譚海 卷之二 甲州栗・柹・ぶどう等の事
甲州栗・柹・ぶどう等の事
○甲州の内、栗・梨子・ぶどう等の最上なるを産する地は少しばかりの所也。一所は岩崎、一所は勝沼と云(いふ)所也、其餘は尋常のものを産する也。勝沼にては源五右衞門と云ものの葡萄殊の外よろしく出來る也。岩崎にては淸藏といふもののぶどう出來よろし、此はこやしの方(はう)其(その)家傳ありとぞ。其國の方言に、此二箇所のぶどうを親玉と稱す、ぶどうは砂地赤土の所わきてよろし。根のかくるゝまであくたをかけてこやしにする也。つるを切(きり)てみれば殊の外水出來(いでく)るもの也。梨子は實をならする事を平生(へいぜい)心に觀(くわん)じこみてゐる程ならでは、よく出來ぬもの也、とかく煙のくる所よろし。ある人の云、されば本草にも梨は家木の内に有(あり)、これらにてもいはれはしられたりと。甲州にてぶどう・なしなど、よくこやししてみのれば、其遣方(やりかた)によりて、金子十四五兩・二十兩程は壹箇年の入(いり)有(あり)、な まじひの田地(でんち)持(もち)たるよりはまされりといへり。
[やぶちゃん注:「ぶどう」総てママ。歴史的仮名遣なら、本来は「ぶだう」。
「柹」「かき」であるが、本文には出ない。しかし、次注の引用には名産品として柿が出る(下線部)。
「岩崎」現在の山梨県甲州市勝沼町岩崎地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「勝沼町」の「近世」の項に、『勝沼村には甲州街道の宿場である勝沼宿が設置され』、『勝沼村・上岩崎村・下岩崎村・菱山村の四ヶ村では甲州葡萄の栽培が』行われ、「和漢三才図会」「裏見寒話」などの地誌に於いて『梨や柿と共に甲斐特産の果樹の総称である「甲斐八珍果」のひとつとして挙げられている』とある(下線やぶちゃん)。当該ウィキを読むと、この「岩崎」という独立した村名は、下岩崎に『武田一族の分流で、戦国時代に武田信昌と守護代跡部氏の抗争において滅亡した岩崎氏の館跡』があることから由緒が知れる。
「源五右衞門」次の「淸藏」とともに不詳。本書の記載年代(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年)から考えても、甲州葡萄発展史の中に名を残していてしかるべき人物と思われるのだが。識者の御教授を乞うものである。
「こやしの方」堆肥の施し方。
「親玉」この呼称は現在は通用していない模様である。
「梨子は實をならする事を平生(へいぜい)心に觀(くわん)じこみてゐる程ならでは、よく出來ぬもの也」ほう、禅宗のような観想精神をおっしゃる。
「とかく煙のくる所よろし」「梨は家木の内に有」から、ものを燃やす煙であることが判る。
「金子十四五兩・二十兩程」ネット上のある換算サイトでは、安永年間なら江戸中期で一両は現在の八万円、寛政期なら後期で五万円ほどに当たるとするので、中期なら百十二~百六十万円、後期なら七十~百万円相当となる。