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2016/12/29

古呂小父さん   梅崎春生

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年一月号『小説新潮』初出。一部、段落末に簡単なオリジナルな語注を附した。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集第四巻」を用いた。
 登場人物の姓(と思われる)「古呂」はルビを振っていないので「ころ」と読んでおくが、姓としては珍しく、この文字列も、長崎県五島列島名産である薩摩芋を混ぜ込んだ餅和菓子の一種「甘古呂餅(かんころもち)」ぐらいでしか私は見たことはない。]

 

   古呂小父さん

 

 もう三十年近くも昔のことになる。お父さんが勤めている会社の秋季郊外遠足に、子供の僕もー緒につれられて行くことになった。お父さんはよく僕をあちこちにつれて歩いたものだ。一度などは会社の出張にくっついて、はるばる熊本市まで出かけ、大共進会などを見物したこともある。子供にしてはちょいとした旅行だ。当時熊本市は市内電車の開通のしたてで、車体もぴかぴか光り、僕の住んでいる街の電車よりもずっと立派で、そのことだけで僕は熊本という街に嫉妬を感じたりした。

[やぶちゃん注:「大共進会」「共進会」は「競進会」とも表記し、農産物や工業製品を集めて陳列して一般公開をし、その優劣を競う品評会であったが、産業発展を図ることがその主たる目的であった。明治初期から各地で開催された。]

 遠足の集合地は、その僕の街のがたがた電車の終点で、集合時間は九時半ということだったのに、実際には十時半に伸びてしまった。大人というものは時間を守らない。小学生の僕はそう思って面白くなかった。約束の時刻に行ったお父さんと僕は、橋のたもとでまるまる一時間待たされたわけだ。河から脛(すね)に吹き上げてくる風は割につめたかった。僕は筒袖の着物に短い小倉の袴(はかま)をつけていた。僕の他にも一人子供がいたが、そいつはサージの服を着て、よく磨かれた靴を穿いてつんとしていた。支店長の息子だとのことだった。

[やぶちゃん注:「小倉の袴」小倉織(こくらおり:縦縞を特徴とした良質で丈夫な木綿布。)の袴の意。]

「あの子と仲良くするんだよ」お父さんが僕にそうささやいた。「喧嘩なんかしちゃいかんよ」

 皆がすっかり集まったのは、十時半だった。一番遅れてきたのは古呂という三十四五の小父さんだ。古呂小父さんはアンパンみたいにまんまるな顔をしているが、皮膚の色艶はあまり良くなかった。心臓か胃腸かが慢性的に悪かったのだろう。電車から降りてくるなり、やあ、すまん、すまん、と遅刻を皆にぺこぺことあやまった。

「置いてけぼりにしようかと話し合ってたんだぞ」

 と誰かがつっけんどんな調子で言った。自分も遅刻したくせに、他人の遅刻をつけつけと責める。その声とは別に、あざけるような笑い声がところどころに起った。その笑いは皮膚病のようにじめじめと周囲にひろがった。支店長の息子が甲(かん)高い声を出した。

「やあ、古呂小父さんは、武者修行みたいだなあ」

 古呂小父さんはきょとんとして一行を見回した。一行の服装は、弁当や酒や釣道具を持っているだけで、あとはふだんのなりと同じだった。ところが古呂小父さんの身なりときたら、背広のズボンに白い脚絆(きゃはん)をつけ、足には靴のかわりに真新しいワラジをきちんと穿いていた。その上御丁寧なことに、弁当を浅黄の風呂敷でぐるぐるに巻き、それを肩から脇下にななめにゆわえつけていたのだ。まるで諸国修行のサムライみたいな恰好にだ。古呂小父さんの青黒い顔は見る見るあかくなった。あかくなったことをごまかすように、トントンと二三度足踏みをした。その動作がまたさざなみのように笑いをさそった。支店長の息子もたかだかとわらったし、僕もすこしわらった。笑わなかったのは当の古呂小父さんだけだった。

「さあ、そろそろ出かけるとするか」とりなすようにお父さんが言った。「これでみんなそろったしな」

 一行二十数名は、すき間風に吹かれた煙草の煙のように、なんとなくふわふわと動き出した。それが遠足の出発だった。学校の遠足のようにきちんと並んで歩かず、だらだらと伸びたりちぢんだり、三々五々という形でだ。古呂小父さんは一番遅れて、終始ひとりで、もうくたびれたように歩いているようだった。ものものしいいでたちを背後から眺められるのが辛かったのだろう。僕はお父さんに言った。

「古呂小父さんはワラジを穿いているのに、歩くのは一等遅いんだね」

「穿き慣れないと、ワラジというやつは、案外歩きにくいものだよ」

 とお父さんは説明をした。お父さんは弁当の他に、ガラス製の蠅(はえ)取り器に紐(ひも)をかけて、肩からぶら下げていた。これは河床に沈め、内部に溶き餌をして、魚を生けどりにする仕掛のものだ。

[やぶちゃん注:「ガラス製の蠅(はえ)取り器」グーグル画像検索「ガラス製 ハエ取り器をごろうじろ。私は見たことはない。しかし、これを魚獲りに使うというのはすこぶる納得!]

 空は曇って、風もすこし吹いていた。いい遠足日和ではなかった。あちこちに見える雑木の紅葉の色も、しめったように沈み、あまり美しくなかった。しばらく歩くと別の河の土堤(どて)にきた。先頭がステッキで方向を指し示し、皆はぞろぞろと土堤に沿って、上流の方に曲った。土堤の芝草はもうすっかり黄色に枯れていた。河幅はかなり広かったが、実際の水の幅は六間か七間ぐらいのものだっただろう。

[やぶちゃん注:「六間か七間ぐらい」十一~十二メートル半強ほど。]

 土堤を一時間半ばかり上流に歩き、そこで休憩ということになった。土堤のかげに小さな茶店が一軒あった。そこに立寄って、皆口をすすいだり、顔を洗ったりした。ずっと遅れてやってきた古呂小父さんに、誰かが声をかけた。

「ずいぶん遅れたね。足にマメでもこしらえたのかい」

「えへん」

 と古呂小父さんは不機嫌にせきばらいをして、急いで磧(かわら)に降りて行き、顔だけ空を仰ぎながら、ながながとオシッコをした。

 それから茶店の台や枯芝生に腰をおろし、酒やサイダーを飲み始める者もあった。お父さんと僕は早速はだしになり、蠅(はえ)取り器を河床に沈めに入った。水は膝までぐらいしかなかったが、ひどくつめたかった。溶き餌は鰹節の削ったのと粉をまぜたやつだった。仕掛け終えると、僕らは大急ぎで岸にとってかえし、三分ぐらいしてまた行ってみると、三寸か四寸ほどの川魚が七匹も八匹も入っていた。それをバケツにあけると、また大急ぎで蠅取り器を沈めに行く。

[やぶちゃん注:「三寸か四寸ほど」九~十二センチほど。]

「坊ちゃん。やってみませんか」

 お父さんが支店長の息子に言った。息子ははだしでつめたい水に入るのを好まないらしく、返事をしないで、磧(かわら)の小石を靴で蹴上げたりなどしていた。そこへ古呂小父さんがやってきたのだ。

 古呂小父さんのまんまるい顔は、すっかり真赤になっていた。茶店でむりやりに酒を飲んで酔いがすっかり発したものらしい。そして河風に顔をひやしにやってきたらしいのだ。肩から脇にゆわえた風呂敷はもう外(はず)していた。支店長の息子が甘えるように言った。

「古呂の小父さん。魚とってくれよう」

「魚?」

 古呂小父さんはトロンとした眼で、しばらく僕のやり方を眺めていた。次は自分にやらして呉れ、と言い出してきた。僕は足もこごえてきたし、少々あきてもきたので、次の番を古呂小父さんにゆずった。小父さんは蠅取り器をかかえ、ワラジを穿いたままあぶなかしい足取りで、ざぶざぶと河の中に入って行った。入って行ったと思う間もなく、河底石のぬめりに足をとられて、たちまち横だおしにひっくりかえってしまった。つめたい水の中で小父さんは四つ這いになってしまったのだ。

「面白いやっちゃのう」

 支店長の息子が憎たらしい口をきいて、磧の上でピョンピョンと飛び上った。

 茶店や芝生の方からも喚声があがった。

 その中を古呂小父さんは不器用に立ち上り、水に足をさらわれないように用心しながら、ざぶざぶと岸に戻ってきた。

 ひっくりかえった時に蠅取り器をわったらしく、古呂小父さんの指と掌から紅い血が流れていた。

「いっぺんに酔いが醒(さ)めたわい」と小父さんはぼやいた。そしてお父さんに向いてぺこぺこと頭を下げた。「たいせつなものをわってしもうて――」

「いいよ。いいんだよ」

 とお父さんは慰め、手拭いをさいて小父さんの掌に巻いてやった。白い手拭いはすぐに血が一面に滲(にじ)んで濡れた。ワラジや脚絆は言うに及ばず、背広も半分ぐらいはびしょ濡れだった。古呂小父さんはやけになったように舌打ちをしながら、よろよろと茶店の方に歩いて行った。その古呂小父さんを土堤の方から誰かがワアとはやし立てた。

 それをしおにして僕らも土堤に戻り、枯草の上で弁当を開いた。食べ終ると弁当箱に、今とった小魚をぎっしりと詰めた。お土産に持ってかえるつもりなのだ。

 その間にまた古呂小父さんは酒を飲んだらしいのだ。そろそろ帰途につくという時になると、また小父さんの顔はまっかになって、ふだんよりも更にふくれ上って見えた。焚火(たきび)で洋服や脚絆はなま乾きになっている。

 そのなま乾きの古呂小父さんが、今度は先頭にたった。足はひょろひょろしていたが、無理に元気を出しているようだった。ひょろひょろしているのは他にも三四人はいた。

 帰途は土堤沿いでなく、近道を行こうということになった。くねくねと曲った狭い田舎道だ。ハゼやセンダンの木があちこち生えている。

[やぶちゃん注:「ハゼ」「櫨」。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum

「センダン」「栴檀」。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach。言っておくと、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく、ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum album を指すので注意されたい。]

 それらの木の下などに置いてある枝の束やわら束を、道のまんなかに引きずり出して、後から来る者の進行の邪魔をする。そういういたずらを先頭の人たちがやり始めた。その中で一番熱心なのが古呂小父さんだった。

 見ていると小父さんは、土堤なんかがあると猛然とその上に突進して、そこに置かれたわら束などをエイヤッと投げおろす。勢いあまって自分も一緒にころげ落ちたりもした。小父さんはその作業においていじめられた子供のようにむきになっていたのだ。仮繃帯(ほうたい)なんかもう掌からすっ飛んでいた。

 そういういたずらに憤慨したのが、一番あとからやってくる柔道初段の人だった。顔の四角な、いかにも精力善用と言った感じの人で、でもこの日は初段も少々酔っていた。

[やぶちゃん注:「精力善用」「自他共栄」と共に嘉納治五郎が創始した講道館柔道の、指針として掲げられている言葉。柔道は相手の動きや体重移動を利用し、自分の持つ力を有効に働かせるという原理によって、より大きな力を生むことができ、日々不断に柔道に打ち込んで精進することによって、自己の能力は磨かれてゆくが、それは日々の生活に於いても同様である。自ら養った力を、相手をねじ伏せたり、威圧したりすることに使わず、世の中の役に立つことのために使うべし、ということを表わしているという(以上は「柔道チャンネル」の「柔道用語辞典」の当該項に拠った)。]

 投げ出された束を初段は一々かついで、元のところに戻していたが、束があんまり次々ころがっているので、それで少しずつ怒ってきたのだ。初段の顔もついにいじめられた子供みたいになってきた。

 そのうちに投げ出された薪につまずいて、支店長の息子が膝をすりむき、ワアワアと泣き出すという事件がおこった。

 初段は顔をまっかにして、おそろしい勢いで先頭の方に疾走した。もう田舎道は終って、家並がぼちぼち始まっていた。僕もお父さんもつづいて息をはずませて走った。

 町の入口で初段はついに古呂小父さんの肩をがっしとつかまえた。何か二言(こと)三言(こと)言いあらそったようだった。お父さんが大声でさけんだ。

 「ちょっと待てえ!」

 しかしお父さんの絶叫も間に合わなかった。古呂小父さんが拳骨をふり上げて、初段の顔のまんなかをいきなりなぐりつけたのだ。

 次の瞬間古呂小父さんの身体は、初段の肩の上で一回転して、地面にたたきつけられた。僕らがそこに到着した時、古呂小父さんは地面に腹這いになって、オウオウと呻(うめ)いていたし、初段は初段で亢奮(こうふん)したおろおろ声で、

「初段だぞ。おれは、初段だぞ」

 と威張っていた。

 それからお父さんは古呂小父さんの腕を肩でかつぎ、終点の方にそろそろと歩いた。初段たちは先の電車で行ってしまった。

 電車に乗せても古呂小父さんは、初段はどこに行った、初段はどこに行った、と叫んできょろきょろしたりした。小父さんのなま乾きの服は泥だらけで、浅黄の風呂敷もどっかに紛失してしまったらしい。

 僕は疲れたから座席に腰をおろしてうとうとしていた。電車はだんだん混んできた。向うの方で古呂小父さんのしぼるような声がした。

「五十銭玉を落したよ。ああ、見つからないよう」

 そして電車の床を這うようにして五十銭玉を探し始めた。声がだんだんこちらに近づいてくる。

 僕の前の和装の若い女のひとが、吊皮にぶら下っていた。古呂小父さんの顔がそのかげからちらとのぞいた。小父さんの顔はほこりによごれ、ほとんど土色をしていた。小父さんの眼が僕を見た。そして小父さんの手がいきなりぱっと動いて、その女のひとの着物の裾を一気にまくり上げた。小父さんの顔はまるで死にかかった犬の顔だった。

「キヤアッ!」

 女のひとは悲鳴を上げた。しかしその瞬間に僕の眼は、はなやかな色彩の乱れの中に、白い脛(すね)や膝やその他のものを、真正面からすっかり見てしまったのだ。僕は眼がくらくらして、思わず座席からすべり落ちそうになった。女のひとはそのまま床にへたへたとしゃがみこんでしまった。

 次の駅に着くと、女のひとはしくしく泣きながら、電車を降りて行った。顔をおおうたまま肩をふるわせている姿を、僕は今でも思い出せるのだ。

 それから古呂小父さんがどうしたか、その前後の記憶が全然ないところを見ると、よほど一瞬の印象が強烈だったのだろう。ひょっとするとそのあとで、古呂小父さんはまた誰からか、あるいはよってたかって、ぶんなぐられたかも知れないと思う。

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