谷の響 五の卷 十二 石淵の怪 大蟹
十二 石淵の怪 大蟹
紺屋町の端なる茶屋町と言ふに、茂助といへる者あり。從來(もとより)水練をよくして、水底にある事剋(こく)を亘れるとなり。往ぬる天保六乙未の年の四月なるよし、あらたに羅(あみ)を制(つく)りて下ろし初めに鱒を捕るべしとて、同志(どうやく)の者五六輩を促がし、地形村の傍なる石淵と言ふ處に至りて網を曳たりしに、何物にか障りけん四五尺ばかり破裂(やぶれ)て魚みな洩るゝのみならず再び用ふる事なり難きに、茂助甚(いた)く不審(いぶか)り何物の所爲(しわざ)なるにか見屆け來るべしと、其まゝ淵の中に沒りけるが、稍剋(とき)を遷せども出來らざるに、安之・仁三郞といふ二個(ふたり)のもの同じく水底に潛り尋るに、茂助は鱒一杯(ひら)を捕へながら宙にかゝれるもの人如く、足地に附かず首水に浮まずして水中に立てり。二個の者これを見て卽便(そのまゝ)抱きかゝえて援け揚けるに、少時(しばし)は物も言ひ得ざるが稍心落つきて語りけるは、淵の中隈なく尋ね搜せども妨害(さまたげ)すべきと思ふもの一個(ひとつ)もなく、只百あまりの鱒の縱橫に泳げるからに、二枚(ひら)捕へて浮まんとする時何やらん水の中に物有りて、脚を絆ひて柾(ひく)よと覺えけるが忽ち全身動くことなり難く已に命も危うかりしに、幸ひにして兩個(ふたり)が惠援(なさけ)に由て全く活(いき)ることを得たりきとあるに、伴侶(つれ)の者ども奇異の思ひをなしたるが、かくては鱒も捕られずとて、やがてその地(ところ)を戾りしとなり。こは此茂助・仁三郞二個の話なりけり。
然(さ)るに、其後己れ相馬に往しころ、石淵のことを問(たづ)ぬるに、その者の曰、紙漉澤村の者と路連(みちづれ)になりてこのこの石淵なる統司(ぬし)てふものは、大きなる蟹なりと言へることは往古(むかし)よりの言ひ傳へにて、當下(いま)も快晴閑亮(てんきよくしづか)なる日は窂々(たまたま)見る事あるものにて、いと怪しきものなりとぞ。茂助ごときの難に遇へるはこの主の咎にして、往古より多かることなるが中には死に至るものもまゝありき。されどこの淵の水殊に淸冷(きよらか)にして、鱒及び雜魚も多く群聚(あつま)れるところなれば、前(さき)の災を顧るものなく年々网(あみ)を下し釣をたれあるは水底を搜るものも多かり。實に危むべき事なり。又、この災に遇ずとも淵中を潛りて手足を太(いた)く傷くことありき。さるに此奴剃刀をもて截るが如く、深さ一寸ほどに至るものもあれど、疵口啓壞(ひらか)ずして疼痛(いたむ)こと少なく、血も亦多く出ず。俗(よ)に言鎌鼬(かまいたち)に遇ひしものゝ如し。土(ところ)の人こを主(ぬし)の劍(やいば)に觸れしものなりと言へりと語りしなり。
因にいふ、往ぬる文化の初年のよし、鳥井野村なる鮎簗に、いと大きなる蟹一つ落ちたりき。その甲の徑(わたり)一尺二三寸、兩足張りたる處は五尺あまりと見得たるが、簗の上をのかのかとはひ涉りて、水の深みに入りたりけり。簗を守れる者共恐をなして捕へんとする者もなく、たゞ舌を卷いて看たるばかりとぞ。こは石切忠兵衞といへるもの、この鳥井野村にありてはたらきたる折に、したしく聞けることゝて語りしなり。
[やぶちゃん注:以下の注のロケーションからも判る通り、この大蟹は純粋に淡水域に棲息している。本邦産の川蟹の類で、有意に大型になるのは節足動物門甲殻亜門軟甲綱真軟甲亜綱ホンエビ上目十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾(カニ)下目イワガニ科モクズガニ属モクズガニ Eriocheir japonica しか考えられないが、それでも甲幅は七~八センチメートルで十センチを越えるものは、まず、いない(体重も一八〇グラム程度)。しかし最後の段落のシチュエーションにのみ実視認個体(とするもの)が登場するものの、それでも甲幅は三十七~三十九センチメートルもあり、両肢を開脚した状態で一メートル五十二センチ弱とする。これは凡そモクズガニでも絶対にあり得ないサイズである。恐らくは、北方海辺で獲れるタラバガニ(抱卵亜目異尾(ヤドカリ)下目ヤドカリ上科タラバガニ科タラバガニ属タラバガニ Paralithodes camtschaticus)等(同種は成体甲幅は標準で二十五センチほどであるが、脚を広げると一メートルを超える)を見聞きした者が同様の蟹が川にもおり、主(ぬし)となって深い淵底に潜んでいるものと想像したのであろう。
「紺屋町」現在の弘前市紺屋町(こんやまち)。弘前城の西北直近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「茶屋町」不詳。この町名(内町名)は現存しない模様。
「從來(もとより)」元来。
「水底」「みなそこ」。
「剋(こく)」狭義の時間単位では現在の三十分に相当するが、ここは漠然とした、普通の人が耐え得る以上の長い時間という意味であろう。但し、「ギネス」世界記録登録者では、あるデンマーク人男性が二十二分間の水中での息止めに成功しているとあるから、強ち、実際の一刻も絶対にあり得ないとは言えぬかも知れぬ。
「天保六乙未の年の四月」「乙未」は「きのとひつじ」で一八三五年。同年の旧暦四月一日はグレゴリオ暦で四月二十八日である。
「羅(あみ)」「網」。
「下ろし初め」漁での使い初(ぞ)め。
「鱒」「ます」。現行の辞書的な第一義では、条鰭綱原棘鰭上目サケ目サケ科 Salmonidae に属する「樺太鱒」(サケ科タイヘイヨウサケ属カラフトマス Oncorhynchus gorbuscha)・「桜鱒」(タイヘイヨウサケ属サクラマス Oncorhynchus masou。「山女」(ヤマメ)は本種河川残留型(陸封型)に対する呼称であり、学名は無論のこと、一緒である)・琵琶湖固有種である「琵琶鱒」(タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus)などのように、「鱒(ます)」という和語を和名に有する魚類の俗称であって、単一種を指すわけではない。「鱒の介」(タイヘイヨウサケ属マスノスケ Oncorhynchus tschawytscha)や「紅鱒」(タイヘイヨウサケ属ベニザケ(ヒメマス)Oncorhynchus nerka:本邦には近代以降に移植)とその陸封型の「姫鱒」、或いは「川鱒」(イワナ属カワマス Salvelinus fontinalis)・ニジマス(タイヘイヨウサケ属ニジマス Oncorhynchus mykiss)をも指すこともある。なお、その中で狭義に限定する場合は「サクラマス」を指すとする。こここはロケーションと描写(水中で二尾を捕まえて浮上しようとした)から見ると、一匹の個体が相応に大きいと考えられ、そうなると、大型個体もしばしば見られるニジマス Oncorhynchus mykiss 辺りを念頭においてよいように私には思われる。
「同志(どうやく)」同僚。
「地形村」現在の青森県弘前市紙漉沢(かみすきさわ)地形(じかた)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「石淵」不詳。しかし、前注の場所であれば、岩木川の淵か、現在の地形(じかた)の南端で合流する支流との境辺りであろう(前の地図を参照)。
「障りけん」「觸りけん」が正しいように思われるが、恐らくは何かに触れてそれが障害(さわり)となって網が破れたことから、かく表記したものであろう。
「四五尺」一メートル二十二センチから一メートル五十二センチメートルほど。
「沒り」「いり」。「入り」。
「稍」「やや」。
「尋るに」「たづぬるに」。
「杯(ひら)」「枚(ひら)」と同じく、「ひら」は薄く平らなものの数詞。
「捕へながら」「つかまへながら」。
「宙にかゝれるもの人如く」「宙」は「そら」と訓じているかも知れぬ。空中に紐か何かで、ぶら下がっている人間のように。
「地」川底。
「援け揚けるに」「たすけあげけるに」。
「稍心落つきて」「やや、こころおちつきて」。
「浮まん」「うかまん」。
「絆ひて」読み不詳。続く動詞が「引く」の謂いであるから、或いは「なはゆひて」「繩結うひて」の謂いかも知れぬ。「絆(きづな)」は物を繫ぎ止めるものの謂いだからである。
「柾(ひく)」「引く」。引っ張る。
「惠援(なさけ)に」二字へのルビ。
「由て」「よりて」。
「かくては」網が破れた上に、水練上手の茂助がかくも怪異な体験をしたからには。
「その地(ところ)を戾りし」そこを去って帰った。
「此」「この」。
「己れ」「われ」。
「相馬」弘前市相馬。ここ(グーグル・マップ・データ)。さっきの地形(じがた)の下流域から南の支流一帯の旧地名らしい。
「往し」「ゆきし」「行し」。
「紙漉澤村」底本の森山氏の別な補註に、『中津軽郡相馬村紙漉沢(かみしきざわ)。古く天文年間にこの地名があり、往昔ここで紙を漉いたという伝えがある』とある。現在は弘前市紙漉沢で読みは「かみすきさわ」である。ここ(グーグル・マップ・データ)。地形(じかた)の西南対岸一帯。
「統司(ぬし)」二字へのルビ。
「てふものは」と言うものは。
「快晴閑亮(てんきよくしづか)なる」四字へのルビ。
「窂々(たまたま)」二字へのルビ。「偶々」。
「咎」「とが」と読んでいるか。「(罰するべき)悪しき行い」の謂いか。しかしそれは蟹のやるしわざが「咎」なのか、その淵に立ち入って無暗に川漁を成す人間の行為を「咎」と称しているのか、よく判らない。取り敢えずは、前者の謂いで採っておくが、続く内容からは暗に後者の意味を、訓戒を込めて含ませているようにも私には読める。古老の話とは往々にしてそうした両義性を持つものである。
「多かること」多くあること。
「群聚(あつま)れる」二字へのルビ。
「顧る」「かへりみる」。
「あるは」「或は」。
「實に」「まことに」。
「危む」「あやぶむ」。
「災」「わざはひ」。
「遇ず」「あはず」。
「傷く」「きずつく」。
「此奴」「こやつ」。
「剃刀」「かみそり」。
「截る」「きる」。
「一寸」三・〇三センチメートル。
「啓壞(ひらか)ず」二字へのルビ。
「疼痛(いたむ)」二字へのルビ。
「言」「いふ」。
「鎌鼬(かまいたち)」「耳嚢 巻之七 旋風怪の事」の私の「かまいたち」の注を是非、参照されたい。概ねウィキの「鎌鼬」からの引用であるが、最後には私が目の前で見た怪しい(それは別な意味でも「怪しい」である)「かまいたち」現象についても綴ってある。
「文化の初年」文化元年は一八〇四年。
「鳥井野村」現在の弘前市鳥井野(とりいの)。ここ(グーグル・マップ・データ)。先の地形(じがた)の東方。
「簗」「やな」。河川の両岸又は片岸から、杭や石などを列状に敷設して水流の一部を堰き止め、そこに作った狭隘部分(「梁口(やなぐち)」などと呼ぶ)に木や竹製の簀(す)や網、筌(「うけ」「うえ」。私は「うつぼ」(形状から)と読みたくなる)と呼ばれる漁具などを置き、誘い込まれて来た魚類を捕獲する仕掛け。「梁」とも書く。
「のかのかと」不詳。「のこのこと」か。或いは「平然と」の意の「ぬけぬけと」の訛りかも知れぬ。
「石切忠兵衞」「石切」は石を切り出すのを職業とした者がそのまま姓としたものであろう。]