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2017/01/31

小穴隆一「二つの繪」(52) 『「藪の中」について』

 

 「藪の中」について 

 

 昭和二年九月號の文藝春秋、芥川龍之介追悼號に、内田魯庵さんの「れげんだ・おうれあ」といふ、芥川の奇才を後世に傳へる話が掲載されてゐるが、昭和二年九月號の文藝春秋は、今日手にはいりにくいであらう。

[やぶちゃん注:翰林書房の「芥川龍之介新辞典」の「奉教人の死」の項で当該記事を挙げ、内田魯庵(慶応四(一八六八)年~昭和四(一九二九)年)はそこで、

   *

惡戲に眞先驅けに一敗陷められた道化役の一人

   *

(恣意的に正字化した)と自身を揶揄しているとあり、芥川龍之介は大正一五(一五二六)年一月発行の『文章往來』誌に載せた「風變りな作品に就いて」で(リンク先は私の電子テクスト)、

   *

 「奉教人の死」の方は、日本の聖教徒の逸事を仕組んだものであるが、全然自分の想像の作品である。「きりしとほろ上人傳」の方は、セント・クリストフの伝記を材料に取入れて作つたものである。

 書き上げてから、讀み返して見て、出來不出來から云へば、「きりしとほろ上人傳」の方が、いいと思ふ。

 『奉教人の死』を發表した時には面白い話があつた。あれを發表したところ、隨分いろいろいろな批評をかいた手紙が舞ひ込んで來た。中には、その種本にした、切支丹宗徒の手になつた、ほんものゝ原本を藏してゐると感違ひをした人が、五百圓の手附金を送つて、買入れ方を申込んだ人があつた。氣毒でもあつたが可笑しくもあつた。

   *

などと書き、また、大正七(一九一八)年九月二十二日附小島政二郎宛書簡(旧全集書簡番号四四九)の中でも、

   *

奉教人の死の「二」はね内田魯庵氏が手紙をくれたのは久米から御聞きでせう所が今日東京にゐると東洋精藝株式會社とかの社長さんが二百円か三百円で讓つてくれつて來たには驚きました隨分氣の早い人がゐるものですね出たらめだつてつたら呆れて歸りました

   *

などとも書いており、当時、世間でも「芥川僞書僞作事件」(『時事新報』大正七年十月二日附夕刊)「芥川氏の惡戲」(『大阪毎日新聞』同年同月三日附)などと書き立てられたのであるが、現在、実は、その完全デッチアゲという謂い自体が、これまた、嘘であったことは周知の事実である。私はずっと以前、その典拠となった

『斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人傳」より「聖マリナ」』

を電子化しており、「奉教人の死」のテクストも、

岩波旧全集版

作品集『傀儡師』版

自筆原稿復元ブログ版(+同前やぶちゃん注ブログ版

と取り揃えている(それほど私は同作を偏愛している)。]

 

 芥川はでつちあげたでたらめの切支丹版でお歷々の人達を迷はした愉快を、微笑をもつて私に語つた。英雄人を欺くかと答へたら、鸚鵡がへしに、英雄人を欺くかといつて笑つてゐた。私まで愉快になつてゐたものである。

(内田さんにだした芥川の返書があるであらうと、書翰集を調べたら、殘念だが、内田さん宛てのものは一遍もみあたらない。)

[やぶちゃん注:旧全集最終版にはやはり一通もなく、所持しないが、コピーで所持する新全集人名解説索引から見ても、これは現行の新全集でも同じであると推定される。]

 芥川が生きてゐて、英雄人を欺くかと笑へるうちはよかつたが、死後にその生前に貰つてゐた、新羅山人題畫詩集と甌香館集(甌香館集は惲南由の詩集、掃葉山房出版のもの)をひもどいてゐて、甌香館集のなかの補遺畫跋のなかに、記秋山圖始末があるのを發見して、「秋山圖」の出處を知つたときには、芥川のやうな學問のある人に死なれてしまつたことが悲しくなつてしまつた。私は學校に行つてゐない。學問はしてゐない。私は、私の周圍には、この南田の記秋山圖始末を簡單にすらすら讀んでくれる人が、もうでてはこないであらうと思つたものだ。讀者の幾人かは、支那歴代の詩を直接には讀めないので、佐藤さんの譯詩によつて、その妙を知るのであらうが、私は讀めない南田の記秋山圖始末を、芥川の「秋山圖」で説明して貰つてゐる始末だ。

[やぶちゃん注:「新羅山人題畫詩集と甌香館集」既出既注。「鬼趣圖」の本文と私の注を参照されたい。なお、この「秋山圖」(大正一〇(一九二一)年一月『改造』初出)が「甌香館集」の「甌香館畫跋」(一般には「おうこうかんがばう」と読んでいるようである)の中の「記秋山圖始末」(秋山圖が始末を記す)によるものであることを最初に指摘したのは中野重治(昭和二三(一九四八)年四月『四季』誌上に発表した「つまらぬ話」)で、中野はそこで「秋山圖」をただの翻訳に過ぎないと決めつけている。しかし私はそうは思わない。芸術作品とその鑑賞者の感動という時空間を解剖しようとした「秋山圖」は私はすこぶる現代的な問題を我々につきつけていると思う。あれは優れたインスパイア作品である。「奉教人の死」と同様に、である。]

 

 賣れるとみえて、出版界が不況になつてから、あちこちから芥川本が賣出されてゐる。芥川は小説にされ、その作品の「羅生門」(實は藪の中)は映畫にもなつた。私は廣津和郎さんの「あの時代」(群像新年號)「彼女」(小説新潮三月號)を讀んでゐる。どちらも氣力がみちてゐて、芥川をくもりなく寫してゐるのはこころよかつた。廉津さんのそれらが發表されてゐた當時、用があつて時どき瀧井孝作君が家に立寄つてゐたので、瀧井君とのあひだがらから、廣津さんのその小説にからまつて一寸芥川の話もでて「彼女」について、だが皮肉だねえ、内田巖のさしゑは廣津和郎に似てゐるが、立つてゐる女の背景の店屋に、本人が知つててしたことかどうか女の名が書いてあるだらう、といつたら、瀧井君が、いや、知つてゐるだらうといつてたことやら、また、新潮十月號に芥川龍之介傳を書くといはれて村松さんの來訪があつたなどで、芥川を想ふことも多かつたせゐか、週刊朝日の新映畫羅生門の紹介を讀んでゐて、(同誌九月十七日號の新映書評ではない。)「藪の中」は芥川みづから彼自身のこころの姿を寫したものだといふ斷定が口にでた。芥川が死んでもう二十四年目の今日になつて、やうやく私はそれに氣がついたらしい。

[やぶちゃん注:「藪の中」大正一一(一九二二)年一月一日発行の雑誌『新潮』初出。私は高校教師時代、本作の授業を特異点としてきた。古い私の本文電子テクストはこちらにあり、その授業案『「藪の中」殺人事件公判記録』も公開している。私の教え子には懐かしいであろう。

「羅生門」黒澤明監督の大映京都撮影所製作の大映映画のそれは昭和二五(一九五〇)年八月二十六日に公開されている。

「あの時代」正確には広津和郎(明治二四(一八九一)年~昭和四三(一九六八)年:芥川龍之介より一つ年上)のそれは同じく昭和二十五年の一月号と二月号『群像』に連載されたもので、芥川龍之介と宇野浩二の交流を主軸とした実名実録物とし読めない小説である。

「彼女」同年三月号の『小説新潮』に掲載された小説。私は未読。

「内田巖」(いわお 明治三三(一九〇〇)年~昭和二八(一九五三)年)は洋画家。偶然であるが、彼は先に出た内田魯庵の長男である。

「本人が知つててしたことかどうか女の名が書いてある」確認出来ないが、秀しげ子の「しげ」か?

「村松さん」小説家村松梢風(明治二二(一八八九)年~昭和三六(一九六一)年:本名・村松義一(ぎいち))であろう。彼は昭和二十五年十月号『新潮』に「芥川竜之介近代作家伝」という作品を発表している。]

 

「藪の中」(三十歳、大正十年十二月作、翌十一年一月新潮に發表)は、芥川みづからこころの姿を寫したものだといふ今日の私の説をなす誘因の一つとして、私には廣津さんの「彼女」は大きく強かつた。私は大正十年の晩秋、湯河原中西屋での夜のこと、同十二年の夏、鎌倉平野屋でのこと、同十五年四月十五日、ことを七年前の情事に歸して自殺の決意をのべてから昭和二年の死にいたるまでのこと、それよりも、當時の彼にそのやうな苦悶があらうとは知らず、藪の中がつくられる誘因を、なにも知らずに彼に與へてゐた私自身の姿を顧みてゐるのである。「藪の中」は、まさしくその頃の芥川のこころのなかを、さりげなくひとごとのやうに描いてゐる悲痛な作品と思はれる。

[やぶちゃん注:「藪の中」は先にも述べ、以下でも記される通り、明らかに、芥川龍之介が不倫関係にあった秀しげ子を、知らぬうちに弟子格(彼は弟子だとは思っていなかったと思うが)南部修太郎と共有していた事実に激しい嫌悪と衝撃を受けたことを創作動機の大きな一つとしていたことは、最早、間違いない事実である。]

 

 大正十年の晩秋、湯河原中西屋での夜のことといふのは、(私は昭和十五年に中央公論社から「鯨のお詣り」といふ隨筆集をだして貰つたが、これはその以前に中央公論に掲載した「二つの繪」を主としてこしらへたものである。「二つの繪」は芥川を語る氣のふさがるものであり、舌たらずのものであるから、本は手もとにあつても、今日にいたるまで改めて讀みなほしてみることはなかつた。ところがいま目をとほしてみて驚いたことには、八二頁六行目に大正十四年十月四日となつてゐる。十年が正確なので大事であるからここに訂正をしておく。なほ、その時の紀行はすぐに、藤森淳三といふ人が編輯をしてゐた中央美術に掲載された。自他憂鬱になるものではないので、まだほかのものと手もとにありながら、どうしてこれを「鯨のお詣り」のときにださなかつたのかと思つてゐる。)芥川に招ばれて、私と小澤碧童(故人)とは、十年十月四日五日六日の三日三晩、首相加藤友三郎が泊つてゐたといふ部屋をあてがはれてゐたのであるが、夜のひと時はこの部屋に、彼も南部修太郎(故人)も集つて、互ひの歌や俳句を披露しあつてゐた。芥川に、山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉などの句があり、南部には、落葉ふみやがて出でたる川べりの蕗の花白き秋の午後かななどの歌があつた。芥川の句は當時、折柴瀧井孝作の影響から碧童の影響に轉じつつあつた。

[やぶちゃん注:「八二頁六行目に大正十四年十月四日となつてゐる。十年が正確なので大事であるからここに訂正をしておく」単行本「鯨のお詣り」の方の「二つの繪」パートの冒頭に配された「二つの繪」の一節。本書でも何度も繰り返し書かれてある、湯河原中西屋旅館に招かれた日時である。]

 

 最後の日の晩にちがひない。自分の仕事の價値について後世を待つとか待たぬとかで、彼と碧童との間の議論になつた。四人のうち酒飮は碧童だけで、碧童を碧童としてただ飮ませておけばよいものを、芥川は彼に似げなくからむやうに、後世などは信じないといひ張つてゐた。南部も微笑をふくんでこれまた後世を信じないといつてゐたが、傍觀してゐて、碧童がやりこめられてゐるのもをかしかつたが、南部修太郎までも後世を信じないと力むでゐるのがをかしかつた。座がしらけていらだたしさうな芥川が、無言で謎のやうに私に畫いてみせてゐた繪が嘗て私が「二つの繪」を畫いたときに挿んだ、三日月をはねとばしさうに荒狂つてゐる海の岩の上に膝を抱へてかがまつてゐる、巨大な耳を張つてうちしをれてゐる、髮のながい頭をたれてゐる怪物の繪である。芥川は三月渡支、八月田端に歸る。十月湯河原。私はその繪でなにかぼんやり彼にこころのうつたへがあることだけを感じてゐた。そのことである。後年、支那旅行中にも幾度か死をねがつてゐたといふ彼の告白がある。遺稿「或阿呆の一生」二十二を參照して頂きたい。幼少の時に母をなくしてゐる私には、その母よりも芥川のほうがなつかしい。「藪の中」は十年十二月に書かれてゐる。「藪の中」は、私が或雜誌で讀んだ、或國の王樣が自分の妃のうつくしさをいつて畫家に妃を畫かせる。王妃と畫家との間には情交が生じて、王妃が畫家に、王を殺すかお前が死ぬかどちらかをえらべと迫る話の筋を話したら、芥川にその雜誌をみたいといはれて、それを屆けたぢきあとにできたので、小説家といふものは巧いものだと、そんなことばかりで感心してゐた作品だ。(雜誌は「思想」であつたと思ひこんでゐたので、三十年前の「思想」を岩波書店の岡山君に調べて貰ふと、「思想」は大年十年の十月に創刊號がでて、十二月號までには三册、そのどれにもさういふ話は掲載されてはゐないといふ次第であつた。なほ、もし和辻哲郎さんが書いたものであつたとしたら、和辻さんに聞いてみようと中央公論社の南君はいつてゐた。)芥川が死んでから二十四年。死人に口なしである。讀者に、もう一度「或阿呆の一生」をひもどいて、その二十一に目をとどめて貰はなければならない。

[やぶちゃん注:『「或阿呆の一生」二十二』私の電子テクストから引く。

   *

       二十二 或  

 それは或雜誌の插し畫だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。

 一週間ばかりたつた後(のち)、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。

 或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂欝にするだけだつた。

 「もう遲い。しかしいざとなつた時には………

   *

私は実は以前からこの一章に隠された謎に興味がある。芥川龍之介と小穴隆一は強い秘かな同性愛関係にあったのではないかという竹の根のように蔓延る神経症的とも言える疑惑である。それを素直に語ることが出来なかった小穴隆一に対して、私は強い怒りとともに、ある種の憐憫、否、羨望をさえ感ずるのである。

「或國の王樣が自分の妃のうつくしさをいつて畫家に妃を畫かせる。王妃と畫家との間には情交が生じて、王妃が畫家に、王を殺すかお前が死ぬかどちらかをえらべと迫る話」この小穴隆一が言っている話は、恐らく、「藪の中」の典拠の一つとされることがある、フランスの作家ピエール・ジュール・テオフィル・ゴティエ Pierre Jules Théophile Gautier 一八一一年~一八七二年)は、一八四四年作のLe Roi Candaule(カンドール王)であるが、訳出者や掲載誌は不詳である。主人公はリュディア王国(紀元前七世紀から紀元前五四七年にアナトリア半島(現在のトルコ)リュディア地方を中心に栄えた国家)ヘラクレス朝最後の王カンダウレス。ウィキの「カンダウレス」によれば、彼は『ヘラクレスの子孫を名乗るヘラクレス朝最後の王で』、『王妃にそそのかされたメルムナデス朝の創始者ギュゲス』『により殺され、王位と妻を奪われた』とする。ヘロドトスの「歴史』によれば、『ギュゲスはカンダウレスの年下の友人であったという。自分の妻ニュッシア(別伝によればルド)の美しさを自慢するあまり、カンダウレスはギュゲスに妻の裸体を見させた。怒った妻はギュゲスに対し、自殺するか王を殺して王位と自分とを我が物とするかを迫ったという』。『別の伝説によれば、ギュゲスは自分の姿を見えなくさせる魔力を持つギュゲースの指輪を用いてカンダウレスを殺したという』。『この題材は近代の小説などに何度も取り上げられて』おり、ドイツの作家フリードリヒ・ヘッベル(Friedrich Hebbels 一八一三年~一八六三年)の戯曲「ギューゲスと彼の指輪」(Gyges und sein Ring 一八五四年)、ゴティエの本作、アンドレ・ジッドの同名作Le Roi Candaule(一九〇一年)、オーストリアの作曲家アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキー(Alexander von Zemlinsky 一八七一年~一九四二年)のオペラ「カンダウレス王」(Der König Kandaules 一九三五~一九三六年)があると記す。或いは小穴の語ったものは、ゴティエのものではなく、ヘッベルかジッドの孰れかの梗概だった可能性も視野に入れる必要があるかも知れぬ。

「岩波書店の岡山君」不詳。]

 

 私は解説まがひのものを書いてゐて思ひだしたのである。

 大正十五年に鵠沼で芥川は、「自分が死んだあと、よくせきのことがあつたら、これをあけてくれたまへ」といつて白封筒のものを渡したことがあつた。私は内をみたら或は彼に自殺を思ひとどまらせる手がかりでもあらうかと、芥川夫人に示してそれをひそかに開封してみた。するとなかみはただ、自分は南部修太郎と一人の女を自分自身では全くその事を知らずに共有してゐた。それを恥ぢて死ぬ。とだけのたつた數十字のものであつた。

(私にさういふものを渡してゐた彼に、彼の死後、私がなにか世間から困らされてはといふ懸念からのいたはりのこころづかひがあつたことを感じる。)なぜ、彼はその時にもう一人の名をも書けなかつたか。(「鯨のお詣り」一〇〇頁一〇一頁參照。廣津さんの「あの時代」參照。)

[やぶちゃん注:『「鯨のお詣り」一〇〇頁一〇一頁』同書「二つの繪」パートの「宇野浩二」の一節。ページを跨ってその封書の一節として『(南部修太郎と一人の女(ひと)Sを自分自身ではその事を知らずして××してゐた。それを恥ぢて自決をする)』と出るのを指す。言わずもがな、「もう一人の名」とはイニシャルにして伏せた秀しげ子を指す。

『廣津さんの「あの時代」參照』これは恐らく「あの時代」の「二」で精神変調の発作をきたした宇野が「私」(広津)にお題目のように繰り返し呟く、『K子は善人だ。S子は惡魔だ。いやS子は善人だ、K子は悪魔だ、いや、K子は善人だ。S子は悪魔だ――』のS子であろう。これもやはり秀しげ子であるが、精神異常下での宇野のそれは、大方の読者にはピンとこない。実は芥川龍之介は一時、異常なことに(龍之介が、である)宇野と秀しげ子との関係も猜疑していたことを知らないと、全く分らないと言ってよい(これが事実かどうかは判らぬが、小穴隆一自身が先の「宇野浩二」で述べており、ここで小穴はそれを踏まえてかく参考注を附しているとしか思えないのである)。]

 

 私はいま小さい行李からまた一連の白封筒を發見した。なかみは赤門前の松屋の半きれの原稿用紙五枚のものである。私はこの白封筒が、どうしてまた私のところにあつたのかと、ふしぎに思つたほど驚いてゐるのである。

[やぶちゃん注:「赤門前の松屋」当時の本郷の赤門前にあった所謂「大学ノート」や原稿用紙を製造販売していた紙屋。芥川龍之介の遺書はこの松屋製である。芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注の私の書誌注を参照のこと。]

 

 私は忘れてゐたものを二十四年目にみた。私はここに彼のその全文を紹介することとし(某の一字だけ伏字)なほのこりの下書はひとまづ破棄しておくこととする。一つの藪の中をでて、また別の藪の中に人々を誘ふがためにこれを書いてゐるのでないから。

[やぶちゃん注:小穴隆一の厭らしさがまたまた出る。ここで小穴は以下とは別な「下書」の遺書が存在すると言っているのである(それは遂に公開されていない)。それは寧ろ、「一つの藪の中をでて、また別の藪の中に人々を誘ふがために」書いているとしか思えない厭らしさなのである。

「某の一字だけ伏字」言わずもがな、「某」は「秀」。] 

 

 僕等人間は一事件の爲に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の總決算の爲に自殺するのである。しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九歳の時に某夫人と罪を犯したことである。僕は罪を犯かしたことに良心の呵責は感じてゐない。唯相手を選ばなかつた爲に(某夫人の利己主義や動物的本能は實に甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少からず後悔してゐる。なほ又僕と戀愛關係に落ちた女性は某夫人ばかりではない。しかし僕は三十歳以後に新たに情人をつくつたことはなかつた。これも道德的につくらなかつたのではない。唯情人をつくることの利害を計算した爲である。(しかし戀愛を感じなかつた譯ではない。僕はその時に「越し人」「相聞」等の抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。)僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と言ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである)僕はこの養父母に對する「孝行に似たものも」後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。今、僕が自殺するのも一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる靑年のやうにいろいろ夢を見たことがあつた。けれども今になつて見ると、畢竟氣違の子だつたのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌意を感じてゐる。

                 芥川龍之介

 P・S・僕は支那へ旅行するのを機會にやつと夫人の手を脱した。(僕は洛陽の客棧にストリンドベリイの「痴人の懺悔」を讀み、彼も亦僕のやうに情人に噓を書いてゐるのを知り、苦笑したことを覺えてゐる。)その後は一指も觸れたことはない。が、執拗に追ひかけられるのは常に迷惑を感じてゐた。僕は僕を愛しても、僕を苦しめなかつた女神たちに(但しこの「たち」は二人以上の意である。僕はそれほどドン・ジュアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる。

[やぶちゃん注:芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 2008年に新たに見出されたる 遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注の小穴隆一遺書と比較して戴ければ、「某」と表記上の一部の字体の違いを除けば、同一のものであろうことがお分かりになられるであろう。よろしいか? 小穴隆一という芥川龍之介の盟友が救いようものなく厭らしく哀しいのは、これとは別な内容を持った遺書下書きを小穴は持っていたが、それは「ひとまづ破棄しておくこととする」なんどと言っている点にこそあるのである。「ひとまづ破棄」などという持って回った言いまわしがそもそもおかしいではないか?! 「破棄」したら、それはもう永遠に「破棄」であり、「ひとまづ」なんぞではないのだ! 事実、それを小穴隆一は結局はあの世へと持ち去ってしまったのだ! これこそ、今一つの永遠の「藪の中」そのものではないか!!!

 

 附 言

 映畫羅生門についても書かうと思つてはゐた。この八月二十一日、明日は野尻に立つ支度をしてゐたら、大映宣傳部の人見氏の來訪があつた。人見氏は羅生門が完成したので、二十四日に試寫があり、試寫のあとに座談會をやつて、その座談會の記事を二十五日の讀賣に掲載して、二十六日一般公開といふことになつてゐるから出席してくれろといふ活動屋さんらしい用件できたのだ。出席者の人選は讀賣とかで、顏ぶれはお年寄では(これは向うがいふのである)佐佐木茂索に私、若い人では井上友一郎、丹羽文雄(もう一人は忘れた)の五人といふことであつたが、私はその座談會のために、坪田讓治との約束を破つて野尻行をのばすこともできないので人見氏に、出席はできないが黑澤氏に、もし黑澤氏が、藪の中は、芥川龍之介みづからがこころの姿を、人ごとのやうに寫してゐた作品だといふことを知つてゐたら、映畫に扱ふ場合にも、また別な角度があつたらうし、また、それを知つてゐるとゐないでは、大變なちがひであることを傳へておいてくれとたのんだ。顏見知りである井上君にも、「藪の中」についての私の考へを、直接にのべられぬのは殘念に思つてゐるといつてゐたと、傳へてくれるやうたのんでおいた。

 野尻から歸つた私は早速映畫の羅生門をみた。私は強引にも「藪の中」と取組んだ黑澤氏の勇氣に一應は敬服してゐる。しかし私の殘念さには依然として變りはない。

 私は黑澤氏の力でもう一度「藪の中」と取組んで貰ひたいのである。  (昭和二十五年)

[やぶちゃん注:「大映宣傳部の人見氏」に大映本社宣伝部課長とある人見武幸なる人物であろうか(リンク先の対談は昭和三七(一九六二)年のもの)。

「井上友一郎」(ともいちろう 明治四二(一九〇九)年~平成九(一九九七)年)は作家。大阪市生まれで本名は友一。早稲田大学仏文科卒業後、『都新聞』記者となり、昭和一四(一九三九)年に『文学者』に「残夢」を発表して作家生活に入る。風俗小説作家として活躍、戦後は雑誌『風雪』に参加したが、小説「絶壁」(昭和二四(一九四九)年改造社刊)のモデル問題(宇野千代・北原武夫夫妻を無断でモデルとしたとされた)で抗議を受け、一九七〇年代には既に忘れられた作家となった(以上はウィキの「井上友一郎に拠った)。] 

 

(私のこの「藪の中について」を讀んで瀧井君は、二十六年一月號の改造に「純潔」を載せた。この瀧井君の「藪の中」についての話で、私は知らなかつたことを教へて貰つた。)

[やぶちゃん注:私は瀧井孝作の「純潔」を読んでいないので、小穴隆一の言う「私は知らなかつたことを教へて貰つた」が何を指すのか、判らぬ。識者の御教授を頂けると助かる。]

柴田宵曲 妖異博物館 「河童の藥」

 

 河童の藥 

 

 各地にある河童傳授の藥には、それを得るまでの由來噺がついてゐる。伊豆國田方郡雲が根村の河童藥は、打ち身くじきに甚だよく利くが、その由來はかうである。いつの頃であつたか、子供達が集まつて角力を取るところへ、見馴れぬ子供がまじつて遊んでゐる。村中の子供でこの者に勝つのは一人もない。そのうちに一人の子供が出て、はじめて、この見馴れぬ子供を投げ倒した。投げられた子供が、お前は佛樣の飯を食つたかと聞くので、食つたと答へたら、明日は食はずに來いよ、さうすればおれが勝つ、と云つた。子供心にも妙な事を云ふと思つて、親にこの話をすると、翌日は父親が子供について行き、例の見馴れぬ子供を大勢で縛つてしまつた。するとその者が、私は實は人間ではありません、田方川に住んでゐる者です、といふ。それなら河童だらうといふので、皆で殺さうとした時、一人の老人が來て、その河童を一貫文に買ひ取り、田方川に放してやつた。同夜老人の夢に河童が現れて、一命を救はれたことを謝し、藥の製法を傳へた。製して見れば效能があるので、聞き傳へた人が貰ひに來る。後には價を定めて膏藥になつた(眞佐喜のかつら)。

[やぶちゃん注:「伊豆國田方郡雲が根村」旗本領であった雲金村であろう。現在の静岡県伊豆市雲金。(グーグル・マップ・データ)。

「田方川」狩野(かの)川の別称か?

「眞佐喜のかつら」(まさきのかつら)は嘉永から安政年間の頃(一八四八年~一八六〇年)に成立した青葱堂冬圃(せいそうどうとうほ)著の随筆。所持しないが、上記の箇所を坪田敦緒氏のサイト「相撲評論家之頁」の「資料庫」ので同書の「三」からとして引用されておられる。何時ものように恣意的に正字化させて戴き、以下に示す。頭に附された「一」は省いた。一部、誤字と思われるものを訂した。

   *

伊豆國田方郡雲が根村に河童藥と云あり。打身くじきに用ひ甚妙なし。此來由を問ふに。いつの頃にやありけむ。小兒ども打寄相撲とりて力をくらぶ。外より見馴ざる小兒きたりて交り遊ぶ。村中の小兒。此ものに勝ものひとりもなし。しかる處一人の小兒出で取組。しばし揉合しが。見なれざる小兒を投出しぬ。其時彼のもの云。汝佛のめしを喰ひしかと問ふに。さなりと答ふ。しからば翌日は喰ずに來れよ。我かならず勝べしと云。勝たる小兒。子心に怪しくおもひ。親に此事をかたる。父思ふ事やありけん。翌日子に隨ひ行。彼力强の小兒を大勢にていましむ。其者の云。我全人間にあらず。田方川に住る者なりと云。さらば河童なるべしと。大勢より殺さんとす。其時ひとりの老人來りて。錢壱貫文を以て河童を買とり。田方川へはなつ。其夜河童來りて助命の事を謝す。其時藥法を傳へしかバ。製し試るに必驗あれば。人皆きゝ傳て乞ふ。後は價をさだめ賣けるとなん。

   *

「運」は「めぐり」(振り返って)と読むか。]

 

 佛の飯云々といふことは、他の動物の場合にもあるかも知れぬが、河童にはまだ例がある。上總國で或家の子供のところへ友達が來て、川へ行つて遊ばうと云つた時、誘はれた方の母親が、川へ行くなら、おまじなひに佛壇に供へた御飯を食べておいで、と注意した。一方の子供は、そんなら厭だと云ひながら走り去つた。これも河童の化けたものだつたらうと「三養雜記」にある。佛の飯に魔除けの力があるものと察せられるが、特に河童の場合が目に付くのは偶然であらうか。

[やぶちゃん注:「三養雜記」山崎美成の随筆。天保一〇(一八三九)年序。当該項は「卷之三」の「水虎」の最終例である。直前の話柄はこの話をよりよく補完する内容なので、以下に「水虎」全文を、吉川弘文館随筆大成版を参考にして、例の仕儀で加工して示す。なお、文中の「鼈」は音「ベツ」、訓は「すつぽん(すっぽん)」である。

   *

     ○水虎

 水虎、俗に河太郞、またかつぱといふ。江戶にては川水に浴する童などの、時として、かのかつぱにひかるゝことありし。などいふをきけどいと稀にて、そのかつぱといふものを、たしかに見たるものなし。西國の所によりては、水邊などにて、常に見ることありとぞ。怪をなすも、狐狸とはおのづからことなり。正しくきける、ひとつふたつをいはゞ、畠の茄子に一つごとに、齒がた三四枚づゝのこらずつけたりしことありと。その畠のぬしよりきゝたり。仇をなすこと執念ことさらにふかくして、筑紫がたにての仇を、その人、江戸にきたりても、猶怪のありしことなどもきけり。かのかつばの寫眞とて見しは、背腹ともに鼈の甲の如きものありて、手足首のやうす、鼈にいとよく似たり。世人のスッポンの年經たるものゝなれりといふもうべなり。越後國蠣崎のほとりにてのことゝかや。ある夏のころ、農家のわらはべ、家の内にあそび居けるに、友だちの童きたり、いざ河邊に行て水あみして遊んと、いざなひ行しに、かのさそひに來りし童の親の、ほどなくいり來りしかば、家あるじの云、今すこしまへ、そのかたの子息の遊びに來れりといひければ、いやとよ。せがれは風のこゝちにて、今朝より家に臥し居りぬ。いとあやしきことゝぞいひあへりとぞ。後にきけば、かつぱの童に化て、いざなひ出したるなりといへり。また上總國にも、ある家の童を、その友の童が來りて、川邊にあそばんとて、よび出しにきたりしかば、その母のいふ。川邊に行かば、まじなひに佛壇にそなへし飯をくひて行けといひつけければ、友のわらはべ、そんならいやだといひつゝはしり逃げ行きぬとぞ。これもかつぱにてやあらん。先祖まつりは厚くすべきことゝいへるとかや。

   *]

 

 もう一つの河童藥は「裏見寒話」に出てゐる甲州下條村の話である。藥法傳授に至る徑路がかなり長く、河童に關する話の諸條件を具備してゐるやうに思ふ。或年の十二月末、農家の親仁が薪を馬に積んで賣りに行き、釜無川の河原まで歸つて來ると、みぞれ交りの風が寒く、日も暮れかけたのに、馬が一步も動かなくなつた。いくら敲いても動く樣子がないので、うしろへ𢌞つて見たら、十一二くらゐの子供が馬の尻尾にすがり付いてゐる。あぶないあぶない、今に蹴られるぞ、早く退け早く退け、と云つても、聞かずに尻尾を摑んでゐるから、そこを退かねばこれだぞ、と山刀を拔いて斬り付ける眞似をした。子供は忽ち見えなくなつたが、宿へ歸つて馬を洗はうとしたら、猿の腕のやうなものが、馬の尾を摑みながら斬られてゐた。さては先刻の子供は妖物であつたかと、その腕を取らうとしても、なかなか離れない。腕が付いてゐたところで、馬の痛みになるわけでもないから、そのま、厩に入れて寢に就いた。然るに夜明け近くなつて、子供の聲で主人を呼ぶ者がある。戶を明けて見ると、十一二ぐらゐの子供で、人間とも見えぬ者が、しよんぼり立つてゐたが、私は釜無河原でお馬の邪魔をした者でございます、その時に斬られました片腕をお返し下さいまし、私はあの河原に住む河童ですが、馬の尾を一筋持てば種々の妖術が出來ますので、お馬に付いた次第でございます、と歎願する。いやいや腕は返されぬ、自分の妖術のために、人の馬を惱ますとは不屆至極だ、と云つたところ、もしお返し下さらぬならば、子々孫々まで祟りをなして取り殺しますぞ、と云ふ。親仁は大きに腹を立てて、いやしくも人間たる者が、畜類の祟りを恐れて、考へが變へられるか、敲き殺すからさう思へと、棒を以て迫ひ拂ふ。河童はしきりに哀願して、何卒腕をお返し下さい、これから每朝鮮魚を獻じて御厚恩を謝し奉ります、と云つても親仁は聞き入れず、戶をしめて入らうとした。女房が諫めて、腕は返しておやりなさい、あれを持つてゐたところで、家には何の益もありませんし、返せば河童は助かるわけですから、と云ふ。そこで河童に向つて、一旦斬られた腕が接げる筈はない、何のために取り返すのだ、と尋ねると、私どもに腕を接ぐ妙藥があります、これは人間にも大いに益があることです、といふ話なので、親仁も河童の申し分を聞き入れる氣になり、藥方と腕との交換條件は成立した。翌朝夫婦が起きて見れば、水桶の中に魚類が澤山入れてある。河童の謝禮らしかつたが、禮は藥方だけで十分だと、魚類は悉く川へ放し、藥を調合して金創に用ゐるのに、卽效あること神の如く、下條切疵藥とて國中に隱れもない。賣價靑銅二十四文、この藥のお蔭で間もなく富裕になつたといふのである。

[やぶちゃん注:「裏見寒話」は江戸中期に甲府勤番番士であった野田成方の著した甲斐の地誌書。宝暦二(一七五二)年成立。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの「甲斐志料集成」の中に画像で発見した。から読める。

「甲州下條村」これは旧山梨県北巨摩郡にあった下条村(げじょうむら)。現在の韮崎市藤井町北下條・藤井町南下條に相当する。両地区の南西直近を「釜無川」が流れる。]

 

 佐竹家の醫者神保荷月なる者の家に、河童の傳書一卷がある。假名で書いたもので、讀みかねるところもあるさうだが、この一卷の由來は、神保氏の先祖が厠へ行つた時、尻を撫でる者があつたので、その手をとらへて斬る。宛も猿の手の如きものであつた。その夜より手を返して下さいと云つて哀求する。何者だと問へば、河童でございますと云ふ。手を返して下されば接げますといふので、その藥方を敎へれば返してやらうといふことになり、これを手に入れたのである。治方神の如しと「譚海」に書いてある。河童の詫證文といふものは江戶の深川にもあつて、河童の手判が墨で捺してあると、やはり同じ「譚海」に出てゐる。

[やぶちゃん注:「哀求」「あいぐ」と読んでおく。

 本話は私が既に電子化注している譚海 卷之二 佐竹家醫師神保荷月事である。]

 

 河童に交渉の多いのは人間と馬で、他の動物の話は殆ど見當らぬ。武藏國川越の傍に小さな流れがあつた。こゝで寺の馬を洗ふため、十五六ばかりの男が、自分も裸馬にまたがり、川中に乘り入れる間もなく、馬が急に躍り上り、男は馬から落ちて絕息した。馬は厩へ歸つたが、十歲ばかりの童のやうな者が、馬の尾を手にからんでゐるのを、よく見たら河童で、馬にしたゝか蹴られて大分弱つてゐた。いつもわるさをする奴だからといふので、燒き殺すことになつた時、淚を流し手を合せて拜む。和尙も可哀さうになつて、命乞ひをして衣をうち著せ、もう人を取るでないぞ、馬を引くでないぞ、と戒めて川端へ行つて放した。そのお蔭心であるか、次の朝和尙の枕許に鮒が二尾置いてあつた。それ以來この邊では人馬の失せることがなくなつた(寓意草)。この話には藥方の事はないが、河童の捕へられる順序は「裏見寒話」と同じである。命乞ひの一役を買ふ人が出るところは「眞佐喜のかつら」に似てゐる。

[やぶちゃん注:「寓意草」の原文は国立国会図書館デジタルコレクションの画像の。但し、河童の話は前の頁から続いている。ただ、この話、最初に乗り入れて落馬して気絶した男がどうなったか語られておらず、その不全性がどうも私には気に入らぬ。]

 

 馬を引き込まうとして失敗する例はまだいろいろあるが、「蕉齋筆記」のは筑摩川邊の話である。河童が水中より出て、川邊に繫いである馬を取らうとして、先づ馬の手綱を解き、自分の手にくるくると卷き付けて、水中へ引き込まうとしたところ、馬は一躍して河童を引き摺りながら家へ歸つて來た。皆よろこんで河童を後手に縛り上げたまではよかつたが、その家の女房が洗ひ桶を持つて來て、憎らしい顏をしてゐると罵り、水を浴びせたため、頭の皿に水が溜つて力を生じ、繩を引き切つて逃げ去つた。これも腕は無事だつたので、藥方の話は出て來ない。

[やぶちゃん注:原文を国立国会図書館デジタルコレクションの画像の(右下方)で視認出来る。]

小穴隆一「二つの繪」(51) 「月花を旅に」


 
月花を旅に


Tukihanawotabini

 

[やぶちゃん注:小穴隆一のデッサンと俳句を含む添書きであろう(右下部の落款が小穴のものと思しい。なお、小穴は「一生修業」の信念から自作になかなかサインしなかったことで知られる)。添書きは、

 

 昔ミタ碓氷山上ノ月

 

 月花を旅で見て來て冬篭

 

路バタノ小サナ墓ニカウイフ句ガキザミデアツタ

 

であろう。「昔ミタ碓氷山上ノ月」はデッサン全体のというより、句の前書で、「冬篭」は言わずもがな乍ら、「ふゆごもり」と読む。なお、碓氷峠の月は芥川龍之介にとっては、忘れ難い片山廣子との追憶と結びついている]

 

 先月は伊豆にいつて、蓮臺寺で、山桃といふものをはじめてみた。通りがかりの自分と同じ年ぐらゐの地の女が、おいしいものだとをしへてくれたのに食べてみなかつた。思ひだしてちよつと食べてみればよかつたと思つてゐるが、あとのまつりである。

 今月は碓氷峠に用事があつて、輕井澤にゆかなければならなかつた。いまは、車もないといふので、隻脚義足が心配になつたが、岩手正法寺の山の中にゐたので、三キロメートル程度の山路には堪へられると思つた。しかし、念のため、途中松井田でおりて、岡田さんのところに一晩泊めて貰ひ、山羊の乳をのみ、たまごを食べ、大いに氣力を養つてから輕井澤にいつた。熊野神社の上信國境と彫つた石の前で、昔、芥川と堀君との三人で、力餅を食べながら眺めた景色に用があつたのであるが、景色もなにも昔の夢であつた。私は峠の上で、昭和六年にも、同じ用事で、車でのぼつて無駄足をしたのを、忘れてしまつてゐた自分のもうろくが淋しかつた。

[やぶちゃん注:「正法寺」は「しょうぼうじ」(現代仮名遣)と読み、現在の岩手県奥州市水沢区黒石町にある曹洞宗大梅拈華山(だいばいねんげざん)正法寺のことか。

「松井田」碓氷峠を含む同峠南東麓に当たる旧群馬県松井田町(まち)。現在は安中市内。

「岡田さん」不詳。

「熊野神社」碓氷峠(現在の群馬県安中市松井田町峠)にある。個人ブログ「◇レキントン◇のブログ」の 熊野皇大神社  長野  熊野神社  群馬の三枚目の写真に写っているのがそれであろう。]

 芥川の宿であつた、つるやに一晩泊つて歸つてきたが、畫のはうのスケッチといへば、室生さんのところの庭だけであつた。つるやのおやぢさんは珍品を持つてゐた。龍之介、白秋自畫像の一幅である。おやぢさんにそれをやつた室生さんの話では、室生さんが愛の詩集をだしたときの、記念會でのよせ書で、二十七年前のものだといふ。

[やぶちゃん注:「愛の詩集」刊行は感情詩社で大正七(一九一八)年。]

 芥川のことはさておき、「詩と音樂」に私の拙い詩をのせてくだすつた、北原さんの自畫像に、私はすこし感慨があつた。昔、白衣(芥川龍之介の肖像)を出品してる二科會の會場で、そのころはまだ松葉杖で步いてゐた私は、芥川に紹介されて、北原さんにいろいろ話しかけられても、松葉杖で步く努力の疲れでろくろく御返事もできなかつたのだ。まつくろでまる顏の、北原さんのやさしい目を思ひだして、もう一度、お目にかかつておくべきであつたと悔んだのである。 (昭和二十三年)

[やぶちゃん注:最後のクレジットは底本では二字上げ下インデント。

「詩と音樂」北原白秋と山田耕筰の二人が主幹となって大正一一(一九二二)年に創刊された月刊芸術誌。大家や新人の作品を掲載した優れた雑誌であったが、翌年の関東大震災によって一年余(十三号)の短命で終わった。

「白衣(芥川龍之介の肖像)を出品してる二科會」大正十一年九月に開催された二科展で小穴隆一が出品した芥川龍之介をモデルとした肖像画「白衣(はくい)」のこと。以下の注によって、諸データでルビを振らないこの画題が芥川龍之介自身の命名であって、しかも「処士」(「在野の人」の意)である「はくい」と読まねばならぬと芥川龍之介が厳命していたことが、この作者小穴隆一自身の附註によって明らかとなっている。正直、未だにこれを、したり顔で「びゃくえ」等と読むんだと言って悦に入っている龍之介似非フリークがいる。]

 

  註「白衣」芥川は、白衣といふ畫題をつけ
   て、びやくと讀まないで、はくいと讀ん
   でくれたまへ、處士といふ意味があるの
   だといつてゐた。

小穴隆一「二つの繪」(50) 「懷舊」

 

 懷舊

 

 昔、夏目漱石が、文展の畫の評を新聞に書いたといへば、人を驚かすかも知れないが、往年の二科展で、佐藤春夫の畫をみた人も、少なくなつてしまつたであらう。

 漱石の批評は、記憶といつても、僕の記憶には、牛に松のある畫、坂本繁二郎の「うすれ日」であつたと思ふが、それを、自分は門外漢で、畫のことはよくはわからないけれども、坂本氏の畫を見て立止つてゐることが、紳士として一向に恥づかしくはない、といつてゐた、ただそのことだけがのこつてゐるにすぎない。

[やぶちゃん注:「夏目漱石が、文展の畫の評を新聞に書いた」大正元(一九一二)年十月十五日から同月二十八日にかけて『東京朝日新聞』に連載された「文展と藝術」で、初出の二日前、大正元年十月十三日に開かれた第六回文部省美術展覧会(文展)を朝日新聞社の依賴で観覧した際にものされたものである。この注のために、昨日一日かけて全文を電子化注した。お読み戴くと判るが、全体に漱石独特の諧謔と論破性に富んだ飽きさせぬ論評である。じっくりとお読みあれかし。

「往年の二科展で、佐藤春夫の畫を見た」二科展に限らず、公募展は、宣伝効果を狙って作家や芸能人の作品を入選させることがあり、現在でもかなり頻繁に見受けられる。没後 五十年記念として二〇一四 年五月に慶應義塾図書館で慶應義塾大学三田メディアセンター展示委員会主催で行われた「佐藤春夫三田文学ライブラリー所蔵資料を中心に」のパンフレット(PDF)によれば、佐藤春夫は大正四(一九一五)年から三年間の間二科展にに連続三回、計六点の作品が入選している旨の記載があり、「東京大学大学院人文科学研究科・文学部」公式サイト内の河野龍也佐藤春夫研究によれば、佐藤は実際、自分の画才に強い自負を持っていたらしく、『自分の作風が後期印象派に近いものであることを当時』、『言明していた』ともある。ウィキの「佐藤春夫によれば、第二回二科展で「自画像」(これは大正一〇(一九二一)年刊の自身の詩集「殉情詩集」(新潮社刊)の巻頭口絵として掲げられている。先の「佐藤春夫三田文学ライブラリー所蔵資料を中心に」のパンフレットで画像が見られる)「静物」二点、第三回で「猫と女の画」「夏の風景」二点が第四回で「上野停車場附近」「静物」二点が入選しているとある。]

 瀧井君と僕は、芥川の案内で、一度、漱石死後の書齋を見たことがあつた。書齋の次ぎの間は、佛間になつてゐたやうに思ふが、そこの鴨居のうへにあつた油彩、安井曾太郎の、十號程の風景畫を見ながら、芥川は、「夏目先生は、自分には、丁度このくらゐの細かさの畫がいいといつてゐた」と、教へてくれた。

 その畫は、大正四年に、三越を會場とした二科第二囘展に、特別陳列としてならべられた、四十四點の滯歐作のなかの一つで、終戰後、石井柏亭が書いてゐた「安井曾太郎」には、〔安井のこの時の陳列には四十五年西班牙旅行以後のものが多くを占め、四十二年フロモンヴィルの作であるところの「田舍の寺」などの、ミレかピサローかの感化を受けたようなものの僅かを交へたに過ぎなかつた。そのミレ、ピサロー影響からセザンヌの感化を受けたものへの過渡期の諸作はすべてこれを省いてあつた。〕といふ一節があるが、僕はなんとなく、〔省いてあつた〕といふその部類にあてはまるもののやうに覺えてゐる。

[やぶちゃん注:「油彩、安井曾太郎の、十號程の風景畫」風景用Pサイズの十号キャンバスは五三〇×四一〇。「県立神奈川近代文学館」公式サイト内の「夏目漱石デジタル文学館」の収蔵品の中の、書誌情報によれば、安井曾太郎(明治二一(一八八八)年~昭和三〇(一九五五)年)作「麓の町」という油彩・額入り一点があり、執筆年数と思しいものは大正二(一九一三)年寸法は四四〇×五三〇とする。これである。個人ブログ漱石先生交友録 3」に当該作の画像があり()、記事の中で大正四(一九一五)年十月に開催された『二科展特別陳列として、滞欧』期の安井の作品四十四点が『出品された中から、漱石が購入したもので』、『出品目録の価格では』百円となっているという。『この絵について安井は「旧作の思ひで三つ四つ」で「あの画は割に気持ちよく出来て、自分の好きな絵です、夏目さんが買はれましたけれど、自分が持つて居たい様な気がして惜かつた」と回想してい』るともある。リンク先の画像を見て戴くとお分かりの通り、小穴隆一の言うように、これはロケーションといい、家屋の形象化といい、その色といい、明らかに後期のセザンヌPaul Cézanne 一八三九年~一九〇六年)である。

「フロモンヴィル」パリ郊外の南東に位置するフォンテーヌブロー(Fontainebleau)郡モンクール=フロモンヴィル(Moncourt-Fromonville)のことか。

「田舍の寺」明治四二(一九〇九)年、滞欧中の作。

「ミレ」「晩鐘」(L'Angélus  一八五七年~一八五九年)で知られるフランスのバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet 一八一四年~一八七五年)。

「ピサロー」フランス印象派のジャコブ・カミーユ・ピサロ(Jacob Camille Pissarro 一八三〇年~一九〇三年)。個人的には「赤い屋根のロッジ群、村の一角、冬景色)(Les Toits rouges, coin de village, effet d'hiver 一八七七年)が好きである。]

 

「君。大觀は、僕に繪かきになれといふんだ。さうすれば、自分が引きうけて、三年間みつちり仕込むで必ず者にしてみせる、といふんだ。」

「大觀は、墨を使へる者が、いま、一人もゐないといふんだ。もつともさういふ自分もまだだといつてたがね、」

「君。大觀といふ男は、實に無法な男だよ、藝術は、われら藝術家に於いては、とかいつて話をしてゐるから、なんのことかと思つてると、畫や繪かきのことだけをいつてゐるので、小説のことは、はつきり、小説とか、小説道では、といふんだ。」

などと、芥川は、大型の人である横山大觀の話のいろいろを、愉快な面もちで聞かせてくれたことがあつた。

[やぶちゃん注:かの近代日本画壇の巨匠横山大観(明治元(一八六八)年~昭和三三(一九五八)年)からこのような驚天動地の慫慂を受けていたといのは、芥川龍之介関連書ではまず見かけたことがないが、芥川龍之介の画力には御大大観でさえ惹かれた何かがあるようには確かに私には感じられる。]

 芥川は、どこぞの葬儀でみた、大觀の香奠の包みかたにも感心してゐたが、僕を輕井澤に招んだときに、僕が拂はなければならない宿屋の茶代を、自分の金で、大觀式の包にこしらへてくれた。芥川は、お線香のやうにくるくると卷くのだといつてゐたが、セロファン包みのあめんぼうに似た形である。

「僕も夏目さんの歳まで生きてゐたならば、夏目先生よりは少しはうまくなるかなあ、ねえ、君、」

 かういつたことをいつてゐた、以前の芥川ではなく、

「君、ピカソの步む道は、實に苦しいよ、」

 かういつて話しかけた芥川は、畫帖にいくつかのばけものを描きのこしてゐた。氣忙しく、あちこちの人達に描きのこした河童の畫とは異つて、芥川の風貌を傳へるものであらうが、天壽を全うし得ない人の畫かもしれない。

[やぶちゃん注:「僕も夏目さんの歳まで生きてゐたならば」漱石は満四十九で没している。芥川龍之介は満三十五で自死しているが、もし彼が生きていたとすると、芥川龍之介四十九歳の時は昭和一六(一九四一)年となる。或いは軍靴の音の中、小説家としての筆を折らざるを得なくなっていたかも知れぬが、逆に絵でも描いて、画力は上達していたかも知れぬ

「ピカソ」スペインのマラガに生まれ、主にフランスで創作活動したパブロ・ピカソ(Pablo Picasso)は一八八一年生まれ(一九七三年没)であるから、芥川龍之介より十一年上であった。

 折角だから、芥川龍之介の「のつぺらぽう」(「ぽ」はママ。絵をご覧あれ)を掲げて終りとする。

 

Nottuperapou

 

龍之介の妖怪画では先に掲げた「一目怪」と並ぶ怪作と存ずる。引用元は例の小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」である。]

2017/01/30

文展と藝術   夏目漱石

 

文展と藝術   夏目漱石
 

 

[やぶちゃん注:大正元(一九一二)年十月十五日から同月二十八日にかけて『東京朝日新聞』に連載された。

 底本は昭和四一(一九六六)年岩波書店刊「漱石全集 第十一卷」を用いた。踊り字「〱」は正字化した。

 本テクストは現在進行中の小穴隆一の「二つの繪」の「懷舊」の参考資料として急遽、電子化したものであるので、私の注は私が躓いた箇所だけにごく禁欲的に附した(注位置は当該段落の後に配した)。そこでも参考にした底本末尾の古川久氏の注解によれば、本評論は大正元年十月十三日に開かれた第六回文部省美術展覧会(文展)を朝日新聞社の依賴で観覧した際にものされたものである。

 お読み戴くと判るが、全体に漱石独特の諧謔と論破性に富んだ飽きさせぬ論評である。] 

 

 文展と藝術

 

       一

 

 藝術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである。

 唯斯ういつた丈では人に通じ惡(にく)いかも知れない。よし通じた所で誤解されるかも知れない。自分は近頃述作に從事するごとに、自分の懷に往來して己まぬ此信條の意味を、橫合があつたら理論的に布衍して、自分と同じ傾向を有つてゐる文藝家に相談して見たいと思つてゐた。

 文展公開の當日場に入るや否や自分の頭に閃めいた第一の色彩も亦金文字で飾られた此一句に過ぎなかつた。其時自分は卒然として、丁度好い折だから、平生の考に、推論の練と磨きとを加へて、理知の首肯(うなづ)く程度迄エラボレーションの步を進めて見やうかと思つた。然し此一句の後には餘りに多くの背景が潛んでゐることをも發見した。此一二行の中に孕まれてゐる可成複雜な内容を、明かな秩序と段落の援の下に、水の流れて滯らざる滑らかさで結び終(おほ)せるのは一寸手間が掛る。それのみか餘程の紙面が必要になつてくる。――自分は斯うも考へ直して見た。それで折角の好機合ではあるが、自分の信條に明白な理路を與へる努力丈は又の日に繰り延す事にした。

[やぶちゃん注:「エラボレーション」 “elaboration”は「骨折り・入念な仕上げ・推敲」の意。]

 けれども唯「藝術は自己の表現に始つて自己の表現に終るものである」と云つた丈では、默つてゐた時よりも、好んで誤解を買ふといふ點に於て、自ら罪を釀したと同然の出過ぎ口になる。自分が文展に開聯して云ひ出した此一句に、簡易なしかも尤もと認められ得べき意義を付けることは、自分の文展に對する責任かもしれない。

 自分の冒頭に述べた信條を、外の言葉で云ひ易へると、藝術の最初最終の大目的は他人とは沒交渉であるといふ意味である。親子兄弟は無論の事、廣い社會や世間とも獨立した、全く個人的のめいめい丈の作用と努力に外ならんと云ふのである。他人を目的にして書いたり塗つたりするのではなくつて、書いたり塗つたりしたいわが氣分が、表現の行爲で滿足を得るのである。其所に藝術が存在してゐると主張するのである。從つて、純粹の意味からいふと、わが作物の他人に及ぼす影響については、道義的にあれ、美的にあれ、藝術家は顧慮し得ない筈なのである。夫を顧慮する時、彼等はたとひ一面に於て藝術家以外の資格を得るにせよ、藝術家としては既に不純の地位に墮在して仕舞つたと自覺しなければならないのである。

 悲しいかな實相を自白すると、我々は常に述作の上に於て、幾分か左右前後を顧みつゝ、墮落的に仕事をしてゐる場合が多い。そのうちで我々を至醇の境界から誘(をび)き出さうとする最も權威ある魔は他人の評價である。此魔に犯されたとき我々は忽ち己れを失却してしまふ。さうして恰も偶像禮拜者の如き陋劣な態度と心情を以て、見苦しき媚を他に賣らうとする。さうして常に不安の眼を輝かし空疎な腹を抱いて悶え苦しまなければならない。其所が問題なのである。

 自己を表現する苦しみは自己を鞭撻する苦しみである。乘り切るのも斃れるのも悉く自力のもたらす結果である。困憊して斃れるか、半産の不滿を感ずる外には、出來榮について最後の權威が自己にあるといふ信念に支配されて、自然の許す限りの勢力が活動する。夫が藝術家の強味である。即ち存在である。けれども人の氣に入るやうな表現を敢てしなければならないと顧慮する刹那に、此力強い自己の存在は急に幻滅して、果敢ない、虛弱な、影の薄い、稀薄のものが纔かに呼息(いき)をする丈になる。此時の不安と苦痛は前のそれ等とは達つて、全く生甲斐のない苦痛である。自己の存否が全く他力によつて決せられるならば、自己は生きてゐると云ふ標札丈を懸けて、實の命を既に他人の掌中に渡したと同然だからである。

 だから徹頭徹尾自己と終始し得ない藝術は自己に取つて空虛な藝術である。 

 

        二 

 

 此見地から云ふと、新聞雜誌に己れの作物を公けにしたり、展覽會にわが製品を陳列したり、凡て形迹の上から、憐れむべき虛弱な自己を、社會本位の立場に投げかけて單に其鼻息をうかゞつてゐる藝術家は、本來の己れとは無關係であるべき筈の、毀譽なり利害なりを目的に努力する點に於て、或はしか努力するのではあるまいかと疑ひ得る隙間を有つてゐる點に於て、既に墮落した藝術家である。不幸にして單純な藝術界にのみ呼吸する自由を奪はれた我々は、ある程度迄悉く墮落しつゝ述作に從事するのである。我々ばかりではない。古來から斯道の名流大家と云はれる人も亦十が十迄此臭氣を帶びて筆を取りチゼルを使つたのである。

[やぶちゃん注:「チゼル」“chisel”。彫刻刀。]

 是は人間として免かれにくい缺陷かも知れない。けれども唯斯う眞相を曝露した丈では藝術の一面を説明すると同時に、他の半面を誤解させる恐がある。自分は行掛り上、もう少し明白に此缺陷の意味を述べなければならない。我々の述作中しばしば經驗する不純の分子は、他の褒貶にせよ、己れの利害にせよ、述作の興味と倂行して同時に腦髓を刺戟するものではない。多くの場合に於て、述作の後か、若くは一區切片付いた後で來ることに極つてゐる。どれ程虚榮心や利害心の強い藝術家でも、筆を執つて原稿紙に向つてゐる間、若くは畫架に面してパレツトを持つ間は、比較的純潔な懷を抱いて、無我無慾に當面の仕事を運んで行くのである。此自己に忠實な氣分と、全精神を傾けて自己を表現し表さなければ已まないといふ眞面目な努力と勇氣とさうして決心が普通の藝術家にも具つた德なのである。さうして本當の藝術家になればなる程此德が濃く強く自己の内生活を彩どるのである。だから藝術家たるべき資格は、自ら進んで徹底的に己れを表現しやうとする壯快な苦しみに存するので、吐くものを吐き出して仕舞つて始めて出來上つた作物の善惡で極るのではないのである。何故かと聞かれゝば、全精神を打ち込んで仕事を遣れば遣る程痛快だからと答へる外に仕方がない。強く深く生きた自覺が起るからと説明しても同じ事である。が、煎ずれば必竟自己特有の精神狀態で、他の評價を待つて始めて達し得られるやうな餘所々々しい反應作用ではないのである。余の謠の先生は、自ら公言する如く大分臆病な人らしいが、舞臺でならどんな地震でも怖(こは)くはありませんと甞て余に告げた事がある。此人は又舞臺にある間はたとひ見物が笑はうが騷がうが些とも邪魔にならない、あそこへ出たが最後觀客などはてんで頭に這入てくる隙がありませんからと余に話した。

[やぶちゃん注:「余の謠の先生」名人と謳われたワキ方宝生流十世宗家宝生新(ほうしょうあらた/しん 明治三(一八七〇)年~昭和一九(一九四四)年)。]

 是が藝術氣質の當體である。不幸にして神聖に生れなかつた我々は朝から晩迄此當體を把持してゐる譯に行かない。それで勇猛精進の熱が退めて、述作に結末が付くや否や、待ち兼ねてゐた名譽心やら利害心やら、自分で自分の腕を疑ふ不安やら、他人の評判を聞いて此不安に氣休めの落付を與へたいと願ふ淺ましい空賴みやらが、入り替り立ち替り胸のうちを攪き亂すのである。けれども要するに夫は一段落付いた後から來る複雜な波動に過ぎない。此等の波動を認めて、藝術を産する本來の刺戟と思ふのは本末を顚倒した門外漢の觀察だと斷言しても間違はない積である。其證據には、丸で人に見せる料簡もなく、又褒められる目的もないのに、單純な藝術的感興に驅られて述作を試みなくては居られなくなる場合が、我々の生涯中に屢起つて來るではないか。

[やぶちゃん注:「當體」(当体)は「たうたい(とうたい)」或いは「たうだい(とうだい)」と読む仏教用語で、「当の本体」即ち、「そのものずばり」「ありのままの本性」の意。]

 文展の審査とか及落とかいふ言葉に重大な意味を持たせるのは必竟此本末を顚倒した癇違ひから起るのである。世間は知らない領分の事だから已を得ないとしても、藝術家自身が同じ癇違ひをして騷ぐなら、神聖な神輿(みこし)をことさらに山から擔ぎ下ろして、泥を塗りに町の中を引き摺るやうなものである。不見識は云はずとも知れ切つてゐる。極端な場合には其理知の程度さへ疑ひたくなる。

[やぶちゃん注:「已を得ない」「やむをえない」。] 

 

        三 

 

 文展が今日の樣に世間から騷がれ出したのは、當局者の勢力に因るのか、それとも審査員の威望に基づくのか、又は新聞紙の提灯持に歸着するのか、自分はまだ篤と共通を研究してゐないので何とも云ひかねるが、兎に角斯う八釜しい機關にして仕舞はれる以上は、藝術家も自家本來の立場を新たに考へ直して、文展に對する態度をしかと極める必要があるだらうと思ふ。單に藝術家のみではない、一般の社食も亦廣い藝術と狹い文展の關係を、大體の上で呑み込んで置かないと、善意に藝術を誤まり、かねて自己を誤まる譯になる丈である。現に今度文展に落第したため、妻君から離緣を請求された畫家があるといふ話を此間聞かされた。噓かも知れない。噓にせよ、これ程に藝術を侮辱した噓を孕ませた文展は、既に法外な暴威を挾(さし)はさんで、間接ながら畫家彫刻家を威壓してゐると見ても宜からう。實際近頃の樣に文展の及落が彼等間の大問題になる以上は、ゆくゆくは御上の御眼鏡に叶つて仕合せよく入選した作品でなければ畫として社會から取扱はれなくなる。それを描き上げた作家でなければ又畫家として世間に立つことが出來ない樣になるだらう。藝術家をして本末を顚倒して、天の命ずる儘に第一義の活動を忠實に盡さしめる代りに、ひたすら審査員の評價や俗衆の氣受を目安に置きたがる影の薄い飢えた作品を陳列せしむる樣になつては、藝術のため由々しき大事である。自分は作家と社會公衆に向つて此際藝術の根本義を協定したいと思ふのみならず、かねて當局者と審査員に向つて、斯道に於る自力他力二宗の影響を鄭重に商量せんことを希望するのである。

 藝術は自己の表現に始まつて自己の表現に終る。――是は自分の當初に道破した主張で、かねて眞正なる凡ての藝術家の第一義とする所でなければならないと思ふ。努力の終結後に來る其他のものは、述作の白熱が放散すると共に起る不純なる副産物と見れば差支ない。是も前に云つた通りであるが、此等の濁つた副産物のうちで、比較的淸淨なのは、具眼者の品評を念頭に掛けたがる顧慮の心的狀態である。既に顧慮の狀態と云へば、自づから信念の缺乏を意味するのだから其點に於て、一種の果敢なさを暗示してゐるかも知れない。實際我々は事實の此半面を拈定する每に、必ず自己の弱い影を憐れみたくなるのである。

[やぶちゃん注:「拈定」(ねんてい)取り出して問題とすること。]

 此弱い影は、我々が述作に魂を打ち込んで、強烈無雙に充實した活動を、遠慮會繹もなく生き終せた反動として、俄然として其後(しりへ)から我々を襲ふのである。さうして先の強者を嘲ける如き口氣を以て、自己を弱者と告白しろと逼るのである。程度に差こそあれ、此心狀の推移は、寒暑の往來の如く必ず我々の經過すべき順序のやうになつてゐる。藝術本來の面目から云へば、殆んど齒するに堪えない此不安の狀態が、運命の使者の如く、必ずわが眼前に幽靈の如く現はれるとすれば、此狀態に確(しか)とした區切りを付けて呉れる具眼者の批判は、第二義に於て藝術家に必要であるかも知れない。文展の審査員は政府といふ要らざる後楯を脊負ふ點に於て不都合ではあるが、此始末をして呉れる道具として、一般の藝術家(ことに靑年藝術家)に取つて有益にならないとは限らない。自分は此第二義に於て審査に贊成しても好い。然し其前に、何うして、自己に始つて自己に終るべき筈の藝術に、他人の批評が必要になつてくるかを心理的に今少し立ち入つて吟味して見たい。言葉を換えて云へば、何故藝術家に此意味の墮落が付け纏ふかを、心狀の推移を跡づけながら説明しやうと云ふのである。

[やぶちゃん注:「付け纏ふ」はママ。] 

 

        四 

 

 邵靑門といふ人が、自分の室(へや)に閉ぢ籠つて構想に耽るときの有樣を敍して、「兩頰赤を發し、喉間洛々聲あるに至る」と云つてゐる。大いに苦しい樣だとも云つてゐる。然し都合よく何物をか捕まへたときには、大喜びで、「衣を牽き床(ゆか)を遶つて狂呼す」とも云つてゐる。自分は小供の時分から此所の文章を讀んで噓とは思はなかつた。

[やぶちゃん注:「邵靑門」現代仮名遣で「しょうせいもん」、本名は邵長蘅(ちょうこう一六三七年~一七〇四年)。清代の文人政治家で詩人。

『自分の室(へや)に閉ぢ籠つて構想に耽るときの有樣を敍して、「兩頰赤を發し、喉間洛々聲あるに至る」と云つてゐる。大いに苦しい樣だとも云つてゐる。然し都合よく何物をか捕まへたときには、大喜びで、「衣を牽き床(ゆか)を遶つて狂呼す」とも云つてゐる』これを夏目漱石は、先立つ小文「人生」(明治二九(一八九六)年十月発行の熊本第五高等学校学校誌『龍南會雜誌』発表)の中でも、『靑門老圃獨り一室の中に坐し、冥思遐搜す、兩頰赤発し火の如く、喉間咯々聲あるに至る、稿を屬し日を積まざれば出でず、思を構ふるの時に方つて大苦あるものの如し、既に來れば則ち大喜、衣を牽き、床を遶りて狂呼す、「バーンス」詩を作りて河上に徘徊す、或は呻吟し、或は低唱す、忽ちにして大聲放歌欷歔淚下る、西人此種の所作をなづけて、「インスピレーシヨン」といふ、「インスピレーシヨン」とは人意か將た天意か』と記している。この原典は邵が自敍した「靑門老圃傳」の一節と思われ、中文簡体字サイトで見つけたその当該部を、一部、正字加工して示す。

   *

老圃豐而髯、恬淡无他嗜好、好爲詩、又好攻古文辭。時有所賦撰、獨坐一室中、冥思遐搜、兩頰發赤如火、喉間至咯咯有聲。屬稿不積日、不出也。方構思時、類有大苦者。既成則大喜、衣繞床狂呼、遇得意處、輒詫不讓古人。

   *

「人生」や原典から見ても、「洛々」は「咯々」(カクカク)の誤りであろう。これにはオノマトペイアで、「クスクス」という笑い声の意があるが、鷄の「コッコ」や歯を噛み締める音でもあり、ここは苦吟するのを後者で示したものであろう。「遶りて」は「めぐりて」。原典の「繞」も同義。]

 この興奮した狀態が取も直さず製作熟の高潮に達した光景である。此光景を遺漏なく活演する藝術家の前に、家も國家も存在する筈がない。是非も得失も付着する譯がない。毀譽といふのも褒貶といふのも悉く知らぬ國の言葉に過ぎない。佛來れば佛を殺し、祖來れば祖を殺すといふのは正に此時の氣慨である。一言にして許すれば、製作熱に驅られた藝術家は、當面の所作以外に何物せも認めぬといふ意味で、殆んど絶對の境に入つたものである。

[やぶちゃん注:「佛來れば佛を殺し、祖來れば祖を殺す」「臨濟錄」に載る私の非常に好きな一句、「逢佛殺佛。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。」の一節。]

 其絶對郷が破壞されると共に、彼は普通の里に歸つて來なければならない。さうして酒から醒めた人の眼と、夢から飛び起きた人の驚きと、熱の退(ひ)いた人のけろりとした顏付を以て、つい今先きの自分を不思議さうに眺めなければならない。不思議さうに眺めなければならない程、同じであるべき筈の自分が、後先で別人の樣に違ふのである。藝術熱の去つた後の藝術家は、隣りの甲、筋向ふの乙と擇む所のない普通の人に成り下つて仕舞ふのである。しばらく第一の境界を絶對とすれば第二の狀態は平凡を極めた相對である。彼等は平凡なる心狀に墮落して後、始めて自分對社會の關係を意識するのである。さうして彼等の人格に相應な手段を盡して、單なる利害問題から、自己の藝術的製作に、世間的價値を付けやうと試みるのである。一般の藝術家に共通なる此俗慾に媚びる意味から見ても、文展の審査は已を得ないかも知れない。

 けれども是は當初から自分の問題ではなかつたのである。自分はもう少し世間離れのした上品な意味で、何故藝術熱の去つた後の彼等に、具眼者の批判が必要であるかを物語る積であつたのである。此義務を果す爲には、彼等の熱に襲はれた時と、其熱の冷めかゝつた時とを、前の樣に一般的にばかり比較しないで、特に彼等自身の製作に關聯して、其差違を發見するのが一番解り易いだらうと思ふ。

 白熱度に製作活動の熾烈な時には、自分は即ち作物で、作物は即ち自分である。從つて二つのものは全くの同體に過ぎない。然し其活動が終結を告げると共に、作物は作物、自分は自分とはつきり分れて來る。外の言葉で云ひ現はすと、此時自分は始めて一步作物から遠退(とほの)くのである。始めて作物に對して客觀的態度が取れるやうになるのである。要するに始めて一步でも他人らしくなれるのである。既に他人として、幾分でもわが製作に對する批判が起る以上は、しかも其批判がわが製作の存在上必要である以上は、自己對製作なる彼我の關係を、(己れの信ずる)具眼者對製作の關係に擴大するのは已を得ざる自然の順序である。

 其上彼等は時日を經れば經る程、己れの製作に對して他人らしく振舞ひ得るといふ事實を承認するものである。己れの製作に對して他人らしく振舞はれるといふのは、時日の間隔と共に、わが製作の上に加ふるわが批判が、漸次贔屓の私を離れて公平に傾くの謂に外ならない。從つて今日の自己は昨日の私を恥ぢ、昨日の自己は又一昨日の私を恥づるといふ論理から、いつその事、全くの他人にわが製作を處分する全權を委任して、當初から安心しやうとするのである。丁度醫を業とするものが、親子兄弟の病に、自ら脈を取るの危險を囘避するのと一般の心理である。余は此意味に於て、墮落とは知りながら、具眼者の批判に信來する藝術家の心事を諒とする。さうして具眼者として期待されつゝある文展の審査員諸氏に向つて、たとひ一人たりとも助かるべき筈の藝術的生命を、自己の粗忽と放漫と沒鑑識とによつて殺さざらん事を切望して已まぬのである。 

 

        五 

 

 自分の言説には、兎角個人主義の立場から物を觀る傾向が多い。是は自由を愛する自分の天性から來るのでもあらうが、一つには又理論の承認を得た主義として、暗に己れの立脚地を此所に定めてゐるからでもあらう。自分は何時か此問題をもつと深く考へてさうしてもつと明らかに語りたいと思つてゐる。さうして自分が如何に權威の局所集中を忌むかをも明らかに語りたい。同時に衆を賴んで事を仕ようとばかり掛る所謂モツブなるものゝ勢力の、如何に恐るべく、憎むべく、且つ輕蔑に値すべきかをも最も明らかに語りたい。然しそれは藝術以外にも亙り得る大きな問題である。此所では取扱ふ餘地がない。自分が單に個人たる藝術家の心理を説明して、社會の方から見た藝術家や、批評家及び鑑賞家の方から觀察した藝術家に論じ及ばないのを、片寄つた態度と思ひ違へる人があるかも知れないから一寸斷つて置くのである。

[やぶちゃん注:「モツブ」“mob”はここでは、(程度の低い一部の大衆から成る烏合の衆・暴徒の群れ・無秩序に集まった騒がしいだけの野次馬の群衆など、指導者を持たない俗悪で付和雷同的集団の意であろう。]

 自分は今斷つてゐる通り、既に孕まれたる製作を、勢(せい)一杯に産み出す底の個人として藝術家を研究したのである。さうして此個人としての藝術家に具眼者の批評が必要である事を許したのである。從つて行掛り上彼のために、「如何なるか是具眼者」の意味を解釋して讃者に通じなければならない。

 自己から見て、具眼の批評家といふのは、自己の製作が遺憾なく鑑賞出來る人より外にあるべき筈がない。それをもつと露骨な言葉で現はすと、自己が取も直さず自己の製作に對する最良最善の批評家であると云ふに過ぎない。たゞ自己は自己に對して不公平に篤く同情し過ぎる掛念があるから、厭々ながら評價の權利を他人に託するのである。だから、此他人は自己と最も密切に嗜好上の氣脈が通じてゐなくてはならない。從つて、もし同派同流の名の下に、類を以て集まり得る樣な、通俗な人間の一員として、藝術家が存在するならば、其藝術家は、毫も評家に不自由を感じない譯である。然しそれを裏から見ると、自分は何流並何派並の凡庸な藝術家だから、自分を鑑賞したり批評したりして呉れる具眼者に困らないと誇るやうなもので、誇るのはやがて卑しむ所以になる。余は初めから個人としての藝術を論じてゐるのである。さうして藝術は自己の表現に始つて自己の表現に終ると云ふのである。取も直さず、「特色ある己れ」を忠實に發揮する藝術に就てのみ余は思索を費やして來たのである。團體が瓦解して個人丈が存在し、流派が破壞されて個性丈が輝やく時期に卽して、藝術を云々するのが余の目的である。それでなければ、我々の美的經驗は、同じ印象を永劫に繰り返す丈で、變化のないものを餘り多く詰め込むために、始終嘔氣(はきけ)に煩はされながら、腹の中は常に飢渇を訴へなければならない。

[やぶちゃん注:「掛念」「けねん」。懸念。]

 斯う觀察して來ると、必然の結果として、所謂具眼者といふ意味も自然明瞭に讀者の頭に浮んで來はせまいかと思ふ。余の持論に從へば、今の世は個人主義の世である。少くとも個人主義に傾きつゝ發展するのが文明の大勢である。さう云ふ社會に生れて、友達を作るのに自分と氣質の同じやうな者ばかりといふ標準では、交際の出來る筈がない如く、個性を發揮すべき藝術を批評するのに、自分の圈内に跼蹐して、同臭同氣のものばかり撰擇するといふ精神では審査などの出來る道理がない。具眼者ならば、己れに似寄つたものゝ代りに、己れに遠きもの、己れに反したもの、少なくとも己れ以外の天地を開拓してゐるものに意を注いで、貧窮なる自己の趣味性に刺戟を與へ、爛熟せる自己の藝術觀を啓發すべきである。約言すれば、同類相求むるの舊態を棄つると共に、異類相援くるの新胸懷を開いて批判の席に坐るのが、刻下の時勢に順應した具眼者に外ならないのである。

[やぶちゃん注:「跼蹐」「きよくせき(きょくせき)」で「跼天蹐地」の略。「跼」は丸くなってしゃがみ込む意の「せぐくまる」で、「蹐」は「抜き足・差し足」の意。「高く広い天の下なのに体を窮屈に縮め、厚くどっしりとした不動の大地の上を恐る恐るおどおどと歩くこと」の意から、「肩身が狭くて世間に気兼ねしながら暮らすこと」「ひどく慎み恐れること」を指す。]

 余は述作に從事する人間ではあるが、時間が許さないので、遺憾ながら平生は寄贈の雜誌に載る小説類を悉く通讀する暇がない。けれども年に三四度は、義務としても吃度それらを頭から仕舞迄讀み通す。さうして讃み通す每に、いまだ存在を認められない無名の作家から、思はぬ利益を受けた事を感謝しなかつた試(ためし)がない。他人は自分より夫程面白い方面の經驗と觀察を有つてゐるのである。畫も彫刻も見樣では同じだらうと思ふ。

 文展六の審査に及第した作品が、千遍一律の杓子定規で場内に陳列の榮を得たものとは、たゞ管見した丈でも、考へられないが、あすこに出てゐる以外に、どんな個性を發揮した作品があつたかは不幸にしてまだ解決されない問題である。余は審査員諸君の眼識に信を置くと共に、落第の名譽を得たる藝術家諸氏が、文展の向ふを張つて、サロン、デ、ルフユーゼを一日も早く公開せん事を希望するのである。同時に個人の團體から成るヒユーザン會の如き健氣な會が、文展と倂行して續々崛起せん事を希望するのである。

[やぶちゃん注:「サロン、デ、ルフユーゼ」“Salon des refusés”はフランス語で「落選展」の意で、広義には「フランスで公式のサロンの審査員によって落選させられた作品を集めた展覧会」の意であるものの、底本の古川豊隆の注解によれば、特に『一八六三年、官展審査に落ちた絵画をナポレオン三世が、偏頗な審査だという世論いこたえてサロンに隣り合わせて催したもの』を指すとする。ウィキの「落選展」によれば、『落選展がはじまったのは』一八三〇『年代と早く、パリのアート・ギャラリーが、サロンに落選した作品を集めた、小規模かつプライベートな展覧会を催していた。 それが』この一八六三『年の展覧会は大騒ぎで、実はフランス政府が後援していた。この年、いつもの年より多い』、三千点『以上の作品がサロンに落選したことに、美術家たちが抗議したのだった。展覧会には』「一般の諸君がこの抗議が正当なものであると判断してくれることを望む」という告示が出され、フランス皇帝ナポレオン三世も、『サロンに付随して、落選した美術家たちが自分たちの作品を展示してもよいという命令を発した。しかし、多くの批評家ならびに大衆は落選作品を嘲笑した。その中には、エドゥアール・マネ』の、かの名品「草上の昼食」(Le Déjeuner sur l'herbeÉdouard Manet 1863)やジェームズ・マクニール・ホイッスラーの清楚に屹立する「白の少女」(Symphonie en blanc no 1 (La Fille en blanc)James Abbott McNeill Whistler 1862)など『が含まれていた。しかし、絵画の世界に突如として出現したアバンギャルドの正当性を認め、注目する批評もあった。マネの励ましもあって』、一八七四年に『印象派はサロンの外ではじめた展覧会を成功させた。落選展は』、一八七四年・一八七五年・一八八六年にも『パリで開催され、その頃にはパリ・サロンの名声も影響力も衰えてしまっていた』とある。

「ヒユーザン會」「フュウザン会」は大正時代に結成された美術家集団。発起人は斎藤与里・岸田劉生・清宮彬・高村光太郎などで、「フュウザン」はフランス語“fusain”でデッサン用の「木炭」の意。設立時は「ヒュウザン会」であったが、後に「フュウザン会」へ改名している。この文展開催の前月である大正元(一九一二)年九月に結成され、十月十五日(奇しくも本篇連載の初日である)から十一月三日まで第一回ヒュウザン会展を銀座の読売新聞社開催した。翌年三月十一日から同月三十日まで第二回フュウザン会展が開催されたが(同じく於・読売新聞社)、同年七月に同会は解散している。参照したウィキの「フュウザン会」によれば、『活動期間は短いが、日本で初めての表現主義的な美術運動として、先駆的な意義を持つ。参加者は』上記四人の他、『木村荘八、萬鉄五郎、バーナード・リーチら。ポスト印象派、フォービズムの影響がみられる』。解散理由は斉藤与里と岸田劉生の主張が食い違ったことによるとある。

「崛起」「くつき(くっき)」で、原義の山などが高く聳え立っているこから、俄かに事が起こること。また、多数の中から頭角を現すことの意となった。]

 「文展と藝術」といふ標題の下に、余の述ぶべき事は略述べ表した。然し是では餘り理窟張り過ぎるから、自分が門外漢として文展を觀た時の感想を、實際の繪畫に就て、一囘か二囘書かうと思ふ。云はゞ餘興とか景物とかいふ位のものである。

[やぶちゃん注:「略」「ほぼ」。] 

 

       六 

 

 我藝趣味のうちで最も平等に又最も圓滿に、殆んど誰彼の區別なく發達してゐるものは、恐らく異性に封する美醜の判斷だらう。

 自分は此間一人で斯う考へて一寸可笑しくなつた。が、滑稽じみた其時の感じは決してわが觀察の眞實を弱めるには足りなかつた。と、いふのは、繪なり彫刻なり音樂なり、所謂藝術と名けらるゝものゝ鑑賞力には、個人々々で隨分な差等があり、又相應な眼を有ち耳を有つ人でも、ある場合には、巧(うま)いのか拙(まづ)いのか、殆んど頭を纏めてかゝる印象にすら困るのに、問題が婦人の容貌になると、誰で好き嫌が直下(ぢきげ)に極つて仕舞ふからである。此點になると我々は實に天品の鑑賞家で、一切時一切所にふつりと斷じて少しも迷はない。我々は未だ甞て朋友の一人から、あの女の顏に惚れやうか惚れまいか、何うしたものだらう、といふ相談を受けた例(ためし)がない。それのみか、如何に傍(はた)のものが非難を加へても、一度好きだと思ひ込んだら決して動かない。實に羨ましい信念を信念を有つてゐる。だから異性の美醜に對する批判にかけては、昔から素人黑人の區別を設ける必要もなく、各々(めいめい)自己特有の標準でずばりずばりと好き嫌を定める丈で、人も怪しまず、自分も疑はずに今日迄來たのである。

[やぶちゃん注:「天品」「生まれつきの才能・天性」の意の「天稟(てんぴん)」の当て字であろう。

「黑人」「くろうと」。玄人。]

 此位直覺の鋭どく働らく女の眼鼻ですら、差向ひの時滿更とも思はないものを、大勢の中に放して、居竝んだ一人として、改めて眺めて見ると、氣の毒な程引き立たなくなる。澤山の綺麗な美人が、人の注意を惹くために、裝(よそほひ)を凝らして秋波を送ると同じ傾のある展覽會を、自分の樣な鈍感なものが、群集に紛れて素通りに通り拔けた所で、鮮かに纏つた印象が殘らう筈がない。それを心得顏に何とか云つたら、後から拵えた噓になる。噓にならない程度で感じた通りを書けば、頗る貧しいものが出來上る。自分は繪や彫刻を評する前に、自分が是等の藝術に對して、女の顏を鑑賞する程の明らかな直覺を有つてゐないのを深く恥づるのである。

 實際其日は非常の混雜であつた。自分も自分の友人も長くは一つ製作の前に佇ずむ事を許されなかつた。自分等は人の波に揉まれながら部屋から部屋へと移つて行つた。凡ての感想は此せわしない動搖の中(うち)に、閃めいたり消えたりして、雜沓の間を縫び𢌞つたのである。

 會場を這入つてすぐ右にある廣い室(へや)を覗くと、大きな畫ばかり竝んでゐた。其中(うち)に「南海の竹」と題した金屛風があつた。南海か東海かは固より自分の關係する所ではないが、其惡毒(あくど)い彩色は少なからず自分の神經を刺戟した。竹といひ筍といひ、筍の皮といひ、悉く一種の田臭を放つて、觀る者を惱ませてゐるやうに思はれた。自分は此間表慶館で、猫兒と雀をあしらつた雅邦の竹を見た。此むらだらけに御白粉を濃く塗つた田舍女の顏に比較すべき竹の前に立つた時、自分は思はず好い對照としてすつきりと氣品高く出來上つた雅邦のそれを思ひ出した。此竹の向側には琉球の王樣がゐた。其侍女は數からいふと五六人もあつたらうが、何れも御さんどんであつた。其橫には春の山と春の水が、非常に大きく寫されてゐた。自分は其大きさに感心した。

[やぶちゃん注:「南海の竹」古川注に、『田南(たなみ)岳璋筆、六曲屛風一双』とある。

「表慶館」東京国立博物館の一部として明治三三(一九〇〇)年に当時の皇太子(後の大正天皇)成婚記念して計画され、明治四二(一九〇九)年に開館した、日本最初の本格的美術館。現存。

「猫兒と雀をあしらつた雅邦の竹」古川注に、『橋本雅邦筆「竹林猫図」をさす』とある。これ(国立博物館画像)。

「琉球の王樣」古川注に、『山口瑞雨筆「琉球藩王図」(六曲屛風一双)をさす』とある。サイト「柳琉文21」のこちらに画像がある。以下、古川久氏は小まめに画を調べて作者と作品名を記しておられるが、古川氏は著作権が存続しているので、以下では、漱石が素直に惹かれたものや(漱石の画評は相当に辛口で、糞味噌に皮肉を言って面白がっているものなども意想外に多いが、それは注さない)、現存画がネットで確認出来るもの、注を附したくなる作品のみに限って注することとする。詳しくは漱石全集に当たられたい

「御さんどん」身分の低い下女。]

 次の室には綺麗な牡丹があつた。御公卿樣が大勢ゐた。三國誌の插畫にあるやうな男も二人ばかりゐた。それから白樂天と鳥巣和尚が問答をしてゐた。

[やぶちゃん注:「三國誌の插畫にあるやうな男」「三國誌」は「三國志」の誤り。古川注に、『池上秀畝筆「朔北」(六曲屛風一双)をさす』とある。

「白樂天と鳥巣和尚が問答をしてゐた」古川注に、『今井爽邦筆「汝が居所却て危し」をさす。「巣」は「窠」が正しく、「鳥窠和尚は中国唐時代の高僧』で、『常に老松の幹の蟠って蓋のようになっている所に結跏趺坐していたと言われ、一名、鵲和尚』(じゃくおしょう)『とも称した』。「傳燈錄」や「正法眼藏」に、『白居易と鳥窠禅師とが問答することが記されてあり、東洋画の画題の一つとされ』るとある。]

 其次の室の入口に近い所で「平遠」といふのに出合つた。芭蕉があつて、鶴がゐて、丸窓の中に赤い着物を着た人がゐた。さうして遠くの方の樹や土手や水が、如何にもあつさりと遠くに見えた。自分は是が欲しいと思つた。目錄を調べると、田近竹邨といふ人の描いたもので、價は五百圓と斷つてあつた。夫で買ふのは已めた。此隣りに「火牛」が居た。名前は火牛だけれども、實は水牛である。もし水牛でなければ河馬である。實に恐るべく驚ろくべき動物である。そのあるものは鼻を逆さまにして變な表情を逞しうしてゐた。向ふ側には烏と鷺が松の木に留つてゐた。尤も鷺のあるものは飛んでゐた。然し兩方とも生活に疲れてゐた。さうして羽根の色が好くなかつた。曲り角には大きな眞黑な松が生へてゐた。此松には風も滅多に觸(さは)る事が出來ない。蟬抔はとてもく寄り付けた譯のものではない。

[やぶちゃん注:「田近竹邨」古川注に、『文久三年(一八六三)大正十一年(一九二二)。南画家』とある。

「五百圓」ネット上のある換算サイトでは明治末期の一円を現在の千八百五十円相当としているのに従うなら、九十二万五千円となる。

「火牛」古川注に、『津端道彦筆、六曲屛風一双』とある。] 

 

         七 

 

 第五室に入(はい)つたら、山水の景色が橫に長く續いてゐる途中から拳骨の樣な白いものが斜に突き出してゐた。友人があれは雲でせうかと聞いた。自分はもし夫が雲でないとしたら何だらうと考へて見たが、遂に想像も及ばなかつた。其隣りに栗鼠が葡萄の幹を渡つてゐた。此栗鼠の眼は甚だ複雜である。下りやうとして居るでもなく、留まらうとして居るでもなく、左うかと云つて、何を考へてゐるでもないが、決して唯の眼ではない。自分は此眼の表情を一口で云ひ終せた人に二等賞を捧げたい。次には木の股に鳥が澤山ゐた。感心な事にいづれも烏らしい樣子をしてゐた。次には象がゐて、見付(みつけ)があつて、富士山があつた。山王祭(さんのうまつり)の繪ださうである。それから屛風に稻の穗が一面に描いてあつた。此稻の穗の數を知ってゐるものは天下に一人もあるまいと思つた。

[やぶちゃん注:「栗鼠が葡萄の幹を渡つてゐた」古川注に、『荒木十畝筆「葡萄」』とある

「二等賞」現在の読者である我々は何故、一等賞でないのか訝り、そこに漱石のその作品へに皮肉を読み取りそうになるのであるが、古川注に、文展では『毎回一等賞の該当者がなく、二等賞が最高であったので、一等賞と言わずに二等賞と言ったのであろう』とあることで腑に落ちる。この場合、しかしやはり文展の審査への皮肉としては生きているとも採れる。]

 六室は面白かつた。先づ第一に天孫の降臨があつた。天孫丈あつて大變幅を取つてゐた。出來得べくんば、淺草の花屋敷か谷中の團子坂へ降臨させたいと思つた。筋向ふに昔の男が四五人立つてゐた。この方が餘程人間に近かつた。「甲(よろ)ふたる馬」といふのは、とても乘れる馬ではないから引つ張つてゐるのだらうが、引つ張つてゐる所を見る丈で好いのである。此馬は紙を切つて張り付けたと同じ恰好で、三角形の趣を具へた上へ、思ひ切つた色彩を施した、奇拔なものである。乘れなくても飾つて置けば宜しい。馬の主は素明君であつた。素明君の通りを橫丁へ出ると、大きな松に蔦が絡んで、熊笹の澤山茂った、美くしい感じのする所が平田松堂君の地面であつた。自分は友人と第七室に入つた。

[やぶちゃん注:「素明君」日本画家結城素明のことか?]

 忽ち大きな桐の葉を白い雨が凄まじく叩いてゐる大膽な光景を見た。其陰に雀がぎうぐぎう一列に竝んで雨を避けてゐる。但し飛んでゐるのもある。然し飛んでゐるのは雀ぢやなからう、大方雀の紋だらうと云ふ人もあつた。自分は明治の書生廣江霞舟君が桃山式の向ふを張つて描き上げたやうな此「白い雨」を愉快に眺めた。其隣にある「鵜船」も亦頗る振つたものである。船が平氣な顏をして上下一列に竝んでゐる。煉瓦を積んだやうな波が其間を埋めてゐる。塀の中に船を詰め込んで、橫から眺めたら此位雅に見えるかも知れない。

 次の室の一番初めには二枚折の屛風があつた。其屛風はべた一面枝だらけで、枝は又べた一面鳥だらけであつた。夫が面白かつた。そこを少し行くと美くしい女が澤山ゐた。其女はみんな德川時代の女らしかつた。さうして池田蕉園といふ明治の女によつて描かれた事を申し合せた樣に滿足してゐるらしく見えた。其前には天女が飛田周山君のために彼女一代の歷史を橫に長く開展してゐる。彼女の歷史は花やかと云はんよりは寧ろ寂びてゐた。彼女の左右前後にある草や木や水は鮮やかに且つ澁く染められてゐた。さうして至極眞面目に裏表なく榮へたり枯れたりした。此天女の一軒置いて隣りには、尾竹國觀先生がしやもを蹴合はせてゐた。先生は新聞に堂々と署名して、文展の繪を頭ごなしに誰彼の容赦なく攻擊する人である。自分は先生の男らしい此態度に感服するものである。だから先生のしやもに對しても出來得る限りの敬意を表したい考でゐる。

[やぶちゃん注:「尾竹國觀」(おたけこっかん 明治一三(一八八〇)年~昭和二〇(一九四五)年)は新潟市に生まれの日本画家。二十歳前後から日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会を舞台に受賞を重ね、明治四一(一九〇八)年の「国画玉成会事件」(審査員問題が拗れ、その問題では同盟していたはずの国画玉成会が文展と別に独自の展覧会を開催した事件)では竹坡とともに岡倉天心(国画玉成会会頭)・横山大観(彼も結局は後の大正三(一九一四)年に急進的と批判されて文展審査員から外され、日本美術院を再興して宣戦布告した)と袂を分かった。それでも翌年の第三回文展に「油断」で二等賞、第五回文展に「人真似」で三等賞を受賞。大正二(一九一三)年には、横山大観を先頭とする「学校派」審査員によって不可解な落選という憂き目(文展事件)にあったが、大正七(一九一八)年)第十二回文展までは意欲的な出品を見せた。だが、その不遜な言動から後半生は振るわず、昭和一〇(一九三五)年、帝展の無鑑査に迎えられて出品するも、芸術的新境地を開くには至らなかった。一方、現在では、彼が描き続けた教科書や雑誌の挿絵・ポンチ絵・絵本など、メディアの仕事が注目を浴びつつある(以上はウィキの「尾竹国観に拠った)。]

 第九室に入つて不可思議なものを見た。何でも水の上に船が浮いてゐて、空から雪のやうなものが、ポツポツ落ちて來る所ぢやないかと思ふ。題には「豐兆」とあつた。題も謎になつてゐるのだらう。今村紫紅君の「近江八景」も此所に竝んでゐた。是は大正の近江八景として後世に傳はるかどうかは疑問であるが、兎に角是迄の近江八景ではない樣である。だから人が珍らしがるのだらう。が、それは彼(あゝ)でもない此(かう)でもないが嵩じて後の事と思はなければならない。狩野にも四傑にも乃至美術院派にも煩はされない、全く初心(うぶ)の鑑賞家を伴れて來て、昔の八景と此八景と何方が好いと聞いたら、其男は存外昔の方を擇むかも知れない。自分は今村君の苦心と努力を尊敬するから特に斯ういふ要らざる皮肉を云ふのである。色彩の點になると甚だ新らしい樣ではあるが何だか自分の性に合はない。 

 

        八 

 

 木島櫻谷氏は去年津山の鹿を竝べて二等賞を取つた人である。あの鹿は色といひ眼付といひ、今思ひ出しても氣持の惡くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な點に於ては決してあの鹿に劣るまいと思ふ。屛風に月と竹と夫から狐だか何だか動物が一匹ゐる。其月は寒いでせうと云つてゐる。竹は夜でせうと云つてゐる。所が動物はいへ晝間ですと答へてゐる。兎に角屛風にするよりも寫眞屋の背景にした方が適當な繪である。

[やぶちゃん注:「木島櫻谷」(このしまおうこく 明治一〇(一八七七)年~昭和一三(一九三八)年)と読む。ウィキの「木島桜谷によれば、『四条派の伝統を受け継いだ技巧的な写生力と情趣ある画風で、「大正の呉春」「最後の四条派」と称された』とあるが、漱石のこれは痛罵に等しい酷評である。これ。]

 次の室で感じの好い枇杷だの百日紅だのを見た後、とうとう審査員連の顏を竝べてゐる第十二室に出た。すると其所に茄子の葉を丁寧に几帳面に且つのべたらに描いた屛風があつた。自分は其前に立つて、是は何の趣意だらうと考へた。尤も茄子其物は捥(もぎ)つて漬物にしても恥かしくないやうな好い色をしてゐたには違ない。今尾景年君の鯉も其近所に躍つてゐた。鯉は食ふのも見るのも餘り好かない自分である。ことに此躍り方に至つては甚だ好かないのである。それで山本春擧君は鯉の代りに鮎の泳いでゐる所を描いて呉れた。成程鮎は正しく泳いでゐる。其上岩も水も大袈裟に惜氣く描かれてゐる。けれども斯う大きく描く興味は何處から出て來たのだらう。商店で賴まれた廣告繪ぢやないでせうかと友人は自分に語つた。

[やぶちゃん注:「のべたらに」副詞で、切れ目なくだらだらと続くさまを言う。

「山本春擧」「山元」の誤り。山元春挙(やまもとしゅんきょ 明治四(一八七二)年~昭和八(一九三三)年)は円山四条派の日本画家。]

 廣業大觀二氏は兩方とも瀟湘八景を見せてゐた。二人が隣り合せに同じ八景を竝へてゐるのは、八景好(よ)いやといふ洒落の樣にも見える、が實際兩方を觀て行くと、丸で比較にも何にもならない無關係の畫であつた。廣業君のは細い筆で念入りに眞面目に描いてあつた。ことに洞庭の名月といふのには、細かい鱗の樣な波を根限(こんかぎ)り竝べ盡して仕舞つた。此子供の樣な大人のする丹念さが、君の繪に一種重厚の氣を添へてゐる。自分は先刻(さつき)茄子の葉を見て、多少御苦勞の樣な感じを起した。然し此波に對したときは、善く倦まずに是丈の結果を畫面に與へられたものだと敬服した。實際此波は馬鹿氣て器械的に描かれてゐながら、眼界を非常に大きくする效果を有つてゐる。夫だから子供のやうに働らきのない仕事でありながら、遂に貴重な努力になり終せるのである。尤もそれが色彩と相待つて始めて達し得られた結果である事は云ふ迄もない。

[やぶちゃん注:「廣業」寺崎広業。

「大觀」横山大観。

「瀟湘八景」現代仮名遣で「しょうしょうはっけい」と読む。北宋以来の中国山水画の伝統的な画題で。瀟湘は古えより風光明媚な水郷地帯として知られる、現在の湖南省長沙一帯の地域、洞庭湖と流入する瀟水と湘江の合流する附近を呼び、その名数八景は「瀟湘夜雨」・「平沙落雁」・「烟寺晩鐘」・「山市晴嵐」・「江天暮雪」「漁村夕照(返照)」・「洞庭秋月」(漱石の「洞庭の名月」というのはこれの誤り)・「遠浦帰帆」を数える。古川注によれば、『この回の文展に』は『広業が瀟湘八景のうち五枚を、大観は全八枚を出品した』とある。]

 自分は廣業君の波を賞めた。けれども斯ういふ意味を帶びた仕事は、支那人が既に追つてゐやしないかといふ疑がある。そこへ行くと廣業君の畫は大觀君に比べて個性がそれ程著るしく出てゐないやうに思はれる。歷史的に畫を研究した事のない自分ではあるが、大觀君の八景を見ると、此八景はどうしても明治の畫家橫山大觀に特有な八景であるといふ感じが出て來る。しかもそれが強ひて特色を出さうと力めた痕迹なしに、君の藝術的生活の進化發展する一節として、自然に生れたやうに見える。此間表裝展覽會の時に觀た君の畫は、皆新らしかつた。けれども何か新らしいものを描かなければ申し譯がないと力味拔いた結果、やけに暗中に飛躍して、性情から湧いて出る感興もないのに筆を下したと思はれるものが多かつた。此八景はあんなものから見ると活きてゐる。橫山大觀君になつてゐる。それを説明すると暇が要るが、一言でいふと、君の繪には氣の利いた樣な間の拔けた樣な趣があつて、大變に巧みな手際を見せると同時に、變に無粹(ぶいき)な無頓着な所も具へてゐる。君の繪に見る脱俗の氣は高士禪僧のそれと違つて、もつと平民的に呑氣なものである。八景のうちにある雁は丸で揚羽の鶴の樣に無恰好ではないか。さうして夫が平氣でいくつでも蚊のやうに飛んでゐるではないか。さうして雲だか陸だか分らない上の方に無雜作に竝んでゐるではないか。仰向いて夫を見てゐるものが、又如何にも屈託がなささうではないか。同時に雨に濡れた修竹の樣や霧の晴れかゝつた山驛の景色抔は、如何にも巧みな筆を使つて手際を見せてゐるではないか。――好嫌は別として、自分は大觀君の畫に就て是丈の事が云ひたいのである。舟に乘つて月を觀てゐる男が、厭に反(そつ)くり返つて、我こそ月を觀てゐると云はぬ許りの妙な感じを自分に與へた事も序だから君に告げて置きたい。

[やぶちゃん注:「修竹」「しうちく(しゅうちく)」は長く伸びた竹のこと。

 ここで漱石が称揚している「瀟湘八景」は私も好きな作品の一つで(私は実は大観好きである)「国立博物館」公式サイト内のここで全図を鑑賞出来る。] 

 

        九 

 

 自分は安田靭彦君の「夢殿」といふ人物畫を觀て何といふ感じも興らなかつた。自分の友人は其前に立つて面白くないと云ふ言葉を繰り返してゐた。あとで聞くと是は大分評判の高い作ださうである。聖德太子とかの表情の、飽く迄も莊重に落付いてゐるうちに、何處か微笑の影を含んだ萌(きざし)の見える所が大變能く出來上つてゐるのださうである。それは自分の情緒に觸れない説明であるから、たとひ肯がつた所で、「夢殿」に對する愛執の度を增減する譯に行かないが、序だから、自分がかねて日本古來の佛像だの佛畫だのに就いて觀察した新らしいと思ふ點を參考に述べたい。

[やぶちゃん注:グーグル画像検索「安田靫彦 夢殿」をリンクさせておくが、私は一枚として安田の絵に感銘を受けたことはない。その点で漱石の言にすこぶる共感するものである。]

 彫像でも畫像でも宗教がかつた意味を帶びた日本支那の作品に、古來から好男子のゐないのは爭ふべからざる事實の樣に思はれる。中にも寒山拾得だの五百羅漢だの其他色々六づかしい名の付いた仙人になると、男振は甚しく振はない。我々は因習の結果其所に一種の仙氣があると認めてゐるらしいが、能く考へると、苟くも崇高とか超脱とかいふ出世間的の偉力を有した精神上の德が、殆んど畸形と評しても然るべき下品な容貌によつて代表され樣とは決して受取れないのである。眼付なり顏だちなりが陋(いや)しくなればなる程、外部に現はれた人格も亦其陋しい眼鼻だちに正比例した下劣な調子を反映しなければならないのが常識に適つた見解で、又哲理に戾らない斷定である。して見ると、我々が平生博物館や寶物展覽會で目擊するあの異形の怪物は、彼等が骨董的な相貌を有すれば有するだけ、彼等の偉大なる精神を表現せんとする畫家なり彫刻家に取つて不便を與へる事になる。そこに氣が付くべき筈の藝術家が、何を苦んで此不利益な地位に陷(おちし)いれられながら、依然として平凡を奇怪の方面に超越した變な頭や口ばかり作つてゐたか。是は相當の思索を費やして解決して然るべき問題である。たゞ習慣といった丈では自分の腑に落ちない。

[やぶちゃん注:この漱石の常識的見解は漱石の外見的視覚上の美醜への拘りや限界性を示していて面白い。]

 自分の考によると、希臘の神の像は、其名前の神であるに拘はらず、實は悉く人間の像なのである。もつと適切にいふと、希臘人は神を彼等同等の人間に引き下した所を像にしたのではなからうかと思ふのである。だから彼等の遺した神像はみな立派である。立派といふのは人間として立派なのである。容貌といひ體格といひ、悉く人間として有し得らるゝ最高度の立派さを示現してゐるもの許である。從つて我々は其前に立つて、神の代表者たる最も完全な人間を見るのである。若くは最も完全な人間を通じて神を見るのである。所が日本の佛像は全く反對の遣口に出てゐる。神を具體化するために、神を人間の程度迄引き下げた希臘人に反して、我々は人間以上の佛を、人間の眼鼻を借りて存在させやうと力めたのである。だから眼といひ鼻といひ、大きいの小いのと云つた所で、實はほんの借物に過ぎない。方便として眼鼻を使ひこそすれ、目的は夫等の奧にある無形の或物である。既に服や鼻や口が取次所であつて、代表者でない以上は、容貌其ものが、人間らしい色氣なり慾氣なり、或は勇氣なり思慮なりを、人間の程度で現はしてゐては、佛を人間らしくするには都合が好いかも知れないが、人間を佛らしくするためには却つて邪魔になる丈である。其不純な感じを頭から拔き去る必要から、彼等は人間離れのした不可思議な容貌を骨董の如くわざと具へてゐるのではなからうか。

[やぶちゃん注:「許」「ばかり」。

「遣口」「やりくち」。]

 では此奇怪な容貌を通じて佛の魂が何うして輝き得るか。それが藝術家の靈腕といふのだらう。自分はかつて寫眞版の古佛像を見た事がある。其像にあらはれた顏は今でも電車のうちで見る事の出來る普通な顏である。けれども何等他奇なき其眼鼻立の奧から、如何に人間を超越した氣高い光が射したかは、忘れやうとしても忘れられない記憶の一つである。此平凡な顏は實に無限の常寂と、絶對の平和と、無量の沈着と莊嚴とを以て自分に臨んだのである。

[やぶちゃん注:「他奇」「たき」。他と比べて新規だったり、違違って見えるところ。]

 此無名の藝術家は決して一時の出來心からこんな像を刻んで見やうとしたのではなからうと思ふ。安田君も徒らな料簡で「夢殿」などといふ六づかしい畫題を擇んだのではあるまい。けれども既に人間として夫程嘆賞に價しない彼等の佛教的容貌の裏面に、形而上の佛教的な或物が何處にも陽炎つてゐないとすれば、君の畫は失敗ぢやなからうか。 

 

        十 

 

 藝術を離れて單に坊間の需用といふ社會的關係から見ると、今の西洋畫家は日本畫家に比べて遙かに不利益の地位に立つてゐる。彼等の多數は隣り合せの文士と同じく、安らかに其日其日を送る糧すらも社會から供給されてゐない。彼等の製作の大部分は貨幣と交換され得べき市場に姿を現はす機會に合ふ的あて)もなく、永久に畫室の塵の中に葬むられ去るのである。畫室! 彼等の或ものは恐らく自己の生命を葬るべき畫室すら有つてゐないだらう。彼等は食ふ爲でなく、實に餓える爲、渇する爲に畫布に向ふ樣なものである。

 是程窮迫の境遇に居りながら、猶かつ執念深くパレツトを握つてゐるものは餘程勇猛な藝術家でなければならない。自分は此意味に於て深く今日の西洋畫家を尊敬するのである。さうして是等薄倖の畫家によつて開拓されつゝある我邦の畫界が、年々其努力によつて面目を新たにするのを見るたびに嘆賞の聲を惜まないのである。斯ういふ進境の一源因は、無論文壇の大勢と同じく、活きた西洋の潮流が、斷えざる新らしい刺戟を、彼等の血脈に注ぎ込んでゐるからではあるが、奮つて衣食問題以上にも躍り出さうとする彼等の藝術的熱心も亦大いなる原動力となつて暗々裏に働いてゐるに違ない。悲しいかな、此方面で多少名を知られた所謂大家なるものの多數が、新進の人と步調を揃へて一樣に精進してゐない。自分は公言する如く斯道に於て全くの門外漢である。だから技巧などは能く解らない。夫でゐて斯んな失禮を云ふのは善くないとも思ふ。けれども亦感じた通りを述べるのも惡くはないとも考へる。

 自分はかつて故靑木氏の遺作展覽會を見に行つた事がある。其時自分は場の中央に立つて一種變な心持になつた。さうして其心持は自分を取り圍む氏の畫面から自(おのづ)と出る靈妙なる空氣の所爲だと知つた。自分は氏の描いた海底の女と男の下に佇んだ。自分は其繪を欲しいとも何とも思はなかつた。けれども夫を仰ぎ見た時、いくら下から仰ぎ見ても恥づかしくないといふ自覺があつた。斯んなものを仰ぎ見ては、自分の人格に關はるといふ氣はちつとも起らなかつた。自分は其後所謂大家の手になつたもので、これと同じ程度の品位を有つべき筈の畫題に三四度出合つた。けれども自分は決してそれを仰ぎ見る氣にならなかつた。靑木氏は是等の大家よりも技倆の點に於ては劣つてゐるかも知れない。或人は自分に、彼はまだ畫を仕上げる力がないとさへ告げた。それですら彼の製作は纏まつた一種の氣分を漲らして自分を襲つたのである。して見ると手腕以外に畫に就て云ふべき事は澤山あるのだらうと思ふ。たゞ鈍感な自分にして果してそれを道(い)ひ得るかが問題な丈である。

[やぶちゃん注:「故靑木氏の遺作展覽會」放浪の洋画の鬼才青木繁(明治一五(一八八二)年~明治四四(一九一一)年三月二十五日)のそれは一周忌に当たる明治四十五年三月(本作が書かれた年初)に上野で催されている。

「氏の描いた海底の女と男」後期の名作「わだつみのいろこの宮」(明治四〇(一九〇七)年)のこと。これ。]

 先づ一番に和田君の描いた石黑男爵の肖像に就て所感を述べたい。決して惡口を云ふ積でなく、たゞ感じた通りを自白すると、男爵の顏は色の惡い唐茄子に似てゐる。尤も男爵の顏を橫から見れば多少唐茄子らしい所があるのかも知れないから、是は畫家の罪と許は云へない。然し男爵の顏が粉を吹いてゐるに至つては、益唐茄子らしくなるとならないとに論なく、和田君の責任である。然らざれば光線の責任であるが、何うも左うではないらしい。和田君はH夫人といふのをもう一枚描いてゐる。是も男爵同樣甚だ不快な色をしてゐる。尤も窓掛や何かに遮ぎられた暗い室内の事だから光線が心持よく通はないのかも知れない、が光線が暗いのでなくつて、H夫人の顏が生れ付暗い樣に塗つてあるから氣の毒である。其上此夫人はいやだけれども義理に肖像を描(か)ゝしてゐる風がある。でなければ和田君の方で、いやだけれども義理に肖像を描いてやつた趣がある。自分は何方か知らないが、隣りにマンドリンを持つて來てゐる山下君の女を見た時、猶々さういふ感じを強くしたのである。山下君の女は愉快にさうして自然に寐てゐる。眼をねむつてゐる癖に潑溂と動いてゐる。生き生きとした活力を顏にも手にも身體にも蓄はへた儘、靜かに橫はつてゐる。自分は彼女の耳の傍ヘ口を付けて、彼女の名をさゝやいて見たい。然し眼を開いて此方を向いてゐるH夫人には却つて挨拶する勇氣が出ない。

[やぶちゃん注:「和田君」和田栄作。

「山下君」山下新太郎(明治三四(一八八一)年~昭和四一(一九六六)年)。ここに出る絵は次章の頭にある「マンドリーヌ」のこと。] 

 

        十一 

 

 「マンドリーヌ」とは反對の側から自分の興味を誘なつた畫が四つ程ある。偶然にも其内の二つは隣り合せに掛けられてゐた。さうして二つとも線を用ひた裝飾畫であつた。細長いパネルめいたのは白羊君の「川のふち」で、是は寒い色をしてゐた。稍四角な方は未醒君の「豆の秋」で、是は暖たかく出來てゐた。

[やぶちゃん注:「白羊君」倉田白羊(はくよう 明治一四(一八八一)年~昭和一三(一九三八)年)。

「未醒君」「未醒」は「みせい」と読む。小杉放庵(ほうあん 明治一四(一八八一)年~昭和三九(一九六四)年)のこと。本名は国太郎、未醒・放庵は別号。「帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。芥川龍之介と親しく、『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外観と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の岩波版芥川龍之介新全集注解から)。その「外観と肚の底」の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀(とつこつ)たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後(ご)氏に接して見ると』『肚(はら)の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。芥川より十一歳年上。]

 花やかな活躍を意味する「マンドリーヌ」を去つて、「川のふち」と「豆の秋」の前へ來たとき自分は、音樂會の歸りに山寺の門を潛つたやうな心持を味つた。「マンドリーヌ」の刺戟性なのに反して彼等の畫は夫程靜だつたのである。けれども其靜さは歡樂の後に來る反動の淋味(さびしみ)を以て自分に訴へたのではない。彼等は其根調に於て、父母未生以前から既に一種の落付を具へてゐたのである。さうして新らしい問題が此落付の二字から生れるのである。活躍と常寂――生の兩面を語る此言葉が藝術に卽して如何なる意義を我々にもたらすか。是が問題である。

[やぶちゃん注:「父母未生以前」「ぶも(ふも)みしやういぜん」は禪語で、しばしば禪問答の最初に試され、後に「の面目や如何」と問われる。父や母すら生まれていない遙か以前の時空間の本来の自己存在を問うもの。相対的な存在に過ぎない自己というちっぽけな立場を離れ、絶対普遍の仏教真理の立場を感得させる一途としての公案である。]

 活動には奧行がない。あらゆる力が悉く外部に向つて走るならば、我々はたゞ其力の現はれた迹丈を見れば好い。さうして唯間口の強烈な所に心を奪はれて居れば、萬事は其刹那に解決されるのである。人間全體が皮膚に發現し切つた以上、裏面を覗く必要はないからである。だから活動本位の裏面は陽氣で快活である。けれども陰性の畫になると、始めから何等の活動を示してゐない。從つて我々は畫の間口丈見て安心する事が出來ない。此靜かな落付いた生の裏面に、何物か潛んでゐるに違ないと思ふ。次に其潛んでゐるものは赤いものか黑いものか、何だか物色して見たくなる。其所で畫に已を得ず奧行が出來て來る。勿論奧行といふのは筆の先で拵らえる意味の濃淡ではなくつて、全く精神作用から來る深さに過ぎないから、斯ういふのは考へさせる畫とも、象徴的の畫とも、或は宗教義を有つた畫とも言ひ得るのだらう。

 「川のふち」はたゞの田舍女が立ちながら、髮を梳つてゐる傍に、臼があつたり、後に川があつたり、其川の中に島が浮いてゐたりする丈である。自分の友人は此畫の前に立つて頻りに氣に入つたと云つてゐた。自分は何だか象徴的な所があるが夫にしては物足りないと答へた。友人は、そんなものではなからう、私には此裡の趣が好く解るがと答へた。自分にも趣は解つた積である。けれども單に趣丈描いたものとしては、描き方が矢張り足りない樣に思はれた。自分は二三度此畫を振り返つて見た。さうして仕舞迄、物足りた樣な物足りなさを感じた。

 「豆の秋」は畫として調つた點から云ふと、「川のふち」よりも上に位するのだらう。四角な裏面が四角にきちんと纏つてゐるうちに、とても此中には纏められさうもない木の幹がぬつと立つてゐたり、同じく大き過ぎるやうな人間が落付拂つて坐つてゐたりする。「豆の秋」は實に大膽に沈着に纏つた畫である。だから其重味(おもみ)は寧ろ構圖の方から來てゐるらしい。從つて畫の内面に意味があるとすれば、その意味が却つて畫家の手腕で作り上げられてゐる樣な氣がする。リーチ氏はアドヷタイザーに投書して、此畫をシヤヷンヌの影響を受けて墮落したものだと云つてゐる。シヤヷンヌの影響は未醍君も否定し得ないかも知れない。けれども是は本來君の性情にある畫風なのである。「木蓮」と云ひ「水郷」といひ、今度の「豆の秋」といひ、いづれにも畫家の感情が籠つてゐる。未醒といふ人が本來の要求に應じて、自己に最も適當な方法で、自己を最も切實に且つ有意義に表現した結果と見るより外に見やうがないのである。自分は「豆の秋」の色彩をとくに心持よく眺めた。

[やぶちゃん注:「リーチ氏」バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach 一八八七年~一九七九年)はイギリス人陶芸家・画家・デザイナーで美術評論家。日本にたびたび訪問、白樺派や民芸運動にも関わり、「日本民藝館」の設立に加わって柳宗悦に協力したことで知られる。

「アドヷタイザー」“The Advertiser”でイギリスの、広告を主体とした複数の地方紙を包含する新聞の名。

「シヤヷンヌ」ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ(Pierre Puvis de Chavannes 一八二四年~一八九八年)はフランスの画家。ウィキの「ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌによれば、『日本では比較的早くから雑誌『白樺』などで紹介され、当時留学中の黒田清輝らも訪問していた。フランスを代表する巨匠として高く評価され、大規模な壁画の仕事を次々とこなす一方、多数の肖像画も描いた。神々や聖人を描きながらもシャヴァンヌの作品はその芸術が静かに湛える自然の息吹こそが多くの画家たちをひきつけた。パブロ・ピカソもその一人で、美術館に何回も足を運び、シャヴァンヌの絵を模写していたという逸話が残されている』とある。“Le Pauvre Pêcheur「貧しき漁夫」一八八一は私の好きな一枚である。]

 同じ意味から同じ人の描いた「海藻」といふのが自分を引き付けた。是は坊主頭の船頭と其足下(あしもと)にある海藻が、たゞ簡單に寫し出されてゐる丈のスケッチに過ぎないが、自分の所謂奧行を此船頭が何處かに脊負つて立つてゐる樣に感ぜられた。自分は不圖此畫を見た時、虛子の書いた漁夫(れふし)の事を思ひ出した。其漁夫は足下に藻屑の散らばつてゐる砂濱に坐つて、たゞ海の方を眺めてゐるのである。いつ見ても、じつと遠くの海の方を眺めてゐるのである。何か意味がなくてはならないのである。さうして其意味は誰にも解らないのである。

[やぶちゃん注:「虛子の書いた漁夫」古川注に、明治四四()年『四月号『ホトトギス』附録小説に載った写生文「由井ケ浜」の中の漁夫をさす。その中に「他の多くの漁師は絶えず体を動かして働いて居るのに此男は時々ぼにゃりと突立つて居るのである。さうして大きな口に扉の無い微笑を湛へて何を見るとも無く沖の方を見て居る」とある』とある。私は虚子嫌いであるが、この一篇は何時か電子化してみたいと考えている。] 

 

        十二 

 

 同じ奧行を有つた畫の一として自分は最後に坂本繁次郎氏の「うすれ日」を擧げたい。「うすれ日」は小幅である。牛が一疋立つてゐる丈である。自分は元來牛の油畫を好まない。其上此牛は自分の嫌な黑と白の斑(ぶち)である。其傍には松の枯木か何か見すぼらしいものが一本立つてゐる丈である。地面には色の惡い靑草が、しかも漸(やつ)との思で、少しばかり生えてゐる丈である。其他は砂地である。此荒涼たる背景に對して、自分は何の詩興をも催さない事を斷言する。それでも此畫には奧行があるのである。さうして其奧行は凡て此一疋の牛の、寂寞として野原の中に立つてゐる態度から出るのである。牛は沈んでゐる。もつと鋭どく云へば、何か考へてゐる。「うすれ日」の前に佇んで、少時(しばらく)此變な牛を眺めてゐると、自分もいつか此動物に釣り込まれる。さうして考へたくなる。若し考へないで永く此畫の前に立つてゐるものがあつたら、夫は牛の氣分に感じないものである。電氣のかゝらない人間のやうなものである。

[やぶちゃん注:「坂本繁次郎」「繁二郎」の誤り。坂本繁二郎(はんじろう 明治一五(一八八二)年~昭和四四(一九六九)年)。福岡県久留米市生まれ。母校久留米高等小学校の図画代用教員となった。その後、二十歳の時、上京して、同郷のライバルであったかの青木繁ともに、絵を学んだ。明治四〇(一九〇七)年に「北茂安村」が第一回文展に入選している。大正三(一九一四)年には二科会の創立に参加、大正一〇(一九二一)年に渡仏、大正一三(一九二四)年九月に郷里の久留米に戻ると、以後、東京へ戻ることなく、終生九州で制作を続けた(以上はウィキの「坂本繁二郎」に拠った)。

「うすれ日」個人ブログ「日本歴史と雑事記録」の「うすれ日(漱石の牛)」本画の画像が見られる。私は大変気に入っている一作である。

 なお、私はこの段落は夏目漱石の精神分析というか、病跡学的材料として、極めて興味深いものと考えている。]

 斯ういふ意味で多少自分に電氣をかけた彫刻はたゞ一つしかなかつた。それは朝倉文夫君の「若き日の影」である。さうして其「若き日の影」といふ題を説明するものは一人の若い男であつた。彼は兩肱を後にして立ちながら何かに靠れてゐた。自然の勢として彼の胸は前方に浮かざるを得なかつた。けれども彼の顏は寧ろ俯向いてゐた。彼は逞ましい骨格の所有者ではなかつた。彼の頰が若く柔らかい線で包まれてゐる如く、彼の胸隔の何處にも亦傑張の態がなかつた。要するに彼は強い男ではなかつた。さうして強い人を羨やんでもゐなかつた。唯生れた通りの自己を諦らめの眼で觀じてゐた。自分は彼の姿勢と彼の顏付の奧にある彼の心を見た時、その淋しき瞑想をも見た。さうして朋友としては彼に同情し、女としては彼に惚れて遣りたかつた。

[やぶちゃん注:「朝倉文夫」(明治一六(一八八三)年~昭和三九(一九六四)年)は「東洋のロダン」と称された名彫塑家。ウィキの「朝倉文夫」によれば、大分県大野郡上井田村(現在の豊後大野市朝地町)生まれ。本姓は渡辺(養子に出た)。当初は俳句を志し、『正岡子規に師事しようと願っていたが、奇しくも上京した当日の』九月二十日が『まさに子規の通夜であった』。結局、新進気鋭の彫刻家として既に東京で活躍していた九歳年上の兄渡辺長男の『もとで彫塑に魅せられた朝倉は必死の受験勉強の末、翌年東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻選科に入学、寸暇を惜しんで彫塑制作に没頭した。モデルを雇う金がないために上野動物園へ通って動物のスケッチをするうち、たまたま教授からの紹介を受けた貿易商の注文で動物の像の制作を始めほぼ一日に一体のペースで卒業までに』千二百体以上に及んだ。この頃、『当時の海軍省が募集していた三海将の銅像に「仁礼景範中将像」で応募し』、一等を射止め、『注目されることとなる』。明治四〇(一九〇七)年、『卒業制作として「進化」を発表し』て『研究科へと進み』、『谷中天王寺町にアトリエ、朝倉塾を作り子弟の養成にあたった。また文部省が美術奨励のために開いていた』第二回文展に「闇」を出展して最高賞である二等となり、『翌年も「山から来た男」で』三等を得たが、『欧州留学の夢は破れてしまう(当時、連続で』二『等を得ると公費による欧州留学の権利を得ることができた』のであった)。明治四三(一九一〇)年、『最高傑作ともいわれる「墓守」発表後、友人の荻原碌山の死や病にふせった弟の看病などに携わるうち』、突如、『南洋のシンガポール、ボルネオの視察へと旅立』った。後に朝倉が語った『ところによれば、この旅行は井上馨(当時朝倉は井上の肖像を制作していた)の密命による軍事探偵的なものであったという)。この際の経験は、後の朝倉に大きな影響を与えたといわれている。帰国後も第』八『回文展まで連続上位入賞を果たし』、第十回文展に於いては三十四歳の若さで『最年少審査員に抜擢されるほどであった』。大正一〇(一九二一)年、『東京美術学校の教授に就任、ライバルと称された高村光太郎と並んで日本美術界の重鎮』となった。戦中、『アトリエは戦災をくぐり抜けるが、戦時中の金属供出のために』四百点余の『朝倉の作品はほとんど消滅してしまう』(原型は三百点余が残されたという)。『戦後も精力的に自然主義的写実描写に徹した精緻な表現姿勢を一貫して保ち続け』、『非常に多作であり、全国各地に数多くの像を残し』ている、とある。

「若き日の影」これ(所蔵する大分県立美術館公式サイト内)。

「靠れて」「もたれて」凭れて。

「傑張」「けつちやう(けっちょう)」と読むか。優れた張った筋肉を持った体軀の意か。]

 自分の所謂奧行に關する辯と例とは是で略盡きた。繪畫彫刻を通じて、此系統に屬する作は他にないやうである。が、強ひて其匂のするものを求めるならば、黑田淸輝氏の「習作」である。それには橫向の女の胸以上が描いてあつた。女は好い色の着物をたつた一枚肩から外して、裝飾用の如く纏つてゐた。其顏と着物と背景の調子がひたりと喰付いて有機的に分化した樣な自然の落付を自分は味はつたのである。さうして若し日本の女を品位のある畫らしいものに仕上げ得たものがあるとするなら、此習作は其一つに違ないと思つたのである。けれども夫以上自分は此繪に對して感ずる事は出來なかつた。自分の友は女の首から肩のあたりを見て、しきりに堅い堅いと云つてゐた。

[やぶちゃん注:黒田のその絵は。私も惹かれない。確かに漱石の友の言うように「堅い」。]

 友人は南薰造君の「六月の日」の前に來て何うですと聞いた。自分は畠の眞中に立つて德利から水を飮んでゐる男が、法螺貝を吹いてゐるやうだと答へた。それから其男が南君のために雇はれて、今畠の眞中に出て來た所だといふ氣がすると答へた。自分は此間雜誌「白樺」で南君の書いた田舍の盆踊りの光景を讀んで大變面白いと思つたが、此畫にはあの文章程の旨味がないと答へた。

[やぶちゃん注:「南薰造」(みなみ くんぞう 明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)はウィキの「南薫造」によれば、広島県賀茂郡内海町(現在の呉市安浦町)出身の画家で東京美術学校西洋画科出身。でその「六月の日」を画像で見られる。確かに。こりゃ、法螺貝だわ!

『此間雜誌「白樺」で南君の書いた田舍の盆踊りの光景』底本の古川注に、この年(明治四十五年は七月三十日を以って明治天皇崩御により大正に改元)の六・七・九(改元)・十月号に連載した「田舍より」という文章を指す。『その㈣(十月号所載)に「踊り場は汐のヒタヒタ満ちて来る浜辺の広場である、真中には大鼓を着けた台が置かれ二本の高提灯は月夜の中天に高く立てられボンヤリと見える」と盆踊りの様子が描かれている』のを指す旨の記載がある。]

 「ヒル」といふ人の描いた七面鳥の前に來た時、友人はすぐ、何うしても西洋人だと云つて感心した。自分は後から感心した。其癖此七面鳥は首から肩の邊迄しか描いてないやうに見えた位小さかつたのである。しかも其隣りには不折君の巨人がゐたのである。自分は不折君に、此巨人は巨人ぢやない、たゞの男だと告げたい。きたならしい唯の男だと告げたい。この日本の巨人より、柏亭君の外國の子供の方がまだ偉大であると告げたい。

[やぶちゃん注:「ヒル」底本の古川注に、この第六回文展の『陳列品目録に「習作 英国 レオナルド、ヒル」とあ』る、記す。それが「七面鳥」の絵であるらしい。

「不折君の巨人」同じく古川注に、『この回の文展に出品された中村不折筆「巨人之蹟」をさす』とある。

「柏亭君の外國の子供」「柏亭」は洋画家・版画家の石井柏亭(明治一五(一八八二)年~昭和三三(一九五八)年)で、古川氏によれば、この第六回文展に柏亭は「和蘭の子供」を出品、褒状を受けたとある。]

 以上の外に自分はまだ色々の畫を見た。さうして友人と色々の事を語つた。最後に休憩所へ入つた時、自分は茶を飮みながら、この恐るべき群集は、皆繪畫や彫刻に興味があるのだらうかといふ質問を掛けた。友人はさあと云つて逡巡してゐたが、やがて、第一さう云ふ我々は解る方なんでせうか、解らない方なんでせうかと聞き返した。自分は苦笑して默つた。審査の結果によると、自分の口を極めて罵つた日本畫が二等賞を得てゐる。自分の大いに褒めた西洋畫も亦二等賞を取つてゐる。して見ると、自分は畫が解るやうでもある。又解らないやうでもある。それを逆にいふと、審査員は畫が解らない樣でもある。又解るやうでもある。 

2017/01/29

小穴隆一「二つの繪」(49) 「雛」

 

 

 

 さんがさんじふにちといつて、三月三日には蓬餅をこしらへ、今年は寒いので蓬がこまいの、暖かで大きいの、などと語りあつてはゐても、昔から地には雛祭りはなかつた。山のいりつこの、さういふふしぎなところに、二十ケ月ほど暮らしてゐるうちには、その日その日の新聞を、みないでゐることも平氣になつてしまつてゐた。東京に戾つてまる三ケ月日で、家にも新聞をいれて貰ふことにしたら、久振りの新聞には、らんまんの春を待つ雛人形が、百貸店に、人形店に、華やかなデモをくりひろげてゐるのを載せてゐる。一番高價なのは、京都物十五人揃ひで、なんと六萬圓と書いてある。

 なんと、お雛樣は家にもあつたがと、私は家の雛人形を思ひだした。家には、男の子も、女の子もゐないが、お雛樣も幟もあるにはある。

 私の家の雛人形は、いへない萬圓のお雛樣だ。

 私が義足で步けるやうになつて、父の家をでて、アパートで暮らすやうになつてから、芥川のところの義ちやんが、いつもいつしよに錢湯にいつてくれてゐたものだが、その義ちやんに、今度くるときに、桃の枝を買つてきてとたのんでおいたら、挑の枝といつしよに持つてきてくれたお雛樣だ。

 お雛樣には桃の花をかざらう。さういふ心がけの人にはといつて、桐の小箱のなかに、もみでつつんである奈良人形の雛をくれたのは、芥川か、奧さんか、芥川から貰つた雛とだけで、獨り者のときも、女房をもつてからも、一度としてさういふことを考へたこともなかつたが、芥川も死んで二十一年、今年はお雛樣に桃の花をかざらうと思ひ、そんなことが頭にうかびあがつてきた。   (昭和二十三年)

[やぶちゃん注:「さんがさんじふにち」は三月三日が三と三が重(じゅう)する日の意であろう。数列で最初に再び現われる陽数「三」が重なるという陰陽五行の祝祭的意味であると私は採る。

「昔から地には雛祭りはなかつた」よく判らない。「山のいりつこの」「地」とは、田舎の謂いかね? しかし、雛祭りのない田舎というのは、私には正直、よく判らないのだ。……

……まあ、しかし、君の厭らしいあの意味深さが、あまり感じられない、いい短章ではないか……それにしてもだ……小穴よ……葛巻義敏は確かにクズであり、家ダニであったかも知れぬ……知れぬが、しかし……それをこれから本書の掉尾でテツテ的に声高かに言い立てることとなる君が……ここで若き日の彼を「義ちやん」と優しく呼んでいるのは――極めて奇異で「ヘン」ではないかね? 小穴よ……君は実は――芥川龍之介を自分だけの、ものにしたかった――のではないか? 「義ちやん」と同様に……ね…………]

柴田宵曲 妖異博物館 「河童の力」

 

 河童の力

 

 河童といふものは仲間同士でも角力を取るかも知れぬが、それは別世界の事だからよくわからぬ。彼等の角力趣味が知られてゐるのは、人間に對して角力を挑むからである。「蕉齋筆記」によれば、角力を取るに當つて、彼等は六尺餘りの背丈になる。身體ぬめぬめとして甚だ氣味が惡いが、負けてやれば悦んで水中に飛び入る。人間が勝つと、腹を立てていろいろの返報をするとある。

[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」既出既注。探すのに疲れた(河童の相撲の記載はあったが、この内容ではなかった)。国立国会図書館デジタルコレクションの画像をお探しあれ。]

 「寓意草」に書いてあるのは、豐前國に幅五六十間もあつて、徒渉(かちわた)りする川がある。夜こゝを渡ると、必ず河童が出て角力を取らうと云ふ。子供だと思つて相手になれば、水に引き込まれて食はれるさうである。小笠原信濃守の家衆に、大塚庄右衞門といふ人があつた。從兄弟の瀨川藤助と共に渡らうとした時、河童が藤助の袖を引き止めて角力を取らうといふのを、答へもせずに拔き討ちに斬つて捨てた。翌朝二人で行つて見たら、三町ばかり川下の柳の根に死骸がかゝつてゐた。十歳に足らぬ子供ぐらゐの大きさで、髮の長さは四五寸ばかりある。顏は猿のやうで白く、爪は猫のやうだといふ話であつた。庄右衞門の下男で強力の者も、引き止められて角力を取つた。力は強くないけれど、身輕で容易に捕へられず、漸く捕へても鰻のやうにぬらりと拔ける。あとで見たら、顏にも腹にも腕にも、針の先で搔き裂かれたやうな疵があり、七日ぐらゐは癒らなかつた。

[やぶちゃん注:「寓意草」。私は所持しない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認したが、三度ほど縦覧したが、見つからぬ。平仮名の多い文章で読むのに疲れた。お探しあれかし。

「豐前國」現在の福岡県東部と大分県北部。

「五六十間」九十一~百九メートル。

「三町」約三百二十七メートル。]

 河童が角力を挑むのは、人間と強弱を爭ふためか、この機會に水中へ引き込まうとするのか、その邊ははつきりしない。御留守居室賀山城守の中間が、九段辨慶堀の端を通ると、思ひがけず中間の名を呼ぶ者がある。子供が水の中から招くやうに見えたので、近所の子供が堀に落ちたものと思ひ、救はうとして手をさし伸べると、直ぐ取り付いて來た。岸へ引き上げようとしたけれど、磐石のやうで少しも動かず、却つてだんだん水に引き込まれさうになつたので、力一杯振り放し、屋敷へ馳せ戾つた。何だか腑拔けのやうになつて、著物も濡れ、且つ腥臭の堪へがたいものがある。皆で水をかけたりして洗つたが、どうしても臭氣が去らぬ。翌朝に至り漸く人事を辨へるやうになり、四五日して疲勞が囘復すると共に、身體の腥臭もなくなつた。この相手が河太郎だらうといふことになつてゐる(甲子夜話)。

[やぶちゃん注:「甲子夜話」松浦静山は河童に強い関心を持ち、「甲子夜話」でも二ヶ所で河童図を描いているが、その周辺にはこの原話は見当たらぬ。確認出来次第、追記する。【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話卷之十」の「室賀氏の中間、河童に引かれし事」であることが判明した。

「九段辨慶堀」現在の千代田区紀尾井町江戸城外堀跡の一部。附近(グーグル・マップ・データ)。]

 「怪談老の杖」に出てゐるのは、右の話と共通性が多い。室賀山城守の居宅は神田小川町であつたが、「怪談老の杖」の浪人小幡一學も、小川町に居つた若い頃の話である。河童に出逢ふのも麹町一丁目の御堀端で大差はない。一つ話が二つに傳へられたのかと思ふと、必ずしもさうではないやうに見える。雨が強く降るので、傘をさし腕まくりをして急いで來たところ、十歳ばかりの小童が笠もかぶらず、先に立つて步いて行く。わしの傘へ入つたらどうだと云つても、恥かしいのか挨拶もせず、くしくしと泣いてゐるやうだから、愈々可哀さうになつて、うしろから傘をさしかけ、自分の脇の方へ引き付けて步みながら、どこへ使に行つたか、雨が降つて困るだらう、いくつになる、などと深切に言葉をかけたが、依然として返事もせず、やゝもすれば傘を外れて濡れさうになる。馬鹿な小僧だ、傘の中へ入れ、と云へばまた入つて來る。そのうちに堀端へ出た。この傘の柄をつかまへて行け、さうしなければ濡れるぞ、と我が子でもいたはるやうに云つたが、この時小僧は急に一學の弱腰を兩手でしかと捕へ、無二無三に堀の中へ引き込まうとした。おのれ引き込まれてなるものかと、金剛力を出して引き合つたけれど、小僧の方が強かつたらしく、次第に土手の下の方へ引かれさうになる。向う下りで足溜りがないから、已に堀際の石がけのところまで引き立てられたのを、心中に氏神を念じ、力一杯に突き飛ばしたら、小僧は傘と共に水に沈んだ。命からがら這ひ上つたものの腰が立たぬほどなので、一丁目の方へ戾り、駕籠に乘つて歸宅した。これに懲りて、その後は自身は勿論、人にも戒めて、御堀端を通るな、と云つて居つた。この河童に言葉をかける模樣は、「半七捕物帳」の「お照の父」に使つてある。

[やぶちゃん注:「麹町一丁目」現行では附近(グーグル・マップ・データ)。確かに先の弁慶堀からは東北に一キロ程度で、近くではある。

「怪談老の杖」のそれは「卷一」の「水虎かしらぬ」である。以下に示す。所持する「新燕石十種 第五巻」に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に正字化して示す。

   *

   ○水虎かしらぬ

小幡一學といふ浪人ありける、上總之介の末葉なりと聞しが、さもあるべし、人柄よく、小學文などありて、武術も彼是流義極めし男なり、若きとき、小川町邊に食客のやうにてありし頃、櫻田へ用事ありて行けるが、日くれて、麹町一丁目の御堀端を歸りぬ、雨つよく降りければ、傘をさし、腕まくりして、小急ぎにいそぎをりけるが、是も十ばかりなりとみゆる小童の、笠もきず先へ立て行を、不便におもひて、わらはに、此傘の中へはへりて行べし[やぶちゃん注:「はへり」はママ。]、とよびかけけれど、恥かしくや思ひけん、あいさつもせず、くしくしとなく樣にて行けば[やぶちゃん注:「くしくし」の後半は原典では踊り字「〱」。]、いとゞふびんにて、後より傘さしかけ、我が脇の方へ引つけてあゆみながら、小僧はいづ方へ使にゆきしや、さぞこまるべし、いくつになるぞなど、懇にいひけれど、いらゑせず[やぶちゃん注:「いらゑ」はママ。]、やゝもすれば、傘をはづれて濡るゝ樣なるを、さてばかなる小僧なり、ぬるゝ程に傘の内へはひれはひれ[やぶちゃん注:「はひれはいひれ」はママ。但し、後半は原典では踊り字「〱」。]、と云ひければ、又はひる、とかくして堀のはたへ行ぬるとおぼゆる樣にて、さしかけつゝ、此かさの柄をとらへて行べし、さなくては濡るゝものぞなど、我子をいたはる樣に云ひけるが、堀のはたにて、彼わらは、よは腰を兩手にてしかと取り、無二無三に堀の中へ引こまんとしけるにぞ、扨は妖怪め、ござんなれ、おのれに引こまれて、たまるものかと、金剛力にて引あひけれど、かのわつぱ力まさりしにや、どてを下りに引ゆくに、むかふ下りにて足たまりなければ、すでに堀ぎはの石がけのきはまで引立られしを、南無三寶、河童の食になる事かとかなしくて、心中に氏神を念じて、力を出してつきたをしければ、傘ともに水の中へしづみぬ、命からがらはひ上りてけれど[やぶちゃん注:「からがら」の後半は原典では踊り字「〲」。]、腰たゝぬ程なりければ、一丁目の方へもどり、駕籠にのりて屋敷へ歸りぬ、夫よりこりはてゝ、其身は勿論、人までも、かの御堀ばたを通る事なかれ、と制しける、是ぞ世上にいふ水虎(かつぱ)なるべし、心得すべき事なりと聞り、

   *

『この河童に言葉をかける模樣は、「半七捕物帳」の「お照の父」に使つてある』大正七(一九一八)年四月号『文芸俱樂部』初出(私が古くからお世話になっているサイト「綺堂事物」の「『半七捕物帳』を読む」のデータでは『調査中』とするが、収録頁数も示されているから恐らくこれで正しいのであろう)。犯行自体の舞台は柳橋で「河童の長吉」というのが登場する。柴田が言っているのは、「三」の後半の半七が子分の幸次郎と一緒にたまたま入った水戸屋敷近くの小料理屋での聞き込みのシークエンスである。全文は「青空文庫」ので読める。同所から当該箇所を引いておく(因みに、私は時代小説の価値をあまり高く見ない人種であるが、半七だけは特異点で真正フリークであると言ってよい)。

   *

 二人は堤下へ降りて食い物屋をさがした。蜆(しじみ)の看板をかけた小料理屋を見つけて、奥の小座敷へ通されて夕飯を食っているうちに、萩を一ぱいに植え込んであるらしい庭先もすっかり暗くなって、庭も座敷も藪蚊の声に占領されてしまった。

「日が暮れたのに蚊いぶしを持って来やあがらねえ。この村で商売をしていながら、気のきかねえべらぼうだ。これだから流行らねえ筈だ」

 むしゃくしゃ腹の幸次郎は無暗にぽんぽんと手を鳴らして、早く蚊いぶしをしろと呶鳴った。女中は蚊いぶしの道具を運んで来て、頻りにあやまった。

「相済みません。店でお化けの話を聴いていたもんですから、ついうっかりして居りました」

「へえ、お化けの話……。そりゃあおめえの親類の話じゃあねえか」

「よせよ」と、半七は笑った。「ねえさん、堪忍してくんねえ。この野郎少し酔っているんだから。そこで、そのお化けがどうしたんだ。ここの家へ出るわけじゃあるめえ」

「あら、御冗談を……。たった今、家(うち)の旦那が堤で見て来たんですって。嘘じゃない、ほんとうに出たんですって、河童のようなものが……」

「え、河童だ」と、幸次郎もまじめになった。

 半七はその主人をちょいと呼んでくれと云った。呼ばれて出て来たのは四十五六の男で、閾越(しきいごし)で縁側に手をついた。

「御用でございますか」

「いや、ほかじゃあねえが、おまえさんはたった今、堤で何か変なものを見たそうだね。なんですえ」

「なんでございましょうか。わたくしもぞっとしました。相手がお武家ですから好うござんしたが、わたくし共のような臆病な者でしたら、すぐに眼を眩(まわ)してしまったかも知れません」

「河童だというが、そうですかえ」と、半七はまた訊いた。

「お武家は河童だろうと仰しゃいました。まあ、こうでございます。わたくしが業平(なりひら)の方までまいりまして、その帰りに水戸様前からもう少しこっちへまいりますと、堤の上は薄暗くなって居りました。わたくしの少し先を一人のお武家さんが歩いておいででございまして、その又すこし先に、十四五ぐらいかと思うような小僧が菅笠をかぶって歩いて居りました」

「その小僧は着物をきていましたかえ」

「暗いのでよく判りませんでしたが、黒っぽいような単衣(ひとえ)を着ていたようです。それが雨あがりの路悪(みちわる)の上に着物の裳(すそ)を引き摺って、跣足(はだし)でびちょびちょ歩いているので、あとから行くお武家さんが声をかけて……お武家さんは少し酔っていらっしゃるようでした……おい、おい、小僧。なぜそんなだらしのない装(なり)をしているんだ。着物の裳をぐいとまくって、威勢よく歩けと、うしろから声をかけましたが、小僧には聞えなかったのか、やはり黙ってびちょびちょ歩いているので、お武家はちっと焦(じ)れったくなったと見えまして、三足ばかりつかつかと寄って、おい小僧、こうして歩くんだと云いながら、着物の裳をまくってやりますと……。その小僧のお尻の両方に銀のような二つの眼玉がぴかりと……。わたくしはぎょっとして立ちすくみますと、お武家はすぐにその小僧の襟首を引っ掴んで堤下(どてした)へほうり出してしまいました。そうして、ははあ、河童だと笑いながらすたすたと行っておしまいなさいました。わたくしは急に怖くなって、急いで家へ逃げて帰ってまいりました」

 半七は幸次郎と眼をみあわせた。

「そうして、その化け物はどっちの堤下へ投げられたんですえ」

「川寄りの方でございます」

「なるほど不思議なことがあるもんですね」

 勘定を払って、二人は怱々にそこを出た。

   *

「業平」は現在のスカイ・ツリー附近、「水戸様前」近くの堤とは東京ドームの南附近、当時の江戸城外堀である。]

 

 河童が岡に上つたやうだなどと云ふけれど、水を離れた河童も相當に力があるらしい。頭の皿に水がなくなると、急に力がなくなるといふ話である。この二つの場合は、共に雨の降つてゐる晩で、殊に前の話は水から出たばかりだから、水を失ふ心配はなかつたらう。ただ室賀家の中間にしても、小幡一學にしても、河童の正體を見極めてはゐない。前後の事情から河童であらうと判定するに過ぎぬ。「怪談老の杖」には腥臭の事はなかつた。

「太平百物語」には讚岐國で獺が人と角力を取る話がある。これは大分樣子が違つて、山城屋甚右衞門といふ者の下人孫八が、一つ穴といふところへ耕作に行くと、主人の子の甚太郎といふ、十一歳になるのが遊んでゐる。今日はお客樣がおいでになりますのに、どうしてお家にいらつしやいませんか、と聞いても、甚太郎は返事もせずに笑つて、角力を取らうと云ふ。孫八も相手になつて、わざと二番績けて負けたら、甚太郎はよろこんで歸つて行つた。黃昏に戾つてこの話をしたところ、今日はお客樣で、甚太郎はどこへも行きはしない、お前が晝寢をして夢でも見たんだらうと冷かされた。孫八はじめてたぶらかされたことを知り、さては聞き及ぶあの邊の獺であらう、重ねて出たらば打ち殺してやると憤慨したが、翌日耕作に行くと、また甚太郎が出て來て、角力を取らうと云つた。今度はいささかも容赦せず、宙にひつさげ、岩角を目がけて投げ付けたから、頭を碎かれ、水の流るゝこと一斗ばかり、あとには獺の死骸が殘つたとある。この話は水邊でもなし、何のために角力を挑むのかよくわからぬ。わざわざ角力を取らうといふにしては、力もないやうだし、主人の子供に化けて來るあたりは、よほど狐狸の世界に接近してゐるが、角力といふ點でこゝに附載する。一つ穴なら貉だらうなどと、まぜ返してはいけない。

[やぶちゃん注:「太平百物語」は享保一七(一七三二)年の板行になる、菅生堂人惠忠居士なる人物の百物語系怪談本。五巻五十話。以上のそれは「卷之五」にある以下。国書刊行会の叢書江戸文庫版を参考に恣意的に正字化して示す。柴田はその夜の怪異以下のコーダを省略してしまっている。踊り字「〱」は正字化した。

   *

 

    四十六 獺(かはうそ)人とすまふを取りし事

 

 さぬきの國に山城屋甚右衞門といふ者あり。一つ穴といふ所に田地を持ちける程に、常に下人を遣はして耕作をさせける。一日(あるひ)每(いつも)のごとく耕作に孫八といふ下人をつかはしけるに、主人の子甚太郎とて、今年十一才なるが、此一つ穴に遊びゐたり。孫八いふやう、「今日は高松の叔父君(おぢご)御出でありて、父上もてなし給ふに、何とて内には居給はぬや。はやはや歸り給へかし」といへば、此甚太郎返答(いらへ)もせずうちわらひ、「相撲をとらん」といふ。孫八もおかしながら、「いでさらば取り申さん」と、無手(むず)と組み合ひ、僞りて孫八まけければ、甚太郎悦び、「今一番」といふに、又取りてまけたり。甚太郎限りなく悦び歸りぬ。孫八も黃昏(たそがれ)に歸りて、甚太郎にいふやう、「扨々今日は一つ穴にて、二番迄相撲に負け申したり。無念にこそ侍るなり」と戲れて申しければ、甚右衞門夫婦いひけるは、「今日は高松の叔父御出でなれば、甚太郎は終日(ひねもす)他行(たぎやう)せず。何をかいふぞ」と申しければ、甚太郎もうちわらひ、「孫八が晝寢の夢をや見つるならん」と嘲(あざ)ければ、孫八ふしぎをなし、「正しく一つ穴にて相撲を取りしが、さては聞きおよぶあの邊の獺ならん。惡(にく)き事かな。重ねて出でなば、打ち殺さん」といひて、明(あけ)の日も耕作に行きけるが、案のごとく、又甚太郎に化(け)して、「すまふを取らん」といふ。孫八扨(さて)は昨日の獺ならんと思ひ、「心得たり」とて、頓(やが)て引つ組みけるが、孫八力量の者なれば、其まゝ宙に引つ提げ、かたへに有りし岩角を目當になげ付けければ、頭(かうべ)を巖(いはほ)に打ち碎かれ、水の流るゝ事一斗ばかりして、忽ち獺となりて死したり。孫八うちわらひ歸りて、甚右衞門夫婦にかくと語りけるが、其夜孫八に物の化(け)付きて、口ばしりけるは、「扨々(さてさて)情(なさけ)なや。わが夫(おつと)をよくも殺しぬ。われ此敵(かたき)を取らずんば、何(いつ)までも歸るまじ。惡(にく)や惡や」と叫びしかば、甚右衞門夫婦、是れにおどろき、頓(やが)て實相坊といふ修驗者を賴みて祈禱し、樣々に詫びければ、やうやうに物の化(け)落ちたり。然れども孫八心氣つかれて、其後は力量もおとろへ、病心者となりけるとかや。

   *]

 元祿十四年三月十七日の夜、金澤城外の杵畠といふところを、寺西何某の若黨が通りかゝると、自分より先を一人の女が步いて行く。今時分どこへ行くのかと思ふうちに、中途から五つ六つばかりの小坊主がひよつと出て來た。女は小坊主の手を引き、惣構への堀にかゝつた橋を渡る時、お前のやうな役に立たぬ者は邪魔になる、と云ふが早いか、小坊主を水の中へどぶんと投げ込んだ。これは化生の者に相違ないと思つて刀を拔き、汝何者ぞ、のがさぬと斬り付けたが、飛びのきざまに消え失せた。その顏色が世にも凄まじいものであつたため、若黨はそれから三十日ばかりわづらつた。――かういふ話が「四不語錄」に出てゐる。この杵畠のあたりには年を經た獺が住んでゐて、屢々人をたぶらかすといふ話であつたから、右の女もそれだらうといふのであるが、河童と獺には大分接近點があるやうな氣がする。これは殊に女の姿で、角力とは何の因緣もないけれど、夜道をすたすたと步いて行き、小坊主を水に投ずるあたり、別種類のものとは思はれぬ。

[やぶちゃん注:「元祿十四年」一七〇一年。

「杵畠」不詳。識者の御教授を乞う。

 

「四不語錄」浅香山井著で正徳六(一七一六)年板行。私は所持しない。「山井」(「やまゐ」か? 浅香山の古歌に因むという)は号で本名は浅香久敬(きゅうけい 享保一二(一七二七)年~明暦三(一六五七)年)。加賀藩士で国学者。第四代藩主前田綱紀に仕え、国史・国文・神道に通じた。十五年の歳月をかけた「徒然草諸抄大成」(二十巻・(一六八八)年完成)を藩主に呈している。同書は江戸時代最大の「徒然草」注釈書とされる。]

小穴隆一「二つの繪」(48) 「鵠沼・鎌倉のころ」(2) 「鎌倉」

 

      鎌倉

 鵠沼の歸りには、はがきに地圖を圖いて、六郎茶屋のすぐそばと書いてゐる終戰後の叔父を訪ねて、ゆつくり寢てくる考へで米三合を持つてゐた。鎌倉は、これはまた大正十二年の鎌倉であり、汽車から電車に變つてゐることも忘れてゐて、歸りには叔父に笑はれた。

[やぶちゃん注:「鵠沼の歸り」前章「鵠沼」での、芥川龍之介との思い出の地であった鵠沼再訪の帰り、の意。

「六郎茶屋」現在の鶴岡八幡宮大鳥居(余談ながら、これは「一の鳥居」と現行は呼称するが、江戸時代以前は数え方が逆であったので注意されたい)の傍らに建つ畠山六郎重保墓と伝えられる宝篋印塔は「六郎さま」と呼ばれ、重保が持病の喘息で不覚をとって謀殺されたことから、咳の病いで苦しむ者が願掛けすると治ると言い伝えられており(願掛けの際には竹筒に茶を注ぎ入れて供え拝んだとされ、かつては墓の脇に「六郎茶屋」という茶屋があったが、それを指す。

「汽車から電車に變つてゐる」横須賀線電化は大正一四(一九二五)年十二月十三日で全線が電化し、東京-横須賀間で電気機関車運転開始されたが、本格的な電車運転開始は芥川龍之介死後の昭和五(一九三〇)年で、昭和七(一九三二)年で概ね車両の電車化が行われた。]

 大正十二年の夏、私は右の足首をとられたあとの弱つたからだで、商賣をやめてしまつてゐた平野屋(京都の平野屋の支店)で一つ座敷に、芥川龍之介と寢起きをともにしてゐた。まだ、死ぬ話をしようやなどといふ芥川ではなかつたので思ひだすことはほのぼのとしてゐて明るい。

[やぶちゃん注:「平野屋(京都の平野屋の支店)」現在の鎌倉駅西口の、私の好きな「たらば書房」から、市役所へ抜ける通りの右側一帯にあった平野屋別荘(貸別荘。旧料亭。現在の「ホテルニューカマクラ」(旧山縣ホテル)の前身)。「京都の平野屋」は愛宕街道の古道の一の鳥居の傍らで四百年の歴史を持つ鮎茶屋のことと思われる。京都でも私の特に愛する料亭である。宮坂年譜によれば、小穴隆一は芥川龍之介が来鎌する以前(大正一二(一九二三)年八月一日以前)から平野屋別荘に滞在しており、龍之介が平野屋へ来るのは山梨での夏期講座講師の仕事を終えた同月六日から九日までの間と推定されている。在鎌(日帰りで東京に出たりはしている)は十五日ほどに及び、同月二十五日に田端に戻った。]

 たむしにアルコールの話や、一つ蚊帳の中に寢てゐて、二人とも布團をころがりだしたから、額と額をぶつつけて目がさめて、同時にごめんごめんといつてゐた話は、芥川がなにかに紹介をしてゐるが、今日からみればあの頃の時代はよかつたと思ふ。それが幾日つづいてゐたことか、私達が朝飯を食べ終はるか終はらぬ時刻には、いつも中央公論社の使ひのにこにこしたこどもが、せいぜい日に二、三枚の原稿をとりに緣さきに顏をだしてゐた。すると芥川は、これで海にでもはいつておいで、晝までに書いておくからといつて、そのこどもに、五拾錢の銀貨を一つ渡してゐた。毎日はたからみてゐて、渡すはうも、貰ふほうも、たのしさうにみえてゐたのが目にうかんでくる。芥川が書いてゐたのは、岩波の芥川龍之介全集の總索引で調べると「春」だが、五拾錢あれば海にはいつて、天井を食べてもまだのこる時代の金のことから、金の話をすると、いつであつたか晩翠軒で買物をしたときに、芥川は、きざですがといつて百圓札をだしておつりを貰つてゐた。それから自決する一ケ月ほど前に、泉鏡花がのみにくるころだといつて、私を田端の近くの神明町の待合につれこんだときにも、勘定にきざだがといつて、百圓札でおつりをとつてゐたが、いまはお互ひに勘定にきざだがといつてだせる札を、誰れも持つてゐない娑婆に生きてゐるやうだ。皆がきざになつてゐるせゐだらう。

[やぶちゃん注:「芥川がなにかに紹介をしてゐる」不詳。それらしいものが載りそうな随筆や書簡も調べて見たが、ない。識者の御教授を乞う

「春」大正一二(一九二三)年九月一日発行の『中央公論』に載った「春」の「一」と「二」の前半までが発表され、二年後の大正十四年四月一日発行の『女性』(大正十一年五月一日プラトン社創刊)に全篇が改めて掲載された。但し、それもまた、未完である。このタイム・ラグは一部初出の雑誌の発行日と、本作に末尾にある芥川龍之介の附記で明らかなように、関東大震災が大きな理由としてあり、またその附記では『又この續編も稿半ばに親戚に病人を生じ爲にペンを抛たなければならなくなつた』とある。これは大正十四年三月上旬前後の義弟塚本八洲の喀血を指すものと思われる。なお、芥川龍之介は大正十二年十月一日発行の『中央公論』に「未曾有の大震・大火慘害記錄」の大見出しで「大震雜記」という文章を発表しているが、その「一」は以下である(底本は岩波旧全集に拠る)。

   *

       一

 大正十二年八月、僕は一游亭と鎌倉へ行き、平野屋別莊の客となつた。僕等の座敷の軒先はずつと藤棚になつてゐる。その又藤棚の葉の間にはちらほら紫の花が見えた。八月の藤の花は年代記ものである。そればかりではない。後架の窓から裏庭を見ると、八重の山吹も花をつけてゐる。

     山吹を指さすや日向の撞木杖  一游亭

     (註に曰く、一游亭は撞木杖をついてゐる。)

 その上又珍らしいことは小町園の庭の池に菖蒲も蓮と咲き競つてゐる。

     葉を枯れて蓮と咲ける花あやめ 一游亭

 藤、山吹、菖蒲と數へて來ると、どうもこれは唯事ではない。「自然」に發狂の氣味のあるのは疑ひ難い事實である。僕は爾來人の顏さへ見れば、「天變地異が起りさうだ」と云つた。しかし誰も眞に受けない。久米正雄の如きはにやにやしながら、「菊池寛が弱氣になつてね」などと大いに僕を嘲弄したものである。

 僕等の東京に歸つたのは八月二十五日である。大地震はそれから八日目に起つた。

 「あの時は義理にも反對したかつたけれど、實際君の豫言は中つたね。」

 久米も今は僕の豫言に大いに敬意を表してゐる。さう云ふことならば白狀しても好い。――實は僕も僕の豫言を餘り信用しなかつたのだよ。

   *

「晩翠軒」東京芝にあった井上清秀なる人物が経営していた中国の文房具・書籍・法帖・陶器などを販売していた店。震災後に中国料理店も開業し、そちらが非常に有名となったようであるが、本業はあくまで支那製品直輸入商であった。ここは「買物」とあるので中国雑貨店の方であると考えてよい。以上は徳田秋声の研究者であられる亀井麻美氏のツイッター記事に拠った。厚く御礼申し上げる。]

 五拾錢玉のにこにこしたこどものことを、もう、八、九年前にもなるが、その頃からいつて、十七、八年前のこどもが、まだ社にゐるかどうかを、私のところにきてゐた、中央公論社の人達に聞いてみたら、皆、興味で早速調べたらしいが、あとで、誰れも同じやうに、いまでも社にゐるやうです、雜誌のはうの者ではありませんとはいつてても、その人を紹介することはしてゐなかつた。

 昨年の暮であつたか、この話を、新潮社に三十年勤めて、新に東西社をはじめた小野田通平に話したが、通平はにつこり笑つて、私のはその逆です、とられるのです、ふうのわるいのがゐましてねえ、と、次ぎのやうな通平の昔話をしてくれた。芥川が生きてゐれば今年〔昭和二十三年〕は五十七歳、通平の歳はそれよりもなにほどか若い。

[やぶちゃん注:「東西社」不詳。或いは現在の徳間書店の前身である昭和二九(一九五四)年三月十九日に創業した「東西芸能出版社」のことか?(本書の刊行は昭和三一(一九五六)年であるから「昨年の暮」という時系列とは齟齬しない) 芸能とゴシップ記事を中心とした『アサヒ芸能新聞』を発行していた出版社である。但し、同社は読売新聞社出身の竹井博友が創立したもので、ここには「新に東西社をはじめた小野田通平」とあるから、違うかも知れぬ。識者の御教授を乞う。

「小野田通平」不詳。先の「芥川の死」の葬場図の左中央上方の葬場係の左端には『小野田道平』とあるが、宇野浩二の「芥川龍之介」の擱筆部にこの小穴隆一の葬場図を元にした記載があるが(宇野浩二は精神変調のために入院しており、芥川龍之介の葬儀には出席していない)。そこには『小野田通平[この頃、新潮社の出版部長か]』とあるから、小穴隆一の図の方の「道平」は誤植と思われる。]

 ――私が十七歳のとき東京にきて、はじめて新潮社で働いたのですが、風葉の原稿をとりに使ひにやらされてゐました。毎日、社をでるときに、きまつて數へて壹圓札で五枚渡されるのです。それを財布にいれて紐を首にかけて懷に、朴齒の下駄でてくてく、牛込から戸塚の家まで步いて通つたものです。向ふにいつて、原稿が二枚できてゐれば一圓、二枚できてゐれば二圓と置いて貰つてくる、その原稿がなかなかできてはゐず、それをまた玄關にふうのわるいのがゐて、いつも原稿を渡さずになんとか金を捲きあげようとかかるのですが、それに三度に一度はついどうしてもひつかかつたものでして、さうすると社に歸つて叱られるし弱りました、と、まるでいま牛込から戸塚をまはつて高圓寺の私の家まで、步いてでもきたやうな顏つきで通平はいつてゐた。私は、東北文學に連載されてゐた、風葉を主として自身の文壇生活五十年に及ぶ囘顧を書いた、中村武羅夫のものを讀んでゐたから、通平には同情しながらも、通平のふうのわるいのがゐましてねえといふ話に、甚だ愉快を感じた。壹圓札と五拾錢銀貨、いづれも昔のたのしさである。通平は、風葉の原稿料が一枚一圓で、當時の五圓はたいしたもの、五圓あれば小栗風葉先生がそのふうのわるい人達をつれて、すぐ近くの新宿の遊廓に遊ぶとか、六區といはれても、その六區がなんだか、通平にはわからなかつた六區にいくとかしたものだともいつてゐた。

[やぶちゃん注:「戸塚」小説家小栗風葉(明治八(一八七五)年~大正一五(一九二六)年:本名・磯夫)は多摩郡戸塚村に住み、門下の劇作家真山青果(明治一一(一八七八)年~昭和二三(一九四八)年)や小説家・評論家中村武羅夫(むらお 明治一九(一八八六)年~昭和二四(一九四九)年)、歌人沼波瓊音(ぬなみけいおん)等は「戸塚党」と呼ばれた。この金を騙し取った書生は小穴によれば、暗に中村武羅夫だったと、小穴独特の迂遠な謂いで臭わせているのもここではまあ面白い。

「東北文學」昭和二一(一九四六)年に河北新報社より創刊された]雑誌。「風葉を主として自身の文壇生活五十年に及ぶ囘顧を書いた」連載作品というのは不詳。識者の御教授を乞う。]

 芥川の句に、

      再び鎌倉平野屋に宿る

    藤の花軒ばの苔の老いにけり

といふのがある。菅忠雄が撮つてくれた私達の朝飯のときの小さい寫眞を、今日になつてみると、藤の花軒ばの苔の老いにけりの芥川の顏は、大層いろめかしくみえるが、いろめかしくみえるのは、支那麻製品の布地を、浴衣に仕立てて着てゐるせゐかも知れない。昭和五年に岩波が出版した「大導寺信輔の半生」の表紙には、芥川が死んだときにまとつてゐた着物の柄の一部をとつて寫しておいたが、その浴衣なのであらう。

[やぶちゃん注:「藤の花軒ばの苔の老いにけり」は大正一五(一九二六)年十二月刊の随筆集「梅・馬・鶯」の「發句」に所収されているが、大正十二年から翌年の発行の『にひはり』の「澄江堂句抄」が初出で大正十四年九月の小穴隆一との『改造』の「鄰の笛」にも採録している遺愛の句である。書簡初出は(旧全集書簡番号一一三〇)の大正十二年六月二十五日附小穴隆一宛のもので、句の後に「一句未定らず候へどもおんめにかけ候 匆々」とある。しかし、ここで我々は芥川龍之介に実は騙されていることが判る。何故なら、彼が平野屋に泊まったのは、この日附の十日以上後だからである。

「菅忠雄が撮つてくれた私達の朝飯のときの小さい寫眞」菅忠雄(すがただお 明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年)はドイツ語学者菅虎雄(元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)の子である小説家菅忠雄。上智大学中退後、文藝春秋社に入社、『文藝春秋』などの編集長を務める傍ら、大正一三(一九二四)年には川端康成らと『文芸時代』を創刊した。作品に「銅鑼(どら)」「小山田夫婦の焦眉」などがある。父虎雄は夏目漱石の親友でもあり、第一高等学校の名物教授としても知られ、芥川龍之介は師として非常に敬愛し、処女作品集「羅生門」(大正六(一九一七)年五月二十三日・阿蘭陀書房刊)の題字の揮毫も彼の手になるものである。私はこの写真は見たことがない気がする。

『昭和五年に岩波が出版した「大導寺信輔の半生」の表紙には、芥川が死んだときにまとつてゐた着物の柄の一部をとつて寫しておいた』小穴隆一の「二つの繪」を入手する前、復刻本の「大導寺信輔の半生」を手に入れた際、私は推理:芥川龍之介の死出の旅路の浴衣の背中の紋様は、これではないか?として、画像を掲げて子細にその装幀の絵柄と芥川龍之介が自死した際に纏っていた浴衣の柄を比較し、小穴隆一がその浴衣の柄を模写したものと私は独自に推理した。手前味噌乍ら、それが結果として正しかったことがここで明らかとなっている



Siyukata

 

 



Daidouji

 

 



Daidoujikai

以上は先のリンク先の私の画像。

 芥川は、僕は、はじめ君といつしよの暮らしは窮屈だと心配したが、安心したよと私にいつてゐた。岡本一平は一平で、ほつとしたらしい顏つきで、芥川君ていい人だねえ、と私に小聲でいつてゐたが、軒ばの苔の老いにけりで、芥川もかの子も、それに遠藤、うさぎや、寫眞を撮つてくれた菅忠雄もいまでは皆死んでゐる。(私はこの隨筆を二十三年の小説界に載せたのだが、書きなほしてゐる二十九年の今日までには、一平も、また、當時、宿が平野屋にきまるまでの二、三日の間、私を家においてくれてた久米正雄さへも死んでしまつた、)人々の生涯は、その頃、まだ幼稚舍の生徒であつた岡本太郎が、大事に壜にいれて持つてゐた、アルコール漬の小さな鮫の子にも似てしまつた。

[やぶちゃん注:誰も皆、有名人であるので、生没年だけ示す。

「岡本一平」明治一九(一八八六)年~昭和二三(一九四八)年

「かの子」明治二二(一八八九)年~昭和一四(一九三九)年

「遠藤」既出既注の遠藤清兵衛古原草。明治二六(一八九三)年~昭和四(一九二九)年

「うさぎや」既出既注の芥川龍之介御用達の上野広小路の和菓子屋主人谷口喜作。明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年

「菅忠雄」前段注参照。明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年

「小説界」昭和二三(一九四八)年六月創刊(昭二十五年一月終刊)の中間小説雑誌。この初出記事は同誌の昭和二十三年八月一日発行の第一巻第三号に「芥川龍之介と五十錢銀貨」の標題で小穴隆一署名で載る。以上は小嶋洋輔・西田一豊・高橋孝次・牧野悠共編の【史料紹介】「小説と讀物」「苦楽」「小説界」――中間小説誌総目次(PDF)に拠った。

「書きなほしてゐる二十九年の今日」昭和二九(一九五四)年。本書刊行は昭和三一(一九五六)年(中央公論社刊)。

「久米正雄」明治二四(一八九一)年~昭和二七(一九五二)年

「岡本太郎」明治四四(一九一一)年~平成八(一九九六)年。大正一二(一九二三)年当時十二歳。「幼稚舍」とは慶應義塾幼稚舎(幼稚園ではなく小学校であるので注意)のことで、年齢的に合わないように見えるが、事実であろう。太郎は不登校で幾つかの初等教育機関を転々としており、そのズレがここにあってもおかしくないからである。慶應義塾幼稚舎にも殆んど登校せず、そのまま慶應義塾普通部に進んで、卒業後に東京美術学校に入学している。]

「彼女に關した流聞」岡本かの子の詳細年譜を所持しないのでよく判らないのだが、ウィキの「岡本一平」によれば、一平が美術学校を卒業した明治四三(一九一〇)年に彼女(本名は大貫カノ)結婚し、『長男の太郎ら三人(次男・長女は夭折)の子をもうけたが、かの子が不倫を繰り返し、果ては不倫相手の医師を家族と同居させるという奇妙な夫婦生活を送』ったとあり、ウィキの岡本の方には、結婚後は『一平の放蕩や芸術家同士の強い個性の衝突による夫婦間の問題、さらに兄』『の死去などで衝撃を受ける。一平は絶望する彼女に歌集「かろきねたみ」(大正元(一九一二)年青鞜社刊)を刊行させている。『しかし翌年』には『母が死去、さらに一平の放蕩も再燃』、『家計も苦しくなった。その中で長女を出産するが』、『神経衰弱に陥り、精神科に入院することになる』。翌大正三年、『退院すると、一平は非を悔い』、『家庭を顧みるようになるが、長女が死去。かの子は一平を愛することができず、かの子の崇拝者であった学生、堀切茂雄(早稲田大学生)と一平の了解のもと同居するようになり、次男を出産するが間もなく死去してしまう』とある。またウィキの「岡本太郎」には、母『かの子は、大地主の長女として乳母日傘で育ち、若いころから文学に熱中。世間知らずのお嬢さん育ちで、家政や子育てが全く出来ない人物だった。太郎が』三~四歳の『頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯でタンスにくくりつけたというエピソードがある。また、かの子の敬慕者で愛人でもある堀切茂雄を一平公認で自宅に住まわせていた。一平には創作の為のプラトニックな友人であると弁明していたが、実際にはそうではなかったという。放蕩三昧の生き方をひと頃していた一平は容認せざるを得なかった。後に太郎は「母親としては最低の人だった。」と語っているが、生涯、敬愛し続けた』ともある。因みに、直後に名の出る谷崎潤一郎はかの子の兄と親交があり、若き日から大貫家を訪ねていた関係上かの子をよく知っていたが、谷崎は終生、かの子を評価しなかった。

「谷崎の初期の小説に度々書かれてゐる女で、芥川が保證人になつてゐた活動女優、今日のことばでいへば映畫女優、この女」既出既注の谷崎潤一郎の先妻千代夫人の妹小林勢以子(せいこ 明治三二(一九〇二)年~平成八(一九九六)年)のこと。映画女優となってからは芸名を「葉山三千子」と称した。谷崎の「痴人の愛」の小悪魔的ヒロイン・ナオミのモデルとされる。

「鶴は病みき」。昭和一一(一九三六)年六月号『文學界』に発表された小説。「青空文庫」ので読める。

「永見」永見徳太郎。既出既注

「鮨」昭和一四(一九三九)年一月号『文藝』初出の岡本かの子の小説を絵物語化したものか? 小説ならば「青空文庫」のこちらで読める。

『芥川に「河童」を書かせた女』秀しげ子のことと思われる。不倫嗜好のある女性は同種の女性に頗る嗅覚が鋭いようである。

「祇園だんごの紅提灯」京都祇園地域の町数を意味する、八つ或いは十つの丸が繋ぎ団子の紋章になって白抜きで描かれた、赤いずんぐりとした丸提灯。]

2017/01/28

柴田宵曲 妖異博物館 「蟒と犬」

 

 蟒と犬

 筑前國秋月の城下から一里ほど來た松丸といふところに、十國峠といふ山がある。こゝに古いが塚三つあつて、一は獵夫、一はその妻、一は獵犬の墓と傳へてゐる。そのいはれは嘗て獵夫がこゝに憩うた時、連れてゐた犬が獵夫に向つて頻りに吠え立てる。あまりうるさいので、遂に怒りを發し、鐡砲で擊ち殺してしまつた。然る後ふと頭上を見れば、蟒(うはばみ)が樹上より獵夫を呑まうとしてゐたので、犬はこれを告げたものとわかり、犬を殺したことを悔いて自殺し、その妻は夫の跡を追つて自殺した、といふに在る。松浦靜山侯はこの話を、秋月の士で僧になつた大道といふ人から聞いて、「甲子夜話」に錄してゐる。夫妻ともに犬に殉するのは珍しいが、それは人心の淳朴と、哀傷乃至悔恨の深かつたことに歸すべき問題であらう。蟒は獵夫の銃に斃されたのかどうか、その邊は書いてない。

[やぶちゃん注:原典は所持するが、調べるのが面倒なので、何かの折りに見出したら追記する。【2018年8月9日追記:これは「甲子夜話卷之三十一」の「猟犬の忠心二事」であることが判った。】【2023年9月27日追記:次の話とともに、正規表現で「フライング単発 甲子夜話卷之三十一 12 獵犬の忠心二事」で電子化注した。】

「筑前國秋月の城」現在の福岡県朝倉市野鳥(のとり)にあった秋月(あきづき)城。江戸時代は福岡藩の支藩であった秋月藩の藩庁で、黒田氏が居城した。(グーグル・マップ・データ)。

「松丸」現在の朝倉市松丸。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 靜山侯の領内である相神浦中里村の路傍にも犬堂といふ小堂がある。中は石を重ねただけのものであるが、この由來も前の話と似たもので、夜鹿を打ちに山へ行つた獵夫が、鹿の來るのを待つほどに睡くなつた。犬が頻りに吠えて、いくら叱つても止めぬので、腹立ちまぎれに犬の首を斬り落すと、首は落ちずに宙に飛び上り、樹上から垂れた蟒の咽喉に啗ひついた。この方はその爲に蟒が死んだと書いてある。獵夫深く悔い、且つ犬を憐れんでそこに埋め、堂を建てて祀つたといふのである。

[やぶちゃん注:同前。悪しからず。【2018年8月9日追記:これも「甲子夜話卷之三十一」の「猟犬の忠心二事」の後半部である。】

「相神浦中里村」「相神浦」は「あひこのうら」と読み、現在の長崎県佐世保市西部の中核地域である相浦(あいのうら)のこと。(グーグル・マップ・データ)。「中里」は北東の中里町。]

 以上の話はいつ頃の出來事かわからない。「甲子夜話」に著手した文政年間には、もう古墳になつてゐたのだから、相當古い話と思はれるが、鐵砲を用ゐたのが事實ならば、その點から或限界は出來るわけである。文獻として「甲子夜話」より古いのは、「窓のすさみ」の記事であらう。この本も寫本で傳へられた爲、年代を推定するのが困難であるが、著者松崎堯臣が寶曆三年に歿してゐることから考へて、少くとも「甲子夜話」の七十餘年前に書かれたことは疑ひを容れぬ。土地も年代も人名も書いてないけれど、この方は武士で、狩獵でなしに野行となつてゐる。暮れ方疲れて樹下の石に休み、思はず睡りに落ちる。ついて來た飼犬が起き上り、一聲吠えて食ひ付きさうになつたので、武士は目をさまし、犬が自分を食ふかと疑つた。睡つた風を裝ひ、再び起き上るところを拔き打ちに斬れば、犬の首は飛んで梢に上る。上から武士を吞まうとした蟒は、咽喉をしたゝか嚙まれて死んだ。事情が明かになつて、犬の心を深く感じ、足摺りして悔んでも及ばず、泣く泣く懇ろに埋め、塚を築くといふのだから、大體の筋は「甲子夜話」の後の例に近い。堯臣は儒者の立場から「主の急を見て救はんとせしを知らずして、かへつて疑ひ殺したるは大なる誤りにや、君臣の間、兄弟の中、朋友の交りにも、このたぐひ多し、深く思ふべき事にこそ」といふ注意を與へてゐる。

[やぶちゃん注:『「甲子夜話」に著手した文政年間』肥前国平戸藩第九代藩主であった松浦静山清(宝暦一〇(一七六〇)年~天保一二(一八四一)年)が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文化三(一八〇六)年に三男熈(ひろむ)に家督を譲って隠居した後の、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜で、静山が没するまでの実に二十年に亙って書き続けられ、その総数は正篇百巻・続篇百巻・第三篇七十八巻にも及ぶ。私が探すのが面倒と言っている意味がお判り戴けるものと思う。

「窓のすさみ」江戸中期の儒者で丹波篠山(ささやま)藩(現在の兵庫県)の家老松崎白圭(はくけい 天和二(一六八二)年~宝暦三(一七五三)年)の考証随筆で代表作。丹波は荻生徂徠門の太宰春台らと親交があった。ここに出る「堯臣(げうしん)」は名。通称を左吉、別号に観瀾がある。私は所持しない。]

「江都著聞集」にある薄雲の猫は、山野でなしに遊女屋の屋内であるが、同一系統に屬する。經過は全く同じで首を斬られ、その骸(むくろ)は道哲に納めて猫塚と稱せられた。成吉斯汗か何かにも、淸水の滴りを受けようとする盃を、手飼ひの鷹が飛んで來て覆す話がある。鷹は同じ事を何度か繰り返し、遂に佩刀の露と消える。これは生きた蟒でなしに、淸水の上の流れに毒蛇の死骸があつたので、これを知つた鷹が王に淸水を飮ませまいとし、盃をくつがへす擧に出たのであつたと記憶する。

[やぶちゃん注:「江都著聞集」正しくは「近世江都著聞集」で「きんせいえどちょもんじゅう」(現代仮名遣)と読む。著者不詳の江戸随筆であるが、先に出た風俗紊乱の罪で処刑(江戸市中引き回し打ち首獄門)された講釈師馬場文耕(享保三(一七一八)年~宝暦八(一七五九)年)ともされる。以上の話は「近世江都著聞集卷五」の「三浦遊女薄雲が傳」に拠るもの。昭和五五(一九八〇)年中央公論社刊の「燕石十種」を参考底本として、恣意的に正字化して示す。【 】は二行割注。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   三浦遊女薄雲が傳

晉其角句に、

 京町の猫通びけり揚屋町

此句は、春の句にて、猫通ふとは申也、【猫サカル、猫コガル、】おだ卷の初春の季に入て部す也、京町の猫とは、遊女を猫に見立たる姿也といふ、斯有と聞へけれども、今其角流の俳譜にては、人を畜類鳥類にくらぶるは正風にあらず、とて致さず、此句は、元祿の比、太夫、格子の京町三浦の傾城揚屋入の時は、禿に猫を抱させて、思ひ思ひに首玉を付て、猫を寵愛しけり、すべての遊女猫をもて遊び、道中に持たせ、揚屋入をする事、其頃のすがたにて、京町の猫揚屋へ通ふ、と風雅に云かなへたりし心なるべし、其比、太夫、格子の、猫をいだかせ道中せし根元は、四郞左衞門抱に薄雲といふ遊女あり、此道の松の位と經上りて、能く人の知る所也、高尾、薄雲といふは代々有し名也、是は元祿七八の頃より、十二三年へ渡る三代薄雲と呼し女也、【近年板本に、北州傳女をかける、甚非也、但し、板本故、誠をあらはさゞるか】此薄雲、平生に三毛の小猫のかはゆらしきに、緋縮緬の首玉を入、金の鈴を付け、是を寵愛しければ、其頃人々の口ずさみけると也、夫が中に、薄雲に能なつきし猫一疋有て、朝夕側を離れず、夜も寢間迄入て、片時も外へ動かず、春の夜の野ら猫の妻乞ふ聲にもうかれいでず、手元をはなれぬは、神妙にもいとしほらしと、薄雲は悅び、猶々寵愛し、大小用のため、かわや雪隱へ行にも、此猫猶々側をはなれず、ひとつかわやの内へ不ㇾ入してはなき、こがれてかしましければ、無是非共通りにして、かわや迄もつれ行、人々其頃云はやし、浮名を立ていひけるは、いにしへより猫は陰獸にして甚魔をなす物也、薄雲が容色うるはしきゆへ、猫の見入しならん、と一人いひ出すと、其まゝ大勢の口々へわたり、薄雲は猫に見入れられし、といひはやす、三浦の親方耳に入て、薄雲に異見して、古より噺し傳ふ譯もあり、餘り猶を愛し給ふ事なかれ、と云、薄雲も人々の物語の恐ろしく思ひ、寵愛怠りけれども、猫はたゞ薄雲をしたひ放れず、人々是を追放しければ、只悲しげに泣さけび、打杖の下よりも、薄雲が膝もとはなるゝ事を悲みけり、殊にかわやへの用たし每に、猶も付行ける故、人々度々追ちらしけれ共、したひ來るゆゑ、いよいよ此猫見込しならん、と家内の者寄合相談して、所詮此猫を打殺し仕𢌞んとて、手組居る處に、薄雲ある日用達しにかわやへゆきしに、何方よりか猫來りて、同じくかわやへ入らんとするを見付、家内の男女、追かけ追ちらさんとす、亭主脇差をぬき、切かけしに、猫の首水もたまらず打落す、其首とんで厠より下へくゞり、猫のどうは戶口に殘り、首は見へず、方々と尋ねければ、厠の下の角の方に、大きなる蛇の住居して居たりし其所へ、件の猫の頭喰付て、蛇をくひ殺していたり、人々きもをつぶし、手を打て感じけるは、是は、此蛇の厠に住て薄雲を見込しを不ㇾ知、とがなき猫に心を付、斯く心ある猫を殺しけるこそ卒忽なれ、日比寵愛せしゆゑ、猫は厚恩をおもひて如ㇾ斯やさしき心ねなるを、しらず殺せし事の殘念さよ、といづれも感を催しけり、薄雲は猶も不便のまして、洞を流し、終に其猫の骸を道哲へ納て、猫塚と云り、是よりして、揚屋通ひの遊女、多くは猫を飼ひ、禿にもたせねばならぬやうに、風俗となりしとなり、

   *

「道哲」当時は新吉原の東直近の浅草聖天町にあり、現在は豊島区西巣鴨四にある浄土宗弘願山(ぐがんざん)西方寺(さいほうじ)のことであろう。無縁仏とされた遊女らの菩提を弔った寺として知られ、かの高尾太夫の墓所もあり、その隣には彼女の回向をした道哲和尚の墓があると、個人サイト「吟醸の館」のこちらに画像附きで説明がある。

「成吉斯汗か何かにも、淸水の滴りを受けようとする盃を……」柴田は本章の最後で「前に引いた鷹の話の如きも、昔リーダーで讀んだきりだから、原典はよくわからぬ」と言っている。「リーダー」と言っている以上、英語の教則本の記憶ということになろう。因みに、こちらに「ジンギスカンと鷹」としてその話が載る。]

 曲亭馬琴はこの話を「椿說弓張月」の中に用ゐた。場所は豐後の木綿山となつてゐるが、爲朝が須藤季重と共に山狩りに出て、楠の大樹の下に立寄り、夜の明けるのを待つうちに、非常に睡くなつた。その時牽いた犬が頻りに吠え、果ては飛びかゝらうとするので、季重一刀の下に首を斬る。首は胴を離れて楠の梢に閃き登り、鮮血滴ると共に地響きして落ちて來たものがある。それが楠の幹に劣らぬほどの蟒で、その咽喉笛に犬の首がしかと嚙み付いてゐたのであつた。爲朝主從は直ちに刀を以て蟒を殺したが、犬の心を知らずに首を斬つたことを後悔する一條は、全く同じである。たゞ馬琴のことだから、この犬は狼の子を爲朝が飼ひ馴らしたので、「虎狼は押れたりといへども畜ひがたし」として、これを疑ふとか、季重が前夜の夢見が惡かつたから今日の狩りを見合せようとか、いろいろ伏線を置いたのみならず、蟒を發した後、頷下の珠を探つた季重が、雷に打たれて死ぬといふ餘波まで作つてゐる。同じ九州の話であるし、中里村の犬堂の事に結び付けたいところであるが、遺憾ながら馬琴が「弓張月」を書く時分には、「甲子夜話」はまだ著手されてゐない。「窓のすさみ」に據つたか、或は九州の口碑を誰かに聞いて、爲朝の世界に持ち込んだものであらう。

[やぶちゃん注:「須藤季重」「須藤重季(すとうしげすゑ)」の誤り。須藤九郎重季は為朝の乳母子という設定。

「木綿山」「ゆふやま」。現在の大分県由布市湯布院町にある由布岳(ゆふだけ)のこと。

 以上は私の好きな「椿說弓張月(ちんせつゆみはりづき)」(「鎭西八郞爲朝外傳椿說弓張月」。曲亭馬琴作・葛飾北斎画で文化四(一八〇七)年から文化八年にかけて刊行された読本。全五篇)の前編の第三回の「山雄喪ㇾ首救主 重季死ㇾ軀全ㇾ珠」(山雄(やまを)首(かうべ)を喪なふて主(しゆう)を救ふ 重季軀(み)を死(ころ)して珠(たま)を全(まつた)うす)のシークエンス。昭和五(一九三〇)年岩波文庫刊和田万吉校訂「椿説弓張月」より重季と山雄を葬るシーンまでを引く。底本はほぼ総ルビであるが、読みは一部に留めた。一部に句点を追加した。踊り字「〱」は正字化した。「慚愧(ざんき/○ハヅル)」の「○ハヅル」は左側に打たれた意味ルビ。

   *

八郞冠者爲朝は。一たび八町礫(はつてうつぶての)紀平治太夫に面(おもて)あはせしより。ふかくこれを愛(めで)よろこび。常にその家に交加(ゆきかひ)て。彼(かれ)とともに狩(かり)くらし。更に外(ほか)を求給(もとめたまは)ず。その山に遊ぶ日は。彼(かの)二頭(ひき)の狼のうち。かならず一頭(ひき)を牽(ひき)て行(ゆき)給ひしが。おのづから猪獵犬のごとく。よく猪鹿を追出し。多くは主(しゆう)に手を下させず。おのれまづこれを嚙ころして獻(まゐ)らせけり。あるとき須藤重季主を諫めて禀(マう)すやう。君(きみ)は正(まさ)しく淸和源氏の嫡流として。大國(たいこく)の守(かみ)ともなり給ふべき身の一旦大殿(おほとの)の勘當を受給ひたればとて。忽地(たちまち)武道を忘却し。獵夫(かりびと)の業(わざ)をし給ふこそこゝろを得ね。人は氏(うぢ)り育(そだち)にしたがひ。朱にまじはるものは朱くなるといふ。常言(ことわざ)にも恥給へかしと。面を犯して申せしかば。爲朝含笑(ほゝゑみ)て。汝がいふ所(ところ)理(ことわり)なり。しかはあれど。われ今さすらへ人となるといへども。志(こゝろざし)を移すにあらず。權守(ごんのかみ)季遠[やぶちゃん注:豊後国の郷士で為義と所縁があって第二回で為朝の身元を引き受けた人物。]は。その器量狹く。賢を狷(そね)みて己に勝(まさ)れるを諱(いむ)もの也。われかく彼が養ひを得て。嫌忌(けんぎ)の中に月日をおくり。もし遠き慮(おもんはかり)なきときは。禍(わざはひ)蕭牆(しようしよう[やぶちゃん注:内輪もめ。])の下(もと)より起らん。こゝをもて終日(ひねもす)山に狩くらし。外を求ざるの狀(かたち)を示すものは。季重が心を安めん爲なり。見よわが獲(え)たる獸をば。みな紀平次[やぶちゃん注:木綿山に住む狩人。後に出る「紀平治」に同じい。]にとらせて彼が生活(なりはひ)の助(たすけ)とす。これにてもわが小利を貪り。山獵(やまがり)をもて身の樂(たのしみ)とせざる事をしるべしと私語(さゝやき)給へば。重季大に感激し。さる事とも思ひわきまへず。賢ぶりて諫まゐらせ。よしなき事申つるこそ越度(をちど)なれとかしこみて。いと娯(うれ)し氣(げ)に見えにける。この下(しも)に話なし。かくてその年もくれて春も彌生のはじめになりつ。爲朝既に十八歲。今は一個の壯夫(ますらを)になり給へば。重季はこれを見て。もし都にましまさば。除目(ぢもく)行るゝに序(なへ)に。官人(かさ)の數にも入り給ふべきに。この邊邑(へんゆう)のさすらへて。家はやうやく數間(すけん)に過(すぎ)ず。住むは主從二人也。懲(こら)し給はん爲なりとも。四年(よとせ)が程に只一たび。家信(おとづれ)も聞え給はぬ。大殿の御こゝろつよしと。侘しきまゝに世をうらむ。誠心(まこころ)の程こそ有がたけれ。かくて爲朝はある日朝まだきより弓矢を携(たづさへ)。山雄(やまを)と呼べる一頭の狼を牽(ひき)て。木綿山(ゆふやま)に赴んとし給へば。須藤重季主の袖を引て。それがし前夜夢見もあしく。覺(さめ)て後も何とやらん胸うち騷ぎて心持穩(おだやか)ならず。願くはけふの山獵を止給へかし。といひもをはらざるに。爲朝うち笑ひて。夢は五臟の勞(らう)に成(なる)といへり。かゝる事を諱(いは)んは。婦人のうへにあるべし。汝心を安くして。よく留守せよと宣へば。重季又禀(まうす)やう。いにしへの人も。事に臨ては懼(おそれ)よといへり。されど止(とゞま)り給はじとならば。重季をも召俱し給へかし。としばしば請(こふ)て已(やま)ざりし程に。かくまで思はゞ何か拒(こばま)ん。われとゝもに來よと仰(おほせ)て出給へば。重季歡こびて焦火(たいまつ)に路をてらし。主の供して立出けり。さて爲朝主從は。木綿山の麓なる紀平治が家に立よりて。彼をも伴ひゆくべしとて音なひ給へば。八代(やつしろ)立出て。まづ湯を進(まゐ)らせ。夫紀平治はこの曉に山へとて出ぬ。されど出てより程もあらぬに。追蒐(おひかけ)給はゞ。山の半腹にては追つき給はんといふ。さらば急げとて。主從其處(そのところ)を走り去り。足に信(まか)せつゝ山ふかくわけ入り給ふに。いまだ夜もあけざれば。ゆくさき暗くして紀平治を見ず。あまりに疾走(とくはし)りて疲勞(つかれ)給ひしかば。ふりたる楠(くすのき)の下に立より。主從株(くひぜ)に尻をかけて。明はなるゝをまち給ふに。只顧(ひたすら)睡(ねふり)をもよほして。もろともに目睡(まどろ)み給ふとやがて。彼(かの)山雄(やまを)。一聲(ひとこゑ)高く吼(ほえ)。主の行縢(むかばき[やぶちゃん注:狩猟の際に両足の覆いとした布帛(ふはく)や毛皮のこと。]のはしを銜(くはえ)て引にければ。爲朝も重季も。おどろき見て四方を見かへり給へど。眼に遮るものもなし。こは山雄が戲るゝよとおぼして。又睡り給ふに。復いたく吼かゝりて。嚙もつくべき氣色なれば。爲朝佶(きつ)と臠(みそなは)して。虎狼(こらう)は狎(なれ)たりといへども畜(やしなひ)がたしといふぞ宜(むべ)なる。この畜生わが睡れる間(ひま)を窺ひて。啖(くらは)んとするにこそ。さもあらばあれ目に物見せんといきまきて。刀が靹(つか)を握りもち。しばし睨(にらみ)つめておはしける。重季もこゝろ緩(ゆる)さず。すはといはゞ刺留(さしとめ)んと。琫(こひぐち)ちくつろげて瞻居(まもりゐ)たるに。山雄はこの氣色にも怕(おそ)れずなほ吼(ほゆ)ること二聲三聲(ふたこゑみこゑ)。忽地(たちまち)走りよらんとするを。重季跳(とび)かゝりて丁(ちやう)と切れば。狼(おほかみ)の首(くび)軀(むくろ)をはなれ。楠(くす)の梢に閃(ひらめ)き登ると見えつるが。鮮血(ちしほ)さと溜(したゝ)りつゝ。頂の上より落(おつ)る物ありて。大地(だいぢ)に摚(どう)と響(ひびき)しかば。主從ふたゝび驚き怪(あやし)み。押明(おしあけ)がたの星の光りに。眼を定めて見給へば。太(ふとき)はこの楠(くす)の幹に劣(おとる)まじく。長(ながさ)くばくとも量(はかり)がたき。蟒蛇(うはばみ)の吭(のどぶえ)へ。狼の首嚙(かみ)つきつ。蟒蛇はなほ半身(はんしん)は木にまつはりて蠢くを。主從刀を拔もちて。刺とほし刺とほし。輙(たやす)くこれを殺(ころし)給ひしが、爲朝ふかく慚愧(ざんき/○ハヅル)して。この蟒蛇は梢より。われを呑まんとしたればこそ。山雌がしばしば吼かゝりて。裳(もすそ)を引てしらせしを。こは寇(あた)するかと一トすぢに。思ひたがへし愚さよ。彼(かれ)今重季が一刀に死するといへども。一念首(かうべ)にとゞまりて。主を救へるぞ殊勝なる。われ過てり。くと宜へば。重季はなほ面(おも)なくて。頻(しきり)に落淚に及びしが。且(しばら)くしていへりけるは。それがし疇昔(ゆふべ)夢見のあしかりつるも。この事あるべき祥(さが)なりし。そも狼すら恩義を感じ。身(み)死して主が寇(あた)を殺す。われは獸にも及ずして。年來(としごろ)傅(かしづ)きまゐらせながら。なほ君恩を報ふに至らず。却(かへり)て山雄を殺せし事。恥ても辱(はづ)るにあまりあり。こは何とせんと悔(くひ)うらめば。爲朝はこれを勸(なだめ)。彼を哀みて已(やみ)給はず。この時夜(よ)もやゝ明(あけ)はなれ。連山見る見る雲起り。さしも今まで晴たる天(そら)。油然(ゆぜん)として結陰(かきくもり)。風(かぜ)颯(さつ)と吹來る程こそあれ。時しも三月のはじめにあれど。電光(いなびかり)間(ま)なく閃(ひらめ)き。雷(かみ)さへおどろおどろしく鳴わたり。直(ぢき)に頂(いたゞき)の上にもかゝるべき光景(ありさま)なれば。爲朝しばし雲間をうち瞻(まもり)傳へ聞(きく)。蛇數(す)百年を經(ふ)るときは。身の中にかならず珠(たま)あり。龍是(これ)をしることあれば。その珠を取らん爲に。まづ雷公(いかづち)を遣りて震(ふるは)するとかや。思ふにこの蟒蛇には珠あるべし。重季試に裂(さき)て見よ仰すれば。承りつと回答(いらへ)して。彼(かの)蟒蛇の吭(のど)あたりより。再び刀を突立(つきた)て。これを裂(さか)んとするに。雨は盆を覆すがごとく降(ふり)ながし。雷(かみ)の鳴(なる)事ますます劇し。爲朝はもし雷公(いかづち)の墮(おち)かゝる事もあらば。射てとらんとて弓に箭(や)つがひ。少しその處を退(しりぞ)きておはしける。須藤は雨にひたと濡(ぬれ)つつ。かゝる雷公(いかづち)をも物ともせず。既に尾のあたりまで裂(さき)て見れどこれかと思ふ物もなし。もし珠は頭(かしら)がかたにやあらんとて。刀をとりなほし。頭の皮を剝(はぎ)て腮(あぎと)の下(した)を探り見るに。骨の間(あはひ)に物こそあれ。すは是ならんとうれしみて。引出さんとする折しも。四方(しはう)晦曚(くわいもう/○マツクラ)して。一朶(いちだ)の黑雲須藤が上に掩(おほ)ひ累(かさな)り。一聲(ひとこゑ)の霹靂。天地(あめつち)も動くばかりに鳴落(なりおつ)るを。須藤よつ引(ひき)て𢐕(ひやう)と發(はな)つ矢。少し手ごたへするやうなりしが。忽地(たちまち)に雨止(やみ)雲おさまりて。旭(あさひ)東の岸(みね)に昇れり。爲朝は重季が事いと心もとなくて。晴るゝも待ず走りよりて見給ふに。哀むべし重季は。腦碎(くだけ)。肉壞(やぶ)れ。全身黑く黬(ふすぶり)て。肢體(えだ)はつゞきたる所もなけれど。もてる刀さへ放さず。左手(ゆんで)は血に塗(まみ)ながら。一顆(ひとつ)の珠を握り持(もち)て死(しゝ)たるが。雷公はこゝより昇(のぼり)しかと見えて。十圍(ひとかゝへ)にもあまる楠(くすのき)を。斧(をも)もて割(わり)しごとく。梢より根の際(きは)まで。二片(ふたつ)に裂(さき)てありしかど。爲朝はそれに眼もとゞめ給はず。只管(ひたすら)重季が橫死を哀れみ。われ血氣の勇に誇り。求めて危(あやう)きに臨(のぞむ)こと兩度に及び。前(さき)には悞(あやまち)て山雄を殺させ、今又須藤を喪へり。縱(たとひ)百朋(ひやくほう)の珠なりとも。一人の家隷(いへのこ)に(換かゆ)べきや。殊さら彼は此(この)年來(としごろ)。憂(うき)に册(かしづ)きて信(まめ)やかなれば。思ふ程をもかたらひて。心やりともなしたるに。夢見のあしとて諱(いみ)たるは。爰(こゝ)にて死(しな)ん祥(さが)也し。さはいへ日來(ひごろ)はかくばかり。勇者(たけきもの)ども覺(おぼえ)ぬに。その身雷公(いかづち)に擊(うた)るゝといへども。よくその珠を全(まつとう)す。彼(かの)藺相如が(りんしようぢよ)が忠にも勝(まさ)れり。さてよしなき技(わざ)をしつるかなと後悔ありて。心更にたのしみ給はず。かくは須藤が志を他(あだ)にせじとおぼしかへして。やがて彼(かの)珠をとりて見給ふに。晃々(くわうくわう)として明月のごとく。世に類(たぐひ)なき名珠(しらたま)なり。浩處(かゝるところ)に前面(むかひ)の崖道(がけみち)よりいたく濡れて來るものありけり。誰(た)そと見給へば是(これ)八町礫(はつてうつぶて)の紀平治なり。彼も御曹司なりと見てければ。忙しく走り來つ。須藤が雷死(らいし)。山雄蟒蛇の光景(ありさま)を見て大に驚き。まづその故を問(とひ)まゐらすれば。爲朝は愁然として淚を含み。一五一十(いちぶしじう)を物がたり給ふにぞ。紀平治はますます驚(おどろき)て。ふかく重季が死を哀み。又山雄を最惜(いとをしみ)つゝ。とかくして楠(くす)の根を堀穿(ほりうがち)て[やぶちゃん注:「堀」はママ。]。重季が屍(しかばね)を埋(うづ)め。その傍(かたはら)へ山雄を埋(うづ)めて。さて何をか標(するし)にせんといふに。爲朝手づから大なる二ツの石を。いと輕(かろ)やかに持來(もちき)給ひて。墓碑(はかじるし)としつ。亡魂生天脱苦與樂(ぼうこんしようてんだつくよらく)と念じつゝ。紀平治とゝもに山を下り給ふ……[やぶちゃん注:以下略。]

   *]

 吾々はこゝで最も古い記載が「今昔物語」にあるのを顧みなければならぬ。陸奧國に多くの犬を飼ひ、これを連れて山へ狩りに行く男があつた。或時山中に一夜を過すことになり、自分は大きな木のうろの中に入つて、傍に弓、胡簶(やなぐひ)、太刀などを置き、うろの前に火を焚いた。犬どもは皆その火のほとりに眠る中に在つて、一疋だけが夜中に起きて吠え立てる。然も主人の寢てゐる木のうろに向つて、何か事ありげに吠えるので、四邊を見𢌞したけれど何も見えぬ。犬は少しも吠えることをやめず、遂には主人に躍りかゝらうとするに至つた。この犬は年來飼ひ馴らした中でも、殊にすぐれて賢いものであつたが、獸の本性は測りがたい。人なき山中で自分を食はうとするのかと疑ひ、太刀を拔いて威しても、犬は依然としてけたゝましく吠える。この狹いうろの中で咬み付かれては堪らぬと思つたから、うろの外へ飛び出した途端、犬はうろの中で高く躍り上り、何者かに咬み付いたらしい。自分を食ふのでないことはわかつたが、咬み付いた相手の正體はわからぬうちに、上から何かどうと落ちて來た。太さ六七寸ばかり、長さは二丈餘りある蛇が、頭を犬に咬み付かれて落ちたのであつた。主人は驚きながらも、拔身を揮つて蛇を斬り殺す。然る後漸く犬は蛇の頭から離れた。この木のうろに潛んでゐた蛇が、主人を吞まうとして頭を下げて來たので、犬は異常に吠えて躍りかゝり、人はまだ氣付かずに、犬が自己を襲ふかと誤解したのである。もしこのうろの中で睡つてしまつたら、主人の命は無い。早まつて犬を殺しても、結果は多分同樣だつたらうと思はれる。

 多くの說話がさうであるやうに、この話もだんだん複雜になつてゐる。打ち落した犬の首が宙に飛び上つて、蛇を發すのは面白いかも知れぬが、實際問題としては災厄を未然に防ぐに如(し)くはない。「今昔物語」は正にその通りであるのに、後の話はそれで滿足せず、いづれも首が宙に飛ぶ一段を加へることを忘れぬのである。首を打たれぬ犬は塚を建てられることはないにせよ、自らも生命を全うし、主人にも永い悔を殘させぬ方が、どれだけ幸福な結末であるかわからぬ。吾々は奇を弄した後の趣向よりも、人情に遠ざからぬ 「今昔物語」の話に共感を覺える。

[やぶちゃん注:「多くの說話がさうであるやうに、この話もだんだん複雜になつてゐる」「多くの説話がさうであるやうに、この」蟒蛇と犬の説話譚「もだんだん」後世になると「複雜になつてゐる」の謂いである。

「六七寸」約十八~二十一センチメートル。

「二丈」六メートル六センチ。

 これは「今昔物語集」の「卷二十九」の「陸奧國狗山狗咋殺大蛇語第卅二」(陸奧國(みちのくのくに)の狗山(いぬやま)の狗(いぬ)、大蛇(だいじや)を咋(く)ひ殺せる語(こと)第三十二)である。以下に示す。参考底本は二〇〇一年岩波文庫刊池上洵一編「今昔物語集 本朝部 下」としたが、恣意的に漢字を正字化し、読みは振れるもののみに限ってオリジナルに歴史的仮名遣(参考底本は現代仮名遣)で振った(読み易さを考え、一部の送り仮名は参考底本に従わずに本文に一部を出した箇所も多い)。□は原本の欠字数分を推定して配した。読点・鍵括弧・二重鍵括弧などの記号を一部を追加し、直接話法及び準直接話法(心内語部分)は改行して読み易くした。本文注に私の注も挟んだ。

   *

 今は昔、陸奧の國、□□の郡(こほり)に住みける賤しき者、有りけり。家に數(あまた)の狗を飼ひ置きて、常に其の狗共(ども)を具(ぐ)して深き山に入りて、猪・鹿を狗共を勸めて咋ひ殺させて取る事をなむ、晝夜朝暮(ちうやてうぼ)の業(わざ)としける。然れば、狗共も役(やく)と[やぶちゃん注:専ら。]猪・鹿を咋ひ習ひて、主(あるじ)、山に入れば、各々喜びて後前(しりさ)きに立ちてぞ行きける。此(か)く爲(な)る事をば、世の人、狗山と云ふなるべし。

 而る間、此の男、例の事なれば、狗共を具して山に入りにけり。前々(さきざき)も食ひ物など具して二三日も山に有る事也(なり)ければ、山に留(とど)まりて有りける夜(よ)、大きなる木の空(うつほ)の有りける内に居て、傍らに賤(あやし)の弓・胡錄(やなぐひ)・大刀(たち)など置きて、前(まへ)には火を燒きて有りけるに、狗共は𢌞(めぐ)りに皆、臥したりけり。

 其れに、數(あまた)の狗の中に、殊に勝れて賢かりける狗を年來(としごろ)飼ひ付けて有けるが、夜(よ)打深更(うちふ)くる程に、異狗(こといぬ)共は皆、臥したるに、此の狗一つ、俄かに起き走りて、此の主の木の空(うつほ)に寄り臥して有る方(かた)に向ひて、愕(おび)たたしく吠えければ、主、

「此は何を吠ゆるにか有らむ。」

と、怪しく思ひて、喬平(そばひら)を見れども、吠ゆべき物も無し。

 狗、尙、吠ゆる事不止(やま)ずして、後には主に向ひて踊り懸りつつ吠えければ、主、驚きて、

「此の狗の、吠ゆべき物も見えぬに、我れに向ひて此(か)く踊り懸りて吠ゆるは、獸(けもの)は主(あるじ)不知(しら)ぬ者なれば、我れを、定めて、『此(かか)る人も無き山中にて、咋ひてむ』と思ふなめり。此奴(こやつ)、切り殺してばや。」

と思ひて、大刀(たち)拔きて恐(おど)しけれども、狗、敢へて不止(とどま)らずして、踊り懸りつつ吠えければ、主、

「此(かか)る狹き空(うつほ)にて、此の奴(やつ)咋ひ付きなば惡しかりなむ。」

と思ひて、木の空(うつほ)より外(と)に踊り出(いづ)る時に、此の狗、我が居たりつる空(うつほ)の上の方に踊り上りて、物に咋ひ付きぬ。

 其の時に、主、

「『我れを咋はむ』とて、吠えけるには非ざりけり。」

と思ひて、

「此奴(こやつ)は何(なに)に咋ひ付きたるにか有らむ。」

と見る程に、空(うつほ)の上より器量(いかめし)き物、落つ。狗、此れを不免(ゆる)さずして咋ひ付きたるを見れば、大きさ六七寸許(ばかり)有る蛇(へみ)の、長さ二丈餘り許なる也(なり)けり。蛇(へみ)、頭(かしら)を狗に痛く被咋(くはれ)て、否堪(えたへ)ずして落ちぬる也(なり)けり。主、此れを見るに、極めて怖しき物から、狗の心哀れに思(おぼ)えて、大刀を以つて蛇(へみ)をば切り殺してけり。其の後ぞ、狗は離れて去(の)きにける。

 早(はよ)う、木末(こずゑ)遙かに高き大きなる木の空(うつほ)の中(うち)に、大きなる蛇(へみ)の住みけるを知らずして、寄り臥したりけるを、「吞まむ」と思ひて、蛇の下(お)りけるが頭(かしら)を見て、此の狗は踊り懸りつつ吠えける也(なり)けり。主、此れを不知(しら)ずして、上をば見上げざりければ、

「只、我れを咋はむずるなめり。」

とひて、大刀を拔きて、狗を殺さむとしける也けり。

「殺したらましかば、何許(いかばかり)悔しからまし。」

と思ひて、不被寢(ねられ)ざりける程に、夜明けて、蛇(へみ)の大きさ・長さを見けるに、半(なから)は死ぬる心地(ここち)なむしける。

「寢入りたらむ程に、此の蛇(へみ)の下(お)りて卷き付きなむには、何態(なにわざ)をかせまし。此の狗は、極(いみ)じかりける、我が爲めの此の不世(よなら)ぬ財(たから)にこそ有りけれ。」

と思ひて、狗を具して家に返りにけり。

 此れを思ふに、實(まこと)に狗を殺したらましかば、狗を死にて、主も其の後、蛇(へみ)に被吞(のまれ)まし。然れば、然樣(さやう)ならむ事をば、吉々(よくよ)く思ひ靜めて、何(いか)ならむ事をも可爲(すべ)き也(なり)。此(かか)る希有(けう)の事なむ有りけるとなむ語り傳へたるとや。

   *]

 犬が主人の危難を救ふ話は、支那にも大分あるが、右に擧げたやうな型のものはあまり見當らぬ。「玉堂閑話」にある狗仙山などは、犬を從へた獵犬が蟒を斃す話で、材料は或點まで接近するに拘らず、筋は全く違ふ。前に引いた鷹の話の如きも、昔リーダーで讀んだきりだから、原典はよくわからぬ。この類話が一方は必ずしも犬と限らぬのに、敵役が終始一貫して蛇なのは、注意する必要がある。

[やぶちゃん注:「玉堂閑話」唐の滅亡から宋の統一までの分裂期の五代十国時代の翰林学士などを歴任した王仁裕(八八〇年~九五六年)の小説。原書は既に消失したが、「太平廣記」「永樂大典」に引用されてある。「狗仙山」(「くせんざん」と読んでおく)は「太平廣記」の「卷四百五十八」に引用された以下である。中文ウィキソースの「玉堂閑話」を元に一部を加工して示す。

   *

巴賨之境、地多岩崖、水怪木怪、無所不有。民居溪壑、以弋獵爲生涯。嵌空之所、有一洞穴、居人不能測其所往。獵師縱犬於此、則多呼之不囘、瞪目搖尾、瞻其崖穴。於時有彩雲垂下、迎獵犬而升洞。如是者年年有之、好道者呼爲狗仙山。偶有智者、獨不信之、遂絏一犬、挾弦弧往之。至則以粗係其犬腰、係於拱木、然後退身而觀之。及彩雲下、犬縈身而不能隨去、叫者數四。旋見有物、頭大如甕、雙目如電、鱗甲光明、冷照溪穀、漸垂身出洞中觀其犬。獵師毒其矢而射之、既中、不復再見。頃經旬日、臭穢滿山。獵師乃自山頂。縋索下觀、見一大蟒、腐爛於岩間。狗仙山之事、永無有之。

   *]

2017/01/27

小穴隆一「二つの繪」(47) 「鵠沼・鎌倉のころ」(1) 「鵠沼」

 

鵠沼・鎌倉のころ

 

 

      鵠沼

 

 松風に火だねたやすなひとりもの

 

 まことに、ひとりものであつた私は、貰つた一と切れの西瓜がすぐには食へず、臺輪を緣側に持ちだして泥釜をのせ、その釜蓋の上に西瓜を置いて、半紙に寫してゐたのだ。

 

Toukousisuiwoterasu

 

 畫、鍋釜を自分で洗つてゐたひとりものの墨じるのいたづらがきで、みすぼらしいが、句のはうは、畫いてゐた時に、芥川が勝手口からはいつてきて、(鵠沼生活の時、芥川は玄關からも緣側の方からも入つてきたことはなく、窓からか、勝手口からかに限つてゐた。)一寸僕に塗らせろよといひこんで、そばにあつたクレイヨンで色をつけてから、松風にと書添へてゐたものだ。以前は、短册を十枚買へば箱をつけてくれるか、箱がなければ、短册の形に裁つてあるボール紙をあててくれたものだが、そのポール短册がそばにあつた。芥川はそれを拾つて、夜探千岩雪と書いて疊に置いたが、一盃盃又一と筆を補ぎなつて、一盃盃のところを指し、君これが讀めるか、一盃一盃また一盃と讀むのだと教へながら、またそれを手にして裏返し、燈光照死睡と書いてゐた。

 芥川の一盃一盃は、李白の山中對酌、兩人對シテ酌ム山花開ク一盃一盃復タ一盃とは事かはつて、死ねる藥の一盃一盃をいつてゐるのだ。

[やぶちゃん注:底本の画像は「燈光照死睡」は「照」の字を除いて判読出来ないほどひどいので、小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」(中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の昭和五三(一九七八)年再版本)の画像に差し替えた。また、冒頭に出る小穴隆一の絵と芥川龍之介の句のそれも同書にあるものを参考図として以下に掲げた。惜しいかな、この絵は本文にもあるように芥川龍之介によって『紅、綠、代赭のクレヨンで彩』られたものであるが(引用は「芥川龍之介遺墨」の当該図の小穴の解説に拠る)、モノクロームである。

 

Matukazesuika

 

「松風に火だねたやすなひとりもの」先行する「二つの繪」パートの方の「鵠沼」でもこの句が出、既注であるが、画像を添えたので再掲しておくと、現行の芥川龍之介俳句群には類型句も見当たらない、ここだけで現認出来る句である。小穴の謂いから見ても、これは真正の龍之介の句と私は断ずるものである。私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で採録している。

「臺輪」私はこれは「だいわ」で、そこの丸い不安定な鍋釜などを据え置くのに用いる藁繩などで編んでドーナツ型にした据え具かと思った。但し、そのような意味も語も存在しないことを知って、やや驚いている。私の読み違えであるなら、どうか御指摘戴きたい。

「芥川が勝手口からはいつてきて、(鵠沼生活の時、芥川は玄關からも緣側の方からも入つてきたことはなく、窓からか、勝手口からかに限つてゐた。)」先行する「二つの繪」の方の「鵠沼」の本文と小穴隆一自筆の見取り図を参照のこと。

「夜探千岩雪」「夜(よ) 探(さぐ)る 千岩(せんぐわん)の雪(せつ)」と訓じておく。

「燈光照死睡」「燈光(たうくわう) 死睡(しすい)を照らす」と訓じておく。己れの死に顔を詠んだ覚悟の一句である。

「李白の山中對酌」陶淵明をインスパイアした李白の知られた七絶。但し、正しくは詩題は「山中與幽人對酌」である。「幽人」は隠者。

   *

 

 山中與幽人對酌

兩人對酌山花開

一杯一杯復一杯

我醉欲眠卿且去

明朝有意抱琴來

 

  山中に幽人(いうじん)と對酌す

 兩人 對酌して 山花開く

 一杯一杯 復た 一杯

 我れ 醉ひて眠らんと欲す 卿(きみ) 且(しば)らく 去れ

 明朝 意 有らば 琴(きん)を抱きて來たれ

   *]

 燈光死睡を照らしてから二十二年の世の移りかはりで、我鬼窟、澄江堂の額を掲げた田端の家も戰災でなくなつた。用があつて、足を鵠沼に運んで、芥川夫人を、昔ひとりものが風呂を貰ひにいつてゐた塚本さんの家に訪ねたが、(塚本は芥川夫人の實家の姓、僕が借りてゐた家にも風呂桶はあつたのだが、沸かすのが面倒であつた、)塚本さんの家は、門の内そとに忘れないでゐたそのさまもなく、とほされた芥川死後の普請の、五百圓一と間の家さへ、根太も腐つてこはれてゐるといふ話であつた。

[やぶちゃん注:「根太」老婆心乍ら、「ねだ」と読む。床板(ゆかいた)を支えるために床の下に渡す横木のこと。]

 私は、自分の家にあるのと同じ芥川の寫眞が掛けてあつたのを、ふしぎのやうに感じて、部屋のなかの、殘された子供達の持ちものに、光陰の移り行く間を思はざるをえなかつた。

 私のところに掛けてある寫眞は、有樂町二丁目七にあつた村の會場で、昭和三年七月に、芥川龍之介氏追慕展璧覽會が催されたをり、武者さんからといつて村の人が屆けてきてくれたものだ。

[やぶちゃん注:「村の會場」読み違える可能性の高い若い人のために注しておくと、「有樂町二丁目七にあつた村の會場」とは、「武者」小路実篤らが創立した理想郷「新しき村」(大正七(一九一八)年に宮崎県児湯郡木城町に開村、昭和一四(一九三九)年に一部が「東の村」として埼玉県入間郡毛呂山町(もろやままち)に移転)が、東京での活動拠点の一つとして昭和三(一九二八)年二月に有楽町に建てた「新しき村の会場」という各種イベントに対応した施設の固有名詞である。頻繁に展覧会(北斎・南画・夏目漱石など)・講演会・室内劇上演などが行われた。]

 濱邊が舖裝されたドライブ・ウエーとなつてゐる今日では、昔、幾度か步いてゐたその路が、もう、私の頭にあつた鵠沼の路ではなかつた。たそがれの道を芥川夫人と步きながら、私は夫人の足音にくせのあるのに氣がついてゐた。話をしながら、私がひそかに耳をすませてゐたのは、一度、夜、芥川夫妻と濱邊に出てから散步をしたことがあつた。その時と同じ足音を耳にして、昔をしのんでゐたからだ。僕の女房は、はやくに父をなくしたので、どんな醉つぱらひの亭主でも生きてゐてくれたはうがいいといふのだ、と、生きてゐる氣力を失つてしまつた芥川の、淚をうかべてゐた姿が目に、ことばが耳に、再び生きかへつてゐた。

 一人であつたならば、まはつてみることもなかつたかもしれないが、夫人に誘はれて、私達が以前にゐた家々を垣のそとからのぞいてみた。芥川がなにか句にしようとして、さるすべり、さるすべりといつてゐたさるすべりのあつた二度目の家の、二階の部屋をみあげるのは一寸まぶしいやうな氣がした。家のうちであらうが、そとであらうが、芥川の話はいつも、死ぬことばかりであつたから別にどうといふ筈もないが、夜、二階に誘はれると、暗くて、今日きはまるか、今日きはまるかと思つたものだ。私は芥川が山吹、棕櫚の葉に、等等の詩稿をみせながらあれこれなはしてゐたことや、アンテナといふことをいつてゐたのを思ひだす。伊二號の「O君の新秋」の家、芥川が、私の西瓜の畫に松風にの句を書きもし、また、星を一つとばしてしまつた北斗七星を描いて、これなんだかわかるかといつて、私の座布團のしたにさしこんでゐたりしてた家も、さるすべりの家もなほしがあつて、昔のさまはなくなつてゐた。

[やぶちゃん注:ロケーションの家はやはり先行する鵠沼の見取り図を参照。

「山吹」これは恐らく、

 

   山吹

あはれ、あはれ、旅びとは

いつかはこころやすらはん。

垣ほを見れば「山吹や

笠にさすべき枝のなり。」

 

であろう。この最後の鍵括弧で括られた句は芭蕉のもので、

   山吹や笠に挿すべき枝の形

で元禄四(一六九一)年、江戸赤坂の庵にて芭蕉四十七歳の作である。旧全集後記によると、岩波元版全集には文末に「(大正十一年五月)」とあるとするから、このクレジットが正しいとすれば鵠沼生活より四年も前の満三十歳の作となる。但し、この詩自体は、自死後の昭和二(一九二七)年八月発行の『文藝春秋』に掲載された「東北・北海道・新潟」に以下のように示される。

 

 羽越線の汽車中(ちゆう)――「改造社の宣傳班と別(わか)る。………」

  あはれ、あはれ、旅びとは

  いつかはこころやすらはん。

  垣ほを見れば「山吹や

  笠にさすべき枝のなり。」

 

もので、創作時期が早かったとしても、芥川龍之介遺愛の詩篇であったこと疑いがない。]

「棕櫚の葉に」これは、明らかに芥川龍之介鵠沼生活時代の、大正一五(一九二六)年七月刊の雑誌『詩歌時代』に発表した、

 

   棕櫚の葉に

 

風に吹かれてゐる棕櫚の葉よ

お前は全体もふるへながら、

縱に裂けた葉も一ひらづつ

絶えず細かにふるへてゐる。

棕櫚の葉よ。俺の神經よ。

 

である。

「アンテナ」ここで小穴隆一が直前に挙げている「棕櫚の葉に」の詩篇のイメージ及び多様な精神疾患の初期症状(重いものでは統合失調症)に典型的な「電波」という愁訴を私は直ちに想起するが、芥川龍之介が果たしてそうした自己の精神変調の謂いで、この「アンテナ」を口にしたものかどうかは、この通り、いつもの小穴流意味深長不全表現によって明らかでないのは頗る焦燥を感ずるところである。

O君の新秋」私の電子テクストはこちら。但し、これはあの不吉な作品のモデルの廃別荘の位置を指すのではなく、「O君」の借りていた別荘、筆者小穴隆一の住んだ「伊二號」のことを指しているに過ぎないので要注意。

「星を一つとばしてしまつた北斗七星を描いて、これなんだかわかるかといつて、私の座布團のしたにさしこんでゐたりしてた」「二つの繪」冒頭の「二つの繪」を参照。]

 伊四號の、芥川の家は、おもてからみれば、昔のままであつたが、小さな水蓮とあはれな蓮が咲いてゐた小さな池の跡がなく、地境の、蔦うるしからまる松も、からまぬ松も、蔦うるしからまる、なんとかいつてゐた芥川の句が、早速にみあたらぬやうに消えてゐた。私のうつろの目は、芥川が抱いてゐた也ちやん(也寸志君)を庭におろして、也ちやんが、あつぷ、あつぷ、砂地を這つてゐるのをぢつとみてゐた、そのそばに咲いてゐたつゆくさの紫をさがしもとめてゐたが、私は、ひとりものとして鵠沼にゐたときに、いつも庭の松ぼくりを拾つて焚付けとてゐたので、つゆくさと松ぼくりのない鵠沼の景色などは想像もしてゐなかつた。

[やぶちゃん注:「蔦うるしからまる、なんとかいつてゐた芥川の句」「鵠沼」にあった「蔦うるし這はせて寒し庭の松」という芥川龍之介の他に見ぬ句。]

 伊四號の家には、書きつづけてゐた「河童」の原稿を、いつも風呂敷包みにして、そはそはとしてはゐるが、息をつめ齒をくひしばつてゐた芥川の姿がうかぶ。伊二號の家にゐたときに、死んだあと、よくせきのことがあつたら、これをあけろと渡されたものは、死をえらぶにいたつたいきさつを簡單にかざりなく述べたものであるが、齒もことごとくぬけてしまつたいまの私になつてみると、それはただ、自決をしても、わざはひが私にかからぬやうに芥川が配慮してゐたものとしか考へられない。

[やぶちゃん注:『伊四號の家には、書きつづけてゐた「河童」の原稿を、いつも風呂敷包みにして、そはそはとしてはゐるが、息をつめ齒をくひしばつてゐた芥川の姿がうかぶ』これと酷似した描写が「一人の文學少女」にも出ていたが、そこで私が疑義を呈したように、この証言は俄かには信じ難い。リンク先を参照されたい

「齒もことごとくぬけてしまつたいまの私になつてみると、それはただ、自決をしても、わざはひが私にかからぬやうに芥川が配慮してゐたものとしか考へられない」またしても、小穴隆一特有の厭らしい一人合点で終っている。「自決をしても、わざはひが私にかからぬやうに芥川が配慮してゐた」とは何をどのようになのか、全く分らないのである。仮想し得る最大最悪のものは芥川龍之介の自死に用いた毒物が小穴隆一経由で入手されたものである可能性であるが、であれば、小穴隆一はその性格からして真相を暴露しておかしくないと私は考えるから、それは、ない。]

柴田宵曲 妖異博物館 「白鴉」

 

 白鴉

 

 白い鴉などは世にも珍しい話かと思ふと、決してさうでないから面白い。

「譚海」の記すところによれば、羽州橫手の城には雌雄二羽の白鴉が年久しく住んでゐて、土地の人はよく知つてゐたが、或時一人の農夫が城下の酒屋へ白い鴉を一羽持つて來た。酒を飮んでゐた連中は皆珍しがつて興じたところ、農夫の云ふのに、白い鴉はこの城下には居るので、私どもが山稼ぎをする時には、常に見ますから、それほど珍しいことはありません、たゞいつもは高い樹の上にばかりゐるのを、これは近いところにゐた鳥、つかまへることが出來たのです、といふことであつた。亭主は勿論珍しがつて、百姓の家に飼つたところで仕方があるまいから、これは私に下さい、さうすれば見物に來る人で、酒も澤山賣れるだらう、と云ふ。農夫は承知してこの鴉を與へ、その後は鴉を見ようとして酒を飮みに來る人のために、酒屋は大いに繁昌したが、幾何もなく鴉が死に、酒買ひに來る人はまた減つてしまつた。――今でもよくありさうな話である。

[やぶちゃん注:「白い鴉」鳥綱スズメ目スズメ亜目カラス上科カラス科 Corvidae に属するカラスの仲間のアルビノ(albino)個体。部分白化個体はそれほど珍しいものではなく、私も野生のそれを何度か見たことがある。

「羽州橫手の城」現在の秋田県横手市にあった横手城(山砦)。久保田藩(秋田藩)の支城として城代が派遣されていた。

 以上は「譚海」の「卷の八」の「羽州橫手しろき烏の事」以下に示す。

   *

○羽州橫手の城は、佐竹の家司戸村氏守る所なり。城中に白鴉雌雄二羽有(あり)、年久敷(ひさすく)住(すん)で土人能(よく)知(しり)たる事なり。農夫あるとき城下の酒屋へ白き鴉を一羽持來(もちきた)ぬ。酒のむもの皆めづらしがり興ずるに、農夫いふ樣(やう)、白き鴉は此城下まゝおほく有(あり)、我等(われら)山かせぎするときは、常に見る事にて珍敷(めづらしき)物にもあらず、只(ただ)平日は高き樹のうへにのみあるを見れど、是(これ)はたまたま近き所に居たる故(ゆゑ)取得(とりえ)たるなり。亭主聞(きき)て今日(こんにち)目(ま)ちかく見る事珍敷(めづらしき)ことなり、百姓の家に飼(かひ)て無益成(ある)事、我等に給はれ、さらば見物にくる人多く酒もうれぬべしといへば、農夫斷(ことわり)なる事とて、亭主に此鴉をあたへぬ。それよりのち此(この)からすみんとて、酒のみにくる人はたして日每(ひごと)に賑はひ、酒屋大にとく付(つき)て悦(よろこび)居たるに、いくほどもなくて鴉死(しに)たれば、又酒かひにくる人も減じぬといへり。

   *

「斷(ことわり)」は「理」(尤もなこと)の当て字。]

 天明六年十二月、山科で獵師の捕へた鴉は、純白でなしに、羽がところどころ白く、全身は赤紫色といふ程度であつたが、見世物師どもはこれを聞き傳へて、高價に買ひ求めたいと云ひ出した。座主の宮(妙法院殿)が御覽になり、白鴉でもあらうかとの御沙汰で、果して瑞鳥かどうかを勘へよといふことになり、唐橋、高辻、伏原、舟橋、東坊城、五條、押小路、壬生、三善の諸家から恭しく勘文をたてまつる。その結果、御花壇奉行以下の役人が、この鳥を捕へた場所へ持つて行つて放たれ、今後白鴉は勿論、似寄りの鳥と雖も捕へてはならぬ、と申渡し同樣の御令書が出た。「翁草」にはこの次第及び、諸家の勘文も悉く採錄してある。全身赤紫色で、ところどころ白い羽毛があるのみでは、白鴉と称するのも如何かと思ふが、それでもこれだけの人を煩はす瑞相があつたらしい。

[やぶちゃん注:明らかな部分白化個体で、問題とするに足らぬ話である。

「天明六年」一七八六年。

「座主の宮(妙法院殿)」サイト「公卿類別譜歴代天台座主データによれば、天明六(一七八六)年八月二十日に第二百十四代天台座主となった閑院宮典仁親王の子息であった真仁(まさひと 明和五(一七六八)年~文化二(一八〇五)年)法親王である。桃園天皇養子となり、「時宮」「妙法院殿」とも呼ばれたという記載がある。以下、他の記載によれば、そもそも「妙法院」とは現在の京都市東山区にある天台宗南叡山妙法院で、皇族や貴族の子弟が歴代住持となり、天台座主へのステップの一寺でもあった。無論、真仁は妙法院門跡であった。

「勘へよ」「かんがへよ」。勘案せよ。

「唐橋」唐橋家は菅原氏の嫡流とされ、江戸後期の在家は有職故実の研究で知られた。

「高辻」は菅原道真の子孫である平安後期の高辻是綱を祖とする堂上(とうしょう)家。前の唐橋家の祖である菅原在良は是綱の弟。代々、天皇の侍読を務めた。

「伏原」家(ふせはらけ)は清原氏の嫡流舟橋家(次注参照)の分家である堂上家。歴代当主は正二位少納言・侍従・明経博士を極官とした。

「舟橋」家(ふなばしけ)は第四十代天武天皇の皇子舎人親王の子孫で清原氏の流れを汲む堂上家。代々、天皇の侍読を務めた。

「東坊城」家(ひがしぼうじょうけ)は鎌倉末期・南北朝期の公家五条長経の次男東坊城茂長を祖とする堂上家。

「五條」鎌倉時代の公家菅原為長の子高長を祖とする。大学頭・文章博士・式部大輔・中納言・大納言を極官とする。後にここから先の東坊城家等が別れた。

「押小路」家(おしこうじけ)は、江戸時代の武家官位にあって各大名家に与えられる家格に相当する家格(「羽林(うりん)家」と格付けした)を有した公家で、寛文年間(一六六一年~一六七三年)三条西公勝の次男公音が創設した。押小路の家名は、居住地名に由来する。家職を歌道とする三条西家の分家であるが、漢詩の家柄として知られた。

「壬生」家(みぶけ)。羽林家の家格を有する公家。藤原北家中御門流で持明院家支流。代々、太政官の史(ふひと)を務め、居所が京都の壬生にあったことを以って家名とした。

「三善」家。不祥。

「勘文」「かんもん」。朝廷から諮問を受けた学者等が由来・先例等の必要な情報を調査して報告(勘申)を行った文章のこと。

「御花壇奉行」宮中内の庭園を管理統括する役職らしい。

以下の役人が、この鳥を捕へた場所へ持つて行つて放たれ、今後白鴉は勿論、似寄りの鳥「翁草」以前同様、国立国会図書館デジタルコレクションにあるが、巻や標題が不明なので、調べるのは諦めた(多分、雜話内にあって目次には出ない)。それらを御存じの方は御教授願いたい。]

 この話は相當有名であつたと見えて、「甲子夜話」にも書いてあるが、皆人祥瑞と稱したに拘らず、翌年京都は大火で、禁闕も炎上した。祥瑞どころではなかつたのである。その後松平信濃守(御書院番頭で、豐後岡侯中川久貞の子、松平家の義子となる)に會つて聞いたら、自分の實家である中川の領内では、たまたま白鴉を見ることがあると、足輕などに命じて逐ひ索め、鐡砲で擊ち殺すことになつてゐる、白鴉は「城枯らす」の兆であると云つて、その名を忌むのだ、と云つて笑つて居つた。橫手や岡の鴉は純白であつたかどうか。京都の例を以て推せば即斷しかねる。

[やぶちゃん注:

「中川久貞」(享保九(一七二四)年~寛政二(一七九〇)年)は豊後岡藩(現在の大分県の一部を領有し、藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)にあった)の第八代藩主。この御書院番頭松平信濃守というのはのこ中川久貞の四男であった松平忠明のことと思われる。

 これは「甲子夜話卷之四」の第六条に出る、以下の「白烏の話」である。

   *

天明の末か、京師の近鄙より白烏を獲て朝廷に獻じたることあり。みな人祥瑞と言ける。然に翌年、京都大火し、禁闕も炎上す。其後、松平信濃守〔御書院番頭。もと豐後岡侯中川久貞の子、松平家の義子となる〕に會して聞たるは、曰、某が實家中川の領内にては、たまたま白烏を覩ること有れば、輕卒を使てこれを逐索め、鳥銃を以て打殺すことなり。その故は、白烏(シロカラス)は城枯(シロカラス)の兆とて、其名を忌て然り。野俗のならはし也と云て咲たりしが。

   *]

 白鴉が「城枯らす」に通ずるなどは、武家に限つた物忌みであらう。武道がなり下るといふことで、葡萄の模樣を忌むといふのと同じやうなものである。

 

小穴隆一「二つの繪」(46) 「河郎之舍」(5) 「訪問錄」 /「河郎之舍」~了

 

      訪問錄

 

 游心帖に終止符をうつてしまつたもの、それが訪問錄であるが、二十五字詰十二行の原稿紙を綴ぢた物に半紙の表紙をつけ、訪問錄と書いて、僕の病室の枕もと置いてくれたのは小澤碧童である。

 訪問錄の中に殘つてゐる芥川のものは、

 十八日(大正十一年十二月)

   一游亭足の指を切る

   人も病み我も病む意太蕭條

   初霜や藪に鄰れる住み心

   冬霜よ心して置け今日あした

[やぶちゃん注:同じ字下げで並んでいるが、言うまでもなく冒頭の「一游亭足の指を切る」は以下の三句の前書である。言わずもがなであるが、「訪問錄」は小穴が脱疽のために順天堂病院に入院した際のゲスト・ブックである。なお、この三句の内、「初霜や藪に鄰れる住み心」は既出句であるが、「人も病み我も病む意太蕭條」「冬霜よ心して置け今日あした」の二句は他に類型句がない、ここにのみ出る特異点の句である。「意太」の読みが難であるが、「意(い)太(はなはだ)」と読んでおく。この十八日に小穴隆一は右足第四趾切断の術式を受けており、芥川龍之介は手術に立ち会った。しかし何度も述べたように既に手遅れ(医師の脱疽診断の遅れという誤診が原因)であり、翌年一月四日にやはり龍之介立ち会いで左足首の切断術を行うこととなり、小穴は以後、義足と杖の生活となった。

 なお、先に注意しておくが、以下の「二十五日」の条は長い。即ち、「訪問錄」に、冒頭のト書きに始まるトランプの登場人物らのシナリオが途中まで記されている(原稿用紙にして三枚程度か)のである。なお、献辞にある「成瀨日吉」は不詳。この時にたまたま見舞いに来ていた小穴隆一の知人かとも思われ、芥川龍之介関連ではここ以外には出現しない。]

 二十五日

  小穴隆一、遠藤淸兵衞、成瀨日吉の三氏に獻ず。

 時 千九百二十二年耶蘇降誕祭

 處 東京順天堂病院五十五室

 

 患者一人ベッドに寢てゐる。看護婦一人病室へ入り來り、患者の眠り居るを見、毛布などを直したる後、又室外へ去る。

 室内次第に暗くなる。

 再び明るくなりしとき、病室の光景は變らざれど、室内の廣さは舊に倍し、且つ窓外は糸杉、ゴシック風の寺などに雪のつもりし景色となり居る。此處にトランプのダイヤの王、女王、兵卒の三人、大いなる圓卓のまはりに坐り居る。圓卓の下に犬一匹。

 ダイヤの王 ハアトの王はまだお出にならないのか?

 ダイヤの女王 さつき馬車の音が致しましたから、もう此處へいらつしやいませう。

 ダイヤの兵卒 ちよいと見て參りませうか?

 ダイヤの王 ああ、さうしてくれ。

   ダイヤの兵卒去る。

 ダイヤの女王 ハアトの王はわたしたちを計りごとにかけるのではございますまいか?

 ダイヤの王 そんな事はない。

 ダイヤの女王 それでも日頃かたき同志ではございませんか?

 ダイヤの王 今夜皆イエス樣の御誕生を祝ひに集るのだ。もし惡心などを抱く王があれば、その王はきつと罰せられるだらう。

   ダイヤの兵卒歸つて來る。

 ダイヤの兵卒 皆樣がいらつしやいました。ハアトの王樣も、スペイドの王樣も、クラブの王樣も、……

 ダイヤの王(立ち上りながら)さあ、どうかこちらへ。

 ハアトの王、女王、兵卒、スペイドの王、女王、兵卒、クラブの王、女王、兵卒、等皆犬を一匹引きながら、續々病室へ入り來る。(未完)

 

  あけくれもわかぬ窓べにみなわなす月を見るとふ隆一あはれ  龍之介

 

だけであるが、芥川が訪ねてくれたのはこの十八、二十五の二度だけではなく、使ひも度々よこしてくれてゐたし、本も隨分屆けてくれてゐた。僕が隻脚となつても、少しも氣持がまゐつてしまはずにこられてゐるのは、全くやさしい芥川がゐてくれたそのお蔭である。

[やぶちゃん注:この空間の大きさの変容といい、トランプの王・女王・兵卒といい、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」の世界を髣髴させる未定稿の最良テクストは、新字乍ら、岩波新全集の「第二十二巻 未定稿」の仮題を『トランプの王』とするものである。何故、最良かと言えば、それはこの「訪問錄」のコピーを底本としているからである(しかしコピーを底本とせざるを得ないということは小穴隆一の「訪問錄」は或いは現存しないのかも知れぬ)。そこでその新全集と校合してみた。以下の異同を示す。新全集版の引用はここの正字表記に合わせて、正字化してある。矢印の下方が新全集のもの。

 

○献辞・時・所書きとト書きと間に行空き→ト書きと本文の間に行空きはない

 

○ト書き(字配が異なる。基本全体が三字下げで、二行に亙る場合は一字分が上(二字相当箇所)に飛び出る)

・「遠藤淸兵衞」→「遠藤淸兵エ」

・「千九百二十二年耶蘇降誕祭」→「千九百二十二年の耶蘇降誕祭」

・「ベッド」→「ベツド」

・「且つ」→「且」

・「ゴシック」→「ゴシツク」

 

○本文(字配が異なる。台詞の人物の柱は上インデントで、挿入されるト書きは全体が完全な二字下げである)

・「ハアトの王、女王、兵卒、スペイドの王、女王、兵卒、クラブの王、女王、兵卒、等皆犬を一匹引きながら、續々病室へ入り來る。(未完)」→「ハアトの王、女王、兵卒、スペイドの王、女王、兵卒、クラブの王、女王、兵卒等、皆犬を一匹引きながら、續々病室へ入り來る。(未完)」(二度目の「兵卒」の後の読点が異なる)

 

なお、この新全集のそれによって、最後の「(未完)」も芥川龍之介の添書きであることが確認出来る。

「あけくれもわかぬ窓べにみなわなす月を見るとふ隆一あはれ  龍之介」まず、この一首、恰も前の未完シナリオの後に添書きされているように記されているが、少なくとも直後には存在しないことは新全集の『トランプの王(仮)』の「後記」に、『「訪問録」では(一二月)「二十五日」の項の「瀧井孝作」の署名の後に、無署名で』この献辞附きシナリオが『記され、次に(渡辺)庫輔の短歌が記されている』とあることから明らかである(下線太字はやぶちゃん)。しかもこの新全集の後記の記載はこの小穴隆一の記載に、ある種の強い疑惑を抱かせるものである。即ち、無署名のこの献辞附きシナリオが記された後には龍之介の弟子渡辺庫輔の短歌が記されてあると言うのである。どうであろう? これはまさにこの一首が添えられてあるのと軌を一にすると言えるではないか。この一首は実は芥川龍之介の短歌ではなく、渡辺それなのではあるまいか?]

 僕は十八日に右足弟四趾切斷、十二年の一月四日に足頸から落して、病み臥せばあけくれなくてをりをりに窓邊にいづる月は浮べり、といふ長い病院生活をしてゐた。この病院生活の間に芥川から「甥が家出をしたので(葛卷のこと、)探してゐたが、やつと見付けだしてほつとしたよ、」といふ話を聞いたり、一中節を聞かせて貰つたりした。芥川は僕に元氣をつけるために、枕もとで隨分大きな聲でうたつてくれた。

[やぶちゃん注:「甥が家出をした」時期は確定出来ないが、この頃(大正一二(一九二三)年一月下旬、芥川龍之介の姉ヒサの再婚相手である葛巻義敏の義父の弁護士であった西川豊が偽証教唆によって市ケ谷刑務所に収監されたりして、芥川龍之介はこの頃、十三歳であった義敏を田端に引き取っているから、こうした事実は腑に落ちる。

「一中節」江戸浄瑠璃系三味線音楽の源流。芥川龍之介の伯母フキは一中節の名取であった。]

 僕はこの入院中に芥川夫妻と比呂志君の三人が合作した手紙を貰つてゐる。今日では夢の如きものとなつてゐるが、萬感こもごもで圖版にして貰つておいた。オカゴといふのは、遠藤の姉さんが足を失くした僕に見舞にくれたおもちやの駕籠のことである。

 

Houmonoroku1

Houmonoroku2

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 片假名のふりがなは芥川、平假名のふりがなは芥川夫人、オカゴといふのは、遠藤の姉さんが足首をとつてしまつた僕に、赤い座蒲團のはいつたおもちやのお駕籠をくれた、僕はそれを芥川の使にきた庫輔君に比呂志君にといつて渡した、すると庫輔君が次ぎにきたときに持つてきたのがこの手紙である。大正十二年の春のはじめで比呂志君が數へ歳で四つ、まだもじやもじやしか書けないときに、僕の顏といつてはつきり顏を畫いてゐるのはふしぎである。僕はこの顏は芥川が筆を左手に持つて書きそへたものと思つてゐるが、芥川夫人に照會してみないとわからない。

[やぶちゃん注:以上は挿入されたその手紙の画像(全五葉)に添えられた長いキャプション。底本のそれは画素荒く、判読しづらいが、極めてレアなものである。なお、厳密に言えば、芥川文・芥川比呂志の著作権(自筆箇所)は存続であるが、これは小穴隆一に贈答されたものであり、本文との併載は不可欠なものである以上、敢えて示すこととした。]

 

2017/01/26

小穴隆一「二つの繪」(45) 「河郎之舍」(4) 「游心帳」

 

     游心帳

 

 サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユアガ買ヒテ來シチリ紙ゾコレハ    我鬼

 

 游心帳には前期の物と後期の物とがある。そもそもは、僕が祖母に矢立を貰つたので、半紙を四つ折にして綴ぢた帳面を拵へ、游心帳と書いて懷にしてゐたのがはじまりでこれが前期の物、半紙二つ折の後期の物、後期の物といつても第二册目あたりからの物が碧童題とか衷平題とかなつて、碧童の筆で游心帳が游心帖、ゆうしんぢよう、ゆうしんじやうなどと變り、いつとなく僕の游心帳が芥川、碧童、遠藤などとの間で雜談のをりの歌や句、畫の用にまで利用されてゐたのである。河童と豚の見世物、明治二、三年洗馬に於いて二十人を容るるほどの小屋掛けにて瓢簞に長き毛をつけたる物を河童と稱び見世物となし興行せる者あり。見料大人と小人との別あり。豚も見世物となる。といつた種類の聞書を集めたり、豆菊は慰斗代りなるそば粉哉、などといふ獨稽古の俳句を書いてゐたものが前期の物に屬し、久米正雄の河童の繪まである賑やかな物は後期の物に屬するのである。長崎の長いちり紙に添へて半紙に楷書、紙でも下敷にしたかのやうに行儀よく書かれてゐる、サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユは、これは勿論游心帳に書いてあつた歌ではなく、『後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少くない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は、畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。卽ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以である。芥川龍之介記』とある大正十四年九月の「改造」の「鄰の笛」、(鄰りの笛といふ題は僕が詩韻活法から拾つた、)大正九年から同十四年度に至る年代順の芥川と僕の五十句づつの句のなかにある、

   長崎土産のちり紙、尋あまりなるを貰ひて

  よごもりにしぐるる路を貰紙

といふ僕の句を思出させる芥川の歌、僕に游心帖時代を思はせる歌なのである。

[やぶちゃん注:「サミダルル赤寺ノ前ノ紙店ユアガ只ヒテ衆シチタ紙ゾコレハ」この一首は、岩波版旧全集の「雜」の末尾に書誌情報なしで以下のように三行分かち書きで載るものであるが、明白な長崎関連の吟詠で、類型歌から推測して大正十一(一九二二)年四月二十五日から五月二十九日までの二度目の長崎行での戯れ歌に見えるが、「來シ」と過去の助動詞を使っていることから、後の回想歌でないとは言えない。「赤寺」は長崎市寺町にある日本最古の黄檗宗寺院東明山興福寺。山門が唐風に朱塗りであるため、「赤寺」とも呼ばれる。寛永元(一六二四)年、中国僧真円による創建で、信徒には浙江省・江蘇省出身者が多いことから、「南京寺」とも称せられる(以上はウィキの「興福寺(長崎市)」を参照した)。

 

サミタルル 赤寺ノ

前ノ紙店ユ アカ買ヒテ

來シ チリ紙ソコレハ

 

私は「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」で、『「アカ」は「閼伽」で仏に供える供物という意を掛けたものであろうか』などと半可通な注をしたが(「閼伽」では意味が通らない)、この小穴隆一の「アガ」で「吾が」と判明し、素直に腑に落ちた。

「衷平」既出既注の小澤碧童の別号。

「游心帖、ゆうしんぢよう、ゆうしんじやう」歴史的仮名遣としては「いうしんてふ」或いは「いうしんでふ」が正しい。

「明治二、三年」一八六九年から一八七一年。本邦では明治五年十二月二日(グレゴリオ暦一八七二年十二月三十一日)まで旧暦を採用していたため、西暦とはズレが生じる。

「洗馬」これは「せば」で、現在の東京都八王子市堀之内附近(ここ(グーグル・マップ・データ))の旧地名か? 現在、堀之内洗馬(せば)川公園や洗馬(せば)橋の名が残る。長野県塩尻市大字宗賀(そうが)の洗馬(せば)ではあるまい。

「稱び」「よび」と訓じていよう。

「豆菊」キク亜綱キク目キク科キク亜科ヒナギク属ヒナギク Bellis perennis であろう。

「慰斗」「のし」。

「獨稽古」「ひとりげいこ」。

「久米正雄の河童の繪」先の「河童の宿」に掲げたものと考えてよい。

「『後記。僕の句は……」小穴隆一が記す通り、大正一四(一九二五)年九月一日発行の『改造』に小穴隆一の発句五十句ともに「鄰の笛」という標題で掲載された芥川龍之介にしては珍しい小穴の句との合同句群である。署名は芥川龍之介(小穴をないがしろにしたとして龍之介は非常に怒った)。その文末にあるのが引用された文章で、小穴は正確に引用している。そこで掲げられた芥川龍之介の全句群は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」を参照されたい。小穴の句に就いては次の次の注を参照。

「詩韻活法」明治二一(一八八八)年に滝川昇が編輯し、東京で出版された作例附き漢詩入門書。

「僕の五十句づつの句」これは「鯨のお詣り」の最後に配された「一游亭句稾」(「稾」は「稿」の異体字)冒頭に「鄰の笛」として全五十句が載る。後日、電子化する。

「長崎土産のちり紙、尋あまりなるを貰ひて」「よごもりにしぐるる路を貰紙」前注した「鯨のお詣り」の「一游亭句稾」三十七句目に、

 

   長崎土産のちり紙、尋あまりなるを貰ひて

 よごもりにしぐるる路(みち)を貰紙(もらひがみ)

 

とある。この「尋」は「ひろ」で長さ単位。明治以降は「一尋」は「六尺」で、約一・八メートルである。「よごもり」は「夜籠り」で「夜が更けること」「夜更け」の意。]

 僕は大正十二年の正月に右の足頸からさきを脱疽で失くなした。さうして、松葉杖にたよるやうになつてからは、

   偶興

  あしのゆびきりてとられしそのときは

  すでにひとのかたちをうしなへる

  あしのくびきりてとられしそのときは

  すでにつるのすがたとなりにけむ

  あしのくびきりてとられしそのときゆ

  わがみのすがたつるとなり

  かげをばひきてとびてゆく

といふ類の詩をつくりだしてをり、矢立は震災の直後祕露に行く遠藤に餞別として贈り、

   思遠人、南米祕露の蒔淸遠藤淸兵衞に

  獨りゐて白湯にくつろぐ冬日暮れ

などといふ句をつくつてゐる。後期の游心帳は意外にも九年十年十一年の晩秋で終つてゐる。これは僕の入院、さうして隻脚となる、半紙二つ折の物は松葉杖で步くときには懷中からとびだし、義足で步くやうになつて服になるといれどころに困る、といつた事情で自然消滅となつてしまつてゐたのであつた。

[やぶちゃん注:「偶興」という詩篇は「鯨のお詣り」の俳句の前に配された詩篇群の冒頭に全く異同なしに掲げられてある。

「祕露」「ペルー」。遠藤古原草がペルーに旅したことは、先の「手帖にあつたメモ」にもあった。

「思遠人、南米祕露の蒔淸遠藤淸兵衞に」「獨りゐて白湯にくつろぐ冬日暮れ」は前注した「鯨のお詣り」の「一游亭句稾」四十三句目に、

 

   思遠人 南米祕露の蒔淸遠藤淸兵衞に

 獨(ひと)りゐて白湯(さゆ)にくつろぐ冬日暮(ふゆひく)れ

 

と載る(読点ナシはママ)。「思遠人」は「遠き人を思ふ」(或いは「思ひて」と訓じているのであろう。「なお、下の句の「冬日暮(ふゆひく)れ」で名詞と採って、かく読みを振った。]

 游心帳に殘つてゐる芥川の筆蹟を拾つてゆくと、

  秋の日や竹の實垂るる垣の外

  落栗や山路は遲き月明り

  爐の灰にこぼるる榾の木の葉かな

  野茨にからまる萩の盛りかな

 これらの句のある帳面の表紙はとれてゐる。裏表紙には碧童刻の合掌の印が押してある。合掌といふことばは一と頃の芥川が手紙に使ひ、碧童またこのことばを珍重し印に刻むといふ時代であつた。僕はこの帳面のなかの子規舊廬之鷄頭を見て、碧童に伴はれ子規舊廬を見たこと、芥川に伴はれて瀧井孝作と共に主なき漱石山房を訪ねた日を思出した。

[やぶちゃん注:「秋の日や竹の實垂るる垣の外」は大正一五(一九二六)年十二月刊の随筆集「梅・馬・鶯」の「發句」に所収されているが、大正十一年三月発行の『中央公論』の「我鬼抄」が一番最初と思われ、書簡ではさらに前の推定大正九年十月二十一日附とする香取秀真宛(旧全集書簡番号七八七)に出る。但し、この書簡は新全集書簡第十八巻書簡Ⅲでは九月二十一日のパートに移動しているから、季から見ても大正九年九月の吟或いは決定稿と考え得る。

「落栗や山路は遠き月明り」ここにのみ見出せる芥川龍之介の句で類型句もない

「爐の灰にこぼるる榾の木の葉かな」大正九(一九二〇)年十月二十四日附小澤忠兵衛(碧童)宛(旧全集書簡番号七八九)等に、

 

 爐の灰のこぼるゝ榾の木の葉かな

 

の踊り字の形で現れる句。

「野茨にからまる萩の盛りかな」この句は先の「梅・馬・鶯」の「發句」に、

 

 野茨にからまる萩のさかりかな

 

の表記で出るが、やはり大正十一年三月の『中央公論』の「我鬼抄」、大正十二年六月発行の『ホトトギス』の「その後製造した句」、大正十四年九月発行の先の『鄰の笛』にも再録しており、芥川龍之介遺愛の句の一つであることが判る。この句について私は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」で、以下のような注をした。一部に手を加えて再掲しておく。

   *

 この句は芥川龍之介遺愛の句の一つであった。また、『にひはり』大正十三年五月の「澄江堂句抄」に、「相模驛にただ見るままを。」の前書があるが、「芥川龍之介句集二 発句拾遺」の該当の句の注記で示した通り、普及版全集では、「景の詩に入る、巧を用ふるに暇あらず。」となっている。更に、中村慎一郎著「俳句のたのしみ」によれば、これが実は相模駅での嘱目吟でなく、軽井沢での作の可能性がある、とする。以下当該書を所持していないので、近代文藝社二〇〇〇年刊大須賀魚師著「芥川龍之介の俳句に学ぶ」より孫引きする(表記は引用原書のママ。)。

   《引用開始》

「これは作者が室生犀星などと共に、軽井沢に遊んで、避暑のつれづれに句作を競った時の偶作で、『景の詩に入るる巧を用ふるの暇あらず』と前書がついているが、この何気ない句に、心の通い合った友人と安らかな一刻を過ごしている平和な雰囲気が、おのづから漂っている。その時、傍らにあった大学生の堀辰雄が、この句を書き散らした紙を作者から乞い受けて、生涯の記念とした」

   《引用終了》

ここでは、詞書が微妙に違う。しかし、私は少なくとも、「軽井沢に遊んで、避暑のつれづれに句作を競った時の偶作」ではあり得ないと思う。堀辰雄が芥川龍之介から詩二篇の批評を得て、親しく交わるようになるのは、大正一二(一九二三)年の十月下旬以降のことであり、現在の芥川龍之介に関わる年譜上では、この句の発表の大正十三年五月までの間に軽井沢に避暑に行った事実はないからである。なお、中村の言うこの軽井沢行は大正十三年八月か、最後となった十四年の八月のもので(室生、堀共に両年二人共に同時に芥川と同宿している事実がある。可能性としては、時間的な余裕から言うと、後者である。但し、一般に私は知られているそれ以外にも芥川の軽井沢行はあったと確信しており、そこに堀辰雄が同行していた可能性も排除出来ない。私のブログ「松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実」等を参照されたい)、以上から、この句の成立とは全く関係なしに、堀に関わるこの中村が言うような事実があったことは想像には難くないと言い添えておく。

   *

  天雲の光まぼしも日本の聖母の御寺今日見つるかも

 この歌は齋藤茂吉の歌ではないかと思つて人にたづねるとさうではないといふ。芥川が新聞の劇評を書かなければならず、帝劇の歌舞伎を見にゆくとき僕を誘つていつたが、一幕ずるけて喫煙室で僕と雜談してゐたをりに書いてゐたもの、歌のかたはらに木立の下の藁葺小屋に住む人を畫いてゐる。この帳面に碧童の鬼趣圖をみてよめる狂歌がある。この帳面の表もとれてゐる。

[やぶちゃん注:「天雪の光まぼしも日本の聖母の御寺今日見つるかも」「日本の聖母の御寺」とは、日本最古の現存するキリスト教建築物である長崎県長崎市のカトリック教会大浦天主堂のこと。正式名は日本二十六聖殉教者聖堂。芥川龍之介は大正八(一九一九)年五月四日から十八日まで、菊池寛とともに長崎・大坂・京都の旅に出ており、大浦天主堂は五月六日に訪ねている。この一首は芥川龍之介の大正六(一九一七)年から大正八年に書かれたと推測される手帳「我鬼句抄」の俳句群の中に挿入された六首の内の一首として現われ、他の歌群にも類型歌が他にもあることから、芥川龍之介の改作するに足る自信対象詠の一つであったことが窺われる。「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注で「聖母」で検索されたい。]

  君が家の軒の糸瓜は今日の雨に臍腐れしや或はいまだ

  笹の根の土乾き居る秋日かな

 歌と句を並べ、秋日かなの筆のつづきか、芥川は一輪の菊の上にとまつた蜻蛉を畫いてゐる。蜻蛉はしつぽをあげて土の字を指してゐる。表紙は糸瓜の宿の衷平(碧童)の手でゆうしんじようとなつてゐる。

[やぶちゃん注:「君が家の軒の糸瓜は今日の雨に臍腐れしや或はいまだ」以上は大正九(一九二〇)年から大正十一(一九二二)年に書かれたと思しい芥川龍之介の手帳「蕩々帖」(署名は「我鬼」)の中に記された短歌の一首としてあり、そこでは

 

 君が家の軒の糸瓜は今日の雨に臍腐れしやあるはいまだ

 

と表記されてある。「臍腐れしや」は「鯨のお詣り」では「臍腐(へそくれさ)れしや」とルビを振るのであるが、私は「ほぞくたれしや」と読みたくなる人種である。

「笹の根の土乾き居る秋日かな」も同じ「蕩々帖」の前掲の一首の前の前に、完全に同じ表記で出る。なお、私はこの一句を芥川龍之介の名句の一つと考え、はなはだ偏愛するものである。

「秋日かなの筆のつづきか、芥川は一輪の菊の上にとまつた蜻蛉を畫いてゐる。蜻蛉はしつぽをあげて土の字を指してゐる」小穴隆一編の「芥川龍之介遺墨」(中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の昭和五三(一九七八)年再版本)に載る、

 

Akutonbokiku

 

の図である。]

  荒あらし霞の中の山の襞

 この一句のほかに

  うす黃なる落葉ふみつつやがて來し河のべ原の白き花かも  南部修太郎

  いかばかり君が歎きを知るやかの大洋の夕べ潮咽ぶ時    南部修太郎

  しらじらと蜜柑花さく山畠輕便鐡道の步みのろしも     菊池 寛

と芥川が書いてゐる。この游心帳は綴ぢも全き物、ひかた吹く花合歡(ねむ)の下もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ、あらぞめの合歡(がうか)あらじか我鬼はわぶはららにうきてざればむ合歡、雨中湯ケ原ニ來ル、道バタ赤クツイタ柿ニ步イタ等の僕のものあり、次の游心帖大正十年秋湯河原ニテに連絡する物である。

  草靑む土手の枯草日影       我鬼

  曼珠沙華むれ立ち土濕りの吹く   我鬼

  家鴨眞白に倚る石垣の乾き     我鬼

 一層瘦せて支那から歸つて中西屋にゐた芥川に招ばれて碧童と僕は、首相加藤友三郎がゐたといふ部屋をあてがはれてゐた。友を訪へば、「外面の暗い秋霖の長髮をなでてゐた」といふのは碧童のその時の句である。

  山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉  我鬼

  たかむら夕べの澄み峽路透る    我鬼

 游心帳に書いてはないが、この二句も、時雨に鎖されてゐた三日間の僕らの動靜を多少は傳へてゐる隨筆(十年、十一月、中央美術)に收錄してゐたものである。「將軍」は中西屋の龜さんの話でできたと芥川は言つてゐた。

 碧童の歌には、峯見ればさぎりたちこめ友の居る温泉處(ゆどころ)に來しいづこ友の屋、といふのがあつた。

[やぶちゃん注:「荒あらし霞の中の山の襞」大正十一年三月の『中央公論』の「我鬼抄」、大正十二年六月発行の『ホトトギス』の「その後製造した句」、大正十四年九月発行の先の『鄰の笛』にも再録しており、「あららし霞の中の山の襞」の表記で載る大正一〇(一九二一)年九月二十三日久米正雄宛(旧全集書簡番号九四三)が最も古い部類であるから(これ以降の書簡にもこの句を違った人々に盛んに示している)、この直前辺りの吟詠であったと考えてよかろう。小島政二郎他、芥川龍之介周辺の人物の回顧録に於いても彼が自慢げにこの句を周りの人間に示し見せたことが載り、恐らく、芥川龍之介が最も自信を持っていた句が、これである。

「しらじらと蜜柑花さく山畠輕便鐡道の步みのろしも」「菊池 寛」「やぶちゃん版芥川龍之介句集 五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の「藤の花軒はの苔の老いにけり」の句の解説で、私は「藤の花」の句に注して、『昭和五十三(一九七八)年九月一日発行の雑誌「墨 十四 特集 芥川龍之介」に所収する短冊より。「軒は」の清音表記で一応、採っておく。解説では、『大正十年の晩秋、龍之介は湯河原に湯治に行く前、小穴氏の許に立ち寄って、「しらじらと蜜甘花咲く山畠/輕便鉄道の步みのろしも/菊池寛」と伊豆で詠んだ菊池寛の歌を笑いながら書いて紹介している。おそらく、この句もその時に出来たものだと思われる』(漢字表記はママ。記号の一部を変更した)と記す。短冊のサイズは三六〇×六〇』と書いた。「輕便鐡道」現在の東海道本線が開業する以前に小田原と熱海の間を結んでいた軽便鉄道線「熱海鉄道」のこと。但し、この時期のそれはなかなか微妙で、ウィキの「熱海鉄道」によれば、大正九(一九二〇)年七月一日に熱海線国府津―小田原間開通に伴い、当時、同路線を買収していた大日本軌道は、小田原―熱海間鉄道線を国に売却、同時に新設された熱海軌道組合は国より同区間鉄道線を借入している(後、大正十二年九月一日の関東大震災によって全線不通となり、そのまま翌年三月には全線が廃止された。しかし同年中に熱海線は予定通り、熱海駅までの開業を果たし、昭和九(一九三四)年に丹那トンネルが開通して熱海線は東海道本線へ改められた)。言わずもがな、芥川龍之介の名作とされる「トロツコ」(但し、これは芥川龍之介が指導していた湯河原出身の作家志望の力石平三が幼年期に人車軌道であった熱海鉄道の前身「豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)」から、この軽便鉄道への切替工事を見た回想形式の小説を芥川が勝手に改作してしまったものである。リンク先は私の古い電子テクスト)の舞台である。

「ひかた吹く花合歡(ねむ)の下もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ」底本では恰も「花合歡」の三字に「ねむ」と振るようにルビされてあるが、それでは音数律から見てもおかしく、先行する「鯨のお詣り」を見ると、そこでは、

 

 ひかた吹(ふ)く花合歡木(はながうか)の下(した)もろこしのみやこのてぶりあが我鬼(がき)ぞ立つ

 

とあって、表記が違うだけでなく、これまた、何だか、読みがおかしい。思うに私は、本「二つの繪」のこの歌は、

 

 ひかた吹く花合歡(はなねむ)の下(した)もろこしのみやこのてぶりあが我鬼は立つ

 

小穴隆一は自作を改作したのではないかと疑っている。なお、「ひかた吹く」は「日方吹く」で、太陽のある方角から吹く風の意である。

「あらぞめの合歡(がうか)あらじか我鬼はわぶはららにうきてざればむ合歡」先の「一人の文學少女」に既出既注

「雨中湯ケ原ニ來ル、道バタ赤クツイタ柿ニ步イタ」これは私の直感に過ぎぬのだが、「雨中湯ケ原ニ來ル」は前書であり(「鯨のお詣り」では「雨中(ウチウ)湯(ユ)ケ原(ハラ)ニ來(キタ)ル」とルビする)、「道バタ赤クツイタ柿ニ步イタ」が新傾向或いは自由律に近い「俳句」であると思う。

「大正十年秋湯河原ニテ」既にシチュエーションとして出た、大正一〇(一九二一)年十月一日の芥川龍之介の湯河原の中西屋旅館での静養(最初から秀しげ子との三角関係の確執のある南部修太郎を同伴)を指す。やはり述べたが、小穴隆一と小澤碧童は四日に来て、暫く一緒に滞在した(以下の小穴の証言が正しければ「三日間」である)。

「草靑む土手の枯草日影」と次の「曼珠沙華むれ立ち土濕りの吹く」の句は、小穴隆一著「芥川龍之介遺墨」一一七ページ下段の参考写真に出るものである。これは参考資料として写真版が掲載されてある、まさにこの「游心帖」の中の一頁で、前後に小澤の異様に癖のある書体の短歌(最後に掲げられるもの)と俳句に混じって「湯河原所見」(小澤の筆)の見出しで出る。二句ともに署名は「我鬼」で、前者は「我鬼句抄」(『中央公論』大正十一年三月)に「草萌ゆる土手の枯草日かげかな」の類型句があるが、後者には類型句もない。しかしこれ、間違いなく知られていない部類の芥川龍之介の句である。]

「家鴨眞白に倚る石垣の乾き」大正一〇(一九二一)年十月八日付瀧井折柴(孝作)宛(旧全集書簡番号九五四。「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」参照)に「家鴨ま白に倚る石垣の乾き」の表記で現れるもの。]

「首相加藤友三郎」本書冒頭の龍之介先生」で既出既注。実はこの後の大正一二(一二二三)年四月上旬には湯河原中西屋で最晩年の加藤(当時首相現職)と同宿している(加藤は同年八月二十四日に死去)。

「外面の暗い秋霖の長髮をなでてゐた」「とのもの暗いしふりんのちやうはつをなでてゐた」と私は読む。新傾向俳句である。

「山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉」「たかむら夕べの澄み峽路透る」孰れも芥川龍之介の新傾向俳句。前者「下りゐ」は「をりゐ」で、後者の「たかむら」は「篁」で「竹叢(たけむら)」の意と採れ、「峽路」は「かひぢ」で山間(やまあい)の細道のこと、「透る」は「すける」と訓じていよう。大正十年十月八日附瀧井折柴(孝作)宛の南部修太郎との寄書書簡(旧全集書簡番号九五四)に、

 

山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉

 

竹むら夕べの澄み峽路透る

 

家鴨ま白に倚る石垣の乾き

 

と記し、句の前に「この頃新傾向の俳人となり句を作つた」とあり、句の後ろに「どうだ 中々うまいだろう」とあり、改行して「我鬼先生の新傾向に中毒しさうなり、助け給へ 折柴兄。修太郎生。」と修太郎の言葉が記されてある。「山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉」の方は他の同時期の書簡で、

 

山に雲下(オ)りゐ、赤らみ垂るる柿の葉

 

竹(タケ)むら夕べの澄み、峽路(カヒヂ)透る

 

(旧全集書簡番号九五五・消印十月九日・佐佐木茂索宛)などとする。この頃の新傾向俳句では、句読点やルビの意識的使用が一時期、異様に流行った。但し、本書の「たかむら」は特異点の表記である。

「時雨に鎖されてゐた三日間の僕らの動靜を多少は傳へてゐる隨筆(十年、十一月、中央美術)」不詳。宮坂覺年譜の大正十年の著作欄には十一月一日『湯河原〔→湯河原五句〕中央美術』とあるものの、これはこの小穴隆一の文章をもとにしたものであり、そのような題名の芥川龍之介の随筆を私は知らないし、「湯河原五句」(恐らくは新全集編者が勝手に付けた標題か)というのも私は知らない。識者の御教授を乞う。

『「將軍」は中西屋の龜さんの話でできたと芥川は言つてゐた』大正一一(一九二二)年一月発行の『改造』初出の問題作。芥川龍之介の作品の中で唯一、多量の十四箇所に及ぶ重要な箇所が伏字とされ、未だに復元確定出来ていない(原原稿が紛失しているため)、特異点の作品である。現在、「將軍」の起筆は湯河原から帰ったちょうど一ヶ月後の、大正十年十一月二十五日と推定されている(宮坂年譜)。

「峯見ればさぎりたちこめ友の居る温泉處(ゆどころ)に來しいづこ友の屋」先に掲げた小穴隆一著「芥川龍之介遺墨」一一七ページ下段の参考写真に出るもの。この一首、悪くない。]

綿引香織氏論文「高志の国文学館所蔵 芥川龍之介宛片山廣子書簡軸 翻刻と注釈」入手

つい先ほど、高校時代の親友の手を借りて、遂に今まで公にされなかった片山廣子の芥川龍之介書簡十四通及び歌稿(これらを全三巻の軸装としたもの)についての、綿引香織氏の論文「高志の国文学館所蔵 芥川龍之介宛片山廣子書簡軸 翻刻と注釈」を所載した「高志の国文学館 紀要 第1号」を入手した。

震える手でまずは縦覧したが、全書簡の翻刻と、その詳細な注釈には激しく感銘した。

私は以前、

「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」(初版公開2010年10月18日)

の外に、まさにこの幻の片山廣子書簡について、凡そ6年前、

「未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版」

を公開している(初版公開2010年12月19日)が、そこで私が恣意的に荒っぽく推理した――公開されず、旧所蔵者であった吉田精一・辺見じゅん両氏によって死蔵され続けたために、推理するしかなかった――それらが、遂にここにその全容を見せたのである。

この推定復元をした頃の私は、公開されたら、私の推理部分を除去して、事実原文に差し換えるつもりであったが、この綿引香織氏の労作を前にしては、とても安易にそのようにする気は、今は全く失せた。

芥川龍之介或いは片山廣子に関心のあられる方は、この「高志の国文学館 紀要 第1号」を購入せずんばならず!
とだけ言っておく。

但し、翻刻を精読させて戴いた上で、私の「未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版」注の推理の決定的誤りや不完全な部分は――片山廣子自身のために――訂正或いは削除せねばならぬことは言うまでもない。それは、じっくりとやろう。まずは御報告まで――

2017/01/25

柴田宵曲 妖異博物館 「大鳥」

 

 大鳥 

 

 扶搖に搏つて上るもの九萬里といふ鵬は莊子の寓言であるが、支那人は或程度まで鵬の存在を信じもしくは信ぜんとした形跡がある。「子不語」の記すところは康熙六十年といふのだから、さう古い話ではない。七月三日の午後、忽然と天が暗くなり、宛も夜の如くであつたが、數刻ならずして天が明るくなり、基中片雲なしといふ上天氣に變つた。或人の話に、これは大鵬が過ぎたのだといふ。莊子のいはゆる「翼垂天の雲のごとし」といふもの、決して虛語でないとある。もう一つの記載は更に現實的で、瓊州海邊の人家で、黑雲忽ち天を蔽うて至ると共に、非常な腥穢の氣を感ずる。老人の說によれば、これは鵬が通過するのだから、糞の人を傷つけることを慮り、急に避難するがよろしい、といふことであつた。一村悉く逃れ、天地晦冥、盆を傾けるやうな雨が降る。翌日早朝行つて見ると、民家屋舍いづれも鵬糞のために壓倒されて居り、糞に魚蝦の腥があつたなどと書いてある。羽毛が一本落ちてゐたのが、十數間の屋を覆ふに足り、毛孔の中を騎馬で走ることが出來るといふ。鵬の大を描くには、正に斯の如くでなければなるまい。うつかりその形を捉へようとすれば失敗に了る。一天黑雲蔽ひ、夜の如くなることは、現在でも時々あるから、これを以て鵬通過の時と見ればよからう。

[やぶちゃん注:「扶搖に搏つて上るもの九萬里といふ鵬」「莊子」の冒頭「逍遙遊」に出現する、文字通りブッ飛びの巨鳥「鵬」の描写である「搏扶搖而上九萬里」(扶搖(ふえう)に搏(はねう)ちて上(のぼ)ること、九萬里)に基づく。「扶搖」は一般には旋風(つむじかぜ)を指す。「鵬」は翼長三千里(古代中国の一里は約四百五メートルであるから千二百十五キロメートル)、一度、羽ばたくだけで九万里(三万六千四百五十キロメートル)を飛ぶとするトンデモ鳥である。

「腥穢」「せいわい」(「穢」を「ゑ(え)」と読むのは呉音で、その場合なら「腥」もそれで読まねばならぬので「しやうゑ(しょうえ)」となるが、私にはこの発音はあまりピンと来ない)で腥(なまぐさ)くて穢(けが)れた気。この場合、五行の気だけでなく、実際の気配の一つとしての臭気をも指していることが、後の「魚蝦の腥」(ぎよかのせい:魚や蝦(えび)特有の生臭さ)からも判る。これは旋風や竜巻が淡・海水とともに水産生物を巻き上げたものを陸に降らす現象としてとして、気象学的には納得出来る描写である。

「子不語」(しふご)は清の袁枚(えんばい)の著になる文語短編小説集。正篇二十四巻・続篇十巻。正編は一七八八年頃の、続篇は一七九二年頃の成立。著者が若い頃より書き溜めてきた奇異談を纏めたもの。書名は「論語」の「述而篇」中の「子不語怪力亂神」(子は怪・力・亂・神を語らず:「怪」は尋常でない奇怪なこと、「力」は異常に力の強い者の武辺話、「亂」は道理に背いた反社会的行動、「神」は人間離れした妖しい神妙・不可思議な対象を言う)に基づくもので、孔子が君子として避けて語らなかった怪異談をわざと集めたという皮肉であると同時に、あの聖君子孔子が敢えてかくも言わざるを得なかったほどに孔子でさえ内心「怪力亂神」が好きだった、古来より中国人が、いやさ、人間が如何に怪奇談好きであるかを暗に示す書名とも言えるように私は感じている。本条前半は「續子不語」の「第六卷」の「鵬過」、後半は同「續子不語」の「第四卷」の「鵬糞」ある。中文サイトのこちらのものを加工した。

   *

  鵬過

康熙六十年、余才七歲、初上學堂。七月三日、才吃午飯、忽然天黑如夜、未數刻而天漸明、紅日照耀、空中無片雲。或云、「此大鵬鳥飛過也。」。莊周所云「翼若垂天之雲」、竟非虛語。

   *

  鵬糞

康熙壬子春、瓊州近海人家忽見黑雲蔽天而至、腥穢異常、有老人云、「此鵬鳥過也、慮其下糞傷人、須急避之。」。一村盡逃。俄而天黑如夜、大雨傾盆。次早往視、則民間屋舍盡爲鵬糞壓倒。從内掘出糞、皆作魚蝦腥。遺毛一根、可覆民間十數間屋、毛孔中可騎馬穿走、毛色墨、如海燕狀。

   *

「十數間」二十九メートル前後。柴田も感心しているように、「毛孔の中(うち)、騎馬にして穿走(せんそう)すべし」は言い得て美事!]

 

「アラビアン・ナイト」のシンドバツトは、第二の航海で或嶋に置き去りになつた時、嶋の一角に白い圓頂閣の如きものを發見した。これがルクといふ巨鳥の卵なので、親のルクは兩翼でこれを溫める。そのルクが飛んで來る時、びろげた翼は太陽を蔽ひ、あたりが暗くなつたと書いてある。卵が圓頂閣のやうに見えたり、上空に舞ふ姿を仰ぎ得たりする點で、鵬とは比較にならぬけれど、とにかく大きなものに相違ない。こんなものを日本に求めるのは無理である。

[やぶちゃん注:「アラビアン・ナイト」八世紀頃に中世ペルシャ語からアラビア語に訳されたインド説話の影響の強い説話集(本邦では「千一夜物語」の訳題でも知られる)の中の「船乗りシンドバッドの物語」の内の「シンドバッド(英語表記:Sindibaad)第二の航海」に出る、巨大な白い鳥「ロック鳥」(roc)のこと。三頭のゾウを一度に攫み獲って巣の雛に食べさせるほど、デカい。

 

「寓意草」には大きな鳥の事が二つ出て來る。一つは福嶋邊の話で、田圃に小屋を作つて、中に入つて雁を捕らうとしたところ、夜明け近くなつても雁は來ず、田の中に大きな鳥がゐるのを鐡砲で擊つた。動かぬので擊ち損じたかと思つたら、そのうちに倒れた。馬ぐらゐの大きさで、翼の丈は二丈餘りあつた。何といふ鳥か誰も知らなかつたが、多分海外から飛んで來たものだらうといふことであつた。

 

[やぶちゃん注:「寓意草」幕臣で後に浪人になって諸国を巡ったとされる岡村良通(元禄一二(一六九九)年~明和四(一七六七)年)の随筆。私は所持しない。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認したが、三度ほど縦覧したが、見つからぬ。平仮名の多い文章で読むのに疲れた。お探しあれかし。見つけたら御一報戴けると嬉しい。お名前とともにここにリンクを張らさせて戴こうと思う。]

 

 もう一つの話も奧州で、雨の降りしきる暗い夜の子二ツ(夜中の十二時過)頃、大きな鳥の北から飛んで來る羽音がしたと思ふと、或家の屋根にとまつた。途端に柱も垂木も鳴り搖いで、まるで地震のやうであつた。家内の者が顏を見合せてゐるうちに、また大きな羽音がして、南の方へ飛んで行つたが、その鳥が飛び立たうとして蹈張つた時は、家も倒れさうに動搖した。次の日見れば、茅屋根の南北を摑み通した鳥の跡があり、繩で計つたら直徑二丈餘もあつた。爪の跡は大きな杵ぐらゐある。これもどんな鳥かわからない。

[やぶちゃん注:以上は見つけた。「寓意草」の下のここ。国立国会図書館デジタルコレクションの画像で、リンク先の右ページ上段中程の「みちのくのほばしのさとに、わたなべ與ざうといふひとあり、……」以下の条である。

「二丈」六メートル一〇センチ弱。]

 

 「黑甜瑣語(こくてんさご)」は秋田人の著書であるが、その中に薩摩の話が書いてある。府城の外に鐘樓があり、番人が交代に守ることになつてゐたところ、或年の冬、その樓が動搖して倒れさうになり、撞木が鐘に觸れて大きな音を立てた。當番の者が驚いて出て見たけれど、暗夜の事で何も見えぬ。暫くすると、また風のやうな音がして、何者か南に去つたが、それは明かに鳥の羽音であつた。蓋し大鳥が來て鐘樓に翼を休めたものであらうといふのであるが、これは「寓意草」の彼の話に似てゐる。暗夜で大きさの見當が付かぬのは遺憾である。

[やぶちゃん注:「黑甜瑣語」は人見蕉雨斎(ひとみしょううさい 宝暦一一(一七六一)年~文化元(一八〇四)年)江戸後期の国学者で出羽久保田藩藩士。古い記録の散逸を憂え、その収集に勤め、同書はその一つである。ここに出る前後の話は「黑甜瑣語」の「第四編」にある「大鳥」の条の事例。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像から視認出来る。]

 

 同じく薩摩の話で、琉球から來た船が港に泊つた時、大きな鳥の卵が舳に殘つてゐた。卵の直徑四尺ばかり、親鳥の大きさはわからぬが、この卵の殼は藩士某の家に藏された。

 以上の鳥は日本の話として、いづれも大きくないことはない。倂し最も奇想天外といふべきは、「黑甜瑣語」が終りに擧げた一例であらう。ある雪の明け方、新城の農民が近くの山へ炭燒きに行くと、向うの山にいつも見たことのない大木が、二本竝んで立つてゐる。上に物があつて、大きな翼を持つて上るのを見れば、前に大木と思つたのは鳥の兩脚であつたといふのである。これなどは嶋國人に不似合なくらゐ大きな話の方で、或はルクの好敵手になれるかも知れぬ。巨鳥は多く夜來つて全容を示さず、たまたま瞥見した話も未明である。靑天白日世界のものでないと見える。

[やぶちゃん注:「新城」は「しんじょう」(現代仮名遣)リンク先の原典を見ると「我藩」とあるから、現在の秋田市内にあった旧下新城村・上新城村の広域地名と思われる。]

2017/01/24

柴田宵曲 妖異博物館 「鼠妖」

 

 鼠妖

 延享何年であつたか、金澤堅町橫小路の脇田某の長屋で鼠が非常に荒れて、衣類道具は勿論の事、金物類まで傷つける。長持や簞笥などへ、幾重かにして入れたものも食ひ破られた。鼠を防ぐ手段はいろいろ講ぜられたが、容易にやむ樣子がない。たゞ不思議なことは、石坂町の甚助といふ者の娘で、十二歳になるのが奉公に來て居つたが、この娘の衣類、手道具、紙や鬢附油に至るまで、少しも損害がない。多分この娘の仕業だらうといふことになつて、傍輩から主人に訴へた。主人も腑に落ちぬものの、輕々しく決するわけに往かず、先づ鼠狩りに力を入れて見たが、鼠落しにも落ちず、猫にも捕られず、毎晩鼠の荒れるに任す狀態なので、結局この娘を詮議するより外に途がなくなつた。直接問ひ糺して見るのに、何分返答が不明瞭である。暇を出して石坂町へ返すと、その晩から鼠は全く出ず、かたりといふ音も聞えない。あまり不思議で堪らぬから、もう一度呼び戾して、ひそかに聞いて見た。娘の答へはかうであつた。

[やぶちゃん注:「延享」一七四四年から一七四七年。

「金澤堅町」現在の石川県金沢市竪町(たてまち)のことであろう。(グーグル・マップ・データ)。ここは「堅町」で、以下に引く原典では「立町」の表記であるが、ウィキの「竪町金沢市によれば、『「竪」の字が一般的でなく、また片町(かたまち)と』北西で『隣接していることもあってか、しばしば「堅町」と表記されることがある』『が、誤りである』とある。

「石坂町」現在の石川県金沢市野町附近と推測される。(グーグル・マップ・データ)。]

「實は私が夜眠りますと、鼠が澤山來て胸へ上るまでは覺えて居りますが、それから先は夢中でございます。箱をあけたり、長持を引出したりしたことも、かすかに覺えがございますが、傍輩衆が恐ろしうございますので、此間は何も知らぬと申しました、さうやつて夜中駈け𢌞りますため、晝間はくたびれてしまつて、いつも氣持が惡うございました、何卒この罪をおゆるし下さいまし」

 涙を流してかういふのを聞いて、それ以上責める氣にならず、多分何かの病氣であらう、と慰めて返した。その後娘は久しく煩つたといふことであつたが、果してどうなつたものかわからない(三州奇談)。

[やぶちゃん注:以上は「三州奇談」の「卷之二」の「少女變鼠」。二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化した。

   *

      少女變鼠

 金澤立町橫小路の内、脇田何某の長屋のうちに、鼠妖と云はやしける事あり。延享いづれの年にや、十月比の事成し。此長屋のうち、鼠あれて衣類・道具・銅鐡までも疵付、喰ちらす。長持・簞司などへ幾重か入置とも、不思議にくひやぶりし。色々防ぎけれども、とかく止まず。

 其中に石坂町甚助と云者の娘、十二歳に成けるが、奉公に来り居しに、是が衣類・手道具・紙・鬢付油等までひとつもあたらず。樣々に試むるに、とかく心得がたき事多し。大方此娘が仕業ならんと、傍輩云合せ、主人へ訴へけれども、何とも心得ぬ事とて、先づ只鼠を狩り出しけれども、おとしにも落ず、猫にもおぢず、每夜每夜鼠荒ければ、せんかたなくて傍輩の奉公人の訴にまかせ、おかしき事ながら、「此娘を詮義せよ」と呼出し、云聞せけるに、返答分明ならず。「さらば」とて、隙をとらせ、石坂町へ返しけるに、其夜より鼠ふつと出ず、物音もなし。あまり不思議故に又娘を呼返し、段々尋られけるに、「今は何をか隱し申さん。私眠ると思へば、鼠多く來りて胸へ上るとまでは覺へて、夫より夢中のごとし。箱の蓋を明け、長持を引出し申せし事も、成ほど私おぼへあれども、傍輩中へ恐ろ敷、隠し申也。夜と共にかけ𢌞り、晝は草臥はてゝ、氣色も惡く侍りぬ。何角の罪ゆるし給へ」と淚を流しぬ。あまりの不思議さに、病にて有べしとなぐさめて戾せしが、其後、此娘久しく煩ひしと聞しが、末は知らず。

   *

文中の「何角の」は「なにかどの」とルビするが、これは「なにかとの」(何彼との)で「いろいろな」「あれこれの」の意の当て字であろう。これは明らかに、未成年の少女が意識的・無意識的に起こす疑似的超常現象であって、恐らくはこの娘の奉公への強いストレスが原因となった行為であったと私は推理する。]

 この娘と鼠との因緣は、これだけでは判然せぬ。「瀟湘錄」に見える左の話は明かに鼠の化身であつた。嵩山の下に代々住んでゐる朱仁といふ百姓があつた。一人の子供を可愛がつて育ててゐたが、五歳の時に行方不明になり、十除年たつても消息がわからぬ。或時托鉢の僧が朱仁のところに現れ、その供に連れた小僧の容貌が、行方不明になつた我子にそつくりなので、僧を内に招じ齋を供へた後、この事を話すと、この小僧の素姓は師匠もよく知つてゐない。どこからか泣いて飛び込んで來た幼子を養育し、或年齡に達してから髮を剃つたのだが、聰明絶倫、只者とは思はれぬといふことであつた。朱仁の妻は我子なら背中に黑子がある筈と云ひ、驗するにその通りである。一家これを見て號哭し、僧は父母の手に留めて立去つた。然るにこの子は毎夜姿をくらまし、曉になつて歸つて來る。或は盜賊でも働くのではないかと疑ひ、びそかにその樣子を窺ふと、子は毎夜大きな鼠と化して走り出で、曉に歸つて來るものとわかつた。父母の交々尋ねるのに對し、多くを語らなかつたが、私はあなたの子ではありません、嵩山の下に住む鼠王の輩下の小鼠です、已に私の形を見られた以上、こゝに居るわけに參りません、と告げ、鼠に化してどこへか行つてしまつた。

「鼠」(岡本綺堂)はこの二つの話より脱化したものかと思はれる。行方不明になつた娘に再會するといふ筋は「瀟湘錄」に似、鼠によつて傍輩に疑はれる一條は「三州奇談」に似てゐる。尤もこの方は家中鼠が荒れ𢌞るといふほど大袈裟なものではない。旅中一匹の鼠が袂に入つて、それがどこまでもついて來る。江戸に落著いてからも、絶えずその娘を離れずにゐる、といふのが家人の疑惑の的になるのである。この小鼠には「三州奇談」にも「瀟湘錄」にもない一種の妖氣が含まれてゐる。

[やぶちゃん注:「瀟湘錄」唐代の柳祥(明代の叢書類では総て「李隠」とする)撰の志怪小説集。以上は、その中の「朱仁」。中文ウィキソース瀟湘錄から加工して引く。

   *

朱仁者、世居嵩山下、耕耘爲業。後仁忽失一幼子、年方五歳、求尋十餘年、終不知存亡。後一日、有僧經遊、造其門、攜一弟子、其形容似仁所失之幼子也。仁遂延僧於内、設供養、良久問僧曰、「師此弟子、觀其儀貌、稍是餘家十年前所失一幼子也。」。僧驚起問仁曰、「僧住嵩山薜蘿内三十年矣、十年前、偶此弟子悲號來投我、我問其故、此弟子方孩幼、迷其蹤由、不甚明、僧因養育之、及與落發。今聰悟無敵、僧常疑是一聖人也、君子乎、試自熟驗察之。」。仁乃與家屬共詢問察視、其母言、「我子背上有一黶記。」。逡巡驗得、實是親子、父母家屬、一齊號哭、其僧便留與父母而去、父母安存養育、倍於常子。此子每至夜、即失所在、曉卻至家、如此二三年。父母以爲作盜、伺而窺之、見子每至夜、化爲一大鼠走出、及曉却來。父母問之、此子不語、多時對曰、「我非君子也、我是嵩山下鼠王下小鼠。既見我形、我不復至矣。」。其父母疑惑間、其夜化鼠走去。

   *

『「鼠」(岡本綺堂)』昭和七(一九三二)年十一月作。『サンデー毎日』初出。青空文庫のこちらで読める。] 

小穴隆一「二つの繪」(44) 「河郎之舍」(3) 「河童の宿」 / 芥川龍之介の新発見句!!!

 

     河童の宿

 

Umanoniburasagarukappa

 

畫は久米正雄、賛と三汀の署名は芥川、三汀の二字久米の書體に似せてゐる。

 

[やぶちゃん注:画中の右手には、

 

提燈のやうな鬼灯岸に生へ

 

とあって(私は、「燈」と「灯」の書き方に明らかな違いを感じる。しかも一つのごく短い賛句の中で同一の字を用いるのは甚だお洒落でないからでもある)下方に

 

   三汀

 

と記されてあり、底本では挿絵の左手下方に二行で以上のキャプションが活字で打たれてあるが、除去した。

 今回は小穴隆一編の「芥川龍之介遺墨」(中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の昭和五三(一九七八)年再版本)の画像と比較視認し、明らかに本書に画像挿入される際に生じた汚れと判断出来る部分を清拭して示した

 小穴隆一編の「芥川龍之介遺墨」ではこれは『圖版36』として、これを「馬の尾にぶらさがる河童」という題で掲げられており、『久米正雄畫 芥川龍之介贊』と添書きし、

   *

 酒がこぼれて盃を手にした久米が畫をのぞきこんで、ほう、といひ、また一杯ほして、どれ、どれ、と芥川の手から筆と游心帖をとりあげて、馬の尾にぶらさがつた河童を畫いてみせた。すると芥川が、ちようつ、ちよつ、と筆をとりもどし、〔提燈のやうない鬼灯岸に生へ〕、と贊をしたうへに、久米の筆蹟に似せて三汀と落款をいれた。三汀といふのは久米の號である。

   *

と解説する(末尾に『小穴隆一藏』とある。下線はやぶちゃん)。なお、絵を描いた久米正雄も既にパブリック・ドメインである。

 即ち、この戯画は、

 

河童が尾にぶら下がった馬とそれを繫いだ木という〈絵の部分〉は久米正雄の筆になるもの

 

であるが、右手に添えられた

 

「提燈のやうな鬼灯岸に生へ」と「三汀」は実は〈芥川龍之介が久米正雄の筆跡を真似て賛したもの〉

 

だというのである。ここの最後に注で記すが、この以下の解説とこのキャプションから、実は今回、驚くべき新発見の事実が判明することになるのである。

 なお、これと次の絵はともに現行では大正一一(一九二二)年の作と比定されている。因みに、これと次のそれにインスパイアされた芥川龍之介それらは所謂、河童の駒引きという伝承に基づく形象である。]

 

Hutatunoe_umanikeraretakappa

 

久米は芥川のいたづらをみると、芥川が河童が馬に蹴とばされたところを畫うのを待つてて、それと言ふなり芥川龍と書き、似てるだらうと言つてゐた。本郷の江知勝で三人が飯を食つた時のあそびである。

 

[やぶちゃん注:底本では、掲げた「芥川龍」(本文にある通り、薄っすらと「龍」に○印が打たれているのがよく見ると判る)という久米のサインの左部分に以上のキャプションが活字で組み込まれてあるが、除去した。

 「本郷の江知勝」現在も文京区湯島二丁目で営業する、明治四(一八七一)年創業のすき焼き屋の老舗。

 実は「芥川龍之介遺墨」の同画を見ると、小穴隆一はこの絵を本に入れるに際して、芥川龍之介の描いた絵の位置と、久米が真似した「芥川龍」の位置をキャプションを挿入するために、かなり操作していることが判ったので、以下に参考までに「芥川龍之介遺墨」版の写真図版を掲げておく。これが正しい本図である。

 

Umanikerareakappa

 

 さて、これは前の絵の芥川龍之介の「いたづら」(久米の筆跡を真似して賛をし、落款したこと)に発奮した久米が、今度は――芥川龍之介が描いた馬が河童を蹴飛ばす絵に添えて――芥川龍之介の筆跡を真似て「芥川龍」という落款をした――と小穴隆一は証言しているのである。即ち、こちらは――絵が芥川龍之介の描いたもの――「芥川龍」という落款が久米正雄の手になるもの――ということなのである。小穴はこれを「芥川龍之介遺墨」で『圖版37』として掲げ、それに「馬に蹴られた河童」という題を附し、やはり、

   *

 久米の畫に三汀と落款をいれてにやにやした芥川は、筆をすてずにこんどは馬に蹴とばされてる河童を畫いてた。この畫の芥川龍といふ落款は、久米が芥川の筆法にあはせて書きいれたものだが、龍を丸でかこつたところに久米のほろ醉をみせてゐるのではなからうか。わたしは芥川自身が畫に芥川龍といふ落款をつかつた場合をみてはゐないのだ。

 いつであつたか、芥川の書齋にサムホールといふ小型のスケッチ箱があつて、そのなかにニュートンのながい四インチチューブといふ明治の頃のものがはいつてゐたのがなつかしく、笑つてゐたら芥川は、それは久米と房州にゆくとき、むかふから夏目先生に畫をおくらうといふので、二人がいつしよに買つた物だといつてゐたことがあつた。

   *

と、この二枚の戯画が書かれた際の当時の詳しい経緯(いしさつ)を詳細に解説している(前と同じく末尾に『小穴隆一藏』とある)。「サムホール」は既注であるが、再掲しておくとthumbhole或いはthumb-holdで、小型のスケッチ箱とスケッチ用の板を指す。箱の底の穴に親指を入れて持つことから、この名がある。「ニュートン」ウィンザー・アンド・ニュートン(Winsor & Newton:略称:W&N)社。一八三二年に化学者のウィリアム・ウィンザー(William Winsor)と、芸術家のヘンリー・ニュートン(Henry Newtonによって設立された、絵画などに使用される絵具や筆等を販売するイギリスのロンドンに現存する画材会社のこと。「四インチ」一〇・一六センチメートル。]

 

 我鬼時代の芥川の畫といふものは、同じ妖怪を畫いてゐても、その妖怪にどことなく愛敬があつたものである。僕はいつか佐佐木茂索の家の芥川の河童の額をみて、河童も晩年には草書となるかといふ感をしみじみと抱いた。「捨兒」「鼠小僧次郎吉」等を書きあげてゐた頃の、着物の下に黑の毛糸のジャケツトを着込んでゐた芥川の漁樵問答に依つた水虎、芥川の河童も始めは二疋立ちの畫であつたのが、「山鴫」の頃には、斧、釣竿を捨てて、一疋立ちの河郎となつてをり、さらに「玄鶴山房」「河童」の頃に至ると、蒲の穗さへ捨ててゐる河童の姿に、僕をもつて言はしむれば、河童もまた晩年には草書となるかとの感がある。河童の畫もまた晩年には明らかに疲れてゐる。しかしながら、一ツ目の怪の畫のごとき河童にあらざる數枚の物は、晩年に至つて堂々たると言つてもよろしいかたちを具へてきてゐるので、甚だ面白い對照と考へる。

[やぶちゃん注:「佐佐木茂索の家の芥川の河童の額」小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」の解説によると、佐佐木茂索は推定で三枚の河童図を所持していた。二枚は同書で見られるが、これがその二枚の孰れかであるのか、はたまた今一枚のものであるかは私には比定出来ない。

「河童も晩年には草書となるかといふ感」この小穴隆一の感懐は、芥川龍之介の数々の河童図を編年的に眺めてみると非常に腑に落ちる。初期のそれはまさに正しく諧謔的な戯画で、二匹の河童の河童では微笑ましい交感風景として描かれたものさえあるものが、次第に河童の滑稽な温もりを失い、孤高にして枯瘦、鬱然とした空ろな眼つきの真正に病的な鬼趣を帯びてゆく。それはある意味、私には一見、判読し難い妖しい草書体のように見えるから、である。

「捨兒」大正九(一九二〇)年七月発行の『新潮』初出。

「鼠小僧次郎吉」同じく大正九年一月発行の『中央公論』初出。

「漁樵問答」世俗を離れて暮らす漁師と木樵を描いた画題として中国の昔から知られるものであるが、ここで小穴隆一が言っている芥川龍之介が元にした原作品が誰のどれを指すかは知らぬが、大正九年九月二十二日附小穴隆一書簡(葉書)に描かれた、知られた龍之介の「水虎問荅図」(表記は芥川龍之介の表記で示した。以下の画像を参照のこと)のことを念頭に置いた謂いであることは間違いない。二人の河童が描かれ、右の河童が斧を、左の河童が釣竿を持っている、旧全集書簡番号七七四とし出るそれである。小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」より示す。

 

Suikomondouzu

 

画の左の署名は「三拙漁人」で、同書の小穴隆一の解説によれば『詩、書、畫、共に優秀ならずといふ卑下から使ったものであらう』とある。

「山鴫」大正一〇(一九一一)年一月発行の『中央公論』初出。

「玄鶴山房」昭和二(一九二七)年一月及び二月発行の『中央公論』初出。

「河童」同昭和二年三月発行の『改造』初出。

「一ツ目の怪の畫」小穴隆一編「芥川龍之介遺墨」より示す。

 

Hitotume

 

なお、これを含む芥川龍之介筆の妖怪画群は、小穴隆一の命名のままに現行、「化物帖」と呼ばれ、現在では(小穴は描かれた時期を比定していない)大正一三(一九二四)年頃の芥川龍之介の作品と推測比定されている。]

 僕はまだ河童をみてもをらず、河童といふものが地上に棲息するかどうかも知らないが、「君、つらつら考へてみるとたつた四人の客では、風呂の釜も毀れるのがあたりまへだよ、君、」とあとで芥川が言つてゐた布佐行、そもそも書く會をやらばやの僕ら、僕らはなぜ芥川の伊豆箱根説を退けて布佐行を擇んでゐたのか、いまにして思へば、僕らは芥川を河童の畫の名題の妙手、小川芋錢のゐる牛久沼のほとりへ無意識に誘つてゐたといふことになるが、僕ら芥川、碧童、遠藤たちの四人が、我孫子で降りて、布佐の辨天を振出しに、靑い物のない景色にもひるまず、川の流れに沿つてただ步きに步き、日暮れて行きつくところで泊つた旅籠屋、ああいふのが河童の宿かも知れない。大の男が四人もそろつて冬の利根川べりを何なすとなく、何話すとなく、終日步るきそのまた翌日も步いてゐたといふことは、全くもつて利根の河童に化かされてゐたのかも知れない。河童の宿の主は、釜が毀れてゐるからすまないが錢湯に行つてくれと湯札をだした。(湯にはいかなかつたが、女郎屋の入口を皆で見てすぐ戾つた。)旅籠賃があまりに安いので、それ相當に、四人の頭で壹圓の茶代をだすと、手拭のかはりに敷島四個をうやうやしく盆の上にのせてよこした。僕はその旅籠屋を河童の宿と思つてゐるが、宿の主のほうでは僕らを河童だと思つてゐたのかも知れない。なぜならば、女中は四人の床を昨夜は並べて敷いておいた、朝になるとそれが昔のロシヤ帝國の旗のやうに襷になつてゐた。僕らはほの暗い電燈の下を中心にして臥せりながら、顏をつき合せて卷紙に歌、句、畫などを書いてゐただけであつたのであるが、人の寢るその恰好にはそれ相應の恰好があらうといふもので、僕らのやうな眞似をしてゐるものこそ、宿の人には利根の河童にみえたかも知れない。

  今日布佐行繪卷となつて芥川家にあるものが、この時のものなのである。

[やぶちゃん注:以上は「布佐」とあるが、正しくは「布施(ふせ)」である(但し、寄せ書きの冒頭には「布佐入」と記している)。大正一〇(一九二一)年一月三十日徒と三十一日に一泊で布佐弁天、現在の千葉県柏市布施にある真言宗紅龍山東海寺(本尊は弁才天で、寛永寺弁天堂(不忍池弁天堂)・江島神社とともに関東三弁天の一つに数えられ、地名から「布施弁天」とも称される。ここ(グーグル・マップ・データ))方面に、小穴隆一・小澤碧童・遠藤古原草と四人と旅行した旅や、その泊まりの宿で皆で詩歌や絵を寄せ書きしたことを記したものである。この折りの旅の様子は恐らくこの小穴隆一のこの叙述のみでしか詳しい内容を知ることは出来ないと思われ、そういう意味でも非常に貴重な記録である。

「小川芋錢」(うせん 慶応四(一八六八)年~昭和一三(一九三八)年)は日本画家。本名は茂吉。ウィキの「小川芋銭」によれば、生家は『武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り』、『農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。横山大観に認められ、日本美術院同人となる』。『生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔(現在の牛久市城中町)で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の「芋銭」は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという』。『身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから「河童の芋銭」として知られている』。『芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している』とある。彼は私が愛する数少ない日本画家である。

「昔のロシヤ帝國の旗」これは「襷」とある以上、ロシア帝国旗ではなく、ロシア海軍旗(十七世紀末にピョートル大帝のデザインによる白地に青十字の聖アンドレイ旗が海軍の軍艦旗に定められた。日本海海戦等、小穴隆一たちはロシア帝国旗よりもこれらの海軍旗でロシア帝国をイメージしたに違いない)であろう。これこれである(前者がロシア海軍軍艦旗で、後者がロシア海軍国籍旗。孰れもウィキの「軍艦旗」のもの)。]

 

[やぶちゃん最終注:以上から、我々は、ある驚くべき事実を知ることになる。

 即ち、この知られた馬の尾に河童がぶら下がった久米正雄の絵の右に記された、

 

 提燈のやうな鬼灯岸に生へ

 

は、「三汀」と落款していても、久米三汀久雄の賛ではなく、芥川龍之介の賛だということである。しかも、この賛は、明らかに五・七・五の定型俳句の構造を持ち、「鬼灯」という初秋の季語も詠み込まれてある

 これに対して、以下のような反論をされる向きがあるかも知れぬ。

 

――これは芥川龍之介が久米正雄の句を写したものだろう

――そもそも小穴隆一だけがこう言っているのであって本当かどうか判らぬ。賛も自賛で落款(「三汀」の署名)も久米自身のものであり、従ってこの賛句も久米自身の俳句である

 

それは、私なら、鼻でせせら笑う。

 まず、この賛は絵の馬の尻尾にぶら下がった久米の河童の図の、河童の上肢と頭の部分、下肢の曲げた形態を「鬼灯のようじゃないか」と――よく言えば好意的に「諧謔した」――悪く言えば余り上手くないと「茶化し囃した」――ものであるという点にある。河童を画いたのに、それが鬼灯見たようだ、と自ら諧謔することは、まず、あり得ないと私は思う。自己韜晦や自己諧謔としても、このような自賛は私なら、しない。何故なら、それは画いた最低限の自分の思いや自負を自ら致命的毀損し、絵自体を無化することに他ならないからである。

 従って、久米が自分の既存或いは即興のこの句を自賛として記すことはないと言い得る。

 では、誰ならそうし得るか?

 それはまさに古くからの無二の悪友芥川龍之介ただ一人である。

 そうして、悪戯っ子である龍之介なら、皮肉な賛をした上に、恰もその賛を久米自身が成したように旧友に筆跡を真似て「三汀」と記し得る(正直、「三汀」の字を偽造するのはそう難しくないことと私は思う)

 また、小穴隆一がこんな複雑な事実(絵や賛や署名が別人がねつ造したということ)をわざわざ捏造し、殊更に証言する必要性が全くないということである。確かに小穴隆一は変奇な性格ではあるが、小穴はまさに真正の画家であり、その彼が戯画とは言え、他人の画いた絵に纏わるフェイクをさらに「フィク」して読者を煙に巻いて悦に入るようなタイプの最下劣な男ではないと考える。

 

 即ち、この、

 

 提燈のやうな鬼灯岸に生へ

 

は、

 

――芥川龍之介自作自筆の俳句である――

 

と断言し得る、と私は考えるのである。しかも、現在まで刊行されている芥川龍之介俳句集や句に関わる記載で、

 

――この句を芥川龍之介の句としているものは存在しない――

 

と思う。刊行された最新のものとしては加藤郁乎編「芥川竜之介俳句集」(二〇一〇年岩波文庫刊)があるが、これにも所収しない(なお、この句集は実際には加藤が芥川龍之介の句を渉猟したものではなく、岩波の編集者が掻き集めたもので、以前に私は『岩波文庫「芥川竜之介句集」に所載せる不当に捏造された句を告発すること』で指弾したが、俳句の造詣が深くない者によって俳句でないものまでが句として誤って挙げられてしまった(1085番)トンデモ句集とも言えるものである。なお、私は私の注釈附きの「定本 やぶちゃん版芥川龍之介全句集 全五巻」が現在、芥川龍之介句を最も多く渉猟しているものと内心、秘かに自負している。私の心朽窩旧館 心朽窩主人藪野唯至 やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」に配してあるので参照されたい)。

 久米正雄の自作句帖なるものが存在し、そこにこの句が確かに久米の句として記されており、しかもそれが大正一一(一九二二)年の絵が描かれた以前作と断定出来るというのであれば、私は以上の見解を総て否定し、以上でしめした注を改稿することに吝かではない。反論をお待ちしている。]

 

SMAPラスト・ステージ出演夢

極めて久しぶりに夢を見たら――トンデモ夢だった――

SMAPのラスト・ステージに出演することとなる夢である――

 
しかもそのためにSMAPと一緒に最後の新曲を一緒に創るのである――
 
しかも――言わんでもええのに、僕は、出来上がっていた歌詞の一部に難癖をつけ始め、それをまたSMAPのみんなと一緒に、ああだこうだ、と創り変えたりするのである……
 
……見知らぬ北の海辺の漁村(そこの少年少女はSMAPのことを知らなかった)にプロモーション・ビデオの撮影に行ったりした……
 
……と……そこまではすこぶる楽しかった……ところが……
 
――気がつくと、もう明日が本番のライヴなのだ
 
――だのに、僕はその歌詞も暗記していないのである!
 
――しかも、決まった振付も――無論、彼らはバッチリなのに――僕は全く教えられていないのだ!
 
――草彅剛が
「一番後ろに君はいるから、前の僕たちを見て真似してればそれで平気だよ。」
と慰めてくれるのであるが……

……これはもう絶望的に地獄なのであった…………

[やぶちゃん注:遺憾乍ら、僕には彼らへの思い入れは殆んど全くない。寧ろ、かなり以前から、彼らは実は仲が悪いのではないか、と生理的に実感してさえいたから、今回の騒動は実はすこぶる腑に落ちたのでもあった。しかし、ただ一枚だけ彼らのベスト・アルバム「クール」は発売(1995年)された時に買って持っている。「がんばりましょう」のメロディ・ラインの半音の上下行が一聴して気に入り、歌詞の「東京タワーで昔」の下りに強く惹かれたからである。なお、私が初めて東京タワーに昇ったのは、そのもっと後、2006年の高校生の社会見学の引率の折りであった。私は、今でもそれを張り貼けた東京タワーの土産物を内心、欲しいと思う人種である。なお、最後に草彅が語りかけてくるのであるが、これは僕が個人的にメンバーの中で彼にだけ、理由はよく判らぬが不思議に好意を持っているからであろう。]

2017/01/23

柴田宵曲 妖異博物館 「猿の刀・狸の刀」

 

 猿の刀・狸の刀

 佐竹侯の領國である羽州に山役所といふところがある。この役所を預つてゐる大山十郞といふ人が、先祖より持ち傳へた貞宗の刀を祕藏して居つたが、每年六月になれば、これを取り出して風を入れる。文政元年六月、例の如く座敷へ出して、自身もその傍を去らず番をしてゐたのに、どこからやつて來たか、三尺ばかりの白猿が、この刀を奪ひ去つた。十郞は驚いて、おつ取り刀で駈け出し、從者もそれについて飛び出したが、猿は山中に入つて行方がわからない。已むなく引返して人を語らひ、翌日大勢で山に分け入ると、奧深く廣い芝原の上に、大きな猿が二三十疋も屯(たむろ)して居つた。例の白猿は藤の蔓を帶にし、外の猿どもと何か談ずる體なので、十郞はじめ一同刀を拔き連れて斬り入つた。猿どもは悉く逃げ去る中に、白猿ばかりは貞宗の刀を拔き放ち、人々を相手に戰ふ。此方は五六人も手を負つたが、白猿は度々斬り付けられても平氣なもので、鐵砲の玉も通らぬ。人々あぐみ果ててゐるうちに、更に山深く逃げ込んでしまつた。その後獵師の話を聞いて見ると、あの猿は時々見かけますが、なかなか鐵砲も通りません、といふ話であつた。果してどうなつたものか、翌年かの地から來た者は、貞宗の刀は依然消息不明であると云つて居つた。

[やぶちゃん注:「佐竹侯の領國である羽州」佐竹氏が領した久保田藩=秋田藩(くぼたはん)。話柄内時制(文政元(一八一八)年六月。文化十五年は同年四月二十二日に仁孝天皇即位のため改元している)では第十代藩主佐竹義厚(よしひろ 文化九(一八一二)年~弘化三(一八四六)年)の治世。

「山役所」主に森林管理のために置かれた、山間部や木材伐採を監督するための藩の出張所。

「貞宗の刀」貞宗(元応元(一三一九)年?~貞和五(一三四九)年?)は鎌倉末期の相模国の刀工。かの名匠正宗の子或いは養子と伝えられる。現存する在銘刀はないものの、相州伝の代表的刀匠とされる。]

 

「兎園小說」及び「道聽塗說」に出てゐるこの猿は、宛然山賊の首領である。貞宗の刀を奪つたのは、群猿を指揮し、人間に反抗するためだとすれば、愈々以て人獸の境が明かでなくなるが、「三州奇談」の話は少し趣を異にする。丹羽武兵衞といふ人、湯涌の溫泉に入湯の際、山中に遊んで腰刀を失ふ。湯治客の仕業であらうと思ひ、いろいろ詮索しても知れなかつた。入湯者の中に能州石動山の僧があつて、その占ひによれば、刀は人間の手にない、まさしく獸の手に在る。尋ねれば得られるといふことなので、翌日は多くの人夫を雇ひ、山谷を探し求めようと決心して寢に就くと、夢ともなく緣の上に案内を乞ふ者がある。障子を隔てての言葉に、私はこの山中に久しく住む者であります、一人の愛子を惡鳥のために捕られ、悲歎に堪へませんでしたが、幸ひにあなた樣がおいで下さいましたので、暫く寶劍を拜借して敵を討ちました、その御禮に參りました、とあつたので、武兵衞は忽ち目をさまし、障子をあけて見たら、大きな猿の逃げて行くところであつた。緣の上には鞘のない刀と、鷲の片身とが殘つてゐた。それよりこの刀を鷲切と名付けて祕藏したが、丹羽家重代の刀で、銘は備前の兼光だつたさうである。これは明かに敵討で、人間らしい度合は、この方が更に强いかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「兎園小說」これは同書の第十一集にある文宝堂(亀屋久右衛門・薬種商)報告になる「白猿賊をなす事」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

   ○白猿賊をなす事

佐竹侯の領國羽州に山役所といふ處あり。此役所を預りをる大山十郞といふ人、先祖より傳來する所の貞宗の刀を祕藏して、毎年夏六月に至れば、是を取り出だして、風を入るゝ事あり。文政元六月例のごとく座敷に出だし置きて。あるじもかたはら去らず。守り居けるに、いづこよりいつのまに來りけん。白き猿の三尺ばかりなるが一疋來りて、かの貞宗の刀を奪ひ立ち去り、ゆくりなき事にて、あるじもやゝといひつゝおつとり刀にて、追ひかけ出づるを、何事やらんと從者共もあるじのあとにつきて走り出でつゝ追ひゆく程に、猿は其ほとりの山中に入りてゆくへをしらず。あるじはいかにともせんすべなさに、途中より立ち歸り、この事從者等をはじめとして、親しき者にも告げしらせ、翌日大勢手配りして。かの山にわけ入り、奥ふかくたづねけるに、とある芝原の廣らかなる處に、大きなる猿二三十疋まとゐして、其中央にかの白猿は、藤の蔓を帶にしてきのふ奪ひし一腰を帶び、外の猿どもと何事やらん談じゐる體なり。これを見るより十郞はじめ、從者も刀をぬきつれ切り入りければ、猿ども驚き、ことごとく逃げ去りけれども、白猿ばかりは、かの貞宗を拔はなし人々と戰ひけるうち、五六人手負たり、白猿の身にいさゝかも疵つかず。度々切りつくるといへども、さらに身に通らず。鐵砲だに通らねば、人々あぐみはてゝ見えたるに、白猿は猶山ふかく逃げ去りけり。夫より山獵師共をかたらひけるに、此猿、たまたま見あたる時も候へども、中々鐵砲も通らずといへり。此後いかになりけん。今に手に入らざるよし、その翌年、かの地の者來りて語りしを思ひ出でゝ、けふの兎園の一くさにもと、記し出だすになん。

  文政乙酉孟冬念三   文寶堂散木記

天正兎園

   *

「文政乙酉」(きのととり)は文政八(一八二五)年。「孟冬」は「もうとう」で広義には初冬であるが、陰暦十月を指す。「念三」の「念」は短い期間を指す語であるから、同月下旬の謂いであろう。「散木」「さんぼく」で文宝堂の別号であろう。「役に立たぬ木」の意。「天正」は不明ながら、――「天」下を「正」すところの我らが「兎園」会――というグループの尊大なスローガンか?

「道聽塗說」三田村鳶魚が江戸に関わる未刊随筆類を集めた叢書「鼠璞十種(そはくじっしゅ)」に収録した林述斎門下の儒者大郷良則の随筆。文政後期から天保にかけての巷説を主とする。国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。内容は「兎園小説」とほぼ全く同じである。

「三州奇談」のそれは「卷之三」の「老猿借刀」の最初に出るメインの事例。以下にそこのみを出す。二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化した。底本編者の補訂した字はそのまま本文に入れ込んだ。一部に歴史的仮名遣の誤りがあるのはママ。

   *

 猿と獼(おほざる)とは屬類すと云共、獼は性躁(さはがし)ふして、猿は其情靜也(なり)。風月の皎然たるに噓(うそぶ)き、其色も文哀然也(なり)。久(ひさ)しうして後は、義氣勇武も出來たる者とや。

 本藩の名家丹波武兵衞と云(いふ)人(ひと)若き比(ころ)より武功をはげみ、享保の末には馬𢌞頭役に登りし。彌生(やよひ)の頃痛み有(あり)て、石川郡湯桶の溫泉に入湯せらる。此(この)所の地勢、深山に隣(となり)て幽陰閑寂の所也。城下よりは纔(わづか)に三里の行程なれ共、其(その)道(みち)嶮難にして步行便(たより)惡(あ)しく、自ら病疾の徒ならでは友もなし。丹羽氏徒然の余り、従者と共に藥師堂の上の山に近道せられたりし。春の老たりと云共(いへども)、深山の殘雪地冷にして、小草漸(やうや)く萌出(もへいで)て、是を摘(つみ)て小竹筒を傾けて、醉(ゑひ)に乗じ佩刀を解(とき)て、暫(しばらく)絕壁の峯によぢ登り眺望すれば、西山鐘色を礙(さ)へ、斷猿遙(はるか)に叫び、新樹暮雲に接して返照山(やま)の洞にさし入(いり)て、立居(たちゐ)し所もはや暗(くら)みければ、頓而(やがて)下りて先の所に歸り、置たる腰刀を尋(たづぬ)るに見えず。所々探し求るに、所在を不ㇾ知(しらず)。從者も爰(こゝ)かしこより來りて打驚き、是(これ)を求るに更(さら)になし。「いかさま湯治の者の中、奸徒有(あり)て盜み隱(かくし)けるにや。一刀と云共(いへども)、我家の重代の物なれば、其(その)通りにも過(すごし)がたし」と、入湯の旅人を改(あらため)、宿主或(あるひ)は村肝煎(きもいり)をして穿鑿すれ共(ども)知(しれ)ず。爰(こゝ)に湯入し中に、能州石動山の僧有(あり)て、是(これ)を占(うらな)いて曰(いはく)、「此(この)刀は人間の手に非(あら)ず、正敷(まさしく)獸の手に有。尋(たづぬれ)ば得べし」と云(いひ)ければ、丹羽氏是(これ)を聞て、「さらば明日多くの人步を以て、山谷を探し求(もとめ)ん」と其(その)用意して暫(しばらく)眠居られしに、夢(ゆめ)共(とも)なく、緣の上に案内を乞者有(こふものあり)。障子を隔(へだて)て云(いひ)けるは、「我は久敷(ひさしく)此山中に住者也(すむものなり)。一人の愛子有(あり)し。此比(このごろ)惡鳥の爲に是をとられ、悲歎腸を斷(たつ)。然(しか)るに貴客此山に光臨の幸を得て、暫(しばら)く寶劍を借(かり)て、速(すみや)かに讐を討取(うちとり)たり。依而(よつて)謝禮に來れり」と云(いふ)に、丹羽氏、忽(たちまち)目覺て障子を明(あけ)みれば、大(おほ)い成(なる)獼、忽迯去(にげさり)ぬ。緣の上には、件の刀の鞘もなくて中心(なかみばかり)斗と、鷲の片身より討落(うちおとし)たるを殘せり。丹羽氏大に悅び、則(すなはち)從者を初(はじめ)、亭主に示すに、湯治の旅客皆聞傳(きゝつたへ)て一見を乞(こひ)、驚嘆せずと云(いふ)事(こと)なし。能登の旅僧の占かたを謝し、彼(かの)刀を「鷲切」と名付て彌々(いよいよ)祕藏せられし。銘は備前の兼光也(なり)とぞ。

 又今枝氏の家士鈴木唯右衞門は、先祖は源九郞義經の家臣にして、天正の比は手取川の邊に一城を構(かまへ)し鈴木出羽守が後也(なり)。此(この)家に「四つ替り」と云(いふ)靈刀有(あり)。燒刄四段に替(かは)る故に名付(なづく)るとぞ。一度見て狂亂の者、狐狸のくるはせる類、忽(たちまち)ち治せし也(まり)。延寶の比(ころ)、大夫奧村丹波公、甚(はなは)だ刀劍を愛し、伊豫大掾橘勝國に命じ一刀を造らしむ。此者、陀羅尼の神咒を誦して口に留めず。終(つひ)に一の靈刀を造出(つくりいだ)す。世に是(これ)を「陀羅尼勝國」と云(いふ)。其後(そのゝち)、故有(ゆゑあり)て今枝家の家珍とす。或時(あるとき)、狐の母子を切事有(きることあり)しに、母狐振返(ふりかへ)って此刀を嚙(かむ)とて、其齒(そのは)の跡、針を以(もつ)て穿てる如し。猶々(なほなほ)靈妙にして隱鬼密に退(のき)しと成(なり)。彼(かの)上杉家の小豆長光の類成(なる)べし。

 又白山の下中宮と云所(いふところ)に、一の靈刀を所持する者有(ものあり)。彼も鈴木重春が孫の由也。次助と云(いふ)。手取川に釣して大蛇を切(きる)に、其(その)血紅を流せる事三日也。河水只(たゞ)秋葉の陰のごとし。故に此刀を「紅葉の賀」と云(いふ)。希代の業物也(わざものなり)。銘は鎌倉山内任藤原次助眞也。此外(このほか)、諸家靈刀を聞(きく)と云共(いへども)、刀劍の靈妙は和國の祕事なれば、奇談有(あり)と云(いへ)ども爰(こゝ)にはもらしぬ。

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「湯涌の溫泉」「ゆわくのおんせん」とは現在の石川県金沢市湯涌町(ゆわくまち)及び湯涌荒屋町にある湯涌温泉のこと。「能州石動山」は能登国石動山(いするぎやま)。]

 

 もし獸類の中に刀を用ゐる者があるとすれば、最も人間に近い猿であらう。この二つの話では、いづれも自ら所持せず、人間の一腰を失敬したのであるが、猿と刀との交渉は右の二例には止まらぬ。佐藤成裕は「中陵漫錄」に、會津山中に住む大きな猿の事を書いてゐる。これに從ふ猿が二百ばかりあつて、いづれもその猿の居る枝の下に居り、敢て上に登らうとせぬ。常に黑い一物を携へ、みづから玩弄してゐるのを見た或人が、錢砲でこの猿を打ち落したら、他の猿が來てその一物を持ち、二十間ばかり離れたところに行つて、大猿の打ち落されたのに驚いてゐる體である。更にまた鐡砲を放つて猿どもを追ひ散らし、くだんの一物を取つて來て見れば、火箸のやうに細く曲つて錆びた短刀であつた。そもそもこの猿は何處よりこの短刀を取り來つたか、いつ頃から持つて居るか。この猿は猿中の王なので、これを寶物として大切にしたらしいが、この寶物を有するが故に、人に怪しまれて一命を失ふに至つた。「寶物の身を災する事、多くは是の如し」――佐藤成裕は最後に學者らしい一語を添へてゐる。

[やぶちゃん注:「二十間」三十六メートル強。

 以上は「中陵漫錄」の「卷之五」に載る「會津の老猿」。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

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   ○會津の老猿

余先年、奧州會津に在て、黑澤といふ處に至る。其處の山中に至て大なる猿あり。其猿に從ふ猿二百許ありて、皆食をはこび與へ、又其猿の居る下の枝に皆在て、必しも其上に登る事なし。是れ猿の王たる事しるべし。其猿、常に大なる黑き圓き一物を持て自ら玩弄す。或人、此山中に來て甚だ怪み、鳥銃にて此猿を打落す時は、一の猿來て其一物を持て二十間許の處に逃て行き、其打落されたるを皆驚きて、其彈丸の穴に木の葉を取りてふさぎ、血の出るを恐て皆驚き見て居るなり。又彈丸をこめて其一物を打殺しければ、此音にて二百餘の猿ども、ひらくと飛て木に移りて逃去る。其一物を取りて來りて見れば、藤葛にて一面に纏ひからげたる物なり。漸く是を切破りて見れば、火箸の如く細く曲て朽ちたる短刀なり。此猿、何より是を取來るや。何の時に持居るや。此猿、猿中の王なれば、是を寶物として常に大切にすると見えたり。此猿も此寶物ある故に、人の怪を容れて命を沒す・寶物の身を災する事多くは如ㇾ是。又賀州にて、山中の猿、常に圓き一物を持てあるくを見る。或人、鳥銃にて打て見れば、木の葉にて幾重も重ね包てある。是れを破りて見れば、内に鳥銃の彈丸(タマ)一つありと云。凡獸警人に近き者は、何となく珍しき物なりと思ひて、手に離さずして寶物と思ふなるべし。按ずるに、淵鑑類凾曰。爪哇國山多ㇾ猴。不ㇾ畏ㇾ人。授以果實則二大猴先至。土人謂之猴王。夫人食畢群猴食其餘。是れの猴にも王ある事知るべし。

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「淵鑑類凾」は「えんかんるいかん」と読み、一七一〇年に成立した、清の康熙帝勅撰になる類書(百科事典)。漢文を我流で訓じておく。「爪哇(そうあい)國、山、猴(さる)、多し。人を畏れず。授くるに果實を以つてすれば、則ち、其の二は、大きなる猴、先づ、至る。土人、之れ、猴の王なりと謂ふ。夫(そ)の人、食ひ畢はれば、群猴、其の餘を食らふ。」。「爪哇國」は現在のインドネシア、ジャワのこと。「夫の人」とは言わずもがな乍ら「猴の王」を指す。]

 猿の刀は武器乃至これに准ずるものであつた。こゝで目を轉じて「怪談老の杖」の狸を見ると、全く世界が違ふ。豐後の家中に何某賴母といふ勇士があつて、城下に十四五年も明いてゐる化物屋敷を、特に願ひ出て拜領した。うしろに山を負ひ、南は川に臨む景勝の地であるから、早速修理を加へ、先づ自分だけが引越して、樣子を見ることにした。勝手の圍爐裏に榾を焚き、小豆粥を煮て家來と共に食べてゐると、まだ建具が無いので、廣い家の中が一目に見渡せる。そのうちに雨戶を明けて、背の八尺ばかりもある坊主が入つて來た。賴母は少しも騷がず、ぢつとしてゐる。圍爐裏の側に、坊主がむずと坐つたので、はじめて言葉をかけた。その方は何處の者か、定めてこの地に住む者であらうが、この屋敷はこの度拜領して住むことになつた、領主の命であるから、最早自分の屋敷に相違ない、けれどもその方さへ申分なくば、こゝにゐて少しも構はぬ、つれづれの時は來て話せ、相手になつてやるぞ――坊主はこれを聞いて恭しく手をつき、畏りましたと云つて、大いに敬ふ風であつた。この夜の事は家來にも口留めし、やがて家族も引移つたが、坊主は每日のやうにやつて來て、古い昔の話などをして歸る。夏冬の衣類などは妻女が與へるといふ狀態であつた。

 然るに三年ほどたつた或夜、彼は愁然として自己の壽命の盡きることを告げ、これまでの恩誼を謝した上、この山には自分の子孫が澤山居ります、どうか私死後も相變らず御憐愍を願ひ奉ります、今夜は子供にもお目見え致させたく、御庭まで呼び寄せて置きました、と云つて障子を明けると、數十疋の狸が月下に集まり、首を垂れて賴母を敬ふ體に見えた。坊主は歸るに臨み、いや一大事を忘れて居りました、私持ち傳へました刀がございます、これをあなた樣に差上げたう存じます、と云つたが、一兩日たつて賴母が上の山に行つて見たら、幾歲とも知れぬ古狸の、毛などは皆脫けたのが死んで居つた。その傍に竹の皮に包んだものがあつたのは、彼が最後に贈ると云つた刀であつた。刀の光り爛爛として、まるで硏ぎ立てのやうに見える、まことに無類の名劍であつたので、賴母はつぶさにその趣を書き付け、この一刀を領主に獻上した。

 この狸は前の山賊然たる猿や、鷲を斬つて子の敵を報いた猿などより數段上である。死に臨んで恩人に贈つた名劍が、如何なる用に供せられたかわからぬのは殊に有難い。

[やぶちゃん注:以上は「怪談老の杖」の「卷之三」の掉尾にある「狸寶劍をあたふ」である。所持する「新燕石十種 第五巻」に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを振った。

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   ○狸寶劍をあたふ

豐後の國の家中に、名字は忘れたり、賴母(たのも)といふ人あり、武勇のほまれありて名高き人なり、その城下に化ものやしきあり、十四五年もあきやしきにてありしを、拜領して住居仕度段(すまゐしたきだん)、領主へ願はれければ、早速給はりけり、後に山をおひ、南の方(かた)ながれ川ありて、面白き所なれば、人夫を入れて、修理おもふ儘に調ひて引うつりけるが、まづその身ばかり引(ひき)こして、樣子を伺がひける、勝手に大いろり切りて、木を多くたき、小豆がゆを煮て、家來にもくはせ我も喰ひ居たり、未だ建具などはなかりければ、座敷も取はらひて、一目に見渡さるゝ樣(さま)なりしに、雨戶をあけて、背の高さ八尺ばかりなる法師出來れり、賴母は少(すこし)もさわがず、いかゞするぞとおもひ、主從聲もせず、さあらぬ體(てい)にて見て居ければ、いろりへ來りてむずと坐しけり、賴母は、いかなるものゝ、人にばけて來りしやとおもひければ、ぼうづはいづ方の物なるや、此やしきは、我れ此度(このたび)拜領してうつり住むなり、さだめて其方は此地にすむものなるべし、領主の命なれば、はや某(それがし)が屋鋪(やしき)に相違なし、其方さへ申分なくば、我等に於てはかまひなし、徒然なる時はいつにても來りて話せ、相手になりてやらん、と云ひければ、かの法師おもひの外に居なほりて、手をつき、奉ㇾ畏(おそれたてまつり)しといひて、大に敬ふ體(てい)なり、賴母は、さもあらんとおもひて、近々女房どもをも引(ひき)つれてうつるなり、かならずさまたげをなすべからず、といひければ、少しも不調法は致し申(まうす)まじ、なにとぞ御憐愍にあづかり、生涯をおくり申度(まうしたし)、といひければ、心得たり、氣遣ひなせそ、といふに、いかにもうれしげなる體(てい)なり、每晩はなしに來(きた)れよ、といひければ、難ㇾ有(ありがたく)存候とて、その夜は歸りにけり、あけの日人の尋ねければ、何もかはりたる事なし、と答へ、家來へも口留(くちどめ)したりける、もはや氣遣なしとて、妻子をもむかへける、かゝる人のつまとなれる人とて、妻女も心は剛(かう)なりけり、あすの夜もまた來りて、いろいろふるき事など語りきかせけるに、古戰場の物語などは、誠にその時に臨みて、まのあたり見聞するが如く、後は座頭などの夜伽するが如く、來らぬ夜はよびにもやらまほしき樣なり、然れども、いづ方より來るとも、問はず語らずすましける、あるじの心こそ不敵なりける、のちには、夏冬の衣類は、みな妻女かたよりおくりけり、かくして三とせばかりも過ぎけるが、ある夜、いつよりはうちしめりて、折ふしなみだぐみけるけしきなりければ、賴母あやしみて、御坊は何ゆへ今宵は物おもはしげなるや、と問はれければ、ふとまいり奉しより、是まで御慈悲を加(くは)へ下れつるありがたさ、中々言葉にはつき申さず、しかるに、わたくし事はや命數つきて、一兩日の内には命終り申(まうす)なり、夫(それ)につき、わたくし子孫おほく、此山のうちにをり候が、私死後も、相かはらず御れんみんを願ひ奉るなり、誠にかくあやしき姿にもおぢさせ給はで、御ふたりともにめぐみおはします御こゝろこそ、報じても報じがたく、恐ながら御なごりをしくこそ存候、とてなきけり、夫婦もなみだにくれてありけるが、彼法師立あがりて、子ども御目見へいたさせ度(た)しと、庭へよびよせおき申候とて、障子を開きければ、月影に數十疋のたぬきどもあつまり、首をうなだれて敬ふ體(てい)也、かの法師、かれらが事ひとへに賴みあぐる、といひければ、賴母高聲(たかごゑ)に、きづかひするな、我等めをかけてやらん、と云ひければ、うれしげにて皆々山の方へ行(ゆき)ぬ、法師も歸らんとしけるが、一大事を忘れたり、わたくし持傳(もちつた)へし刀あり、何とぞさし上げ申(まうし)たし、といひて歸りけり、一兩日過(すぎ)て、賴母上の山へ行(ゆき)てみければ、いくとせふりしともしらぬたぬきの、毛などはみなぬけたるが死(しに)いたり、傍(かたはら)に竹の皮にてつゝみたる長きものあり、是(これ)則(すなはち)おくらんと云へる刀なり、ぬきて見るに、その光爛々(らんらん)として、新(あらた)に砥(とぎ)より出(いづ)るがごとし、誠(まこと)に無類の寶劍なり、依ㇾ之(これによりて)賴母、つぶさにその趣きを書つけて、領主へ獻上せられければ、殊に以(もつて)御感(ぎよかん)ありけり、今その刀は中川家の重寶(ちやうはう)となれり、

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柴田も賞讃している通り、この話柄は何か清々しい情話を読んだように美しい。]

柴田宵曲 妖異博物館 「狸の書」

 

 狸の書

 

 これは少し時代の古い話らしい。信州に日本一の手書きといふ美人があつて、出世の爲に都へ上る。乘物は宿送りにして漸く草津に著いた。こゝでも大きな宿に泊ることになつたが、乘物のまゝ座敷へ舁き入れたので、上﨟の姿を見ることが出來ない。亭主が見事な菓子をとゝのへて挨拶に出た時、乘物を細目に明けたのを見ると、年の頃二十歲ばかり、綠の黑髮を長く垂れ、衣裳を七つ八つ重ねた有樣、見る目も眩いくらゐであつた。この人の手跡を乞ひ得たら、子孫の寶になると思ひ、何か御染筆を願ひたいと申し出たところ、都に上り著かぬうちは、一字も書かぬ筈であるが、あるじの志に愛でて何か書いて取らさうといふことで、「伊勢物語」の歌二首をしたゝめられた。有難く頂戴して、所の目代に見せたら、さてさて見事な手跡であると感歎して已まぬ。然るにこの宿には大きな犬が飼つてあり、その犬が乘物を見て非常に吠える。上﨟はあの犬を追つて貰ひたい、恐ろしくて堪らぬといふ。追ひ拂つてもまた戾つて來て、頻りに吠えるので、あの犬がこゝに居るならば、他の宿に替りたい、と云ひ出した。その儀にも及びますまい、と云つて、亭主は裏の藪に犬を繫がせ、上﨟の心も多少落著いたやうであつたが、夜中にこの上﨟が庭まで出た氣配を知つて、犬の吠えること一通りでない。田舍育ちの犬の事で、かういふ美しい上﨟を見たことがないから、むやみに吠え立てるのだらう、それ犬を制せよ、と召仕の男に命ずる。この男は上﨟を一目見たいと思つて、庭の内を覗いて見たが、そこには誰も居らぬ。亭主が乘物のところへ行つて聲をかけても、何の答へもない。蠟燭をつけて方方搜して見たけれども、遂にその行方は知れなかつた。一體どこの國のどういふところから出た人であるかと、これまで宿送りして來た方面に問ひ合せたが、更に消息不明である。結局あまり犬を恐れた一事を押へて、狐ではあるまいかといふことになつた。倂し化生(けしやう)の者ではあんな見事な字は書けまい、といふ說をなす者があり、もう一度前の手跡を取り出して見たら、優美な水莖の跡は悉く消えて、鼠の糞を竝べたやうに墨が付いてゐるだけであつた。さてこそ狸の變化であると知れた(義殘後覺)。

[やぶちゃん注:「義殘後覺」(ぎざんこうかく)は愚軒(生没年・事蹟ともに未詳であるが、豊臣秀次の側近衆の一人の御伽衆様の人物かと推定されている)編著になる戦国武将や戦さを巡る武辺物風噂話を筆録した雑談(ぞうだん)集で、成立は文禄年間(一五九二年~一五九六年)と推定されている(愚軒の識語には「文祿五年暮春吉辰」とある。文禄五年は同十月二十七日(グレゴリオ暦一五九六年十二月十六日)に慶長に改元)。実録風怪奇談はメインではない。しかし、江戸時代の怪談集の原型としての性質を幾つかの話柄が立派に保持して居り、そうした資料としては非常に貴重なものである。以上はまさに同書の掉尾を飾る話で、「卷七」の十条目の「女房、手の出世に京へ上る事」である。同書は抄録されたものを岩波文庫刊の高田衛編「江戸怪談集(上)」で所持するが、今回はこれを参考としつつ(句読点や鍵括弧を生かした)、国立国会図書館デジタルコレクションにある「續史籍集覽」第七冊の同書の画像パート(ここが開始頁)を視認して、電子化することとする。原典の歴史的仮名遣の誤りはママである。踊り字「〱」は正字化した。

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   女房、手の出世に京へ上る事

 中ころの事なるに、信州よりとて、みめかたち、世に美しき上﨟女房、けつこうなるのり物にのりて、日本一の手書きなるによりて、みやこへ出世のためにのぼり給ふ。「はやく上り給はでかなはぬ上らうぞ」とて、どこともなくしゆくをりにしてのぼしけり。やうやうのぼるほどに、草津につきにけり。ある大きなる宿に入(いれ)たてまつりけるに、あるじ、いでゝみれどものり物ともに座敷へかきこみければ、上らうを見るべきやうなし。あるじ、くわしなど見事にとゝへて、御そばちかくまいりて、「なかなかのたび、さこそ御きうくつに候ハん。御なぐさみになされ候へ」とて、御のり物のそばへまいられければ、「よくこそたてまつれ」とて、のり物ほそめにあけ給ふ。そのひまより見ければ、としのコロハはたちなり。女らうのようぎ、うつくしともいはんかたなくらうたきが、かみはながながとおしさげ、まゆふとうはかせ、かずかずのいしやう、七つ八つ引きかさね給ひ、てふりの手をさしのべ給ふ。にほひくんじわたりて見へにける。あるじ、思ひけるハ、さてもさても、これはいかなる人のひめぎみやらん。かばかりにいみじく、あてやかなる上らうも世におはしけるものかな。あはれこの人の御手を所望して、一ふくもつならば、子孫のたからなるべし、と思ひて、又まいり申けるは、「うけたまハれば御まへにハ御手をうつくしくあそばすよしをうけたまはりおよび候。あはれ一筆下され侯ハゞ、しそんのたからにつたへ申たく候」と申ければ、上らうの給ひけるハ、「みやこへのぼりつかぬうちハ一字もかゝねども、あるじがこゝろざし、よにたぐひなければ、ちからなくかきてとらすべし」との給へば、「さてもさても有りかたき御事にこそ候へ」とて、れうしをとゝのへ、御のりもののうちへさし出しければ、しばらくありて『いせ物がたり』の歌を二首あそばしてたまハりけり。あるじ、おしいたゝきて、やがて所の目代に見せ侍りけれハ、「さてもさても見事なる手跡かな、よはくしてつよく、風情やはらかにみへて、墨つき、うつりいはんかたなし。たからにこそはあれ」とぞほめたりける。さて、この家に用心のために大なる犬をこふたりけるが、こののりものをつくづく見て、ほゆることたゞならず。「いかなる事にや」と、あるじ思ひて、せどへ追いだしけれども、ほゆるほどに、女ばうの給ひけるハ、「いかにあるじ、あの犬をとをくへのけたまへ。よにおそろしくおぼゆるぞや」と仰ければ、「かしこまり剃る王」とて、追うしなへども、立ちもどり、乘物をみて吠ゆるほどに、女ばう、けしからず思ひ給ひけるにや、「あの犬これに有ならば、よがたへやどをかりかへ侯」と申させ給へば、ていしゆ、「それまでも候ハず」とて、うらの藪へつれて行、つなぎてこそおきにける。是より女ばうも御こゝろうちつきてこそみへにける。かくて夜にいれば、らうそくたてゝ御とのゐをぞ申ける。夜はん斗に、此上らう、せうようありとて、乘物よりいでたまひて、坪のうちへいでさせ給ふが、なにとしけるやらん、いぬほへいづる事けしからず。ていしゆハこれをきゝきて、「とかくこの犬めハゐ中育ちにて、かゝるうつくしき上らうをみなれざるによつて、はたさずあやしみほゆるとみえたり。ことに上らうなれば、いぬをおそれさせ給ふに、にくきやつめかな。それ犬をせいせよ」とて、うちにめしつかふおのこをうらへつかはしにける。この男、坪の内をさしのぞきて、上らうを一めみばやと思ひければ、見え給はず。「あなふしぎや」とて、よくよくみれども、おはせざりければ、立かへりて、あるじに、上らうハおはしまさぬよしをいひければ、「いかでか、さるべき」とて、御のり物のあたりへちかづき、「いかに御つれづれにおはしますか。なにても御用あらば仰られ候へ」と申けれども、をともせざりければ、「あなふしぎや」とて、さしよりて見ければ、乘物にハなかりけり。「こはまことにやあやしゝ」とて、らうそくをたてて、つぼの内を見まハしけれども、なかりければ、それよりをどろきて、人々うちより、山里をかりてたづぬれども、なかりければ、「さてもふしきにおほゆるものかな。さて是はいづれのくに、いかなる所よりかいで給ふぞ。さきさきを問へ」とて、又かののり物をもときし方へおしもどして、ひた物あとをたづぬれども、いづちよりいでゝ、いづかたの人とも、かつてしれざりければ、人々めんめんに、「これハなにとしたるまがまがしき事ぞや。ばけけものにてありけるか。世のすゑのふしぎにこそハおぼゆれ」とて、とまりとまりにて是をあやしみけれども、かつてもとをわきまへたるものなかりけり。このやどにいぬのほゆるを、ことのほかにこの上らう、おそれおのゝき給ふが、「もしきつねなどにてハなきかや。そうじて狐はいぬをことのほかにおそるゝものなるが」といひければ、又あるものいひけるハ、「さやうのへんげならばものかく事あるべからず。是ハことのほか手書にて見事にかき給へるうへハ、又さやうのへんげにても有るべからず」といふほどに、「さあらばその手をとりいでゝみせ給へ。もののふしぎはれぬ事」とて、とりいださせてみければ、さもゆうにうつくしき手にて有りしが、悉きへて、鼠のふんをならべ置たるごとくに、墨ばかりつきて、何の形もなし。さてこそ狸の變化とはしりてけり。

   *

少し注しておくと、「しゆくをり」「宿送り」で、特別な身分の者や行路病者などを、町内の自身番や宿(しゅく)役人などの責任に於いて、順に隣りの正規宿へ送り届けるシステムを指す。「草津」は東海道五十三次五十二番目の宿場であった草津宿。近江国栗太郡で、中山道が合流している。現在は滋賀県草津市市街。「てふりの手」素手。「よがた」「餘方」で別の旅籠屋の意。「とのゐ」「宿直」或いは「殿居」で不寝番のこと。「坪」その旅籠屋の内庭のこと。「ひた物」只管に。「もとをわきまへたるもの」「元を辨へたる者」その女性の生国や家柄などを知っている人物。「宿送り」であるのにそういう事態というのは、背後に詐欺や或いはもっと大きな犯罪が絡んでいる危険性が疑われ、送った総ての責任者に咎が及ぶ可能性が極めて高いから、事実上でも非常な問題を孕んだあるまじき重大事件なのである。]

 

 狐狸の話は江戶時代にも澤山あるが、手跡をとゞめたのは大槪狸で、狐としては眞崎明神の中にゐた先生が、奧州へ歸るに臨み、茶店の婆さんに一枚の短册を遺した。その歌は有名な宮千代童子の作で、それも三つばかり假名を違へて書いた、といふ話が傳はつてゐるくらゐのものである。狸の方はそんなものでない。「耽奇漫錄」には狸のかいた畫が收錄されてゐるが、書の話は更に多く、屢々僧形に化けて遊歷したらしい。下總の大貫村の某家に居つた狸などは、天井にゐて姿を見せず、切火をした紙と、墨をふくませた筆を席上に置けば、紙筆はおのづから天井に上り、鶴龜とか、松竹とかいふ大字を記し、「百八歲田ぬき」といふ署名まであつた。犬を恐れることは狐も狸も變りなく、狸和尙が犬に殺された話はいくつかある。坊主に化けるのは狸の適役で、美人は狐の持場と思はれるが、上﨟として名筆を揮つた者が、犬を恐れた爲に狐と疑はれ、最後に手跡によつて狸と斷ぜられたのは、狐の書の話が少いからであらうか。尤も狸の書は大概槪そのまゝ殘つて居り、「義殘後覺」のやうにあとで見たら消えてゐたなどといふのは無い。江戶以前の狸は書道に於て堂に入らなかつたのかも知れぬ。

[やぶちゃん注:ここに出る伝承は、メルマガ「民話万象の「第百九十九話 新右衛門稲荷その2バックナンバで読める。柴田は珍しく、この伝承の引用(参照)元を明記していない。

「眞崎明神」隅田川の河畔にあったと思われる稲荷社。現在は東京都荒川区南千住にある石浜神社に合祀されいる。同神社公式サイト内の「境内案内」に、『祭神は、豊受姫神(とようけひめのかみ)、天文年間に石浜城城主となった千葉之介守胤が、ここに一族一党の隆昌を祈って宮柱を築き、先祖伝来の武運守護の、尊い宝珠を奉納安置申して以来、真先かける武功という意味にちなみ、真先稲荷として世に知られ』た、とある。

「宮千代童子」仙台市の「宮千代加藤内科医院」の公式サイト内の「宮城野原・史跡めぐり≪宮千代周辺≫」の「宮千代塚と戸津利源太の墓」によれば、『町名にもなっている宮千代は子供の坊さんで、都へ和歌の勉強に行く途中、ここで死んだ』と伝えられ、死に臨んで、

 月はつゆつゆは草葉に宿借りて

という上句を作ったが、下の句を詠ずる至らずして亡くなったことから、未練が残って夜な夜な亡霊になって出で、この上の句を唱えたという。そこで、その宮千代がかつていたことのある寺の僧がその噂を聞き、ここへ来て、

 それこそそれよ宮城野の原

と下句を叫んだところ、宮千代の霊は成仏したといった伝承らしい。サイト主は『このような和歌のやりとりの伝説は日本の各地に数多くあるそうです。さみしい野原に、行き倒れの旅人を見つけた村人がその遺体を葬ったことはあったのでしょう』と述べておられる。これを顕彰する「宮千代の碑」は、個人サイト「宮城県ナビ」のページによれば、現在の宮城県宮城野区宮千代(主人公の名がそのまま地名となっている)にあり、そこには細部が少し異なり、引導を渡す僧を松島寺(現在の瑞巌寺)の「徹翁」とも、旅の行脚僧「見佛上人」とする。

「耽奇漫錄」は江戸後期の考証随筆で二十集二十冊。山崎美成の序・跋で、文政七~八年(一八二四年~一八二五年)の成立。美成のほか、谷文晁や曲亭馬琴らが好古・好事の者の会合「耽奇会」に持ち寄った古書画や古器財などの図に考説を添えたもの。馬琴序の五巻五冊本もある。国立国会図書館デジタルコレクション全巻複数り)、膨大なため、探すのを諦めた。

『下總の大貫村の某家に居つた狸などは、天井にゐて姿を見せず、切火をした紙と、墨をふくませた筆を席上に置けば、紙筆はおのづから天井に上り、鶴龜とか、松竹とかいふ大字を記し、「百八歳田ぬき」といふ署名まであつた』これも柴田は出典を明らかにしていないが、恐らくは「兎園小説」のやはり山崎美成の報告になる「老狸の書畫譚餘」の本文部分と思われる。以下に吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。追加された馬琴の類似例附文は省略した。一部に私のオリジナルな読みを歴史的仮名遣で附し、注も挟んだ。【 】は原文の割注と思われ箇所。

   *

    ○老狸の書畫譚餘   山崎美成記

下總香取の大貫村藤堂家の陣屋隷(じんやれい[やぶちゃん注:陣屋の下級の家来。])なる某甲の家に棲めりしといふふる狸の一くだりは、予もはやく聞きたることあり。當時その狸のありさまを見きといふ人のかたりしは、件(くだん)の狸は、彼(かの)家の天井の上にをり、その書を乞はまくほりするものは、みづからその家に赴きて、しかじかとこひねがへば、あるじ、そのこゝろを得て紙筆に火を鑽(き)りかけ[やぶちゃん注:鑽火(きりび)をすること。本来は、神事に使う神聖な火を得るために木をすり合わせて摩擦熱で火を起こす古式の火起こし法であるが、ここは単によく時代劇で見かける邪気を払う火打ち石で火花を散らしたのであろう。]、墨を筆にふくませて席上におくときは、しばらくしてその紙筆、おのづからに閃(ひらめ)き飛びて天井の上に至り、又しばらくしてのぼりて見れば、必文字あり。或は鶴龜、或は松竹、一二字づゝを大書して、田ぬき百八歲としるしゝが、その翌年に至りては百九歲とかきてけり。是によりて前年の百八歲は、そらごとならずと人みな思ひけるとなん。されば狸は天井より折ふしはおりたちて、あるじにちかづくこと常なり。又同藩の人はさらなり。近きわたりの里人の日ごろ親みて來るものどもは、そのかたちを見るもありけり。ある時あるじ、戲れにかの狸にうちむかひて、なんぢ既に神通(じんつう)あり。この月の何日には、わが家に客をつどへん。その日に至らば何事にまれ。おもしろからんわざをして見せよかしといひにけり。かくて其日になりしかば、あるじ、まらうどらに告げていはく、某(それがし)嚮(さき)に戲れに狸に云々といひしことあり。さればけふのもてなしぐさには、只これのみと思へども、渠(かれ)よくせんや。今さらに心もとなくこそといふ。人々これをうち聞きて、そはめづらしき事になん。とくせよかしとのゝしりて、盃をめぐらしながら賓主かたらひくらす程に、その日も申の頃になりぬ。かゝりし程に、座敷の庭忽(たちまち)廣き堤(つつみ)になりて、その院(ゐん[やぶちゃん注:堤の下にめぐらせた後述の市の垣根や幔幕のことか。])のほとりには、くさぐさの商人あり。或は葭簀張(よしずばり)なる店をしつらひ、或はむしろのうへなどに物あまたらべたる、そを買はんとて、あちこちより來る人あり。かへるもあり。賣り物のさはなる中に、ゆでだこ(湯蛸[やぶちゃん注:これは「ゆでだこ」の右にルビ状にある。])をいくらともなく簷(ひさし)にかけわたしゝさへ、いとあざやかに見えてけり。人々おどろき怪みて猶つらつらとながむるに、こはこの時の近きわたりにて、六才にたつ市にぞありける。珍らしげなき事ながら、陣屋の家中の庭もせの[やぶちゃん注:「背の」(背後である)或いは「狹の」(狭いところで)か。]、かの市にしも見えたるを、人みな興じてのゝしる程に、漸々(やうやう)にきえせしとぞ。是よりして狸の事、をちこちに聞えしかば、その害を求むるものはさらなり。病難利慾何(なに)くれとなく、祈れば應驗(あうげん)ありけるにや。緣を求めて詣づるものゝおびたゞ敷(しき)なりしかば、遂に江戶にもそのよし聞えて、官府の御沙汰に及びけん。有(ある)司(つかさ[やぶちゃん注:役人。])みそかに彼(かの)地に赴き、をさをさあなぐり糺しゝかども、素(もと)より世にいふ山師などのたくみ設けし事にはあらぬに、且(かつ)大諸侯の陣屋なる番士の家にての事なれば、さして咎むるよしなかりけん。いたづらにかへりまゐりきといふものありしが、虛實はしらず。是よりして、彼(かの)家にては紹介なきものを許さず。まいて狸にあはする事はいよいよせずと聞えたり。これらのよしを傳聞(つたえきか)せしは、文化二三年[やぶちゃん注:一八〇五年~一八〇七年相当。]のころなりしに、このゝちはいかにかしけん。七十五日と世にいふ如く噂もきかずなりにけり。【此ころ、兩國廣巷路(ひろかうぢ)にて、狸の見せ物を出だしゝとありしに、彼(かの)大貫村なる狸の風聞高きにより、官より禁ぜられしなり。】

   *

「下總香取の大貫村」下総国香取郡大貫村。現在の千葉県香取郡神崎町大貫か。(グーグル・マップ・データ)。]

2017/01/22

柴田宵曲 妖異博物館 「狸囃子」

 

 狸囃子

 

 泉鏡花の「陽炎座」ははじめ「狸囃子」といふ題名であつた。本所の一角で白晝不思議な芝居を見る小說であるが、狸囃子は勿論本所七不思議のそれを利かしてゐるのである。この作者が大分前に書いた「狸囃子」といふ隨筆には、その囃子を耳にすることがあつて、「一貫三百どうでもいゝ」といふ法華の太鼓に似てゐるといふ。當時の住居は大塚だから、本所には緣が遠いが、深く場所に拘泥する必要はないらしい。作者が後年長く腰を据ゑた番町にも化物太鼓の話が傳はつてゐる。

[やぶちゃん注:「陽炎座」は柴田の言うように、当初は「狸囃子(たぬきばやし)」の標題で大正二(一九一三)年五月の『新小説』に発表したもので、大正六年四月平和出版社刊の作品集「彌生帖」に所収した際に「陽炎座(かげらふざ)」に改題した。構成の一部にやや難点が認められるものの、鏡花の都会夢幻譚の白眉の一つ。サイト「鏡の花」のこちらでPDF縦書版で読める。

「本所七不思議」本所(現在の東京都墨田区)に江戸時代頃から伝承される怪奇談の名数。ウィキの「本所七不思議」によれば、『江戸時代の典型的な都市伝説の一つであり、古くから落語など噺のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきた。いわゆる「七不思議」の一種であるが、伝承によって登場する物語が一部異なっていることから』八『種類以上のエピソードが存在する』としつつ、オーソドックスなそれとして「置行堀(おいてけぼり)」・「送り提灯」・「送り拍子木(おくりひょうしぎ)」・「燈無蕎麦(あかりなしそば)」(別名「消えずの行灯」)・「足洗邸(あしあらいやしき)」・「片葉の葦(かたはのあし)」・「落葉なき椎(おちばなきしい)」・狸囃子(たぬきばやし)(別名「馬鹿囃子(ばかばやし)」)・「津軽の太鼓」を挙げる。リンク先からこれらの個別記載に飛べるので、そちらを参照されたい。

『「狸囃子」といふ隨筆』明治三三(一九〇〇)年六月に書かれたもの。同じくサイト「鏡の花」のこちらでPDF縦書版で読める。

「一貫三百どうでもいゝ」前注の鏡花の「狸囃子」の形式段落三段落目に、

   *

 耳を澄ませば、題目に合(あは)して鳴らす、其(それ)よ、彼(か)の幼きものが、「一貫三百何(ど)うでもよい、」と突込(つゝこ)みて囃す調子なり。

   *

とあるのを指す。この言葉については、「法華宗陣門流」公式サイト内の府中市の立正院住職であり、法華宗学林講師の村上東俊氏のなぜ、日蓮大聖人のご命日法要をお会式というのですかに、江戸時代の法華宗信者らが、『「一貫三百どうでもいい、テンテンテレツク、テンツクツ」という』掛声をかけたとあり、そこから『職人が一日の手間賃(一貫三百)をふいにしてでもお寺にお詣りしたいという心情が伝わってきます』とあることで腑に落ちた。

「當時の住居は大塚」泉鏡花は明治二九(一八九六)年五月に小石川大塚町(現在の文京区大塚)に転居している。]

 

 鈴木桃野が「反古のうらがき」に書いたところによれば、或人がこの太鼓の正體を突き止めたいと思つて、市谷御門内より三番町通り、麹町飯田町上あたりまで、一晩中尋ね步いたけれども、遂にわからず、夜明け近くなると共に止んでしまつた。果して化物の所爲であると恐れをなしたが、その後桃野が人の話に聞いたのは、番町ほど囃子の好きな人の多い場所は稀である、今日は誰の土藏、明日は詭の穴藏といふ風に、殆ど每晩やつてゐるといふことであつた。世にいふ化物太鼓は卽ちこれで、あたりの聞えを憚つて、土藏や穴藏で囃すから、近くへ行けば却つて聞えず、風につれて遠方に聞えるのであらう、と桃野は解釋してゐる。

[やぶちゃん注:「鈴木桃野」既出既注

「反古のうらがき」既出既注。以上は、同書「卷之三」の「化物太鼓の事」である。所持する森銑三・鈴木棠三編「日本庶民生活史料集成 第十六巻』(一九七〇年三一書房刊)のそれを以下に示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   ○化物太鼓の事

 番町の化物太鼓といふことありて、予があたりにてよく聞ゆることなり。これは人々聞なれて、別に怪しきことともせぬことなり。霞舟翁がしれる人に、此事を深くあやしみて、或夜其聲の聞ゆる方をこゝろざして尋行けるに、人のいふに違はず、こゝかとおもへばかしこ也、又其方に行てきくに又こなた也、市ケ谷御門内より三番町通り、麹町、飯田町上あたり、一夜の内尋ありきしが、さだかに聞留る事なくて夜明近くなりて、おのづからやみぬ、果して化物の所爲なりとて、人々にかたりておそれあへり。予が中年の頃、番町の武術の師がり行て、其あたりの人々が語りあふをきくに、凡太鼓笛の道は、馬場下に越たる所なし、稻荷の祭り鎭守の祭りとうにて、はやしものする人をめして、すり鉦太鼓をうたすに、同じ一曲のはじめより終り迄、一手もたがひなく合奏するは稀なり、まして他處の人をまじへてうたする時は、おもひおもひのこと打いでゝ、其所々々の風あり、馬場下の人はそれにことなり、其一とむれはいふに及ばず、他處の人なれば、其所々々の風に合せて打こと一手もたがひなし、吾輩かく迄はやしものに心を入て學ぶといへども、かゝる態は得がたしといゝけり。予これをきゝて、扨はおのおの方にははやしものを好み玉ふにや、されども稻荷の祭りの頃などこそ打玉ふらめ、其間には打玉ふことなきによりて、其妙にいたり玉ふことのかたきなるべしといゝければ、いやさにあらず、吾輩がはやしは每夜なり、凡番町程はやしを好む人多きところも稀なり、けふは誰氏の土藏のうちにて催し、あすは何某氏が穴倉の内にて催すなど、やむ時はすくなしといへり。予これにて思ひ合するに、かの化物太鼓はまさにこれなり、たゞしあたりのきこへを憚るによりて、土藏、穴藏に入りて深くとぢこめてはやすなれば、其あたりにてはかへりて聞ヘずして、風につれて遠き方にてきこゆるにきわまれり、さればこそ其はやしの樣、拍子よく面白くはやすなりけり、これを化物太鼓といふもむべなる哉とて笑ひあへり。先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり、これとおもひ合せて見れば、事の怪しきは、みなケ樣のことのあやまりなりけり。

   *

文中の「番町」は現在の千代田区番町で皇居の西方。当時は旗本を中心とした武家屋敷地区であった。また「先の卷に、物のうめく聲の遠く聞へしくだりをのせたり」とあるのは、「卷之二」の「物のうめく聲」で、鈴木桃野自身の実体験談。高田馬場で二百メートル以上離れた民家の病人の呻き声がすぐ間近に聴こえたという疑似奇談を指す。]

 

 松浦靜山侯が「甲子夜話續篇」に書いたのは、明かに本所の方である。鼓聲をしるべにそこまで行くと、また他所に移つて聞えること、番町の化物太鼓同樣であつた。辰巳(たつみ)に當る遠方で、時として鳴ることがある程度だつたのが、七月八日の夜、俄かに近くなつて、邸内で打つかと思ふほどに聞える。それがまた未申(ひつじさる)の方に遠のき、かすかになつたと思ふ間もなく、再び邸内のやうに近付いて來る。侍婢などが懼れて騷ぐので、人を出して見屆けさせた。割下水あたりまでは尋ねて行つたけれど、どこにも鼓を打つ樣子はなく、その邊の者に問うても、今夜鼓を打つ者はありません、と答へた。靜山侯の記述は大分委しく、その昔は宮寺などにある太鼓の、表の革は濕り、裏の革は破れたやうな音で、また戶板などを打つて調子よくドンドン鳴るのにも似てゐる。拍子は始終ドンツクドンツクドンドンツクといふばかりで、この二つの拍子が或は高く或は低く聞えるといふのだから、鏡花のいはゆる法華の太鼓に近いわけである。結局「何の所爲なるか、狐狸のわざにもある歟」といふ疑問にとゞまつてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「甲子夜話續篇」の「卷四十六」の掉尾にある「本莊七不思議の一、遠鼓」で、これが本所七不思議の「狸囃子」の初出ともされているようであるから、狸囃子様の現象は文政年間(一八一七年~一八二九年)には怪奇譚として既に定着していたことが判る。以下に示す。カタカナは珍しい静山自身のルビである。踊り字「〱」は正字化した。繰り返し部分は多く採り過ぎているかもしれぬが、短いよりもマシと考えた。

   *

予が莊のあたり、夜に入れば時として遠方に鼓聲きこゆることあり。世にこれを本莊七不思議の一と稱して、人も往々知る所なり。因て其鼓聲をしるべに其處に到れば、又移て他所に聞ゆ。予が莊にては辰巳に当る遠方にて時として鳴ることあり。この七月八日の夜、邸の南方に聞へしが、に近くなりて邸中にて擊かと思ふばかり也しが、忽ち又轉じて未申の方に遠ざかり、其音(オト)かすかに成しが、頓て殊に近く邸内にて鳴らす如なり。予は几に對して字を書しゐしが、侍婢など懼れて立騷(タチサハグ)ゆゑ、若くは狡兒が所爲かと人を出して見せ使しに、近所なる割下水迄は其聲を尋て行たれど、鼓打景色もなく、又其邊(アタリ)に聞ても、誰も其夜は鼓を擊つことも無しと答へたり。其音(オト)は世の宮寺(ミヤテラ)などに有る太鼓の、面の徑り一尺五六寸ばかりなるが、表の革はしめり、裏革は破れたる者の音(ネ)の如く、又は戶板などを撲てば、調子よくドンドンと鳴ることあり。其聲の如く、拍子は、始終ドンツクドンツクドンドンドンツクドンドンドンツクドンドンドンツクとばかりにて、此二つの拍子、或は高く或は卑く聞ゆ。何の所爲なるか。狐狸のわざにもある歟。歐陽氏聞かば、秋聲賦の後、又一賦の作有るべし。

   *

「本莊」「ほんさう」で「本所」のこと。本所は、ここが中世の荘園制度に於ける荘園であったことに由来する地名である(荘園を実効支配する領主を「本所」と呼んだ)。なお、当時の平戸藩下屋敷は本所中之郷(現在の墨田区東駒形)にあった。「狡兒」は「かうじ(こうじ)」で悪戯っ子・不良少年・チンピラの意。「見せ使しに」「みせしめしに」。見せに遣らせたが。「面の徑り一尺五六寸」太鼓の打撃する皮張りの部分で直径四十五・四五~四十八・四八センチメートル。「歐陽氏」北宋の文人政治家欧陽脩(おうようしゅう 一〇〇七年~一〇七二年)で、「秋聲賦」は長文の秋の夜の趣を謳いあげた賦で、彼の代表作として人口に膾炙される。驟に」「にはかに」。

「鏡花のいはゆる法華の太鼓」本章最後に附した私の泉鏡花の随筆である「狸囃子」掉尾を参照。]

 

 江戶の話ではないけれども、「諸國里人談」にある森囃しなども、同類としてこゝに擧げて置く必要があるかも知れぬ。享保の初め頃、武州、相州の境である信濃坂に、每夜囃し物の聲が聞える。笛鼓など四五人で囃すらしく、中に一人老人の聲がまじつてゐる。近在または江戸からも、これを聞きに行く人が多く、場所ははつきり知れなかつたのを、次第に近く聞き付けて、遂にその村の產土神の森の中とわかつた。時に篝りを焚くことがあり、翌日境内に靑松葉の燃えさしのころがつてゐることがある。一尺餘りの靑竹が森の中に捨ててあるのは、囃しの鼓だらうと里人は云つてゐた。たゞ囃しの音ばかりで、何の禍ひもなかつたが、なかなか止まず、夏の頃から秋冬にかけてこの事が續いた。それもだんだん間遠になり、三日五日の間を置き、遂に十日も聞えぬことがある。聞えはじめの頃は好奇心も手傳つて、聞く人も何とも思はなかつたが、後には自ら恐怖の感を生じ、翌年の春頃に至つては、囃しのある夜は、里人も門戶を閉ぢて外へ出ず、物音を立てぬやうにして家に引込んでゐるといふ風になつた。春の末にはいつとなく止んだとある。この囃しの正體は無論わからない。場所は產土神の境内とわかり、時に火を焚くとか、遺留品があるとかいふ事實がありながら、何者の所爲か突き止められぬところを見れば、やはり人間の囃しではないのであらう。時代はこれが一番古い。

[やぶちゃん注:『「諸國里人談」にある森囃し』は同書の「四 妖異部」の二番目にあある「森囃(もりばやし)」である。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。踊り字「〱」は正字化した。

   *

   ○森囃

享保のはじめ、武州相州の界信濃坂に夜每に囃物の音あり。笛鼓など四五人聲にして、中に老人の聲一人ありける。近在又は江戶などよりこれを聞に行く人多し。方十町に響て、はじめはその所しれざりしが、しだいに近くきゝつけ、其村の產土神の森の中なり。折として篝を焚事あり。翌日見れば、靑松葉の枝燃さして境内にあり。或はまた靑竹の大きなるが長一尺あまり節をこめて切たるが、森の中に捨ありける。これはかの鼓にてあるべしと、里人のいひあへり。たゞ囃の音のみにして、何の禍ひもなし。月を經て止まず。夏のころより秋冬かけて此事あり。しだいしだいに間遠に成。三日五日の間、それより七日十日の間を隔たり。はじめのほどは聞人も多くありて、何の心もなかりけるが、後々は自然とおそろしくなりて、翌年春のころ、囃のある夜は、里人も門戶を閉て戶出をせず。物音も高くせざりしなり、春のすゑかたいつとなく止みけり。

   *

文中の「方十町」は約一・一キロメートル四方。]

 

 狸の腹鼓は古く歌にも詠まれて居り、江戶以外の土地の話もいろいろある。「雲萍雜志」に見えたのは九州の話で、或寺に一宿した夜、この音を聞いた。住持の話に、今夜は月がいいから狸が集まつて腹鼓を打つのです、といふことなので、耳を澄ますと成程遙かに聞える。砧の音ではあるまいかと疑つたが、さうでもない。向ひの岡の手前に一むらの藪があり、他に人家もないので、狸どもがそこに集まつて打つのである。その住持がこゝに來て九年になるが、三年ばかりたつた秋からこの音が聞え出した。不審に思つて行つて見た處、狸の栖む穴があるだけであつた。

[やぶちゃん注:「雲萍雜志」現代仮名遣で「うんぴょうざっし」と読む。江戸後期の随筆で四巻。文人画家柳沢淇園(きえん)の著と伝えられるものの、未詳。天保一四(一八四三)年刊の和漢混交文の随筆。本話は同書の掉尾にある。吉川弘文館随筆大成版を参考に、例の仕儀で加工して示す。

   *

○狐は好智ありて、疑ひ多き故に、かれがよこしまにひがめる性を忌みて、人愛せず。狸は痴鈍にして、暗愚なれば、人も憎まず。予筑紫にまかりし頃、ある寺にやどりける夜、あるじの僧の、あれ聞たまへ。今宵は月のさやけさに、狸どものあつまりて、腹つゞみをうつなりといふに、耳をすませば、その音、はるかに響けり。砧のおとにやあらんとうたがへば、左にもあらず。向ひたる岡のこなたに一むらの藪ありて、他には人家なし。狸ども、そこにあつまりゐて打なり。住持云、われ、この寺に居ること、およそ九年になりぬ。三とせ過ぬる秋よりして、人々、この音を聞つけぬ。予もいぶかりて、そのところを尋ね見しに、只狸が栖める穴のみありといへり。あくる日、行て見侍るに、はたして人家は絕えてなかりし地(ところ)なり。太平の民は鼓腹すなど、古語にもいへば、腹つゞみはめでたきためしにや。

   *]

 

 京に琴をよく彈く縫菴といふ隱者があつた。信頰といふ者が橫笛をよくするので、二人が琴と笛とを合せる時になれば、狸が庭に來てその尾を股間に挾み、腹鼓を打つと「一話一言」に出てゐる。二人の唱和の歌もあるが、特にこゝに引用しなければならぬほどの名歌でもない。

[やぶちゃん注:「縫菴」現代仮名遣で「ぬいあん」か「ほうあん」、「信頰」は「しんきょう」であろう。]

 

 加賀の小松の和泉屋といふ醬油造りの家には、古くから狸が栖んでゐて、夜更けに人が寢しづまると、臺所へ出て餘りのものを食つたりするが、家人は慣れて怪しまない。主人は風雅の人で、或時江戶の便りにあつた句を短册にしたゝめ、机に置いて庭を眺めてゐるところへ、人が誘ひに來たので、一夜家を明けて歸つたら、その短册が半分ちぎつてあつた。二三日たつて、今度は机の上に置いた書きかけの紙が、また端をちぎられた。その都度叱られる小僧が、自分の寃を雪(そゝ)がうとして、遂にいたづら者を見付けた。早速主人に報告して樣子を窺ふと、狸が一疋庭の隅に立つて、月下の土に引裂いた紙を置き、腹をぽんと敲いては背中にちぎつた紙をつける。主人もはじめて小鼓を打つ眞似であることを了得した。昔同じ國の山中に鼓をよく打つ者があつたが、狸がやつて來て、負けずに鼓を打つ。夜もすがら張り合つた結果、曉に至り狸は腹を打ち破つて死んでゐたといふ。かういふ文盲な狸に比すれば、我家のはさすがに風流なものと、月の一夜を打つに任せたといふのであるが、この「三州奇談」の話はいさゝか作爲の跡が目立つ。腹鼓の緣から、小鼓を打つのに擬して紙を背中に付けるあたり、特にその感が强い。

[やぶちゃん注:これは同書の「卷之一」の掉尾にある「家狸風流(けりふうりゅう)」。二〇〇三年国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系5 近世民間異聞怪談集成」を参考底本としつつ、恣意的に正字化した。底本編者の補訂した字はそのまま本文に入れ込んだ。一部に歴史的仮名遣の誤りがあるのはママ。

   *

     家狸風流

 小松泉屋といふは、其(その)先は淵崎泉入道慶覺が後と云(いふ)。前田氏創業の始め、一揆の大家多くは皆(みな)町屋と成(なり)ぬ。されば此(この)家も久しき故にや、又は家產醬油を多く送りて、常に數百石の大豆を置く故にや、昔より此(この)緣の下に狸住んで、夜深(ふかく)人靜(しづま)りては臺所へも出て、餘れる食を喰ふ事あり。家人皆常として不ㇾ怪(あやしまず)。主(あるじ)は先代より風雅に好(このみ)て、伊勢・凉菟、此地に行脚せし時も爰(こゝ)に宿る。『七さみだれ』の撰者里冬といふは此人也。されば今の主も常に書院の硯を友とし、花鳥と風情を盡す。此程(このほど)江戶より聞(きこ)ゆる句に、

  蘭の花只蕭然と咲にけり   秋瓜

 是(これ)を短册にして机にすへ、庭のけしきとともに其(その)秋庭情を味われ居られしに、忽(たちま)ち友人のさそひ來(きた)りて、郊外に出て夜とともに明(あか)す事有(あ)りて、翌日歸りみるに、きのふの短册半ばより下を引(ひいき)ちぎり有(あり)し儘に、主人大きにはら立て、「家内の者には斯(か)くすべきものなし。小兒はいとけなし、其(その)力(ちから)の及ぶべき事にあらず。是(これ)必ず小童淸次がわざならん」と引出して叱られけるに、「曾て不ㇾ致(いたざず)」との旨をことはれども、外に誰すべきものもなければ、罪を云分(いひわく)べき方もなし。二三日過て、文机の上一順を書ける紙有(あり)しに、是(これ)又少し端を引ちぎりて有しが、主人とかくに「是(これ)淸次ならん」と叱る。淸次は十二三の者なれば、大いに迷惑して「とかく此紙を裂く者を見出さん」と每夜書院の間へ起出てすかしみるに、急度(きつと)其ものこそ見付けれ、古き狸の此紙をさきて庭に出る也(なり)。淸次よろこびて、主人に此(この)趣(おもむき)をかたれば、主人も不思議に思ひて、「音なせそ」と只(たゞ)ふたり庭をめぐりて此(この)體(てい)をすかしみるに、狸一疋庭の隅に立(たち)て、比(ころ)しも葉月の月きよきに、引(ひき)さきたる紙を前におき、我(わが)はらをぽんと敲(たゝ)きては、よりかへりて背中に彼のちぎりたる紙をつけてみるなりけり。是(これ)ぞ小鼓の體や見覺へけん。傳へ聞(きく)、むかし山中に鼓をよく打つ者有しに、狸來りて互(たがひ)に音をはげみ合ては一夜爭ひしが、曉に至りて、狸はらを打破つて死にけりと聞しに、夫(それ)は上古の文盲なる狸成るべし。家狸はよく人事を眞似ると聞しが、實(げに)も紙を付(つけ)ては音のよく出る事にやおもひけん。又は腹すじのしめかげんも有(あり)けるにやと、其志のおかしければ、快く月夜に立明(たちあ)かさせて、翌日は小豆飯に取(とり)はやして、其不思議を晴(はれ)されしとぞ。

   *]

 

 かういふ原始的な腹鼓と、本所の狸囃子との間に、どういふ繫りがあるかわからない。「太平の民は鼓腹すなど、古語にもいへば、腹つゞみはめでたきためしにや」と「雲萍雜志」は云つてゐるが、さう無理にこじつけることもなからう。月下に便々たる腹を敲きつゝある狸の姿を想像すると、妖氣は殆ど感ぜられず、漫畫的な情景が浮んで來る。その集團的なものが狸囃子まで發展したところで、松浦家の侍婢のやうに恐れるには當らぬ。「机の上に頰杖して、狸的(たぬこう)が又やつてるぜ、と人知れずこそ微笑(ほゝゑ)まるれ」といふ鏡花の方に與(くみ)したいのである。

[やぶちゃん注:「机の上に頰杖して、狸的(たぬこう)が又やつてるぜ、と人知れずこそ微笑(ほゝゑ)まるれ」先の鏡花の随筆「狸囃子」のコーダ、

   *

 音(おと)も人の心によりて違(たが)へり。彼(か)の時は庚申(かうしん)のことありしより法幸の太鼓とや聞かれけむ。今日(けふ)は演習のありつるよなど思ふ時は、奏樂(そうがく)つるべ擊つ大砲の谺(こだま)の如く、恰も太平記の初卷(しよくわん)を讀み居(を)れば、瀨多の長橋(ながはし)とゞろとゞろと蹈鳴(ふみな)らすも恁(か)くやと聞(きこ)ゆる。されば酒(さけ)なく美人なき夜(よ)は、机の上に頰杖(ほゝづゑ)して、狸的(たぬこう)が又やつてるぜ、と人知れずこそ微笑(ほゝゑ)まるれ。

   *

からの引用(底本は岩波の「鏡花全集」(第)に拠った(読みは振れるもののみに留め、踊り字「〱」は字及び繰り返し記号「ゞ」に直した)。ああ!……やっぱり鏡花の言の葉は夢幻に永遠に美しい!…………

小穴隆一「二つの繪」(43) 「河郎之舍」(2) 「河郎之舍の印」

 

     河郎之舍の印

 

 芥川の言ふ「書く會」、碧童の言ふ「行燈の會」での歌は、今日になると碧童のもののはうが昔を偲ばせる。

  行燈ノ燈影ヨロコヒコヨヒシモ三人カアソブ燈影カソケキ

  生キノ身ノ三人カヨレバ行燈ノ燈影ヨロコビ歌作リワブ

  呉竹ノ根岸ノ里ノ鶯ノ靑豆タべテ君カヨロコフ

  秋タケシ我鬼窟夜ノシチマナル三人ノアソヒミタマヨヒカフ

  行燈ノ燈影ヨロコフ酒蟲ノあか歌いかに酒蟲の歌

  幼ケナキコロヲ偲フハ行燈の燈影タノシミ寢し我かも

  シツヤシツ行燈ホカケヨロベルウマ酒ノ醉身ヌチメクルモ

  夜ヲコメテ行燈ホカケヨロコベル三人ノモノノ歌ヒヤマスモ

  むらむらに黃菊白菊挿しあへる河郎の舍の夜のよろしも

  白菊ノ花ノミタレヨ行燈ノホカケニミレハ命ウレシキ

    (片假名平假名のまじりなど、碧童の醉筆のままに寫す。)

 これら三十何年前の游心帖のなかに埋れたままになつてゐる、碧童の一連の歌をみてゐると僕は、「書く會をやらばや」の酒蟲ノアカヨロコベル行燈ノ主寂シモのその主の芥川、河郎之舍の名護屋行燈、淺草で買つた五圓の南京の鉢に蜂屋柿、陶物の杯臺(灰落しに使つてゐる)、和蘭陀茶碗、南京の鉢は淺草の瓢簞池に近い道具屋にあつたもので、それを買つた日には、背景に畫いた十二階を使つてゐる寫眞屋にはいつて、皆で寫眞を撮つてもらつたが、できたのをみると、香取さんがこしらへた鳥冠(とりかぶと)の握りのついた太い籐のステッキを手にして構へた、芥川の黑のソフトの上に、箱庭の五重塔のやうな十二階がのつて寫つてたなどの事を四、五日前のことのやうに思ひだすのである。芥川は、

   河郎の舍の主に奉る

  河郎の陸をし戀ふる堪えかねて月影さやにヒヨロト立ち出つ

[やぶちゃん注:底本では「河郎の陸をし戀ふる堪えかねて月影さやに月影さやにヒヨロト立ち出つ」となっているが、狂歌として見ても、「鯨のお詣り」を見ても、この下の句の二番目の「月影さやに」は衍字としか思えぬので、特異的に除去した。]

 

といふ碧童の歌のヒヨロに「このヒヨロト立ち出つはうまいなあ、」と感心してて、後日になつてやうやく、〔橋の上ゆ胡瓜投ぐれば水ひびきすなはち見ゆる禿のあたま〕といふ歌を僕に示してゐた。芥川が當日示してゐたものに

 行燈の火影は嬉し靑竹の箸にをすべき天ぷらもがな

 行燈の古き火影に隆一は柹を描くなり蜂屋の柹を

 磐禮彦かみの尊も柹をすと十束の劍置きたまひけむ

といふ歌があつた。

 河郎之會の印は、入谷住ひの碧童が(仲丙が篆刻家としての號、)今日は娘達の運動會を見にゆくのをたのしみにしてゐたが、雨でながれたものだからと言つて、刻むでゐたのを游心帖に押してみせた、それを僕が芥川に紹介し芥川の物になつた。(新書判全集、書簡六四一參照)當時僕は、河童はその河童の印にまで水に緣があるものなのかと思つてゐたものである。

 小澤碧童は夜ふけ淺草の五錢の木戸の安來節に、人を押しわけてゆき、舞臺の女といつしよになつて大聲でゐるかと思ふと、その三味線を彈く盲の女がいく度か切れる糸をまさぐつてゐる、それをみておろおろと泣く、さういふ人であつた。

 

Kawarou1

 

[やぶちゃん注:参考までに、中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の再版(昭和五三(一九七八)年)の小穴隆一著「芥川龍之介遺墨」に載る朱判の「河郎之舎」(かはらうのいへ:「いへ」の読みは先行する「鯨のお詣り」に基づく。言わずもがなであるが「かはらう(かわろう)」とは河童の別名である)の同印影を以下に示しておく。なお、篆刻者である小澤碧童は昭和一六(一九四一)年没であるから、彼の作品もパブリック・ドメインである。

 

Kawarou2

 

「書く會」「行燈の會」(後者は「あんどんのくわい」と読む)については、岩波新全集未定稿後記及び第二十四巻宮坂覺氏編の年譜によって、大正九(一九二〇)年十一月二日に同定されており、この日、小穴隆一と小澤碧童の三人で「行燈の会」と称するものを開き、それぞれが俳句や短歌、俳画をものしたとする。或いは、同じ名称で同様のメンバーで同様の回を後にも開いた可能性もあるのかも知れぬ。

「行燈ノ燈影ヨロコヒコヨヒシモ三人カアソブ燈影カソケキ」「鯨のお詣り」では、

 行燈(アンドン)ノ燈影(ホカゲ)ヨロコビコヨヒシモ三人(ニン)ガアソブ燈影(ホカゲ)カソケキ

と表記する。

「生キノ身ノ三人カヨレバ行燈ノ燈影ヨロコビ歌作リワブ」「鯨のお詣り」では、

 生(イ)キノ身(ミ)ノ三人(ニン)ガヨレバ行燈(アンドン)ノホカゲヨロコビ歌作(ウタツク)リワブ

と表記する。

「呉竹ノ根岸ノ里ノ鶯ノ靑豆タべテ君カヨロコフ」「鯨のお詣り」では、

 呉竹(クレタケ)ノ根岸(ネギシ)ノ里(サト)ノ鶯(ウグヒス)ノ靑豆(アヲマメ)タべテ君(キミ)ガヨロコブ

と表記する。

「秋タケシ我鬼窟夜ノシチマナル三人ノアソヒミクマヨヒカフ」「鯨のお詣り」では、

 秋(アキ)タケシ我鬼窟(ガキクツ)夜(ヨル)ノシジマナル三人(ニン)ノアソビミタマヨヒカフ

と表記する。最終句は「御靈呼び交ふ」の謂いであろう。

「行燈ノ燈影ヨロコフ酒蟲ノあか歌いかに酒蟲の歌」「鯨のお詣り」では、

 行燈(アンドン)ノ燈影(ホカゲ)ヨロコブ酒蟲(サカムシ)ノアカ歌(ウタ)イカニ酒蟲(サカムシ)ノ歌(ウタ)

と表記する。「アカ歌」は「吾が歌」の謂いであろう。

「幼ケナキコロヲ偲フハ行燈の燈影タノシミ寢し我かも」「鯨のお詣り」では、

 幼(イト)ケナキコロヲ偲(シノ)ブハ行燈(アンドン)ノ燈影(ホカゲ)タノシミ寢(イネ)シ我(ワレ)カモ

と表記する。

「シツヤシツ行燈ホカケヨロベルウマ酒ノ醉身ヌチメクルモ」「鯨のお詣り」では、

 シヅヤシヅ行燈(アンドン)ホカゲヨロベルウマ酒(ザケ)ノ醉身(ヨヒミ)ヌチメクルモ

と表記する。「ヌチ」は上代からある連語で、元は格助詞「の」に名詞「内(うち)」の付いた「のうち」の音変化したもの。「~の内」の意。「メクルモ」は「巡(めぐ)るも」の謂い。

「夜ヲコメテ行燈ホカケヨロコベル三人ノモノノ歌ヒヤマスモ」「鯨のお詣り」では、

 夜(ヨ)ヲコメテ行燈(アンドン)ホカゲヨロコベル三人(ニン)ノモノノ歌(ウタ)ヒヤマズモ

と表記する。

「むらむらに黃菊白菊挿しあへる河郎の舍の夜のよろしも」「鯨のお詣り」では、

 ムラムラニ黃菊(キギク)白菊(シラギク)挿(サ)シアヘル河郎(カハラウ)ノ舍(イヘ)ノ夜(ヨル)ノヨロシモ

と表記する。

「白菊ノ花ノミタレヨ行燈ノホカケニミレハ命ウレシキ」「鯨のお詣り」では、

 白菊(シラギク)ノ花(ハナ)ノミダレヨ行燈(アンドン)ノホカゲニミレバ命(イノチ)ウレシキ

と表記する。「鯨のお詣り」では歌の順序が異なり、しかも本書では小穴隆一はわざわざ「片假名平假名のまじりなど、碧童の醉筆のままに寫す」と注している以上、「鯨のお詣り」のデータよりも、こちらの方がより正確なものであると考えてよい。

「酒蟲ノアカヨロコベル行燈ノ主寂シモ」は「鯨のお詣り」でも、この未完成状態で本文挿入がされている(「酒蟲(サカムシ)ノアカヨロコベル行燈(アンドン)ノ主(アルジ)寂(サビ)シモ」とルビを振る)。

「名古屋行燈」(なごやあんどん)は角行灯 (かくあんどん) の一つで、火袋(ひぶくろ)の枠を細い鉄で作ったもの。江戸中期以降に用いられた。

「蜂屋柿」(はちやがき)柿の一品種で渋柿。果実は大きく長楕円形で頂部は鈍く尖る。岐阜県美濃加茂市蜂屋町の原産で、非常に古くから干し柿としたもの。「美濃柿」とも呼ぶ。

「背景に畫いた十二階を使つてゐる寫眞屋にはいつて、皆で寫眞を撮つてもらつた」この写真は、鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)の一〇八ページの「了中先生渡唐送別記念会」(「了中」は芥川龍之介の古い俳号の一つ)写真として見ることが出来、確かに芥川龍之介は写真の左端にあって、「香取さんがこしらへた鳥冠(とりかぶと)の握りのついた太い籐のステッキを手にして構へた、芥川の黑のソフトの上に、箱庭の五重塔のやうな十二階がのつて寫つて」いる。「香取さん」は鋳金工芸師香取秀真(明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の田端の家のすぐ隣りに住み、龍之介とは友人でもあった。「鳥冠(とりかぶと)」写真のステッキの柄は小さくてよく確認は出来ないが、どうもモクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum の花の形を模した金属製の握りのように私には見える。

「仲丙」以下の書簡では、宛名に「仲平先生」とあり、「鯨のお詣り」では「仲丙(ちうべい)」「仲平(ちうべい)」と二様に出ていることから、これらはてっきり「仲平」の誤植かとも思ったが、小穴隆一著「芥川龍之介遺墨」のこの陰影の脇にははっきりと「小沢仲丙刻」とあるから、これも号の一つであったらしい。小澤の本名は清太郎であったが、後に西徳・忠兵衛とも称し、この「忠兵衛」を篆刻で彫り易いように簡略化した号かとも推測される。

「河郎の舍の主に奉る」「かはらうのいへのあるじにたてまつる」。「鯨のお詣り」のルビに拠る。

「河郎の陸をし戀ふる堪えかねて月影さやにヒヨロト立ち出つ」「堪え」はママ。「鯨のお詣り」では、

 河郎(かはらう)の陸(くが)をし戀(こ)ふる堪(た)へかねて月影(つきかげ)さやにヒヨロと立ち出づ   碧童

の表記で出る。

「橋の上ゆ胡瓜投ぐれば水ひびきすなはち見ゆる禿のあたま」これは大正九(一九二〇)年から大正十一(一九二二)年に書かれたと思しい芥川龍之介の手帳「蕩々帖」(署名は「我鬼」)の中に記された短歌の一首。そこでは、

 

 橋の上ゆ胡瓜投ぐれば水ひびきすなはち見る禿のあたま

 

となっている。但し、音数律からみても「見る」は「みゆる」と読ませていると考えてよい。後の大正十一(一九二二)年四月二十五日から五月二十九日までの二度目の長崎行の際、五月十八日に渡辺庫輔や蒲原春夫らの案内で丸山遊郭の待合「たつみ」に遊び、東検番の名花と謳われた名妓照菊(本名・杉本わか)に、銀屏風に乳房のある「水虎晩帰之図」を描き与えた際に吟詠されたと思しい二首の内の一首に同じ歌があり(そこでは「戲れに河郎の圖を作りて」の前書がある)、そこでは龍之介は「禿」を「かむろ」と読ませたようである(芸妓への贈答句なら確かに「かむろ」がよい)。訓じていたようである。意は無論、皿になった禿(はげ)頭のことである。個人的には「とくろ」と読みたくなることを附け加えておく。やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注を参照されたい。

「行燈の火影は嬉し靑竹の箸にをすべき天ぷらもがな」「當日示した」とあるように、これ以下三首は現在、この大正九(一九二〇)年十一月二日「行燈の會の歌」での芥川龍之介の吟とされる。同じくやぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注を参照されたい。

「行燈の古き火影に隆一は柹を描くなり蜂屋の柹を」「柹」は「柿」の本字。

「磐禮彦かみの尊も柹をすと十束の劍置きたまひけむ」「磐禮彦かみの尊」「いはれひこ(いわれひこ)かみのみこと」と読む。神武天皇の和風諡号で、「古事記」では「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれひこのみこと)」、「日本書紀」では「神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)」と称する。「をす」は「食(を)す」。「十束の劍」は「とつかのつるぎ」と読む。日本神話に登場する剣で、一束(ひとつか:拳一つ分の幅)を十並べた長さの長い直刀の意。以下、ウィキの「十束剣」から引用する。『一つの剣の固有の名称ではなく、長剣の一般名詞と考えられ、それぞれ別の剣であるとされる』。『最初に登場するのは神産みにおいてイザナギがカグツチを斬る場面である。この剣には、天之尾羽張(あめのおはばり)または伊都之尾羽張(いつのおはばり)という名前がついている(伊都之尾羽張という名前は、その後タケミカヅチの父神の名として登場する)。その後、黄泉の国から逃げる際に、十拳剣を後手(しりへで)に振って追っ手から逃れている』。『アマテラスとスサノオの誓約の場面では、古事記ではスサノオが持っていた十拳剣からアマテラスが』三柱(はしら)の『女神を産んでいる。最も有名なのはヤマタノオロチ退治の時にスサノオが使った十拳剣(別名「天羽々斬(あめのはばきり)」』(「羽々」とは「大蛇」の意)で、『ヤマタノオロチの尾の中にあった草薙剣に当たって刃が欠けたとしている(この十拳剣は石上布都魂神社に祭られ崇神天皇の代に石上神宮に納められたとされる)』。『山幸彦と海幸彦の説話では、山幸彦が海幸彦の釣り針を無くしてしまったため、自分の十拳剣を鋳潰して大量の針を作っている』。『葦原中国平定の説話において、アメノワカヒコの葬儀に訪れたアジスキタカヒコネが、怒って十掬剣で喪屋を切り倒している。その後、タケミカヅチらが大国主の前で十掬剣を海の上に逆さまに刺し、その切先にあぐらをかいて威嚇している。この剣は後に神武東征の場面において神武天皇の手に渡る。そこに、この剣が佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ)または布都御魂(ふつのみたま)という名前であると記されている』。『仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手がそれぞれ白銅鏡、八尺瓊と共に十握剣を差し出して降伏している』とある。

「新書判全集、書簡六四一」私は新書版全集を所持しないので確定は出来ないが、恐らくは旧全集書簡番号八一五、大正九(一九一〇)年十二月六日附田端発信の小澤忠兵衛(碧童のこと)宛の以下の書簡、

   *

合掌 御手紙難有く頂きました相不變毎日原稿に惱まされてゐます 昨日も折柴改造の社長と同道にて參り何でも六日中に脱稿を賴むとの事にて今日は嫌々ながらずつとペンを握りつづけですその後私雲田と云ふ號をつけると申した所、大分諸君子にひやかされました雲田の號がそんなに惡いでせうか 小穴先生に聞けば蜆川あたりはの御歌畫箋紙に御書きになつたのがある由頂戴出來るなら頂戴したく思ひますそれから河郎舍の印も頂戴しないとつぶされてしまふ由欲張つてゐるやうですが頂かせて下さいこれも小穴先生の入知惠です何しろ原稿の催促ばかりされてゐる爲一向歌も句も出來ません仕事をしまつたら一日ゆつくり風流三昧にはひつて見たいと思つてゐます風流三昧と云へば小穴先生に素ばらしい鷄の畫を貰ひました意淡にして神古るとでも云ひたさうな畫ですあゝなると河童ではとても追ひつきませんこの頃でも時々氣が滅入つて弱ります

     僅に一首

  苦しくもふり來る雨か紅がらの格子のかげに人の音すも

その内又參上愚痴を聞いて頂きます 頓首

    十二月六日        龍之介

   衷平先生侍史

   *

 

を指すものと思われる。文中の急かされた原稿は雅号のところで知れるように、前章に出た、かの大正一〇(一九二一)年一月一日発行の『改造』初出の「秋山圖」である(脱稿は鷺只雄氏が前年の十二月七日、宮坂覺氏が九日頃とする。この八一五書簡の前の八一四書簡は同月六日附瀧井孝作宛で、それを見ると、この六日には「秋山圖」の改稿した一部(途中まで)を送付していることが判る)。「神古る」は「かみさぶる」と読む上代語で、神々しく人間離れした性質・状態を現わし、恋している心持ちとは正反対の様態を示す語として用いられる。]

2017/01/21

戯れ歌一首

天使憂鬱翅無慘曠野荒海再臨界   唯至

 
――てんしゆううつはねむざんあらのあらうみさいりんかい――

狂信

文学的文字的表象に対して盲目であることは同時に狂信者であることと同義である――

小穴隆一「二つの繪」(42) 「河郎之舍」(1) 鬼趣圖

  河郎之舍

     鬼趣圖

 

Kisyuzu

 

 うさぎやが來て、碧童さんのところに芥川さんと君の合作の鬼趣圖があると言ふ。そんなものは畫いた覺えがないと言ふと、ともかくなんだか一度見てみないかと言ふ。そんな話から僕はうさぎやと一緒に十三年ぶりで、小澤碧童の家に行つてみせてもらつてきたが、それが昔の游心帳をとりあつめてその中に、

 龍之介隆一兩先生合作

 鬼趣圖をみてよめる狂歌

 ろくろ首はいとしむすめと思ひしに縞のきものの男の子なりけり

 うばたまのやみ夜をはけてからかさの舌長々し足駄にもまた

と達筆で書いた碧童の筆跡があるのをみるまでは、なかなか合點できなかつたものである。

 忘却はおそろしい。僕はやうやく碧童の持つてゐる鬼趣圖が駒込91221の消印(大正)で送られてゐた奉書の手紙を卷書に仕立ててゐたのだとはつきり氣づいた次第であつたが、當時ですら、十九年も前のことであつたから、持つてゐた碧童にも書いてゐた僕にも、ちよつとわけがわからなくなつてしまつてゐたのであつた。

 芥川と僕が合作の鬼趣圖を碧童に送つたのは十二月二十一日であるが、芥川は七日に、〔ボクは今王煙客、王廉州、玉石谷、惲南田、董其昌の出現する小説を書いてゐる、皆登場してたつた二十枚だから大したものさ、洞庭萬里の雲煙を咫尺に收めたと云ふ形だよ、コイツを書き上げ次第鮫洲の川崎屋へ行きたいが、君つき合はないか、入谷の兄貴も勿論つれ出すさ、雲田屋我鬼兵衞〕といふ手紙を僕によこしてゐた。この二十枚といふ小説が「秋山圖」であるが、芥川は自決を言ひだしてから、記秋山圖始末の載つてゐた甌香館集と新羅山人題畫詩集とを僕にくれてゐる。

[やぶちゃん注:この底本の写真は画素も荒く、右端の「鬼趣圖」の文字と左端の舌出した唐傘お化けぐらいしか判別出来ぬ代物であるが(右と中央に一体ずつ妖怪変化らしきものがあるが、形状把握も不能である。右の黒いのが髪とするなら、小澤の狂歌から轆轤首であるのかも知れぬ。なお、芥川龍之介はしばしば好んで唐傘お化けを描いている事実があることから、この左のそれは芥川龍之介の筆になる可能性が高いように思われる)、この図、私の所持する芥川龍之介関連の図譜類にも見ることが出来ないものであるからして、補正を加えて示すこととした。また、意外なことに先行する「鯨のお詣り」に同図の方がややより細部が判るので、参考に以下に掲げる。これを見ると、どうも右側の絵は藤の花房のようにも見え、轆轤首には見えず、中央の絵の下部には文字らしきものが見えるような気もする。原画を見てみたいものである。

 

Kisyuzu2

 

「うさぎや」既出既注の和菓子屋谷口喜作。

「游心帳」後の同名の章に記されてあるが、小穴隆一(彼は俳号を一游亭と言ったから、この「游」もそうした雅趣からの命名であろう)の雑記帳の名称。小穴自身の文章や俳句・スケッチなどの他、友人の談話記録や彼らが描いた戯画等も書かれたものである。

「駒込91221の消印(大正)で送られてゐた奉書の手紙」これは後の「書いてゐた僕にも」という叙述から、差出人自体は芥川龍之介ではなく、小穴隆一であるということが判る(実際、同日附クレジットの小澤宛芥川龍之介書簡なるものは存在しない)。

を卷書に仕立ててゐたのだとはつきり氣づいた次第であつたが、當時ですら、十九年も前のことであつたから、持つてゐた碧童にも、ちよつとわけがわからなくなつてしまつてゐたのであつた。

「芥川は七日に、〔ボクは今王煙客、王廉州、玉石谷、惲南田、董其昌の出現する小説を書いてゐる、皆登場してたつた二十枚だから大したものさ、洞庭萬里の雲煙を咫尺に收めたと云ふ形だよ、コイツを書き上げ次第鮫洲の川崎屋へ行きたいが、君つき合はないか、入谷の兄貴も勿論つれ出すさ、雲田屋我鬼兵衞〕といふ手紙を僕によこしてゐた」旧全集書簡番号八一八。書名は正確には「雲田屋我鬼兵エ」(「鯨のお詣り」には「くもだやがきべゑ」のリビが附されてある)。読点の有無を除くと正確に引用している。後に出るように、この「小説」は大正一〇(一九二一)年一月一日発行の『改造』初出の「秋山圖」で、脱稿は鷺只雄氏が前年の十二月七日、宮坂覺氏が九日頃とする。「王煙客(おうえんかく)」(以下総て面倒なので現代仮名遣で読みを示す)「王廉州(おうれんしゅう)」「玉石谷(おうせきこく)」「惲南田(こんなんでん)」「董其昌(とうきしょう)」と読む。以下、簡単に各人について注しておく。概ね、筑摩書房全集類聚版脚注と中文のウィキとを参考にした。

・「王煙客」(一五九二年~一六八〇年)は明末清初画家。「烟客」は号で本名は時敏。同時代の同じ「王」姓を持った山水画の代表画家であった鑑(後の王廉州のこと)王原祁・王翬(おうき:後の玉石谷のこと)とともに「四王」と称された。筑摩書房全集類聚版脚注によれば、書画は後に出る董其昌らに学び、『官を辞して子弟を養成し』たとあり、後に出る『王石谷はその門下生』で、一派を『婁(ろう)東派』と称したとある。

・王廉州(一五九八年~一六七七年)は明末清初画家。本名は王鑑。広東の廉州府の知府であったことから世に「王廉州」と言った。山水画に優れた先の「四王」の一人。

・玉石谷(一六三二年~一七一七年)は前に注した「四王」の一人で清初の画家である王翬(本名。石谷は字(あざな))。筑摩書房全集類聚版脚注によれば、『古今の大家を学ん』ぶも『それに拘泥せず、天地自然の実景について研究』を重ね、『遂に南北二宋の画法を合して一家を成した』とある。

・惲南田(一六三三年~一六九〇年)は清初の文人画家・書家の惲格。字は寿平で、晩年になって南田老人と自称した。ウィキの「惲寿平」によれば、『惲一族は明代には毘陵の名家であったが、清軍によって多くの同族を殺され零落した。父・日初は清朝を嫌い僧になって身を隠し、講師などで生計を立てた。このため寿平は経済的に困窮した家庭環境に育つも、文人としての教養を磨き詩書画三絶と称された。しかし、父の遺志を受け継ぎ生涯、仕官することはなく、一時福建で遺民運動を行ったが、故郷に帰ると売画をもって生活した。甌香館を建て当代一流の文人・名流と交流したが、生活は困窮した。没後、葬儀費用がなく、友人の王翬が世話をしたという』。『画は、幼少の頃から父の従兄弟にあたる惲本初について習った。本初は元代の黄公望を敬慕して奥行き深い雄渾な山水を宗とした。しかし、寿平は王翬の山水画を目にしてその技量にはとても適わないと悟り、以降は花卉画に専念。王翬の紹介で王時敏の門下となり、北宋の徐崇嗣の画法を研究。輪郭線を描かない没骨法を取り入れ、写生を基礎に置いて鮮やかで清新な色彩の花卉図を画き、独自の画風を確立。後にこの一派を常州派といった』。また、『唐・褚遂良の書風に倣い、能書家としても知られている』とある。後に小穴が芥川龍之介から貰ったという「甌香館集」(おうこうかんしゅう)は彼の文集である(甌香館は彼の住居の雅号。この書を芥川龍之介は「秋山圖」の素材としている)。

・董其昌(一五五五年~一六三六年)は明末に活躍した文人で、特に書画に優れた業績を残した。ウィキの「董其昌」によれば、後の『清朝の康煕帝が董の書を敬慕したことは有名である。その影響で清朝において正統の書とされた。また独自の画論は、文人画(南宗画)の根拠を示しその隆盛の契機をつくった。董が後世へ及ぼした影響は大きく、芸林百世の師と尊ばれた』とある。

 

「新羅山人題畫詩集」は清代の画家華嵒(かがん 一六八二年~一七五六年:新羅山人は号。山水・人物・花鳥等あらゆる画題をこなし、軽妙洒脱な筆遣いと構成・色彩によって新しい画境を拓いた作家として知られる)の画詩集。間違ってはいけないが、こちらは「秋山圖」には出ない。]

 

 

小穴隆一「二つの繪」(41) 「入船町・東兩國」

 

 入船町・東兩國

 

「扨、昨日義ちやんよりのお言づけを老人達に申傳へましたが何しろ昔の事で、すこしも覺えて居りません。築地入舟町八丁目、番地は一寸不明で御座いますが一番地ではなかつたかと思ふ位で御座います。私は全然わからない事で何とも申上げやうも御座いません。

 また本所は小泉町十五番地で、國技館から半町ほど龜澤町に向つて行つた反對がはで新宿に移る時に釣竿屋にゆづつたとの事で向ふがはに大きな毛皮屋がありました。震災後の事は一寸わかりません。

 尚入舟町の方は近所で澤山外國人の家があつた由。何でも聖路加病院の近くださうで御座います。」

 

 岩波から普及版「芥川龍之介全集」全十卷が刊行されることになつた昭和九年に、僕は芥川夫人からかういふ手紙をもらつて、〔明治二十五年三月一日、東京市京橋區入船町に生まる。〕又〔母方に子無かりし爲、當時本所區小泉町十五番地の芥川家に入る、〕といふところから順に寫眞に撮つておかうとした。寫すのは弟がやつてくれることにして、二人で行つてみると、いりふねばしのまん中でもう途方にくれてしまつた。橋を渡る前と渡つたあとの二つの交番のどちらで聞いても、現在の入舟町には五丁目までで八丁目はないといふのである。それでやむをえず、僕はあてずつぽうに廣くなつてゐた通りを撮つておいてもらつたが、芥川關係の入船町のことは、いまとなると當時の月報第二號に載つてゐる葛卷久子の手紙で偲ぶよりほかはなかつた。

 芥川がこの姉とも義絶せよと書置してゐる、その間の事情はともかくとして、芥川の入船町、少年時代の事などを書いてゐるこの手紙は、新書判の芥川龍之介案内といつたものにでも收錄できなかつたのか、ちよつと惜しいものである。

 小泉町十五番地のはうは震災後東兩國三ノ一・五となつてゐたが、釣竿屋さんといふのはこれはいたつて簡單にわかつた。さうして、店さきでこちらの話を言ふと、今日は病氣で臥せてゐるといふ主人がわざわざでてきて、昔の芥川家の正面の見とりと間どりを畫いてくれた。慾を言ふと、それが僕らの使ふやうな鉛筆でなく、HBあたりの硬いものを使つてゐるので、雅致のあるその筆跡も凸版にはむつかしくて、致方なくそれをペン畫のインキでなぞつて紹介することとした。[やぶちゃん字注:「HB」は底本では一字分の箇所に横書き。]うどんそばの家も釣竿屋さんの家のなかにはいつてしまつてなくなつてゐたが、うどんそばと渡邊牛乳店の間をはいつた通りに面した塀が昔の芥川家の塀と同じ樣式であると教へられて寫眞に撮つておいてもらつた。

 芥川夫人に石井商店の主人が畫いてくれた圖面を見せたら、この繪どほりですが、芥川さんの五葉の松といつて、有名な松があつたのですがそれが畫いてないと言つてたのは、ほほゑましかつた。石井商店といふのは、電車通りの釣竿屋さんにしては隨分大きい店と思つたが、終戰後はどうなつてゐるのか見てないので知らない。

 

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[やぶちゃん注:以下、上の写真の下に附されてある横書キャプション。]

石井商店の主人の話では、脇の塀は芥川家からゆずり受けた時のままの形であるといふので寫しておいた。主人の畫いてくれた正面の見とりと間どりの圖面とこれで、本所時代の芥川家といふものが僕らにしのべる。

 

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[やぶちゃん注:以下、上の図の図中キャプションは活字であって判読が容易なので電子化しない。一つだけ、上図に『間口七間半』とあるが、これは十四メートル弱に当る。]

 

[やぶちゃん注:「築地入舟町八丁目」新全集宮坂覺年譜によれば、芥川龍之介の生地(明治二五(一八九二)年三月一日生まれ)は外国人居留地の一廓であった、築地入舟町八丁目一番地で、現在の東京都中央区明石町一〇―一一に相当するとある。これは現在の聖路加国際大学の敷地内と考えられる。ここ(グーグル・マップ・データ)。ああ……そうか……二年前の夏……私が脳を損傷して聖路加(ルカ)国際病院のベッドから見下ろしていたのは……なんと……芥川龍之介の生地だったのだ…………

「本所」「小泉町十五番地」芥川龍之介が実母フクの精神疾患の発症によって約八ヶ月後の同年十月二十七日(推定)にフクの実家でフクの兄芥川道章が当主であった本所区小泉町十五番地(現在の墨田区両国三丁目二十二番十一号)方に引き取られた。このグーグル・ストリート・ヴュー画像の「やよい軒両国店というのが、旧芥川家のあった場所である。「横綱通り」入口の「やよい軒」の反対側(右手)に「芥川龍之介生育の地」という案内板を確認出来る。グーグル・マップ・データの地図ではここ

「半町」五十四強メートル。

「龜澤町」現在のJR両国駅直近の東北東線路北側の墨田区亀沢(かめざわ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「毛皮屋」現存しない模様である。

「入船橋」旧築地川に架かっていた橋であるが、現在は完全に暗渠となっている。地名としては残る。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「葛卷久子」芥川龍之介の直ぐ上の実姉新原ヒサ(明治二一(一八八八)年~昭和三一(一九五六)年)。現行ではかく「ヒサ」と表記するのが一般的。葛巻義敏の母。

「芥川がこの姉とも義絶せよと書置してゐる」「その間の事情」前者は芥川文宛遺書の破棄された部分にあったと推定されている指示。私の「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通 ≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」を参照されたい。この指示(異母弟得二との義絶も記されていたと考えられている)の動機(「事情」)は、その部分が破棄され、しかもそれが実行されなかった関係から、よく判っていない。少なくとも私はそれを問題とした論文を見たことはない(得二は人格的に問題があり、行動にも過激で偏執的傾向があって、龍之介自身が親しくしていなかったことからも腑に落ちる指示ではある)。或いは葛巻義定とのよく理由の判らない離婚(新原敏三の牧場の獣医であったが、前の小穴隆一の記載によれば業務上横領をしたことを動機とするとする)や弁護士西川豊との再婚と豊の鉄道自殺などに於ける彼女の応対に弟として人間として激しく失望したことによるものと考えてよかろうと思う。

「新書判の芥川龍之介案内」小穴隆一は「といつたもの」と言っているが、実際、戦後の第三次新書版全集(昭和二九(一九五四)年十一月~翌年八月)全十九巻・別巻一の「別巻」は実は「芥川龍之介案内」という標題・背文字を持つ

「うどんそばと渡邊牛乳店の間をはいつた通り」現在の「横綱通り」。恐らくはグーグル・ストリート・ビュフレーミングで撮ったものが挿入された写真と思われる。中央付近(グーグル・マップ・データ)から現在の京葉道路方向を撮影したものと推測される。無論、当時の赴きは全くない。一致するのは奥の電信柱ぐらいなものである。

「石井商店」小穴隆一の悪い癖だ。「釣竿屋さん」のこと。旧芥川道章家の後地に出来た釣具店のこと。この小穴隆一の記事が昭和九年であるが、少なくとも続く昭和十年前半位までは、まだこの釣具屋石井商店はあったと思われることが、とある方の追想記事から確認出来た。]

小穴隆一「二つの繪」(40) 「影照」(15) 「節をまげぬためには入用の金」 / 「影照」~了

 

        節をまげぬためには入用の金

 その一生をふりかへつての話のなかで芥川は、「大每の貮百圓、文藝春秋から五拾圓、それで僕hs幸に節をまげることなくすませてこられた。」と言つてゐた。

 大每から貰ふ月月の手當とボーナスを合せて月割にすると貮百圓になると言ひ、文藝春秋の五拾圓は月月の卷頭に寄せてゐたものから受取る稿料のことである。

[やぶちゃん注:「大每」芥川龍之介が社員であった大阪毎日新聞社。非常に嫌っていた海軍機関学校の教職をやっと辞することにし、大正八(一九一九)年二月十五日に入社内定(菊地寛とともに)、三月八日に正式な客員社員(新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない)辞令が届いている。なお、これと並行して慶応大学教授招聘の動きがあったが(当時、同大文学部講師であった小島政二郎が仲介)、教授会の一部が難色を示して交渉が遅滞、漸く慶応招聘が教授会で通ったのは大毎内定直後の二月二十三日以前で、既に後の祭りであった。この事実はあまり知られているとは思えないので敢えて記しておく。芥川龍之介が慶應大学文学部教授となっていたらどうなっていただろうかと考えてみるのは面白いことではある。

「貮百圓」入社当初の月給は百三十円であったが、原稿料や、無論、ボーナスは別であった。この月給百三十円の金額は大毎からの提示ではなく、芥川龍之介自身が提示した金額で決まったものである。鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)によれば、機関学校時代の『月給と同じにして』おいて、『怠けないようにしたいことと、沢山もらうと責任が大きくなるというのが、その言い分であった』とある。即ち、芥川龍之介が想定した社が示そうとした金額はもっと高かったのである。

「月月の卷頭に寄せてゐたもの」大正一二(一九二三)年一月一日発行の雑誌『文藝春秋』(創刊号)から大正一四(一九二五)年十一月一日発行の同誌に三十回に亙って毎号の巻頭に掲載された「侏儒の言葉」を指す(リンク先は私の合成完全版)。

 以上を以って「影照」パートは終わる。]

 

小穴隆一「二つの繪」(39) 「影照」(14) 「久米正雄・中勘助」

 

       久米正雄・中勘助

「久米のいいところは僕らがためらふところを、浴衣がけで平氣で尻はしよりして手臑をだしたまま跨いで渡つてしまふところだ、」と芥川は一度述懷してゐた。

 また、「僕は中勘助のやうな生活がしたい、」とも一度言つてゐた。

[やぶちゃん注:「手臑」「けずね」。毛脛。

「中勘助」岩波書店一九九三年刊の宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引 付年譜」(私が最も活用している岩波旧全集対応版)の人名索引には中勘助の名は載らず、新全集の関口安義・宮坂覺著になる書簡中に出現する「人名解説索引」(書簡四巻それぞれに附されいるので計四種。私は新字採用の新全集を嫌悪するため、書簡巻は一冊も所持していないが、この索引は重宝なため、総てコピーして私的に利用させて貰っている)にも載らない。さらに私の所持する芥川龍之介関連書の複数の人名索引にも載らないことから、芥川龍之介の作品や書簡中は勿論のこと、芥川龍之介関連研究では中勘助との比較研究も本格的には行われていないのではないかと推察される。さればこそ、この小穴隆一証言はすこぶる貴重である。ウィキの「中勘助によれば(下線はやぶちゃん)、作家中勘助(明治一八(一八八五)年~昭和四〇(一九六五)年)は『東京市神田区(現千代田区神田)東松下町(旧今尾藩主竹腰家邸内の家)で生まれた。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)を経て、第一高等学校から東京帝国大学文学部英文科まで続けて夏目漱石の講義を受ける。国文科に転じて大学を卒業した後も、早稲田南町の漱石山房をしばしば訪問している。しかし控えめな人柄から、漱石山脈の中では目立たない存在として通した。文壇政治から常に距離を置き、特定の派閥にとらわれない孤高の文人だった。また、野上弥生子の初恋の人としても知られている』。大正二(一九一三)年から翌年にかけて、漱石の推薦によって自伝的小説「銀の匙」を『東京朝日新聞に連載。素直な文章で愛されているが』、「犬」「提婆達多(でーばだった)」など、『愛慾、妄執などを幻想的な作風で描いた作家でもある。その陰には兄金一との確執があった。金一は』明治四三(一九一〇)年に『倒れて廃人となるが、勘助はその妻末子に愛情を寄せていた(末子は幕末長州の志士入江九一の弟野村靖の娘)』。大正一三(一九二四)年から昭和七(一九三二)年まで、平塚に居住し、昭和一七(一九四二)年に末子が死ぬと勘助は五十七歳で『結婚するが、金一は結婚式の日に自殺している。このことは、末子の兄の孫である菊野美恵子が明らかにした』。『戦後、泉鏡花の養女泉名月が谷崎潤一郎に文学修業のため預けられたが、谷崎は中に指導を頼んでいた』という。芥川龍之介より七歳年上。龍之介が引かれたとすれば、下線を施した辺りか。私は名品とされる「銀の匙」より、遙かに「犬」や「提婆達多」などを圧倒的に支持賞讃する人種である。]

 

小穴隆一「二つの繪」(38) 「影照」(13) 「車中の娘さん」

 

    車中の娘さん

 僕は女人たちに、「芥川さんはどういう女の人が好きだつたのですか、」と聞かれると簡單には説明できずに、どういふものかまはりくどい大正十四年の秋の娘さんを思ひだすのだ。さうして、輕井澤の歸り芥川、僕ちやん(比呂志君)蒲原たちの四人は田端でおりるので大宮で電車に乘りかへた、僕らのうしろからは下町風の質素な身なりの身だしなみのよい母娘が乘つてきて向ひ側に腰をかけた、娘さんが立上つて網棚に荷をあげようとする、電車が走つてゐるので二、三度よろめいてゐる、と、輕井澤にゐて、このてらになかときぐんやぶれきてはらきりたりときけばかなしも、と言つてゐて氣色がすぐれず、僕の顏いろをみてゐた毎日のその芥川が、すうつと立つていつてその荷を棚にあげてやる、娘さんが芥川に禮を言つて席に腰をおろす、娘さんはこちら側の僕の左りの席に置いてあつた芥川のスーツ・ケースにじつと目をさらしてゐる。ケースについてゐる小さい活字の芥川の名刺が挿しこんである名札入れが垂れ下つて、娘さんの正面に向いてゐる。娘さんはやがて合點して、ちよつと芥川のはうをうかがつてからこつくりをするとつつましやかなほほゑみをうかべる。といふ情景を思ひだして話をしてゐる。

 娘さんはどうして芥川の住所を知つたのか、芥川は、「こなひだの娘が禮のはがきをよこしたよ、」と言つてゐた。

 僕はさういふまはりくどい話しをしたあとに、芥川と知合ひになつたばかりの頃、いつしよに町を步いてゐて、なんであつたか芥川が「僕は身なりが綺麗であつても馬鹿と步くのは恥づかしいと思ふよ、」と突然言つてゐたことを忘れずにつけ加へてゐる。

[やぶちゃん注:「大正十四年の秋」以下のシチュエーションは宮坂覺年譜によれば大正一四(一九二五)年九月七日。軽井沢の避暑は定宿の鶴屋旅館に於いて八月二十一日(到着)からで、小穴隆一の来軽は八月二十八日頃、長男比呂志は九月四日に弟子の蒲原(かもはら)春夫が連れて来た。

「芥川、僕ちやん(比呂志君)蒲原たちの四人は」いつもの小穴隆一独特の奇妙な書き方に気づく。後に「僕ら」とあるようにこの「四人」には小穴隆一が含まれている。「芥川、私、僕ちやん(比呂志君)蒲原たちの四人は」とすべきところである。

「輕井澤にゐて、このてらになかときぐんやぶれきてはらきりたりときけばかなしも、と言つてゐて氣色がすぐれず、僕の顏いろをみてゐた毎日のその芥川」以前の章前後を参照。

「僕は身なりが綺麗であつても馬鹿と步くのは恥づかしいと思ふよ」芥川龍之介は大正七(一九一八)年十月発行の雑誌『婦人公論』に掲載された諸家アンケートの回答の一つと思しい私の嫌ひな女で以下のように述べている(リンク先は私の《芥川龍之介未電子化掌品抄》テクストの一つ)。

   *

 要するに莫迦な女は嫌ひです。殊に利巧だと心得てゐる莫迦な女は手がつけられません。歷史上に殘つてゐるやうな女はどうせ皆莫迦ぢやない人だから、この場合ちよいと例にはなり兼ねます。それから又現代の婦人になると、誰彼と活字にして莫迦の標本にするのは甚失禮だから、これも同じく差扣へて置きませう。兎に角、夫人たると令孃たるとを問はず、要するに莫迦な女は嫌ひです。唯、莫迦と云ふ語の内容を詳しく説明する時間と紙數とに乏しいのは、遺憾ながら仕方がありません。

   *

とも述べている。]

2017/01/20

小穴隆一「二つの繪」(37) 「影照」(12) 「女持ちの紙入」

 

       女持ちの紙入

 芥川本の裝幀にはじめて關係した「夜來の花」(大正十年三月新潮社版)のときのことである。

 芥川に紙に刷つてあつた表紙の見本刷りをみせると、これを木版屋にさういつて布に二枚刷つてもらつてくれたまへ、机に置くのにいいからといはれて、原稿用紙の下に敷くのかと思ひ(このごろはどうか、以前はこつとう屋とか支那雜貨を商ふ店でみかけた、淸朝時代の服からとつた布に裏をつけて小さいふくさのやうに仕立てたものに、芥川は原稿用紙をのせてゐた。室生犀星さんのところあたりには今日でもさういふものがあるかもしれぬ。)伊上凡骨に、芥川さんの賴みだができるだけ藍を濃くして刷つてみてくれとたのんで、刷つてもらつたものを屆けると、今度は、君、どこかいい細工物屋を知らないか、これで女持ちの紙入を二つこしらへてもらひたいのだがといふので、鎗屋町(現在の銀座西四丁目四)の淸兵衞さんに相談にゆくと、並びの川島甚兵衞の店のよしべいさんを紹介してくれ、そのよしべいさんに連れられて、丸善のそばかと思つた橫丁のしもたやにいつて、その家の人と相談して、裏は鹽瀨の古代紫にしてもらふことにしたが、出來上つたものをみると、表がごりごりの白木綿に藍だから、イキなものになつて桐の箱にはいつてゐた。それを早速、田端(芥川家)に持つていつて話してると、はしご段に音がするなり芥川は掌をあげて、僕に〝しつ〟といひ、にやり笑つてふりかへると、せつかくの紙入れをうしろに積んだ本のかげにかくしてしまつた。はしご段に音がしたのは、奧さんが茶を運んできた足音であつたが、一つは奧さん一つはだれとばかり考へてゐた僕はなにもいへず、なにくはぬ顏をしてゐる芥川と微笑をかはしてゐた。

[やぶちゃん注:「夜來の花」は芥川龍之介の第五作品集で、これ以降、龍之介の作品集の殆んどの装幀を小穴隆一が手掛けることなった。題簽は小沢碧童。

「伊上凡骨」(いがみぼんこつ)は既出既注の木版画彫師であるが、再掲しておく。本名は純蔵。徳島県生まれで、浮世絵版画の彫師大倉半兵衛の弟子。明治時代に於ける新聞・雑誌の挿絵は原画の複製木版画であったが、凡骨は洋画の筆触・質感を彫刀で巧みに表現し、名摺師の西村熊吉の協力を得て、美事な複製版画を作った人物である。

「鎗屋町」「やりやまち」と読んでおく。

「川島甚兵衞の店」現在の株式会社「川島織物セルコン」の前身の一つ「川島織物」。

「鹽瀨」塩瀬羽二重(しおせはぶたえ)の略。経糸・緯糸ともに生糸を使用した厚地の羽二重で、経糸を密に緯糸に太糸を用いた絹の生織物の一種。組織りは平織りで、経糸と緯糸の浮かし方で模様を織り出したものを特に「紋塩瀬」という。]

小穴隆一「二つの繪」(36) 「影照」(11) 『「無限抱擁」のヒロイン』

 

        「無限抱擁」のヒロイン

 瀧井孝作が「無限抱擁」のヒロインと湯島に世帶をもつて、そのヒロインが髮結いさんをはじめた。芥川は、「女房をやつて、さきに髮を結つて貰つてから芥川の家内であると言つて祝ひを述べさせた、」と言つてゐた。

[やぶちゃん注:志賀に私淑しつつも『芥川の弟子と目され、小島政二郎・佐佐木茂索・南部修太郎とともに「龍門の四天王」と呼ばれた』瀧井孝作(明治二七(一八九四)年~昭和五九(一九八四)年:芥川龍之介より二歳年下)はウィキの「瀧井孝作によれば、大正八(一九一九)年、『時事新報の文芸部記者として芥川龍之介を知った』とあり、それに続けて『吉原にいたことのある榎本りんと結婚し』ているとあるから、以上はこの頃のことである。大正一〇(一九二一)年二十七歳の時、専業作家となり、後に「無限抱擁」纏めることになる『小説の雑誌掲載を始めた』が、翌大正十一年、『そのヒロインのりん』は亡くなってしまう、とある。実はこの年の大正八(一九一九)年十一月二十三日、小穴隆一はまさにこの瀧井孝作に連れられて田端の芥川邸を訪れ、以後、終生無二の親友となったのであった。長編小説「無限抱擁」は私は読んだことがないので、小学館の「日本大百科全書」の紅野敏郎氏の解説を引く。『新小説』掲載の『竹内信一』(大正一〇(一九二一)年八月)・『改造』掲載の「無限抱擁」(大正一二(一九二三)年六月)・『新潮』掲載の「沼辺(ぬまべ)通信」(大正一二(一九二三)年八月)・『改造』掲載の「信一の恋」(大正一三(一九二四)年九月)という、それぞれ独立した四短編を合わせて長編に仕立てたもので芥川龍之介自死直後の昭和二(一九二七)年九月に改造社より刊行された。『主人公信一は滝井孝作自身で、正真正銘の自伝的私小説。吉原で見そめた松子との愛情、その松子と彼女の母との』三『人暮らし、松子の結核による死の経緯が、勁(つよ)いストイックな文体で、詩情を含みつつ剛直に述べられている恋愛小説の傑作。俳句によって鍛えた写生の力と、省略による飛躍の力のみなぎる息苦しい文体だが、その真率な心情は読者に深いおもりを下ろす。滝井孝作の初期の代表作であるとともに近代の恋愛小説のなかの白眉』とある。]

小穴隆一「二つの繪」(35) 「影照」(10) 「永井・梅原」

 

       永井・梅原

 僕はアンナ・パヴロワが日本にきたときに、芥川に伴れられて帝劇でその「瀕死の白鳥」をみた。僕はハヴロワの踊りを立派だと思つたが、幕合ひに廊下にでようとした芥川が、「あつ! 永井さん」と小さい聲で言ひ、急ぎ足で僕らから十列ばかりうしろの席にゐた永井さんのところにゆき、大層丁寧なお時儀をしてゐた。芥川も黑い服であつたが、立上つた芥川に挨拶をかへしてゐた荷風さんも黑服で立派であつた。その時の有樣はなにか文壇史といつたもののやうに僕の目にいつまでものこつてゐる。芥川はうしろの僕をちよつと荷風さんに紹介すると、步きながら、荷風さんの隣りの席にゐた日本髮の婦人のことを「八重次」と強い小さい聲で教へてゐた。廊下にでた芥川のそのときの顏はほんのりと上氣してゐるやうにみえた。

 

 赤門の前を芥川と步いてゐて、夫人を伴れた梅原(龍三郎)に會つて一度紹介されたことがあつた。芥川は正門のところ近くで、「いま、自分と梅原とをならべて人が比較してゐる、」と言つてゐた。芥川がさう言つてゐた後のことと思ふ。「白衣」が竹の臺の陳列場にならんだとき、梅原の十號ほどのナポリの風景の前に芥川はほんのり上氣した顏をして立つてゐた。

 芥川のあのなにかのときにほんのり上氣した顏、あれはなかなかいい顏であつた。

[やぶちゃん注:来日したアンナ・パヴロヴナ・パヴロワ(А́нна Па́вловна Па́влова 一八八一年~一九三一年)を芥川龍之介が見たのは、宮坂覺年譜では大正一一(一九二二)年九月十日日曜日に推定比定されてある(この日が初日でパブロワ舞踏団の公演は帝国劇場で二十九日まで行われた)。龍之介は翌十月一日発行の『新演藝』で舞台評「露西亞舞踊の印象」(後に「帝劇の露西亞舞踊」に改題)を書いている。それによれば、彼が見た演目は「アマリイラ」「ショピニアアナ」「瀕死の白鳥」であった。前者二作には相当に厳しい批判が加えられているが、「瀕死の白鳥」の『パヴロワの腕や足に白鳥の頸や翼を感じた。同時に又澪やさざ波を感じ』、『耳に聞えない聲も感じた』と絶賛し、『僕は兎に角美しいものを見た』と記している。

「八重次」新巴屋八重次(しんともえややえじ)。日本舞踊家で藤蔭流の始祖として新舞踊を開拓した芸妓藤蔭静樹(ふじかげせいじゅ 明治一三(一八八〇)年~昭和四一(一九六六)年)の芸名。永井荷風の元妻。ウィキの「藤蔭静樹によれば、大正三(一九一四)年、当時、慶應義塾大学文学部教授であった荷風と『結婚したが、荷風の浮気に怒って一年足らずで飛び出し、八重次に戻った』(従ってこの時には既に妻ではなかった)。『荷風とは離婚後間もなくして半年ほど縒りを戻し、その後も会うことがあったものの』、昭和一二(一九三七)年以後は全く縁が切れたとある。しかし、『「荷風と別れて馬鹿した」などと生涯』、『惚気を口にし』ていたともある。大正十一年当時、荷風は四十三歳(芥川龍之介より十三年上である)。

『「白衣」が竹の臺の陳列場にならんだ』「竹の臺の陳列場」は上野公園内にあった「竹の台陳列館」。これは明治四〇(一九〇七)年に開かれた東京府勧業博覧会の会場として作られたものが援用されたもので、現在の東京都美術館の前身である東京府美術館が竣工するのは、この後の大正一五(一九二六)年五月のことであった(日本にはそれまで博物館はあっても美術館はなかった)。これはまさに彼らがパヴロワを見た同じ大正十一年九月、九日から二十九日に行われた第九回二科展で、芥川龍之介が小穴隆一の龍之介をモデルとした「白衣」と、この梅原龍三郎のそれ(彼は二科会の設立者メンバーの一人。この芥川龍之介が上気して見つめたというナポリの風景を描いた作品を同定したかったが、この時期の梅原のナポリを描いた作品は複数あり、ネット情報では探り得なかった。なお、梅原はこの年の一月に春陽会を発足している)を見たのは、宮坂年譜によれば、展覧会開催前日の招待展覽で九月八日午後に作者小穴と同伴したとある。梅原龍三郎は龍之介より四歳年上。]

 

柴田宵曲 妖異博物館 「狸の心中」

 

 狸の心中

 

「想山著聞奇集」に心中の話が二つある。一つは大坂の話で、二三度遊んだに過ぎぬ女郎から心中を持ち掛けられ、今宮の森まで出掛けたものの、本當に死ぬ氣にはならず、最後に煙草を一服しようとして火を打つ途端、夜番の者に大聲で叱られたのを横合に逃れ去る。三日ほどたつて、昨夜今宮の森に心中があつたと聞き、それとなく尋ねると、女はやはり自分に心中を持ち掛けた女郎で、相手は遠國より來てゐた、かなり年を取つた男と知れた。「死神の付たると云ふは噓とも云難き事」といふ標題になるので、それほど變つた話ではない。もう一つの方は慥かに奇集の名に背かぬものである。

[やぶちゃん注:梗概は短いが、実は原典は挿絵もあり、しかも意想外に長大なので章末に回す。要はこれは不可解な心理現象としての病的な「心中」願望の異常心理を枕としたものであって、標題の「狸の心中」とはズレるから短いのである。

「今宮の森」「今宮」は現在の大阪府大阪市浪速区恵美須西にある「えべっさん」今宮戎(いまみやえびす)神社のこと(但し、現行では同神社の鎮守の森は航空写真では存在しない)。後掲する原典ではこの女郎のいた遊廓を「島の内」とし、ここからなら「えべっさん」は南西へ二キロ圏内になる。]

 尾張國熱田在井戸田村の百姓の娘にふみといふ女があつた。後には宮宿の築出し町へ來て、旗籠屋の飯盛女になつてゐたが、これに心中を持ち掛けられたのが髮結ひの抱への某である。約束の時刻にかねて死場所と定めた秋葉の森へ來て見ると、女の姿はどこにも見えぬ。それきり捨て置くわけに往かず、女の奉公先に立寄れば、九ツ(午後十二時)頃までは居りましたが、それから姿が見えません、と云つて搜索中であつた。女の方は九ツ時に家を出て秋葉の森で男と落ち合ひ、更にそれより二三町先の古木森々たる恐ろしい森へ行つた。こゝで道端の榎の木の五又にも六又にも岐れたところに、腰帶をわなにして懸け、その兩端で兩人一度に首を縊る。これを釣瓶(つるべ)心中といふのは、その腰帶を釣瓶繩に見立てたのであらう。男は至つて輕く木の又まで釣り上つたのに、女の方は重くて足先が地についたまゝ死なうとしても死ぬことが出來ない。夜が明けて通行人に發見されたが、腰帶の端に縊られてゐたのは、猫ほどの大きさの狸で、目方が輕いため、木の又まで釣り上げられ、又に引込まれて死んで居つた。女は死なれずに濟んだが、うつけ者のやうになり、この事を傳へ聞いた髮結ひの男も、少しうつけのやうになつた。この狸は人を化かす能力を具へた者で、この近邊に折々怪しい事のあつたのも、彼の所爲であらうと云はれてゐる。この晩は女をたぶらかさうとして自ら縊るに至つたのか、それとも狸自身死神に付かれて居つたのか、そこまではわからない。

[やぶちゃん注:これも原典(やはり挿絵附き)は章末に示す。

「尾張國熱田在井戸田村」現在の愛知県瑞穂区井戸田町附近と思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。私の妻の実家にごく近い。

「宮宿の築出し町」「宮宿」は「みやじゆく」で東海道五十三次第四十一番目の宿場。一般には「宮の宿」と呼ばれ、公的には熱田宿と称した。「宮の渡し」として知られ、熱田神宮の門前町・湊町でもあった。「築出し町」「築出」は「つきだし」と読み、同宿にあった三大遊里(神戸(ごうど)・伝馬(てんま)・築出の順にランキングされていた)の一つがあった。

「秋葉の森」桜山の名古屋市立大学の南、瑞穂区瑞穂通に秋葉神社がある(グーグル・マップ・データ)。

「二三町」約二百十八~三百二十七メートル。]

 狸の心中などは前代未聞の珍事かと思ふと、これにもやはり先例がある。本郷櫻の馬場あたりの奉公人同士の戀で、櫻の馬場で心中と決したが、日暮過ぎに男が來た時は、女は已に待つて居り、用意の紐を首に纏ひ、木から飛んだ。これは尾張の例と反對に、女は何の事もなく縊れ死し、男は足が地に屆いて死に至らぬ。そこへ約束の女がやつて來て、男の苦しむ體を見、且つ自分と同じ女が死んでゐるので、びつくり仰天して聲を立てた。人が集まつて來て介抱の結果、男は蘇り、一切の事情を打明けたが、縊れた女はいつの間にか狸の本性を現してゐた。若い二人の突き詰めた心持は、主人達の同情を買ひ、親元へ話して夫婦にするやうに取りはからつたといふのだから、心中話には珍しい大團圓である。狸は櫻の馬場心中の約束を聞き、笑談半分に女に化けたのであらうが、思ひがけず自分が死し、却つて二人のなかだちをする結果になつたと「耳囊」は記してゐる。

[やぶちゃん注:これはもう、私の「耳囊 卷之八 狸縊死の事」をどうぞ。

 「想山著聞奇集」の二話の第一段落目の大阪のエピソードは同「卷の四」の「死に神の付たると云(いふ)は噓とも云(いひ)難き事」【2017年5月31日追記:当該話を別に厳密に校合して電子化注したので、ここにあったものは削除し、以上でリンク配置とした。】

 次の第二段落のそれは、同書「卷の五」の「狸の人と化(ばけ)て相對死(あひたいじに)をなしたる事」である。【2017年6月11日追記:当該話を別に厳密に校合して電子化注したので、ここにあったものは削除し、以上でリンク配置とした。】

柴田宵曲 妖異博物館 「狐と魚」

 

 狐と魚

   朧月狐に魚を取られけり   子規

 この十七字だけでは如何なる場合を詠んだものか判然せぬが、釣人が狐に魚を取られるといふのは、かなり類の多い話題である。「譚海」に出てゐるのは、十萬坪の汐入りの川で魚を釣つた人が、舟で歸つて來ると、橋の上から奴(やつこ)が小便をしかけようとする。舟を岸に著けて追駈けようとすれば、もう姿は見えぬが、次の橋にもまたその奴が立つてゐる。今度は逃さぬと追駈けても、捕へ得ぬことは前と同じで、舟に戾つたら籃の中の魚が殘らずなくなつてゐた。これは狐に一杯食はされたので、當時の十萬坪のやうなところでは珍しからぬ話であつた。「耳囊」にあるのも江戶の事で、大久保原町に住む男が、目白下水神橋へ鰻の夜釣りに行く。畚(ふご)一杯になつたのを、連れの男がもつと釣りたいと云つて手間取るうちに、水神橋の上から投身しようとする女に逢ひ、委細を聞いて家まで迭り屆けることになる。これも狐の手で、二人の畚はすつかり空虛だつたといふのである。かういふ事實を考慮に入れて、もう一度「朧月」の句を讀み直すと、どうやら釣人が狐に致された場合になるらしい。

[やぶちゃん注:「朧月狐に魚を取られけり」子規の没した明治三五(一九〇二)年の句と思われる。

「譚海」のそれは「卷之九」にある「江戶十萬坪の狐釣の魚を取たりし事」。以下に引く。

   *

○江戶の十萬坪・六萬坪は鹽入(しほいり)の川多く、秋は日ごとに海より魚あまたのぼりくる故、釣人のたえずつどふ所なり。相(あひ)しれる人、同志の者と、一日かしこに行(ゆき)て日くらし、魚あまた釣えで[やぶちゃん注:「で」はママ。「て」の誤りであろう。]、今はとて舟に乘(のり)て歸路に趣(おもむき)しに、橋の下を過(すぐ)る時、橋の上に奴(やつこ)壹人ありて、船の中へ小便せんとせしかば、こはにくきやつこかなとて、舟を岸に付(つけ)て追(おひ)うたんとて、舟より上りて見れば奴見えず。扨船に乘て又次の橋下を過るに、先の奴又橋のうへに立(たて)り、すは又こゝに有(あり)、にくきやつかなと、舟を岸に着(つけ)たれば奴又見えず。又々ふしぎ成(なる)おもひをなし、舟に歸(かへり)て見れば、釣(つり)えたる籃(かご)の中の魚殘らずうせたり。これは狐の魚をとらんとて、かくはかりたる成(なる)べしと、みなあざみあへり。十萬坪のわたりも曠野(あらの)うち續(つづき)たる所にて、常に人(ひと)狐にまよはさるゝ事なり。釣人大かたは魚を狐にとらるゝ事といへり。ある人のいはく、釣たる魚につばきをはき懸置(かけおく)時は、狐にとらるゝことなしとなん。

   *

この「十萬坪・六萬坪」とは現在の東京湾の旧沿岸でも、最深部の最も古い干拓地の旧称である。

「耳囊」のそれは「耳囊 卷之九 狐に被欺(あざむかれ)て漁魚を失ふ事」。地名や語句はリンク先の私の訳注版をどうぞ。]

 倂しこれだけでは奇談と銘打つほどの事もない。「蕉齋筆記」の話はいささか常套を破つてゐるのみならず、赤穗義士に關連する點に別種の興味がある。淺野家改易の後、浪々の身となつた一人が、在方にゐる乳母を便り、暫く時節を待つて居つたが、この人大の釣り好きで、每日釣竿を肩にして太公望をきめる。大槪暮方には歸宅する例であつたのに、或日の事どうしたものか、いつまでたつても歸らぬ。乳母が心配して近所の者に賴み心當りを尋ねさせたが、一向わからず、そのうち明け方に漸く歸つて來た。いや、今日ほど釣りの面白かつたことはない、食ふほどに釣るほどに、この籠一杯になつた、あまり面白いので、夜の更けるのも知らずに釣つて居つたといふので、乳母がその籠を明けて見ると、魚は一尾もゐない。笹の葉ばかりである。これは狐が化かしたに相違ありません、もう釣りにおいでになるのは御無用になされませ、と止めたけれども、當人は平氣なもので、別に食事の足しにするわけでもなし、面白いから釣りに行くまでぢや、よしんば狐に化かされたにせよ、魚が釣れると思つて慰みになればいゝではないか、と云つて、次の日も例の如く出かける。ところが今度は夜に入つても歸らず、翌朝になつても消息不明であつた。愈々狐のために、淵川に流されておしまひになつたものであらうと殘念に思ひ、八方搜索させたが、遂に死骸も見付からなかつた。それから三十日ほどたつて、四十七士の一擧が傳はり、その人も中に加はつてゐた。乳母のところで釣三昧の日を送つたのは、固より韜晦のためであつたらうが、魚が澤山釣れたと云つて笹の葉の籠を提げて歸つたのも、消息不明になる前提だつたのかも知れぬ。赤穗義士の一人といふだけで、その名のわからぬのが遺憾である。

[やぶちゃん注:「蕉齋筆記」既出既注。儒者で安芸広島藩重臣に仕えた平賀蕉斎(延享二(一七四五)年~文化二(一八〇五)年)の随筆。私は所持しないが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで当該部を視認出来る。]

 報道機關の發達せぬ昔の事だから、義士の一擧が關西まで達するにも、或時間を要した筈であるが、こゝに一つの不思議といふべきは、京都の紫野の南に稻荷の小社があり、淺野内匠頭の造立にかゝるを以て、淺野稻荷と稱する。元祿十五年十二月十四日の夜半頃、この社の前に數百人も集まつて踊りを躍る聲が聞えた。時ならぬ時分の踊りなので、近所の町屋から境内に來て見ると、躍つてゐるのは人間ではない。數知れぬ多くの狐が、稻荷の社を取り𢌞して、前足二つを挑げ、後の二足を立てて、人のやうに躍り狂ふのである。奇怪な事ではあるが、その樣子を見るのに、悅び勇む體なので、これは淺野の本知を御返しなさるゝ事を告げるのか、凶事ではあるまいと話して居ると、果して二三日中に、十四日夜の一擧の事が傳はつた。狐は業通(ごふつう)を得たものであるから、ゐながらに千里外の事を知り、さてこそあのやうに躍つたものと人々はじめて合點した。この「雪窓夜話抄」の記載は、魚には何の關係もないけれど、赤穗義士に關する珍しい狐のエピソオドとして、前の話と共に掲げて置きたい。

[やぶちゃん注:以上の異事・奇聞集「雪窓夜話抄」の条は国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。因みにどうも「雪窓夜話」(こちらを私は国書刊行会刊「江戸怪異綺想文芸大系」版で所持する)と「雪窓夜話抄」(大正四(一九一五)年刊因伯叢書所収)は同じ上野忠親(ただちか 貞享元(一六八四)年~宝暦五(一七五五)年:江戸中期の鳥取藩士)の書で、題名からは一見、正編完本とその抄録本のように見えながら、実は中身がかなり違う(後者の「雪窓夜話抄」の方に「雪窓夜話」にない話がごっそり含まれている)。私は書誌学的なそれをここで云々する気になれない(単に疲れたからである。遺憾乍ら「江戸怪異綺想文芸大系」版の解題はその違いを素人に分かるようには十全に説明しきれていない。また、今回、この注を附すために、それほど、この二つの驚くべき違いに翻弄されて半日以上の時間を食わされ、少々腹が立っているからでもある)。少なくともここに注するに辛気臭い細かな当該原典の学術的考証は不要と考え(「江戸怪異綺想文芸大系」版解題によれば、研究者の間でも、実はその全容さえ完全に把握されていないように読める)、これ以上は語らぬ。それを一般向けに語るべき義務はアカデミストにあり、せめてもそれを解り易くネット上に明らかにすべき責務が、彼らや所蔵する図書館(「雪窓夜話抄」鳥取県立図書館蔵)にはあると私は考えるものである。そもそもが、まさしく柴田自身が述べているように、『この「雪窓夜話抄」の記載は、魚には何の關係もない』わけで、標題の「狐と魚」にそぐわない。これを書くなら、それに相応しい題名にして欲しかった。最後には筆者柴田にまでむかっ腹が立ってきた。悪しからず!

「淺野稻荷」京都市山科区安朱堂ノ後町の瑞光院(大石内蔵助ら赤穂義士四十六名の遺髪が納められている)になら、浅野家の稲荷大明神を祀る浅野稲荷があるが、「紫野」(現在の京都市北区の船岡山の北方一帯)では位置が合わぬのでここではない。識者の御教授を乞う。

「元祿十五年十二月十四日」グレゴリオ暦一七〇三年一月三十日。言わずもがな、赤穂浪士討ち入りはこの日の深夜に決行された。

「業通」私はこんな言い方は聴いたことがないが、字面からは、妖獣としての禍々しい「業(ごう)」としての民俗的属性から得たと考えられた「神通力」の謂いか。]

2017/01/19

柴田宵曲 妖異博物館 「狐の嫁入り」


 狐の嫁入り

 日が當りながら雨が降るのを狐の嫁入りといふ。「靑空にむら雨すぐる馬時狐の大王妻めすらんか」(子規)といふ歌は、これを詠んだものである。日が照る以上、狐の嫁入りは晝でなければならぬ勘定になるが、諸書に見えるところは必ずしもさうではない。

[やぶちゃん注:「靑空にむら雨すぐる馬時狐の大王妻めすらんか」「竹乃里歌」所収。明治三三(一九〇〇)年九月二日の短歌会での詠。

     狐の婚禮

  靑空にむら雨すぐる馬時(うまのとき)狐の大王妻めすらんか

で、「馬時」は「午の時」で正午の謂い。]

「怪談老の杖」にあるのは、上州神田村の煙草商人が、同業者と共に他の村へ行き、日暮れて歸る途中、遙か向うから三百張(はり)ばかりの提燈が來る。これは不思議だ、こゝは街道ではないから、大名衆がお通りになる筈もない、樣子を見よう、といふので、高いところへ上つてゐると、通りより少し下手の田圃を、その提燈が通つて行く。徒(かち)の者、駕籠脇、中間、押(おさへ)、何一つ缺けたことはないが、提燈に紋所がなく、明りも常の提燈と違つて、たゞ赤く見えるだけであつた。田の中を眞一文字に通つて、向うの林に入つたので、これが狐の嫁入りといふものだらうと話し合つた。この村の近所では、狐の嫁入りを度々見た人があるといふことである。

[やぶちゃん注:「上州神田村」旧多野郡(それ以前は緑野(みどの)郡)美九里(みくり)村に合併した神田村か。現在は群馬県南西部に位置する藤岡市内。

「押(おさへ)」行列の最後にあって列を整える役。

「怪談老の杖」の「卷之三」の「狐のよめ入り」。所持する「新燕石十種 第五巻」に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認して以下に正字化して示す

   *

   ○狐のよめ入

上州のたばこ商人に、高田彥右衞門と云ふ者あり、神田村といふ處に住みけり、或時、同村の商人仲間とつれ立て、原本脱字村と云ふ所へ行、日くれて歸るとて、はるかむかふに、三百張ばかり提灯の來る體なり、三人ながら、あやしき事かな、海道にてもなければ、大名衆の通り給ふべき樣もなし、樣あらんとおもひて、高き處へあがりて見て居ければ、通りより少し下に田のありける中を、かのてうちんとをりけるが、かちのもの、駕わき、中間、おさへ、六しやく、なに一でもかけたる事なし、てうちんには紋所なく、明りも常のてうちんとはかはりて、たゞあかくみゆるばかりなり、田の中をま一文字にとをりて、むかふの林の中へ入ぬ、扨こそ狐のよめ入といふものなるべし、といひあへり、此村の近處には、きつねのよめ入といふ事、度々見たる人ありといへり。

   *]

「江戶塵拾」のは江戶市中の話で、寶曆三年八月の末といふことまで明記してある。本多家の屋敷に近い家々では、今夜本多家の家中へ婚禮があると評判して居つたが、果して日暮からおびただしい道具が運ばれる。上下の人幾人となく賑かに行き違つて居つたが、その夜の九ツ(午前十二時)前と思ふ頃、提燈の數十ばかりに鋲打の女乘物、前後を數十人が守護して、如何にも靜かに本多家の門を入つて行つた。鄰り屋敷の人の話では、五六千石ぐらゐの家の婚禮と見えたさうである。本多家の家中でさういふ婚禮を取り結ぶのは誰か、皆怪しんで居ると、後にこれが狐の嫁入りとわかつた。本多家の屋敷では、更に知る人がなかつたといふのも、まことに不思議な事であつた。

[やぶちゃん注:「江戸塵拾」は著者未詳。全五巻。少なくともここに引用する第五巻は明和四(一七六七)年以降の成立。所持する「燕石十種 第五巻」(昭和五五(一九八〇)年中央公論社刊)に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションの(岩本佐七編明治四一(一九〇八)年国書刊行会刊画像を視認して以下に正字化して示す。踊り字「〱」は正字化した。一部にオリジナルに歴史的仮名遣で読みを附した。

   *

   きつねのよめ入

寶曆三年秋八月の末八丁堀本多家の屋敷にて狐の嫁入あり近き屋敷屋敷にては誰(たれ)いふとなく、今夜本多家の家中へ婚禮の有よし風說あり日暮よりも諸道具をもち運ぶ事夥(おびただ)し上下(かみしも)の人幾人といふ事なく行違(ゆきちが)ひ行違ひ娠(にぎは)ひしが其夜九ッ前とおもふ比(ころ)提灯數十ばかりに鋲打(びやううち)の女乘物、前後に數十人守護して、いかにも靜(しづか)に本多家の門に入る隣家より見る所其體(てい)五六千石の婚禮の體なりし本多家中より斯(かか)る婚禮取結(とりむす)ぶは誰人(たれひと)にやとあやしみしが後後聞けばきつねのよめ入にて是(これ)あるとや此事本多家の屋敷にては更に知る人なかりしもふしぎの事どもなりし。

   *

「寶曆三年」一七五三年。

「本多家」切絵図を見る限り、これは近江膳所藩(七万石)の上屋敷と思われ、この当時だと、第七代藩主本多康桓(やすたけ 正徳四(一七一四)年~明和六(一七六九)年)である。

「鋲打の女乘物」「鋲打(びょうう)ち駕籠(かご)」のこと。外装に鋲を打った女駕籠で、大名の奥方や大奥女中が乗った高級駕籠である。]

「想山著聞奇集」は下男が馬方から聞いた話を載せてゐる。――夜分大名行列と、大行列の嫁入りに逢つたことがあるが、いづれもあとでよく考へれば狐であつた。田舍は一筋道であるから、その夜のうち、前後に村へ歸る者があるのに、自分の外に逢つた者は一人もない。その上街道通りでないから、晝でも大名の通行はなし、萬一通行のある場合には、半月も前から先觸れがあつて、馬を牽くほどの者なら知つてゐなければならぬ。嫁入りの方も繪本に書いてあるやうに、顏が狐で身體は人といふ次第ではない。人と違ふところは少しもないが、聲はいづれもしはがれて居つた。自分の逢つたのは一度は大嫁入り、一度は大名だつたので、その場ではまことの行列と心得、馬を傍に引込んで通したが、今思へば殘念である。もしこの後逢つたところで騙されることはあるまい。その行列は、先箱持、駕籠、槍、長柄、合羽籠に至るまで、本當の大名と變りはないといふことであつたが、この男の出逢つた美濃の志津村あたりでは、よくある事なので、それほど珍しいとも思はぬ樣子だつたといふ。

[やぶちゃん注:この原話は長いので最後に回す。

「先箱持」(さきばこもち)は、大名行列に於いて正装一式を入れて先頭の者が挟み箱(武家が公用で外出する際に供の者に担がせる物品箱。長方形の箱の両側に環が附いていてそれに担ぎ棒を通せるようにしてある)で担いだ、その担ぎ役。

「合羽籠」(かつぱかご)は、大名行列の最後に、下回りの者が、棒で担いで行った雨具を納めた籠及びその担ぎ役。]

 この三つの話は大體同一線上に立つもので、强ひて擧げれば「江戶塵拾」の町中の話が變つてゐるだけである。時刻も行列の模樣も人間の嫁入りと大差ない。日照雨と狐の嫁入りとの關係はどういふところから來たか、他の文獻を搜して見るより仕方があるまい。

[やぶちゃん注:ウィキの「狐の嫁入り」の「天候に関する言い伝え」によれば(注記号を省略した)、『関東地方、中部地方、近畿地方、中国地方、四国、九州など、日本各地で天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶ』。『怪火と同様、地方によっては様々な呼び名があり、青森県南部地方では「狐の嫁取り」、神奈川県茅ヶ崎市芹沢や徳島県麻植郡山類では「狐雨(きつねあめ)」、千葉県東夷隅郡では同様に「狐の祝言」という。千葉県東葛飾郡でも青森同様に「狐の嫁取り雨(きつねのよめどりあめ)」というが、これは、かつてこの地域の農家では嫁は労働力と見なされ、一家の繁栄のために子孫を生む存在として嫁を「取る」ものと考えられていたことに由来する』。『天気雨をこう呼ぶのは、晴れていても雨が降るという嘘のような状態を、何かに化かされているような感覚を感じて呼んだものと考えられており、かつてキツネには妖怪のような不思議な力があるといわれていたことから、キツネの仕業と見なして「狐の嫁入り」と呼んだともいう。ほかにも、天気雨のときにはキツネの嫁入りが行なわれているとも、山のふもとは晴れていても山の上ばかり雨が降る天気雨が多いことから、山の上を行くキツネの行列を人目につかせないようにするため、キツネが雨を降らせると考えられたとも、めでたい日にもかかわらず涙をこぼす嫁もいたであろうことから、妙な天気である天気雨をこう呼んだとも、日照りに雨がふるという異様さを、前述の怪火の異様さを転用して呼んだともいう』。『狐の嫁入りと天候との関連は地方によって異なることもあり、熊本県では虹が出たとき、愛知県では霰が降ったときに狐の嫁入りがあるという』とある。

 さて。前の段落の「想山著聞奇集」のそれは「卷の壹」のかなり長い「一 狐の行列讎(あだ)をなしたる事 附 火を燈す事」の前半部分(狐の行列幷(ならびに)讎(あだ)をなしたる事」相当箇所)である。以下に三一書房版で引く。踊り字「〱」「〲」は正字化した。一部にオリジナルに〔 〕で歴史的仮名遣のルビを附した(一部は推定)。( )は底本のルビである。【 】は底本では二行割注。本文の一部の歴史的仮名遣の誤りを訂した。

   *

下男吉松が語りけるは、渠(かれ)が在所にて、家に抱へ置し馬方に、鐡と云者あり。夜の引明〔ひきあけ〕に、馬を〔ひき〕て出たるに、直〔ぢき〕に村離れの藪蔭に、狐三四疋寄合〔よりあひ〕、孳尾(つるみ)て居たる故、礫〔つぶて〕を打たれば驚きて逃失〔にげうせ〕たり。鐡は夫より遠方へ馬牽行〔ひきゆき〕て、夜に入、每〔つね〕のごとく、何心なく細道を歸り來るに、大名の通り給ふに行き逢て、久敷(ひさしく)片寄居〔かたよりゐ〕て、漸(やうやう)通行を過〔すぎ〕て馬を牽行に、又々通り人有て、通路成兼〔なりかね〕て待〔まち〕し間に、纔〔わづか〕二里程の道を二時半〔ふたときはん〕ばかり掛りて漸く家に歸りたり。此日、吉松も同じ方へ馬を牽て行しが、暮合〔くれあひ〕前に先方にて聞合〔ききあは〕するに、鐡よりは二里程後れて歸るべしとの事故、其積りなりしに、鐡が歸りて間もなき所ヘ吉松も歸りたれば、何として斯〔かく〕は遲く歸りしぞと問ふに、今宵は又も又も引つゞき大名に行逢〔ゆきあひ〕て、大きに道に手間どりしと答ふ。吉松云、我等も同じ道に來りしに、何にも逢ず。何をかとぼけたるのなりと云へば、いや左に非ず正敷〔まさしき〕事也。扣〔ひかへ〕よ扣よとて散々罵られたりと云。夫〔それ〕は狐のわざにて化〔ばかさ〕れたるのなりとて、皆々笑ひて、何心なく夫成(それなり)に寢〔いね〕たりしに、間もなく入口をとんとんと叩く者有〔あり〕。誰ぞと問〔とふ〕に、中津屋より來たり、客三人有て、今より關の方へ行く客成〔なる〕が、少し斗〔ばかり〕の荷を付〔つけ〕て、馬に乘て行度〔ゆきたし〕との事、一人參らぬかと云によりて、行てもよし、只一人かと問ふ。三人入用(いりよう)なれど、二人の馬は他にて出來〔いでき〕たれば、今一疋にてよしと云。左らば行べし、二人は誰が行ぞと問(と)ふに、助〔すけ〕の馬と三〔みつ〕の馬なりと答へ、少しも早く來るべしと云捨て、中津屋の者は歸りぬ。【是は始終雨戶越にて、内と外とにての應對なり。】夫〔それ〕より鐡は、馬に飼〔かいば〕を懸け、おのれも冷茶にて食事をなし、馬を牽いだして先(まづ)、助〔すけ〕の所へ誘ひに行たるに、一向知らぬといふ。不審成(なる)事と思ひ、直〔ぢき〕に中津屋へゆきて見るに、寢て居る也。起して、しかじかのゆゑ、來〔きた〕ると云に、我方には、今宵は客一人ならではなし。それも明朝四つ比(ごろ)より岐阜へ行〔ゆく〕客也。間違ひならんといふ。夫より三〔みつ〕の方へも行て尋るに、何事も知〔しら〕ぬと云ける故、能々考へ思ひ出してみれば、今朝、狐に石打たる故なりと漸(ようよう)心附て、是も狐の業〔しわざ〕なるを始て知り、憎き事とは思へども、詮方もなく、大いに慰まれ申候と、吉松語りたり。さて、其聲は正敷〔まさしく〕人の言舌にてもの云ひしかと問〔とふ〕に、人の通りには候らへども、狐は少し喘涸(しはがれ)聲にて、舌の短き人の言舌に似たるものに御座候。跡にて考〔かんがへ〕候らへば、前の聲も喘涸聲にて、其時は家内中の者、皆々聞居申候〔ききをりまうしさふらふ〕事にて、正數〔まさしく〕言〔げん〕を云〔いひ〕候に相違は御座なく候と申〔まうす〕。扨又、外に狐の化たるを慥〔たしか〕に見たるやと問〔とふ〕に、夜分、大行列の娵(よめ)入に逢たる事と、大名の行列に逢申候。是も跡にて能〔よく〕考候へば、狐にて御座候。其譯は、田舍は一筋道に候らへば、其夜の中〔うち〕には、跡や先に村へ歸る者も御座候に、外に逢たるものは一人も御座なく候。そのうへ、街道通りならねば、晝にても大名の通行はなく、若〔もし〕も通行のときは、半月も前より先觸〔さきぶれ〕御座候て、馬を牽〔ひく〕程のものは、兼て存〔ぞんじ〕奉り居候事に御座候といへり。扨、娵入は繪本に有〔ある〕ごとく、顏は狐にて、體〔からだ〕は人か、ものをもいひしか、慥に見留〔みとめ〕たるかと問に、顏も體も人にて、何も少しも替りたる事はなく候らへども、聲は何れも喘涸聲に御座候。一度は大娵入、一度は大名故、心得居て、其場にては誠の行列と心得、馬を傍へ引込〔ひきこみ〕居て通し過〔すぐ〕したる事、殘念に御座候。もし此後〔こののち〕、逢〔あひ〕候らへば、最早だまさるゝ事にては御座なく候。其行列は、先箱徒〔さきばこがち〕・駕籠・鎗長柄〔やりながえ〕・合羽籠〔かつぱかご〕に至るまで、實〔まこと〕の大名に替る事は御座なく候と語れり。此志津野村邊にては能〔よく〕有〔ある〕事故、さして珍敷〔めづらしき〕事共〔とも〕思はざる樣子なり。昔より美濃狐など云〔いふ〕事有て、人の妻と成〔なり〕て子を生み、狐〔きつねの〕直(あたひ)の姓〔かばね〕の出來〔いでき〕たる事などあれば、其狐等の子孫の有て、餘國に勝れて奇變をなすか。予は都會の地にのみ住〔すみ〕たれば、是等の事は辨〔わきま〕へ兼たり。

   *

最後の「狐〔きつねの〕直(あたひ)の姓〔かばね〕」の「直(あたひ)」とは上古の身分を示す姓(かばね)の一つ。「臣(おみ)」「連(むらじ)」に次ぐものとして、多くは大化改新以前の国造(くにのみやつこ)に与えられた。「狐」という単独姓は流石に聞かないが、ネット上の情報では「狐」を含む姓は、現に、「狐塚(こづか)」「狐島(こじま)」「狐嶋」「狐井(きつい)」「狐坂(こさか)」「狐川」「狐野(この)」などがあるようである。なお、上記の「想山著聞奇集」はこの後、直後に全篇を電子化注(図入り)した。本話はここである。 ] 

小穴隆一「二つの繪」(34) 「影照」(9) 「林檎」

 

        林檎

 小石川のアパートにゐたときに、義ちやんが林檎一つを大きく畫いたのを持つてきて、僕にその畫を芥川がよくないと言つてゐると言つてゐた。僕が芥川に會つて義ちやんの畫いた林檎のどこに不滿を感じたかと聞くと、芥川は「僕はあまり大きく畫いてある、それがいけないと言つたのだ」と言つてゐた。

 僕は芥川の死後、神樂坂の田原屋の店さきに一つ壹圓の印度林檎をはじめてみたとき、その大きさに感心して芥川にこの林檎をみせておきたかつたなあと思つた。芥川は死なうといふのにダンス場をみなければ時勢に遲れるとか、龜井戸をみなければとか言つてゐた男だ。

[やぶちゃん注:「義ちやん」甥葛巻義敏。

「田原屋」は現在の東京都新宿区の神楽坂の代名詞のような老舗レストランで、一階は高級果物店、二階がレストランであった。漱石が贔屓にしていたという。二〇〇二年に閉店した。

「印度林檎」林檎の品種名。サイト食材科」記載によれば、『印度は明治初期に青森県弘前市の菊池九郎氏の庭園に撒かれた種から育成された品種で、そのルーツには諸説あり』、『政府が青森県に最初にリンゴの苗を導入したのも丁度同じ頃で、共に青森県のリンゴ文化の元祖的な存在となってい』るとし、『名称の「印度」もその由来は種のルーツと共に諸説あ』るものの、『南国インドにまつわるものではなく、アメリカのインディアナ州にまつわるもののよう』らしい。『そのひとつは菊池九郎氏が弘前市で東奥義塾を設立した際に講師として招いたジョン・イング氏が、母国アメリカのリンゴを紹介し、その種を撒いたというもので、そのリンゴがインディアナ州産だったとか。はたまた、そのジョン・イング氏の名前から付けられたという説もあり、様々な逸話が残っている』とある。『この印度リンゴはかつて贈答用高級リンゴとして扱われ、一世を風靡した時代があったとされ』る『が、その当時の事を知っているのはもうおじいさん、おばあさんだけとなって』しまい、『今では非常に希少性が高いリンゴ』だという。ただ、今日、『一般的に良く目にするリンゴの中には、この印度を親として生み出されたものも多く、王林や陸奥、東光などの交配親として知られ』るとあるので、その遺伝子は受け継がれているわけである。『形はやや縦長で、斜めにひしゃげたようなものが多く見られ、表皮の色は無袋の場合日光に当たった部分だけが赤く色付いてい』るが、一方、『有袋の場合は全体に赤くなるものが多い』。『食べた感じは、果肉がやや固く締りがあり、水分は少なめ』、『酸味はあまり感じられず、甘味が全面に出ている感じで』あるが、『今日の上級りんごのような刺す様な濃厚な甘さというわけではなく、どちらかといえば滋味な甘さで、全体に少しボケた感じの印象を受け』とし、『おそらく当時一般的に出回っていた甘酸っぱいリンゴが主流にある中ではこれが「甘いリンゴ」だった』ものと推測されるとある。『主な産地は青森県で』、『一時は消滅の危機にあった』『が、今日、昔を懐かしむ声などもあり、少し復活しているようではあ』るものの、『栽培している農園は極僅かで、市場にも僅かな量しか出回ってい』ない〈まぼろしの林檎〉である。因みに、私は林檎というと、芥川龍之介詩集」を思い出すのを常としている(リンク先は私のサイトの最初期の古い電子テクスト)。]

 

小穴隆一「二つの繪」(33) 「影照」(8) 「芥川の畫いたさしゑ」

 

     芥川の畫いたさしゑ

 昭和二年の夏、芥川は東日に「本所兩國」を書いた。そのさしゑは藤澤古實が(アララギ派の歌人、當時美校で彫刻をやつてゐるといふ話を聞いた、)やるはずであつたところ古實が辭退したので、岸田劉生に「銀座」あり、われもまたといふことにして芥川が畫も畫かうと、カットは橋、畫は芥川家が載つてゐる昔の地圖の模寫で一囘分ができたが、あと十四日分ではしのげずに、掲載の前の日になつて急に僕がやらされた。

 大正の十二、三年頃であらう、僕が婆やの鯨のお詣りが面白くてその話をそのままを寫しておいたのを、芥川がみて面白がり、半紙にすらすら群鯨參詣圖を畫くと、「人間」であつたか、「隨筆」であつたかにそのまま畫といつしよに渡してしまつた。その畫の板木はできたが、その雜誌がつぶれてそのままになつてしまひ、板木は神代種亮(故人、校正のエキスパート)が持つてゐたが、後にある印刷所が全燒の際に燒けてしまつた。

 

Gungeisankeizu

 

[やぶちゃん注:この前半の話については、芥川龍之介晩春賣文日記に詳しい(リンク先は本電子化のために先日、急遽、私が電子化したもの)。芥川龍之介の戯画「群鯨參詣圖」の底本の挿絵は劣悪で、私の所持する小穴隆一編の「芥川龍之介遺墨」(中央公論美術出版刊の昭和三五(一九六〇)年初版の昭和五三(一九七八)年再版本)も見たが、これも印刷状態が薄い(鯨自体の映りはこれが最もよいが)。諦めかけたところ、実に以外なことに小穴隆一の先行する「鯨のお詣り」(中央公論社刊)に挿入されたそれが、画素は粗いものの、芥川の署名がよく見える点で使用に耐えると判断し、それをここに掲げることとした。

『昭和二年の夏、芥川は東日に「本所兩國」を書いた』芥川龍之介の「本所兩國」昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回(九日と十六日は休載)で「東日」=『東京日日新聞』(芥川龍之介が社員であった『大阪毎日新聞』の傍系誌)の夕刊に、シリーズ名「大東京繁昌記」(その四十六回から六十回に相当)を附して連載された。

「藤澤古實」(ふるみ 明治三〇(一八九七)年~昭和四二(一九六七)年)は歌人で彫刻家。東京美術学校彫刻科卒(大正一五(一九二六)年)。卒短歌を島木赤彦に師事、『アララギ』発行所に起居して生活もともにした。土田耕平らと赤彦を助けて刊行の事務を遂行しつつ、作歌に励み、赤彦の病床にも侍し、「赤彦全集」編纂も手掛けた。

『岸田劉生に「銀座」あり』洋画家岸田劉生(明治二四(一八九一)年~昭和四(一九二九)年)は、まさに同じ『東京日日新聞』の「大東京繁昌記」に、挿絵と追想録「新古細句銀座通しんこざいくれんがのみちすじ)」(リンク先は「青空文庫」版のそれ)を書いてはいるが、その連載は昭和二(一九二七)年五月二十四日から六月十日であって、芥川龍之介の「本所兩國」の連載終了を受けた次である。従って、この小穴隆一の「われもまたといふことにして芥川が畫も畫かうと」したとする証言はおかしい

「カットは橋、畫は芥川家が載つてゐる昔の地圖の模寫で一囘分ができたが、あと十四日分ではしのげずに、掲載の前の日になつて急に僕がやらされた」先に示した芥川龍之介晩春賣文日記の「五月二日」の条を参照されたい。

「婆やの鯨のお詣りが面白くてその話をそのままを寫しておいたの」先行する小穴隆一の「鯨のお詣り」に「鯨のお詣り」として載る。後日、電子化する。

「人間」雑誌名。玄文社が大正八(一九一九)年十一月に創刊した文芸雑誌。編輯は吉井勇・田中純・久米正雄・里見弴。秋田雨雀・有島武郎・有島生馬・久保田万太郎らが執筆した。

「隨筆」雑誌名。随筆発行所が大正一二(一九二三)年十一月に創刊した文芸雑誌で、泉鏡花・徳田秋声・芥川龍之介・菊池寛など、その豪華執筆陣で知られた。

・「神代種亮」(こうじろたねすけ 明治一六(一八八三)年~昭和一〇(一九三五)年)は書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた(但し、原稿を作家に無断で改変したりし、批判も強く、芥川龍之介も一部、不満を持っていた人物でもある)。芥川は作品集の刊行時には多く彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。龍之介より九歳上。芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯の「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.では跋文を彼が書いている。リンク先の私電子テクストの私の注も参照されたい。]

 

小穴隆一「二つの繪」(32) 「影照」(7) 「紙屋のおかみさん」

 

     紙屋のおかみさん

「夏目さんはあの紙屋のおかみさんが好きだつたんだ、」と、芥川と牛込を步いてゐたときであるが、芥川はちよつと右肩と顎で僕に教へた。

 僕は紙屋のおかみさんが夏目さんに畫を勉強させたのかなと、步きながら考へた。

[やぶちゃん注:夏目漱石(慶応三(一八六七)年~大正五(一九一六)年)の没した屋敷(借家)は早稲田南町であるが、彼は江戸の牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)が出生地である。

「紙屋のおかみさん」不詳。識者の御教授を乞う。]

小穴隆一「二つの繪」(31) 「影照」(6) 「暮春には春服」

 

       暮春には春服

夏目漱石先生の墓前に獻ずとした「羅生門」の扉に、君看雙眼色不語似無愁を擇んだ芥川は、「春服」の扉には暮春者春服既成得冠者五六人童子六七人浴乎沂風乎舞雩詠而歸といふ論語の中のながい言葉を擇び、春服二字の扉と袴着の祝ひの時の寫眞との間にもう一枚、暮春には春服既に成り、から、沂に浴し舞雩に風し詠じて歸らむ、までを扉としていれる注文で、尚子が書いて版をこしらへた。それを僕の入院騷ぎで、(見返しの畫は、伊香保からやうやく家にたどりついて足を切斷されるに入院するまでの二日の間に脱疽の痛みのなかで畫いた、)小峰八郎(當時春陽堂にゐた)が忘れ、芥川もうつかりしてゐて版までこしらへておきながら、本になつてしまつてから落してゐたのに氣づいた。僕は時に、夏目漱石がはじめて訪ねてきた芥川を、孔子曰く、君子三戒あり、を言つて戒しめたといふことと、暮春には春服既に成りと「春服」にいれようとしてた芥川のことを思ひだす。

「黃雀風」とか「湖南の扇」とかの裏表紙にある詩は、芥川の好みや注文ではなく、全く僕が勝手にやつたものである。

[やぶちゃん注:「君看雙眼色不語似無愁」これは鎌倉末期の臨済僧で諡号大燈国師の名で知られる宗峰妙超(弘安五(一二八二)年~延元二/建武四(一三三八)年)の七言一句に、臨済宗中興の祖とされる江戸中期の白隠慧鶴(えかく 貞享二(一六八六)年~明和五(一七六九)年)が附した五言二句の偈の部分である。白隠の「槐安國語」の「卷五第八則」の「三界無法」や「禪林句集」等に載る。以下に示す。

   *

 

 千峯雨霽露光冷  君看雙眼色 不語似無愁

 

  千峯(せんぽう) 雨(あめ)霽(は)れて 露光(ろくわう)冷(すさま)じ

 

     君(きみ)看(み)よ 双眼(さうがん)の色(しよく)

     語(かた)らざれば 愁(うれ)ひ無(な)きに似(に)たり

 

   *

芥川龍之介はこれを第一作品集「羅生門」(大正六(一九一七)年五月二十三日阿蘭陀書房刊)の扉の後ろ(この詩句と同じ菅虎雄の筆に成る「羅生門」の題字の次の次の頁(左))に配し、その次の次の頁(左)に「夏目漱石先生の墓前に獻ず」と献辞(活字)している。国立国会図書館デジタルコレクションの初版本の画像(モノクロ)から、前者をトリミング・一部の清拭補正を加えたものを示す。

Kimimiyo

 芥川龍之介はこの偈を、晩年の「文藝的な、餘りに文藝的な」の『二十一 正宗白鳥氏の「ダンテ」』や、「三つの窓」の「二 三人」にも引用している(リンク先は孰れも私の電子テクスト)。

「春服」(しゆんふく)は芥川龍之介の第六短編集で、大正一二(一九二三)年五月に春陽堂から刊行したもの。

「暮春者春服既成得冠者五六人童子六七人浴乎沂風乎舞雩詠而歸」これは「論語」の「先進第十一」の一節。孔子は冒頭でその場にいた弟子四人に「以吾一日長乎爾。毋吾以也。居則曰。不吾知也。如或知爾。則何以哉。」(吾れ、一日(いちじつ)爾(なんじ)より長(ちよう)ぜるを以つて、吾れを以つてすること毋(な)かれ。〈時にお前たちは〉居(を)りては則ち、曰く、吾れを知らざるなりと〈不平を口にする〉。如(も)し爾を知るものあらば、則ち、何を以つてせんや。)と問いかけ、それに対して曾皙(そうせき)が答えた箇所である。

   *

點爾何如。鼓瑟希。鏗爾。舍瑟而作。對曰。異乎三子者之撰。子曰。何傷乎。亦各言其志也。曰。莫春者。春服既成。冠者五六人。童子六七人。浴乎沂。風乎舞雩。詠而歸。夫子喟然歎曰。吾與點也。

○やぶちゃんの書き下し文

點(てん)、爾(なんぢ)は何如(いかん)。瑟(しつ)を鼓(こ)すること、希(まれ)なり。鏗爾(こうぢ)として瑟を舎(お)きて作(た)つ。對(こた)へて曰く、三子者(さんししや)の撰(せん)に異(こと)なり。子曰く、何(なん)ぞ傷(いた)まんや。亦、各(おのおの)其の志しを言ふなり。曰く、莫春(ぼしゆん)には、春服、既に成る。冠者(くわんじや)、五、六人、童子六、七人、沂(ぎ)に浴(よく)し、舞雩(ぶう)に風(ふう)し、詠じて歸へらん。夫子(ふうし)、喟然(きぜん)として歎じて曰く、吾れは點に與(く)みせん、と。