甲子夜話卷之三 21 光秀の連歌、今愛宕になき事
3―21 光秀の連歌、今愛宕になき事
愛宕山にて明智光秀連哥のことは、世普く知ところにして、其時の懷紙、傳て彼の山房に有りと云。予今年、阪昌成に【連哥師】これを問たれば、寬政の末、彼山祝融のとき、此ものも燒失せりと。貴むに足ざるものなれど、舊物なれば惜むべきなり。又其時の百韻は、今に傳寫のものありと云。
■やぶちゃんの呟き
「愛宕」「あたご」。現在の京都府京都市右京区の北西部、かつての山城国と丹波国の国境にあった愛宕山(あたごやま/あたごさん)。
「愛宕山にて明智光秀連哥」「連哥」は「れんが」で「連歌」のこと。これは「愛宕百韻」「明智光秀張行(ちょうぎょう)百韻」「天正十年愛宕百韻」などと呼ばれる、かの「本能寺の変」(天正一〇年六月二日(一五八二年六月二十一日)早朝、の直前、この愛宕山で明智光秀が張行(「興行」に同じい)した連歌(会)のこと。ウィキの「愛宕百韻」によれば、同年五月二十四日(二十八日とも)、『明智光秀が山城国愛宕山五坊の一つである威徳院で、』長男明智光慶や家臣の東行澄(とうのゆきずみ)、当代きっての連歌師里村紹巴とその一門の里村昌叱、猪苗代兼如、里村心前、及び愛宕上之坊大善院住職の宥源、愛宕西之坊威徳院住職の行祐と『巻いた百韻である。発句は光秀の「ときは今
あめが下しる 五月かな」、脇は行祐の「水上まさる 庭の夏山」、第三は里村紹巴の「花落つる 池の流を せきとめて」。発句は、明智の姓の「土岐」をいいかけて、「雨が下」に「天が下」をいいかけて、主人織田信長の殺害という宿願の祈請のものであるといい、紹巴はこのために責問を受けたという。また発句の「あめが下しる」を「あめが下なる」に改めたという』とある。サイト「信長研究所」内の、「labo-12【本能寺の変探求委員会】 ■ 愛宕百韻」で全百韻が読める。
「普く知」「あまねくしる」。
「傳て」「つたへて」。
「阪昌成」底本は「阪」に「ばんの」と振るので、「ばんのしやうせい」と読むようである。
「寬政の末」寛政は一七八九年から一八〇一年。
「祝融」「しゆくゆう」は、もと、中国古代神話の帝王で「赤帝」と号したとも、帝嚳 (こく) の治世の火官であったともする。孰れにせよ、後に火神・夏を司る神・南方神・南海神とされるようになり、転じて回禄・火災の意味となった。寛政年間末期の愛宕山回禄の資料は見当たらないが、「山房」とあり、先の「愛宕百韻」の参加メンバーの二人の僧侶を考えると、焼けたのは明治の廃仏毀釈で廃された白雲寺系の社僧住坊と思われる。それにしてもなんデェ! 御利益ねえじゃねえか、愛宕サンよ!(ウィキの「愛宕神社」によれば、『火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として』、三『歳までに参拝すると一生火事に遭わないと言われる』とある)