北條九代記 卷第十 主上東宮御元服
○主上東宮御元服
建治二年正月に、將軍惟康、讚岐〔の〕權〔の〕守に補(ふ)せられ給ふ。同四月に蒙古の使者、長門國室津(むろつ)の浦に來りけるを、同八月に関東に差下(さしくだ)さる。鎌倉の評定(ひやうじやう)には、數年度々の使者を以て、日本の地形、風景を見て、軍法の手段(てだて)を拵ふると覺えたり。今より後は、假令(たとひ)、朝貢の使者と云ふとも、いけて返すべからずとて、かの使者二人を龍口に引出し、首を刎(はね)てぞ梟(かけ)られける。同三年正月に主上、御元服まします。御年十一歳、攝政太政大臣藤原兼平公、加冠たり。理髮は頭中將具顯(ともとき)とぞ聞えし。同月十九日、龜山上皇へ朝覲(てうぎん)の行幸あり。打續き、石淸水、賀茂の行幸ありければ、京都の有樣、いと賑々(にぎにぎ)しくぞ覺えける。同五月、北條武藏守義政、執權の加判を辭退し、剃髮入道して信州鹽田郷(しほだのがう)に閑居せらる。相州時宗、一判にて大小事を下知せられ、晝夜、政理(せいり)に思(おもひ)を費し、心の隙(ひま)はなかりけり。同十二月、東宮熈仁、御元服あり。春宮(とうぐうの)傅(ふ)二條左大臣藤原師忠公、加冠たり。春宮大夫源具守(とももり)、理髮せらる。主上、東宮御元服ましまし、洛中の上下、世は大事の運(うん)にかなひ、時は淳厚(じゆんこう)の德を兼ねたり。諸國、同じく五穀豐(ゆたか)に、東耕(とうこう)の勞(らう)、空(むなし)からず。西收(せいしう)の畜(たくはへ)、庫(くら)に盈(み)ちたり。聖代(せいだい)明時(めいじ)の寶祚(はうそ)、仁慈理政(りせい)の致す所なりと、萬民百姓、樂(たのしみ)に榮え、月花を賞し、歌曲に興じて悦ぶ事、限なし。
[やぶちゃん注:「建治二年」一二七六年。
「同四月に蒙古の使者、長門國室津(むろつ)の浦に來りけるを、同八月に関東に差下(さしくだ)さる。鎌倉の評定(ひやうじやう)には、數年度々の使者を以て、日本の地形、風景を見て、軍法の手段(てだて)を拵ふると覺えたり。今より後は、假令(たとひ)、朝貢の使者と云ふとも、いけて返すべからずとて、かの使者二人を龍口に引出し、首を刎(はね)てぞ梟(かけ)られける」既に述べた通り、これは建治元(一二七五)年二月に進発した、杜世忠の第七回使節団の処分を誤認した叙述である。
「主上、御元服まします」後宇多天皇のそれ(一月三日)。彼は文永四(一二六七)年十二月一日生まれであるから、当時、満十歳である。
「藤原兼平」鷹司兼平(安貞二(一二二八)年~永仁二(一二九四)年)
「加冠」男子の元服の際に初めて冠をつける儀式初冠(ういこうぶり)での、冠を被らせる役。「ひきいれ」とも言った。
「理髮」元服の際に頭髪の末を切ったり結んだりして整える役。
「頭中將具顯(ともとき)」ちょっと若いが、源具顕(文応元(一二六〇)年?~弘安一〇(一二八七)年)か? 伏見天皇の東宮時代の弘安三(一二八〇)年頃に側近として仕えている。彼は左近衛中将であった。
「朝覲(てうぎん)」現代仮名遣では「ちょうきん」。「覲」は謁見の意で、年頭に天皇が上皇又は皇太后の御所に行幸する儀式を指し、践祚(せんそ)・即位・元服の後にも臨時に行われた。
「北條武藏守義政、執權の加判を辭退」北条義政(寛元(一二四三)年或いは仁治三(一二四二)年~弘安四(一二八二)年)は北条重時の子。第六代将軍宗尊親王に仕え、引付衆・評定衆などの幕府要職を歴任、文永一〇(一二七三)年に叔父北条政村が死去すると、彼に代わって連署に任じられ、執権北条時宗を補佐した。ウィキの「北条義政」によれば、彼は杜世忠らを『時宗が処刑しようとした時には和睦の道もあるとしてこれに反対して』おり、「関東評定伝」(「関東評定衆伝」とも称し、嘉禄元 (一二二五) 年から弘安七(一二八四)年に至る鎌倉幕府の執権・評定衆・引付衆の任命と官歴を記したもの。二巻。作者や成立年代は未詳)によれば、この頃から『義政は病のために出家を望んでいたと言われ、花押の有無からも、義政は文永の役以降に病の為に連署としての政務を十分に務めてはおらず』、建治二(一二七六)年『前後には見られなくなる』。「建治三年記」に拠れば、建治三(一二七七)年四月(本書では「五月」となっている)に『突如連署を辞し、出家』して、道義と号したが、翌五月二十二日に逐電、とある。
「信州鹽田郷(しほだのがう)」現在の長野県上田市塩田地区。ここ(グーグル・マップ・データ)。前注に引いたウィキの「北条義政」にも、この地へ隠居した旨が記されてあり(「建治三年記」によるか)、『塩田には、義政創建と伝えられる安楽寺八角三重塔が残されている』とし、さらに、『義政の遁世について没年などを勘案しての病気説、あるいは拠点塩田荘の地盤固めの為に幕政から退いたなどの説が提唱されているが、歴史学者の網野善彦は義政は安達泰盛室が同母姉妹である事を指摘し、泰盛と得宗家被官平頼綱との対立が義政の立場を微妙なものにしたであろうと推測。さらに、義政の遁世後には極楽寺流の義政にとって本家筋にあたる北条義宗は評定衆に加わっている事からも、本家筋に憚るところがあったとする説、時宗の慰留や、義政遁世後の幕府人事の手早さ等から、得宗家の政治的排除であるとも考えられている』ともある。
「一判にて」一人で幕政の署名決済を行ったことを指す。
「東宮熈仁」後深草院の第二皇子。後の伏見天皇。
「春宮(とうぐうの)傅(ふ)」律令制で定められた皇太子(東宮・春宮)附き教育官の一つ。大臣が兼ねることが多かった。
「二條左大臣藤原師忠」二条師忠(建長六(一二五四)年~興国二/暦応四(一三四一)年)。関白二条良実三男であったが、兄道良の早世により、二条家を継いだ。
「春宮大夫」春宮坊の最高官。
「源具守(とももり)」(建長元(一二四九)年~正和五(一三一六)年)。文永六
(一二六九) 年参議、後に従一位に進んで、正和二(一三一三)年には内大臣となる。娘の基子(西華門院)が後宇多天皇の後宮に入ったことから、後二条天皇の外祖父となった。
「運」願い。切望。
「淳厚(じゆんこう)の德を兼ねたり」「淳厚」は「醇厚」とも書き、人柄などが素朴で人情に篤いことを言う。ここはこの時、主上以下の仁徳のお蔭で、洛中が安泰にして人心平穏であることを形容している。
「東耕(とうこう)の勞(らう)」五行で「東」は「春」。年の初めの春の農事の労苦。
「西收(せいしう)の畜(たくはへ)」同前で「西」は「秋」。秋の収穫の、その貯蔵分。
「聖代(せいだい)明時(めいじ)の寶祚(はうそ)、仁慈理政(りせい)の致す所なり」増淵勝一氏はこれを以下の「萬民百姓」の台詞とし、『聖天子の聡明でいつくしみ深い道理にかなった政治によってもたらされたのである』と訳しておられる。]
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