人魚夢
三日前の未明の夢――
人々によって人魚が捕獲される。僕はあまりに可哀想になって婚姻届に僕の名を書き(彼女の姓名の欄には姓に「人」(ルビ:にん)、名「魚」(ぎょ)と書いたことは覚えている)、目出度く受理され、僕は捕獲者らが口をポカンと開けて呆然としている中、彼女をお姫さま抱っこして正当に引き取るのであった――
そのまま(僕が彼女をだっこしたまんま)スペインのコスタ・デ・ソルの無人の砂浜にいる。
僕は波打ち際へと入ってゆき、彼女を沖へ放つ。
彼女は波頭に一跳びすると、水面で尾鰭だけで「さよなら」をして海底(うなぞこ)へと消えていった……
[やぶちゃん注:ここより前段の捕獲シーンを眺めている場面があったが、記憶を再構成してしまっている惧れがあるのでカットした。実に残念なことは、彼女(人魚)の顔を全く覚えていないことである(これは覚醒時も同様であった)。しかし、浦島太郎的迂遠な乙姫との出逢いから復讐顛末という残酷性からは救われており、久しく悪い夢しか見ていない僕には珍しい「いい夢」であった。実はこの夢、僕にはすこぶる納得出来る夢であり、かなりはっきりとした解釈が出来るのであるが、それは他人には面白くないことであるから、ここには記さない。序でに言えば、コスタ・デ・ソルには十数年前の灼熱の夏、ガウディ参りの途次に寄ったけれど、砂浜は芋洗い状態で、しかも半数近い女性がトップレスであったため、砂ばかり弄っていて海を少しも見られず(僕は僕のウブであることを暗に言っているのではない。実際にそうした中に投げ込まれると恐らく多くの日本人男性はそうなるはずである)、早々にホテルに引き揚げ、ホテルのプール際で、やおら、持参した岩波文庫の「北越雪譜」を読み続けたのを思い出すばかりである。
ふと、思い出した好きな詩がある。
伊藤整の「海の少女に」だ。彼のパブリック・ドメインは僕の生きているうちには来ないような気がしてきたので、ここにひっかけて引用で出そう。
海の少女に 伊藤 整
ではお歸り。
そこの濱風がおまへを呼んでゐる。
海續く草原に牛が鳴き
岬は七月の草木に埋まつて
鳴り騷ぐ浪の上に臨んでゐる。
おまへは其處の金色の朝日に射られて
鷗のやうに羽搏くのだ。
おまへの惱みから逃れ
おまへを疲らすものを脱ぎすてて
砂上の裸足の少女になり
髮を吹かれる微風の子になり
磯の貝を拾つてゐるうちには
浪の音に今までの言葉も思ひだせなくなり
もしかしたら自分は
天上から來たみなし兒だと考へるやうになるだらう。
でもあり日ふと足もとに泡立つ浪のおもてに
ぽつかりと私が寫つたら
おまへは始めて悟つて驚くだらう。
私を置いて行つてから
どんなに長いことになつてゐるかを。
底本は昭和33(1958)年新潮文庫「伊藤整詩集」を用いた。これはその初版の28刷で昭和55(1980)年刊のものだが、ああ、この時代(僕は既に教員二年目)でも正字正仮名の正統なるこれが、たった280円で売られていたことをさえ、僕はなんだかひどく古えのことのように懐かしく思い出していた……]
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