谷の響 五の卷 一 羹肉己ら躍る
谷の響 五の卷
弘府 平尾魯僊亮致著
一 羹肉己ら躍る
弘化三年の頃のよし、御藏町木匠(だいく)小之吉といへるもの、板柳村の井筒屋宇兵衞に償(やと)はれて掙(はたら)き居たりけり。一夜(あるよ)同僚(どうやく)ども語りて思はず更かしたるに、みな醉も醒め肚(はら)も空きたれば改飮(のみなほ)して寢(い)ぬべしと、杜人(とうじ)より酒は貰ひたれど酒菜(さかな)なければ奈何はせんとするに、一個(ひとり)のいへる、鷄こそよき酒菜なるべしとあるに、みなそれよとて暗密(ひそか)に塒(ねぐら)より鷄一羽捕來りて、やがて料理して煮たりけるが、肉も稍(やゝ)熟して酒を燗すべしとするうち、鳥屋(とや)なる鷄一聲高く謳ひしに、鍋の中なる煮ゑたる内おのれと躍あがりて圍爐裡の四邊(あたり)に散敷(ちらはり)たるに、衆々(みなみな)膽を寒(ひや)し興もさめて不覺(そゞろ)に身の毛逆立て誰食ふべくといふものもなく、攫ひあつめて裏なる堰に棄けるなり。かく執念の深きをば目下(まのあたり)に見たればいと怕しきなりとて、夫より鷄は卵子も嚙(く)ひたることなしとこの小之吉が語りしなり。
又、これと等しからねど似よりたる一語(はなし)あり。そは嘉永二己酉の年、劇場(しばゐ)の歌舞妓者(やくしやども)蟹田村に投宿(とまれ)るが、辨七・大吉などいへる三人の宿にて嶋メクリと言へる小魚を燒きたるに、片身はよく燒けぬればとて反(かへ)して又の片身を燒をりしに、この魚六枚(むひら)なるが不殘(みな)跳り出して串よりはなれ、灰(あく)の中に落て魬躍(はため)きたるに、歌舞妓者(やくしやども)奇異の思ひをなして採り上げて見れば、その動くものには中骨が附てありける故、其まゝこの魚を摘み出て洋(うみ)に放下(はなし)たるに、ひらひらと泳ぎて行衞なくなりしとなり。この時三國屋惣左衞門も居あはせ、親しく視たりしとて語りしなり。
[やぶちゃん注:「羹肉」第二例にはそぐわぬが、「あつもの」と当て訓しておく。「羹」は「熱物(あつもの)」と訓じ、魚肉・鳥肉・野菜などを入れた熱い吸い物を指す。
「己ら」「おのづから」。
「弘化三年」一八四六年。
「御藏町」現在の青森県弘前市浜の町。ここ(goo地図)。「弘前市」公式サイト内の「古都の町名一覧」の「浜の町(はまのまち)」に、『参勤交代のとき、もとはここを経て鯵ヶ沢に至る西浜街道を通って、秋田領に向かっていました。町名は、西浜に通じる街道筋にちなんだと思われますが』、宝暦六(一七五六)年には『藩の蔵屋敷が建てられ、「御蔵町」とも呼ばれました』とある。
「小之吉」「このきち」と読んでおく。
「板柳村」北津軽郡板柳(いたやなぎ)町。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「暗密(ひそか)に」二字へのルビ。
「捕來りて」「とりきたりて」。
「謳ひしに」「うたひしに」。
「おのれと」自然と(自発の意)。誰かが箸で摑んだわけでもないのに。
「躍」「をどり」。
「圍爐裡」「ゐろり」。
「散敷(ちらはり)たるに」ルビはママ。
「膽」「きも」。
「不覺(そゞろ)に」二字へのルビ。何とも言えず。
「逆立て」「さかだちて」。
「攫ひ」「さらひ」。「浚ひ」。
「堰」「せき」。水路。
「棄ける」「すてける」。
「嘉永二己酉の年」一八四九年。「己酉」は「つちのととり/きゆう」。
「歌舞妓者(やくしやども)」四字へのルビ。
「蟹田村」現在の東津軽郡外ヶ浜町の蟹田地区周辺。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「辨七・大吉」役者の芸名であろう。
「嶋メクリ」条鰭綱棘鰭上目スズキ目ベラ亜目ベラ科カンムリベラ亜科キュウセン属キュウセン
Parajulis poecilopterus の地方名。海産生物同定等でしばしば参考にさせて戴いている「ぼうずコンニャクの市場魚貝類図鑑の「キュウセン」の「地方名・市場名」の項に、『シマメグリ/山形県鶴岡市由良漁港』とあり、また、『シマクサブ』・『シマメグク』の名を見出せる。キス釣りでよくかかる虹色鮮やかな魚で、色の関係で好まぬ人が多いように思われるが、焼いて食うと、実は美味い。
「魬躍(はため)きたるに」二字へのルビ。]
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