フォト

カテゴリー

The Picture of Dorian Gray

  • Sans Souci
    畢竟惨めなる自身の肖像

Alice's Adventures in Wonderland

  • ふぅむ♡
    僕の三女アリスのアルバム

忘れ得ぬ人々:写真版

  • 縄文の母子像 後影
    ブログ・カテゴリの「忘れ得ぬ人々」の写真版

Exlibris Puer Eternus

  • 20250201_082049
    僕が立ち止まって振り向いた君のArt

SCULPTING IN TIME

  • 熊野波速玉大社牛王符
    写真帖とコレクションから

Pierre Bonnard Histoires Naturelles

  • 樹々の一家   Une famille d'arbres
    Jules Renard “Histoires Naturelles”の Pierre Bonnard に拠る全挿絵 岸田国士訳本文は以下 http://yab.o.oo7.jp/haku.html

僕の視線の中のCaspar David Friedrich

  • 海辺の月の出(部分)
    1996年ドイツにて撮影

シリエトク日記写真版

  • 地の涯の岬
    2010年8月1日~5日の知床旅情(2010年8月8日~16日のブログ「シリエトク日記」他全18篇を参照されたい)

氷國絶佳瀧篇

  • Gullfoss
    2008年8月9日~18日のアイスランド瀧紀行(2008年8月19日~21日のブログ「氷國絶佳」全11篇を参照されたい)

Air de Tasmania

  • タスマニアの幸せなコバヤシチヨジ
    2007年12月23~30日 タスマニアにて (2008年1月1日及び2日のブログ「タスマニア紀行」全8篇を参照されたい)

僕の見た三丁目の夕日

  • blog-2007-7-29
    遠き日の僕の絵日記から

サイト増設コンテンツ及びブログ掲載の特異点テクスト等一覧(2008年1月以降)

無料ブログはココログ

« 柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(6) 名馬小耳 | トップページ | Dropbox の鉄面皮(おんたんちん)! »

2016/12/16

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅲ) 大船山 離山 他

 

○大船山 村の中央常樂寺後の山を云、此山の北に連なれる小丘を柄杓山と云、其形に因て名とす、

[やぶちゃん注:水戸光圀「新編鎌倉志」(本書が強く依拠している先行書である。時に無批判に引用し、その誤りを遙かに遠く受け継いでもいる)、その「卷之三」に(リンク先は私のオリジナル電子テクスト注。私がこう、しつこく注するのは、さるサイトが、平然と私のこのテクスト本文をコピー・ペーストし、しかも自分が作ったものだと公言し、あろうことか、それらの無断転載を禁じているからである。私はこちらで具体的に対象サイト名を名指しして指弾しているので、是非、お読み戴きたい。なお、未だに当該サイト制作者からは一言の連絡も謝罪も、ない)、後で本書でも挙がる「常樂寺」の条があるが、その附図

 

Jyourakuji

 

に常楽寺本堂北東の後背地に「粟船山」のキャプションを見出せる。そもそもが常楽寺の山号自体が「粟船山(ぞくせんざん)」である。私の所持する「日本地誌大系」本の本図の印刷ブレは底本の挿絵中、最もひどいもので恐縮なのであるが、「粟船山」は辛うじて視認出来る。画像で判読不能の文字の補足しておくと、右手街道の上方には「自是東北岩瀨村今泉村道」、下方には「自是南鎌倉道」とあり、境内奥の池の中には右から左に「無熱池」とある。最早、誰もここ(グーグル・マップの航空写真データ)が「大船山」だとは知るまい。「風土記稿」の本文に従うなら、この図の平泰時墓と姫宮の背後にある上の切れたピーク部分が「柄杓山」(ひしゃくやま)ということになろうか。]

 

○離山〔浪奈禮也麻〕 鎌倉道の南側にあり、八町餘の間三山並び立り〔高各二十間より三十間許に至る〕中央に在を長山〔形狀を以て名く〕、北方を腰山〔山腹に洞井あり、徑三尺許、井中隧あり其深測るべからず、土俗梶原平三景時が邸跡なりと云ど、景時が宅蹟は、此地にあらず、〕南方を地藏山〔山上に地藏の石像を置古塚十三あり、高一丈より六尺に至る、來由を傳へず、〕と名づけ、概して離山と稱す、これ山足連續せざるを以なり〔皆芝山にて樹木を生ぜず、〕、享德四年六月管領成氏追討の時、鎌倉勢山麓に出張して京勢を支へしことあり〔【鎌倉大草紙】曰、六月、成氏爲退治、上總介範忠、京都の御教書御旗賜はり、東海道の御勢を引率し鎌倉へ發向す、鎌倉には木戸・大森・印東・里見等、離山に待懸けて、防ぎ戰ひけれども、打負ける〕文明中准后道興此山を見て和歌を詠ず〔【回國雜記】曰、離山と云る山あり、誠に續きたる尾上も見え侍らねば、朝まだき旅立里の遠方に、其名もしるき離れ山かな、〕

[やぶちゃん注:現在、この三つの「離山」は全く存在しない。しかし幸いにして、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(埼玉大学教育学部人文地理学研究室 谷謙二氏作製)になるここ明治末期の三山が崩される前の地図を現地図と対照して見ることが出来る現行の地誌書、例えば昭和四八(一九七三)年刊行の改訂八版「かまくら子ども風土記 中」の叙述では、明らかに、旧「松竹撮影所」前にあった北のピークは「離れ山」の一部とせず、「大船中央病院前」の南西から北へ伸びる丘陵を「離山」としている。しかし、今回、この旧地図を子細に観察するに、私は実は「離山」とはこの旧松竹撮影所前にあった北のピークを含めたものなのではないか、と疑い始めている。何故なら、旧地図を見ると、南端のピークが「地蔵」の頭のように一番高く、三・六メートルと表示し、その北の部分は如何にもなだらかで低いだらだらと胴の「長」い丘陵にしか見えず、その北端に「腰」高に少し高くなったピークが出る。仮に私がここの在の民であったなら、この総体を、わざわざ北一と南二で分断し、しかも「南二」を「三」に分けて「離山」とし、しかも北端のピークに名をつけぬということは到底、考えられない。この全体を「離山」と呼称するのが自然である。ともかくも、そう比定するなら、ここに出る南端の「地蔵山」とは、前掲の「かまくら子ども風土記 中」によって太平洋戦争中に切り崩されて、その土が現在の「大船中学校」一帯の田の埋め立てに用いられたとあり、中央の私が「長山」に比定する部分は、「三菱研究所」(現在の地図上の「三菱電子証明株式会社」)が建設される際にやはり切り崩されて消失したとある。そうして、同比較地図の別次期のそれを見ると、実に昭和二(一九二七)年以降の地図では、「松竹撮影所」(その頃は「競馬場」である)前の北のピークは南部分に先だって早くも完全に消失してしまい、「競馬場」に厩舎か建物が平地に建っていることが判るのである(これ)。「離山」の位置比定については大方の御叱正を俟つものではある。しかし、この私の思いつきを否定される場合、旧「松竹前」のピークに何故、名がつかず、古地誌に記載がないのかを、私が納得出来るように説明して戴くことを要求するものである。寧ろ、名があることが立証され、それが「腰山」でないのであれば、私は潔く引き下がるに吝かではない。

 また、ここでは室町までしか事蹟を遡っていないが、この「離山」は元弘三(一三三三)年の鎌倉新田義貞の鎌倉攻めの際、義貞がここで各方面担当の武将を集めて軍議をした地とも伝承されている。それを書かないのは花がないと私は思う。

 なお、私の小学生時代はここに赤錆びた二基のガス・タンクが少しだけ離れて屹立していた。だから「ガス・タンクの離れ山」と呼んでいたし、幼少なればこそ私は、『「山」がないのに「離れ山」というのは、きっと、あの二つの離れたガス・タンクを「離れ山」と見立てて呼んでいるんだ』と真面目に思い込んでいたことをここに告白しておこう……もう、そのガス・タンクも、影も形も、ない……遠き日の思い出に――

「八町」約八百七十三メートル。

「二十間より三十間」約三十七~五十四メートル。

「在を」「あるを」。

「洞井」「ほらゐ」と訓じておく。

「徑三尺」直径約九十一センチメートル。

「隧」「すい」。隧道。トンネル。

「景時が宅蹟は、此地にあらず」一般に伝承されるものは、方向違いの浄明寺の五大堂明王院の北山麓である。「新編鎌倉志」の「卷之三」に以下のように出る。

   *

○離山 離山(はなれやま)は山の内より西へ行けば市場村(いちばむら)也。村の出口に道二條あり。北は戸塚道、西は玉繩道。戸塚道の東に芝山あり。是を離山と云ふ。里老の云く、梶原平三景時が古城(ふるしろ)と。梶原が舊宅は、五大堂の北にあり。鶴が岡一の鳥居より、此の地まで、三十三町あり。

   *

「地藏山〔山上に地藏の石像を置古塚十三あり、高一丈より六尺」(三~一・八メートル:注意されたいが、これは塚の高さである。)「に至る、來由を傳へず、〕」現在、この地蔵像一体は「離山富士見地蔵尊」と称して、大船中学校の北西、鎌倉第三郵便局の道の反対の東方道路脇に祀られてある。

「享德四年」一四五五年。

「管領成氏追討」享徳の乱(享徳三年十二月から文明一四(一四八三)年まで三十年近く続いた室町時代の関東地方に於ける内乱)の初戦。享徳三年十二月二十七日に第五代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、幕府方(第八代将軍足利義政)、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(後に古河公方)方が三つ巴で争い、戦乱は関東一円に拡大、関東の戦国化の遠因となった(ここはウィキの「享徳の乱を参照した)。

「鎌倉大草紙」「かまくらおほぞうし」と読む。室町時代の鎌倉公方・古河公方を中心とした関東地方の歴史を記した歴史書・軍記物。ウィキの「鎌倉大草紙」によれば、康暦二/天授六(一三八〇)年より文明一一(一四七九)年)までの百年間の歴史を記しており、「太平記」を継承する、という意から「太平後記」の別称がある。全三巻。『戦国時代初期の作品と推定されている。永享の乱から結城合戦について扱った中巻は『結城戦場記』(『永享記』)とほぼ同文であり、早い時期に逸失して別の書籍から補われた可能性が高い。 作者は不明だが、東常縁と斎藤妙椿との和歌問答や享徳の乱によって千葉氏の嫡流となったいわゆる「下総千葉氏」の存亡の危機となった臼井城攻略戦で締めくくられており、千葉氏のかつての嫡流であったいわゆる「武蔵千葉氏」を擁護する記載が見られることから、武蔵千葉氏を支援して下総千葉氏と争った東常縁の関係者を著者と推定する説が有力である。また上・中巻と下巻の』一までは『全体に鎌倉公方足利氏に忠実な臣下としての関東管領上杉氏を賛美する記述があり、このような傾向は千葉氏に関する記述が増える下巻の』二には『みられないことから、上巻から下巻の』一までと、下巻の二以降では『作者が異なる可能性も指摘されている』。『上巻には上杉憲春の諫死事件に始まり、伊達政宗の乱・上杉禅秀の乱・小栗満重の乱、甲斐武田氏の内紛を扱い、中巻は永享の乱・結城合戦を扱い、下巻は享徳の乱を扱って臼井城の攻防で締めくくられている』とある。

「成氏爲退治」「成氏退治の爲め」。漢文脈としては語順がおかしいが、成氏は目的語であって主語ではない。

「上總介範忠」守護大名で駿河今川氏の第五代当主今川憲忠(応永一五(一四〇八)年~寛正二(一四六一)年?)。ウィキの「今川憲忠」より引く。第四代『当主範政の嫡男として生まれたが、父が晩年に範忠を廃嫡して末弟の千代秋丸に譲ろうとしたため、これが原因で兄弟間の間で家督争いが起こった』。永享五(一四三三)年に『父が死去すると鎌倉公方足利持氏との対抗上から、幼年の千代秋丸よりも成人した範忠が後を継いだほうがよいと考えた』第六代『将軍足利義教の裁定により、在洛中の範忠が家督を継いで当主となった。この時、狩野氏や富士氏など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景にこれを鎮圧している』。『これらの経緯から幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務め、永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。この功によって義教より今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された』。康正元(一四五五)年には第八代『将軍足利義政から鎌倉公方足利成氏討伐を任じられて後花園天皇から御錦旗を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉氏討伐に向かっていて留守となっていた鎌倉を攻め落とした。このため、成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った(享徳の乱)』。寛正元(一四六〇)年『正月に駿河に帰国、翌年』三月二十日に『子の義忠に家督を譲った事が確認できるが、程なく死去(没年には異説がある)』したとある。

「木戸」鎌倉府奉行衆の宿老の家系。

「大森」大森憲頼か。

「印東」印東下野守であろう。ウィキの「印東氏によれば、彼は『足利成氏から下野国天命を与えられ、守護職・小山持政を助けるよう命じられている』とあり、彼は永享一〇(一四三八)年の永享の乱に於いて、足利持氏とともに自害した鎌倉御所奉行の一人、印東伊豆守常貞の子か、ともある。

「里見」安房国の戦国大名里見氏の初代となったとされる里見義実(応永一九(一四一二)年~長享二(一四八八)年)か。但し、ウィキの「里見義実」によれば、彼は『近年では架空説、里見氏庶流出身説がある。子は里見成義・中里実次がいるとされているが、近年では成義の存在は否定されて従来の系譜上成義の子とされてきた里見義通・実堯兄弟が義実の実子であると考えられている』。言わずもがなであるが、『里見義実の安房入国伝説を基にして、江戸時代に曲亭馬琴によって書かれたのが』、かの「南総里見八犬伝」である。

「文明」一四六九年から一四八六年まで。室町末期。幕府将軍は第八代足利義政・足利義尚。

「准后道興」関白近衛房嗣の子で、幼少の頃から出家して聖護院門跡となった道興准后(どうこうじゅごう 永享二(一四三〇)年~大永七(一五二七)年)のこと。後に大僧正に任ぜられて准后(太皇太后・皇太后・皇后の三后に准じた皇族・貴族の称号。臣下であっても皇族同等の待遇を受ける公家に於ける位階の頂点の一つ。女性の尊位のように思われがちであるが、性別は問わない)となった。彼は文明十八(一四八六)年六月から翌年までの凡そ十箇月間、聖護院末寺掌握を目的として東国へ向かい、若狭国から越前・加賀・能登・越中・越後の各国を経て、本州を横断、下総・上総・安房・相模を廻って、文明十九年五月には武蔵から甲斐から奥州松島まで精力的に廻国した。後にその紀行を「𢌞國雜記」(本文の「回國雜記」のこと)として残した。

「離山と云る山あり、誠に續きたる尾上も見え侍らねば、朝まだき旅立里の遠方に、其名もしるき離れ山かな」「𢌞國雜記」の相模國パート内に、

   *

はなれ山といへる山あり。誠に續きなる尾上(おのへ)もみえ侍らねば、

  朝まだき旅立つ里のをち方に、其の名もしるきはなれ山かな

   *

と出る。

 

 最後に。

 幕末の文政十二(一八二九)年に八王子千人同心組頭・八王子戍兵学校校長であった植田孟縉(うえだもうしん)の著わした「鎌倉攬勝考卷之一」の「山川」部に出る「離山」の本文と図を引く。かなりしっかりと書かれているからである。リンク先はやはり私の電子化注である。図は数少ない応時を偲ばせるものであるが、団子のように固まっており「離れ山」に見えないのが遺憾ではある。しかし、先の道興准后の歌も添えられており、古えの田を渡る風を嗅ぐことは出来る(今回は読みやすくするために、一部に私が読みを歴史的仮名遣で附した。《 》は私が挿入した小見出しである)。

   *

 

Hanare

 

離(はなれ)山 山の内を西へ行(ゆき)て、巨福呂谷村、市場村の出口、戸塚道の邊、水田の中に北寄(きたより)に當(あたり)て獨立する童山、凡(およそ)高さ三丈許(ばかり[やぶちゃん注:約九メートル。])、東西へ長き三十間餘、實(げ)にはなれ出(いで)たる山ゆへ名附(なづけ)、往來より二町[やぶちゃん注:約二百十八メートル。]を隔つ。《成氏追討古戰場》享德四年六月、公方成氏朝臣を追討として、京都將軍の御下知を承(うけたまはり)て、駿州今川上總介範忠、海道五ケ國の軍勢を引卒し鎌倉へ發向と聞へければ、鎌倉にても木戸、大森、印東、里見等離山に陣取(ぢんどり)て駿州勢を待(まち)かけ防ぎ戰(たたかひ)けれど、敵は目にあまる大軍叶ひがたく、仍(よつ)て成氏朝臣新手(あらて)二百餘差向(さしむけ)たれど敵雲霞(うんか)の如く押來(おしきた)れば終(つひ)に打負(おしまけ)、成氏朝臣を初(はじめ)とし、皆武州府中をさして落行(おちゆく)と、【大草紙】に見へたるは此(この)時なり。夫(それ)より駿州勢鎌倉へ亂入し、神社佛閣を亂妨し、民屋(みんをく)に放火しければ、元弘以來の大亂ゆへ、古書古器等皆散逸せしとあり。偖(さて)此(この)離山は四邊平坦の地に孤立せし山にて、西を上として三丈許りの高さより、東へ續き一階低き所あり。爰も高さ一丈餘、樹木一株もなき芝山なり。謂れあるゆへにや土人等むかしより耕耘(こううん)のさまたげあれとも鍬鋤(くはすき)などもいれざれば、故あることには思はれける。道興准后法親王の歌もあり。或説には當國にふるき大塚(おほつか)有(ある)事を聞(きく)。されば、此山こそは上古の世の塋域(えいいき)に封築(ふうちく)せし塚なるべし。他國にも大塚と地名する所はいつくにも有(あり)て、大ひなる塚の有ものなり。《上古の車塚(くるまづか)の説》爰(ここ)の離山はちいさき山の形に見へけるゆへ、はなれ山とは解しける、其(その)製は畿内及び諸國にも見へたり。下野國那須郡國造(しもつけのくになすぐんくにのみやつこ[やぶちゃん注:現在の栃木県東北部の広域を支配した。])の古碑ある湯津上村(ゆづかみむら[やぶちゃん注:現在は大田原市の内。])に、今も古塚の大ひなる數多(あまた)あり。二級(きふ)に築(きづ)しもの多し。此所の山も夫(それ)に形相(けいさう)同じ、是(これ)は上古の製にて車塚と唱ふ。後世に至りては皆丸く築けり。古えは車塚の頂上えは、人の登らぬ爲に埒(らち)をゆひ、一階低き所にて祭奠(さいてん)を行ふやうに造れるものなりといふ。偖(さて)また此(この)塚山は何人(なんぴと)の塚なるもしれず。當國の府は高座郡にて、早川今泉の邊に國府と稱する地有(あり)て、國分寺の舊礎も田圃の間に双(なら)び存せり。國造も其邊に住せしなるべし。鎌倉よりは六七里を隔てたり。國造が墳はかしこに有(ある)べし。《丸子連多麻呂(まるこのむらじおほまろ)先祖の塚》是(これ)なる塚はあがれる世には、此郡中に住せし丸子連多麻呂か先祖の塚山にてや有けん。其(その)慥(たしか)成(なる)證跡はしらねど、後の考へにしるせり。

   *

 以下、上記の語句に簡単に注しておく(私のリンク先の古いものを抜粋・改稿した)

・「童山」は「小山」のことであろう。或いはまた、「わらはやま」と読むと、「はなれやま」と発音がやや似ており、その古称の可能性もあるかも知れぬ。

・「塋域に封築せし塚」墳墓に土を高く盛り上げて祭った祭壇(古墳)の意。

・「下野國那須郡國造の古碑ある湯津上村」この碑は那須国造碑(なすのくにみやつこのひ)のことで、日本三古碑(田胡郡碑・多賀城碑・那須国造碑)の一つ。現在は栃木県大田原市湯津上の笠石神社の御神体として祀られている。碑身と笠石は花崗岩で、一五二字の碑文が刻まれ、持統天皇三(六八九)年に那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提(なすのあたいいで)の事蹟を息子の意志麻呂らが顕彰するために文武天皇四(七〇〇)年に建立された旨、記されている。延宝四(一六七六)年に僧侶円順によって発見され、その報を受けた領主徳川光圀が笠石神社を創建、碑の保護を命じた。さらに碑文に記された那須直葦提及び意志麻呂父子の墓と推定した前方後円墳上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を家臣佐々宗淳(さっさむねきよ:ご存じ「水戸黄門」の「助さん」のモデルとされる人物)に命じている(以上は主にウィキの「那須国造碑」に拠った)。

・「二級に築しもの多し。此所の山も夫に形相同じ、是は上古の製にて車塚と唱ふ。」こうした古形の古墳は二段に築いたものが多く、この離山が一段低い部分を持つ二段構造になっている点で同じだ、という意。これは前方後円墳のことで、「車塚」はその俗称。貴人が乗った牛車に見立てた謂いであろう。

・「早川今泉」の「早川」は、現在、相模国府若しくは高座郡衙が比定候補とされる綾瀬市早川字新堀淵を、「今泉」は高座郡海老名町上今泉、現在の海老名市上今泉のことか。

・「丸子連多麻呂」「万葉集」に防人として歌を残した相模国鎌倉郡出身の武士(もののふ)。丸子氏は古代日本の氏族の一つで紀伊国・信濃国・相模国などに点在する。大伴氏の支族とされる。

 なお、ここに記された「離山」前方後円墳説は植田のオリジナルな入れ込んだ記載で、極めて興味深い。添えられた離山の図も前方後円墳にしか見えない。ところが、この離山古墳説は現在、「鎌倉市史 考古編」やその他の鎌倉関連資料を披見しても、全くと言っていいほど登場しない。先に出た六国見山山頂部についても、かつては古墳説が囁かれ、古墳型をした山が、小袋谷の亀甲山、笛田の亀の子山と複数存在した。ところが(以下、先に私が既に述べた部分とダブるが、敢えて私の旧稿をそのまま示す)、この離山は大正初期にセメント用泥岩の採取のために北側の腰山部分が崩され、昭和初期には大船地区の田圃を埋め立てて都市化する計画によって離山全体の開鑿が進行した。第二次世界大戦中には完全に突き崩されて、その土で田圃が埋められて海軍の工場地となり、戦後は県営住宅や大船中学校が建てられた(以上の離山事蹟は平成二十一(二〇〇九)年刊の鎌倉市教育委員会編「かまくら子ども風土記」(第十三版)に拠った)。因みに申し上げておくと、この連綿と改稿されている「かまくら子ども風土記」は、その『連綿と改稿されている』点に於いて、非常に資料的価値の高い鎌倉地誌で、旧態然として辛気臭い「鎌倉市史」などとは比べ物にならない程、面白く信頼度も高いものである。それは古くから、地の私の小学校時代の恩師等がそこに関わり、民俗学的な聴き取りも漏らさず記すという、地道な積み重ねによるものであって、凡そアカデミズムの真似できない仕儀なのである。鎌倉研究の座右の一冊は、まずは「かまくら子ども風土記」というのが私の正直な感懐である。――それにしても、この鎌倉の古墳時代の遺跡の『見た目』貧弱さは、明らかに過去の近代の都市開発による文化遺産破壊を『なかったことにする』、さもしい仕儀のように、私には思えてならないのである。

 挿絵について、画中の詞書と歌を活字化しておく。

   *

 道興准后の記にはなれ山と

 いへる山あり誠に續きなる

 尾上もみえ侍らねば

朝まだき

   旅立さとの

      をち方に

 その名もしるき

     離山かな

   *

右端中央及び下部には囲み付きで、

   *

圓覺寺山   臺村

   *

とあり、右から左へ順に囲み付きで以下の村名と寺名が示されている。

   *

コブクロヤ村 今泉村 岩セ村 粟舩村 常樂寺

   *

山の上には、

   *

離山(ハナレヤマ)

   *

とある。]

 

○戸部川 西界を流る〔幅八間より十間に至る〕

[やぶちゃん注:柏尾川の別称。

「八間より十間」十四・五五から十八・一八メートル。]

 

○砂押川 北界を流れ戸部川に合す〔幅二間〕、板橋を架す、砂押橋と呼ぶ〔長二間餘〕此水を引て水田に灌漑す、

[やぶちゃん注:「二間」約三・六四メートル。]

 

○溜井二 一は小名池谷にあり〔濶一段許、元は三所ありしが今は其一をのみ存す、〕一は尼ヶ谷にあり〔濶七畝餘、爰も又三所ありしが、二は埋滅せしと云、〕

[やぶちゃん注:「井」とあるが、所謂、溜め池のことであろう。

「池谷」不詳。識者の御教授を乞う。

「濶」「ひろさ」。

「一段」「いつたん」。一反に同じい。約千平方メートル弱。

「尼ヶ谷」不詳。識者の御教授を乞う。

「七畝」「ななせ」。約六百九十四平方メートル。]

 

○熊野社 村の鎭守なり、束帶の木像を安ず〔座像長八寸許、古は畫像を安ぜしと云うふ、其像は今舊家小三郎の家に預り藏す、〕臺座に天正七年安置の事を記す〔曰、奉勸請天正七己卯四月吉日、甘糟太郎左衞門尉平長俊華押、長俊は則小三郎が祖なり、〕古は安房國群房庄當社領たりしこと壽永二年の院宣に見えたり〔別當多聞院藏書曰、今熊野領安房國群房庄、令寄進後經年序云々、如元可令領掌□者依院宣執達如件、壽永二年七月十□日謹上前右少辨殿、伊豫守高階華押、〕、建長二年更に彼地當社領として尼性智所務すべき由又院宣あり〔親熊野社領安房群房庄、任辨氏女讓、可領知之由、可被傳仰尼性智、者院宣如斯依言上如件、爲經恐惶謹言、建長二年十二月二十九日、謹上伊豫守殿、太宰權帥爲經□、按ずるに以上二通は年號、追記せしものなり、〕貞和二年又院宣を下され、社領安堵せしめられしと云〔新熊野社領安房群房庄事、相傳領掌不可有相違者院宣如斯依仰執達如件、貞和二年五月廿四日、亮大僧都御房權大納言華押〕例祭九月廿四日別當は多聞院にて、鶴岡職掌鈴木主馬神職を兼ぬ、

【末社】

△神明 古は字神明下にあり、寛永の頃甘糟右近亮時綱〔舊家小三郎が祖先〕此に移せり。△金毘羅 安永九年地頭長山氏勸請す。

△秋葉 三社權現 稻荷。

○神明宮 多聞院持。

○御嶽社 村民持。

○稻荷社 村持。

[やぶちゃん注:「舊家小三郎」項として本巻の最後に後掲される。「甘糟太郎左衞門尉平長俊」も事蹟はよく判らないが、そちらを参照されたい。

「臺座に天正七年安置の事を記す〔曰、奉勸請天正七己卯四月吉日、甘糟太郎左衞門尉平長俊華押、長俊は則小三郎が祖なり、〕」「鎌倉市史 資料編第三・第四」の「補遺四〇」に全銘文が載る。

   *

(上部)

奉勸請

 熊野大權現

(下部)

 寛政二戌俊九月吉日

    再興佛工扇谷村

      後藤齋宮

        藤原義眞

(上部)

   天正七己卯四月吉日

(下部)

 甘糟太郎左衞門尉

      平長俊(花押)

   *

これによれば、勧請が「天正七年」(一五七九年)で、再興が「寛政二年」(一七九〇)年ということになる。

「群房庄」「ぐんぼうのしょう」(現代仮名遣)と読む。旧平群(へぐり)郡南部と旧安房郡北部に跨ってあった旧荘園名。中央付近(内房の先の舘山市の北部一帯)と思われる(グーグル・マップ・データ)。さて、「壽永二年」は一一八三年で、後白河法皇の院政期に当たるのであるが、筆者は誤認をしている。「鎌倉市史 社寺編」の「熊野神社」の項で、この庄はこの熊野神社の領ではなく、鶴岡八幡宮の所領であったとあるからである(当該書ではそれを証明する複数の資料(同「資料編」の資料番号)も挙げてある。実はこれらの文書は本来は鶴岡八幡宮宛のものであって、「熊野」はこの神社を指すものではないとする。そして、『これらの文書は恐らく康正』(こうしょう:一四五五年~一四五七年)『以後』、『鶴岡』八幡宮が衰微『したために流出し、熊野の名があるので、ここに奉納されたものであろう』と推理している。さらに言えば、後に記されている通り、この熊野社のかつての神職は鶴岡八幡宮の職掌であった鈴木主馬であるから、或いは、その後も鶴岡との関係が続いていたことから、こちらに、当時、既に古記録の類いとなってただ保管されていた文書の一部が移管保存されてあったものとも考えられるかも知れない。ただ、私は、では、これらの「今(新)熊野」とは、鶴岡八幡宮に付属するところのどの領域或いは何の資格(領)を指すのかが、今一つ、分らぬ。識者の御教授を乞うものである。

「多聞院」は熊野神社の隣りに建っており、後に出る通り、この神社の別当寺であった。

「如元可令領掌□者依院宣執達如件、壽永二年七月十□日謹上前右少辨殿」の本書編者の二箇所の判読不能字は「鎌倉市史 資料編第一」で最初の方が「給」後の方が「七」であることが判明している。

「建長二年」一二五〇年。

「任辨氏女讓」誤読。「鎌倉市史 資料編第一」では「辨」は「平」である。

「太宰權帥爲經□」同じソースで、判読不能字は「奉」である。

「貞和二年」一三四六年。

「神明下」不詳。識者の御教授を乞う。

「寛永」一六二四年から一六四五年。ネット情報では移したのは寛永二(一六二五)年である。

「甘糟右近亮時綱」不詳。

「安永九年」一七八〇年。]

« 柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(6) 名馬小耳 | トップページ | Dropbox の鉄面皮(おんたんちん)! »