モデル 梅崎春生
[やぶちゃん注:昭和三五(一九六〇)年二月号『群像』初出。なお、梅崎春生には実体験に基づく奇体なトラブルをも記した随筆「モデル小説」がある(リンク先は私の注附きの電子テクスト)。未読の方は、どうぞ。また、私は以前にも梅崎春生の注で述べたが、阿倍公房の小説は「赤い繭」を除いて、一度として面白いと思ったことがないのだが、この梅崎春生の「モデル」は遙かにシュールで確実に面白いと思っている。]
モデル
初めに封書がやって来た。開封したが、身に覚えのないことが書いてあるので、黙殺した。破って捨てた。一週間ぐらい経つと、ハガキが来た。なぜ返事を呉れないかと言う詰問である。返答しようにも、返答しようがないから、これも放って置いた。五日目に電話がかかって来た。
「一体どうして返事を呉れないのです?」
電話口に出たのが私だと確めると、その声は言った。へんにきんきん響くような、いくらか女性的な声だ。
「あの小説のおかげで、うちはたいへん迷惑しているんですよ」
「そんなことを言ったって」
私はうんざりした気分で抗弁した。
「僕は君に一面識もないし、したがって小説のモデルにするわけがない。それは言いがかりと言うもんですよ」
「言いがかり?」
見知らぬ男の声は激した。
「そんなしらじらしいことが、よく言えたもんですね。あくまでしらを切ると言うのなら、こちらにも覚悟がありますよ」
いくら覚悟があると言っても、こちらにはあくまで覚えがないのだから、どうしようもない。少々精神に異状があるのではないか。そう思ったから、いい加減にあしらって、電話を切った。切ったあと、あまり後味が良くなかった。もしかすると何かたくらんでいるのかも知れない。その疑念が私を重苦しくした。
その翌日、当人が直接やって来た。家人が持って来た名刺に『小久保太郎』とあるので、あの手紙の差出人だとすぐに知れた。名刺に肩書はついていない。姓名と住所だけである。だからどんな職業か判らない。しばらく名刺を眺めながら、書斎に上げようか、それとも玄関で追い返そうかと思案したが、あのしつこさから見て玄関で帰るような男でもなさそうなので、結局上げることにした。背の丈は五尺五寸ぐらいの、眼のぎょろりとした四十前後の男が、すり足のような恰好をして、しずしずと書斎に入って来た。くたびれたコールテンのズボンなんかをはいて身なりはあまり良くない。[やぶちゃん注:「五尺五寸」一六六・六センチメートル。後で「背は私とおっつかっつで」とあるが、事実、梅崎春生は背が高かった。]
「初めまして――」
おれは礼儀がいいんだぞ、育ちがいいから、怒っている時でも礼は失わないんだぞ、と言ったようなやり方で、彼は机の向うに坐って、ふかぶかと頭を下げた。電話と同じくきんきん声である。
「いや。こちらこそ」
私も頭を下げながら、油断なく上眼を使って、相手を観察する。背は私とおっつかっつで、眼付きはぎろりとしているが、体格の方はあまり良くない。腕も細そうだし、胴休もくにゃりとして、何だか泥鰌(どじょう)に似ている。あんまり強そうでないから、私も安心して強気に出た。
「この間から、電話や手紙で、変な言いがかりをつけて来るようだが、こちらは迷惑だよ。一体今日はどういう用件なんです?」
「用件? 用件は判ってるでしょう」
気押されたように眼をぱちぱちさせたが、すぐに立ち直った。
「ちゃんと手紙に書いといた筈です。どうしてあんたは、僕にことわりもなく、僕のことを小説に書いたんですか」
「そう言う覚えはないんだがねえ。一体何と言う小説だね?」
「きまってるじゃないですか」
彼はコールテンの膝をぐいと乗り出した。
「あの〈嘘の宿〉と言うやつですよ。あれでもって、あたしのことを――」
「ちょっと待って呉れ。ちょっと」
私はあわてて掌で制した。
「あの〈嘘の宿〉と言うのはだね、僕が頭ででっち上げた作品だよ。つまり空想で書いたのだ。君は何かかん違いをしているんじゃないですか?」
「かん違いなんかするものですか。ちゃんと僕は――」
「僕はと言うけれども、その僕に、僕は今日初めて会ったんですよ。会ったこともない人間をモデルに、小説が書けるものか」
「書けますよ。あんたは豊臣秀吉に会ったこともないのに、秀吉をモデルにした小説が書ける」
小久保は右手を上げて、何か引っ掻くトレーニングのように、指をくねくねと屈伸させた。五本とも妙に長い指だ。
「あたしのことをどこからか聞いて来て、そいつを小説に仕立てたんでしょう。それとも私立探偵か何かを使って――」
自分のことを僕と呼んだり、あたしと呼んだりする。その度に感じが変る。
「私立探偵? 人聞きの悪いことを言わないで呉れ。私立探偵を使うほど、僕はまだ空想力は枯渇していないよ。飛んだ言いがかりだ。一体あの小説のどこが君をモデルにしていると言うんだね?」
「全部ですよ。第一主人公の名前からしてそうだ。僕は小久保、小説では大久保、小を大に変えただけの話じゃないですか」
「大久保なんてざらにある名前だ。偶然の一致だよ」
私は声を荒くした。
「名前の相似だけで因縁つけられちゃかなわない。それにあの小説の主人公は画描きだよ。ところが君は――」
「へえ。あたしも画描きですよ」
彼は掌でぶるんと鼻をこすり上げ、机にさえぎられてここからは見えないが、それをコールテンズボンにこすりつけたらしい。何もそんなに得意がらなくてもよかろうに、と思う。
「アトリエ付きの家を借りてんですよ」
「そうかね」
何だか話がややこしくなって来たようだ。小久保の眉がびくびくと動いた。
「あんたの小説じゃ、その家賃を五ヵ月もためていることになっている!」
「君はためていないのか」
「そ、そりや少々ためていますがね、五ヵ月なんて、そんな――」
小久保は嘆息した。
「五ヵ月もためているように書かれちゃ、近所に対して恥かしくって、外に出歩きも出来ない。一体どうして呉れるんです?」
「だって、ためてることはためているんだろう。仕方がないじゃないか」
私は何か混乱して、自分の墓穴を掘るに似た応答をした。
「それだけなら我慢しますよ。あたしにもね、女房が一人いるんです」
「そりや誰だって女房は一人にきまっているよ」
「僕の女房はよし子、あの小説では安子でしたね」
「そうだ」
「その安子が若い男に誘惑されて、つまりよろめく」
「おい、おい。僕の机を爪でそんなに引っ掻かないで呉れ。傷になるじゃないか」
小久保は不承不承(ふしょうぶしょう)、机の上から両手を引っ込めた。感情が激すると、ものを引っ掻きたくなる性分らしい。
「一体あれはどういうことなんです?」
「ど、どういうことって――」
私はどもった。だんだん形勢がおかしくなって来る。
「君の奥さんも、つまりあの安子のように、よろめいたのか」
「よろめくもんですか。あんまりバカにしないで下さいよ」
また手を机に伸ばそうとしたが、思い直したらしく引っ込めた。無念やる方なげに、眼をぎろぎろさせた。
「うちのよし子は、この僕に心服している。こんないい亭主はないと思っているんですよ。それをあんな具合に、姦通するような具合に書かれて、たまった話ですか!」
「ちょっと待って呉れ」
「いや。待てない。そりゃうちに若い男が一人出入りしていますよ。でもあれはよし子の従弟なんだ。あんたが邪推するような、そんな間柄ではない!」
「待てと言ったら、待て!」
私はたまりかねて、平手で机を引っぱたいた。平手でたたく分には、机は傷つかない。
「さっきも言ったように、僕は君と初対面だ。モデルにした覚えはない。君がモデルにされたと、勝手に妄想しているだけだ」
「そうじゃないですよ。モデルになっているとあの雑誌を持って来たのが女房の従弟だし、近所の者たちもあれを読んでいるらしくて、あたしが外出すると、どうも眼引き袖引きして、笑っている気配がある」
「君の言うことは、本当なのかね。ウソじゃないだろうな」
いきり立とうとする胸を押えながら、私はつとめて冷静な声を出した。いくら偶然にしても、ちょっとばかり符合が合い過ぎる。
「何がウソです?」
「つまりさ、君が小久保と言う名、これは名刺があるから本当だろうが、君の職業が画描きで、アトリエ持ちで、家賃をためていて、そんなことは君が今言っているだけで、僕がこの眼で実証したわけじゃない」
「え? なに? それじゃあたしの言うことを疑うんですか?」
小久保は憤然としたように膝を立て、中腰になった。
「じゃ今から僕の家に行きましょう。僕の家も、家賃の通帳も、それに女房も見せて上げましょう。さ、車で行けば二十分とかからない」
「今日はだめだ。今日は仕事がある」
のこのことついて行って、そっくり本当だったら、いよいよ立場が悪くなる。だから私は頑張った。
「じゃいつ来て呉れるんです?」
「そうだね。あさって、いや、仕事が済むのがあさってだから、しあさってと言うことにしよう。しあさっての正午頃」
地図を書かせるのを忘れて、所番地だけをたよりに家を探すのだから、時間がかかる。それにここらは番地がひょいひょい飛んでいて、九十八番地のすぐ向うが百七十七番地になっていたりして、始末が悪い。家の切れ目に小さな草原があって、女の子がフラフープをやり、男の子たちがホッピングに乗って遊んでいるのが見えた。フラフープもホッピングも、もうずいぶん前にすたれた筈だが、眼前のその遊びを見ていると、何だか急速に風景が古びて、一年前か二年前の世界を歩いているような、妙な気分になって来た。
(どこかで見たような、どこかで一度経験したような感じだぞ)
どこで経験したのか思い出せないまま、いらいらした気分でせかせかと歩き廻っていると、曲り込んだ横丁の三軒目に、暗闇からぬっとあらわれたと言う感じで、小久保太郎の表札が眼についた。縦表札でなく横表札で、大きな郵便受けの上にちょこんとついている。画描きと言ったのは本当らしいな、と思いながらブザーを押すと、若干世帯やつれの気配を見せた三十五六の女性が姿をあらわした。頰にホクロがあって、これもどうもどこかで見たことがあるような感じがする。私が名乗ると女性は引っ込み、かわりにどてら姿の小久保が出て来た。どてらは相当にくたびれ、ところどころ縫目がほころびていた。
「やって来たよ」
忌々(いまいま)しい気持もあって、私はそう簡単にあいさつして、靴を脱いで上にあがった。小さな家で、四畳半の和室に六畳見当の板の間だけで、板の間の方にはイーゼルや描きかけの画、壁には裏返しのカンバスがいくつも寄りかかっていた。和室のチャブ台には、空の井が二つ乗っかっている。昼飯に夫婦でラーメンでも取ったのだろう。小久保が女性に何か耳打ちをすると、女性はそそくさと下駄をつっかけて裏口からどこかに出て行った。
「ここらに来るのは初めてだけど――」
チャブ台の前に坐りながら、私は言った。
「ここらの子供たちは、今頃フラフープなどで遊んでいるんだねえ。ずいぶん流行遅れの地帯だなあ」
「子供の遊びなんかの話じゃないですよ」
「そりや判っているけどさ」
世間話をしに来たのではないことは、私だってよく知っている。
「今出て行った人、君の奥さんかね?」
「そうですよ。あれがよし子です」
そして小久保は手を伸ばして、うしろの本棚から一冊の雑誌を引き出した。ぺらぺらと頁をめくって、私に突きつけた。
「ほら。ここにこう書いてある。安子の右頰にはホクロが一つあって、それが彼女の容貌をさらに可憐なものとした」
私は眼鏡を額にずり上げて、そのくだりを読んだ。なるほど、まさしくそう活字が並んでいる。並んでいるからには、私がそう書いたのだろう。小久保の掌がその頁をぱんとたたいた。
「これでもあんたは、うちのよし子をモデルにしなかったと言うんですか?」
「そ、それも偶然の一致だよ」
たくらまれた迷路に、自然と引き込まれる気分になりながら、私は抗弁した。
「頰ぺたにホクロがあるなんて、そりやたいていの人はどこかにホクロがあるものだよ。ホクロのない人があったら、お眼にかかりたいぐらいだ」
「だって、右横だと、ちゃんと場所まで指定して――」
「でも、君の奥さんは、そう言っちゃ何だけど、可憐と言う感じでは――」
「可憐ですよ。あたしにとっては、あんなに可憐な女はいやしない。それともあんたはあのよし子を、獰猛(どうもう)な感じの女とでも言うんですか?」
「獰猛だとは言ってやしない。強いてどちらかと言えば、可憐の方に――」
「そら、ごらんなさい」
小久保は勝ち誇ったような声を出して、また背後の本棚からさっと帳面を抜き出した。
「どうです。これが家賃の通帳」
うっかり受取って頁をめくって見たら、七千円の家賃が三ヵ月前まで納入されたきり、あとは空白となっている。
「ほう。ちゃんとした一戸建で、七千円とは、ずいぶん安い家賃だねえ」
「高い安いは問題でない!」
小久保はまたまなじりをつり上げた。
「問題はですね、たまっているのは三ヵ月と言うことですよ。五ヵ月もためたなんて、人を誣(し)いるもはなはだしい」[やぶちゃん注:「誣いる」事実を曲げて言う。作り事を言う。]
私は返事をしないで沈黙した。何だかだんだん決定的になって行く模様なので、うっかりと受け答えも出来ない。小久保はさっと手を上げ、鴨居(かもい)から突き出た吊棚を指差した。
「それにあのダルマ、そこらの古道具屋から買って来た安物だとあんたは書いたけど、どういう根拠であれを安物だと断定したんです?」
吊棚の上には、背丈五寸ばかりのダルマが乗っかっていた。片眼だけに墨が入って、あとの片眼は白いままである。そう言えばあの小説で片眼ダルマのことも書いたなと、はっきりと私は思い出した。身に覚えはないのに、さまざまな証拠を突きつけられた無実の犯人みたいに、突然心や身体の中のものが萎縮して、思わず私はダルマから眼をそらした。私の眼が小久保の視線とぴたりと重なり合った。[やぶちゃん注:「五寸」約十五センチ。]
「じゃあどうすればいいんだ」
自然と身体がだるくなるのを感じながら、私はそう言った。投げ出すようにそう言わざるを得なかった。
「だからですよ、慰籍料と言っちゃ何だけれど、あたしもずいぶん精神的な打撃を受けたんですからね」
小久保は視線をひたと私に固定したまま、通帳を掌でぱんぱんとたたいた。
「たまった家賃の二万一千円、いや、半端がついては面白くないから、三万円ぐらいはあんたから出していただきたいんです」
「三万円? それは高い。いくら何でも、それはべら棒だ」
「ではいくらなら妥当だと言うんです」
「一万円だ。せいぜい一万円だね。それ以上は絶対にムリだ!」
どういう理由で一万円が妥当なのか、自分でもはっきりしないまま、私は頑強に値切った。この際値切ることだけが、私の生甲斐であった。小久保は眼をぐっと見開いて、急に顔を私に近づけて来た。