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2017/01/12

小穴隆一 「二つの繪」(17) 「手帖にあつたメモ」

 

     手帖にあつたメモ

 

 古い手帖のなかの芥川に關するものを拾つてみる、

 

 大正十五年四月十一日、日

 八百屋ノ店サキニモハヤ夏ミカンヲミル

 ――十八日、日、雨

 夜、田端

 蒔淸ノ壺ノナホシヲ田端ニ渡ス

 蒔淸へノ禮ヲアヅカル

 六月六日、日、朝 雨 午後ハフラズ

 蒔淸ト田端ニユク

 ――八日

 春陽堂ノ番頭「芋粥」「戲作三昧」ノ裝幀ノ用デキタル

 龍之介先生、義チヤン鵠沼行ハガキ

 五月三日

「アグニノ神」ノサシヱ二枚渡ス。

 

改造改版「三つの寶」の進行遲々たるさまがわかる。

[やぶちゃん注:「大正十五年四月」以前にも注したが、この頃(四月上旬)、芥川龍之介は不眠症状が昂じ、多種の睡眠薬の濫用(多量服用等)が始まっており、やはり何度も述べた通り、この四月十五日に小穴隆一によれば、芥川龍之介は来訪した小穴に自殺の決意を告白している。四月二十二日から鵠沼生活が始まった。

「蒔淸へノ禮」「その前後」 に既出。小穴曰く、「鈴木春信の祕戲册」である。

「六月六日」宮坂覺年譜によれば、この日の訪問客は多く、佐佐木茂索・小穴隆一・遠藤古原草(「蒔淸」)・堀辰雄に加え、夜には下島勲も来て、皆で夜十時頃まで談笑している。

「――八日」順列から六月八日とすれば、この日か前の日、芥川龍之介は例の自死用毒物スパニッシュ・フライの見本を東京(田端)の家の方『へとどけてくれ給へ』と小穴隆一に依頼し、『今度は一週間――長くとも二週間位にはかへつて來る故』と記している(旧全集書簡番号一四八四)。田端発信(消印八日)であるが、この八日の夕刻には芥川は田端から鵠沼に戻っている。

『春陽堂ノ番頭「芋粥」「戯作三昧」ノ裝幀ノ用デキタル』「戯」はママ。芥川龍之介の単行本に春陽堂刊の単行本『芋粥』や『戲作三昧』というのは、私は知らない。この頃、そういう話があって、小穴隆一が装幀を予定されていたものか? 識者の御教授を乞う。

「五月三日」月が戻っており、不審。或いは六月の誤りかと思ったが、「鯨のお詣り」ではこの同内容が( )に入っているので、五月で正しいようである。

「改造改版「三つの寶」の進行遲々たるさまがわかる」前の出る「アグニの神」は結局、没後出版となる「三つの寶」に入っており、同作品集の装幀と挿絵は小穴隆一が担当している。「サシヱ二枚渡ス」とは芥川龍之介にか? それとも改造社にか? 後者か。これは芥川龍之介絡みではあるものの、芥川に直接渡したものではないから、( )で後に回したとすれば、時系列の齟齬も、ごく腑に落ちるからである。]

 

 ――十八日

東洋文庫ニきりしたん本ヲ調べニユク。

 

 きりしたん物を和本で出版するといふ話があり、石田幹之助を東洋文庫に訪ねて、慶長版のものを參考にみせてもらつた。

[やぶちゃん注:これは「鯨のお詣り」では前の条と一緒に( )で入り、『同十八日』とするので五月十八日のことであり、芥川龍之介は同道していないと考えてよい。即ち、これも「鯨のお詣り」の記載から、結局、未刊に終わった某出版社の芥川龍之介切支丹物を集録した単行本企画の装幀を、小穴隆一が予定担当しており、その参考に供するため、小穴が単独で東洋文庫に赴いたことを指している。

「石田幹之助」(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四))は芥川や井川(恒藤)恭の一高時代の同級生で、当時、東京帝国大学文科大学史学研究室の後身である財団法人「東洋文庫」の発展に尽力、その後も歴史学者・東洋学者として國學院大學や大正大学・日本大学などで教授を勤めた。]

 

 六月二十二日、火、曇

 龍之介先生ヨリ手紙(鵠沼)

 

 あづまやに一人で滯在してゐた芥川が、クソ蠅を何匹か呑下してゐた頃である。

[やぶちゃん注:「クソ蠅を何匹か呑下してゐた」「死ねる物」の本文及び私の注を参照。この大正一五(一九二六)年六月上旬には、執筆のために暫く止めていた睡眠薬の服用をまたぞろ始め、半覚醒時に『いろいろの友だち皆顏ばかり大きく體は豆ほどにて鎧を着たるもの大抵は笑ひながら四方八方より兩眼の間へ駈け來るに少々悸えたり』などという強い幻視を見たりし(六月十一日齋藤茂吉宛旧書簡番号一四八五)、中旬には下痢が続き、月末まで悩まされ(後にこれは大腸カタルと診断されている)、痔も悪化し、文の母塚本鈴の配慮で義弟八洲附きの看護婦に来て貰ったりもしている(六月二十日附小穴隆一宛旧全集書簡番号一四八八で、これは消印が二十一日であるから、この小穴隆一のメモはこの書簡のことを指していると考えてよい。激しい下痢症状を訴え、といとう地元の富士山(ふじ たかし)という名の医師に診て貰ったと述べ、看護婦のことを記し、『下痢のとまり次第歸京したい。一人で茫漠の海景を見ながら 橫になつてゐるのは實に淋しい。以上』と擱筆している)。この二十二日は下痢がひどいために予定していた文藝春秋社の講演会を断念、佐佐木茂索に代演を頼んで、夜十時頃に鵠沼から田端に戻っている。]

 

 七月二十六日、月、晴

 改造高平キタル リンカク校正ワタシ

 

「三つの寶」の本文のメーク・アップのこと。

 芥川僕ともに風雨樓に滿つるの趣があつて、金の必要を大いに感じてた。鵠沼へ移轉するために、僕にできるかぎりの前借貮百圓を改造高平に賴んでて受取つた。

[やぶちゃん注:この七月六日に東屋旅館から同旅館の貸別荘「イの四号」へ転居して所謂、〈二度目の結婚〉の生活に入ったが、既に見たように、同十三日には秘かに小穴隆一からスパニッシュ・フライを受け取っている。また丁度、この頃に芥川龍之介の元には下島の元に編集者(と思われる。既出)高平の来訪に応じるように、改造社社長山本実彦自らが来訪している。]

 

 十二月三十一日、日

 鵠沼ヨリ上京東片町ニ來タル 三十日尚子死ス。年十三

 昭和二年一月四日、火

 告別式 火葬

 田端泊

 平松サンヲミル

 

芥川に平松麻素子さんを紹介された日。

[やぶちゃん注:「十二月三十一日、日」とあるが、これは誤りで、この日は金曜日である。なお、この六日前の一九二六年十二月二十五日に大正天皇崩御により大正十五年は昭和元年に改元している。この時期の芥川龍之介の心底は、「侏儒の言葉」の遺稿掉尾によく示されている(リンク先は私の『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』)。妹の死に動顚したための誤記であろう。後の「昭和二年一月四日、火」は正しいからである。更に言っておくと、この日、小穴の不在が芥川龍之介に大きな不安を齎したか、龍之介はこの日から、一種の〈プチ家出〉をする。宮坂覺年譜より引く。『鎌倉の小町園へ静養に出かける。女将の野々口豊子の世話になった。この時、行き詰まりを感じて家出を考えたとも伝えられて』おり、小穴の妹の逝去や年末のこととて、『田端の自宅から早く帰るよう電話で催促を受けたが、結局、翌年二日まで滞在した』。この時、野々口に心中を持ちかけ、拒絶されたとする説もある。

   *

 

       民  衆

 

 シエクスピイアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衞門も滅びるであらう。しかし藝術は民衆の中に必ず種子を殘してゐる。わたしは大正十二年に「たとひ玉は碎けても、瓦は碎けない」と云ふことを書いた。この確信は今日(こんにち)でも未だに少しも搖がずにゐる。

 

       又

 

 打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存する限り、藝術は永遠に滅びないであらう。 (昭和改元の第一日)

 

      又

 

 わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。 (同上)

 

       或夜の感想

 

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違ひあるまい。 (昭和改元の第二日)

 

   *

「尚子」既出の小穴隆一の妹。

「昭和二年一月四日」この日には別の厄介な事件が出来している。やはり宮坂年譜より引く。姉ヒサの再婚相手の、義兄の弁護士西川豊(明治一八(一八八五)年~昭和二(一九二七)年:芥川龍之介より七つ年上)宅が『全焼する。直前に多額の保険がかえられていたため、西川には放火の嫌疑がかかった』(この嫌疑は殆んど即日のことだったらしい)。『午後、前月』三十日に『死去した小穴隆一の妹の告別式に参列する。』午後八時頃、『小穴、下島勲が来訪する。居合わせた平松麻素子と文を交え、』午後十時頃まで『カルタなどをして過ごした。この時、初めて小穴に平松を紹介する』とある。これは本書以外に下島勲の「芥川龍之介氏終焉の前後」(昭和二(一九二七)年九月『文藝春秋』でも確認出来る旨の注記がある。]

 

 

 ――一月五日、骨アゲ

 ヒル田端ニ寄リ ヨル鵠沼ニカヘル

 ――六日、夜藤澤ノ花屋ニ義チヤントユキバラ十五本三圓

 芥川はずるずるに東京になつてしまつてゐた。僕はもう一晩泊れといふ芥川に別れて鵠沼に歸つた。鵠沼の芥川の家には葛卷が一人で留守番をしてゐるといふやうになつてゐた。

[やぶちゃん注:以前に注した通り、これを以って芥川龍之介に晩年の鵠沼生活は終りを告げた。]

 

 ――七日、金、雨

 四號ばらニ着手

 ヨツチヤン歸京

 塚本サンノオツカサン

 夜時事ノ記者、西川氏ノ件。

 

 芥川の姉、葛卷の母の夫、西川辯護士の鐡道自殺で葛卷と新原とは朝のうちに上京、塚本のオツカサンは芥川夫人の母、多分、夕飯の菜を持つてきてくれたのであらう。

 人力車に乘つた時事の記者は、芥川のところが女中一人の留守番であつたので立寄つた。

[やぶちゃん注:「四號ばらに着手」「四號」はキャンバス・サイズで、薔薇の絵に着手したのであろう。さすれば、前日に夜、葛巻義敏に頼んで藤沢の花屋から十五本に薔薇を入手したという記載が腑に落ちる。思えば、尚子危篤の報に小穴が藤沢を発った際、龍之介が駅で彼に薔薇の花を一束買って渡したシーン(「降靈術」)などを考えると、この薔薇の絵は兄隆一の亡き妹尚子への悼亡作ででもあったように思われる。

「西川辯護士の鐡道自殺」西川豊の鉄道自殺は自宅の二日後の一月六日午後六時五十分頃と推定されている。宮坂年譜によれば、『千葉県山武(さんぶ)郡土気(とけ)トンネル付近』(この附近(グーグル・マップ・データ)。現在の千葉県千葉市緑区土気町附近。外房線である)での飛び込み自殺で、以後、芥川龍之介は三月頃まで、『遺された高利(年三割)の借金』、『生命保険や火災保険の問題で、東奔西走を余儀なくされた』とある。]

 

 一月三十日、日

 芥川サンノ原稿「なぜ?」ハ奧サンニオ渡シシタ

 

 芥川夫人は鵠沼に置いてあつた荷の中から差當つて必要な品物、子供の着物かなにか、それを取りに田端から一寸見えた。

[やぶちゃん注:「なぜ?」昭和二(一九二七)年四月発行の『サンデー毎日』(春季特別号)に掲載されることになる、「三つのなぜ」の決定稿(リンク先は私の古い電子テクスト)。脱稿日は前年の七月十五日(発表時の末尾クレジット)。]

 

 二月六日  雪ドケ

 御大葬

 寫生ハダメ、夕方雪モヤウ

[やぶちゃん注:宮坂年譜によれば、芥川龍之介の方はこの大正天皇「御大葬」翌日の七日までに、自殺した『義兄の家の問題に忙殺されながらも』、「河童」(六十枚)、「輕井澤で――「追憶」の代はりに――」(三枚)などを執筆しているとある。リンク先は私の電子テクスト。後者は特に私の偏愛する掌品である。]

 

 二月十三日、日

 田端、遠藤二人ヨリ手紙

 月末東京へ引キアゲルニツイテ一寸塚本サンニユク

 ――十七日、くもり 寫生休

 田端、入谷ヨリ手紙

 

 入谷といふは小澤碧童のこと。

[やぶちゃん注:「田端」芥川龍之介のこと。これは二月十二日附のそれ(旧全集書簡番号一五七四)で、西川家のことでごたごたしていることを記し、どんどん尺が長くなった「河童」は『明日中には脱稿するつもり』(事実翌十三日に脱稿している)とある。

「遠藤」既出既注の遠藤古原草清兵衛(蒔清)。

「月末東京へ引キアゲルニツイテ一寸塚本サンニユク」芥川龍之介が鵠沼生活を終わらせたことによる。小穴隆一と芥川龍之介の親密性が窺われる。]

 

 ――二十日 田端

 二十一日、月、ユキ、田端泊

 二十二日、火、田端泊 雪、雪 ホンブリ。

 二十三日 クゲヌマ。コノ四日間寫生休ミ。

[やぶちゃん注:以上は底本では一行連続であるが、底本がメモ記載を一字下げにしている関係上、以上のように表記した。次の日記本文も同じく底本では実際にはべったりとくっ付いた表記であるが、ブラウザの関係上、かく改行した。そのように脳内で復元して読まれたい。]

 五月二十一日

 新聞ノ差畫ハハジメテナリ

 東京日日新聞夕刊所載東京繁昌記ノウチ

 「本所兩國」芥川龍之介十五日分 余ノ

 差畫、今日掲載ノブンニテ終ル 畫料百

 五十圓

 

 僕は百五十圓を受取つたもののその金をなにに使ふかも考へないでゐた。といふのは、その金は僕としてはめづらしく、さしあたり金を考へないでゐてよかつたときにはいつてたらしいが、芥川は僕にその金で大阪に行つて、「ダンス場をみてこないか、ああいふものをみておかないと時勢に遲れるよ、」としきりにすすめた。芥川は大阪で谷崎(潤一郎)に案内されてみてきたと言ふのであるが、(東京にはまだダンス場はなく、僕が大阪で見物して歸つてくるとぢき大阪では禁止となり、東京ではじまるといつた時代であつた。書翰集をみると、三月一日大阪から芥川文宛のものに〔まだ二三日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎佐藤(春夫)兩先生と文樂座へ參る筈、〕といふのがあり、谷崎の「いたましき人」をみると、〔ちようど根津さんの奧さんから誘はれたのを幸ひ、私と一緒にダンス場を見に行かうと云ふのである。そして私が根津夫人に敬意を表して、タキシードに着換へると、わざわざ立つてタキシードのワイシャツのボタンを嵌めてくれるのである。それはまるで色女のやうな親切さであつた。〕といふ一節がある。いま死なうといふ人が時勢に遲れるもないものだが、とにかく片足は義足で踊れもしない僕に、ウエストミンスター百本入りの鑵をくれて否應なしに大阪へ立たせた。僕は留守に死なれるのではないかと氣にかけながら、京都にゐた遠藤(淸兵衞)を訪ねて一泊、翌日遠藤と大阪に出て(遠藤はペルーで踊りをおぼえてきた、)水上(茂)の兄に案内してもらつて、まあ、時勢に遲れぬための見學はすませた。關西は十年ぶりであつたので少しは肩のこりもほぐれて歸つてきたものだが、留守に死なれたら大變であつた。

「本所南國」のさしゑでは、「富士見の渡し」のところであつたらう、「渡し場は何處にも見えない。」と書いてあるのに、わたし舟あり〼といふ畫を書いてゐたので、東北・北海道・新潟から歸つた早々の芥川に、「君、困るよ、」と言はれたが、僕は、「いやあ、」と言つて笑つてすませてもらつた。僕は忠實に步きまはつてゐるうちにわたし舟あり〼をみつけてうれしくなり、うつかり本文のはうを忘れてしまつてゐたのである。芥川はさういつたやうな一寸困るときの僕の笑ひを早春の笑ひと言つた。

[やぶちゃん注:『東京日日新聞夕刊所載東京繁昌記ノウチ「本所兩國」芥川龍之介』芥川龍之介の名随筆「本所兩國」(リンク先は私の草稿及び注附きの電子テクスト)は『東京日日新聞』夕刊に、昭和二(一九二七)年五月六日から五月二十二日まで十五回(二回休載)に渡って、新聞社側の『東京繁昌記』という連載標題の四十六回から六十回分に掲載されたものであった。これは挿絵入りであったが、実は新聞社側は当初、挿絵も芥川龍之介に依頼していたことが、彼の「晩春賣文日記」で判る(リンク先は、ネット上には存在しないようなので本注のために急遽、私が電子化したものである)。御存じの通り、芥川龍之介は画才もあったが、この要請には困ったことがそこでよく判る。

「三月一日大阪から芥川文宛のものに〔まだ二三日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎佐藤(春夫)兩先生と文樂座へ參る筈、〕といふのがあり」旧全集書簡番号一六八三。正確には『拜啓、まだ三四日はこちらに滯在致すべく候。今日は谷崎、佐藤兩先生と文樂座へ參る筈、右當用のみ 頓首』/『龍之介』が全文。

『谷崎の「いたましき人」』『文藝春秋』昭和四(一九二九)年九月に載った谷崎潤一郎の芥川龍之介の追悼記。私は谷崎が嫌いなので未読。なお、ふと気が付いたが、偶然であるが、芥川龍之介の自死した七月二十四日は谷崎の誕生日であった。

「根津さんの奧さん」根津松子、後の、谷崎潤一郎の三人目にして最後の妻となる谷崎松子(明治三六(一九〇三)年~平成三(一九九一)年)。ウィキの「谷崎松子」によれば、二十歳で根津清太郎と結婚したが、清太郎は根津商店という大阪の綿布問屋の御曹司で、『彼とのあいだに一男一女をもうけたものの』、『夫は末の妹と駆け落ちするなど素行が悪』く、まさにこのシークエンスで谷崎と知り合い(清太郎とは昭和九(一九三四)年に離婚)、後に結婚した。「細雪」の「幸子」のモデルである。

「ウエストミンスター」英国王室御用達の巻煙草“Westminster”(ウエストミンスター)。

「水上(茂)」新全集書簡一通に出るらしいが(私は新字採用の新全集を認めないので一部とコピーしか所持しない)、同人名索引でも『未詳』とする。]

 

 六月九日

 塚本サンヨリ菓子

 ――十七日

 「三つの寶」サシヱ全部渡シズミ

 ――二十日

 「湖南の扇」ノ裝幀仕事全部渡シズミ

 ――二十五日

 春日ニテつる助、小かめヲミル

 芥川方泊リ、

 

 つる助は春日の女將、小唄の春日とよ、小かめは芥川の書いたものに出てくる親子三代の藝者、芥川はこの日僕を伴れて谷中の畫家の墓に詣で、その足で小かめと別れを惜んでゐる。

[やぶちゃん注:「春日とよ」(明治一四(一八八一)年~昭和三七(一九六二)年)はイギリス人を父として函館に生まれた小唄の演奏家で作曲家。本名は柏原トヨ。三歳の時に母に連れられて上京し、十六歳で浅草の芸妓「鶴助」を名乗った。一時、結婚したが破れ、大正一〇(一九二一)年に料亭「春日」の女将となった。幼少の頃から清元・長唄を習熟、離婚後には常磐津を修め、この後の昭和三(一九二八)年に小唄春日派を起こして家元となった。谷崎潤一郎・吉井勇・久保田万太郎・伊東深水などの文化人との親交も深かった。

「小かめは芥川の書いたものに出てくる親子三代の藝者」「小かめ」は芥川龍之介の可愛がった馴染みの芸妓(彼女との関係を疑う向きもある)であるが、小穴隆一の言う「芥川の書いたものに出てくる」というのは、ちょっと浮かばぬ。分かったら追記する。]

 

 ――二十六日

 三時ニ歸宿

 夜、義チヤント散步

 

 三時ニ歸宿とあるのは芥川のところから下宿に戾つたことをいつてゐる。

 

 七月十三日

 芥川方泊リ

 ――十五日

 夜、かめ井戸見物、我鬼先生、永見、沖本四人ヅレ、

 

 芥川は廣津和郎に案内されて龜井戸をはじめて知つたと言つて、待合遊びとちがつたその面白さを言つてゐたが、この日の暮れどきに、永見と沖本を伴れて紙ほないかと言つて僕の下宿にきて一筆書いたものを永見に渡し、それから三人を伴れて龜井戸に案内した。それで僕ははじめて龜井戸の一廓なるものを知つた。故永見德太郎は日向の「新らしき村」を見物に行き肉なしのカレーをだされたので、くそおもしろくもないと三皿平らげたといふ豪傑、沖本常吉は「本所兩國」擔當の記者、現在島根縣津和野に在任、芥川龍之介句集印譜付の印譜のはうを芥川に賴まれてゐた男である。

 芥川の死後、下島空谷は芥川が淋病をもつてゐたことを人に言つてゐるが、多分それは龜井戸土産のものであらう。

[やぶちゃん注:「永見德太郎」(明治二三(一八九〇)年~昭和二五(一九五〇)年)は劇作家・美術研究家。長崎生まれで生地で倉庫業を営んでいた。俳句・小説を書く一方、大正八(一九一九)年五月に最初に芥川龍之介が長崎を訪れた際に宿所を提供して以来、親交を結んでいた。南蛮美術品の収集・研究家としても知られた。龍之介より二歳年上。

「沖本常吉」(明治三五(一九〇二)年~平成七(一九九五)年)島根県生まれ。小説家教会・劇作家協会の書記を経て、この前年の大正一五(一九二六)年に東京日日新聞社に入社していた。後、昭和一〇(一九三五)年に郷里津和野に戻り、郷土史研究や民俗学研究に取り組み、昭和四四(一九六九)年には柳田國男賞を受賞している。]

 

 ――十八日

 我鬼先生來ル

 本郷デ岡ニ會フ

 

 岡とは同榮一郎のこと。

[やぶちゃん注:「岡」「榮一郎」(明治二三(一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)は芥川龍之介の友人の一高・帝大の同級生で、漱石門下の劇作家。彼の結婚(大正一三(一九二四)年六月二十五日)では芥川龍之介夫妻が初めて仲人をしたが、一年しないうちに一女誕生直後に離婚となり(妻(旧姓の野口)綾子と姑との確執が原因)、龍之介を精神的に大いに悩ませた。]

 

 ――十九日

 朝、芥川夫人

 午後芥川方ニヨバレテコク

 ――二十日

 夜、靑池ト大塚 靑池ニノマス

 

 靑池は芥川の親戚、をぢと姪との間に生れて、生母を姉さんと言つてゐた男、畫かき志望であつたが若くて死ぬ。

[やぶちゃん注:「靑池」不詳。旧全集の宮坂覺氏の人名索引にも新全集の人名索引にも出ない。ここに書かれた内容から、かなり気になる存在である。何か情報をお持ちの方は是非、御教授を願う。

 

 ――二十二日

 宇野浩二ヲ訪ネタ由

 田端ニ寄ル

 ――二十四日

 龍之介先生ミゴト自殺

 ――二十六日

 通夜

 

 犬養健の「通夜の記」は(昭和二年九月の改造掲載)よく當夜の模樣を傳へてゐる。

[やぶちゃん注:『犬養健の「通夜の記」』犬養健(たける 明治二九(一八九六)年~昭和三五(一九六〇)年)は小説家・政治家。暗殺された首相犬養毅の三男。ウィキの「犬養健」によれば、昭和二七(一九五二)年に首相吉田茂の引きで法務大臣に就任したが、『造船疑獄における自由党幹事長佐藤栄作の収賄容疑での逮捕許諾請求を含めた強制捜査に対し、重要法案審議中を理由に指揮権を発動して、逮捕の無期限延期と任意捜査に切り替えさせた。指揮権発動の翌日に法務大臣を辞任したが、この指揮権発動のために犬養は事実上』、『政治生命を絶たれた(佐藤は政治資金規正法で在宅起訴されたが、国連恩赦で免訴となった)』とある。「通夜の記」は昭和二(一九二七)年九月号『改造』所収。]

 

 ――二十七日

 告別式

 ――二十九日

 香典帳二册一號ト二號うさぎやニ屆ケル事、菓子ノコトハツキリコトハリ

 ――八月七日

 大草實、小峰八郎來ル

 芥川サンノ伯母來訪

 夜伯母サンニツイテうさぎやニ禮ヲノベニユク

 ――十日

 墓ヲ見ニユク

 

 芥川の家の墓地の檢分のことである。

[やぶちゃん注:「うさぎや」現在も東京都台東区上野広小路に営業する大正二(一九一三)年創業の和菓子屋。岩波新全集に人名索引によれば、東京生まれの当主谷口喜作(明治三五(一九〇二)年~昭和二三(一九四八)年)は『俳人としても活躍し、多くの文化人と交流を持つとともに「海紅」「碧」などの俳句雑誌に句やエッセイを載せていた』とし、『甘いものが好きな芥川は、この店の「喜作もなか」が大好物であった』とある。これはかなり有名な話で、日経の「Bunjin東京グルメ」の第三回、我妻ヒロタカ氏の記事「『うさぎや』~喜作最中がつむいだ"思い"~(前編)」同(後編)でどうぞ、ご賞味あれかし! なお、実は芥川龍之介の全集版の遺書の「芥川文あて」には(リンク先は私の旧全集版の方の遺書電子テクスト)、自作の出版権の下りで謎の『谷口氏』なる人物が登場するのであるが、比定候補の一人が、なんと! この店主なのである(後の注でその部分を引用する)。

「菓子ノコトハツキリコトハリ」或いは葬式用のそれを「うさぎや」は自前で出すと言ったものかも知れぬ。前の注の我妻氏の後編の記事の中に、現在の四代目主人谷口拓也氏の言葉として、『芥川さんが亡くなるときに喜作へ手紙を宛てたのが縁で、葬儀を取り仕切ったという話を伝え聞いたことがあります。ですが、実際のところは私たちにも分からないんですよね』ともある。

「芥川の家の墓地」豊島区巣鴨の染井霊園の西に接している日蓮宗正寿山慈眼(じげん)寺にある。私は二度、墓参し、最初の時(私が大学を卒業した二十二歳の三月)には、墓を洗ったのを覚えている。それと、同寺内の墓地のそれもすぐ近くに、おぞましくも、かの谷崎潤一郎の墓があるのを見出し、激しく嫌悪したことも謂い添えておこう。]

 

 ――十四日

 カヘシノ校正

 平松女史へ返書

 

 カヘシノ校正といふのは、澄江堂句集印譜付の校正のこと、この句集は生前に芥川から賴まれてゐたので指圖に從つてつくつたが、香典がへしに使つたのは僕の考へ。平松さんには「三つの寶」の表紙の女の子に困つて世話になつた。平松さんの話で、下宿に白蓮さんが姪をもでるに連れてきたことがあつたがそのことであらうと思ふ。

[やぶちゃん注:「白蓮」歌人柳原白蓮(びゃくれん 明治一八(一八八五)年~昭和四二(一九六七)年)のこと。大正天皇の生母である柳原愛子の姪で、恋に生きた女として有名。芥川龍之介の妻文が晩年、龍之介の自殺願望を知り、監視を兼ねて依頼して近づけさせた幼馴染み平松麻素子(ますこ)の師で、自死の年の四月、龍之介がこの平松と心中を帝国ホテルで企てた際(但し、これは龍之介の自棄的発作的企画であり、私は龍之介は平松を必ずしも愛していなかったのではないとさえ考えている。実は私は平松を芥川龍之介の〈月光に女〉の一人として数えるのさえ、やや躊躇を感じるぐらいである)、白蓮が止めに入って事なきを得たことを、白蓮自身が龍之介の死後に回想している。芥川龍之介より七つ年上。因みに、私は柳原白蓮を生理的に受けつけない人間である。

「印譜」編者の小穴隆一もパブリック・ドメインとなったのだから、持っている復刻版のそれを、そのうちに画像で公開しようと思っている。]

 

 ――十九日

 岩波ノ主人ト芥川サンノ家ニテ會フ

 岩波「全集」引受承諾

 

 岩波ノ主人とは故茂雄氏のこと、芥川の遺書に全集は岩波で出して貰ひたいとあつたが、皆が岩波とは關係もなく、果して岩波が引受けてくれるものかどうかといふことが一寸氣になつてゐた。芥川と岩波とは僕の知る限りでは、岩波が西田幾多郎に賴まれて芥川に僕のことを聞きにきて一度會つてゐる、それがただ一度のことであらう。その岩波に、あなたを代理人として全集を引受けると言はれたときには、僕は内心てれくさかつたし、その後も岩波と會ふ度にてれくさかつた。

[やぶちゃん注:芥川龍之介はその遺書の「芥川文宛遺書」(断片)の中で、

   *

4 僕の作品の出版權は(若し出版するものありとせん乎)岩波茂雄氏に讓與すべし。(僕の新潮社に對する契約は破棄す。)僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版肆を同じうせんことを希望す。但し裝幀は小穴隆一氏を煩はすことを條件とすべし。(若し岩波氏の承諾を得ざる時は既に本となれるものの外は如何なる書肆よりも出すべからず。)勿論出版する期限等は全部岩波氏に一任すべし。この問題も谷口氏の意力に待つこと多かるべし。

   *

と記している。龍之介や周囲は新潮社からの抗議を危惧したが、岩波書店への全集出版移譲は事もなく、すんなりと行われた。龍之介が覚悟の自死であったこと、遺書その他で抗議を予測して、幾つもの予防線を張っていたことなどから、新潮社もことを荒立てるのは得策でないと踏んだのであろう。]

 

 ――二十日

 岩波ノ小林來ル

 〇 二十日マヂニ石ノ大サキメルコト、

 

 岩波ノ小林は小林勇のこと、二十日豫定の石ノ大サとは芥川の墓石の寸法のことである。

[やぶちゃん注:「小林勇」(いさむ 明治三六(一九〇三)年~昭和五六(一九八一)年)は、編集者。岩波書店創業者岩波茂雄の娘婿であり、後に同社の会長を務めた。ウィキの「小林勇」によれば、『野県上伊那郡赤穂村(現駒ヶ根市)の農家の五男として生まれ』、『実業学校で基礎教育を受けたのち家業を手伝っていたが』、大正九(一九二〇)年、十七歳で『上京し、岩波書店の住み込み社員となり、岩波文庫の創刊に携わる。幸田露伴の愛顧を受け』た。『岩波茂雄の女婿(次女小百合と結婚)となるが』、この翌昭和三(一九二八)年に『独立し、三木清らの援助を受けて自身の出版社・鉄塔書院』、『新興科学社を興す。だが、後に経営不振となり』、昭和九(一九三四)年に岩波書店に復帰した。翌年の五月には『治安維持法違反の嫌疑で逮捕され』、拷問を受けた(横浜事件)が、同年八月二十九日に釈放されている。戦後の昭和二一(一九四六)年には岩波書店支配人となり、「波映画を興し、後、岩波書店代表取締役となった、とある。

「芥川の墓石の寸法」芥川龍之介の墓は芥川家の墓群の中に独立して建てられており、遺志により、縦横は生前愛用した座布団と同じ寸法で拵えられてある。]

 

 九月一日

 永見ヨリ手紙「長崎條約書」ノ件、返書ヲ出ス

 芥川龍之介全集編纂打合セノ集リ、

 菊地、久保田、久米、佐藤、室生、宛、佐佐木、小島、葛卷、谷口、岩波植村、

 

 

 永見は新書判の全集第十八卷に使つた河郎之圖と長崎條約書我鬼國提案の寫眞を、全集に使つてくれと送つてきてた。集りは芥川家。

[やぶちゃん注:「新書判の全集」はこれよりずっと後、戦後の第三次新書版全集。昭和二九(一九五四)年十一月から刊行され、翌年の八月に刊行を終えている。全十九巻・別巻一。

「長崎條約書我鬼國提案」私はこのような名の芥川龍之介自筆の河童図はおろか、そういう画題も聴いたことがない。識者の御教授を乞うものである。なお、永見徳太郎は芥川龍之介から「河童」に決定稿原稿を贈られており、それを私が電子化復元したものが、芥川龍之介「河童」決定稿原稿の全電子化と評釈 藪野直史である。]

 

 ――二日

 石屋カラ電話、發クツ立會ノ件

 阿呆ノ一生ノ原稿

 全集事務所開キ出勤

 

 發クツノ件、墓地が狹いのでそこに芥川の墓を建てるのには、先祖の墓を少々移動させなければならなかつた。全集事務所には當時小賣店の二階にあつた岩波の社長室を提供してくれた。疊敷きの質素な部屋であつたが、ロダンのほんものの素描着彩がかかつてゐた。

 

 ――三日

 岩波ヨリ編輯費ノウチカラ三百圓受取、

 出勤

 

 岩波は編輯費として三千圓を提供してくれた。そのなかからまづ三百圓を受取つて、佐佐木茂索、小島政二郎、堀辰雄、葛卷義敏、僕五人が分けた。

 

 ――四日

 伊上、小峰

 岩波へ出勤

 

 遺言によつて岩波で全集を出版して貰ふについては、芥川が生前新潮社にいれてあつた契約書はまいて貰つた。新潮社は快よく承知してはくれたが、そのかはりに芥川龍之介集を出させてくれと言ひ、その本の表紙のことで伊上凡骨がきてゐるのである。小峰八郎は、春陽堂をやめて前の年から文藝春秋社出版部の人となつてゐた。

[やぶちゃん注:「まいて貰つた」巻き納める、契約を破棄してもらったことを指す。

「芥川龍之介集」これは九月四日のことであるが、速攻で九月十二日に新潮社は「芥川龍之介集」を刊行している。

「伊上凡骨」「いがみぼんこつ」と読む。木版画彫師。本名は純蔵。徳島県生まれで、浮世絵版画の彫師大倉半兵衛の弟子。明治時代に於ける新聞・雑誌の挿絵は原画の複製木版画であったが、凡骨は洋画の筆触・質感を彫刀で巧みに表現し、名摺師の西村熊吉の協力を得て、美事な複製版画を作った(以上は「百科事典マイペディア」に拠った)。

「小峰八郎」詳細事蹟不詳であるが、ネット上の記載を見ると、「文藝春秋社出版部」は菊地寛が、春陽堂から移籍した彼に貸与した部局であったと書かれてある。とすれば、当時の実質的な出版部の重責を、この人物は担っていたことになる。]

 

 三七日 八月十三日

 四七日 八月二十日

 五七日 八月二十七日

 六七日 九月三日

 七七日 九月十日

 百ケ日 十月三十一日

 

 これは當時谷口が僕に書いて渡しておいてくれた紙ぎれの寫しである。

 香典といへば、山本實彦が僕を廊下の隅に引張つて、「うちの香典はよそのより少くはないか、少ければまた持つてくる」と言ふので、香典の追加はをかしいと思つたが、階下におりて香典帳を一寸のぞかせて貰ふと、あまり關係のない社までが一列に五百圓であつた。當時の五百圓を時價に換算してみれば、人々の芥川に封する愛惜の情がどの程度のものであつたか推しはかることができよう。

[やぶちゃん注:「谷口」先の和菓子屋「うさぎや」店主谷口喜作。菓子類は慶弔事に欠かせぬから、このような意気消沈した遺族や友人らに、かくも細かな配慮が出来たのであろう。

「五百圓」ネット上のQ&Aサイトの答えによれば、昭和初期の一円は二、三千円とあるから、百万円から百五十万円相当となる。私はさる姻族の葬儀で香典を担当したが、その時、百万円の香典というのを一度だけ、体験したことがある。弔問者は故人の親族の仏壇屋の主人であった。]

 

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