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2017/01/01

柴田宵曲 始動 ~ 妖異博物館 「はしがき」・「化物振舞」

 

妖異博物館   柴田宵曲

[やぶちゃん注:本年を以ってパブリック・ドメインとなった書誌学者で俳人・随筆家としても知られた柴田宵曲(明治三〇(一八九七)年~昭和四一(一九六六)年:本名は泰助。東京生まれ。開成中学中退(家庭の自己都合)。新聞社の臨時校正係から大正七(一九一八)年に俳句好きだったことから、『ホトトギス』社編集員となる。亡き子規の同郷の門弟俳人であった寒川鼠骨に好かれて師事し、第一次「子規全集」編纂に尽力、三田村鳶魚の口述筆記と著作編集にも従事した。昭和六(一九三一)年からは政教社に勤務、『日本及日本人』の編集に携わったりした、博覧強記の文人である。)が昭和三八(一九六三)年に青蛙房(せいあぼう)から刊行した「妖異博物館」(一月二十五日発行。冒頭「はしがき」参照)及び「續妖異博物館」の電子化を開始する。因みに、冒頭「はしがき」によれば、この事大主義的な標題は柴田の意思ではなく、青蛙房からの指示であり、彼は本来は「奇談類考」といったような題名を考えていたらしい。

 底本は平成三(一九九一)年小澤書店刊「柴田宵曲文集 第六卷」を用いる。これは正統なる正字正仮名版である。

 踊り字「〱」「〲」は正字化した。

 私の電子テクストは私のオリジナル注を附け出すと、キリがなくなり、一向に本文電子化が進まない傾向を多分に持っており、そのために完遂が数年がかりとなっているものも少なくない。されば今回は極めてストイックにしか注を附さないと決めた。即ち、私自身が判らない部分、或いはここは是非とも欲しいと感じたもの以外には、注は附さないことを原則とすることとするのである。附けても本文展開と関わらないつまらぬものとなると私が判断したものには一切附けぬこととするのである。悪しからず。注は各形式段落の後に設けた。【2017年1月1日 藪野直史】] 

 

 妖異博物館 

 

 はしがき

 氣の利いた化物は引込む時分といふことがある。もし夏が怪談の季節であるならば、たださへ寒い冬の今頃、こんな書物を持ち出すのは、世間の評判を待つまでもなく、明かに時間を失してゐる。引込むには遲過ぎ、もう一度顏を出すにはまだ早い。正に戶惑ひした形である。

 三田村翁は妖怪變化と幽靈中心の怪談とを時代的に區別し、文化度までは猶兩者が入交つてゐるが、文政以後は完全に幽靈の獨占に歸するといふ說であつた。幽靈中心の怪談は、演劇、讀本、講談、浮世繪その他の作者の協力に成るもので、先づ幽靈の發生しさうな事件を作り、然る後本物が登場する順序に及ぶ。その前提の事件なるものは、例外なしに不愉快な葛藤である。これらの怪談は如何に夏向きであつても、所詮吾々の趣味の外に在ると云はなければならぬ。

 ここに陳列したのはすべて不愉快な怪談になる以前のもので、中には妖異とか怪奇とかいふ域に達せぬ話がないでもない。孤立した話は探らず、多少類似の話があつて、比較對照の興味あるものを擇んだから、著者は奇談類考ぐらゐのつもりでゐたところ、靑蛙房主人によつて「妖異博物屋館」といふ大袈裟な書名を與へられてしまつた。博物館はいさゝか恐縮である。尤も一口に博物館と云つたところで、全部が全部宏壯な建築物とは限らず、カーライル博物館のやうに、故人の舊宅に遺品を飾つたに過ぎぬ例もある。讀者は世上の博物館中最も小規模なものを連想するか、或は博物館の一小部分と解釋されんことを希望する。

 小川芋錢氏は「芋錢子開七畫册」の序に於て「國中往々怪を描くものあり、是豫が癖にして實に東洋民族の癖なり。緣由する處は老樹浮藻廢瓜水蟲狐瀨の類、則自然物體中より其妖氛魅形を捕捉し來る。惟ふに宇宙間虛靈遊動して予が方寸を誘びくものか」と云つた。著者が平生讀書の際、妖異に對して感ずる興味の如きも、やはり東洋民族の脈管を流れる血の致すところかも知れぬ。柳宗元の「龍城錄」によれば、「昏夜鬼を談ずるなかれ、鬼を談ずれば則ち怪至る」といふのであるが、深夜明るい電燈の下にインクの滴々より成つた本書には、さういふ虞れは高々ない事と信ずる。

  壬寅玄冬

[やぶちゃん注:「壬寅」「みづのえとら」。刊行の前年、昭和三七(一九六二)年。]

 

 Ⅰ 

 

 化物振舞

 松平南海侯の化物振舞の話は、「甲子夜話」の記載が一番委(くは)しいやうである。先づ芝高輪片町の貧乏醫者のところへ行つて、固辭するのを聞かず、駕籠に載せて連れて來る。駕籠の外から繩をかけ、窓を堅く塞いであるので、載せられた醫者には、どこへ連れられたのかわからぬ。やがておろされたのは大きな家の玄關であつたが、書院らしいところに案內されて久しく待つうちに、一つ目小僧が茶を捧げて來たり、身長七八尺もある大若衆が煙草盆を持つて來たりする。遙か向うを見ると、十二單衣(ひとへ)に緋の袴を著けた容顏端麗の婦人が、すらりすらりと步いて行く。てつきり化物屋敷だと思つたが、逃げる途がない。暫くして案內されたのは、人の大勢ゐる廣間で、盛に酒を飮んでゐる。醫者も最初のうちは、こはごはさゝれる盃を受けてゐたが、遂に沈醉してその場に倒れてしまつた。醫者の留守宅では、妻女がまんじりともせずにゐると、明け方近く戶を敲く者がある。急いで出て見たら、駕籠を舁いて來たのが赤鬼靑鬼であつた。仰天して內に逃げ込んだが、その後物音もせぬので、戶の隙から覗くと、鬼の姿は見えず、駕籠だけ門口に置いてある。醫者は酒氣芬々として、褌一つで駕籠の中に睡つてゐる始末だから、妻女には何と解釋が付かぬ。辛うじて屋內に運び入れ、醉の醒めるのを待つて樣子を話し合つたが、互ひに不審は霽れなかつた。これが南海侯のいたづらで、醫者の連れて行かれたのは大崎の屋敷だつたらしい。大若衆は釋迦嶽、容顏端麗の婦人は瀨川菊之丞、一つ目小僧はさういふ畸形兒を出雲から呼び寄せたもの、といふ說明がついてゐる。

[やぶちゃん注:「松平南海侯」出雲松江藩の第七代藩主松平治郷(はるさと)の隠居後の名乗り。

「松平南海侯の化物振舞の話」『「甲子夜話」の記載』これは「甲子夜話 卷五十一」の「貧醫思はず侯第に招かる事」を指す。私は「甲子夜話」の正字電子化を手掛けている関係上、かなり長いが、全文を正字で以下に示す(注は附さぬ)。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを振った。

   *

予、少年の頃、久昌夫人の御側にて聞たりしをよく記憶してあれば、玆(ここ)に書(かき)つく。芝高輪の片町に貧窶の醫、住めり。誰(たれ)問ふ人もなく、夫婦と藥箱のみ在(あり)て、僕とても無きほどなり。然るに一日、訪者あり。妻、乃(すなはち)、出たるに、家内に病者あり、來診せらるべし、と曰ふ。妻不審に思(おもひ)て見るに、身ぎれいなる人の、帶刀して武家と見ゆ。因て夫に告ぐ。醫、出て、某(それがし)固(もと)より醫業と雖ども、治療のほど覺束なし。他に求められよ、と辭す。士、曰(いはく)、然らず、必ず來らるべし、と。醫、固辭すれども、聽かず。乃(すなはち)麁服(そふく)のまゝ隨はんとす。見るに、駕(かご)を率(したが)へ、僕從數人あり。妻、愈々疑(うたがひ)て、藥箱を携る人なしと以ㇾ實(じつをもつて)て辭す。士、曰、さらば從者に持(もた)しめん迚(とて)、藥箱を持して醫を駕に乘せ行く。妻、更に疑はしく、跡より見ゐたるに、行(ゆく)こと半町もや有(あら)んと覺しき頃、駕の上より繩をかけ、蛛手(くもで)十文字に、からげたり。妻、思に、極(きはめ)て盜賊ならん。去れども身に一錢の貯(たくはへ)なく、弊衣竹刀、何をか爲(な)すらんと思へども、女一人のことなれば爲(なす)べきやうもなく、 唯、かなしみ憂(うれへ)て、獨り音づれを待暮(まちくら)しぬ。醫者は側らより駕の牖(まど)を堅く塞(ふさぎ)て、內より窺ふこと能はざれば、何づくへ往(ゆく)とも知らざれど、高下迂曲せるほど、凡(およそ)十餘町も有るらんと覺しく、何方につれ行くかと案じ悶(もだへ)たるが、程なく駕を止めたると覺しきに、傍人、曰く、爰(ここ)にて候。出たまへ迚(とて)、戶を開きたるゆゑ、見たるに、大造(たいそう)なる家作の玄關に駕を橫たへたり。醫、案外なれば、還(かへつ)て駭(おどろ)きたれども、爲方(せんかた)なく出たるに、その左右より內の方にも數人幷居(ならびゐ)て、案內の人と行(ゆく)ほどに、幾間も通りて、書院と覺しき處にて、爰に待(まち)ゐられよと、その人は退入(のきいり)たり。夫(それ)より孤坐してゐるに、良(やや)久(ひさしく)ありても人來らず。何(い)かにと思ふに、人聲も聞こへざる處ゆゑ、若(もし)や何(いか)なる憂きめにや遇ふらんと思ふに、向(むかふ)より七、八歲も有らんと覺しき小兒、茶臺を捧(ささげ)て來る。近寄りて見れば、未だ坊主あたまなるに、額に眼一つあり。醫、胸とゞろき、果して此所は化物屋鋪(やしき)ならんと思ふ中(うち)、この怪も入りて、また長(た)け七、八尺も有らん大の總角(あげまき)の、美服なる羽織袴を着、烟草盂(たばこぼん)を目八分(ぶ)んに持來(もちきた)る。醫、愈々怖れ、怪窟、はや、脫する所あらじ。逃出(にげいで)んとするも、行く先を知らず。兎(と)や爲(せ)ん角(かく)やせんと思𢌞らすに、遙に向を見れば、容顏端麗なる婦の、神仙と覺しく、十二ひとへに緋袴(ひばかま)きて、すらりすらりと過(すぐ)る體(てい)、醫、心に、是れ、此家の妖王(えうわう)ならん。然れどもかれ近依らざれば、一時の難は免れたりと思ふ間に、程なくして一人、繼上下(つぎかみしも)を着たる人、出來て、御待遠(おまちどほ)なるべし、いざ案內申すべし、と云(いふ)。醫、こはごは從行(したがひゆく)に、又、間かずありて、襖を障(へだ)て、人聲、喧(かまびす)し。人、云、これ、病者の臥所(ふしど)なりとて、襖を開きたれば、その內には酒宴の體にて、諸客群飮して獻酬、頻(しきり)なり。醫、こゝに到ると、一客の曰、初見の人、いざ、一盃を呈せん迚(とて)、醫にさす。醫も仰天して固辭するを、又、餘人、寄(より)て强勸(がうくわん)す。醫、辭すること能はず、乃(すなはち)、酒盃を受く。時に妓樂、坐に滿(みち)て、弦歌、涌(わく)が如く、俳優、周旋して、舞曲、眼に遮る。醫生も岩木(いはき)に非ざれば、稍(やや)、歡情を生じ、相俱(あひとも)に傾承(かたむけうけ)、時を移し、遂に酩酊沈睡して坐に臥す。夫(それ)より醫の宅には、夫(をつと)のことを思へども甲斐なければ、寡坐(かざ)して夜闌(よふけ)に到れども、消息なし。定(さだめ)し、賊害に遭(あひ)たらんと、寐(いね)もやらで居たるに、鷄聲狗吠(けいせいくはい)、曉を報ずる頃、戶を敲く者あり。妻、あやしみて立出たるに、赤鬼、靑鬼と駕を舁(かい)て立てり。妻、大に駭き、卽(すなはち)、魂も消(きえ)んとせしが、命は惜ければ、內に逃入りたり。されども流石(さすが)、夫のことの捨(すて)がたく、暫しして戶隙(とすき)より覘(のぞきみ)たるに、鬼はゝや亡去(うせさり)て、駕のみ在り。又、先の藥箱も故(もと)の如く、屋中(をくうち)に入れ置たり。夜もはや、東方白に及べば、立寄て駕を開(あけ)たるに、夫は丸裸にて、身には褌あるのみ。妻、死せりと伺ふに、熟睡して鼾息(いびき)、雷の如し。妻はあきれて曰、地獄に墜たるかと爲(な)れば左(さ)もなく、盜難に遭(あひ)たるかと爲れば、醺氣(くんき)甚し。狐狸に欺れたるかと爲れば、傍に大なる包あり。發(ひらき)て見れば、始め、着ゐたりし弊衣の外に新衣をうち襲(かさね)て、襦袢、紙入れ等迄、皆、具して有りたり。然れども夫の醉(ゑひ)覺(さめ)ざれば、姑(しばら)く扶(たすけ)いれ、明朝、やゝ醒(さめ)たるゆゑ、妻、事の次第を問(とふ)に、有し如く語れり。妻も亦、その後のことを語り合(あひ)て、相互に不審、晴れず。この事、遂に近邊の傳話(つたへばなし)となり。誰(たれ)知らざる者も無きほどなりしが、誰(たれ)云ともなく、是は松平南海の徒然(つれづれ)を慰めらるゝの戲(たはむれ)にして斯(かく)ぞ爲(せ)られしとなん。この時、彼(かの)老侯の居られし莊は大崎とか云て、高輪(たかなは)遠からざる所なる故(ゆゑ)なり。又一目の童子は、その頃、彼の封邑(ふういふ)雲州にて產せし片(かた)わなる小兒なりしと。又、八尺の總角は、世に傳へたる釋迦ヶ嶽と云し角力人(すまふにん)にて、亦、領邑(りやういふ)に出(いで)し力士なり。又、神仙と覺しき婦は、瀨川菊之丞と呼(よび)し俳優にして、その頃、侯の目をかけられし者なりしとぞ。

   *]

 

「落栗物語」に書いてあるのも、化物振舞の點はほゞ同じで、たゞ菊之丞が登場せぬだけである。醫者の一件は全くない。招かれた親しい人々を、一つ目小僧と釋迦嶽で驚かす趣向のやうに見えるが、或は當夜の餘興として貧乏醫者を一枚加へたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「落栗物語」著者不詳の随筆。全二冊。秀吉の時代から寛政までの見聞逸話集。内容から見て寛政四(一七九二)年以降の成立と推定されている。【二〇二三年十二月二十一日改稿】国立国会図書館デジタルコレクションの『百家隨筆』第一 (大正六(一九一七)年国書刊行会刊)のこちらの当該部(右ページ下段後ろから二行目以降)を視認し、一部に私が読みを歴史的仮名遣で補い、句読点を操作し、一部の歴史的仮名遣の誤りを訂した。これ注は附けぬ。

   *

松江少將は所領十八萬石餘の主(あるじ)にて、をかしき人なりけり。或時、親しき人々を集(あつむ)るとて、今宵は化物の饗(もてなし)をし侍るよし、いひやられければ、怪(あやし)き招きかな、と思ひながら、皆、打(うち)つれて行きぬ。館のさま、いつにかはりて、いと靜(しづか)にまうふけなし、常には目馴(めなれ)ぬ前栽(せんざい)の竹の間より細き道を開き、ひとつの東屋(あづまや)を建(たて)たり。其所のさま、物さびて、いと淋しげなり。主(あるじ)も、いまだ出逢(いであは)ねば、まらうど達、打向ひ、物語して居(ゐ)たり。夜寒(よざむ)の風の身にしむまゝに、燈火、暗くなりたる時、放出(はなちいで)の方より、淸げに引繕ひ、半臂著たる小法師の、梨地(なしぢ)の托子(たくし)に白がねの茶盞(ちやせん)をすへて持出(もちいで)たり。近く寄來(よりきた)るまゝに、よく見れば、面(おもて)の色、赤みて、えもいはず見にくきが、眼(まなこ)は大にて、ひたひの程に、たゞ一ツ付(つき)てあり。人々、驚きけれど、兼ねてのあらましなれば、念じて見居たるほどに、座中の人に茶を引渡して入(いり)ぬ。とばかりありて、身のたけ七尺餘りと見ゆる童子の、かたちはふとくたくましけれど、眉のかゝり、まみなんどはいと幼をさなくて、年のほど、十六、七と見ゆるが、柳の衫(さん)[やぶちゃん注:底本は脱字。別データで補った。]着て、瓶子(へいし)に大器(おほうつは)、持(もち)て出(いで)たり。此度(このたび)はこらえかねてあれば、いかにと、どよめき、騷ぎければ、彼(かの)者、打笑ひて、引入(ひきいり)ぬ。やがて、主の少將出來(いできた)りて、數々のもてなしあり。各(おのおの)興に入ける時、さきの事を問ふに、少將は、たゞしらず、とのみ答(こたへ)て、其夜は止(やみ)ぬ。後に聞(きき)ければ、彼(かの)小法師は少將の領地の山里に住ひける、かたわ者、童は出羽國の相撲(すまひ)にて釋迦と云者なり。年は十七に成(なり)けるが、身の長(たけ)は七尺三寸有(あり)しとぞ。少將は此(この)二人の者を得しよりぞ、かゝる招きをばせられける。此釋迦、京へ上りて、鴨川の東にて相撲せし時、近衞とねり共、見に行(ゆき)て、高き棧敷(さじき)の上に居て、釋迦を呼び、盃(さかづき)をとらせしかば、其下に寄立(よりたち)て酒を飮(のみ)しに、首のほどは上に居(ゐ)たる人より高く見えしとぞ。又、或人、此者に向(むかひ)て、其(その)骨柄を譽めければ、答(こたへ)て云樣(いふやう)、それがしはかく相撲しありきても有(あり)なん、姉(あね)にて候(さふらふ)者は、今、一かさ、まさりて、大(おほき)に候ほどに、見ぐるし、とて、みづから歎き候へども、せんかたなく候、と語りしとぞ。

   *]

 

「甲子夜話」の松浦靜山侯は、この話を少年の時に聞いたと云つてゐる。只野眞葛の「むかしばなし」にも、「出羽樣の化物茶の湯」といふ一條があつて、瀨川菊之丞も、釋迦嶽も出て來るが、特に一つ目小僧に就いては「或年御國にて御通行の時、御家中の二三男なるべし、もがさ重く病て片目つぶれたる上、殘る片目も引つりて額の方へたてに成たるが、子供と遊びゐしが、御目にとまりおもしろき物ぞとて、直々召出さし、御側にて立まはりを習はせ、翌年御登りの御供にて江戶へ召連られし、十二斗なれど、八ツ位にみゆる小人なりし」といふ稍々委しい說明がある。

[やぶちゃん注:『只野眞葛の「むかしばなし」』「出羽樣の化物茶の湯」これは仙台藩医の娘で女流文学者・国学者であった只野真葛(ただのまくず 宝暦一三(一七六三)年~文政八(一八二五)年)の「五」に載る話。以下に所持する一九九四年国書刊行会刊「叢書江戸文庫」の「只野真葛集」から恣意的に該当箇所を含む一条の内の前半部を正字化して引く。【 】は原典の割注。一部に私が読みを歴史的仮名遣で附し、読点も追加した。

   *

一。同時代なる松平出羽守は【此出羽守樣の次の殿、山城樣の御ともだちなりし。是は少し先なり。さりながら御繁昌にていらせられしは、やはり同じ代なり。】御幼年にて御代にならせられし故、諸人たゞ御成長をのみ、いのり奉りて、萬事、思召(おぼしめし)まかせに育上(そだてあげ)し故(ゆゑ)、御大名の被遊(あそばせられ)ぬ事までも被遊(あさばされし)殿なり。もろもろの藝人、たいこ持、役者、町藝者など常に御側に召(めさ)れて有(あり)し。御中奧(おんなかおく)は、うたぎ、とて、江戶一番の美人、殊の外、けん高なりしとぞ。其頃、吉原一番の美婦と呼(よば)れし、扇屋花扇と云(いふ)太夫を御揚被ㇾ成(おあげなされ)、御自慢にて、うたぎを召連(めしつれ)られ、美人くらべ被ㇾ遊(あそばされ)しに、好(よき)も限り有(ある)物にて、いづれおとらぬ事なりしとぞ。此(この)うたぎ、みめかたちは勝(すぐれ)しかども、賤(いやし)き筋より出し故、心、拙なく、御家より被爲入(いれなさられし)し御前樣、御仕度(したく)麁末(そまつ)なりとて、とりどり惡口せし程に、はじめは御心勞被遊候とぞ。はやう、世をさりし故。後はことも無(なか)りし。王子稻荷の申子(まうしご)にせしとて、王子路考とあだ名せし瀨川菊之丞、其比(そのころ)わか手の日の出役者なりしが、殊に御ひいきにてひしと召されし故、世には「出羽樣かろう」とも云(いひ)し。しうじやくの所作(しよさ)せし時、赤がしら、此殿より被下(くだされ)しが、三拾兩にて御買上なりとぞ。此時大當り、天下をひゞかせたり。其年の夏、屋形船にて大川筋へ御納涼に被ㇾ爲ㇾ入(いれなされ)し時、菊の丞も御ふねに被召(めされ)て參りしに、御側のもの心しひして、紅白の麻にて牡丹の花を造りて舟の柱に犇(ひし)と付(つき)しかば。すゞみに出(いで)し諸人は、すはや御船にて路考が石橋(しやくきやう)を躍(をどる)ぞと、我先(われさき)我先と船を取(とり)まきしが、御なぐさみにて躍(をどり)はなかりしとぞ。或年、御國にて御通行の時、御家中の二三男なるべし、もがさ重く病(やみ)て片目つぶれたる上、殘る片目も引つりて、額の方へ、たてに成(なり)たるが、子供と遊びゐしが、御目にとまり、おもしろきものぞとて、直々(ぢきぢき)召出され、御側にて立(たち)まわりを習はせ、翌年、御登りの御供にて江戶へ召連られし。十一、二ばかりなれど、八ツ位にみゆる小人なりし。又、其時代、釋迦が嶽雲右衞門とて、古今稀なる大男の角力取(すまふとり)有しをも、御かゝへと被成(なられ)て御引立(おひきたて)有し。身の丈(たけ)九尺有し故、町家にては、立ながら背のびならねば、御殿に上りて、心安くのびしと云(いふ)評判なりし。或時、御懇意の大名方を被爲招(まねきなされ)、御振舞(おんふるまひ)ありしに、初(はじめ)は彼(かの)かたわ小人(こびと)、一ツ目小僧にて廣袖(ひろそで)付(つき)ひものまゝにて御茶さし上(あげ)、御本膳は雲右衞門に厚(あつ)わたの童子格子の大どてらを着せ、紫縮緬(むらさきちりめん)の大まるぐけを前帶に〆(しめ)て、はりこの大あたまをかぶらせ、見こし入道の出立(いでたち)なり。御わきは次の間中比(なかごろ)の疊、ふわふわと、くぼむと、下より、菊之丞、惣白無垢、淺黃(あさぎ)ちりめんのしごきを前帶にして、たけに餘る黑髮を亂し、雪女か幽靈かといふ出立、足をはこばず、すり足にて身輕の立𢌞(たちまは)り、見事さ、奇麗さ、いふばかりなし。御かよひ、いつも御次の間へ行(ゆけ)ば。疊まく下へ入(いる)仕かけなり。出羽樣の化物茶の湯と唱(となへ)しは是(これ)が始まりにて、さまざま御趣向、有しなり。

   *

「まるぐけ」は「丸絎」で、綿などを芯 に入れ、丸く棒状に仕上がるようにした帯締めのこと。]

 

 醫者一件も「むかしばなし」の傳ふるところは、「甲子夜話」とは別である。町醫師で松平家へ出入りを望む者があつたが、容易に御取上げにならなかつた。然るに或風雨の夜、出羽樣より急病御用といふことで、四枚肩の駕籠が迎へに來た。大願成就と喜んで乘つたものの、どこだかわからぬところを、やたらに擔ぎ𢌞され、擧句の果は寂しいところで駕籠をおろされた。ふるへてゐる手を取つて引出されたと思ふと、衣類を殘ず剝ぎ取り、藥箱と一緖に駕籠へ入れて擔いで行つてしまつた。醫者は松の木に縛り付けられ、まじまじしてゐるうちに、雨がやんで朧な月が出る。折よく向うから提燈をつけて來る人があるので、聲をかけて助けを乞うたところ、直ぐ繩を解いてくれたのみならず、この道を眞直に行くと灯が見える、そこの主人は慈悲深い人だから、行つて賴まれたらよからう、と敎へてくれた。敎へられた通り行つて見たら、透垣に枝折戶といふ風雅な住ひがあつた。案內を乞うて事情を話す。主人は大いに同情して、幸ひ風呂が立つて居るから、先づお入りなさい、と湯殿へ案內された。この湯殿の結構なこと、何とも申しやうがない。竿にかゝつてゐる浴衣を著ようとするのを、それよりこれをお召しなさい、と云つて一重(かさ)ねの衣類を著せてくれた。成程慈悲深い主人である。それから茶漬飯が出る。承れば御醫者ださうだが、娘が少々不加減だから、樣子を見ていたゞきたい、お藥箱は在り合せの品がござるから、お使ひ下さい、といふのは自分の藥箱に相違ない。氣が付いて見れば、著せられた衣類も自分のものであつた。不審に堪へぬけれども、迂闊に問はれぬと思つて差控へてゐるうちに、殿樣御入りとあつて、しづかに座に着かれた人がある。それは先刻繩を解いてくれた人であるらしい。これが御目通りの最初であつた。方々𢌞り道をして、御庭口から御屋敷に入つたのを知らずにゐたが、枝折戶の家は御茶屋だつたさうである。

[やぶちゃん注:先の引用の少し後に出る話柄である。同前で以下に引く。

   *

○又或町醫、御出入を望(のぞみ)し人ありしが、度々御長屋まで來りて願しを、御取もなきやいなや、たえて御沙汰もなかりしとぞ。ある日、夕方より嵐(あらし)して、風強く雨ふる夜、出羽樣より急病用とて、四枚がたの駕(かご)迎(むかへ)に來りしかば、願所(ねがふところ)と悅(よろこび)て、取物(とるもの)もとりあいず、いそぎ駕に乘りて出しに、どこへ行(ゆく)ことか、やたらにかつぎ行く。果(はて)もふ行付(ゆきつき)そふなものと思ふと、坂を登り山の上から、かごを下へおろしたり。何かはしらず、合點ゆかずと思ひ居ると、寂しい道中にて駕をおろして、手𢌞(てまわし)共、「そこへでろ、そこへでろ」と聲々に呼立(よびたて)る。中にふるへてゐるを、手を取て引出(ひきいだ)し、衣類殘らずはぎ取(とり)、藥箱とも駕に入(いれ)て、一さんにかつぎ行(ゆく)。醫師は松の木へしばり付られて、まぢまぢしてゐると、雨もやみておぼろに月も出たり。むかふより灯燈(ともしあかり)の火、みゆる。やれ、うれしや、と待(まつ)間(あひだ)、ほどなく前を過行(すぎゆ)けば、「モシモシ」と聲かけ、「かやうかやうの難に逢候間(あひさふらふあひだ)、何卒お慈悲にお助被ㇾ下(くだされ)」と、淚ながら語れば、「やれされ、それはさぞ御難儀ならん。しかし身に怪我なくて仕合(しあはせ)なり」とて繩を解(とき)、「是より此道をすぐにゆけば、ああかり見えべし。其所の主(あるじ)は慈悲深き人故、行て賴まれよ」とをしへて行過たり。「有難し」と一禮のべ、敎(おしへ)の如く行(ゆき)てみれば、すかし垣(がき)にしおり戶(ど)有(あり)て、風雅のすまゐと見えたり。立(たち)よりてあなひをこひ、ありし事共を語れば、「それは、さてさて、あぶなき事。幸(さいはひ)、ふろの立(たて)てあれば、先(まづ)いられよ」とて、すぐに湯殿へ伴なへ行(ゆく)。其湯どのの結構、申(まうす)ばかりなし。竿に懸たるゆとりをきて出(いで)んとする時、「是にても召されよ」と、何か一重ねの衣類を取いでゝ着せる。「かさねがさねの御情(おんなさけ)、いつの世にか忘るべき」と禮を述(のぶ)れば、「是を御緣に御心やすく御出入被ㇾ下(おでいるくだされ)たし。承れば、御醫師の由。幸、娘、少々病氣なれば、容子(ようす)御覽被ㇾ下よ」と賴み、「まづ、御空腹ならん」と奇麗の茶漬(ちやづけ)めしを出し、其後、娘らしき女、出て、容子みてもらひ、「お藥箱有合(ありあひ)の品、是にても御用被ㇾ下(おんもちひくだされ)」と出(いだ)せしは、先に取(とら)れし我(わが)藥箱故(ゆゑ)心付(こころづき)、衣類を見るに、それもはぎ取(とら)れしに違(たがひ)なし。ふしぎ晴(はれ)ねど粗忽(そそう)にもとわれず、ためろふ內(うち)、しづしづと人を拂ふ音して、「殿樣の御入成(おいりなり)」とひしめき、すらすらとあゆみいでゝ、座に着せられしを見れば、繩をといてくれし飛脚ていのものとおもえし人なり。是、御目通(おめどほり)のはじめなりしとぞ。ちらもなく𢌞り道をして、御庭口より通りて、御やしきへ入(いり)しを知らざりしなり。枝折戶(しをりど)の家は御茶屋にて有しとぞ。此(この)咄(はな)しは江戶中、ぱつと評判にて、芝居・草ぞうし・讀本類に迄いでゝ、人のはなしも百色(ひやくいろ)ばかりなれば、いづれ實說といふ事、たしかにしり難し。其ひとつをとりてしるす。

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 この記載によれば、化物振舞と醫者一件とは直接關係がないらしく見える。倂し只野眞葛自身も「此咄しは江戶中ぱつと評判にて、芝居、草ぞうし、讀本類に迄いでて、人のはなしも百色斗なれば、いづれ實說といふ事たしかにしり難し、其ひとつをとりてしるす」と斷つてゐるくらゐで、いはゆる眞相は捉へにくい。また眞相のはつきりせぬところに、この種の話の妙味はあるのであらう。同じやうな醫者の話でも、「甲子夜話」の方が大分鷹揚であることは爭はれぬ。泥醉した醫者をまた駕籠に載せ、赤鬼靑鬼に舁かせる趣向は、どうしても大名氣分であるが、南海侯自身飛脚體になつて醫者の繩を解く方は、「江戶生艷氣樺燒」の世界に近付いてゐる。駕籠の中には醫者の衣類の外に、新衣を打ち襲ね、襦袢紙入れまで皆揃つてゐたといふ話と、風呂へ入れた後、醫者の著物を默つて著せる話とを比べれば、その差は天地霄壤であると云つて差支あるまい。

[やぶちゃん注:「江戶生艷氣樺燒」「えどうまれ うはきの かばやき」と読む。山東京伝作・画で天明五(一七八五)年板行。黄表紙本・三冊。色男気取りの艶二郎が金に飽かせて浮き名を広めようとするも、失敗するさまを滑稽に描いたもの。私は読んだことがなく、読む気もしないのでどこのどういう設定が「近付いてゐる」ものかは知らぬ。ウィキの「江戸生艶気樺焼」のかなり詳しいシノプシスを読んでも、ここと名指すことは出来ない。

「霄壤」「せうじやう(しょうじょう)」と読む。畳語でこれも「天と地」の意で「天地霄壤」と重ねて、天と地ほどの大きな違いのあること。「雲泥の差」に同じい。]

 

 戀川春町の「三幅對紫曾我」の中に、「重忠の化物ぶるまび」とあるのは、南海侯の事實を取入れたのであらう。一つ目小僧は見當らぬが、釋迦嶽は「しやがむ丈」、菊之丞は「化粧坂の少將幽靈の役を勤む」として出て來る。「扨も約束の日になりしかば諸大名重忠の赤澤の屋敷へ來りければ、有無を云ず大勢かけより駕籠又はばんぶくろに押入て、山を越え谷を越して何處ともなく連行しは怪しき共云ばかりなし」といふのも、醫者の一件と關係がありさうな氣がする。

[やぶちゃん注:「戀川春町」(こいかわはるまち 延享元(一七四四)年~寛政元(一七八九)年)は戯作者で浮世絵師。鳥山石燕に師事した。

「三幅對紫曾我」「さんぷくついむらさきそが」。安永七(一七七八)年板行。曽我物のインスパイア絵本でるが、実際の複数の藩主を作中に仮託したことを問題とされ、同年中に発禁絶版処分を喰らっている。「早稲田大学図書館」公式サイト内の「古典総合データベース」の同書のこの辺りであろう。]

 

「三幅對紫曾我」は安永七年版である。化物振舞は、この書の出版に比較的近い事實だつたのであらう。明治三十七年の「文藝俱樂部」に、伊原靑々園が「生捕醫者」といふ題でこの話を書いた時は、「甲子夜話」及び「雲陽祕事記」に據る旨が附記してあつた。醫者の名を宇川容庵としたのは、「雲陽祕事記」にあるのであらうか、他には見えてゐない。

[やぶちゃん注:「明治三十七年」一九〇四年。

「伊原靑々園」坪内逍遙と親しかった演劇評論家で劇作家の伊原敏郎(としお 明治三(一八七〇)年~昭和一六(一九四一)年)のペン・ネーム。

「雲陽祕事記」著者や成立年代不詳。近世松江に関する伝聞史料。松江藩主松平家初代直政から第六代宗衍(むねのぶ)までの約百三十年間の奇聞・伝説、社寺・地名の由来、家臣の武功談その他の出来事を記した書写本。ネット上の『市報松江』の二〇〇八年六月のこちらの記事に拠った。]

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