明恵上人夢記 53
53
一、廣博にして嚴麗(ごんらい)なる大きなる殿有り。海邊の山水殊勝也。此處より、住房は北の方に當れり。心中に、住處は即ち賀茂の山寺也と覺ゆ。
[やぶちゃん注:クレジットがない。「52」と連続するものと仮定するなら、次の「54」が「建保七年正月」とあるから、建保六(一二一八)年九月十三日以降の同年内の夢とすることは出来る。前後の夢との極端な違いは認められず、寧ろ、位置的な問題(この心象に於ける「賀茂の山寺」という感じと、「54」の「京の邊近き處に住房有り」とあるロケーションの面)と、住房の夢という共通性からは後者「54」との親和性が強いようにも思われる。
「廣博」]「こうはく」であるが、古くは「こうばく」とも読んだので、後者で採る。現行では「学識が広いこと」「該博」の意で專ら用いられるが、ここは物理的空間的に広々としていることを意味する。
「嚴麗」「嚴肅華麗」か。厳(おごそ)かにして高貴な美しさに満ちているさまと採る。
「賀茂の山寺」これは先の「51」に出た、「圓覺山(ゑんがくざん)の地」、現在の京都市北区上賀茂本山にある賀茂別雷神社(通称は上賀茂神社)の後背地である仏光山のことと思われる(因みに、ここは同社の磐座(いわくら)があるとされる神域でもあった)。そこで注したように、塔尾の麓に神主能久が建てて、明恵に施与した僧坊がそこにはあった。東昇氏の論文『「郡村誌」からみた明治 16 年(1883)頃の上賀茂村の様子』(PDF版)に載る同郡村誌の中に(恣意的に漢字を正字化した)、
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佛光山塔尾址<村ノ東北ニアリ、建保六年戌寅賀茂社主能久僧明惠ニ屬シテ創建スト、其後承久ノ役能久官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラル、僧明惠京西栂尾山ニ歸栖シ、其房舍ヲ轉移ス>
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と出る。但し、この地名は現在、消失している模様でネット検索に掛からず、国土地理院の地図も見たが、見当たらない。従ってこの地名、「とうのお」「とうお」「とおの」などの読みは不明である。この賀茂別雷神社の神主「能久」は松下能久(よしひさ)なる人物で、サイト「京都風光」のこちらのページには、一説に賀茂別雷神社は、この前年の建保六(一二一七)年に後鳥羽院からこの松下能久が神託を受けて創建し、上賀茂神社の神主なったという説もあるとある。この松下能久なる人物は他の論文資料に、後鳥羽院の皇子を預かり、その皇子は後に同神社の上位神主氏久となったとあるから、『官軍ニ從ヒ兵敗レテ捕ヘラ』れたというのも納得がゆく。また、「栂尾明恵上人伝記」のこちら(私の電子化注テクスト。そこの注も参照されたい)によれば(下線太字やぶちゃん)、
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同六年〔戌寅〕[やぶちゃん注:建保六(一二一八)年。]秋、聊か喧譁(かまびすし)き事有るにより、栂尾より賀茂(かも)の神山(かみやま)に移り給ふ。塔(たふ)の尾(を)の麓に四五間の庵室を結び、經藏一宇を立て、神主能久(よしひさ)之を施與(せよ)し奉る。是に暫く住み給ひけり。或人の許より、栂尾を住み捨て給ふ事なんど、歎き訪ひ申したりしかば、
浮雲は所定めぬ物なればあらき風をもなにかいとはん
此の處をば佛光山(ぶつくわうざん)と名つけ給ひける。爰に一年計り栖み給ひて、同法達(どうばうだち)を留守に置き、又栂尾へ歸り給ふ。
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とある。即ち、まさに私が想定した、本夢の閉区間内(建保六(一二一八)年九月十三日以降の同年内)に於いて明恵は、この「賀茂の山寺」へ移り、一年をそこで、「聊か喧譁」きことから遠く離れて」心静かに過ごしたのである。とすれば、この夢はその「賀茂の山寺」へ移る直前か、或いはその転住直後の明恵の心境を反映したものと採れる。その豪壮な殿宇は、京の都の内裏という政治的喧噪のシンボルであり、そこから「精神的に遠く離れた」「北の方」なる「賀茂の山寺」こそが安静安住の棲家であるという強い覚悟の表象がこの夢なのではなかろうか?]
□やぶちゃん現代語訳
53
こんな夢を見た。
……非常に広大にして厳粛さと華麗さを兼ね備えた大きな殿宇がある。そこは海辺であって、しかも山水の景勝の地であった。その殿宇のあるところから、北の方に私の住房はあるのであった。しかし乍ら、私は心中に於いて、
『私の住まうべき処は、即ち、かの賀茂の山寺を措いて他には、ない。』
と明瞭に感じていたのである。
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