谷の響 四の卷 廿一 一夜に家を造る
廿一 一夜に家を造る
又此玄德寺の話に、同登の時越後國砂戸(すなと)村と言ふに投宿(とまり)けるに、其宿に戸鍵といふはあらざれば不審(いぶかし)くて主に問(たづ)ぬるに、主の言へる是にはいと奇(めづ)らかなる説話(はなし)のありき。そは長譚(ながきものがたり)なれど旅の慰に聞玉へとて語りけるは、然(さて)この村の先なるも砂戸村といふて此村の原邑(おやむら)なりしが、其處の百姓其の子二十三年以前(まへ)に家を出て天狗になりしとて、此四年前それが親疾病(たいべう)の時存問(みまひ)に來りし事ありしが、既に年は四十近くになれど宿昔(むかし)十八歳にて家を出たる顏のごとしと。さるに話は二刄(ふたは)になれどよく聞れよとて語りけるは、公田某邑に觀音堂ありてこは由緣ありて將軍家(こうぎ)の御修造なりけるに、數十年の間修理(ていれ)もなきゆゑ朽頽に及びぬれど、御修補の御許しもなくさりとて尋常(なみなみ)ならぬ造營(ふしん)にしあれば、自分(みづから)の手に及び難くて一兩年も過つるが、こゝに此社司に勤るものありて言へりけるは、觀音堂の山中なる温泉(いでゆ)は名湯と言ふ。殊に四方の通路もよければ此土(ところ)に好き舍(いへ)を建て闢(ひら)かんに、浴する人も多かめれば決(きめ)て年々興旺(はんじやう)して御堂修補の料物は生れぬべし。賴(さいは)ひ柏崎にとり係ると言ふものあれは、年限を定めて讓り玉へとあるに、いと好きことなれば其商議(さうだん)に決定(きはめ)て三年にて金千兩に交附(うりわた)しき。されば貿(かひ)得たるもの、温泉の修理(ていれ)は元より宿舍(やどや)などいと莊麗(きらゝか)に建連ね、且(また)娼妓(あそびめ)なども數多抱へたるに數百人のもの寄集(つど)ひて謳ひつ舞ひつ日に興隆(はんじやう)は增りける。さるに其年の九月の下旬(すゑ)に至り、人も多からざるが一(ある)夜戌近くなりて卒(にはか)に大風樹を拔き大雨篠を亂し客舍不殘(みな)搖り動きしかば、宿れるものども一個(ひとり)も居耐得で衆(みな)この社司が家に脱(にげ)來りて恐ろしき夜を明かしけり。かくて風稍々(やや)收り雨も歇て靜に夜も開ぬれば、温泉地に至りて視るにさしも莊麗(きらゝか)に建列ねたる數十軒の客舍迨(およ)び湯壺の石猿篗(いしわく)踏石まで、たゞの一片も存(のこ)れるものなく宛爾(さながら)大水の址(あと)を見るが如くに地を拂へり。また其温泉は壁苗代の如く太(いた)く渾濁(にご)りて有りけるに、見る者憫然(あきれ)て膽を潰さざるはなくたゞ人に過傷(けが)なきを怡び居るのみなりき。
左有(さる)に、此温泉を買ひたる柏崎の者共社司に申しけるは、造作(ふしん)及諸々(もろもろ)の費(つくなひ)已に千金餘りの損毛にて、望子(もとで)を失ひ家眷(かない)養育(はぐくむ)術(すべ)ければ、萬乞(どうぞ)五百金返し玉はるべしと歎きけれども、この金は經營(ふしん)の手當に大略(あらあら)拂ひ盡せれば返すといふ事にもいたり不得(かね)、左右(とかく)謀慮(しあん)をめぐらし言へりけるは、甚麼(いづれ)好しく計ふべき旨趣(むね)もあれば四五日の間扣へらるべしとて、自ら山中に至り大音聲にて申しけるは、神にもあれ天狗にもあれよく某が言ふ事を聞れよ、そも當山は鎭守觀世音の境裏(けいだい)にして、忝も將軍家の御朱印を賜りたる地なり。然るに御堂破損に及ぶといへども御修覆の御沙汰御遲延に相成、彌々廢頽に至れるを歎くところに、得落(さひわひ)にして温泉の望人(のぞみて)あるによりて御堂修造(とりたて)の料物も調ひたれば、彼に許して温泉場を闢墾(ひらか)せしものなり。もとこれ御堂再建の故にして吾が私の爲にあらず。然(さ)るに斯の如く狼藷に及びぬること言語同斷の擧動(ふるまひ)なれば、今より將軍家に訴へ樹を伐盡し山中殘らず燒拂ふべし[やぶちゃん字注:「言語同斷」の「同」はママ。]。此段申し延ん爲め特々(わざわざ)推參いたしたり、覺悟あれよと言ひ捨て歸りたりき。さるに其翌くる日社司が玄關に案内するものあり。客室(ざしき)に通して對面するに、記年(とし)十八九歳ばかりの修驗の容貌にして軒刺(りゝしき)ものなるが、吾は山住明神の御使なり。足下(そこもと)に憑(たの)みたきことありて來れるなりといふ。社司の曰く、山住明神とは孰れに住まはせ玉ふ御神にて、什麼(いづれ)の鎭守にましますぞ。修驗應(こた)へて、氏子なければ鎭守といふにあらざれど、この温泉(ゆ)の山の中に數百年住せ玉ひたるなれば、汚穢(けがれ)を拂ふも自らの區中(くるは)の如くなしつるに、以近(このころ)温泉を闢くからに不淨の俗人多く聚(つど)ひ、花を摘み菜を摘るとて神の區中を近く荒らし、且(そこへ)娼妓などいふ淫(たは)れたる者までもありて、あらぬ淫奔(きたな)き行を爲せり。明神いたく忌せ玉へれば、眷屬(したがふ)神等見るに堪えで斯の如く破却たるなり。原來(もと)これ明神の爲さしめたる行にあらず。さるに足下(そこもと)こを憤りて將軍家の武威をかりて燒拂はんとす。明神のいたく歎かせ玉ふ處なれば、その憤りを和(なご)めん爲に吾を使に越(こ)されしなり。こを了諾(しやうち)し玉はゞ今宵のうちに舊(もと)のごとく修造してまゐらすべしとありければ、社司が曰、實(まこと)しからんには商議(さうだん)すべしとて先づこれを皈らしめ、柏崎の者にかゝることありと語りければ、柏崎の者も詮(せん)術(すべ)なき時なれば不審ながらその事に究(きは)まりぬ。かくてその翌る日、かの修驗の來るを待て了諾(しやうち)の旨趣(むね)を聞かせければいと歡喜(よろこび)て歸りけるに、その夜又風雨して凄しく荒れたるから、あくる旦(あした)社司と柏崎の者と俱に温泉の地に至りて見れば、言ひしに違(たが)はで湯覆(ゆぎち)はじめ數十軒の寄舍(ちやゝ)舊(もと)の如くに建續き、紙門(ふすま)戸障子踏檀の果迄些(すこし)も缺くる處なかりければ、視る者再び愕き舌を卷たるばかりなり。さるから此の事泉宇(よのなか)に廣く話説(はなし)ありければ、聞くもの怪しきことにおもひけるにや、以前(さき)の如く繁開(にぎやか)にならざりしが、程なく三年の年限も濟みぬれば柏崎のもの共は客舍を引はらひて、今は往古(むかし)のごとく成りしなり。
さてこの社司の了諾に及びし時、修驗謝して申しけるは、何なりとも所望(のぞみ)あらば叶ひ得させんとあるに、社司戲れながら吾が氏子の村々にて戸鍵さゝずとも盜賊の患なくば足りぬべく、また吾に長く薪を贈りなば此上なき慶(よろこび)なりと演(のべ)ければ、いと易き事なりと諾ひて歸りけり。さるに、其后盜兒(ぬすびと)ありてある家に入り、着類を搔きさらひ荷作りして背負たれども、その家を出る事ならで遂に黎旦(あけかた)に及びて家内の者に見咎められ、いたく縛ばられたるものありけるが、又後に這入りし盜兒(もの)も四五人あれど、みなかくその家を脱走(にげ)得ずして囚れとなりしなり。夫よりこの社司の氏子なる村々は、戸鍵を鎖(さ)さずとも盜賊の患なければ、見らるゝ如く戸鍵はあらざるなり。又火ひとつ水一盃のものなりとも、そが家に告げずして用ふる時は、同じくその家を出る事ならざるは今猶爾(しか)なり。又此の社司薪盡ぬれば裏に出て手を叩くに、その夜のうちに半卷(まき)ばかり積おく事每々(つねつね)なりしが、こは此社司一代の約束の由にて、今の社司の代よりはその事なし。
さてこの修驗はしめて社司と對面の時、社司熟々山伏の相貌を見るに、どこか認得(みしり)のあるやうに思はるゝ故その由を問ぬるに、山伏應(こた)へて、さればとよ我は上砂戸村某の子にて二十年以前十八歳の時なるが、山に入りて神に仕へ今では大概自在を得れど、十八年火食の穢今に脱れずして空中の飛行なり難けれど、樹より樹に遷移(うつ)る事は七里ばかりの間は交睫(またゝ)くうちに至れるなりとあるに、社司申しけるは、さほど通力を得たる事ならば足下(そこもと)の父の病氣を知れりやと問ふに、とくその事は知りてあれど未だ省(みまひ)する時至らず。併(しか)し今二十日ばかりの間なればその時また謁見(おめにかゝる)べしとて歸りけるが、果してその日限になりて親の存問(みまひ)に來りしとて家内親屬いと悦び、長く留住(とゞめ)んとてくれぐれ言へども、神の祟(たゝり)を聞かして諾はず、五六日逗留して歸りしなり。さて此の滯留中火食することなく、皆生にて喰ひしかど、魚肉はもとより野菜と言へども汚れあるものは忽ち知りて口に入るゝ事なし。さるにその父病も癒えたりければ、年々正月元日には祝儀に來りしが、二三年さき親死してより已降(このかた)は來らざりしなり。戸鍵をさゝぬはこの故とて、長々しく物語れるとか。こも玄德寺物語りしなり。
[やぶちゃん注:情報提供者が前の「二十 天狗人を攫ふ」と同一の「玄德寺」住持であること、内容にやはり「天狗」のようなるものに「攫」われて山神の手下となり、天狗のようなる秘術を執り行うという点、冒頭自体が「又此玄德寺の話に」とある直後に「同登の時」の体験とすることからも(「同登の時」は「おなじきのぼりのとき」で「二十 天狗人を攫ふ」で、話者の玄徳寺住持が「弘化午の」三「年」(一八四六年)に本山である京の西本願寺で修行をするために上洛した時、の謂いである)、前話と全く同時期に採取したものとも思われる。
「越後國砂戸村」不詳。後の業者が現在の新潟県柏崎市であるから、そこからさして遠くない山間部と思われるが、「砂戸」という地名自体を現認出来ない。さらにこの砂戸村の最も最初からあった起源となる「原邑(おやむら)」=親村=原村(げんそん)である狭義の砂戸村の近くにある、本話柄の大事なロケーションたる観音堂は江戸幕府将軍の直命によって造られたとし、後の展開からも、その観音堂及び社祠及びその背後に広がる森の神域・境内は悉く幕府直轄領であると考えるのが自然である(「御修補の御許しもなく」とあり、後半で社司が山神に言上げする最後通告の内容(「將軍家の御朱印」(公の認定書)「を賜りたる地」その他)もそれを明確に示唆している)。そもそもが、本文にもその原村の近くにあるその村に名を「公田某邑」(くでんなにがしむら)としているのは、恐らくは中古或いは中世頃、かつてはここが京の朝廷・公家或いは武家の公田であったことを意味しているからでもある(但し、ここは当寺は既に「公田」ではなく、地名としてのみ残っている可能性が高いようには思われる)。にも拘らず、場所が特定出来ないのはすこぶる不審なのである。新潟柏崎周辺の郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。廃仏毀釈でなくなっているかも知れぬが「觀音堂」があったか或いはある所で、その「山中」には「名湯と言」われる「温泉(いでゆ)」がある所、「殊に四方の通路もよ」い場所である。どうか、よろしくお願い申し上げる。
「戸鍵」「とかぎ」後を読むと分かるが、家屋に戸締り用の鍵総てが存在しないである。
「某」ここは「なにがし」と訓じておく。
「二十三年以前(まへ)」弘化三(一八四六)年からだから、文政六(一八二三)年となる。
「此四年前」天保一三(一八四二)年。
「疾病(たいべう)」二字へのルビ。「大病(たいびやう)」。歴史的仮名遣は誤り。
「存問(みまひ)」二字へのルビ。「見舞ひ」。
「宿昔(むかし)」二字へのルビ。
「二刄(ふたは)」二つの一見、別な話。
「朽頽」「きうはい(きゅうはい)」。
「興旺(はんじやう)」二字へのルビ。
「料物」「れうもつ(りょうもつ)」。費用。
「建連ね」「たてつらね」。
「數多」「あまた」。
「寄集(つど)ひて」「よりつどひて」。
「增りける」「まさりける」。
「戌」「いぬ」。午後八時頃。
「不殘(みな)」二字へのルビ。
「居耐得で」「ゐたへえで」。屋内で退避して凝っとしていることにも耐えられず。
「收り」「おさまり」。
「歇て」「やみて」。
「靜に」「しづかに」。
「開ぬれば」「あけぬれば」。
「温泉地」「ゆち」と読んでおく。
「石猿篗(いしわく)」三字へのルビ。湯船の石で囲った枠。
「其温泉」「そのゆ」。
「壁苗代」「かべなはしろ」「壁」は壁土に用いたことから「泥(どろ)」の謂いで、稲を植える際のどろどろの苗代の意。
「太(いた)く」ひどく。
「渾濁(にご)りて」二字へのルビ。
「怡び」「よろこび」。
「損毛」「損耗」。
「望子(もとで)」二字へのルビ。「元手」。
「萬乞(どうぞ)」二字へのルビ。どうか、後生なれば。
「五百金返し玉はるべし」既に三年間貸与という期限附きで千両が社司に支払われているが、そのせめて半分を返還して貰いたいというのである。この損壊事故は温泉落成から未だ半年も経っていないものと思われ(契約成立と温泉宿落成の「其年の九月」とあるからである)、当時としては、この要求は必ずしも不当とは思われない。
「經營(ふしん)」「普請」。観音堂と祠の修理。
「大略(あらあら)」二字へのルビ。
「不得(かね)」二字へのルビ。
「左右(とかく)」二字へのルビ。
「謀慮(しあん)」二字へのルビ。「思案」。
「甚麼(いづれ)好しく計ふべき旨趣(むね)もあれば四五日の間扣へらるべし」「扣へ」は「ひかへ」(控へ)。「ともかくも、そうさ、近いうちによきように計らうこと、今、我ら、内々に思う所あればこそ、どうか、四、五日の間、お待ち下されたい。」。
「大音聲」「だいおんじやう」。
「某」「それがし」。
「聞れよ」「きかれよ。
「忝も」「かたじけなくも」。
「相成」「あひなり」。
「彌々」「いよいよ」。
「得落(さひわひ)」「幸(さひはひ)」。歴史的仮名遣は誤り。
「温泉」「ゆ」と当て訓しておく。以下で同様の訓が振られているからである。
「望人(のぞみて)」「望み手」。
「修造(とりたて)」二字へのルビ。
「彼」「かれ」。締約した柏崎の業者。
「温泉場」ここは「ゆば」と当て訓しておく。
「伐盡し」「きりつくし」。
「燒拂ふべし」「やきはらふべし」。焼き払わんとぞ思う。
「延ん」「のべん」。「述べん」。
「翌くる日」「あくるひ」。
「案内するものあり」訪ねて来た者がある。
「記年(とし)」二字へのルビ。
「修驗」前話に徴して以下総て「やまぶし」と訓じておく。
「軒刺(りゝしき)もの」二字へのルビ。「凛々(りり)しき者」。
「山住明神」「やまずみみやうじん」。
「御使」「みつかひ」。
「足下(そこもと)」二人称。当時は武士が使った。そなた。
「憑(たの)みたきこと」「賴みたきこと」。
「氏子なければ鎭守といふにあらざれど」これはその「山住明神」なる神が人間によって祀られたものではないことを意味する。
「温泉(ゆ)」二字へのルビ。以下、総てかく読む。
「住せ玉ひたる」「いませたまひたる」と訓じておく。「います」は「居る」の尊敬語で、最高敬語として採る。
「區中(くるは)」「廓(くるは)」。支配域。神域内。
「且(そこへ)」「其處(そこ)へ」。
「淫(たは)れたる者」「戲(たは)れたる」。忌まわしくも異性とみだらな遊びを致すような者。遊蕩者。
「淫奔(きたな)き」二字へのルビ。
「行」「おこなひ」。
「忌せ玉へれば」「いませたまへれば」。不浄なる穢れとしてお遠ざけ、お嫌い遊ばされたによって。
「眷屬(したがふ)」二字へのルビで、ここはこれで動詞「從ふ」で当て訓しているのである。
「破却たるなり」「やぶりたるなり」と当て訓しておく。
「原來(もと)」二字へのルビ。
「行にあらず」「おこなひにあらず」。ここで彼は、温泉場の完膚なきまでの破却は、明神自身の怒りとして成したのではなく、それに従う眷属(明神が支配する下級の自然神)が明神が忌避感を強くお持ちであることを慮って、独自にやった仕儀であると言っているのである。
「使」「つかひ」。
「越(こ)されしなり」寄越されたのである。
「實(まこと)しからんには商議(さうだん)すべし」「今、申したことが、まっこと、その通りであるのであるなら、こちらも今少し、伐採・焼却の御願いを出だすを猶予し、仲間と相談致そうぞ。」。
「皈らしめ」「かへらしめ」。「歸らしめ」。帰らせ。
「その事」明神の使者の言に取り敢えず従うこと。
「待て」「まちて」。
「凄しく」「はげしく」と訓じておく。
「湯覆(ゆぎち)」湯口(ゆぐち:源泉の吹き出すところ)か?
「寄舍(ちやゝ)」「茶屋」。
「建續き」「たてつづき」。
「紙門(ふすま)」「襖」。
「踏檀」「ふみだん」「踏み段」階段などの踏んで上り下りする階段や段。
「の果迄」「のはてまで」。に至るまで。
「卷たる」「まきたる」。
「さるから」「然るから」。接続詞で、この場合は逆接で、「しかしながら」。
「泉宇(よのなか)」二字へのルビ。「泉」は不審。
「患」「わづらひ」。惧れ。
「薪」「たきぎ」。
「演(のべ)ければ」「陳べければ」。申し立てたところ。
「諾ひて」「うべなひて」。
「其后」「そののち」。
「盜兒(もの)」二字へのルビ。
「着類」「きもの」と当て訓しておく。
「背負たれども」「せおひたれども」。
「その家を出る事ならで」次の「みなかくその家を脱走(にげ)得ずして」「又火ひとつ水一盃のものなりとも、そが家に告げずして用ふる時は、同じくその家を出る事ならざる」とともに、ここがまた、実に面白い怪異である。映像を想像されたい。
「黎旦(あけかた)」ルビはママ。夜明け方。
「囚れ」「とらはれ」。
「夫より」「それより」。
「半卷(まき)」「はんまき」であるが、不詳。或いは「半薪」で薪一束の半分の分量ということかとも考えたが、それでは如何にも神霊の所為としてはショボ臭い。一年分必要な量の半分とでもとっておく。
「積おく」「つみおく」。
「はしめて」ママ。「初めて」。
「熟々」「つくづく」。
「認得(みしり)」二字へのルビ。
「問ぬるに」「たづぬるに」。
「穢」「けがれ」。俗世間で生活した十八年間で身に染みてしまった穢れ。
「脱れずして」「のがれずして」。抜けないために。
「七里」二十七キロ四百九十メートル。
「交睫(またゝ)くうちに」二字へのルビ。「瞬くうちに」。
「とく」早くから。
「省(みまひ)する」「見舞ひする」。
「今二十日ばかりの間なればその時また謁見(おめにかゝる)べし」「今から二十日ほど経ったならば、父上にもお目に懸かり、お見舞い致すこと、これ、出来申そう。」。今回の使者としての役目を成し遂げたことで、山住明神から近々、特別に実父見舞いを許されることとなっている、というようなニュアンスであろう。
「日限」「にちげん」。彼がそう言った、まさに二十二日後。
「存問(みまひ)」二字へのルビ。「見舞ひ」。
「留住(とゞめ)ん」二字へのルビ。
「諾はず」「うべなはず」。
「汚れ」「けがれ」。
「二三年さき」宿屋主人の語りの時制が弘化三(一八四六)年であるから、その二、三年前。逆にその頃まで、この四十を超えているにも拘らず、十八ほどの年恰好にしか見えぬ凛々しい若者姿の彼は、毎正月になると、実父に新年の挨拶に実際に訪ねていた、それを宿屋主人も見かけたというのである! 最後の最後にリアルな描写である。
「玄德寺」先の玄徳寺の住持。]