柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(9) 耳切團一
耳切團一
そこで話は愈々近世の口承文藝の、最も子供らしく且つ荒唐夢稽なる部分に入つて行くのであるが、自分たちの少年の時分には、「早飯も藝のうち」といふ諺などもあつて、いつ迄も膳にかぢり付いて居ることが非常に賤しめられ、多くの朋輩と食事を共にする場合に大抵は先に立つ者が殘つた者の耳を引張つた。痛いよりも恥がましいので、所謂鹽踏みの奉公人などが、淋しい淚を飜す種であつた。どうして耳などを引くことになつたのかと、子供の頃から不審に思つて居ると、嬉遊笑覽卷六の下、兒童戲の鬼事の條に、鬼になつた者が「出ずば耳引こ」と謂つて、柱にばかりつかまつて居る者を挑むことが記して居る。鷹筑波集に塚口重和、出ずは耳引くべき月の兎かな。卽ちもう俳諧の連歌の初期の時代から鬼事の詞となつて我々に知られて居たのである。
鬼事の遊びのもと模倣に出でたことは、其名稱だけでも證明せられる。以前諸國の大社には鬼追鬼平祭(おにひけまつり)などゝ稱して、通例春の始めに此行事があつた。學問のある人は之を支那から採用したと謂ひ、又は佛法が其作法を教へた樣にも謂ふらしいが、何かは知らず古くから鬼が出て大にあばれ、末には退治せられる處を、諸國僅かづゝの變化を以て、眞面目に神前に於て、日を定めて演出したのであつた。さうして子供は特に其前半の方に、力を入れて今以て眞似て遊んで居る。耳を引くといふ文句も其引繼ぎであつたかも知れぬ。さう考へてもいゝ理由があつたのである。
小泉八雲の恠談といふ書で、始めて知つたといふ人は却つて多いかも知れぬ。亡靈に耳を引きむしられた昔話が、つい此頃まで方々の田舍にあつた。被害者は必ず盲人であつたが、其名前だけが土地によつて同じでない。小泉氏の話は下ノ關の阿彌陀寺、平家の幽靈が座頭を呼んで平家物語を聽いたことになつて居り、その座頭の名はホウイチであつた。面白いから明晩も必ず來い。それ迄の質物に耳を預つて置くと言つたのは、頗る宇治拾遺などの瘤取りの話に近かつたが、耳を取るべき理由は實は明かでなかつた。
ところが是と大體同じ話が、阿波の里浦といふ處にかけ離れて一つある。で、右の不審が稍解けることになる。昔團一といふ琵琶法師、夜になると或上﨟に招かれて、知らぬ村に往つて琵琶を彈いて居る。一方には行脚の名僧が、或夜測らずも墓地を過ぎて、盲人の獨り琵琶彈くを見つけ、話を聽いて魔障のわざと知り、からだ中をまじなひして遣つて耳だけを忘れた。さうすると次の晩、例の官女が迎へに來て、其耳だけを持つて歸つたといふので、是は今でも土地の人々が、自分の處にあつた出來事のやうに信じて居る。耳を取つたのが女性の亡魂であつたことゝ、僧が法術を以て救はうとした點とが明瞭になつたが、それでもまだまじなひの意味がはつきりしない。
それを十分に辻棲の合ふだけの物語にしたのが、曾呂利物語であつた。江戸時代初期の文學であるが、此方が古くて前の話が其受賣だともいへないことは、讀んだ人には容易にわかる。是は越後の座頭耳きれ雲一の自傳とある。久しくおとづれざりし善光寺の比丘尼慶順を路の序を以て訪問して見ると、實は三十日程前に死んで居たのであつたが、幽靈が出て來て何氣無く引留め、琵琶を彈かせて毎晩聽き、どうしても返すまいとする。それを寺中の者が注意して救ひ出し、馬に乘せて遁がしてやつた。後から追はれて如何ともしやうが無いので、或寺にかけ込んで事情を述べて賴むと、一身にすき間も無く等勝陀羅尼を書きつけて、佛壇の脇に立たせて置いた。すると比丘尼の幽靈が果して遣つて來て、可愛いや座頭は石になつたかと體中を撫でまはし、耳に少しばかり陀羅尼の足らぬ所を見つけて、爰にまだ歿り分があつたと、引ちぎつて持つて行つたと言つて、其盲人には片耳が無かつたと云ふのである。
其話なら私も知つて居ると、方々から類例の出ることは疑が無い。此民族がまだ如何にもあどけなかつた時代から、否人類が色々の國に分れなかつた前から、敵に追はれて逃げて助かつたといふ話は、幾千萬遍と無く繰返して語られ、又息づまる程の興味を以て聽かれたのである。それが極少しづゝ古臭くなり、人の智慮が又精確になつて、段々に新味を添へる必要を生じた。そこへ幸ひに耳の奇聞が手傳ひに出たといふ迄である。鬼や山姥に追はれた話でも、大抵は何か之に近い偶然を以て救はれたのみならず、其記念ともいふベき色々の痕跡があつた。蓬と菖蒲の茂つた叢に入つて助かつた。故に今でも五月にはこの二種の草を用ゐて魔を防ぐのだといふ類である。古い話の足掛かりのやうなものである。さうすれば座頭其者がやがて又、見るたびに此の話を思ひ出さしめる一種の大唐櫃や、蓬菖蒲の如きものであつたとも言へる。
[やぶちゃん注:「耳切團一」「みみきりだんいち」或いは「みみきれだんいち」。講談社「日本人名大辞典」等によれば、民話の主人公で、後で柳田が概略する徳島県鳴門に伝わる話が一典型として知られる。団一は琵琶法師で、官女の霊に憑りつかれ、夜毎、墓場で琵琶を一心不乱に弾いていたが、それをたまたま目にした旅僧が団一の全身に呪(まじな)を施したが、それをし忘れた耳たぶの部分を迎えにきた霊に引き千切られてしまう。それでも命は救われ、それ以来、「耳切団一」と呼ばれるようになったという話で、他に、寺の小僧が山姥(やまうば)に追い駆けられるという同原類話が福島県や新潟県に伝承されるという。
「早飯も藝のうち」「速く飯を食うことも、人の芸の一つに数え挙げられる」という意の他に、「特別に芸を持たない者にとっては、速く飯を食うことぐらいを芸とするしかない」という揶揄の意味もある。「早飯早糞芸の内」或いは「早飯早糞早支度」などを類語とする。柳田が「いつ迄も膳にかぢり付いて居ることが非常に賤しめられ」と書く辺り、食にすこぶる貪欲(とんよく)であることを誡める点で、仏教的な戒のニュアンスも感じられる。
「鹽踏みの奉公人」単に「汐踏(しほふみ)」とも。商家での奉公の、初期の行儀見習いを指す語。主に女性について使った。堀井令以知氏の『京都新聞』の「折々の京ことば」によれば、戦前までは「娘はシオフミに出んと嫁に行かれへん」と言って、京の旧家で行儀作法を見習った。シオフミ(塩踏み)は「辛苦を経験すること」の比喩で、切り傷に塩が染むと骨身にこたえることから、「苦労をして世間を知ること」の謂いともなった、とある(堀井氏のそれはネット上のある記事のキャッシュから孫引きした)。
「飜す」「こぼす」。「零(こぼ)す」。
「嬉遊笑覽卷六の下、兒童戲の鬼事」「鬼事」は「おにごと」と訓ずる。「嬉遊笑覽」(きゆうせうらん(しょうらん)」は喜多村信節(のぶよ)著になる考証随筆。全十二巻・付録一巻。天保元(一八三〇)年刊。当該項は以下(岩波文庫版を参考に、恣意的に正字化し、歴史的仮名遣のひらがなの読みは私が附した)。
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「浮世物語」に、『鼠まひ小路(こうぢ)がくれ云々』あり。鼠まひは出んとして出ざるなり。山岡元隣が「誰(たが)身のうへ」三、『庄屋殿の一人の子もちたれども、此(この)子うちねづみにて、我(わが)うちより外を知らず』といへる、是なり。又、「出ずば耳ひこ」とは、鬼になりたる者をいふ也。「鷹筑波(たかつくば)集」、『重和 出ずは耳ひくべき月の兎かな』。「篗絨輪(わくかせわ)」十一集、『火傷(ヤケド)ならず果報にも引耳の𦖋(タブ)』こは上のことにあづからねども、耳引くこともくさぐさ也。
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「鷹筑波集」西武(さいむ)編になる貞門の俳諧撰集。五巻。寛永一九(一六四二)年刊で松永貞徳序(序のクレジットは寛永一五(一六三八)年)。書名は室町後期(大永四(一五二四)年以降に成立)の俳諧連歌撰集である山崎宗鑑の「犬筑波(いぬつくば)集」に対するもの。貞徳が三十年来批点を施した発句・付句を西武に編集させたもので、貞徳直門の俳人三百余が名を連ね、事実上、本書が貞門の第一撰集とされる。
「塚口重和」不詳。
出ずは耳引くべき月の兎かな。卽ちもう俳諧の連歌の初期の時代から鬼事の詞となつて我々に知られて居たのである。
「鬼追」「おにおひ」。所謂、「追儺」、「おにやらひ(おにやらい)」であるが、柳田がルビを振らぬ点、しかも併置した「鬼平祭(おにひけまつり)」(「平(ひけ)」は「平らげる」「退ひ)かす」の意であろう)とルビしている点、さらに現存する同行事の呼称を調べてみても、「おにやらひ」ではなく、「おにおひ」と訓じていると判断した。文庫版全集もルビはない。
「學問のある人は之を支那から採用したと謂ひ」こういう柳田の口吻はすこぶるいやらしい。自分こそそうした輩であると内心自認しているくせにと揶揄したくなる。折口信夫と民俗学に性的研究をなるべく持ち込まぬように密約し、非アカデミズムの博覧強記たる南方熊楠をどこか煙たがり、「遠野物語」をちゃっかり自作にしておいて佐々木喜善を埋もれさせ、「海上の道」で非科学的な謂いたい放題をし腐っておいて、この謂いは、なかろうよ! なお、現在、「追儺(ついな)」の儀式は「論語」の「郷黨篇」に記述があり、中国の行事がその起源とされている。柳田の一面でさえこうだから、貧相で無知な日本主義者の阿呆な主張が今も亡霊の如くのさばっているのだとも言える。
「下ノ關の阿彌陀寺」現在の山口県下関市阿弥陀寺町にある赤間神宮にあった寺。忌まわしき廃仏毀釈で廃寺となった。
「阿波の里浦」現在の徳島県鳴門市里浦町。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「稍」「やや」。
「曾呂利物語」「そろりものがたり」は寛文三(一六六三)年板行の怪談集で五巻五冊。外題は「曾呂利快談話」であるが「曾呂利物語」の内題で通称される。秀吉の御伽衆として知られた曾呂利新左衛門の談に仮託するが、編著者は不詳。
「是は越後の座頭耳きれ雲一の自傳」「曾呂利物語 卷四」の「九 耳きれれうんいちが事」であるが、これは「自傳」とは言えない。早稲田大学古典総合データベースの画像で原本を視認しつつ、一部を漢字に直した一九八九年岩波文庫刊「江戸怪談集(中)」(高田衛編・校注)を参考に(従っていない部分も多い。例えば、原本は一貫して主人公を「うんいち」と記しているのに、高田氏は「うん市」とする)、恣意的に正字化して以下に示す。挿絵は同一「江戸怪談集(中)」のものをトリミングして挿入した。適宜、改行を施した。
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九 耳切れうんいちが事
信濃の國、善光寺のうちに、比丘尼寺(びくにでら)ありけり。また、越後の國にうんいちと云ふ座頭はべる。常に彼(か)の比丘尼寺に出入りしけり。
ある時、勞(いた)はる事有りて、半年程、訪れざりけり。少し快くして、彼の寺に行きけり。主の老尼、
「うんいちは遙かにこそ覺ゆれ。何として打ち絶えけるぞ。」
と云ひければ、
「久しく所勞(しよらう)の事候ひて、御見舞ひも申さず候。」
と云ふ。
兎角して、其の日も暮れければ、
「うんいちは、客殿(きやくでん)、宿られよ。」
と云ひて、老尼は方丈に入りぬ。
爰に、けいじゆん、とて、弟子比丘尼あり、三十日程さきに、身まかりぬ。かのけいじゆん、うんいちの臥したる所へ行きて、
「其の後は久しくこそ覺ゆれ。いざ、我々が寮(れう)へ伴ひ侍らん。」
と云ふ。うん市は死したる人とも知らず、
「それへ參るべく候へども、御一人坐(おは)します所へ參り候ふ事は、如何(いかが)にて候ふまま、えこそ參るまじ。」
と云ふ。
「いやいや、苦しうも候はず。」
とて、是非に引き立て行く。
彼の寮の戸を内より強く鎖(さ)して、明くる日は外へも出ださず、さて暮れぬ。
うんいち、氣詰(つ)まり、如何すべきと思ひながら、すべきやうもなし。めうけつに行事(ぎやうし)の鐘の音しければ、
「行事に逢ひて歸り候はんまま、あなかしこ、よそへ出づる事あるまじ。」
と云ひて出でぬ。さて、如何して出でんと、邊りを探りまはしければ、いかにも嚴しく閉ぢめければ、出づる事もならず。
夜明けて、けいじゆんは歸りぬ。
かくする事、二夜(ふたよ)なり。
其の中に、食ひ物絶えて、迷惑の餘りに、三日目の曉(あかつき)、行事(ぎやうし)に出でけるうちに、寮の戸を荒らかに叩き呼ばはりければ、則ち、寺中の者、出で合ひ、戸口を蹴放(けはな)し見れば、うんいちなり。
「此の程は何處(いづこ)へ行きけるぞ。」
と、尋ねければ、
「爰に居てこそ侍れ。」
と云ふ。
見れば臠(ししむら)少しもなく、骨ばかりにて、さも恐ろしき姿なり。
「如何(いか)に、如何に。」
と問へば、如何にも疲れたる聲にて、息の下より、
「しかじかの事にて侍る。」
と語る。
「けいじゆんは、三十日ほど前に、身まかりぬる」
と云へば、愈々(いよいよ)、興覺(けうさ)めてぞ覺えける。
一つは、けいじゆん弔ひの爲、又は、うんいちが怨念を拂はん爲めとて、寺中寄り合ひ、百万遍の念佛を修行しける。
各(おのおの)、鐘うち鳴らし、誦(じゆ)經しける時に、何處ともなく、けいじゆん、形を現はし出で來たり、うんいちが膝を枕にして臥しぬ。念佛の功力(くりき)に因りて、ひた寢入りに寢入り、正體(しやうだい)もなかりければ、かかる隙(ひま)に、うんいち、枕を外し、
「はや、國に歸り侯へ。」
とて、馬を用意して送りぬ。道すがら、いかにも身の毛よだち、後(あと)より取り付かるるやうに覺え、行き惱みけるほどに、ある寺へ立ち寄り、長老に會ひて、
「しかじかの事侍り。平(ひら)に賴み奉る。」
と云ふ。
「さらば。」
とて、有驗(うげん)の僧、數多(あまた)寄り合ひ、うんいちが一身に、尊勝陀羅尼(そんしやうだらに)を書き付けて、佛壇に立て置きぬ。
さる程に、けいじゆん、さも恐ろしき有り樣にて、彼の寺に來たり、
「うん市を出だせ、出だせ。」
とののしりて、走りまはりしが、うんいちを見つけて、
「噫(ああ)、可愛(かはひ)や、座頭は石になりける。」
とて、撫で𢌞し、耳に少し陀羅尼の足らぬところを見出だして、
「玆(ここ)に、うんいちが、切れ殘りたる。」
とて、引き千切(ちぎ)りてぞ歸りにける。
さてこそ、甲斐なき命助かりて、本國へ歸りしが、耳切れうんいちとて、年長(とした)くるまで越後の國にありしとぞ。
*
簡単に語注しておく。
・「うんいち」「うん」は運・雲・云など、「いち」は一・壱・市などが想起される。
・「勞(いた)はる事」病気に罹患すること。
・「遙かに」久しぶりのことと。
・「御見舞ひ」御機嫌伺い。
・「けいじゆん」「けい」は惠・慶・慧など、「じゆん」は順・純などが想起される。
・「寮」尼僧らの僧坊内の彼女の個室を指していよう。だから「御一人坐します」と遠慮するのである。
・「氣詰まり」何とも言えず気持ちが塞いで。実は亡者の陰気によるものであるが、主人公「うんいち」の意識では、尼僧と同室にて一夜を過ごしたことへの後ろめたさの心因反応と理解していよう。
・「めうけつ」参考にした高田氏の脚注に、『不詳。「冥契に」(深いちぎり、の意)か』とある。
・「行事(ぎやうし)」原本は表記の読みのママ。高田氏は脚注で、『原本「ぎやうし」。意によって改』めた、とされ、さらに、『勤行のこと。朝夕行われるが、ここでは夜の勤行』とある。
・「行事に逢ひて歸り候はんまま、あなかしこ、よそへ出づる事あるまじ。」「けいじゆん」の台詞。「夜の勤行の刻限となりましたれば、出でまするが、ここに妾(わらわ)が帰って参りまするまで、そのまま、よろしいか。決して、外へ出ては、いけませぬぞ。」。
・「臠(ししむら)」身体に肉の部分。生気(精気・陽気)をすっかり亡者に吸われたのである。
・「百万遍の念佛」高田氏の脚注に、『災厄や病気をはらうために、大勢が集まって念仏を百万回となえる行事』とある。
・「尊勝陀羅尼」仏頂尊勝(密教で信仰される仏の一種で、如来の肉髻(にっけい:仏の頭頂部にある盛り上がり)を独立した仏として神格化したもの及びそれと同じ神通力を持つ呪文を神格化したもの)の功徳を説いた陀羅尼(だらに:密教で仏菩薩の誓いや教え・功徳などを秘めているとする呪文的な語句で原語を音写して用いるものの内、語句数の多いものを指す)。八十七句から成り、これを唱えたり、書写したりすれば、悪を清め、長寿快楽を得、自他を極楽往生させるなどの功徳があるとされる。
・「可愛や」「なんとまあ! 可哀想なこと!」。
「序」「ついで」。柳田のこの部分は冒頭の導入部をすっ飛ばしており、本文に即しているとは言えない。前の原文参照。まあ、「うんいち」の「自伝」と言っちまっ柳田としては、かく脚色したかっただろうけど、私しゃあ、気に入らないね。
「後から追はれて如何ともしやうが無い」「後から追はれて来るような」気が強くしたので、である。事実、霊は追っては来るのだがね。
「等勝陀羅尼」ママ。文庫版全集もママ。こんな陀羅尼、聴いたこともありません! 誤字ですよ! 誤字! 柳田センセ!!
「鬼や山姥に追はれた話でも、大抵は何か之に近い偶然を以て救はれたのみならず、其記念ともいふベき色々の痕跡があつた。蓬と菖蒲の茂つた叢に入つて助かつた。故に今でも五月にはこの二種の草を用ゐて魔を防ぐのだといふ類である」端午の節句では、摘んできた蓬(よもぎ)や菖蒲(しょうぶ)を軒に吊るすことで、無病息災を祈り、邪気を払えるとした習俗があるが、この由来譚(但し、後附けであろう)の知られた一例として、山姥や鬼・化け蜘蛛などが女に変身して人の男の女房となる異類婚姻譚「喰わず女房」があり、蓬や菖蒲は、主人公の男が、その呪的逃走を成就するための必須アイテムとして立ち現われる。例えば。サイト「お話歳時記」の「端午の節句と山姥」が読み易く、判り易い。
「大唐櫃」「おほからびつ」。次の次、「山神と琵琶」に出る山形県大石田町の座頭譚を受けたもの。]
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