thirty-three days after birth if a girl)—and placed under the protection of the god, in whose supposed presence the little one's name is recorded. Thereafter the child is regularly taken to the temple on holy days, and of course to all the big festivals, which are made delightful to young fancy by the display of toys on sale in temporary booths, and by the amusing spectacles to be witnessed in the temple grounds,—artists forming pictures on the pavement with coloured sands,—sweetmeat-sellers moulding animals and monsters out of sugar-paste,—conjurors and tumblers exhibiting their skill…. Later, when the child becomes strong enough to run about, the temple gardens and groves serve for a playground. School-life does not separate the Ujiko from the Ujigami (unless the family should permanently leave the district); the visits to the temple are still continued as a duty. Grown-up and married, the Ujiko regularly visits the guardian-god, accompanied by wife or husband, and brings the children to pay obeisance. If obliged to make a long journey, or to quit the district forever, the Ujiko pays a farewell visit to the Ujigami, as well as to the tombs of the family ancestors; and on returning to one's native place after prolonged absence, the first visit is to the god …. I have more than once been touched by the spectacle of soldiers at prayer before lonesome little temples in country places,—soldiers but just returned from Korea, China, or Formosa: their first thought on reaching home was to utter their thanks to the god of their childhood, whom they believed to have guarded them in the hour of battle and the season of pestilence.
The best authority on the local customs and laws of Old Japan, John Henry Wigmore, remarks that the Shintō cult had few relations with local administration. In his opinion the Ujigami were the deified ancestors of certain noble families of early times; and their temples continued to be in the patronage of those families. The office of the Shintō priest, or "god-master" (kannushi) was, and still is, hereditary; and, as a rule, any kannushi can trace back his descent from the family of which the Ujigami was originally the patron-god. But the Shintō priests, with some few exceptions, were neither magistrates nor administrators; and Professor Wigmore thinks that this may have been "due to the lack of administrative organization within the cult itself."1 This would be an adequate explanation. But in spite of the fact that they exercised no civil function, I believe it can be shown that Shintō priests had, and still have, powers above the law. Their relation to the community was of an extremely important kind: their authority was only religious but it was heavy and irresistible.
1 The vague character of the Shintō hierarchy is probably best explained by Mr. Spencer in Chapter VIII of the third volume of Principles of Sociology: The establishment of an ecclesiastical organization separate from the political organization, but akin to it in its structure, appears to be largely determined by the rise of a decided distinction in thought between the affairs of this world and those of a supposed other world. Where the two are conceived as existing in continuity, or as intimately related, the organizations appropriate to their respective administrations remain either identical or imperfectly distinguished …. if the Chinese are remarkable for the complete absence of a priestly caste, it is because, along with their universal and active ancestor-worship, they have preserved that inclusion of the duties of priest in the duties of ruler, which ancestor-worship in its simple form shows us." Mr. Spencer remarks in the same paragraph on the fact that in ancient Japan "religion and government were the same." A distinct Shintō hierarchy was therefore never evolved.
To understand this, we must remember that the Shintō priest represented the religious sentiment of his district. The social bond of each community was identical with the religious bond,—the cult of the local tutelar god. It was to the Ujigami that prayers were made for success in all communal undertakings, for protection against sickness, for the triumph of the lord in time of war, for succour in the season of famine or epidemic. The Ujigami was the giver of all good things,—the special helper and guardian of the people. That this belief still prevails may be verified by any one who studies the peasant-life of Japan. It is not to the Buddhas that the farmer prays for bountiful harvests, or for rain in time of drought; it is not to the Buddhas that thanks are rendered for a plentiful rice-crop—but to the ancient local god. And the cult of the Ujigami embodies the moral experience of the community,—represents all its cherished traditions and customs, its unwritten laws of conduct, its sentiment of duty …. Now just as an offence against the ethics of the family must, in such a society, be regarded as an impiety towards the family-ancestor, so any breach of custom in the village or district must be considered as an act of disrespect to its Ujigami. The prosperity of the family depends, it is thought, upon the observance of filial piety, which is identified with obedience to the traditional rules of household conduct; and, in like manner, the prosperity of the commune is supposed to depend upon the observance of ancestral custom,—upon obedience to those unwritten laws of the district, which are taught to all from the time of their childhood. Customs are identified with morals. Any offence against the customs of the settlement is an offence against the gods who protect it, and therefore a menace to the public weal. The existence of the community is endangered by the crime of any of its members: every member is therefore held accountable by the community for his conduct. Every action must conform to the traditional usages of the Ujiko: independent exceptional conduct is a public offence.
What the obligations of the individual to the community signified in ancient times may therefore be imagined. He had certainly no more right to himself than had the Greek citizen three thousand years ago,—probably not so much. To-day, though laws have been greatly changed, he is practically in much the same condition. The mere idea of the right to do as one pleases (within such limits as are imposed on conduct by English and American societies, for example) could not enter into his mind. Such freedom, if explained to him, he would probably consider as a condition morally comparable to that of birds and beasts. Among ourselves, the social regulations for ordinary people chiefly settle what must not be done. But what one must not do in Japan—though representing a very wide range of prohibition means much less than half of the common obligation: what one must do, is still more necessary to learn …. Let us briefly consider the restraints which custom places upon the liberty of the individual.
First of all, be it observed that the communal will reinforces the will of the household,—compels the observance of filial piety. Even the conduct of a boy, who has passed the age of childhood, is regulated not only by the family, but by the public. He must obey the household; and he must also obey public opinion in regard to his domestic relations. Any marked act of disrespect, inconsistent with filial piety, would be judged and rebuked by, all. When old enough to begin work or study, a lad's daily conduct is observed and criticised; and at the age when the household law first tightens about him, he also commences to feel the pressure of common opinion. On coming of age, he has to marry; and the idea of permitting him to choose a wife for himself is quite out of the question: he is expected to
accept the companion selected for him. But should reasons be found for humouring him in the event of an irresistible aversion, then he must wait until another choice has been made by the family. The community would not tolerate insubordination in such matters: one example of filial revolt would constitute too dangerous a precedent. When the young man at last becomes the head of a household, and responsible for the conduct of its members, he is still constrained
by public sentiment to accept advice in his direction of domestic affairs. He is not free to follow his own judgment, in certain contingencies. For example, he is bound by custom to furnish help to relatives; and he is obliged to accept arbitration in the event of trouble with them. He is not permitted to think of his own wife and children only,—such conduct would be deemed intolerably selfish: he must be able to act, to outward seeming at least, as if uninfluenced by paternal or marital affection in his public conduct. Even supposing that, later in life, he should be appointed to the position of village or district headman, his right of action and judgment would be under just as much restriction as before. Indeed, the range of his personal freedom actually decreases in proportion to his ascent in the social scale. Nominally he may rule as headman: practically his authority is only lent to him by the commune, and it will remain to him just so long as the commune pleases. For he is elected to enforce the public will, not to impose his own,—to serve the common interests, not to serve his own,—to maintain and confirm custom, not to break with it. Thus, though appointed chief, he is only the public servant, and the least free man in his native place. Various documents translated and published by Professor Wigmore, in his "Notes on Land Tenure and Local Institutions in Old Japan," give a startling idea of the minute regulation
of communal life in country-districts during the period of the Tokujawa Shoguns. Much of the regulation was certainly imposed by higher authority; but it is likely that a considerable portion of the rules represented old local custom. Such documents were called Kumi-chō or "Kumi1-enactments": they established the rules of conduct to be observed by all the members of a village-community, and their social interest is very great. By personal inquiry I have learned that in various parts of the country, rules much like those recorded in the Kumi-cho, are still enforced by village custom. I select a few examples from Professor Wigmore's translation:—
1 Down to the close of the feudal period, the mass of the population throughout the country, in the great cities as well as in the villages, was administratively ordered by groups of families, or rather of households, called Kumi, or "companies." The general number of households in a Kumi was five; but there were in some provinces Kumi consisting of six, and of ten, households. The heads of the households composing a Kumi elected one of their number as chief,—who became the responsible representative of all the members of the Kumi. The origin and history of the Kumi-system is obscure: a similar system exists in China and in Korea. (Professor Wigmore's reasons for doubting that the Japanese Kumi-system had a military origin, appear to be cogent.) Certainly the system greatly facilitated administration. To superior authority the Kumi was responsible, not the single household.
"If there be any of our number who are unkind to parents, or neglectful or disobedient, we will not conceal it or condone it, but will report it …."
"We shall require children to respect their parents, servants to obey their masters, husbands and wives and brothers and sisters to live together in harmony, and the younger people to revere and to cherish their elders …. Each kumi [group of five households] shall carefully watch over the conduct of its members, so as to prevent wrongdoing."
"If any member of a kumi, whether farmer, merchant, or artizan, is lazy, and does not attend properly to his business, the ban-gashira [chief officer] will advise him, warn him, and lead him into better ways. If the person does not listen to this advice, and becomes angry and obstinate, he is to be reported to the toshiyori [village elder] …."
"When men who are quarrelsome and who like to indulge in late hours away from home will not listen to admonition, we will report them. If any other kumi neglects to do this, it will be part of our duty to do it for them …."
"All those who quarrel with their relatives, and refuse to listen to their good advice, or disobey their parents, or are unkind to their fellow-villagers, shall be reported [to the village officers] …."
"Dancing, wrestling, and other public shows shall be forbidden. Singing and dancing-girls and prostitutes shall not be allowed to remain a single night in the mura [village]."
"Quarrels among the people shall be forbidden. In case of dispute the matter shall be reported. If this is not done, all parties shall be indiscriminately punished …."
"Speaking disgraceful things of another man, or publicly posting him as a bad man, even if he is so, is forbidden."
"Filial piety and faithful service to a master should be a matter of course; but when there is any one who is especially faithful and diligent in these things, we promise to report him … for recommendation to the government …."
"As members of a kumi we will cultivate friendly feeling even more than with our relatives, and will promote each other's happiness, as well as share each
other's griefs. If there is an unprincipled or lawless person in a kumi, we will all share the responsibility for him."1
1 "Notes on Land Tenure and Local Institutions in Old Japan" (Transactions Asiatic Society of Japan, Vol. XIX, Part I) I have chosen the quotations from different kumi-cho, and arranged them illustratively.
The above are samples of the moral regulations only: there were even more minute regulations about other duties.—for instance:—
"When a fire occurs, the people shall immediately hasten to the spot, each bringing a bucketful of water, and shall endeavour, under direction of the officers, to put the fire out …. Those who absent themselves shall be deemed culpable.
"When a stranger comes to reside here, enquiries shall be made as to the mura whence he came, and a surety shall be furnished by him …. No traveller shall lodge, even for a single night, in a house other than a public inn.
"News of robberies and night attacks shall be given by the ringing of bells or otherwise; and all who hear shall join in pursuit, until the offender is taken. Any one wilfully refraining, shall, on investigation, be punished."
From these same Kumi-cho, it appears that no one could leave his village even for a single night, without permission,—or take service elsewhere, or marry in another province, or settle in another place. Punishments were severe,—a terrible flogging being the common mode of chastisement by the higher authority…. To-day, there are no such punishments; and, legally, a man can go where he pleases. But as a matter of fact he can nowhere do as he pleases; for individual liberty is still largely restricted by the survival of communal sentiment and old-fashioned custom. In any country community it would be unwise to proclaim such a doctrine as that a man has the right to employ his leisure and his means as he may think proper. No man's time or money or effort can be considered exclusively his own,—nor even the body that his ghost inhabits. His right to live in the community rests solely upon his willingness to serve the community; and whoever may need his help or sympathy has the privilege of demanding it. That "a man's house is his castle" cannot be asserted in Japan—except in the case of some high
potentate. No ordinary person can shut his door to lock out the rest of the world. Everybody's house must be open to visitors: to close its gates by day would be regarded as an insult to the community,—sickness affording no excuse. Only persons in very great authority have the right of making themselves inaccessible. And to displease the community in which one lives,—especially if the community be a rural one,—is a serious matter. When a community is displeased, if acts as an individual. It may consist of five hundred, a thousand, or several thousand persons; but the thinking of all is the thinking of one. By a single serious mistake a man may find himself suddenly placed in solitary opposition to the common will,—isolated, and most effectively ostracized. The silence and the softness of the hostility only render it all the more alarming. This is the ordinary form of punishment for a grave offence against custom: violence is rare, and when resorted to is intended (except in some extraordinary cases presently to be noticed) as a mere correction, the punishment of a blunder. In certain rough communities, blunders endangering life are immediately punished by physical chastisement,—not in anger, but on traditional principle. Once I witnessed at a fishing-settlement, a chastisement of this kind. Men were killing tunny in the surf; the work was bloody and dangerous; and in the midst of the excitement, one of the fishermen struck his killing-spike into the head of a boy. Everybody knew that it was a pure accident; but accidents involving danger to life are rudely dealt with, and this blunderer was instantly knocked senseless by the men nearest him,—then dragged out of the surf and flung down on the sand to recover himself as best he might. No word was said about the matter; and the killing went on as before. Young fishermen, I am told, are roughly handled by their fellows on board a ship, in the case of any error involving risk to the vessel. But, as I have already observed, only stupidity is punished in this fashion; and ostracism is much more dreaded than violence. There is, indeed, only one yet heavier punishment than ostracism—namely, banishment, either for a term of years or for life.
Banishment must in old feudal times have been a very serious penalty; it is a serious penalty even to-day, under the new order of things. In former years the man expelled from his native place by the communal will—cast out from his home, his clan, his occupation —found himself face to face with misery absolute. In another community there would be no place for him, unless he happened to have relatives there; and these would be obliged to consult with the local authorities, and also with the officials of the fugitive's native place, before venturing to harbour him. No stranger was suffered to settle in another district than his own without official permission. Old documents are extant which record the punishments inflicted upon households for having given shelter to a stranger under pretence of relationship. A banished man was homeless and friendless. He might be a skilled craftsman; but the right to exercise his craft depended upon the consent of the guild representing that craft in the place to which he might go; and banished men were not received by the guilds. He might try to become a servant; but the commune in which he sought refuge would question the right of any master to employ a fugitive and a stranger. His religious connexions could not serve him in the least: the code of communal life was decided not by Buddhist, but by Shintō ethics. Since the gods of his birthplace had cast him out, and the gods of any other locality had nothing to do with his original cult, there was no religious help for him. Besides, the mere fact of his being a refugee was itself proof that he must have offended against his own cult. In any event no stranger could look for sympathy among strangers. Even now to take a wife from another province is condemned by local opinion (it was forbidden in feudal times): one is still expected to live, work, and marry in the place where one has been born,—though, in certain cases, and with the public approval of one's own people, adoption into another community is tolerated. Under the feudal system there was
incomparably less likelihood of sympathy for the stranger; and banishment signified hunger, solitude, and privation unspeakable. For be it remembered
that the legal existence of the individual, at that period, ceased entirely outside of his relation to the family and to the commune. Everybody lived and worked for some household; every household for some clan; outside of the household, and the related aggregate of households, there was no life to be lived—except the life of criminals, beggars, and pariahs. Save with official permission, one could not even become a Buddhist monk. The very outcasts—such as the Eta classes—formed self-governing communities, with traditions of their own, and would not voluntarily accept strangers. So the banished man was most often doomed to become a hinin,—one of that wretched class of wandering pariahs who were officially termed "not-men," and lived by beggary, or by the exercise of some vulgar profession, such as that of ambulant musician or mountebank. In more ancient days a banished man could have sold himself into slavery; but even this poor privilege seems to have been withdrawn during the Tokugawa era.
We can scarcely imagine to-day the conditions of such banishment: to find a Western parallel we must go back to ancient Greek and Roman times long preceding the Empire. Banishment then signified religious excommunication, and practically expulsion from all civilized society,—since there yet existed no idea of human brotherhood, no conception of any claim upon kindness except the claim of kinship. The stranger was everywhere the enemy. Now in Japan, as in the Greek city of old time, the religion of the tutelar god has always been the religion of a group only, the cult of a community: it never became even the religion of a province. The higher cults, on the other hand, did not concern themselves with the individual: his religion was only of the household and of the village or
district; the cults of other households and districts were entirely distinct; one could belong to them only by adoption, and strangers, as a rule, were not adopted. Without a household or a clan-cult, the individual was morally and socially dead; for other cults and clans excluded him. When cast out by the domestic cult that regulated his private life, and by the local cult that ordered his life in relation to the community, he simply ceased to exist in relation to human society.
How small were the chances in past times for personality to develop and assert itself may be imagined from the foregoing facts. The individual was completely and pitilessly sacrificed to the community. Even now the only safe rule of conduct in a Japanese settlement is to act in all things according to local custom; for the slightest divergence from rule will be observed with disfavour. Privacy does not exist; nothing can be hidden; everybody's vices or virtues are known to everybody else. Unusual behaviour is judged as a departure from the traditional standard of conduct; all oddities are condemned as departures from custom; and tradition and custom still have the force of religious obligations. Indeed, they really are religious and obligatory, not only by reason of their origin, but by reason of their relation also to the public cult, which signifies the worship of the past.
It is therefore easy to understand why Shintō never had a written code of morals, and why its greatest scholars have declared that a moral code is unnecessary. In that stage of religious evolution which ancestor-worship represents, there can be no distinction between religion and ethics, nor between ethics and custom. Government and religion are the same; custom and law are identified. The ethics of Shintō were all included in conformity to custom. The traditional rules of the household, the traditional laws of the commune—these were the morals of Shintō: to obey them was religion; to disobey them, impiety …. And, after all, the true significance of any religious code, written or unwritten, lies in its expression of social duty, its doctrine of the right and wrong of conduct, its embodiment of a people's moral experience. Really the difference between any modern ideal of conduct, such as the English, and the patriarchal ideal, such as that of the early
Greeks or of the Japanese, would be found on examination to consist mainly in the minute extension of the older conception to all details of individual life.
Assuredly the religion of Shintō needed no written commandment: it was taught to everybody from childhood by precept and example, and any person of ordinary intelligence could learn it. When a religion is capable of rendering it dangerous for anybody to act outside of rules, the framing of a code would be
obviously superfluous. We ourselves have no written code of conduct as regards the higher social life, the exclusive circles of civilized existence, which are
not ruled merely by the Ten Commandments. The knowledge of what to do in those zones, and of how to do it, can come only by training, by experience, by
observation, and by the intuitive recognition of the reason of things.
And now to return to the question of the authority of the Shintō priest as representative of communal sentiment,—an authority which I believe to have been always very great …. Striking proof that the punishments inflicted by a community upon its erring members were originally inflicted in the name of the tutelar god is furnished by the fact that manifestations of communal displeasure still assume, in various country districts, a religious character. I have witnessed such manifestations, and I am assured that they still occur in most of the provinces. But it is in remote country-towns or isolated villages, where traditions have remained almost unchanged, that one can best observe these survivals of antique custom. In such places the conduct of every resident is closely watched and rigidly judged by all the rest. Little, however, is said about misdemeanours of a minor sort until the time of the great local Shintō festival,—the annual festival of the tutelar god. It is then that the community gives its warnings or inflicts its penalties: this at least in the case of conduct offensive to local ethics. The god, on the occasion of this festival, is supposed to visit the dwellings of his Ujiko; and his portable shrine,—a weighty structure borne by thirty or forty men,—is carried through the principal streets. The bearers are supposed to act according to the will of the god,—to go whithersoever his divine spirit directs them …. I may describe the incidents of the procession as I saw it in a seacoast village, not once, but several times.
Before the procession a band of young men advance, leaping and wildly dancing in circles: these young men clear the way; and it is unsafe to pass near them, for they whirl about as if moved by frenzy …. When I first saw such a band of dancers, I could imagine myself watching some old Dionysiac revel;—their furious gyrations certainly realized Greek accounts of the antique sacred frenzy. There were, indeed, no Greek heads; but the bronzed lithe figures, naked save for loin-cloth and sandals, and most sculpturesquely muscled, might well have inspired some vase-design of dancing fauns. After these god-possessed dancers—whose passage swept the streets clear, scattering the crowd to right and left—came the virgin priestess, white-robed and veiled, riding upon a horse, and followed by several mounted priests in white garments and high black caps of ceremony. Behind them advanced the ponderous shrine, swaying above: the heads of its bearers like a junk in a storm. Scores of brawny arms were pushing it to the right; other scores were pushing it to the left: behind and before, also, there was furious pulling and pushing; and the roar of voices uttering invocations made it impossible to hear anything else. By immemorial custom the upper stories of all the dwellings had been tightly closed: woe to the Peeping Tom who should be detected, on such a day, in the impious act of looking down upon the god!…
Now the shrine-bearers, as I have said, are supposed to be moved by the spirit of the god—(probably by his Rough Spirit; for the Shintō god is multiple); and all this pushing and pulling and swaying signifies only the deity's inspection of the dwellings on either hand. He is looking about to see whether the hearts of his worshippers are pure, and is deciding whether it will be necessary to give a warning, or to inflict a penalty. His bearers will carry him whithersoever he chooses to go—through solid walls if necessary. If the shrine strikes against any house,—even against an awning only,—that is a sign that the god is not pleased with the dwellers in that house. If the shrine breaks part of the house, that is a serious warning. But it may happen that the god wills to enter a house,—breaking his way. Then woe to the inmates, unless they flee at once through the back-door; and the wild procession, thundering in, will wreck and rend and smash and splinter
everything on the premises before the god consents to proceed upon his round.
Upon enquiring into the reasons of two wreckings of which I witnessed the results, I learned enough to assure me that from the communal point of view, both aggressions were morally justifiable. In one case a fraud had been practised; in the other, help had been refused to the family of a drowned resident. Thus one offence had been legal; the other only moral. A country community will not hand over its delinquents to the police except in case of incendiarism, murder,
theft, or other serious crime. It has a horror of law, and never invokes it when the matter can be settled by any other means. This was the rule also in ancient times, and the feudal government encouraged its maintenance. But when the tutelar deity has been displeased, he insists upon the punishment or disgrace of the offender; and the offender's entire family, as by feudal custom, is held responsible. The victim can invoke the new law, if he dares, and bring the wreckers of his home into court, and recover damages, for the modern police-courts are not ruled by Shintō. But only a very rash man will invoke the new law against the communal judgment, for that action in itself would be condemned as a gross breach of custom. The community is always ready, through its council, to do justice in cases where innocence can be proved. But if a man really guilty of the faults charged to his account should try to avenge himself by appeal to a non-religious law, then it were well for him to remove himself and his family, as soon as possible thereafter, to some far-away place.
We have seen that, in Old Japan, the life of the individual was under two kinds of religious control. All his acts were regulated according to the traditions either of the domestic or of the communal cult; and these conditions probably began with the establishment of a settled civilization. We have also seen that the communal religion took upon itself to enforce the observance of the household religion. The fact will not seem strange if we remember that the underlying idea in either cult was the same,—the idea that the welfare of the living depended upon the welfare of the dead. Neglect of the household rite would provoke, it was believed, the malevolence of the spirits; and their malevolence might bring about some public misfortune. The ghosts of the ancestors controlled nature;—fire and flood, pestilence and famine were at their disposal as means of vengeance. One act of impiety in a village might, therefore, bring about misfortune to all. And the community considered itself responsible to the dead for the maintenance of filial piety in every home.
53
一、廣博にして嚴麗(ごんらい)なる大きなる殿有り。海邊の山水殊勝也。此處より、住房は北の方に當れり。心中に、住處は即ち賀茂の山寺也と覺ゆ。
[やぶちゃん注:クレジットがない。「52」と連続するものと仮定するなら、次の「54」が「建保七年正月」とあるから、建保六(一二一八)年九月十三日以降の同年内の夢とすることは出来る。前後の夢との極端な違いは認められず、寧ろ、位置的な問題(この心象に於ける「賀茂の山寺」という感じと、「54」の「京の邊近き處に住房有り」とあるロケーションの面)と、住房の夢という共通性からは後者「54」との親和性が強いようにも思われる。
「廣博」]「こうはく」であるが、古くは「こうばく」とも読んだので、後者で採る。現行では「学識が広いこと」「該博」の意で專ら用いられるが、ここは物理的空間的に広々としていることを意味する。
「嚴麗」「嚴肅華麗」か。厳(おごそ)かにして高貴な美しさに満ちているさまと採る。
「賀茂の山寺」これは先の「51」に出た、「圓覺山(ゑんがくざん)の地」、現在の京都市北区上賀茂本山にある賀茂別雷神社(通称は上賀茂神社)の後背地である仏光山のことと思われる(因みに、ここは同社の磐座(いわくら)があるとされる神域でもあった)。そこで注したように、塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊がそこにはあった。東昇氏の論文『「郡村誌」からみた明治 16 年(1883)頃の上賀茂村の様子』(PDF版)に載る同郡村誌の中に(恣意的に漢字を正字化した)、
*
佛光山塔尾址<村ノ東北ニアリ、建保六年戌寅賀茂社主能久僧明惠ニ屬シテ創建スト、其後承久ノ役能久官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラル、僧明惠京西栂尾山ニ歸栖シ、其房舍ヲ轉移ス>
*
と出る。但し、この地名は現在、消失している模様でネット検索に掛からず、国土地理院の地図も見たが、見当たらない。従ってこの地名、「とうのお」「とうお」「とおの」などの読みは不明である。この賀茂別雷神社の神主「能久」は松下能久(よしひさ)なる人物で、サイト「京都風光」のこちらのページには、一説に賀茂別雷神社は、この前年の建保六(一二一七)年に後鳥羽院からこの松下能久が神託を受けて創建し、上賀茂神社の神主なったという説もあるとある。この松下能久なる人物は他の論文資料に、後鳥羽院の皇子を預かり、その皇子は後に同神社の上位神主氏久となったとあるから、『官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラ』れたというのも納得がゆく。また、「栂尾明恵上人伝記」のこちら(私の電子化注テクスト。そこの注も参照されたい)によれば(下線太字やぶちゃん)、
*
同六年〔戌寅〕[やぶちゃん注:建保六(一二一八)年。]秋、聊か喧譁(かまびすし)き事有るにより、栂尾より賀茂(かも)の神山(かみやま)に移り給ふ。塔(たふ)の尾(を)の麓に四五間の庵室を結び、經藏一宇を立て、神主能久(よしひさ)之を施與(せよ)し奉る。是に暫く住み給ひけり。或人の許より、栂尾を住み捨て給ふ事なんど、歎き訪ひ申したりしかば、
浮雲は所定めぬ物なればあらき風をもなにかいとはん
此の處をば佛光山(ぶつくわうざん)と名つけ給ひける。爰に一年計り栖み給ひて、同法達(どうばうだち)を留守に置き、又栂尾へ歸り給ふ。
*
とある。即ち、まさに私が想定した、本夢の閉区間内(建保六(一二一八)年九月十三日以降の同年内)に於いて明恵は、この「賀茂の山寺」へ移り、一年をそこで、「聊か喧譁」きことから遠く離れて」心静かに過ごしたのである。とすれば、この夢はその「賀茂の山寺」へ移る直前か、或いはその転住直後の明恵の心境を反映したものと採れる。その豪壮な殿宇は、京の都の内裏という政治的喧噪のシンボルであり、そこから「精神的に遠く離れた」「北の方」なる「賀茂の山寺」こそが安静安住の棲家であるという強い覚悟の表象がこの夢なのではなかろうか?]
□やぶちゃん現代語訳
53
こんな夢を見た。
……非常に広大にして厳粛さと華麗さを兼ね備えた大きな殿宇がある。そこは海辺であって、しかも山水の景勝の地であった。その殿宇のあるところから、北の方に私の住房はあるのであった。しかし乍ら、私は心中に於いて、
『私の住まうべき処は、即ち、かの賀茂の山寺を措いて他には、ない。』
と明瞭に感じていたのである。
十一 誰がお饅頭を盜んだか
二人がやつてきましたときには、ハート王樣と女王とが、王座に坐つてゐて、そのまわりには多勢(おほぜい)のものが集つてゐました。――その面面(めんめん)といふのはいろいろな小さな鳥獸(とりけもの)や、トラムプカルタの組(くみ)全部でした。その前にはハートのジヤツクが、鎖につながれて立つてゐて、兩脇には一人づつ兵士がついて見張をしてゐました。王樣の傍(そば)には、白兎が片手に喇叭(らつぱ)をもち片手に羊皮紙の卷いたものを持つてゐました。その法廷のちやうど眞中にはテーブルが一つあつて、それには饅頭の入つた、大きな皿がのつて居りました。それが餘りおいしさうに見えましたので、アリスは一眼見ただけで、すつかりか腹が空いてしましました。「裁判なんか、もうおしまひにしてしまふといいに。」とアリスは考へました。「そして早くこのお茶うけを渡してくれればいいに。」けれどもそんなうまい具合には、まるでなりさうもありませんでしたから、自分のぐるりにあるいろんなものを見て、時間をつぶしてゐました。
[やぶちゃん注:「お饅頭」原文は“THE TARTS”。タルトで、主に英国で用いられるそれは、中に果物やジャムなどを包んみ込んだ「パイ」である。
なお、以下、濁点や句読点の脱落・錯字がかなり見られるが、再現せずに私が補正した。それは一々断らない。]
アリスは今までに、裁判所に行つたことは一度もありませんでした。けれども、本で色色と讀んでゐまししたから、今そこにあるものの名前を知つてゐるので、全く嬉しくなりました。「あれが判事だわ。大きな假髮(かつら)をかぶつてゐるから、」と獨語(ひとりごと)をいひました。
ついでのことですが、判事は王樣でした。で、王樣は假髮(かつら)の上に王冠をかぶつてゐたものですから、大變具合が惡さうで、又確かに似合つてゐませんでした。
「それから、あれが陪審席だわ。」とアリスは考へました。そしてあの十二匹の動物(アリスは「動物といはないでは居られませんでした。」といふのは、それは獸やら鳥だつたからでした。)應のものたちが陪審官なのね。」アリスはこの最後の言葉を、二三度繰返して言つて見て、少し得意になりました。といふのは、アリス位(くらゐ)の年齡(とし)のもので、陪審官の竟味を知つてゐる子供なんてほんの少しだと思つたからでした。そして實際その通りなのです。
十二人の陪審官たちは、大變忙がしそうに石板(せきばん)の上に何か書いてゐました。「あの人達は何をしてゐるのですか。」とアリスはグリフオンに低聲(こごゑ)で言ひました。「裁判が始まらないうちは、何も害くことなんかありそうもないのに。」
「自分の名前を書いてゐるんだよ。」とグリフオンは小さい聲で答へました。
「何故なら裁判のすまないうちに、自分の名前を忘れるといけないと思つてだよ。」
「何て馬鹿者でせう!」とフリスは、大きなおこつた聲でいひかけましたが、あわてて直めてしまひました。なぜなら白兎が「法廷では靜肅に」とどなり、王樣は眼鏡(めがね)をかけてものをいつたものを探しだすやうに、ぐるりを見まはしたからでした。
アリスは陪臣官たちの肩をすかして見るとみんなが「馬鹿者」と石版に書いてゐました。中には、「馬鹿」といふ字を知らなくつて隣の者にきいて居るものさへあるのを、アリスは見つけました。「どの石版だつて裁判が濟まないうちにきつと出鱈目書(でたらめが)きでいつぱいになつてしまふに違ひないわ。」とアリスは考へました。
陪審官の一人は、キーキー軋(きし)む鉛筆をもつてゐました。無論のことアリスには、これが我慢できませんでした。そこでアリスは法廷を一𢌞りして、その陪審官の後(あと)へ行き、直ぐうまい隙(すき)を見つけてそれをとり上げてしまひました。それが餘り上手な早業だつたものですから、可哀さうなこの小さい陪審官は(それは蜥蜴(とかげ)のビルでした)鉛筆がどうなつてしまつたのかさつぱ見當(けんたう)が付きませんでした。それでそこいらをさんざん探して見ました揚句(あげく)、しかたなく、その日は石板のにに指で書かなければなりませんでした。しかし石板の上には何の跡ものこりませんでしたから、それはまるて無駄な事でした。
「傳令官(でんれいくわん)罪狀を讀み上げろ。」と王樣がいひました。
そこで白兎は三度ラツパを吹き、それから羊皮紙の卷物を解いて、次の樣に讀みました。
「ハートの女王樣が、夏の日一日かかつて
お饅頭をつくりました。
ハートのジヤツクがそれを盜んで
もち逃げをしました。」
「君方(きがた)の意見を述べてもらひたい。」と王樣は陪審官にいひました。
「まだです、まだです。」と兎はあわててさへぎりました。「そのまへにまだ澤山の手續きがあります。」
の「第一の證人を呼ベ。」と王樣はいひました。白兎は三度ラツパを吹いて、
「第一の證人!」と呼び上げました
第一の證人はお帽子屋でした。お帽子屋は片手に茶呑荼碗(ちやのみちやわん)、片手にバタ附パンをもつてゐました。「陛下、御許し下さい。」とお帽子屋は言ひ始めました。「こんなものを持ちこみまして。でもわたし、お呼びだしをうけたとき丁度お茶をのみかけてゐたものですから。」
「そんなものは濟ませて來るものだ。」と王樣は言ひました。「いつからお前は始めたのだ。」
お帽子屋は、自分のあとから、山鼠(やまねづみ)と腕を組んで法廷に人つてきた三月兎を見ました。「三月の十四日だと思ひます。」とお帽子屋は言ひました。
[やぶちゃん注:「山鼠」既注であるが、再掲しておく。原文“Dormouse”。ネズミ目ヤマネ科 Gliridae のヨーロッパヤマネ属ヨーロッパヤマネ Muscardinus avellanarius 。英名は“Hazel Dormouse”であるが、本種は『ブリテン諸島に自生する唯一のヤマネ科の動物であり、単にDormouseとも呼ばれる』と参照したウィキの「ヨーロッパヤマネ」にある。グーグル画像検索「Muscardinus avellanarius」をリンクしておく。因みに、本邦産のヤマネ(山鼠・冬眠鼠)は固有種(種小名は正に正真正銘)であるヤマネ科ヤマネ属 Glirulus ヤマネ Glirulus
japonicus で別種である。参照したウィキの「ヤマネ」によれば、『現生種では本種のみでヤマネ属を構成する。別名ニホンヤマネ』とも言い、同属の化石種ならば『ヨーロッパの鮮新世の地層から発見されている』。『日本が大陸と地続きで温暖な時代に侵入した遺存種と考えられて』おり、山口県の五十万年前『(中期更新世中期)の地層から化石が発見されている』。このヤマネ(ニホンヤマネ)は『大陸産ヤマネからは、数千万年前に分岐したと推定され、日本列島に高い固有性を誇る。遺伝学的研究によれば、分布地域によって、別種と言ってよいほどの差異が見られる』とある。グーグル画像検索「Glirulus japonicus」もリンクさせておくので比較してご覧になられることをお薦めする。]
「十五日だよ。」と三月兎は言ひました。
「十六日だよ。」と山鼠は付け加へました。
「それを書きとめろ。」と王樣は陪審官に言ひました。陪審官は一生懸命にこの三つの日附を石板に書きとめて、その數(すう)をたして、何錢何厘といふ答訥(こたへ)をだしました。
「お前帽子をぬげ。」と王樣はお帽子屋に言ひました。
「これはわたしのものではありません。」とお帽子屋は言ひました。
「盜んだな。」と王樣は叫びながら、陪審官の方を向きました。早速陪審官は事件の覺え書をつくりました。
「わたしは賣物をもつてゐるのです。」とお帽子屋は説明をつけ加へました。
「わたしは自分のお帽子なんか持つてゐません。わたしはお帽子屋商賣なんですから。」
このとき女王は眼鏡(めがね)をかけて、お帽子屋をヂツと見つめはじめました。お帽子屋はすつかり顏色蒼ざめ、もじもじしだしました。
「おまへの證言(いひぶん)をいへ。」と王樣はいひました。「ビクビクナるな、でないとこの場で死刑に處するぞ。」
これでは、少しも證人に元氣をつけるどころではありませんでした。帽子限は右足と左足と、かはるがはるに一本足で立ち、不安さうに女王の顏を見たりしましにが、餘りどぎまぎして、茶呑茶碗をバタ附パンと間違へ、その端をかじりとつたりしました。
丁度この時、アリスは大層變な氣持を感じました。そしてそれが何の爲だか、少し經つて分りだすまでは、隨分當惑させられました。
アリスは又、大きくなりはじめたのです。アリスは初めは立上つて裁判所をでていかうと思ひましたが、又考へ直して自分のゐられる場所があるかぎり、とどまつてゐようと決心しました。
「そんなに押さないでくれ。」とアリスの隣りに坐つてゐた山鼠がいひました。「わたしこれでは息ができないよ。」
「わたし、どうにもならないの。」とアリスは、大層やさしく言ひました。
「わたし今大きくなりかけて居るんです。」
「ここでは大きくなんぞ、なる權利はないよ。」と山鼠はいひました。
「馬鹿なことは云ひつこなし。」とアリスは少し大膽(だいたん)になつて言ひました。
「お前だつて大きくなりかけて居るわよ。」
「さうさ、だけれど、こつちはいい工合に大きくなるのだよ。」と山鼠は言ひました。「そんなをかしな風(ふう)にはのびないのだ。」そして山鼠は大層ふくれて立上(たちあが)り、法廷の向ふ側にいつてしまひました。
かうした間(ま)も女王は、お帽子屋をヂツと目もはなさずに見つめてゐました。そして丁度山鼠が法廷をよこぎりましたとき、法廷の役人の一人に女王は言ひました。「先達(せんだつて)の音樂會に出た唄手(うたひて)の名簿を持つてきておくれ。」それを聞いて、あはれなお帽子屋はひどくふるへましたので、穿(は)いてゐた兩方の靴がぬげてしまひました。
「證言(いひぶん)をいへ。」と王樣は怒つて又言ひました。「それでないとお前がビクビクしてゐようがゐまいが死刑に處するぞ。」
「陛下、わたしは哀れなものです。」とお帽子屋は震へ聲で云ひ始めました。
「そしてわたしはやつとお茶を飮みだしたばかりのときでした――せいぜい一週間程にしかなつてゐませんでした。――それにこんなにうすつぺらなバタ附パンでもつて、そしてお茶のちらちらちらは――。」
「何のちらちらだ。」と王樣はいひました。
「それは茶から始まりました。」とお帽子屋は答へました。
「無詣、ちらちらはちの字から始まつてゐる。」と王樣は鋭くいひました。
「お前はわたしを阿呆(あほう)と思つてゐるのか、さあ後を云へ。」
「わたしは哀れなものでございます。」とお帽子屋はつづけて言ひました。
「そして大概のものが、それからちらちらしました。――ただ三月兎のいひますには。」
「わたしはいひませんでした。」と三月兎は大層あわてて言葉を遮りました。
「お前は言つたよ。」とお帽子屋はいひました。
「わたしはそれを否定します。」と三月兎はいひました。
「あの男はそれを否定してゐる。」と王樣は言ひました。「その部分は省いておけ。」
「ええ、しかし兎に角山鼠は言ひました。」――とお帽子屋は山鼠がそれを又否定しやしないかと、おそるおそる振り返つていひました。けれども山鼠はよく寢込んでゐましたので、一言も否定しませんでした。
「そのあとで。」とお帽子屋は言ひつづけました。「わたしはもつとバタ附パンを切りました。」
「しかし山鼠は何といつたのだ。」と陪審官の一人が訊きました。
「それをわたしは思ひ出せません。」とお帽子屋はいひました。
「お前は思ひ出さねばならんぞ。」と王樣は言ひました。「でないと、死刑に處するぞ。」
可哀さうなお帽子屋は、荼碗とバタ附パンを落してしまひました。そして片膝をつきました。「陛下、わたしは哀れなものでごさいす。」とお帽子屋は言ひ始めました。
「お前は非常に哀れな話手だよ。」と王樣はいひました。
このとき一匹の豚鼠(ぶたねづみ)が拍手をしましたが。直ちに廷丁(ていてい)が制止してしまひました。(この制止するといふ言葉は、少しわかり難い言葉ですから、豚鼠がどうされたのか、ここで説明をします。役人は大き左ズツク製の袋を用意してゐるのでした。そしてその口のところは綱で堅く結(ゆは)へるやうになつてゐるのでした。ところで、役人は豚鼠をこの袋の中に頭の方から入れ、その上に坐つたのです。
[やぶちゃん注:「豚鼠」前出で「(ギニアピツグ)」とルビされてあった。この一見、些細な不統一を見ても、前半を芥川龍之介が、後半を菊地寛が訳したという事実を物語っているように思われてならない。一つの再度、注しておくと、原文は“guinea-pig”で、これは所謂、モルモット、即ち、家畜化されたテンジクネズミ(天竺鼠:英語“cavy”。 齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ亜目テンジクネズミ上科テンジクネズミ科テンジクネズミ属Cavia)のこと。]
「わたしうれしいわ。いいところを見て、」とアリスは思ひました。「わたし、新聞で裁判記事の終りに『數人の者拍手せんとするものありしも、直ちに廷丁(ていてい)に制止せられたり」と書いてあるのをよく見たけれど、今まで何のことだか分らなかつたわ。
「お前の知つてゐることがそれだけなら、お前は下つてよろしい。」と王樣は續けて言ひました。
「わたし、これより下ることができません。」とお帽子屋はいひました。「わたしはこの通り床の上に居りますので。」
「それでは腰を下してよろしい。」と王樣は答へました。
この時他の豚鼠が拍手をしましたので、前のやうに制止されてしまひました。
「さあ、あれで豚鼠のかたがついた。」とアリスは思ひました。「さあ、これからよくなるだらう。」
「わたし一層(そ)のこと、お茶をすましたいと思ひます。」とお帽子屋はまだ音樂の唄手(うたひて)の名簿を讀んでゐた女王を、心配さうに見て言ひました。
すると王樣が、「お前行つてよろしい。」と言ひましたので、お帽子屋は大急ぎで靴なんか穿(は)く時間もとらずに、法廷を出て行(い)きました。
「外で、今直ぐにあの男の首を切れ。」と女王は役人の一人に言ひました。けれども、役人が入口のところに行つたときには、お帽子屋はもう影も形も見えませんでした。
「次の證人を呼べ。」と王樣は言ひました。
次の證人は公爵夫人の女料理番でした。この女は片手に胡椒箱(こせうばこ)を持つてゐました。アリスはこの女が法廷に入つてこないうちから、今度は誰だか分つてゐました。 何故なら戸口の側にゐた人達が皆一齊に嚏(くさめ)を始めたからです。
「お前の證言をいへ。」と王樣はいひました。
「いはないよ。」と料理番はいひました。
王樣は心配さうに白兎を見ました。すると兎は低い聲で、「陛下この證人を對質(たいしつ)訊問なさらなければいけません。」
「よし、しなけばならないといふならするよ。」と王樣は情ないやうな風(ふう)をして言ひました。そして兩腕を組み、目が見えなくなるほど眉をしかめて料理番を見てから、「お饅頭は何でこしらへてある。」と厚い聲で言ひました。
「大抵(たいてい)胡楸です。」と料理番は言ひました。
「お砂糖水だよ。」と料理番のうしろからねぼけ聲(ごゑ)が言ひました。
「あの山鼠の首を抑へろ。」と女王は金切聲(かなきりごゑ)をだしました。「あの山鼠を打首(うちくび)にしろ。あの山鼠を追ひだしてしまへ。あいつをとりおさへろ。あいつをつねつてやれ、ゐいつの頰髯(ほおひげ)をぬいてしまへ。」
暫くの間(あひだ)法廷は、山鼠を追ひ出す爲に、隅から隅まで大騷ぎでした。そしてみんなが再び席に落ちついたときには、料理番の女の姿は見えなくなつてゐました。
「構はんよ。」と王樣はほつとした樣子でいひました。「次の證人を呼べ。」それから王樣は小聲で女王に言ひました。「お前が今度の證人を訊問しなければならないよ。わしは訊問をすると頭痛がしてくる。」
アリスは次の證人は、誰だらうかと知りたくなつたので、兎が人名簿をくつて居るのをヂツと見てゐました。
「まだ證言(いひぶん)があんまり上(あが)つてゐない。」とアリスは獨語(ひとりごと)をいひざした。ところでまあ想像してみて下さい。兎が小さい金切聲を張りあげて、「アリス」と呼び上げたとき、アリスのその驚きが何んなものだつたかを!
七月四日 木曜
春まひるたゞ片時のうたゝねに
花亂れ散る夢を見てしか
七月十二日 金曜
◇山奥の赤土の丘ぞ悲しけれ
旅人の來て立ちて靑空をあふくことも稀なり
七月十九日 金曜
◇はるかなる心をいだき地に伏して
身を切るごとき淚なかすも
◇ましろなる道を自働車よりゆきて
ほこり光りて秋づきにけり
[やぶちゃん注:「なかすも」はママ。]
七月二十日 土曜
◇一直線に切り取られたる靑空の
大建築にたふれかゝるも
◇二等車はイヤな氣がする
強盜に殺されそうな奴ばかり乘る
[やぶちゃん注:「そうな」はママ。]
七月二十一日 日曜
◇あの晩の車軸を流す大雨が
彼女の貞操を洗ひ去つた
◇カーキ色の武官ひとりかへり來る
まひるの道に紫蘇の葉光る
八月十二日 月曜
引く蟻を見てゐる己が力瘤
八月二十三日 金曜
◇わが心狂ひ得ぬこそ悲しけれ
狂へと責める便をながめて
八月二十七日 火曜
◇わるいもの見たろ思ふて立ちかへる
彼女の室の挘られた蝶
[やぶちゃん注:「挘られた」「むしられた」。これは同年七月号『獵奇』の「獵奇歌」に既に、
わるいもの見たと思うて
立ち歸る 彼女の室の
挘られた蝶
の形で発表済み。]
八月二十九日 木曜
◇日が照れば子供等は歌をうたひ出す
俺は腕を組んで反逆を思ふ
[やぶちゃん注:これは同年七月号『獵奇』の「獵奇歌」に既に、
日が照れば
子供等は歌を唄ひ出す
俺は腕を組んで
反逆を思ふ
の形で発表済み。]
九月三日 火曜
晴れ渡る空肌寒く星多し
野に泣きにゆく女あるらむ
九月十一日 水曜
◇杉の聲夜每に近く蟲の聲
夜每に遠く冬になりゆく
九月十二日 木曜
秋の夜の夢は間近く又遠し
千切れ千切れに風の音して
汽車の音聞き送りつゝ佇める
野山の涯に秋ふかみける
[やぶちゃん注:「千切れ千切れ」の後半は底本では踊り字「〱」。なお、この二首の後に、『雲低く風寒く、小鳥松の間を彼方こなた飛ぶ。影の如く、折々日パツと照り、鷹キツピーと啼く。夜に入り蟲の音滋し。』という文が書かれて、この日の日記(冒頭に歌とは無縁のメモランダ二行有り)は終わっている。]
九月十三日 金曜
◇何者か殺し度い氣持ち只一人
アハアハアハと高笑ひする
◇殺しても殺してもまだ飽き足らぬ
憎い彼女の橫頰ほくろ
[やぶちゃん注:「アハアハアハ」後半の二つの「アハ」は底本では踊り字「〱」、「殺しても殺しても」の後半も同。なお、第一首は同年七月号『獵奇』の「獵奇歌」に既に、
何者か殺し度い氣持ち
たゞひとり
アハアハアハと高笑ひする
で、第二首も同じ号に、
殺しても殺してもまだ飽き足らぬ
憎い彼女の
横頰のほくろ
の形で発表済み。]
九月二十三日 月曜
大廂鬼瓦の伸びる夕日かな
[やぶちゃん注:直前に「權藤氏論」とあるが、これは久作の句と判断した。]
十月十日 木曜
筋に泣かさるゝ人形多し
人形の格に泣かさるゝ芸は些し。
[やぶちゃん注:文楽鑑賞の感懐か? 句点は打たれているいるものの、短歌形式で独立して書かれているので採用した。]
十一月十七日 日曜
鷄頭の枯れてもつゝく日和哉
[やぶちゃん注:「つゝく」はママ。直前の日記末に、「午后、稽固。稽固場の鷄頭、枯れ枯れなり。」と記している。謠に稽古場の前庭の嘱目吟。]
十一月二十五日 月曜
◇親の恩に一々感じて居たならば
親は無限に愛しられまじ
◇一ツ戀かそんなに長くつゝくものか
空の雲でも切れわかれゆく
[やぶちゃん注:「つゝく」はママ。第一首は二年後の昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』の「獵奇歌」で、
親の恩を
一々感じて行つたなら
親は無限に愛しられまい
形で発表されることとなる。]
十一月二十五日 月曜
◇心から女が泣くのでそれよりは
生かして置いてくれやうかと思ふ
◇人間の屍體をみると何がなしに
女とふざけて笑つてみたい
[やぶちゃん注:第一首は、二年後の昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』の「獵奇歌」で、
梅毒と
女が泣くので
それならば
生かして置いてくれようかと思ふ
と改稿されて載り、第二首は、翌昭和五(一九三〇)年四月号『獵奇』の「獵奇歌」に、
人間の屍體を見ると
何がなしに
女とフザケて笑つてみたい
の形で載ることとなる。]
十二月六日 金曜
◇飛び出した猫の眼玉を押しこめど
どうしても這入らず喰ふのをやめる
◇五十戔貰つて一つお辭儀する
盜めばせずに済むがと思つて
◇うちの嬶はどうして子供を生まぬやら
乞食女は孕んでゐるのに
[やぶちゃん注:第一首は、翌昭和五(一九三〇)年四月号『獵奇』の「獵奇歌」に、
飛びだした猫の眼玉を
押しこめど
ドウしても這入らず
喰ふのをやめる
と載り、第二首も同号に、
五十錢貰つて
一つお辭儀する
盜めば
お辭儀せずともいゝのに
と改稿して載せる。]
十二月六日 金曜
◇メスの刃にうつりかはりゆく肉の色が
お伽話の花に似てゐる
◇新婚の花婿が來てお辭儀する
顏上げぬうち踏み潰してみたし
[やぶちゃん注:第一首は、翌昭和五(一九三〇)年四月号『獵奇』の「獵奇歌」に出る、
メスの刄が
お伽ばなしを讀むやうに
ハラワタの色を
うつして行くも
の初稿と思われる。]
十二月二十一日 土曜
草に來て草の色してスウヰツチヨ
ある夜の月に霜に枯れしかと書き送る
[やぶちゃん注:「スウヰツチヨ」直翅(バッタ)目キリギリス亜目キリギリス科ウマオイ属ハヤシノウマオイ Hexacentrus japonicus の異称。私は「スイッチョン」と呼ぶ。和名は「馬追」はその鳴き声が馬子が馬を追う声のように聴こえることに基づく。本種は「スィーーーッ、チョン」と長く伸ばして鳴くが、見かけは同一でも鳴き声が「シッチョン、シッチョン」と短く鳴くのはハタケノウマオイ
Hexacentrus unicolor という近縁の別種である。]
六 植物の變異
植物の變異は餘程著しい例が多い。從來植物學者といへば少數の植物生理學などを除けば、その他は皆植物の分類即ち種屬識別のみに靈力したもの故、變異性を調べるための材料は既に十分にある。スイス國の有名な植物學者ドカンドルは世界中の樫の種類を殘らず集めて研究したが、初め標本の數の少い間は、各種屬を判然區別することが出來たが、追々標本の集まるに隨ひ曖昧なものが出て來て、前に判然區別のある二種と思つたものも、その間の境が解らなく成つて、大に困難を感ずるに至つた。例へば一本の枝だけを取つても、詳細に調べて見ると、葉柄の長さには三と一と位の相違があり、葉の形狀にも楕圓形と倒卵形とがあり、葉の周邊が完全なものもあり、鋸齒狀のものもあり、また羽狀に分れたものもあり、葉の尖端の鋭いものもあり、圓いものもあり、葉の基部の細いもの、圓いもの、或は心臟形に逼出したものもあり、葉の表面に細毛の生じたものもあり、平滑で全く毛のないものもあり、雄蘂の數にも種々の變異があり、果實の長さにも一と三と位の相違があり、果實の成熟する時期にも種々の變化があるといふやうな場合があるので、なかなか若干の標準に從つて種屬を確定することは容易でない。ドカンドルはこの有樣を見て、各種屬の間に判然した境界があると思ふのは標本を多く見ない中の謬見である、標本を多く見れば見るほど各種屬の特徴が定め難くなると論じた。
[やぶちゃん注:「樫」ブナ目ブナ科 Fagaceae の常緑高木の一群の総称。ウィキの「カシ」によれば、狭義にはコナラ属Quercus 中の常緑性の種をカシと呼ぶが、同じブナ科でマテバシイ属のシリブカガシもカシと呼ばれ、シイ属 Castanopsis も別名でクリガシ属と呼ばれるmとあるが、『英語で常緑性のカシのみを指す場合はライヴオーク(live oak)と呼ぶ。ヨーロッパにおける常緑性のカシ類の分布は南ヨーロッパに限られており、イギリスをはじめとする中欧・北欧に分布する oak は、日本語では植物学上ナラ(楢)と呼ばれているものばかりであるが、文学作品などではカシとして翻訳されている例が多く誤訳を元にした表記である』とあるから、或いはここも、ブナ科コナラ属 Quercus の中で本邦に植生しない種が多数含まれている、我々が「楢」と呼称する種の仲間が多数含まれていると考えるべきであろう。
「ドカンドル」オーギュスタン・ピラミュ・ドゥ・カンドール(Augustin Pyramus de Candolle 又は Augustin Pyrame de Candolle 一七七八年~一八四一年)はスイス生まれの植物学者。ダーウィンの自然淘汰の原理に影響を与えた〈自然の戦争〉の考え方を示し、異なる種が、類似する環境のもとで、同じような性質を発達させる、所謂、「相似(analogy)」の現象を認識した(現行の「平行進化」と同義であろう)。ウィキの「オーギュスタン・ピラミュ・ドゥ・カンドール」他によれば、『また、一定の光の下でも、植物の葉の動きが日変化することを認識し、植物に内部的な生物時計があることを主張した』学者としても知られる。『ジュネーヴに役人の息子に生まれた。先祖は』十六世紀に『宗教迫害からジュネーヴに逃れたフランスの名家であった』。七歳の『時に水頭症にかかるが、文学などに才能をみせた。Collège Calvin』(コレージュ・カルバン:ジュネーブ最古の高等学校)『でジャン=ピエール・ヴォーシェ』(Jean Pierre Étienne Vaucher 一七六三年~一八四一年:スイスの神学者・植物学者で、藻類の研究で知られる)『に学び、植物学を研究することを決めた』。一七九六年にデオダ・ギー・スィルヴァン・タンクレード・グラーテ・ドゥ・ドロミュー(Déodat Guy Sylvain Tancrède Gratet de Dolomieu 一七五〇年~一八〇一年:フランスの地質学者・鉱物学者)『の招きをうけてパリに赴き』、一七九八年にはフランスの植物学者でパリ植物園植物学教授ルネ・デフォンテーヌ(René Louiche Desfontaines 一七五〇年~一八三三年)『の助けでシャルル=ルイ・レリティエ・ドゥ・ブリュテル』(Charles Louis L'Héritier de Brutelle 一七四六年~一八〇〇年):フランスの役人でアマチュア植物学者)『の薬草園で働いた。この仕事で評価を受け』、一七九九年に『最初の著書、“Plantarum historia succulentarum”(「肉質植物(サボテン)誌」:以下、書名和訳は私の自己流なので注意されたい。リンク先には和訳はない)『を出版し』、一八〇二年に“Astragalogia”(「ゲンゲ属」)を『出版した。ジョルジュ・キュヴィエやラマルクの注目するところとなり、キュビエの推薦で』、一八〇二年にコレージュ・ド・フランスで仕事を得、ラマルクから“Flore française”(「フランス植物誌」第三版の『編集を任された。この仕事で、カール・フォン・リンネの人工的分類法と異なる、植物の特徴に従う自然分類法を採用した』。一八〇四年には“Essai sur les propriétés médicales des plantes”(「植物の医学的性質に関する考察」)を出版し、パリ大学の医学部から医学の学位を得た』。二年後、“Synopsis plantarum in flora Gallica descriptarum”(「ガリカ種(バラ属)の分類学的植物概説」)を『出版した。その後』六年間、『フランス政府の求めで、フランス各地の、植物、農業の調査を行った』。一八〇七年、『モンペリエ大学医学部の植物学の教授に任じられた』。一八一三年に“Théorie élémentaire de la botanique”(「植物学の基礎理論」)を『出版し、初めて分類体系(taxonomy)という用語を使った』。一八一六年に『ジュネーヴに戻り』、一八三四年まで『ジュネーヴ大学で植物学と動物学の教授を務めた』。一八一七年には『ジュネーヴで最初の植物園を設立し』ている。その後は、『植物の完全な分類をめざす著作』“Regni vegetabillis systema natural”(「植物界の自然系統」)の執筆に費やすが、二巻を『発行した時点で大規模なプロジェクトの完成を断念』、一八二四年からは、より小さい“Prodromus Systematis Naturalis Regni Vegetabilis”(「植物界の自然系統序論」)の刊行を始め、初期構想の三分の二の分量に当たる七巻を完成した。種を百『以上の属に実証的な特徴で分類を行った』とある。
「逼出」「ひつしゆつ(ひっしゅつ)」恐らく、狭まって突き出ていることの意であろう。]
以上はたゞ一例に過ぎないが、その他殆どどの植物を取つても之に似たことがある。何處の國でも有名な學者の著したその國産の植物誌を二三册も集めて比較して見ると、必ず一方の學者が五種と見倣すものを他の學者は十種と見倣すといふやうな識別の相矛盾する例が澤山にある。英國の書物から一例を擧げて見るに、英國産の大薔薇といふ一種には二十八通りも明な變種があり、その間には順々の移り行きがあつて境が判然せぬが、標本を一つづゝ別に見ると各々別種の如くに見えるので、之まで誰かの植物家が之に七十何種も名を附けたことが出て居る。倂し遠い英國の例を引くまでもなく、日本でも植物家の著述を彼此比較すると、甲が獨立の一種と見倣すものを乙は單に或る種類中の變種と認めて、互に説の合はぬ所が甚だ多い。シーボルドの植物誌と近頃の植物學雜誌とでも比較して見たら、かやうな例は殆ど幾らでも見附けることが出來る。
[やぶちゃん注:「シーボルドの植物誌」かの幕末に来日したドイツの医師・博物学者フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年)が日本追放後、日本で採取した植物の押し葉標本(約一万二千点)を基に、ドイツの植物学者でミュンヘン大学教授であったヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニ(Joseph Gerhard Zuccarini 一七九七年~一八四八年)との共著で一八二五年から一八三〇年にかけて刊行した“Fauna Japonica”(「日本植物誌」)。そこでの記載種数は二千三百種に及ぶ。]
生 贄 の 徴
但しさういふ理窟ばかりこねても、凡その見當が付かなければ何にもならぬ。自分の推測では、耳を取られるといふ樣な平凡で無い昔話が、何等の經驗にも基くことなくして、そこにも爰にも偶發することはあるまい。夢であつても夢の種はあらう。いはんや只の誤解であり誇張であつたとすれば、すべての歷史が學問に由つて精確になつて行く如く、必ず元の事實が其陰に隱れて居るのである。幸ひにして若千の手掛りは既に發見せられた。或地の耳取橋に於て耳を取られたといふのは、祭の式に奉仕する靈ある鹿の頭であつた。事によると生贄の慣習が夙く廢せられて後、その印象深き一部分のみが、斯うして幽かに記憶せられたのかも知れぬ。假にさうだつたら我々の信仰史の、重要なる變化の跡である。是非とも一應は考へて見なければならぬ問題である。
魚鳥を御贄とする神の社は、現在尚算へきれぬ程多い。諸國の由緒ある舊社に於て、獸を主とした例も少なくはなかつた。九州では阿蘇、東國では宇都宮又信州の諏訪の如く、特に祭の日に先だつて狩を行ひ、供進の用に充てた場合には、鹿はその氣高い姿、又さかしい眼の故を以て、最も重んぜられたことも疑が無い。ところが奈良の春日の若宮などの御祭の贄には、澤山の狸兎猪の類が集められたけれども、鹿のみは靈獸として其列に加はらなかつたらしいので、或は異議を挾む餘地があるやうだが、是は寧ろ其地位の一段と高かつた證據になる。イケニエとは活かせて置く牲である。早くから神用に指定せられて、或ものは一年、あるものは特殊の必要を生する迄、之を世の常の使途から隔離して置く爲に、其生存には信仰上の意義が出來たのである。諸處の神苑に鹿を養うたのも、恐らくは之を起原として居る。八幡の放生會の如きも、佛者には別樣の説明があるが、要するに彼等の教條と牴觸せざる部分だけ、在來の牲祭(にへまつり)が儀式を保存したものであらうと思ふ。
片目の魚の傳説は此推測を裏書する。卽ち社頭の御手洗の水に住む魚のみが、何等かの特色を以て常用と區別せられたので、實際又斯うして一方の目を取つて置くのが、昔の單純なる方式でもあつたらしい。耳ある獸の耳を切るといふことは、之に比べると更に簡便であり、又牲の生活を妨げることが少なかつた。最初は我々が野馬に烙印し、若くは猫の尻尾を切る如く、常人の家畜乃至は俘虜などにも、斯うして個々の占有を證明したかも知らぬが、後には方法其もの迄が、神の祭に限られることになつて、追々に普通の生活からは遠ざかつて行つたらしいのである。
牲の頭が繪となり彫刻となつて、終には崇高なる感情を催すだけの、一種の裝飾となつてしつまつたことは、希臘の昔なども同じであつた。たつた一つの相異は日本の學者が、今まで神樂のお獅子に對して、根原を問はんとしなかつた點である。さうして生贄の耳を斷つといふことは珍しい例でも何でもなかつた。
日本でも諏訪の神社の七不思議の一つに耳割鹿(ミミサケジカ)の話があつた。毎年三月酉の日の祭に、俗に御俎揃(おまないたぞろ)へと稱する神事が前宮(さきみや)に於て行はれる。本膳が七十五、酒が十五樽、十五の俎に七十五の鹿の頭を載せて供へられる。鹿の頭は後には諸國の信徒より供進したといふが、前は神領の山を獵したのである。其七十五の鹿の頭の中に、必す一つだけ左の耳の裂けたのがまじつてゐた。「兼て神代より贄に當りて、神の矛にかゝれる也」とも謂つて、是だけは別の俎の上に載せた。諸國里人談には「兩耳の切れたる頭一つ」とあつて、何れが正しかを決し難い。兎に角に是は人間の手を以て、切つたので無いから直接の例にはならぬが、耳割鹿で無ければ最上の御贄となすに足らなかつたことは窺はれる。或は小男鹿の八つ耳ともいつて、靈鹿の耳の往々にして二重であつたことを説くのも、斯うして見ると始めて其道理が明かになるのである。
[やぶちゃん注:標題「生贄の徴」は「いけにへのしるし」と読む。
「奈良の春日の若宮」春日大社の摂社若宮神社。本殿の東側にあり、天児屋命(あめのこやねのみこと:「春日大明神」とも称し、「天押雲根命」とも書く。天照大神の岩戸隠れの際、岩戸の前で祝詞を唱え、彼女が岩戸を少し開いた際、太玉命(ふとだまのみこと)とともに鏡を差し出した神で、天孫降臨の際には瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴、「古事記」では「中臣連氏(なかとみのむらじ)」の祖となったとする)。名前の「こやね」は「小さな屋根(の建物)」の意味で、託宣の神の居所のことと考えられる。ここはウィキの「天児屋命」に拠った)を祀る。
「牲」「にへ」。
「八幡の放生會」宇佐八幡宮や石清水八幡宮で行われる放生会(ほうじょうえ)。魚鳥を山川に放つ神事。
「佛者には別樣の説明がある」言わずもがな、殺生禁断の戒めを体現することである。
「牴觸」「抵触」と同じい。
「希臘」「ギリシヤ」。
「諏訪の神社の七不思議」長野県の諏訪湖周辺四ヶ所にある諏訪大社に言い伝えられている七不思議。ウィキの「諏訪大社七不思議」によれば、『基本的には諏訪大社の行事・神事に関わる不思議な現象を指すが(特に諏訪大社の神事は数が多いことと、奇異なことで有名である)、蛙狩神事のように行事自体を指す物もある。そして信憑性の低い物もあれば、御神渡(おみわたり)のように現代において科学的に説明ができる物まで様々な物が存在する』とし、一般的なそれは、「御神渡(おみわたり)」・「元朝(がんちょう:元旦の朝)の蛙狩り」・「五穀の筒粥」・「高野(こうや)の耳裂け鹿」・「葛井(くず)の清池(せいち)」・「御作田(みさくだ)の早稲」(わせ)・「宝殿(ほうでん)の天滴(てんてき)」の七種であるが、『実際には上社と下社で重複を含め別々に七不思議が存在し』、計十一を数えられる、とある。詳細は同ウィキ、及び「諏訪法人会」公式サイト内の「諏訪の七不思議」を確認されたい。
「耳割鹿(ミミサケジカ)の話」これは長野県諏訪市豊田上社摂社千鹿頭(ちかとう)神社の伝承で、前の「諏訪法人会」公式サイト内の「諏訪の七不思議」には、『毎年四月』(新暦であろう)『十五日酉の祭りがおこなわれるが、その時』に『集まる鹿の中に必ず耳の裂けた鹿がいる』とある。個人サイト「玄松子の記憶」の「千鹿頭神社」の解説がよい。そこで同神社の位置も確認出来る(「いつもNAVI」の地図データ)。言わずもがなであるが、この神事は現行では行われていないようである。
「前宮(さきみや)」長野県茅野市宮川字前宮(めみや)にある諏訪大社上社前宮(まえみや:現行ではこう呼ぶらしい。以下のリンク先を参照されたい)。同じく「玄松子の記憶」の「諏訪大社上社前宮」の解説がよい。そこで同神社の位置も確認出来る(「いつもNAVI」の地図データ)。
「諸國里人談」俳人菊岡沾凉(せんりょう)著になる随筆。寛保三(一七四三)年刊。
「兩耳の切れたる頭一つ」「諸國里人談」の「卷之一」の「一 神祇部」の二番目に、
*
○諏訪祭
信濃國諏訪明神は東征守護の神にて、桓武帝の時、田村將軍これを建るなり。毎年三月七日、鹿の頭七十五供す。氏人の願望にて何方よりと極たる事なく、自然と集事恆例たがはず。まさに一つの增減なし。七十五の内、兩耳の切れたるかしら一つきはめてあり。それから奇なりとす。
上諏訪祭神 建御名方命 下諏訪 祭神 八坂入姫命
上諏訪に七不思議あり。
宮 影 普賢堂の板壁に穴あり、紙をあてゝ日に
うつせば、下のすはの三重の塔うつる。
其間一里なり。
社壇雨 毎日巳の刻に雨ふる。
根入杉 根八方へはびこる。
溫 泉 湯山よりおつる所の口をふさげば湯落ず。
氷 橋 冬諏訪湖氷る時、さわたりとて狐わたり
そめて其後、人馬氷のうへを通路す。春
又狐渡れば通ひを止る。
鹿の頭 祭の時七十五頭、例年たがはず。
富士移ㇾ湖 湖上に富士の影をうつるなり。
【甲斐一國をへだつ。其間に高山多くあり。】
すはの海衣が崎に來て見れば
富士の浦こぐあまの釣船
*
とあるのを指す(底本は所持する吉川弘文館の「日本随筆大成 第二期」の第二十四巻に拠った。【 】は割注)。]
耳 取 畷
何れの土地の話でも、大抵は此程度にぼんやりしたもので、とても法官の如き論理を以て之に臨むことは出來ぬが、兎に角鹿踊の面は人間以上に喧嘩をする。だから靈がある性があると、畏敬して居た場合は多いのである。下總船形村の麻賀田神社の神寶、飛驒の甚五郎作と稱する三個の獅子面なども、面の影を水に映して後に其水を飮めば、病氣がなほるとまで信ぜられ、毎年の春祈禱には此面を被り、神を勇めて五穀豐饒を念ずるのであるが、それが靈驗あらたかといふ證據に、却つて毀れたまゝにしてあつたのも一奇である。或年祭が經つて面を箱に納める時、順序を誤つて入れて置いたら、三つの獅子が仲間喧嘩をして、箱の中で咬み合つたといふことで、今では三つながら共舌を拔いてある。卽ち巨勢金岡の馬が、夜な夜な出でゝ萩の戸の萩を食つた類であるが、咬み合つたから舌を拔いたとは少しばかり平仄が合はぬ。又一つの獅子の眼の球が破裂して居るのも、曾て産の忌ある者が手を觸れたからと謂つて居る。是などもやはり其理由が現代を超越して居るのである。
そこで立戾つて奥羽のシシ塚の話になるのだが、我々の感じて悟らねばならぬ二つの問題は、負けたにそよ勝つたにせよ、喧嘩をしたから塚の中に埋めるといふのはどうしたわけか。一方には古び且つ損じた面でも、修繕もせずに大切にして拜んで居る例もあるのに斯ういふ元氣橫溢の鹿頭を埋めてしまつたといふのは、卽ち塚が生存の終局を意味せずして、何か新たなる現實の開始であつたからでは無いかといふこと是が一つ。第二には木で作つた鹿の頭が、喧嘩をしたといふのはどうすることを意味したか。殊にその勝つたとか負けたとかは、何を以て決したかといふことである。是が單なる想像上のものであつたら、少なくとも負けた方の村が承知し得なかつた筈である。
遠野物語にも既に一つの例を擧げてあるが、あの地方では尚處々に同じ話が傳へられる。權現樣が喧嘩をしたといふ場合には、多くは一方が耳を食ひ切られたことになつて居て、現に今ある御面にも耳のちぎれた儘のものがある。是を後代の假託とするときは、各村うその話の申し合せをしたといふ結論に歸着せねばならぬのみならず、そんな奇に過ぎたしかも名聞にもたらぬ説明を傭はずとも、他に幾らでも神異を宣揚する途はあつたのである。故に誤解にしても共通の誤解、隱れたる原因の之を一貫するものが、曾てあつたことを想像してよろしい。自分が津輕シシが澤の大磐石に、特に耳を大きく彫刻した鹿の顏を見てさてこそと膝を拊つたも故無しとはせぬのである。
或は一方が特に耳大きく、他の一方では咬み取られてもう無いといふに、何の關係かあらんと訝る人もあらうが、兎に角に鹿の耳は東北地方に於て、可なり重要たる昔からの問題であつたのだ。先づ順序を立てゝ話を進めて行かねばならぬが、秋田縣でも仙北郡の北楢岡では、或年龍藏權現の獅子舞と、神宮寺八幡宮の獅子頭と衝突をしたことがあつた。神宮寺のシシは耳を取られたと稱して、今も其故迹を耳取橋と呼んで居る。其時一方の龍藏權現も鼻を打缺かれて、其儘長沼に飛込んで沼の主となつてしまつた。それ故に沼の名を又龍藏沼といふとある。耳を失つた神宮寺のシシは如何なつたか。今では多分尋ねて見てもわかるまいが、自分はそれよりも尚多くの興味を、耳取橋といふ地名に就いてもつて居るのである。
勿諭獅子頭の嚙み合ひといふが如き、寄拔な原因の一致する筈も無いが、不思議に耳取といふ土地は府縣に多く、それが又大抵は部落の境などにある樣に思はれる。福島市の近くでは、信夫郡の矢野目丸子の間を北に流れて伊達の鎌田村で八反川に合する小流を、耳取川といふなども一つの例である。鎌田の水雲(ミクマリ)神社は其川の岸に在つて、昔御神體が流れて來て此地に漂著し、それを拾ひ上げて安置したから御耳取揚川だなどといふ説もあつたが、別に其地名の由來として、此川に妖恠住み、夜每に出でゝ行人の耳をもぎ取つた。其恠物を神と祭り、由つて川の名を耳取と稀すとも謂つて居る。しかも此地方には他にもまだ耳取といふ地名はあるので、いくら妖恠でもさうさうは人の耳を取つてばかりも居られたかつたかと思ふ。
ところが遠く離れて三州小豆阪(あづきさか)の古戰場近くにも、やはり耳取畷(なはて)があつてよく似た話を傳へ、日暮れて後此路を通ると、變化の者出現して人の耳を引切り去ると謂つた。此以外に尚方々に耳取といふ字が、通例往還の傍などにあるのだが、果して斯んな口碑をもつか否かを知らぬ。人が地名などは何の意味無しにも存在し得るかの如く考へ始めてから、尋ねて聞かうともせぬ樣になつたのであらう。さうで無ければ自由なる空想を以て、所謂常識に合した解説を下し、或は記憶の不精確を補はうとしたやうである。九州では南端薩摩の坊津から、鹿籠の枕崎に越えて來る境の嶺が耳取峠であつた。開聞岳(かいもんだけ)をまともに見る好風景の地であつたが、冬は西北の寒風が烈しく吹付けて、耳も鼻も吹切るばかりであつた故に、斯んな名前を付けたと説明せられて居る。それが始めて此名を呼んだ人の、心持で無かつたことは確かであるが、さりとて三河や岩代の妖恠談が、仝國無數の耳取の由來を説明し得べしとも思はれぬ。たゞ幾分か古くして且つ案外であるだけに、或はまだ偶然に何等かの暗示を、與へはせぬだらうかと思ふだけである。
全くつまらぬ小さな問題に、苦勞をする人もあつたものだ。實際どうだつていゝぢや無いか知らぬが、是がはつきりせぬと我々の前代生活に、闡明せられぬ點が一つ多く殘るのである。史學はあらゆる方法と資料とを傾けて、久しい努力を續けたけれども徒勞であつた。平民の過去の暗さは神代も近世も一つである。若し他に些しでも辿るべき足跡があつたとすれば、之を差置いて今更何物の來るを待たうか。しかも地名は有力たる國民の記錄であつて、耳取は至つて單純なる二つの語の組合せに過ぎぬ。各地別々の動機に基いて、結果ばかりの一致を見るといふことが無い以上、必ず全國を通じて曾てはさういふ名稱を發生させるだけの、一般的生活事情があつたものとしてよいのである。それを尋ねて見ようとするのは、別に無益の物ずきでも無いと思つて居る。
[やぶちゃん注:「下總船形村の麻賀田神社」現在の千葉県成田市船形にある麻賀多(まかた)神社奥宮のことと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ。なお、本社は近くの千葉県成田市台方。ここ(同データ))。この三面が現存するかどうかは確認出来ない。同神社(本社)公式サイトには載らないが、しかし、この麻賀多神社本社では毎年七月最終日曜日の例大祭で獅子舞が奉納されいる(公式サイト内のここ)。dashikagura 氏の動画「20141108日本の祭り~成田・台方麻賀多神社神楽編」で見られるが、これは少なくとも雌雄二様の特異な獅子神楽がある。是非、ご覧になられたい(但し、そこで使用されている獅子面は新しい)。
「飛驒の甚五郎」かの江戸初期に活躍したとされる伝説的な彫刻職人左甚五郎の別名。
「巨勢金岡の馬が、夜な夜な出でゝ萩の戸の萩を食つた」(こせのかなおか 生没年未詳)は九世紀後半の伝説的な名画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば、造園にも才能を発揮し、貞観一〇(八六八)年から同一四(八七二)年にかけては、神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。ここは内裏の中にあった巨勢金岡が描いた馬の絵が、夜な夜な絵から抜け出して、「萩の戸」(内裏の清涼殿にあった一室の名)の萩の花を食べたという言い伝えに基づく。なお、この「萩の戸」の「萩」は一説には障子に描いてあった萩であるとも、前庭に実際に萩の植え込みがあったともされるが定かではない。柳田は後者を採っているか。他にも、仁和寺御室で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜な、その馬が壁から抜け出て田の稲を食い荒らすと噂され、事実、朝になると壁画の馬の足が汚れていた。そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わり、また、彼が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしよう、という。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと飛んで来て、絵の中に再び納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であったというエピソードなどが今に伝わる。
「平仄が合はぬ」「平仄」は「ひやうそく(ひょうそく)」で、漢詩を作る際に守るべき平声(ひょうしょう)字と仄声(そくせい)字のこと。その配列が合わないことから転じて、物事の筋道が立たない、矛盾しているの意。
「奥羽のシシ塚の話」前章の「村の爭ひ」参照。
「權現樣」本地垂迹説で、仏菩薩が仮(=権(ごん))に姿を変えて本邦の神として現れるとする、その神或いは「~権現」で神の称号ともされる。
「傭はずとも」「やとはずとも」。援用しなくても。持ち出さなくても。
「途」「みち」。
「津輕シシが澤の大磐石」本「鹿の耳」の冒頭「神のわざ」を参照。
「仙北郡の北楢岡」現在の秋田県大仙市北楢岡(きたならおか)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「龍藏權現」同地区の上龍蔵台にある龍蔵神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「神宮寺八幡宮」北楢岡の東に接する大仙市神宮寺神宮寺にある八幡神社であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
の
「耳取橋」不詳。識者の御教授を乞う。
「長沼」北楢岡寄りの神宮寺地区にある現在の大仙市神宮寺大浦沼入。ここ(グーグル・マップ・データ)。地図で見ると、この池沼の形が鹿角のように見えるから不思議!
に飛込んで沼の主となつてしまつた。それ故に沼の名を又龍藏沼といふとある。耳を失つた神宮寺のシシは如何なつたか。今では多分尋ねて見てもわかるまいが、自分はそれよりも尚多くの興味を、耳取僑といふ地名に就いてもつて居るのである。
「信夫郡の矢野目」現在の福島県福島市南矢野目附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「丸子」上記の南矢野目の東南部に接する福島市丸子。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「伊達」「だて」旧伊達藩領からの旧広域地名。
「耳取川」ここを東西に流れる川(グーグル・マップ・データ。地図の中心部に「耳取川親水公園」とあり、柳田の述べている通り、東で北へ流れを変えて福島市鎌田で八反川に合流しているのが判る)。
「鎌田の水雲(ミクマリ)神社」福島市鎌田西のここ(グーグル・マップ・データ)。
「漂著」読みも意味も「漂着」に同じい。
「妖恠」読みも意味も「妖怪」に同じい。
「三州小豆阪(あづきさか)の古戰場」読みはママ。現在の愛知県岡崎市字羽根町(はねちょう)字小豆坂(あずきざか)及び同市美合町(みあいちょう)字小豆坂附近。ここは天文一一(一五四二)年と同一七(一五四八)年の二度に亙って、河側の今川氏・松平氏連合と、尾張から侵攻してきた織田氏の間で小豆坂の戦いが繰り広げられた古戦場である(ここはウィキの「小豆坂の戦い」に拠った)。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「耳取畷(なはて)」不詳。上記の地域の三キロメートルほど北方の岡崎市明大寺町になら、「耳取」という地名が見つかる。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「坊津」現在の鹿児島県南さつま市坊津町坊の旧地名で古代に栄えた港の名である。参照したウィキの「坊津」より引く。『古代から薩摩藩政の中盤頃』の享保年間(一七一六年から一七三五年)『の長期に渡って、海上交通上の要地であった。遣唐使船の寄港地としての他、倭寇や遣明船、薩摩藩の密貿易の拠点として栄えた』。『中国明代の文書『武備志』では主要港として、安濃津』(あのうつ/あのつ/あののつ:伊勢国安濃郡(現在の三重県津市)にあった港湾。「安乃津」「阿野津」とも書き、「洞津(あなつ)」とも称した)・『博多津と共に日本三津(さんしん)に挙げられている』。『日本での仏教黎明期の』五三八年に『百済に仕えていた日本人の日羅が、龍厳寺(後の一乗院)を建てる。その後も坊舎や坊主といった仏教と密接な地であったため、「坊津」と呼ばれるようになったと考えられている』。『飛鳥時代から、遣唐使船の寄港地となり、「唐(から)の港」、「入唐道(にっとうどう)」とも呼ばれるようになった』。奈良時代の天平勝宝五
(七五三)年十二月二十日にはかの名僧鑑真が渡日六回目にして、近くの『秋妻屋浦(現在の秋目地区)に上陸している』。『室町時代、倭寇や遣明船の寄港地となり、大陸をはじめ、琉球や南方諸国とも貿易が活発化した。この頃、先の一乗院も大いに栄えるようになる。また、島津氏の中国(明)・琉球貿易の根拠地ともなっていた』。『伝来したキリスト教とも縁があ』って、天文一八(一五四九)年に『フランシスコ・ザビエルが日本でまず最初に上陸したのはこの地であ』り、『江戸幕府のキリシタン追放令で国を出て、ローマで司祭となって戻ってきたペトロ・カスイ・岐部が』寛永七(一六三〇)年に『上陸したのも同地である』とある。
「鹿籠」「かご」。現在の枕崎市地域全体の旧称。明治の初めまでこの呼称で呼ばれていたことがshusen氏のサイトの「鹿篭(かご)という地名の由来(前編)」に書かれてある。
「枕崎」鹿児島県の薩摩半島南西部ある現在の枕崎市。
「耳取峠」坊津の東南東一・八キロメートルにある現在の鹿児島県川辺郡坊津町坊の耳取峠(みみとりとうげ:標高百五十メートル)。峠データベース」の「耳取峠」に、『かつては遣唐使船の発着港として「唐の湊」と呼ばれ、藩政時代には琉球を介して行なわれた密貿易の湊として栄えた坊津。ここと鹿児島城下を最短距離で結んだ』。明治四二(一九〇九)年に『県道枕崎―坊津線ができ、その峠を耳取峠と呼ぶが、古くは約』五百メートル『北の番屋山山麓を越えるものだった。峠を坊津側に越えると』、宣化天皇三(五三八)年に『開かれ、明治初期まで密教寺院として栄えた一乗院がある』。『耳取という名前の由来は』三つあって、『一つは峠道からの開聞岳の眺めが素晴らしく、「みとれ」てしまうことからという説。一つは』(ここで柳田が述べている)『海からの風を正面に受けるので「耳がとれるほど寒い」。今一つは密貿易にかかわった罪人の「耳を切り取り追放」したという説があるという』とある。この峠、名前は出ないが、かの梅崎春生の名作「桜島」の冒頭に出る(リンク先は私の電子化注附テクスト)。なお、私は梅崎がそこで敢えてこの印象的な名を出さなかったのは確信犯と思っている。興味のある方は、リンク先私の「峠」の注を、是非、お読み戴きたい。
「開聞岳」薩摩半島南端にある標高九百二十四メートルの美事な円錐形を成した成層火山で「薩摩富士」の名に恥じない。私には、結婚仕立ての頃、足の悪化していなかった妻と二人で山頂まで登った、忘れ難い山である。
「三河や岩代の妖恠談」前の愛知及び福島の伝承を指す「岩代」は「岩代国」で、東北戦争終結直後に陸奥国より分立した日本の地方区分の国名の一つ。現在の福島県西半部に相当する。
「説明し得べしとも思はれぬ」説明しきることが可能とはとても思われない。
「實際どうだつていゝぢや無いか知らぬが」実際、(そんなことはつまらぬこと、些末なことだから)どうだっていいじゃないか(と、仰る御仁もあるかも)知れぬが。
「闡明」「せんめい」。それまではっきりしなかった事柄を明らかにすること。]
三日前の未明の夢――
人々によって人魚が捕獲される。僕はあまりに可哀想になって婚姻届に僕の名を書き(彼女の姓名の欄には姓に「人」(ルビ:にん)、名「魚」(ぎょ)と書いたことは覚えている)、目出度く受理され、僕は捕獲者らが口をポカンと開けて呆然としている中、彼女をお姫さま抱っこして正当に引き取るのであった――
そのまま(僕が彼女をだっこしたまんま)スペインのコスタ・デ・ソルの無人の砂浜にいる。
僕は波打ち際へと入ってゆき、彼女を沖へ放つ。
彼女は波頭に一跳びすると、水面で尾鰭だけで「さよなら」をして海底(うなぞこ)へと消えていった……
[やぶちゃん注:ここより前段の捕獲シーンを眺めている場面があったが、記憶を再構成してしまっている惧れがあるのでカットした。実に残念なことは、彼女(人魚)の顔を全く覚えていないことである(これは覚醒時も同様であった)。しかし、浦島太郎的迂遠な乙姫との出逢いから復讐顛末という残酷性からは救われており、久しく悪い夢しか見ていない僕には珍しい「いい夢」であった。実はこの夢、僕にはすこぶる納得出来る夢であり、かなりはっきりとした解釈が出来るのであるが、それは他人には面白くないことであるから、ここには記さない。序でに言えば、コスタ・デ・ソルには十数年前の灼熱の夏、ガウディ参りの途次に寄ったけれど、砂浜は芋洗い状態で、しかも半数近い女性がトップレスであったため、砂ばかり弄っていて海を少しも見られず(僕は僕のウブであることを暗に言っているのではない。実際にそうした中に投げ込まれると恐らく多くの日本人男性はそうなるはずである)、早々にホテルに引き揚げ、ホテルのプール際で、やおら、持参した岩波文庫の「北越雪譜」を読み続けたのを思い出すばかりである。
ふと、思い出した好きな詩がある。
伊藤整の「海の少女に」だ。彼のパブリック・ドメインは僕の生きているうちには来ないような気がしてきたので、ここにひっかけて引用で出そう。
海の少女に 伊藤 整
ではお歸り。
そこの濱風がおまへを呼んでゐる。
海續く草原に牛が鳴き
岬は七月の草木に埋まつて
鳴り騷ぐ浪の上に臨んでゐる。
おまへは其處の金色の朝日に射られて
鷗のやうに羽搏くのだ。
おまへの惱みから逃れ
おまへを疲らすものを脱ぎすてて
砂上の裸足の少女になり
髮を吹かれる微風の子になり
磯の貝を拾つてゐるうちには
浪の音に今までの言葉も思ひだせなくなり
もしかしたら自分は
天上から來たみなし兒だと考へるやうになるだらう。
でもあり日ふと足もとに泡立つ浪のおもてに
ぽつかりと私が寫つたら
おまへは始めて悟つて驚くだらう。
私を置いて行つてから
どんなに長いことになつてゐるかを。
底本は昭和33(1958)年新潮文庫「伊藤整詩集」を用いた。これはその初版の28刷で昭和55(1980)年刊のものだが、ああ、この時代(僕は既に教員二年目)でも正字正仮名の正統なるこれが、たった280円で売られていたことをさえ、僕はなんだかひどく古えのことのように懐かしく思い出していた……]
八章 鷲にさらはれて
私は〔、〕いつかは自由の身になりたい〔、〕といふ氣持を〔■、〕いつも持つてゐました。しかし、どうしたら自由になれるのか、それはまるでわかりませんでした。私にできさうな工夫は〔てんで〕見つからないのでした。〔す。〕この國の海岸に吹きつけられた船は、〔前後にも前にも、〕私の乘つて來た船のほかに〔、〕誰も見たことはありません。が
、〔しかし、〕國王は〔、〕もし〔万一〕また他の船が現れたら、すぐ海岸へ引張つて來て、船員〔や〕乘客を手押車に載せ〔、〕て〔、〕ローブラルグラウドへ連れて來るやうにと、云渡されてゐました。
[やぶちゃん注:「ローブラルグラウド」原典の綴りは“Lorbrulgrud”。大人国(Brobdingnag:ブロブディンナグ)の首都で、ウィキの「ブロブディンナグ」では「ローブラルグラッド」と音写してある。「ロアブラルグラッド」でもよかろう。]
國王は〔、〕私に私と同じ大きさの女を〔を→を→と〕妻に〔結→妻と〕させて〔、〕私たちの子供が〔を〕増やしてみたかつたのです。〔い〔、〕と〔非常に→熱心に〕望まれていまし〕た。しかし〔、〕私は、馴れたカナリヤのやうに〔、〕籠の中で飼はれたり、國中の貴族たちの慰みに賣られるために、子供をつくる位なら、そんな恥かしい目にふよりか〔、〕死んだ方がましだと思つてゐました。それに〔、〕私は國に殘して來た家庭のことも〔、〕忘れることが出來ませんでした。もう一度〔、〕氣楽に話の出來る人間の中にかへり、街や野を步いて〔くとき〕も、蛙や犬の子みたいに踏み潰される心配なしに步けるところ〔國〕へ行きたかつたのです。しかし〔、〕私は〔たまたま〕思ひがけないことから、〔全く〕うまく〔、〕〔こ〕この國を離れることが出來たのです。それを次にお話し致します。
それは私がこの國へ來て二年が過ぎ、ちようど三年目の初め頃のことでした。グラムダルクリツチと私は、國王と王妃のおともをして〔、〕南の海岸の方へ行きました。私はいつものやうに〔、〕旅行用の箱に入〔れ〕られていましたが、これは十二呎四方の非常に便利な部屋でした。私はハンモツクを天井の四隅から絹糸で吊し、旅行中はよくこれで眠ることにしました。部屋の屋根には指物師に賴んで、方一呎の穴をあけてもらひました。これは寢る時、空気の流通をよくするためでした。
[やぶちゃん注:最後の二文「部屋の屋根には指物師に賴んで、方一呎の穴をあけてもらひました。これは寢る時、空気の流通をよくするためでした。」は現行版では存在しない。
「十二呎」三メートル六十六センチメートル弱。
「方一呎」三〇・四八センチメートル四方。]
いよいよ海岸に着くと、〔國王は、〕その海岸からあまり遠くないところにある離宮で数日間、お過しになることになりました。グラムダルクリッチも私も、ヘトヘトに疲れてゐました。私も少し風邪をひいてゐましたが、グラムダルクリツチは非常に加減がわるいので部屋で休んでゐなければなりませんでした〔らなかつたのです〕。私はなんとかして海へ〔行つて〕見たかつたのです〔いと思ひまし〕た。海へ行けば〔、〕この國から何か逃げだす〔すに→す〕工夫があ〔見つか〕るかもしれないのでした。〔す〕〔ません。〕そこで、私は病氣が重さうなことを云つて、〔自分の病氣のことを訴へて大袈裟さに〕身躰ぐわいのわるいことを陛下に訴えて、〔一つ〕海岸へ行つていい空氣が吸いたと〔い〕のですが、行かせて下さいと■賴みました。〔そして、〕私の供には〔私と一緒に〕■
仲よしの侍童がついて行くこと〔つてくれることに〕なりました。しかし、グラムダルクリッチは〔、〕私が海へ行くのを喜びませんでした。別れるとき、〔これからさきを〕何か悪い彼女は〔何か〕蟲の〔が〕知らせでもある〔るのか〕やうに〔しきりに〕涙を流してゐました。
[やぶちゃん注:抹消部の「ぐわい」(「具合」であるから「ぐあひ」が正しい)はママ。]
侍童は〔、〕私を箱に入れて〔、〕宮殿から半時間ほどの道を步いて〔、〕海岸の岩のところへ來ました。私は賴んで下に降ろしてもらふと、窓を一枚開けて、海の方を熱心に〔じつと〕眺めてゐました。そのうち少し氣分が悪くなつたので、〔私は〕〔今から〕ハンモツクのなかで晝寢がしたい〔をしてみた→してみたい、〕さ〔ら〕良くなるだらうと侍童に言ひました。すると、侍童は寒氣の入らないやうに窓をしめてくれました。私はハンモツクのなかで、すぐ眠りに陷ちました。
ところで〔、〕侍童は私が眠つてゐる間に、まさか危險も起るまいと思つて、岩の間へ鳥の卵でも探しに出掛けたらしいのです。〔といふのは〕私が眠る前から、彼は卵を探し𢌞つてゐたし、岩の割目から一つ二つ拾上げてゐる姿を私は窓から見てゐたの〔から〕です。それはともかくとして、私が〔ふと箱のなかで〕眼を覺してみると、どうでせう驚きました。箱の上についてゐる鐵の環を誰かがぐいぐい引張つてゐるのです。と、つづいて私の箱は空高く引揚げられ、猛烈な速さで前へ走つて行くやうな氣がしました。はじめ私はハンモツクがひどく搖れて落つこちさうになりましたが、その後はずつと靜かになりました。私は二三度声をはりあげて呼んでみましたが、誰も答へてくれません。窓の方へ眼をやつて見ると、目にうつるものは雲と空ばかり、そして私のすぐ頭の上で〔、〕何かはばたきのやうな物音が聞えるのでした。
これで〔で、〕私は自分がどんなことになつ〔てゐる〕てのか〔やつと〕分りかけました。今、一羽の鷲が、私の箱をくはへてゐるのですが、これは丁度あの龜の子を攫〔とつた〕とき〔する〕のやうに、〔やがて〕箱を巖の上に落して〔割■■り、〕箱の
なかにゐる〔私の身躰〕をほじくり出して食はうと〔ふつも〕りなのせ〔で〕せう。といふのは鷲は非常に 臭ひを嗅ぎつけるのが非常に〔よく臭ひを嗅ぎつける鳥ですから、たとへ〕獲物が上手に隱れてゐても、すぐ見つけ出すのです、私が■箱のなかにゐることは〔のを→ことも〕ちやんと〔もう〕知つてゐるのです。〔るにちがひありません。〕
しばら〔く〕して、羽音がはげしくなつたかと思ふと、箱はまるで風のなかの看板のやうにひどく搖れだしました。と今度は何か〔鷲に〕ズシン〔ドシンドシン→ズシン〕と鷲に打〔ぶ〕つつかる音がして、突然、私の〔は〕まつさかさまに〔一分間以上も〕落ちて行くのを
〔やう〕な気がしました。〔のを感じました。〕〔一分間あまりは〕恐ろしい速さで、殆ど息もできない位でした。それから一分ぐらゐたつと、と何か〔私の耳には〕ゴーゴーとナイヤガラの瀧のやうな音がして、ひどく物が〔何か凄いものに箱が〕打つかつてゐるやうでした〔におもへました〕。ふと、落ちて行くのがや〔んだかとおもうと、〕み、あたりは眞暗になりました。
それから一分もすると、こんどは箱がどんどん上にあがつてゆき、窓の方から光が見えだしました。それで海の中へ落ちたことがはじめてわかりました。箱は私の身躰や家具などの重みで、水のなかに五呎ばかり浸りながら浮いてゐます。
[やぶちゃん注:「五呎」一メートル五十二センチ。]
私はその時かう思ひました。これは多分、箱をさらつて逃げた鷲が、仲間の二三羽に追つかけられたのでせう。〔そして、お互に〕箱の獲物を爭ひあつてゐるうちに、思はず鷲は爪〔箱〕を放したのでせう。私の〔この〕箱の底に〔は〕鐵があつた張つてあつた〔ある〕ため、水海に落ちても壞れなかつたのです。部屋はぴつたり〔し〕まつてゐたので、水にも濡れなかつたのです。〔そこで〕私はハンモツクから下りるとまづ天井の引窓を開けて空気を入れかへました。
[やぶちゃん注:抹消字「爪」は「私」かも知れぬ。]
私の箱は今にもコナゴナ〔バラバラ〕になるかもしれないのでした。大きな波■一つで、〔箱はすぐ、〕ひつくりかへるかもしれませんし、窓硝子一つ壞れただけで私は〔も〕駄目になります。こんな、〔あやうい〕有樣〔狀態〕で私〔の箱〕は四時間ばかり〔水に〕漾つてゐました。ところが、この箱の窓のない側に、〔その時〕ふと何か軋むやうな音が聞えました。それから間もなく何かそ〔私〕の箱が、海の上を引張られてゐるやうな気がしました。時時、グイと引かれたかと思ふと、窓の上あたりまで波が見えて、部屋の中が暗くなります。これは助かるのかしら、〔と、ふ〕と私はかすかに〔かすかな希望〕が湧いて來ました。
そこで、私は出來るだけ口を窓に近づけて、大聲で助けを呼んでみました。それからステツキの先にハンカチを結んで穴から出して振つてみました。もし船でも側にゐてくれた〔るの〕なら、この箱のなかに私がゐることを知つてもらひたかつたからです。
しかし〔何の〕手應は〔も〕ないのでした。〔ただ、〕部屋がドンドン動いて行つてゐることだけがはつきりわかります。〔それから〕一時間ばかりして、突然、私の箱に何か固いものが突當りました。■巖■にあたつたのかしらと思つてゐると、箱はひどく搖れ出しました。と、〔箱の〕屋根の上に綱を通すやうな物音が聞えて來ました。それから、そろそろと〔箱は〕引揚げられるやうでした。私はステツキの先に結へた〔の〕ハンカチを振り、声をかぎりに助け呼んでみました。すると、たしか〔それに〕答えて大きな叫び声が二三度繰り返されて來ました。ああ、その時の嬉しさ‥やがて頭の上で足音がしたかとおもうと、誰か穴の口から大声で、
「誰かゐるなら返事をしろ〔給→ろ〕」と怒鳴りました。〔これは相手は〕英語で言つてくれてるのです。
「私はイギリス人です〔です〕、今ここでひどい目にあつてゐるのだから〔です〕、〔何とか〕〔うまく〕助け出してもらひたい〔下さい〕」と、私は一生懸命、賴みました。
「もう大丈夫だ、箱は本船に縛りつけたし、今すぐ大工が屋根に穴をあけて出してやるから」と外では云つてゐました〔す〕。それで私はかう答へました。
「そんなことしなくてもいいのですよ。そ〔れ〕より〔早く〕誰かチヨイとこの箱を指でつまみ上げて船長室へ持つて行つて下さい」私がかう答へると、船員たちは私を狂人だと思つたらしく、大笑してゐました。が、
やがて大工が來て、〔箱の〕屋根に穴をあけ、そこから私は救ひ出されま〔たので〕した。本船に移されました。
船員たちはみな驚いて、いろんなことを〔一たいどうしたのかと→いろんなことを〕たづねますが、私はもう答へる氣もしないのでした〔です〕。〔こんな大勢の小人を見て私の方も驚いてしまつたのです。〕なにしろ長い間あの大きな人間ばかり見つけて來た〔ので〕、私からは、船員たちが小人としか思〔船員たちが小人のやうに思へるのです。〕〔私が今〕にも氣絶しさうな顏をしてゐるので、船長は自分の〔氣つけ〕藥を飮ませてくれました。それから自分の〔船長〕室に私を案内〔つれ〕て行き「まあ一寢入りしなさるんですね」と云つてくれました。私は箱のなかに殘して來た〔まだまだ大切な〕品物をがあ〔殘■へてゐ〕るので、〔それを〕ここへ持つて來てもらひたいと〔下さいと〕賴みました。
[やぶちゃん注:最後の「私は箱のなかに殘して來た〔まだまだ大切な〕品物をがあ〔殘■へてゐ〕るので、〔それを〕ここへ持つて來てもらひたいと〔下さいと〕賴みました。」という部分は現行版には存在しない。]
數時間眠つた後で〔ふと〕
私は數時間眠りましたが、その間、絶えずいろんな夢をみては眼が覺めてゐました。だが、起きて見るとすつかり元氣を取りもどしてゐました。夜の八時近頃でした。船長は、〔私が〕長い間食事をしてゐないだらうと思つて、直ぐ晩食を言付けてくれました。私がもう気狂じみた目付をしたり、変なことを喋舌らなくなつたのを見て〔ると〕、彼は大変親切にしてくれました。一體何處へ行つたのか、またどうしてあんな大きな箱に入れられて流されたのか、一つ話してくれと云ひます。
[やぶちゃん注:ここも冒頭部、現行版とは異なる。
*
私は数時間眠って、すっかり元気を取り戻しました。起きたのは夜の八時頃でした。船長は、私が長い間食事をしていないだろうと思って、すぐ晩食を言いつけてくれました。私がもう気狂じみた目つきをしたり、変なことをしゃべらなくなったのを見ると、彼は大へん親切にしてくれました。一たいどこへ行ったのか、またどうしてあんな大きな箱に入れられて流されたのか、ひとつ話してくれと言います。
*]
彼の言ふに〔は→の言ふに〕は、正午頃だつた、望遠鏡をのぞいてゐると、あの箱が眼に映つたので、最初は船だと思つた〔のだ〕さうです。それからボートを出して近づいて見ると、家が游いでゐるといふので、みんなびつくりしました。本船の方へ引つぱつて戾〔り上げようとしてゐ〕ると、その上のなかから〔丁度その時〕、ハンカチのついた棒を穴から突き出す者があるので、これはきつと誰か不幸な人間がとぢこめられてゐるにちがひないと思つた〔考へ〕のだ
思つた〔わかつた〕さうです〔といふことです〕。〔思つたのださうです。→船長たちはみんなさう考へたのださうです。→思つたのださうです。〕
[やぶちゃん注:この最後は恐るべき推敲回数である。少なくとも八回は表現を直している。しかも決定稿は恐らくは最初の表現に戻っている。一字一句を疎かにしない原民喜の〈表現の鬼〉に、頭が下がる。]
「私は〔それ〕では〔一番はじめ〕この箱〔私〕を見つけた頃、何か大きな鳥でも空を飛んでゐるのを見かけなかつたでせうか。」と私はたづねてみました。すると一人の船員が「あ、〔あの時、〕鷲が三羽北を指して飛んでゐた〔ぶのを■みました、→ゐた〕、でも不■別に普通の鷲と変つたところはなかつたやうだが…〔です。〕」と一人の■〔船〕員が答へました。だが、それは非常に高く飛んでゐ■〔た〕ので、小さく見えたのでせう。どうも私のたづねる〔たり言つたりする〕ことは、皆に合點がゆかないやうでした。
[やぶちゃん注:以下の現行版と見比べて戴きたい。
*
「それでは一番はじめ私を見つけた頃、何か大きな鳥でも空を飛んでいるのを見かけなかったでしょうか。」
と私は尋ねてみました。
「あ、あのとき、鷲が三羽北を指して飛んでいました。でも別に普通の鷲と変ったところはなかったようです。」
と一人の船長が答えました。
だが、それは非常に高く飛んでいたので、小さく見えたのでしょう。どうも私の尋ねたり言ったりすることは、みなに合点がゆかないようでした。
*
現行版の「一人の船長」は明らかにおかしいことに気づく。実はここまででも指摘していないが、現行版は「船員」とあるべきところが「船長」となっている箇所が他にもあるのである。]
私はイギリスを出發した時から、今迄のことを、ありのまま話して聞かせました。私は〔それから〕あの國で集めた珍しい品を見せてやりました。王の髯で作つた櫛や、王妃の拇指の爪を台にして作つた櫛も〔、〕あります、一呎半ヤードもある縫針やピン、〔それから〕地蜂の針が四本〔あります。〕、〔それから〕王妃の金の指輪、(これは私の頭にすつぽりはまる大きさです)。その他、いろいろのを取出して見せ〔てやり〕ました。私は船長に、長さ約一呎、直徑四吋もある召使の齒を
[やぶちゃん注:現行版は以下の通り。なお、ここは現行版では独立段落ではなく、前の続いている。尺減らしで原民喜自身が削ってしまったのであろうが、ここら辺は私は面白い部分で、惜しい気がする。
*
私はイギリスを出発したときから、今までのことを、ありのまゝ話して聞かせました。それから、あの国で集めた珍しい品を見せてやりました。王の髯で作った櫛や、王妃の親指の爪を台にして作った櫛や、一フートもある縫針や、地蜂の針や、王妃の金の指輪や、そのほか、いろいろのものを取り出して見せてやりました。
*
「一呎半ヤード」一ヤードは九十一・四四センチメートルだから半ヤードは四十五・七二センチメートルで、足し算してしまうと、この縫い針の全長は実に七十六センチメートルもあることになるのであるが、どうも妙な混用で「半ヤード」を削除しているのもおかしい。原文を当たるとここは“pins”と複数形なのがミソで、その後に“from a foot to half a yard
long”とあるので、眼から鱗、足し算しちゃあいけないんだね、複数の縫い針があってそれは長いものでは九十一センチ強、短くても四十六センチ弱はあったと言っているのである。原稿枚数を制限されていた原民喜にしてみれば、文字通り、短くするターゲットであったわけだろう。
「一呎」(現行版の「一フート」)は三十・四八センチメートル。
「四吋」四インチは約十センチ。]
[やぶちゃん注:以下の★で挟んだ太字パートも現行版には存在しない。]
★
ところで船長はこんなことを云ひ〔たづね〕ました。
「あなたとてつもない大声で物を云ふのに、私は一番びつくりしました。一たいその國では王も〔が→や〕女〔王〕妃も〔も→は〕耳でも遠いのですか」。
「それ〔「私のこの大声〕はそう二年も〔間〕もくせになつてゐたからです。私もあなた
型の声をきいて驚いてゐたところです、聞えることはよく聞えますが…みんな細い声が囁いてゐるやうにしか思へないので〔のです〕」と私は答へました。
★
〔この〕船はトンキンに行つて、いまイギリスへ帰る途中なのでした。〔それから■〕航海は無事に進み、一七〇六年六月三日に故國の港に戾りました。〔そこで〕私は船長に別れを告げると、家の方へ向かひました。
[やぶちゃん注:「トンキン」現在のベトナム北部及びその中心都市ハノイの旧称。当時は後黎(れい)朝(一五三二年~一七八九年)期。
「一七〇六年」本邦は宝永三年で第五代将軍徳川綱吉の治世。本“Gulliver's travels”の初版一七二六年に出版、一七三五年に本来の決定稿完全版が出版されている。因みに完全版の一七三五年でも享保二十年で第八代吉宗の治世である。]
途々、小さな家や、樹や、家畜や、人間などを見ると、なにかリリパットへでも來たやうな氣がします。行きあふ人毎になんだか踏みつけさうな氣がして、私は、
「退け退け」
と怒鳴りつけました。
私の家へ歸つてみると、召使の一人が戸を開けてくれましたが、私はなんだか頭をぶつけさうな気がして、身躰を屈めて入りました。妻が飛んでやつて來ましたが、私は彼女の膝より低く屈んでしまひました。
娘も〔側へ〕やつて來ましたが、なにしろ長い間、大きなものばかり見なれてゐた私〔眼〕には、ヒヨイと片手で娘をつかんで持ち上げたいやうな気がしました。召使や友人たちも、みんな私には小人のやうに思へるのでした。かういふ有樣ですから、他の〔はじめ〕人人は私を氣が違つたものと思ひました。しかし間もなく私は〔も〕ここに馴れて、家族とも友人とも、仲よくお互にわかりあふことができました。
[やぶちゃん注:余白にこの原稿のノンブルである175から17を、加算か減算しようとする計算式が書かれてある(結果は書かれていない)。
これを以って第二章「大人國」は終わっている。]
六章
國王は非常に音樂が好きで、時時〔だから、よく〕宮廷で〔は〕音樂會がありました。私も時時、連れて行かれて、テーブルの上に箱を置いてもらつて聞いたものですが、なにしろ大へんな音で、曲も何もわからないのです。軍樂隊の太鼓と喇叭をみなもつて來て耳もとで鳴らし〔す〕より、もつと凄い騷がしさです。ですから、私はいつも一番、遠いところに箱を置いてもらい、扉も窓もすつかり閉め、カーテンを〔ま〕でおろし〔ます。そうすると〕て、それでまづ、どうにか聞けるのでした。
[やぶちゃん注:「て」は原稿では除去されていないが、落ちと判断し、削除線を引いた。]
國王は〔、〕また、非常に賢い方でしたので〔が、〕度
よく私の〔を〕箱のまま連れて來て、陛下のテーブルの上に置くやうに命令されます。それから陛下〔、〕は〔私に〕椅子を一つ持つて箱から出て來いと〔させ、〕■〔云〕はれます。そこで、〔〕私は〔三ヤードと離れてゐない近くの〕簞笥の上に坐らせます。そこで〔、〕私の顏と陛下の顏が向ひ合へなることができるわけです。こんな風にして〔、〕私たちは何度も話し合ひましたが、ある日、私は思ひきつて、こんなことを申上げました。
[やぶちゃん注:「そこで、〔〕私は」の部分は、挿入記号のみがあって挿入語句が記されてない。それをかく再現したものである。
「三ヤード」二メートル七十四センチ。
「私の顏と陛下の顏が向ひ合へなることができる」はママ(現行版は以下を参照)。
以上の段落は現行版とかなり異なる。以下に示す。
*
国王はまた非常に賢い方でしたが、よく私を箱のまゝつれて来て、陛下のテーブルの上に置かれます。私は椅子を一つ持って、箱から出て来ると、陛下の近くの簞笥の上に坐ります。そこで、私の顔と陛下の顔が向い合いになります。こんなふうにして、私たちは何度も話し合いましたが、ある日、私は思いきって、こんなことを申し上げました。
*]
「一たい陛下がヨーロツパなどを輕蔑なさるのは、どうも賢い陛下に似合はぬことのようです。知慧はなにも身躰の大きさと〔に〕よるのではありません。いや、あべこべの場合だつてあるやうです。蜜蜂とか蟻とかは、他のもつと大きな動物たちよりも、はるかに勤勉で、器用で、利巧だと云はれてゐます。私なども、陛下は取るに足りない人間だとお考へでしせうが、これでも、いつか素晴しいお役に立つかもしれませんのです。」と
陛下は、私の話を一心に聞いてをられましたが、前よりよほど私をよくわかつて下さるやうでした。そして、
「それでは一つイギリスの政治について出來るだけ正確に話してもらひたい」と仰せになりました。
そこで、私はわが祖國の議會のこと、裁判所のこと、人口について、宗教について、或は厂史のことまで、いろいろとお話し申上げました。〔ることになりました。〕この私の説明は五回私は王に何〔五→何〕回も〔も〕お目にかかつて、毎回数時間この話をお聞せしたのですが、まだ話はのこつてゐました。王はいつも非常に熱心に聞いて下さいました。私の〔そして、〕ノートには、一々、後で質問しようと思はれるところや、私の話の要点を書込んでをられました。
ある日、私は王の御機嫌をとるつもりで、こんなことを申上げました。
「実は私は素晴しいことを知つてゐるのです。といふのは今から三四百年前に〔ある粉が〕發明されましたが、その製造法を〔私〕よく知つてゐるのです。〔まづ、〕この粉は〔説明から申上げませう〕といふのは〔いふのは〕、それを集めておいて、これに〔、〕ほんのちよつぴりでも火をつける〔て〕やると、たとへ山ほどつんである品物でも、たちまち火になり、雷よりももつと大きな音を立てて、なにもかも空へ高く吹飛ばしてしまひます。
で、もし、この粉末を眞鍮か鐵の筒に〔うまく〕詰めてやると、それは恐ろしい力と速さで遠くへ飛ばすことができるのです。かういふ風にして、大きな奴を打ち出すと、一度に軍隊を全滅さすことも、鐵壁を破つたり、〔大きな〕〔軍〕船を沈めてしまふこともできます。また、この粉末を大きな鐵の球に詰めて、機械仕掛で〔敵に向つて〕打放つと、舖道は碎け、家は崩れ、■かけらは八方に飛び散つて、〔そのそばに〕近づくものの〔は〕、誰でも■腦味噌を叩き出されます。
[やぶちゃん注:「腦味噌」の「噌」の字は原稿では「口」+「曽」。
本原稿のノンブルは「161」であるが、原稿用紙上部罫外には、175-161=14を示す計算式が、同下部罫外には、178-14=172を示す計算式が記されてある。これは明らかに出版社から各パートごとに予め規定された標準枚数があり、それを計算しているように見える。規定原稿枚数には幅があって、175枚から上限178枚だったのではあるまいか?]
私はこの粉末を〔を〕、どういふ風にして製つたらいいか、よく心得てゐるのです。で、職人〔たち〕を指図して、この國の〔で使へるぐらいの〕大きさに、それを作らせることも出來ます。一番大きいので長さ百呎あればいいでせうが、かうした奴を二三十本打ち出すと、この國の一番丈夫な城壁でも〔、〕二三時間で打ち壞せます。もし首都が陛下の命令に背くやうな場合は、これ〔さへあれば〕で〔の粉で〕首都を全滅させることだつて出來ます。とにかく、これは〔私の〕陛下の御恩かへしの
に感じて、 これは御恩あへしのともりで、陛下に〔これを〕〔私は陛下の御恩に報いたいと思つてゐるので、〕〔こんなことを〕申上げる次第です。」
[やぶちゃん注:「百呎」三〇メートル四十八センチ。]
私がこんなことを申上げますと、國王はすつかり御機嫌を損じて〔ひどく〕呆れかへつてゐられました。〔つたやうに〕〔國王はすつかり仰天してしまはれたやうです。そして呆れかへつた顏つきで、かう仰せになりました。〕
「よくもよくも、お前のやうな、ちつぽけな、蟲けらのやうな動物が、そんな鬼、畜生のやうな〔にも等しい〕考へを抱けるものだな〔。〕そのうえ〔れに〕、そんな酷ごたらしい有樣を〔見ても〕、お前はまるで平氣で〔ない顏して〕ゐられるのか。お前はその人殺し道具〔機械〕をさも自慢げに話すが、そんな機械を發明する奴こそは〔を平氣で使つて恥ぢない→の發明こそは〕人類の敵〔か、惡魔の仲間のやること〕にちがひない。そんな、けがらわしいものの〔奴の〕祕密ばかりは、たとへこの王國の半分を無くしても、〔余は〕知りたいとは思はない。〔くない。のだ。〕だから、お前も、もし生命が惜しければ、二度と〔もう〕そんなことを〔は〕話さない〔方〕がいい〔喋らないでくれ。〕〔申すな。〕」
[やぶちゃん注:この陛下の台詞は推敲の痕が甚だしい。被曝した原民喜ならではの、強い思いがその筆致から激しく伝わってくる。]
王御自身は、技術〔科學〕に興味を持たれ、自然に関する發見などは非常に喜ばれたのですが、火薬のことを申上げ〔殺人の話→火薬のことを申上〔げて、こんなに〕げるとひどく御恐られた〕
た 私の話〔このこと〕には大変御機嫌を損じられました。〔聞かうとなさならにのでした。〕〔ばかりは頑として〕許されないのでした。
[やぶちゃん注:最後の「〔聞かうとなさならにのでした。〕」は前の抹消部の書き替え(恐らくは最初の「私の話」(は)に続くもの)であるが、文脈からも現行版からも、ここでも抹消されているものと思われるが、抹消線はない。以下、原民喜の思いを汲んで、主人公の火薬伝授の語りから、それを受けた陛下の嫌悪と怒気を含んだ言葉以降、現行版の「四、猿にからかわれて」のエンディングを示す。
*
ある日、私は王の御機嫌をとるつもりで、こんなことを申し上げました。
「実は私は素晴しいことを知っているのです。というのは、今から三四百年前に、ある粉が発明されましたが、その製造法を私はよく知っているのです。まず、この粉というのは、それを集めておいて、これに、ほんのちょっぴりでも火をつけてやると、たとえ山ほど積んである物でも、たちまち火になり、雷よりももっと大きな音を立てゝ、何もかも空へ高く吹き飛ばしてしまいます。
で、もし、この粉を真鍮か鉄の筒にうまく詰めてやると、それは恐ろしい力と速さで遠くへ飛ばすことができるのです。こういうふうにして、大きな奴を打ち出すと、一度に軍隊を全滅さすことも、鉄壁を破ったり、船を沈めてしまうこともできます。また、この粉を大きな鉄の球に詰めて、機械仕掛で敵に向って放つと、舗道は砕け、家は崩れ、かけらは八方に飛び散って、そのそばに近づくものは、誰でも脳味噌を叩き出されます。
私はこの粉を、どういうふうにして作ったらいゝか、よく心得ているのです。で、職人たちを指図して、この国で使えるぐらいの大きさに、それを作らせることもできます。一番大きいので長さ百フィートあればいゝでしょうが、こうした奴を二三十本打ち出すと、この国の一番丈夫な城壁でも、二三時間で打ち壊せます。もし首都が陛下の命令に背くような場合は、この粉で首都を全滅させることだってできます。とにかく、私は陛下の御恩に報いたいと思っているので、こんなことを申し上げる次第です。」
私がこんなことを申し上げると、国王はすっかり、仰天してしまわれたようです。そして呆れ返った顔つきで、こう仰せになりました。
「よくもよくも、お前のような、ちっぽけな、虫けらのような動物が、そんな鬼、畜生にも等しい考えを抱けるものだ。それに、そんなむごたらしい有様を見ても、お前はまるで平気でなんともない顔をしていられるのか。お前はその人殺し機械をさも自慢げに話すが、そんな機械の発明こそは、人類の敵か、悪魔の仲間のやることにちがいない。そんな、けがらわしい奴の秘密は、たとえこの王国の半分をなくしても、余は知りたくないのだ。だから、お前も、もし生命が惜しければ、二度ともうそんなことを申すな。」
王御自身は、科学に興味を持たれ、自然に関する発見など非常に喜ばれたのですが、このことばかりは、頑として許されないのでした。
*]
これも〔なかなか〕〔は〕面白かつたのが、〔かつたとも、〕癪にさわつたと〔も〕いふのか、〔けることなのですが、〕とにかく、私が一人で步いてゐると、小鳥でさへ〔、〕私を怖がらないのです。まるで〔、〕人がゐないときと同じやうに、〔私から〕一ヤードもない近い〔ところを、〕平氣で、蟲や餌を探して〔、〕跳びまはつてゐました。ある時など、一羽のつぐみが、〔これは〕実にずうずうしいつぐみで、私がグラムダルクリツチから貰つた菓子を、ひよいと、私の手から浚つて行つてしまひました。捕へてやらうとすると、相手は却つて私の方へ立ち向つて來て〔、〕指を啄かうとす〔し〕ます。〔それで〔、〕〕私が指をひつこめると、こんどは〔、〕平氣な顏をして〔で〔、〕〕蟲や蝸をあさり步いてゐるのでした。
[やぶちゃん注:「一ヤード」九十一・四四センチメートル。
「つぐみ」原文は“thrush”。スズメ目スズメ亜目スズメ小目ヒタキ上科ツグミ科 Turdidae のツグミ類の総称であるが、ここはツグミ属 Turdus まで絞ってよかろう。
「啄かう」「つつかう」。
「蝸」ママ。「蝸牛」の脱字であろう。現行版では「かたつむり」とひらがな書きである。]
だが、ある日たうとう〔、〕私は太い棍棒を持ち出して、一羽の紅雀めがけて〔、〕力一ぱい投げつ■けると、うまく命中して〔、〕相手は伸びてしまひました。〔で〕〔■〕早速〔、〕首の根つ子をつかまへ、乳母のところへ〔、〕喜び勇んで〔、〕持つて行かうとしました。
[やぶちゃん注:「紅雀」スズメ目カエデチョウ科ベニスズメ属ベニスズメ Amandava amandava であるが、本種は北アフリカ・中東・インド・中国南部を含む東南アジアに分布する鳥で、ちょっと怪しい気がした。そこで、原文を見ると、ここは“linnet”で、これはスズメ目スズメ亜目ズメ小目スズメ上科アトリ科ヒワ属ムネアカヒワ Carduelis cannabina を指すことが判った。同種はヨーロッパ・西アジア・北アフリカに分布する。ウィキの「ムネアカヒワ」によれば、『スリムな鳥で、長い尾を持つ。上半分は茶色で、喉は汚れた白色、嘴は灰色である。夏季の雄は首筋が灰色、頭の斑点と胸は赤色である。雌や幼鳥には赤色はなく、下半分が白色で胸には淡黄色の筋がある』とある。グーグル画像検索「Carduelis cannabina」をリンクさせておく。ああっつ! 確かに! 「紅」の「雀」だ!]
ところが〔、〕鳥は一寸目をまはして氣絶してゐただけ〔なの〕で、ぢきに元氣を取りもどすと、〔兩方の〕翼で、私の頭をポカポカなぐりだしました。爪で引つかかれないやうに、私も〔は〕持つて〔手は〔を〕ず〕つと前へ伸〔のば〕して〔、〕持〔つ〕かまへてゐたのですが、よつぽどのこと、で〔もう〕放してしまはうかと思つたのです。しかし、そこへ私の〔、〕召使の一人がかけつけて來て、鳥の頸(クビ)をねぢ切つてしまひました。そして翌日、私は〔私は〕王妃の
晩餐〔■〕に〔で〕その〔それ〕■〔を〕〔御馳走してもらつて〕食べました。
[やぶちゃん注:「私の頭を」現行版は『私の顔を』となっている。
「そして翌日、私はそれを御馳走してもらつて食べました。」現行版は『そして翌日、私はそれを料理してもらって食べました。』となっている。]
王妃は、私から航海の話を〔■〕聞いたり、また私が陰氣にしてゐ〔たりす〕ると、〔いつも〕一生■〔しきり〕に慰めて下さるのでしたが、ある時、〔ある時〕からおたづねになりました。〔私に、帆やオールの使ひ方を〕知つてゐるか、少し舟でも漕いでみたら〔、〕健康によくはあるまいか、とお尋ねになりました。私は〔、〕普通の船員の仕事もしたことがあるので、帆でも櫂オールでも使へます〔、〕とお答へしました。だが、この國の船ではどうしたものか、それはちよつとわかりませんでした。一番小さい舟でも私たちの國の第一流軍艦ほどもあるので、私に漕げさ〔るや〕やうな船は〔、〕この國の川に浮べられさうもないのです。〔ありません。〕しかし王妃は〔、〕私が〔ボートの〕設計をすれば、お抱への指物師にそれを作らせ、私の乘り𢌞す場所もこさへてあげる〔、〕と言はれました。
[やぶちゃん注:「私に漕げさ〔るや〕やうな船」はママ。現行版では『私に漕げるような船』である。]
その〔そこで、〕器用な指物師は〔が、〕私の指圖にしたがつて、十日かかつて、一艘〔隻〕の遊覽ボートを造り上げました。船具も全部揃つてゐて、ヨーロツパ人なら八人は乘れるる〔さうな〕ボートでした。それが出來上ると〔、〕王妃は非常に喜び、そのボートを前掛に入れて〔、〕國王の所へ駈けつけました。國王は〔、〕先づ試めしに〔、〕私をそれに乘せて〔、〕水桶に水を一ぱい張つて浮かせてみよ〔、〕と命じられました。しかし〔、〕そ〔こ〕の水桶〔で〕は狹くて、うまく漕げませんでした。
ところが〔、〕王妃は〔、〕〔ちやんと〕前から〔、〕別の水槽を考へてゐられたのです。指物師に命じて〔、〕長さ三百呎、幅五十呎、深さ八呎の、〔木の〕箱を造らせ、水の漏らないやうに〔、〕うまく目張りして、宮殿の部屋の壁際に置かせられ〔いてあり〕ました。〔そして、〕水は〔、〕二人の召使が〔、〕半時間もかかれば直ぐ一杯にすることができます。そして、その箱は〔の〕底に〔は〕栓があつて、水が古くなると拔けるやうになつていました。
[やぶちゃん注:この部分の後半は最初、
*
〔そして、〕その箱は〔の〕底に〔は〕栓があつて、水が古くなると拔けるやうになつていました。水は〔、〕二人の召使が〔、〕半時間もかかれば直ぐ一杯にすることができます。
*
と書いたものを『次ノ行ト入レカヘ』と指示してあるのに従って、私が書き直したものである。
「長さ三百呎、幅五十呎、深さ八呎」長さ九十一・四四メートル、幅十五・二四メートル、深さ二メートル四十四センチメートル弱。]
私はその箱のなかで〔を漕ぎ𢌞つて、〕自分の氣晴しをやつ〔り〕、王妃や女臣達を面白がらせました。彼女たちは〔、〕私の船員ぶり〔姿〕に〔を〕すつかり〔たいへん〕喜びます。それに時々、帆を揚ると、女官たちが扇で煽り〔風を〕送つてくれます。私はただ舵をとつてゐさ〔れ〕ばいいわけでした。彼女らが〔煽ぐのに〕疲れると、今度は侍童たちが口で帆に〔を〕吹くのです。すると、私はおも舵〔を引いたり〕、とり舵を引いたりして、〔思ふままに〕乘りまわすのでした。それがすむと〔、〕グラムダルクリツチは〔、〕いつも私のボートを自分の部屋に持〔つて〕帰り、釘にかけて干かすのでした。
[やぶちゃん注:「女臣」はママ。現行版では『女官』となっている。
「かけて」の「か」は「閑」の崩し字である。]
この水箱は〔、〕三日おきに水を替へることになつていましたが、ある時、水を替へる役目の召使が、うつかりしてゐて、一匹の大蛙を〔、〕手桶から流しました〔一緒に流しこんで〕しまひました。はじめ〔、〕蛙はじつと隱れてゐたのですが、私がボートを〔に〕乘りこむと、うまい休み場所が出來たとばかりに、ボートの方に匍ひ上つて來ました。船はひどく一方へ傾くし、私はひつくり返らないやうに、〔その〕反對側によつて〔、〕うんと力を入れてゐなければなりません。
いよいよボートの中に入りこんでくると、今度は〔一とびし〕ボートの長さの半分ぐ〔いきなりボートの半分の長さ〕をひよいと跳びこし、それから私の頭の上を前や後へ頻りに跳び越えるのです。そしてその度に〔蛙は〕あの厭な粘液を、私は〔の〕顏や着物に塗りつけま〔るので〕す。その顏つきの大きなことといつたら、こんな醜い動物が世の中にあるか〔ゐたのか〕と驚かされます。しかし私が竿
櫂〔オール〕の一本を取つて暫く打ちのめしてやつてゐるうちに、蛙はと〔た〕うと〔た→と〕う、ボートから跳び出してしまひました。
私がこの國で〔、〕一番あぶない目にあつたのは、宮廷の役人の一人が飼つてゐた〔、〕猿が〔、〕〔私に〕いたづらしたときのことです。■ あの時、〔ある日、〕グラムダルクリツチは、用があつて〔たしに〕出かけて行くので、〔箱のなかの〕私〔の箱〕を自分の部屋に入れて〔、〕鍵を下ろしておきました。大變暑い日でしたが、部屋の窓は開け放しになつてをり、私の住まつてゐる箱の戸口も窓も、開い〔たままになつ〕てゐました。〔(私が)〕机に向つて靜かにものを考へてゐた〔る〕とき〔、〕部屋〔何か〕窓から何か〔跳び〕込んで、部屋の中をあちこち步き𢌞るやうな音がするのです。私はひどく驚きましたが、じつと椅子に座つたまま、〔それを〕見てゐました。
[やぶちゃん注:「私の住まつてゐる箱の戸口も窓も、開い〔たままになつ〕てゐました」は現行では『私の住まっている箱の戸口も窓も、開け放しになってました』である。
「〔(私が)〕机に向つて」ここはママ。特異点で、挿入記号ではなく、マスの右に丸括弧附きでかく書かれてある。現行は『私が机に向って』で「私が」は地の文で生きている。]
今、部屋に入つて來た猿は、いゝ氣になつて、跳ね𢌞つてゐるのでした。そのうちに、〔たうとう〕猿は私の箱のところへやつて來ました〔ると→ました〕。彼は〔彼は→彼は〕その箱がさも珍しいものか〔この箱がよほど氣に入つたのか〕、さも嬉し〔面白く珍し〕そうに戸口〔戸〕や窓から〔、〕いちいち■覗きこむのです。私は箱の一番奧の隅へ逃げ込んでゐましたが、猿が四方からのぞきこむので、怖くて〔たまりません。〕すつかりあわててゐました。〔たので、〕ベツトの下に隱れることにも氣が〔の〕つかな〔づかな〕〔づきま〕せんでした。〔がつかなかつたのです。〕〔しばらく〕猿は覗いたり、齒を剝き出したり、ベチヤベチヤ〔ムニヤムニヤ〕喋舌つたりして〔ていまし〕たが、たうとう私の姿を見つけると、丁度あの猫が鼠にするやうに、戸口から前足を片方突出し〔前足を
片手 片〔手→方〕を伸して來ま〕した。しばらく私はうまく避けまはつてゐましたが〔たのです〕が、〔たうとう〕上衣の垂〔れ〕をつかまれて、引きずり出されました。
彼は私を右手で抱き上げると、丁度あの乳母が子供に乳房をふくませるやうな恰好で私を抱へました。〔私が〕あがけばあがくほど、〔猿は〕強くしめつけるので、これは〔、〕じつとしてゐた方がいいと思ひ〔氣→思ひ〕ました。■〔一〕方の手で〔、〕猿は何度も〔、〕やさしげに私の顏を撫でてくれます。それはきつと〔てつきり〕私を〔同じ〕猿の子だと間違つてゐるらしいのでした。〔感ちがひしてゐるのでせう。〕〔かうし〕て〔、〕彼がすつかりいい氣持になつてゐるところへ、突然〔、〕誰か部屋の戸を開ける音がしました。すると〔、〕彼は急いで窓の方へ駈けつけ、三本足でひよいひよい〔ひよこ→とつとと→ひよいひよい〕と步きながら、一本の手では私を抱いたまま、樋をつたつて、とうたう隣の大屋根〔まで〕攀ぢ上つてしまひました。
[やぶちゃん注:「三本足でひよいひよい〔ひよこ→とつとと→ひよいひよい〕と步きながら」かなりオノマトペイア(擬態語)に苦労しているあ、現行決定版では実はここでは抹消されている『とっとゝ』が採用されている。
「とうたう」はママ。民喜はしばしばこの歴史的仮名遣を誤って直しており、特異的に苦手だったことが窺える。]
私は猿が〔この〕私をつれて行くのを見て〔ると〕、グラムダルクリツチはキャツと叫びました。彼女は氣狂のやうになつてしまひました。それからあたり
は〔宮廷すら〔も→も→は上を〕〔すつかり〕〕〔間もなく宮廷は〕大騷ぎになりました〔つたのです〕。召使は梯子を取りに駈け出しました。猿は屋根の上に腰を下すと、まるで赤ん坊のやうに片手に私を抱いて、もう一方の手〔頰の顎の袋か〕ら何か吐き出して、それを私の口に押込んで〔まう〕とします。
〔そして今、〕屋根の下では數百人の人々が、この光景を見上げてゐます。〔るのでした→るのです。〕私が食べまいとすると、猿は〔母親■が子を〕あやすやうに〔、〕〔私を〕輕く叩き〔ました〕ます〔くのです〕。それを見て〔、〕下の群衆はみんな笑いだしました。實際〔、〕これは誰が見ても馬鹿馬鹿しい光景だつたでせう。なかには猿を追ひはらうと〔は〕〔ふつも〕りで、石を投げるものもゐましたが、これはすぐ禁じられました。
やがて梯子をかけて、數人の男が登つて來ました。猿はそれを見て、いよいよ囲まれたとわかると、三本足では走れないので、今度は私を棟瓦の上に〔殘して〕おいて、ひとりでさつと逃げてしまひました。私は地上三百ヤードの瓦の上にとまつたまま、今にも風に吹き飛ばされるか、眼がくらんで墜ちてしまふか、と■〔まる〕で生きた心地はしませんでした。が、そのうちに乳母さん召使の一人が、私をズボンのポケツトに入れて〔、〕無事に下まで降してくれました。
私はあの猿が〔私の咽喉に〕無理に押込んだ何か汚い食物で、息がつまりさうでした。しかし私の乳母が小さい針で一つ一つそれをほじくり出してくれたので、やつと樂になりました。だがひどく私の〔身躰は→が〕弱つてしまひ、あの動物に抱きしめられ〔てゐ〕たため〔、〕兩■〔脇〕が痛くてたまりませんでした。私はそのため二週間ばかり〔病〕床につきました。王、王妃、そのほか、宮廷の人たちが、毎日見舞に來てくれました。〔そして、あの〕猿は殺され〔、〕ました。〔そして〔これからは〕〔、〕今後は〕〔今後〕こんな動物を宮廷で飼ふ
ふつてはいけないことに〔ならないこ〕〔りま〕した。
[やぶちゃん注:末尾はママ。現行は『飼ってはならないことになりました』。]
〔さて、私は〕病氣が治ると〔ると、私は〕王にお禮を申上げに行きますと、〔く→きました。〕
〔すると〕王はおもしろ〔うれし〕さうに、今度のことをさんざおからかひになります。〔るのでした。〕猿に抱かれてゐた間どんな氣持がしたか、あんな食物の味はどうだつたか、どんなふうにして食べさすのか、などとお尋ねになります。そして、
「あんな場合、ヨーロツパではどうするのか」と王は御たづききになりました。そこで、〔私は、〕
「ヨーロツパには猿などゐません。ゐてもそれは物好きが遠方から捕つてきたものです〔、〕そんなものは実に可愛らしい奴です。それは〔んなの〕なら十匹や十五匹一緒〔十二匹ぐらい束〕になつてやつて來ても私は片付けてしまひます。〔負けはしません。〕先日〔こないだ〕の
あの〔なに、■〕此の間のあの恐ろしい〔大きな〕奴だつて、あれが私の部屋に片手を差込んだ時、〔あの時〔も〕私はじつとしてゐたのですが、もと〔平氣だつたのです。〕〕私がほんとに怖いと思つ〔のなら〕たら、〔この〕短劍で叩きつけたでせう〔ます〕。さうすれば、な■■〔すぐに〕相手に傷ぐらい負はせて、〔す■ぐ〕手を引つこめさせたでせう。」と、私はきつぱりと申し上げました。けれども私の話は〔そのこと〔は→に〕〕、
けれども、みんなは私のそのことに、みんなは〔→どつと〕噴きだしてしまひました。〔その〕側にゐた人人まで、愼みを忘れて、ゲラゲラ笑ひだすのでした。これで私はつくづく考へました。はじめから問題にならないほど差のある連中のなかで、いくら自分を立派に見せようとしても、それは無駄駄目だといふことがわかりました。
[やぶちゃん注:以上の猿から救助された後のパートはかなり原稿に苦渋した感じが見てとれる。以下に現行版を示す。
*
病気が治ると、私は王にお礼を申し上げに行きました。王はうれしそうに、今度のことをさんざ、おからかいになるのでした。猿に抱かれていた間どんな気持がしたか、あんな食物の味はどうだったか、どんなふうにして食べさすのか、などお尋ねになります。そして、あんな場合、ヨーロッパではどうするのか、と言われます。そこで、私は、
「ヨーロッパには猿などいません。いてもそれは物好きが遠方からつかまえて来たもので、そんなものは実に可愛らしい奴です。そんなのなら十二匹ぐらい束になってやって来ても、私は負けません。なに、この間のあの大きな奴だって、あれが私の部屋に片手を差し込んだとき、あのときも私は平気だったのです。私がほんとに怖いと思ったら、この短剣で叩きつけます。そうすれば、相手に傷ぐらい負わせて、手を引っ込めさせたでしょう。」
と、私はきっぱり申し上げました。
けれども、私の言うことに、みんなはどっと噴きだしてしまいました。これで私はつくづく考えました。はじめから問題にならないほど差のある連中の中で、いくら自分を立派に見せようとしても駄目だということがわかりました。
*]
[やぶちゃん注:驚くべきことに、以下の★で挟んだ太字にした部分は、現行版には全く存在しない貴重なパートである。]
★
私は每日何か一つは笑ひの種にされてゐたやうな■のです。グラムダルクリツチなども私を非常に可愛がつてはくれましたが、やはりちよつと意地わるなところがあり、私が何かヘマをやると、〔これはいい笑■〕それをすぐ王妃らに云ふのです。一度など、郊外へ馬車で氣晴しに行つた時のことですが、野原の小徑で馬車をとめると、グラムダルクリツチは私を箱から出して、外に地面へ下してくれました。
私は〔が〕ぶらぶら步いて行くと丁度道〔のまんなか〕に牛の糞が一つありました。私は身輕いそれを飛び越さうとしたのですが、生憎、牛糞の眞中にスツポリと嵌つてしまひました。やつと〔そこから〕這ひ出しては來ましたが、身躰中汚れた〔くると、從僕■の男がハンケチ→は來ましたが、身躰中〔汚れてゐました。→汚物だらけです。〕〕從僕がハンケチできれいに拭いてくれましたが、乳母は家に帰るまで私を箱の中に押しこめてしまひました。ところがそ〔こ〕の話はすぐ王妃の耳に入る〔り〕、それから從僕がみんなに喋つて𢌞るので、〔つたのです。〕〔それは〕大変でした。
四五日というもの、〔この話は〕みんな〔は■■■〕大笑いで〔の種にされま〕した。
★
たがめ
俗云髙野聖
田鼈
△按此蟲背文似高野僧負笈之形故俗呼曰高野聖蓋
腹蜟之屬也在溝池濕地形似蟬而灰黒色有甲露眼
正黒色六足前二足如蟹螫其行也不疾終背裂化生
蜻蛉
*
たがめ
俗に「髙野聖(かうやひじり)」と云ふ。
田鼈
△按ずるに、此の蟲、背の文〔(もん)〕、高野僧(はうし)の笈(をひ)を負ひたるの形に似たり。故に俗、呼んで「高野聖」と曰ふ。蓋し、腹蜟〔(にしどち)〕の屬なり。溝・池・濕地に在り。形、蟬に似て、灰黒色。甲、有り。露(あら)わなる眼、正黒色。六足、前二足は蟹の螫(はさみ)のごとく、其の行くこと、疾(と)くならず。終〔(つひ)〕に、背、裂けて、蜻蛉(とんばう)を化生す。
[やぶちゃん注:日本最大の水生昆虫にして日本最大のカメムシ類の一種である(成虫体長は五~六・五センチメートル。♀の方が大型)、
半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目タイコウチ下目タイコウチ上科コオイムシ科タガメ亜科タガメ属タガメ Lethocerus deyrollei
である。現行でも「田鼈」と漢字表記する(「水爬虫」とも書く。「爬」は「這う・引っ掻く」の意)。「鼈」はカメの一種であるスッポン(爬虫綱カメ目潜頸亜目スッポン上科スッポン科スッポン亜科キョクトウスッポン属ニホンスッポン(キョクトウスッポン)Pelodiscus sinensis)を指す語である。私は二十年ほど前、法師温泉の帰りに田圃道を歩いている折り、見つけた個体が、目の前で羽を広げて飛ぶのを見、激しく感動したのを思い出す(実はそれまで私はタガメが飛ぶとは思っていなかった。You Tube の飛翔画像はmushikerasan氏の「タガメの離陸」がよい。これはもう、蟬デッショウ!?!)。ウィキの「タガメ」によれば、『基本的にあまり飛行しない昆虫だが、繁殖期』(成虫は春に越冬から目覚め、五~六月頃に性成熟する)『には盛んに飛び回り(近親交配を避けるためと考えられる)、灯火に集まる走光性もあってこの時期は夜になると強い光源に飛来することが多い。飛行の際には前翅にあるフック状の突起に後翅を引っ掛け、一枚の羽のようにして重ね合わせて飛ぶ。この水場から水場に移動する習性から、辺りには清澄な池沼が多く必要で、現代日本においてその生息域はますます狭められることとなっている』とある。
「髙野聖(こうやひじり)」ウィキの「高野聖」より引く。『中世に高野山を本拠とした遊行者。日本の中世において、高野山から諸地方に出向き、勧進と呼ばれる募金活動のために勧化、唱導、納骨などを行った僧侶。ただしその教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものだった』。『遊行を行う僧は奈良時代に登場したが、高野山では平安時代に発生。始祖としては小田原聖(おだわら ひじり)の教懐、明遍、重源らが知られる。高野聖は複数の集団となって高野山内に居住したが,その中でも蓮華谷聖(れんげだに ひじり)、萱堂聖(かやんどう ひじり)、千手院聖(せんていん ひじり)が三集団が最も規模の大きいものとして知られる』。『こうした聖は高野山における僧侶の中でも最下層に位置付けられ、一般に行商人を兼ねていた。時代が下ると学侶方や行人方とともに高野山の一勢力となり、諸国に高野信仰を広める一方、連歌会を催したりして文芸活動も行ったため民衆に親しまれた。しかし一部においては俗悪化し、村の街道などで「今宵の宿を借ろう、宿を借ろう」と声をかけたため「夜道怪」(宿借)とも呼ばれた集団もあった。また「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」と俗謡に唄われているのはこのためである』。なお、織田信長は天正六(一五七八)年に畿内の高野聖を千三百八十三人も捕え、殺害している事実はあまり知られているとは思われない。『高野山が信長に敵対する荒木村重の残党を匿ったり足利義昭と通じたりした動きへの報復だったというが、当時は高野聖に成り済まし』、『密偵活動を行う間者もおり、これに手を焼いた末の対処だったともいわれている』。『江戸時代になって幕府が統治政策の一環として檀家制度を推進したこともあり、さしもの高野聖も活動が制限され、やがて衰えていった』とある。引用中の「夜道怪(やどうかい)」「宿借(やどかい)」という妖怪(というか、実在した可能性の高い「人攫い」)についてもウィキの「夜道怪」から引いておく。これは一般には、『埼玉県の秩父郡や比企郡小川町大塚などに伝わる怪異の一つ』とされ、『何者かが子供を連れ去るといわれたもので、宿かい(やどかい)、ヤドウケともいう』。『子取りの名人のような妖怪として伝承されており、秩父では子供が行方不明になることを「夜道怪に捕らえられた」「隠れ座頭に連れて行かれた」という』。『比企郡では「宿かい」という者が白装束、白足袋、草鞋、行灯を身につけて、人家の裏口や裏窓から入ってくるといわれる』。『民俗学者・柳田國男の著書においては、夜道怪の正体は妖怪などではなく人間であり、中世に諸国を修行して旅していた法師・高野聖のこととされている』。『武州小川(現・埼玉県比企郡小川町)では、夜道怪は見た者はいないが、頭髪も手入れされておらず、垢で汚れたみすぼらしい身なりの人が、大きな荷物を背負って歩く姿を「まるで夜道怪のようだ」と言うことから、夜道怪とは大方そのような風態と推測されている』。『実際に高野聖は行商人を兼ねていたため、強力(ごうりき; 歩荷を職業とする者)のように何もかも背負って歩き、夕方には村の辻で「ヤドウカ(宿を貸してくれ、の意)」とわめき、宿が借りられない場合には次の村に去ったというが、彼らが旅を通じて次第に摺れ、法力(仏法による力)を笠に着て善人たちを脅かすようになったために「高野聖に宿貸すな、娘取られて恥かくな」という諺すら生まれ、そうした者が現れなくなって以降は単に子供を脅かす妖怪として解釈されるようになったと、と柳田は考察している』。『江戸時代後期の大衆作家・十返舎一九による読本『列国怪談聞書帖』には、高野聖は巡業の傍らで数珠を商いし、民戸に立っては宿や米、銭を乞う者で、俗にこれを「宿借(やどうか)」というとある』。また、『同書には、道可(どうか)という僧がこのような修行を始めたため、すべての高野聖を「野道可(やどうか)」と呼んだという説も述べられている』とある。
「背の文〔(もん)〕」「背の紋」。ウィキの「タガメ」によれば、『体色は暗褐色で、若い個体には黄色と黒の縞模様がある』とある(下線やぶちゃん)。
「高野僧(はうし)」「はうし」は「僧」一字へのルビ。
「笈(をひ)」動詞「負う」の連用形「負い」の名詞化したもの。修験者や行脚僧が仏具・衣類などを入れて背に負うた脚・開き戸附きの箱。グーグル画像検索「笈」をリンクしておく。
「腹蜟〔(にしどち)〕」これは半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ上科 Cicadoidea のセミ類の比較的終齢期の方に近い幼虫を指すと私は考えている。前出の「腹蜟」を参照されたい。大雑把なカメムシ類(半翅(カメムシ)目 Hemiptera)では正しくないとは言えぬが、良安は「蟬に似て」いるから、かく言ったわけで、やはり誤りと言わねばならぬ。
「前二足は蟹の螫(はさみ)のごとく」ウィキの「タガメ」によれば、『前肢は強大な鎌状で、獲物を捕獲するための鋭い爪も備わっている。中・後肢は扁平で、遊泳のために使われる』とある。また、『肉食性で、魚やカエル、他の水生昆虫などを捕食する。時にはヘビやカメ等の爬虫類やネズミ等の小型哺乳類をも捕食する。鎌状の前脚で捕獲し、針状の口吻を突き刺して消化液を送り込み、消化液で溶けた液状の肉を吸う(「獲物の血を吸う」と表記した図鑑や文献もあるが、体外消化によって肉を食べているのであり、血のみを吸っているわけではない。タガメに食べられた生物は、骨と皮膚のみが残る)。自分より大きな獲物を捕らえることが多い。その獰猛さから「水中のギャング」とも呼ばれ、かつて個体数が多かった時には、養魚池のキンギョやメダカ等を食い荒らす害虫指定もされていた』。『北海道を除く日本全土に分布するが局所的。国外では台湾、朝鮮半島、中国に分布する』。なお、『中国では漢方薬の原料として用いられる他、国内では佃煮にされていた地方もあった』とある(下線やぶちゃん)。
「疾(と)くならず」素早くはない。
「終〔(つひ)〕に、背、裂けて、蜻蛉(とんばう)を化生す」最後には背部が裂けて、そこから別種である蜻蛉(とんぼ)に化生(けしょう)する。通常の仏教上の生物学では「四生(ししょう)」と称し、「胎生」・「卵生」・「湿生」(湿気から生ずること。蚊や蛙がこれに相当すると考えられた)・「化生」(自分の超自然的な力によって忽然と生ずること。天人や物怪の誕生、死者が地獄に生まれ変わることなどを指す)の四種に発生説を分類する。無論、タガメはトンボ(昆虫綱蜻蛉(トンボ)目 Odonata にはならぬから大間違いなわけだが、前に述べたように迂闊な私が幼い頃にタガメの飛び立つのを見たら、「そりゃ、トンボになった!」と叫んだことであろう。]
○泉 白雲泉 盃盂泉 ○魚樂 ギボシユ 玫瑰 佛 藻をとる男 ○トタンの管 玫瑰の落花 亭 呉中第一水 藻 龍髯
[やぶちゃん注:「白雲泉」先に続いて、天平山(蘇州市西方約十四キロの所にある山で、標高三百八十二メートル(二百二十一メートルとするものもある)、奇岩怪石と清泉、楓の紅葉で知られる)山麓にある中唐の白居易(七七二年~八四六年)の命名による泉。天平山の東側中腹の雲泉精舎にある泉で、盛唐から中唐にかけて生きた作家で「茶経」を著したことから「茶聖」と呼ばれる陸羽(七三三年~八〇四年)が、この白雲泉を「呉中第一泉」と認定したと伝えられる。後の「呉中第一水」と同じ。現在は「白雲池」とするようである。
「盃盂泉」不詳。天平山には小さな池塘が沢山あるが、現行の案内図ではこの名を探し得なかった。或いは、龍之介の誤記か?
「魚樂」「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」で龍之介は、「呉中第一泉」の『まはりには白雲泉とか、魚樂とか、いろいろの名を彫りつけた上に、御丁寧にもペンキか何かさした、大小の碑が並んでゐる。あれは呉中第一泉にしては、餘り水が汚いから、唯の泥池と間違はれないやうに、廣告をしたのに違ひない』と皮肉っている。
「ギボシユ」擬宝珠。ユリ目ユリ科ギボウシ属Hostaの総称。多年草、山間の湿地等に自生。白又は青色の花の開花は夏であるから、咲いてはいない。
「玫瑰」既注であるが、再掲する。日本語の音は「マイカイ」であるが、ここは中国音の「メイクイ(méiguī)」で読みたい。本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa
rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としては「バラ」を総称する語であり、ここも「薔薇(ばら)」を指していよう。
「藻をとる男」繁殖して悪臭を放つ藻を除去している者か。
「トタンの管」「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」の「呉中第一泉」の描写で「その池へ亞鉛(とたん)の懸け樋(ひ)から、たらたら水の落ちてゐる」とある。
「龍髯」ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon
japonicus。別名リュウノヒゲとも言う常緑多年草。開花はこれも夏七月であるから、あの淡い紫の花は咲いていない。]
○窓 燈籠 窓外 藤 竹 萬笏朝天の一部 見山閣 ○莽蕩河山起暮愁 何來不共戴天仇 恨無十萬橫磨劍 殺盡倭奴方罷休 〇七級塔
[やぶちゃん注:「萬笏朝天」これ自体は「空に突き出る万の笏」の謂い。「笏」は束帯などの公式正装の際に右手に持つ細長い薄板であるが、ここは所謂、中国の奇景の一つとしてしばしば見られる尖塔状の柱状節理の奇岩を指しているのであろう。
「見山閣」雲泉精舎の建物の一部か。「江南游記 十七 天平と靈巖と(中)」に、「呉中第一泉」に失望した直後、『しかしその池の前の、見山閣とか號するものは、支那の燈籠がぶら下つてゐたり、新しい絹の布團があつたり、半日位寢ころんでゐるには、誂へ向きらしい所だつた。おまけに窓に倚つて見れば、山藤(やまふじ)の靡いた崖の腹に、ずつと竹が群つてゐる。その又遙か山の下に、池の水が光つてゐるのは、乾隆帝が命名した、高義園の林泉であらう。更に上を覗いて見ると、今登つた山頂の一部が、かすかな霧を破つてゐる。私は窓によりかかりながら、私自身南畫か何かの點景人物になつたやうに、ちよいと悠然たる態度を粧つて見た。』と珍しく褒めている場所である。
「莽蕩河山起暮愁 何來不共戴天仇 恨無十萬橫磨劍 殺盡倭奴方罷休」これは「江南游記 十六 天平と靈巖と(上)」にも出る詩句である。しかしこれ、当該注でも示した通り、筑摩全集類聚版も神田由美子氏の岩波版新全集注解も注として挙げていない。自明とおっしゃるらしい。暴虎馮河なれど、諸注のそうした態度が気に入らない。意地で読む。書き下せば、
○やぶちゃんの書き下し文
莽蕩(まうたう)たる河山(かざん) 暮愁起る
何くより來たる 共に天を戴かざるの仇(かたき)
恨むらくは 十萬の橫磨劍(わうまけん)の無きを
倭奴を殺し盡して 方(まさ)に罷休(ひきゆう)せんに
○やぶちゃんの現代語訳
遙かに遙かに茫々と広がるこの大地大河 そこが暗く沈んで暮れゆく そこに自ずから愁いが立ち上ってくる――
一体お前たちは どこからやってきた? 不倶戴天の仇敵よ!――
恨むらくは 今 この国に十万の横磨剣(おうまけん)が無いこと――
ああ! 倭奴(わど)を殺し尽くして初めて 私は安らかな休息を得ることが出来ようというものなのに!――
後晋の軍人にして宰相であった景延広(八九二年~九四七年)は圧迫してくる契丹に対し臣と称することに反対、契丹の使者に「孫(=後晋の比喩)には十万の横磨剣がある。翁(=契丹)がもし戦いたいならさっさと来るがいい」と言ったことを指す(景延広の事蹟については杭流亭の「中国人名事典~後晋」の記載を参照した)。「横磨剣」の意味がよく分からないが、雰囲気としては横たえなければならない程太い鋭く研磨し上げた剣(若しくは触れなば即死のまがまがしい程の切れ味のよい魔剣)と言った意味か。ともかくも国民総てが勇猛果敢死を恐れず、一丸となって闘うぞ! といった感じの、強国契丹への挑発である。この詩の転句・結句の解釈には自信はない。自信はないが、私の意識の中では牽強付会の訳では、必ずしもない。「倭奴」は古代よりの中国人や朝鮮人の日本人に対する蔑称。誤りがあれば、是非、御教授を乞うものである。
「七級塔」不詳。七層塔の意か。]
○跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠達君 江蘇巡撫程德全
[やぶちゃん注:「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠達君」この詩句は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」に以下のように出る。かの張継の「楓橋夜泊」で知られる寒山寺(蘇州中心部から西方五キロメートルの楓橋鎮にある寺院。南北朝の梁(南朝)武帝の天監年間(五〇二年~五一九年)に妙利普院塔院として創建されたが、唐の貞観年間(六二七年~六四九年)に伝説的禅者であった寒山がここに草庵を結んだという伝承から、後、寒山寺と改められた。蘇州の靈巌寺(霊岩寺)と同じく、空海が長安への道中、船旅で立ち寄っている所縁の地でもある)へ見物に出かけた龍之介が、寒山寺をこき下ろす中で、『殊にあの寺の坊さんは、日本人の顏さへ見ると、早速紙を展(ひろ)げては、「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠送君」と、得意さうに惡筆を振ふ。これは誰でも名を聞いた上、何何大人正(せい)とか何とか入れて、一枚一圓に賣らうと云ふのだ。日本人の旅客の面目(めんもく)は、こんな所にも窺はれるぢやないか? まだその上に面白いのは、張繼の詩を刻んだ石碑が、あの寺には新舊二つある。古い碑の書き手は文徴明、新しい碑の書き手は愈曲園(ゆきよくゑん)だが、この昔の石碑を見ると、散散に字が缺(か)かれてゐる。これを缺いたのは誰だと云ふと、寒山寺を愛する日本人ださうだ。――まあ、ざつとこんな點では、寒山寺も一見の價値があるね』という中に、である。そこで私は、「海を跨(また)ぐこと萬里、古寺を弔す。惟だ鐘聲と爲りて遠く君を送らん」と訓じ、「あなたはわざわざ海の遙か彼方から、この古き寺に、敬虔にも、過ぎし総ての過去の死者の魂を弔いに来られた。そのあなたを、この何もない私は、ただ、あの知られた寒山寺の鐘の音(ね)を以って、送別するばかりです。」という意か。
「江蘇巡撫程德全」は清末民初の政治家で中華民国の初代江蘇都督であった程徳全(てい
とくぜん 八六〇年~一九三〇年)。「巡撫」(じゅんぶ)は明・清代に存在した官職名で、清代では明の制度を踏襲し、巡撫は省の長官とされ、総督とほぼ同格として皇帝に直属した。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有した、とウィキの「巡撫」にある。ウィキの「程徳全」によれば、彼は清で貢生(明清代に生員(秀才:国子監の入試である院試に合格し、科挙制度の郷試の受験資格を得た者)の優秀な者で国子監で学ぶことを許可された者)となり、『主に黒竜江において政治的経歴を積み重ね、主に事務、文書起草の任に就』き、その後、黒竜江巡撫・奉天巡撫を経て、一九一〇年に『江蘇巡撫に異動した』。辛亥革命勃発後の一九一一年十一月には『周囲から推戴され、江蘇都督とな』り、翌年一月三日に『南京臨時政府が成立すると、その内務部総長に任命された。その同日、中国同盟会を離脱した章炳麟(章太炎)、張謇らと中華民国連合会(後の統一党)を組織し』、同四月には『臨時大総統に就任した袁世凱から、改めて江蘇都督に任命された』。五月に『統一党は民社と合併して共和党となったが、程徳全は章太炎と不和になり、共和党から離党』、民国二(一九一三)年の二次革命(第二革命)では『江蘇省の独立を宣言した。しかし、まもなく上海に赴くなどして、実際の活動は乏し』く、同年九月の『二次革命の敗北とともに、江蘇都督を辞任した。これにより政界から引退し、以後は上海で仏門に入った』とある。「江蘇巡撫」という片書からは、これが彼の詩句であるとすれば(すれば、である)、一九一〇年から翌一九一一年十一月前の作となるか。彼は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」に出る。]
○途中村落 柳 鵞 鴨
[やぶちゃん注:「鵞」鵞鳥。ここで龍之介が嘱目したのは、カモ目カモ科マガン属サカツラガン
Anser cygnoides を原種とする中国系家禽のそれ。]
○虎邱 海陵陳鐵坡重建 古眞孃墓 癈塔傾く 鴉嘸聲 パク 鳥ナリ(九官ノ一種) 御碑亭ト客殿
[やぶちゃん注:「虎邱」蘇州北西の郊外約五キロメートルに位置する景勝地。春秋時代末期、「臥薪嘗胆」で知られる呉王夫差(?~紀元前四六三年)が父王闔閭(こうりょ ?~紀元前四九六年)を葬った場所。埋葬後、白虎が墓の上に蹲っていたことから虎邱と呼ばれるという(丘の形が蹲った虎に似ているからともいう)。標高三十六メートル。五代の周の九六一年に建てられた雲岩寺塔が立つ。別名、海涌山(かいゆうざん)。現在は「虎丘」と表記する。
「海陵陳鐵坡重建」不詳。「海陵」現在の江蘇省中部に位置する泰州市は古くは「海陵」と称した。「陳」は地区名の「陳鎮」誤りか(「蘇陳鎮」という地名が現在の泰州市にある)。「坡」は堤の意で地名によく使われる。「重建」は復興再建の謂いであろう。但し、虎邱や寒山寺とは南南東に百四十五キロメートルも離れている。
「古眞孃墓」真娘とは中唐の蘇州で歌舞の名手であった美妓の名。蘇州城西北郊外にあった武丘西寺(西武丘寺)に埋葬されたという。ここはその遺跡であろう。サイト「中国詩跡」の植木久行氏の「蘇州真娘墓詩跡考」に詳しい。
「鴉嘸聲」「カラスの、まさにその、声」の意か。但し、現代中国語では「パク」ではなく、「ヤーヤー」である。或いは「パク」は以下の「九官ノ一種」の「鳥」の名か、その声か?
「御碑亭」皇帝や高貴な人物の碑を建てた四阿(あずまや)のことであろう。]
○白壁 運河 新樹 蛙 鵲 北寺の塔 暮色 小呉軒
[やぶちゃん注:「鵲」「かささぎ」。スズメ目カラス科カササギPica
pica。本邦では主に有明海沿岸に分布、コウライガラス(高麗鴉)とも呼ぶ。中国では「喜鵲」で、「鵲」「客鵲」「神女」等とも言う。大陸や朝鮮半島ではごく一般的な鳥。
「北寺の塔」「北寺」は蘇州駅に近くにある蘇州最古の寺。三国時代の呉の孫権(後注参照)が母への報恩を目的に二四七年から二五〇年頃に造立された通玄寺を元とする。唐代に再建されて現在のように「報恩寺」と名づけられた。孫権の建立とする北寺塔の元自体は梁時代(五〇二年~五五七年頃)のものらしいが、損壊と再建が繰り返され、この時、芥川が登った現在の八角形九層塔は南宋時代の一一五三年の再建になるもので、高さ七十六メートルあり、江南一の高さを誇る(以上は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「北寺塔」の記載を参照した)。私も登ったことがある。
「小呉軒」北寺にある清の第四代聖祖(康熙帝:一六五四年~一七二二年)及び第六代皇帝高宗(乾隆帝:一七一一年~一七九九年)が南巡の際に立ち寄った行宮の一部である。龍之介は「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」で北寺『塔の外にもう一つ、小呉軒と云ふ建物がある。其處は中中見晴しが好い。暮色に煙つた白壁や新樹、その間を縫つた水路の光、――僕はそんな物を眺めながら、遠い蛙(かはづ)の聲を聞いてゐると、かすかに旅愁を感じたものだ』と珍しく非常に素直に感懐を綴っている。]
○酒棧 (京莊花雕) 白瓶(赤瓶上酒) 正方形の卓(タメ塗ハゲタリ) 同じやうな腰かけ 白壁 煤柱 土間 瘦犬 錫 筋(茶碗程の盃 底に靑蓮華) 辮髮の男 黑衣靑袴 深靑衣濃靑袴の杜氏 卓上の菜 電燈 天井比較的高し 豚の腸 胃袋 心臟ヲ賣リニ來ル男 中に醬油瓶アリ 菜は正方形の新聞紙上におく(二錢位) 田螺 梯子(呉城𨤍品 京莊紹酒) 驢の鈴 轎子のかけ聲 拳をうつ聲
[やぶちゃん注:「酒棧」(きゃくさん)は居酒屋。「江南游記 二十一 客棧と酒棧」の本文(題名ではない)では『酒棧(チユザン)』と中国音で読んでいる(現代標準語では「Jiǔzhàn」で「ヂォウヂァン」)。
「京莊花雕」紹興酒の内、長期熟成させた老酒(ラオチュウ)を「花雕」「花彫酒」という。これは紹興地方の習慣で、女児が生まれた三日後に酒を甕(かめ)に仕込み、嫁入りの際に掘り出して甕に彫刻と雅びやかな彩色を施して婚家へ持参したことによる。中文記事等を斜め読みすると、「京荘酒」というのは、紹興酒の中でも美事に熟成した上品を指し、それを京師(けいじ:長安)に高級酒として運んだことに由来するらしい。「荘」は「恭しく奉る・厳かにして高品質の」と言った意味合いではなかろうか。「白瓶(赤瓶上酒)」も含め、「江南游記 二十一 客棧と酒棧」に、『我我の向うには二三人、薄汚い一座が酒を飮んでゐる。その又向うの白壁の際には、殆(ほとんど)天井につかへる位、素燒の酒瓶(さけがめ)が積み上げてある。何でも老酒(ラオチユ)の上等なのは、白い瓶に入れると云ふ事だから、この店の入り口の金看板に、京莊花雕(けいさうくわてう)なぞと書いてあるのは、きつと大法螺に違ひない。さう云へば土間に寢てゐる犬も、氣味の惡い程瘦せた上に、癬蓋(かさぶた)だらけの頭をしてゐる。往來を通る驢馬の鈴、門附(かどづけ)らしい胡弓の音、――さう云ふ騷ぎの聞える中に、向うの一座は愉快さうに、何時(いつ)か拳(けん)を打ち始めた』とあり、さらに(改行部部を「/」で示した)『其處へ面皰(にきび)のある男が一人、汚い桶を肩へ吊りながら、我我の机へ歩み寄つた。桶の中を覗いて見ると、紫がかつた臟腑のやうな物が、幾つも渾沌と投げこんである。/「何です、これは?」/「豚の胃袋や心臟ですがね、酒の肴には好(よ)いものです。」/島津氏は銅貨を二枚出した。/「一つやつて御覽なさい。ちよいと鹽氣がついてゐますから。」/私は小さい新聞紙の切れに、二つ三つ紫がつた臟腑を見ながら、遙に東京醫科大學の解剖學數室を思ひ出した。母夜叉孫二娘(ぼやしやそんじぢやう)の店ならば知らず、今日明るい電燈の光に、こんな肴を賣つてゐるとは、さすがに老大國は違つたものである。勿論私は食はなかつた。』として、同「二十一 客棧と酒棧」(「酒棧」パートは後半半分)は終わっており、この「豚の腸 胃袋 心臟ヲ賣リニ來ル男」もちゃんと生かされている。このたった百五十七字のメモと記憶を文章映像に美事に仕立て上げてしまう芥川龍之介は、やはり凄いと私は思う。
「タメ塗リ」「溜め塗り」は漆塗りの一種で、朱漆・青漆などで下塗りをしてその上を木炭で艶消しした上、透漆を塗ったもの。下塗りの色が透けて見えるようになっている。「江南游記 二十一 客棧と酒棧」に、『机や腰掛けは剝(はげ)てゐたが、ため塗りのやうに塗つてあるらしい。私はその机を中に、甘蔗の茎をしやぶりながら、時時島津氏へ御酌をしたりした』と出る。
「杜氏」不詳。或いは「とうじ」で、紹興酒の醸造責任者のことを指しているか。
「梯子」先に示した通り、「向うの白壁の際には、殆(ほとんど)天井につかへる位、素燒の酒瓶(さけがめ)が積み上げてある」のであるから、それを順に積み上げ、また下ろすのに「梯子」が必要なわけである。
「呉城𨤍品」三国時代に孫権が長江流域に建てた王朝呉をシンボルとした名であろう。「𨤍」は音「レイ・リョウ」で、古え、現在の湖南省にあった酃(れい)湖の水を使って醸した酒の名で、透き通った美酒「𨤍醁(レイリョク)」(「𨤍」は「醽」「𨣖」「𨠎」とも書く)というのがあったというから、「𨤍品」で美酒の謂いらしい。
「驢の鈴」驢馬につけた鈴。その音。
「轎子」「けうし(きょうし)」と読む。お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子があり、そこに深く坐り、前後を八~二人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮に古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高い山の観光地などで見かけることがある。中国語では「Jiàozi」で「ジャオズー」。
「拳」拳(けん)遊び。日本のジャンケンのルーツ。二人又はそれ以上で手・指・腕の開閉・屈伸交差による数字や形象等によって競う、本来はこの場面の通り、酒席で行われた大人のギャンブルである。]
○對聯 獨立大道 共和萬歳 文明世界 安樂人家
[やぶちゃん注:「對聯」は「ついれん」と読み(中国語では「duìlián」(ドゥイリエン))、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。但し、佐々木芳邦氏の「コラム・中国雑談」の『その18 中国の「対聯」』によれば、本来は春節を祝うものとして飾られ、「春聯」とも言うが、実は対聯と言った場合はもう一枚、その左右の上に貼るものをも含める。向かって右側のものを上聯、左側を下聯、上に張るものを横批と言い、それらにはここで語られるような社会批評(或いはその皮肉)が現れることがあることを佐々木氏は語っておられる。大変面白いのでリンク先をお読みになることをお薦めする。「江南游記 二十六 金山寺」の冒頭に、『「對聯(たいれん)の文句も變りましたね。御覧なさい。あすこに貼つてあるやつなぞは、獨立大道、共和萬歳としてあります。」/「成程、此處のも新しい。文明世界、安樂人家(あんらくじんか)と書いてあります。」』と出る。]
同領地十二所の人家に錢をふらす事
○同郡十二所(じふにしよ)と云(いふ)所は、其(その)世臣(せいしん)茂木(もてぎ)氏代々預り支配する城下也。支配の給人(きふにん)に正直成(なる)ものあり、寶曆五年正月二日妻にかたりて云(いはく)、昨夜大黑天にあたまを槌(つち)にてうたるゝと夢見たりと。妻もよき事なるべしといへるに、七種の粥(かゆ)くふ時に、錢五六文たゝみのうへに有(あり)、後にはいろりの灰にまじりてあり、又土藏の内に錢おほく出來(いでき)てあり、日々にいづくよりもてくる事ともなく、只(ただ)家の内にそこらこゝらにあり。時々は錢のふる音すれば、それを見るに誠(まこと)に錢おちてあり。此を聞傳(ききつた)へて群集をなせり、國守の聽に達し、檢使を付(つけ)てたゞされけるに僞造にあらず。かくして五六ケ月もへて拾ひ集たる錢七十貫文程に及べり。其後主人歿したれば錢の降る事も止たりとぞ。又同所鯉川(こひかは)と云(いふ)所に夫婦にて貧窮の者あり、その家内にある日、いづくともなく聲ありてものいふ形は見えず、はじめは恐れけれども、後々はなれて物がたりなどしけり。食物(くひもの)など夫婦のものの望(のぞみ)にまかせて、何にてもその家の内に出來(いでく)る、それに合せて近鄕にて餅あるひは食物等不時(ふじ)に失する事あり、さては狐狸のたぐひのしわざにやといへり。その聲に就(つき)て向來(かふらい)の事をとふに、吉凶悉く答ふる事違(たが)はず、往々しるし有(あり)ければ、群集して錢穀(せんこく)をもち來(きた)り占(うらなひ)をとふ。又人ありてその聲につきてとりとめんとすれば、かたちは見へざれども、ねぢあひ角力(すまふ)とる體(てい)也。此(この)化(ばけ)もの甚(はなはだ)力(ちから)すぐれて人に負(まく)る事なしとぞ。後いづくともなく此(この)化物失(うせ)たり、是も寶曆七年の事也。
[やぶちゃん注:「同領地十二所」前条の久保田藩(秋田)の出来事を享けての「同」であるから、同久保田藩領であった秋田郡の十二所(現在の秋田県大館市十二所。グーグル・マップ・データ)。
「茂木氏」当時あった十二所城は茂木氏の所預であった。ウィキの「茂木氏」によれば、茂木氏は、元は中世下野国を根拠とした武家で、『常陸国守護を務めた八田氏の一族で八田知家の三男・知基が下野国芳賀郡茂木郷(茂木保、現在の栃木県茂木町)の地頭職を継承して「茂木」を号したことに由来する。後に茂木城を築城して本拠とした。承久の乱の軍功によって紀伊国賀太荘の地頭職を与えられたが、宝治合戦では三浦氏に加担した疑いをかけられ、茂木荘の一部に北条得宗家の進出を許した。南北朝時代には北朝方について、南朝方の攻撃や同じ北朝方の小山氏などの押領などに悩まされたが、小山氏の乱で鎌倉公方方、永享の乱・結城合戦で室町幕府について国人領主としての地位を安定させた。戦国時代には宇都宮氏・那須氏・佐竹氏などの間で揺れ動いたが、最終的には佐竹氏に従う。文禄の役中に行われた佐竹氏家臣の配置換えで』、『常陸国茨城郡の小川城(現在の茨城県小美玉市)に移され、関ヶ原の戦い後の佐竹氏の秋田藩移封に従った。以後、同藩の重臣として明治維新まで存続している』とある(下線やぶちゃん)。
「給人」江戸時代、武家で扶持米を与えて、抱えて置いた平侍(ひらざむらい)のこと。
「寶曆五年正月二日」グレゴリオ暦一七五五年二月十二日。
「七種の粥(かゆ)くふ」七草粥は人日(じんじつ)の節句(旧暦一月七日)の朝に食べ「國守」第七代藩主佐竹義明(よしはる)。
「同所鯉川」大館市にはない。現在の秋田県山本郡三種町(みたねちょう)に鯉川がある(八郎潟東岸中央部)。ここか(グーグル・マップ・データ)。
「聲に就(つき)て向來(かふらい)の事をとふに」そのが発せられたのに応じて、これからの未来の事柄について予言を問うてみると。
「往々」かなり、しばしば。そうなることが多いさま。
「錢穀」銭や米。
「その聲につきてとりとめんとすれば」(目には見えねど、)その声のする辺りを目印に、いざ、取っ組んで捕えようとしたところ。
「ねぢあひ」見えぬ相手も、こちらの腕や身体を捩じ伏せんとし。
「角力」相撲。とる體(てい)也。]
ひくらし 茅䘁【當作蠽字】
茅蜩
【和名比久良之】
ミヤウ゜チヤウ
本綱茅蜩小而青綠色蟬也
△按深山中有之人家近處希有也至晩景鳴聲寂寥
月淸
後京極
日くらしのなく音に風を吹添て夕日凉しき岡のへの松
――[やぶちゃん注:ここに本文完全閉鎖の縦罫が入る。]――
寒蟬【寒蜩◦寒螿◦𧕄】 本綱小而色青赤者名寒蟬【和名加無世美】月令
云七月寒蟬鳴者是也
啞蟬 本綱未得秋風則瘖不能鳴者
△按此蟬如土用中則觸物如言吃吃而不能鳴立秋
始鳴然不如常蟬蓋和名抄所謂奈波世美是乎
冠蟬【胡蟬 螗蜩】 本綱頭上有花冠蟬也
△按詩大雅曰如蜩如螗蓋蜩尋常蟬也螗則冠蟬也
螓【麥蚻】 本綱小而有文蟬也
蜋蜩 本綱五色具蟬也
𧑗母 本綱小於寒蟬二三月鳴者也
△按蟬之類有數種而其初所化之蠐螬腹蜟等亦不
一故有大小遲速之異
*
ひぐらし 茅䘁〔(ばうせつ)〕【當(まさ)に「蠽」の字に作るべし。】
茅蜩
【和名「比久良之」。】
ミヤウ゜チヤウ
「本綱」、茅蜩は小にして青綠色の蟬なり。
△按ずるに、深山の中に、之れ、有り。人家近き處には希れに有り。晩景に至りて鳴く聲、寂寥たり。
「月淸」
後京極
日ぐらしのなく音〔(ね)〕に風を吹き添へて夕日凉しき岡の邊(へ)の松
―――――――――――――――――――――
寒蟬(かむせみ)【寒蜩◦寒螿◦𧕄】 「本綱」、小にして、色、青赤き者を寒蟬と名づく【和名「加無世美」。】「月令〔(がつりやう)〕」に云ふ、『七月に寒蟬鳴く』と云ふは、是れなり。
啞蟬(なはせみ) 「本綱」、未だ秋風を得ざれば、則ち、瘖〔(いん)にして〕、鳴くこと能はざる者なり。
△按ずるに、此の蟬、土用の中〔(うち)〕は、則ち物に觸れて、「吃吃〔(きつきつ)〕」と言ふがごとくにして、鳴くこと、能はず。立秋に始めて鳴く。然〔れど〕も、常の蟬のごとくならず。蓋し、「和名抄」〔に〕所謂〔(いはゆ)〕る「奈波世美〔(なはせみ)〕」は是れか。
冠蟬(かむりせみ)【胡蟬 螗蜩】 「本綱」、頭の上に花冠〔(くわかん)〕有る蟬なり。
△按ずるに、「詩」の「大雅」に曰く、『蜩(ちやう)のごとく、螗〔(たう)〕のごとし』とあり。蓋し、「蜩」は尋常(よのつね)の蟬なり。「螗」は則ち、冠蟬なり
螓(あやせみ)【麥蚻】 「本綱」、小にして文〔(もん)〕有る蟬なり。
蜋蜩(いろどりせみ) 「本綱」、五色具(そな)はる蟬なり。
𧑗母 「本綱」、寒蟬より小さく、二、三月に鳴く者なり。
△按ずるに、蟬の類、數種有りて、其の初〔めて〕化する所の「蠐螬〔(きりうじ)〕」・「蠐螬〔(にしどち)〕」等、亦、一〔(いつ)〕ならず。故、大小・遲速の異、有り。
[やぶちゃん注:私がその声を偏愛する、
セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis
及び他のセミ類の附記である。但し、最後の他の蝉は「本草綱目」からのごく短い抄録であって、同定も放棄している。なお、私がどれぐらい偏愛しているかというと、私は実はもうこの五年近く、好きなバッハもジャズも殆んど実は聴いていないのである。パソコン前での作業中(一日延べ八時間以上)は専ら、Tomoki
BGM ViluReef Group の録音になる「川のせせらぎとひぐらしの鳴き声3時間版/作業用BGM・勉強用BGM」(You
Tube)や「【作業用BGM】ひぐらしの鳴き声1時間」を流しているのである。私は一年中、蜩の声を聴いていて飽きない人種なのである。いや、人と話すのはおろか、人の作った音楽も最早、私の心を和ませてはくれないのだとも言えるのである。
「茅䘁【當(まさ)に「蠽」の字に作るべし】」割注は「(「蠽」の字は)「蠽」の字を用いねばならない」の意。調べて見ると、「䘁」は「蠽」の俗字らしいので、それを言っているものか。或いは、「䘁」はネットの中文サイトの辞書を見ると「青緑色の蟬」の意の他に、海産のある種の蟹をも意味するので、そこで良安はかく主張しているのかも知れぬ。
「月淸」「秋篠月清集(あきしのげっせいしゅう)」。公卿で繊細で気品のある新古今風の歌人として知られる九条良経(嘉応元(一一六九)年~元久三(一二〇六)年:摂政関白九条兼実次男で従一位・摂政・太政大臣。「後京極殿」と号した)の自撰家集。四巻。元久元(一二〇四)年成立。
「日ぐらしのなく音に風を吹き添へて夕日凉しき岡の邊の松」よか、歌じゃて。
「寒蟬(かむせみ)」「かんぜみ」。音は「カンセン」。本邦では秋に鳴く蟬で、先行するヒグラシ・ツクツクボウシなどを指す。
「寒蜩」「寒螿」「𧕄」以上、現代仮名遣で「カンチョウ」・「カンショウ」・「ヨウ」と読む。以下、★印したものは同じ処理を施したものなので、この注記は略す。
「月令〔(がつりやう)〕」五経の一つである、「礼記(らいき)」の内の、年間行事を理念的に述べた「月令篇」。「げつりょう」と読んでも構わないようだが、私は昔からこうしか読んだことがない。
「七月に寒蟬鳴く」「礼記」「月令篇」に「孟秋之月」の条に『涼風至、白露降、寒蟬鳴』(涼風至り、白露(びやくろ)降り、寒蟬鳴く)とある。「七月」は旧暦であるから秋。
』と云ふは、是れなり。
「啞蟬(なはせみ)」基本、種ではなく鳴かない♀の蟬を指す語である。先行する「蚱蟬」の私の注を参照のこと。
「瘖」声が出ないこと。
「土用」五行に由来する暦の雑節の一つである立秋直前の夏の土用(二度ある場合は二度目の「二の丑」)現行の新暦では通常、八月七日より前である。
「吃吃〔(きつきつ)〕」これは♀が身体を動かす際の羽音の擦れるオノマトペイアであろう。
「鳴く」これは♂の蟬。
「常の蟬のごとくならず」それは普通の蟬の鳴き声とは違っている。ということは、寧ろ、後期に鳴くか、他の蝉が静まって鳴き声が判り始める、やはり、ヒグラシ・ツクツクボウシなどの類が想起される。言っておくが、ここは良安の附記部分であるから、本邦の蟬に限って考えてよいのである。
『「和名抄」に所謂る「奈波世美」』「蚱蟬」の私の『「和名抄」、「蚱蟬」【和名「奈名波世美」】、以つて雌蟬(めすせみ)にして鳴くこと能はざる者と爲る』注を参照のこと。
「冠蟬(かむりせみ)」これは「頭の上に花冠」から、多くの主がその胸部背面や頭部上面に、実に変わった多様な形状(烏帽子形・剣形・瘤のついた樹木の枝状で、色も多様である種もある)を成す「ヘルメット」と呼ばれる構造を持っている、セミ型下目ツノゼミ上科ツノゼミ科 Membracidae の類を私は直ちに想起した(それが当たっているかどうかは知らぬ)。グーグル画像検索「Membracidae」をリンクしておく。なお、この「冠蟬」は文字からも納得出来るが、現代中国語では「蟬花」などとも称し、特定の蟬に附着する冬虫夏草(例えば、本邦では、セミ亜科ニイニイゼミ族ニイニイゼミ属ニイニイゼミ Platypleura kaempferi の幼虫に寄生する菌界ディカリア亜界子嚢菌門チャワンタケ亜門フンタマカビ綱ボタンタケ亜綱ボタンタケ目オフィオコルディケプス科オフィオコルディケプス属セミタケ Ophiocordyceps sobolifera など)に対する名ともなっているようである。
「胡蟬」★「コセン」。
「螗蜩」★「トウチュウ」。
「詩」「詩経」。
『「大雅」に曰く、『蜩(ちやう)のごとく、螗〔(たう)〕のごとし』とあり』。「蕩之什」の一節に「如蜩如螗、如沸如羹。小大近喪、人尚乎由行」(蜩の如く、螗の如し、沸くが如く、羹(こう)するが如し。小・大、喪(ほろ)ぶに近きも、人、尚ほ、由りて行く)とある。
「麥蚻」★「バクサツ」。
「文〔(もん)〕」紋。
「蜋蜩」不詳。「五色具(そな)はる蟬」なら見て見たいのだが、「蜋蜩」で画像検索をかけたら、トホホ! 自分のサイトの挿絵が、これ、いっぱいだわ!(本「蟲類」の目録に載せた字を拾ってしまうため)
「𧑗母」★「デイボ」。
「寒蟬より小さく、二、三月に鳴く者なり」本邦の種として類似するものを当てるとすれば、セミ亜科ホソヒグラシ族ハルゼミ属ハルゼミ Terpnosia vacua がよく一致する。私は二十年ほど前、法師温泉で満山に亙るその鳴き声を聴いたことがある。彼らの声も、とても、好きだ。
「蠐螬〔(きりうじ)〕」・「蠐螬〔(にしどち)〕」先行する「蚱蟬」の私の注及びそのリンク先を参照されたい。]
くつくつはうし 蛁蟟 蜒蛛
螇螰 蛥蚗
蟪蛄
【和名久豆久豆保宇之】
ホイ クウ
本綱蟪蛄青紫色蟬秋月鳴者也
△按小於蟬而畧團其頭褐色身及羽淺青色鳴聲如言
久豆久豆法師故名之關東則多有而畿内希
*
くつくつはうし 蛁蟟 蜓蚞
螇螰 蛥蚗
蟪蛄
【和名「久豆久豆保宇之〔(くつくつばふし〕」。】
ホイ クウ
「本綱」、蟪蛄は青紫色の蟬。秋月、鳴く者なり。
△按ずるに、蟬より小さくして、畧〔(ほぼ)〕團〔(まる)〕く、其の頭、褐色、身及び羽、淺青色。鳴き聲、「久豆久豆法師」と言ふがごとし。故に之れを名づく。關東には則ち、多く有りて、畿内には希なり。
[やぶちゃん注:セミ科セミ亜科ツクツクボウシ族ツクツクボウシ属ツクツクボウシ Meimuna opalifera。但し、良安が最後で「關東には則ち、多く有りて、畿内には希なり」と言っているのは不審である。本種は温・亜熱帯性の分布を示すからで、ウィキの「ツクツクボウシ」によれば、『北海道からトカラ列島の』横当島(よこあてじま:鹿児島県のトカラ列島最南端ある無人島)『までの日本列島、日本以外では朝鮮半島、中国、台湾まで、東アジアに広く分布』し、『平地から山地まで、森林に幅広く生息する。地域によっては市街地でも比較的普通に発生する(盛岡市など)が、基本的にはヒグラシと同じく森林性(湿地性)であり、薄暗い森の中や低山帯で多くの鳴き声が聞かれる。この発生傾向は韓国や中国でも同様である。成虫は特に好む樹種はなく、シダレヤナギ、ヒノキ、クヌギ、カキ、アカメガシワなどいろいろな木に止まる。警戒心が強く動きも素早く、クマゼミやアブラゼミに比べて捕獲が難しい』。成虫は七月から『発生するが、この頃はまだ数が少なく、鳴き声も他のセミにかき消されて目立たない。しかし他のセミが少なくなる』八月下旬から九月上旬頃には『鳴き声が際立つようになる』。九月下旬には『さすがに数が少なくなるが、九州などの西南日本では』十月上旬に『鳴き声が聞かれることがある』とある。なお、『ツクツクボウシはアブラゼミやニイニイゼミと比べて冬の寒さに弱いので、元来北日本では川沿いのシダレヤナギ並木など局地的にしか分布していなかった。しかし近年、盛岡や仙台においてこのセミが増えつつある。特に盛岡ではアブラゼミが激減している(仙台でもかなり減少している)が、ツクツクボウシは逆に増えている。これは地球温暖化が原因と考えられるが、生態学的に優位な立場にあるアブラゼミの数が減ったことで、ツクツクボウシが繁殖しやすくなったという原因もある』。『なお、青森市や八戸市でもアブラゼミが激減(ほぼ消滅)しているが、盛岡や仙台と異なり今のところツクツクボウシが増加する兆候はない。これは、盛岡などと異なり盛夏でもあまり暑くならない青森県の気候が原因と考えられている。 本種は本来北海道には生息しないとされてきたが』近年、進出が確認され、『各地で鳴き声が聞かれるようになった』ともある。この引用にある、ツクツクボウシの「鳴き声」が「他のセミにかき消されて目立たない」という叙述から、或いは良安はかく誤認したものかも知れない。所謂、蟬が蟬らしく鳴く時期だけに蟬に耳を傾ける、インセクタ―でない通常人であった良安には、「蟬」の季節が過ぎた時期の彼らの鳴き声に注視しなかったか、その頃にならないと聴こえないから、実は数が少ないと誤認していたものかも知れない。因みに、寺島良安は大坂城の御城入(おしろいり)医師を勤めていたから、彼はまさに「畿内」の人間であったのである。
「くつくつ」は副詞で、おかしくてたまらず、押しころすようにして笑う声を表わすオノマトペイア(擬音語)であろう。但し、他にも同語は物の煮えたつ音を表したり、ふざけてくすぐる際の「こちょこちょ」という擬態語の他、痰などが咽喉につかえて鳴る音を表す擬音語でもあるから、そうした意味の複合可能性も考えるべきかもしれない。
「蛁蟟」「蜓蚞」「螇螰」「蛥蚗」漢名なので歴史的仮名遣で表記する意味をあまり感じないから、ここで東洋文庫版を参考に現代仮名遣で順に示す。「ちょうりょう」「ていぼく」「けいろく」「せつけつ」。]
せんぜい 蟬殻 枯蟬
金牛兒 蟬退
蟬蛻
【和名 世美乃毛奴介】
チヱン トイ
本綱蟬蛻【鹹甘寒】治皮膚瘡瘍風熱驚癇眼目翳膜及啞病
夜啼皆宜用馬蟬之蛻
△按腹蜟蠐螬等冬蟄夏出背裂而爲墠出去殻也紀州
越州之産爲佳形大而馬蟬之殻也藥肆所售者多常
蟬蛻也
源氏
うつ蟬の身をかへてける木の本に猶人からのなつかしき哉
*
せんぜい 蟬殻 枯蟬
金牛兒 蟬退
蟬蛻
【和名「世美乃毛奴介〔(せみのもぬけ)〕」。】
チヱン トイ
「本綱」、蟬蛻は【鹹甘、寒。】皮膚瘡瘍(そうちやう)・風熱を治す。驚癇〔(きやうかん)〕・眼目の翳膜〔(かすみ)〕及び啞病〔(おし)〕・夜啼き、皆、宜しく馬蟬(むませみ)の蛻〔(ぬけがら)〕を用ふべし。
△按ずるに、腹蜟(にしどち)・蠐螬(きりうじ)等、冬、蟄(すごもり)、夏、出でて、背、裂けて墠〔(せん)〕と爲り、出でて去りし殻なり。紀州・越州の産、佳と爲す。形、大きくして、馬蟬(にしどち)の殻なり。藥肆〔(やくし)〕に售(う)る所の者は、多く、常の蟬(きりうじ)の蛻(から)なり。
「源氏」
うつ蟬の身をかへてける木〔(こ)〕の本〔(もと)〕に猶〔(なほ)〕人がらのなつかしき哉
[やぶちゃん注:半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ上科 Cicadoidea に属するセミ類の幼虫の脱皮した殻。
なお、平凡社東洋文庫版現代語訳(一九八七年刊。杏林堂版を底本とする)では、良安の解説の冒頭が私の所持するもの(五書肆名連記版影印)とは異なる。幾つかの画像アーカイブを見たが、当該の杏林堂版原文を見出せないので、現代語訳を引用しておく。
『△思うに、『本草綱目』に、あるいは腹蜟を蟬蛻とする、とあるのは誤りである〔腹蜟とはまだ蟬となる前の名である〕。およそ蟬蛻は』[やぶちゃん補注:以下、「紀州」と続くが、そこは訳から見て同一と思われる]。
内容から見て、杏林堂版は、五書肆名連記版を改稿したものと思われ、良安の最終意見はこちらに落ち着くものか。
「枯蟬」(こせん)「金牛兒」(きんぎゅうじ)「蟬退」(せんたい)は孰れも言い得て妙の別称ではないか。こういう感覚が現代生物科学から失われたのは、私は非常に淋しい気がしている。
「「世美乃毛奴介〔(せみのもぬけ)〕」「蛻」は、現行でも「もぬけ」と訓ずる。噓だと思ったら、「もむけ」と打って変換して見られよ。
「瘡瘍」瘡(かさ)や腫瘍。
「風熱」風邪の中でも重症のもので、特に高い熱を発する病態及びそれよって生する合併症をも含む症状。
「驚癇」癲癇(てんかん)。
「馬蟬(むませみ)」セミ上科セミ科セミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis 。前項参照。
「腹蜟(にしどち)」これは半翅(カメムシ)目頸吻亜目セミ上科 Cicadoidea のセミ類の比較的終齢期の方に近い幼虫を指すと私は考えている。前出の「腹蜟」を参照されたい。とすると、これを杏林堂版でかく修正したのは誤りと私は思う。
「蠐螬(きりうじ)」鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属 Mimela
に属するコガネムシ類の幼虫を指すと私は考えている。前出の「蠐螬」を参照されたい。さすれば、こちらは杏林堂版でかく修正したのは正しいと私は思う。総合的に見て、杏林堂版の方が現代の生物学的知見からは無難な線とは言える。
「越州」越後国・越中国・越前国の総称。
「馬蟬〔にしどち〕」ルビは何故か、左側に配されてある(底本は「ニシトチ」と清音)。前の注での私の比定からは「ニシトチ」は広義には正しいとは言えるが、「馬蟬」に振るのは誤りである。
「藥肆〔(やくし)〕」薬屋。
「售(う)る」売る。
「蟬(きりうじ)」ルビは左側に配されてある(底本は「キリウシ」と清音)。但し、こちは、右に「ノ」「カラ」と送り仮名とルビを振った結果、書けなくなったために過ぎない。この「キリウシ」の方は前の注での私の比定からは「蟬」に振るのは全くの誤りであると言わざるを得ない。
「うつ蟬の身をかへてける木〔(こ)〕の本〔(もと)〕に猶〔(なほ)〕人がらのなつかしき哉」「 空蟬の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな」言わずもがな、「源氏物語」の第三帖「空蟬」のエンディング、源氏が、逃げ去る際、空蟬が脱ぎ捨てた衣を持って帰り、そのせつない思いを詠んで、空蟬に贈った印象的な源氏の一首である。良安先生、大好き♡]
むませみ 蝒【音】 馬蜩
蚱蟬
【俗云 無末世美】
本綱五月始鳴黒色而大蟬類雖多獨此一種入藥醫方
多用蟬殻亦此殻也
△按和名抄蚱蟬【和名奈名波世美】以爲雌蟬不能鳴者非也此據
陶氏之本草謬然矣蓋蚱蟬卽馬蟬也形長大於蟬身
深褐色羽畧厚美灰白色聲大而緩不如蟬之連聲也
*
むまぜみ 蝒【音[やぶちゃん字注:欠字。]】 馬蜩〔(ばてう)〕
蚱蟬
【俗に云ふ「無末世美〔(むまぜみ)〕」。】
「本綱」、五月、始めて鳴く。黒色にして大なり。蟬の類、多しと雖も、獨り、此の一種〔のみ〕、藥に入る。醫方、多く蟬の殻を用ふる〔は〕亦た、此の殻なり。
△按ずるに、「和名抄」、「蚱蟬」【和名「奈名波世美〔(なはせみ)〕」】、以つて雌蟬(め〔す〕せみ)にして鳴くこと能はざる者と爲〔(す)〕るは、非なり。此れ、陶氏が「本草」の謬〔(あやまり)〕に據つて然〔(しか)〕る。蓋し、蚱蟬は卽ち馬蟬なり。形、蟬より長大にして、身、深褐色。羽、畧〔ほぼ〕厚く、美にして灰白色。聲、大にして緩〔(ゆる)〕く、蟬の連聲には若(し)かざるなり。
[やぶちゃん注:この「馬蟬」とは本邦種としては「熊蟬」、
昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目頚吻亜目セミ型下目セミ上科セミ科セミ亜科エゾゼミ族クマゼミ属クマゼミ Cryptotympana facialis
である。同種は日本特産種で、体長六~七センチメートルにも及び、本土ではセミ類の最大種である(本邦の最大種はクマゼミの近縁種であるヤエヤマクマゼミCryptotympana yayeyamanaで、沖縄県石垣島及び西表島に分布する固有種。鳴き声はミンミンゼミに似、本記載の「本草綱目」のそれと判断してよい、大陸や台湾の低山帯に分布するタイワンクマゼミ Cryptotympana holsti の近縁種でもある。体長はクマゼミよりさらに大きく、日本最大のセミである)。以上はウィキの「クマゼミ」他に拠った。
『「和名抄」、「蚱蟬」【和名「奈名波世美〔(なはせみ)〕」】、以つて雌蟬(め〔す〕せみ)にして鳴くこと能はざる者と爲〔(す)〕る』源順「和名類聚抄」の「虫豸(ちゅうち)類」の部に、
蚱蟬 本草云蚱蟬【作禪二音和名奈波世美】雌蟬不能鳴者也
と確かにある。なお、この条の次に、
馬蜩 爾雅注云馬蜩一名蝒【音綿和名無末世美蟬中最大者也】
ともあり、この後の極めて正確な叙述と合わせると、良安がかくも論(あげつら)って指弾するほどの誤りとは私には思われない。寧ろ、中国では鳴かぬ「馬蜩」(「蚱蟬」の♂)を「蚱蟬」として区別していたとすれば、古来の博物学上では納得がゆくではないか。というより、小学館の「日本国語大辞典」を見ると、「蚱蟬」を鳴かない雌の雌を指す語としており、「本草和名」(「蚱蟬 一名瘂【雌蟬不能鳴者】)をも引いており、古語辞典でも雌の蟬として「蜻蛉日記」のも出ているから、寧ろ、こうした現象的分類としては私はすこぶる腑に落ちる。そもそもが博物学的分類や命名はそういった現象的分類命名であったからである。但し、「なは」が「鳴かない・啞(おし)の」の意味であることは探し得なかった。【2020年6月16日:追記】たまたま必要があって「和漢三才図会」の「蟬」の条々を再読したのだが、ふと気づくと、本書には「油蟬」(セミ亜科アブラゼミ族アブラゼミ属アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata)が記されていないことに気づいた。個人ブログ「FLOS, 花, BLUME, FLOWER, 華,FLEUR, FLOR, ЦBETOK, FIORE」の「アブラゼミ 大和本草,和漢三才図会,本草綱目啓蒙」に、『江戸の本草書では「蝉(蚱蝉)」はクマゼミで,アブラゼミはアカゼミと呼ばれていたらしい.クマゼミの抜け殻が漢方薬として使われていたからか,後期になると「蚱蝉=アブラゼミ」となっている(『本草綱目啓蒙』)が,これは著者の住んでいた地域の違いも知れない』とあり、貝原益軒の「大和本草」(宝永七(一七〇九)年刊)には「蚱蟬(セミ)」として、『(中略)羽スキトホラサルアリ赤セミト云』『晩ニナク』『コノ者其形(蚱蝉=クマゼミと)相似テ別ナリ』とあると記しておられるので補っておくこととした。
『陶氏が「本草」の謬に據つて然る』「本草綱目」の「蟲之三」(化生類)の「蚱蟬」の「集解」中に『弘景曰、蚱蟬、啞蟬、雌蟬也。不能鳴。』(弘景曰く、「蚱蟬、啞蟬、雌蟬なり。鳴く能はず。)とあるのを指す。陶弘景(四五六年~五三六年)は六朝時代の道教の茅山派の開祖で医学者・科学者。ウィキの「陶弘景」によれば、山林に隠棲し、フィールド・ワークを中心に、本草学を研究、『今日の漢方医学の骨子を築』き、『また、書の名手としても知られ、後世の書家に影響を与えた』人物でもある。彼は『前漢の頃に著された中国最古のバイブル的な薬学書』「神農本草経」を整理して、五〇〇年頃、「本草経集注」を著した。『この中で薬物の数を』七百三十種類と従来の二倍に増やし、また、『薬物の性質などをもとに新たな分類法を考案した。この分類法はいまなお使われている』とある。
「畧」少しく。
「蟬の連聲には若(し)かざるなり」通常の蟬の鳴き声とは似ていない。]
序
俗間有燈臺基暗之語。謂燈能照他而不能照其基也。今人稱宿學老儒而口徒誦讀西土之卷册。而目未曾見皇國之典籍者比有焉。是卽燈臺基暗之謂也。如吾蘆川畫伯則否。既能通覽西土之卷册亦能披閲皇國之古今。又能探討吾闔境之事實且記錄旃圖畫旃。若此撰亦一班耳。可謂不愧于世俗之所誹者矣。此予所喜以辨一言于篇端也。
庚申仲秋下澣日 石居々士題於樂吾草盧
[やぶちゃん注:筆者「石居居士」(「せききよこじ(せきしょこじ)」)について、底本の森山泰太郎氏の補註には、『津軽藩幕末の儒者兼松誠。字は成言、号は石居。代々津軽藩江戸定府の士で、文化七年江戸本所の津軽藩上屋敷に生まる。長じて昌平黌に入り』、『佐藤一斉に学ぶ。和漢の学を兼ね、藩邸の子弟教育を命ぜらる。安政三年』、『弘前に帰って藩校稽古館督学となり、藩中に経史・風雅の交りを広めた。廃藩後』、『東奥義塾の創設にあずかって人材輩出に努め、また藩史編さんに従事した。明治十年没、六十八歳。魯僊と親交厚く、「魯仙小伝」を草している』とある。平尾より二歳年下である。
以下、まず、我流で書き下す。自信はない。
序
俗間、「燈臺、基(もと)暗し」なる語、有り。謂ふこころは、「燈、能く他を照らすも、其の基(もとい)を照らす能わず」となり。今人(きんじん)、宿學・老儒と稱するも、口、徒(いた)づらに西土(せいど)の卷册を誦讀するのみにして、目、未だ曾つて皇國の典籍を見ざる者、比(こ)れ、有るなり。是れ、卽ち、「燈臺、基暗し」の謂ひなり。吾が蘆川畫伯のごときは、則ち、否(いな)。既に、能(よ)く西土の卷册を通覽し、亦(また)、能く皇國の古今(ここん)を披閲(ひえつ)す。又、能く吾が闔境(かふきやう)の事實を探討(たんたう)し、且つ、旃(こ)れを記錄し、旃れを圖畫す。此の撰も亦、一班のごときのみ。世俗の誹(そし)る所の者に愧(は)ぢずと謂ふべし。此れ、予、一言を篇端に辨ずるを喜びとする所以(ゆゑん)なり。
庚申(かのえさる)仲秋下澣(かかん)の日 石居々士、樂吾草盧にて題す
・「宿學」多年に亙って業績があるとされる学者。以前から名声高くして尊敬されている学者。
・「西土」「もろこし」と訓じてもよい。
・「闔境」総ての時空間。
・「一班」そうした広汎な著述考察の一つ。
・「下澣」月の二十日以降。下旬。
・「樂吾草盧」「らくごさう(そう)ろ」と音読みしておく。自邸の雅号。
自信はないものの、まあ、それなりに自分では意味は採れたと思う。]
天地能内爾有常有流事物、一登而怪不有波無矣。凡人能智持弖伊加弖悉爾知可得劍。然有矣理乎究牟禮婆、阿夜志伎事無那登云閉流學風牛鳴有波、言布二毛不足痴言爾己曾。此爾我學徒平尾魯仙奴斯伊毛呂々々能書乎著波石花流中爾、其怪布架中能一際怪布事矣緊要跡、撰備目頰布事乎毛交兄弖如斯書整閉多流波、啻爾異布有事矣好牟庭有良傳、理乎究牟知布輩能幽事乎不辨、鬼神乎蔑如志神道能奇靈在事乎疎忽爾須流乎驚佐牟常、聞賀麻爾々々見賀麻爾々々鬼二二多流此能書爾社。其乎谷能毘伎跡霜託多流波、空谷能聲乎傳布登加言閉流如久、有賀中爾波不有空言毛交里多良牟加登、心志多流王邪爾己曾阿禮。歡伎加毛此書、勉志加毛此奴斯。
萬延元庚申年九月十三日 鶴舍有節識
[やぶちゃん注:筆者「鶴舍有節」(「つるや・うせつ」)について、底本の森山泰太郎氏の補註には、『幕末津軽の俳人。弘前の商家に生まれ、本名武田乙吉、号』を有節、また、『千載庵。俳諧・和歌をよくし、また国学を好んで安政四年』、『江戸の平田鉄胤に入門し、篤胤没後の門人帳に名を連ねた。著書多く、魯儒とは青年時代から親交を重ね』、『誘掖』(ゆうえき:力を貸して導くこと。)『する点多く、魯僊の生涯に最も大きな影響を与えた人物である。明治四年没、六十四歳』とある。平尾と同い年である。
さても、困った。万葉仮名は大学二年生以来、すっかり忘れている。それでもやらずんば得ず! 我流で書き下したが、どうしても読めない部分は□で囲って太字とし、不審な箇所は□や〈 ?〉で囲っておいた。正しい訓読がお判りの方、是非、御教授あれかし。
天地(あめつち)の内(うち)に有りと有る事物、一(ひとつ)として怪(くわい)有らざるは無し。凡そ、人の智もて、いかで悉(ことごと)くに知り得べけん。然か有る理(ことわり)を究(きは)むれば、あやしき事、無きなど云へる學風むあるは、言ふにも足らざる痴言(たはごと)にこそ。此こに、我が學徒平尾魯仙奴(やつばら)しい、もろもろの書を著はせば、中に、其の怪しきが中の、一際(ひときは)、怪しき事、緊要(きんえう)と、撰(えら)び、目ぼしき事をも交えて、斯くのごとく書き整へたれば、啻(た)だに異(あや)しく有る事、好(この)むにはあらで、理を究むに、知しき〈=知識?〉の輩(うから)、幽(おくぶかき)事を不辨(わきま)へず、鬼神を蔑(さげす)むを志の如くし、神道の奇(く)しき靈(みたま)在(あ)る事を疎忽(そさう)にするを、驚かさむと、聞くがまにまに、見るがまにまに、鬼ににた〈=似た〉る、此の書にこそ。其れを「谷のひびき」としも託(たく)したるは、空谷(くうこく)の聲を傳ふとか言へる如く、有るが中には有らざる空言(そらごと)も交りたらむかと、心したる王邪(おに)にこそあれ。歡(よろこばし)きかも、此の書、勉(まさり)しかも、此の奴(やつばら)し。
萬延元庚申(かのえさる)年九月十三日 鶴舍有節識(しる)す
前の序と同様、自信はないものの、やはりそれなりに自分では意味は採れたと思っている。
以下、目次は全巻一括で示す。]
谷の響 一之卷
目錄
一 沼中の管弦
二 地中の管弦
三 山女
四 河媼
五 怪獸
六 龍尾
七 蚺蛇を播く
八 蛇塚
九 木簡淵の靈
十 虻人を追ふ
十一 鬼祭を享く
十二 神靈
十三 自串
十四 筟子杼を脱れ鷹葉を貫く
十五 猫寸罅を脱る
十六 猫の怪幷猫恩を報ゆ
十七 猫讐を復す
十八 龜恩に謝す
畢
谷の響 二之卷
目錄
一 大章魚屍を攫ふ
二 章魚猿を搦む
三 蛇章魚に化す
四 怪蚘
五 蟹羽を生ず
六 變化
七 海仁草 海雲
八 燕鳥繼子を殺す
九 蝦蟇の智
十 蜘珠の智
十一 夢魂人を嚙殺す
十二 神の擁護
十三 犬無形に吼ゆ
十四 蟇の妖魅
十五 山靈
十六 怪蟲
十七 兩頭蛇
畢
谷の響 二之卷
目錄
一 大骨
二 壘跡の怪
三 壓死
四 震死
五 天狗子を誘ふ
六 踪跡を隱す
七 死骸を隱す
八 異魚
九 奇石
十 化石の奇
十一 巨薔薇
十二 ネケウ
十三 大躑躅
十四 大藤
十五 骨牌祠中にあり
十六 陰鳥
十七 樹血を流す
十八 落馬の地
十九 鬼火往來す
二十 妖魅人を惱す
廿一 妖魅
畢
谷の響 四の卷
目錄
一 蛙 かじか
二 氷中の蟲
三 水かけ蟲
四 大毒蟲
五 狂女寺中を騷かす
六 鬼に假裝して市中を騷がす
七 龍頭を忌みて鬪諍を釀す
八 存生に荼毘桶を估ふ
九 人を唬して不具に爲る
十 戲謔長じて酒殽を奪はる
十一 題目を踏んで病を得
十二 賣僧髮を截らしむ
十三 祈禱の禍牢屋に繫がる
十四 閏のある年狂人となる
十五 半男女
十六 肛門不開
十七 骨髮膿水に交る
十八 奇病
十九 食物形を全ふして人を害す
二十 天狗人を攫ふ
廿一 一夜に家を造る
畢
谷の響 五の卷
目錄
一 羹肉己ら躍る
二 羽交(はがひ)に雄の頸を匿す谷の響
三 皮を剝ぎ肉を截れて聲を發てず谷の響
四 狼の力量幷貒谷の響
五 怪獸谷の響
六 狢讐を報んとす
七 メトチ
八 河太郎
九 沼中の主
十 雩に不淨を用ふ
十一 大蝦蟇 怪獸
十二 石淵の怪 大蟹
十三 蚺蛇
十四 蚺蛇皮
十五 龍まき
十六 旋風
十七 地を掘て物を得
十八 地中に希器を掘る
十九 假面
畢
佐竹家醫師神保荷月事
○佐竹家の醫者に神保荷月(じんぼかげつ)と云(いふ)外科あり。治方(ぢはう)神(しん)の如し、大守の寵愛し給ふ鷹、鶴に脚を折(をら)れたるをつぎ愈して、用をなすこともとの如し。江戶にて用人馬より落(おち)て足をうち折り、骨の折(おれ)たる所うちちがひに外へまがり出たりしを、在所へ下り荷月が療治を得てもとのごとく愈(いえ)、二度(ふたたび)江戶に登りて馬上などにて往來したるをみたり、大島佐仲(すけなか)と云(いふ)用人也。其外うち身くぢきをなをす事、愈へずといふ事なし。家に傳方(でんぱう)の祕書一卷あり、川太郞傳(つたへ)たるものとてかなにて書たるもの也、よめかぬる所もありとみたる人のいへり。此神保氏先祖厠(かはや)へ行(ゆき)たるに、尻をなづるものあり、其手をとらへて切(きり)とりたるに猿の手の如きもの也。其夜より手を取に來りて愁(うれふ)る事やまず。子細を問(とひ)ければ川太郞なるよし、手を返して給はらば繼(つぎ)侍らんといひしかば、其(その)方(はう)ををしへたらんには返しやるべしといゝしかば、則(すなはち)傳受せし方書(はうしよ)なりとぞ。
[やぶちゃん注:「佐竹家」久保田藩(秋田藩)藩主佐竹氏と思われる(秋田の伝承譚サイトにこの記事が載るからである)。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞記であるが、本条は明らかに津村の現在時制で書かれているから、当代の藩主は第八代佐竹義敦(よしあつ)或いは第九代藩主義和(よしまさ)である。
「神保荷月」不詳。
「大守」藩主。前注参照。
「うちちがひに外へまがり出たりしを」強く打ったために、本来ありえない向きに外側(がいそく)に折れ出っぱってしまったのを。但し、開放骨折だと、感染症などもあって難治であるから、この医師の他の施術法と回復の速さから考えると、単純骨折或いは骨折ではなく、強い非解放性脱臼であったものと推定される。
「二度」読みは私の推定。
「大島佐仲」不詳。読みは私の推定。かなり下の用人である。久保田藩の歴代の家老格には大島姓はいない。
「川太郎」河童。所謂、〈河童の詫び文〉型の伝承で、そこで斬られた腕を返す代わりに、その密着接合整復術や金創(かなきず)などの万能秘薬を伝授されるという常套的パターンで、日本全国で広汎に見られる河童奇譚の類型である。
「よめかぬる所もあり」どうにも何と書いてあるのか判読出来ない箇所もある。いや、だから河童の書いたものとしてリアルに伝承されるのであり、その判読不能の箇所こそが秘伝の薬剤の調合法や整復法が記してあるものと人々は考えたのである。
「方」処方。
「方書」処方書き。]
3-20 木七、竹八、塀十郎
木七竹入塀十郞と云諺ありとぞ。これは木は七月に伐り、竹は八月に截り、塀は十月に塗れば、久遠に耐るとの教なり。
■やぶちゃんの呟き
「木七、竹八、塀十郎」「きしち、たけはち、へいじふらう(へいじゅうろう)」。静山の述べているように、頻繁に採取される植物である木や竹の伐採及び塀を塗る最も適した時節を、人名に擬えて語調よく覚え易くした俚諺。言わずもがな、月は孰れも陰暦であるので注意されたい。木や竹は熱暑の夏から初秋頃にかけて生長の方を抑え始めるので、樹質が安定し、繁茂による伐採の難がやや楽になり、土や板塀はこの初冬の雨が少なく、空気もかなり乾燥した時期に塗ると、乾きが早いからであろう。但し、別に「木六竹八塀十郎」とも言うようである。
「と云諺あり」「といふことわざあり」。
「久遠に」「とはに」と訓じておく。
「耐る」「たゆる」。
「教」「おしへ」。
3―19 樅板物音を阻る事
奧州の人の云に、樅の板は人語をよく通さぬものなり。家居を板羽目にするか、又間より間を隔つる板戸に樅を用ゆれば、近き人語も徹せざるものなりと。此事聞たるまゝにて未だ試みずと、述齋語れり。
■やぶちゃんの呟き
「樅板」「もみいた」。裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科モミ属モミ Abies firma から製材した建築材。「爽建ハウス株式会社」公式サイト内の「天然モミの木の内装材」に、『植物塗装仕上げのモミの木の床や壁は光の反射量が適当で瞳孔の開きが一定し、ストレスを感じません』。『また、現代の家は気密性が高く音が反響しやすくなっています。これが小さなお子さんに無意識のうちにストレスを与え、イライラしやすくなるなどの悪影響を及ぼします。モミの木の板は音を吸収するため室内の音が反響しませんので、ストレスなく大音量でオーディオを流したり楽器を演奏したりできます』とある。
「阻る」「さえぎる」と訓じておく。
「云に」「いふに」。
「家居」「いへゐ」。
「間」「ま」。部屋。
「徹せざる」「とほせざる」
「聞たる」「ききたる」。
「述齋」お馴染みの盟友林述斎。
3-18 蘭奢待、初昔の文字
蘭奢待と云名香は、東大寺の寶物なれば、東大寺の文字を隱て名としたる也。宇治の初音、後昔の名あるも、何とか時節ありて、其時より廿一日前に摘たるを初音と云ひ、夫より廿一日後に摘たるを後昔と云ふとぞ。是も廿一日の字を合せし也。
■やぶちゃんの呟き
「蘭奢待」「らんじやたい(らんじゃたい)」は「蘭麝待」とも書く、東大寺正倉院に収蔵されている香木。天下第一の名香として知られる。ウィキの「蘭奢待」等によれば、『正倉院宝物目録での名は黄熟香(おうじゅくこう)で、「蘭奢待」という名は』、ここで静山が「東大寺の文字を隱て名としたる也」(「東大寺」のそれぞれの文字を総て隠し入れて香の名としたもので、「蘭」の(もんがまえ)の内に「東」が、「奢」の(かんむり)に「大」が、「待」の(つくり)に「寺」の字を配した雅名である。『その香は「古めきしずか」と言われる。紅沈香と並び、権力者にとって非常に重宝された』。重さ十一.・六キログラムの『錐形の香の原木』で、成分からは伽羅(きゃら:東南アジアに植生するアオイ目ジンチョウゲ科ジンコウ(アキラリア)属アキラリア・アガローチャ
Aquilaria agallocha などの「沈香木」類などが風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵された際、その防御策としてダメージを受けた内部に樹脂を分泌し、蓄積したもの。それを乾燥させ、木部を削り取ったものがこれ。原木は比重が〇・四と非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになるため、これが「沈(水)」の由来となっている。幹・花・葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道に於ける組香での利用に適している)に分類されるものである。但し、本品は『樹脂化しておらず』、『香としての質に劣る中心部は鑿』『で削られ』て『中空になっている(自然に朽ちた洞ではない)。この種の』加工法は九〇〇年頃に始まったものであるので、本「蘭奢待」は『それ以降の時代のものと推測されている』。『東南アジアで産出される沈香と呼ばれる高級香木。日本には聖武天皇の代』(七二四年~七四九年)『に中国から渡来したと伝わるが、実際の渡来は』十世紀以降と『する説が有力である。一説には』推古天皇三(五九五)年という説もあるが、先の処理法から見て採れない。『奈良市の正倉院の中倉薬物棚に納められており、これまで足利義満、足利義教、足利義政、土岐頼武、織田信長、明治天皇らが切り取っている』。近年では、二〇〇六年一月に『大阪大学の米田該典(よねだかいすけ。准教授、薬史学)の調査により、合わせて』三十八ヶ所の『切り取り跡があることが判明している。切り口の濃淡から、切り取られた時代にかなりの幅があり、同じ場所から切り取られることもあるため、これまで』五十回以上は『切り取られたと推定され、前記の権力者以外にも採取された現地の人や日本への移送時に手にした人たち、管理していた東大寺の関係者などによって切り取られたものと推測される』とある。
「初昔」「はつむかし」これは後で「宇治の」と静山が記しているので判る通り、茶葉(正確にはそれから製した抹茶)の呼称で、茶摘みの最初の日に摘んだ茶葉で製した抹茶の銘である。但し、これは本来、江戸初期の造園家で遠州流茶道の祖としてしても知られる小堀遠州が、従来の白みを帯びた色の茶を名付けたものという。なお、「蘭奢待」の隠し字同様、「昔」を「廿」「一」「日」の合字と捉え、八十八夜前後の「二十一日」間の前半・後半に葉を摘んだものを「初昔」・「後昔(のちむかし)」とする俗説もあり、静山はここではそれを挙げて述べることで興じているのである。
「云」「いふ」。
「隱て」「かくして」
「後昔」「のちむかし」。前注参照。
「何とか時節ありて」何かと、茶葉とそれからこしらえる美味玄妙なる抹茶の風合いに時節それぞれの微妙な違いがあって。
「其時」八十八夜。前注参照。
「夫より」「それより」。
「摘たる」「つみたる」。
3-17 文祿二年禁中御能番組
或古小册に、文祿二癸巳年十月五日、禁中御能番組と記す。其中目にとゞまる所を抄書す。先づ初日と云、番組の中に、源氏供養、羽柴肥前守【加賀守利家弟、三十三萬石と注書す】、脇如丈、笛奈良禰宜助竹友、小鼓江戸中納言秀忠公、大鼓岡田新八。野野宮、家康公江戸中納言、脇淺野彈正少弼長政、笛竹友、小鼓畠山信濃守、大鼓同修理大夫。二日目番組と云に、老松、家康公、ツレ金春大夫、脇中田帶刀、寅菊次右衞門、岩本雅樂、笛八幡助左衞門、小鼓觀世又次郞、大鼓樋口石見守、太鼓小崎彦三郞。狂言耳引、太閤秀吉公、羽柴肥前守、江戸中納言家康公。三日目雲林院、家康公、脇永井右近大夫直勝、笛春日市右衞門、小鼓觀世又次郞、大鼓高安與右衞門、太鼓淺野左京大夫幸長。次に舞臺の圖を出す。紫宸殿の側なると見ゆ。其次に各地謠歟と記する名書あり。先づ近衞前太政大臣信基公、二條前關白煕實公、九條前左大臣兼孝公、梶井殿、大谷宰相、伏見殿、八條殿、其外あり。此餘は毛利秀元等武家の歷々なり。此擧、秀吉太閤の所爲なるべけれど、珍しき事なり。且この前年より、太閤已に朝鮮を攻て、此年は吾大軍他邦に在の間なり。この時世の人氣は想像すべし【家康公の下、中納言と記す。又江戸中納言家康公と云も、疑らくは、中は大の書誤なるべし】。
■やぶちゃんの呟き
このキャスティング、凄過ぎ!!
「文祿二年」一五九三年。
「文祿二癸巳年十月五日」「癸巳」(みづのとみ/キシ)。新暦では十一月二十七日。
「其中目にとゞまる所」「そのうち、めに留まる所」。特に目の止まったところ。
「源氏供養」ウィキの「源氏供養」によれば、『作者については世阿弥説、河上神主説(以上『能本作者註文』)、金春禅竹説(『二百十番謡目録』)があ』り、『豊臣秀吉は能楽の中で特にこの源氏供養を好み』、この前年の文禄元年からこの文禄二年にかけてだけでも、自ら七回も『舞った記録が残されている』とする。紫式部をシテとした複式夢幻能。
「羽柴肥前守【加賀守利家弟、三十三萬石と注書す】」加賀藩初代藩主前田利長(永禄五(一五六二)年~慶長一九(一六一四)年)。彼は天正一三(一五八五)年九月に秀吉から羽柴の苗字を賜っている。
「脇」「ワキ」。「源氏供養」では「安居院(あぐいの)法印」役。
「如丈」私は不詳。本記載と同じ「文祿貮年【癸巳】年【十月五日】於禁裏御能番組」(但し、演目は総て)を載せる「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」(グーグル・ブックス。以下、同じ)では「山岡如犬」と載るが、「犬」は流石におかしかろう。調べて見ると、「山岡如軒」がいる。これだろう。生没年未詳であるが、安土桃山時代の武将で豊臣秀吉の馬廻り役を勤め、この翌文禄三年に摂津西成郡の検地を奉行している。事蹟は思文閣「美術人名辞典」に拠った。
「奈良禰宜助竹友」不詳ながら、「奈良」の「禰宜助」(禰宜の助役か)の「竹友」なる人物で、著者不詳の寛政元(一七八九)年の「松浦古事紀」の中の、「四十三 文禄三甲午年秋九月十八日」の「大阪西御丸御能之事」に「野守」の演目で笛方に「竹友」とある。まさしく彼であろう。「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では「貞光竹友」と載る。
「小鼓」「こつづみ」。
「江戸中納言秀忠公」徳川秀忠。
「大鼓」「おほつづみ」或いは「おほかは」。能や長唄で囃子に用いる大形の鼓(つづみ)。左の膝の上に横たえ、右手で打つ。能では床几(しょうぎ)に腰かけて打つ。
「岡田新八」私は不詳。
「野野宮」能「野宮(ののみや)」。「源氏物語」の六条御息所をシテとする複式夢幻能。
「家康公江戸中納言」徳川家康。最後で静山が注しているように、「中納言」は「大納言」の誤り。家康は先立つ天正一五(一五八七)年八月に従二位権大納言に任ぜられている。なお、この時に「羽柴」姓をも下賜されている。
「淺野彈正少弼長政」豊臣政権下の五奉行筆頭で、後の常陸真壁藩主浅野長政(天文一六(一五四七)年~慶長一六(一六一一)年)。「野宮」のワキ「旅僧」役。
「畠山信濃守」私は不詳。
「同修理大夫」畠山修理大夫なら、能登畠山氏第九代当主畠山義綱がいるが、私にはよく判らぬ。但し、「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では前の人物を「畠山」とするのに対して「畑山」と表示が異なる。
「老松」世阿弥作の老松の神霊をシテとする長寿を言祝ぐ複式夢幻能。
「金春大夫」金春流宗家六十二代金春安照(天文一八(一五四九)年~元和七(一六二一)年)か。豊臣秀吉の能指南役を勤め、絶大な庇護を受け、慶長元(一九五六)年には大和で五百石の知行を得、徳川家康の愛顧も受けて金春座繁栄の基礎を築いた。
「中田帶刀」私は不詳。思うに、「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」から見ると、「甲田帯刀」の誤りか。
「寅菊次右衞門」長府藩能役者の知られた名跡。表きよし氏の論文「長府藩の能楽」(PDF)に詳しい。後の金春座の虎菊大夫か。「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では「虎田治右衞門」と記す。
「岩本雅樂」底本では「雅樂」には「うた」とルビする。私は不詳。
「八幡助左衞門」不詳。「続群書類従 十九下(遊戯部・飲食部)」では「助」を「介」とする。
「觀世又次郞」観世又次郎重次。信長から朱印状を拝領した彦右衛門豊次の子。江口文恵氏の論文「勧修寺文書に見る観世小次郎元頼の領地安堵」(PDF)に拠る。
「樋口石見守」大鼓方能役者で樋口流大鼓の祖。近江の郷士で豊臣秀吉の近習頭となった。観世信光に大鼓を学んだ。彼は後に秀吉の命で朝鮮出兵に従い、陣中で死去している。
「太鼓」「たいこ」。二枚の牛皮と欅(けやき)などをくり抜いた胴を調緒(しらべお)と呼ばれる麻紐で固く締め上げた打楽器。能の演奏では専用の台に載せて床に据え、二本の撥を用いる。
「小崎彦三郞」私は不詳。
「耳引」現在の狂言「居杭」(いぐい:「井杭」とも書く)の原型とされる。清水寺の観音に「隠れ頭巾」を授かった男が、姿を消し、周囲の人々を翻弄するストーリー。参照したウィキの「居杭」に、まさにこの時に演じられたそれがプロトタイプであると推定されているとある。
「雲林院」在原業平をシテとする複式夢幻能。
「永井右近大夫直勝」後の下総古河藩初代藩主永井直勝(永禄六(一五六三)年~寛永二(一六二六)年)。
「春日市右衞門」(しゅんにちいちえもん 天正六(一五七八)年~寛永一五(一六三八)年)は笛方能役者。父は三好家家老として将軍足利義輝を殺害させて畿内に実権を揮った松永久秀の家臣であった。松永氏の滅亡後に能笛を家業とし、徳川家康から「春日」の号を与えられたとも、或いは春日太夫道郁(どうゆう)に名字を貰って、笛方春日流二代を継いだともされる(ここは講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「高安與右衞門」能の大鼓方の流派の一つで、室町末期に高安与右衛門道善を流祖とした嫡流。
「淺野左京大夫幸長」後の紀州藩初代藩主浅野幸長(天正四(一五七六)年~慶長一八(一六一三)年)。
「歟」「か」。疑問の係助詞。
「名書」「ながき」。名簿。
「近衞前太政大臣信基」近衛信尹(のぶただ 永禄八(一五六五)年~ 慶長一九(一六一四)年)の初名。ウィキの「近衛信尹」によれば、『幼い頃から父とともに地方で過ごし、帰京後も公家よりも信長の小姓らと仲良くする機会が多かったために武士に憧れていたと』され、『秀吉が朝鮮出兵の兵を起こすと』、文禄元(一五九二)年十二月には、『自身も朝鮮半島に渡海するため』、『肥前国名護屋城に赴いた。後陽成天皇はこれを危惧し、勅書を秀吉に賜って信尹の渡海をくい止めようと図った。廷臣としては余りに奔放な行動であり、更に菊亭晴季らが讒言』したため、『天皇や秀吉の怒りを買い』、この翌文禄三(一五九四)年四月には『後陽成天皇の勅勘を蒙っ』て、『薩摩国の坊津に』三年の間、配流となったとある。後、慶長元(一五九六)年には勅許が下って京都に戻った。慶長五(一六〇〇)年九月には『島津義弘の美濃・関ヶ原出陣に伴』ったが、敗北して薩摩に帰国した。しかし、その後、『関ヶ原で敗れた島津家と徳川家との交渉を仲介し』、『家康から所領安堵確約を取り付け』、慶長六(一六〇一)年には左大臣に復職、四年後の慶長十年には念願の関白となっている。
「二條前關白煕實」秀吉の前に関白であった二条昭実(あきざね 弘治二(一五五六)年~元和五(一六一九)年)であろう。
「九條前左大臣兼孝」(天文二二(一五五三)年~寛永一三(一六三六)年)は豊臣秀次の後に関白となった九条家第十七代目当主。
「梶井殿」私は不詳。現在の京都市左京区大原にある天台宗三千院は古くは「梶井門跡」と呼ばれたから、その親王の系統上の人物か。
「大谷宰相」大谷吉継(永禄八(一五六五)年或いは永禄二(一五五九)年~慶長五(一六〇〇)年)か。
「伏見殿」私は不詳。ウィキの「伏見宮」によれば、北朝第三代崇光天皇の『第一皇子栄仁親王は持明院統の嫡流にあたったが、その皇位継承は将軍足利義満に忌避されたと考えられ、皇位を継承することなく御領のひとつ伏見御領に移り、伏見殿と呼ばれるようになった』。栄仁親王王子の第三代『貞成親王は、自ら伏見宮と称していた。貞成親王の第一王子は後花園天皇として即位し、第二王子の貞常親王が』四『代目となったが、貞常親王は兄の後花園天皇から永世「伏見殿」と称することを勅許され、以後、代々「伏見宮」と名乗るようになった』とあるので、この親王の系統上の人物か。
「八條殿」私は不詳。或いは「八条殿」を称した八条宮智仁(としひと)親王(天正七(一五七九)年~寛永六(一六二九)年)か。ウィキの「八条宮智仁親王」によれば、『八条宮(桂宮)家の初代。正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第六皇子。母は勧修寺晴右の女・新上東門院(藤原晴子)。同母兄に後陽成天皇・興意法親王らがいる。幼称は六宮・胡佐麿(古佐麿)・員丸、通称は幸丸・友輔。一般には八条の皇子と呼ばれた』。『邦慶親王が織田信長の猶子であったのに倣い、智仁王も』天正一四(一五八六)年に『今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていた。しかし』天正一七(一五八九)年に『秀吉に実子・鶴松が生まれたために解約となり』、同年十二月に『秀吉の奏請によって八条宮家を創設した』とある。
「毛利秀元」(天正七(一五七九)年~慶安三(一六五〇)年)は後の長門長府藩初代藩主。
「此擧」「このきよ」。この絢爛豪華な能狂言の催し。
「太閤已に朝鮮を攻て」文禄の役。天正二〇(一五九三)年(但し、十二月に文禄に改元)四月十二日に本邦の一番隊であった宗義智(そう よしとし)と小西行長が七百艘の大小軍船で対馬・大浦を出発、同日午後に釜山に上陸している。
「在」「ある」。
「この時世の人氣は想像すべし」このような国外出兵という未曽有の大変事の中、世の歴々の太閤に対する人気(評価)は想像を絶するレベルのものであったと知れる。
「書誤」「かきあやまり」。
十九 假面
又、この百澤寺の什物にいと古き面七枚あり。往古(むかし)延曆・大同の年間(ころ)、坂上田村麿東夷征伐の時、軍師にかむらしめ賊を威して、大いに勝利を得たるものと言ひ傳へたれど、これによれる書物もなく緣起もあらず。されば二百年三百年の古きものと見得ず。漆の色のさびたる、彫れるあとの俗をぬけ、ことに形の異相などいといと古く雅(みやび)にして、中々中古(むかし)や近き世の人の手に成れるものにはあらざるなり。又、常の物より大ぶりにて長は八寸又は九寸もありぬべし。材は桂のごとく見ゆるなり。こもいと珍しければその形をここに内(おさ)む。又いふ、荒川村の妙見堂の神體は同じく十二枚の古き假面なるよしなり。いとくすびなるものにて、これが宮をひらくとき、必ず風雨雷電すさまじくおこりぬるとて、かたく禁(いましめ)て人に見することなかりしとなり。
[やぶちゃん注:本条を以って「谷の響」全巻を終わる。
「この百澤寺」前条を受ける。岩木山神社の別当寺。述べた通り、おぞましき廃仏毀釈により廃寺。
「什物」「じふもつ(じゅうもつ)」。寺院の秘蔵する道具類。
「古き面七枚あり」底本の森山氏の補註に、『いま岩木山神社に古い舞楽面が三枚あり、年代・作者・伝来すべて不明であるが、坂上田村麿が奉納したと伝える。これをさすのであろう』とある。教え子から指摘があって、ブログ「ライター斎藤博之の仕事」の「奥大道と平泉(3-2)岩木山神社の舞楽面」を紹介された。まさに! これだ!!
「延曆・大同」七八二年から八一〇年まで。
「坂上田村麿」(さかのうえのたむらまろ 天平宝字二(七五八)年~弘仁二(八一一)年)は平安初期の武官。近衛将監から近衛少将を経、延暦一〇(七九一)年、征東副使に任命され、同十三年には征夷大将軍大伴弟麻呂に従って蝦夷を討った。同十五年、陸奥出羽按察使(あぜち)兼陸奥守、さらに鎮守府将軍、同十六年(七九七年)に至って征夷大将軍に任ぜられた。
「東夷征伐」ウィキの「坂上田村麻呂」によれば、延暦二〇(八〇一)年に『遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた』。その後、一度、帰京し、翌延暦二一(八〇二)年に『確保した地域に胆沢城』(いさわのき)『を築くために陸奥に戻り、そこで阿弖流為』(あてるい)と盤具公母礼(いわぐのきみもれ)ら五百余人の『降伏を容れた。田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の貴族は反対し』て遂に二人を処刑している。延暦二二(八〇三)年には志波城(しわのき)を築城している。延暦二三(八〇四)年に、再び、『征夷大将軍に任命され』、三『度目の遠征を期した。しかし、藤原緒嗣が「軍事と造作が民の負担になっている」と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた』とある。
「軍師」参謀格の大将。
「かむらしめ」「被(かむ)らしめ」。被らせて。
「威して」「おどして」。
「されば二百年三百年の古きものと見得ず」不審。後の「中古(むかし)や近き世の人の手に成れるものにはあらざるなり」という感想と矛盾している。
「俗をぬけ」後で「いといと古く雅(みやび)にして」と言っているから、俗っぽい粗野さが全くなく、の意で採る。
「中古(むかし)」二字へのルビ。
「長」「たけ」。面の長径。
「八寸又は九寸」二十四センチ強から二七センチ強。
「桂」ユキノシタ目カツラ科カツラ属カツラ Cercidiphyllum japonicum。
「こもいと珍しければその形をここに内(おさ)む」前条で述べた通り、平尾の絵図を我々は最早、見ることは出来ない。岩木山神社に行くことがあったなら、是非とも見て見たいものだが、そんな機会は多分、私には訪れぬであろう。
「荒川村」現在の青森市荒川(あらかわ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「妙見堂」現在の荒川地区の東にある青森市問屋町の大星神社。ここ(グーグル・マップ・データ)。底本の森山氏の補註に、『坂上田村麻呂が』『蝦夷平定後、横内(よこうち)の地(いま青森市横内)に鬼面七箇を納めて妙見社を祀ると伝える。明治三』(一八七〇)年に、『大星神社と改称した』とある。Yuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の「大星神社・妙見宮・追分石 (北斗寺 / 青森市問屋町)」が画像豊富! それによれば、やはり最初は平尾の言う通り、「十二」面あったらしい。そうして菅江真澄が「栖家乃山(すみかのやま:寛政八(一七九六)年の紀行)で次のように記していると現代語訳して呉れている。この妙見堂には『そのむかし、天台宗の北斗寺という寺があったという。神主阿保某のもとに代々伝わる獅子頭があり、また古い仮面が』七『つ蔵されている。神主阿保安政が語るには、「田村麿が征夷大将軍として蝦夷人をおびやかそうとしたとき、大勢の兵士らが着けた面だとか、北斗七星になぞらえて神事の舞がおこなわれたときの』七『つの面だとも言い伝えられており、むかしは』十二『面あったとかいわれています。この面を人に見せてはならないと、遠い先祖のころから唐びつのなかに深くひめかくして、さらに見せたことがありません」という』とあり、平尾の時代には既に七面しかなかったのである。
「くすびなるもの」「くすび」は上代語の「奇(くす)し」で「神秘的だ・不思議だ・霊妙な力がある」の意。畏れ多く神威を保持した神聖なるものの謂いである。だからこそ、「かたく禁(いましめ)て人に見することなかりし」なのである。]
十八 地中に希器を掘る
天保の末年にて有けん、獨狐村の長左衞門と言へるもの、その村の領なる若狹館といふ處をほり、この地より龜ケ岡産に等しき磁器出るなり。掘りて鏡の形なるものを得たりけるが、それにある人形は岩木山の上にある本尊の脇師の神に似たるとて、百澤寺に納めたりしとなり。往ぬる丙辰の五月この寺に參詣し時、乞得て見たりけるに錢にて鑄たる物にして、はだいとあらく鍋の地はだにひとしかるが、徑(わたり)五寸許にして表の方に二重の緣(ふち)あり、中に二人の人形の居たるを鑄出して、丈各一寸七分許り膝の厚さは三四分もあるべく、烏帽子をかむり扇の如きを持てる形なり。裏の方は椽(ふち)なく、人形の處は少し凹みたれど打出せるものにあらず。又、上に五分許りの耳二ツありて穴をうがてり。こを斜に見るときは、綠色の光ありていと古きものと見らる。されど何に用ひたることを知らず。處の人たゞ鏡なりといへども、全く鏡にあらず。その全圖を玆に出し、後學のためにすべし。
[やぶちゃん注:「希器」「キキ」と音読みしておく。稀れにして珍らかなる器。
「天保の末年」「天保」は十五年までで、グレゴリオ暦では一八三〇年から一八四五年(通常は末年を一八四四年とするが、天保十五年は旧暦十二月二日に弘化に改元しており、これはグレゴリオ暦で一八四五年一月九日に相当するので、九日分が一八四五年に含まれる)。
「獨狐村」底本の森山氏の別の補註によれば、『弘前市独狐(とっこ)。弘前の西北郊四キロ。鯵ヶ沢街道に沿うた農村部落』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。エンディングに近いから再度、言い添えておくが、それにしても凄い村名だなあ。独鈷が元かしらん?
「若狹館」秋田城介氏のサイト「秋田の中世を歩く」の「笹森館」に、そこが別称を「若狭館」と称すること住所がまさに、弘前市独狐笹元であることから、ここに同定出来る。それによれば、『築城時期・築城主体ともに不明』ながら、「津軽一統誌」によると、元亀・天正年間(一五七〇年~一五九二年)、『大浦(津軽)為信の津軽統一に与力した砂子瀬勘解由が軍功により若狭館を給されたとされ、以後 勘解由は笹森氏を称し、若狭館は笹森館と呼ばれました。なお勘解由はその後、菊池刑部・山上衛門佐・七戸修理等ともに大間越奉行を務め、「小野茶右衛門の乱」を鎮圧したと伝えられます』とある。
「龜ケ岡」現在の青森県つがる市の津軽平野西南部の丘陵先端部にある、縄文晩期の集落遺跡で、非常に知られた遮光器土偶が出土したことで有名な「亀ヶ岡石器時代遺跡」のこと。ウィキの「亀ヶ岡石器時代遺跡」によれば、この遺跡は津軽藩第二代藩主津軽信枚(のぶひら)が元和八(一六二二)年に、『この地に亀ヶ岡城を築こうとした際に、土偶や土器が出土したことにより発見された。この地は丘の部分から甕が出土したことから「亀ヶ岡」』『と呼ばれるようになったという』。『また、この地区には湿地帯が多く、築城の際に地面に木を敷いて道路としたことから、「木造村」(きづくりむら)と呼ばれるようになった。亀ヶ岡城は造りかけの状態で一国一城令が出たため、やむなく廃城となった』。『江戸時代にはここから発掘されたものは「亀ヶ岡物」と言われ、好事家に喜ばれ』、『遠くオランダまで売られたものもあ』り、実に一万個を『越える完形の土器が勝手に発掘されて持ち去られたという』とある。
「磁器」土器。
「人形」「ひとがた」。彫琢された人の形。
「あるひと、岩木山の上にある本尊」弘前市百沢の岩木山の南東麓にある岩木山(いわきやま)神社奥宮。神仏習合の当時は岩木山の山頂に阿弥陀・薬師・観音の三つの堂があったというから、この「人形」とは、或いは、その観音菩薩を指すか。直後に「脇師」とあり、これは「わきじ」で「脇侍」であるから、取り敢えず観音を候補としたのであるが、しかし、後の方で烏帽子を被っているとするから、或いは神像ででもあったものか。後の平尾の観察部分の注も参照されたい。
「百澤寺」「ひやくたくじ」と読む。廃仏毀釈によって廃寺となった。ウィキの「岩木山神社」によれば、岩木山神社の『創建については諸説があるが、最も古い説では』、宝亀一一(七八〇)年に『岩木山の山頂に社殿を造営したのが起源とされる』。延暦一九(八〇〇)年、『岩木山大神の加護によって東北平定を為し得たとして、坂上田村麻呂が山頂に社殿を再建し、その後、十腰内地区に下居宮(おりいのみや=麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立され、山頂の社は奥宮とされた』。『このときの祭神の詳細は不明だが、別天津神五代、神代七代、地神五代の集団神と推測される三柱の神であるとする説がある』。『また、田村麻呂は、父の刈田麿も合祀したとされる』。寛治五(一〇九一)年、『神宣により、下居宮を十腰内地区から岩木山東南麓の百沢地区に遷座し、百沢寺(ひゃくたくじ)と称したのが現在の岩木山神社となっている』。前に述べた通り、岩木山山頂には、当時、『阿弥陀・薬師・観音の』三つの『堂があり、真言宗百沢寺岩木山三所大権現と称して、付近の地頭や領主らに広く信仰された』という。しかし、天正一七(一五八九)年、『岩木山の噴火により、当時の百沢寺は全焼することとなり、以後、再建が進められることとなった』。『江戸時代には津軽藩の総鎮守とされ、津軽為信・信牧・信義・信政らの寄進により社殿等の造営が進んだ』。『特に、信義、信政のときに、現在の拝殿(当時は百沢寺の本堂とされた)や本殿(当時の下居宮)が再建された』とある。
「丙辰」安政三(一八五六)年。
「乞得て」「こひえて」。拝観を乞うて許され。
「はだいとあらく」「膚(鏡面)、いと粗く」。
「鍋の地はだにひとしかるが」「鍋(なべ)の地膚に等しかるが」。
「徑(わたり)五寸許」「許」は「ばかり」で、直径十五・一五センチメートルほど。
「中に二人の人形の居たるを鑄出して、丈各一寸七分許り膝の厚さは三四分もあるべく、烏帽子をかむり扇の如きを持てる形なり」平尾の観察である。
――その鏡の面の中に、二人の人形(ひとがた)の像がもともと鋳出(いだ)されてあって、その人物の背丈は孰れも五センチ強ほどの座像であって、その膝の厚さは九ミリから一センチ二ミリほどもあるように見え、二人とも、烏帽子を被っており、扇のようなものを持っているような姿に見えた。――
ともかくも、これは所謂、魔鏡(鏡面に神像を彫り込んで、それがある角度から見ると髣髴とするように見えたり、或いは光りを反射させて壁などに映し出すと、そこに人形が浮かび出るもの)の仕掛けであったのではないかと考えられる。「扇のようなもの」とは束帯の時に持つ笏(しゃく)かも知れぬ。さすれば神像である可能性が高いか。
「五分」一センチ五ミリ。
「斜」「ななめ」。に見るときは、綠色の光ありていと古きものと見らる。
「その全圖を玆に出し、後學のためにすべし」前にも述べたが、「谷の響」の自筆本は伝わらず、既に焼失したものと考えられている(底本の森山氏の冒頭の解題に拠る)。平尾は絵師であったのだから、さぞ、美事なものであったろうに! 残念至極也!!]
十七 地を掘て物を得
文化の末年のころ、越水村の百姓ども、それが領なる天津澤の内へ野堰を掘りたることありしが、三尺ばかりの下に深さ三尺餘り長さ二十間ばかりの間、不殘(みな)蜆貝にてありしとなり。又この越水村の山中より人の骨の燒きたるもの、及錢屑(かなくそ)・炭・ふいごなど出たり。又菰筒村の山中にもこの蜆貝・炭等出る所、所々にありて越水村の彌助といへる老父の話也。
相馬村の澤目、大助村と關ケ平村の間の田の中に低き處ありて、そこに鴫の澤と言へる岩あり。この岩の中に田の水を落し、その下は流になれり。この岩に帆立貝の小さきもの幾つもついてあり。又この所の内に龍毛岱といへるあり。古年(ふるとし)この處崩れて、天秤(はかり)・圭鑽(けさん)などその外色々の器物出たりとなり。又、相馬藤澤村の後の山に女(め)ノ子館(こだて)といへるあり。此廓の中より燒米の半(なかば)石になりたるもの多く出るとなり。又、この燒米の石に化(な)れるものは飯詰村なる茶右衞門館、森山【西濱邑】なる茶右衞門館【同名也】、この二ケ處よりも出る也。
天保九戊の年の四月のよし、小泊村の龜老母(うば)といへるもの、その領砂山の中より古錢十二貫文ばかり掘り出せり。箱といふもなくて久しく埋れるものから、たゞ一塊(ひとかたまり)となりてこれをくだくに百にして七十をそこねしと。さるに其錢は大小ありて大きなるは一寸より一寸三分あまり、小なるは六七分、中なるは常の大きさにしてたいてい浩武なりしと。好事の者通用錢と取りかえて、今は老母の處に一錢もなかりしとなり。その大小の二ツのものは極めて珍らしき物なるべきに、奈何なりしか。又、文政の年間(ころ)一ツ森村の六兵衞と言へる者、大然村の畑をしひて古錢二貫文ばかり掘り得たりしが、大體永樂錢なりとぞ。又、天保の頃飯詰村の源八と言へるもの、あぜを崩して古錢一貫文ばかり掘り得しとなり。又、同町なる角田傳之助と言へる人、自分の屋敷なる稻荷堂の後を掘りたるに、二斗計なるべき甕の三つありけるが、皆口きわまて錢の有りければいく百年へぬるにや、ひとかたまりとなりてくだくまにまに全きもの一錢もあらざれば、元のごとく埋めて置しとなり。こは文政三年にてありし。
文政の年間(ころ)、八幡崎村の八幡宮の境内を掘りて甕を多く得たりと。この甕の出る處多くあり、二(つぎ)々にあぐへし。その中一ツの甕に五色の絹糸みてりとなり。又、この廓を掘りて帆柱出たるを、掘り上ぐることをとゞめてその柱の先きに堂を建て、粟嶋大明神を祝へりと。又、嘉永のはじめ小栗山村の者、畑をおこして古き鍬七枚得しと。又、この畑より人のどくろに似たる石多く出でたりと。又、同四年のころ田舍館邑の者、堰を掘りて一ツの箱を得たるが、その内に紫なる馬の三繫(さんかい)ありしが、取あぐるやいなや粉になりて形を損ひしと。又、安政五年の三月堅田村の者、常源寺の寺跡を畑におこせしに、鏡一面得たりし。徑(わたり)八寸ばかり裏は松竹梅に鶴龜の模樣にて、撮(つまみ)に附けし絹糸の揚卷の緒の、未だ朽もやらでありけるが、そが菩提の爲めとて常顏寺に納めしとなり。又、この鏡の出たる穴より短刀一口、長さ一尺許りのものなるがいたく朽ちて鐡の心のみ殘り、鍔はこぶしの如くなりて錢屑(かなくそ)にひとしかりしとなり。又、この處よりいと大きなる人の骨出たり。そは前に擧げしなり。
[やぶちゃん注:「文化の末年」文化は十五年であるが、同年四月二十二日(グレゴリオ暦一八一八年五月二十六日)に文政に改元している。
「越水村」底本の森山氏の補註に、『西津軽郡木造町越水(こしみず)。津軽半島の基部で、木造新田(きずくりしんでん)の西端に当り、屏風山を隔てて日本海になる』とある。現在はつがる市木造越水。ここ(グーグル・マップ・データ)。鰺ヶ沢の北東直近。
「天津澤」不詳。識者の御教授を乞う。
「野堰」「のぜき」。簡易水路。
「三尺」約九十一センチメートル。
「二十間」三十六メートル三十六センチ。
「蜆貝」「しじみがい」。この部分に限るなら、縄文・弥生の貝塚であった可能性が一つ、疑われはする。
「及」「および」。
「錢屑(かなくそ)」。鉄精錬の際に飛び落ちるかす。スラグ。
「ふいご」「鞴」。これらは金属精錬を生業とした古代の民の遺物ととれる。
「菰筒村」底本の森山氏の補註に、『木造町菰槌(こもつち)。越水の北方』とある。現在はつがる市木造菰槌(きづくりこもつち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「相馬村の澤目、大助村と關ケ平村の間」現在の弘前市大助はここ、その南の相馬川上流の弘前市藍内関ケ平はここ(孰れもグーグル・マップ・データ)であるから、このロケーションは、その中間点附近(「澤目」「鴫の澤と言へる岩」とあるから、相馬川沿いの沢の分岐附近か。「関ケ平」の西方に「鴫ケ沢山」という山がある)に当たるものと思われる。
「この岩に帆立貝の小さきもの幾つもついてあり」これは先史時代の化石である。
「龍毛岱」「りうげたい」と読むか。「岱」はピークの意。位置不詳。
「圭鑽(けさん)」「卦算・圭算」で「けいさん」とも読み、文鎮のこと。易の算木(さんぎ))の形に似ることによる呼称。
「相馬藤澤村」現在の弘前市藤沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の「大助」の東北直近。
「女(め)ノ子館(こだて)」不詳。嘗てそうした名の館跡があった(とする伝承からの)地名であろう。
「此廓」「このくるは」。同地区内。館跡とされる遺跡内部。
「燒米」弥生頃の調理或いは祭祀加工物の、塊りの米の炭化して堅く石のようになったものか。
「飯詰村」底本の森山氏の別の補註に、『五所川原市飯詰(いいずめ)。戦国時代この地の高楯城に土豪朝日氏が拠っていたが、天正十六年津軽為信に亡ぼされた。藩政時代この地方開発の中心地であった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「茶右衞門館」前と同じく遺跡地名。次注参照。
「森山【西濱邑】なる茶右衞門館」底本の森山氏の補註に、『西津軽郡岩崎村森山は日本海に臨むところで、慶長頃、土豪(また海賊ともいう)小野茶右衛門がここに拠ったと伝える。その館跡から焼米が出る、いわゆる白米城伝説がある』とある。現在は西津軽郡深浦町森山。ここ(グーグル・マップ・データ)。「白米城(はくまいじょう)伝説」とは、古く、水攻めにされて窮した山城で、水が豊かにあるように敵方に見せかけるため、白米で馬を洗ったり、崖上から滝のようにそれを流して敵を欺いたという伝説を指す。一般には、その事実が密告されたり、或いはそうした米に烏や犬が群がって露顕して落城するという結末を持つ。「青森県歴史観光案内所」公式サイト内の「深浦町」の「森山城(茶右衛門館)」に詳しい。
「天保九戊の年」天保九年は一八三八年。
「小泊村」底本の別の補註に、『北津軽郡小泊(こどまり)村。津軽半島の西側に突出た権現崎の北面が小泊港である。古く開けた良港である。大間は大澗で入江のこと』とある。現在は青森県北津軽郡中泊町(なかどまりまち)小泊である。この「小泊港」周辺である(グーグル・マップ・データ)。
「龜老母(うば)」「かめうば」と称する以上は土地の古くから土着していた一族で、老女しか生き残らなかったものであろうか。
「その領砂山」その自身の有する耕作地である砂山の謂いであろう。
「一寸より一寸三分」三~四センチメートル。
「六七分」一センチ八ミリ~二センチほど。
「浩武」「洪武」(こうぶ)の誤り。底本の森山氏の補註でも、『浩武銭、つまり浩武通宝のこと。中国明の大祖が浩武年間に発行した銅銭で、わが国でも民間に通用した』とあるが、「洪武」は明代の元号で一三六八年か一三九八年。
「文政」一八一八年~一八三〇年。
「一ツ森村」底本の森山氏の補註に、『西津軽郡鰺ケ沢町一ツ森。赤石川上流の山村』とある。現在は鰺ヶ沢町(まち)一ツ森町(まち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「大然村」底本の森山氏の補註に、『一ツ森部落の近くの大然(おおじかり)』とある。現在の一ツ森町の南に「白神大然河川公園」というのがある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「しひて」不詳。「敷(し)く・布(し)く」で「耕す」の意か。
「永樂錢」底本の森山氏の補註に、『明の成祖が永楽九』(一四一一)『年に鋳造した青銅銭。室町時代からわが国でも流通し、足利義持は国内通用の永楽銭を鋳造した』とある。
「天保」一八三〇年から一八四四年。
「屋敷なる」屋敷内にある。
「二斗計」「にとばかり」。三十六リットルほど入る。
「甕」「かめ」。
「口きわまて」「まて」はママ。「口際まで」。
「文政三年」一八二〇年。
「八幡崎村」底本補註を見ると、『南津軽郡尾上町八幡崎(やわたざき)』とあるのであるが、とすると、現在の尾上町は、この附近(グーグル・マップ・データ)となる。しかし、この「八幡崎」なる地名も「八幡宮」も見当たらぬ。そこで調べてみると、現在の尾上町の西方の平川市八幡崎宮本に八幡宮を見出せた。ここ(サイト「日本神社」の同八幡宮のページ)ではあるまいか?
「二(つぎ)々にあぐへし」以下、挙げて見よう。
「みてり」「滿てり」。
「粟嶋大明神」恐らくは現在の弘前市城東北にある「淡島神社」であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「嘉永のはじめ」嘉永は一八四八年から一八五四年。
「小栗山村」底本補註に、『弘前市小栗山(おぐりやま)。岩木山神社・猿賀神社と共に、古来』、『津軽の農民の信仰厚い小栗神社がある』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「鍬」「くは(くわ)」。
「どくろ」「髑髏」。
「同四年」嘉永四年は一八五一年。
「田舍館邑」「いなかだてむら」と読み、弘前の北東に完全に同名の村として現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「馬の三繫(さんかい)」底本補註に、『馬具。面繫(おもがい)(くつわをつなぐために馬の頭から両耳を出してかける組糸又は革の装具)、胸繫(むながい)(胸から鞍橋にかけわたす緒)、尻繋(しりがい)(尻にかけて車の轅』(ながえ)『や鞍橋を固定させる緒)の三つを総称していう』とある。
「安政五年」一八五八年。
「堅田村」底本の森山氏の別の補註によれば、『現在の弘前市和徳堅田(かただ)』とある。現在は和徳町と堅田にわかれているようだが、この附近(グーグル・マップ・データ)。
「常源寺の寺跡」曹洞宗白花山常源寺。この寺は移転(慶長一六(一六一一)年。これはYuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の同寺の記事に拠った)にしたので「寺跡」なのであるが、現在も弘前市西茂森に現存する。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「徑(わたり)八寸」直径約二十四センチメートル。
「揚卷」揚巻結びの緒。左右に輪を出し、中を石畳のようにした飾り結び。鎧・御簾(みす)などに用いる。
「朽もやらで」「くちもやらで」。腐り落ちることもなく。
「そ」出土した鏡を指す。古来、鏡は神聖な物とされた。
「鍔」「つば」。
「こぶし」「拳」。
「この處よりいと大きなる人の骨出たり。そは前に擧げしなり」「谷の響 三の卷 一 大骨」を参照。]
十六 旋風
嘉永二年の七月のよし、上野につむじ風おこりて茂森波立の椛屋某が蕎麥をうゑたる畑二枚、そのあたり百坪あまりちりものこらず卷上げて、その跡深さ一丈ばかり掘れて一尺ばかりよりこぶしばかりまでの石數多吹飛ばし、東へなぐれて昇りしがその塵埃は黑雲の如く見得しとなり。この上野のうちにも石森といふあたりは、おりおり有ことにてかく種物を損ふことまゝある事とぞ。己れあげまきの折、母と倶に笹淸水の明神に參詣しける時、いと強き旋風に遭ひしことあり。こを書たるものも龍卷の下留(したどめ)と倶に見得ざれば、こも又暫く略しつ。
又、嘉永六年の七月にて有けん、紺屋町の鍛冶金次郎といへるものゝ細工場の隅より、晝少し下(すぎ)に旋風起りて少しく塵芥を卷上げけるが、やがて止みては又起り三度目になりて遂に卷おふせて、其まゝ街道へぬけ出で、凄じく埃を卷いて向ひの家なる靑海源兵衞の門に入りて、臺所なる道具を吹き散らし直に裏へつきぬけて、堀越屋軍兵衞といへる染屋の背戸に張りたる白木綿を五六反卷き上げ、その内二反は埃と俱に高く登り遙かの空にひらめき𢌞りていよいよ遠く行けるが、染屋の主人僕共をはしらせてその跡を追はせたるが、八幡宮の側なる反畝(たんぼ)の上に至り次第次第に落下りしを、早くもとるものありて酒に代へて貰ひしとなり。
又、弘化二年の六月の事なるが、己が向ひなる熊谷又五郎といへる人の圍爐の角(すみ)より少しく旋風の起ること每日のよしなるが、四五度の後每(いつも)より少しく大きく起りけるに、其まゝ庭へ吹𢌞りて塵埃を捲きあげ、庇の檐(のき)に釣したる鳥籠を吹落し、直に大道へひろごり出で高くもあがらで通りのまゝに卷きめぐりしが、三十間ばかりにして止みたりき。
又、天保二三年の頃、己が先師五鳳先生の話に、頃日祕めおける紛本のいたくまつれるから取りそろへてありけるが、箱の中より旋風起りてあたりにおける紛本どもを吹きまはし、座敷を騷がし庭にぬけ出て凄まじく草木をゆり鳴らせるが、遠くも至らで背裏(せと)の中にしてつひに止みたりき。いとあやしき事もありけるなりと語られき。かゝれば旋風は野原にのみ限るにあらず、これ氣の然らしむるものなるべけれど、鍛冶場の隅、圍爐の隅あるは箱の内より登れるもいとあやしかりし事どもなり。
[やぶちゃん注:「旋風」「つむじかぜ」。
「嘉永二年の七月」同年旧暦七月一日は閏四月があったため、グレゴリオ暦では一八四九年八月十八日に相当する。
「上野」底本の森山氏の補註に、『弘前市常盤坂付近の上野(うわの)』とある。常盤坂地区はここ(グーグル・マップ・データ)。
「茂森波立」「波立」は不詳だが、弘前市茂森町は、ここ(グーグル・マップ・データ)。
「椛屋」「かうじや」。
「一丈」約三メートル。
「一尺」約三〇センチメートル。
「こぶし」「拳」。
「數多」「あまた」。
「なぐれて」横にそれて。
「石森」底本の森山氏の補註に、『名の通り石山で、慶長十六年弘前築城の際、石垣など石材を多く運んだ』とある。
「種物」「うえもの」か。栽培物。
「己れあげまきの折」「われ総角の折り」。以前にも注した通り、私(平尾)が少年の頃。「笹淸水の明神」青森県弘前市自由ケ丘にある笹清水九頭龍神社のことであろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の常盤坂の南直近である。
「下留(したどめ)」前条で既注。下書き・メモランダ。
「嘉永六年の七月」一八五三年。同旧暦七月一日は新暦で八月五日。
「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「卷おふせて」「まきおほせて」が正しい。「卷果(おほ)す」で、完全に旋風を巻いて小龍巻となって、の意。
「靑海源兵衞」「せいかいげんべゑ」。底本の森山氏の補註に、『津軽藩御抱え蒔絵師の家で、初代源兵衛(天和ころ)以来代々襲名。二代源兵衛が津軽塗の技法を始めたという』とあり、多くの津軽塗サイトには彼の名が出る。
「直に」「ぢきに」すぐに。
「背戸」後で「せと」とルビする。屋敷店の裏手。
「僕共」「しもべども」。
「八幡宮」現在の青森県弘前市八幡町にある弘前八幡宮であろう。紺屋町より、東北方向に一キロメートルほどはあるが、旋風が運ぶのだから、それくらいはなくては!
「早くもとるものありて酒に代へて貰ひし」ここがリアルで面白い!
「弘化二年の六月」一八四五年。同旧暦六月一日は新暦で七月五日。
「圍爐」「いろり」。
「每(いつも)」一字へのルビ。
「通りのまゝに」町の通り筋に沿って。
「三十間」五十四メートル五十四センチ。
「天保二三年」一八三一、一八三二年。
「五鳳先生」底本の森山氏の補註に、『工藤五鳳、名は俊司、化政期津軽の画人。魯僊は文政二年十二歳頃、就いて画技を学んだ』とある。「光信公の館」公式サイト内の「収蔵品ギャラリー」のこちらで師弟両人の絵(工藤五鳳筆「秋草図」と平尾魯仙筆「岩木山参詣図」)が見られる!
「頃日」音は「ケイジツ」。近頃の意で、そう訓じている可能性も高い。
「紛本」昔、胡粉(ごふん)を用いて下絵を描き、後に墨を施したところから、東洋画の下書きのことを指す。別に、後日の研究や制作の参考とするために模写した絵画も指す。ここは保管が雑であるところからは後者であろう。
「いたくまつれるから」(気が付いたら)ひどくごちゃごちゃと乱雑になって溜まっておったによって。
「取りそろへてありけるが」それを綺麗に整頓して、取り揃えていたところ。現在進行形で読んだ方が腑に落ちる。
「背裏(せと)」裏庭。]
十五 龍まき
文化十四年の事にてありけん、御嶽堂の堤普請ありし時、七月の頃にや俄に大雨もの凄じく降り來りて、黑雲渦を卷き中天(なかぞら)におほひたりしが、普請の人夫共數百人すは龍卷ぞとて、ときの聲をあぐること三四度なりしが、その卷ける雲橫にそれて品川町の上に覆ひかゝりけるに、人家二軒廂抔(など)多く卷きあげ卯辰をさして、龍の下りしものと世うはさの風説なりき。この時己も幼少の時にて、その卷きたる雲を遙かに見たりしなり。これより先き天明中に鳥海山より龍卷の出たることあり。そのしたとめの見得ざるは、暫く玆にもらしぬ。
[やぶちゃん注:「文化十四年」一八一七年。
「御嶽堂」不詳。識者の御教授を乞う。以下で「堤普請」(人工水路の藩による事業と思われる)とあることから、堂宇の名ではなく、地名か? 後に出る「品川町」は現在の弘前市品川町であるから(ここ(グーグル・マップ・データ))、この地区の外縁にあったと考えてよい。
「七月」グレゴリオ暦では同年旧暦七月一日は八月十三日である。
「廂」「ひさし」。
「卯辰をさして」底本では「さして」にママ注記する。しかし「卯辰」は東北東であり、そちらに向かって竜巻が動いたと解釈すれば、不審はない。或いは編者の森山氏は、前の「廂」から、これを方位としての「卯辰」ではなく、「梲・卯建」(うだつ・うだち:民家の両褄に屋根より一段高く設けた小屋根附きの土壁及びこれにさらに附属させた袖壁の称。家格の豊かなるを示し、装飾だけでなく防火をも兼ねた)と採り、それを「さす」というのはおかしいから、「壊して」の意味の誤記かと考えられたのではなかろうか?
「この時己も幼少の時にて」平尾魯僊は文化五(一八〇八)年生まれであるから、満九歳。少年の日のトラウマとしての実見記憶である。
「天明」一七八一年から一七八九年。
「鳥海山」現在の山形県と秋田県に跨がる、標高二千二百三十六メートルの山。出羽富士。
「そのしたとめの見得ざるは、暫く故にもらしぬ」「下留(したと)め」(下書きしたもの・メモ)で、それが手元にあるはずなのだが、見当たらないので、しばらくはここに記すことが出来ぬ、の謂い。次条に「下留(したどめ)」と出る。
藤堂家士の子切取たる化者の足の事
○藤堂家の藏屋敷大坂鈴鹿町にあり。その預り桑名又右衞門といへる人の子供、十七八歲のころ切取(きりとり)たる化(ばけ)ものの足とて、同所天滿別當(べつたう)方(かた)に納め置(おき)たり。うしろ足と見えてふしの所より切(きり)たるもの、犬の爪の如し、月山の刀にて切(きり)たりとて、その刀もそへて納置(おさめおき)たり。
[やぶちゃん注:「藤堂家」伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)の津(つ)藩当主。
「藏屋敷」幕府・大名・旗本が年貢米や特産物などを保管・取引した場所。江戸・大坂・堺・敦賀・大津・長崎・酒田などに置かれたが、特に大坂に集中し、本作刊行の後ではあるが(「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の見聞記)、天保年間(一八三〇年~一八四四年)には百二十五棟も存在た。
「大坂鈴鹿町」不詳ながら、後に出る「同所天滿別當方」が大阪府大阪市北区天神橋に大阪天満宮(グーグル・マップ・データ)の別当寺を指すと思われるから、その近くであったとは思われる。
「桑名又右衞門」不詳。
「ふし」関節。
「月山の刀」「月山」は「がつさん(がっさん)」で、ウィキの「月山(刀工)」によれば、『月山は日本刀の刀工の一派。 鎌倉期から室町にかけて活躍した刀工とその一派。出羽国月山を拠点とした。その中で幕末に大坂に移住した系統が、現代まで残っており』、奈良県を拠点として活動している』とある。『伝承によれば、出羽国月山の霊場に住んだ鬼王丸(鬼神太夫とも呼ばれる)を元祖とする。以来月山のふもとでは刀鍛冶が栄え、軍勝、寛安、近則、久利などの名人を輩出した。鎌倉期から室町期にかけて、月山の銘を刻んだ刀剣は実用性の高さと綾杉肌の美しさの両面から全国に広まり、この刀工集団を「月山鍛冶」、その作品を「月山物」と呼んだ』。『室町期には相州伝との技術的な交流があり、双方合作の太刀が伝わる』。『出羽国山形の領主最上義光は織田信長への献上品として白鷹、馬などとともに刀工月山が打った槍』十本を『送ったという』が、『戦国時代が終わり、江戸期に入るとそれはいったん途絶えた。そのため』、『江戸初期以前の作品を便宜上「古月山」と呼ぶことがある。幕末、一門の弥八郎貞吉は大坂に移住。以来、月山家は、関西を拠点として作刀活動を行』ったとある。]
同駒ケ嶽瀑布幷音羽兒が淵の事
○京都東山の奧に入(いり)て駒ケ嶽といふ所あり。瀑布あり、瀧壺の石の色赤銅(しやうどう)をのべたる如く、甚(はなはだ)奇石也。佳景の地ゆへ好事(こうず)のもの時々遊山(ゆさん)するに、往々飄風(へうふう)あり、辨當(べんたう)のわりごなど吹(ふき)ちらさるゝ事也。魔所なるよしいへり。又同所の音羽(おとは)のうしろに兒(ちご)が淵といふあり、大佛と淸水寺との際(きは)を三十町ばかり入(いり)て東へ行けば、しし谷(がたに)越(ごし)に出づ、夫(それ)より九十町ばかり奧に有(あり)、魚甚(はなはだ)おほけれども、是をとれば大蛇祟(たたり)をなすとて行(ゆく)人なし。
[やぶちゃん注:「同駒ケ嶽瀑布」「同」は前条の前半の「京白河」を受ける。以下の地理記載から見て、これは現在の山科川を遡ったところにある「音羽の滝」か(ここ(グーグル・マップ・データ)、その東方の小さな沢筋にある「仙人の滝」を指すのではないかと思われる(ここ(グーグル・マップ・データ))。
「音羽兒が淵」淵と称するからには、前注の「音羽の滝」附近であろう。
「駒ケ嶽」不詳。現行のピーク名はこの名はない。前で比定した「音羽の滝」「仙人の滝」附近では、北に「音羽山」、両滝を東に登った滋賀県との境に「牛尾山」、「音羽の滝」の西方に「行者ケ森」というピークがあるから、この孰れかであろう。滝との連関から「牛尾山」か。
「飄風」疾風(はやて)。突風。
「わりご」「破子」「破籠」。食物を入れて持ち運ぶ容器。
「大佛」方広寺。
「三十町」約三キロ二七三メートル。
「しし谷(がたに)越(ごし)」志賀越道(しがごえみち)。京七口の一つである荒神口から近江へ至る街道。
「九十町」約九キロ八百十八メートル。]
十四 蚺蛇皮
文政三四年のころ、弘前一番町に古物店ありて、そこに蛇の斑文(かた)あるものゝいと大きなるが一枚ありき。何物にかあるらんとそが主人に尋ぬれば、蚺蛇の皮なりと言へるから、いと見まほしくて乞ひ得てつらつらうち見るに、長二尺三四寸幅一尺七八寸計りにして、厚さは鞣皮(なめしかは)の如く色は黃に黑みおびたるが光澤(つや)ありてすきとほれり。背の中筋(すじ)より腹の中心(まなか)にかけてすぐにきり割りたるものにて、背の方は黑くまだらなる文(かた)あり。これを内にたむればうろこあきらかに見えて、方みな一寸四五分もあるべきか。端(はし)はみな腹の割をならべたるが如し。又、斑文一つはうろこ三四片をおふへり。又はりのいるところ凹(くぼか)なるから、ひろめて置く時は縱橫に撫づるとも手に觸らず。又腹のきさめの一片は一寸七八分もあるべし。厚さは背と等しかるがその伸縮(のびちゞみ)するところ、六七分は色薄くことにすきとほりて厚は背の半なり。又筋はいとこわきものにして、これをたゝくにとんとんと鳴つて太鼓に等しき音なりき。己れこを見て初めて蚺蛇の大きなるを知れり。さるからに主人にそが出所を尋ぬるに、主人己が揚卷なるをあなどり有らぬ妄言(そらごと)を言へるによりて、今にその本は知らずなりぬ。いかなる人の手に得しものかいと稀なるものなり。
[やぶちゃん注:「蚺蛇皮」「うはばみのかは」と訓じておく。音では「ゼンタピ」か。前話に次いで大蛇譚であるが、平尾魯僊自身の若き日(平尾は文化五(一八〇八)年生まれ)の実体験談である。最後に出所を聴いたところが、平尾が未だ少年であるのをよいことに、侮(あなど)って、少年である私でさえ噴飯物の大嘘をこいたによって、今に至るまで、その出所は不明である、と言っている。しかし私は、以下の、特徴的な黒い大きな斑紋を持つ異様に大きな蛇皮とある以上、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科 Pythonidae 或いはヘビ亜目ボア科 Boidae の仲間のそれ、則ち、当時の南蛮或いは中国から秘かに渡来した蛇皮ではなかったかと推理している。そう考えると、骨董商の「主人」は、平尾の「揚卷なるを」(後注参照)「あなどり有らぬ妄言(そらごと)を言」ったのでは、実はなく、鎖国である当時、入手が非合法であったからこそ作り話をせねばならなかったのではなかったかとも思えてくるのである。遙か南の熱帯雨林に錦蛇の皮が寒さ厳しき弘前の御城下の直近の店先に並んでいた、その映像を想起するだけでも、私は何だかわくわくしてくるのである。
「文政三四年」一八二〇、一八二一年。
「弘前一番町」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「斑文(かた)あるもの」斑紋が明瞭に出ているもの。
「一枚」前例に徴すると「枚」は「ひら」と訓ずる。
「つらつら」つくづく。よくよく。念を入れて。
「長二尺三四寸幅一尺七八寸計り」全長は七〇~七三センチメートル弱、幅は五二~五五センチメートル弱ほど。
「鞣皮(なめしかは)」獣の皮から皮下組織などを除去し、タンニンなどで処理し、皮を構成するタンパク質の変質腐敗を押さえ、耐水性・耐熱性・耐磨耗性を高めるよう、人為的に加工した皮革原材を指す。
「文(かた)」斑紋。
「これを内にたむれば」これを内側に曲げて観察してみると。
「方みな一寸四五分」四・三~四・五センチメートル四方。
「端(はし)はみな腹の割をならべたるが如し」ここ、よく意味が解らぬ。腹部で割(さ)いたのを、人為的に加工職人が綺麗に切り揃えたかのような感じである、という意味か? 識者の御教授を乞う。
「斑文一つはうろこ三四片をおふへり」「おふへり」は「蔽(おほ)へり」の誤りであろう。ということは、有意に大きな黒い斑紋の大きさは十三・二~十七・六センチメートルほどの大きさがあることになる。
「はり」キール。背の筋。
「いる」「入る」筋の入っている部分。
「凹(くぼか)なるから」なだらかにへこんでいるために。
「ひろめて置く時は縱橫に撫づるとも手に觸らず」それを平らに広げて置いた場合には、縦方向でも横方向でも、手で注意深く撫でてみても、その背の筋は手に触れるような感じ(違和感のある感じ)は全く認められない。
「腹のきさめ」腹部の左右に広い鱗。所謂、「蛇腹」部分の鱗。
「一寸七八分」五・二~五・四五センチメートル。蛇腹部分の鱗の横幅であろう。
「厚さ」蛇腹の厚さ。
「六七分」一・八~二・一センチメートル。
「厚は背の半なり」蛇腹のその部分の厚さは均一な背の鱗の「半」(なかば)、半分であった。
「筋」体内側(則ち、加工されたものの裏のキール部分)の筋。
「いとこわきものにして」大変、堅いもので。
「己れ」「われ」。
「さるからに」そこで。
「揚卷」「あげまき」。「総角(あげまき)」で、本来は古代の少年の髪形。古代のそれは頭髪を中央から二分し、耳の上で輪の形に束(たば)ねて二本の角のように結ったもので、「角髪(つのがみ)」とも言った。但し、ここは「少年」の代名詞として使ったに過ぎない。前に注した通り、当時の平尾は満で十二、三歳であった。
「本」「もと」。出所。]
十三 蚺蛇
相澤村の長三郎と言へるもの、薪を採らんとて山路一里餘り登りしが、行く先の路にあたりて徑(わたり)三尺もあるべき松の古木橫はれり。これを踏み越えんとすれど足とゞかねば、如何かはせんとしたりけるに、其松樹おのづから動くやうに見得しかば、いとあやしみ目をとゝめて見やりたるに、松樹にはあらで蚺蛇にてぞありける。松皮の如く見ゆるは皆鱗にて、一つ一つにおこれるがゆふゆふと動き出して紆(うね)り行く勢なるが、ひつかへされてはたまらずと其まゝ逃て反りしとなり。こは文政六七年のことなりと千葉某の話なりき。
中村澤目橫澤村に嘉兵衞と言へるものあり。專ら直(なほ)く又強かる性質(さが)にして、假りにも僞のことあらず。ある日木樵(きこり)に出て岩木山の澤のうち芦の左の澤といへる處に休らひて、晝飯を喰ひ水を飮んと笹むらを押分け谷に下りて水を汲みたるに、風の林を吹きわたるが如き音あるから何事ならんと見あぐれば、頭の上僅(わづか)四五尺離れて徑(わたり)三尺もあるべき蚺蛇の、兩山の谷合四五尺ばかりの間に蟠(わだか)まりて、恰も橋を架けたる如くなるに、見る見る其尾を谷中にひきおろし、するすると紆(うね)りて側なる山の高藪に入りぬ。この嘉兵衞なみなみの者なりせば其まゝ倒れもすべかりしを、生來強勇なるものから恐しとも知らで、かへりてこれが行先を見屆けんとそがゆける跡を傳へ行しに、蚺蛇の通りしあとは笹むら左右へ亂れ靡きて一條(すじ)の徑路(みち)をひらけり。かくて嘉兵衞は已に五六町も來つらんとおぼしきころ、俄に山鳴り谷へひゞきて、雲霧しきりに湧發(わきおこ)り山一杯にひろこりて、四面皆暗く咫尺間も分ち難きに、流石の嘉兵衞も進むことなし得で、道を索(もと)めて反りしとなり。こは、以前安永の末の年なるよし。芦萢村の孫左衞門と言へる老父の話なりき。
[やぶちゃん注:「蚺蛇」は既出。「うはばみ」(蟒蛇)と読む。大蛇。
「相澤村」現在の青森市浪岡大字相沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「徑(わたり)三尺」直径九〇・九センチメートル。
「橫はれり」「よこたはれり」。
「如何かはせん」「いかにかはせん」。
「見得しかば」「みえしかば」。
「目をとゝめて」凝っと目をとめて。
「おこれるが」「起これるが」。立ち起きているのが。
「ゆふゆふと」ゆらゆらと。オノマトペイア(擬態語)。
「紆(うね)り行く」上下・左右に大きく波打つように蠕動しつつ動いてゆく。
「勢」「いきほひ」。
「ひつかへされては」その蟒蛇が長三郎に気がついて引っ返してこられたりしては。
「逃て反りし」「にげてかへりし」。
「文政六七年」一八二三年か一八二四年。
「中村澤目橫澤村」現在の西津軽郡鰺ヶ沢町浜横沢町(はまよこさわまち)と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「專ら直(なほ)く」すこぶる実直で。
「假りにも僞のことあらず」「かりにも」、「いつはりのこと」には「あらず」。
「木樵(きこり)」ここは木材伐採の作業の意。
「岩木山の」「芦の左の澤」不詳。識者の御教授を乞う。
「飮んと」「のまんと」。
「四五尺」一メートル二十一センチから一メートル五十二センチ弱。
「兩山」その沢の両方の尾根の謂いであろう。
「側」「そば」。
「傳へ行しに」後をつけて行ったところ。
「條(すじ)」ルビはママ。正しくは「すぢ」。
「五六町」五四六~六五五メートルほど。
「ひろこりて」ママ。「廣ごりて」。広がって。
「咫尺」「しせき」。「咫」は中国の周の制度で八寸(周代のそれの換算で十八センチメートル)、「尺」は十寸(同前で二十二・五センチメートル)を言い、距離が非常に近いことを指す。
「安永の末の年」安永十年で西暦一七八一年。但し、この旧暦四月二日(グレゴリオ暦一七八一年四月二十五日)に天明に改元している。
「芦萢村」「あしやちむら」は既出。現在の鯵ヶ沢町芦萢町(あしやちまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
十二 石淵の怪 大蟹
紺屋町の端なる茶屋町と言ふに、茂助といへる者あり。從來(もとより)水練をよくして、水底にある事剋(こく)を亘れるとなり。往ぬる天保六乙未の年の四月なるよし、あらたに羅(あみ)を制(つく)りて下ろし初めに鱒を捕るべしとて、同志(どうやく)の者五六輩を促がし、地形村の傍なる石淵と言ふ處に至りて網を曳たりしに、何物にか障りけん四五尺ばかり破裂(やぶれ)て魚みな洩るゝのみならず再び用ふる事なり難きに、茂助甚(いた)く不審(いぶか)り何物の所爲(しわざ)なるにか見屆け來るべしと、其まゝ淵の中に沒りけるが、稍剋(とき)を遷せども出來らざるに、安之・仁三郞といふ二個(ふたり)のもの同じく水底に潛り尋るに、茂助は鱒一杯(ひら)を捕へながら宙にかゝれるもの人如く、足地に附かず首水に浮まずして水中に立てり。二個の者これを見て卽便(そのまゝ)抱きかゝえて援け揚けるに、少時(しばし)は物も言ひ得ざるが稍心落つきて語りけるは、淵の中隈なく尋ね搜せども妨害(さまたげ)すべきと思ふもの一個(ひとつ)もなく、只百あまりの鱒の縱橫に泳げるからに、二枚(ひら)捕へて浮まんとする時何やらん水の中に物有りて、脚を絆ひて柾(ひく)よと覺えけるが忽ち全身動くことなり難く已に命も危うかりしに、幸ひにして兩個(ふたり)が惠援(なさけ)に由て全く活(いき)ることを得たりきとあるに、伴侶(つれ)の者ども奇異の思ひをなしたるが、かくては鱒も捕られずとて、やがてその地(ところ)を戾りしとなり。こは此茂助・仁三郞二個の話なりけり。
然(さ)るに、其後己れ相馬に往しころ、石淵のことを問(たづ)ぬるに、その者の曰、紙漉澤村の者と路連(みちづれ)になりてこのこの石淵なる統司(ぬし)てふものは、大きなる蟹なりと言へることは往古(むかし)よりの言ひ傳へにて、當下(いま)も快晴閑亮(てんきよくしづか)なる日は窂々(たまたま)見る事あるものにて、いと怪しきものなりとぞ。茂助ごときの難に遇へるはこの主の咎にして、往古より多かることなるが中には死に至るものもまゝありき。されどこの淵の水殊に淸冷(きよらか)にして、鱒及び雜魚も多く群聚(あつま)れるところなれば、前(さき)の災を顧るものなく年々网(あみ)を下し釣をたれあるは水底を搜るものも多かり。實に危むべき事なり。又、この災に遇ずとも淵中を潛りて手足を太(いた)く傷くことありき。さるに此奴剃刀をもて截るが如く、深さ一寸ほどに至るものもあれど、疵口啓壞(ひらか)ずして疼痛(いたむ)こと少なく、血も亦多く出ず。俗(よ)に言鎌鼬(かまいたち)に遇ひしものゝ如し。土(ところ)の人こを主(ぬし)の劍(やいば)に觸れしものなりと言へりと語りしなり。
因にいふ、往ぬる文化の初年のよし、鳥井野村なる鮎簗に、いと大きなる蟹一つ落ちたりき。その甲の徑(わたり)一尺二三寸、兩足張りたる處は五尺あまりと見得たるが、簗の上をのかのかとはひ涉りて、水の深みに入りたりけり。簗を守れる者共恐をなして捕へんとする者もなく、たゞ舌を卷いて看たるばかりとぞ。こは石切忠兵衞といへるもの、この鳥井野村にありてはたらきたる折に、したしく聞けることゝて語りしなり。
[やぶちゃん注:以下の注のロケーションからも判る通り、この大蟹は純粋に淡水域に棲息している。本邦産の川蟹の類で、有意に大型になるのは節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica しか考えられないが、それでも甲幅は七~八センチメートルで十センチを越えるものは、まず、いない(体重も一八〇グラム程度)。しかし最後の段落のシチュエーションにのみ実視認個体(とするもの)が登場するものの、それでも甲幅は三十七~三十九センチメートルもあり、両肢を開脚した状態で一メートル五十二センチ弱とする。これは凡そモクズガニでも絶対にあり得ないサイズである。恐らくは、北方海辺で獲れるタラバガニ(抱卵亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科タラバガニ科タラバガニ属タラバガニ Paralithodes camtschaticus)等(同種は成体甲幅は標準で二十五センチほどであるが、脚を広げると一メートルを超える)を見聞きした者が同様の蟹が川にもおり、主(ぬし)となって深い淵底に潜んでいるものと想像したのであろう。
「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「茶屋町」不詳。この町名(内町名)は現存しない模様。
「從來(もとより)」元来。
「水底」「みなそこ」。
「剋(こく)」狭義の時間単位では現在の三十分に相当するが、ここは漠然とした、普通の人が耐え得る以上の長い時間という意味であろう。但し、「ギネス」世界記録登録者では、あるデンマーク人男性が二十二分間の水中での息止めに成功しているとあるから、強ち、実際の一刻も絶対にあり得ないとは言えぬかも知れぬ。
「天保六乙未の年の四月」「乙未」は「きのとひつじ」で一八三五年。同年の旧暦四月一日はグレゴリオ暦で四月二十八日である。
「羅(あみ)」「網」。
「下ろし初め」漁での使い初(ぞ)め。
「鱒」「ます」。現行の辞書的な第一義では、条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科 Salmonidae に属する「樺太鱒」(サケ科タイヘイヨウサケ属カラフトマス Oncorhynchus gorbuscha)・「桜鱒」(タイヘイヨウサケ属サクラマス Oncorhynchus masou。「山女」(ヤマメ)は本種河川残留型(陸封型)に対する呼称であり、学名は無論のこと、一緒である)・琵琶湖固有種である「琵琶鱒」(タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus)などのように、「鱒(ます)」という和語を和名に有する魚類の俗称であって、単一種を指すわけではない。「鱒の介」(タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha)や「紅鱒」(タイヘイヨウサケ属ベニザケ(ヒメマス)Oncorhynchus nerka:本邦には近代以降に移植)とその陸封型の「姫鱒」、或いは「川鱒」(イワナ属カワマス Salvelinus fontinalis)・ニジマス(タイヘイヨウサケ属ニジマス Oncorhynchus mykiss)をも指すこともある。なお、その中で狭義に限定する場合は「サクラマス」を指すとする。こここはロケーションと描写(水中で二尾を捕まえて浮上しようとした)から見ると、一匹の個体が相応に大きいと考えられ、そうなると、大型個体もしばしば見られるニジマス Oncorhynchus mykiss 辺りを念頭においてよいように私には思われる。
「同志(どうやく)」同僚。
「地形村」現在の青森県弘前市紙漉沢(かみすきさわ)地形(じかた)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「石淵」不詳。しかし、前注の場所であれば、岩木川の淵か、現在の地形(じかた)の南端で合流する支流との境辺りであろう(前の地図を参照)。
「障りけん」「觸りけん」が正しいように思われるが、恐らくは何かに触れてそれが障害(さわり)となって網が破れたことから、かく表記したものであろう。
「四五尺」一メートル二十二センチから一メートル五十二センチメートルほど。
「沒り」「いり」。「入り」。
「稍」「やや」。
「尋るに」「たづぬるに」。
「杯(ひら)」「枚(ひら)」と同じく、「ひら」は薄く平らなものの数詞。
「捕へながら」「つかまへながら」。
「宙にかゝれるもの人如く」「宙」は「そら」と訓じているかも知れぬ。空中に紐か何かで、ぶら下がっている人間のように。
「地」川底。
「援け揚けるに」「たすけあげけるに」。
「稍心落つきて」「やや、こころおちつきて」。
「浮まん」「うかまん」。
「絆ひて」読み不詳。続く動詞が「引く」の謂いであるから、或いは「なはゆひて」「繩結うひて」の謂いかも知れぬ。「絆(きづな)」は物を繫ぎ止めるものの謂いだからである。
「柾(ひく)」「引く」。引っ張る。
「惠援(なさけ)に」二字へのルビ。
「由て」「よりて」。
「かくては」網が破れた上に、水練上手の茂助がかくも怪異な体験をしたからには。
「その地(ところ)を戾りし」そこを去って帰った。
「此」「この」。
「己れ」「われ」。
「相馬」弘前市相馬。ここ(グーグル・マップ・データ)。さっきの地形(じがた)の下流域から南の支流一帯の旧地名らしい。
「往し」「ゆきし」「行し」。
「紙漉澤村」底本の森山氏の別な補註に、『中津軽郡相馬村紙漉沢(かみしきざわ)。古く天文年間にこの地名があり、往昔ここで紙を漉いたという伝えがある』とある。現在は弘前市紙漉沢で読みは「かみすきさわ」である。ここ(グーグル・マップ・データ)。地形(じかた)の西南対岸一帯。
「統司(ぬし)」二字へのルビ。
「てふものは」と言うものは。
「快晴閑亮(てんきよくしづか)なる」四字へのルビ。
「窂々(たまたま)」二字へのルビ。「偶々」。
「咎」「とが」と読んでいるか。「(罰するべき)悪しき行い」の謂いか。しかしそれは蟹のやるしわざが「咎」なのか、その淵に立ち入って無暗に川漁を成す人間の行為を「咎」と称しているのか、よく判らない。取り敢えずは、前者の謂いで採っておくが、続く内容からは暗に後者の意味を、訓戒を込めて含ませているようにも私には読める。古老の話とは往々にしてそうした両義性を持つものである。
「多かること」多くあること。
「群聚(あつま)れる」二字へのルビ。
「顧る」「かへりみる」。
「あるは」「或は」。
「實に」「まことに」。
「危む」「あやぶむ」。
「災」「わざはひ」。
「遇ず」「あはず」。
「傷く」「きずつく」。
「此奴」「こやつ」。
「剃刀」「かみそり」。
「截る」「きる」。
「一寸」三・〇三センチメートル。
「啓壞(ひらか)ず」二字へのルビ。
「疼痛(いたむ)」二字へのルビ。
「言」「いふ」。
「鎌鼬(かまいたち)」「耳嚢 巻之七 旋風怪の事」の私の「かまいたち」の注を是非、参照されたい。概ねウィキの「鎌鼬」からの引用であるが、最後には私が目の前で見た怪しい(それは別な意味でも「怪しい」である)「かまいたち」現象についても綴ってある。
「文化の初年」文化元年は一八〇四年。
「鳥井野村」現在の弘前市鳥井野(とりいの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の地形(じがた)の東方。
「簗」「やな」。河川の両岸又は片岸から、杭や石などを列状に敷設して水流の一部を堰き止め、そこに作った狭隘部分(「梁口(やなぐち)」などと呼ぶ)に木や竹製の簀(す)や網、筌(「うけ」「うえ」。私は「うつぼ」(形状から)と読みたくなる)と呼ばれる漁具などを置き、誘い込まれて来た魚類を捕獲する仕掛け。「梁」とも書く。
「のかのかと」不詳。「のこのこと」か。或いは「平然と」の意の「ぬけぬけと」の訛りかも知れぬ。
「石切忠兵衞」「石切」は石を切り出すのを職業とした者がそのまま姓としたものであろう。]
十一 大蝦蟇 怪獸
金木村に彌六といへるものありけり。稟質(うまれつき)豪毅なるが、兼ねて修驗に由りて九字の印呪など學び得て、寰内(よのなか)に怕きものなしと誇れるとぞ。何(いつ)の頃にか有けん、大澤平の溜池【周圍二里餘】なる竇樋(とひ)破れて堤防(つゝみ)大ひに決壞(くづ)れし事ありけるに、土(ところ)の人ども言ふ、この池の主の出る由緣(ゆゑ)なるべしとあるに彌六が曰、池の統司(ぬし)ならんには池を護りてあるべきに、隨意(わがまゝ)に堤防を壓壞(おしやぶ)り、吾曹(とも)に不意(ゆくりな)き勞煩(わづらひ)を被負(おはす)ることいと憎き奴なり。活(いか)しておくべきものに非ず。いでいで其統司を捕獲(とらへ)んとて、腰に緒索(をなは)を繰着(くゝりつ)け引かば曳けよと言ふて、樋の壞門(やぶれ)の漲水賁激(みなぎりたける)中心(たゞなか)に躍沒り幾乎(しばらく)水底に在けるが、いと巨大(おほ)きなる蝦蟇を捉へて浮み出たり。その蝦蟇の大さ居丈二尺に餘りて、兩の眼金色を帶びて嗷々(ごうごう)と咽喉を鳴らし、搖動(うごき)もやらず座したるはしかすがにこの池の主とも想像(おもひやら)れて、看(みる)もの舌を卷しとなり。さるに彌六は此を殺さんとて鉞をもて立向ひたるに、衆々(みなみな)後の祟害(たゝり)あらんといふておし歇(とゞ)めて、舊の池に放下(すて)しとなり。
又、この彌六一日(あるひ)同志(とも)のもの兩三輩(にさんにん)と、金木村の山中大倉ケ嶽の溪流(さは)に漁獵(すなどり)して有けるが、迥(はるか)の水源(みなかみ)より白浪高く發(おこ)りて矢を射る如くに下りしが、傍なる淵灣(ふち)に至りて其浪啓(ひら)くと見るうち、ひとつの物の小狗(いぬ)の如きが現はれて、頭の上に兩(ふたつ)の角を載き眼圓くしていと光れるが、毛みな黃紅にして虎文(とらふ)のごとき黑き文あるものなるが、此方を白睨(にらみ)て直に淵の底にぞ沈沒(しづみ)けり。伴侶(とも)のものどもは恐怖(おそれ)を爲して逃皈らんとすれど、彌六は更に物の屑とも爲さず、却てこれを捕獲んと淵頭(ふちのほとり)に座を占て、印を結び呪を念じ其まゝ淵中(ふち)に躍り入り、聊且(しばらく)ありて浮み出て言へらく、遍く水の中を搜るといへども手に遮るものつやつやなし。さはれ此淵より外に住むべき處なければ日を累ねても捕ふべしとて、伴侶の者を賴みそが家より米と鍋とを取り賦(くば)らせ、自ら炊き食ひて六日が間家にも歸らず淵の中を窺しかど、遂に見る事なくして止みたりけりと。こは金木村の坂本屋仁三郎といへるものゝ語りなり。
[やぶちゃん注:「大蝦蟇」「おほがま」と読んでおく。本邦の主に北部(東北地方から近畿地方及び島根県東部までの山陰地方北部)に自然分布する固有亜種である両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル亜種アズマヒキガエル Bufo japonicus formosus であろうが、同種は大型個体でも体幹全長二〇センチメートル程度で、こんなに大きい(「居丈二尺」「居丈」とは蹲った背までの高さであろう。それが「二尺」=六〇センチメートルとなると、体幹全長は一メートルはあろう)もあるというのは、かの「自来也」の世界で、こんな実在個体はまず考え難い。魚類ならまだしも、両生類でこの体型ではおよそ自重を支え切れず、自滅してしまうからである。
「怪獸」後者のそれは「小狗」(こいぬ)程度の大きさで、水中より出現し、淵の底に潜って姿を消している。頭部上方に目立つ二本の角を有し、眼はまん丸で、毛は全体が黄褐色で虎斑(とらふ)に似た黒い紋があるとある。これを「彌六」(やろく)は出現と退去が水中であったことから完全な水中生物と認識して探索しているのであるが、これは、幾つかの特徴から見て、哺乳綱ネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン亜種ホンドテン Martes
melampus melampus の可能性が高いように思われる。ウィキの「テン」によれば、同種の体毛は『夏季は毛衣が赤褐色や暗褐色で、顔や四肢の毛衣は黒、喉から胸部が橙色、尾の先端が白い(夏毛)』。『冬毛は毛衣が赤褐色や暗褐色で頭部が灰白色(スステン)か、毛衣が黄色や黄褐色で頭部が白い(キテン)』である(下線やぶちゃん)。眼も黒く真ん丸で、顔面前部が白いために一際、際立って見える。頭上に二本の「角」があるとするが、テンが渓流を上流から索餌行動をとって来て水に濡れた場合、頭部左右に有意に突き出た尖った耳介は、より尖って見え、角と見間違えたとしてもおかしくない。但し、虎斑があるというところはテンらしくはなく、単に野生化した大型の猫ともとれぬことはない。しかし、やはりテンが水に濡れて不均等に毛羽立った場合、それが虎斑に見えぬとも限らぬようには感ずる。個人的にはテンは水に濡れるのは好まないように思われるが、何か、より大きなクマなどの獣に追われて逃げていたものかも知れぬ。さすれば、濡れ鼠であったこと、危機意識から耳がよりピンと角の如くに立っていたこと、人を見て新たな脅威を覚えて淵に飛び込んだこと(向こう岸に逃げ去ったのであろう)などが総て説明出来るように思うのである。
「金木村」底本の森山氏の別な補註に、『北津軽郡金木(かなぎ)町。津軽半島中央南部の中心地。元禄十一年金木新田の開発に着手した』とある。現在は五所川原市金木町(ちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「修驗に由りて」山伏に教えを乞いて。
「九字の印呪」「くじのいんじゆ」は、本来は「九字護身法(くじごしんぼう)」と称する本邦の密教が依拠する経の一つである「大日経」の実践法として知られる「胎蔵界法」に於ける「成身辟除結界護身法」が、誤った形で民間に流布し、種々の宗教や民間信仰の考え方と習合、山伏らが自然の猛威や種々の災い・変化(へんげ)の物の怪から護身するものとして使うようになった呪術法の一つである。ウィキの「九字護身法」によれば、『もとは印契の符牒(隠語)であった文字が、道教を源とする「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」』の九文字『から成る呪文「九字」に変化し、それに陰陽道の事相である』「六甲霊壇法」なるものと『組み合わされて今日に知られるような「四縦五横」の九字切り等の所作を成立させて発展したとされる日本の民間呪術である』とある。
「怕き」「こはき」。
「大澤平の溜池【周圍二里餘】」恐らくは現在の青森県鶴田町廻堰(まわりぜき)にある廻堰大溜池(おおためいけ:「津軽富士見湖」とも呼ぶ)のことと思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。これは万治三(一六六〇)年に津軽藩主津軽信政によって西津軽の新田開墾の灌漑用水源として築造された人工の溜め池で、現行の堤の全長は実に延長四・二キロメートルに及び、これは『日本最大の長さである』とウィキの「津軽富士見湖」にある。しかも、私が現在の池岸の周囲を実測して見たところ五キロメートルはあり、作られた当初の形状や周囲へ湿潤した浅瀬などの存在の可能性を考るならば、昔のこの溜め池の全周が現在よりも三回(八キロ余り)りほども広かったとしても不自然ではないと思われる。何より、ここの西部沿岸の字地名には「大沢」が現存するのである。金木からは南南西に十六キロメートルほど離れてはいる。しかし、任侠を旨とし、意気に感ずる剛毅の弥六が、そこの決壊に駆けつけたとしても少しもおかしくない距離であると私は思う。
「竇樋(とひ)」二字へのルビ。樋。ここは土掘りした人工の水路。
「吾曹(とも)」「わがとも」。私と同じい庶民の謂いであろう。
「不意(ゆくりな)き」思いがけない。不意の。突然の。
「勞煩(わづらひ)」二字へのルビ。
「引かば曳けよ」繩が急激に引かれた場合には、それを儂(わし)の合図と見做して、皆して力一杯曳け、の意。
「漲水賁激(みなぎりたける)」四字へのルビ。動詞として訓じている。
「躍沒り」「をどりいり」。
「幾乎(しばらく)」二字へのルビ。
「水底」「みなそこ」。
「在けるが」「ありけるが」。
「巨大(おほ)きなる」二字へのルビ。
「嗷々(ごうごう)と」「嗷」は正確には歴史的仮名遣では「ガウ」(現代仮名遣なら「ゴウ」)が正しく、意味は「騒々しいさま・声の喧(かまびす)しいさま」で「囂囂(ごうごう)」と同義であるが、ここは寧ろ、オノマトペイア、擬音語と採った方がリアルである。
「搖動(うごき)」二字へのルビ。
「しかすがに」(化け物並の大きさの畜生たる蝦蟇(がまがえる))とは言うものの。
「鉞」「まさかり」。
「舊」「もと」。
「大倉ケ嶽」五所川原市金木町川倉の大倉岳。標高六百七十七メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。直線で金木の東北十キロメートルほどの位置にある。
「漁獵(すなどり)」川漁。
「其浪」「そのなみ」。
「黃紅」「きあか」と訓じておく。
「文」「もん」。紋。
「此方」「こなた」。
「白睨(にらみ)て」二字へのルビ。
「直に」「ぢきに」。
「逃皈らん」「にげかへらん」。
「屑」「くず」。
「聊且(しばらく)」二字へのルビ。
「遍く」「あまねく」。
「手に遮る」「てにさへぎる」。水中で淵であるから、視認よりも触診である。
「つやつや」全く。
「さはれ」そうは言っても。
「取り賦(くば)らせ」それぞれの者の家にある「米」や「鍋」などを少しずつ分担させて持ってきて貰い。無論、以下は、彼が単独で実に六日間に亙って淵の中を隅から隅まで探索したのである。
「窺しかど」「うかがひしかど」。]
3-16 同牡丹の上意、婦人言上の事
又當御代、何れの御坐所にか牡丹を植置せられしが、數珠の中、色うつろひたるを、上意には、これは衰たり。見るべくも非とありけるを、婦人に有しとやらん申上るには、牡丹は夫にても能く候。召つかわるゝ女中も、色衰候て、御寵もつき候も是亦然べくも候半。表向御政事にたづさはらん臣共は、色移ろひ候時より社御用には立申べし。仕へ初し頃は、誰も時めきて見え候が、漸々と年久くなり目立申さず、花の移ひ候如に候。外臣等は此所より先きが御用に立ち申すべき御見所に候と言上せしとぞ。其時上意には、さても能ぞ申たり。此牡丹なくば其詞をも聞まじ。牡丹こそ媒よと仰ありしと也。御盛德仰奉るべし。又その婦女も有がたき賢媛なりき。
■やぶちゃんの呟き
前条に続き、「當御代」今上将軍家斉のエピソード。
「婦人」ここは単にその場にいた御付きの上﨟衆の一人であって、正・則室などではあるまい。
「言上」「ごんじやう(ごんじょう)」。
「植置せ」「うゑおかせ」。
「衰たり」「おとろへたり」。
「非」「あらず」。
「夫」「それ」。
「候半」「さふらはん」。
「御政事」「おんまつりごと」。
「共」「ども」。
「より社」これで「よりこそ」(係助詞「こそ」)と訓ずる。
「立申べし」「たちまうすべし」。
「初し」「はじめし」。
「目立」「めだち」。
「移ひ」「うつろひ」。
「如に」「ごとくに」。
「外臣等は此所より先きが御用に立ち申すべき御見所に候」「外臣」は「ぐわいしん(がいしん)」で、ここは特に縁故ではなく実力で昇進し、且つ、特に派閥を持たないような自立した家臣の謂いであろう。「御見所」は「おんみどころ」。「独立独歩を旨として参った家臣などは、まさに、そのように見かけがなってより(老衰してより)先にこそ、上さまのお役に立てるような面目(めんぼく)を十二分に発揮出来るように成るので御座いまする。」といった謂い。
「能ぞ」「よくぞ」。
「其詞」「そのことば」。
「聞まじ」「きくまじ」。聴けなかったであろう。
「媒」「なかだち」。
「仰」「おほせ」。
「盛德」立派なる徳。
「仰奉る」「あふぎたてまつる」。
「賢媛」「けんゑん」。才媛。
3-15 當上樣、諸葛亮の御繪の事
當御代、御慰に、紺地に金泥を以て、諸葛亮の像を御筆に畫せられ、御自贊をもあそばされて、吹上の瀧見の御茶屋とか申に掛させられて、御遊のとき、良久くこれを御覽の後、御歎息の體にて、今は斯人の若き者の無きはよと上意あり。又莞爾と御わらひ、是もまた上に玄德のなき故によと仰有しと。正しく奧勤の人の、御側にて窺奉しを竊に聞く。いと難ㇾ有御事なり。
■やぶちゃんの呟き
「當上樣」「たううえさま」。第十一代将軍徳川家斉。
「諸葛亮」(一八一年~二三四年)は三国時代の蜀漢の政治家・戦略家。字は孔明。徐州琅邪(ろうや)郡の陽都(現在の山東省沂水県)の出身。豪族の出であったが、早く父と死別し、荊州(湖北省)で成人後、名声高く、「臥竜(がりょう)」と称せられた。二〇七年、魏の曹操に追われて荊州に身を寄せていた劉備玄徳から「三顧の礼」をもって迎えられ、天下三分の計(劉備が荊州と益州を領有し、劉備・曹操・孫権とで中国を大きく三分割した上で孫権と結んで曹操に対抗し、天下に変事があった際に部下に荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、劉備自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃することにより曹操を打倒し、漢王朝を再興出来るとした)説いて、これに仕えた。
「畫せられ」「かかせられ」。
「吹上の瀧見の御茶屋」現在の皇居の御苑にあった、江戸城内の庭園の茶屋。ウィキの「吹上御苑」によれば、『江戸城築城後』、ここには『番衆・代官衆や清洲藩の松平忠吉の屋敷地があり、その後は徳川御三家の大名屋敷が建築された』が、明暦三(一六五七)年一月に発生した「明暦の大火」で全焼、当時、『財政難であった幕府は』、『ほぼ壊滅状態であった江戸復旧に際し』、『都市の再建を優先』し、『このあたりは江戸城への類焼を防ぐための火除け地として日本庭園が整備される運びとなった』とある。
「申に」「まうすに」。
「良久く」「ややひさしく」。しばらくの間。
「體」「てい」。
「今は斯人の若き者の無きはよ」「いまは、このひとのごときものはなきよ」。「今はもう、この人のような名臣たる者はおらぬことよのぅ。」。
「是もまた上に玄德のなき故によ」「これ(名臣不在)もまた、上に劉備玄徳のようなる君子たる主君がおらぬゆえであることなればじゃのぅ。」
「仰有し」「おほせありし」。
「正しく」確かに。「聞く」に係る。
「奧勤」「おくづとめ」。
「窺奉し」「うかがひたてまつりし」。
「竊に」「ひそかに」。
「難ㇾ有」「有り難き」。勿体ない。
十 雩に不淨を用ふ
飯詰村の山中に雨地といふがありて、旱天(ひでり)の年は里人どもこの池の邊(ほとり)に葬送の器械(どうぐ)及び産室の不淨物を運び、或は牛馬の骸骨(ほね)などを投げ入れ種々(くさぐさ)不潔(けがらは)しき業(わざ)を作すに、忽ち大ひに雨あることは往古(むかし)よりしかりと言うて雨地と號(よべ)りとなり。斯有(かゝ)るからに、往ぬる嘉永四の亥の年も亦旱魃の災ひありけるから、村里の農夫どもこの池の邊に簇聚(むれつど)ひ、種々の不潔しき物を持賦(くば)りて雩(あまこひ)の業を營みけるが、一個(ひとり)の壯漢(をのこ)手に馬の骨を擎げて忌はしき事ども百般(いろいろ)いひながら、池の中に飛び入り中嶋近く泳ぎけるに、いかにしけん暴卒(にはか)に身を轉(かへ)して水底に沈沒(しづ)み再び浮み出る形の見えざれば、同侶(どうやく)の漢(もの)甚(いた)くあやしみいざや援け來んとて、同じく池の中に躍り沒(い)り浪を披(ひら)いて游ぎ往き、間なく中嶋に近つきしにこも亦沈淪(しづ)みて姿は見えずなりにけり。
農夫(ひやくしよう)ども大いに驚轉(おどろき)騷ぎ、衆人(みなみな)謀りて急卒(にはか)に筏を造り池の中を隈なく尋索(もとむ)れども、夫と見るべきものつやつやあらねば、詮(せん)術(すべ)なくて止已(やみ)たりき。さるに其後五日可(ばかり)も過たる頃、此池故なきにいたく洪湧(さわ)ぎ水溢れて、二個(ふたり)が死骸を汀頭(みぎは)に搖り着けて有けるを、舁(かつ)きもて來りて葬れりとなり。こもこの食川村の淸助が語りしなり。汚穢不淨のものをもて雩をする事は、何れの國にもまゝある事ながら極めて爲すべき業にあらざる事なり。そは鬼神論に載(あ)ぐべくとおもへばここに略す。
[やぶちゃん注:「雩」本文を見ての通り、「あまごひ」「雨乞」と読む。
「飯詰村」底本の森山氏の補註に、『五所川原市飯詰(いいずめ)。戦国時代この地の高楯城に土豪朝日氏が拠っていたが、天正十六年津軽為信に亡ぼされた。藩政時代この地方開発の中心地であった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「雨地」この附近の池か(グーグル・マップ・データ)。
「嘉永四の亥の年」一八五一年。
「農夫」あとで「ひやくしよう」と読んでいる。
「持賦(くば)りて」「もちくばりて」。
「雩(あまこひ)」ルビはママ。
「擎げて」「ささげて」。
「暴卒(にはか)に」二字へのルビ。
「同侶(どうやく)」仲間。
「援け來ん」「たすけこん」。
「驚轉(おどろき)」二字へのルビ。
「尋索(もとむ)れども」「たづねもとむれども」。
「夫」「それ」。
「つやつや」一向に。
「止已(やみ)たりき」二字へのルビ。
「洪湧(さわ)ぎ」二字へのルビ。
「舁(かつ)きもて來りて」皆して担(かつ)いでもち帰って。
「こもこの食川村」前話を受ける。そこで述べた通り、旧「喰川(しょくかわ)村」で、五所川原駅南西直近の、この附近かと考えられる(グーグル・マップ・データ)。
「汚穢不淨のものをもて雩をする事は、何れの國にもまゝある事」ウィキの「雨乞い」の「日本の雨乞い」の項によれば(下線やぶちゃん)、『様々な雨乞いが見られる。大別すると、山野で火を焚く、神仏に芸能を奉納して懇請する、禁忌を犯す、神社に参籠する、類感(模倣)呪術を行うなどがある』。『山野、特に山頂で火を焚き、鉦や太鼓を鳴らして大騒ぎする形態の雨乞いは、日本各地に広く見られる。神仏に芸能を奉納する雨乞いは、近畿地方に多く見られる。禁忌を犯す雨乞いとは、例えば、通常は水神が住むとして清浄を保つべき湖沼などに、動物の内臓や遺骸を投げ込み、水を汚すことで水神を怒らせて雨を降らせようとするものや、石の地蔵を縛り上げ、あるいは水を掛けて雨を降らせるよう強請するものであり、一部の地方で見られる。神社への参籠は、雨乞いに限らず祈祷一般に広く見られるが、山伏や修験道の行者など、専門職の者が行うことも多い。類感呪術とは、霊験あらたかな神水を振り撒いて雨を模倣し、あるいは火を焚いて煙で雲を表し、太鼓の大音量で雷鳴を真似るなど降雨を真似ることで、実際の雨を誘おうとするタイプの呪術である。このタイプの雨乞いは、中部地方から関東地方に多い』とある。
「鬼神論」。底本の森山氏の補註に、『魯僊が鬼神の実在を論証しようとしたのであろうが、この書名の著書はない。あるいは「幽府新論」(慶応元年』(一八六五年)『)のことかも知れぬ』とある。]
九 沼中の主
食川村の淸助といへるものゝ話に、往ぬる天保の年間(ころ)六七月にて有けん、暑を避けんとてそが村頭(むらはし)なるアシケ沼といふ邊(ほとり)に徜徉(あそ)び、蠶の殼を投入れ小魚(ざこ)の跳躍(はねあがる)をなくさみゐたりけるに、忽ちに水の面(おも)の大に搖れて渦文を疊めるからに、何ものにかあらんと近く進みて水底を窺ひ見れば、大きなる牛の如きもの有て全身(みうち)白く頭面(かしら)また牛とひとしかるが、兩眼鼻口麁省(あらあら)に見えたりければ、此こそ聞傳へたる沼の主ならめと思ひしが、寒嘆(ぞつ)して身の毛逆立早く脱(にげ)んとする時境(をりから)、沼の中俄然(にはか)に潮の發(おこ)れる如く鳴り響き、大浪逆卷て汀(みぎは)の路に溢れしかば、彌々怕しくやうやうに遁歸れるなり。
却説(さて)、この沼は往昔はいと廣大なりしよしにて、慶長の末年(すえ)とかや當村某なるものゝ畜(やしな)ひたる※馬(あしけうま)ありけるが、一日(あるひ)暴(にはか)に狂氣(くる)ひ出てこの沼の中に躍沒(い)り、遂にこの處の主に變(な)れりといひ傳へて、五六十年の前(さき)まては罕々(まれ)に水底を游げるを見ることありと聞つれど、近き頃は見たりといふ者もなく、又この沼は小魚多かるからに、里人ども網を下し釣を埀るゝもの每(つね)なれども、靈異(あやしきもの)に遇へるといふ風説(うはさ)もなければ、かゝる事のあることは夢おもはざりしに、今現にこの怪しきことの有るを看て、古人の遺談の誣(しふ)べからざるを知れり。誠に二百五十年の今に至る迄、かゝる怪しき事を爲すは怪(おそろし)きものと語りしなり[やぶちゃん字注:「※」=「馬」+「忽」。]。
[やぶちゃん注:「食川村」底本の森山氏の補註に、『いま五所川原市内』とあるが、これは旧「喰川(しょくかわ)村」である。かなり手こずったが、五所川原駅南西直近の、この附近かと考えられる(グーグル・マップ・データ)。この変わった名は岩木川による河川浸食の謂いである。
「天保」一八三〇年から一八四四年。
「アシケ沼」もし、上記の「喰川村」の位置が正しいとすれば、ここにそれらしい池塘らしきものはある(グーグル・マップ・データ)。
「渦文」これで「うづ」と訓じておく。
「疊める」「たためる」。重ねる。
「大きなる牛の如きもの有て全身(みうち)白く頭面(かしら)また牛とひとしかる」同定不能。淡水魚で、閉鎖された状況下(これだけ大きいとこの池沼から自由に往来は出来まい)で、この時代では、比定候補となる魚類そのものがいない。事実とすれば、アルビノ個体ではある。
当初は条鰭綱軟質亜綱チョウザメ目チョウザメ科チョウザメ亜科チョウザメ属 Acipenser の仲間で、本邦の北海道や東北近海で現在でも漁獲されることがある本邦固有種ミカドチョウザメ Acipencer mikadoi(北海道では昭和初期まで遡上が確認されている)、或いは近年本邦での棲息が確認されたチョウザメ亜科ダウリア属ダウリアチョウザメ Huso dauricus を考えたが、陸封されて、ここまで大きくなって生存しているというのは考えにくい。
或いは、新鰭亜綱骨鰾上目ナマズ目ナマズ科ナマズ属ナマズ Silurus asotus (本邦産在来種は三種のみで、青森にいるとしたら、これしかいない)超大型アルビノ個体か?
条鰭綱スズキ目タイワンドジョウ亜目タイワンドジョウ科タイワンドジョウ属カムルチー Channa argus argus も九十センチメートルにも巨大化するが、残念ながら、同種は近代(大正一二(一九二三)年から翌年頃)になって朝鮮半島から人為的に持ち込まれた、中国産亜種で、全くの新参外来種であるから、候補にはならない。
「麁省(あらあら)に」漢字から見ると、大まかではあるが、まあ、明らかに、の謂いか。
「聞傳へたる」「ききつたへたる」。
「寒嘆(ぞつ)して」二字へのルビ。
「逆立」「さかだち」。
「時境(をりから)」二字へのルビ。
「俄然(にはか)に」二字へのルビ。
「潮」海の波。
「逆卷て」「さかまきて」。
「彌々」「いよいよ」。
「遁歸れる」「にげかへれる」。
「往昔」「むかし」。
「慶長の末年(すえ)」慶長は二十年までで、同年はグレゴリオ暦一六一五年。
「※馬(あしけうま)」(「※」=「馬」+「忽」)。ルビはママ。「葦毛馬(あしげうま)」であろう。馬の毛色の名で、体の一部や全体に白い毛が混生し、年齢(とし)とともに次第に白くなる。しばしば駿馬の代名詞ともなる。但し、ここは奇怪なアルビノの未確認動物の白さと合わせた伝承のようである。
「躍沒(い)り」「をどりいり」。
「五六十年の前(さき)」「二百五十年の今に至る迄」本「谷の響」は幕末の万延元(一八六〇)年成立であるから、後者は、まあ、正確な謂い。ここから五、六十年前となると、
「まては」ママ。一八〇〇年か一八一〇年で、元号では寛政十二年から、享和を経て、文化七年に相当する。
「罕々(まれ)に」二字へのルビ。
「誣(しふ)べからざる」でっちあげや作りごとをしたのでは全く、ない。]
八 河太郎
この高瀨某と言へる人、文化初年の夏岩木川なる地藏淵にて釣せしが、得物の多ければ竹畚(たけかご)に入れて水にひたし放下(おき)けるに、獲りしよりも足らぬやうに覺ゆれば、いと不審(いぶか)しとて瞳を放さで窺ひたるに、水際より小兒のごとき細腕をさし延べ竹畚なる魚を抓んで引きとるから、然(さて)こそ妖物(ばけもの)御座んなれと隨卽(そのまゝ)裸躰(はだか)になり、刺刀(あひくち)拔て待設けしに又しも小腕を延べたる故、不疎(すかさず)これを※抓(ひつつか)むに渠(かれ)に曳れて計らず水流(かは)に落沒(おちいり)、ひかれ行事二十間ばかりと覺えしが、その疾き事矢を射る如く忽ち物に撞(つき)中りしかば、直ちに小腕を截り採り浮み出けるに、地藏淵の邊(あたり)にあらで紙漉澤村の傍に(ほとり)てありつるに、いといと怪しくて道を速(いそ)ぎ歸りしなり[やぶちゃん字注:「※」=「扌」+「正」。後の「※」も同字。]。
さるに、その夜夢とも現ともなく、五歳ばかりの童子の髮蓬頭(おどろ)に被りたるが枕邊に跪踞(ひざまつき)て言へりけるは、吾は河童(かつぱ)にて侍るなり。乞萬(なにとぞ)今日の無調法を免(ゆる)され腕を得さし玉はるべしと潛然(さめざめ)と哭泣(なき)けるに、高瀨氏いたく罵る聲と倶に眼は覺めつるがそのまゝ河童も見えずなりぬ。夫よりして連夜來りて倍罪(わぶる)事既に五日を累ねたれば、この人惻隱(ふびん)の情起りていへるは、斯まで切懇(ねんごろ)に乞求るも可憐(ふびん)なれば返し得さすべし、その報に何事をか爲(す)ると問(たつ)ぬるに、河童の曰、凡(およ)そ當家はもとより一族(け)親屬婚(るいゑん)家(るゐ)の人に至るまで、永世(ながく)水難の患(わづらひ)なかるべし堅く誓ひを立てぬるから、卽(やがて)與へて遣りたるにいたく怡びて、再び三囘(みたび)禮拜みてそのまゝ見えずなりしなり。且説(さて)この腕は四五歳の小兒の腕の如くなれど、指は四本にて根もとに蹼(みづかき)あり。爪は尖利(するどく)して鳥の嘴(はし)の如く、肌膚(はた)みな錢苔(こけ)のことき斑なる文(かた)ありて、色淡(うす)靑く皂(くろみ)を帶たり。この人世の風説(うはさ)にならん事を厭ひてふかく祕(つゝみ)て人にも語らねど、千葉氏は從來(もとより)の懇意なるからこの縡(こと)を語り腕を見せしなりと千葉氏の語りしなり。因(ちなみ)にいふ、寛政の年間(ころ)外崎某といへる人、御徒町の川端邊にて河童と※組(ひつくみ)、そが髮を一束(つかみ)拔いて家に藏めし話、及び享保の頃間(ころ)梅田村の長十郎と言へる者、河童を捕らへて御上へ獻りしといふ事は、往昔(むかし)より言ひ傳へて人々知れる事なり。
[やぶちゃん注:「河太郎」河童のかなり知られた別称。ルビがないので、訛りなく「かはたらう(かわたろう)」と訓じているものと採る。ここの出る話は、〈河童の詫び文〉型の起請文のない誓證のみのタイプで、かなり全国的なオーソドックスなものである。さればあまり面白いとは言えないが、何度も詫びに来るのが夢の中でのように描かれているのは特異点である。
「この高瀨某と言へる人」前話の「七 メトチ」の間接的な情報提供元であるから「この」と指示語を附してある。さても、この「メトチ」を語った高瀬なる人物が、前で「メトチ」(みづち・水蛇・蛟)を言い出しておいて、ここで別に如何にもズバリ「河童」らしい「河太郎」を語り、しかも西尾自身がこの最後で「河童」と用字していることから考えても、前条の底本にある森山泰太郎氏の註には悪いのであるが、高瀬も千葉(前話の直接提供者)も平尾も「メトチ」と「河太郎」を全く別個な水怪と考えていたことは明白ではないか? 私は少なくとも「谷の響」内に於いて、則ち、平尾魯僊にとっては、蛇形の水怪「メトチ」とヒト童子型妖怪「河太郎」は同じ物の怪としての「河童」ではないと断ずることが出来ると考えるものである。
「文化初年」一八〇四年。
「地藏淵」不詳。識者の御教授を乞う。一つ言えることは、最後のシーンで高瀬は水怪と格闘、腕を切り落としてそれを奪取、浮かび上ったのであるがが、そこはさっきまでいたはずの「地藏淵の邊(あたり)にあらで紙漉澤村の傍に(ほとり)」であったことを「いといと怪し」と感じている。もし、この「紙漉澤村」(かみすきさわむら:後注参照。ここは位置が判明している)よりも「地藏淵」なる場所が岩木川下流に存在するのであれば、高瀬は、「いといと怪し」とは感じないはずである。従って、この「地藏淵」よりも遙か上流に「紙漉澤村」があるのだとは読めるように私は思うのである。
「竹畚(たけかご)」底本の森山氏の補註に、『かけご。竹又は蔓などで作り、腰に下げる籠。魚籠。津軽・秋田・岩手はカケゴだが、以南の地方ではハケゴと呼ぶところが多い』とある。「畚」は普通は「もっこ」「ふご」と読み、繩を網状にしたものの四隅に綱をつけて土・石などを入れて運ぶ「モッコ」、或いはより広義には、竹・藁などを編んだ容器、ここでのように獲った魚を入れておく「魚籠(びく)」を指す。
「放下(おき)けるに」二字へのルビ。放っておいたところ。
「瞳を放さで」「めをはなさで」。「目を離さで」。
「刺刀(あひくち)」「匕首(あいくち)」。小刀。
「拔て待設けしに」ぬきて、まちまうけしに」。
「又しも」「しも」は副助詞で「よりによって・折りも折り・まさに丁度」の意で、「またも(注視して待ち構えていた)その折りも折り」。
「不疎(すかさず)」間髪を入れず。
「※抓(ひつつか)む」(「※」=「扌」+「正」)「※」の字は不詳(「廣漢和辭典」にも載らない)。「ひっつかむ」(引っ摑む)から考えると、「抓」(つねる)が「ひつ」に相当し、「つかむ」が「※」であるとすれば、「摑」(掴)或いは「把」であろう。「※」の字に変字したとするなら、「把」の可能性が高いように思い私には思われる。
「渠(かれ)」「彼」。その童子形の水怪。
「曳れて」「ひかれて」。
「計らず」思いがけず。
「行事」「ゆくこと」。
「二十間」三十六メートル強。
「疾き事」「はやきこと」。
「撞(つき)中りしかば」「つきあたりしかば」。
「紙漉澤村」底本の森山氏の補註に、『中津軽郡相馬村紙漉沢(かみしきざわ)。古く天文年間にこの地名があり、往昔ここで紙を漉いたという伝えがある』とある。現在は弘前市紙漉沢で読みは「かみすきさわ」である。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「蓬頭(おどろ)に」二字へのルビ。髪などがぼうぼうに乱れて縺(もつ)れているさま。
「被りたるが」「かぶりたるが」。
「乞萬(なにとぞ)」二字へのルビ。
「得さし」「得さす」はア行下二段活用動詞「う(得)」の未然形に使役の助動詞「さす」がついた連語。「手に入れるようにさせる」で「与える」の意。実は和文の古語では、「與(あた)ふ」は一般には使用されず、「得さす」「取らす」「授(さづ)く」などが用いられた。
「潛然(さめざめ)と」二字へのルビ。
「哭泣(なき)けるに」二字へのルビ。
「高瀨氏いたく罵る聲と倶に眼は覺めつるがそのまゝ河童も見えずなりぬ」ここが本話柄のオリジナリティのある面白いところである。初回の河童の謝罪来訪は事実であったのか、それとも単に河童に襲われた高瀬の見た夢であったのか、判然としない処理が施されているからである。いや、寧ろ、河童を激しく叱り罵る自分の声で高瀬が目を醒ますというのは夢オチ的であって、「実際には河童など謝りになぞ来てはいないのではないか?」と読者に逆に思わせる企みが意図的(話者である高瀬の)になされているようにさえ思われるからである。
「倍罪(わぶる)事」二字へのルビ。「倍」の字は不審。識者の御教授を乞う。
「累ねたれば」「かさねたれば」。
「惻隱(ふびん)」二字へのルビ。
「斯まで」「かくまで」。
「切懇(ねんごろ)に」二字へのルビ。
「乞求るも」「こひもとむるも」。
「報」「むくひ」。代わり。弁償。その誓約を求めるところがステロタイプなのである。
「問(たつ)ぬるに」ルビはママ。「たづぬるに」。
「一族(け)親屬婚(るいゑん)家(るゐ)の人に至るまで」「いちけ・おや・るいゑん(類緣)・るゐ(類)のひと、に、いたるまで」。主人公たる高瀬を家長とする主家一族とその末裔・高瀬の父母・親族及び姻族・高瀬家に仕える家来及び下男下女といった人々に至るまで総て全員洩れなく。
「永世(ながく)」二字へのルビ。形容詞として訓じている。
「水難の患(わづらひ)なかるべし」こと「堅く誓ひを立てぬるから」。
「與へて」切り落して奪い取った河童の腕。
「遣りたるに」「やりたるに」。もどしてやったところ。
「怡びて」「よろこびて」。私は漠然と『河童は両生類的であるから、足が切断されてもイモリのように強い再生能力を持っているに違いない』などと勝手に思い込んでいたが、よく考えてみると、この〈河童の詫び證文型〉では切り傷の万能薬の製法を伝授したりしてもおり、ここでも腕を返してもらって非常に喜んでいるところをみると、彼らは切断された手足を(或いは頭部も)接着して復元させるという能力を備えているのだ、ということに今頃になって気がついた。
「禮拜みて」これで「おがみて」と訓じている。
「肌膚(はた)」二字へのルビ。「はた」はママ。「はだ」。
「錢苔(こけ)」「ぜにごけ」。植物界ゼニゴケ植物門ゼニゴケ綱ゼニゴケ亜綱ゼニゴケ目ゼニゴケ科ゼニゴケ属ゼニゴケ Marchantia polymorpha。
「ことき」ママ。「如き」。
「斑」「まだら」。
「文(かた)」「型」「形」。紋。
「皂(くろみ)」「黑味」。
「帶たり」「おびたり」。
「この人」高瀬某。
「寛政」一七八九年から一八〇一年。
「御徒町」弘前市徒町(おかちまち:「御」はつかないので注意)。ここ(グーグル・マップ・データ)。旧徒歩衆が住まいした地域。
「川端邊にて」現在同地区北に接して、文字通り、「徒町河端町」がある。ここ(マッピン地図データ)。
「藏めし」「おさめし」。戦利品として家蔵した。
「享保の頃間(ころ)」「頃間」で「ころ」とルビする。一七一六年から一七三五年。
「梅田村」恐らくは現在の北津軽郡鶴田町のこの附近(グーグル・マップ・データ)。
「獻りし」「たてまつりし」。]
七 メトチ
寛政の年間(ころ)、若黨町某なる人の兒(こ)、後なる小川にて溺れ死ければ、その屍を場(には)に寢かして水を吐せんとて種々(さまさま)手を盡しぬるに、肚(はら)の裏(うち)喁々(ぐうぐう)と鳴り忽ち肛門より拔け出るものあり。その形狀(かたち)蛇の如く長さ一尺六七寸、躰扁(ひらた)く頭大きなるがとく走りて四邊(あたり)を狂へるに、有合ふ人どもそれ擊捕れと木太刀や雜薪(ざつぱ)をもて追ひたれど、輕捷(はや)逃れて擊得ざるに裏なる川流(かは)に跳入て遂に形狀を見失ひけり。こは俗に言ふメトチなるべしとの話なりと、高瀨某の語りしとて千葉氏の語りしなり。
又、この高瀨氏なる人、文化の年間(ころ)朋友某と川狩に出たるに、時境(をりから)冷熱(あつさ)堪へがたかれば俱に水を浴たるに、某は水底に沒(い)りて聊且(しばし)見えず。高瀨氏あやふみゐたるうちやうやう浮出(あが)りて言へりけるは、水を浴ること止みぬべし、今に膩油(あぶら)うくべしと言ふうち、はや水の上に泡沫(あは)のごとき脂油(あぶら)いと多く浮み上りぬ。高瀨氏あやしみいかなるゆゑぞと問(たづ)ぬれば、さればとよ、水中を泳ぎゐたるに帶の如きものありて、自(おのづか)ら寄り來り己が腹を纏へる事兩匝(ふたまはり)なりしが、漸々(しだいしだい)に締て吾を曳いて水底に至り、その頭と覺しき處を石の上に置住(あげ)たる故、熟(とく)と看得(みすまし)手ごろの石を取り力に任せてその頭を擊碎くに、忽ち纏ひ解け水冥(くら)みてその物見えず、寔に苛(から)き難を脱れたり。こは俗に言ふメトチとも言ふものか、怕るべき物なりと語りしとなり。
[やぶちゃん注:「メトチ」底本の森山泰太郎氏の以前の補註に、『津軽では河童のことをメドチといった。ミヅチ(水の霊)の訛語』とある。ウィキの「河童」によれば、『水蛇(ミヅチ)の訛りと思われるメンドチ、メドチ、ドチガメ、北海道ではミンツチカムイなどがある』とある。
「寛政」一七八九年から一八〇一年。
「若黨町」現在の弘前市若党町(わかどうちょう)。名は身分の低い下級武士の住居区であったことに由来するとウィキの「若党町」にはある。弘前城北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「その形狀(かたち)蛇の如く長さ一尺六七寸、躰扁(ひらた)く頭大きなる」「一尺六七寸」は四十八・四八~五十一・五一センチメートル。動きが「とく走りて四邊(あたり)を狂へる」「輕捷(はや)逃れて擊得ざるに裏なる川流(かは)に跳入て遂に形狀を見失ひけり」と異様に早いところからは、水棲の吸血性ヒルである環形動物門ヒル綱顎ビル目ヒルド科チスイビル Hirudo nipponia を想起するが、彼等の通常体長は五センチメートル程度で、延伸性が驚くほどあるが、それでもちょっと長過ぎる。長さと頭部の形状を特異な平たさと見るなら、扁形動物門渦虫綱三岐腸(ウズムシ)目陸生三岐腸(コウガイビル(笄蛭))亜目コウガイビル科コウガイビル属 Bipalium の仲間ならば、一メートルにも及ぶ個体もある(私はその程度のものを山で実見したことがある)がしかし、こんなに運動性能はよくない。以前に注で出した脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)綱 Gordioidea の一種でも、こんなに逃げ切ることはなく、この敏捷さは寧ろ、蛇のそれで、水辺を好み、よく泳ぎ、魚類をも捕食する有鱗目ヘビ亜目ナミヘビ科ヤマカガシ属ヤマカガシ Rhabdophis tigrinus の黒化個体(通常個体なら見馴れており、誤認する可能性は少ない)かも知れぬ。そもそも森山氏の補註でも「メドチ」は『ミヅチ(水の霊)の訛語』と言っている。「みづち」はこれ、「水蛇(みずち)」であって、もともとはヒト型の河童ではなく、蛇龍が原型であったと私は思っている。ウィキの「蛟」(みずち)にも、『南方熊楠は、『十二支考・蛇』の冒頭で、「わが邦でも水辺に住んで人に怖れらるる諸蛇を水の主というほどの意〔こころ〕でミヅチと呼んだらしい」とし』、『南方はミズチを「主(ヌシ)」などと、くだけた表現を使うが、その原案は、本居宣長(『古事記伝』)が、「チ」は「尊称」(讃え名)だとする考察であった』。『ヌシだとする立場は南方の見立であって、宣長本人によると、ミズチ、ヤマタノオロチ、オロチの被害者たちであるアシナヅチ・テナヅチのいずれにつくチも「讃え名」である、と』した。『南方は、「ツチ」や「チ」の語に、自然界に実在する蛇「アカカガチ」(ヤマカガシ)の例も含めて「ヘビ」の意味が含まれると見』、『柳田國男は「ツチ」(槌)を「霊」的な意味に昇華させてとらえた』。『南方が収集したミヅシ(石川県)、メドチ(岩手県)、ミンツチ(北海道)(ほか『善庵随筆』にもメドチ(愛媛県)、ミヅシ(福井県)』『)などの方言名は、「ミズチ」に音が似てこそあれ、どれも河童(カッパ)の地方名だった。南方はしかし、カッパという存在は「水の主(ヌシ)」が人間っぽい姿に化けて人間に悪さをしたもので、ただ、元のヌシの存在が忘れ去られてしまったのだ、と考察した』とあり、熊楠好きの私としてもこれを全面的に賛同するものである。
「有合ふ」「ありあふ」。居合わせた。
「擊捕れ」「うちとれ」。
「木太刀」「きだち」。木刀。
「雜薪(ざつぱ)」薪雑把(まきざっぱ)。薪にするために切ったり、割ったりした木切れ。
「文化」一八〇四年から一八一八年。
「川狩」川漁。
「冷熱(あつさ)」二字へのルビ。両極を出して、片方の意味を強める手法か? この手の一方的な筆者の対偶的表現はしかし、私は非常に不快で厭である。
「浴たるに」「あびたるに」。
「聊且(しばし)」二字へのルビ。
「あやふみゐたる」「危ふみ居たる」。
「浮出(あが)りて」二字へのルビ。
「膩油(あぶら)」二字へのルビ。「膩」(音「ニ・ジ」)も「あぶら」或いは「脂っこい」の意。
「うく」「浮く」。
「脂油(あぶら)」二字へのルビ。
「浮み」「うかみ」。
「水中を泳ぎゐたるに帶の如きものありて、自(おのづか)ら寄り來り」、「己」(わ)「が腹を纏」(まと)「へる事」、「兩匝(ふたまはり)」(:ぐるぐると二重に巻き付いたことを指す。当時の標準成人男子の胴回りを五十五センチメートルほどとしても、巻きついてしかも水中で体勢を保ち、巻ついた対象をさらに川底に引き込むためには一メートル四〇センチ以上はないと無理であろう。)なりしが、漸々(しだいしだい)に締て吾を曳いて水底に至り、その頭と覺しき處を石の上に置住(あげ)」(二字へのルビ)「たる故、熟(とく)と看得(みすまし)手ごろの石を取り力に任せてその頭を擊碎」(うちくだ)「くに、忽ち纏ひ解け水」(みづ)「冥(くら)みてその物見えず」これもヤマカガシ Rhabdophis tigrinus であろう。水中での不正確な視界とパニックで、蛇と視認出来なかったのではあるまいか。
「寔に」「まことに」。]
六 狢讐を報んとす
これ又卯の年の九月なるが、砂子瀨村の權八と言へる者、川原平村より半里許り先鍋倉澤と言ふ土(ところ)にて狢を見當り、將(いざ)捕(と)らんと追𢌞せしかど早くも脱去りて遂に見失ひぬ。さるに其歸路(かへるさ)一里許りも下りしに、柳の古木數株(ほん)ありてその根に柳茸といふものいとさはに生へてありしかば、權八好き獲物とて採り來りて妻子に交與(あた)へ、翌る旦(あした)又このあとの茸を摘(とら)んと立出てその土(ところ)に至れども、茸なく柳も見えざれば不審に思ひ、不圖昨日の狢に心付、負たる簀(かご)をふるひて見るに二三枚落たる茸は、柳茸にあらで名もしらぬ毒茸にしあれば、然(さて)は狢めが騙したるものならん、家内どもが食ひては大事なり、いでとく放下(すて)さすべしとて卽便(そのまゝ)駈歸りて内に來りしに、妻子ら早くも喰ひて苦痛煩悶(くるしみもだし)、四隣(きんじよ)のものども寄り集りて藥よ水よと喧々起(さわぎた)つてありしにいたく愕き、萬般(いろいろ)術をつくしてやうやうに癒ゆることを得たりしとなり。すべて是等の獸どもはさなくとも人を惱ますものなれば、虛弱(よわき)人は必ず心しらひすべき事なり。
[やぶちゃん注:「狢」狸。
「讐」「あだ」。
「これ又卯の年の九月」前話を受ける。安政二年の九月。同月一日はグレゴリオ暦一八五五年十月十一日。
「砂子瀨村」底本の森山泰太郎氏の以前の補註に、『中津軽部西目屋村砂子瀬(すなこせ)。岩木川の上流最も奥地にある山村。隣接して川原平(かわらたい)部落がある。昭和三十四年ダムのため旧部落は水没し、いま残留した村民が付近に新しい部落を形成している』とある。ここが現行の「砂子瀬」(マピオン地図データ。遙か南西方向に西目屋村「砂子瀬」の小さな飛び地が孤立して現存し、グーグル等の地図データで検索すると、そちらがかかってしまうようなので注意されたい)で、現在、ダムによって形成された大きな人造湖「津軽白神湖」の北岸と西岸にある。
「川原平村」やはり、底本の森山氏の以前の補註に、『西目屋村川原平(かわらたい)。目屋村の最南端の部落で、弘前市まで三二キロ、秋田県境まで一六キロという』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「半里」約二キロメートル。
「鍋倉澤」幾つかの情報から、先の津軽白神湖の上流にある「大川」の奥にある沢と同定出来る。大川はここ(グーグル・マップ・データ)。
「追𢌞せしかど」「おひまはせしかど」。
「脱去りて」「にげさりて」。
「柳茸」「やなぎたけ」は菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱ハラタケ目モエギタケ科スギタケ亜科スギタケ属ヌメリスギタケモドキ Pholiota adiposa の俗称。無毒(但し、川魚のような生臭さい臭いがあるので灰汁抜きが必要)。個人サイト「北海道の外遊び」の「北海道のキノコ狩り」の「ヤナギタケ(ヌメリスギタケモドキ)」を参照されたい。それによれば、『ヤナギタケは食感が良いので、三升漬けに混ぜたり』、『中華料理など濃厚な味付けをすると美味しく食べられます』とある。
「いとさはに」たいそう沢山。
「好き」「よき」。
「交與(あた)へ」二字へのルビ。
「二三枚」「に、さんひら」。
「落たる」「おちたる。
「駈歸りて」「かけかへりて」。
「内」「うち」。自宅。
「苦痛煩悶(くるしみもだし)」四字へのルビ。
「喧々起(さわぎた)つて」三字へのルビ。]
五 怪獸
安政二乙卯の年の九月、目屋野澤中畑村の忠吉といへるもの、川狩に出て安門の澤に登りしに、秋の日の早くも暮近くなれば今宵は此處に明すべきとて、とある木蔭にやすらひたりき。さるに、空中に大鳥のかけるひゞきして、そばなる樹の上に落て形は見えずなりし故、忠吉いぶかしく思ひ其樹に登りて見れば、二股になれる處に徑(わたり)一尺もあるべき穴ありてよほどの空洞(うつろ)と見ゆるから、その口に木をふさぎてかたく封じ、根元にも空洞の穴の少しある故枯葉をとり集めてしきりにいぶし立たるに、空洞の中をかけ𢌞(めぐ)る音しばしばなりしが次第に音も靜まりたれど、既に日も暮れ仕舞に物の黑白も分たざれば其まゝに捨置て、明る旦(あした)、鍵をさしのべてひきあけて見れば、狢(むじな)ばかりの大きさの獸死して有しが、それが四足いと短く口箸とがり尾長くして、未だ見もせぬ獸なれば持來りて村の年寄に見せければ、誰ありて名をだに覺へたるものなし。忠吉怪しき獸なりとて皮を剝ぎ弘前へ持來りしを、三ツ橋某したしく見たりと語りしなり。世に雷獸と言へる獸よく空をかけるとあれば、それにやと思はれし。
[やぶちゃん注:「安政二乙卯の年の九月」安政二年「乙卯」(きのとう)の九月一日はグレゴリオ暦一八五五年十月十一日。
「目屋野澤中畑村」「目屋野澤」は「めやのさは」で、以前に「雌野澤」と出たものと同じであろう。底本の森山泰太郎氏の「雌野澤」の補註に、『中津軽郡西目屋村・弘前市東目屋一帯は、岩木川の上流に臨んだ山間の地で、古来』、『目屋の沢目(さわめ)と呼ばれた。弘前市の西南十六キロで東目屋、更に南へつづいて西目屋村がある。建武二年』(ユリウス暦一三三四年)『の文書に津軽鼻和郡目谷』(太字「目谷」は底本は傍点「ヽ」)『郷とみえ、村の歴史は古い』。「メヤ」の『村名に当てて目谷・目屋・雌野などと書き、本書でも一定しない。江戸時代から藩』が運営した『鉱山が栄えたが、薪炭や山菜の採取と狩猟の地で、交通稀な秘境として異事奇聞の語られるところでもあった。本書にも目屋の記事が十一話も収録されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)が西目屋村であるから、注の東目屋とはその地域の東北に接した現在の弘前市地域である。先のマップを拡大すると、弘前市立東目屋中学校(行政地名は弘前市桜庭(さくらば)清水流(しみずながれ))を確認出来る。現行の「中畑村」は現在の青森県弘前市中畑で、ここ(グーグル・マップ・データ)。
「川狩」川漁。
「安門の澤」森山氏の補註に、『中津軽郡西目屋村の川原平部落から西方十キロの深山の中にかかる滝を暗門(あんもん)(安門)の滝という。三段にかかり一段ごとに方位を異にするといわれる。それぞれ五〇~七〇メートルの高さで壮絶である』とある。地図と滝(第二の滝)の画像が載る「白神山地ビジターセンター」公式サイト内の「暗門渓谷ルート(旧暗門の滝歩道)」で確認されたい。同ルート図(PDF)がある。この何処かがロケーションである。
「明す」「あかす」。
「空中に大鳥のかけるひゞきして、そばなる樹の上に落て形は見えずなりし」「其樹に登りて見れば、二股になれる處に徑(わたり)一尺」(三〇センチメートル)「もあるべき穴ありてよほどの空洞(うつろ)」(二字へのルビ)「と見ゆる」「狢(むじな)」(タヌキ)「ばかりの大きさの獸死して有し」「四足いと短く口箸とがり尾長く」これらの形状と生態(特に飛翔出来る点)及び樹上の空洞に営巣する点からは、日本固有種(本州・四国・九州に分布)で本邦に棲息するネズミ目の在来種では最大とも言われる(以下の引用を参照)、
哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科
Pteromyini 族ムササビ属ホオジロムササビ Petaurista leucogenys
に同定したくなる。ウィキの「ムササビ」によれば、『長い前足と後足との間に飛膜と呼ばれる膜があり、飛膜を広げることでグライダーのように滑空し、樹から樹へと飛び移ることができる。手首には針状軟骨という軟骨があり、普段は折りたたまれているこの軟骨を、滑空時に外側に張り出すことで、飛膜の面積を増やすことができる』(この飛膜面積が広い点は忠吉が見かけ上「四足いと短く」と見たこととよく符合すると私は思う)。『長いふさふさとした尾は滑空時には舵の役割を果たす』。頭胴長二七~四九センチメートル、尾長二八~四一センチメートル(「尾長く」と一致)、体重七〇〇~一五〇〇グラム(最大個体ならば、木の空洞の直径「一尺」で遜色なし)と、『近縁のモモンガ類』(モモンガ属 Pteromys)『に比べて大柄で』(日本固有種のリス亜目リス科モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momongaは頭胴長一四~二〇センチメートル、尾長一〇~一四センチメートル、体重一五〇~二二〇グラムしかない)、『日本に生息するネズミ目としては、在来種内で最大級であり、移入種を含めても、本種を上回るものはヌートリア位しかいないとされる』(下線やぶちゃん。以下同様)。『山地や平地の森林に生息』し、『特に、巣になる樹洞があり、滑空に利用できる高木の多い鎮守の森を好む』。夜行性で完全な樹上生活者である。『冬眠はしない』。一二〇メートル『以上の滑空が可能で、その速度は秒速最大』十六メートルにもなる(「大鳥のかけるひゞき」と一致)。『ケヤキやカエデなどの若葉、種子、ドングリ、カキの果実、芽、ツバキの花、樹皮など、季節に応じてさまざまな樹上の食物を食べる』。『地上で採食はしない。大木の樹洞、人家の屋根裏などに巣を作る』。『漢字表記の「鼯鼠」がムササビと同時にモモンガにも用いられるなど両者は古くから混同されてきた。両者の相違点としては上述の個体の大きさが挙げられるが、それ以外の相違点としては飛膜の付き方が挙げられる。モモンガの飛膜は前肢と後肢の間だけにあるが、ムササビの飛膜は前肢と首、後肢と尾の間にもある』。『また、ムササビの頭部側面には、耳の直前から下顎にかけて、非常に目立つ白い帯がある』(「口箸とがり」とあるが、実際には画像を見る限りではムササビはズングリとした丸顔ではある。しかし鼻部が有意に丸く突き出ており、また、この白帯紋があることから、顔は実際よりも見かけ上、尖って私には見える)。
ただ、この私の同定にははなはだ大きな問題がある。それは、これを見た「村の年寄」でさえ、誰一人として名指すことが出来ない=見たことも聴いたこともない「怪獸」だ、とした点である。同ウィキにも、『ムササビは、日本では古くから狩猟の対象であった』とし、『縄文時代では、青森県青森市に所在する三内丸山遺跡において、縄文集落に一般的なシカ・イノシシを上回るムササビ・ウサギが出土しており、巨大集落を支えるシカ・イノシシ資源が枯渇していたことを示していると考えられている』。『時代によっては保護の対象ともなり』、「日本後紀」には『ムササビの利用を禁ずるとする記述がある』。『特に、保温性に優れたムササビの毛皮は防寒具として珍重され、第二次世界大戦では物資が不足する中で、ムササビ』一『匹の毛皮は、当時の学校教員の月給に匹敵するほどの値段となった』。『被毛は筆の材料としても利用され、他にはない粘りと毛先に独特の趣がある』とある。これだけ古代から北の民が接してきたムササビを誰もムササビと名指せないというのは如何にもおかしい。或いは、頭部奇形或いは疾患を起こして有意に尖った面相がムササビに見えなかった、毛色や質も異なった変異個体であった(一晩、ある特定の成分を持つ植物の枯葉で燻されてしまった結果、毛が特異的に変質した可能性は大いにあるとは思う)というようなことか? 最後の弘前に持ちこまれたものは引き剝いだ皮だから「雷獸」(後注参照)としたのは頷けるとしても、村の老人が見たのは死んで半日も経たない完全個体である。また、後の「雷獸」の引用にも出る、食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン 日本固有亜種ホンドテン Martes melampus や、食肉(ネコ)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata などは生態・形状などはここまで一致しないし、前者ならば毛皮の有用性はモモンガ以上に古くから知られて狩猟対象であったから、老人が名指すことが出来なかったはずはなく、また、後者のハクビシンは、私は近代以降の外来種と考えているから、そもそもが同定候補たり得ないのである。他に比定し得るより相応しい四足動物が存在するのであれば、御教授戴きたい。
「仕舞に」「しまひに」。遂には。
「黑白も分たざれば」「こくびやくもわかたざれば」。真っ暗闇になってしまったので。
「其まゝに捨置て」と言っても、忠吉はこの近くで野営したのである。だから、その「怪獸」が、その後に、何らかの別な動物に襲われ、例えば顔面や四足が損壊して尖ったり短かくなったりした、などという事態は考えにくいことになる。そうした事態があれば、その騒ぎが忠吉に聴こえ(それなりに彼は翌朝まで注意していたに違いない)、また、空洞の入口等に有意な痕跡が必ず残るはずであるからである)。しかし、「明る旦(あした)、鍵をさしのべてひきあけて見れば」とある通り、忠吉は樹上・樹下の通じている空洞(ほら)をその夜、木切れなどで完全に閉塞させており(さればこそ、先に可能性を考えた燻煙によるミイラ化のような変質はあったかも知れぬ)、封鎖した空洞はそのままの状態だったのである(「鍵をさしのべて」という表現が少し分らぬが、これは木片などで封じた「鍵」を「押し外して」の意で採った)。
「雷獸」。ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には「平家物語」において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書「玄同放言」では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌「駿国雑誌」によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書「和訓栞」に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書「信濃奇勝録」にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆「北窻瑣談」では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書「越後名寄」によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆「閑田耕筆」にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。「古史伝」でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典「類聚名物考」によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の「奇怪集」にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆「甲子夜話」によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』【2018年8月9日追記:前者は「甲子夜話卷之八」の「鳥越袋町に雷震せし時の事」。但し、原文では「獸」とのみ記し、「雷獸」と名指してはいない。しかし、落雷の跡にいたとあるので、雷獣でよろしい。後者は「甲子夜話卷之二」の「秋田にて雷獸を食せし士の事」で2016年10月25日に電子化注済み。】『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集「絵本百物語」にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシン』(ネコ(食肉)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata)『と共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」及び電子化注「甲子夜話卷之二 33 秋田にて雷獸を食せし士の事」もご覧あれかし。特に後者はロケーションが本話とすこぶる近い。]
四 狼の力量幷貒
狼といふもの體に似合はぬ力量のあるものにて、去ぬる天保七申の年の二月永代村の辨助といへるもの養ふところの馬死たれば、皮を剝とりそのむくろを湯船川に捨んと、柴雪舟といふものにのせて六人の男ども精力を出して三四丁の路を捨たりき。さるに何處より來れるにや、一疋の狼ありて人の去るを見てしづかに歩行(あゆみ)より、かの馬の足をくはへてひきつり行くに、力を勞する氣しきもなく一の岱といふをこして次なる澤へ持行しが、その路程六七丁となり。又、去ぬる己亥年同村なる藤次郎といへるものゝ馬死して、そのむくろを山に捨置しが、狼に喰はれて腰の肉と二つの足のみ殘れりたるに、是を餌にして狼をとらんと所のもの共四五人語り合せ、かの馬をひきゆきて程よきところに捨置しに、果して一疋の狼來りてこれをくはへ、首さしあげてゆふゆふと往き過ぎるを見て、二人一同に鐡砲を打かけしに一つは胸にあたり一つは股を貫きたれど、さしてよわる氣色もなく馬を銜へながら十六七間走りしが、つひにそこにて倒れたり。この者共得物を提けて立向へば、狼は手負ひながら立上りてくらひつかんとするを、皆々立かゝりて終に殺せり。實に牛馬もかなはぬものなれば、斯ることもあるべきなりと永代村の彌左衞門といへるもの語りしなり。
又、貒(まみ)といへる獸もいといと力量ありて、二人の男の動かし得ざる程の岩をいと易く押のくるとなり。この獸岩岸の岩洞(あな)に巣みて狢(むじな)ごとくなるが、狢より口箸(くちはし)とがり前足短く後足高く形なり。齒牙と四爪(つめ)はいと鋭く、これにふるれば死に至るものも有と言へり。性いたく烟を忌るからに、こをとるものその洞穴の口に蕎麥(そば)の殼などをいぶして、しきりに烟を吹き入るれば洞穴に耐へずして駈出るを、矢庭に命門(きふしよ)をうつて殺せるとなり。又この獸前足短かなる故、とく走り得ずとなり。赤倉の岩岸(くら)盲人岩(めくらいは)にはいと多くすめるとなり。
[やぶちゃん注:「貒」本文でルビするように、「まみ」と読み、これは後の本文に出る形態描写とその燻しによる狩猟法から、食肉(ネコ)目イヌ型亜目クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma である。ウィキの「ニホンアナグマ」によれば、『日本の本州、四国、九州地域の里山に棲息』。十一月下旬から四月中旬まで『冬眠するが、地域によっては冬眠しないこともある』。体長は四〇~五〇センチメートル、尾長六~十二センチメートルであるが、地域や個体差により、かなり異なる。体重は四~十二キログラム。『指は前肢、後肢ともに』五本あり、親指は他の四本の『指から離れていて、爪は鋭い。体型はずんぐりしている。 食性はタヌキ』((ネコ)目イヌ科タヌキ属タヌキ Nyctereutes procyonoide)と殆んど同じである。『特にミミズやコガネムシの幼虫を好み、土を掘り出して食べる。 巣穴は自分で掘る。 ため糞』『をする習性があるが、タヌキのような大規模なものではなく、規模は小さい。本種は』タヌキ同様、『擬死(狸寝入り)をし、薄目を開けて動かずにいる』とあり、『タヌキと本種は混同されることがある』『が、その理由の一つとして、同じ巣穴に住んでいる、ということがあるのではないかと推察される。本種は大規模な巣穴を全部使用しているのではなく、使用していない部分をタヌキが使用することもある』。『昔の猟師は本種の巣穴の出入口を』一『ヶ所だけ開けておき、残りのすべての出入口をふさぎ、煙で燻して本種が外に出てくるところを待ち伏せして銃で狩猟した。そのときに本種の巣穴の一部を利用していたタヌキも出てきたことも考えられ、このことがタヌキと本種を混同する原因の一つになったと思われる』とある(下線やぶちゃん)。本文に「狢より口箸(くちはし)とがり」とある通り、本種はタヌキより遙かに頭部前部が尖っている。
「天保七申の年の二月」天保七年は丙申(ひのえさる)で一八三六年。同年の旧暦二月一日はグレゴリオ暦の三月十七日に相当する。
「永代村」現在の鰺ヶ沢町長平町(ながたいまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。前条に出た「芦萢(あしやち)村」の尾根を越えた東方。
「湯船川」「ゆぶねがは」。長平を通るこの川(「川の名前を調べる地図」のデータ)。
「柴雪舟」一応、「しばゆきぶね」と訓じておくが、これは舟ではなく、簡易に仕立てた橇(そり)様の運搬装置らしい(さればこそ次の運搬難渋の様子が腑に落ちるのである)。底本の森山泰太郎氏の補註に、『しばぞり。木の枝を切ったものをそのまま「そり」の代りにして物をのせ、引いて運んだものであろう。いわば枝ぞりであり、飛騨地方でいう柴ぶねというものと同じか』とあるからである。
「三四丁」三百二十八~四百三十六メートル。
「ひきつり行く」ママ。「引き摺(ず)り行く」であろう。
「氣しき」「氣色」。
「一の岱」「いちのたい」。これで場所を指す固有名らしい(具体な位置は不詳)。「岱」は一般に山の上にある湿原或いは草原様の箇所を指す語である。
「持行しが」「もちゆきしが」。
「六七丁」六百五十五~七百六十四メートルほど。
「去ぬる己亥年」天保一〇(一八三九)年。「己亥」は「つちのとい/キガイ」。
「銜へながら」「くはへながら」。
「十六七間」二十九~三十一メートルほど。
「得物」鉄砲或いは鉈などであろう。
「提けて」ママ。「さげて」。手に。
「立向へば」「たちむかへば」。
「實に」「まことに」。
「押のくる」「おしのくる」。「押し退くる」。
「岩岸」後で「くら」と読んでいる。しばらくそれに従う。
「岩洞(あな)」二字へのルビ。
「狢(むじな)」狸。
「性」「しやう(しょう)」。
「忌る」「いめる」、或いは「いやがる」と訓じているかも知れぬ。
「洞穴に耐へずして駈出るを」「洞穴に」籠れるに「耐へずして」駈出」(かけいづ)「るを」。
「矢庭に」「やにはに」。間髪を入れずに。
「命門(きふしよ)」「急所」。
「とく」「疾く」。早くは。
「赤倉の岩岸(くら)」岩木山東北の赤倉沢(ここ(グーグル・マップ・データ))の切岸か。ここを下ると、青森県弘前市百沢東岩木山の赤倉山神社があり、ここは岩木山の登山口でもある。
「盲人岩(めくらいは)」不詳。こうした古い差別地名は、今のうちに同定しておかないと永久に所在が判らなくなってしまうと私は内心、危惧している。識者の御教授を乞う。]
三 皮を剝ぎ肉を截(きら)れて聲を發(た)てず
何れの御邸第(おやしき)にや名は忘れたれど、酉藏と言へる仲間頭のものありき。一日飴(あるひ)餘所(よそ)へ出て夜亥剋(よつとき)のころ歸りしが、時境(をりから)月いと澄わたりて明亮(あきらか)なるに、不圖塀の内なる松を向上(みあぐ)れば、平素(つね)に見もせぬ瘤あるに怪しく思ひ、門の裏に入りて看改(みなほ)せど紛れもあらぬ大きなる瘤なりき。酉藏は卽便(そのまゝ)松に登り帶たる木刀にて彼瘤を暴栗(したゝか)に擊ければ、狐ありて脇の枝に遷りたり。然(さて)こそあれと犬を呼びしに大きなる犬ども六七疋かけ來れば、酉藏は枝を拂ひて嚴しく逐たてしに、堪へえでや忽ち地上に墮たるを、數疋の犬やがて嚙つき已に殺すべかりしを、犬を追ひ退け狐を捕へて部屋に携來り、仲間共にしかしか語りていまだ活あるものを皮剝しかど、苦痛の容子もなくすこしも聲を出さず。かくて皮を剝畢(はぎお)ひぬるに其狐はむくむくと起(おき)て立んとするを、又擲きふせ肉を截扮(けづり)汁に焚(たい)て噉ひしかども死なでありけり。世の話に狐死に迨ぶとも苦聲を發することなしと言へるは實(まこと)なることなりと、この酉藏語りしとて山内與之吉といへる人語りしなり。こは天保二三年頃なるよしなり。
又、僕又吉の語りけるは、弘化二年にてありけん、中村の山中にて芦萢(あしやち)村の者共狼の子の未だ幼氣(をさなげ)なるもの二三疋狩出して、卽便(そのまゝ)叩きふせ肚を剝き背を割りて寸々(ずたずた)に屠れども、さらに一聲も發(いだ)さずして死せるとなり。狼と狐は苦痛をよく堪へて死に迨るといへども聲を發(た)てることなしと、老夫(としより)の語なりと語りしなり。實にさることのあるにこそ。
[やぶちゃん注:「酉藏」「とりざう(とりぞう)」と読んでおく。音なら「いうざう(ゆうぞう」であるが、一般的とは思われない。
「仲間頭」「中間頭」。「ちうげんがしら」。
「亥剋(よつとき)のころ」二字へのルビ。午後十時頃。
「時境(をりから)」二字へのルビ。
「不圖」「ふと」。
「裏」「うち」。
「暴栗(したゝか)に」二字へのルビ。
「擊ければ」「うちければ」。
「遷りたり」「うつりたり」。
「逐たてしに」「おひたてしに」。
「墮たるを」「おちたるを」。
「嚙つき」「かみつき」。
「携來り」「たづさへきたり」。
「仲間共」支配の中間(ちゅうげん)ども。
「しかしか」ママ。
「活」「いき」。息。
「剝しかど」「はぎしかど」。
「剝畢(はぎお)ひぬるに」ルビはママ。「はぎおはんぬるに」の意。
「立ん」「たたん」。
「擲きふせ」「たたき伏せ」。
「截扮(けづり)」二字へのルビ。動詞として訓じている。
「噉ひしかども死なでありけり」不審。――「噉(くら)ひしかども」「死」ぬるま「で」(切り刻んで鍋にすっかり姿形を失ってしまう、その直前まで狐は)聲立てず「ありけり」――の謂いであろう。肉鍋にして喰らっても生きていたら、これはもう、無惨を通り越して、シュール過ぎる。
「迨ぶ」「およぶ」。「及ぶ」。
「苦聲」「くしやう」。狐を悼んでかく訓じておく。
「與之吉」「よのきち」と読んでおく。
「天保二三年」一八三一、一八三二年。
「僕」「しもべ」。
「又吉」「またきち」。
「弘化二年」一八四五年。
「中村の山中」前に出した底本の森山泰太郎氏の「中村澤目」の補註で、『中村川(西津軽郡鯵ケ沢町の東を流れ、舞戸で日本海に注ぐ)に沿う山間地帯をいう。中村・横沢・芦苑』(あしや)『(いずれも鯵ケ沢町に属す)などが主な部落である』とある中の「中村」であろう。現在の鯵ケ沢町の鯵ケ沢街道に沿った中村町。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「芦萢(あしやち)村」底本の森山氏の補註に、『西津軽郡鯵ケ沢町芦萢(あしやち)。中村川を滑った山間の村落』とある。現在の鯵ヶ沢町(あじがさわまち)芦萢町(あしやちまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「狼」絶滅した食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax。
「肚を剝き」「はらをむき」とと取り敢えずは訓じておく。但し、平尾はしばしば濁点を打たないこと、標題から見るなら、「はらをはぎ」と読んでいる可能性が高い。
「屠れども」「はふれども」。ほふる。体を切ってばらばらにする。
「迨る」「およべる」「及べる」。
「實に」第一段落との対表現であるから、「まことに」。]
3-14 伊達綱宗、作刀の事
予が家藏に無銘の短刀あり。帳面に嘉心作とのみ記して、其人詳ならず。或曰、光彩凡ならず。鑑するに、網宗朝臣なるべしと。因て同席の伊達若狹守に【伊豫富田三萬石】問たれば、本家綱宗、隱居後嘉心と稱せしと答ふ。始て此刀の作者を知けり。思ふに篤信君隱退して仙臺侯としばしば懇會ありしと。その時請得られし者なるべし【後に官の史局の記を聞に、綱宗万治三年隱居願ふ處、平生行狀不ㇾ宜につき、逼塞仰付らる。寬文九年名を若狹守と更め、剃髮して嘉心と號と。此時を考るに網宗年二十一、又新刀辨疑の所載は、綱宗朝臣の戲作世に稀なる者也。地鐵細に、小錵有て、匂深し。大和守安定に似たり。中龜文に出來たるは、南紀重國に似たるも有。又莖の銘を見はす文に、於二武州品川一仙臺國司陸奧綱宗】。
■やぶちゃんの呟き
「詳」「つまびらか」。
「或曰」「あるひと、いはく」。
「鑑するに」「かんがみするに」と訓じておく。鑑定する限りでは。
「網宗」陸奥仙台藩第三代藩主伊達綱宗(寛永一七(一六四〇)年~正徳元(一七一一)年)。第二代藩主伊達忠宗六男。ウィキの「伊達綱宗」によれば、母は側室貝姫であったが、彼女が後西(ごさい)天皇の『母方の叔母に当たることから、綱宗と後西天皇は従兄弟関係になる。六男であったが、兄・光宗の夭折により嫡子とな』り、万治元(一六五八)年、『父・忠宗の死により家督を継』いだが、一般には十八の若さで藩主となり、『酒色に溺れて藩政を顧みない暗愚な藩主とされている。さらには叔父に当たる陸奥一関藩主・伊達宗勝(伊達政宗の十男で、忠宗の弟)の政治干渉、そして家臣団の対立などの様々な要因が重なって、藩主として不適格と見なされ』、幕命により万治三(一六六〇)年七月に、不作法の儀により二十一歳の若さで『隠居させられ』、家督は綱宗の二歳の『長男・亀千代(後の伊達綱村)が継いだ』。『この間の経緯であるが、池田光政(備前岡山藩主)、立花忠茂(筑後柳川藩主)、京極高国(丹後宮津藩主)ら伊達家と縁戚関係にある大名や伊達宗勝が相談しあい、幕府の老中・酒井忠清に願い出て』、『酒井に伊達家の家老らをきつく叱らせ、綱宗に意見してもらう事で一致したが、綱宗は酒井の強』い意見にも全く『耳を貸さなかったため、光政や宗勝らは』『綱宗の隠居願いと亀千代の相続を願い出』、『「無作法の儀が上聞に達したため、逼塞』(ひっそく):武士や僧侶に行われた謹慎刑。門を閉じ、昼間の出入りを禁じたもの。「閉門」(門・窓を完全に閉ざして出入りを堅く禁じる重謹慎刑)より軽く、「遠慮」(処罰形式は「逼塞」と同内容であるが、それよりも事実上は自由度の高い軽謹慎刑)より重い。夜間に潜り戸からの目立たない出入りは許された)『を命じる」との上意が綱宗に申し渡されている』。なお、その翌日には『宗勝の命令で綱宗近臣』四人が『成敗(斬殺)され』ている。『綱宗自身はその後、品川の大井屋敷に隠居し』、『作刀などの芸術に傾倒していったといわれる。綱宗が酒色に溺れ、わずか』数え二歳の『長男・綱村が藩主となったことは、後の伊達騒動のきっかけになったのである。だが、伊達騒動を題材にした読本や芝居に見られる、吉原三浦屋の高尾太夫の身請けやつるし斬りなどは俗説とされ』、また、『綱宗は後西天皇の従兄弟であることから幕府から警戒されており、保身のために暗愚なふりをしていたとの説もある。実際綱宗は風流人で諸芸に通じ画は狩野探幽に学び、和歌、書、蒔絵、刀剣などに優れた作品を残しており、「花鳥図屏風」(六曲一双
紙本金・銀地著色)をはじめとした作品が仙台市博物館に所蔵されている。また、藩主交代そのものが仙台藩と朝廷の連携を恐れた幕府の圧力であるとの説もある』とある(下線やぶちゃん)。
「伊達若狹守」「【伊豫富田三萬石】」伊予吉田藩(現在の愛媛県宇和島市吉田町立間尻御殿内(旧北宇和郡吉田町)に陣屋を置いた)第六代藩主伊達若狭守村芳(安永七(一七七八)年~文政三(一八二〇)年)。静山より十八年下。
「綱宗、隱居後嘉心と稱せし」個人のサイト「宮城県ナビ」の伊達綱宗のページに、逼塞を命ぜられた後は『一切の政事から身を引き,不遇の生涯を江戸品川藩邸で酒を断ち、頭を丸め』て『「嘉心(かしん)」と号し』、『謹慎して書画、和歌、能、茶道等』、『芸術三昧に生き』、『絵画だけでなく』、『工芸や刀剣など各分野に本格的な技量を発揮した』とある(下線やぶちゃん)。
「始て此刀の作者を知けり」「はじめて、このかたなのさくしやをしりけり」。
「篤信君」肥前平戸藩第六代藩主松浦篤信(まつらあつのぶ 貞享元(一六八四)年~宝暦六
(一七五七)年)。静山の曽祖父。正徳三(一七一三)年に養父棟(たかし)の隠居により、家督を相続、享保一二(一七二七)年に病気を理由として家督を長男有信に譲って隠居している。この後に出る
「仙臺侯」篤信の同時代人の陸奥仙台藩第五代藩主伊達吉村(延宝八(一六八〇)年~宝暦元(一七五二)年)であろう(次代の伊達宗村(享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)では篤信との年齢差が激し過ぎる)。
「請得られし」「こひえられし」。
「官」公儀。
「史局」幕府内の史書編纂に当たった役所。
「聞に」「きくに」。確認をとってみたところ。
「平生行狀不ㇾ宜につき」「へいぜい、ぎやうじやう、よろしからざるにつき」。
「寬文九年」一六六九年。まさにかの伊達騒動の勃発直後。
「號」「がうす」。
「考るに」「かんがふるに」。
「新刀辨疑」「しんとうべんぎ」は江戸で安永八(一七七九)年に板行された川越候松平大和守家臣であった鎌田魚妙著になる「新刀」(慶長(一五九六年~一六一五年)頃から安永(一七七二年~一七八一年)頃までに作刀された当時から見て新しい刀を指す。この「新刀」という語は既に享保(一七一六年~一七三五年)頃から盛んに用いられ始めていた)の鑑定解説書。原文を確認されたい方は、「埼玉県」公式サイト内の参照したここでPDFで見られる。本記載も見られるものと思われるが、私は刀剣への興味が全くないし、探すのも骨折るばかりで、誰も褒めてはくれまいから、やらぬ。御自身でお探しあれかし。
「戲作」乍ら、「世に稀なる者也」と言うのでろう。
「地鐵」「ぢがね」と読む。日本刀は鍛錬によって刀身本体の表面に美しい地紋が現われるが、その肌模様を「地肌」と称し、その素地を「地鉄」と称する。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の「刀剣を見るための基礎知識」が非常に分かり易い。
「細に」「こまかに」。
「小錵」「こにえ」と読む。刀剣の刃に生じた粒状の紋様を指し、「沸(にえ)」とも書く。「兵庫県立歴史博物館」公式サイト内の「刀剣を見るための基礎知識」に、『刃文は、熱した刀身を水に漬ける焼き入れの際に、急速冷却されることによって鋼の成分が変化してできる「沸(にえ)」や「匂(におい)」と呼ばれる細かな粒子で構成されて』おり、『沸は、文様を構成する白い粒子が粗めで、肉眼で視認できる程度の大きさのものをいい、匂とは肉眼での視認が難しい程度の微粒子で、見た目は白い霞のようにみえるものを』指し、『刃文が沸主体でできていれば「沸出来(にえでき)」、匂い主体であれば「匂出来」と呼』ぶとある。
「有て」「ありて」。
「匂」「にほひ」。前々注参照。嘉心(綱宗)作の紋様の粒子が極めて細かなものであったことが判る。
「大和守安定」「やまとのかみ やすさだ」は、ウィキの「大和守安定」によれば、『江戸時代の武蔵国の刀工。新刀上々作にして良業物』(よきわざもの)の名人。『生まれは越前国というのは最近では誤伝とされ、紀伊国石堂の出である。現に石堂出身であることを裏付ける資料も確認されている。通称は「宗兵衛」』。『彼の刀に石堂の作風は見当たらない物が多く、石堂出身でありながら康継一門と相当密接な関係があったといわれ、初代康継の門人であったと言われている。ただ、小笠原信夫は著書「長曽祢乕徹新考」において、康継一門よりは和泉守兼重と深い関わりがあったとしている(安定の作刀銘より考えて、生年は』元和四(一六一八)年『であり、初代康継が没したのが』元和七(一六二一)年『であるから師弟関係が成立する事は考えにくい)』。『安定の刀は茎に裁断銘が多くあり』、『切れ味がよかった。山野加衛門が江戸幕府始まって以来五つ胴を切ったとされる刀もある。遊撃隊の伊庭八郎や新撰組の沖田総司、大石鍬次郎の愛刀としても有名。作風としては、虎徹に似る』。『明暦元年に伊達家の招きで仙台に招かれ、徳川家康の命日に仙台東照宮に一振り、伊達政宗の命日に瑞鳳伝に一振り安定とその弟子達の合作である脇差が奉納刀として収められている。
瑞鳳伝の奉納刀は戦後伊達家より改めて瑞巌寺に奉納されている。 また、大和守安定の弟子である安倫はその後仙台で刀工として明治まで続いている』とある。
「中龜文」「ちうきもん」と音読しておく。太刀(太刀は刃を下にして腰から吊り下げて身に付ける)では刀と異なり、体の外側が「佩表(はきおもて)」となり、その佩表の「茎(なかご:刀身の柄に被われる部分)」に亀甲紋(きっこうもん)があるという謂いであろう。刀剣売買のサイトの「亀甲貞宗」の解説及び画像を見られたい。それによれば、『亀甲紋は出雲神社の神紋である。亀甲貞宗の紋も出雲神社と直接的でなくても、何らかの関係がありそうである』として亀甲の家紋についても詳述されている。
「南紀重國」「なんきしげくに」は紀州藩御抱え刀工とその一派を指す。幕末まで十一代続いた。ウィキの「南紀重国」によれば、『狭義では、初代の重国(文珠と称す・通称は九郎三郎)個人や、その製作刀を指す場合が多い。広義では、二代以降の重国や、その製作刀を含むことも多く曖昧な呼称である』。『大和伝手掻派の末裔であるという初代重国は、新刀期屈指の名工であったと伝えられる。本国は大和国であったが駿府の徳川家康に召されたのち、紀州徳川家の家祖徳川頼宣に従って紀州に移り、その後は十一代にわたり御抱え刀工となった』。『作刀期は元和の頃が多いとされる』。『大和や駿府などで製作され、その旨を切銘された刀身も現存しているが、紀州で製作され現存している刀身には「於南紀重国造之」「於南紀重国」の銘が多い』。二代重国は『初代重国の実子で金助(通称は四郎右衛門)』で、『父の業績を慕ってか、製作刀の銘に「文珠」の文字を切ったものが多く、特に区別して文殊重国と呼称される。徳川頼宣の相手鍛冶を勤めたと伝えられる』。『作刀期は明暦の頃が多いとされる』。四代重国は紀州出身の第八代『将軍徳川吉宗に江戸に召し出され』、『浜御殿で作刀し、その技量の高さを認められ葵一葉紋を茎』(なかご)『に刻むことを許される栄誉を受けた。(他に吉宗に葵一葉紋を許された刀工は、一平安代、主水正正清、信国重包のみ)』とある。
「莖」「前注の通り、「なかご」と訓ずる。
「見はす文」これで「あらはすぶん」と読む。
「於二武州品川一仙臺國司陸奧綱宗」「武州品川に於いてす。仙臺の國司・陸奧綱宗」と訓ずるか。
京白河牛石幷加茂川石の事
〇山城の白川(しらかは)は、如意天台の川より流れくる谷川也、往古(むかし)志賀の山こえせし道と云(いふ)。白川村の山中を入(いる)事二里ばかりにして川中に牛石(うしいし)と云(いふ)あり、長さ九尺斗(ばか)り橫五六尺あり、牛のかたち彷彿(はうふつ)たり。背の筋など分明にありといふ。下加茂みたらしの中にも石蠶(せきさん)といふものあり、口などもあり、水あるときは動き行くをみる、水なき時はすべて小石の如し。
[やぶちゃん注:「山城の白川は、如意天台の川より流れくる谷川也」淀川水系鴨川支流の白川は現在の滋賀県大津市及び京都府京都市を流れが、その流域の殆んどは京都市東山区及び左京区に属する。滋賀県と京都府との境界付近に連なる東山の山々の中の、天台宗延暦寺のある比叡山と、如意ヶ岳の間に位置する滋賀県大津市山中町の山麓、俗に「白川山」と呼ばれる場所に源を発する(以上はウィキの「白川(淀川水系)」に拠る)。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「白川村」旧京都府愛宕郡白川村附近。現在は京都市左京区の一部であるが、旧村域は非かなり広い。ウィキの「白川村」によれば、『東山山中から発する白川が京都盆地東北角に入』ることで形成された『広大な扇状地(北白川扇状地)を中心とする』地域で、『北は愛宕郡修学院村(現在の左京区一乗寺地区)、東は滋賀県、南は京都市上京区吉田町・浄土寺町(現在の左京区吉田地区・浄土寺地区)、西は愛宕郡田中村(現在の左京区田中地区)に囲まれており、村の境域は現在の京都市左京区南部の北白川地区(北白川を町名に冠する地域)にほぼ一致する』とある。
「牛石」「都名所圖會」の「卷之三 左靑竜」に『北白川は銀閣寺の北なり。里の名にして、川は民家の中を西へ流れる。これなん名所三白川のその一なり』とし、『この里は洛(みやこ)より近江の志賀坂本への往還なり。志賀の山越えといふ。素性法師が「君が代までの名こそありけれ」とつらねし白川の滝は道の傍らにありて日陰を晒し、川の半ばに橋ありて、はじめは右手(めて)に見し流れもいつとなく弓手(ゆんで)になりて、谷の水音浙瀝(せつれき)として深山(みやま)がくれの花を見、岩ばしる流れ淸く澄みて皎潔(きやうけつ)たる月の影鬧(いそがは)しく、橋のほとりに牛石(うしいし)といふあり。形は牛の臥したるに似たり。これよりひがしに山中(やまなか)の里あり。比叡(ひえ)の無動寺へはこの村はづれの細道より北に入る。右のかたの一つ家(や)に川水を筧(かけひ)にとりて水車めぐる』とあることで位置が概ね判る(「浙瀝」は「物侘びしい興趣を添えること」か。「皎潔」は「白く清らかで汚れのないさま」「鬧」は「五月蠅いこと」で月光が川流れにきらきらちらちらすることを却って小五月蠅いものと形容したのであろう)。現行、白川の流れの中にはこの石があるという情報がない。直近にある京都府京都市左京区北白川仕伏町(しぶせちょう)の北白川天神宮(ここ(グーグル・マップ・データ))には視認は出来なかったが、ネット上の情報では「牛石」があるらしい。移されてここに祀られたものか? 識者の御教授を乞う。
「九尺」二メートル七七十三センチ弱。
「五六尺」一メートル五十二センチから一メートル八十二センチ弱。
「下加茂みたらし」下賀茂神社(正式には賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)の手水とされる御手洗川。
「石蠶」以下の「口などもあり、水あるときは動き行くをみる、水なき時はすべて小石の如し」という叙述から、これは前の牛石のシミュラクラなんどではなく、昆虫綱毛翅上目トビケラ目 Trichoptera に属する昆虫類の幼虫であることが判る。最も知られるものとしては、砂礫で作られた蛹巣(ようそう)を人形に見立てた山口県岩国市の民芸品「石人形」で知られる(和名の由来もそれ)、トビケラ目ニンギョウトビケラ科ニンギョウトビケラ属ニンギョウトビケラ(人形飛螻蛄)Goera
japonica などが知られる(本種は幼虫期、細かい砂を分泌物で綴り合わせて筒状の巣を作り、さらにその側面に大きな砂粒を人形の手足の様に附ける)。さても、これを説明をし出すと、また、諸君に飽きられる長々しいものとなるので(私は楽しいのだがね)、そうさ、幾つかあるのだが、私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 石蠶」の本文及び私の注などを是非、参照されたい。]
隱岐國駒とりの事
○出雲より隱岐へは渡海七里程あり。隱岐に牧駒(まきごま)有(あり)、年々繁殖するを、春ごとに駒をとりて出雲へ牽來(ひききた)り遣ふ事也。その母馬(ははうま)を一疋取得(とりえ)て四蹄(してい)を縛(ばく)し舟に乘すれば、その子馬はみなみな跡に隨(したがひ)て舟に乘り來ると云(いふ)。
[やぶちゃん注:この話、そこはかとなく哀しくなってくる。
「出雲より隱岐へは渡海七里程」誤り。隠岐諸島は島根半島の北方約五〇キロメートルに位置する。
「牧駒」放牧されいた隠岐馬。島根大学の「汽水域研究センター」公式サイト内の「隠岐馬」によれば、『隠岐馬は、奇蹄目の日本馬の一種で、体高が低い隠岐在来の矮小馬である。足は細く、蹄が強いため蹄鉄を打たなくてもよく、首は太く、たてがみは直毛で弾力があり、毛色は鹿毛(茶褐色)や青色(純黒色)が多かった。また、神経質で性急にして怒りやすく、ややもすれば人を噛んだり、蹴ったりすることもあり、御しがたい性質の馬であった』が、明治三九(一八九九)年と昭和一一(一九三六)年の二回に『わたる日本馬政局の馬政計画の実施により、隠岐馬の雄はすべて去勢され、絶滅』させられてしまったとある。リンク先には現存する十二歳の雄馬の骨格標本の画像がある。]
同國大社祭禮の事
○出雲の大社は天(あめ)の日隅(ひすみ)の宮(みや)と號す。神主(かんぬし)國造(くにのみやつこ)を千家(せんげ)と號す。此(この)千氏中古より兄弟兩家にわかれ、兄の家は鶴山(つるやま)といふ所に住す。弟の家は龜山(かめやま)といふ所に住す。此(この)龜山をば八雲山ともいふ、いづれも千家と稱す。兄の一家中古已來斷絶して、そのわかれより繼(つぎ)しゆへ、今は却(かへつ)て弟の家を本家と稱し、つる山をば北島千家と稱する事也。又千家の外に別火と稱する家あり、二百石を領す。毎年十月四日の神事に、大社の沖を五十田狹(いそたさ)と號する所あり。此沖十里ばかりに鹽燒島といふ所へ此別火其夜浪を踏(ふみ)て至り、燒鹽を取來(とりきた)りかはらけにもり供する神事あり。此夜諸人出行(いでゆく)を禁ず。いそたさは遠淺ゆへ舟なき所なるに奇異の事也。同月十一日の神事に錦色の蛇いそたさに出現すといへり。
[やぶちゃん注:「同國」前条を受け、出雲国。
「天の日隅の宮」「日本書紀」での出雲大社の呼称。
「千家」先行する底本の竹内氏の注に、『出雲大社の神官の長たる国造家、天穂日命』(あめのほいのみこと)『の後で、近世は千家と北島家にわかれ、大社に奉仕した。古代のクニノミヤツコ(国造)の名が踏襲されてきたのである』とあり、以下の「千家」家及び「北島千家」(北島家)も含め、ウィキの「出雲国造」に詳しい。現在は千家系が大社を主管している。その近代の経緯(は私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (プロローグ)』の明治期の第八十一代出雲国造(いずものくにのみやつこ)であった「千家尊紀」(せんげたかのり)氏についての同ウィキその他を用いた注なども参照されたい。
「鶴山」出雲大社の背後の社殿に向かって左(西側)にある山。
「龜山」出雲大社の背後の社殿に向かって右(東側)にある山。
「此龜山をば八雲山ともいふ」不審。現在は社殿の背後中央にあるピークを八雲山と呼称している。
「別火と稱する家あり」現在も出雲大社祠官家の姓に「別火(べっか)」という姓がある。この「別火」とは、「日常の穢れた火とは違う神聖な別な火」、神聖な儀式に則り、神聖に道具で鑽(き)り出したところの「神聖なる火」の意である。そうした特殊な火を以って調理したものだけを口にすることによって、潔斎するとともに、神人共食に近い状態に持ち込むことで、神に直接特別に奉仕する、という極めて古形の神式に基づく儀式から派生した神職及びそれを掌った一族に与えられた姓と考えられる。私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (六)』の本文及び注も是非、参照されたい。
「十月四日の神事」出雲大社の最重要の神事の一つである神迎祭で、現在も旧暦十月十日に行われている(今年二〇一六年は十一月九日に行われた)。
「五十田狹(いそたさ)」現在の通称で「稲佐の浜(いなさのはま)」と呼ぶ砂浜。出雲市大社町の出雲大社社殿の真西凡そ一キロメートル強に位置する砂浜海岸。ウィキの「稲佐の浜」に、『国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」(『古事記』)、「五十田狭の小汀」(『日本書紀』)などの名が見える。また稲佐の浜から南へ続く島根半島西部の海岸は「薗の長浜(園の長浜)」と呼ばれ、『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」においては、島根半島と佐比売山(三瓶山)とをつなぐ綱であるとされている』とあり、出雲大社の神事である神幸祭(新暦八月十四日)と神迎祭(旧暦十月十日。今年二〇一五年の場合は十一月二十一日に相当し、実際に本年度例祭にはそう組まれてある)が行われる。浜の周辺には、
《引用開始》
弁天島(べんてんじま) 稲佐の浜の中心にある。かつては弁才天を祀っていたが、現在は豊玉毘古命[やぶちゃん注:「とよたまひめ」と読む。]を祀る。
塩掻島(しおかきしま) 神幸祭においては塩掻島で塩を汲み、掻いた塩を出雲大社に供える。
屏風岩(びょうぶいわ) 大国主神と建御雷神[やぶちゃん注:後で注するが「たけみかづちのかみ」と読む。]がこの岩陰で国譲りの協議を行ったといわれる。
つぶて岩 国譲りの際、建御名方神[やぶちゃん注:後で注するが「たけみなかたのかみ)」と読む。]と建御雷神が力比べをし、稲佐の浜から投げ合った岩が積み重なったといわれる。
《引用終了》
があると記す。
「此沖十里ばかりに鹽燒島といふ所」とあるが、これは「島」という語尾と、伝聞自体のの誤りである(「十里」(約四十キロメートル弱)というのは全く以っておかしい)。前注した「塩掻島」であるが、これは少なくとも現在は島嶼ではなく、稲佐浜北部にある海岸の一部を指す。こちらの絵地図(PDF)で確認されたい。なお、古い絵葉書などを見ると、この現在は「塩掻島」と呼ばれている岩場は「鹽燒島」とも呼ばれており、神代に於いて、ここで初めて塩が作られた場所とされる。
「かはらけ」「瓦笥」或いは「土器」と書く。素焼きの盃。
「もり」「盛り」
「此夜諸人出行(いでゆく)を禁ず」やはり、私の『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十一章 杵築のことゞも (六)』の本文及び注を参照されたい。この前後の神事は、すでに本来の意義を追求し得ず、不思議なものが実は多い。
「いそたさは遠淺ゆへ舟なき所なるに奇異の事也」この逆接の接続助詞「に」は不審。或いは前の「此沖十里ばかりに鹽燒島」があるという誤認から、そこへ向かうには船がなくては無論、行けないはずなのだが、「いそたさ」「五十田狹(いそたさ)」=「稲佐の浜」は遠浅で(これは事実)小舟さえも着けられないから、そこからは舟を出すことは出来ない「のに」どうことだろう? 「奇異の事」なり=訳が分からぬ、というのであろうか。取り敢えず、そう私は採りたい。
「同月十一日の神事」神在祭。現行では同時に出雲大社教龍蛇神講大祭が行われており、龍蛇神は神迎祭で大国主神様の使者として八百万の神を迎え、稲佐の浜から出雲大社まで先導される神とされているので、以下の「錦色の蛇いそたさに出現す」という叙述と合致する。この蛇については、『小泉八雲 落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第八章 杵築――日本最古の社殿 (五)』の本文及び私の注も参照されたい。]
二 羽交(はがひ)に雄の頸を匿す
文政の年間なるよし、合田某と言へる人鐡の名手なるが、ある日殺生打に出て八幡宮の林に至り、鴛鴦鴨(をしがも)のあるを見て一放に打とめ、卽(やが)て立よりその鳥を視るに咽首(のどくび)に中り、頸は斷切(ちぎれ)て其あたりに見えざれば、其まゝ打棄て歸られき。さるにあくる年のこの月日に、圖らず又八幡宮の林に至りて鳥や居ると看眺(ながむ)るに、又鴛鴦鴨のありければ否や打とめ摘擧(とりあげ)て見るに、こたびは雌鳥にてその羽がひに骨ばかりなる鴛鴦鴨の首を匿せり。合田氏不圖(ふと)去年のことを想像(おもひだし)、滿身(みうち)寒粟(ぞつ)として覺えず冷汗を流せしが、其肉を喫ふに忍び得で屍を埋みて歸りしなり。さてこのことを子供に語りて殺生打を禁令(いましめ)、今に此家にては殺生打は爲さぬよしなりと、水木某の語りしなり。
[やぶちゃん注:「羽交(はがひ)」単に鳥の羽の意味もあるが、狭義には鳥の左右の翼が重なる箇所を指す。ここも、話柄とその映像的イメージの哀感とともに、その狭義の方で採るべきである。
「匿す」「かくす」。
「文政の年間」一八一八年~一八三〇年。
「合田某」弘前藩の鉄砲組の者であろう。
「殺生打」「せつしやううち」。生きた獣を狙撃すること。
「八幡宮」単にかく言う場合は、現在の弘前市八幡町にある弘前八幡神宮であろう。弘前城の鬼門(北東)の押さえとして八幡村(旧岩木地区。原型の創建は、平安初期に坂上田村麻呂が東夷東征の際に岩木村に宇佐八幡宮の分霊を勧請、戦勝祈願をしたものとされる)から遷座されたもので、藩政時代は領内の総鎮守として筆頭の神格を持っていた。
「鴛鴦鴨(をしがも)」鳥綱カモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata。馴染みの鳥類では性的二型の際立つ種である。
「一放」一発。
「卽(やが)て」直ぐに。
「立より」「立ち寄り」。
「其まゝ打棄て歸られき」ここは首を打ち捨てて帰った、ととっておく。首尾一体でない獲物は狩りでは本来は忌み嫌われるから、本体も打ち捨ててとも採りたいのだが、そうすると、エンディングの雰囲気に微妙に上手くないと私は思うからである。
「あくる年のこの月日に、圖らず又八幡宮の林に至りて」共時的で共空間であることから、これ自体が共感呪術的現象であることに注意。
「看眺(ながむ)るに」二字へのルビ。
「否や」「や否や」と同義。即座に。
「摘擧(とりあげ)て」二字へのルビ。
「去年」「こぞ」と読みたい。
「想像(おもひだし)」二字へのルビ。動詞として訓じている。
「寒粟(ぞつ)として」二字へのルビ。
「冷汗」「ひやあせ」。
「喫ふ」「くらふ」。喰らう。
「屍」「かばね」であるが、私として「むくろ」と訓じておきたい。
「埋みて」「うづみて」。
「禁令(いましめ)」二字へのルビ。]
谷の響 五の卷
弘府 平尾魯僊亮致著
一 羹肉己ら躍る
弘化三年の頃のよし、御藏町木匠(だいく)小之吉といへるもの、板柳村の井筒屋宇兵衞に償(やと)はれて掙(はたら)き居たりけり。一夜(あるよ)同僚(どうやく)ども語りて思はず更かしたるに、みな醉も醒め肚(はら)も空きたれば改飮(のみなほ)して寢(い)ぬべしと、杜人(とうじ)より酒は貰ひたれど酒菜(さかな)なければ奈何はせんとするに、一個(ひとり)のいへる、鷄こそよき酒菜なるべしとあるに、みなそれよとて暗密(ひそか)に塒(ねぐら)より鷄一羽捕來りて、やがて料理して煮たりけるが、肉も稍(やゝ)熟して酒を燗すべしとするうち、鳥屋(とや)なる鷄一聲高く謳ひしに、鍋の中なる煮ゑたる内おのれと躍あがりて圍爐裡の四邊(あたり)に散敷(ちらはり)たるに、衆々(みなみな)膽を寒(ひや)し興もさめて不覺(そゞろ)に身の毛逆立て誰食ふべくといふものもなく、攫ひあつめて裏なる堰に棄けるなり。かく執念の深きをば目下(まのあたり)に見たればいと怕しきなりとて、夫より鷄は卵子も嚙(く)ひたることなしとこの小之吉が語りしなり。
又、これと等しからねど似よりたる一語(はなし)あり。そは嘉永二己酉の年、劇場(しばゐ)の歌舞妓者(やくしやども)蟹田村に投宿(とまれ)るが、辨七・大吉などいへる三人の宿にて嶋メクリと言へる小魚を燒きたるに、片身はよく燒けぬればとて反(かへ)して又の片身を燒をりしに、この魚六枚(むひら)なるが不殘(みな)跳り出して串よりはなれ、灰(あく)の中に落て魬躍(はため)きたるに、歌舞妓者(やくしやども)奇異の思ひをなして採り上げて見れば、その動くものには中骨が附てありける故、其まゝこの魚を摘み出て洋(うみ)に放下(はなし)たるに、ひらひらと泳ぎて行衞なくなりしとなり。この時三國屋惣左衞門も居あはせ、親しく視たりしとて語りしなり。
[やぶちゃん注:「羹肉」第二例にはそぐわぬが、「あつもの」と当て訓しておく。「羹」は「熱物(あつもの)」と訓じ、魚肉・鳥肉・野菜などを入れた熱い吸い物を指す。
「己ら」「おのづから」。
「弘化三年」一八四六年。
「御藏町」現在の青森県弘前市浜の町。ここ(goo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。
「小之吉」「このきち」と読んでおく。
「板柳村」北津軽郡板柳(いたやなぎ)町。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「暗密(ひそか)に」二字へのルビ。
「捕來りて」「とりきたりて」。
「謳ひしに」「うたひしに」。
「おのれと」自然と(自発の意)。誰かが箸で摑んだわけでもないのに。
「躍」「をどり」。
「圍爐裡」「ゐろり」。
「散敷(ちらはり)たるに」ルビはママ。
「膽」「きも」。
「不覺(そゞろ)に」二字へのルビ。何とも言えず。
「逆立て」「さかだちて」。
「攫ひ」「さらひ」。「浚ひ」。
「堰」「せき」。水路。
「棄ける」「すてける」。
「嘉永二己酉の年」一八四九年。「己酉」は「つちのととり/きゆう」。
「歌舞妓者(やくしやども)」四字へのルビ。
「蟹田村」現在の東津軽郡外ヶ浜町の蟹田地区周辺。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「辨七・大吉」役者の芸名であろう。
「嶋メクリ」条鰭綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ベラ科カンムリベラ亜科キュウセン属キュウセン
Parajulis poecilopterus の地方名。海産生物同定等でしばしば参考にさせて戴いている「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑の「キュウセン」の「地方名・市場名」の項に、『シマメグリ/山形県鶴岡市由良漁港』とあり、また、『シマクサブ』・『シマメグク』の名を見出せる。キス釣りでよくかかる虹色鮮やかな魚で、色の関係で好まぬ人が多いように思われるが、焼いて食うと、実は美味い。
「魬躍(はため)きたるに」二字へのルビ。]
3-13 松平加賀右衛門家の事
御旗本衆の中に、松平加賀右衞門と稱る人あり。大給松平の流なり。此人の名は嚴廟の時、上意にて賜しと云。其故は、此人の容貌前田の松平加州に能肖たるとて、人皆加賀々々と呼しを、卽上意にて名乘しと云。
■やぶちゃんの呟き
前条の「松平加賀守」で軽く連関する。
「松平加賀右衛門家」不詳。
「旗本」「はたもと」。原義は「軍陣で主将旗のある本陣」の意であるが、転じて、主将の旗下にある直属の近衛兵を指すようになった。江戸期には、将軍直属の家臣(直臣(じきしん))として大名・旗本・御家人の別があるが、旗本は知行高一万石以下で御目見(おめみえ:将軍に謁見出来ること)以上の格の者を称した。旗本と御目見以下の御家人とを総称して「直参(じきさん)」「幕臣」と称した(但し、一万石以下のではあるが、名家の子孫で幕府の儀礼を司った「高家(こうけ)」と参勤交代の義務をもつ「交代寄合」は別格で、老中支配に属した)。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った。
「稱る」「しよう(しょう)する」。
「大給松平」底本編者は「大給」に「おほきふ」とルビする。ウィキの「大給松平家」より引く。『大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)は、松平親忠の次男・乗元を祖とする松平氏の庶流。十八松平の一つ。三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称する。松平宗家(徳川氏)に仕え、甲陽軍鑑に「荻生の少目」として登場する松平親乗が有名であると新井白石「藩翰譜」にはある。当主は武勇に優れ、「藩翰譜」にはあちこちの戦いで兜首を多数挙げたことが特筆されている』。『江戸時代には譜代大名』四『家のほか、数多くの旗本を出した。なお』、『新井白石の藩翰譜では、「荻生松平」と表記する』。前々条に出た岩村藩の乗政系はこの流れに入る。
「嚴廟」第四代将軍徳川家綱。彼の諡号「厳有院」に基づく。
「賜しと云」「たまはりしといふ」。
「前田の松平加州」加賀藩藩主の前田(松平)加賀守家当主であるが、この家綱の代ならば、前田利家の曾孫で第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)である。
「能」「よく」。
「肖たる」「にたる」。
「卽」「すなはち」。
3-12 松平加賀守辻番人、心入の事
或の話しは、松平加賀守家風は武邊を忘れぬことなり。一日かの辻番の前にて、白刃を拔て騷ぐものありしかば、番人一人出て、棒を以てこれを制す。時に餘の二人、其後に立て見て構はず。其中に一人の者、棒にて白刃を打落し、その者を搦め取たり。往來の人々不審に思て、立居し二人へ、いかに危きことなりしを助け玉はざりしやと問へば、答るには、敵は一人に候。それに多勢かゝりては、初に出し者の武邊に邪魔いたし候ゆへ、構申さずと云たりしとなり。
■やぶちゃんの呟き
「松平加賀守」加賀藩前田(松平)家。「甲子夜話」起筆当時(文政四(一八二一)年)なら、第十一代藩主前田斉広(なりなが)。
「辻番人」狭義には辻番(つじばん)は幕府によって江戸城下の武家屋敷周辺の辻々に置かれた辻番所詰めの警備隊を指す。ウィキの「辻番」によれば、『幕府の負担による公儀辻番(公儀御給金辻番)、大名によって設置される一手持辻番(大名辻番)、いくつかの大名や旗本が共同して設置する組合辻番(寄合辻番)があった。辻番はそれぞれの担当地域を巡回し、狼藉者などを捕らえた。辻番所には昼夜交代で勤務し、番所は夜中も開かれていた』とある。但し、ここは金沢城(現在の金沢市内)の城下の辻番所ともとれないことはないが、往来の庶民が不審がって問うところや、それを敢えてかく書いてこれを称揚するのであれば、やはり江戸のそれであろう。
「心入」心遣い。配慮。心得。
「或」「あるひと」。
「話しは」「はなせしは」。
「一日」ある日。
「白刃」「はくじん」。抜き身の刀。
「拔て」「ぬきて」。
「其後」「そのうしろ」。
「立て」「たちて」。
「構はず」手出しをしなかった。
「其中に一人の者」「そのうちに」最初に立ち向かった「一人の者」が、とうとう。
「打落し」「うちおとし」。
「搦め取たり」「からめとりたり」。
「思て」「おもひて」。
「初に」「はじめに」。
「構申さず」「かまひまうさず」。
「云たりし」「いひたりし」。
あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)
3-11 岩村侯の老臣黑岩某、味岡某の事
岩村侯【松平能登守】の家老に黑岩氏あり。世世六郞兵衞と襲稱す。もと生駒の臣なり。生駒減地のとき浪人となり、岩邑に仕ふ。其人額上に毛剝て生ぜざる所あり。其故を聞くに、少年の時浪人し、片田舍に住み、母に事て孝あり。夜は必ず其臥處に就て侍養す。一日他行して遲く歸り、まづ母の臥處に往き、蚊帳に顏をあてゝ安否を問に、母答へず。不審に思ふと、一男子の帳より出るを見る。六郞卽これを遂ふ。その人塀を越んとす。六郞後より裾を執る。その人、上より六郞が前髮をつかんで引揚ぐ。しばし引合内に、前髮抽て流血眼に入る。そのとき六郞、脇指を拔て一刀に切落す。能見れば、前年まで其家に使し僕の、常に母の貯金ありしを知りて、殺害して金盜たりしにぞありける。此時拔れし痕、遂に髮毛を生ぜざりしと云。此六郞兵衞頗幹事の才ありて、侯家に功あり。金森氏改易のとき、郡上の城受取を侯に命ぜらる。侯に從て行く。入城のとき春色方に盛に櫻花爛開す。因て人々其花を賞觀す。黑岩獨凄然として、乃一首の哥を詠ぜり。
よそながら慰かねつ櫻花
ちりぢりになる人を思へば
常に風騷をも好めり。此詠秀逸には非れども、時にとりての餘情深し。今の六郞兵衞は其孫なりと林氏語れり。又岩村の家老に味岡氏あり。高天神にて、武田信玄を鐵砲にて狙擊し足輕の裔也と云。珍しき家なり。
■やぶちゃんの呟き
和歌の前後は空けた。
「岩村侯」「【松平能登守】」これは美濃国岩村藩主のことであるから、思うに、前話の続きでこれも林述斎(明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)から得た情報ではあるまいか。彼の実父は美濃国岩村藩第三代藩主松平乗薀(のりもり 享保元年(一七一六)年~天明三(一七八三)年)だからである。乗薀は伊勢亀山藩主松平乗邑の三男であったが、岩村藩世嗣の乗恒が早世したため、第二代岩村藩主松平乗賢の養子となり、延享三(一七四六)年の乗賢の死去によって家督を継ぎ、能登守に遷任されている。問題は時制的には岩村藩主は後代となっていることであるが(「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年であるから執筆当時の岩村藩藩主は乗薀の養子となった第四代松平乗保(のりやす))、しかし、後に出る「金森氏改易」(宝暦八(一七五八)年。後注参照)から判断するに、やはり私はここの「岩村侯」は述斎が語った少し前の話柄当時の乗薀と判断するものである。但し、以下の「黑岩某」の初代六郎兵衛が岩村藩に仕官したのは時制的(以下の注の「生駒騒動」参照)に見て、松平家では四代も前の初期岩村藩第二代藩主(岩村藩はその間に丹羽家が五代、乗薀の前に二人の藩主が入る)松平乗寿(のりなが 慶長五(一六〇〇)年~承応三(一六五四)年)の時でないとおかしい。即ち、最初の黒岩六郎兵衛の話、〈額の上に禿があった黒岩六郎兵衛〉は、その〈少年時代に浪人経験のある初代の六郎兵衛の古い伝え聞き〉であろうと思われるのである。
「老臣黑岩某」不詳。
「味岡某」「あじおかなにがし」。不詳。「岐阜県」公式サイト内のこちらの古文書データに、後の慶応二(一八六六)年の交通手形で『松平能登守内味岡杢之允』なる人物の名を見出せるが、彼の子孫かも知れぬ。
「世世」「よよ」。代々。
「襲稱」「しふしやう」。(黒岩六郎兵衛を)受け継いで通称すること。これが本話柄をややこしくしているのだと私は思うのである。
「生駒」讃岐高松藩生駒家。同藩第四代藩主生駒高俊(おこまたかとし 慶長一六(一六一一)年~万治二(一六五九)年)の時、彼を廻って「生駒騒動」と称するお家騒動が起こり、同家は改易された。ウィキの「生駒高俊」によれば、彼は元和七(一六二一)年七月、『父正俊の死去により、家督を相続した』が、幼少であったため、『外祖父藤堂高虎の後見を受けることになった』。その後、『成年した高俊は、政務を放り出して美少年たちを集めて遊興に専ら耽ったこともあって、家臣団の間で藩の主導権をめぐって内紛が起こ』り(これを「生駒騒動」と呼ぶ)。寛永一四(一六三七)年、『生駒帯刀らが土井利勝や藤堂高次に前野助左衛門らの不正を訴えた。これに対し、前野らは徒党を組んで退去した』。寛永一六(一六三九)年、『幕府は騒動の詮議を始め』、翌寛永一七(一六四〇)年七月二十六日に『幕府は藩主高俊の責任を追及し、領地を没収し、出羽国由利郡に流罪とした。ただし、由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町と鳥海町の部分)で』一万石を『堪忍料として与え、高俊は矢島村に陣屋を構えた』(これを静山は「生駒減地」と称しているのであろう。下線やぶちゃん)。『なお、生駒派の中心人物は大名にお預け、前野派の中心人物は死罪となった』とある。
「岩邑」「岩村」に同じい。
「額上」「ひたひがみ」。額の上の方。
「毛剝て」「けはげて」。
「事て」「つかへて」。
「臥處」「ふしど」。
「就て」「つきて」。
「侍養」「じやう(じよう)」。身辺にいて世話をすること。
「一日」ある日。
「他行」「たぎやう」。外出。
「問に」「とふに」。
「帳」「とばり」。
「卽」「すなはち」。
「遂ふ」「おふ」。追う。
「塀を越んとす」「へいをこえんとす」。
「裾」「すそ」。
「引揚ぐ」「ひきあぐ」。
「引合」「ひきあふ」。
「抽て」「ぬけて」。
「流血」「りうけつ」。
「眼」「め」。
「脇指」「脇差」。
「拔て」「ぬきて」。
「切落す」「きりおとす」。
「能」「よく」。
「使し僕」「つかひししもべ」。
「盜たり」「ぬすみたり」。
「拔れし痕」「ぬかれしあと」。
「頗」「すこぶる」。
「幹事」重職の纏め役。
「侯家」岩村家。
「金森氏改易」美濃八幡藩第二代藩主金森頼錦(よりかね 正徳三(一七一三)年~宝暦一三(一七六三)年)と思われる。ウィキの「金森頼錦」他によれば、父の可寛(よしひろ)は『初代美濃八幡藩主・金森頼時の嫡子であったが』、三十七歳で家督を継がずに死去したため、享保二一(一七三六)年に祖父の死去によって家督を継ぎ、延享四(一七四七)年には『奏者番に任じられ、藩政では目安箱を設置したり、天守に天文台を建設するなどの施策を行った。また、先人の事跡をまとめた『白雲集』を編纂するなど、文化人としても優れていた』という。『頼錦の任じられた奏者番は、幕閣の出世コースの始まりであり、さらなる出世を目指すためには相応の出費が必要であった。頼錦は藩の収入増加を図るため』、宝暦四(一七五四)年、『年貢の税法を検見法』(けみほう/けんみほう:年貢徴収法の一つで、田畑の収穫高に応じて貢租量を決める徴税法)『に改めようとした。結果、これに反対する百姓によって一揆(郡上一揆)が勃発した。さらに神社の主導権をめぐっての石徹白騒動』(いとしろそうどう:宝暦年間に同藩が管轄していた越前国大野郡石徹白村(現在の岐阜県郡上市)で発生した大規模な騒動。騒動の中で石徹白の住民の約三分の二に当たる五百余名が追放され、七十名以上が餓死した)『まで起こって藩内は大混乱』を呈し、遂に宝暦八(一七五八)年十二月二十五日に頼錦が幕命によって改易されてしまったのである、とある。
「郡上の城受取を侯に命ぜらる」前の注から判る通り、「金森改易」は宝暦八(一七五八)年である。ということは、ここ以後の〈黒岩六郎兵衛〉は、前の〈額の上に禿のある黒岩六郎兵衛〉の後裔と読まないと辻褄が合わない。即ち、第三代藩主松平乗薀の代の額には禿のない〈黒岩六郎兵衛〉としないとおかしいと思うのである。
「從て」「したがひて」。
「方に盛に」「まさにさかりに」。
「獨」「ひとり」。
「凄然」もの淋しく痛ましいさま。
「乃」「すなはち」。一首の哥を詠ぜり。
「よそながら慰かねつ櫻花/ちりぢりになる人を思へば」「慰かねつ」は「なぐさめかねつ」。――他家にお上の断ぜられたことにてあればこそ、その不運を表立って慰むるというわけには参らぬ。……されど、かく散り流れゆく桜の花の如く、散り散に別れて行く人々のことを思うと、これ、胸の痛むことにてはあることじゃ――
「非れども」「あらざれども」。
「時にとりての」その、改易・城明け渡しという厳粛にして、しかし、もの淋しき雰囲気にあっては。
「今の六郞兵衞は其孫なり」以上の叙述を漫然と読むと、
〈①額の上部に禿のある少年時代に浪人経験をし、岩村に仕官した黒岩六郎兵衛〉=〈②金森改易の際に幕命によって郡上城の受け取りに岩村侯に従って一首を詠んだ黒岩六郎兵衛〉=〈③現在の岩村藩にいる黒岩六郎兵衛のは①=②の孫〉
としか読めない。しかし実は、
①≠②=③´
であって、
①が数代前の岩村藩黒岩家の祖であり、その孫が②である(③は②と同一人物であるのを誤って叙述した)
か、或いは
①≠②≠③
①が数代前の岩村藩黒岩家の祖であり、その孫が②であり、現在の岩村藩で「黒岩六郎兵衛」を名乗っている人物はさらにその②の孫である
の孰れかではなかろうか? 私は正直、
①≠②≠③
を採りたい気がしている。何故なら②の歌を詠んだ黒岩はかなり老成している気がするからで、その彼が次の代の家老としているというのが、ちょっと不自然な気がするからである。
以下、私の疑義を纏めてみる。
1640年:生駒騒動により生駒家改易・断絶。
:その直後に未だ少年の先祖の黒岩六郎兵衛が浪人する。
:その時に母を殺害した下僕を討って頭が禿げた。
:それからしばらくして岩村藩に仕官した。
↓
★しかし、その仕官した岩村藩は時制から見て、初期岩村藩第二代藩主松平乗寿(のりなが)の治世でないとおかしい。乗寿の治世は、
1614年~
1654年
である。この間(生駒家改易から岩村藩仕官)は14年で、少年浪人が再度、仕官する期間としては違和感がない。ところが、その後に続いて語られるのは、
1756年:金森氏改易
:黒岩六郎兵衛は「岩村候」の幕命による郡上城明け渡しに従う
↓
★しかし、金森氏改易時の「岩村候」とは岩村藩第三代藩主松平乗薀(のりもり)であり、彼の治世は、
1746年~
1781年
である。実に初期岩村藩第二代藩主松平乗寿の治世の最後からこの金森改易までは、実に
★102年ものスパンがある
のである。しかも、本書「甲子夜話」の起筆は、
1821年
でこれを足すと、実にその閉区間は、
★142年にも及ぶ
のである。これは信長ではないが、
人生五十として、①が元祖「黒岩六郎兵衛」で、②が①の同名の孫、③がさらに②の同名の孫
と読んで、しっくりくるとは、言えないであろうか? 大方の御叱正を俟つものではあるが、私はそう考えないと、本条を納得することが出来ないのである。
「高天神」「たかてんじん」。遠江国城東郡土方(ひじかた:現在の静岡県掛川市の土方地区)にあった今川氏次いで小笠原氏(家康に服属した国衆)の支城となった高天神城。ウィキの「高天神城」によれば、『戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた』とある(下線やぶちゃん)が、ここで信玄狙撃というのは、史実上の事実ろするならば、永禄一二(一五六九)年以降、今川氏と甲斐国の武田氏の『同盟が手切となり、武田信玄は三河の徳川家康と同盟して駿河侵攻を開始し、これにより今川氏は滅亡する。小笠原氏の当時の当主・小笠原氏興、小笠原氏助父子は徳川氏の家臣となった。しかし、まもなく武田・徳川両氏は敵対関係に入り、駿河・遠江の国境近くにある高天神城もその角逐の舞台とな』った際、小笠原氏に与していた足軽が、この味岡氏であったおいうことになるか。
「裔也と云」「えい(:末裔。子孫。)なりといふ」。
廿一 一夜に家を造る
又此玄德寺の話に、同登の時越後國砂戸(すなと)村と言ふに投宿(とまり)けるに、其宿に戸鍵といふはあらざれば不審(いぶかし)くて主に問(たづ)ぬるに、主の言へる是にはいと奇(めづ)らかなる說話(はなし)のありき。そは長譚(ながきものがたり)なれど旅の慰に聞玉へとて語りけるは、然(さて)この村の先なるも砂戶村といふて此村の原邑(おやむら)なりしが、其處の百姓其の子二十三年以前(まへ)に家を出て天狗になりしとて、此四年前それが親疾病(たいべう)の時存問(みまひ)に來りし事ありしが、既に年は四十近くになれど宿昔(むかし)十八歲にて家を出たる顏のごとしと。さるに話は二刄(ふたは)になれどよく聞れよとて語りけるは、公田某邑に觀音堂ありてこは由緣ありて將軍家(こうぎ)の御修造なりけるに、數十年の間修理(ていれ)もなきゆゑ朽頽に及びぬれど、御修補の御許しもなくさりとて尋常(なみなみ)ならぬ造營(ふしん)にしあれば、自分(みづから)の手に及び難くて一兩年も過つるが、こゝに此社司に勤るものありて言へりけるは、觀音堂の山中なる溫泉(いでゆ)は名湯と言ふ。殊に四方の通路もよければ此土(ところ)に好き舍(いへ)を建て闢(ひら)かんに、浴する人も多かめれば決(きめ)て年々興旺(はんじやう)して御堂修補の料物は生れぬべし。賴(さいは)ひ柏崎にとり係ると言ふものあれは、年限を定めて讓り玉へとあるに、いと好きことなれば其商議(さうだん)に決定(きはめ)て三年にて金千兩に交附(うりわた)しき。されば貿(かひ)得たるもの、温泉の修理(ていれ)は元より宿舍(やどや)などいと莊麗(きらゝか)に建連ね、且(また)娼妓(あそびめ)なども數多抱へたるに數百人のもの寄集(つど)ひて謳ひつ舞ひつ日に興隆(はんじやう)は增りける。さるに其年の九月の下旬(すゑ)に至り、人も多からざるが一(ある)夜戌近くなりて卒(にはか)に大風樹を拔き大雨篠を亂し客舍不殘(みな)搖り動きしかば、宿れるものども一個(ひとり)も居耐得で衆(みな)この社司が家に脫(にげ)來りて恐ろしき夜を明かしけり。かくて風稍々(やや)收り雨も歇て靜に夜も開ぬれば、溫泉地に至りて視るにさしも莊麗(きらゝか)に建列ねたる數十軒の客舍迨(およ)び湯壺の石猿篗(いしわく)踏石まで、たゞの一片も存(のこ)れるものなく宛爾(さながら)大水の址(あと)を見るが如くに地を拂へり。また其溫泉は壁苗代[やぶちゃん注:意味不明。]の如く太(いた)く渾濁(にご)りて有りけるに、見る者憫然(あきれ)て膽を潰さざるはなくたゞ人に過傷(けが)なきを怡び居るのみなりき。
左有(さる)に、此溫泉を買ひたる柏崎の者共社司に申しけるは、造作(ふしん)及諸々(もろもろ)の費(つくなひ)已に千金餘りの損毛にて、望子(もとで)を失ひ家眷(かない)養育(はぐくむ)術(すべ)ければ、萬乞(どうぞ)五百金返し玉はるべしと歎きけれども、この金は經營(ふしん)の手當に大略(あらあら)拂ひ盡せれば返すといふ事にもいたり不得(かね)、左右(とかく)謀慮(しあん)をめぐらし言へりけるは、甚麼(いづれ)好しく計ふべき旨趣(むね)もあれば四五日の間扣(ひか)へらるべしとて、自ら山中に至り大音聲にて申しけるは、神にもあれ天狗にもあれよく某が言ふ事を聞れよ、そも當山は鎭守觀世音の境裏(けいだい)にして、忝も將軍家の御朱印を賜りたる地なり。然るに御堂破損に及ぶといへども御修覆の御沙汰御遲延に相成、彌々廢頽に至れるを歎くところに、得落(さいわひ)にして溫泉の望人(のぞみて)あるによりて御堂修造(とりたて)の料物も調ひたれば、彼に許して溫泉場を闢墾(ひらか)せしものなり。もとこれ御堂再建の故にして吾が私の爲にあらず。然(さ)るに斯の如く狼藉に及びぬること言語同斷の擧動(ふるまひ)なれば、今より將軍家に訴へ樹を伐盡し山中殘らず燒拂ふべし[やぶちゃん字注:「言語同斷」の「同」はママ。]。此段申し延ん爲め特々(わざわざ)推參いたしたり、覺悟あれよと言ひ捨て歸りたりき。さるに其翌くる日社司が玄關に案内するものあり。客室(ざしき)に通して對面するに、記年(とし)十八九歲ばかりの修驗の容貌にして軒刺(りゝしき)ものなるが、吾は山住明神の御使なり。足下(そこもと)に憑(たの)みたきことありて來れるなりといふ。社司の曰く、山住明神とは孰れに住まはせ玉ふ御神にて、什麼(いづれ)の鎭守にましますぞ。修驗應(こた)へて、氏子なければ鎭守といふにあらざれど、この溫泉(ゆ)の山の中に數百年住せ玉ひたるなれば、汚穢(けがれ)を拂ふも自らの區中(くるは)の如くなしつるに、以近(このころ)溫泉を闢くからに不淨の俗人多く聚(つど)ひ、花を摘み菜を摘るとて神の區中を近く荒らし、且(そこへ)娼妓などいふ淫(たは)れたる者までもありて、あらぬ淫奔(きたな)き行を爲せり。明神いたく忌せ玉へれば、眷屬(したがふ)神等見るに堪えで斯の如く破却たるなり。原來(もと)これ明神の爲さしめたる行にあらず。さるに足下(そこもと)こを憤りて將軍家の武威をかりて燒拂はんとす。明神のいたく歎かせ玉ふ處なれば、その憤りを和(なご)めん爲に吾を使に越(こ)されしなり。こを了諾(しやうち)し玉はゞ今宵のうちに舊(もと)のごとく修造してまゐらすべしとありければ、社司が曰、實(まこと)しからんには商議(さうだん)すべしとて先づこれを皈らしめ、柏崎の者にかゝることありと語りければ、柏崎の者も詮(せん)術(すべ)なき時なれば不審ながらその事に究(きは)まりぬ。かくてその翌る日、かの修驗の來るを待て了諾(しやうち)の旨趣(むね)を聞かせければいと歡喜(よろこび)て歸りけるに、その夜又風雨して凄しく荒れたるから、あくる旦(あした)社司と柏崎の者と俱に溫泉の地に至りて見れば、言ひしに違(たが)はで湯覆(ゆぎち)はじめ數十軒の寄舍(ちやゝ)舊(もと)の如くに建續き、紙門(ふすま)戶障子踏檀の果迄些(すこし)も缺くる處なかりければ、視る者再び愕き舌を卷たるばかりなり。さるから此の事泉宇(よのなか)に廣く話說(はなし)ありければ、聞くもの怪しきことにおもひけるにや、以前(さき)の如く繁開(にぎやか)にならざりしが、程なく三年の年限も濟みぬれば柏崎のもの共は客舍を引はらひて、今は往古(むかし)のごとく成りしなり。
さてこの社司の了諾に及びし時、修驗謝して申しけるは、何なりとも所望(のぞみ)あらば叶ひ得させんとあるに、社司戲れながら吾が氏子の村々にて戶鍵さゝずとも盜賊の患なくば足りぬべく、また吾に長く薪を贈りなば此上なき慶(よろこび)なりと演(のべ)ければ、いと易き事なりと諾ひて歸りけり。さるに、其后盜兒(ぬすびと)ありてある家に入り、着類を搔きさらひ荷作りして背負たれども、その家を出る事ならで遂に黎旦(あけかた)に及びて家内の者に見咎められ、いたく縛ばられたるものありけるが、又後に這入りし盜兒(もの)も四五人あれど、みなかくその家を脫走(にげ)得ずして囚れとなりしなり。夫よりこの社司の氏子なる村々は、戶鍵を鎖(さ)さずとも盜賊の患なければ、見らるゝ如く戶鍵はあらざるなり。又火ひとつ水一盃のものなりとも、そが家に告げずして用ふる時は、同じくその家を出る事ならざるは今猶爾(しか)なり。又此の社司薪盡ぬれば裏に出て手を叩くに、その夜のうちに半卷(まき)ばかり積おく事每々(つねつね)なりしが、こは此社司一代の約束の由にて、今の社司の代よりはその事なし。
さてこの修驗はしめて社司と對面の時、社司熟々山伏の相貌を見るに、どこか認得(みしり)のあるやうに思はるゝ故その由を問ぬるに、山伏應(こた)へて、さればとよ我は上砂戶村某の子にて二十年以前十八歲の時なるが、山に入りて神に仕へ今では大槪自在を得れど、十八年火食の穢今に脫れずして空中の飛行なり難けれど、樹より樹に遷移(うつ)る事は七里ばかりの間は交睫(またゝ)くうちに至れるなりとあるに、社司申しけるは、さほど通力を得たる事ならば足下(そこもと)の父の病氣を知れりやと問ふに、とくその事は知りてあれど未だ省(みまひ)する時至らず。併(しか)し今二十日ばかりの間なればその時また謁見(おめにかゝる)べしとて歸りけるが、果してその日限になりて親の存問(みまひ)に來りしとて家内親屬いと悅び、長く留住(とゞめ)んとてくれぐれ言へども、神の祟(たゝり)を聞かして諾はず、五六日逗留して歸りしなり。さて此の滯留中火食することなく、皆生にて喰ひしかど、魚肉はもとより野菜と言へども汚れあるものは忽ち知りて口に入るゝ事なし。さるにその父病も癒えたりければ、年々正月元日には祝儀に來りしが、二三年さき親死してより已降(このかた)は來らざりしなり。戶鍵をさゝぬはこの故とて、長々しく物語れるとか。こも玄德寺物語りしなり。
[やぶちゃん注:情報提供者が前の「二十 天狗人を攫ふ」と同一の「玄德寺」住持であること、内容にやはり「天狗」のようなるものに「攫」われて山神の手下となり、天狗のようなる秘術を執り行うという点、冒頭自体が「又此玄德寺の話に」とある直後に「同登の時」の体験とすることからも(「同登の時」は「おなじきのぼりのとき」で「二十 天狗人を攫ふ」で、話者の玄徳寺住持が「弘化午の」三「年」(一八四六年)に本山である京の西本願寺で修行をするために上洛した時、の謂いである)、前話と全く同時期に採取したものとも思われる。
「越後國砂戶村」不詳。後の業者が現在の新潟県柏崎市であるから、そこからさして遠くない山間部と思われるが、「砂戶」という地名自体を現認出来ない。さらにこの砂戸村の最も最初からあった起源となる「原邑(おやむら)」=親村=原村(げんそん)である狭義の砂戸村の近くにある、本話柄の大事なロケーションたる観音堂は江戸幕府将軍の直命によって造られたとし、後の展開からも、その観音堂及び社祠及びその背後に広がる森の神域・境内は悉く幕府直轄領であると考えるのが自然である(「御修補の御許しもなく」とあり、後半で社司が山神に言上げする最後通告の内容(「將軍家の御朱印」(公の認定書)「を賜りたる地」その他)もそれを明確に示唆している)。そもそもが、本文にもその原村の近くにあるその村に名を「公田某邑」(くでんなにがしむら)としているのは、恐らくは中古或いは中世頃、かつてはここが京の朝廷・公家或いは武家の公田であったことを意味しているからでもある(但し、ここは当寺は既に「公田」ではなく、地名としてのみ残っている可能性が高いようには思われる)。にも拘らず、場所が特定出来ないのはすこぶる不審なのである。新潟柏崎周辺の郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。廃仏毀釈でなくなっているかも知れぬが「觀音堂」があったか或いはある所で、その「山中」には「名湯と言」われる「温泉(いでゆ)」がある所、「殊に四方の通路もよ」い場所である。どうか、よろしくお願い申し上げる。
「戶鍵」「とかぎ」後を読むと分かるが、家屋に戸締り用の鍵総てが存在しないである。
「某」ここは「なにがし」と訓じておく。
「二十三年以前(まへ)」弘化三(一八四六)年からだから、文政六(一八二三)年となる。
「此四年前」天保一三(一八四二)年。
「疾病(たいべう)」二字へのルビ。「大病(たいびやう)」。歴史的仮名遣は誤り。
「存問(みまひ)」二字へのルビ。「見舞ひ」。
「宿昔(むかし)」二字へのルビ。
「二刄(ふたは)」二つの一見、別な話。
「朽頽」「きうはい(きゅうはい)」。
「興旺(はんじやう)」二字へのルビ。
「料物」「れうもつ(りょうもつ)」。費用。
「建連ね」「たてつらね」。
「數多」「あまた」。
「寄集(つど)ひて」「よりつどひて」。
「增りける」「まさりける」。
「戌」「いぬ」。午後八時頃。
「不殘(みな)」二字へのルビ。
「居耐得で」「ゐたへえで」。屋内で退避して凝っとしていることにも耐えられず。
「收り」「おさまり」。
「歇て」「やみて」。
「靜に」「しづかに」。
「開ぬれば」「あけぬれば」。
「溫泉地」「ゆち」と読んでおく。
「石猿篗(いしわく)」三字へのルビ。湯船の石で囲った枠。
「其溫泉」「そのゆ」。
「壁苗代」「かべなはしろ」「壁」は壁土に用いたことから「泥(どろ)」の謂いで、稲を植える際のどろどろの苗代の意。
「太(いた)く」ひどく。
「渾濁(にご)りて」二字へのルビ。
「怡び」「よろこび」。
「損毛」「損耗」。
「望子(もとで)」二字へのルビ。「元手」。
「萬乞(どうぞ)」二字へのルビ。どうか、後生なれば。
「五百金返し玉はるべし」既に三年間貸与という期限附きで千両が社司に支払われているが、そのせめて半分を返還して貰いたいというのである。この損壊事故は温泉落成から未だ半年も経っていないものと思われ(契約成立と温泉宿落成の「其年の九月」とあるからである)、当時としては、この要求は必ずしも不当とは思われない。
「經營(ふしん)」「普請」。観音堂と祠の修理。
「大略(あらあら)」二字へのルビ。
「不得(かね)」二字へのルビ。
「左右(とかく)」二字へのルビ。
「謀慮(しあん)」二字へのルビ。「思案」。
「甚麼(いづれ)好しく計ふべき旨趣(むね)もあれば四五日の間扣へらるべし」「扣へ」は「ひかへ」(控へ)。「ともかくも、そうさ、近いうちによきように計らうこと、今、我ら、内々に思う所あればこそ、どうか、四、五日の間、お待ち下されたい。」。
「大音聲」「だいおんじやう」。
「某」「それがし」。
「聞れよ」「きかれよ」。
「忝も」「かたじけなくも」。
「相成」「あひなり」。
「彌々」「いよいよ」。
「得落(さいわひ)」「幸(さいはひ)」。歴史的仮名遣は誤り。
「溫泉」「ゆ」と当て訓しておく。以下で同様の訓が振られているからである。
「望人(のぞみて)」「望み手」。
「修造(とりたて)」二字へのルビ。
「彼」「かれ」。締約した柏崎の業者。
「溫泉場」ここは「ゆば」と当て訓しておく。
「伐盡し」「きりつくし」。
「燒拂ふべし」「やきはらふべし」。焼き払わんとぞ思う。
「延ん」「のべん」。「述べん」。
「翌くる日」「あくるひ」。
「案内するものあり」訪ねて来た者がある。
「記年(とし)」二字へのルビ。
「修驗」前話に徴して以下総て「やまぶし」と訓じておく。
「軒刺(りゝしき)もの」二字へのルビ。「凛々(りり)しき者」。
「山住明神」「やまずみみやうじん」。
「御使」「みつかひ」。
「足下(そこもと)」二人称。当時は武士が使った。そなた。
「憑(たの)みたきこと」「賴みたきこと」。
「氏子なければ鎭守といふにあらざれど」これはその「山住明神」なる神が人間によって祀られたものではないことを意味する。
「溫泉(ゆ)」二字へのルビ。以下、総てかく読む。
「住せ玉ひたる」「いませたまひたる」と訓じておく。「います」は「居る」の尊敬語で、最高敬語として採る。
「區中(くるは)」「廓(くるは)」。支配域。神域内。
「且(そこへ)」「其處(そこ)へ」。
「淫(たは)れたる者」「戲(たは)れたる」。忌まわしくも異性とみだらな遊びを致すような者。遊蕩者。
「淫奔(きたな)き」二字へのルビ。
「行」「おこなひ」。
「忌せ玉へれば」「いませたまへれば」。不浄なる穢れとしてお遠ざけ、お嫌い遊ばされたによって。
「眷屬(したがふ)」二字へのルビで、ここはこれで動詞「從ふ」で当て訓しているのである。
「破却たるなり」「やぶりたるなり」と当て訓しておく。
「原來(もと)」二字へのルビ。
「行にあらず」「おこなひにあらず」。ここで彼は、温泉場の完膚なきまでの破却は、明神自身の怒りとして成したのではなく、それに従う眷属(明神が支配する下級の自然神)が明神が忌避感を強くお持ちであることを慮って、独自にやった仕儀であると言っているのである。
「使」「つかひ」。
「越(こ)されしなり」寄越されたのである。
「實(まこと)しからんには商議(さうだん)すべし」「今、申したことが、まっこと、その通りであるのであるなら、こちらも今少し、伐採・焼却の御願いを出だすを猶予し、仲間と相談致そうぞ。」。
「皈らしめ」「かへらしめ」。「歸らしめ」。帰らせ。
「その事」明神の使者の言に取り敢えず従うこと。
「待て」「まちて」。
「凄しく」「はげしく」と訓じておく。
「湯覆(ゆぎち)」湯口(ゆぐち:源泉の吹き出すところ)か?
「寄舍(ちやゝ)」「茶屋」。
「建續き」「たてつづき」。
「紙門(ふすま)」「襖」。
「踏檀」「ふみだん」「踏み段」階段などの踏んで上り下りする階段や段。
「の果迄」「のはてまで」。に至るまで。
「卷たる」「まきたる」。
「さるから」「然るから」。接続詞で、この場合は逆接で、「しかしながら」。
「泉宇(よのなか)」二字へのルビ。「泉」は不審。
「患」「わづらひ」。惧れ。
「薪」「たきぎ」。
「演(のべ)ければ」「陳べければ」。申し立てたところ。
「諾ひて」「うべなひて」。
「其后」「そののち」。
「盜兒(もの)」二字へのルビ。
「着類」「きもの」と当て訓しておく。
「背負たれども」「せおひたれども」。
「その家を出る事ならで」次の「みなかくその家を脫走(にげ)得ずして」「又火ひとつ水一盃のものなりとも、そが家に告げずして用ふる時は、同じくその家を出る事ならざる」とともに、ここがまた、実に面白い怪異である。映像を想像されたい。
「黎旦(あけかた)」ルビはママ。夜明け方。
「囚れ」「とらはれ」。
「夫より」「それより」。
「半卷(まき)」「はんまき」であるが、不詳。或いは「半薪」で薪一束の半分の分量ということかとも考えたが、それでは如何にも神霊の所為としてはショボ臭い。一年分必要な量の半分とでもとっておく。
「積おく」「つみおく」。
「はしめて」ママ。「初めて」。
「熟々」「つくづく」。
「認得(みしり)」二字へのルビ。
「問ぬるに」「たづぬるに」。
「穢」「けがれ」。俗世間で生活した十八年間で身に染みてしまった穢れ。
「脫れずして」「のがれずして」。抜けないために。
「七里」二十七キロ四百九十メートル。
「交睫(またゝ)くうちに」二字へのルビ。「瞬くうちに」。
「とく」早くから。
「省(みまひ)する」「見舞ひする」。
「今二十日ばかりの間なればその時また謁見(おめにかゝる)べし」「今から二十日ほど経ったならば、父上にもお目に懸かり、お見舞い致すこと、これ、出来申そう。」。今回の使者としての役目を成し遂げたことで、山住明神から近々、特別に実父見舞いを許されることとなっている、というようなニュアンスであろう。
「日限」「にちげん」。彼がそう言った、まさに二十二日後。
「存問(みまひ)」二字へのルビ。「見舞ひ」。
「留住(とゞめ)ん」二字へのルビ。
「諾はず」「うべなはず」。
「汚れ」「けがれ」。
「二三年さき」宿屋主人の語りの時制が弘化三(一八四六)年であるから、その二、三年前。逆にその頃まで、この四十を超えているにも拘らず、十八ほどの年恰好にしか見えぬ凛々しい若者姿の彼は、毎正月になると、実父に新年の挨拶に実際に訪ねていた、それを宿屋主人も見かけたというのである! 最後の最後にリアルな描写である。
「玄德寺」先の玄徳寺の住持。]