芥川龍之介 手帳6 (6)
○汚水 煉瓦橋 靴を洗ふ女 菜花 家々 新樹 家鴨 鵞 朱欄の木橋(新橋) 城壁をくぐる 左 城壁に蔦 小木 竹林中の茶事 (綠楊村)舟に少女(玫瑰を髮にさせるもの) 牛糞を壁に貼るものあり(鳥打帽) ○勿用日貨(白、城壁) 墓 麥 柳 鳩 橋(大) 大虹橋(勿用日貨) 春柳堤 徐園 (徐寶山)乾の爲一夜ニ作ル 向うに湖心寺 やがて五亭橋 左にラマ寺(塔) 右に釣魚臺
[やぶちゃん注:ここは「江南游記」の「二十三 古揚州(上)」・「二十四 古揚州(中)」・「二十五 古揚州(下)」の素材メモである。
「綠楊村」揚州西北の郊外にある名勝、痩西湖(文字通り細長い人工湖で全長四・三キロメートル、湖面は凡そ三十ヘクタールあり、清の康煕・乾隆年間に湖畔庭園として整備され、長堤・徐園・小金山・吹台・月観・五亭橋・鳧荘(ふそう)・白塔等、名跡が多数ある。ここ(グーグル・マップ・データ))湖畔南の村。銘茶の産地として知られる。この附近(グーグル・マップ・データ)。
「勿用日貨」排日の落書。今も聴こえてくる「日本製品を用いるな!」である。
「大虹橋」痩西湖の入口に架かり、揚州二十四景の西園曲水と長堤春柳を結ぶ。岩波版新全集の「江南游記」の神田由美子氏の注解によれば、明末に架橋後、清の乾隆年間にアーチ型に改修された。命名は『虹が東西両岸にかかっているようにみえる』ところから、とある。
「春柳堤」痩西湖の西岸にある。入口から小金山までの数百メートルの堤であるが、「揚州二十四景」の「長堤春柳」が、これである。
「徐園」筑摩全集類聚版の「江南游記」の脚注は、鎮江の徐宝山の花園とし、岩波版新全集の神田由美子氏の注解は『揚州市の市街東南部にある花園か? 旧市街の徐凝門外の裏道にある』とする。検索をかけるうちに「徐凝門」で、以下の個人ブログ「考古学用語辞典」の記載を発見した。「何園」(かえん)という旧跡についてである。改行は「/」に変えた。『揚州市南徐凝門街77号にあり、寄嘯山荘とも呼ばれている。清の光緒年間に造営されたもので、揚州の名園の一つ。園主は隠退して揚州に帰ってきた湖北漢黄徳道道台の何芷(舟+刀)で、陶淵明の「南窓に倚りて以つて寄傲し、東皋に登りて以つて舒嘯す」の詩句から取って、「寄嘯山荘」と名づけたといわれている。/これは大型の邸宅庭園で、後花園、庭付き住宅、片石山房からなっている。面積はわずか7000㎡で、最大の特徴は池の周りに異なる形をした楼が連なっていることで、その長さは430m余に及ぶ。観光客は回廊に沿って一回りして見学することができるようになっている。/この園は東西2部分に分かれ、東部に船庁と牡丹庁があり、船庁の北側に女性の客を宴会でもてなす丹鳳朝陽がある。養魚池の水亭は納涼をとるところであれば、舞台として使うこともでき、また回廊は観劇の観衆席に使われる。主楼の蝴蝶庁は男性の客を宴会でもてなすところである。国内に築山、怪石、古木があり、四季折々の花が咲いている。/何園は曲がりくねった道と回廊で有名。中国・西洋の建築芸術をうまく融合させている。中国の現代の有名な古建築専門家の羅哲文氏は「全体的な配置が整然としており、疎密が適当で、なかでも北部の花園が絶妙を極めている」と述べ、また何園は「江南庭園における唯一つの例」と高く評価している。』。一見、これかと思わせるのだが、やはり「徐氏」はどうみても人名である。すると中文サイト「壹旅游」の「非游不可」の「揚州有位“徐老虎”――徐宝山其人其事」(現在は消失しているようである)という記事を発見、「徐園」なるものが存在することが分かった。そこに花園があるかないかは分からないが、私はこちらを採りたい。因みに、筑摩版の脚注及び本文で以下に「(徐寶山)」と出るのは徐宝山(一八六二年~一九一三年)という清末の軍人の姓名。鎮江新勝党の統領として揚州軍政府を弾圧、自ら揚州軍政分府を組織した地元のボス(鎮江出身)で、革命党により暗殺されている。
「乾の爲」不詳。「乾期で水がなかったから」の謂いか、或いは方角が「乾」(いぬゐ:北西)であったから、「風水か何かの理由で」の謂いか?
「湖心寺」不詳。単に痩西湖の中心にある寺の意か? 現在の地図を見ると、中央の島に揚州法海寺という寺院があるが、これは後の「ラマ寺」である。因みに、私は「湖心寺」といったらもう、瞿佑(くゆう)の「剪燈新話(せんとうしんわ)」の「牡丹燈記」のロケーションとなる浙江省寧波にある月湖のそれであるが、そこはトンデモ方向違いだ。或いは芥川龍之介は、この法海寺の景に、あの「牡丹燈記」の湖心寺の雰囲気を感じたものかも知れぬ。
「五亭橋」痩西湖のシンボルと言える極めて異形の建造物。一七五七年、この年の清の乾隆帝二度目の江南巡幸に合わせて、莫大な財産を恣にした地元の塩商人らが出資し、架橋した。橋上には二重の急激に反り返った廂を有した主亭を中心に、四つ角で接した同じ傾斜角を持った単廂の方亭が囲むように四つ配されている。橋脚には大小異なる遂道が通り、最大の中央のものは水面から七メートル十三センチ、複雑な形状が四季折々の変化に飛んだ景色を楽しめるよう工夫されている。
「ラマ寺(塔)」法海寺。五亭橋の南端のある元代に創建された寺。蓮性寺の元の寺名。そこに立つ「塔」とは「喇嘛(ラマ)塔」のこと。チベット仏教(=ラマ教)様式の白い独特の形をした塔で、高さ約二十八メートル。乾隆帝によって一七八四年に改修された。五亭橋同様、帝の歓心を得るために塩商人が一夜にして築いたという伝説もある。「揚州二十四景」の「白塔晴雲」はここである。
「釣魚臺」五亭橋の東北、湖上の島の張り出した先端に位置する。K.Iwata氏の「中国を楽しく旅行する」の「古都揚州」のページに『乾隆帝行幸の折、皇帝が湖上を行くときに、水辺で楽隊が音楽を吹奏するために造ったものであるので、吹台と呼ばれたが、水辺にあるその姿が、いかにも魚釣りのあずまやに見えるところから、いまは一般に釣魚台と呼ばれている。このあずまやには、大きな丸窓があって、その丸窓の借景、とくに水面に浮かぶ五亭橋を丸く切り取って撮すことができるスポットとしても、好事家の間で知られている名所である』と解説され、また『乾隆帝は実際ここで釣りをしたという話も伝えられている。帝が釣り糸を垂れるたびに、蓮の葉で身を隠して近づき、蓮の茎で呼吸をして水中に潜っては、釣り糸の先に生魚を付けて、皇帝がそれを釣り上げるたびに、なみいる皆が拍手喝采して、皇帝を喜ばせたという』と、興味深いお話を綴られている。]
○姜大公在此間無禁忌 貧民くつ 川 鐘 材木 泥坊 無煙炭 舟(石炭、桐) 江天禪寺 ○門(布袋)――堂(大雄)――(藏經抄)
[やぶちゃん注:「姜大公在此間無禁忌」「江南游記 二十六 金山寺」に、『その次に車の通つたのは、川があつて、材木屋があつて、――要するに木場のやうな所である。此處には家家の軒に貼つた、小さい緋唐紙(ひたうし)の切れ端に、「姜大公在此」(きょうだいこうここにあり)云云の文字が並んでゐる。これは「爲朝御宿」(ためともおんやど)のやうな、お呪(まじな)ひの類(るゐ)に違ひない』と使われている。「姜大公」は太公望呂尚(りょしょう)のこと。紀元前十一世紀頃、周の軍師として活躍し後に斉の始祖となった。姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙又は牙。謚は太公。斉太公、姜太公とも呼ばれる。明代のベストセラーであった神怪小説「封神演義」では「姜子牙」と称し、革命を指揮する周の軍師として、また崑崙山の道士として主役級の扱いを受ける。この辺りの天下無敵の神格化により、疱瘡除けの呪符にその名が記されるようになったものであろう(以上の太公望の事蹟はウィキの「呂尚」を参照した)。されば「姜大公在此間無禁忌」とは「姜大公此に在る間(あいだ)、禁忌、無し。」で、「姜太公望呂尚様、ここに座(ま)しますに依って、一切の邪気、これ、その侵入を許さず。」といった呪文であろう。
「貧民くつ」貧民窟。「江南游記 二十六 金山寺」に描写される。
「無煙炭」炭化が進んで煤煙を出さないで燃焼する高品位の石炭。固定炭素の含有量が九十三から九十五%以上のもので、揮発分が少ないために短炎で燃える。非粘結性でコークス(粘結炭石炭の中で加熱すると軟化溶融を起こし、高温で揮発分を放出して硬い多孔質の凝結塊になる性質のもの)を約摂氏千度で乾留し、その揮発分の大部分を石炭ガスとして放出したあとに残る固体燃料。灰分を含んだ多孔質の炭素質で高温と鉱石還元に必要な一酸化炭素を発生する)にはならない。着火点が約摂氏四百九十度と、火は点きにくいものの、火力が強く、しかも一定温度を保って燃え続ける。
「江天禪寺」金山寺の正式名。鎮江市街西北約三キロの郊外にある寺で、東晋の三一九年に創建されたもの。唐代、この辺りで金を採掘したことから「金山寺」と呼ばれるようになったという。なお、芥川龍之介はこの「江南游記 二十六 金山寺」の中で、金山寺の印象を『何分にも汽車の時間があるから、ゆつくり見物する氣もちになれない。寺は山に倚つてゐるので、(昔はこれが島だつたと云ふが、)一堂毎(ごと)にだんだん高くなつてゐる。その間(あひだ)の石段を上下しながら、ざつと見て歩いた感じを云ふと、勢ひ未來派の畫(ゑ)のやうな、妙に錯雜したものになつてしまふ。しかし當時の印象は、それに違ひなかつたのだから、手帳に書いてあるのを寫して見ると、大體こんな調子である』として、何と、手帳の内容だとして、以下のように出している。
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「白壁。赤い柱。白壁。乾いた敷石。廣い敷石。忽(たちまち)又赤い柱。白壁。梁(はり)の額。梁の彫刻。梁の金と赤と黑と。大きい鼎(かなへ)。僧の頭(あたま)。頭に殘つた六つの灸跡。揚子江の波。代赭色に泡立つた波。無際限に起伏する波。塔の屋根。甍の草。塔の甍に劃(かぎ)られた空。壁に嵌めた石刻(せきこく)。金山寺の圖。査士票(さしへう)の詩。流れて來る燕。白壁と石欄(せきらん)と。蘇東坡の木像。甍の黑と柱の赤と壁の白と。島津氏はカメラを覗いてゐる。廣い敷石。簾(すだれ)。突然鐘の音。敷石に落ちた葱の色。………」
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ところが、少なくとも、この手帳には、この記載は、ない。或いは中国行では別な備忘録があったものか? いや、これはどうも、叙述が少々面倒になった(或いは原稿規定字数をオーバーしそうなので)龍之介が、「手帳」と称して「早送り」をしでかしたというのが真相かも知れぬ。
「大雄」インドのジャイナ教(ベーダ聖典の権威を否定する無神論宗教で、アヒンサー(不殺生)をはじめとする禁戒・苦行の実践を説く。「ジャイナ」とは、『迷いに打ち勝った「ジナ」(勝利者)の教え』の意。インド以外には殆ど広がらなかった)の始祖マハーヴィーラ(仏典では釈迦よりも二十歳若いとしている)を指す語。
「藏經抄」正当な仏典群(経・律・論の三蔵を中心とした仏教聖典の叢書)を指す「大藏經」の「抄」録したものの謂いであろう。「大蔵経」は「蔵経」「一切経」「三蔵」とも称する。パーリ語で書かれた原始仏教聖典から、釈迦の説いた教えを指す「経(経蔵)」と「戒(律・律蔵)」に加えて、釈迦の弟子たちの教法に対する研究「論(論蔵)」をも含む。]
○治隆唐宋(赤壁) 龍 唐草 石龜 大祖像 明太祖高皇帝之位 朱金 臺 龍雲 ○西門外に高跳動あり その爲參詣少し
[やぶちゃん注:「治隆唐宋」現在の江蘇省南京市の東郊外にある明の孝陵の中の清代に再建された「碑殿」には清代の石碑が五基あるが、その中央の一基、一六九九年に康煕帝が南方を巡幸した際に題した文字を刻んだ「治隆唐宋碑」のこと。参照した「人民中国」公式サイト内の孝陵の紹介ページ(劉世昭氏の写真と文)によれば、碑文は『「朱元璋が国を治めた功績は、唐太宗・李世民と宋太祖・趙匡胤の功績を超えた」ことを称える内容』である、とある。そこに添えられた写真を見ると、同碑は「赤」い「壁」に見える。「龍 唐草 石龜」は同陵の羨道の左右に並ぶ石像や碑を支える神である。私も妻が南京大学で日本語教師をしていた時に訪れて見た(前者の碑も見たはずなのだが、記憶にない)。
「大祖像」不詳。この「大」は「太」の誤記か誤判読で、次に出る「明太祖高皇帝」朱元璋のことではなかろうか?
「高跳動」は“gāotiàodòng”(カオチヤオトン)。但し、正しくは「高蹻戲」“gāojiăoxì”(ガオチャオシ)若しくは「高脚戲」“gāojiăoì”(ガオチャオシ)である。正月に各地で行われた農民の遊戯芸能で、足に「高蹻・高脚」即ち「竹馬」を装着し、その上に立って演技をする仮装を伴った道化芝居である。十二人または十人を一組とした集団芸能。詳しくは私のサイト版「江南游記」の「二十八 南京(中)」の該当注を参照されたい。画像も添付してある。]
○コシヤマクレル トカサ Saito.
[やぶちゃん注:「Saito」は「齋藤」で、芥川龍之介の友人西村貞吉の旧姓である。齋藤(西村)貞吉は芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。このメモは「長江游記 一 蕪湖」で生かされているが、要は西村貞吉の「言い間違い」を面白おかしくメモしたもので、彼は「子供の言動が大人びていて、小生意気である」の意の「こましゃくれる」を「こしゃまくれる」と、
鶏(にわとり)の「とさか(鶏冠)」のことを「とかさ」と思わず言ってしまう、というメモである。]
〇天蟾舞臺 Footlight. 床――brick. 胡弓鼓板琵琶(左) 左右ニclock. (一つ止まる)天聲人語(正面)――rose, acanthus. 三階 白亞 籐椅子 半圓形 黃銅の手すり 大きな電燈(3) 右左煙草の廣告 入口――大平門(赤へ白) 幕――蘇州銀行 三砲臺香姻 武松――黑、白――赤面 幕(左右へ) masklike face. 纏足 譚鑫培――孔明 ○布の門 屋外屋内 明暗 馬上 ○candle without fire. enameled
basin. towel.
[やぶちゃん注:ここは戻って、「上海游記 九 戲臺(上)」に生かされたメモ類である。
「天蟾舞臺」現在も京劇が上演される上海人民広場近くにある逸夫舞台の旧名とされる(私の教え子の調査によれば、当時は現在位置とは少しずれたところにあった)。ここは一九一二年に建てられた歴史ある劇場で、中国京劇界の名優の多くが、この舞台を踏んでおり、「天蟾の舞台を踏まなければ、有名にはなれぬ」といわれている名門劇場である。「天蟾」とは「月光」の意。
「Footlight」舞台床の前縁に取り付けられた演技者を足もとから照らすための照明(言わずもがなであるが、「脚光を浴びる」の「脚光」とは、この「フットライト」のこと)。
「brick」は煉瓦。
「鼓板」拍子木風の打楽器。
「acanthus」は双子葉植物綱ゴマノハグサ目キツネノマゴ科ハアザミ属 Acanthus の花の総称であるが、ここでは恐らく観賞用の Acanthus mollis である。
「太平門」中国語で「非常口」のこと。
「蘇州銀行」岩波版新全集の「上海游記」の神田由美子氏の注解によると、芥川が来中する前年の一九二〇年に蘇州で創設された蘇州儲蓄(ちょちく:「貯蓄」に同じい。)銀行のことで、同年九月には上海支店が置かれたとする。しかしその後、一九二四年には『資本金が軍閥に流用されたため倒産』したとある。
「三砲臺香烟」ヴァージニア種を代表する英国製煙草“Three Castles”の中国語の商標名。「香烟」は中国語で「巻き煙草」のこと。当時の上海では、高級煙草はこの「スリー・キャッスル」と、英国王室御用達の“Westminster”(ウエストミンスター)に占められていた。
「譚鑫培」(Tán Xīn péi タァン シィンぺェイ たんきんばい 一八四七年年~一九一七年)は清末の京劇俳優。名は金福。湖北省江夏(武昌)の生まれで、父も「叫天子」(雲雀のような甲高い発声)で名を馳せた「譚叫天」と称された名優「譚志道」(老旦(老婆役)或いは老生(立役)を専らとしたという)として知られた。父の叫天に対し、譚鑫培は「小叫天」と称され、最初は武生(立回りを主とした立役)や武丑(ぶちゅう:立回りの三枚目)であったが、後には老生(善良な中高年の男役。付け鬚を着け、この鬚の色(黒・灰色・白)で年齢を表わす。現代京劇では「須生」とも称する)を演じ、清末の京劇を担った名優「同光十三絶」の一人に数えられている。本来、京劇の老生の節(唱腔:発生法。)は〈丹田の声を駆使した豪快さ〉をその特徴としたが、譚鑫培は〈悠揚曲折〉、感傷に富むそれを工夫し、所謂、〈譚派〉の風格を創造した(平凡社「世界大百科事典」の記載などを参考にした)。
「孔明」諸葛孔明。「老生」の代表格。芥川龍之介が老名優譚鑫培の演ずるそれを見たことは「上海游記」には記されていない、新発見の事実である。
「enameled basin」は、これらが聴劇の看客に渡されるものであるとすれば、以下の「towel」、濡れたタオルを入れておく「琺瑯びきの水盤」と採れる。]