谷の響 五の卷 五 怪獸
五 怪獸
安政二乙卯の年の九月、目屋野澤中畑村の忠吉といへるもの、川狩に出て安門の澤に登りしに、秋の日の早くも暮近くなれば今宵は此處に明すべきとて、とある木蔭にやすらひたりき。さるに、空中に大鳥のかけるひゞきして、そばなる樹の上に落て形は見えずなりし故、忠吉いぶかしく思ひ其樹に登りて見れば、二股になれる處に徑(わたり)一尺もあるべき穴ありてよほどの空洞(うつろ)と見ゆるから、その口に木をふさぎてかたく封じ、根元にも空洞の穴の少しある故枯葉をとり集めてしきりにいぶし立たるに、空洞の中をかけ𢌞(めぐ)る音しばしばなりしが次第に音も靜まりたれど、既に日も暮れ仕舞に物の黑白も分たざれば其まゝに捨置て、明る旦(あした)、鍵をさしのべてひきあけて見れば、狢(むじな)ばかりの大きさの獸死して有しが、それが四足いと短く口箸とがり尾長くして、未だ見もせぬ獸なれば持來りて村の年寄に見せければ、誰ありて名をだに覺へたるものなし。忠吉怪しき獸なりとて皮を剝ぎ弘前へ持來りしを、三ツ橋某したしく見たりと語りしなり。世に雷獸と言へる獸よく空をかけるとあれば、それにやと思はれし。
[やぶちゃん注:「安政二乙卯の年の九月」安政二年「乙卯」(きのとう)の九月一日はグレゴリオ暦一八五五年十月十一日。
「目屋野澤中畑村」「目屋野澤」は「めやのさは」で、以前に「雌野澤」と出たものと同じであろう。底本の森山泰太郎氏の「雌野澤」の補註に、『中津軽郡西目屋村・弘前市東目屋一帯は、岩木川の上流に臨んだ山間の地で、古来』、『目屋の沢目(さわめ)と呼ばれた。弘前市の西南十六キロで東目屋、更に南へつづいて西目屋村がある。建武二年』(ユリウス暦一三三四年)『の文書に津軽鼻和郡目谷』(太字「目谷」は底本は傍点「ヽ」)『郷とみえ、村の歴史は古い』。「メヤ」の『村名に当てて目谷・目屋・雌野などと書き、本書でも一定しない。江戸時代から藩』が運営した『鉱山が栄えたが、薪炭や山菜の採取と狩猟の地で、交通稀な秘境として異事奇聞の語られるところでもあった。本書にも目屋の記事が十一話も収録されている』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)が西目屋村であるから、注の東目屋とはその地域の東北に接した現在の弘前市地域である。先のマップを拡大すると、弘前市立東目屋中学校(行政地名は弘前市桜庭(さくらば)清水流(しみずながれ))を確認出来る。現行の「中畑村」は現在の青森県弘前市中畑で、ここ(グーグル・マップ・データ)。
「川狩」川漁。
「安門の澤」森山氏の補註に、『中津軽郡西目屋村の川原平部落から西方十キロの深山の中にかかる滝を暗門(あんもん)(安門)の滝という。三段にかかり一段ごとに方位を異にするといわれる。それぞれ五〇~七〇メートルの高さで壮絶である』とある。地図と滝(第二の滝)の画像が載る「白神山地ビジターセンター」公式サイト内の「暗門渓谷ルート(旧暗門の滝歩道)」で確認されたい。同ルート図(PDF)がある。この何処かがロケーションである。
「明す」「あかす」。
「空中に大鳥のかけるひゞきして、そばなる樹の上に落て形は見えずなりし」「其樹に登りて見れば、二股になれる處に徑(わたり)一尺」(三〇センチメートル)「もあるべき穴ありてよほどの空洞(うつろ)」(二字へのルビ)「と見ゆる」「狢(むじな)」(タヌキ)「ばかりの大きさの獸死して有し」「四足いと短く口箸とがり尾長く」これらの形状と生態(特に飛翔出来る点)及び樹上の空洞に営巣する点からは、日本固有種(本州・四国・九州に分布)で本邦に棲息するネズミ目の在来種では最大とも言われる(以下の引用を参照)、
哺乳綱齧歯(ネズミ)目リス亜目リス科リス亜科
Pteromyini 族ムササビ属ホオジロムササビ Petaurista leucogenys
に同定したくなる。ウィキの「ムササビ」によれば、『長い前足と後足との間に飛膜と呼ばれる膜があり、飛膜を広げることでグライダーのように滑空し、樹から樹へと飛び移ることができる。手首には針状軟骨という軟骨があり、普段は折りたたまれているこの軟骨を、滑空時に外側に張り出すことで、飛膜の面積を増やすことができる』(この飛膜面積が広い点は忠吉が見かけ上「四足いと短く」と見たこととよく符合すると私は思う)。『長いふさふさとした尾は滑空時には舵の役割を果たす』。頭胴長二七~四九センチメートル、尾長二八~四一センチメートル(「尾長く」と一致)、体重七〇〇~一五〇〇グラム(最大個体ならば、木の空洞の直径「一尺」で遜色なし)と、『近縁のモモンガ類』(モモンガ属 Pteromys)『に比べて大柄で』(日本固有種のリス亜目リス科モモンガ属ニホンモモンガ Pteromys momongaは頭胴長一四~二〇センチメートル、尾長一〇~一四センチメートル、体重一五〇~二二〇グラムしかない)、『日本に生息するネズミ目としては、在来種内で最大級であり、移入種を含めても、本種を上回るものはヌートリア位しかいないとされる』(下線やぶちゃん。以下同様)。『山地や平地の森林に生息』し、『特に、巣になる樹洞があり、滑空に利用できる高木の多い鎮守の森を好む』。夜行性で完全な樹上生活者である。『冬眠はしない』。一二〇メートル『以上の滑空が可能で、その速度は秒速最大』十六メートルにもなる(「大鳥のかけるひゞき」と一致)。『ケヤキやカエデなどの若葉、種子、ドングリ、カキの果実、芽、ツバキの花、樹皮など、季節に応じてさまざまな樹上の食物を食べる』。『地上で採食はしない。大木の樹洞、人家の屋根裏などに巣を作る』。『漢字表記の「鼯鼠」がムササビと同時にモモンガにも用いられるなど両者は古くから混同されてきた。両者の相違点としては上述の個体の大きさが挙げられるが、それ以外の相違点としては飛膜の付き方が挙げられる。モモンガの飛膜は前肢と後肢の間だけにあるが、ムササビの飛膜は前肢と首、後肢と尾の間にもある』。『また、ムササビの頭部側面には、耳の直前から下顎にかけて、非常に目立つ白い帯がある』(「口箸とがり」とあるが、実際には画像を見る限りではムササビはズングリとした丸顔ではある。しかし鼻部が有意に丸く突き出ており、また、この白帯紋があることから、顔は実際よりも見かけ上、尖って私には見える)。
ただ、この私の同定にははなはだ大きな問題がある。それは、これを見た「村の年寄」でさえ、誰一人として名指すことが出来ない=見たことも聴いたこともない「怪獸」だ、とした点である。同ウィキにも、『ムササビは、日本では古くから狩猟の対象であった』とし、『縄文時代では、青森県青森市に所在する三内丸山遺跡において、縄文集落に一般的なシカ・イノシシを上回るムササビ・ウサギが出土しており、巨大集落を支えるシカ・イノシシ資源が枯渇していたことを示していると考えられている』。『時代によっては保護の対象ともなり』、「日本後紀」には『ムササビの利用を禁ずるとする記述がある』。『特に、保温性に優れたムササビの毛皮は防寒具として珍重され、第二次世界大戦では物資が不足する中で、ムササビ』一『匹の毛皮は、当時の学校教員の月給に匹敵するほどの値段となった』。『被毛は筆の材料としても利用され、他にはない粘りと毛先に独特の趣がある』とある。これだけ古代から北の民が接してきたムササビを誰もムササビと名指せないというのは如何にもおかしい。或いは、頭部奇形或いは疾患を起こして有意に尖った面相がムササビに見えなかった、毛色や質も異なった変異個体であった(一晩、ある特定の成分を持つ植物の枯葉で燻されてしまった結果、毛が特異的に変質した可能性は大いにあるとは思う)というようなことか? 最後の弘前に持ちこまれたものは引き剝いだ皮だから「雷獸」(後注参照)としたのは頷けるとしても、村の老人が見たのは死んで半日も経たない完全個体である。また、後の「雷獸」の引用にも出る、食肉(ネコ)目イヌ亜目イタチ科イタチ亜科テン属テン 日本固有亜種ホンドテン Martes melampus や、食肉(ネコ)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata などは生態・形状などはここまで一致しないし、前者ならば毛皮の有用性はモモンガ以上に古くから知られて狩猟対象であったから、老人が名指すことが出来なかったはずはなく、また、後者のハクビシンは、私は近代以降の外来種と考えているから、そもそもが同定候補たり得ないのである。他に比定し得るより相応しい四足動物が存在するのであれば、御教授戴きたい。
「仕舞に」「しまひに」。遂には。
「黑白も分たざれば」「こくびやくもわかたざれば」。真っ暗闇になってしまったので。
「其まゝに捨置て」と言っても、忠吉はこの近くで野営したのである。だから、その「怪獸」が、その後に、何らかの別な動物に襲われ、例えば顔面や四足が損壊して尖ったり短かくなったりした、などという事態は考えにくいことになる。そうした事態があれば、その騒ぎが忠吉に聴こえ(それなりに彼は翌朝まで注意していたに違いない)、また、空洞の入口等に有意な痕跡が必ず残るはずであるからである)。しかし、「明る旦(あした)、鍵をさしのべてひきあけて見れば」とある通り、忠吉は樹上・樹下の通じている空洞(ほら)をその夜、木切れなどで完全に閉塞させており(さればこそ、先に可能性を考えた燻煙によるミイラ化のような変質はあったかも知れぬ)、封鎖した空洞はそのままの状態だったのである(「鍵をさしのべて」という表現が少し分らぬが、これは木片などで封じた「鍵」を「押し外して」の意で採った)。
「雷獸」。ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『雷獣(らいじゅう)とは、落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には「平家物語」において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書「玄同放言」では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌「駿国雑誌」によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書「和訓栞」に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書「信濃奇勝録」にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆「北窻瑣談」では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書「越後名寄」によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆「閑田耕筆」にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。「古史伝」でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典「類聚名物考」によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の「奇怪集」にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆「甲子夜話」によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』【2018年8月9日追記:前者は「甲子夜話卷之八」の「鳥越袋町に雷震せし時の事」。但し、原文では「獸」とのみ記し、「雷獸」と名指してはいない。しかし、落雷の跡にいたとあるので、雷獣でよろしい。後者は「甲子夜話卷之二」の「秋田にて雷獸を食せし士の事」で2016年10月25日に電子化注済み。】『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集「絵本百物語」にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシン』(ネコ(食肉)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata)『と共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」及び電子化注「甲子夜話卷之二 33 秋田にて雷獸を食せし士の事」もご覧あれかし。特に後者はロケーションが本話とすこぶる近い。]