谷の響 五の卷 六 狢讐を報んとす
六 狢讐を報んとす
これ又卯の年の九月なるが、砂子瀨村の權八と言へる者、川原平村より半里許り先鍋倉澤と言ふ土(ところ)にて狢を見當り、將(いざ)捕(と)らんと追𢌞せしかど早くも脱去りて遂に見失ひぬ。さるに其歸路(かへるさ)一里許りも下りしに、柳の古木數株(ほん)ありてその根に柳茸といふものいとさはに生へてありしかば、權八好き獲物とて採り來りて妻子に交與(あた)へ、翌る旦(あした)又このあとの茸を摘(とら)んと立出てその土(ところ)に至れども、茸なく柳も見えざれば不審に思ひ、不圖昨日の狢に心付、負たる簀(かご)をふるひて見るに二三枚落たる茸は、柳茸にあらで名もしらぬ毒茸にしあれば、然(さて)は狢めが騙したるものならん、家内どもが食ひては大事なり、いでとく放下(すて)さすべしとて卽便(そのまゝ)駈歸りて内に來りしに、妻子ら早くも喰ひて苦痛煩悶(くるしみもだし)、四隣(きんじよ)のものども寄り集りて藥よ水よと喧々起(さわぎた)つてありしにいたく愕き、萬般(いろいろ)術をつくしてやうやうに癒ゆることを得たりしとなり。すべて是等の獸どもはさなくとも人を惱ますものなれば、虛弱(よわき)人は必ず心しらひすべき事なり。
[やぶちゃん注:「狢」狸。
「讐」「あだ」。
「これ又卯の年の九月」前話を受ける。安政二年の九月。同月一日はグレゴリオ暦一八五五年十月十一日。
「砂子瀨村」底本の森山泰太郎氏の以前の補註に、『中津軽部西目屋村砂子瀬(すなこせ)。岩木川の上流最も奥地にある山村。隣接して川原平(かわらたい)部落がある。昭和三十四年ダムのため旧部落は水没し、いま残留した村民が付近に新しい部落を形成している』とある。ここが現行の「砂子瀬」(マピオン地図データ。遙か南西方向に西目屋村「砂子瀬」の小さな飛び地が孤立して現存し、グーグル等の地図データで検索すると、そちらがかかってしまうようなので注意されたい)で、現在、ダムによって形成された大きな人造湖「津軽白神湖」の北岸と西岸にある。
「川原平村」やはり、底本の森山氏の以前の補註に、『西目屋村川原平(かわらたい)。目屋村の最南端の部落で、弘前市まで三二キロ、秋田県境まで一六キロという』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「半里」約二キロメートル。
「鍋倉澤」幾つかの情報から、先の津軽白神湖の上流にある「大川」の奥にある沢と同定出来る。大川はここ(グーグル・マップ・データ)。
「追𢌞せしかど」「おひまはせしかど」。
「脱去りて」「にげさりて」。
「柳茸」「やなぎたけ」は菌界担子菌門菌蕈(きんじん)亜門真正担子菌綱ハラタケ目モエギタケ科スギタケ亜科スギタケ属ヌメリスギタケモドキ Pholiota adiposa の俗称。無毒(但し、川魚のような生臭さい臭いがあるので灰汁抜きが必要)。個人サイト「北海道の外遊び」の「北海道のキノコ狩り」の「ヤナギタケ(ヌメリスギタケモドキ)」を参照されたい。それによれば、『ヤナギタケは食感が良いので、三升漬けに混ぜたり』、『中華料理など濃厚な味付けをすると美味しく食べられます』とある。
「いとさはに」たいそう沢山。
「好き」「よき」。
「交與(あた)へ」二字へのルビ。
「二三枚」「に、さんひら」。
「落たる」「おちたる。
「駈歸りて」「かけかへりて」。
「内」「うち」。自宅。
「苦痛煩悶(くるしみもだし)」四字へのルビ。
「喧々起(さわぎた)つて」三字へのルビ。]