進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第五章 野生の動植物の變異(6) 六 植物の變異 / 第五章 野生の動植物の變異~了
六 植物の變異
植物の變異は餘程著しい例が多い。從來植物學者といへば少數の植物生理學などを除けば、その他は皆植物の分類即ち種屬識別のみに靈力したもの故、變異性を調べるための材料は既に十分にある。スイス國の有名な植物學者ドカンドルは世界中の樫の種類を殘らず集めて研究したが、初め標本の數の少い間は、各種屬を判然區別することが出來たが、追々標本の集まるに隨ひ曖昧なものが出て來て、前に判然區別のある二種と思つたものも、その間の境が解らなく成つて、大に困難を感ずるに至つた。例へば一本の枝だけを取つても、詳細に調べて見ると、葉柄の長さには三と一と位の相違があり、葉の形狀にも楕圓形と倒卵形とがあり、葉の周邊が完全なものもあり、鋸齒狀のものもあり、また羽狀に分れたものもあり、葉の尖端の鋭いものもあり、圓いものもあり、葉の基部の細いもの、圓いもの、或は心臟形に逼出したものもあり、葉の表面に細毛の生じたものもあり、平滑で全く毛のないものもあり、雄蘂の數にも種々の變異があり、果實の長さにも一と三と位の相違があり、果實の成熟する時期にも種々の變化があるといふやうな場合があるので、なかなか若干の標準に從つて種屬を確定することは容易でない。ドカンドルはこの有樣を見て、各種屬の間に判然した境界があると思ふのは標本を多く見ない中の謬見である、標本を多く見れば見るほど各種屬の特徴が定め難くなると論じた。
[やぶちゃん注:「樫」ブナ目ブナ科 Fagaceae の常緑高木の一群の総称。ウィキの「カシ」によれば、狭義にはコナラ属Quercus 中の常緑性の種をカシと呼ぶが、同じブナ科でマテバシイ属のシリブカガシもカシと呼ばれ、シイ属 Castanopsis も別名でクリガシ属と呼ばれるmとあるが、『英語で常緑性のカシのみを指す場合はライヴオーク(live oak)と呼ぶ。ヨーロッパにおける常緑性のカシ類の分布は南ヨーロッパに限られており、イギリスをはじめとする中欧・北欧に分布する oak は、日本語では植物学上ナラ(楢)と呼ばれているものばかりであるが、文学作品などではカシとして翻訳されている例が多く誤訳を元にした表記である』とあるから、或いはここも、ブナ科コナラ属 Quercus の中で本邦に植生しない種が多数含まれている、我々が「楢」と呼称する種の仲間が多数含まれていると考えるべきであろう。
「ドカンドル」オーギュスタン・ピラミュ・ドゥ・カンドール(Augustin Pyramus de Candolle 又は Augustin Pyrame de Candolle 一七七八年~一八四一年)はスイス生まれの植物学者。ダーウィンの自然淘汰の原理に影響を与えた〈自然の戦争〉の考え方を示し、異なる種が、類似する環境のもとで、同じような性質を発達させる、所謂、「相似(analogy)」の現象を認識した(現行の「平行進化」と同義であろう)。ウィキの「オーギュスタン・ピラミュ・ドゥ・カンドール」他によれば、『また、一定の光の下でも、植物の葉の動きが日変化することを認識し、植物に内部的な生物時計があることを主張した』学者としても知られる。『ジュネーヴに役人の息子に生まれた。先祖は』十六世紀に『宗教迫害からジュネーヴに逃れたフランスの名家であった』。七歳の『時に水頭症にかかるが、文学などに才能をみせた。Collège Calvin』(コレージュ・カルバン:ジュネーブ最古の高等学校)『でジャン=ピエール・ヴォーシェ』(Jean Pierre Étienne Vaucher 一七六三年~一八四一年:スイスの神学者・植物学者で、藻類の研究で知られる)『に学び、植物学を研究することを決めた』。一七九六年にデオダ・ギー・スィルヴァン・タンクレード・グラーテ・ドゥ・ドロミュー(Déodat Guy Sylvain Tancrède Gratet de Dolomieu 一七五〇年~一八〇一年:フランスの地質学者・鉱物学者)『の招きをうけてパリに赴き』、一七九八年にはフランスの植物学者でパリ植物園植物学教授ルネ・デフォンテーヌ(René Louiche Desfontaines 一七五〇年~一八三三年)『の助けでシャルル=ルイ・レリティエ・ドゥ・ブリュテル』(Charles Louis L'Héritier de Brutelle 一七四六年~一八〇〇年):フランスの役人でアマチュア植物学者)『の薬草園で働いた。この仕事で評価を受け』、一七九九年に『最初の著書、“Plantarum historia succulentarum”(「肉質植物(サボテン)誌」:以下、書名和訳は私の自己流なので注意されたい。リンク先には和訳はない)『を出版し』、一八〇二年に“Astragalogia”(「ゲンゲ属」)を『出版した。ジョルジュ・キュヴィエやラマルクの注目するところとなり、キュビエの推薦で』、一八〇二年にコレージュ・ド・フランスで仕事を得、ラマルクから“Flore française”(「フランス植物誌」第三版の『編集を任された。この仕事で、カール・フォン・リンネの人工的分類法と異なる、植物の特徴に従う自然分類法を採用した』。一八〇四年には“Essai sur les propriétés médicales des plantes”(「植物の医学的性質に関する考察」)を出版し、パリ大学の医学部から医学の学位を得た』。二年後、“Synopsis plantarum in flora Gallica descriptarum”(「ガリカ種(バラ属)の分類学的植物概説」)を『出版した。その後』六年間、『フランス政府の求めで、フランス各地の、植物、農業の調査を行った』。一八〇七年、『モンペリエ大学医学部の植物学の教授に任じられた』。一八一三年に“Théorie élémentaire de la botanique”(「植物学の基礎理論」)を『出版し、初めて分類体系(taxonomy)という用語を使った』。一八一六年に『ジュネーヴに戻り』、一八三四年まで『ジュネーヴ大学で植物学と動物学の教授を務めた』。一八一七年には『ジュネーヴで最初の植物園を設立し』ている。その後は、『植物の完全な分類をめざす著作』“Regni vegetabillis systema natural”(「植物界の自然系統」)の執筆に費やすが、二巻を『発行した時点で大規模なプロジェクトの完成を断念』、一八二四年からは、より小さい“Prodromus Systematis Naturalis Regni Vegetabilis”(「植物界の自然系統序論」)の刊行を始め、初期構想の三分の二の分量に当たる七巻を完成した。種を百『以上の属に実証的な特徴で分類を行った』とある。
「逼出」「ひつしゆつ(ひっしゅつ)」恐らく、狭まって突き出ていることの意であろう。]
以上はたゞ一例に過ぎないが、その他殆どどの植物を取つても之に似たことがある。何處の國でも有名な學者の著したその國産の植物誌を二三册も集めて比較して見ると、必ず一方の學者が五種と見倣すものを他の學者は十種と見倣すといふやうな識別の相矛盾する例が澤山にある。英國の書物から一例を擧げて見るに、英國産の大薔薇といふ一種には二十八通りも明な變種があり、その間には順々の移り行きがあつて境が判然せぬが、標本を一つづゝ別に見ると各々別種の如くに見えるので、之まで誰かの植物家が之に七十何種も名を附けたことが出て居る。倂し遠い英國の例を引くまでもなく、日本でも植物家の著述を彼此比較すると、甲が獨立の一種と見倣すものを乙は單に或る種類中の變種と認めて、互に説の合はぬ所が甚だ多い。シーボルドの植物誌と近頃の植物學雜誌とでも比較して見たら、かやうな例は殆ど幾らでも見附けることが出來る。
[やぶちゃん注:「シーボルドの植物誌」かの幕末に来日したドイツの医師・博物学者フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 一七九六年~一八六六年)が日本追放後、日本で採取した植物の押し葉標本(約一万二千点)を基に、ドイツの植物学者でミュンヘン大学教授であったヨーゼフ・ゲアハルト・ツッカリーニ(Joseph Gerhard Zuccarini 一七九七年~一八四八年)との共著で一八二五年から一八三〇年にかけて刊行した“Fauna Japonica”(「日本植物誌」)。そこでの記載種数は二千三百種に及ぶ。]
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