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« 炎天   梅崎春生 | トップページ | 追憶  リルケ 茅野蕭々譯 »

2016/12/27

モデル   梅崎春生

  

[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年二月号『群像』初出。なお、梅崎春生には実体験に基づく奇体なトラブルをも記した随筆モデル小説」がある(リンク先は私の注附きの電子テクスト)。未読の方は、どうぞ。また、私は以前にも梅崎春生の注で述べたが、阿倍公房の小説は「赤い繭」を除いて、一度として面白いと思ったことがないのだが、この梅崎春生の「モデル」は遙かにシュールで確実に面白いと思っている。]

 

   モデル

 

 初めに封書がやって来た。開封したが、身に覚えのないことが書いてあるので、黙殺した。破って捨てた。一週間ぐらい経つと、ハガキが来た。なぜ返事を呉れないかと言う詰問である。返答しようにも、返答しようがないから、これも放って置いた。五日目に電話がかかって来た。

「一体どうして返事を呉れないのです?」

 電話口に出たのが私だと確めると、その声は言った。へんにきんきん響くような、いくらか女性的な声だ。

「あの小説のおかげで、うちはたいへん迷惑しているんですよ」

「そんなことを言ったって」

 私はうんざりした気分で抗弁した。

「僕は君に一面識もないし、したがって小説のモデルにするわけがない。それは言いがかりと言うもんですよ」

「言いがかり?」

 見知らぬ男の声は激した。

「そんなしらじらしいことが、よく言えたもんですね。あくまでしらを切ると言うのなら、こちらにも覚悟がありますよ」

 いくら覚悟があると言っても、こちらにはあくまで覚えがないのだから、どうしようもない。少々精神に異状があるのではないか。そう思ったから、いい加減にあしらって、電話を切った。切ったあと、あまり後味が良くなかった。もしかすると何かたくらんでいるのかも知れない。その疑念が私を重苦しくした。

 その翌日、当人が直接やって来た。家人が持って来た名刺に『小久保太郎』とあるので、あの手紙の差出人だとすぐに知れた。名刺に肩書はついていない。姓名と住所だけである。だからどんな職業か判らない。しばらく名刺を眺めながら、書斎に上げようか、それとも玄関で追い返そうかと思案したが、あのしつこさから見て玄関で帰るような男でもなさそうなので、結局上げることにした。背の丈は五尺五寸ぐらいの、眼のぎょろりとした四十前後の男が、すり足のような恰好をして、しずしずと書斎に入って来た。くたびれたコールテンのズボンなんかをはいて身なりはあまり良くない。[やぶちゃん注:「五尺五寸」一六六・六センチメートル。後で「背は私とおっつかっつで」とあるが、事実、梅崎春生は背が高かった。]

「初めまして――」

 おれは礼儀がいいんだぞ、育ちがいいから、怒っている時でも礼は失わないんだぞ、と言ったようなやり方で、彼は机の向うに坐って、ふかぶかと頭を下げた。電話と同じくきんきん声である。

「いや。こちらこそ」

 私も頭を下げながら、油断なく上眼を使って、相手を観察する。背は私とおっつかっつで、眼付きはぎろりとしているが、体格の方はあまり良くない。腕も細そうだし、胴休もくにゃりとして、何だか泥鰌(どじょう)に似ている。あんまり強そうでないから、私も安心して強気に出た。

「この間から、電話や手紙で、変な言いがかりをつけて来るようだが、こちらは迷惑だよ。一体今日はどういう用件なんです?」

「用件? 用件は判ってるでしょう」

 気押されたように眼をぱちぱちさせたが、すぐに立ち直った。

「ちゃんと手紙に書いといた筈です。どうしてあんたは、僕にことわりもなく、僕のことを小説に書いたんですか」

「そう言う覚えはないんだがねえ。一体何と言う小説だね?」

「きまってるじゃないですか」

 彼はコールテンの膝をぐいと乗り出した。

「あの〈嘘の宿〉と言うやつですよ。あれでもって、あたしのことを――」

「ちょっと待って呉れ。ちょっと」

 私はあわてて掌で制した。

「あの〈嘘の宿〉と言うのはだね、僕が頭ででっち上げた作品だよ。つまり空想で書いたのだ。君は何かかん違いをしているんじゃないですか?」

「かん違いなんかするものですか。ちゃんと僕は――」

「僕はと言うけれども、その僕に、僕は今日初めて会ったんですよ。会ったこともない人間をモデルに、小説が書けるものか」

「書けますよ。あんたは豊臣秀吉に会ったこともないのに、秀吉をモデルにした小説が書ける」

 小久保は右手を上げて、何か引っ掻くトレーニングのように、指をくねくねと屈伸させた。五本とも妙に長い指だ。

「あたしのことをどこからか聞いて来て、そいつを小説に仕立てたんでしょう。それとも私立探偵か何かを使って――」

 自分のことを僕と呼んだり、あたしと呼んだりする。その度に感じが変る。

「私立探偵? 人聞きの悪いことを言わないで呉れ。私立探偵を使うほど、僕はまだ空想力は枯渇していないよ。飛んだ言いがかりだ。一体あの小説のどこが君をモデルにしていると言うんだね?」

「全部ですよ。第一主人公の名前からしてそうだ。僕は小久保、小説では大久保、小を大に変えただけの話じゃないですか」

「大久保なんてざらにある名前だ。偶然の一致だよ」

 私は声を荒くした。

「名前の相似だけで因縁つけられちゃかなわない。それにあの小説の主人公は画描きだよ。ところが君は――」

「へえ。あたしも画描きですよ」

 彼は掌でぶるんと鼻をこすり上げ、机にさえぎられてここからは見えないが、それをコールテンズボンにこすりつけたらしい。何もそんなに得意がらなくてもよかろうに、と思う。

「アトリエ付きの家を借りてんですよ」

「そうかね」

 何だか話がややこしくなって来たようだ。小久保の眉がびくびくと動いた。

「あんたの小説じゃ、その家賃を五ヵ月もためていることになっている!」

「君はためていないのか」

「そ、そりや少々ためていますがね、五ヵ月なんて、そんな――」

 小久保は嘆息した。

「五ヵ月もためているように書かれちゃ、近所に対して恥かしくって、外に出歩きも出来ない。一体どうして呉れるんです?」

「だって、ためてることはためているんだろう。仕方がないじゃないか」

 私は何か混乱して、自分の墓穴を掘るに似た応答をした。

「それだけなら我慢しますよ。あたしにもね、女房が一人いるんです」

「そりや誰だって女房は一人にきまっているよ」

「僕の女房はよし子、あの小説では安子でしたね」

「そうだ」

「その安子が若い男に誘惑されて、つまりよろめく」

「おい、おい。僕の机を爪でそんなに引っ掻かないで呉れ。傷になるじゃないか」

 小久保は不承不承(ふしょうぶしょう)、机の上から両手を引っ込めた。感情が激すると、ものを引っ掻きたくなる性分らしい。

「一体あれはどういうことなんです?」

「ど、どういうことって――」

 私はどもった。だんだん形勢がおかしくなって来る。

「君の奥さんも、つまりあの安子のように、よろめいたのか」

「よろめくもんですか。あんまりバカにしないで下さいよ」

 また手を机に伸ばそうとしたが、思い直したらしく引っ込めた。無念やる方なげに、眼をぎろぎろさせた。

「うちのよし子は、この僕に心服している。こんないい亭主はないと思っているんですよ。それをあんな具合に、姦通するような具合に書かれて、たまった話ですか!」

「ちょっと待って呉れ」

「いや。待てない。そりゃうちに若い男が一人出入りしていますよ。でもあれはよし子の従弟なんだ。あんたが邪推するような、そんな間柄ではない!」

「待てと言ったら、待て!」

 私はたまりかねて、平手で机を引っぱたいた。平手でたたく分には、机は傷つかない。

「さっきも言ったように、僕は君と初対面だ。モデルにした覚えはない。君がモデルにされたと、勝手に妄想しているだけだ」

「そうじゃないですよ。モデルになっているとあの雑誌を持って来たのが女房の従弟だし、近所の者たちもあれを読んでいるらしくて、あたしが外出すると、どうも眼引き袖引きして、笑っている気配がある」

「君の言うことは、本当なのかね。ウソじゃないだろうな」

 いきり立とうとする胸を押えながら、私はつとめて冷静な声を出した。いくら偶然にしても、ちょっとばかり符合が合い過ぎる。

「何がウソです?」

「つまりさ、君が小久保と言う名、これは名刺があるから本当だろうが、君の職業が画描きで、アトリエ持ちで、家賃をためていて、そんなことは君が今言っているだけで、僕がこの眼で実証したわけじゃない」

「え? なに? それじゃあたしの言うことを疑うんですか?」

 小久保は憤然としたように膝を立て、中腰になった。

「じゃ今から僕の家に行きましょう。僕の家も、家賃の通帳も、それに女房も見せて上げましょう。さ、車で行けば二十分とかからない」

「今日はだめだ。今日は仕事がある」

 のこのことついて行って、そっくり本当だったら、いよいよ立場が悪くなる。だから私は頑張った。

「じゃいつ来て呉れるんです?」

「そうだね。あさって、いや、仕事が済むのがあさってだから、しあさってと言うことにしよう。しあさっての正午頃」

 

 地図を書かせるのを忘れて、所番地だけをたよりに家を探すのだから、時間がかかる。それにここらは番地がひょいひょい飛んでいて、九十八番地のすぐ向うが百七十七番地になっていたりして、始末が悪い。家の切れ目に小さな草原があって、女の子がフラフープをやり、男の子たちがホッピングに乗って遊んでいるのが見えた。フラフープもホッピングも、もうずいぶん前にすたれた筈だが、眼前のその遊びを見ていると、何だか急速に風景が古びて、一年前か二年前の世界を歩いているような、妙な気分になって来た。

(どこかで見たような、どこかで一度経験したような感じだぞ)

 どこで経験したのか思い出せないまま、いらいらした気分でせかせかと歩き廻っていると、曲り込んだ横丁の三軒目に、暗闇からぬっとあらわれたと言う感じで、小久保太郎の表札が眼についた。縦表札でなく横表札で、大きな郵便受けの上にちょこんとついている。画描きと言ったのは本当らしいな、と思いながらブザーを押すと、若干世帯やつれの気配を見せた三十五六の女性が姿をあらわした。頰にホクロがあって、これもどうもどこかで見たことがあるような感じがする。私が名乗ると女性は引っ込み、かわりにどてら姿の小久保が出て来た。どてらは相当にくたびれ、ところどころ縫目がほころびていた。

「やって来たよ」

 忌々(いまいま)しい気持もあって、私はそう簡単にあいさつして、靴を脱いで上にあがった。小さな家で、四畳半の和室に六畳見当の板の間だけで、板の間の方にはイーゼルや描きかけの画、壁には裏返しのカンバスがいくつも寄りかかっていた。和室のチャブ台には、空の井が二つ乗っかっている。昼飯に夫婦でラーメンでも取ったのだろう。小久保が女性に何か耳打ちをすると、女性はそそくさと下駄をつっかけて裏口からどこかに出て行った。

「ここらに来るのは初めてだけど――」

 チャブ台の前に坐りながら、私は言った。

「ここらの子供たちは、今頃フラフープなどで遊んでいるんだねえ。ずいぶん流行遅れの地帯だなあ」

「子供の遊びなんかの話じゃないですよ」

「そりや判っているけどさ」

 世間話をしに来たのではないことは、私だってよく知っている。

「今出て行った人、君の奥さんかね?」

「そうですよ。あれがよし子です」

 そして小久保は手を伸ばして、うしろの本棚から一冊の雑誌を引き出した。ぺらぺらと頁をめくって、私に突きつけた。

「ほら。ここにこう書いてある。安子の右頰にはホクロが一つあって、それが彼女の容貌をさらに可憐なものとした」

 私は眼鏡を額にずり上げて、そのくだりを読んだ。なるほど、まさしくそう活字が並んでいる。並んでいるからには、私がそう書いたのだろう。小久保の掌がその頁をぱんとたたいた。

「これでもあんたは、うちのよし子をモデルにしなかったと言うんですか?」

「そ、それも偶然の一致だよ」

 たくらまれた迷路に、自然と引き込まれる気分になりながら、私は抗弁した。

「頰ぺたにホクロがあるなんて、そりやたいていの人はどこかにホクロがあるものだよ。ホクロのない人があったら、お眼にかかりたいぐらいだ」

「だって、右横だと、ちゃんと場所まで指定して――」

「でも、君の奥さんは、そう言っちゃ何だけど、可憐と言う感じでは――」

「可憐ですよ。あたしにとっては、あんなに可憐な女はいやしない。それともあんたはあのよし子を、獰猛(どうもう)な感じの女とでも言うんですか?」

「獰猛だとは言ってやしない。強いてどちらかと言えば、可憐の方に――」

「そら、ごらんなさい」

 小久保は勝ち誇ったような声を出して、また背後の本棚からさっと帳面を抜き出した。

「どうです。これが家賃の通帳」

 うっかり受取って頁をめくって見たら、七千円の家賃が三ヵ月前まで納入されたきり、あとは空白となっている。

「ほう。ちゃんとした一戸建で、七千円とは、ずいぶん安い家賃だねえ」

「高い安いは問題でない!」

 小久保はまたまなじりをつり上げた。

「問題はですね、たまっているのは三ヵ月と言うことですよ。五ヵ月もためたなんて、人を誣(し)いるもはなはだしい」[やぶちゃん注:「誣いる」事実を曲げて言う。作り事を言う。]

 私は返事をしないで沈黙した。何だかだんだん決定的になって行く模様なので、うっかりと受け答えも出来ない。小久保はさっと手を上げ、鴨居(かもい)から突き出た吊棚を指差した。

「それにあのダルマ、そこらの古道具屋から買って来た安物だとあんたは書いたけど、どういう根拠であれを安物だと断定したんです?」

 吊棚の上には、背丈五寸ばかりのダルマが乗っかっていた。片眼だけに墨が入って、あとの片眼は白いままである。そう言えばあの小説で片眼ダルマのことも書いたなと、はっきりと私は思い出した。身に覚えはないのに、さまざまな証拠を突きつけられた無実の犯人みたいに、突然心や身体の中のものが萎縮して、思わず私はダルマから眼をそらした。私の眼が小久保の視線とぴたりと重なり合った。[やぶちゃん注:「五寸」約十五センチ。]

「じゃあどうすればいいんだ」

 自然と身体がだるくなるのを感じながら、私はそう言った。投げ出すようにそう言わざるを得なかった。

「だからですよ、慰籍料と言っちゃ何だけれど、あたしもずいぶん精神的な打撃を受けたんですからね」

 小久保は視線をひたと私に固定したまま、通帳を掌でぱんぱんとたたいた。

「たまった家賃の二万一千円、いや、半端がついては面白くないから、三万円ぐらいはあんたから出していただきたいんです」

「三万円? それは高い。いくら何でも、それはべら棒だ」

「ではいくらなら妥当だと言うんです」

「一万円だ。せいぜい一万円だね。それ以上は絶対にムリだ!」

 どういう理由で一万円が妥当なのか、自分でもはっきりしないまま、私は頑強に値切った。この際値切ることだけが、私の生甲斐であった。小久保は眼をぐっと見開いて、急に顔を私に近づけて来た。

 

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