芥川龍之介 手帳6 (7)
〇倚陶軒(李鴻章の別莊) 大花園――陶塘 豚 擣衣 柳 水 アカシア 濟良所(蕪湖) 自由廢業 南陽丸 水の差は漢口にても45尺位 桃冲鐵山――荻港
[やぶちゃん注:「倚陶軒(李鴻章の別莊)」「大花園」「倚陶軒」は「いとうけん」と芥川龍之介は読んでいることが、「長江游記 一 蕪湖」(蕪湖は後注参照)から判る。そこでは、『一通り町を遍歴した後、西村は私を倚陶軒(いとうけん)、一名大花園と云ふ料理屋へつれて打つた。此處は何でも李鴻章の別莊だつたとか云ふ事である。が、園へはひつた時の感じは、洪水後の向島あたりと違ひはない。花木は少いし、土は荒れてゐるし、「陶塘」(たうたう)の水も濁つてゐるし、家の中はがらんとしてゐるし、殆(ほとんど)御茶屋と云ふ物とは、最も縁の遠い光景である。我我は軒(のき)の鸚鵡の籠を見ながら、さすがに味だけはうまい支那料理を食つた。が、この御馳走になつてゐる頃から、支那に對する私の嫌惡はだんだん逆上の氣味を帶び始めた』と鬱屈した感懐を記している。
「陶塘」筑摩全集類聚版の「長江游記」の脚注には、『「塘」はつつみ、陶堤というに同じ』とあるが、では「陶堤」とは何か、記していない。わざわざ芥川が鍵括弧を附した意味が分からぬ。岩波版新全集の同作への篠崎美生子氏の注解は「未詳。」とする。彼女は鍵括弧を附した特別な意味を感じ取って、敢えて注釈者としてはやりたくない「未詳」を附したのであろう。但し、これは調べてみると、蕪湖市内にある鏡湖の古名であることが判った。中国旅行社の「黄山旅遊網」の日本語版の「蕪湖」のページによれば(現在、このページは消失している模様である)、南宋期の詩人の詩に「田百畝を献し、合流して湖に成り」、その豊かなる田園の様は陶淵明を慕うかのようであるから、「陶塘」と名付けるというようなことが記されており(やや日本語と構文がうまくない)、『歴代の拡張工事によって、今の鏡湖は面積が』十五万平方メートルもあり、平均水深が二メートル、『水面が鏡のように透き徹ってい』るとあり、『湖堤には柳が揺らぎ、蕪湖八景の一つ「鏡湖細柳」はここで』あると記す。芥川は、かの有名な陶淵明所縁の「陶塘」と風雅に呼ばれた鏡湖、の意味(その清らかな靖節先生、「鏡」の湖が、「濁つてゐる」という皮肉)を込めて鍵括弧を附したのであると私は思う。
「豚」これも「長江游記 一 蕪湖」で辛辣な中国批判をする枕に使われている。
「擣衣」「たうい(とうい)」と読む。砧 (きぬた) で衣を打つこと、その音である。
「アカシア」マメ目マメ科ネムノキ亜科アカシア属 Acacia の総称。
「濟良所」「長江游記 一 蕪湖」でも芥川龍之介によって解説されてあるが、筑摩全集類聚版「長江游記」の脚注等によれば、中華民国時代に置かれた官営の元売春婦を保護した機関のこと。官妓や公娼の中でも誰かに引かされたのではなく、自分の意思でやめた者(以下の売春を「自由廢業」した女性)は、一般の仕事に就き難くかった。そこで、ここで手仕事や新時代の一般教養を習得させ、正業に就かせようとした。
「蕪湖」現在、安徽省第二の大都市となった蕪湖(Wúhú:ウホウ)は上海から約三百九十キロメートル、南京から約九十キロの長江中流に位置する。昔から四大穀倉地帯の一つとして、また長江中流の物産の集積する港町として栄えてきた。街中には水路・運河・湖や池が多く、河岸には問屋街が並ぶ。由緒ある古寺や中国四大仏教聖地の一つである九華山、名山と知られる黄山等がある景勝地である。
「南陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期」のページに、日本郵船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号155)。その資料によれば、明治四〇(一九〇七)年に「南陽丸」“NANYO
MARU”として進水、船客は特一等が十六室・一等二十室・二等四十六室・三等二百五十二室、明治四〇(一九〇七)年に日清汽船(東京)に移籍後に「南陽丸“NAN
YANG MARU”」と改名している。昭和一二(一九三七)年に『上海の浦東水道(Putong
Channel)で中国軍の攻撃を受けて沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。
「水の差は漢口にても45尺位」とは内陸の漢口(武漢)でも長江の水位の変化は、一・二~一・五メートルほどもあるというメモであろう。但し、これは何となく潮差を念頭に置いている記述のようだが、実際には武漢のような内陸では潮汐による水位変化ではなく、上流からの流入水量の変化によるものであろう。
「桃冲鐵山」現在の安徽省蕪湖市繁昌県桃沖村(ここ(グーグル・マップ・データ))にあった鉄鉱と日本も当時の日本も出資した製鉄所のことであろう。「神戸大学経済経営研究所」公式サイト内の「新聞記事文庫」データベースの「製鉄業」にある『中外商業新報』大正五(一九一六)年八月四日附記事、東洋製鉄会社計画になる「製鐡創立決定 桃冲鐡鑛利用」を参照されたい。
「荻港」桃沖村の東にある、現在の桃沖村と同じ繁昌県の長江右岸の村、荻港鎮のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。ここから採掘した鉄鉱を長江から下して日本へ送ったものであろう。敢えて日本語で音読みするなら、「テキコウ」か。]
○小孤 竹樹 白壁 尼寺 ――飜陽湖 大孤山 ――廬山 ――赤土 塔(癈) 柳 紫の家 白壁 ――九江 水際の城壁
[やぶちゃん注:「小孤」現在の安徽省安慶市宿松県にある、長江(蕪湖の遙か上流)に浮かぶ島「小孤山」であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。「安徽省旅行局」公式サイト内のここに写真があり、「白壁」に納得、さらにそこに現在、中国に残る唯一の「媽祖(まそ)廟」(航海や漁業の守護神として中国沿海部を中心に信仰を集める道教の女神)があるとあるので、「尼寺」も何となく納得してしまった。
「飜陽湖」現行の読みに従い、「はようこ」と読んでおく。廬山の南東に広がる江西省北部・長江南岸にある中国最大の淡水湖。現在は「鄱陽湖」と書く。
「大孤山」中文サイトの「鄱陽湖」の名所旧跡にあり、写真からは判らないが、どうも、長江の鄱陽湖と接する附近(廬山東方)の湖中に屹立する島のようである。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「廬山」江西省九江市南部の名山。海抜千四百七十四メートル(ここ(グーグル・マップ・データ))。古くは陶淵明・李白・白居易ら文人墨客が訪れ、神聖な山として知られ、また、後には毛沢東ら中国共産党高官も避暑地としてここに山荘を構えた。一九五九年に毛沢東の右腕であった国防部長彭徳懐がここで開催された中国共産党政治局拡大会議(廬山会議)で追放されている。因みに私は、私が何故か「廬山」から真っ先に連想するのはそのことで、私は同志として毛沢東と対等に渡り合った彼が好きだからである。その彭徳懐の廬山での最後の笑っている映像が、私には何故かひどく印象に残って忘れられぬのである。なお、芥川は「長江游記」で、二章に渡って失望に満ちた皮肉な廬山実見記を綴っている。
「塔(癈)」廬山の東晋創建(三六六年)の古刹西林寺にある唐の玄宗の治世であった開元年間(七一三年~七四一年)に建てられた西林塔か。六角七層の塔で、宋の蘇東坡が訪れ、寺の壁に詩を残したことで知られる。現在は復興されているが、これはごく直近の再建のようであるから、「廢」は頷けるように思われる。
「九江」現在の江西省の長江右岸の九江市市街。廬山の北。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
○兵士(帶劍 鼠服 白笠赤毛)民(ムギワラ帽 竹の天秤 黑日傘)○韮たば 支那軍艦(和舟) 竹筏 柳 纏足の女(ヌヒトリの靴、足極小)
[やぶちゃん注:「韮」単子葉植物綱キジカクシ目ヒガンバナ科ネギ属ニラ Allium tuberosum。]
○牛糞燃料 牧童 水牛 牛 アカシア ポプラア 野薔薇 麥黃 ○赤塗の椅子(籐の部分殘ス) Kuling Estate Head Coolie No.(黑へ白 麥藁帽)
[やぶちゃん注:“Kuling Estate Head Coolie No.”は、「長江游記」の「廬山(上)」に、『その間に大勢の苦力(クウリイ)どもは我我の駕籠の支度をするのに、腹の立つ程騷いでゐる。勿論苦力に碌な人相はない。しかし殊に獰猛なのは苦力の大將の顏である。この大將の麦藁帽は Kuling Estate Head Coolie No* とか横文字を拔いた、黒いリボンを卷きつけてゐる』と使われている。“ kǔlì”は本来は「肉体労働者」の意であるが、ここでは所謂、荷揚げ人夫のこと。芥川一行は「轎子(きょうし)」というお神輿のような形をした乗物に乗って廬山登山をしているが、これは、お神輿の部分に椅子があり、そこに深く坐って、前後を四~2人で担いで客を運ぶものである。なお、これは日本由来の駕籠や人力車とは違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現在も廬山には四人持ちのものがあるらしい。「クーリー階級の頭(かしら)○番」(先の「*」と「○」は任意の数字を示すもの)の英訳である。]
○紅白ウツギ 薊 除虫菊 野薔薇 ○大元洋行 石 赤ヌリ 窓 日章旗 オイルクロオスに花模樣あるあつし ○憐むべき租界 草 石 禿 家 支那町 ブリキ屋 煙草屋 ランプ屋 酒樓 マアケツト 安貧所
[やぶちゃん注:「紅白ウツギ」「長江游記 三 廬山(上)」に、『私はその駕籠の棒に長長と兩足を伸ばしながら、廬山の風光を樂んで行つた。と云ふと如何にも體裁が好いが、光は奇絶でも何でもない。唯(ただ)雜木(ざふき)の茂つた間(あひだ)に、山空木(やまうつぎ)が咲いてゐるだけである。廬山らしい氣などは少しもしない。これならば、支那へ渡らずとも、箱根の舊道を登れば澤山である』と出る。そこで私は注して、
*
和名の「ヤマウツギ」は、まず、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科コクサギ Orixa japonica の別名(「和名抄」)として用いられるが、分布や花の開花期は本記載と一致するものの、花自体が目立たないものなので、同定から除外する。次にキク亜綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ(ベニウツギ)Weigela coraeensis の別名(「大和本草」)として用いられるが、本種が中国に分布するかどうかは確認出来ないし、本邦の海岸近くに植生するという点からも除外される(因みに「箱根」が本文に出るのでこれを同定したいところであるが、このハコネウツギ、箱根とは無関係で、箱根には僅かにしか植生しない)。そうなると、広範な意味でのウツギ、バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ属Deutziaに属するもので、大陸性のものを選ぶしかないが、ウィキの「ウツギ」によると、マルバウツギDeutzia scabra・ヒメウツギ Deutzia gracilis 等の『同属の類似種多く、東アジアとアメリカに60種ほど分布する』とあるのみで、しかも中文ウィキの「ウツギ」の相当するページには、本邦のウツギ属ウツギ Deutzia crenata をごく短く載せるにとどまるばかりである。ところが同種は所謂、「卯の花」で原種の花は白い。これまでである。識者の御教授を乞う。
*
と注した。しかし、ここで今回、芥川龍之介は「紅白」と記しており、しかも『これならば、支那へ渡らずとも、箱根の舊道を登れば澤山である』という謂いが気になった。僅かにしか植生しないにしても、これはやはり、バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ属Deutziaのウツギ類ではなく、キク亜綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ(ベニウツギ)Weigela coraeensis の仲間なのではあるまいか? 何故かというと、実にハコネウツギは実は一本の木に、白の花と有意に赤味を帯びた、まさに「紅白」の花が咲くからである。但し、私は廬山に行ったことがなく、この龍之介の謂いが、一本の木に紅白の花が咲いているの意味なのか、それが別々の木に咲いているのかは確認出来ない。ここでまた、これまでである。識者の御教授を俟つ。
「除虫菊」キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギギク属シロバナムシヨケギク(白花虫除菊)Tanacetum cinerariifolium のこと。ウィキの「シロバナムシヨケギク」によれば、『胚珠の部分にピレスロイド』(pyrethroid)『(ピレトリン)を含むため、殺虫剤の原料に使用されている。地中海沿岸原産であり、セルビアで発見された』とし、日本への渡来は新しく、明治一九(一八八六)年とある。時に、このウィキの中文版は、Tanacetum coccineum という同属の別種をリンクしており、こちらは中国語名を「紅花除虫菊」と称し、中国全土にするとある。但し、名前から判る通り、これは実は非常に鮮やかな紅色を呈しており、大陸とある。但し、「長江游記 三 廬山(上)」には単に『薊や除蟲菊の咲いた中に、うつ木(ぎ)も水水しい花をつけた、廣い草原が展開した』とあるだけで、それが赤いとは書いてない。これだけ鮮やかなら、私は芥川龍之介なら必ず、日本とは違って「鮮やかに赤い」と形容するはずだと思う(芥川龍之介は花にはかなり詳しい)。ということは、やはり、白い本邦種と同じか、近縁種と考えるべきか。
「野薔薇」バラ亜綱バラ目バラ科バラ亜科バラ属ノイバラ(野茨)Rosa
multiflora のこと。標準的なものは樹高二メートル程度であるが、私自身、それを遙かに超えるものを何度も現認したことがある。
「大元洋行」「長江游記 三 廬山(上)」本文に出る。筑摩全集類聚版の「長江游記」の脚注に、『九江最大の日本人旅館。後、増田旅館と改名。』とあり、本文で芥川龍之介が述べているように、廬山に支店を持っており、当時、日本人の廬山観光は、この旅館が一手に担っていたらしい。
「石 赤ヌリ 窓 日章旗」「長江游記 三 廬山(上)」の先の引用に続いて、『その草原が盡きるあたりに、石の垣をめぐらせた、小さい赤塗りの家が一軒、岩だらけの山を後(うしろ)にしながら、翩翩(へんへん)と日章旗を飜してゐる。私はこの旗を見た時に、租國を思つた、と云ふよりは、祖國の米の飯を思つた。なぜと云へばその家こそ、我我の空腹を滿たすべき大元洋行の支店だつたからである』とある(下線太字はやぶちゃん)。
「オイルクロオス」“oilcloth”。綿やネルなどの厚手の布地の表面にエナメルや桐油を塗った布。模様をつけたものもあり、防水性があって汚れが落ちやすいので、テーブル掛けや床張りに用いる。
「あつし」「厚子」「厚司」などと表記し、大阪地方で産出する厚地の綿織物。三省堂「大辞林」を引くと、それで作った衣服をも指し、多くは紺無地か大名縞で、前掛けや労働着として用いるとあった。当初は旅館「大元洋行」の番頭の前掛けか、などとも思ったが、前が「オイルクロオス」であるから、ここは旅館の個室或いは食堂のテーブル・クロスであろう。
「安貧所」これはキリスト教系の貧民救済を目的とした救貧院(英語:poorhouse)のことか?]
○香爐峯ニ白樂天 李白 ○分門關の瀧 (4 or 5日前虎來り牛小屋の犬をくふ)○山下 カヤの木 竹 枯カヤを天井にした路 ロバ 豚
[やぶちゃん注:「香爐峯ニ白樂天」言わずもがな、漢文でさんざんやった中唐の白居易の著名な以下の七言律詩を指す。
香爐峰下、新卜山居、草堂初成、偶題東壁
日高睡足猶慵起
小閤重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聽
香鑪峯雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍爲送老官
心泰身寧是歸處
故郷可獨在長安
香炉峰下、新たに山居を卜(ぼく)し、
草堂、初めて成り、偶(たまたま)東壁
に題す
日高くして睡るに足るも 猶ほ起くるに慵(ものう)し
小閣に衾(ふすま)を重ね 寒さを怕(おそ)れず
遺愛寺の鐘は 枕を欹(そばだ)てて聽き
香鑪峯の雪は 簾(すだれ)を撥(かか)げて看(み)る
匡廬(きようろ)は 便(すなわ)ち是れ 名を逃(のが)るるの地
司馬は 仍(な)ほ 老を送るの官たり
心泰(やす)く 身も寧(やす)らかなるは 是れ 歸する處
故郷 何(なん)ぞ獨り 長安にのみ在らんや
「李白」盛唐の詩仙李白の、これまた漢文でさんざんやった、かの七言絶句「望廬山瀑布」を想起したのであろう。
望廬山瀑布
日照香爐生紫煙
遙看瀑布挂前川
飛流直下三千尺
疑是銀河落九天
廬山の瀑布を望む
日は香爐を照らし 紫煙生ず
遙かに看る 瀑布の前川(ぜんせん)に挂(か)くるを
飛流直下三千尺
疑ふらくは是れ 銀河の九天より落つるか と
何? 意味? あんたね、高校の漢文、全部、やり直しな!
「分門關の瀧」不詳。廬山には多数の瀧があるが、中でも著名な滝は「三畳泉瀑布」で、落差は百五十五メートルに達する。但し、それがこれかも、はたまた、前の李白の「望廬山瀑布」がこの瀧かどうかも不明。識者の御教授を乞う。
「カヤ」本邦のそれは裸子植物門マツ綱マツ目イチイ科カヤ属カヤ(榧)Torreya
nucifera であるが、中国には植生せず、同属そのものが分布しないようなので、葉が似た全くの別種(イチイ科 Taxaceae ではあるか)と思われる。]
○龍池寺 九江總商會 甘棠湖 ○煙水亭 鳶飛魚躍(黑へ金)――湖山主人 柳 壁に蔦 洗濯女 傘 水上 燕 浮草 〇一小亭 緑識廬山眞面目 且將湖水泛心頭 ○湖水 煙亭ヲ遠ザカルト白濁トナル ○小丘 草靑 麥黃 土赤 ○天花宮 (柳)煙水亭の正面 廬山 ○天花宮前古柳樹(槐)(藍へ金 白壁)漁翁
[やぶちゃん注:「龍池寺」中文サイト「壹讀」の「中國佛教十大名山之六:佛國凈土匡廬山」によって、廬山に多数あった寺の一つであることは判ったが、それ以外は不詳。
「九江總商會」当時の九江市商工会連合会のことか。
「甘棠湖」現在の九江市内にある大きな湖。面積十八ヘクタールに及ぶ景勝地。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「煙水亭」白居易が江州司馬に左遷されていた頃(八一六年~八一八年)に建てたとされる亭であるが、例えば、こちらの九江紹介ページの写真を見ていただくと分かるが、三国時代には呉の周瑜(しゅうゆ:後漢末期の武将で孫権に従い、赤壁の戦いで曹操軍を撃退した名将)が軍事訓練を行った場所ともされており、全島がまるで要塞のように壁と建物によって取り囲まれている(他のネット記載を見ると、島に入る道は一本橋のみだそうである)。恐らくはこれ(グーグル・マップ・画像データ。地図とはずれがあり、地図には煙水亭は何故か、載らない)。
「鳶飛魚躍(黑へ金)」「鳶飛魚躍」は「えんぴぎよやく」と音読みするか、或いは「鳶(とび)飛び、魚(うを)躍(おど)る」と訓ずる。「詩経」の「大雅」の「旱麓(かんろく)」の一節、「鳶飛戾天。魚躍於淵」(鳶は飛びて天に戾(いた)り、魚は淵に躍る)に基づく故事成句で、万物が自然の本性に従って自由に楽しんでいることの喩え。また、そのような天の原理の作用を指す。また、君主の恩徳が広く及び、人々がその能力などによってそれぞれの適所を得ている譬えともなった。「黑へ金」とは黒地に金で、この文字が記されていたというのであろう。前の九江紹介サイトには、煙水亭の中には周瑜のタイル画や像などが置かれてあるとあるから、これもその一つか。
「湖山主人」不詳。
「一小亭」固有名詞ではなく、「小さな四阿(あずまや)」の意か?
「綠識廬山眞面目 且將湖水泛心頭」「綠識」不詳。「緑(みどり)なす」とは読めぬが、緑の景観が「廬山」の「眞面目」であり、「且つ將(ま)た」、その甘棠湖の「湖水」にそれが写って清らかな「心頭」(心)が泛(うか)ぶようだ、との謂いか? 大方の御叱正を俟つ。
「天花宮」「娘娘廟」とも称する寺。九江の南門湖と甘棠湖間の長提の南端にあり、清代一八七〇年の創建で、子宝をもたらす神さまとして信仰されたらしいが、ネットで調べると、現在は相当、ボロボロらしい。
「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium
japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと、中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。]
○boy 來る――雨――麥黃 柳と民家 ――崖赤 草靑――人家の壁白――黃州の城壁――稍遠くに西洋館――川に赤き旗の小蒸汽――夏は水かぶる
[やぶちゃん注:「黃州」現在の湖北省黄岡(こうこう)市。九江から長江を遡上した際の景観メモである。]
○壁靑――帷白――床リノリウム――額山水の畫4 寫眞金黑――香姻廣告の娘々――寢床白キヤノピイ 夏蚊帳――ウアド 紫檀彫 戸に鏡 ――椅子(壁側)(小卓を挾む 小卓の下に銀色の啖壺)マホガニイ紛ひ ――大卓(中央)同上 ――机(ウと並ぶ) 鏡 置時計 引き出し ――戸靑――戸上に靑――電燈二個――入口に帽子かけ
[やぶちゃん注:この条、どこをメモしたものか、不詳。泊まった旅館のそれか。
「帷」「とばり」。カーテン。
「リノリウム」天然素材(亜麻仁油・石灰岩・ロジン・木粉・コルク粉・ジュート・天然色素等)から製造される主に床材に用いられる建築素材。リノリウム(linoleum)の名はラテン語の「亜麻」(linum)と「油」(oleum)から合成された語。
「香姻」煙草。
「娘々」「ニヤンニヤン(ニャンニャン)」と中国音で読んでおく。通常は中国の民間信仰の女神を指し、「娘娘」は「むすめ」の意ではなく、「母」「貴婦人」「皇后」などの意である。
「キヤノピイ」キャノピー(Canopy)。ここは寝台の装飾用天蓋のこと。
「ウアド」不詳。以下の「紫檀彫 戸に鏡」から考えると、衣装簞笥や衣装部屋を意味する“wardrobe”(ウァドローブ)のことか?
「マホガニイ紛ひ」ムクロジ目センダン科マホガニー属 Swietenia の樹木は高級家具に用いられる。但し、っこは「紛ひ」(まがひ)で、似せて作った偽物。
「机(ウと並ぶ)」机が何故か「ウ」の字型に並んでいるという意か。]
○露地――南側ノ車――乞食 泥中臥――家口に金の赤の標札 眞珠 西洋庇 (四成里)
[やぶちゃん注:「泥中臥」泥の中に横たわっていることであろう。
「四成里」地名と思われるが、不詳。]
○白蘭花眞珠一對づつ兩房 下げず 西洋布(綠卵黃 淡靑卵黃) 金緣色眼鏡 金齒 腕輪 撞板(紫房) 太鼓(金屬) 劉海を分ける
[やぶちゃん注:芸妓の描写か。
「撞板」現行、寺院などに吊り下げられている雲板のことか? 寺院では礼式を告げるために打ち鳴らされるが、本来は打楽器である。中文ウィキの「雲板」をリンクさせておく。
「劉海」中国語で「前髪」のこと。]
○白壁の町 乞食 交番 ――石階 ――ラマ塔 赤煉瓦の寫眞屋 昭相館 (惟精顯眞樓)――石階total 4 or 5. 茶館 甘棠茶酒樓(三階) 何とか第一倶樂部 ――賣女――醉翁仙 蘇小坡 雲龍子 城壁 長江(漢口 舟 波白) 大別山 山頭樹二三本 禹廟 白壁 向うに煙突見えず 煙 煙突の見えるのも一つ 左手ハ鸚鵡洲 材木置場 その向うは黃麥 ――酒樓中へ燕 白羽黑羽の鳥とぶ 鳶 ○巡警 白服一 黑服一 boy 靑服
[やぶちゃん注:「甘棠茶酒樓」料理店の名であろう。「甘棠」は前の固有名詞の「甘棠湖」ではなく(時差があり過ぎるからである)、一般名詞であると私は思う。「甘棠」はバラ目バラ科ナシ亜科リンゴ属 Malus の林檎類、或いは同属のズミ(酸実)Malus
toringo であろう。
「醉翁仙」不詳。漢方調剤方にこの名はあるが、どうも違う気がする。中国の古小説の登場人物に出そうな名だ。なお、ナデシコ目ナデシコ科センノウ属スイセンノウ(醉仙翁)Lychnis
coronaria があり、夏に五弁花が咲き、色は赤が多い(白もある)。漢名は花の色を酔った老爺の赤ら顔に喩えたものらしい。
「蘇小坡」不詳。同じく小説に出る人名っぽい。
「雲龍子」同前。武俠物のそれらしい感じはする。
「大別山」中国音で「ターピエシャン」。これは位置的に見て、現在の湖北省黄岡市の県給級都市である麻城市(武漢の東北)にある山であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。標高千七百七十七メートル。
「禹廟」治水で知られる伝説の夏の聖王禹(う)を祀った廟。多くの場所に祀られている。
「鸚鵡洲」「あうむしう(おうむしゅう)」崔顥(さいこう)の七律「黄鶴楼」で知られる長江の中洲。この附近(グーグル・マップ・画像データ)にあったらしい。画像を拡大して見ても現存しないようである。]
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