北條九代記 卷第十 北條政村卒去 付 山階左大臣薨去
○北條政村卒去 付 山階左大臣薨去
同十年五月七日、北條左京〔の〕大夫政村、卒去せらる。是、遠江守義時の四男なり。年六十九。同六月に北條重時の四男武藏守義政を執權として加判せしむ。相摸守時宗、是を擧(きよ)して政村の替(かはり)に居(す)ゑらる。門族の中、一家は別離の淚に沈みて、後會(こうくわい)の時なき事を歎き、一家は勢名(せいめい)の花開きて前世(ぜんせい)の芳(にほひ)ある事を喜ぶ。一枯(こ)一榮(えい)、世間、皆、斯(かく)の如し。同八月、京都には山階(やましなの)前左大臣實雄(さねを)公、今年五十七歳にして薨ぜらる。西園寺の一家にして、當今(たうぎん)新院の舅と成り、後宇多、伏見兩帝の外祖なれば、威勢を當代に振(ふる)ひて、榮華その身に餘り、官位俸祿に付きても、不足なる事なしといへども、定(さだま)れる死業(しごう)は遁る〻に地(ところ)なく、限れる命根(めいこん)は保つに賴(たより)を失ひ、佛神の冥力(みやうりき)、此所(こ〻)に空しく、耆扁(ぎへん)が醫術、徒(いたづら)に手を拱(こまね)き、少水(せいすゐ)の魚、遂に涸(か)れに就(つ)き、屠所(としよ)の羊(ひつじ)、果(はた)して行窮(ゆききはま)り、一朝の草露(さうろ)、落ちて二度(ふたたび)歸らず。三泉の叢塚(さうちよ)、埋(うづも)れて又、開かず。親疎遠近(しんそゑんきん)、哀(あはれ)を催し、悲(かなしみ)の色を含みけり。今年の秋の比、蒙古の使者趙良弼(てうりやうひつ)、來朝して、筑紫(つくし)の博多に著きにける。この由、六波羅へ告來(つげきた)る。鎌倉へ早馬を立てて、伺はせられしかば、卽ち禁中へ奏せらる。「年來、日本より遂に牒書(てふしよ)の返狀(へんじやう)をも遣されず。然るを、每度、使者を奉る。是、朝貢(てうこう)の式禮にもあらず。和親の信と云ふにもあらず。只、本朝に風儀を窺ひ、弊(つひえ)に乘りて討取(うちと)らんとの爲なるべし。重て來らば、一人も本國には返すまじ。皆、悉く、頭を刎(は)ぬべし。この度は、その案内の爲、歸らしむる所なり。京、鎌倉へ參るには及ばず」とて、太宰府より舟を出させ、超良弼を追返(おひかへ)されたり。蒙古の王、大に怒(いかつ)て、「日本を討亡(うちほろぼ)さずはあるべからず」とて軍兵を用意し、兵船(ひやうせん)を造る。この事、又、日本に聞えければ、鎌倉にも、内々、武備(ぶひ)の設(まうけ)を構へて、諸國の軍勢を點檢せられけり。
[やぶちゃん注:「同十年五月七日」前段の後嵯峨法皇崩御は前の年文永九年を受けた表現。ユリウス暦一二七三年。
「北條左京大夫政村」既注であるが、逝去記事なので再掲しておく。以下、主にウィキの「北条政村」により記載する(一部、補正した部分がある)。北条政村(元久二(一二〇五)年~文永一〇(一二七三)年)は義時五男(本文の「四男」は誤り。彼には兄に泰時・朝時・重時・有時がいる。但し、総て異母兄。政村の母は出生当時の義時の継正室であった伊賀の方で、彼女との間では最初の男子である)。政村流北条氏の祖で、幼少の得宗家北条時宗(泰時の曾孫)の代理として第七代執権に就任、辞任後も連署を務めて蒙古襲来の対処に当たり、一門の宿老として嫡流の得宗家を支えた。第十二代執権北条煕時は曾孫に当たり、第十三代執権北条基時も血縁的には曾孫である。元久二(一二〇五)年六月二十二日、畠山重忠の乱で重忠親子が討伐された日に誕生、義時には既に四人の男子(泰時・朝時・重時・有時)がいたが、当時二十三歳の長男泰時は側室の所生、十三歳の次男朝時の母は正室姫の前であったが離別しており、政村は当代の正室伊賀の方所生では長男であった。建保元(一二一三)年十二月二十八日、七歳で第三代将軍源実朝の御所で元服、四郎政村と号した。『元服の際烏帽子親を務めたのは三浦義村だった(このとき祖父時政と烏帽子親の義村の一字をもらい、政村と名乗る)。この年は和田義盛が滅亡した和田合戦が起こった年であり、義盛と同じ一族である義村との紐帯を深め、懐柔しようとする義時の配慮が背景にあった。『吾妻鏡』は政村元服に関して「相州(義時)鍾愛の若公」と記している』。『義時葬儀の際の兄弟の序列では、政村と同母弟実泰は』、『すぐ上の兄で側室所生の有時の上位に位置し、異母兄朝時・重時の後に記されている。現正室の子として扱われると同時に、嫡男ではなく』、『あくまでも庶子の一人として扱われている』ことが分かる。しかし、『母伊賀の方が政村を執権にする陰謀を企てたという伊賀氏の変が起こり、伊賀の方は伯母政子の命によって伊豆国へ流罪となるが、政村は兄泰時の計らいで累は及ば』ず、『その後も北条一門として執権となった兄泰時を支え』た(因みに三歳年下の『同母弟実泰は伊賀氏事件の影響か、精神のバランスを崩して病となり』、天福二(一二三四)年に二十七歳の若さで出家している)。延応元(一二三九)年、三十四歳で評定衆となり、翌年には筆頭となった。宝治元(一二四七)年、四十三の時、二十一歳の『執権北条時頼と、政村の烏帽子親だった三浦義村の嫡男三浦泰村一族の対立による宝治合戦が起こり、三浦一族が滅ぼされるが、その時の政村の動向は不明』である。建長元(一二四九)年十二月に引付頭人、建長八(一二五六)年三月には兄重時が出家して引退してしまったために兄に代わって五十二歳で連署となっている(執権経験者が連署を務めた例は他になく、極めて異例であって、政村が得宗家から絶大なる信頼を受けていたことの証左である)。文応元(一二六〇)年十月十五日、『娘の一人が錯乱状態となり、身体を捩じらせ、舌を出して蛇のような狂態を見せた。これは比企の乱で殺され、蛇の怨霊となった讃岐局に取り憑かれたためであるとされる。怨霊に苦しむ娘の治癒を模索した政村は隆弁に相談』、十一月二十七日には『写経に供養、加持祈祷を行ってようやく収まったという。息女の回復後ほどなくして政村は比企氏の邸宅跡地に蛇苦止堂を建立し、現在は妙本寺となっている。このエピソードは『吾妻鏡』に採録されている話で、政村の家族想いな人柄を反映させたものだと評されている』。第七代執権当時、『時宗は連署となり、北条実時・安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、彼らや政村の補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章、北条教時)と時宗の異母兄北条時輔が粛清された二月騒動でも、政村は時宗と共に主導する立場にあった。二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢を率いて示威行動を行った際、政村は教時を説得して制止させている』。文永五(一二六八)年一月に蒙古国書が到来すると、『元寇という難局を前に権力の一元化を図るため』に、同年三月に執権職を十七歳の時宗に移譲、既に六十三歳であった政村は『再び連署として補佐、侍所別当も務め』た。『和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも敬愛され、吉田経長は日記『吉続記』で政村を「東方の遺老」と称し、訃報に哀惜の意を表明した。『大日本史』が伝えるところによると、亀山天皇の使者が弔慰のため下向したという』。ここに記されるように、次期連署は『兄重時の息子北条義政が引き継い』で同六月十七日に就任している。ある意味、非常に賢明かつ誠実に得宗独占の時代の中を生き抜いた人物と言えよう。
「武藏守義政」北条義政(寛元(一二四三)年或いは仁治三(一二四二)年~弘安四(一二八二)年)は北条重時の子。第六代将軍宗尊親王に仕え、引付衆・評定衆などの幕府要職を歴任、以上に見るように、叔父北条政村が死去すると、彼に代わって連署に任ぜられ、執権北条時宗を補佐した。なお、彼が「武藏守」となるのは文永一〇(一二七三)年の七月で、この話柄内時制(政村死去の五月と連署就任当時の六月)の官位は未だ「左近衞將監」である。
「擧(きよ)して」推薦して。
「前世(ぜんせい)の芳(にほひ)ある事」「ぜんせい」はママ。前世(ぜんせ)から享ける応報としてのそれがかくなる幸運・慶事であったこと。
「同八月」十六日。
「山階(やましなの)前左大臣實雄(さねを)」洞院(とういん)家の祖で、従一位左大臣であったことから「山階左大臣」と号した洞院実雄(とういんさねお 承久元(一二一九)年~文永一〇(一二七三)年)。ウィキの「洞院実雄」によれば、娘三人が、それぞれ、三人の天皇、第九十代亀山天皇(皇后佶子(きつし)。第九十一代後宇多天皇生母)・後深草天皇(愔子(いんし)。第九十二代伏見天皇生母)・伏見天皇(季子(きし)。第九十五代花園天皇生母)の妃となって権勢を誇った。娘たちは孰れも皇子を産み、それぞれが後に即位したことから、結果的には三人の天皇(後宇多天皇・伏見天皇・花園天皇)の外祖父に相当することとなった(「結果的には」と添えたのは、孫に当たる彼ら三人の即位は皆、彼の死後のことだからである)。
「當今(たうぎん)新院」今上帝亀山天皇と彼の兄後深草院。
「冥力(みやうりき)」神妙な<る御加護。
「耆扁(ぎへん)」世に希な名医を指す一般名詞。元は伝説の名医「耆婆(ぎば)」と「扁鵲(へんじゃく)」のこと。前者は古代インドのマガダ国ラージャグリハの医師ジーヴァカで、釈迦の弟子の一人でもあった。多くの仏弟子の病気を癒し、父王を殺した阿闍世 (あじゃせ:アジャータシャトル) 王をも信仰に入らせたとされる。後者は「韓非子」や「史記」にその事蹟を記す、古代中国漢代以前の伝説的名医の名。
「少水(せいすゐ)の魚、遂に涸(か)れに就(つ)き」旱(ひでり)で水がごく僅かになってしまった魚が、遂には水が干上がってしまい(死して干物となり)。
「屠所(としよ)の羊(ひつじ)、果(はた)して行窮(ゆききはま)り」屠殺場(ば)の羊が柵に追い詰められて万事窮し(哀れに殺され)。
「三泉の叢塚(さうちよ)」「三泉」は死後の世界を意味する死者の国たる黄泉(こうせん/よみ)のことで、「三」は大きな数値を意味するから、「地下のずっと深いところ」に「死者の魂」去って、それを追悼する「塚」(墓)は必ず「叢(くさむら)」に「埋(うづも)れて」しまい、二度と「開かず」というのである。
「親疎」故人と特に親しかった方々も、また、庶民も含んだ、そうでない者どもも。
「今年の秋の比」誤り。趙良弼の率いた蒙古使節団の初回は文永八(一二七一)年九月(日本への使節団としては五度目)で、この時は四ヶ月ほど大宰府に滞在した後、返書を受け取れず、大宰府からの日本人使節とともに帰国しており(この時を指すとしたら、「秋」は正しいが、この本文の時制は文永十年であるから誤りとなる)。次の第六回蒙古使節団もやはり趙良弼が率いたが、それは翌文永九(一二七二)年(四月或いは十二月と定かでない)のことで(この時は一年ほど大宰府に滞在の後、やはり、返書を受けられず、空しく帰国している)、この叙述を二回目のものとすると(その可能性が高い)、今度は年号も季節も誤りとなる。
「蒙古の使者趙良弼(てうりやうひつ)」(ちょう りょうひつ 一二一七年~一二八六年)は元のジュルチン族(女真人)出身の官僚。既注であるが、再掲しておく。ウィキの「趙良弼」によれば、『字は輔之。父は趙悫、母は女真人名門出身の蒲察氏で、その次男。本姓は朮要甲で、その一族は金に仕え、山本光朗によれば現代の極東ロシア沿海地方ウスリースク近辺に居住していたと考察されている。曾祖父の趙祚は金の鎮国大将軍で』、一一四二年『からの猛安・謀克の華北への集団移住の前後に、趙州賛皇県(河北省石家荘市)に移住した。漢人住民に「朮要甲(Chu yao chia)」を似た発音の「趙家(Zhao jia)」と聞き間違えられたことから、趙姓を名乗るようになったとされる』。『金の対モンゴル抵抗戦では』、一二二六年から一二三二年の間に『趙良弼の父・兄・甥・従兄の』四人が戦死、『戦火を避けて母と共に放浪した。金の滅亡後』、十三『世紀のモンゴル帝国で唯一行われた』一二三八年の『選考(戊戌選試)に及第し、趙州教授となる』。一二五一年には『クビライの幕下へ推挙された』。『クビライの一時的失脚の時期には、廉希憲と商挺の下で陝西宣撫司の参議とな』るが、一二六〇年、『クビライに即位を勧め、再び陝西四川宣撫司の参議となる。渾都海の反乱では、汪惟正、劉黒馬と協議の上で関係者を処刑した。廉希憲と商挺はクビライの許可もなく処断したことを恐れ、謝罪の使者を出したが、趙良弼は使者に「全ての責任は自分にある」との書状を渡し、クビライはこの件での追及はしなかった。廉希憲と商挺が謀反を企んだと虚偽の告訴を受けた時には、その証人として告発者から指名されたが、激怒して恫喝するクビライに対してあくまでも』二人の忠節を訴えて『疑念を晴らし、告発者は処刑され』ている。一二七〇年に『高麗に置かれた屯田の経略使となり、日本への服属を命じる使節が失敗していることに対して、自らが使節となることをクビライに請い、それにあたり秘書監に任命された。この時、戦死した父兄』四人の『記念碑を建てることを願って許可されている』。ここに出る日本への五度目の使節団として大宰府へ来たり、四ヶ月ほど滞在し、返書は得られなかったものの、大宰府では返書の代わりとして、取り敢えず、日本人の使節団がクビライの下へと派遣することを決し、趙良弼もまた、この日本使らとともに帰還の途に就いている(この十二名から成る(「元史」の「日本傳」では二十六名)日本側の大宰府使節団は文永九(一二七二)年一月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問したが、元側は彼らの意図を元の保有する軍備の偵察と断じ、クビライは謁見を許さず、同じく再び高麗を経由して四月に帰国している。ここはウィキの「元寇」に拠る)。一二七二年には第六回目の『使節として再び日本に来訪し』、一年ほど『滞在の後』、帰国、この時、『クビライへ日本の国情を詳細に報告し、更に「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親(孝行)、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。その人(日本人)を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして舟師(軍船)が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに(日本を)討つことなきが良いでしょう」と日本侵攻に反対し』ている。彼は『宋滅亡後の江南人の人材育成と採用も進言している』。一二八二年に病いで隠居、四年後に亡くなった(下線やぶちゃん)。なお、第六回使節団が不首尾に終わったことについては、ウィキの「元寇」に、「元朝名臣事略」の『野斎李公撰墓碑によれば、趙良弼ら使節団が到来すると、日本の「国主」はクビライ宛に返書し和を議そうとしたが、日本が元の陣営に加わることを警戒した南宋より派遣された渡宋禅僧・瓊林(けいりん)が帰国して趙良弼らを妨害したため、趙らは返書を得ることができなかったという』と記し、また「賛皇復県記」にも、『南宋は自国と近い日本が元の陣営に加わることを恐れて、瓊林を遣わして妨害したとある』そうである。禅宗を深く信仰し、その擁護を図った北条得宗家を考えると、これはかなり腑に落ちる説であると私は思っている。
「重て來らば、一人も本國には返すまじ。皆、悉く、頭を刎(は)ぬべし。この度は、その案内の爲、歸らしむる所なり」本条の拠ったのは林鵞峯の「日本王代一覧」のようだが、今調べて見たが、事実、そうした通達を趙良弼にしたという記録は、そこには載らない。或いはこれ、筆者が後の掟破りの使者斬首(建治元(一二七五)年に来日した第七回使節団。時宗は彼らに逢わずに龍の口で処刑している。なお、そうした処断を幕府は元に通告しておらず、それを知らずに四年後の弘安二(一二七九)年にやってきた第八回使節団は博多で同じく斬首されている)を少しでも正当化するため、かく創作した可能性もある。時頼を死んだと見せて、回国させちゃうくらいの作者だ。それぐらいの操作はしそうだ。そもそもこの辺り以降は最早、「吾妻鏡」の記載がなくなってしまうから、公家の日記ぐらいしか、信頼出来る資料が、これ、ない。
「蒙古の王」既注のモンゴル帝国の第五代皇帝クビライ(一二一五年~一二九四年)のこと。チンギス・カンの四男トルイの子。
『大に怒(いかつ)て、「日本を討亡(うちほろぼ)さずはあるべからず」とて軍兵を用意し、兵船(ひやうせん)を造る』ウィキの「元寇」によれば、クビライは、第六回の訪朝から帰った趙良弼の日本侵攻への反対意見に一旦は従ったが、翌一二七三年(文永十年)になると、『前言を翻し、日本侵攻を計画』、『侵攻準備を開始した。この時点で、元は南宋との』五年に及んだ『襄陽・樊城の戦いで勝利し、南宋は元に対抗する国力を失っていた。また』、『朝鮮半島の三別抄』(さんべつしょう:高麗王朝の軍事組織で、元は私兵集団であったが、元軍の高麗侵攻に際しては事実上の高麗の正規国軍となったともされる)『も元に滅ぼされており、軍事作戦を対日本に専念させることが可能となったのであ』った。一二七四年(文永十一年)一月、『クビライは昭勇大将軍・洪茶丘』(こう
ちゃきゅう/こう さきゅう 一二四四年~一二九一年):祖国高麗及び元に仕えた軍人。クビライに重用された。彼の売国奴的行為(現在の大韓民国に於いてさえも彼は祖国の裏切者として非難されている)の背景はウィキの「洪茶丘」を参照されたい)『を高麗に派遣し、高麗に戦艦』三百艘の『建造を開始させた』。『洪茶丘は監督造船軍民総管に任命され、造船の総指揮に当たり、工匠・人夫』実に三万五百人余りを『動員した』。『洪茶丘の督促により高麗の民は「期限急迫して、疾(はや)きこと雷電の如し。民、甚(はなは)だ之に苦しむ」といった様相であったという』。同年五月には『元から派遣された日本侵攻の主力軍』一万五千名が『高麗に到着』している。『同月、クビライは娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)を高麗国王・元宗の子の王世子・諶(しん、後の忠烈王)に嫁がせ、日本侵攻を前にして元と高麗の関係をより強固に』した。同六月、『高麗は元に使者を派遣し、戦艦』三百艘の『造船を完了させ、軍船大小』九百艘を『揃えて』、『高麗の金州に回漕したことを報告』、同八月、『日本侵攻軍の総司令官にしてモンゴル人の都元帥・クドゥン(忽敦)が高麗に着任し』ている。この総司令官忽敦率いる、総計二万七千~四万の兵を乗せた七百二十六~九百艘に及ぶ軍船が朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航したのは、同一二七四年(文永十一年)十月三日のことであった。
「この事、又、日本に聞えければ、鎌倉にも、内々、武備(ぶひ)の設(まうけ)を構へて、諸國の軍勢を點檢せられけり」ウィキの「元寇」によれば、この前、『執権・北条時宗は、このようなモンゴル帝国の襲来の動きに対して以下のような防衛体制を敷いた』。文永八(一二七一)年、『北条時宗は鎮西に所領を持つ東国御家人に鎮西に赴くように命じ、守護の指揮のもと蒙古襲来に備えさせ、さらに鎮西の悪党の鎮圧を命じた』。『当時の御家人は本拠地の所領を中心に遠隔地にも所領を持っている場合があり、そのため、モンゴル帝国が襲来すれば戦場となる鎮西に所領を持つ東国御家人に異国警固をさせることを目的として鎮西への下向を命じたのであった』。『これがきっかけとなり、鎮西に赴いた東国御家人は漸次』、『九州に土着していくこととなる』。『九州に土着した東国御家人には肥前の小城に所領を持つ千葉氏などがおり、下向した千葉頼胤は肥前千葉氏の祖となっている』。文永九年には、『異国警固番役を設置。鎮西奉行・少弐資能、大友頼泰の二名を中心として、元軍の襲来が予想される筑前・肥前の要害の警護および博多津の沿岸を警固する番役の総指揮に当たらせた』。また、「高麗史」によると、『日本側が高麗に船を派遣して、諜報活動を行っていたと思われる記述があり、以下のような事件があった』という。同年七月、『高麗の金州において、慶尚道安撫使・曹子一と諜報活動を行っていたと思われる日本船とが通じていた』。『曹子一は元に発覚することを恐れて、密かに日本船を退去させたが、高麗軍民総管・洪茶丘はこれを聞き、直ちに曹子一を捕らえると、クビライに「高麗が日本と通じています」と奏上した』。『高麗国王・元宗は』『クビライに対して曹子一の無実を訴え』、『解放を求めたものの、結局、曹子一は洪茶丘の厳しい取調べの末に処刑された』とある。文永十年十一月には幕命を受けた少弐資能が、『戦時に備えて豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発し』ている、とある。]
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