炎天 梅崎春生
[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年一月号『群像』初出。文中に出る墨田区の旧「東吾嬬町」はこの附近。隅田川の左岸、荒川の右岸。この附近(グーグル・マップ・データ)。]
炎天
とにかくその日は、途方もなく暑かった。風がなく、日が昇らないうちから、むんむんと暑かった。
午前十一時頃に上野駅に落ち合い、それから駅前に出て、篠田君がタクシーを呼びとめた。その篠田君の脇腹をつついて、僕が注意した。
「大型の方が良かないか」
「ううん。小型でいいんだよ」
なぜ小型でいいのか。行先の道幅が狭いのか。その説明はしなかった。僕も黙っていた。あまり暑くて、口をきくのも面倒だったからだ。
で、小型がとまった。何という車か知らないが、なんだか蝉の羽根みたいな感じのする華奢(きゃしゃ)な車で、僕たちが乗り込むと、どかどかと揺れた。運転手は二十一二の若造で、眼が細く、ちょっと狐に似ていた。狐が怒ったような顔をしていた。
そのまま百米ばかり走って、運転手が口をきいた。甲(かん)高いきんきんした声だった。
「旦那。どちらまで」
篠田君が行先の町の名を言った。その町にある玩具工場を、僕たちは今日見に行くことになっていた。
「川向うだよ」
「へえ。そいつは弱ったな」
運転手はいらいらしたような声で、乱暴にハンドルを切った。
「あっちの方面、おれ、あまり行ったことがないんだよ。旦那はよく知ってるんですか」
「おれもよく知らないんだ」
篠田君が答えた。そしてポケットから紙片を取出して、どこ発どこそこ行きのバスの、何町何丁目の停留所から、右へ折れてコンクリ塀から左に曲って、と言うような説明を始めた。僕はよく聞いていなかった。聞いていても判るわけがなかったから。背を深く座席に押しつけて、足をつっぱっていた。危惧した通り運転が乱暴だったし、それに小型自動車というやつが信用出来なかったからだ。小型でいっぺん頭を天井にぶっつけ、コブをつくって以来というものは、小型は僕には大の苦手になっていた。衝突するとぐしゃっとつぶれると言う話も聞いている。
とにかく自動車はそちらの方向に走り出した。非常なスピードで走り出した。何はともあれ目的地に早く着いて、僕ら二人を振りおとしたいという具合にだ。
窓から風がひゅうひゅうと入るので、暑さの方はいくらかしのぎよくなったが、あんまりスピードを出すので、気持がわくわくと落着かない。姿勢を低く保ち、前の座席の背を摑んで、やはり汗が出てくる。暑さの汗と別種の汗がじりじりと惨み出て来る。それにこの車は底部が妙に敏感で、舗装路のちょっとした穴が、じかになまなましくお尻につき上げてくるのだ。
やがて大きな橋を渡った。むっと光を含んだ熱風が、窓から吹き入ってきた。
篠田君もあまり気分がよくないらしく、身体を緊張させて、黙っている。口をきかないで、前方ばかりを眺めている。
橋を越したあたりから、街のたたずまいが少しずつ変ってきた。それと同時に、暑さも少し高まってきたようだ。どこを見廻しても、植物の緑が見えない。白茶けたような建物がずらりと並んでいる。僕は苦心してお尻のポケットからハンカチを引っぱり出し、ごしごしと顔や首を拭いた。新しいハンカチがたちまち薄黒くなってしまう。
小犬を一匹はね飛ばしてから、玩具工場行きのこの車にケチがつき始めたようだった。
はね飛ばされた白斑(しろまだら)の仔犬は、四肢をふるわせて口からどろどろと血をはき、そのまま動かなくなった。
自動車は一度は停った。それからアクセルを踏み、前に倍したスピードで走り始めた。
「畜生め。縁起でもねえ!」
運転手は声を慄わせた。運転手の細い頸(くび)筋には、小豆(あずき)のようにつぶつぶの汗がふき出ている。片手で運転しながら、残った片手でごしごしと頸筋をひっかいた。そして怒ったような声で言った。
「ええ。どこでしたっけ、行先は?」
「東吾嬬(あずま)町だよ」
むっとしたように篠田君が言い返した。
それから一町ほど走ると、道路工事をやっていて、水道管が破裂したのか、道路は一面に水びたしになっていた。上半身を裸にした赤銅色の男たちが、右往左往して働いていた。たくさんの人間が働いているにもかかわらず、窓から見るその景観には音がなく、まるで無声映画を見ているような具合だった。僕はしきりに唾をのみ込んだ。
「駄目だあ、ここは」
運転手はいらだたしげにハンドルを切り、狭い横丁に入り込んだ。
「実際なんてえことだろう」
「こんな狭いところ、通れるのかい?」
篠田君が心配そうに声をかけた。運転手は返事をしなかった。バックミラーにうつる運転手の顔は、発疹(はっしん)でもしたかのように、赤い班点があちこちにふき出ている。何となくぞっとした感覚に僕はなった。するとバックミラーの運転手の眼が、きらりと僕をにらみつけた。僕はあわてて眼を外(そ)らした。眼を外らしながら思った。
「何だか妙な具合だな。この運ちゃん、病気じゃないのかい」
その狭い道をずっと行った二叉路で、また運転手を怒らせるようなことが出来(しゅったい)した。大きなオート三輪が停っていて、それが合図もなしに僕らの車の前に、するすると後退してきたのだ。僕らの車は急停車した。がくんと僕らの身体は揺れた。運転手は座席から外に飛び出し、きんきん声で怒鳴りつけた。オー三輪の座席から、中年の運転手がしきょとんとした顔をのぞかせた。
「何という動かし方をしやがる。ぶつかるじゃねえか」
そしてこちらの運転手は忙しく手帳を振り出し、向うのナンバーをせかせかと写し取った。あるいはせかせかと写し取る真似をした。
「うう。暑い。暑いなあ」
車の中で篠田君があえぐように言って、前の座席をぎしぎしと揺さぶった。その声を聞くと、僕の全身からもいっぺんに熱い汗が流れ出てきた。
「こんな暑いのに、玩具工場を見に行くなんて、実際ばかげてるなあ」
「そうだよ。ほんとにそうだよ」
僕は相槌を打った。心から相槌を打った。
「あの犬、痛かっただろうねえ。血が口からどくどく出て来たよ」
篠田君は返事をしなかった。眼を据えて窓外を見ていた。運転手が戻ってきた。亢奮(こうふん)の残った声で、また腹の立つ質問を僕らにした。
「ええと。どちらでしたっけ、行先は?」
苦心して、やがて広い道に出た。僕らの車は荷車とバスの間をすり抜けるようにして、バスの前方に出ようとした。烈しい日の光がおちて、車道のアスファルトが時々ぎらりとかがやく。
歩道から車道へ、突然二つぐらいの子供が走り出てきた。よちよち走りながら、車道を横切ろうとする。それは僕らの車から、二米か三米ぐらいしか離れていなかった。
身体をタオルみたいに絞られる感じで、僕はそれを見た。僕の眼は三倍ぐらいの大きさに見開かれていたに違いない。
ぎゅぎゅっという大きな音を発して、僕らの車は急停車した。僕らの身体ははずみをくって、ぐいと前方に浮き上り、あぶなくおでこが座席にぶつかるところだった。
異様な大音響のおかげで、街中の視線が僕らの車にあつまったようだった。一瞬街中がしんとなった。
「ほ、ほんとに、何というガキだ!」
運転手が扉を押し開きながら、金切声を張り上げた。
「その子の親爺はどこにいる。ぶんなぐってやるから!」
子供はよちよちと懸命に横切り、おびえたように小さな路地に走り入った。運転手はそれを追い、両手を威嚇的に振り上げながら、同じく路地に走り入った。その子の親爺を探し当ててぶん殴るつもりらしい。一分間ぐらい経った。運転手は戻って来ない。僕らはじりじりし始めた。停車していると、狭い小型の中だから、むんむんした熱気に耐え難くなってくる。唾をのみ込もうとしても、もう口内はからからで、唾も出て来ない。街中の視線はまだ執拗(しつよう)に僕らにつきまとっているようだ。
「出ようよ」
篠田君がからからした声で言った。
「咽喉(のど)が乾いた。氷でも飲もう」
僕らはがたがたと扉を押し、外に降り立った。斜めの位置に、氷屋があった。氷屋の赤い旗はだらりと垂れていて、まるで濡れているみたいに、そよとも動かない。僕らはそののれんをくぐった。
赤いシロップをかけた削り氷を注文して食べた。食べてしまっても、少しも涼しくならないし、路地は子供と運転手を吸い込んだままで、誰も出て来なかった。だからもう一杯、黄色い削り氷を食べた。それでも運転手は出て来なかった。子供の親爺から逆にぶん殴られて、のびてしまったのではないかと思ったが、それを口に出すのも面倒くさかった。だから僕は、しきりに黄色い唾を土間にはきながら、煙草ばかりをふかしていた。玩具工場なんか、燃えてしまえ。篠田君も同じ思いらしく、僕の真似をして、しきりにそこらに黄色い唾をはき散らした。
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