谷の響 五の卷 十三 蚺蛇
十三 蚺蛇
相澤村の長三郎と言へるもの、薪を採らんとて山路一里餘り登りしが、行く先の路にあたりて徑(わたり)三尺もあるべき松の古木橫はれり。これを踏み越えんとすれど足とゞかねば、如何かはせんとしたりけるに、其松樹おのづから動くやうに見得しかば、いとあやしみ目をとゝめて見やりたるに、松樹にはあらで蚺蛇にてぞありける。松皮の如く見ゆるは皆鱗にて、一つ一つにおこれるがゆふゆふと動き出して紆(うね)り行く勢なるが、ひつかへされてはたまらずと其まゝ逃て反りしとなり。こは文政六七年のことなりと千葉某の話なりき。
中村澤目橫澤村に嘉兵衞と言へるものあり。專ら直(なほ)く又強かる性質(さが)にして、假りにも僞のことあらず。ある日木樵(きこり)に出て岩木山の澤のうち芦の左の澤といへる處に休らひて、晝飯を喰ひ水を飮んと笹むらを押分け谷に下りて水を汲みたるに、風の林を吹きわたるが如き音あるから何事ならんと見あぐれば、頭の上僅(わづか)四五尺離れて徑(わたり)三尺もあるべき蚺蛇の、兩山の谷合四五尺ばかりの間に蟠(わだか)まりて、恰も橋を架けたる如くなるに、見る見る其尾を谷中にひきおろし、するすると紆(うね)りて側なる山の高藪に入りぬ。この嘉兵衞なみなみの者なりせば其まゝ倒れもすべかりしを、生來強勇なるものから恐しとも知らで、かへりてこれが行先を見屆けんとそがゆける跡を傳へ行しに、蚺蛇の通りしあとは笹むら左右へ亂れ靡きて一條(すじ)の徑路(みち)をひらけり。かくて嘉兵衞は已に五六町も來つらんとおぼしきころ、俄に山鳴り谷へひゞきて、雲霧しきりに湧發(わきおこ)り山一杯にひろこりて、四面皆暗く咫尺間も分ち難きに、流石の嘉兵衞も進むことなし得で、道を索(もと)めて反りしとなり。こは、以前安永の末の年なるよし。芦萢村の孫左衞門と言へる老父の話なりき。
[やぶちゃん注:「蚺蛇」は既出。「うはばみ」(蟒蛇)と読む。大蛇。
「相澤村」現在の青森市浪岡大字相沢。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「徑(わたり)三尺」直径九〇・九センチメートル。
「橫はれり」「よこたはれり」。
「如何かはせん」「いかにかはせん」。
「見得しかば」「みえしかば」。
「目をとゝめて」凝っと目をとめて。
「おこれるが」「起これるが」。立ち起きているのが。
「ゆふゆふと」ゆらゆらと。オノマトペイア(擬態語)。
「紆(うね)り行く」上下・左右に大きく波打つように蠕動しつつ動いてゆく。
「勢」「いきほひ」。
「ひつかへされては」その蟒蛇が長三郎に気がついて引っ返してこられたりしては。
「逃て反りし」「にげてかへりし」。
「文政六七年」一八二三年か一八二四年。
「中村澤目橫澤村」現在の西津軽郡鰺ヶ沢町浜横沢町(はまよこさわまち)と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「專ら直(なほ)く」すこぶる実直で。
「假りにも僞のことあらず」「かりにも」、「いつはりのこと」には「あらず」。
「木樵(きこり)」ここは木材伐採の作業の意。
「岩木山の」「芦の左の澤」不詳。識者の御教授を乞う。
「飮んと」「のまんと」。
「四五尺」一メートル二十一センチから一メートル五十二センチ弱。
「兩山」その沢の両方の尾根の謂いであろう。
「側」「そば」。
「傳へ行しに」後をつけて行ったところ。
「條(すじ)」ルビはママ。正しくは「すぢ」。
「五六町」五四六~六五五メートルほど。
「ひろこりて」ママ。「廣ごりて」。広がって。
「咫尺」「しせき」。「咫」は中国の周の制度で八寸(周代のそれの換算で十八センチメートル)、「尺」は十寸(同前で二十二・五センチメートル)を言い、距離が非常に近いことを指す。
「安永の末の年」安永十年で西暦一七八一年。但し、この旧暦四月二日(グレゴリオ暦一七八一年四月二十五日)に天明に改元している。
「芦萢村」「あしやちむら」は既出。現在の鯵ヶ沢町芦萢町(あしやちまち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]