甲子夜話卷之三 13 松平加賀右衛門家の事
3-13 松平加賀右衛門家の事
御旗本衆の中に、松平加賀右衞門と稱る人あり。大給松平の流なり。此人の名は嚴廟の時、上意にて賜しと云。其故は、此人の容貌前田の松平加州に能肖たるとて、人皆加賀々々と呼しを、卽上意にて名乘しと云。
■やぶちゃんの呟き
前条の「松平加賀守」で軽く連関する。
「松平加賀右衛門家」不詳。
「旗本」「はたもと」。原義は「軍陣で主将旗のある本陣」の意であるが、転じて、主将の旗下にある直属の近衛兵を指すようになった。江戸期には、将軍直属の家臣(直臣(じきしん))として大名・旗本・御家人の別があるが、旗本は知行高一万石以下で御目見(おめみえ:将軍に謁見出来ること)以上の格の者を称した。旗本と御目見以下の御家人とを総称して「直参(じきさん)」「幕臣」と称した(但し、一万石以下のではあるが、名家の子孫で幕府の儀礼を司った「高家(こうけ)」と参勤交代の義務をもつ「交代寄合」は別格で、老中支配に属した)。以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った。
「稱る」「しよう(しょう)する」。
「大給松平」底本編者は「大給」に「おほきふ」とルビする。ウィキの「大給松平家」より引く。『大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)は、松平親忠の次男・乗元を祖とする松平氏の庶流。十八松平の一つ。三河国加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を領したことから大給松平家と称する。松平宗家(徳川氏)に仕え、甲陽軍鑑に「荻生の少目」として登場する松平親乗が有名であると新井白石「藩翰譜」にはある。当主は武勇に優れ、「藩翰譜」にはあちこちの戦いで兜首を多数挙げたことが特筆されている』。『江戸時代には譜代大名』四『家のほか、数多くの旗本を出した。なお』、『新井白石の藩翰譜では、「荻生松平」と表記する』。前々条に出た岩村藩の乗政系はこの流れに入る。
「嚴廟」第四代将軍徳川家綱。彼の諡号「厳有院」に基づく。
「賜しと云」「たまはりしといふ」。
「前田の松平加州」加賀藩藩主の前田(松平)加賀守家当主であるが、この家綱の代ならば、前田利家の曾孫で第四代藩主前田綱紀(寛永二〇(一六四三)年~享保九(一七二四)年)である。
「能」「よく」。
「肖たる」「にたる」。
「卽」「すなはち」。