「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅰ)
○大船村〔於保布奈牟良〕曩昔此地瀕海にして粟を積たる船着岸せし緣故に因り、粟船村と唱へしと傳ふ〔【鎌倉志】引常樂寺略傳記曰、古老相傳以粟船號村依山得名、此地往時爲海濵、以載粟船繫于此一夕變而化山、今粟船山是也云々、此等に依て土俗此説を設けしなり、〕。粟船の地名は古書に往々見えたり〔【東鑑】寛元元年の條村民所藏永正十二年の勸進狀【北條役帳】村民所藏天正九年の文書足柄下郡板橋村民藏同十四年の文書等に見ゆ、則下の條に引用す、又【東鑑】建長五年の條【神明鏡】元弘三年の條に靑船とあるも當村を云へるなり、こは全く當時訛稱のまゝを偶記せしなるべし、〕。今の文字に改しは何の頃なりけん、既に正保の改には今の文字に作れり、江戸より行程十二里、小坂郷に屬す、元弘三年五月新田義貞鎌倉を攻る時、當所を放火せしこと所見あり、〔【神明鏡】曰、五月十八日卯刻、藤澤・靑船・片瀨・十間酒屋。五十餘ケ所に火を懸て敵三方より懸けたり、〕天正九年八月當村の税錢增加の沙汰あり、當年十月を限り皆濟すべき由を令す〔舊家小三郎文書曰、十三貫八百九十四文、粟船段錢三ケ二仁懸自當年可致進納辻、此外三ケ一上田所江被遣之、右先年無檢地郷村、就御代替、當年雖可被改候、其以來被打置、只今事六ケ鋪間、以段錢增分被仰付候、米穀計運送之苦勞可存者、員數相當次第、黃金永樂絹布之類麻漆等、有合候物遠以可納之、然者十月晦日、必可致皆濟所、可捧一札旨仰出者也、仍如件、辛巳八月十七日、粟船代官百姓中、北條氏虎印、按ずるに御代替と云るに、天正九年氏直家督の時を指るなるべし、〕。此頃當村及び近郷の所々藍瓶錢の課役を出せり。十四年十二月不納せしにより更に催促の沙汰あり〔足柄下郡板橋村紺屋藤兵衞文書寫曰、粟船云々、右之在所不入と申、紺屋役不出候由、曲事仁堅申付可取、猶兎角申不出候はゞ、可申上云々 丙戌十二月二十五日、京紺屋津田江雲奉之、虎朱印あり、〕。東西二十町、南北八町許〔東、今泉村、西、小袋谷・岡本二村、南、山之内・臺二村、北、笠間村、〕民戸六十八、小田原北條氏分國の頃は上田案獨齋知行す〔【役帳】曰、案獨齋、二百六十貫三十四文、東郡粟船郷、〕。今御料及能勢靭負佐〔寶永七年御料の地を、村上主殿・村上壽之助に頒ち賜ひ、文化八年、松平肥後守容衆に替賜ひ、文政四年御料に復し、同六年裂て能勢氏に賜ふ、殘れる地今猶御料所あり、〕蜷川相模守親文〔古は御料所なり、元祿十一年長山彌三郎に賜ひ、文化八年、御料及び肥後守容衆の領地となりしに、文政四年蜷川氏に賜ふ、〕根岸九郎左衞門〔是も御料所なりしを文化十二年、父肥前守鎭衡に賜ふ、〕木原兵三郎〔享保の頃より知行す、是も初は御料所なり、〕等知行す、檢地は延寶六年成瀨五左衞門改む、戸塚宿よりの鎌倉道村内を通ず〔幅二間、〕。
[やぶちゃん注:今回から、一部に句点を配して読み易くすることにした(底本には読点のみで句点はない)。
「大船村」現在の鎌倉市大船の一部。明治二二(一八八九)年四月一日の町村制施行により、大船村・小袋谷村・台村・今泉村・岩瀬村及び山内村が合併、「小坂村」が成立(現在の大船駅はその前年の明治二十一年十一月一日に既に開業している)、昭和八(一九三三)年二月十一日には小坂村が町制施行して「大船町」へ改称(同年四月二日には玉縄村を編入)、戦後の昭和二三(一九四八)年六月一日に鎌倉市へ編入された(ここはウィキの旧「大船町」に拠った)。
現在は、鎌倉市大船地区が該当する。「曩昔」「のうせき」。昔。以前。「曩」は「先に・以前に」の意。
「瀕海」「ひんかい」海に面していること。臨海。
「【鎌倉志】引常樂寺略傳記曰、古老相傳以粟船號村依山得名、此地往時爲海濵、以載粟船繫于此一夕變而化山、今粟船山是也云々」書き下すと、「【鎌倉志】に「常樂寺略傳記」を引きて曰く、『』古老、相ひ傳ふ、粟船を以つて村に號することは、山に依〔り〕て名を得たり。此の地、往時(むかし)、海濵たり。以て粟(あは)を載(の)する船を此(ここ)に繋ぐ。一夕、變じて山と化す。今の粟船(あはふね)山、是れなり」。私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之三」の「常樂寺」の条を参照されたい。
「此等に依て土俗此説を設けしなり」「風土記稿」の作者がこの地名説に疑義を持っている感が窺える。
「【東鑑】寛元元年の條」「吾妻鏡」の寛元元(一二四三)年六月十五日の条に、
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十五日庚申 天霽。故前武州禪室周闋御佛事。於山内粟船御堂被修之。北條左親衞幷武衞參給。遠江入道。前右馬權頭。武藏守以下人々群集。曼茶羅供之儀也。大阿闍梨信濃法印道禪。讚衆十二口云々。此供。幽儀御在生之時。殊抽信心云々。
○やぶちゃんの書き下し文(〔: 〕は私の注)
十五日庚申(かのえさる) 天、霽(は)る。故前武州禪室〔:北条泰時。〕、周闋(しゆうけつ〔:一周忌。〕)の御佛事、山内粟船(あはふな)御堂〔:後の常楽寺。〕に於いて、之れを修せらる。北條左親衞〔:経時。〕幷びに武衞〔:時頼。〕參じ給ふ。遠江入道〔:朝時。〕、前右馬權頭〔:政村。〕、武藏守〔:朝直。〕以下の人々群集す。曼茶羅供(まんだらぐ)の儀なり。大阿闍梨信濃法印道禪。讚衆十二口と云々。此の供は、幽儀〔:故人泰時。〕御在生(ぞんしやう)の時、殊に信心を抽(ぬき)んずと云々。
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「永正十二年」ユリウス暦一五一六年。
「天正九年」ユリウス暦一五八一年。グレゴリオ暦はこの翌年から。
「足柄下郡板橋村」現在の神奈川県小田原市板橋附近。
「【東鑑】建長五年の條」これは思うに、建長六(一二五四)年の誤りではあるまいか? 同年六月十五日の条に、やはり泰時の忌日の記載があり、「十五日乙酉。霽。今日。迎前武州禪室十三年忌景。被供養彼墳墓靑船御塔」(十五日乙酉(きのととり) 霽る。今日、前武州禪室十三年の忌景(きけい)を迎へ、彼(か)の墳墓、靑船(あをふな)の御塔を供養せらる)とあるからである。
「神明鏡」「しんめいかがみ」と読む。神武天皇から後花園天皇までの年代記で上下二巻。作者未詳。南北朝時代末期(十四世紀後半)の成立かと推測され、永享二(一四三〇)年まで書き継がれているが、史実とは思われない記事がかなりあって、仏教色に富んだ伝承をとり入れている。時代が下るにつれて「保元物語」「平治物語」「平家物語」「太平記」などによった合戦譚の記事が目立つ。
「元弘三年」北朝の正慶二年で一三三三年。鎌倉幕府滅亡は同年五月二十一日(ユリウス暦七月三日でグレゴリオ暦換算では七月十一日相当)。
「正保」一六四五年~一六四八年。江戸幕府第三代将軍徳川家光の治世。
「改」改元の意か。ならば一六四五年。
「十二里」約四十七キロメートル。
「小坂郷」鎌倉郡谷(やつ)七郷(小坂・小林・葉山・津村・村岡・長尾・矢部。但し、異説蟻)の一つ小坂(おさか)郷。山内荘を中心とした鎌倉郡の大部分に当たる広域旧地名。南は小坪郷に「小坂郷小坪」・北は倉田郷に「小坂郡倉田」などと記録が残り、本「相模國風土記稿」では二十八ヶ村が相当すると記されている。現在は「小坂(こさか)」の地名で残る。ここは「いざ鎌倉プロジェクト」代表鎌倉智士(さとし)氏作成になる鎌倉郡内の地名紹介ページに拠った。
「【神明鏡】曰、五月十八日卯刻、藤澤・靑船・片瀨・十間酒屋。五十餘ケ所に火を懸て敵三方より懸けたり」正確には「五月十八日の卯尅に村𦊆・藤澤・靑舩・片瀨・十間酒屋、五十余ケ處に火を懸て敵三方より寄懸けたれば」である。国立国会図書館デジタルコレクションの当該箇所の画像を視認して訓読した。「村𦊆」は現在の藤沢市の「村岡」、「十間酒屋」はやや離れるが、現在の茅ヶ崎市十間坂の旧称か。
「段錢」「たんせん」と読む。鎌倉から戦国時代にかけて臨時に賦課された税。朝廷や幕府が即位・譲位・大嘗会・内裏造営・将軍宣下・大社造営などの費用に当てるため、臨時に田に対して段(「反(たん)」に同じ面積単位)ごとに賦課したもの。当初は米を徴収したので「段米」と称したが,次第に金銭に変っていった。
「三ケ二仁懸自當年可致進納辻、此外三ケ一上田所江被遣之、右先念無檢地郷村、就御代替、當年雖可被改候、其以來被打置、只今事六ケ鋪間、以段錢增分被仰付候、米穀計運送之苦勞可存者、員數相當次第、黃金永樂絹布之類麻漆等、有合候物遠以可納之、然者十月晦日、必可致皆濟所、可捧一札旨仰出者也、仍如件」上手く訓読出来ない。以下、力技で示すので、誤読は御指摘戴けると嬉しい。
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三が二に懸け、當年より進納致すべし辻[やぶちゃん注:不詳。「迚(とて)」の誤字か?]、此の外、三が一、上田(うへだ)の所え之れを遣さる。右、先年、無檢地の郷村、御代替(おんだひがはり)に就きて、當年、改められ候ふと雖も、其れ以來、打ち置てられ、只今、事、六かしき間(あひだ)、段錢の增分を以つて仰せ付けられ候ふ、米穀計(ばか)りは運送の苦勞、存(あ)るべくば、員數、相當次第たり。黃金・永樂・絹布の類、麻・漆等、有り合ひ候ふ物、遠[やぶちゃん注:不詳。「速(すみやかに)」の誤字か?]以つて之れを納むべし。然れば、十月晦日(みそか)、必ず、皆、濟み致すべき所、一札を捧ぐべき旨(むね)、仰せ出ださるものなり。仍つて件(くだん)のごとし。
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文中の「三が二」「三が一」は段銭を課す田の段(たん)数の歩合を示すか? 「上田」は後に出る「小田原北條氏分國の頃は上田案獨齋知行す」という人物のであろう。
「辛巳」「かのとみ」。後の編者の推定注から天正九(一五八一)年。
「北條氏虎印」当時の後北条氏は虎の朱印判(印の上部に突き出して、虎のうずくまる形を形象したもの)を用いた。
「天正九年氏直家督の時を指るなるべし」「指る」は「させる」。後北条氏第五代当主北条氏直(永禄五(一五六二)年~天正一九(一五九一)年)。彼は天正八(一五八〇)年八月十九日に父氏政の隠居によって家督を継いでいる。天正一八(一五九〇)年の秀吉による小田原攻めで敗北、氏直自身が切腹するという条件で将兵の助命を請うて降伏した。父氏政及び叔父氏照は切腹となったが、秀吉は氏直の申し出を神妙とし、家康の婿(正室督姫(とくひめ)は家康の娘)でもあったことから助命され、高野山にて謹慎した。翌天正十九年の二月には秀吉から家康に赦免が通知され、同年五月上旬には大坂の旧織田信雄邸を与えられ、八月十九日に秀吉と対面して正式な赦免と、河内及び関東に一万石を与えられて豊臣大名として復活したが同年十一月四日、享年三十で大坂で病死した(「多聞院日記」によれば死因は疱瘡とされる)。なお、この北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続している(以上はウィキの「北条氏直」に拠った)。
「藍瓶」「あいがめ」で藍染めに於いて染料を入れる甕(かめ)、藍壺(あいつぼ)を指す。既に「臺村」の条で見たように、この附近では藍染めを生業或いは副業とする百姓がいた。
「足柄下郡板橋村紺屋藤兵衞文書寫曰、粟船云々、右之在所不入と申、紺屋役不出候由、曲事仁堅申付可取、猶兎角申不出候はゞ、可申上云々 丙戌十二月二十五日、京紺屋津田江雲奉之」我流で訓読しておく。
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足柄下郡板橋村紺屋(こうや)藤兵衞が文書の寫しに曰く、「粟船云々、右の在所、不入(ふいり)と申し、紺屋役[やぶちゃん注:藍染め業者の元締めか。]、出でず候ふ由、曲事(くせごと)にて、堅く申し付け、取るべし。猶ほも兎角、申し出でず候へば、申し上ぐると云々。丙戌(ひのえいぬ)十二月二十五日、京(きやう)紺屋津田江雲、之れを奉る。
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「丙戌」で「虎朱印であるから、天正一四(一五八六)年。
「東西二十町、南北八町」東西約二キロ、南北約八百七十三メートル。現在の大船地区とほぼ同等である。
「上田案獨齋」後北条氏家臣で武蔵国松山城主上田朝直(ともなお 明応三(一四九四)年或いは永正一三(一五一六)年~天正一〇(一五八二)年)と思われる。彼の法名は安独斎宗調である。ウィキの「上田朝直」によれば、『出自は武蔵七党の西党の流れを汲む上田氏の庶流』で、『当初は扇谷上杉家に仕えていたが同家が後北条氏に滅ぼされ、伯父・難波田憲重が戦死して松山城を奪われると、憲重の娘婿・太田資正が奪還して松山城に入った。その後、資正が太田氏宗家を継ぐために岩付城に戻ることになると縁戚である朝直に松山城を譲ることになる(資正の妻は朝直の従兄弟にあたる)が、朝直は資正から離反して後北条氏に従った』。『行政手腕に優れており、北条氏康から信任を受けて独自の領国経営を許されたという』。天文一九(一五五〇)年頃には既に「安独斎」と号している。永禄二(一五五九)年頃には関東に出兵して来た長尾景虎(上杉謙信)に呼応し、一度、北条氏を離反しているが、永禄四(一五六一)年に『政虎(景虎)が関東から撤兵すると、再び北条氏に帰参を許されているが、責任を問われて本貫地であった秩父郡に移され』たが、その後、永禄一二(一五六九)年に『武田信玄と三増峠の戦いで戦うなど、武功を評価されて松山城主に戻され、また上田宗家を相続している。晩年は子の長則に家督を譲って隠居した』とある。
「今御料及」「いま、ごれうにおよぶは」と訓じておく。
「能勢靭負佐」「のせかげゆのすけ」と読むか。江戸後期(文政六(一八二三)年)の現在の戸塚区の田谷の知行者として同名が出る(こちらの「昭和十六年橫濱市報・橫濱史料」データによる)。「神奈川県神社庁」公式サイトの、後掲される大船にある熊野神社の由緒のところに『又、甘槽土佐守清忠、甘槽備後守清長、甘槽佐渡守清俊などの武将および、長山弥三郎、能勢靱負佐、村上主殿、木原兵三郎、松平肥後守容衆、肥前守領衛などの主名門の諸家、厚い崇敬の誠をつくせり。古来画像を安ぜしを正親町天皇の御代天正七年七月、甘槽佐渡守平朝臣長俊、御座像を再興し奉る』とある(下線やぶちゃん)。この人物の末裔であろう(因みに、「肥前守領衛」は「鎮衛」(「耳囊」の江戸町行根岸鎮衛(しずもり。リンク先は私の全千話電子化訳注)の誤りではなかろうか? 後注「根岸九郎左衞門」「父肥後守鎭衡」も参照されたい)。
「寶永七年」一七一〇年。
「村上主殿」「むらかみとのも」と読んでおく。不詳であるが、前の「能勢靭負佐」の注を参照。
「村上壽之助」不詳。村上主殿と併置してあるが、同族であるかどうかは不明。寧ろ、改めて「村上」と姓を記しているのは、寧ろ、無関係な人物であると考えた方が無難であろう。
「文化八年」一八一一年。
「松平肥後守容衆」陸奥会津藩第七代藩主松平容衆(かたひろ 享和三(一八〇三)年~文政五(一八二二)年)。夭折。
「文政四年」一八二一年。
「蜷川相模守親文」幕末期の旗本。室町幕府政所執事代蜷川氏の後裔らしい。
「元祿十一年」一六九八年。
「長山彌三郎」現在の戸塚区の公田が、同じ元禄十一年に同姓同名の人物が知行地として与えられている(こちらの「昭和十六年橫濱市報・橫濱史料」データによる)。
「根岸九郎左衞門」不詳。しかし、気になる。何故なら、先に出した根岸鎮衛の通称は九郎左衛門だからである。
「父肥前守鎭衡」不詳。しかしますます気になる。根岸鎮衛は「肥前守」で、しかも「衡」の字は「衞」とあまりに似た字だからである。根岸鎮衛には息子衞肅(もりよし)がおり、彼が家督を継いでいる。嗣子が父と同じ通称を用いることはごく普通のことである。
「木原兵三郎」旗本の木原氏であろう。なお、新井宿村(あらいじゅくむら:現在の東京都大田区山王)は同氏の領地で延宝三(一六七五)年当時、木原兵三郎重弘が統治し、旱魃続きで困窮した農民が彼に年貢減免を訴えるも却下され、江戸幕府へ直訴に向かうが、今一歩のところで木原家中の者に捕えられ、翌年に江戸木原本邸に於いて斬首刑に処せられている。以下の「享保の頃より知行」したというのだから、この人物の後裔ではあろう。以上は彼らの「新井宿義民六人衆墓」があるウィキの「善慶寺(大田区)」の記載に拠った。
「享保」一七一六年~一七三五年.
「延寶六年」一六七八年。第四代将軍徳川家綱の治世末期。
「成瀨五左衞門」「湘南の情報発信基地 黒部五郎の部屋」の「鵠沼を巡る千一話」の第六十話「藤沢宿支配代官」の一覧によれば、慶安二(一六四九)年から天和二(一六八二)年まで実に三十四年に亙って藤沢宿代官を勤め、一六七三年と一六七八年に検地、一六七九年に幕領検地をしていることが判る。
「二間」三メートル六十四センチメートル弱。]
○高札場三
〇小名 △木曾免〔木曾義高、古墳の邊なり、〕 △大明神〔爰に稻荷社を祀る〕 △岡 △御壺ヶ谷 △檜垣 △赤羽根 △堂ノ前 △太子谷 △瀧ノ前 △谷堀 △池ノ谷 △尼ヶ谷 △花摘免
[やぶちゃん注:底本の「大日本地誌大系第四十巻」では「池ノ谷」が落ちているが、「新編相模国風土記稿第4輯 鎌倉郡」を確認し、「△」(底本の添え記号)を補って追加した。
「木曾免」「花摘免」一般に地名に附された「免」は寺社寄進などとして特別に年貢の一部が免除されていた地区を指す。或いは、前者は悲劇の少年武将の特別な墓所の供物として、後者は例えば寺の供花(香華)として一般人の花摘みを禁じた地域ででもあったものか? 或いは、「臺村」の市場で鬻ぐ商品に「紅花」が出ていたことを考えると、この花は「紅花」でったものかも知れぬ。最早、こうした小字は失われ、その由来も知り得なくなりつつあるのは、まことに淋しい限りである。]
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