甲子夜話卷之三 15 當上樣、諸葛亮の御繪の事
3-15 當上樣、諸葛亮の御繪の事
當御代、御慰に、紺地に金泥を以て、諸葛亮の像を御筆に畫せられ、御自贊をもあそばされて、吹上の瀧見の御茶屋とか申に掛させられて、御遊のとき、良久くこれを御覽の後、御歎息の體にて、今は斯人の若き者の無きはよと上意あり。又莞爾と御わらひ、是もまた上に玄德のなき故によと仰有しと。正しく奧勤の人の、御側にて窺奉しを竊に聞く。いと難ㇾ有御事なり。
■やぶちゃんの呟き
「當上樣」「たううえさま」。第十一代将軍徳川家斉。
「諸葛亮」(一八一年~二三四年)は三国時代の蜀漢の政治家・戦略家。字は孔明。徐州琅邪(ろうや)郡の陽都(現在の山東省沂水県)の出身。豪族の出であったが、早く父と死別し、荊州(湖北省)で成人後、名声高く、「臥竜(がりょう)」と称せられた。二〇七年、魏の曹操に追われて荊州に身を寄せていた劉備玄徳から「三顧の礼」をもって迎えられ、天下三分の計(劉備が荊州と益州を領有し、劉備・曹操・孫権とで中国を大きく三分割した上で孫権と結んで曹操に対抗し、天下に変事があった際に部下に荊州の軍勢を率いて宛・洛陽に向かわせ、劉備自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃することにより曹操を打倒し、漢王朝を再興出来るとした)説いて、これに仕えた。
「畫せられ」「かかせられ」。
「吹上の瀧見の御茶屋」現在の皇居の御苑にあった、江戸城内の庭園の茶屋。ウィキの「吹上御苑」によれば、『江戸城築城後』、ここには『番衆・代官衆や清洲藩の松平忠吉の屋敷地があり、その後は徳川御三家の大名屋敷が建築された』が、明暦三(一六五七)年一月に発生した「明暦の大火」で全焼、当時、『財政難であった幕府は』、『ほぼ壊滅状態であった江戸復旧に際し』、『都市の再建を優先』し、『このあたりは江戸城への類焼を防ぐための火除け地として日本庭園が整備される運びとなった』とある。
「申に」「まうすに」。
「良久く」「ややひさしく」。しばらくの間。
「體」「てい」。
「今は斯人の若き者の無きはよ」「いまは、このひとのごときものはなきよ」。「今はもう、この人のような名臣たる者はおらぬことよのぅ。」。
「是もまた上に玄德のなき故によ」「これ(名臣不在)もまた、上に劉備玄徳のようなる君子たる主君がおらぬゆえであることなればじゃのぅ。」
「仰有し」「おほせありし」。
「正しく」確かに。「聞く」に係る。
「奧勤」「おくづとめ」。
「窺奉し」「うかがひたてまつりし」。
「竊に」「ひそかに」。
「難ㇾ有」「有り難き」。勿体ない。