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2016/12/20

北條九代記 卷第十 龜山院御讓位 付 蒙古の賊船退去 竝 東宮立

 

      ○ 龜山院御讓位  蒙古の賊船退去  東宮立

 

同十一年正月、主上、御年二十六歳にて、御位を太子に讓り給ふ。院號蒙らせ給ひ、龜山院と稱し奉る。三月二十六日、太子、寶位(はうゐ)に卽(つ)き給ふ。御年、初て八歳に成らせ給ふ。御母は藤原〔の〕左大臣實雄公の御娘(おんむすめ)なり。後に後京極〔の〕女院と號し奉る。九條〔の〕關白忠家公、攝政として、朝政(てうせい)を行はる。この時、後深草を本院と申し、龜山を新院とぞ申しける。同じき月に、筑紫(つくし)の探題、早馬を六波羅に立てて申しけるは、「蒙古の賊船、大將二人、大船三百艘、早船三百艘、小船三百艘、その人數、二萬五千、既に日本征伐の爲に纜(ともづな)を解きて押渡(おしわた)ると聞え候。御用心あるべし」とぞ告(つげ)たりける。これ、年來、數度(すど)、使者牒狀(てふじやう)を送るといへども、日本、更に返狀なきに依(よつ)てなり。禁中には、主上、仙院より、諸社に勅使を立てて、御祈念あり。諸寺の高僧に仰(おほせ)て祕法を行はる。關東より筑紫へ下知(げち)して、武備に怠(おこたり)なし。同十月に、蒙古の賊船、對馬(つしま)に寄來(よせきた)る。筑紫の武士等(ら)、集りて、防戰(ふせぎた〻か)ふ。蒙古の軍法(ぐんぱふ)、亂れ靡(なび)きて調(と〻のほ)らず、矢種(やだね)盡きければ、海邊(かいへん)所々の民屋を濫妨(らんばう)し、是を以て此度(このたび)の利として、軍(いくさ)を引きて漕歸(こぎかへ)る。日本の武士等も、攻破(せめやぶ)られざるを勝(かち)にして、軍は是にて止みにけり。同月、本院、後深草第二の皇子熈仁(ひろひと)を東宮に立てらる。主上には御年も二歳まで勝り給ふ故に、新院、龜山御在位の御時、東宮には先(まづ)、此宮をこそ立てらるべかりしを、後嵯峨法皇の叡慮、偏(ひとへ)に新院の御許(もと)におはします由を、大宮(おほみや)の女院より關東に仰せ遣されしかば、時宗、計(はからひ)奉りて、主上を御位に定めけり。是(これ)に依て、新院は御讓位の後も政務を知しめし、御心の儘に振舞ひ給ふ。本院は何事に付きても、少も綺(いろ)ひ給ふべき御心もましまさず。只、疾(とく)御飾(おんかざり)をも下(おろ)し、世を浮草(うきくさ)の風に任せて、御身をま〻に行脚し、諸國の靈地をも巡禮抖藪(とそう)せばや、と思召しける所に、北條時宗、計(はからひ)申して、熈仁親王を東宮に立て參(まゐら)せしかば、本院、深く喜悦の眉(まゆ)を開き、御落飾(おんらくしよく)にも及ばす、新院の御心も融(と)けて、本院と御中、よく成り給ひ、大宮の女院も嘉慶欣悦(かきやうきんえつ)斜(な〻め)ならず、 大平長久の寶運なりと、世の中、廣く、彼方此方(かなたこなた)、隔(へだて)なくぞ見えにける。これより後は、譲位卽位立坊(りつばう)の御事、皆、關東よりぞ計ひ申されけり。

 

[やぶちゃん注:標題の「龜山院御讓位」は「龜山院の御讓位」、「東宮立」の「立」は「だち」のルビが配されてある。

同十一年正月」前条後半の叙述上の時制に激しい不備があるので、「同」では厳密にはおかしい。文永十一年はユリウス暦一二七四年。

「主上」亀山天皇。

「太子」世仁(よひと)。ここで後宇多天皇となる。

「寶位(はうゐ)」皇位の尊称。

「藤原〔の〕左大臣實雄の御娘」従一位左大臣であった故洞院実雄(とういんさねお 承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年:山階左大臣。既注)の娘で亀山天皇皇后の佶子(きつし)。

「後京極〔の〕女院」増淵勝一氏の現代語訳もママであるが、これは、前にある「後の」からの衍字であって、「京極〔の〕女院」(京極院)でないとおかしい。「後京極院」というのは後醍醐天皇中宮西園寺禧子(きし)の、それも死後に改めて南朝側より追贈された院号(女院号)だからである。

「九條〔の〕關白忠家」(寛喜元(一二二九)年~建治元(一二七五)年)は九条教実の子で、延応元(一二三九)年に従三位。後、内大臣を経(但し、この間、建長四(一二五二)年に発生した了行による謀反事件に際し、九条家の関与が疑われ、従兄弟に当る鎌倉幕府第五代将軍九条頼嗣が解任され、忠家自身も同年七月に後嵯峨上皇の勅勘を受け、右大臣を解任されている)、この前年の文永一〇(一二七三)年に関白・藤氏長者・従一位に進んでいる。ウィキの「九条忠家によれば、『この就任の背景には忠家を勅勘した後嵯峨法皇が崩御したことを機に』、『息子・忠教の義兄である関東申次西園寺実兼から、当時の鎌倉幕府執権北条時宗に、忠家復権への支持の働きかけが行われた可能性が高く、朝廷内部の事情による人事ではなかったことがあったとみられている』。その証拠に、翌文永一一(一二七四)年正月に摂政に就任するも、同年六月には、早くも同職を辞職しており、その辞職の際も、『大嘗会の故実を知らないことを理由とし、更に三度の上表すら許されないなど、異常なものであったとされている』。しかしながら、『短い在任期間とはいえ』、『九条流継承の条件である「摂関就任を果たした」ことによって、九条家の摂家としての地位を確立させたことにより、その後の一族の運命を大きく変えることとなった』とある。

「同じき月」これでは、文永十一年三月となるが、これもおかしい。恐らくはクドゥン(忽敦)を総司令官として元軍が朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した(十月三日)後のことと思われ、ここは十月と読み換えるべきである。なお、クビライが日本侵攻を指示したのは一二七三年(文永十年)で、翌年、即ちこの年の一月にはクビライは昭勇大将軍洪茶丘を高麗に派遣、高麗に戦艦三百艘の建造を開始させている。同年五月には元から派遣された日本侵攻の主力軍一万五千名が高麗に到着、翌六月に、高麗は元に使者を派遣、戦艦三百艘の造船を完了、軍船大小九百艘を揃えて高麗の金州に回漕したことを報告している。侵攻軍総司令官クドゥンの高麗着任は八月である(後半部はウィキの「元寇」に拠った)。

「筑紫(つくし)の探題」鎮西探題。現在の研究では福岡市博多区祇園町にあったと考えられている。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「蒙古の賊船、大將二人、大船三百艘、早船三百艘、小船三百艘、その人數、二萬五千、既に日本征伐の爲に纜(ともづな)を解きて押渡(おしわた)ると聞え候。御用心あるべし」ウィキの「元寇」によれば、総司令官クドゥン以下、『漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍』(この副将を「大將二人」と数えたか)一万五千から二万五千名の『主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍』五千三百から八千名、それに水夫(かこ)を含むと、実に総計で二万七千から四万名を乗せた、七百二十六から九百艘の軍船という大群であった。現在の知見から見ても、ここに記され数値はすこぶる穏当である。

「主上」後宇多天皇。

「仙院」上皇のこと。ここは後深草院(本院)及び亀山院(新院)の二人を指す。

「同十月に、蒙古の賊船、對馬(つしま)に寄來(よせきた)る」元軍は十月五日、対馬の小茂田浜(こもだはま:長崎県対馬市厳原(いずはら)町小茂田)に初侵攻した。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「元寇」によれば、「八幡愚童訓」(鎌倉中後期に成立したと思われる八幡神の霊験や神徳を説いた寺社縁起。本「北條九代記」の依拠する作品の一つ)『によると、対馬守護代・宗資国』(そう すけくに)『は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた』。そのうち七、八艘の大型船より千名ほどの『元軍が上陸したため、宗資国は』八十余騎で『陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも』四人を『射倒すなど奮戦したものの、宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦』(小茂田地区の旧称)『を焼き払ったという』。『同日、元軍の襲来を伝達するため、対馬勢の小太郎・兵衛次郎(ひょうえじろう)らは対馬を脱出し、博多へ出航している』。「高麗史」の「金方慶傳」によると、『元軍は対馬に入ると』、『島人を多く殺害した』。『また、高麗軍司令官・金方慶の墓碑』「金方慶墓誌銘」にも『「日本に討ち入りし、俘馘』(ふかく)『(捕虜)が甚だ多く越す」『とあり、多くの被害を島人に与えた』。『この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている』(「高祖遺文錄」の日蓮書状より)。――去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古國ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、對馬ノ者、カタメテ有シ總馬尉(さうまじよう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)。――『この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている』。『この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた』。『同様に元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女』二百人を『高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)に献上している』(下線やぶちゃん)。以下、筆者は文永の役の惨状を何故か、語らない。されば、くだくだしく注するのもなんであるが、ウィキの「元寇」の「文永の役」の項の「壱岐侵攻」(十月十四日)・「肥前沿岸襲来」(同月十六~十七日)、「博多湾上陸」(同月二十日)から「赤坂の戦い」及び「鳥飼潟の戦い」(以上の二戦闘が「文永の役」の主戦闘とされる)等は必読であろう。

「筑紫の武士等(ら)、集りて、防戰(ふせぎた〻か)ふ」ウィキの「元寇」によれば、「八幡愚童訓』」では『鎮西奉行の少弐氏や大友氏を始め、紀伊一類、臼杵氏、戸澤氏、松浦党、菊池氏、原田氏、大矢野氏、兒玉氏、竹崎氏已下、神社仏寺の司まで馳せ集まったとしている』とある。

「蒙古の軍法(ぐんぱふ)、亂れ靡(なび)きて調(と〻のほ)らず、矢種(やだね)盡きければ、海邊(かいへん)所々の民屋を濫妨(らんばう)し、是を以て此度(このたび)の利として、軍(いくさ)を引きて漕歸(こぎかへ)る」ウィキの「元寇」によれば、これらの主戦闘に於いて終日、激戦が繰り広げられたが、『元軍は激戦により損害が激しく軍が疲弊し、左副都元帥・劉復亨が流れ矢を受け負傷して船へと退避するなど苦戦を強いられ』、『やがて、日が暮れたのを機に、元軍は戦闘を』解いて帰陣した。「高麗史」の「金方慶傳」には、『この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍司令官である都督使・金方慶と元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)や右副都元帥・洪茶丘との間で、以下のようなやり取りがあった』とする。金方慶が(以下、注記号を除去した)、

――『「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、我が軍は自ずから戦うことになる。これは秦の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい」』

と戦闘の継続を強く主張すると、総司令官クドゥンは、

――『「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」』

と答えたという。『このような議論があり、また左副都元帥・劉復亨が戦闘で負傷したこともあって、軍は撤退することになったという。当時の艦船では、博多-高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで』一ヶ月も『掛かることもあった(朝鮮通信使の頃でも夜間の玄界灘渡海は避けていた)』。『このような条件の下、元軍は夜間の撤退を強行し海上で暴風雨に遭遇したため、多くの軍船が崖に接触して沈没し、高麗軍左軍使・金侁が溺死するなど多くの被害を出した』。『元軍が慌てて撤退していった様子を、日本側の史料』である「金剛仏子叡尊感身学正記」(こんごうぶつしえいそんかんしんがくしょうき:鎌倉時代に真言律宗を開いた僧侶叡尊の自伝)は、『「十月五日、蒙古人が対馬に着く。二十日、博多に着き、即退散に畢わる」と記している』。「身延中興の三師」のひとりに数えられる室町時代の日朝の「安国論私抄」に『記載されている両軍の戦闘による損害は、元軍の捕虜』二十七人、首級三十九個、『その他の元軍の損害を数知れずとする一方、すべての日本人の損害については戦死者』百九十五人、『下郎は数を知れずとある』。その後、十一月二十七日に『元軍は朝鮮半島の合浦(がっぽ)まで帰還した』とある。

「同月」良心的に前の私の修正を受けても、これでは文永一一(一二七四)年十月としか読めないのであるが、これも年も月も完全な誤りである。「本院」後深草院が第二皇子である「熈仁(ひろひと)」を東宮に立て」たのは、建治元(一二七五)年十一月五日である。この立太子は、亀山上皇(後の大覚寺統)で天皇が続くことを不満に思った後深草上皇(後の持明院統)が幕府に働きかけた結果の、幕府の斡旋によるものであった。

「大宮(おほみや)の女院」後嵯峨天皇中宮西園寺姞子(きつし)。

「抖藪(とそう)」既出既注であるが、再掲しておく。「抖擻」とも書く。梵語“dhūta”の訳で音字は「頭陀」。衣食住に対する欲望を払い除けて身心を清浄に保つこと、また、その修行を指す。

「嘉慶欣悦(かきやうきんえつ)」この上もない慶事にして喜ばしく、最上の歓喜に値いすること。]

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