譚海 卷之二 佐竹家醫師神保荷月事
佐竹家醫師神保荷月事
○佐竹家の醫者に神保荷月(じんぼかげつ)と云(いふ)外科あり。治方(ぢはう)神(しん)の如し、大守の寵愛し給ふ鷹、鶴に脚を折(をら)れたるをつぎ愈して、用をなすこともとの如し。江戶にて用人馬より落(おち)て足をうち折り、骨の折(おれ)たる所うちちがひに外へまがり出たりしを、在所へ下り荷月が療治を得てもとのごとく愈(いえ)、二度(ふたたび)江戶に登りて馬上などにて往來したるをみたり、大島佐仲(すけなか)と云(いふ)用人也。其外うち身くぢきをなをす事、愈へずといふ事なし。家に傳方(でんぱう)の祕書一卷あり、川太郞傳(つたへ)たるものとてかなにて書たるもの也、よめかぬる所もありとみたる人のいへり。此神保氏先祖厠(かはや)へ行(ゆき)たるに、尻をなづるものあり、其手をとらへて切(きり)とりたるに猿の手の如きもの也。其夜より手を取に來りて愁(うれふ)る事やまず。子細を問(とひ)ければ川太郞なるよし、手を返して給はらば繼(つぎ)侍らんといひしかば、其(その)方(はう)ををしへたらんには返しやるべしといゝしかば、則(すなはち)傳受せし方書(はうしよ)なりとぞ。
[やぶちゃん注:「佐竹家」久保田藩(秋田藩)藩主佐竹氏と思われる(秋田の伝承譚サイトにこの記事が載るからである)。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞記であるが、本条は明らかに津村の現在時制で書かれているから、当代の藩主は第八代佐竹義敦(よしあつ)或いは第九代藩主義和(よしまさ)である。
「神保荷月」不詳。
「大守」藩主。前注参照。
「うちちがひに外へまがり出たりしを」強く打ったために、本来ありえない向きに外側(がいそく)に折れ出っぱってしまったのを。但し、開放骨折だと、感染症などもあって難治であるから、この医師の他の施術法と回復の速さから考えると、単純骨折或いは骨折ではなく、強い非解放性脱臼であったものと推定される。
「二度」読みは私の推定。
「大島佐仲」不詳。読みは私の推定。かなり下の用人である。久保田藩の歴代の家老格には大島姓はいない。
「川太郎」河童。所謂、〈河童の詫び文〉型の伝承で、そこで斬られた腕を返す代わりに、その密着接合整復術や金創(かなきず)などの万能秘薬を伝授されるという常套的パターンで、日本全国で広汎に見られる河童奇譚の類型である。
「よめかぬる所もあり」どうにも何と書いてあるのか判読出来ない箇所もある。いや、だから河童の書いたものとしてリアルに伝承されるのであり、その判読不能の箇所こそが秘伝の薬剤の調合法や整復法が記してあるものと人々は考えたのである。
「方」処方。
「方書」処方書き。]