譚海 卷之二 同領地十二所の人家に錢をふらす事
同領地十二所の人家に錢をふらす事
○同郡十二所(じふにしよ)と云(いふ)所は、其(その)世臣(せいしん)茂木(もてぎ)氏代々預り支配する城下也。支配の給人(きふにん)に正直成(なる)ものあり、寶曆五年正月二日妻にかたりて云(いはく)、昨夜大黑天にあたまを槌(つち)にてうたるゝと夢見たりと。妻もよき事なるべしといへるに、七種の粥(かゆ)くふ時に、錢五六文たゝみのうへに有(あり)、後にはいろりの灰にまじりてあり、又土藏の内に錢おほく出來(いでき)てあり、日々にいづくよりもてくる事ともなく、只(ただ)家の内にそこらこゝらにあり。時々は錢のふる音すれば、それを見るに誠(まこと)に錢おちてあり。此を聞傳(ききつた)へて群集をなせり、國守の聽に達し、檢使を付(つけ)てたゞされけるに僞造にあらず。かくして五六ケ月もへて拾ひ集たる錢七十貫文程に及べり。其後主人歿したれば錢の降る事も止たりとぞ。又同所鯉川(こひかは)と云(いふ)所に夫婦にて貧窮の者あり、その家内にある日、いづくともなく聲ありてものいふ形は見えず、はじめは恐れけれども、後々はなれて物がたりなどしけり。食物(くひもの)など夫婦のものの望(のぞみ)にまかせて、何にてもその家の内に出來(いでく)る、それに合せて近鄕にて餅あるひは食物等不時(ふじ)に失する事あり、さては狐狸のたぐひのしわざにやといへり。その聲に就(つき)て向來(かふらい)の事をとふに、吉凶悉く答ふる事違(たが)はず、往々しるし有(あり)ければ、群集して錢穀(せんこく)をもち來(きた)り占(うらなひ)をとふ。又人ありてその聲につきてとりとめんとすれば、かたちは見へざれども、ねぢあひ角力(すまふ)とる體(てい)也。此(この)化(ばけ)もの甚(はなはだ)力(ちから)すぐれて人に負(まく)る事なしとぞ。後いづくともなく此(この)化物失(うせ)たり、是も寶曆七年の事也。
[やぶちゃん注:「同領地十二所」前条の久保田藩(秋田)の出来事を享けての「同」であるから、同久保田藩領であった秋田郡の十二所(現在の秋田県大館市十二所。グーグル・マップ・データ)。
「茂木氏」当時あった十二所城は茂木氏の所預であった。ウィキの「茂木氏」によれば、茂木氏は、元は中世下野国を根拠とした武家で、『常陸国守護を務めた八田氏の一族で八田知家の三男・知基が下野国芳賀郡茂木郷(茂木保、現在の栃木県茂木町)の地頭職を継承して「茂木」を号したことに由来する。後に茂木城を築城して本拠とした。承久の乱の軍功によって紀伊国賀太荘の地頭職を与えられたが、宝治合戦では三浦氏に加担した疑いをかけられ、茂木荘の一部に北条得宗家の進出を許した。南北朝時代には北朝方について、南朝方の攻撃や同じ北朝方の小山氏などの押領などに悩まされたが、小山氏の乱で鎌倉公方方、永享の乱・結城合戦で室町幕府について国人領主としての地位を安定させた。戦国時代には宇都宮氏・那須氏・佐竹氏などの間で揺れ動いたが、最終的には佐竹氏に従う。文禄の役中に行われた佐竹氏家臣の配置換えで』、『常陸国茨城郡の小川城(現在の茨城県小美玉市)に移され、関ヶ原の戦い後の佐竹氏の秋田藩移封に従った。以後、同藩の重臣として明治維新まで存続している』とある(下線やぶちゃん)。
「給人」江戸時代、武家で扶持米を与えて、抱えて置いた平侍(ひらざむらい)のこと。
「寶曆五年正月二日」グレゴリオ暦一七五五年二月十二日。
「七種の粥(かゆ)くふ」七草粥は人日(じんじつ)の節句(旧暦一月七日)の朝に食べ「國守」第七代藩主佐竹義明(よしはる)。
「同所鯉川」大館市にはない。現在の秋田県山本郡三種町(みたねちょう)に鯉川がある(八郎潟東岸中央部)。ここか(グーグル・マップ・データ)。
「聲に就(つき)て向來(かふらい)の事をとふに」そのが発せられたのに応じて、これからの未来の事柄について予言を問うてみると。
「往々」かなり、しばしば。そうなることが多いさま。
「錢穀」銭や米。
「その聲につきてとりとめんとすれば」(目には見えねど、)その声のする辺りを目印に、いざ、取っ組んで捕えようとしたところ。
「ねぢあひ」見えぬ相手も、こちらの腕や身体を捩じ伏せんとし。
「角力」相撲。とる體(てい)也。]