芥川龍之介 手帳6 (10)
○天心第一女子師範學校 古稻田 white in black. 附屬幼稚園 附屬高等小學校 國民學校 green in wood. 門内はイボタの生垣 右美育園 草花 ○縫紉 樂歌 作文 國文 手工 硯墨 石磐 一齊に答ふ 〇二階 裁縫室 圖書室 女子白話旬報(机上) 石膏の果物 圖書少 用器畫の形 一級より二人を出し整理す ○議事會辨公室 董事禽辨公室――小學義會 ○不要忘了今日 我校的運動會(verse libre) ――小學作文 ○自治週刊 文會週報○study, essay, story, poetry. ○私有財産Vermögen――Copy from a book. 新國語(Peking 來) ○寄宿舍 rape があるといけませんから ○蒙養部 白壁四方 柘榴 無花果 ブランコ 遊動圓木(touching) 製作(貼紙) ダンベル ボオト 木馬 ブラン(藤の) 砂(大箱中)
[やぶちゃん注:「天心第一女子師範學校」「附屬高等小學校」及び「rape があるといけませんから」は先に引いた「雜信一束」の「七 學校」に出る。
「white in black.」不詳。「古稻田」が黒で、その中に「天心第一女子師範學校」の白い建物があるという景観を描写したものか?
「green in wood.」これは、「附屬幼稚園」「附屬高等小學校」「國民學校」の方は木立或いは林か森の中に緑色の建物としてあったというのであろう。
「イボタ」キク亜綱ゴマノハグサ目モクセイ科イボタノキ属イボタノキ Ligustrum obtusifolium の大陸亜種と思われる。
「美育園」保育園か。
「縫紉」「ハウヂン(ホウジン)」。裁縫。以下、「手工」までは学科(授業)名であろう。
「硯墨 石磐」反日であるから、生徒の使用している筆記用具は総て〈中国製の〉硯と墨と石板だというのであろう。
「女子白話旬報」当時、刊行されていた『北京女報』『女學日報』などと並ぶ女性雑誌の一つ。
「用器畫の形」意味不明。
「一級より二人を出し整理す」各クラスから選出した図書係か。
「議事會辨公室」職員室か職員用会議室か?
「董事會辨公室」「董事」(とうじ)は「取締役」のことだから、理事会室か理事会会議室か?
「小學義會」小学校の職員室は別にあるということか?
「verse libre」はフランス語の“vers libre”の誤記で、「自由詩」のことであろうから、どこかに小学生の「不要忘了今日 我校的運動會」というそれが記されていたのであろう。
「自治週刊」「文會週報」不詳。或いは、同校内部で発行されていた政治的な自治週刊誌或いは同人総合週刊誌か? なお、この時、芥川龍之介は実は、若き日のかの毛沢東と、この長沙でニア・ミスしていた可能性もあるのである。
「Vermögen」はドイツ語で「財産がある」という意味であるから、「私有財産Vermögen」で、
「私有財産を持っている・保有する」という意味であろう。
「Copy from a book.」本から書写したもの。
「新國語(Peking 來)」当時、北京で刊行されていた公的な中国語教科書か。
「蒙養部」初等幼児教育科の謂いか。ここに出る「幼稚園」や「小學校」との違いはよく判らぬ。中文サイトの「蒙養院」によれば、清の一九〇三年に創設され、六、七歳から入学、修業年限は四年とある。
「touching」はここでは、みすぼらしく哀れな感じのする、の意か。
「ブラン」不詳。既に前出している「ブランコ」の脱字か。藤蔓で出来たブランコなら納得がゆく。]
○洞庭 入口は蘆林潭 水中に松見ゆ(冬は河故) 所々に赤壁風の山 帆影 水は濁れどやや綠色を帶ぶ 模糊として山影あり 税關にて造らせし浮標 船中香月氏と聊齋志異を談ず 湖上大筏見ゆ 扁山君山を左舷に望む (五時) 偏山の上に僧舍あり 遠く岳陽樓を見る(右) 「不潔なり 兵士大勢居り糞を垂る」と云ふ(香月氏) 君山は娥星女英の故地なり 岳州の白壁癈塔見ゆ 岳陽樓 三層 黃瓦に綠卍(最上屋) 樹左右 左に城壁連る
[やぶちゃん注:「洞庭」洞庭湖のこと。芥川龍之介は大正一〇(一九二一)年五月二十九日に訪れているが、「長江游記」本文には全く現れない。やはり「雜信一束」で、
*
五 洞庭湖
洞庭湖は湖(みづうみ)とは言ふものの、いつも水のある次第ではない。夏以外は唯泥田の中に川が一すぢあるだけである。――と言ふことを立證するやうに三尺ばかり水面を拔いた、枯枝の多い一本の黑松。
*
芥川のこの記載はメモにある通り、干上がったその無惨な(荒涼としたでも、汚いでもよい)洞庭湖を見たことのみを表明している。大正一〇(一九二一)年五月三十日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)では、自作の定型歌を掲げ、『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』とし、同じく同日附松岡譲宛旧全集九〇五書簡(絵葉書)では、『揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした』とさえ記している(中国中東部の長江中・下流域の平原部は「長江中下游平原」或いは無数の湖沼の間を水路が縦横に走ることから「水郷沢国」と呼ばれる)。以上から見て、芥川は詩に歌われ、古小説の美しい舞台として憧憬していた洞庭湖に、実は実見直後、激しく失望していたことが明らかである。
「蘆林潭」「ろりんたん」。地名。湘陰県蘆林潭。ここで湘江が洞庭湖に注ぐ。
「赤壁」湖北省の東部、武漢より下流の長江北岸に臨む地。後漢末の二〇八年に曹操と孫権の間で行われた「赤壁の戦い」の古戦場推定地であり、蘇軾の「赤壁賦」で夙に知られる名勝。ここは無論、「風の山」で「それらしい感じを与える山」である。
「香月氏」不詳。姓で「こうづき」であろう。
「扁山」ここ(教え子が送ってくれた画像)。
「君山」ウィキの「洞庭湖」に、『昔は洞庭湖の中に浮かぶ島であった君山(くんざん)』『は、現在は岸とつながっているが、かつて多くの道士が隠棲しており、湘江の女神・湘君が遊んだところとして知られる。現在は君山銀針という希少な中国茶の産地である。岳陽楼付近から船で渡ることができる』。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「五時」不詳。方位か?
「偏山」不詳。前の「扁山」と同じか。しかし位置的には「遠く岳陽樓を見る」というのはおかしくなる。何故なら、長江を遡上した場合は、まず「右」ではなく左手に「岳陽樓」を間近に見ることになるからである。この時、龍之介は船で長江を遡上したのではなく、洞庭湖の北の端辺りから船に乗ったのだろうか? この辺り、地形が錯雑していて、地図だけではどうも解き明かせない。どなたか、この私の一連の痙攣的不審を解いて戴けないだろうか? 以上のように注したところ、教え子が即日、先に示した画像とともに、以下の非常に興味深い見解をメールで呉れた。実は、この長沙と洞庭湖を訪れた芥川龍之介の行動は研究者の間でもブラック・ボックスで、よく判っていないようである。或いは以下の教え子の見解が芥川龍之介中国特派のこのやや不明な行程を明らかにする新開地となるようにも思われるので、本人の許可を得て全文を公開することとした。
《引用開始》
この芥川龍之介の洞庭湖通過は、長沙訪問の後に於けるものではなかったか。私の見たネット上の資料では、龍之介は長沙訪問の後、水路で漢口に戻り、そこから陸路(鉄道)で鄭州に向かったように見える。龍之介の記載は長沙訪問後、船が北上していた際のものではないか? 手帳上でも長沙の後に記載が出てくるのは、そのためではないか。しかも洞庭湖の南部、長沙方面から流れ込む湘江と洞庭湖が出会う「蘆林潭」の三文字の後に「岳陽」の記載が出て来るのだから、その確信は深まる。だとすれば、君山を左舷に見るのは自然だ。扁山というのは、岳陽楼の西南約七キロ、君山の東南東約五キロにある小さな島のことではないか(岳陽楼・君山・扁山の位置関係を示すために「百度地図」の画像写真を示す[やぶちゃん注:前掲の画像。])。ここでは「扁山」と「偏山」を同じものとして論を進める。さて、岳陽の遙か南から北上してくる船が、「君山」と「扁山」を視界に捉えた時、その船首が向いている方向によっては、「君山」と「扁山」を、ともに左舷に望むことがあっても不自然ではない。いやそれよりも、件の「百度地図」を衛星画像にしてみると、「扁山」の東側を多数の船が行き交っているのがわかる。すなわち、龍之介の乗った船が「扁山」の東を通過すれば、「君山」と「扁山」をともに左舷の視界に収めるのは自然なことである。船がその後で右舷に「岳陽楼」を見ることは、言うまでもない。いや、そもそも「岳陽楼」という、大自然の広大さに比べれば芥子粒の如くにちっぽけな建造物は、十分に近づかなければ、その姿を認め得ないのである。
私が岳陽楼に船で向かったのは、たしか一九九七年の夏であった。妻と三才の娘と私を載せて重慶から長江を下ってきた大型客船は、洞庭湖の北端で停泊し、私はそこから小型船に乗り換えて岳陽楼に向かった。折しも、天を覆う霧雨と濃霧の中を進んでいく船からは、扁山はおろか君山さえも眼にすることはできなかった。方向感覚を奪う白い世界を船は往く。その時、突然、幕が開くかのように眼の前に現れたのが岳陽楼であった。私は今でも、その時の岳陽楼がこの世のものではなかったのではないか、再び陸路で向かっても二度と辿り着ける場所ではないのではないかと夢想し、恍惚としてしまうのである。龍之介が訪れた際の洞庭湖が情けない白け切った姿であったことを、私はとても残念に思う。
《引用終了》
最後に。かく、私の不審を霧を払うように拭って呉れた教え子に、心から謝意を表するものである。
「娥星女英」これは中国神話中の女神「娥皇」(姉)と「女英」(妹)の判読ミスであろう。ウィキの「娥皇」によれば、『娥皇(がこう)は、古代中国の伝説上の女性。堯の娘で、妹の女英とともに舜の妻となった。また娥肓、倪皇、後育、娥盲、娥娙とも書かれた。姓は伊祁氏。舜の父母や弟はたびたび舜を死地に置いたが、舜は娥皇と女英の機転に助けられて危地を脱した。舜が即位して天子となると、娥皇は后となり、女英は妃となった。聡明貞仁で天下に知られた。舜が蒼梧で死去すると、娥皇と女英は江湘の間で自殺し、俗に湘君(湘江の川の神)となったと伝える』とあり、位置的も符合する。
「岳州の白壁癈塔」不詳。
「岳陽樓」洞庭湖の東北岸に建つ、高さ二〇・三五メートルの三層木造建築の楼閣。眼下に広大な洞庭湖、北に長江を臨む雄大な景観で知られる。参照したウィキの「岳陽楼」より引く。『黄鶴楼、滕王閣と共に、江南の三大名楼のひとつとされ』、『後漢末、赤壁の戦いの後』、『呉の魯粛が水軍を訓練する際の閲兵台として築いたものがこの楼の始まりとされる』。『唐代、岳州に刺史として左遷されてきた張説が』七一六年に『魯粛の軍楼を改修して』『岳州城(岳陽城)の西門とし、南楼と称した』。『「岳陽楼」の名もこの頃につけられた』。『張説が才子文人と共にこの楼で詩を賦してからその名が高まり』、『後に孟浩然や李白ら著名な詩人たちもここを訪れて詩を賦し』、『「天下の楼」とうたわれた』。『当時の楼は現在のものより小規模で背も低かったと言われる』。『現在の建物は清代の』『再建であり、その飛檐(反りの大きな軒)は清代建築に特徴的なものである』。杜甫の「登岳陽樓」(岳陽樓に登る)が最も知られる(引用元に載る)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
○酒じみの疊に蚊たかり居る空き間
[やぶちゃん注:中七字余りの俳句。]
○西村が文鳥の占を見て貰ふ
[やぶちゃん注:前に続いて私は中七字余りの俳句と採る。「占」は「うら」。所謂、本邦にもあった鳥占いである。現在の台湾でのそれをpu2898氏の動画(その後の別な方の別方式の投稿動画も有り)で見られる。]
○支那富豪金を銅貨にし(37俵)貯ふ 銀行はつぶるる故
○鄭州 早川 島田 日華實業協會 災民施療所 (doc. 二人、Nurse 一人)(nurse 二人shankel)トラフオーム 75%(内地は15%)膀胱結石(二つ 一は大福大) 兵士多し トラフオームの老婆 一眼紫色 一眼治療前 治療は眶の皮を切り縫ひ上ぐ for 睫毛内面にむき角膜を磨擦しスリ硝子の如くすればなり 兵士のシャンケル April-July, 平均300(April-July, 149. 新舊合せて)
[やぶちゃん注:「鄭州」現在の河南省の省都である鄭州(ていしゅう)市。
「早川」不詳。
「島田」不詳。以下の「日華實業協會」の職員か。
「日華實業協會」「神戸大学附属図書館」のデジタル・アーカイブの「日華實業」に、大正六(一九一七)年に「神戸商工会議所」内に「日支実業協会」が設置され、大正一三(一九二四)年に「神戸日華実業協会」と改名したとある(現在も存続する)。但し、芥川龍之介の渡中は大正一〇(一九二一)年であり、まだ「日支實業協會」であったから、違うかも知れぬ。
「災民施療所」「日華實業協會」が運営する飢民を対象とした診療所か。
「shankel」「シャンケル」はドイツ語の“kranker”(所謂、「クランケ」。実際にネィテイヴのそれは「クランカ」と聴こえる)、「患者・病人」の誤りではなかろうか?
「トラフオーム」トラコーマ(Trachoma)。クラミジア・トラコマチス(真正細菌界クラミジア門クラミジア綱クラミジア目クラミジア科クラミジア属Chlamydia
trachomatis)を病原体とする急性及び慢性の角結膜炎。伝染性感染症で、主に目と性器に感染する。重症化すると失明する(現在でも世界で年間六百万人がこれで失明しているとウィキの「トラコーマ」にある)。
「膀胱結石(二つ 一は大福大)」芥川龍之介はその「災民施療所」を実際に見学し、そこでこの二つの膀胱結石を見せて貰ったのであろう。龍之介は、この手の標本を見るのが、実は好きである。
「眶の皮を切り縫ひ上ぐ for 睫毛内面にむき角膜を磨擦しスリ硝子の如くすればなり」「眶」は「まぶち」「まぶた」(瞼)と読む。ウィキの「トラコーマ」によると、トラコーマは重症化すると、『上眼瞼が肥厚することがある。その結果』、『睫毛が偏位し、角膜に接触するため、瞬きするたびに角膜を刺激し、角膜潰瘍を引き起こす。そこに重感染が起こることで、失明や非可逆性の病変を残すこととなる』とある。
「April-July, 平均300(April-July, 149. 新舊合せて)」この数値の違いの意味はよく判らない。]
○災童收容所 右胸に姓名を書きし紙札 白服 算 修身 讀本 先生白服
[やぶちゃん注:児童対象の養護施設らしい。これも或いは「日華實業協會」の事業の一つか。]
○乞食 臥老人 夜あひし乞童 全裸體の子供
○錢舜擧 終南山歸妹圖(鍾馗嫁妹圖)○錢舜擧 蕭翼蘭亭圖(元ノ兪紫文の書)○黃尊古 仿梅道人江山秋色圖○載士醇○蘆鴻滄館○曾國藩 日本畫の猿 安思翁?
[やぶちゃん注:「錢舜擧」(せんしゅんきょ)は元代の画家。浙江省呉興の生まれ。名は選、舜挙は字(あざな)、号に王潭・巽峯など。宋の景定年間(一二六〇年~一二六四年)に進士となったが、宋滅亡後は官途に就かなかった。詩・書画ともに巧みで、殊に人物・山水・花鳥画を能くした。生年未詳で、一三〇一年以後に没したと思われる(思文閣「美術人名辞典」に拠った)。
「終南山歸妹圖(鍾馗嫁妹圖)」現代仮名遣で「しゅうなんざんきめいず(しょうきかめいず)」と読む。疫病や悪霊を防ぐ勇壮な神鍾馗が自分の妹を嫁に出すという逸話に基づく。後世に作話されたものらしいが、加藤徹氏の「京劇城」に、落語みたような面白い京劇「鍾馗嫁妹」の分かり易い解説が載る。
「蕭翼蘭亭圖」これは「蕭翼賺蘭亭圖」(しょうよくたんらんていず)の脱字であろう。「賺」は「騙す」の意で、唐の太宗の使者蕭翼が山深い庵に住む僧辯才を訪ね、王羲之の知られた名筆「蘭亭序」を騙し取るという故事を画題としたもの。
「兪紫文」不詳。識者の御教授を乞う。
「黃尊古」清代の画家。
「仿梅道人江山秋色圖」不詳。ただ、ネット検索では明代の画家藍田叔の作に「仿梅道人山水卷」という書画があることだけは判る。
「載士醇」これは「戴醇士」の芥川龍之介の誤記か、全集編者の判読ミスではなかろうか。「戴醇士」(たいじゅんし)なら、清末の画家戴熙(たいき 一八〇一年~一八六〇年)の字である。ウィキの「戴熙」によれば、『浙江省銭塘(現在の杭州市)出身』で、一八三二年に『進士となり、翰林院編修となった。広東学政、内閣学士を経て兵部右侍郎に至り、退官後は崇文書院の主講となった。太平天国の乱が発生すると団練』(だんれん:清代の地方に存在した武装集団。地方の有力者が盗賊等から郷鎮を自衛するために自発的に組織した民兵組織。)『を組織して杭州の防衛にあたった』。一八六〇年に『太平天国軍が杭州を陥落させると、戴熙は池に身を投じて自殺した。死後、文節の諡号が贈られた』。『筆致は厳しく雄大である。また竹石小品や花卉画も善くした』。同じ清朝の画家湯貽汾(とう いふん 一七七八年~一八五三年)とともに『画名をはせ、「湯戴」と称された。『山水長巻』や『重巒密樹図』などの作品が残されている』とある。
「蘆鴻滄館」不詳。
「曾國藩」(一八一一年~一八七二年)は清末の軍人政治家。湖南省湘郷県の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。詳しくはウィキの「曽国藩」を参照されたい。
「安思翁」不詳。]