「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅱ) 六國見
○六國見〔呂久古計武〕 村の巽隅にある山を云〔登八町四十五間〕、山の南麓は山之内圓覺寺の域内なり、頂上松樹の下に淺間の小祠あり、登臨すれば四望曠濶として豆相武房上下總の六州一瞬の内に入れり由て名とす、且西は富嶽東北は筑波山を遠望し郡中第一の壯觀なり、
[やぶちゃん注:掲げた「六國見眺望圖」は底本(国立国会図書館デジタルコレクションの昭和七(一九三二)年~昭和八年雄山閣編輯局編雄山閣刊「大日本地誌大系第四十巻」の「新編相模國風土記稿」)のそれが暗いので、時に校合している同コレクションの間宮士信等編になる「新編相模國風土記稿」(明治一七(一八八四)年~明治二一(一八八八)年鳥跡蟹行社刊。こちらには底本にない挿絵が含まれてもいる)のそれをトリミングし、汚損を清拭して用いた。前者も後者も保護期間満了であり、現在、同コレクションのパブリック・ドメインの画像の使用許可は不要となっている。この図は特殊な作りとなっており、右手前に東方向からの「六國見」山と「勝上見」を描き、全体はそこから南にやや回転した状態の鳥瞰図風のものを、改めて左手に「六國見」山と「勝上見」を再度描いて、眺望を描いているので注意されたい。キャプションはかなり読み易いので、電子化はしないが、「勝上見」は「しやうじやうけん」と読み、建長寺の半僧坊の上のピークで、正しくは「勝上巘」と表記し、現行では「勝上献(しょうじょうけん)」とする。所謂、「鎌倉アルプス・ハイキング・コース」の東の末端のである(因みにこの「鎌倉アルプス・ハイキング・コース」という名は虫唾が走るほど、嫌いである)。
「六國見〔呂久古計武〕」「ろくこ(つ)けん」は現在の鎌倉市高野(たかの)にある六国見山(ろっこくけんざん)。海抜百四十七メートル。
「巽隅」「たつみすみ」南東の境。
「八町四十五間」九百五十五メートル弱。
「山の南麓は山之内圓覺寺の域内なり」私は今から三十九年前、二十歳の頃、ここに登り、未だ全く開発されていなかった現在の高野地区(完全な畑地で、その半分は既に打ち捨てられていた。擦れ違った巨大な竹籠を背負った老農婦から蜜柑を貰ったのを思い出す)に下り、そこから八重葎を潜って進むうち、恐ろしく古びた石段の痕跡を見出し、そこを下ったところが――何と――円覚寺舎利殿の真裏――であった。そっと殿内に入って、晩秋の夕陽の射したそこの静けさに堪能した。誰にも見つからず、門前の柵を潜り、私は藪野家の墓をお参りした上で(藪野家の菩提寺は円覚寺の白雲庵であり、檀家は入場料を払う必要はないのである)を、何気ない風をして円覚寺山門を後にした(言っておくと、当時から既に舎利殿はその門前から先は侵入禁止であった)。]
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